身延山久遠寺の枝垂れ桜
20150331
所在地:山梨県南巨摩郡身延町身延3567
樹齢400年の枝垂れ桜が二本。
撮影日:2015年3月30日
家をカミさんと二人で7時半に出発。圏央道⇒中央高速を走り、双葉ジャンクションで中部横断自動車道を増穂インターまで走りました。中部横断自動車道は現在増穂インターまで開通しています。
中部横断自動車道からの富士山


増穂インターから国道52号線を富士川沿いに走り、シャトルバスの発着場である「身延町総合文化会館」の駐車場に到着したのが11時。
桜の時期は、久遠寺周辺は交通規制で入れず、シャトルバスで行くことになります。
やはり人出が多く、2台目に乗れました。

シャトルバスの車内では、添乗した修行僧の方が久遠寺の歴史を説明してくれた。
総門を少し入ったバスのローターリーでシャトルバスを降り、門前町を三門に向かって進みます。
時間は11時半。あらかじめ目途をつけていたお店で「湯葉定食」を頼みました。
とても美味しかったので、帰りに生湯葉を買って帰りました。


いよいよ久遠寺です。

今回は、桜が目的なので、久遠寺については簡単にしか載せません、了承のほど。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
晩年まで過ごし、体調を崩した日蓮は湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)亡くなります。
遺言によって、日蓮は身延山に葬られます。
身延山久遠寺が日蓮宗総本山となりました。
三 門
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門には、79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額がかかる。




三門の左右の脚部には部屋が設けられ、その奥に仁王像が祀られている。



三門をくぐると、石畳みの参道、その先には「菩提梯」と称する石段があります。


菩提梯
三門から本堂へと続く287段の石段。登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている。

カミさんは、この石段を見るや、その急勾配に恐れをなし、さっさと男坂の方に行ってしまった(笑)
私は、意地でも登ってやると上がり始めた。
ほんとに急である。


途中、男坂と交差しているところがあり、そこでどうしたものかと思案に暮れる人が多かった(笑)

半分手すりで身体を持ち上げながら上がります。
しんどい(汗)


五重塔が見えれば、ゴールは近い(嬉)

上がりきった(嬉)

五重塔

一面に三つづつの干支の彫刻があり。

修行僧の一団が、五重塔、大本堂に拝礼しながら行進していった。

大本堂

大本堂内の祭壇と天井の龍の絵。


祖師堂
日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する。明治14年、江戸にあった寺院のお堂を移築、再建した。




【祖師堂前の枝垂れ桜】
まずは祖師堂前から眺めます。








祖師堂に向かう方向から








祖師堂の鬼の彫刻と


御真骨堂拝殿
奥に白亜の八角堂とがあり、日蓮聖人の御真骨を奉安している。



その前からの祖師堂前の枝垂れ桜

【仏殿前の枝垂れ桜】
来客殿に向かって

反対側に廻って

仏殿に向かって立つと、幹がかなり傷んでいることがわかる。
こちらも樹齢400年だが、樹勢が衰えている。


それでも、今が盛りの花は美しい。












ゆっくりと、のんびりと二本の桜を堪能した後、今度はカミさんも菩提梯を降りました。
三門から日蓮のお墓にお参りしました。


この辺は西谷といい、渓谷にかかるしだれ桜を楽しみました。



(了)
櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
樹齢400年の枝垂れ桜が二本。
撮影日:2015年3月30日
家をカミさんと二人で7時半に出発。圏央道⇒中央高速を走り、双葉ジャンクションで中部横断自動車道を増穂インターまで走りました。中部横断自動車道は現在増穂インターまで開通しています。
中部横断自動車道からの富士山


増穂インターから国道52号線を富士川沿いに走り、シャトルバスの発着場である「身延町総合文化会館」の駐車場に到着したのが11時。
桜の時期は、久遠寺周辺は交通規制で入れず、シャトルバスで行くことになります。
やはり人出が多く、2台目に乗れました。

シャトルバスの車内では、添乗した修行僧の方が久遠寺の歴史を説明してくれた。
総門を少し入ったバスのローターリーでシャトルバスを降り、門前町を三門に向かって進みます。
時間は11時半。あらかじめ目途をつけていたお店で「湯葉定食」を頼みました。
とても美味しかったので、帰りに生湯葉を買って帰りました。


いよいよ久遠寺です。

今回は、桜が目的なので、久遠寺については簡単にしか載せません、了承のほど。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
晩年まで過ごし、体調を崩した日蓮は湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)亡くなります。
遺言によって、日蓮は身延山に葬られます。
身延山久遠寺が日蓮宗総本山となりました。
三 門
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門には、79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額がかかる。




三門の左右の脚部には部屋が設けられ、その奥に仁王像が祀られている。



三門をくぐると、石畳みの参道、その先には「菩提梯」と称する石段があります。


菩提梯
三門から本堂へと続く287段の石段。登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている。

カミさんは、この石段を見るや、その急勾配に恐れをなし、さっさと男坂の方に行ってしまった(笑)
私は、意地でも登ってやると上がり始めた。
ほんとに急である。


途中、男坂と交差しているところがあり、そこでどうしたものかと思案に暮れる人が多かった(笑)

半分手すりで身体を持ち上げながら上がります。
しんどい(汗)


五重塔が見えれば、ゴールは近い(嬉)

上がりきった(嬉)

五重塔

一面に三つづつの干支の彫刻があり。

修行僧の一団が、五重塔、大本堂に拝礼しながら行進していった。

大本堂

大本堂内の祭壇と天井の龍の絵。


祖師堂
日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する。明治14年、江戸にあった寺院のお堂を移築、再建した。




【祖師堂前の枝垂れ桜】
まずは祖師堂前から眺めます。








祖師堂に向かう方向から








祖師堂の鬼の彫刻と


御真骨堂拝殿
奥に白亜の八角堂とがあり、日蓮聖人の御真骨を奉安している。



その前からの祖師堂前の枝垂れ桜

【仏殿前の枝垂れ桜】
来客殿に向かって

反対側に廻って

仏殿に向かって立つと、幹がかなり傷んでいることがわかる。
こちらも樹齢400年だが、樹勢が衰えている。


それでも、今が盛りの花は美しい。












ゆっくりと、のんびりと二本の桜を堪能した後、今度はカミさんも菩提梯を降りました。
三門から日蓮のお墓にお参りしました。


この辺は西谷といい、渓谷にかかるしだれ桜を楽しみました。



(了)
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サイクリングフェスタのガイド
20150328
今日、狭山市の団体「狭山まちづくリストの会」主催の「サイクリングフェスタ」での史跡のガイドを個人的に頼まれ、してきました。

コース

私がガイドしたのは「城山砦」、「智光山公園」、「今宿遺跡」です。
朝8:30から受付開始。参加者は45名。
まずはラジオ体操で身体をほぐします。

地元のケーブルテレビも取材してました。
ここ、柏原のサイクリング・ロードは、もう4、5日後なら、見事な桜のトンネルだったのですが。残念。


去年の満開のときの写真を載せておきましょう。

「城山砦」に到着です。

城山砦の歴史を見ると、古くは柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。柏原太郎は源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人といわれた人物です。
2番目に初代鎌倉公方で「入間川殿」と呼ばれた足利基氏(もとうじ)が、南北朝時代に新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟の鎌倉攻めに対する北の防御の要として、入間川宿(現在の徳林寺の辺り)に文和2年(1353)から9年余り長期滞陣したときの出城という説があります。
3番目に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おおぎがやっ)上杉氏の対立で、明応5年(1496)山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉朝良(ともよし)の河越城を攻めたときに、山内上杉氏と手を組んだ足利政氏(まさうじ)が着陣したと伝えられています。
4番目に天文14年(1545)から15年(1546)にかけて半年近くに渡り、山内上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたため別名を上杉砦ともいわれています。
この布陣は扇谷上杉朝定(ともさだ)が天文6年(1537)の三ツ木原の合戦で、北条氏に奪われた河越城を奪い返すため、また憲政にとっても河越城は目の上のたんこぶで、北条氏の武蔵国への進出を阻止する上でも重要な布陣でした。この戦いは河越夜戦といい、日本三大奇襲戦といわれ、8千の北条軍が8万の両上杉・古河公方連合軍を破って劇的な勝利に終わった戦です。この戦が上杉家没落のきっかけといわれ北条氏の武蔵国の覇権が確立した戦です。
5番目に城山砦は北条氏の手に移り、北条氏照(うじてる)の滝山領に組み入れられ、氏照配下の出城として徐々に手を加えられたと推察されます。この地域に居住して槍などを生産していた柏原鍛冶集団を統率するに当っても有効に機能したと思われます。
河越夜戦後の山内上杉氏は上野国の平井城(現在の群馬県藤岡市)に退却していました。北条氏に対応していた憲政は平井城も攻撃され、天文21年(1552)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼つて落ち延び、保護を受ける代償として上杉氏の家名と管領職などを譲り、関東管領として君臨した上杉氏も終わりを告げました。
世上有名な「川越夜戦」のときに、のちに関東管領職と上杉の苗字を上杉謙信に与えた、上杉憲政が陣を敷いたところだというのが、一番の出来事です。
新撰武蔵風土記稿に載っている城山砦の図。

現在の砦跡もそれに変りがありません。

この砦が良く出来ていると評判が良いのは、「虎口」の守りです。
城や砦のウイークポイントは、日常出入り口にしている場所。それを「虎口」といいます。
城山砦を再現したジオラマでの虎口の守り。
土塁を伸ばして「横矢掛かり」を作って虎口に突入しようとする敵兵を弓や鉄砲で攻撃するようにしている。

それから、「折り」といって、堀を曲げて作り、堀を越えて入ろうとする攻撃方の兵を横から弓や鉄砲で攻撃できるようにしています。

本郭の中を散歩。

「虎口」から出てくる参加者。

柏原の槍鍛冶、刀鍛冶、鋳物師の話もしました。
城山砦のすぐ近くに常楽寺があり、その墓地に「増田大水正金500年誌」という碑があります。



増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
市文化財の「増田大水正金作の槍」

柏原で、製鉄産業が可能だったのは、入間川で良質な砂鉄が採れたからです。
民家の間の小道をいきます。

智光山公園の横の道。

現在の智光山公園。

フランス式測量地図『第一軍管区地方2万分1迅速測図』、明治14年の地図です。
これによると、当時は「九頭竜池」しかなかったことが分かります。

今も公園内にお墓があり、この戒名に「智光院」とあり、ここから智光山という地名となったことがわかります。
また裏面に彫られている名前から「森本」という苗字がわかります。

江戸時代柏原の領主は誰だったかということは、「武蔵田園簿」によると、松平伊豆守、酒井紀伊守、高室喜三郎代官所、森本助右衛門、永井五右衛門であることがわかります。
松平伊豆守は「知恵伊豆」と言われた松平信綱であり、川越藩主ですから川越藩の飛び地です。
酒井紀伊守は酒井忠吉、幕府直轄地もあったので高室喜三郎が代官所を構えていた。
森本助右衛門と永井五右衛門は旗本です。
よって、智光山のところは森本助右衛門の領地だったことがわかります。

また、ここにある碑から、修験道のお寺があったという話も裏付けられます。


それから、近くにある「開園記念碑」の裏面に書かれたことを読むと、ここを有志の方々が整備をして公園にしようと七年間も努力して市に働きかけた結果、今のような立派な公園にする足がかりとなったことがわかります。


智光山公園から「今宿遺跡」に移動しました。
市内には入間川の左右の河岸段丘上をはじめ、智光山公園から流れ出る小河川流域や久保川流域に62ケ所の遺跡の所在が確認されています。これらの遺跡は旧石器時代から平安時代までの遺跡です。
ここ今宿遺跡は入間川左岸の段丘上にあり、奈良・平安時代を主体とする集落跡で、大規模宅地である日生団地の造成に伴い昭和44年(1969)4月に発掘調査が行われました。
今宿遺跡は市内で最初に実施された大規模調査の遺跡で、市内で唯一の復元住居があり、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
調査面積は78,000㎡で、稲荷山公園の約3分の1強の広さです。調査の結果48軒の竪穴住居跡が発掘されましたが、それらの住居跡は正方形かそれに近いもので、地面を掘り下げて床とし、周囲は溝を掘って板を埋めて壁としていました。竃(かまど)は住居の北側または東側に築かれ、煙り出しの煙道は住居外に設けてありました。
縄文時代の住居には竃は無く炉を使っており、板壁もありません。
復元された住居を見ると、平城京などの復元された建物との落差が大きく、朝廷・貴族と庶民との落差の大きいことに驚かせられます。

今宿遺跡の建物内にメタセコイアの化石株が展示されています。


これは笹井堰下流の入間川の河床から発掘されたものです。
メタセコイア(アケボノスギ)は300万年から200万年前までは北半球に多く分布していました。日本では百数十万年前までは繁茂していたといわれ、その後、絶滅したと考えられていました。しかし、昭和20年(1945)に中国四川省で自生しているのが発見され、生きている化石といわれました。
その後、メタセコイアは挿し木などで多くの地に育てられ、現在日本でも公園や学校などで見ることができます。
これは新宿御苑で撮ったメタセコイア。

笹井堰下流の入間川の河床からは、「アケボノゾウ」の化石も発掘されています。
前身の骨格が全部発掘されているのは、日本でも珍しいようです。

おなじく発掘された「アケボノゾウの足跡」の化石

今宿遺跡から、歩いて「陰隠し地蔵」まで散策しました。

「鎌倉街道」である、「信濃坂」の脇に「陰隠し地蔵」はあります。

このお地蔵さまには、その陰に隠れて追手の難を逃れたという話があります。
誰が隠れたかというと、「清水冠者・源義高」という12歳の少年です。
寿永3年(1184年)のことでした。
清水義高は木曽義仲の子です。
源氏再興で平家を滅ぼすのに、木曽義仲と源頼朝が別々に兵をあげ、戦いました。
平家をやっつけられそうだとなった時に、源氏の大将を巡って木曽義仲と源頼朝の仲が険悪になりました。
それで一旦は仲直りをした時に木曽義仲は人質として息子の清水義高を鎌倉に送りました。
清水義高は源頼朝と奥さんの北条政子に気に入られて、頼朝の娘大姫の婿になりました。
ところが、結局木曽義仲と源頼朝は争って、木曽義仲が討たれてしまったのです。
そのため、大姫の助けで清水義高は鎌倉から逃げだします。
この横の信濃坂は、「鎌倉街道」で信濃に通じていますが、ここから車で一時間くらいのとこに「嵐山」があります。そこで清水義高の父親木曽義仲は生まれました。そこに逃げて、それから木曽義仲に協力した信濃の人を頼ろうと思ったのでしょう。
一旦は、このお地蔵さまのおかげで難を逃れましたが、結局つかまり入間川の河原で頼朝の家来に討たれてしまいました。
入間川の近くに、義高を祀った「清水八幡」というお宮があります。
お地蔵様と参加者

信濃坂を歩いて上がります。

今宿遺跡に戻って、また自転車で走ります。
お茶畑のなかをいく。

ちょうど、お茶を機械で刈っていました。


笹井にある、NPO法人「ぶどうの会」の「いっぷく亭」がゴール!!
ここで、参加者が和やかに持参のお弁当を食べました。


ここには、本格的なピザの石窯もあるんですから、すごいですね。

今日は、色々な年代の人達と一緒に行動して、楽しく語り合えて、とても楽しかった。
(了)

コース

私がガイドしたのは「城山砦」、「智光山公園」、「今宿遺跡」です。
朝8:30から受付開始。参加者は45名。
まずはラジオ体操で身体をほぐします。

地元のケーブルテレビも取材してました。
ここ、柏原のサイクリング・ロードは、もう4、5日後なら、見事な桜のトンネルだったのですが。残念。


去年の満開のときの写真を載せておきましょう。

「城山砦」に到着です。

城山砦の歴史を見ると、古くは柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。柏原太郎は源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人といわれた人物です。
2番目に初代鎌倉公方で「入間川殿」と呼ばれた足利基氏(もとうじ)が、南北朝時代に新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟の鎌倉攻めに対する北の防御の要として、入間川宿(現在の徳林寺の辺り)に文和2年(1353)から9年余り長期滞陣したときの出城という説があります。
3番目に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おおぎがやっ)上杉氏の対立で、明応5年(1496)山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉朝良(ともよし)の河越城を攻めたときに、山内上杉氏と手を組んだ足利政氏(まさうじ)が着陣したと伝えられています。
4番目に天文14年(1545)から15年(1546)にかけて半年近くに渡り、山内上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたため別名を上杉砦ともいわれています。
この布陣は扇谷上杉朝定(ともさだ)が天文6年(1537)の三ツ木原の合戦で、北条氏に奪われた河越城を奪い返すため、また憲政にとっても河越城は目の上のたんこぶで、北条氏の武蔵国への進出を阻止する上でも重要な布陣でした。この戦いは河越夜戦といい、日本三大奇襲戦といわれ、8千の北条軍が8万の両上杉・古河公方連合軍を破って劇的な勝利に終わった戦です。この戦が上杉家没落のきっかけといわれ北条氏の武蔵国の覇権が確立した戦です。
5番目に城山砦は北条氏の手に移り、北条氏照(うじてる)の滝山領に組み入れられ、氏照配下の出城として徐々に手を加えられたと推察されます。この地域に居住して槍などを生産していた柏原鍛冶集団を統率するに当っても有効に機能したと思われます。
河越夜戦後の山内上杉氏は上野国の平井城(現在の群馬県藤岡市)に退却していました。北条氏に対応していた憲政は平井城も攻撃され、天文21年(1552)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼つて落ち延び、保護を受ける代償として上杉氏の家名と管領職などを譲り、関東管領として君臨した上杉氏も終わりを告げました。
世上有名な「川越夜戦」のときに、のちに関東管領職と上杉の苗字を上杉謙信に与えた、上杉憲政が陣を敷いたところだというのが、一番の出来事です。
新撰武蔵風土記稿に載っている城山砦の図。

現在の砦跡もそれに変りがありません。

この砦が良く出来ていると評判が良いのは、「虎口」の守りです。
城や砦のウイークポイントは、日常出入り口にしている場所。それを「虎口」といいます。
城山砦を再現したジオラマでの虎口の守り。
土塁を伸ばして「横矢掛かり」を作って虎口に突入しようとする敵兵を弓や鉄砲で攻撃するようにしている。

それから、「折り」といって、堀を曲げて作り、堀を越えて入ろうとする攻撃方の兵を横から弓や鉄砲で攻撃できるようにしています。

本郭の中を散歩。

「虎口」から出てくる参加者。

柏原の槍鍛冶、刀鍛冶、鋳物師の話もしました。
城山砦のすぐ近くに常楽寺があり、その墓地に「増田大水正金500年誌」という碑があります。



増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
市文化財の「増田大水正金作の槍」

柏原で、製鉄産業が可能だったのは、入間川で良質な砂鉄が採れたからです。
民家の間の小道をいきます。

智光山公園の横の道。

現在の智光山公園。

フランス式測量地図『第一軍管区地方2万分1迅速測図』、明治14年の地図です。
これによると、当時は「九頭竜池」しかなかったことが分かります。

今も公園内にお墓があり、この戒名に「智光院」とあり、ここから智光山という地名となったことがわかります。
また裏面に彫られている名前から「森本」という苗字がわかります。

江戸時代柏原の領主は誰だったかということは、「武蔵田園簿」によると、松平伊豆守、酒井紀伊守、高室喜三郎代官所、森本助右衛門、永井五右衛門であることがわかります。
松平伊豆守は「知恵伊豆」と言われた松平信綱であり、川越藩主ですから川越藩の飛び地です。
酒井紀伊守は酒井忠吉、幕府直轄地もあったので高室喜三郎が代官所を構えていた。
森本助右衛門と永井五右衛門は旗本です。
よって、智光山のところは森本助右衛門の領地だったことがわかります。

また、ここにある碑から、修験道のお寺があったという話も裏付けられます。


それから、近くにある「開園記念碑」の裏面に書かれたことを読むと、ここを有志の方々が整備をして公園にしようと七年間も努力して市に働きかけた結果、今のような立派な公園にする足がかりとなったことがわかります。


智光山公園から「今宿遺跡」に移動しました。
市内には入間川の左右の河岸段丘上をはじめ、智光山公園から流れ出る小河川流域や久保川流域に62ケ所の遺跡の所在が確認されています。これらの遺跡は旧石器時代から平安時代までの遺跡です。
ここ今宿遺跡は入間川左岸の段丘上にあり、奈良・平安時代を主体とする集落跡で、大規模宅地である日生団地の造成に伴い昭和44年(1969)4月に発掘調査が行われました。
今宿遺跡は市内で最初に実施された大規模調査の遺跡で、市内で唯一の復元住居があり、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
調査面積は78,000㎡で、稲荷山公園の約3分の1強の広さです。調査の結果48軒の竪穴住居跡が発掘されましたが、それらの住居跡は正方形かそれに近いもので、地面を掘り下げて床とし、周囲は溝を掘って板を埋めて壁としていました。竃(かまど)は住居の北側または東側に築かれ、煙り出しの煙道は住居外に設けてありました。
縄文時代の住居には竃は無く炉を使っており、板壁もありません。
復元された住居を見ると、平城京などの復元された建物との落差が大きく、朝廷・貴族と庶民との落差の大きいことに驚かせられます。

今宿遺跡の建物内にメタセコイアの化石株が展示されています。


これは笹井堰下流の入間川の河床から発掘されたものです。
メタセコイア(アケボノスギ)は300万年から200万年前までは北半球に多く分布していました。日本では百数十万年前までは繁茂していたといわれ、その後、絶滅したと考えられていました。しかし、昭和20年(1945)に中国四川省で自生しているのが発見され、生きている化石といわれました。
その後、メタセコイアは挿し木などで多くの地に育てられ、現在日本でも公園や学校などで見ることができます。
これは新宿御苑で撮ったメタセコイア。

笹井堰下流の入間川の河床からは、「アケボノゾウ」の化石も発掘されています。
前身の骨格が全部発掘されているのは、日本でも珍しいようです。

おなじく発掘された「アケボノゾウの足跡」の化石

今宿遺跡から、歩いて「陰隠し地蔵」まで散策しました。

「鎌倉街道」である、「信濃坂」の脇に「陰隠し地蔵」はあります。

このお地蔵さまには、その陰に隠れて追手の難を逃れたという話があります。
誰が隠れたかというと、「清水冠者・源義高」という12歳の少年です。
寿永3年(1184年)のことでした。
清水義高は木曽義仲の子です。
源氏再興で平家を滅ぼすのに、木曽義仲と源頼朝が別々に兵をあげ、戦いました。
平家をやっつけられそうだとなった時に、源氏の大将を巡って木曽義仲と源頼朝の仲が険悪になりました。
それで一旦は仲直りをした時に木曽義仲は人質として息子の清水義高を鎌倉に送りました。
清水義高は源頼朝と奥さんの北条政子に気に入られて、頼朝の娘大姫の婿になりました。
ところが、結局木曽義仲と源頼朝は争って、木曽義仲が討たれてしまったのです。
そのため、大姫の助けで清水義高は鎌倉から逃げだします。
この横の信濃坂は、「鎌倉街道」で信濃に通じていますが、ここから車で一時間くらいのとこに「嵐山」があります。そこで清水義高の父親木曽義仲は生まれました。そこに逃げて、それから木曽義仲に協力した信濃の人を頼ろうと思ったのでしょう。
一旦は、このお地蔵さまのおかげで難を逃れましたが、結局つかまり入間川の河原で頼朝の家来に討たれてしまいました。
入間川の近くに、義高を祀った「清水八幡」というお宮があります。
お地蔵様と参加者

信濃坂を歩いて上がります。

今宿遺跡に戻って、また自転車で走ります。
お茶畑のなかをいく。

ちょうど、お茶を機械で刈っていました。


笹井にある、NPO法人「ぶどうの会」の「いっぷく亭」がゴール!!
ここで、参加者が和やかに持参のお弁当を食べました。


ここには、本格的なピザの石窯もあるんですから、すごいですね。

今日は、色々な年代の人達と一緒に行動して、楽しく語り合えて、とても楽しかった。
(了)
浅草神社周辺から浅草寺町散策
20150327
3月17日の歴史クラブ行事の「浅草神社周辺と浅草寺町散策」で、浅草神社に参拝したあと、1時間自由時間をとり、浅草寺、仲見世などをぶらついた後、集合して次の目的地に向かいました。
仲見世を歩きます。

伝法院通りに右折して、浅草公会堂横のスターの手形を見ます。

藤山寛美

今日お墓を訪ねる池波正太郎

森繁久彌

石川さゆり

渥美清

【等光寺】
所在地:台東区西浅草1-6-1
等光寺は、斎藤道三に殺された土岐頼藝の遺子大圓が、父祖を追福するため三河國宝飯郡廣石村に創建、慶長14年(1609)神田旅籠町へ移転、明暦の大火により浅草へ移転したといいます。

この寺で啄木の葬儀が行われているが、それは啄木の友人土岐善麿の生家である縁である。ここで葬儀が行われたが、啄木は漂泊の地函館で埋葬された。
啄木の歌碑がある。
「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」


【西光寺】
所在地:台東区西浅草1-6-2
ここには、作家池波正太郎氏のお墓があります。
下見に来た時に、お墓に直接入れるところはないかと、グルッと一周しましたが無くて、お寺に声をかけたら、お寺の建物の中を通らないと裏の墓地に行けないようになっていました。
ただ、お参りにくるファンが多いので、声をかけさえすれば自由に墓参りはできるとのことでした。
この日、池波正太郎氏のお墓に行ったら、ちょうどお参りしている方がいて、聞いたら池波正太郎氏の姪にあたる方でした。

その方がお線香を分けてくださったので、参加者全員でお線香を手向けることができました。

ここで、昼食休憩となり、休んだあとまた歩きはじめます。
【正定寺】
所在地:台東区松が谷2-1-2

ここには、島田虎之助と伊豆長八の墓があります。


墓地入り口には、山茶花が咲いていた。

島田虎之助の墓

左側面に、男谷誠一郎の碑文があり。

伊豆長八の墓

横に、平成22年に建立された墓碑があり。

【聖徳寺】
所在地:台東区松が谷2-3-3

聖徳寺の創建年代は不詳ですが、聖実清公上人が創建したと伝えられます。享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗寺院として中興、徳川家康の関東入国翌年に坪根沢から平河へ、後大船、馬喰町への移転を経て、明暦3年の大火後当地へ移転しました。当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所です。

墓所

向かって右側の笠付きの墓塔が庄右衛門、向かって左が清右衛門の墓。

庄右衛門の墓

ここから、北上して「カッパ寺」に向かいます。
途中交差している通りの向こうにスカイツリーが。

【曹源寺(かっぱ寺)】
所在地:東京都台東区松が谷3-7-2

1588年(天正16年)5月現在の和田倉門付近に開創され、1591年(天正19年)11月江戸城拡張により湯島天神下に移転、1657年(明暦3年)1月いわゆる「振袖火事」により大半が焼失し、現在地に移転して続いております。
1814年(文化11年)雨合羽商の喜八が葬られました。喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これに感動した河童が手伝ったと伝わり、その後河童を見かけれと良い事があるといううわさが広まり、「かっぱ寺」とも呼ばれています。

門を入ると、すぐに「かっぱのぎゅーちゃん」がいる。

河童堂

その階段のところにある「川太郎石碑」。

その後ろにも河童を彫った石碑が。

お堂の賽銭箱にも河童の絵。

大明神の扁額

軒先の天井絵

河童堂本尊

このお堂の天井には、昭和30年代の日本を代表する漫画家による32枚の絵がはめ込まれています。



河童堂の横のコブシがきれいに咲いていました。


この花の名は不明。


馬酔木も咲いています。

深紅の椿と葉牡丹(?)


ここから、伊能忠敬の墓のある源空寺に向かいますが、途中には色々とありました。
「かっぱのいる街」の旗とスカイツリー

「旧松葉町」の説明

「ここが台東区のヘソ」なんだそうです。

そこにいたキュートなかっぱ嬢

【源空寺】
所在地:東京都台東区東上野6-19-2

五台山文殊院と号する。本尊は円光大師(法然)像。寺号は法然の諱である源空に由来する。墓地にある高橋至時と伊能忠敬の墓はそれぞれ国の史跡に指定されている。
幡随院長兵衛と谷文晁の墓もあります。
墓地は道路を挟んだ、横にあります。

高橋至時、伊能忠敬、幡随院長兵衛、谷文晁などの墓が一列に置かれていました。


伊能忠敬の墓
伊能忠敬の遺言により、高橋景保が父高橋至時の墓に並べて埋葬した。

三面にびっしりと業績をたたえる碑文が刻まれている。

伊能忠敬の師であり、上司であった高橋至時の墓

幡随院長兵衛と女房おきんの墓
慶安3年(1650年)旗本水野十郎左衛門に殺害された江戸初期の町奴。
庶民の英雄であった幡随院長兵衛の生き様は江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛・・・」のセリフと「お若ぇの、お待ちなせぇやし」のセリフで、歌舞伎や講談等で今でも演じられている。

谷文晁の墓
浮世絵が庶民の芸術として大衆の中へ浸透しつつあった時代に山水をはじめ花鳥、風景画の世界に南画の技法をとりいれ、ダイナミックな画風の一境地をひらいたのが谷文晁である。

その隣の墓がわからない。

「翠蘭孺人平氏之墓」とあったので、帰って調べればわかるだろうと思い、隅々まで見なかったのが災いした。

下部に浮世絵の美人画のようなものが浮き彫りにされている。

高橋景保の墓

高橋至時の長男として父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。
伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させた。
文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。
その横に立派な顕彰碑があり。

裏の碑文を読むと、昭和10年に八木史郎という方が、高橋景保の墓が壊滅しているため、その遺徳をしのび、徳富蘇峰の篆刻、文学博士中山久四朗の文で碑を建立したもの。
徳富蘇峰の篆刻

裏面上部にオランダ語で碑文

裏面下部

これで、この日の予定を終了し、かっぱ橋道具街で自由行動。

この巨大な看板の乗るニイミビルでかっぱ橋道具街を出て、田原町駅から帰途につきました。

(了)
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仲見世を歩きます。

伝法院通りに右折して、浅草公会堂横のスターの手形を見ます。

藤山寛美

今日お墓を訪ねる池波正太郎

森繁久彌

石川さゆり

渥美清

【等光寺】
所在地:台東区西浅草1-6-1
等光寺は、斎藤道三に殺された土岐頼藝の遺子大圓が、父祖を追福するため三河國宝飯郡廣石村に創建、慶長14年(1609)神田旅籠町へ移転、明暦の大火により浅草へ移転したといいます。

この寺で啄木の葬儀が行われているが、それは啄木の友人土岐善麿の生家である縁である。ここで葬儀が行われたが、啄木は漂泊の地函館で埋葬された。
啄木の歌碑がある。
「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」


【西光寺】
所在地:台東区西浅草1-6-2
ここには、作家池波正太郎氏のお墓があります。
下見に来た時に、お墓に直接入れるところはないかと、グルッと一周しましたが無くて、お寺に声をかけたら、お寺の建物の中を通らないと裏の墓地に行けないようになっていました。
ただ、お参りにくるファンが多いので、声をかけさえすれば自由に墓参りはできるとのことでした。
この日、池波正太郎氏のお墓に行ったら、ちょうどお参りしている方がいて、聞いたら池波正太郎氏の姪にあたる方でした。

その方がお線香を分けてくださったので、参加者全員でお線香を手向けることができました。

ここで、昼食休憩となり、休んだあとまた歩きはじめます。
【正定寺】
所在地:台東区松が谷2-1-2

ここには、島田虎之助と伊豆長八の墓があります。


墓地入り口には、山茶花が咲いていた。

島田虎之助の墓

左側面に、男谷誠一郎の碑文があり。

伊豆長八の墓

横に、平成22年に建立された墓碑があり。

【聖徳寺】
所在地:台東区松が谷2-3-3

聖徳寺の創建年代は不詳ですが、聖実清公上人が創建したと伝えられます。享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗寺院として中興、徳川家康の関東入国翌年に坪根沢から平河へ、後大船、馬喰町への移転を経て、明暦3年の大火後当地へ移転しました。当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所です。

墓所

向かって右側の笠付きの墓塔が庄右衛門、向かって左が清右衛門の墓。

庄右衛門の墓

ここから、北上して「カッパ寺」に向かいます。
途中交差している通りの向こうにスカイツリーが。

【曹源寺(かっぱ寺)】
所在地:東京都台東区松が谷3-7-2

1588年(天正16年)5月現在の和田倉門付近に開創され、1591年(天正19年)11月江戸城拡張により湯島天神下に移転、1657年(明暦3年)1月いわゆる「振袖火事」により大半が焼失し、現在地に移転して続いております。
1814年(文化11年)雨合羽商の喜八が葬られました。喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これに感動した河童が手伝ったと伝わり、その後河童を見かけれと良い事があるといううわさが広まり、「かっぱ寺」とも呼ばれています。

門を入ると、すぐに「かっぱのぎゅーちゃん」がいる。

河童堂

その階段のところにある「川太郎石碑」。

その後ろにも河童を彫った石碑が。

お堂の賽銭箱にも河童の絵。

大明神の扁額

軒先の天井絵

河童堂本尊

このお堂の天井には、昭和30年代の日本を代表する漫画家による32枚の絵がはめ込まれています。



河童堂の横のコブシがきれいに咲いていました。


この花の名は不明。


馬酔木も咲いています。

深紅の椿と葉牡丹(?)


ここから、伊能忠敬の墓のある源空寺に向かいますが、途中には色々とありました。
「かっぱのいる街」の旗とスカイツリー

「旧松葉町」の説明

「ここが台東区のヘソ」なんだそうです。

そこにいたキュートなかっぱ嬢

【源空寺】
所在地:東京都台東区東上野6-19-2

五台山文殊院と号する。本尊は円光大師(法然)像。寺号は法然の諱である源空に由来する。墓地にある高橋至時と伊能忠敬の墓はそれぞれ国の史跡に指定されている。
幡随院長兵衛と谷文晁の墓もあります。
墓地は道路を挟んだ、横にあります。

高橋至時、伊能忠敬、幡随院長兵衛、谷文晁などの墓が一列に置かれていました。


伊能忠敬の墓
伊能忠敬の遺言により、高橋景保が父高橋至時の墓に並べて埋葬した。

三面にびっしりと業績をたたえる碑文が刻まれている。

伊能忠敬の師であり、上司であった高橋至時の墓

幡随院長兵衛と女房おきんの墓
慶安3年(1650年)旗本水野十郎左衛門に殺害された江戸初期の町奴。
庶民の英雄であった幡随院長兵衛の生き様は江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛・・・」のセリフと「お若ぇの、お待ちなせぇやし」のセリフで、歌舞伎や講談等で今でも演じられている。

谷文晁の墓
浮世絵が庶民の芸術として大衆の中へ浸透しつつあった時代に山水をはじめ花鳥、風景画の世界に南画の技法をとりいれ、ダイナミックな画風の一境地をひらいたのが谷文晁である。

その隣の墓がわからない。

「翠蘭孺人平氏之墓」とあったので、帰って調べればわかるだろうと思い、隅々まで見なかったのが災いした。

下部に浮世絵の美人画のようなものが浮き彫りにされている。

高橋景保の墓

高橋至時の長男として父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。
伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させた。
文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。
その横に立派な顕彰碑があり。

裏の碑文を読むと、昭和10年に八木史郎という方が、高橋景保の墓が壊滅しているため、その遺徳をしのび、徳富蘇峰の篆刻、文学博士中山久四朗の文で碑を建立したもの。
徳富蘇峰の篆刻

裏面上部にオランダ語で碑文

裏面下部

これで、この日の予定を終了し、かっぱ橋道具街で自由行動。

この巨大な看板の乗るニイミビルでかっぱ橋道具街を出て、田原町駅から帰途につきました。

(了)
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相武国造(さがむのくにのみやつこ)/日本の神々の話
20150326
Wikipediaによれば、相武国造は、相模国東部を支配した国造。武相国造と表記される場合もある。
伊勢津彦(出雲神の子で、一説によると建御名方命の別名とされる)の3世孫の弟武彦命が、成務朝期に相武国造に任じられたという。『古事記』に相武国造が倭建命を焼き殺そうとして逆に攻め滅ぼされた記述がある。
この『古事記』に書かれている話は有名である。
倭建命はこの相武国造に騙されて、小野という野原で火攻めにされた。命は叔母の倭比賣命から賜った草薙剣で、あたりの草をなぎ払い、火打石で火を放ち向かい火にして逆に相武国造を滅ぼした、という話である。
神奈川県の寒川神社を調べていると、違った話も見えてくる。
ここの祭神は以下の2柱で、寒川大明神と総称される。2柱とも記紀には記載がなく、詳細は不明である。
寒川比古命 (さむかわひこのみこと)
寒川比女命 (さむかわひめのみこと)
紀元600~700年の飛鳥時代、ヤマト王権は地方支配のため全国に「国造」(くにのみやつこ)という現地雇用の役人を配置した。
当時の相模国は相武(さがむ)国と磯長(しなが)国に分かれており、寒川神社一帯の相模川流域は相武国造の支配下であった。
古事記には景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭建命を相武国造が罠に嵌めて暗殺しようとしたとある。
しかし、すんでのところで難を逃れた倭建命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払ったとある。
この相武国造こそ寒川比古命であり、その妻が寒川比女命ではないか? という説がある。
確かに倭建命に歯向かった人物が記紀に登場するはずはない。
それでも相模国では寒川大明神として崇められ続け、鎌倉に鶴岡八幡宮という日本政府そのもののような一之宮が誕生しても廃れることがなかったという事実は、よほど地元の人々から慕われていたとみえる。
相武国造は、ヤマト王権に歯向かったため単に歴史上から抹殺されただけで、実は傑出した人物だったのかも知れない。
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伊勢津彦(出雲神の子で、一説によると建御名方命の別名とされる)の3世孫の弟武彦命が、成務朝期に相武国造に任じられたという。『古事記』に相武国造が倭建命を焼き殺そうとして逆に攻め滅ぼされた記述がある。
この『古事記』に書かれている話は有名である。
倭建命はこの相武国造に騙されて、小野という野原で火攻めにされた。命は叔母の倭比賣命から賜った草薙剣で、あたりの草をなぎ払い、火打石で火を放ち向かい火にして逆に相武国造を滅ぼした、という話である。
神奈川県の寒川神社を調べていると、違った話も見えてくる。
ここの祭神は以下の2柱で、寒川大明神と総称される。2柱とも記紀には記載がなく、詳細は不明である。
寒川比古命 (さむかわひこのみこと)
寒川比女命 (さむかわひめのみこと)
紀元600~700年の飛鳥時代、ヤマト王権は地方支配のため全国に「国造」(くにのみやつこ)という現地雇用の役人を配置した。
当時の相模国は相武(さがむ)国と磯長(しなが)国に分かれており、寒川神社一帯の相模川流域は相武国造の支配下であった。
古事記には景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭建命を相武国造が罠に嵌めて暗殺しようとしたとある。
しかし、すんでのところで難を逃れた倭建命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払ったとある。
この相武国造こそ寒川比古命であり、その妻が寒川比女命ではないか? という説がある。
確かに倭建命に歯向かった人物が記紀に登場するはずはない。
それでも相模国では寒川大明神として崇められ続け、鎌倉に鶴岡八幡宮という日本政府そのもののような一之宮が誕生しても廃れることがなかったという事実は、よほど地元の人々から慕われていたとみえる。
相武国造は、ヤマト王権に歯向かったため単に歴史上から抹殺されただけで、実は傑出した人物だったのかも知れない。
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浅草神社
20150323
鎮座地:東京都台東区浅草2-3-1
ここにお参りしたのは、歴史クラブ行事の「浅草神社周辺と浅草寺町散策」によってです。
銀座線浅草駅から、行程の都合から雷門から仲見世を通らず、そのうらの空いている通りを一目散に、まずは浅草神社に。
社号標

由緒:
推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
ついでに、浅草観音が隅田川で発見されたわけですが、どこからきたかというと、飯能市大字岩渕にある「岩井堂観音」から流されたものなのですね。
2014年3月25日に、「飯能市・南高麗地区ウォーク」という歴史クラブFグループ行事で、岩井堂観音を訪ねました。
その記事を読む
鳥居

四番火消し奉納の天水桶。昭和38年再建とありました。


獅子岩の狛犬。とても良い感じですが造立年が不明。





手水舎

拝殿前の狛犬


拝殿






木鼻の彫刻

向拝蟇股の彫刻
中央の間

右の間

左の間

向拝壁面の彫刻と絵画も素晴らしい。
右側

中央

左側

ご祭神は、土師真中知命(はじのまつちのみこと)、桧前浜成命(ひのくまはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまたけなりのみこと)の三社です。
もちろん浅草の三社祭りというのは、この三社のお祭りです。
神紋は「三つ葉葵」と「三つ網紋」です。


三社祭りの神輿庫

神楽殿


神楽殿の近くに「夫婦狛犬」がありました。
年代不明ながら、古いことはまちがいありません。






久保田万太郎句碑
「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」

川口松太郎句碑
「生きると いうことむずかしき 夜寒かな」

粧太夫碑


「初代花柳寿輔を唄ひて」碑


扇塚


扇が投げ入れられていました。

初代中村吉右衛門句碑


「檜前の馬牧」説明

花塚


河竹黙阿弥顕彰碑

両津勘吉「浅草物語」碑

初代市川猿翁句碑



帰ってから整理してみると、兼務社の「被官稲荷神社」にお参りしていませんでした。
また当日近くにあることを知りながら、団体行動のためお参りできなかったのが「浅草富士浅間神社」です。
この二社は近いうちにお参りしたいと思う。
これで、浅草神社参拝は終り、周辺散策し、浅草寺町に向かいました。
続くを読む
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ここにお参りしたのは、歴史クラブ行事の「浅草神社周辺と浅草寺町散策」によってです。
銀座線浅草駅から、行程の都合から雷門から仲見世を通らず、そのうらの空いている通りを一目散に、まずは浅草神社に。
社号標

由緒:
推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
ついでに、浅草観音が隅田川で発見されたわけですが、どこからきたかというと、飯能市大字岩渕にある「岩井堂観音」から流されたものなのですね。
2014年3月25日に、「飯能市・南高麗地区ウォーク」という歴史クラブFグループ行事で、岩井堂観音を訪ねました。
その記事を読む
鳥居

四番火消し奉納の天水桶。昭和38年再建とありました。


獅子岩の狛犬。とても良い感じですが造立年が不明。





手水舎

拝殿前の狛犬


拝殿






木鼻の彫刻

向拝蟇股の彫刻
中央の間

右の間

左の間

向拝壁面の彫刻と絵画も素晴らしい。
右側

中央

左側

ご祭神は、土師真中知命(はじのまつちのみこと)、桧前浜成命(ひのくまはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまたけなりのみこと)の三社です。
もちろん浅草の三社祭りというのは、この三社のお祭りです。
神紋は「三つ葉葵」と「三つ網紋」です。


三社祭りの神輿庫

神楽殿


神楽殿の近くに「夫婦狛犬」がありました。
年代不明ながら、古いことはまちがいありません。






久保田万太郎句碑
「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」

川口松太郎句碑
「生きると いうことむずかしき 夜寒かな」

粧太夫碑


「初代花柳寿輔を唄ひて」碑


扇塚


扇が投げ入れられていました。

初代中村吉右衛門句碑


「檜前の馬牧」説明

花塚


河竹黙阿弥顕彰碑

両津勘吉「浅草物語」碑

初代市川猿翁句碑



帰ってから整理してみると、兼務社の「被官稲荷神社」にお参りしていませんでした。
また当日近くにあることを知りながら、団体行動のためお参りできなかったのが「浅草富士浅間神社」です。
この二社は近いうちにお参りしたいと思う。
これで、浅草神社参拝は終り、周辺散策し、浅草寺町に向かいました。
続くを読む
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訶具漏比売/迦具漏比売 (かぐろひめ)
20150322
『古事記』の「景行天皇」の巻の「1.后妃と御子」の段によれば、
景行天皇は、針間之伊那毘能大郎女、八坂之入比売命、二人のある妻妾、日向之美波迦斯毘売、伊那毘能若郎女、訶具漏比売を娶って生んだ子が21人、そのほかに、59人おられ、合わせて80人の子をなしたという。ただ80というのはヤソ=多くの意味であるという。
80人のうち、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命は太子の名を負い、そのほかの77人は国々の国造等に任命・分封されたという。
今回述べているのは、「倭建命の曽孫・須売伊呂大中日子王の娘・訶具漏比売を娶って、大枝王を生んだ。」という部分である。
ここで系統を書いてみると:
景行天皇-日本武尊-若建王-須売伊呂大中日子-訶具漏比売
となり、自分の五代目の子孫と結婚して子を設けたということになる。
先に出てきたように、80人もの子を設けた精力絶倫な人物だったとしても、これは可能か?
『古事記』の「景行天皇」の巻の最後に、景行天皇は137歳で亡くなったとあるが、それでもありうるのか?
実は『古事記』の「応神天皇」の巻の「1.后妃と御子」の段に「かぐろひめ」が応神天皇の妃として再登場しています。字は「迦具漏比売」としていますが。
通説では、日本書紀の応神紀では紹介されていないので、「迦具漏比売」は否定されがちです。
ただ系統は:
景行天皇-日本武尊-仲哀天王-応神天皇
となるので、年齢的なことでいうと、応神天皇の妃と考えた方が相応しいと思います。
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景行天皇は、針間之伊那毘能大郎女、八坂之入比売命、二人のある妻妾、日向之美波迦斯毘売、伊那毘能若郎女、訶具漏比売を娶って生んだ子が21人、そのほかに、59人おられ、合わせて80人の子をなしたという。ただ80というのはヤソ=多くの意味であるという。
80人のうち、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命は太子の名を負い、そのほかの77人は国々の国造等に任命・分封されたという。
今回述べているのは、「倭建命の曽孫・須売伊呂大中日子王の娘・訶具漏比売を娶って、大枝王を生んだ。」という部分である。
ここで系統を書いてみると:
景行天皇-日本武尊-若建王-須売伊呂大中日子-訶具漏比売
となり、自分の五代目の子孫と結婚して子を設けたということになる。
先に出てきたように、80人もの子を設けた精力絶倫な人物だったとしても、これは可能か?
『古事記』の「景行天皇」の巻の最後に、景行天皇は137歳で亡くなったとあるが、それでもありうるのか?
実は『古事記』の「応神天皇」の巻の「1.后妃と御子」の段に「かぐろひめ」が応神天皇の妃として再登場しています。字は「迦具漏比売」としていますが。
通説では、日本書紀の応神紀では紹介されていないので、「迦具漏比売」は否定されがちです。
ただ系統は:
景行天皇-日本武尊-仲哀天王-応神天皇
となるので、年齢的なことでいうと、応神天皇の妃と考えた方が相応しいと思います。
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/上廣瀬村・下広瀬村(2)
20150321
3月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」-「上廣瀬村・下広瀬村」の続きです。
禅龍寺から山崎家に向かいます。

途中富士講「まるろ講」の高橋家敷地にある石碑を見ました。

「月山 湯殿山 羽黒山 西国 秩父 坂東 巡拝供養塔」です。
凄いですね。

【広瀬村境界絵図面及び分見野帳】
山崎家門前に説明があります。
山崎家入り口

山崎家門前


広瀬村境界絵図面(元禄3年) 山崎滋夫氏所蔵
縦395.0Cm 横331.0Cm

広瀬村境界絵図面(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵
縦108.0Cm 横232.0Cm

分見野帳(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵

【襷坂】
広瀬富士浅間神社前の坂を「襷坂」という。


名前の由来の道が交差しているところ。

【西光寺石仏】
西光寺は「新編武蔵風土記稿」に載っている寺だが、明治になり廃寺となっている。

その所縁の石仏、住職卵塔が霞ケ丘墓地内にある。


「新編武蔵風土記稿」に載っている「辨天社」がこれであろう。


【清水宗徳の墓】
清水宗徳は明治の産業近代化の先覚者で、非常にスケールが大きく時流を見極める先見性に優れた狭山市が生んだ大人物です。
宗徳は天保14年(1843)に、上広瀬村で代々名主と広瀬神社の神官を勤める清水家の長男として誕生しました。13歳で梅沢台陽(だいよう)に書道と学問を、22歳の頃には井上頼囲(よりくに)に国学や漢学を学び、そして和歌を修めています。
文久3年(1863)には父の後を継ぎ20歳で名主となり、上広瀬村の最後の名主として明治維新(1868)を迎えました。 明治維新という時代の変化に合わせて製糸業や鉄道事業にも取り組んで入間郡西部地域の産業振興に努め、政治家として県会議員、衆議院議員としても活躍し、国政や地方の殖産興業に大活躍をしましたが、明治42年(1909)8月17日に67歳でこの世を去りました。
墓の高さは全高369cmです。

川越鉄道創立委員で、入間馬車鉄道第2代社長です。
入間馬車鉄道は川越鉄道の入間川駅と飯能方面を接続させようと設立された。宗徳は赤字経営が続く同鉄道を再建するため二代目社長に就任し、辣腕をふるって経営改善に取り組み赤字を解消したといいます。
墓石の下の二本のレールは、その業績を讃え、入間馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いてあります。

墓の前面には広瀬の地が広がっている。

また、この墓域には神道の墓が集まっていて、参考になります。
【愛宕社】
「新編武蔵風土記稿」に「正覺学院持ち」と載っている。
現在、広瀬富士浅間神社の隣にある。



【広瀬富士浅間神社(富士塚)】
「新編武蔵風土記稿」には記載されていませんが、狭山市にとって大きな宝です。
現在も富士講が活動しています。
北口本宮富士浅間神社の公式ホームページに、現在も活動している富士講のリストがありますが、埼玉県で9つの富士講が載っていて、「•狭山市 水富丸ろ講」とあったので、とても嬉しかった。
この神社は万延元年(1860)7月に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建された。
河岸段丘を利用して造られた当神社の富士塚は登り口に石造の立派な鳥居があり、急斜面に設けられた稲妻型の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちょういし)をはじめいくつかの石碑があり、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられている。
祭神は木花咲耶姫命、彦火火出見尊、大山祗之尊。
富士信仰の基礎が江戸時代に長谷川角行東覚(はせがわかくぎょうとうかく)により確立され、享保年間(1716~36)に食行身禄(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊藤伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東地方一円に同信者の集団である「富士講」が組織されていきました。
富士講の人たちは富士山を模した富士塚を築き、信仰の拠点としました。こうした富士塚は、その頂から富士山を眺望する遥拝所(ようはいじょ)としての役割を担っていると同時に、地域の老人や婦女子にとっては、この塚に登れば富士登山と同様の功徳が得られるありがたい場所でした。
なお、当神社の富士講の「紋」は、丸の中が緋色に塗られて、その緋色の中に「ろ」の字が書かれています。つまり緋色を背にした「ろ」で「ひろせ」を意味するそうです。
また石碑に彫られた文字や神社名を見ると、江戸時代までは浅間宮といったが、明治以降は浅間神社というようになるので、神社の創建時代が分かります。
富士塚の全貌

上り口の鳥居

養蚕神社(慶應2年 1866)


4合目にある浅間宮(明治15年)

御神木の根元に、〇ろ講の「火の用心」の札があり。

五合目の丁目石

「小御嶽大神」碑

足元に「烏帽子岩」が。

烏帽子岩


「入定食行身禄」、「入定書行藤佛」が書いてある。

頂上の「富士浅間宮」碑

【庚申塔】
富士塚の中腹にあるお堂に、かって正覚院(しょうがくいん)にあった庚申塔が祀られています。
この庚申塔は寛政11年(1799)12月に建てられたもので、丸彫りの青面金剛は市内ではこれ一基のみです。六臂には三叉矛・宝輪・矢・宝剣・半裸の女人を手にしています。大きさは高さが106cm、幅が40cm、台座の高さが66cm、台座の幅が60cmです。
台座正面には「惣村中」とあり、裏面には上広瀬村、両側面と面には造立にかかわった斎藤喜左衛門・清水吉次郎・岸庄右衛門ほか34名の村民の名前が刻まれています。また裏面には正覚院の名もみられます。
お堂

庚申塔



「丸ろ講」の富士浅間神社拝礼

富士講が現在も活動しているので、当然「火まつり」があります。
「広瀬の火まつり」については記事があります。
それを読む
以上ですべての予定をこなし、富士塚の前で解散となりました。
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禅龍寺から山崎家に向かいます。

途中富士講「まるろ講」の高橋家敷地にある石碑を見ました。

「月山 湯殿山 羽黒山 西国 秩父 坂東 巡拝供養塔」です。
凄いですね。

【広瀬村境界絵図面及び分見野帳】
山崎家門前に説明があります。
山崎家入り口

山崎家門前


広瀬村境界絵図面(元禄3年) 山崎滋夫氏所蔵
縦395.0Cm 横331.0Cm

広瀬村境界絵図面(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵
縦108.0Cm 横232.0Cm

分見野帳(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵

【襷坂】
広瀬富士浅間神社前の坂を「襷坂」という。


名前の由来の道が交差しているところ。

【西光寺石仏】
西光寺は「新編武蔵風土記稿」に載っている寺だが、明治になり廃寺となっている。

その所縁の石仏、住職卵塔が霞ケ丘墓地内にある。


「新編武蔵風土記稿」に載っている「辨天社」がこれであろう。


【清水宗徳の墓】
清水宗徳は明治の産業近代化の先覚者で、非常にスケールが大きく時流を見極める先見性に優れた狭山市が生んだ大人物です。
宗徳は天保14年(1843)に、上広瀬村で代々名主と広瀬神社の神官を勤める清水家の長男として誕生しました。13歳で梅沢台陽(だいよう)に書道と学問を、22歳の頃には井上頼囲(よりくに)に国学や漢学を学び、そして和歌を修めています。
文久3年(1863)には父の後を継ぎ20歳で名主となり、上広瀬村の最後の名主として明治維新(1868)を迎えました。 明治維新という時代の変化に合わせて製糸業や鉄道事業にも取り組んで入間郡西部地域の産業振興に努め、政治家として県会議員、衆議院議員としても活躍し、国政や地方の殖産興業に大活躍をしましたが、明治42年(1909)8月17日に67歳でこの世を去りました。
墓の高さは全高369cmです。

川越鉄道創立委員で、入間馬車鉄道第2代社長です。
入間馬車鉄道は川越鉄道の入間川駅と飯能方面を接続させようと設立された。宗徳は赤字経営が続く同鉄道を再建するため二代目社長に就任し、辣腕をふるって経営改善に取り組み赤字を解消したといいます。
墓石の下の二本のレールは、その業績を讃え、入間馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いてあります。

墓の前面には広瀬の地が広がっている。

また、この墓域には神道の墓が集まっていて、参考になります。
【愛宕社】
「新編武蔵風土記稿」に「正覺学院持ち」と載っている。
現在、広瀬富士浅間神社の隣にある。



【広瀬富士浅間神社(富士塚)】
「新編武蔵風土記稿」には記載されていませんが、狭山市にとって大きな宝です。
現在も富士講が活動しています。
北口本宮富士浅間神社の公式ホームページに、現在も活動している富士講のリストがありますが、埼玉県で9つの富士講が載っていて、「•狭山市 水富丸ろ講」とあったので、とても嬉しかった。
この神社は万延元年(1860)7月に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建された。
河岸段丘を利用して造られた当神社の富士塚は登り口に石造の立派な鳥居があり、急斜面に設けられた稲妻型の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちょういし)をはじめいくつかの石碑があり、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられている。
祭神は木花咲耶姫命、彦火火出見尊、大山祗之尊。
富士信仰の基礎が江戸時代に長谷川角行東覚(はせがわかくぎょうとうかく)により確立され、享保年間(1716~36)に食行身禄(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊藤伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東地方一円に同信者の集団である「富士講」が組織されていきました。
富士講の人たちは富士山を模した富士塚を築き、信仰の拠点としました。こうした富士塚は、その頂から富士山を眺望する遥拝所(ようはいじょ)としての役割を担っていると同時に、地域の老人や婦女子にとっては、この塚に登れば富士登山と同様の功徳が得られるありがたい場所でした。
なお、当神社の富士講の「紋」は、丸の中が緋色に塗られて、その緋色の中に「ろ」の字が書かれています。つまり緋色を背にした「ろ」で「ひろせ」を意味するそうです。
また石碑に彫られた文字や神社名を見ると、江戸時代までは浅間宮といったが、明治以降は浅間神社というようになるので、神社の創建時代が分かります。
富士塚の全貌

上り口の鳥居

養蚕神社(慶應2年 1866)


4合目にある浅間宮(明治15年)

御神木の根元に、〇ろ講の「火の用心」の札があり。

五合目の丁目石

「小御嶽大神」碑

足元に「烏帽子岩」が。

烏帽子岩


「入定食行身禄」、「入定書行藤佛」が書いてある。

頂上の「富士浅間宮」碑

【庚申塔】
富士塚の中腹にあるお堂に、かって正覚院(しょうがくいん)にあった庚申塔が祀られています。
この庚申塔は寛政11年(1799)12月に建てられたもので、丸彫りの青面金剛は市内ではこれ一基のみです。六臂には三叉矛・宝輪・矢・宝剣・半裸の女人を手にしています。大きさは高さが106cm、幅が40cm、台座の高さが66cm、台座の幅が60cmです。
台座正面には「惣村中」とあり、裏面には上広瀬村、両側面と面には造立にかかわった斎藤喜左衛門・清水吉次郎・岸庄右衛門ほか34名の村民の名前が刻まれています。また裏面には正覚院の名もみられます。
お堂

庚申塔



「丸ろ講」の富士浅間神社拝礼

富士講が現在も活動しているので、当然「火まつり」があります。
「広瀬の火まつり」については記事があります。
それを読む
以上ですべての予定をこなし、富士塚の前で解散となりました。
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/上廣瀬村・下廣瀬村(1)
20150320
3月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さんと山畑さん。
朝9:30に廣瀬神社境内に集合。まず廣瀬神社からスタートしました。

【廣瀬神社】
「新編武蔵風土記稿」の記述


この記述と現在の対比

廣瀬神社については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
その記事を読む
この日の、樹齢1000年の大欅


社殿の位置が昔と現在とでは異なっていて、現在は鳥居が東にあり、社殿は東を向いているが、昔は社殿が大欅の北側にあり南を向いていた。
現在鳥居の東の地域が「宮の脇」だが、これは昔は宮の横側だったから。宮前という地名も昔の社殿の向きに従って南側にある。
現在南側の入り口は横からの入り口の感じになっているが、これが昔からの参道、門となる。


旧社殿跡地


境内社のうち、「稲荷社」、「八幡社」は以前の記事にて掲載してあるが、「神明宮」については載せてなかったので、今回掲載。

「新編武蔵風土記稿」の記事どおり、正覺学院持ちだったことがわかる。

「普門品読誦供養塔」に向かって歩いていると、「石橋供養塔」があり。


【普門品読誦供養塔】
慶應2年(1866)造立。


「廣瀬村は加治領霞郷に属す・・・・・」とあるが、「霞郷」と刻まれている。

横の、文化12年(1815)造立の馬頭観音碑

【日暮らし馬頭観音】
下広瀬の広瀬橋付近にあり、文政13年(1830)造立のもの。
元は、旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にあったが、県道の拡幅で現在地に移転。
現在地は両墓制の捨て墓であるが、火葬になって以降埋葬は無いとのこと。


狭山市の伝説で「日暮らしの馬頭さま」がありますが、それは次のお話。
むかしのお話です。下広瀬しもひろせの街道ぞいの、入間川の近くに「馬頭観世音ばとうかんぜおん」の石碑せきひがたっておりました。ある日、その石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、しきりに感心しながら、碑の文字を見ておりました。やがて、石碑の前にどっかりとすわりこんでしまいまして「うーむ、これはすばらしい、なんともはやみごとな文字じゃ、じつにうまい」。なんどもくり返し、ほめっぱなしでありました。
そこへ、村の人たちが通りかかりました。旅人が、馬頭観音の文字を見て、しきりに感心していましたので、日ごろはあまり目にとめていませんでしたその文字をジッと見ましたところ、「なるほど、今まで気にもとめなかったが、こりゃーなんと、うめえ文字だんべえ」。あとからやって来ます村の人も旅の人たちも、立ち止まりまして「うむうむ、何度ながめていても、やっぱりいい文字だべえ」などと口々にいいながら、見入っておりました。
そうしまして、みんながああだ、こうだといって感心していますうちに、太陽も西に傾きまして、やがて一番星がチカチカ輝きはじめました。それでも人々は、馬頭観音の碑の文字を見つづけ、感心しつづけました。そして、とうとう月が出るまで立ち去りませんでした。
文字が立派で、いくら見てもあきないこの馬頭観音、だれいうとなく「日暮らしの馬頭さん」と、呼ばれるようになりました。
この評判は、パッと広がりまして、いつも二、三人の人が、長いあいだながめていたそうです。
これは、この石碑の文字が、あまりにもみごとなできばえでしたので、こういう呼び名がついたのだそうです。
台座には「高麗郡加治領霞之郷両廣瀬村」とある。

隣に「馬頭観音證文塚」の碑がある。

昔、入間川が氾濫したとき、境界が不明になることから塚をたて証拠にしたものといわれている。「蕪榎かぶらえのき」と「馬頭観音」、「赤稲荷」の3ヵ所がその名残りで、入間川と並行して築かれている。
入間川の堤防を行きます。


目的地に、近道しようと畑の畦道を行く(笑)

【松森稲荷社】
「新編武蔵風土記稿」の記述

前述の證文塚のうち「赤稲荷」が該当する。




この日は内部は見られなかったが、2013年11月に見学会で見たときの写真を挿入しておく。

去りながらのショット。このように田んぼの中にポツンとあり。

【禅龍寺】

「新編武蔵風土記稿」の記述

ご住職の話では、鎌倉時代千石というのは誤記で、実際は八千石。
本堂


ご住職が本堂に上げてくださり、ご本尊、四天などを拝観することができた。
観音堂には、市文化財指定の「木造千手観世音菩薩坐像」がある。
室町時代末期から江戸時代初期の制作と推定。


続きは次回
続きを読む
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「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さんと山畑さん。
朝9:30に廣瀬神社境内に集合。まず廣瀬神社からスタートしました。

【廣瀬神社】
「新編武蔵風土記稿」の記述


この記述と現在の対比

廣瀬神社については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
その記事を読む
この日の、樹齢1000年の大欅


社殿の位置が昔と現在とでは異なっていて、現在は鳥居が東にあり、社殿は東を向いているが、昔は社殿が大欅の北側にあり南を向いていた。
現在鳥居の東の地域が「宮の脇」だが、これは昔は宮の横側だったから。宮前という地名も昔の社殿の向きに従って南側にある。
現在南側の入り口は横からの入り口の感じになっているが、これが昔からの参道、門となる。


旧社殿跡地


境内社のうち、「稲荷社」、「八幡社」は以前の記事にて掲載してあるが、「神明宮」については載せてなかったので、今回掲載。

「新編武蔵風土記稿」の記事どおり、正覺学院持ちだったことがわかる。

「普門品読誦供養塔」に向かって歩いていると、「石橋供養塔」があり。


【普門品読誦供養塔】
慶應2年(1866)造立。


「廣瀬村は加治領霞郷に属す・・・・・」とあるが、「霞郷」と刻まれている。

横の、文化12年(1815)造立の馬頭観音碑

【日暮らし馬頭観音】
下広瀬の広瀬橋付近にあり、文政13年(1830)造立のもの。
元は、旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にあったが、県道の拡幅で現在地に移転。
現在地は両墓制の捨て墓であるが、火葬になって以降埋葬は無いとのこと。


狭山市の伝説で「日暮らしの馬頭さま」がありますが、それは次のお話。
むかしのお話です。下広瀬しもひろせの街道ぞいの、入間川の近くに「馬頭観世音ばとうかんぜおん」の石碑せきひがたっておりました。ある日、その石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、しきりに感心しながら、碑の文字を見ておりました。やがて、石碑の前にどっかりとすわりこんでしまいまして「うーむ、これはすばらしい、なんともはやみごとな文字じゃ、じつにうまい」。なんどもくり返し、ほめっぱなしでありました。
そこへ、村の人たちが通りかかりました。旅人が、馬頭観音の文字を見て、しきりに感心していましたので、日ごろはあまり目にとめていませんでしたその文字をジッと見ましたところ、「なるほど、今まで気にもとめなかったが、こりゃーなんと、うめえ文字だんべえ」。あとからやって来ます村の人も旅の人たちも、立ち止まりまして「うむうむ、何度ながめていても、やっぱりいい文字だべえ」などと口々にいいながら、見入っておりました。
そうしまして、みんながああだ、こうだといって感心していますうちに、太陽も西に傾きまして、やがて一番星がチカチカ輝きはじめました。それでも人々は、馬頭観音の碑の文字を見つづけ、感心しつづけました。そして、とうとう月が出るまで立ち去りませんでした。
文字が立派で、いくら見てもあきないこの馬頭観音、だれいうとなく「日暮らしの馬頭さん」と、呼ばれるようになりました。
この評判は、パッと広がりまして、いつも二、三人の人が、長いあいだながめていたそうです。
これは、この石碑の文字が、あまりにもみごとなできばえでしたので、こういう呼び名がついたのだそうです。
台座には「高麗郡加治領霞之郷両廣瀬村」とある。

隣に「馬頭観音證文塚」の碑がある。

昔、入間川が氾濫したとき、境界が不明になることから塚をたて証拠にしたものといわれている。「蕪榎かぶらえのき」と「馬頭観音」、「赤稲荷」の3ヵ所がその名残りで、入間川と並行して築かれている。
入間川の堤防を行きます。


目的地に、近道しようと畑の畦道を行く(笑)

【松森稲荷社】
「新編武蔵風土記稿」の記述

前述の證文塚のうち「赤稲荷」が該当する。




この日は内部は見られなかったが、2013年11月に見学会で見たときの写真を挿入しておく。

去りながらのショット。このように田んぼの中にポツンとあり。

【禅龍寺】

「新編武蔵風土記稿」の記述

ご住職の話では、鎌倉時代千石というのは誤記で、実際は八千石。
本堂


ご住職が本堂に上げてくださり、ご本尊、四天などを拝観することができた。
観音堂には、市文化財指定の「木造千手観世音菩薩坐像」がある。
室町時代末期から江戸時代初期の制作と推定。


続きは次回
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秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)/日本の神々の話
20150319
この神については、『古事記』「応神天皇」の巻の、その9「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」の段で語られる。
現代語訳では:
さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。
ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)といった。そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。
そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。
そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。
この話の前に、新羅の王子であり渡来した天日槍(あめのひぼこ)の話を書き、それに続いて帰化人であった出石族が伝承していた説話に基づいて、この話が構成されたとされる。
春秋の自然美の優劣を競うかのような話である。
春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠ににかけ、その少女と結婚するというストーリーは、三和の大物主神が丹塗矢となって、厠にいる勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の女陰(ほと)をつく話の変形だと思う。
母親の言葉の中で、神の世界と人間の世界を比較して、人の世になったら約束を履行しなくなった、と言わせている。
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現代語訳では:
さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。
ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)といった。そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。
そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。
そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。
この話の前に、新羅の王子であり渡来した天日槍(あめのひぼこ)の話を書き、それに続いて帰化人であった出石族が伝承していた説話に基づいて、この話が構成されたとされる。
春秋の自然美の優劣を競うかのような話である。
春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠ににかけ、その少女と結婚するというストーリーは、三和の大物主神が丹塗矢となって、厠にいる勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の女陰(ほと)をつく話の変形だと思う。
母親の言葉の中で、神の世界と人間の世界を比較して、人の世になったら約束を履行しなくなった、と言わせている。
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大井神社(延喜式内論社)/茨城県東茨城郡飯富町
20150318
鎮座地:茨城県水戸市飯富町3475
2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」、「青山神社」、「藤内神社」に続いて参拝しました。
この日の最後の参拝社となります。
社号標
式内社論社、旧社格は村社。

境内案内図
広い上に、高低差があって、汗をかきました。

社伝によると、第10代崇神天皇の御世に、皇子・豊城入彦命の命を奉じて建借馬命が当地に至った。そして長者山に館を構え、北東の当地に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀という。
その後奈良時代には、那賀郡(那珂郡)の郡領・宇治部氏が建借馬命を奉斎したという。
平安時代中期の『延喜式神名帳』では「常陸国那賀郡 大井神社」と記載され、式内社に列している。ただし、笠間市の大井神社も式内社の論社とされている。承平年間(931年-938年)、平繁盛と意富臣の族の松本家秀が大宮司を務めたという。
応永末年には兵火で社殿を焼失、永正年間(1504年-1521年)に再建したが、天正16年(1588年)の兵火で類焼した。
江戸時代、寛文8年(1668年)に徳川光圀の命で社殿を修営した。そのときの社名は「香取大明神」であったが、寛政年間(1789年-1801年)に元の「大井神社」に復した。安政年間(1854年-1859年)、徳川斉昭の命で現在の拝殿が造営された。
明治に入り、近代社格制度では村社に列した。
鳥居から、わりと急な石段が続きます。


大きな木の根の跡に祀られている「二寅霊神」

真っ直ぐが「男坂」、「女坂」は右に行きます。

ここから左に入っていくと手水舎があり、その奥に「意冨比弁財天巽神社」があり。


社殿には御簾がおりていました。

恐れ多いことですが、御簾の中を覗いて弁才天様を拝見しました。
琵琶を抱いた弁天様でした。

男坂の途中に「臥竜椿」があります。

探すと、まだ花が残っていました。

斜面の巨木の根に「女化(おなばけ)稲荷神社」
女化稲荷神社というのは、調べたら龍ケ崎市にあり、保食神を祀っています。


急な斜面を上りきったところに社殿があり。

拝殿



社額の「神」の字書体が珍しい。

拝殿内部
右に「大井神社」の幟、左に「意冨比神社」と書かれた幟。

ご祭神:
主祭神:建借馬命 (たけかしまのみこと) - 初代仲国造。
(度会延佳の『神名帳考証』では、祭神を神八井耳命とする。)
配祀神:木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
- 境内社の本殿への合祀による。
*祭神の建借馬命について、『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、伊予国造と同祖で、成務天皇の御世に初代仲国造(なかのくにのみやつこ)に任じられたとある。『常陸国風土記』では「建借間命」として、崇神天皇の時代に東国の賊を討伐した説話を載せる。
*仲国造はのちの常陸国東部(当地を含む周辺)を治めたとされる国造で、『古事記』に神八井耳命がその祖であると記されている。そして明治の『大日本神名辞書』では、建借馬命を神八井耳命の後裔とし、夷賊退治の功により仲国造に任じられたとする。
*現在に残るものとしては水戸市愛宕町の前方後円墳・愛宕山古墳(位置)があり、仲国造のつながりが深いとされ、年代から建借馬命の墓とする説がある。また社名「おおい」や地名「飯富」の語源について、建借馬命の出身が神八井耳命を祖とする意富臣(おふのおみ)であることによるとも伝えられる。
*なお、度会延佳の『神名帳考証』では、祭神を神八井耳命とする。また「借馬(かしま)」という祭神名から、鹿島・香取の分社とする説もある。
神八井耳命(かむやいみみのみこと):
父:神武天皇 母:皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)
記紀によると、神武が崩じた後、庶兄「手研耳(たぎしみみ)」が皇位に就こうとして弟達を殺害しようとした。この陰謀を母媛蹈鞴五十鈴媛が歌に託して綏靖(すいぜい)・神八井耳らに伝えた。兄弟は片丘(現北葛城郡王寺町)にいた手研耳を襲いこれを討った。この時兄である神八井耳は恐怖で手足が震え矢を射ることが出来ず、弟である綏靖が射殺した。この失態に恥じ兄は皇位には就かず、弟が即位することになった。(綏靖(すいぜい)天皇)
拝殿を廻って本殿のほうに。

拝殿と本殿の間は、わりと距離があります。

本殿には、立派な彫刻があり、彩色が美しい。


妻面の貫柱の彫刻が「アライグマ」を表現しているようで、面白い。

木鼻の彫刻、破風下面の装飾など、彫刻が美しい。

神紋は「右三つ巴」と「井筒に大」


絵馬殿

沢山の絵馬があり、楽しかった。

龍蛇信仰にちなむもの。



神話のどの場面なのだろうか?

微笑ましい

「太々神楽」が行われていたようだ。

配祀神が「木花開耶姫命」とあったが、やはり修験道が行われていたようだ。

祖霊位牌殿

「お袋様」
「姥神様」というのが全国各地にあり、関の神様、つまり塞の神として村の堺に置かれることが多い。その流れと思われるが、普通は石像で、彩色されている女神像というのは珍しい。


「八方神」
八角形に石祠を並べてあり、中央に白い鉱石が祀られている。
方位神(ほういじん)にちなむものと思われる。
方位神(ほういじん)とは、九星術から生じた神々で、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられた。
方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行する。吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。
平安時代には、自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われた。現在では、凶方位を犯すことによる災厄を避けるため多くの寺院・神社で「方位除け(方除け・八方除け)」の祈祷・祈願が行われる。


稲荷神社・金比羅神社

馳出神社(保食神)

元宮(意冨比神社)

本殿裏の奥宮

伊勢金比羅参り碑

本殿横の「万歩杉」


瑞垣内にも、立派な娚杉らしき神木があり。


参拝を終わって、下に降ります。

向かいの尾根の先端に、仲国造とつながりが深いといわれる前方後円墳・愛宕山古墳がある。

駐車場の脇の道路沿いに珍しいものあり。

「田植え祭」、「秋祭り」、「例大祭」などの大井神社のお札

安産祈願だという、木の又と石碑

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2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」、「青山神社」、「藤内神社」に続いて参拝しました。
この日の最後の参拝社となります。
社号標
式内社論社、旧社格は村社。

境内案内図
広い上に、高低差があって、汗をかきました。

社伝によると、第10代崇神天皇の御世に、皇子・豊城入彦命の命を奉じて建借馬命が当地に至った。そして長者山に館を構え、北東の当地に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀という。
その後奈良時代には、那賀郡(那珂郡)の郡領・宇治部氏が建借馬命を奉斎したという。
平安時代中期の『延喜式神名帳』では「常陸国那賀郡 大井神社」と記載され、式内社に列している。ただし、笠間市の大井神社も式内社の論社とされている。承平年間(931年-938年)、平繁盛と意富臣の族の松本家秀が大宮司を務めたという。
応永末年には兵火で社殿を焼失、永正年間(1504年-1521年)に再建したが、天正16年(1588年)の兵火で類焼した。
江戸時代、寛文8年(1668年)に徳川光圀の命で社殿を修営した。そのときの社名は「香取大明神」であったが、寛政年間(1789年-1801年)に元の「大井神社」に復した。安政年間(1854年-1859年)、徳川斉昭の命で現在の拝殿が造営された。
明治に入り、近代社格制度では村社に列した。
鳥居から、わりと急な石段が続きます。


大きな木の根の跡に祀られている「二寅霊神」

真っ直ぐが「男坂」、「女坂」は右に行きます。

ここから左に入っていくと手水舎があり、その奥に「意冨比弁財天巽神社」があり。


社殿には御簾がおりていました。

恐れ多いことですが、御簾の中を覗いて弁才天様を拝見しました。
琵琶を抱いた弁天様でした。

男坂の途中に「臥竜椿」があります。

探すと、まだ花が残っていました。

斜面の巨木の根に「女化(おなばけ)稲荷神社」
女化稲荷神社というのは、調べたら龍ケ崎市にあり、保食神を祀っています。


急な斜面を上りきったところに社殿があり。

拝殿



社額の「神」の字書体が珍しい。

拝殿内部
右に「大井神社」の幟、左に「意冨比神社」と書かれた幟。

ご祭神:
主祭神:建借馬命 (たけかしまのみこと) - 初代仲国造。
(度会延佳の『神名帳考証』では、祭神を神八井耳命とする。)
配祀神:木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
- 境内社の本殿への合祀による。
*祭神の建借馬命について、『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、伊予国造と同祖で、成務天皇の御世に初代仲国造(なかのくにのみやつこ)に任じられたとある。『常陸国風土記』では「建借間命」として、崇神天皇の時代に東国の賊を討伐した説話を載せる。
*仲国造はのちの常陸国東部(当地を含む周辺)を治めたとされる国造で、『古事記』に神八井耳命がその祖であると記されている。そして明治の『大日本神名辞書』では、建借馬命を神八井耳命の後裔とし、夷賊退治の功により仲国造に任じられたとする。
*現在に残るものとしては水戸市愛宕町の前方後円墳・愛宕山古墳(位置)があり、仲国造のつながりが深いとされ、年代から建借馬命の墓とする説がある。また社名「おおい」や地名「飯富」の語源について、建借馬命の出身が神八井耳命を祖とする意富臣(おふのおみ)であることによるとも伝えられる。
*なお、度会延佳の『神名帳考証』では、祭神を神八井耳命とする。また「借馬(かしま)」という祭神名から、鹿島・香取の分社とする説もある。
神八井耳命(かむやいみみのみこと):
父:神武天皇 母:皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)
記紀によると、神武が崩じた後、庶兄「手研耳(たぎしみみ)」が皇位に就こうとして弟達を殺害しようとした。この陰謀を母媛蹈鞴五十鈴媛が歌に託して綏靖(すいぜい)・神八井耳らに伝えた。兄弟は片丘(現北葛城郡王寺町)にいた手研耳を襲いこれを討った。この時兄である神八井耳は恐怖で手足が震え矢を射ることが出来ず、弟である綏靖が射殺した。この失態に恥じ兄は皇位には就かず、弟が即位することになった。(綏靖(すいぜい)天皇)
拝殿を廻って本殿のほうに。

拝殿と本殿の間は、わりと距離があります。

本殿には、立派な彫刻があり、彩色が美しい。


妻面の貫柱の彫刻が「アライグマ」を表現しているようで、面白い。

木鼻の彫刻、破風下面の装飾など、彫刻が美しい。

神紋は「右三つ巴」と「井筒に大」


絵馬殿

沢山の絵馬があり、楽しかった。

龍蛇信仰にちなむもの。



神話のどの場面なのだろうか?

微笑ましい

「太々神楽」が行われていたようだ。

配祀神が「木花開耶姫命」とあったが、やはり修験道が行われていたようだ。

祖霊位牌殿

「お袋様」
「姥神様」というのが全国各地にあり、関の神様、つまり塞の神として村の堺に置かれることが多い。その流れと思われるが、普通は石像で、彩色されている女神像というのは珍しい。


「八方神」
八角形に石祠を並べてあり、中央に白い鉱石が祀られている。
方位神(ほういじん)にちなむものと思われる。
方位神(ほういじん)とは、九星術から生じた神々で、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられた。
方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行する。吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。
平安時代には、自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われた。現在では、凶方位を犯すことによる災厄を避けるため多くの寺院・神社で「方位除け(方除け・八方除け)」の祈祷・祈願が行われる。


稲荷神社・金比羅神社

馳出神社(保食神)

元宮(意冨比神社)

本殿裏の奥宮

伊勢金比羅参り碑

本殿横の「万歩杉」


瑞垣内にも、立派な娚杉らしき神木があり。


参拝を終わって、下に降ります。

向かいの尾根の先端に、仲国造とつながりが深いといわれる前方後円墳・愛宕山古墳がある。

駐車場の脇の道路沿いに珍しいものあり。

「田植え祭」、「秋祭り」、「例大祭」などの大井神社のお札

安産祈願だという、木の又と石碑

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円野比売命(まとぬひめのみこと)/日本の神々の話
20150316
記・紀にみえる垂仁(すいにん)天皇の妃。
『日本書紀』では真砥野媛、『古事記』では円野比売命と記される。
今は亡き皇后の沙本毘売命の進言に従い、垂仁天皇は丹波から美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の娘達を呼び寄せた。
比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたこりひめのみこと)、円野比売命(まとぬひめのみこと)の合わせて4人を呼んだが、比婆須比売命と弟比売命の二人を留めて、その妹である歌凝比売命と円野比売命は、容貌が醜いと言うことで親元に帰されてしまった。
円野比売命は、これを恥じて「同じ姉妹のなかでも容貌が醜いことによって返されたことは近隣の噂になるでしょう。これは大変恥ずかしいことです。」と言って山城の相楽に着いたときに、首をつって死のうとした。しかしその時は死なず、山城の弟国(乙訓)に着いたときに、険しい淵に飛び込んで死んでしまったという。
山代国の相楽(さがらか)で木の枝にぶら下がって死のうとされました。そこで、その地を懸木(さがりき)と呼びました。
さらに、この地で淵に飛び込んで死んでしまいます。故にこの地を堕国(おちくに)と呼び、弟国(おとくに)や乙訓とも当て字されました。
この類の話で一番有名なのは、木花之佐久夜毘売と石長比売ですが、当時は容貌の美しいものを后とし、容貌の美しくなかったものは返されたということ。
こういう話は、やりきれなく思いますね。
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『日本書紀』では真砥野媛、『古事記』では円野比売命と記される。
今は亡き皇后の沙本毘売命の進言に従い、垂仁天皇は丹波から美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の娘達を呼び寄せた。
比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたこりひめのみこと)、円野比売命(まとぬひめのみこと)の合わせて4人を呼んだが、比婆須比売命と弟比売命の二人を留めて、その妹である歌凝比売命と円野比売命は、容貌が醜いと言うことで親元に帰されてしまった。
円野比売命は、これを恥じて「同じ姉妹のなかでも容貌が醜いことによって返されたことは近隣の噂になるでしょう。これは大変恥ずかしいことです。」と言って山城の相楽に着いたときに、首をつって死のうとした。しかしその時は死なず、山城の弟国(乙訓)に着いたときに、険しい淵に飛び込んで死んでしまったという。
山代国の相楽(さがらか)で木の枝にぶら下がって死のうとされました。そこで、その地を懸木(さがりき)と呼びました。
さらに、この地で淵に飛び込んで死んでしまいます。故にこの地を堕国(おちくに)と呼び、弟国(おとくに)や乙訓とも当て字されました。
この類の話で一番有名なのは、木花之佐久夜毘売と石長比売ですが、当時は容貌の美しいものを后とし、容貌の美しくなかったものは返されたということ。
こういう話は、やりきれなく思いますね。
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藤内(ふじうち)神社(延喜式内社)/茨城県水戸市
20150315
鎮座地:茨城県水戸市藤井町874
2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」、「青山神社」に続いて参拝しました。
道路わきの鬱蒼とした森の中にある。入り口に社号標と由緒など記した石碑があり。

社号標
式内社(常陸国那賀郡、小社)。旧社格は村社。江戸時代は藤内大明神。

由緒などを記した石碑

[由緒]
・養老5年(721)6月創立。
・当社の遥か西方にそびえる朝望山(朝房山、浅房山)は磐筒男、磐筒女の神の御子経津主命の神山と伝う。
養老五年四月十二日の暁、朝望の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまった。人々驚き恐れ、謹んで同年6月15日社殿を竣功させ鎮斎した(祝詞)。
・仁和元年(885)5月22日官社に列し、延書式内小社、常陸28社の一つ。
・康平5年(1062)源義家征奥の途次、当社戊亥の峰に十万の勢を集め当社に武運長久を祈願し社前の藤の枝を申し受けて鞭とし勇気凄々進軍した。兵を集めたところを十万原という。
・大永年中(1521~28)出火し社殿神宝焼失。
・乱世で社殿再建できず百余年を経て、寛永5年(1628)宍戸城主秋田河内守が造営した。
・元禄年中(1688~1704)、水戸藩主徳川光囲公の命で改築した。
・藤内大明神と尊称。奉務祀職42人を数え、正保年中でも15人が奉職していた。
・明治5年4月 村社に列格
入り口の一之鳥居には、木が覆いかぶさっている。

参道

二之鳥居

神木の杉


手水舎

「茅の輪くぐり」の碑

夏越大祓の(わくぐり祭)は当社の重儀で寛政12年(1800)6月晦日をはじめとする。当時四方に伝染病が猛烈に蔓延し、氏子が非常に苦しんだので、茅輪を作りこの神事を行ったところ御神威を発拝し氏子の病難を消除されたという。この地方の神社では最も古く行われた由緒ある祭である。
社殿前の境内

狛犬


拝殿



拝殿内部

「藤内大明神」の社額があり。

祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)
拝殿と本殿

本殿


境内社は、情報では稲荷神社・金比羅神社・若宮八幡宮・素鷲神社・天満宮・淡島神社・鷺森神社・水門神社とのことであるが、どれがどれかはわからなかった。


神池の向かいにあった「愛宕神社」


神木の藤の木

神池の大棒に藤が絡まり、この藤は村名の由来ともなつている。




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2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」、「青山神社」に続いて参拝しました。
道路わきの鬱蒼とした森の中にある。入り口に社号標と由緒など記した石碑があり。

社号標
式内社(常陸国那賀郡、小社)。旧社格は村社。江戸時代は藤内大明神。

由緒などを記した石碑

[由緒]
・養老5年(721)6月創立。
・当社の遥か西方にそびえる朝望山(朝房山、浅房山)は磐筒男、磐筒女の神の御子経津主命の神山と伝う。
養老五年四月十二日の暁、朝望の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまった。人々驚き恐れ、謹んで同年6月15日社殿を竣功させ鎮斎した(祝詞)。
・仁和元年(885)5月22日官社に列し、延書式内小社、常陸28社の一つ。
・康平5年(1062)源義家征奥の途次、当社戊亥の峰に十万の勢を集め当社に武運長久を祈願し社前の藤の枝を申し受けて鞭とし勇気凄々進軍した。兵を集めたところを十万原という。
・大永年中(1521~28)出火し社殿神宝焼失。
・乱世で社殿再建できず百余年を経て、寛永5年(1628)宍戸城主秋田河内守が造営した。
・元禄年中(1688~1704)、水戸藩主徳川光囲公の命で改築した。
・藤内大明神と尊称。奉務祀職42人を数え、正保年中でも15人が奉職していた。
・明治5年4月 村社に列格
入り口の一之鳥居には、木が覆いかぶさっている。

参道

二之鳥居

神木の杉


手水舎

「茅の輪くぐり」の碑

夏越大祓の(わくぐり祭)は当社の重儀で寛政12年(1800)6月晦日をはじめとする。当時四方に伝染病が猛烈に蔓延し、氏子が非常に苦しんだので、茅輪を作りこの神事を行ったところ御神威を発拝し氏子の病難を消除されたという。この地方の神社では最も古く行われた由緒ある祭である。
社殿前の境内

狛犬


拝殿



拝殿内部

「藤内大明神」の社額があり。

祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)
拝殿と本殿

本殿


境内社は、情報では稲荷神社・金比羅神社・若宮八幡宮・素鷲神社・天満宮・淡島神社・鷺森神社・水門神社とのことであるが、どれがどれかはわからなかった。


神池の向かいにあった「愛宕神社」


神木の藤の木

神池の大棒に藤が絡まり、この藤は村名の由来ともなつている。




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青山神社(延喜式内社)/茨城県東茨城郡城里町
20150314
鎮座地:茨城県東茨城郡城里町大字上青山229
2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」に続いて参拝しました。
社号標
式内社 常陸國那賀郡 青山神社、旧村社

青山神社については、宝亀三年九月二十九日(光仁天皇、皇紀1432年西紀772年)御遷宮説と御創建説とがある。
貞観二年、従五位下、仁和2年、従五位上 青山神社・鳥居位田十二町を授かった。
醍醐天皇、延書中、延書式内小社に列し、常陸国二十八社の一座となった。
霊元天皇,延宝四年十月、社殿、神倉炎上し、重宝古記一切を焼失し、由緒不明となる。中世、誤りて、若宮八幡・また鹿島神宮と称したこともありましたが、元禄九年十一月二日、水戸藩主光囲公は当社の事績をただして、往古に復し、青山神社と改められた。
尚、水戸藩主は、青山神社に、米一石八斗三合を供せられたが、徳川斉昭公は更に五石七斗五升五合に加増されました。
明治四十五年三月二十八日、村社に列格
大正元年十一月二十八日供進指定
昭和五年九月三日、宗教法人設立。
道路脇の白い一之鳥居の背後は、うっそうとした森です。


300mの参道が、森の中を北に延び、杉や檜の巨木が、左右に立ち並び、昼でも暗い。

途中竹藪もあり。

また、うっそうとした森。

二之鳥居が見え、その向こうに社殿が見え、ホッとしました。

社殿のすぐ近くまで、巨木の参道です。

手水舎

拝殿前には大きな水たまり。水はけが良くないようです。


拝殿

社額のかわりに、「神霊淪六極」:「神霊(しんれい)、六極(りっきょく:東西南北天地)を淪(しずむ)」と書かれた額がありました。
これは、この日最初に訪ねた「阿波山上神社」に同じものがあり、帰ってきてから池田さんが解読したものです。

拝殿内部

祭神は、五十猛命(いそたけるのみこと)。
五十猛命は、スサノオノミコトの御子でまたの名を大屋彦命といい、御母は、大夜之神である。五十猛命は父君に従って新羅の国(韓国)に渡り、杉・桧・樟等の八十木種を播種された後、その樹種を持ち帰り、筑紫(九州)の島より、広く大八州の国々に播種された。山林はうっそうと茂り、貴重な用材となった。
爾来、五十猛命は有効神と申して、森林育成保護の神として祀ってきました。
青山という社名も地名も、御神徳より出たものと伝えられています。
本殿に至る門

本殿


片方の千木が地面に落ちてしまっていました。

境内社が、境内の所々に鎮座しています。
天王宮(素戔嗚命)

八幡神社(誉田別命)

右が道祖神社(猿田彦命)、左が疱瘡神社(月読姫命)

天満宮(菅原道真)

稲荷神社


周辺は、上青山古墳群で、東西約400m、南北約150mの範囲に高さ1m程度の四十数基の円墳(方墳二基)が散在するらしい。
欲を言えば、そのうちの一つでも見たかった。
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2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」、「石船神社」に続いて参拝しました。
社号標
式内社 常陸國那賀郡 青山神社、旧村社

青山神社については、宝亀三年九月二十九日(光仁天皇、皇紀1432年西紀772年)御遷宮説と御創建説とがある。
貞観二年、従五位下、仁和2年、従五位上 青山神社・鳥居位田十二町を授かった。
醍醐天皇、延書中、延書式内小社に列し、常陸国二十八社の一座となった。
霊元天皇,延宝四年十月、社殿、神倉炎上し、重宝古記一切を焼失し、由緒不明となる。中世、誤りて、若宮八幡・また鹿島神宮と称したこともありましたが、元禄九年十一月二日、水戸藩主光囲公は当社の事績をただして、往古に復し、青山神社と改められた。
尚、水戸藩主は、青山神社に、米一石八斗三合を供せられたが、徳川斉昭公は更に五石七斗五升五合に加増されました。
明治四十五年三月二十八日、村社に列格
大正元年十一月二十八日供進指定
昭和五年九月三日、宗教法人設立。
道路脇の白い一之鳥居の背後は、うっそうとした森です。


300mの参道が、森の中を北に延び、杉や檜の巨木が、左右に立ち並び、昼でも暗い。

途中竹藪もあり。

また、うっそうとした森。

二之鳥居が見え、その向こうに社殿が見え、ホッとしました。

社殿のすぐ近くまで、巨木の参道です。

手水舎

拝殿前には大きな水たまり。水はけが良くないようです。


拝殿

社額のかわりに、「神霊淪六極」:「神霊(しんれい)、六極(りっきょく:東西南北天地)を淪(しずむ)」と書かれた額がありました。
これは、この日最初に訪ねた「阿波山上神社」に同じものがあり、帰ってきてから池田さんが解読したものです。

拝殿内部

祭神は、五十猛命(いそたけるのみこと)。
五十猛命は、スサノオノミコトの御子でまたの名を大屋彦命といい、御母は、大夜之神である。五十猛命は父君に従って新羅の国(韓国)に渡り、杉・桧・樟等の八十木種を播種された後、その樹種を持ち帰り、筑紫(九州)の島より、広く大八州の国々に播種された。山林はうっそうと茂り、貴重な用材となった。
爾来、五十猛命は有効神と申して、森林育成保護の神として祀ってきました。
青山という社名も地名も、御神徳より出たものと伝えられています。
本殿に至る門

本殿


片方の千木が地面に落ちてしまっていました。

境内社が、境内の所々に鎮座しています。
天王宮(素戔嗚命)

八幡神社(誉田別命)

右が道祖神社(猿田彦命)、左が疱瘡神社(月読姫命)

天満宮(菅原道真)

稲荷神社


周辺は、上青山古墳群で、東西約400m、南北約150mの範囲に高さ1m程度の四十数基の円墳(方墳二基)が散在するらしい。
欲を言えば、そのうちの一つでも見たかった。
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石船(いしふね)神社(延喜式内社)/茨城県東茨城郡城里町
20150312
鎮座地:茨城県東茨城郡城里町大字岩船字宮山606
2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」に続いて参拝しました。
昭和47年の新しい社号標

鳥居


これが昔の社号標ですね。
延書式内社、旧村社

場所は岩船地区にあるが、神社の名前は石船(いしふね)と読むらしい。
創祀年代は不詳、貞観元年(859年)という説もある。
記紀神話によると、当社の祭神である鳥石楠船神は、建御雷神にこ副て天降りなされたといふことが述べられている。そこで、建御雷神を奉齋する鹿島神宮にある同じ郷内に、当社が祭られたといふことが『新編常陸國誌』に見える。
「此神○鳥石楠船神亦名ヲ天鳥船神卜云フ、上古 建御雷神出雲二降り玉フ時、此神ヲ福テ遣サレキ、ココニ建御雷神、天祖ノ大命ヲ陳(のべ)テ、大国主神二此國ヲ避ケ奉ランヤ否ヲ問ヒシニ、僕ハ得白サジ我子八重事代主神白スベキヲ、鳥ノ遊ビ漁リシニ御大ノ前二至リテ、未ダ還り来ズト伊絵里云り、故レ天鳥船神ヲ遣ハシテ、事代主神ヲ徹シ来テ問ハシ賜フ時ニ、即此國ヲ天神ノ御子ニ献リキ〔日本紀、古事記〕、カク建御雷神二副奉りリテ、大キナル功ヲ建シ神ナレバ、鹿島神社二由縁アル鹿島郷内〔本体ハコノ郷内ナリ〕ニ祭ラレシモノナルベシ「延書式、和名紗大意」、」
次に神體石(しんたいいし)ならびに社名の由来について『常陸囲二十八社考』には、以下のやうに見える。
祠傍有ニー大石-、形如レ船、長一丈八尺徐、廣(こう)一許丈、前有二清流呼爲二岩船川、水中有二小石凡そ四十有餘、咸成二小舟形-、恰若二人造-、要又非二人カ所一就也、故祠 有二石船之稍一也、村亦因レ祠爲レ名、
祠の傍に船のやうな形をした大きな石(長さ一丈八尺徐、廣さ一丈あがあり、その前に清流があって岩船川と呼ぶ。川中には小石が四十餘個あり、これが小船形をしてゐるところから石船の稍があるのだといふ。ここに述べられてゐる大きな石といふのは、俗に黒御影と呼ばれる花崗岩で、これが御神體として祀られてをり、本殿はこ
の石を瑞垣で囲んでゐるのである。
岩船川は小川のような清流がこんにちも神社の右側(向かって左)から社前を横切って流れてゐる。
(『式内社調査報告』)
参道途中に、灯籠(享和元年 1801)が、大石の上に立てられている。


その奥に、大きな石がしめ縄で祀られている。どうもこれが八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」らしい。


参道を少し歩くと、小川に掛かる橋がある。
小川は、境内の左奥から右手に流れている清流で岩船川と呼ぶ。


神橋の正面に拝殿があり。


社額

拝殿内部には、依り代の大きな鏡。

御祭神は、鳥之岩楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、(別名)天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、(資料によっては)鳥磐樟船命
古事記・国譲りの話で、建御雷神とともに降臨した神。
祈雨の神でもあり、航空の神でもある。
神紋は「左三つ巴」

拝殿内にかかっていた絵馬。
中が暗いのでブレてしまったのもあり、まあまあ撮れていた二枚だけ紹介。


拝殿のそばにも大きく平たい石がある。
これこそが舟形石に見えるが、祀られている様子ではない。

「川中には小石が四十餘個あり、これが小船形をしてゐる」とあるのだが、これは確認しなかった(汗)
拝殿後方、上がったところに瑞垣に囲まれたご神体の巨石があります。


この神社のご神体である「兜石」
瑞垣のせいで全体を見るのは難しいくて、よく見えるところを探して右往左往。
拝殿からの位置関係で云って、右後方からの眺め。

右前方からの眺め。

草で覆われているので、石の形は不明。
ご神体の後方に、見事な藤蔓があった。


境内社は、三社くらい認められたが、何れも破損していて社名も不明。
写真は撮ってきたが、載せるにしのびなし。
最後に、ここの藤の群生は見事なものらしく、入り口に説明書きがあった。

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2月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で「阿波山上神社」、「立野神社」に続いて参拝しました。
昭和47年の新しい社号標

鳥居


これが昔の社号標ですね。
延書式内社、旧村社

場所は岩船地区にあるが、神社の名前は石船(いしふね)と読むらしい。
創祀年代は不詳、貞観元年(859年)という説もある。
記紀神話によると、当社の祭神である鳥石楠船神は、建御雷神にこ副て天降りなされたといふことが述べられている。そこで、建御雷神を奉齋する鹿島神宮にある同じ郷内に、当社が祭られたといふことが『新編常陸國誌』に見える。
「此神○鳥石楠船神亦名ヲ天鳥船神卜云フ、上古 建御雷神出雲二降り玉フ時、此神ヲ福テ遣サレキ、ココニ建御雷神、天祖ノ大命ヲ陳(のべ)テ、大国主神二此國ヲ避ケ奉ランヤ否ヲ問ヒシニ、僕ハ得白サジ我子八重事代主神白スベキヲ、鳥ノ遊ビ漁リシニ御大ノ前二至リテ、未ダ還り来ズト伊絵里云り、故レ天鳥船神ヲ遣ハシテ、事代主神ヲ徹シ来テ問ハシ賜フ時ニ、即此國ヲ天神ノ御子ニ献リキ〔日本紀、古事記〕、カク建御雷神二副奉りリテ、大キナル功ヲ建シ神ナレバ、鹿島神社二由縁アル鹿島郷内〔本体ハコノ郷内ナリ〕ニ祭ラレシモノナルベシ「延書式、和名紗大意」、」
次に神體石(しんたいいし)ならびに社名の由来について『常陸囲二十八社考』には、以下のやうに見える。
祠傍有ニー大石-、形如レ船、長一丈八尺徐、廣(こう)一許丈、前有二清流呼爲二岩船川、水中有二小石凡そ四十有餘、咸成二小舟形-、恰若二人造-、要又非二人カ所一就也、故祠 有二石船之稍一也、村亦因レ祠爲レ名、
祠の傍に船のやうな形をした大きな石(長さ一丈八尺徐、廣さ一丈あがあり、その前に清流があって岩船川と呼ぶ。川中には小石が四十餘個あり、これが小船形をしてゐるところから石船の稍があるのだといふ。ここに述べられてゐる大きな石といふのは、俗に黒御影と呼ばれる花崗岩で、これが御神體として祀られてをり、本殿はこ
の石を瑞垣で囲んでゐるのである。
岩船川は小川のような清流がこんにちも神社の右側(向かって左)から社前を横切って流れてゐる。
(『式内社調査報告』)
参道途中に、灯籠(享和元年 1801)が、大石の上に立てられている。


その奥に、大きな石がしめ縄で祀られている。どうもこれが八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」らしい。


参道を少し歩くと、小川に掛かる橋がある。
小川は、境内の左奥から右手に流れている清流で岩船川と呼ぶ。


神橋の正面に拝殿があり。


社額

拝殿内部には、依り代の大きな鏡。

御祭神は、鳥之岩楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、(別名)天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、(資料によっては)鳥磐樟船命
古事記・国譲りの話で、建御雷神とともに降臨した神。
祈雨の神でもあり、航空の神でもある。
神紋は「左三つ巴」

拝殿内にかかっていた絵馬。
中が暗いのでブレてしまったのもあり、まあまあ撮れていた二枚だけ紹介。


拝殿のそばにも大きく平たい石がある。
これこそが舟形石に見えるが、祀られている様子ではない。

「川中には小石が四十餘個あり、これが小船形をしてゐる」とあるのだが、これは確認しなかった(汗)
拝殿後方、上がったところに瑞垣に囲まれたご神体の巨石があります。


この神社のご神体である「兜石」
瑞垣のせいで全体を見るのは難しいくて、よく見えるところを探して右往左往。
拝殿からの位置関係で云って、右後方からの眺め。

右前方からの眺め。

草で覆われているので、石の形は不明。
ご神体の後方に、見事な藤蔓があった。


境内社は、三社くらい認められたが、何れも破損していて社名も不明。
写真は撮ってきたが、載せるにしのびなし。
最後に、ここの藤の群生は見事なものらしく、入り口に説明書きがあった。

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素晴らしいカレンダー
20150311
今日は、歴史クラブの例会があったのですが、そこで同じ富山県出身の女性から「とても良いカレンダーが二枚手に入ったので、よかったら使って」と、カレンダーをいただきました。
横幅84cmもある大きなカレンダーで、能登半島の付け根「雨晴海岸」から富山灣越しに立山連峰を捉えた写真です。
さっそく、私の部屋に、お気に入りのオードリーのポスターを上にずらして、貼りました。

スイッチの位置でおわかりのように、ちょうど目の高さにカレンダーが来ました。

雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、富山県高岡市北部の海岸。能登半島国定公園に含まれ、日本の渚百選に選ばれています。
晴れた日には富山湾越しに立山連峰の3000m級の山々を望むことができ、
世界的にも海をはさんで3000m級の山々が眺められるところは、雨晴海岸以外にはないと言われています。
ちなみに、目の前の島は「女岩」といいます。
女岩と周囲の小さな岩が母親とたくさんの子供のように見えることから「女岩」と呼ばれるようになったといいます。
私も、この写真が撮りたくて、実は何度か雨晴海岸に行ったこともあります。
天気の条件が合わないと、とてもとてもこのような写真は撮れません。
このカレンダーは、山の名前も入っているのが嬉しいです。
このうち、ちょっとは私も登った山があるので、懐かしいです。
とても素晴らしいカレンダーをいただきました。
横幅84cmもある大きなカレンダーで、能登半島の付け根「雨晴海岸」から富山灣越しに立山連峰を捉えた写真です。
さっそく、私の部屋に、お気に入りのオードリーのポスターを上にずらして、貼りました。

スイッチの位置でおわかりのように、ちょうど目の高さにカレンダーが来ました。

雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、富山県高岡市北部の海岸。能登半島国定公園に含まれ、日本の渚百選に選ばれています。
晴れた日には富山湾越しに立山連峰の3000m級の山々を望むことができ、
世界的にも海をはさんで3000m級の山々が眺められるところは、雨晴海岸以外にはないと言われています。
ちなみに、目の前の島は「女岩」といいます。
女岩と周囲の小さな岩が母親とたくさんの子供のように見えることから「女岩」と呼ばれるようになったといいます。
私も、この写真が撮りたくて、実は何度か雨晴海岸に行ったこともあります。
天気の条件が合わないと、とてもとてもこのような写真は撮れません。
このカレンダーは、山の名前も入っているのが嬉しいです。
このうち、ちょっとは私も登った山があるので、懐かしいです。
とても素晴らしいカレンダーをいただきました。
立野神社(延喜式内社)/茨城県常陸大宮市
20150311
鎮座地:茨城県常陸大宮市上小瀬351
社号標
式内社、旧社格 郷社

由緒:・
創立年代は不詳、物部氏の一族立野の連が祀ったと伝えられてる。式内社は大化二年から三年(645~7、大和時代)に建立されたものが多く、当社もその頃の創立と考えられる。
・日本三代実録に「貞観16年(874)・平安時代 正六位を授贈せり」とある。
・明応9年(1500)・室町時代 正三位を授かる。
当時の社域は、現在地より東南約1キロの西塩子境の立野山の山腹にあったが、
・天正年間(一説には天文18年1549 室町時代)佐竹氏の一族小瀬庄三郎義隆が村民と相談の上、村の中央白幡山の鹿島神社と合祀し、立野鹿島神社と尊称し小瀬の総鎮守とした。
「式内社調査報告」によれば、この遷座・合祀の経緯について、当地には、正八幡と鹿島が存在していたが、1村1鎮守の政策により、鹿島神社のみとなった。さらに、白幡山は八幡に縁の地名であることから、実際は鹿島が整理され、残った正八幡が鹿島と改名。その後、立野山の立野神社を合祀し、立野鹿島となった。
・天保5年(1834)藩主源烈公(徳川斉昭)より地方21石寄付される。
・明治5年(1872)徳川昭武(水戸藩最後の藩主)より水戸家重宝の塗弓1張が奉納された。
・明治6年、30ケ村の郷社に。
・明治40年(1907)供神指定神社
・昭和27年(1952)から宗教法人立野神社として運営。
一の鳥居


一段高くなった玉垣の下に手水舎と二の鳥居があり。
手水舎

上り口のところに二の鳥居


鳥居は両部鳥居だが、柱の基礎(亀腹)と、笠木に特徴あり。


上り口に狛犬があり。

社殿まわり境内の様子

拝殿前の狛犬。古びた感じだが年代は不明。


拝殿


向拝に社額があり。

通常社額がかけられている場所には、このような額がかけられていたが、内容はよくわからない。

絵馬もかかっていた。

拝殿内部

「奉塗換」と書かれた額。
明治12年に社殿を塗り替えたということだろうか?

主祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸邉神(しなとべのかみ)という男女の神。
「古事記」には 志那都比古神、志那戸辨神 と記している。
※「シナ」は「息が長い」の意。「日本書紀」では、イザナミが朝霧を吹き払った息からこの神が生まれとある。風の神である。
風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人々に大きな被害をもたらす。そのため、暴風を鎮めるためにこの神が祀られるようになった。
風の神であることから、航海安全の神ともされる。また、「風」と同音である「風邪」を治す神ともされる。
神名帳には、同社は大和国龍田神社(現・龍田大社 奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1)と同体とあ る。
拝殿の前には、昔の名称入りで方位が示されていた。

本殿



神輿殿

神輿の前に大きな天狗の面があり。

ここから境内社です。
大黒天石像

斎目神社(少名彦名神)

稲荷神社(倉稲魂神)



素鵞神社(建速素戔嗚尊)

向って左:白山神社、向って右:天満宮

「嶌森神社」と読めたのですが、検索してもまったく引っかかりません。
もともと音からきているので、少し字が違っても同じ場合が多々あるので、その線で推理すると、
「島森神社」だと、関東に数社あるようですが、祭神は不明。
「島守神社」だと、東京都稲城市にあります。
この場合祭神は天照皇大神、秋葉大神(火之迦具土神)、素盞嗚尊となります。

境内から更に上がったところにあったお宮。


上が欠けているため、お宮の名称が不明だが、三つのお宮であることは判る。
祭神は何とか読めた。
・八龍神・・・・久慈郡大子町に「八龍神社」あり。
・級長戸女神
・雷神様(鳴雷神)

その他、不明な境内社

これまでは、社殿向かって右側に鎮座しており、社殿の左側にも二社あり。

伊勢明神社(天照大神)
何故か、布袋様、大黒様がたくさん。

八幡神社(誉田別神)

「伊勢神宮遥拝門」あり。

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社号標
式内社、旧社格 郷社

由緒:・
創立年代は不詳、物部氏の一族立野の連が祀ったと伝えられてる。式内社は大化二年から三年(645~7、大和時代)に建立されたものが多く、当社もその頃の創立と考えられる。
・日本三代実録に「貞観16年(874)・平安時代 正六位を授贈せり」とある。
・明応9年(1500)・室町時代 正三位を授かる。
当時の社域は、現在地より東南約1キロの西塩子境の立野山の山腹にあったが、
・天正年間(一説には天文18年1549 室町時代)佐竹氏の一族小瀬庄三郎義隆が村民と相談の上、村の中央白幡山の鹿島神社と合祀し、立野鹿島神社と尊称し小瀬の総鎮守とした。
「式内社調査報告」によれば、この遷座・合祀の経緯について、当地には、正八幡と鹿島が存在していたが、1村1鎮守の政策により、鹿島神社のみとなった。さらに、白幡山は八幡に縁の地名であることから、実際は鹿島が整理され、残った正八幡が鹿島と改名。その後、立野山の立野神社を合祀し、立野鹿島となった。
・天保5年(1834)藩主源烈公(徳川斉昭)より地方21石寄付される。
・明治5年(1872)徳川昭武(水戸藩最後の藩主)より水戸家重宝の塗弓1張が奉納された。
・明治6年、30ケ村の郷社に。
・明治40年(1907)供神指定神社
・昭和27年(1952)から宗教法人立野神社として運営。
一の鳥居


一段高くなった玉垣の下に手水舎と二の鳥居があり。
手水舎

上り口のところに二の鳥居


鳥居は両部鳥居だが、柱の基礎(亀腹)と、笠木に特徴あり。


上り口に狛犬があり。

社殿まわり境内の様子

拝殿前の狛犬。古びた感じだが年代は不明。


拝殿


向拝に社額があり。

通常社額がかけられている場所には、このような額がかけられていたが、内容はよくわからない。

絵馬もかかっていた。

拝殿内部

「奉塗換」と書かれた額。
明治12年に社殿を塗り替えたということだろうか?

主祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸邉神(しなとべのかみ)という男女の神。
「古事記」には 志那都比古神、志那戸辨神 と記している。
※「シナ」は「息が長い」の意。「日本書紀」では、イザナミが朝霧を吹き払った息からこの神が生まれとある。風の神である。
風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人々に大きな被害をもたらす。そのため、暴風を鎮めるためにこの神が祀られるようになった。
風の神であることから、航海安全の神ともされる。また、「風」と同音である「風邪」を治す神ともされる。
神名帳には、同社は大和国龍田神社(現・龍田大社 奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1)と同体とあ る。
拝殿の前には、昔の名称入りで方位が示されていた。

本殿



神輿殿

神輿の前に大きな天狗の面があり。

ここから境内社です。
大黒天石像

斎目神社(少名彦名神)

稲荷神社(倉稲魂神)



素鵞神社(建速素戔嗚尊)

向って左:白山神社、向って右:天満宮

「嶌森神社」と読めたのですが、検索してもまったく引っかかりません。
もともと音からきているので、少し字が違っても同じ場合が多々あるので、その線で推理すると、
「島森神社」だと、関東に数社あるようですが、祭神は不明。
「島守神社」だと、東京都稲城市にあります。
この場合祭神は天照皇大神、秋葉大神(火之迦具土神)、素盞嗚尊となります。

境内から更に上がったところにあったお宮。


上が欠けているため、お宮の名称が不明だが、三つのお宮であることは判る。
祭神は何とか読めた。
・八龍神・・・・久慈郡大子町に「八龍神社」あり。
・級長戸女神
・雷神様(鳴雷神)

その他、不明な境内社

これまでは、社殿向かって右側に鎮座しており、社殿の左側にも二社あり。

伊勢明神社(天照大神)
何故か、布袋様、大黒様がたくさん。

八幡神社(誉田別神)

「伊勢神宮遥拝門」あり。

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鎮座地:茨城県東茨城郡城里町阿波山664-1
2月27日(金)に歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で訪れました。
社号標
式内社で旧社格は郷社。

一の鳥居と二の鳥居が、わりと近接して建てられています。

二の鳥居

二の鳥居から先に、杉の木立に囲まれた気持ちのいい参道が続きます。

途中に、柵に囲まれた御神木がありました。
大きな根の中に、二代目の若木が立っていました。


その横に「御神木由来」を刻んだ石碑があります。


神代の昔当神社の御祭神少彦名命が大杉の本に降臨されたと言う。
人皇第42代文武天皇大宝元年里人は此処に神祠を奉じ隆木明神と呼びその杉を御神木と定め大杉様と称して崇拝してきた。この杉は樹齢およそ一千年高さ33m周囲目通り7m第二代のものとも伝えられる。昭和47年9月18日夕刻大雷雨ありこの御神木に落雷火災を発生した。大木が為噴出する火の粉は周囲50mに達し桂村消防団員の総力を挙げての消火作業にもかかわらず二昼夜にわたって燃え続けようやくにして鎮火した。
火災後日を経るに従って樹勢とみに衰え生立木としての見込みを失い倒壊の危険を憂慮すされるに至った。よって氏子中に諮り昭和48年7月5日神社本庁総理の承認を得てやむなく伐採処分にした。
ここに聖木を偲び後継としてこの杉の□苗を植え玉垣を巡らすとともの記念碑を建立して大杉様の由来を永遠に伝えるものである。
(石碑文章)
これが、社伝と重なります。
社伝によると、第四十二代文武天皇大宝元年(701)に、大杉に神が降臨し、「降木明神」と称した。
俗に、佐加利子(サガリコ)明神とも呼ばれる神社。
阿波山という森に、祠を建て、この神を祀り、阿波山上神社と号したという。
この神は、童子の姿で、手には粟の穂を持って降臨したという。
その姿と粟から、祭神は少彦名命と思われる。
各地の粟島神社の祭神は、少彦名命である。
仁和2年(886年)に従五位上に列している。
戦国時代には佐竹氏によって社殿が再建、修繕されている。
その後も、江戸時代後期に水戸藩から社領の寄進と社殿の修繕を受けている。
天狗党の乱では当社の境内でも戦闘が行われた。
社殿前の境内

手水舎

社殿前に、文化九年(1812)の石灯篭

拝殿




社額の代わりに、こういう額がかかっていました。

何と讀むのか・・・・・・・
皆が「真ん中の字がわからん」と頭をかかえておりました。
帰ってきてから池田さんが、くずし字の勉強を兼ねて調べてみましたと、メールで送ってきてくれました。
私も、なるほどと思ったので、掲載しておきます。
「神霊淪六極」:「神霊(しんれい)、六極(りっきょく:東西南北天地)を淪(しずむ)」となりました。
「淪(しずむ)」とほぼ同形のくずし字に「泠(すむ)」がありましたが、意味が異なるようなので除けました。
拝殿から、けっこう距離をおいて本殿が鎮座しています。


ちなみに本殿の千木は内削ぎ、鰹木は三本(奇数)です。

一般に、千木が内削ぎで鰹木が偶数の場合、女性神を祀り、千木が外削ぎで鰹木が奇数の場合、男性神を祀ると云われています。
ということで、原則にはこの社の場合合っていません。
その理由を考えてみました。
祭神が少彦名命です。
一般的に童神とされ、性別は明らかになっていません。
このことから、社殿を造営する際、困って両方取り入れたのかな、と思います。
神紋は「右三つ巴」です。

神楽殿

社殿のまわりに境内社が並びます。

稲荷神社

三嶋神社(木花咲耶姫)

山倉神社(皇産霊大神、建速須佐男大神、大国主大神)

不明だが、横に立派な彫刻あり。



不明

参道の脇に、親鸞聖人開宗宣言の地「大山草庵」跡地がありました。

そこには、現在「延命地蔵尊」がありました。


そのまわりには、当時ここにあったという「阿弥陀寺」をしのばせる石仏がたくさん並んでいた。


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2月27日(金)に歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で訪れました。
社号標
式内社で旧社格は郷社。

一の鳥居と二の鳥居が、わりと近接して建てられています。

二の鳥居

二の鳥居から先に、杉の木立に囲まれた気持ちのいい参道が続きます。

途中に、柵に囲まれた御神木がありました。
大きな根の中に、二代目の若木が立っていました。


その横に「御神木由来」を刻んだ石碑があります。


神代の昔当神社の御祭神少彦名命が大杉の本に降臨されたと言う。
人皇第42代文武天皇大宝元年里人は此処に神祠を奉じ隆木明神と呼びその杉を御神木と定め大杉様と称して崇拝してきた。この杉は樹齢およそ一千年高さ33m周囲目通り7m第二代のものとも伝えられる。昭和47年9月18日夕刻大雷雨ありこの御神木に落雷火災を発生した。大木が為噴出する火の粉は周囲50mに達し桂村消防団員の総力を挙げての消火作業にもかかわらず二昼夜にわたって燃え続けようやくにして鎮火した。
火災後日を経るに従って樹勢とみに衰え生立木としての見込みを失い倒壊の危険を憂慮すされるに至った。よって氏子中に諮り昭和48年7月5日神社本庁総理の承認を得てやむなく伐採処分にした。
ここに聖木を偲び後継としてこの杉の□苗を植え玉垣を巡らすとともの記念碑を建立して大杉様の由来を永遠に伝えるものである。
(石碑文章)
これが、社伝と重なります。
社伝によると、第四十二代文武天皇大宝元年(701)に、大杉に神が降臨し、「降木明神」と称した。
俗に、佐加利子(サガリコ)明神とも呼ばれる神社。
阿波山という森に、祠を建て、この神を祀り、阿波山上神社と号したという。
この神は、童子の姿で、手には粟の穂を持って降臨したという。
その姿と粟から、祭神は少彦名命と思われる。
各地の粟島神社の祭神は、少彦名命である。
仁和2年(886年)に従五位上に列している。
戦国時代には佐竹氏によって社殿が再建、修繕されている。
その後も、江戸時代後期に水戸藩から社領の寄進と社殿の修繕を受けている。
天狗党の乱では当社の境内でも戦闘が行われた。
社殿前の境内

手水舎

社殿前に、文化九年(1812)の石灯篭

拝殿




社額の代わりに、こういう額がかかっていました。

何と讀むのか・・・・・・・
皆が「真ん中の字がわからん」と頭をかかえておりました。
帰ってきてから池田さんが、くずし字の勉強を兼ねて調べてみましたと、メールで送ってきてくれました。
私も、なるほどと思ったので、掲載しておきます。
「神霊淪六極」:「神霊(しんれい)、六極(りっきょく:東西南北天地)を淪(しずむ)」となりました。
「淪(しずむ)」とほぼ同形のくずし字に「泠(すむ)」がありましたが、意味が異なるようなので除けました。
拝殿から、けっこう距離をおいて本殿が鎮座しています。


ちなみに本殿の千木は内削ぎ、鰹木は三本(奇数)です。

一般に、千木が内削ぎで鰹木が偶数の場合、女性神を祀り、千木が外削ぎで鰹木が奇数の場合、男性神を祀ると云われています。
ということで、原則にはこの社の場合合っていません。
その理由を考えてみました。
祭神が少彦名命です。
一般的に童神とされ、性別は明らかになっていません。
このことから、社殿を造営する際、困って両方取り入れたのかな、と思います。
神紋は「右三つ巴」です。

神楽殿

社殿のまわりに境内社が並びます。

稲荷神社

三嶋神社(木花咲耶姫)

山倉神社(皇産霊大神、建速須佐男大神、大国主大神)

不明だが、横に立派な彫刻あり。



不明

参道の脇に、親鸞聖人開宗宣言の地「大山草庵」跡地がありました。

そこには、現在「延命地蔵尊」がありました。


そのまわりには、当時ここにあったという「阿弥陀寺」をしのばせる石仏がたくさん並んでいた。


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波比岐神(はひきのかみ)/日本の神々の話
20150304
この神は、『古事記』にて「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段に名が出ています。
大年神というのは、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神である。
『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々となっています。
波比岐神は這入君(はしき)、あるいは端引(はひ)きの意味で屋敷神と、本居宣長は『古事記伝』で解釈している。
延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。
「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。
また、旅人の守護神とする説もあり。
祀っている神社:
賀茂別雷神社 境内 須波神社、足羽神社(福井市)、坐摩神社(大阪市)
また、伊勢神宮の内宮に祀られている。その役割は、天照大神の坐ます宮の建つ敷地を守護するというものである。
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大年神というのは、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神である。
『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々となっています。
波比岐神は這入君(はしき)、あるいは端引(はひ)きの意味で屋敷神と、本居宣長は『古事記伝』で解釈している。
延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。
「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。
また、旅人の守護神とする説もあり。
祀っている神社:
賀茂別雷神社 境内 須波神社、足羽神社(福井市)、坐摩神社(大阪市)
また、伊勢神宮の内宮に祀られている。その役割は、天照大神の坐ます宮の建つ敷地を守護するというものである。
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霞川の史跡を歩く-2(2)
20150303
2月25日(水)に、歴史クラブの行事で訪ねた、青梅市、入間市の霞川流域の史跡の続きです。
【宝泉寺】
所在地:東京都青梅市藤橋2丁目
前回の記事の最後、「柚保葛(そまのほかつら)神社」の隣にあります。
真言宗豊山派、応永元年(1394)の開基と伝えられる。塩船にある「塩船観音」の末寺として興誠を誇ったようです。

本尊


「柚保葛(そまのほかつら)神社のところで紹介した、建武4年(1337)、応安7年(1374)の板碑は宝泉寺のものですね。これをはじめ、23基の板碑があるそうですが、墓地のなかは探しませんでした。
【正福寺】
所在地:東京都青梅市今井2丁目1045番地
入り口に石仏群があり。


六地蔵(文化2年 1805)
片方が植え込みにさえぎられているのが残念。

参道の反対側は、綺麗な状態だった。

山門

時宗、当麻無量光寺の未。『武蔵野名勝図絵』に「往昔今井四郎左衛門尉経家の子孫、同宗家とVゝう人此地を数代伝領して子孫住せし故、村内正福寺をも開基し、墳墓もその寺中にあり」とある。同書福正寺の条に「本尊阿弥陀、脇士両尊、此仏の足裏に銘文あり応永二年(1395)今井氏為菩提と記せり」とあるが、この仏像は現存しない。
今井氏墓《市史跡》と伝えられる墓所に、応永10年(1403)と応永14年(1407)の宝筐印塔や五輪塔がある。この地域最古の弘安五年(1282)の板碑もある。
正福寺が立つ場所は、かつて七日市場と呼ばれ、江戸時代に宿場が青梅に移されるまでは、この地域の経済的な中心地であった。
「大黒天と薬師如来のお堂」

大黒天は、かろうじてお顔がわかった。

薬師如来は、覗ける格子窓からは幕に邪魔されてお顔は見えず。残念。

珍しい「摩利支天」のお堂があり。


本堂

堂内

本尊

今井氏墓地

宝筐印塔と五輪塔


霞川を渡ります。


【薬王寺】
所在地:東京都青梅市今井1-2520

山門前にお地蔵さんがあり、足元に枯れ木から作ったお供え物がGood!!


山門(鐘楼門)


七国山薬王寺、真言宗豊山派、本尊:薬師如来、開基は中世と推定される。法相宗の僧良誓〈暦応2年(1339)没〉が奈良から聖徳太子の作と伝わる薬師像を持って来て一堂を建立したのに始まるという説、足利尊氏の開基という説がある。
暦応2年(1339)の板碑が現存する。
慶安2年(1649)に徳川幕府から薬師堂領10石の朱印状が与えられている。現在の薬王寺は、天明年間(1781~89)に衆海法印によって中興され、本堂も再建され、その時から塩船寺(真言宗)の末寺となった。山門は青梅市内で唯一ので、二階に鋼鐘がある。寛政6年(1794)に青梅裏宿の鋳物師・島村照思が鋳造した《市有形文化財》。寺域も《市史跡》。
神仏分離令のため、100余戸の檀徒がわずか7戸となって寺の存立も危うくなったが、その後の復旧の努力によって、大正15年に大改築がなされ現荏に至っている。明和3年(1766)の石橋供養塔などの石仏・板碑がある。
西側の丘に七国山不動堂があり、2月3日の節分の日には、本堂前から松明を担いで登り、護摩に点火する。
本堂

梅が咲き始めていた。


前の斜面にはつつじが多く、咲いたら見事でしょう。

墓地に行って、暦応2年(1339)の板碑を探した。

見つかりました。


他にも、板碑が点在していました。

明和3年(1766)の石橋供養塔


ご詠歌が刻んである。

西側の丘に上がり、七国山不動堂を見に行きます。

不動堂の前に「倶利伽羅龍」があり。


不動堂



高い所にのぞき窓があり、そこから内部が見えた。

しかし、そこからでは不動尊は足しか見えず。閉まっている扉の隙間からかろうじて見えた。

横の弁才天

獅子が左右に侍っている。

まん丸い石が奉納されていた。

【今井城跡】
所在地:東京都青梅市今井

今井氏数代の居館と伝わるが、今井城の歴史については正確なことは一切わかっていない。
1967年の発掘調査で、祭祀の場を設け供養が続けられた場所(墓地)が破壊され、土塁の中へ埋め込まれていたことが判明した。正和元年(1312)から大永2年(1522)の銘がある板碑も約40基出土した。このことから、今井城は1522年以降に造築されたと推定される。さらに、“現在の城の前にもう一つ古い城があったが、今井地域の支配権が交代して城主が代わり、現在の城が造築された”という説がある。
今井城は、加治丘陵の南縁にあって、霞川に沿った低地を望む舌状台地上に築かれている。現在確認できる遺構は、東西方向に横たわる舌状台地を南北方向の空堀で分断し、その先端部分の東西約120メートル、南北約90メートルの範囲にあります。
城の純張りは、大きく三つの曲輪からできています。東端に位置する曲輪1は、東西約40メートル、南北約50メートルの長方形で、南東部分を除いて、土塁で囲まれています。ほかの二つの曲輪が土塁で囲まれていないことからみても、ここが今井城の軍事的な中心曲輪で、近世の城郭でいう本丸に相当します。
曲輪2は、東西約20メートル、南北約40メートルの変形した台形で、曲輪1の西方に空堀を隔ててあります。
そして、曲輪の南端は、細長く束に張りだし、曲輪1を包み込むような形になっていて、南の低地部から曲輪1へ近づきにくいような構造になっています。
曲輪3は、東西約65メートル、南北は最大で約20メートルの東西に細長い曲輪で、曲輪1の北方に空堀を隔ててあります。この曲輪は、北からの侵入に対して備えたもので、曲輪1の空堀側に面して土塁が築かれているのも、曲輪3に敵が侵入しても、ただちに曲輪1に敵が攻撃を仕掛けられないための備えと考えられます。
各曲輪間の連絡は、すべて土橋か木橋と考えられ、そぞれ工夫がこらされていたことが発掘で明らかとなっています。たとえば土橋は、上面を低く掘削し、その底に箱形の溝を切って、防御性を高めています。また、空堀のなかを敵が侵入した場合に備えて、障子と呼ばれる仕切りが作られ、曲輪1に近づきにくくするというように、きめ細かな防御機能と、もしも城内での戦闘となっても、城方にとって有利になるような工夫が随所にみられます。
このように今井城は、規模は小さいとはいえ、非常に見事な縄張りをもった城であって、それがほぼ完全な形で残されていることが貴重です。
曲輪2から入っていきました。

曲輪2と曲輪1を結ぶ虎口。
両者をつなぐ土橋がかなりの坂になっている。

横から見た土橋

土橋の左右の空堀


曲輪1は広い


曲輪1の真ん中辺で見上げた空

曲輪1からの崖

空堀の中をいく参加者を曲輪3から見下ろす。

堀に折れを作っていて、けっこう複雑になっている。

【三柱神社】
鎮座地:東京都青梅市今井1-608
旧格式:無格社、別当寺:真福寺(廃寺)
文明17年(1486)当地の豪族、平山氏によって三宝荒神が祀られ、以後明治まで「荒神様」と呼ばれた。文禄2年(1593)当地の町田市之介が火難除けのため現在の祭神を祀り、寛政元年(1789)に町田嘉右衛門が社殿を造営した。養蚕が盛んだった頃は蚕神として信仰されていた。
三宝荒神は仏教の三宝守護と民俗的な荒神信仰が陰陽道などの影響を受けて結びついたもので、竈神や火の神と同一視されます。極めて神仏習合的な存在です。
鳥居

手水舎

石灯篭(天明元年 1781)に「三宝荒神宮」とあり。


拝殿

社額「三柱神社」の下に、古い社額「荒神宮」もあり。

祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)
本殿は覆い屋の中でまったく見えない。

神紋は「丸に抱き沢潟」
平山氏か町田氏の家紋なのだろう。

【瑞泉院】
所在地:埼玉県入間市大字木蓮寺874
瑞泉院の霊園が「西東京コスモパーク霊園」ということで大々的に開発されていて、その規模に圧倒されました。

ここに、金子氏一族の宝筐印塔付位牌があります。


武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり、数々の武功をたてた典型的な武蔵武士である金子十郎家思および一族の墓があり、6基の宝筐印塔と位牌が残る。


位牌堂

金子十郎家忠は家範の二男で武芸に秀でており、19歳で保元の乱(1156)に初陣し、平治の乱(1159)では源義平(みなもとのよしひら、1141~1160)に従う17騎の一人として活躍しています。
治承4年(1180)源頼朝挙兵時には村山・金子氏は大庭景親(おおばかげちか、生誕不詳~1180)が率いる平氏討伐軍の一員として頼朝を支持する三浦半島の雄、三浦氏の衣笠城攻撃に加わります。やがて頼朝が下総・上総の主力武士団を編成し武蔵国境に迫り、武蔵に影響力を有する畠山氏・河越氏・江戸氏らに参向を呼びかけます。平氏方として武蔵国通過を阻止する立場でしたが最終的には頼朝に降陣し、金子氏もその頃参向し御家人として忠節を尽くすことになります。
具体的には木曽義仲追討の宇治川合戦を始めとし、平家に対する一ノ谷・屋島の戦いでは源義経に従い弟の近範(ちかのり、生誕不詳~1220)と共に華々しい戦功をあげています。
しかし、建暦3年(1213)頼朝外戚の北条氏と侍所別当の和田義盛(わだよしもり、1147~1213)との争いが起り、すべての御家人を巻込むほどまでに発展し、金子家高は和田氏側に与した結果北条義時(ほうじょうよしとき、1163~1224)に殺害されますが、金子氏の中には所領安堵された者もあって本領の金子郷はそのまま鎌倉・南北朝以降も継続されることになります。
狭山市には、金子氏ゆかりの「東三ツ木の薬師堂」があります。
子孫である金子国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めた。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来の夢枕お告げにより、狭山市の現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けた。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間の三ツ木を西三ツ木、狭山の三ツ木を東三ツ木と称するようになったわけです。
宝筐印塔と位牌堂から下って来る途中、七重石塔と大きな供養塔があり、その奥に面白い石像がありました。

神仏習合時代に作られた神像ですね。
「開○折姫命」とある。
頭に鳩か鴉を乗せている。どちらにしても神功皇后がふさわしいのだが、それだと「息長帯比売命」なのだが・・・??

こちらは「虚空蔵」とあり、虚空蔵菩薩。

【桂川神社】

鳥居

手水舎

水盤に「真名井神水」とあり、水盤の下に青々とした植生が。

拝殿


本殿の覆い屋は隙間なく、本殿は見えない。

神紋は「左三つ巴」

雷電社

拝殿の壁に大山詣での「納め太刀」が掛けてあった。

「納め太刀」とは:
江戸時代に庶民の間で広まった大山へ願いを書いた木太刀を奉納することです。起源は源頼朝が「武運長久」を祈願したことが始まりとされています。当時は真剣を納めました。それが江戸時代に庶民に広まり、一般的には石尊大権現(阿夫利大神)に木太刀を納め、納めてある別の木太刀、もしくは1年後に再び登拝をして自分たちが前年に納めた木太刀を持ち帰ります。特に山頂までの登拝が許される夏山(旧暦6月27日~7月17日)にはたくさんの参詣があり、浮世絵には木太刀を担いで東海道を往来する人々の姿が描かれ、木太刀と夏山は川柳も詠まれています。
広重「東海道五十三次細見図会 程ケ谷」

以上で、この日の予定を終了。
「南峰」バス停からバスで入間市駅に戻りました。
(了)
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【宝泉寺】
所在地:東京都青梅市藤橋2丁目
前回の記事の最後、「柚保葛(そまのほかつら)神社」の隣にあります。
真言宗豊山派、応永元年(1394)の開基と伝えられる。塩船にある「塩船観音」の末寺として興誠を誇ったようです。

本尊


「柚保葛(そまのほかつら)神社のところで紹介した、建武4年(1337)、応安7年(1374)の板碑は宝泉寺のものですね。これをはじめ、23基の板碑があるそうですが、墓地のなかは探しませんでした。
【正福寺】
所在地:東京都青梅市今井2丁目1045番地
入り口に石仏群があり。


六地蔵(文化2年 1805)
片方が植え込みにさえぎられているのが残念。

参道の反対側は、綺麗な状態だった。

山門

時宗、当麻無量光寺の未。『武蔵野名勝図絵』に「往昔今井四郎左衛門尉経家の子孫、同宗家とVゝう人此地を数代伝領して子孫住せし故、村内正福寺をも開基し、墳墓もその寺中にあり」とある。同書福正寺の条に「本尊阿弥陀、脇士両尊、此仏の足裏に銘文あり応永二年(1395)今井氏為菩提と記せり」とあるが、この仏像は現存しない。
今井氏墓《市史跡》と伝えられる墓所に、応永10年(1403)と応永14年(1407)の宝筐印塔や五輪塔がある。この地域最古の弘安五年(1282)の板碑もある。
正福寺が立つ場所は、かつて七日市場と呼ばれ、江戸時代に宿場が青梅に移されるまでは、この地域の経済的な中心地であった。
「大黒天と薬師如来のお堂」

大黒天は、かろうじてお顔がわかった。

薬師如来は、覗ける格子窓からは幕に邪魔されてお顔は見えず。残念。

珍しい「摩利支天」のお堂があり。


本堂

堂内

本尊

今井氏墓地

宝筐印塔と五輪塔


霞川を渡ります。


【薬王寺】
所在地:東京都青梅市今井1-2520

山門前にお地蔵さんがあり、足元に枯れ木から作ったお供え物がGood!!


山門(鐘楼門)


七国山薬王寺、真言宗豊山派、本尊:薬師如来、開基は中世と推定される。法相宗の僧良誓〈暦応2年(1339)没〉が奈良から聖徳太子の作と伝わる薬師像を持って来て一堂を建立したのに始まるという説、足利尊氏の開基という説がある。
暦応2年(1339)の板碑が現存する。
慶安2年(1649)に徳川幕府から薬師堂領10石の朱印状が与えられている。現在の薬王寺は、天明年間(1781~89)に衆海法印によって中興され、本堂も再建され、その時から塩船寺(真言宗)の末寺となった。山門は青梅市内で唯一ので、二階に鋼鐘がある。寛政6年(1794)に青梅裏宿の鋳物師・島村照思が鋳造した《市有形文化財》。寺域も《市史跡》。
神仏分離令のため、100余戸の檀徒がわずか7戸となって寺の存立も危うくなったが、その後の復旧の努力によって、大正15年に大改築がなされ現荏に至っている。明和3年(1766)の石橋供養塔などの石仏・板碑がある。
西側の丘に七国山不動堂があり、2月3日の節分の日には、本堂前から松明を担いで登り、護摩に点火する。
本堂

梅が咲き始めていた。


前の斜面にはつつじが多く、咲いたら見事でしょう。

墓地に行って、暦応2年(1339)の板碑を探した。

見つかりました。


他にも、板碑が点在していました。

明和3年(1766)の石橋供養塔


ご詠歌が刻んである。

西側の丘に上がり、七国山不動堂を見に行きます。

不動堂の前に「倶利伽羅龍」があり。


不動堂



高い所にのぞき窓があり、そこから内部が見えた。

しかし、そこからでは不動尊は足しか見えず。閉まっている扉の隙間からかろうじて見えた。

横の弁才天

獅子が左右に侍っている。

まん丸い石が奉納されていた。

【今井城跡】
所在地:東京都青梅市今井

今井氏数代の居館と伝わるが、今井城の歴史については正確なことは一切わかっていない。
1967年の発掘調査で、祭祀の場を設け供養が続けられた場所(墓地)が破壊され、土塁の中へ埋め込まれていたことが判明した。正和元年(1312)から大永2年(1522)の銘がある板碑も約40基出土した。このことから、今井城は1522年以降に造築されたと推定される。さらに、“現在の城の前にもう一つ古い城があったが、今井地域の支配権が交代して城主が代わり、現在の城が造築された”という説がある。
今井城は、加治丘陵の南縁にあって、霞川に沿った低地を望む舌状台地上に築かれている。現在確認できる遺構は、東西方向に横たわる舌状台地を南北方向の空堀で分断し、その先端部分の東西約120メートル、南北約90メートルの範囲にあります。
城の純張りは、大きく三つの曲輪からできています。東端に位置する曲輪1は、東西約40メートル、南北約50メートルの長方形で、南東部分を除いて、土塁で囲まれています。ほかの二つの曲輪が土塁で囲まれていないことからみても、ここが今井城の軍事的な中心曲輪で、近世の城郭でいう本丸に相当します。
曲輪2は、東西約20メートル、南北約40メートルの変形した台形で、曲輪1の西方に空堀を隔ててあります。
そして、曲輪の南端は、細長く束に張りだし、曲輪1を包み込むような形になっていて、南の低地部から曲輪1へ近づきにくいような構造になっています。
曲輪3は、東西約65メートル、南北は最大で約20メートルの東西に細長い曲輪で、曲輪1の北方に空堀を隔ててあります。この曲輪は、北からの侵入に対して備えたもので、曲輪1の空堀側に面して土塁が築かれているのも、曲輪3に敵が侵入しても、ただちに曲輪1に敵が攻撃を仕掛けられないための備えと考えられます。
各曲輪間の連絡は、すべて土橋か木橋と考えられ、そぞれ工夫がこらされていたことが発掘で明らかとなっています。たとえば土橋は、上面を低く掘削し、その底に箱形の溝を切って、防御性を高めています。また、空堀のなかを敵が侵入した場合に備えて、障子と呼ばれる仕切りが作られ、曲輪1に近づきにくくするというように、きめ細かな防御機能と、もしも城内での戦闘となっても、城方にとって有利になるような工夫が随所にみられます。
このように今井城は、規模は小さいとはいえ、非常に見事な縄張りをもった城であって、それがほぼ完全な形で残されていることが貴重です。
曲輪2から入っていきました。

曲輪2と曲輪1を結ぶ虎口。
両者をつなぐ土橋がかなりの坂になっている。

横から見た土橋

土橋の左右の空堀


曲輪1は広い


曲輪1の真ん中辺で見上げた空

曲輪1からの崖

空堀の中をいく参加者を曲輪3から見下ろす。

堀に折れを作っていて、けっこう複雑になっている。

【三柱神社】
鎮座地:東京都青梅市今井1-608
旧格式:無格社、別当寺:真福寺(廃寺)
文明17年(1486)当地の豪族、平山氏によって三宝荒神が祀られ、以後明治まで「荒神様」と呼ばれた。文禄2年(1593)当地の町田市之介が火難除けのため現在の祭神を祀り、寛政元年(1789)に町田嘉右衛門が社殿を造営した。養蚕が盛んだった頃は蚕神として信仰されていた。
三宝荒神は仏教の三宝守護と民俗的な荒神信仰が陰陽道などの影響を受けて結びついたもので、竈神や火の神と同一視されます。極めて神仏習合的な存在です。
鳥居

手水舎

石灯篭(天明元年 1781)に「三宝荒神宮」とあり。


拝殿

社額「三柱神社」の下に、古い社額「荒神宮」もあり。

祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)
本殿は覆い屋の中でまったく見えない。

神紋は「丸に抱き沢潟」
平山氏か町田氏の家紋なのだろう。

【瑞泉院】
所在地:埼玉県入間市大字木蓮寺874
瑞泉院の霊園が「西東京コスモパーク霊園」ということで大々的に開発されていて、その規模に圧倒されました。

ここに、金子氏一族の宝筐印塔付位牌があります。


武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり、数々の武功をたてた典型的な武蔵武士である金子十郎家思および一族の墓があり、6基の宝筐印塔と位牌が残る。


位牌堂

金子十郎家忠は家範の二男で武芸に秀でており、19歳で保元の乱(1156)に初陣し、平治の乱(1159)では源義平(みなもとのよしひら、1141~1160)に従う17騎の一人として活躍しています。
治承4年(1180)源頼朝挙兵時には村山・金子氏は大庭景親(おおばかげちか、生誕不詳~1180)が率いる平氏討伐軍の一員として頼朝を支持する三浦半島の雄、三浦氏の衣笠城攻撃に加わります。やがて頼朝が下総・上総の主力武士団を編成し武蔵国境に迫り、武蔵に影響力を有する畠山氏・河越氏・江戸氏らに参向を呼びかけます。平氏方として武蔵国通過を阻止する立場でしたが最終的には頼朝に降陣し、金子氏もその頃参向し御家人として忠節を尽くすことになります。
具体的には木曽義仲追討の宇治川合戦を始めとし、平家に対する一ノ谷・屋島の戦いでは源義経に従い弟の近範(ちかのり、生誕不詳~1220)と共に華々しい戦功をあげています。
しかし、建暦3年(1213)頼朝外戚の北条氏と侍所別当の和田義盛(わだよしもり、1147~1213)との争いが起り、すべての御家人を巻込むほどまでに発展し、金子家高は和田氏側に与した結果北条義時(ほうじょうよしとき、1163~1224)に殺害されますが、金子氏の中には所領安堵された者もあって本領の金子郷はそのまま鎌倉・南北朝以降も継続されることになります。
狭山市には、金子氏ゆかりの「東三ツ木の薬師堂」があります。
子孫である金子国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めた。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来の夢枕お告げにより、狭山市の現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けた。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間の三ツ木を西三ツ木、狭山の三ツ木を東三ツ木と称するようになったわけです。
宝筐印塔と位牌堂から下って来る途中、七重石塔と大きな供養塔があり、その奥に面白い石像がありました。

神仏習合時代に作られた神像ですね。
「開○折姫命」とある。
頭に鳩か鴉を乗せている。どちらにしても神功皇后がふさわしいのだが、それだと「息長帯比売命」なのだが・・・??

こちらは「虚空蔵」とあり、虚空蔵菩薩。

【桂川神社】

鳥居

手水舎

水盤に「真名井神水」とあり、水盤の下に青々とした植生が。

拝殿


本殿の覆い屋は隙間なく、本殿は見えない。

神紋は「左三つ巴」

雷電社

拝殿の壁に大山詣での「納め太刀」が掛けてあった。

「納め太刀」とは:
江戸時代に庶民の間で広まった大山へ願いを書いた木太刀を奉納することです。起源は源頼朝が「武運長久」を祈願したことが始まりとされています。当時は真剣を納めました。それが江戸時代に庶民に広まり、一般的には石尊大権現(阿夫利大神)に木太刀を納め、納めてある別の木太刀、もしくは1年後に再び登拝をして自分たちが前年に納めた木太刀を持ち帰ります。特に山頂までの登拝が許される夏山(旧暦6月27日~7月17日)にはたくさんの参詣があり、浮世絵には木太刀を担いで東海道を往来する人々の姿が描かれ、木太刀と夏山は川柳も詠まれています。
広重「東海道五十三次細見図会 程ケ谷」

以上で、この日の予定を終了。
「南峰」バス停からバスで入間市駅に戻りました。
(了)
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霞川の史跡を歩く-2(1)
20150302
2月25日(水)に、歴史クラブの行事で青梅市、入間市の霞川流域の史跡を訪ねましたが、これは昨年10月24日に行われた入間市の「霞川の史跡を歩く」に続く企画となります。
今回は、阿須丘陵南側の裾を流れる霞川に沿って、青梅市・入間市内の寺社、城跡を訪ねました。
訪ねた史跡は、「今寺榎」、「常盤樹神社」、「報恩寺」、「藤橋城跡」、「柚保葛神社」、「宝泉寺」、「正福寺」、「薬王寺」、「今井城跡」、「三柱神社」、「瑞泉院」、「桂川神社」です。
ルート図

入間市駅から「河辺駅北口」行きのバスに乗り、「今寺榎」バス停で降ります。
【今寺榎 いまでらえのき】
今寺駐在所前信号の東北の角にあるエノキの大木は、青梅と川越を結ぶ川越街道の一里塚の榎です。

川越街道

立派な榎です。

草鞋やご幣が奉納されていました。

【常盤樹神社】
鎮座地:東京都青梅市今寺1-528
社号標

隣接して天台宗報恩寺があり、境内の掲示によれば、弘仁十三年(822)に延暦寺の亮海による開創といわれている。
旧格式:村社、報恩寺境内に鎮座してし)た熊野権現・山王権現・稲荷大明神・天満天神、常楽寺境内の若宮八幡宮を合祀して、明治2年(1869)植竹神社が創建され、翌年、境内に樫の老木がある事から常盤樹神社と改名された。
一の鳥居(神明型)

二の鳥居(両部鳥居)

鳥居に下げられている紙幣だが、角が全て丸く切られている特徴があった。

手水舎

拝殿前の狛犬は新しい感じだった。

拝殿




本殿覆屋

祭神:伊邪那美命(V)ざなみのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、熊野日樟命(くまのひぐすのみこと)、仁徳天皇(にんとくてんのう)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)、 大宮比売命(おおみやひめのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、菅原道真(すがわらのみちぎね)。
神紋は「左三つ巴」

【報恩寺】
所在地:東京都青梅市今寺1丁目540
入り口に石碑群があり。
右側

庚申待供養碑(享保7年 1722)

庚申塔


左側
光明真言塔(安政2年 1855)

馬頭観世音(安政2年 1855)

入り口から山門までの築地塀

山門

藤橋山正覚院。天台宗(青梅市内で唯一)。もと深大寺の末寺。本尊:阿弥陀如来。
寺伝に弘仁13年(822)に延暦寺の僧、亮海によって開創とある。天正年間(1573~1592)に平山越前守重吉(藤橋城主)によって再興された。天正19年(1591)10石の朱印状が与えられた。
境内

本堂前に「伝教大師」像

本堂
寛政9年(1797)に火災にあい、文化元年(1804)に再建。


地蔵堂
桃山時代の建築様式の特色を示す。永正9年(1512)の修理銘のある木造延命地蔵が安置され、胎内に当地方の豪族である勝沼城主・三田政定の和歌を墨書した短冊が納められている。「たのむぞよながく命をのぶる てふ 仏の御名を身にしたくへて 政定」。堂・像とも《市文化財》。

本堂の裏手に「報恩寺七福神」があり。

黄色と赤のマンサクが咲いていた。


本堂の右横に「道よせ地蔵(安永7年 1778)」
古老いわく「道おしえ地蔵」が訛ったのでは、との説あるが不詳。
道しるべでも台座に無いかと探したが、台座は後の新しいものらしくて、見当たらず。


その前に、「弘誓の船」

歴代住僧の境内墓所
貞和3年(1347)師承祐のため隆承が造立した板碑、延文2年(1357)隆承の供養に弟子たちが造立した板碑《2基とも市文化財》
コの字形に卵塔など住職などの墓が並び、奥に板碑が立っています。


貞和3年の板碑

延文2年の板碑

これが、「常盤樹神社」の名の元になった樫の老木の根元。

【藤橋城跡】
所在地:東京都青梅市藤橋
東西45m、南北55mの大きさの曲輪が残る。曲輪の周囲を土塁が一周している。曲輪の外側には空堀があった。
戦国時代のこの地域の有力土豪、平山氏、藤橋氏(本姓平山氏)の居館であったと言われる。
城跡中央に仙保神社跡の碑が建つ。
遠景

土塁がよくわかる。


北東側から入る。

中央にある仙保神社跡の碑


南西の角に立って見渡す。



南側の正面入り口

入り口にあった、青梅市教育委員会の説明板

桜が咲いているときに来たかった。

【柚保葛(そまのほかつら)神社】
鎮座地:東京都青梅市藤橋2丁目
社号標

柚保神社は、もとは愛宕神社といい、元亀・天正年間(1570~91)に藤橋城主、平山重吉が城内鎮護のために祀ったといわれる。
徳川幕府から朱印地10石が与えられていた。明治6年に村社に列格、同43年、仙保神社と葛神社が合社した。大正年間に拝殿を新築し、本殿の覆舎を造った。
葛神社は、もとは牛頭天王社といい、同じく平山氏によって祀られた神社で、この地に鎮座していた。
幟を立てる柱の装飾に象(?)が。

一の鳥居(神明型)から参道が真っ直ぐに続く。

二の鳥居(両部鳥居)

手水舎

拝殿前の狛犬は新しいもの。

拝殿


祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、武聾槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、大直日神(おおながひのかみ)。
神紋は「流れ尾型右三つ巴」

本殿は、覆い屋に入っている。

本殿


袖扉(左)の彫刻:鳳凰に乗って笙を吹く仙人

袖扉(右)の彫刻:龍に乗って箏を弾く仙人

境内社(稲荷大神、豊受大神、秋葉大神、大物主大神、天照皇大神、日枝大神)

市指定の板碑、左は応安7(1374)年は阿弥陀三尊種子を刻み、右の板碑は建武4(1337)年。

多層塔の左に三基の石碑。

右が「大青面金剛」庚申塔(寛政5・1793年)、石橋7ケ所の供養塔です。

真ん中が「懐翁先生之碑」

左が「「南無阿弥陀仏八百萬遍塔」碑(天保11年 1840)

裏面には「登山63度大願成就」とあり、富士講の印が頭にあります。

左側には「奉拝礼百八十八箇所」とあり。

「南 八王子 江戸」、「西 青梅 御嶽」、「北 子権現 秩父」と道しるべになっている。

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今回は、阿須丘陵南側の裾を流れる霞川に沿って、青梅市・入間市内の寺社、城跡を訪ねました。
訪ねた史跡は、「今寺榎」、「常盤樹神社」、「報恩寺」、「藤橋城跡」、「柚保葛神社」、「宝泉寺」、「正福寺」、「薬王寺」、「今井城跡」、「三柱神社」、「瑞泉院」、「桂川神社」です。
ルート図

入間市駅から「河辺駅北口」行きのバスに乗り、「今寺榎」バス停で降ります。
【今寺榎 いまでらえのき】
今寺駐在所前信号の東北の角にあるエノキの大木は、青梅と川越を結ぶ川越街道の一里塚の榎です。

川越街道

立派な榎です。

草鞋やご幣が奉納されていました。

【常盤樹神社】
鎮座地:東京都青梅市今寺1-528
社号標

隣接して天台宗報恩寺があり、境内の掲示によれば、弘仁十三年(822)に延暦寺の亮海による開創といわれている。
旧格式:村社、報恩寺境内に鎮座してし)た熊野権現・山王権現・稲荷大明神・天満天神、常楽寺境内の若宮八幡宮を合祀して、明治2年(1869)植竹神社が創建され、翌年、境内に樫の老木がある事から常盤樹神社と改名された。
一の鳥居(神明型)

二の鳥居(両部鳥居)

鳥居に下げられている紙幣だが、角が全て丸く切られている特徴があった。

手水舎

拝殿前の狛犬は新しい感じだった。

拝殿




本殿覆屋

祭神:伊邪那美命(V)ざなみのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、熊野日樟命(くまのひぐすのみこと)、仁徳天皇(にんとくてんのう)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)、 大宮比売命(おおみやひめのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、菅原道真(すがわらのみちぎね)。
神紋は「左三つ巴」

【報恩寺】
所在地:東京都青梅市今寺1丁目540
入り口に石碑群があり。
右側

庚申待供養碑(享保7年 1722)

庚申塔


左側
光明真言塔(安政2年 1855)

馬頭観世音(安政2年 1855)

入り口から山門までの築地塀

山門

藤橋山正覚院。天台宗(青梅市内で唯一)。もと深大寺の末寺。本尊:阿弥陀如来。
寺伝に弘仁13年(822)に延暦寺の僧、亮海によって開創とある。天正年間(1573~1592)に平山越前守重吉(藤橋城主)によって再興された。天正19年(1591)10石の朱印状が与えられた。
境内

本堂前に「伝教大師」像

本堂
寛政9年(1797)に火災にあい、文化元年(1804)に再建。


地蔵堂
桃山時代の建築様式の特色を示す。永正9年(1512)の修理銘のある木造延命地蔵が安置され、胎内に当地方の豪族である勝沼城主・三田政定の和歌を墨書した短冊が納められている。「たのむぞよながく命をのぶる てふ 仏の御名を身にしたくへて 政定」。堂・像とも《市文化財》。

本堂の裏手に「報恩寺七福神」があり。

黄色と赤のマンサクが咲いていた。


本堂の右横に「道よせ地蔵(安永7年 1778)」
古老いわく「道おしえ地蔵」が訛ったのでは、との説あるが不詳。
道しるべでも台座に無いかと探したが、台座は後の新しいものらしくて、見当たらず。


その前に、「弘誓の船」

歴代住僧の境内墓所
貞和3年(1347)師承祐のため隆承が造立した板碑、延文2年(1357)隆承の供養に弟子たちが造立した板碑《2基とも市文化財》
コの字形に卵塔など住職などの墓が並び、奥に板碑が立っています。


貞和3年の板碑

延文2年の板碑

これが、「常盤樹神社」の名の元になった樫の老木の根元。

【藤橋城跡】
所在地:東京都青梅市藤橋
東西45m、南北55mの大きさの曲輪が残る。曲輪の周囲を土塁が一周している。曲輪の外側には空堀があった。
戦国時代のこの地域の有力土豪、平山氏、藤橋氏(本姓平山氏)の居館であったと言われる。
城跡中央に仙保神社跡の碑が建つ。
遠景

土塁がよくわかる。


北東側から入る。

中央にある仙保神社跡の碑


南西の角に立って見渡す。



南側の正面入り口

入り口にあった、青梅市教育委員会の説明板

桜が咲いているときに来たかった。

【柚保葛(そまのほかつら)神社】
鎮座地:東京都青梅市藤橋2丁目
社号標

柚保神社は、もとは愛宕神社といい、元亀・天正年間(1570~91)に藤橋城主、平山重吉が城内鎮護のために祀ったといわれる。
徳川幕府から朱印地10石が与えられていた。明治6年に村社に列格、同43年、仙保神社と葛神社が合社した。大正年間に拝殿を新築し、本殿の覆舎を造った。
葛神社は、もとは牛頭天王社といい、同じく平山氏によって祀られた神社で、この地に鎮座していた。
幟を立てる柱の装飾に象(?)が。

一の鳥居(神明型)から参道が真っ直ぐに続く。

二の鳥居(両部鳥居)

手水舎

拝殿前の狛犬は新しいもの。

拝殿


祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、武聾槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、大直日神(おおながひのかみ)。
神紋は「流れ尾型右三つ巴」

本殿は、覆い屋に入っている。

本殿


袖扉(左)の彫刻:鳳凰に乗って笙を吹く仙人

袖扉(右)の彫刻:龍に乗って箏を弾く仙人

境内社(稲荷大神、豊受大神、秋葉大神、大物主大神、天照皇大神、日枝大神)

市指定の板碑、左は応安7(1374)年は阿弥陀三尊種子を刻み、右の板碑は建武4(1337)年。

多層塔の左に三基の石碑。

右が「大青面金剛」庚申塔(寛政5・1793年)、石橋7ケ所の供養塔です。

真ん中が「懐翁先生之碑」

左が「「南無阿弥陀仏八百萬遍塔」碑(天保11年 1840)

裏面には「登山63度大願成就」とあり、富士講の印が頭にあります。

左側には「奉拝礼百八十八箇所」とあり。

「南 八王子 江戸」、「西 青梅 御嶽」、「北 子権現 秩父」と道しるべになっている。

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