蔵王権現/日本の神々の話
20150430
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の混淆宗教である修験道の本尊であるが、かって蔵王権現を祭った神社として、御嶽神社(みたけじんじゃ)などがあるので、民俗の神として入れておく。
明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などがある。
蔵王権現は、日本独自の混淆宗教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意[2]。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
縁起
蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。
尊容
蔵王権現の像容は密教の明王像と類似しており、激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのを通例とする。右手には三鈷杵を持ち左手は刀印を結び、左足は大地を力強く踏ん張って、右足は宙高く掲げられている。その背後には火炎が燃え盛る。図像上の最も顕著な特色は右足を高く上げていることで、このため、彫像の場合は左脚1本で像全体を支えることになるか、右脚をつっかえ棒で支えている。また単に高く掲げられたように見える右足は、実は虚空を踏んでいるのだという解釈もある。ただし、京都・広隆寺像のように両足を地に付けている像もある。
代表作として、鳥取県・三仏寺奥院(投入堂)の本尊像(平安時代、重文)が挙げられる。

姿形の意味
右手の三鈷杵は天魔を粉砕する相を示し、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣を示す。左足の踏みつけは地下の悪魔を押さえつけており、右足の蹴り上げは天地間の悪魔を払っている姿、背後の炎は大智慧をあらわしている。
歴史
役小角自体が伝説的な人物であり、蔵王権現像の製作が実際にいつ頃から始まったのかは判然としない。滋賀・石山寺には、本尊・如意輪観音の両脇侍として「金剛蔵王像」と「執金剛神像」が安置されていた。これらの像は、正倉院文書によれば天平宝字6年(762年)制作されたものであるが、正倉院文書には両脇侍の名称を「神王」としており、「金剛蔵王」の名称は平安時代の記録に初めて現れる。これらの像のオリジナルは現存していないが、「金剛蔵王像」の塑像の心木が現存しており、右手と右脚を高く上げた姿は、後世の蔵王権現像と似ている。
吉野から出土した、国宝の「鋳銅刻画蔵王権現像」(東京・西新井大師総持寺蔵)は、銅板に線刻で蔵王権現などの諸仏を表したもので、長保3年(1001年)銘があり、この頃までには蔵王権現の図像も確立していたことが分かる。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも多い。
また神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
青梅市の御嶽神社は、明治維新までは「御嶽蔵王権現」だったが、それを改め、明治7年(1874)御嶽神社の社号となり、更に昭和27年 (1952)、武蔵御嶽神社と改め現在に至っています。
現在の祭神は、櫛麻智命、大己貴命、少彦名命、日本武尊、安閑天皇となっている。
その他、金峰神社・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)があり、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂としている。
なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。
秩父御嶽神社(ちちぶおんたけじんじゃ)は、木曽御嶽神社を本社とするが、現在の祭神は、国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神となっている。
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明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などがある。
蔵王権現は、日本独自の混淆宗教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意[2]。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
縁起
蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。
尊容
蔵王権現の像容は密教の明王像と類似しており、激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのを通例とする。右手には三鈷杵を持ち左手は刀印を結び、左足は大地を力強く踏ん張って、右足は宙高く掲げられている。その背後には火炎が燃え盛る。図像上の最も顕著な特色は右足を高く上げていることで、このため、彫像の場合は左脚1本で像全体を支えることになるか、右脚をつっかえ棒で支えている。また単に高く掲げられたように見える右足は、実は虚空を踏んでいるのだという解釈もある。ただし、京都・広隆寺像のように両足を地に付けている像もある。
代表作として、鳥取県・三仏寺奥院(投入堂)の本尊像(平安時代、重文)が挙げられる。

姿形の意味
右手の三鈷杵は天魔を粉砕する相を示し、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣を示す。左足の踏みつけは地下の悪魔を押さえつけており、右足の蹴り上げは天地間の悪魔を払っている姿、背後の炎は大智慧をあらわしている。
歴史
役小角自体が伝説的な人物であり、蔵王権現像の製作が実際にいつ頃から始まったのかは判然としない。滋賀・石山寺には、本尊・如意輪観音の両脇侍として「金剛蔵王像」と「執金剛神像」が安置されていた。これらの像は、正倉院文書によれば天平宝字6年(762年)制作されたものであるが、正倉院文書には両脇侍の名称を「神王」としており、「金剛蔵王」の名称は平安時代の記録に初めて現れる。これらの像のオリジナルは現存していないが、「金剛蔵王像」の塑像の心木が現存しており、右手と右脚を高く上げた姿は、後世の蔵王権現像と似ている。
吉野から出土した、国宝の「鋳銅刻画蔵王権現像」(東京・西新井大師総持寺蔵)は、銅板に線刻で蔵王権現などの諸仏を表したもので、長保3年(1001年)銘があり、この頃までには蔵王権現の図像も確立していたことが分かる。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも多い。
また神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
青梅市の御嶽神社は、明治維新までは「御嶽蔵王権現」だったが、それを改め、明治7年(1874)御嶽神社の社号となり、更に昭和27年 (1952)、武蔵御嶽神社と改め現在に至っています。
現在の祭神は、櫛麻智命、大己貴命、少彦名命、日本武尊、安閑天皇となっている。
その他、金峰神社・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)があり、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂としている。
なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。
秩父御嶽神社(ちちぶおんたけじんじゃ)は、木曽御嶽神社を本社とするが、現在の祭神は、国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神となっている。
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狭山市「新茶と花いっぱいまつり」
20150429
4月29日に行われた、掲題の催しに行ってきました。
前日、参加している「古文書勉強会」で、歴史クラブの「茶の歴史研究グループ」が参加することを聞き、私も参加させてもらいました。
9:30に狭山市駅に待ち合わせ、会場の市役所まで歩いていきました。
市役所に到着、プログラムを入手。

茶摘み体験をしようと、列に並びます。
市役所の一角に、なんと茶畑があるんですね。
駐車場の横なので、いつも市役所に来た時に目にしていたはずなんですが、分かりませんでした(笑)

待っているときに、列を抜け出して、「狭山茶ばやし若茶」が踊っているのをちょっと見ました。

茶摘みがはじまり、篭を渡されて、茶を摘みはじめました。

気持ちのいい新緑です。
摘んだのを一つ食べてみました。甘味と苦味があり爽やかな味で美味しかった。
てんぷらにすると美味しいよ、と教わった。

皆さん、気持ちよさそうに摘んでいます。



けっこう摘みましたね。


茶摘み娘も、カメラマンにサービス(笑)

摘んだ茶は、BOXティシュと交換でした。
今度は市役所のホールで行われている、茶葉の手もみを見に行きました。



プロのお手本を見てから、手もみに挑戦。



庁舎のホールでは、野点てと琴の演奏をしていました。



野点ては、お煎茶です。

琴の演奏をしばらく聴きました。


外に出て、屋台を見て歩きます。

もちろん狭山茶のサービスもあり。



こちらでは、餅つきを。
お餅を販売していたので、安倍川もちを1パック購入。美味しかったですね。


環境市民ネットワークも出展していました。

ハッピ姿に惹かれて追いかけると、これから演奏です。
狭山けやきの会の和太鼓演奏でした。




とても良かったので、最後の三曲目を動画で撮りました。
下をクリックして動画を楽しんでください。
動画を観る
(了)
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前日、参加している「古文書勉強会」で、歴史クラブの「茶の歴史研究グループ」が参加することを聞き、私も参加させてもらいました。
9:30に狭山市駅に待ち合わせ、会場の市役所まで歩いていきました。
市役所に到着、プログラムを入手。

茶摘み体験をしようと、列に並びます。
市役所の一角に、なんと茶畑があるんですね。
駐車場の横なので、いつも市役所に来た時に目にしていたはずなんですが、分かりませんでした(笑)

待っているときに、列を抜け出して、「狭山茶ばやし若茶」が踊っているのをちょっと見ました。

茶摘みがはじまり、篭を渡されて、茶を摘みはじめました。

気持ちのいい新緑です。
摘んだのを一つ食べてみました。甘味と苦味があり爽やかな味で美味しかった。
てんぷらにすると美味しいよ、と教わった。

皆さん、気持ちよさそうに摘んでいます。



けっこう摘みましたね。


茶摘み娘も、カメラマンにサービス(笑)

摘んだ茶は、BOXティシュと交換でした。
今度は市役所のホールで行われている、茶葉の手もみを見に行きました。



プロのお手本を見てから、手もみに挑戦。



庁舎のホールでは、野点てと琴の演奏をしていました。



野点ては、お煎茶です。

琴の演奏をしばらく聴きました。


外に出て、屋台を見て歩きます。

もちろん狭山茶のサービスもあり。



こちらでは、餅つきを。
お餅を販売していたので、安倍川もちを1パック購入。美味しかったですね。


環境市民ネットワークも出展していました。

ハッピ姿に惹かれて追いかけると、これから演奏です。
狭山けやきの会の和太鼓演奏でした。




とても良かったので、最後の三曲目を動画で撮りました。
下をクリックして動画を楽しんでください。
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(了)
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筑波山神社(延喜式内社)/茨城県つくば市
20150428
鎮座地:茨城県つ<ば市筑波1-1
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社、鴨大神御子神主玉神社、大国玉神社に続いて参拝しました。この日最後の参拝社となります。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
大きな石垣の横を歩き、二の鳥居から入ります。

二の鳥居のところに「つくば道」の案内が。


古<からの参道は「つくば道」として知られる。つくば市北条を起点として拝殿に至る道で、その全区間が日本の道100選に選ばれている。
またこの参道の途中、6丁目には-の鳥居が立っている。この鳥居は宝暦9年(1759年)の造営で、以前は「天地開闢筑波神社」の額を掲げたという。この日は、一の鳥居はパスしている。
御神橋
切妻造小羽葺(こばぶき)屋根付、間口1間、奥行4間で、安土桃山時代の様式の反橋である。寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされ、元禄15年(1702年)に5代将軍徳川綱吉により改修された。春秋の御座替祭の際には、神輿と従者がここを渡る。参拝者の渡橋は通常禁止されており、春秋の御座替祭と2月の年越祭の時のみ許される。この神橋は茨城県指定文化財に指定されている。



社号標
式内社 常陸國筑波郡 筑波山神社二座 名神大、旧県社

関東平野北東部、茨城県南西に立つ筑波山を神体山として祀る神社であり、主要社殿は次の3箇所に形 成されている。
男体山本殿一西峰頂上(男体山くなんたいさん〉、標高871メートル)
女体山本殿一東峰頂上(女体山くにょたいさん〉、標高877メートル)
拝殿一山腹(標高270メートル)。両本殿を遥拝する
由緒:
創建は不詳。筑波山は『常陸国風土記』でも富士山と対照されるほどの山容を持っていることから、関東平野に人が住み始めた頃から崇められてきたともいわれる。
社伝(『筑波山縁起』)によると、『古事記』にある伊弉諾尊・伊弉冉尊による国産みで産み出された「おのころ島」が筑波山にあたるという。また『詞林采葉抄』(南北朝時代)では、筑波山は天照大神が降臨した神山であるともいい、文化年間(1804年-1818年)の『筑波山私記』でも同神の筑波から伊勢への遷座を伝える。
なお、現在の主要部は拝殿周辺にあるが、拝殿はあくまで明治8年(1875年)に中禅寺跡地に造営されたものである。そのため「元来の筑波山神社」とは「男体山頂両・女体山頂岡」を指すものとされる。
・第10代崇神天皇の御代(約2000年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。
・第12代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古事記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残っている。
・奈良時代の「萬葉集」には筑波の歌25首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかる。延喜式神名帳(927)で男神は明神大社、女神は小社に列した。
・中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主男八郎が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続いた。延暦元年(782)に法相宗の学僧・徳-(とくいつ)が、筑波山知足院中禅寺を開く。筑波山の御威光を借りて仏教を広めようと考えたと見られる。それ以降、明治の廃仏毀釈まで、筑波山神社のなかに仏教寺院がある神仏習合の形で、神と仏をともに祀った時代が長く続いた。
・江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じた。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となった。
手水舎(宝暦8年 1758)


随神門前の石段

特産新都之碑


随神門
間ロ5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である。古くは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光により寄進されたが、焼失を繰り返し、現在の楼門は、文化8年(1811年)の再建によるものである。神仏習合時代には「仁王門」として仁王像を安置したが、分離後は「随神門」とされ、拝殿向かって左側に倭建命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を安置する。この随神門はつ<ぱ市指定文化財に指定されている。


倭建命


豊木入日子命


内側に大御幣

筑波山頂境界確定記念碑

狛犬


拝殿
明治8年(1875年)の造営。この場所には明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)があったが、神仏分離で大御堂が廃された後に新たに建てられた。拝殿前には礎石が残り、中禅寺の寺勢をしのばせている。


大きな鈴

大正11年奉納の鉄製賽銭箱

ご祭神:
筑波男ノ神(つ<ばおのかみ、筑波男大神)一男体山の神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
筑波女ノ神(つくばめのかみ、筑波女大神)一女体山の神 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
筑波山は男休山・女体山からなる双耳峰で、その両峰にそれぞれ神があてられている。2峰が相並ぶ山容から、自然と男女2柱の祖神が祀られるようになったともいわれる。
拝殿周辺には門前町が形成され、当社の主要部を成している。ただし、明治以前の当地一帯は中禅寺を主とした仏教中心の霊地で、明治維新後に中禅寺が廃されるにあたって神社として復興し、拝殿が造営された。
神紋は「三つ葉葵」

摂社:稲村神社《天照大神》、安座常(あざとこ)神社《素箋鳴尊》、小原木(こはらぎ)神社《月読尊》、渡(わたり)神社《蛭子命(ひるこのみこと)》があるが、いずれも筑波山中の白雲橋コース沿いに鎮座しているため、この日は参拝せず。
末社は春日神社 厳島神社 天満宮 稲荷神社 住吉神社 猿田彦神社 等(21社、神社整理以前は100社以上あったという)あるが、大半は山中にあり、拝殿周辺にある以下のお社に参拝した。
春日神社・春日神社拝殿

春日神社・春日神社本殿



朝日稲荷神社



稲荷神社

境内にあった「さざれ石」

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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社、鴨大神御子神主玉神社、大国玉神社に続いて参拝しました。この日最後の参拝社となります。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
大きな石垣の横を歩き、二の鳥居から入ります。

二の鳥居のところに「つくば道」の案内が。


古<からの参道は「つくば道」として知られる。つくば市北条を起点として拝殿に至る道で、その全区間が日本の道100選に選ばれている。
またこの参道の途中、6丁目には-の鳥居が立っている。この鳥居は宝暦9年(1759年)の造営で、以前は「天地開闢筑波神社」の額を掲げたという。この日は、一の鳥居はパスしている。
御神橋
切妻造小羽葺(こばぶき)屋根付、間口1間、奥行4間で、安土桃山時代の様式の反橋である。寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされ、元禄15年(1702年)に5代将軍徳川綱吉により改修された。春秋の御座替祭の際には、神輿と従者がここを渡る。参拝者の渡橋は通常禁止されており、春秋の御座替祭と2月の年越祭の時のみ許される。この神橋は茨城県指定文化財に指定されている。



社号標
式内社 常陸國筑波郡 筑波山神社二座 名神大、旧県社

関東平野北東部、茨城県南西に立つ筑波山を神体山として祀る神社であり、主要社殿は次の3箇所に形 成されている。
男体山本殿一西峰頂上(男体山くなんたいさん〉、標高871メートル)
女体山本殿一東峰頂上(女体山くにょたいさん〉、標高877メートル)
拝殿一山腹(標高270メートル)。両本殿を遥拝する
由緒:
創建は不詳。筑波山は『常陸国風土記』でも富士山と対照されるほどの山容を持っていることから、関東平野に人が住み始めた頃から崇められてきたともいわれる。
社伝(『筑波山縁起』)によると、『古事記』にある伊弉諾尊・伊弉冉尊による国産みで産み出された「おのころ島」が筑波山にあたるという。また『詞林采葉抄』(南北朝時代)では、筑波山は天照大神が降臨した神山であるともいい、文化年間(1804年-1818年)の『筑波山私記』でも同神の筑波から伊勢への遷座を伝える。
なお、現在の主要部は拝殿周辺にあるが、拝殿はあくまで明治8年(1875年)に中禅寺跡地に造営されたものである。そのため「元来の筑波山神社」とは「男体山頂両・女体山頂岡」を指すものとされる。
・第10代崇神天皇の御代(約2000年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。
・第12代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古事記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残っている。
・奈良時代の「萬葉集」には筑波の歌25首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかる。延喜式神名帳(927)で男神は明神大社、女神は小社に列した。
・中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主男八郎が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続いた。延暦元年(782)に法相宗の学僧・徳-(とくいつ)が、筑波山知足院中禅寺を開く。筑波山の御威光を借りて仏教を広めようと考えたと見られる。それ以降、明治の廃仏毀釈まで、筑波山神社のなかに仏教寺院がある神仏習合の形で、神と仏をともに祀った時代が長く続いた。
・江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じた。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となった。
手水舎(宝暦8年 1758)


随神門前の石段

特産新都之碑


随神門
間ロ5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である。古くは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光により寄進されたが、焼失を繰り返し、現在の楼門は、文化8年(1811年)の再建によるものである。神仏習合時代には「仁王門」として仁王像を安置したが、分離後は「随神門」とされ、拝殿向かって左側に倭建命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を安置する。この随神門はつ<ぱ市指定文化財に指定されている。


倭建命


豊木入日子命


内側に大御幣

筑波山頂境界確定記念碑

狛犬


拝殿
明治8年(1875年)の造営。この場所には明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)があったが、神仏分離で大御堂が廃された後に新たに建てられた。拝殿前には礎石が残り、中禅寺の寺勢をしのばせている。


大きな鈴

大正11年奉納の鉄製賽銭箱

ご祭神:
筑波男ノ神(つ<ばおのかみ、筑波男大神)一男体山の神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
筑波女ノ神(つくばめのかみ、筑波女大神)一女体山の神 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
筑波山は男休山・女体山からなる双耳峰で、その両峰にそれぞれ神があてられている。2峰が相並ぶ山容から、自然と男女2柱の祖神が祀られるようになったともいわれる。
拝殿周辺には門前町が形成され、当社の主要部を成している。ただし、明治以前の当地一帯は中禅寺を主とした仏教中心の霊地で、明治維新後に中禅寺が廃されるにあたって神社として復興し、拝殿が造営された。
神紋は「三つ葉葵」

摂社:稲村神社《天照大神》、安座常(あざとこ)神社《素箋鳴尊》、小原木(こはらぎ)神社《月読尊》、渡(わたり)神社《蛭子命(ひるこのみこと)》があるが、いずれも筑波山中の白雲橋コース沿いに鎮座しているため、この日は参拝せず。
末社は春日神社 厳島神社 天満宮 稲荷神社 住吉神社 猿田彦神社 等(21社、神社整理以前は100社以上あったという)あるが、大半は山中にあり、拝殿周辺にある以下のお社に参拝した。
春日神社・春日神社拝殿

春日神社・春日神社本殿



朝日稲荷神社



稲荷神社

境内にあった「さざれ石」

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大国玉(おほくにたま)神社(延喜式内社)/茨城県桜川市
20150427
鎮座地:茨城県桜川市大国玉1
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社、鴨大神御子神主玉神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
入り口に鳥居と社号標。

社号標
式内社 常陸國眞壁郡 大國玉神社、旧郷社

由緒:
創建は不詳。社伝では養老年間(717-724年)の創建としている。一説に天長年中(824-834年)とも。
六国史及び延喜式神名帳に記載がある古社である。
続日本後紀 巻六。仁明天皇の代、承和4年(837年)3月、新治郡佐志能神とともに「眞壁郡大國玉神」として「並預官社。以比年特有靈驗也」(霊験甚だ大であったために官社に預る)とある。
巻十五。同12年(846年)、「奉授常陸國无位大國玉神從五位下」(従五位下を授けられた)。
日本三代実録 巻五。清和天皇の代、貞観3年(861年)9月、「授常陸國從五位下主玉神從五位上」(従五位上に昇叙)。
歴史書のうち、唯一日本三代実録は神名を「主玉神」としているが、この神が大國玉神と同一神であるかははっきりしない。茨城県内には「主玉神」の比定社を称する神社は3社存在するため(鉾田市の主石神社、桜川市の鴨大神御子神主玉神社)、日本三代実録の見在社としては論社である。
元禄12年11月(1699年)、水戸光圀公、四神の幡、日月の幡鉾を奉納。
明治6年4月(1872年)、郷社列格。
平成4年10月(1992年)、社殿改修。
鳥居にかかる注連縄が珍しいカタチである。

社殿前

説明板

祭礼で、「鍬の祭(鍬打祭)」と「さやど廻り祭」が珍しい。
狛犬


拝殿

社額

祭神:
主祭神:大国主命
配祀神:武甕槌命、別雷命
拝殿内部
水戸光圀公が奉納したという「四神の幡」、「日月の幡鉾」は見当たらない。
丁重に保管されているのだろう。

本殿



神紋は「右三つ巴」
鬼板の前に扇子のような飾り物。佐竹公との関係か。

大棟の、この飾りは紋だと思うが、私の持っている家紋帳では見当たらず。
何だろう?

摂社「青麻神社あおそじんじゃ」(天照大御神・月読神・天之御中主神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。)

摂社「七拾五柱神社(八百萬神集合社)」

后神社

境内には、小さな祠がいくつも並んでいるが、詳細は不明。





本殿裏手に、「御神木神代杉璽」碑があり。
その足元には随分昔に切られたであろう大きな切り株がありました。


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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社、鴨大神御子神主玉神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
入り口に鳥居と社号標。

社号標
式内社 常陸國眞壁郡 大國玉神社、旧郷社

由緒:
創建は不詳。社伝では養老年間(717-724年)の創建としている。一説に天長年中(824-834年)とも。
六国史及び延喜式神名帳に記載がある古社である。
続日本後紀 巻六。仁明天皇の代、承和4年(837年)3月、新治郡佐志能神とともに「眞壁郡大國玉神」として「並預官社。以比年特有靈驗也」(霊験甚だ大であったために官社に預る)とある。
巻十五。同12年(846年)、「奉授常陸國无位大國玉神從五位下」(従五位下を授けられた)。
日本三代実録 巻五。清和天皇の代、貞観3年(861年)9月、「授常陸國從五位下主玉神從五位上」(従五位上に昇叙)。
歴史書のうち、唯一日本三代実録は神名を「主玉神」としているが、この神が大國玉神と同一神であるかははっきりしない。茨城県内には「主玉神」の比定社を称する神社は3社存在するため(鉾田市の主石神社、桜川市の鴨大神御子神主玉神社)、日本三代実録の見在社としては論社である。
元禄12年11月(1699年)、水戸光圀公、四神の幡、日月の幡鉾を奉納。
明治6年4月(1872年)、郷社列格。
平成4年10月(1992年)、社殿改修。
鳥居にかかる注連縄が珍しいカタチである。

社殿前

説明板

祭礼で、「鍬の祭(鍬打祭)」と「さやど廻り祭」が珍しい。
狛犬


拝殿

社額

祭神:
主祭神:大国主命
配祀神:武甕槌命、別雷命
拝殿内部
水戸光圀公が奉納したという「四神の幡」、「日月の幡鉾」は見当たらない。
丁重に保管されているのだろう。

本殿



神紋は「右三つ巴」
鬼板の前に扇子のような飾り物。佐竹公との関係か。

大棟の、この飾りは紋だと思うが、私の持っている家紋帳では見当たらず。
何だろう?

摂社「青麻神社あおそじんじゃ」(天照大御神・月読神・天之御中主神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。)

摂社「七拾五柱神社(八百萬神集合社)」

后神社

境内には、小さな祠がいくつも並んでいるが、詳細は不明。





本殿裏手に、「御神木神代杉璽」碑があり。
その足元には随分昔に切られたであろう大きな切り株がありました。


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鎮座地:茨城県桜川市加茂部明神山694
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
田畑の中、森に鎮座しています。

宮司さんが案内してくださった。

式内社 常陸國新治郡 鴨大神御子神主玉神社、旧郷社
由緒・沿革:
・常陸国新治都三座の- 延書式内小社 京都の賀茂と大和の葛城鴨より両系合祀
神社から勧請されたと伝えられている。
・嘉祥3年(851)6月官社に列す(文徳実録)
・貞観3年(862)9月、従五位下より従五位上に、正一位に進み式内小社に列する (三代実録)
・寛平9年(898)、臨時祭、以後数度の勅使あり
・康平5年(1064)、源頼義、勅命を奉じて安部貞任討伐の戦勝祈願
・康平6年(1065)6月、源頼義、大任を果たし社殿修営
・応永21年(1415)、宍戸城主宍戸四郎義利社殿修営
・文和3年(1354)9月、後醍醐天皇以来、来迎院舜円等の尽力により大般若経六百巻が揃う。(県の指定文化財)
・永禄12年(1563)、佐竹義重社殿修営、以来佐竹氏の崇敬を受け、本殿現在に至る
・明治6年(1873)、村社に列格
・明治12年(1879)、郷社に列格
これは二の鳥居の「生鳥居」

生鳥居(いきとりい)というのは、昔、鴨神社の山の奥に山姥が住んでいて、子供達や村人に悪さをしていた。康平年間源頼義公、勅命により安部貞仁討伐の時、山姥を成敗し、首を切り、竹の枝に首を刺し鳥居に掛けて見せしめにした。村人たちは大神の鳥居が穢れたことと怨念を恐れ鳥居を取り壊し現在のところに杉の木を植え、注連縄を掛けて生鳥居としている。
今も、氏子の家々では、竹には怨念があるとして竹を植えることを嫌い、竹を植えると家が潰れるという言い伝えがあり、現在でも竹を植えない習慣がある。
石段を上がると社殿があり。

手水盤

社殿周囲

年中行事を見ると、他では見られない祭りあり。
神が出雲から帰った「お目覚め祭り」は十七日。出雲に行ったため暗いので「お休み祭り」は大晦日。

狛犬


拝殿


社額

御祭神は主玉神
配祀神は太田田根子と別雷神
賀茂(鴨・加茂)と表記する神社は祭神によって二系統に大別される。
一つが京都の賀茂(祭神「別雷神)を本社と仰ぐ全国各地の同名神社で、祭神を同じくしている。
賀茂神社については、神社・祭神とも既に何度も説明あり省略する。
祭神太田田根子は、日本古代における伝説的存在、『古事記』では意富多多泥古とある。『日本書紀』によると、崇神天皇時代、国家がうまく治まらなかった時、大物主神(大和の大神神社の祭神)が天皇の夢に現れて、わが児大田田根子をして吾を祭らしめたならばたちどころに天下が治まったとある。この太田田板子こそはのちの三輪君の祖先にあたるという。
『古事記』崇神天皇段に類似の記事が見え、意富多多泥古を神(みわ)君・鴨の祖であるとしている。
このように、賀茂の別の系統は、大和の葛城地方を本拠として祀られており、この地が賀茂氏の本貫であるとする説、これを葛城鴨といって山城賀茂と区別している。よって「鴨大神御子神主玉神社は、両系合祀神社より御分霊の御社であると思われる。
本殿




脇障子に「大幣」の彫刻は珍しい。

本殿背面

神紋は「右三つ巴」と「日の丸五本骨扇」
当社は佐竹氏にゆかりの神社で、佐竹氏の紋が「日の丸五本骨扇」



説明して下さった宮司さんの話では、神紋は元々は葵で、その祭りである葵祭りを行っていた。江戸期初期に恐れ多いということで三つ巴にし、葵祭りも取りやめた。今でも元宮司宅に葵神紋を保管してあるそうです。
この場合の「葵神紋」というのは、「賀茂葵」のこと。
摂社・鹿島神社

摂社・日枝神社

以下は末社
八幡神社

金比羅神社

春日神社

不明
情報では、大杉神社、天満大神、白山神社、稲荷神社があるらしい。



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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社、稲田神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
田畑の中、森に鎮座しています。

宮司さんが案内してくださった。

式内社 常陸國新治郡 鴨大神御子神主玉神社、旧郷社
由緒・沿革:
・常陸国新治都三座の- 延書式内小社 京都の賀茂と大和の葛城鴨より両系合祀
神社から勧請されたと伝えられている。
・嘉祥3年(851)6月官社に列す(文徳実録)
・貞観3年(862)9月、従五位下より従五位上に、正一位に進み式内小社に列する (三代実録)
・寛平9年(898)、臨時祭、以後数度の勅使あり
・康平5年(1064)、源頼義、勅命を奉じて安部貞任討伐の戦勝祈願
・康平6年(1065)6月、源頼義、大任を果たし社殿修営
・応永21年(1415)、宍戸城主宍戸四郎義利社殿修営
・文和3年(1354)9月、後醍醐天皇以来、来迎院舜円等の尽力により大般若経六百巻が揃う。(県の指定文化財)
・永禄12年(1563)、佐竹義重社殿修営、以来佐竹氏の崇敬を受け、本殿現在に至る
・明治6年(1873)、村社に列格
・明治12年(1879)、郷社に列格
これは二の鳥居の「生鳥居」

生鳥居(いきとりい)というのは、昔、鴨神社の山の奥に山姥が住んでいて、子供達や村人に悪さをしていた。康平年間源頼義公、勅命により安部貞仁討伐の時、山姥を成敗し、首を切り、竹の枝に首を刺し鳥居に掛けて見せしめにした。村人たちは大神の鳥居が穢れたことと怨念を恐れ鳥居を取り壊し現在のところに杉の木を植え、注連縄を掛けて生鳥居としている。
今も、氏子の家々では、竹には怨念があるとして竹を植えることを嫌い、竹を植えると家が潰れるという言い伝えがあり、現在でも竹を植えない習慣がある。
石段を上がると社殿があり。

手水盤

社殿周囲

年中行事を見ると、他では見られない祭りあり。
神が出雲から帰った「お目覚め祭り」は十七日。出雲に行ったため暗いので「お休み祭り」は大晦日。

狛犬


拝殿


社額

御祭神は主玉神
配祀神は太田田根子と別雷神
賀茂(鴨・加茂)と表記する神社は祭神によって二系統に大別される。
一つが京都の賀茂(祭神「別雷神)を本社と仰ぐ全国各地の同名神社で、祭神を同じくしている。
賀茂神社については、神社・祭神とも既に何度も説明あり省略する。
祭神太田田根子は、日本古代における伝説的存在、『古事記』では意富多多泥古とある。『日本書紀』によると、崇神天皇時代、国家がうまく治まらなかった時、大物主神(大和の大神神社の祭神)が天皇の夢に現れて、わが児大田田根子をして吾を祭らしめたならばたちどころに天下が治まったとある。この太田田板子こそはのちの三輪君の祖先にあたるという。
『古事記』崇神天皇段に類似の記事が見え、意富多多泥古を神(みわ)君・鴨の祖であるとしている。
このように、賀茂の別の系統は、大和の葛城地方を本拠として祀られており、この地が賀茂氏の本貫であるとする説、これを葛城鴨といって山城賀茂と区別している。よって「鴨大神御子神主玉神社は、両系合祀神社より御分霊の御社であると思われる。
本殿




脇障子に「大幣」の彫刻は珍しい。

本殿背面

神紋は「右三つ巴」と「日の丸五本骨扇」
当社は佐竹氏にゆかりの神社で、佐竹氏の紋が「日の丸五本骨扇」



説明して下さった宮司さんの話では、神紋は元々は葵で、その祭りである葵祭りを行っていた。江戸期初期に恐れ多いということで三つ巴にし、葵祭りも取りやめた。今でも元宮司宅に葵神紋を保管してあるそうです。
この場合の「葵神紋」というのは、「賀茂葵」のこと。
摂社・鹿島神社

摂社・日枝神社

以下は末社
八幡神社

金比羅神社

春日神社

不明
情報では、大杉神社、天満大神、白山神社、稲荷神社があるらしい。



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足柄之坂本神(あしがらのさかもとのかみ)/日本の神々の話
20150425
倭建命の東征のおりに登場する神々の一柱。
倭建命が足柄峠の頂上で、弟橋比売を思い起こし、「吾妻はや」と長歎息したという話の前後のことである。
命は足柄山の坂本というところに到着した。ここは東海道の古道で、のちにいう足柄道の宿場であり、現在は神奈川県南足柄市関本にあたる。一行がここで食事をしていると、一匹の白鹿が寄ってきた。命はそばにまつわる白鹿を、食べかけていた山蒜の片端で打ちつけた。これが白鹿の目にあたり、その場で死んだが、実はこの白鹿は足柄山の神(坂の神と『古事記』には書かれている)の化身であった。
(足柄山の神とはその地の酋長だろう、と「日本の神様読み解き事典」では解釈している。)
そしてその坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と仰せられた。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。
命は、この地を発って甲斐国に向かった。そして酒折宮で泊まったときのことである。
命はいささかの疲れと寂莫を感じつつ、
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
と詠われた。そのとき、篝火を焚いて夜警に任じていた一人の翁が、
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と即座に次いだ。
命はこの美事な対応をことのほか歓び、翁を東国造にした、と『古事記』にある。
一方で、神奈川県南足柄市苅野にある足柄神社の社伝によると、
「日本武尊が足柄峠を越えようとしたとき、樹木や草が生い茂り、前に進むことが出来ず、道に迷っているときに、白鹿が導くように尊の前方を走ったので、その白鹿に従って進み、ついに難所の足柄峠を越えることができたといい、この白鹿は神霊の化身と考え待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている」とある。
但し、このお宮の祭神は瓊瓊杵尊と日本武尊である。
『古事記』では、日本武尊に抵抗した神となっているが、地元のお宮の社伝では日本武尊を助けた良い神となっている。
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倭建命が足柄峠の頂上で、弟橋比売を思い起こし、「吾妻はや」と長歎息したという話の前後のことである。
命は足柄山の坂本というところに到着した。ここは東海道の古道で、のちにいう足柄道の宿場であり、現在は神奈川県南足柄市関本にあたる。一行がここで食事をしていると、一匹の白鹿が寄ってきた。命はそばにまつわる白鹿を、食べかけていた山蒜の片端で打ちつけた。これが白鹿の目にあたり、その場で死んだが、実はこの白鹿は足柄山の神(坂の神と『古事記』には書かれている)の化身であった。
(足柄山の神とはその地の酋長だろう、と「日本の神様読み解き事典」では解釈している。)
そしてその坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と仰せられた。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。
命は、この地を発って甲斐国に向かった。そして酒折宮で泊まったときのことである。
命はいささかの疲れと寂莫を感じつつ、
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
と詠われた。そのとき、篝火を焚いて夜警に任じていた一人の翁が、
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と即座に次いだ。
命はこの美事な対応をことのほか歓び、翁を東国造にした、と『古事記』にある。
一方で、神奈川県南足柄市苅野にある足柄神社の社伝によると、
「日本武尊が足柄峠を越えようとしたとき、樹木や草が生い茂り、前に進むことが出来ず、道に迷っているときに、白鹿が導くように尊の前方を走ったので、その白鹿に従って進み、ついに難所の足柄峠を越えることができたといい、この白鹿は神霊の化身と考え待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている」とある。
但し、このお宮の祭神は瓊瓊杵尊と日本武尊である。
『古事記』では、日本武尊に抵抗した神となっているが、地元のお宮の社伝では日本武尊を助けた良い神となっている。
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御代田一里塚のしだれ桜
20150424
所在地:長野県北佐久郡御代田町御代田字一里塚
枝垂れ桜
樹齢:不明(300年くらい)
撮影日:2015年4月23日
江戸幕府が江戸日本橋を基点として築かせた一里塚。その中山道41番目がこの御代田一里塚で、西塚、東塚が対をなし、西塚に桜の巨木が植えられている。
昔は東塚と西塚の間に旧中山道があったのでしょうが、中山道は寛永12(1635)年に改修されて、道が東に移ったとのことです。
昨年、この桜の事を知り5月4日に訪ねました。
ネットで下調べの時に混同したのは、「御代田の一里塚」と「馬瀬口の一里塚」が登場したのだが、馬瀬口も御代田町の中なので、同じものを違う呼び方をしているのだと思ってしまい、馬瀬口の一里塚の地図を用意してしまって、ここにたどり着くのに大変な思いをしました。
信濃追分の「追分分け去れ」で北国街道と中山道が分かれた直後なので、同じ御代田町に一里塚が二か所にあるんですね。
中山道にあるのが「御代田の一里塚」、北国街道にあるのが「馬瀬口の一里塚」であった(笑)
しかも、昨年訪ねたときには、既に花が散ったあとでした。
それで今年は、もっと早目に来たのですが、5分咲きくらいと、ちょっと早すぎました(泣)
遠い場所の桜を訪ねるのは難しいです。
近くに車を置いて、南から入っていきます。ちょうど向う側に浅間山が見えます。


一里塚の説明

まずは全景を、南側から。

東側からだと完全に逆光です。

西側から

南側からの幹

西側からの幹

ふり仰ぎます。




南側に伸びた枝が勢いがいい。


勢いよく延びる枝


五分咲きくらいで、まだつぼみも目立ちます。





枝垂れらしい枝

浅間山と

塚の廻りに色々な花を植えている。




桜に満足して、帰りがてら、近くの旧御代田駅跡を見た。
桜が満開だった。


そこには、一両のデゴイチが置かれています。




旧御代田駅はスイッチバックの駅として有名で、私は小学生のときに遠足で一時間くらい歩いて、スイッチバックを見にきました。
群馬県側の横川駅から、アブト式(歯車を利用した滑り止め)で一気に長野県側の軽井沢まで上り、そこから再び碓氷峠ほど急勾配でないにしろ、結構な勾配を小諸に向けて駆け下りてくるのです。昔の重たい蒸気機関車では止まっていられない勾配というわけで、スイッチバック方式で駅を設けました。
この駅に停車する列車は、水平に設置された分岐レールによって駅に入っていき停車しました。
東京からきた列車は駅に入っていき停車し、客が乗降後バックで発車していき、本線に乗ったら停車。そののち小諸方向に走っていったのです。
現在は複線化され、電車・機関車の性能も向上した為に、スイッチバックは廃止。駅も本線上に移設されました。
元の駅やホームは撤去され、スイッチバックの跡も消えてしまいました。
しばらく前までは、それでも元の駅の場所まで引き込み線のレールが残っていたようです。
いまは、引き込み線のレールはありませんが、痕跡を探していたら、なんと分岐ポイントだけは残してありました(嬉)
かなり急カーブに見えるのは、望遠で撮っているため遠近方向のみ圧縮されているからです。


櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
枝垂れ桜
樹齢:不明(300年くらい)
撮影日:2015年4月23日
江戸幕府が江戸日本橋を基点として築かせた一里塚。その中山道41番目がこの御代田一里塚で、西塚、東塚が対をなし、西塚に桜の巨木が植えられている。
昔は東塚と西塚の間に旧中山道があったのでしょうが、中山道は寛永12(1635)年に改修されて、道が東に移ったとのことです。
昨年、この桜の事を知り5月4日に訪ねました。
ネットで下調べの時に混同したのは、「御代田の一里塚」と「馬瀬口の一里塚」が登場したのだが、馬瀬口も御代田町の中なので、同じものを違う呼び方をしているのだと思ってしまい、馬瀬口の一里塚の地図を用意してしまって、ここにたどり着くのに大変な思いをしました。
信濃追分の「追分分け去れ」で北国街道と中山道が分かれた直後なので、同じ御代田町に一里塚が二か所にあるんですね。
中山道にあるのが「御代田の一里塚」、北国街道にあるのが「馬瀬口の一里塚」であった(笑)
しかも、昨年訪ねたときには、既に花が散ったあとでした。
それで今年は、もっと早目に来たのですが、5分咲きくらいと、ちょっと早すぎました(泣)
遠い場所の桜を訪ねるのは難しいです。
近くに車を置いて、南から入っていきます。ちょうど向う側に浅間山が見えます。


一里塚の説明

まずは全景を、南側から。

東側からだと完全に逆光です。

西側から

南側からの幹

西側からの幹

ふり仰ぎます。




南側に伸びた枝が勢いがいい。


勢いよく延びる枝


五分咲きくらいで、まだつぼみも目立ちます。





枝垂れらしい枝

浅間山と

塚の廻りに色々な花を植えている。




桜に満足して、帰りがてら、近くの旧御代田駅跡を見た。
桜が満開だった。


そこには、一両のデゴイチが置かれています。




旧御代田駅はスイッチバックの駅として有名で、私は小学生のときに遠足で一時間くらい歩いて、スイッチバックを見にきました。
群馬県側の横川駅から、アブト式(歯車を利用した滑り止め)で一気に長野県側の軽井沢まで上り、そこから再び碓氷峠ほど急勾配でないにしろ、結構な勾配を小諸に向けて駆け下りてくるのです。昔の重たい蒸気機関車では止まっていられない勾配というわけで、スイッチバック方式で駅を設けました。
この駅に停車する列車は、水平に設置された分岐レールによって駅に入っていき停車しました。
東京からきた列車は駅に入っていき停車し、客が乗降後バックで発車していき、本線に乗ったら停車。そののち小諸方向に走っていったのです。
現在は複線化され、電車・機関車の性能も向上した為に、スイッチバックは廃止。駅も本線上に移設されました。
元の駅やホームは撤去され、スイッチバックの跡も消えてしまいました。
しばらく前までは、それでも元の駅の場所まで引き込み線のレールが残っていたようです。
いまは、引き込み線のレールはありませんが、痕跡を探していたら、なんと分岐ポイントだけは残してありました(嬉)
かなり急カーブに見えるのは、望遠で撮っているため遠近方向のみ圧縮されているからです。


櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
木俣神(きのまたのかみ)・御井神(みいのかみ)/日本の神々の話
20150421
大穴牟遅神が因幡の八上比売に生ませた神である。
『古事記』では、因幡の八上比売に兄弟の八十神が求婚しに行くときに大穴牟遅神も連れていかれ、途中因幡の白兎を助けたりする。そして、八上比売は大穴牟遅神を選ぶ。
八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、大穴牟遅神が須佐之男命の娘須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神という。
一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されている。
古代、木の二股には新たな霊魂を発生させる機能があったと信じられていた。
木俣神(御井神)を祭神とする神社として、「御井神社」が各地にある。
富士山本宮浅間大社の境内社、水屋神社にも祀られている。
また、京都府亀岡市大井町にある大井神社(おおいじんじゃ)もまた、この神を祭神としている。
私は、水戸市飯富町にある同名の大井神社に、「関八州式内社めぐり」で常陸の国を廻っていて、今年の2月27日にお参りした。
この神社の祭神は木俣神(御井神)ではないのだが、この神社での民間信仰で「木俣神信仰」を確かに見た。



単なる偶然かも知れないが、不思議である。
常陸の国式内社「大井神社」の記事を読む
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『古事記』では、因幡の八上比売に兄弟の八十神が求婚しに行くときに大穴牟遅神も連れていかれ、途中因幡の白兎を助けたりする。そして、八上比売は大穴牟遅神を選ぶ。
八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、大穴牟遅神が須佐之男命の娘須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神という。
一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されている。
古代、木の二股には新たな霊魂を発生させる機能があったと信じられていた。
木俣神(御井神)を祭神とする神社として、「御井神社」が各地にある。
富士山本宮浅間大社の境内社、水屋神社にも祀られている。
また、京都府亀岡市大井町にある大井神社(おおいじんじゃ)もまた、この神を祭神としている。
私は、水戸市飯富町にある同名の大井神社に、「関八州式内社めぐり」で常陸の国を廻っていて、今年の2月27日にお参りした。
この神社の祭神は木俣神(御井神)ではないのだが、この神社での民間信仰で「木俣神信仰」を確かに見た。



単なる偶然かも知れないが、不思議である。
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稲田神社(延書式内社)/茨城県笠間市稲田
20150420
鎮座地:茨城県笠間市稲田763
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
入り口に一の鳥居と社号標があり。

社号標
式内社 常陸國新治郡 稻田神社、旧県社

由緒:
創建は不詳、江戸時代の「稲田姫宮神社縁起」によると、当地に住む邑長武持の家主が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに-人の女が現れた。家主の知らせで、武持が尋ねると「自分は奇稲田姫でこの地の地主神である、わが父母の宮、夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作りまつれ」と神託を下した。
当社の北西300メートルの稲田山中腹には本宮が鎮座するが、祠の左手には巨石が突き出ており、稲田姫が降臨した盤座と伝えられる。当社には、ヤマタノオロチに追われた稲田姫が茶の根こつまずき、松の葉で眼を傷めたと云う伝承から眼病が治るという信仰がある。そのため、境内には茶と松は植えず、氏子の家にも松がなく、門松も立てず茶を絶つという。なお当社の北、八瓶山にはヤマタノオロチが棲んでいたと伝えられる。
鎌倉時代初期、領主の笠間時朝が藤原光俊・泰親ら8人を招いて奉納歌会を催しており、「宇都宮新和歌集」にその歌の記載がある。
室町末期、兵火により社殿を焼失、慶長7年(1602)伊奈忠次が再建、末文8年(1668)藩主の井上正利が除地4石を与えた。元禄7年(1694)に徳川光圀が当社に参詣、古社の衰徴を嘆き縁起等を奉納した。
社殿は弘化2年(1845)に焼失し、嘉永元年(1848)再建された。
ここで注目されるのは「眼を痛めた」という伝説である。関西で多いのが「天目一箇神」、私の住んでいる辺では坂戸に「一目連神社の石碑」がある。いずれも製鉄に関する神で、古代は鉄の温度を肉眼で判断しなければならず、そのため目を傷めてしまうことがこの神が生まれたと言われる。
ヤマタノオロチも、砂鉄で色が付いた暴れ川から生まれたものだと言われる。
参道が真っ直ぐ延びる。

途中、「稲田尋常高等小学校の校歌」碑があり。
このお宮の祭神を歌いこんでいる。


石段の途中に社号標があり、石段を上がりきったところに二の鳥居。

社号標と件指定文化財「四神旗」の表示
四神旗は、徳川光圀が元禄11年(1698)に奉納したもの。

手水舎

境内から、足元の村をみる。

社殿の右に広い広場があり、拝殿、本殿があり、本殿の右に八雲神社があり。

拝殿



主祭神:奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
合祀神:布都主神、菅原道真公、大山祇命、大日孁貴命、(おおひるめむちのみこと=天照大御神の別名)
本殿




神紋は「右三つ巴」と「抱き稲」だが、「抱き稲」は手水舎の水盤で確認できたのみ。


境内社です。
手摩乳神社(てなづちじんじゃ)、祭神:手摩乳命

脚摩乳神社(あしなづちじんじゃ)、祭神;脚摩乳命

八雲神社、本殿の右隣に鎮座
祭神;素養鴫命

大山祇神社
祭神;大山祇命


神明社、秋葉神社、稲荷神社と思われる。

天満宮

忠魂碑
銃弾の形である。


ご神木

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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社、笠間稲荷神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
入り口に一の鳥居と社号標があり。

社号標
式内社 常陸國新治郡 稻田神社、旧県社

由緒:
創建は不詳、江戸時代の「稲田姫宮神社縁起」によると、当地に住む邑長武持の家主が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに-人の女が現れた。家主の知らせで、武持が尋ねると「自分は奇稲田姫でこの地の地主神である、わが父母の宮、夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作りまつれ」と神託を下した。
当社の北西300メートルの稲田山中腹には本宮が鎮座するが、祠の左手には巨石が突き出ており、稲田姫が降臨した盤座と伝えられる。当社には、ヤマタノオロチに追われた稲田姫が茶の根こつまずき、松の葉で眼を傷めたと云う伝承から眼病が治るという信仰がある。そのため、境内には茶と松は植えず、氏子の家にも松がなく、門松も立てず茶を絶つという。なお当社の北、八瓶山にはヤマタノオロチが棲んでいたと伝えられる。
鎌倉時代初期、領主の笠間時朝が藤原光俊・泰親ら8人を招いて奉納歌会を催しており、「宇都宮新和歌集」にその歌の記載がある。
室町末期、兵火により社殿を焼失、慶長7年(1602)伊奈忠次が再建、末文8年(1668)藩主の井上正利が除地4石を与えた。元禄7年(1694)に徳川光圀が当社に参詣、古社の衰徴を嘆き縁起等を奉納した。
社殿は弘化2年(1845)に焼失し、嘉永元年(1848)再建された。
ここで注目されるのは「眼を痛めた」という伝説である。関西で多いのが「天目一箇神」、私の住んでいる辺では坂戸に「一目連神社の石碑」がある。いずれも製鉄に関する神で、古代は鉄の温度を肉眼で判断しなければならず、そのため目を傷めてしまうことがこの神が生まれたと言われる。
ヤマタノオロチも、砂鉄で色が付いた暴れ川から生まれたものだと言われる。
参道が真っ直ぐ延びる。

途中、「稲田尋常高等小学校の校歌」碑があり。
このお宮の祭神を歌いこんでいる。


石段の途中に社号標があり、石段を上がりきったところに二の鳥居。

社号標と件指定文化財「四神旗」の表示
四神旗は、徳川光圀が元禄11年(1698)に奉納したもの。

手水舎

境内から、足元の村をみる。

社殿の右に広い広場があり、拝殿、本殿があり、本殿の右に八雲神社があり。

拝殿



主祭神:奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
合祀神:布都主神、菅原道真公、大山祇命、大日孁貴命、(おおひるめむちのみこと=天照大御神の別名)
本殿




神紋は「右三つ巴」と「抱き稲」だが、「抱き稲」は手水舎の水盤で確認できたのみ。


境内社です。
手摩乳神社(てなづちじんじゃ)、祭神:手摩乳命

脚摩乳神社(あしなづちじんじゃ)、祭神;脚摩乳命

八雲神社、本殿の右隣に鎮座
祭神;素養鴫命

大山祇神社
祭神;大山祇命


神明社、秋葉神社、稲荷神社と思われる。

天満宮

忠魂碑
銃弾の形である。


ご神木

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クローバーのフチ子/コップのフチ子さん
20150418
智光山の一本桜
20150418
所在地:埼玉県狭山市柏原561
ヤマザクラ、樹齢不明(若い)
撮影日:2011年4月15日
昨年、「桜行脚」の小冊子を作成したときにこの桜を入れたので、ウェブにも掲載していると思いこんでいました。
載せていないことに気付いたので、遅まきながら載せておきます。
まだ若い桜ですが、その佇まいには品があって、好きです。
総敷地面積53.8haという信じられない広さを持った「智光山公園」です。
大半が昔から残る雑木林です。
その一角に広い芝生の広場があり、そこに一本の桜が堂々と立っています。

横切っていったご夫婦。歩幅がよく合っていてすごい(笑)

満開の花


この桜の花びらか、それとも近くにたくさんのソメイヨシノがあるので、その花びらか。



芝生の縁にある紅枝垂れと一緒に。

この花も綺麗です。


近くのひょうたん池を、約200本のソメイヨシノが囲んでいて、もうだいぶ散っているので、池にたくさんの花びらが浮いている。


池の水の落とし口には沢山の花びらが。



櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
ヤマザクラ、樹齢不明(若い)
撮影日:2011年4月15日
昨年、「桜行脚」の小冊子を作成したときにこの桜を入れたので、ウェブにも掲載していると思いこんでいました。
載せていないことに気付いたので、遅まきながら載せておきます。
まだ若い桜ですが、その佇まいには品があって、好きです。
総敷地面積53.8haという信じられない広さを持った「智光山公園」です。
大半が昔から残る雑木林です。
その一角に広い芝生の広場があり、そこに一本の桜が堂々と立っています。

横切っていったご夫婦。歩幅がよく合っていてすごい(笑)

満開の花


この桜の花びらか、それとも近くにたくさんのソメイヨシノがあるので、その花びらか。



芝生の縁にある紅枝垂れと一緒に。

この花も綺麗です。


近くのひょうたん池を、約200本のソメイヨシノが囲んでいて、もうだいぶ散っているので、池にたくさんの花びらが浮いている。


池の水の落とし口には沢山の花びらが。



櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
笠間稲荷神社(番外)/茨城県笠間市笠間
20150417
鎮座地:茨城県笠間市笠間1
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社に続いて参拝しました。
ここは、式内社ではないのですが、せっかくだからというわけです。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
社号標
旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっています。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷とも言います。

真っ直ぐな参道の両側に仲見世があるのですが、この日は静かですね。

参道が終り、大きな楼門が見えます。

その前に手水舎で浄めます。

ここにも立派な彫刻が沢山あります。


これは「天の岩戸」で、岩戸が開いた瞬間ですね。

楼門の掲額「萬世泰平門」

楼門の外側には「櫛磐間戸神」「豊磐間戸神」が祀られています。



内側には二体の「神馬」の像が奉安されています。
白い馬と黒い馬で、古来から災いなど困ったことがあると、神さまに祈願する人のもとへ、除災招福のために天馬となって、天をかけて飛んで行き、災いを鎮めたと伝えられています。


拝殿





御祭神は宇迦之御魂神。
当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と伝えられています。
その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれています。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造で、昭和63年国の重要文化財に指定されています。
御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実に精巧を極めています。


海老虹梁の彫刻もすごいですね。

清浄な境内

拝殿向かって右手の二株の藤樹は樹齢四百年、茨城県の天然記念物。


境内社のうち、聖徳殿は聖徳太子が祀られているほか、大黒天、事比羅社が合殿にて祀られています

普通大黒天といえば俵の上に乗っていますが、それは元禄時代以降のお姿だそうです。
ここではくくり頭巾、狩衣姿で左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持った本来のお姿です。

境内からちょっと離れたところにある、大きな灯篭。

駆け足で回ったようなので、以前私が参拝したときの記事がありますので、そちらでも確認してください。
その記事を読む
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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社、羽梨山神社に続いて参拝しました。
ここは、式内社ではないのですが、せっかくだからというわけです。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
社号標
旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっています。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷とも言います。

真っ直ぐな参道の両側に仲見世があるのですが、この日は静かですね。

参道が終り、大きな楼門が見えます。

その前に手水舎で浄めます。

ここにも立派な彫刻が沢山あります。


これは「天の岩戸」で、岩戸が開いた瞬間ですね。

楼門の掲額「萬世泰平門」

楼門の外側には「櫛磐間戸神」「豊磐間戸神」が祀られています。



内側には二体の「神馬」の像が奉安されています。
白い馬と黒い馬で、古来から災いなど困ったことがあると、神さまに祈願する人のもとへ、除災招福のために天馬となって、天をかけて飛んで行き、災いを鎮めたと伝えられています。


拝殿





御祭神は宇迦之御魂神。
当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と伝えられています。
その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれています。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造で、昭和63年国の重要文化財に指定されています。
御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実に精巧を極めています。


海老虹梁の彫刻もすごいですね。

清浄な境内

拝殿向かって右手の二株の藤樹は樹齢四百年、茨城県の天然記念物。


境内社のうち、聖徳殿は聖徳太子が祀られているほか、大黒天、事比羅社が合殿にて祀られています

普通大黒天といえば俵の上に乗っていますが、それは元禄時代以降のお姿だそうです。
ここではくくり頭巾、狩衣姿で左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持った本来のお姿です。

境内からちょっと離れたところにある、大きな灯篭。

駆け足で回ったようなので、以前私が参拝したときの記事がありますので、そちらでも確認してください。
その記事を読む
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羽梨山(はなしやま)神社(延喜式内社)/茨城県笠間市
20150415
鎮座地:茨城県笠間市上郷3161(旧岩間町)
3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
バスを降りると、桃畑が広がっていた。


神社入り口

社号標
式内社 常陸國茨城郡 羽梨山神社、旧郷社

由緒:
創立年代は不詳。以下、社伝による。
①天智天皇3年略6心、山中に弼を建立という。さらに、大同元年如由、勅額を賜うと伝う。
②「三大実録」(六国史の第6番目、901年完成)に羽梨神とあり、貞観12年(870)8月28日、従五位下から 従五位上に、さらに、仁和元年(885)9月7日、正五位下を授けられたとある古社。往古は、羽梨山(現在の難台山く男体山〉553m)の中腹にあったが、慶長年間(1596~1614)現在地の熊野権現に合祀され、さらに羽梨山神社と改称された。
③日本武尊が東征の際、老翁・老婆が山菜を献じ、兵の飢渇を癒した。名を問うと、磐筒男・磐筒女であるといい、尊が凱旋の際、朝日丘の榊に羽々矢・果実を出して饗宴した。故に、朝日丘を羽梨山と称するようになったという。
④また、この山に桜が多く、春になると雪山のように白くなるところから花白山と呼ばれ、人びとは花の美しさに感嘆して山中に祠を建てて、木花咲耶姫命を祀り、花白山神社と称したといわれ、後に花志山、羽梨山へと変化したとも。
⑤また逆に、筑波山に葉が茂っているのに対し、この山に木がなかったため、羽梨山となったとも。
⑥延暦22年細分、坂上田村麻呂が陸奥征討を遂行し、神殿二宇を建立、寄進した。
⑦中世(1200年代)、宍戸家政が当社を崇敬し社殿を造営し、宍戸33郷の鎮守と定める。
⑧天文11年(154カ、兵火により社巌ことごとく焼失。この後、現在地に移転。
⑨寛文8年(166由、本殿および拝澱造営(棟札による)。
⑩延享4年(1747)、現社殿を造営。
なお、当社は式内社・羽梨山神社に比定されている神社だが、それを疑問とする説もあるので紹介。
『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が小田から出て羽梨之宮(当社)で軍勢を揃え、霞ケ浦を渡って小川に向かうとあり、小田から当社経由で霞ヶ浦を渡るのは、かなりの遠回りとなり無理がある。
よって、羽梨山神社は、小田から霞ヶ浦の間、石岡市南部か、かすみがうら市にあるとする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。
また、『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており村上・染谷の龍神社が、村上神&羽梨神なのかもしれないとも。
入り口に、神木の相生の杉を詠った碑があり。

入口には石の鳥居(元禄16年・1703年建立)が建ち、その前に狛犬。

手水舎

旧跡地記念碑建立記念碑
読むと、難台山(男体山)の中腹にあった旧跡地がゴルフ場になり消滅してしまうので、その地に旧跡地記念碑を建てたとあり。

拝殿の前に、石灯篭が4基あり。

拝殿


社額

「韓信の股くぐり」の奉納絵馬

拝殿内部

ご祭神は木花咲耶姫命。
本殿




神紋は「右三つ巴」

神木
本殿裏の樹齢500年を超える杉は市指定天然記念物。



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3月27日の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、夷針神社、染谷・佐志能神社に続いて参拝しました。
私は所用で参加できなかったので、この日の記事は例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
バスを降りると、桃畑が広がっていた。


神社入り口

社号標
式内社 常陸國茨城郡 羽梨山神社、旧郷社

由緒:
創立年代は不詳。以下、社伝による。
①天智天皇3年略6心、山中に弼を建立という。さらに、大同元年如由、勅額を賜うと伝う。
②「三大実録」(六国史の第6番目、901年完成)に羽梨神とあり、貞観12年(870)8月28日、従五位下から 従五位上に、さらに、仁和元年(885)9月7日、正五位下を授けられたとある古社。往古は、羽梨山(現在の難台山く男体山〉553m)の中腹にあったが、慶長年間(1596~1614)現在地の熊野権現に合祀され、さらに羽梨山神社と改称された。
③日本武尊が東征の際、老翁・老婆が山菜を献じ、兵の飢渇を癒した。名を問うと、磐筒男・磐筒女であるといい、尊が凱旋の際、朝日丘の榊に羽々矢・果実を出して饗宴した。故に、朝日丘を羽梨山と称するようになったという。
④また、この山に桜が多く、春になると雪山のように白くなるところから花白山と呼ばれ、人びとは花の美しさに感嘆して山中に祠を建てて、木花咲耶姫命を祀り、花白山神社と称したといわれ、後に花志山、羽梨山へと変化したとも。
⑤また逆に、筑波山に葉が茂っているのに対し、この山に木がなかったため、羽梨山となったとも。
⑥延暦22年細分、坂上田村麻呂が陸奥征討を遂行し、神殿二宇を建立、寄進した。
⑦中世(1200年代)、宍戸家政が当社を崇敬し社殿を造営し、宍戸33郷の鎮守と定める。
⑧天文11年(154カ、兵火により社巌ことごとく焼失。この後、現在地に移転。
⑨寛文8年(166由、本殿および拝澱造営(棟札による)。
⑩延享4年(1747)、現社殿を造営。
なお、当社は式内社・羽梨山神社に比定されている神社だが、それを疑問とする説もあるので紹介。
『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が小田から出て羽梨之宮(当社)で軍勢を揃え、霞ケ浦を渡って小川に向かうとあり、小田から当社経由で霞ヶ浦を渡るのは、かなりの遠回りとなり無理がある。
よって、羽梨山神社は、小田から霞ヶ浦の間、石岡市南部か、かすみがうら市にあるとする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。
また、『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており村上・染谷の龍神社が、村上神&羽梨神なのかもしれないとも。
入り口に、神木の相生の杉を詠った碑があり。

入口には石の鳥居(元禄16年・1703年建立)が建ち、その前に狛犬。

手水舎

旧跡地記念碑建立記念碑
読むと、難台山(男体山)の中腹にあった旧跡地がゴルフ場になり消滅してしまうので、その地に旧跡地記念碑を建てたとあり。

拝殿の前に、石灯篭が4基あり。

拝殿


社額

「韓信の股くぐり」の奉納絵馬

拝殿内部

ご祭神は木花咲耶姫命。
本殿




神紋は「右三つ巴」

神木
本殿裏の樹齢500年を超える杉は市指定天然記念物。



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染谷・佐志能(さしの)神社(延喜式内論社)/茨城県石岡市
20150414
鎮座地:茨城県石岡市染谷1856
入り口

説明板

式内社 常陸国新治郡 佐志能神社・染谷(論社)、旧郷社
佐志能神社には染谷佐志能神社と、村上佐志能神社の二社があり、共に龍神山の龍神(雨の神)を祀っています。染谷が「高おかみ」の神」(雌龍)、村上が「闇(くら)おかみ」の神(雄龍)です。
二社とも農耕に不可欠な「雨の神」を祀ることもあって、古くから付近の村人たちの信仰を集めていました。佐志能神社は本来「村上神社」と言う由緒正しい神社でありました。事の起こりは、大和国三輪山に伝わる蛇神伝説にあり。三輪の神を祀る「みわかみやま」から、「むらかみやま」に変わり、清らかな水が出る聖地として、奈良県吉野の丹生川上神社の上社の「高おかみ」、下社の「闇おかみ」この二神が祀られ、これに「子は清水」の伝説が伝わり古代、酒造りが行われ、現在もこの地が酒造りの町になっています。
ここ染谷村は、昔は村上村であったが何時の時か分村して染谷村が出来、(元禄検地の時は二村あった)。村上神社が染谷村の地域にあったので、村上村では別に一社を創立し、日本武尊と闇おかみ神を鎮斎しました。
この二社が鎮座している龍神山は二つの峰からなり、二つの峰の間には現在、採石場があり、山が削りとられてしまった状態です。南の低い峰の山麓には染谷佐志能神社があり、北の方の高い峰には村上佐志能神社があります。二社が龍神(水神)を祀っている所から雨乞いの社、慈雨をもたらす神として名高い所です。
承和4年(837)仁明天皇の時創建。
手水舎

「常陸風土記の丘」から北へ参道が延びています。

龍神山(164m)の南麓に境内入口の鳥居が建っている。

鳥居をくぐり、階段をしばらく登ると、磐座に鎮座した社殿があります。


拝殿


主祭神:豊城入彦命
配祀神:高龗神、国常立尊、大国主命、少彦名命、国狭槌命、豊斟渟命、猿田彦命、金山彦命、天日鷲命、武甕槌命。
境内案内板では、竜神山にある雨乞いの社としての来歴を重視し、祭神は高龗神とだけ紹介している。
配祀神のうち高龗神以外の9柱は神社整理による合祀神《三嶽神社(国常立尊、大国主命、少彦名命、金山彦命)、八海山神社(国狭槌命)、三笠山神社(豊斟渟命)、道祖神社(猿田彦命)、金刀比羅神社(大物主神)、鷲宮神社(天日鷲命)、鹿島神社(武甕槌命)》。
最初に載せた説明板にもあったが、「染谷十二座神楽」がある。
毎年四月十九日に祭礼があり、この時奉納される。四百年の歴史を持つと伝えられ、現在まで残っている数少ない「里神楽」の一つで、「市指定有形民俗文化財」となっている。
十二座には「豆まき」「種まき」などの舞があり、当時の主要産業であった農業と密接なかかわりがあることがわかる。
毎年9月の石岡まつりの時には総社宮でも披露される。
社殿の左手に屏風岩という岩がある。

伝説では、その屏風岩の「風神の穴」に指を入れると、雷鳴が鳴るまで抜けなくなってしまうという。
また夏になるとここから暗雲が沸き起こり、龍神が現れて雨を降らせると言われています。
風神の穴

滝水路の碑と流水穴跡
昔はここには滝のような水が流れていたという。
石碑は昭和27年に置かれたもの


拝殿向かって左の床下から本殿を見る。向かって右は崖である。

境内社

不動明王

不明石祠

「戦利品奉納の記」碑
神社石段下にあった。これは明治37,8年の日露戦争の戦利品を奉納したというもの。


参拝が終り、麓に降りてきて龍神山を仰ぐ。

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入り口

説明板

式内社 常陸国新治郡 佐志能神社・染谷(論社)、旧郷社
佐志能神社には染谷佐志能神社と、村上佐志能神社の二社があり、共に龍神山の龍神(雨の神)を祀っています。染谷が「高おかみ」の神」(雌龍)、村上が「闇(くら)おかみ」の神(雄龍)です。
二社とも農耕に不可欠な「雨の神」を祀ることもあって、古くから付近の村人たちの信仰を集めていました。佐志能神社は本来「村上神社」と言う由緒正しい神社でありました。事の起こりは、大和国三輪山に伝わる蛇神伝説にあり。三輪の神を祀る「みわかみやま」から、「むらかみやま」に変わり、清らかな水が出る聖地として、奈良県吉野の丹生川上神社の上社の「高おかみ」、下社の「闇おかみ」この二神が祀られ、これに「子は清水」の伝説が伝わり古代、酒造りが行われ、現在もこの地が酒造りの町になっています。
ここ染谷村は、昔は村上村であったが何時の時か分村して染谷村が出来、(元禄検地の時は二村あった)。村上神社が染谷村の地域にあったので、村上村では別に一社を創立し、日本武尊と闇おかみ神を鎮斎しました。
この二社が鎮座している龍神山は二つの峰からなり、二つの峰の間には現在、採石場があり、山が削りとられてしまった状態です。南の低い峰の山麓には染谷佐志能神社があり、北の方の高い峰には村上佐志能神社があります。二社が龍神(水神)を祀っている所から雨乞いの社、慈雨をもたらす神として名高い所です。
承和4年(837)仁明天皇の時創建。
手水舎

「常陸風土記の丘」から北へ参道が延びています。

龍神山(164m)の南麓に境内入口の鳥居が建っている。

鳥居をくぐり、階段をしばらく登ると、磐座に鎮座した社殿があります。


拝殿


主祭神:豊城入彦命
配祀神:高龗神、国常立尊、大国主命、少彦名命、国狭槌命、豊斟渟命、猿田彦命、金山彦命、天日鷲命、武甕槌命。
境内案内板では、竜神山にある雨乞いの社としての来歴を重視し、祭神は高龗神とだけ紹介している。
配祀神のうち高龗神以外の9柱は神社整理による合祀神《三嶽神社(国常立尊、大国主命、少彦名命、金山彦命)、八海山神社(国狭槌命)、三笠山神社(豊斟渟命)、道祖神社(猿田彦命)、金刀比羅神社(大物主神)、鷲宮神社(天日鷲命)、鹿島神社(武甕槌命)》。
最初に載せた説明板にもあったが、「染谷十二座神楽」がある。
毎年四月十九日に祭礼があり、この時奉納される。四百年の歴史を持つと伝えられ、現在まで残っている数少ない「里神楽」の一つで、「市指定有形民俗文化財」となっている。
十二座には「豆まき」「種まき」などの舞があり、当時の主要産業であった農業と密接なかかわりがあることがわかる。
毎年9月の石岡まつりの時には総社宮でも披露される。
社殿の左手に屏風岩という岩がある。

伝説では、その屏風岩の「風神の穴」に指を入れると、雷鳴が鳴るまで抜けなくなってしまうという。
また夏になるとここから暗雲が沸き起こり、龍神が現れて雨を降らせると言われています。
風神の穴

滝水路の碑と流水穴跡
昔はここには滝のような水が流れていたという。
石碑は昭和27年に置かれたもの


拝殿向かって左の床下から本殿を見る。向かって右は崖である。

境内社

不動明王

不明石祠

「戦利品奉納の記」碑
神社石段下にあった。これは明治37,8年の日露戦争の戦利品を奉納したというもの。


参拝が終り、麓に降りてきて龍神山を仰ぐ。

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速開都比売(はやあきつひめ)/日本の神々の話
20150413
神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになります。
なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。
『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
『延喜式』の原本(文亀3年(1503)写本⇒江戸城紅葉山文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館蔵)の該当する部分の画像を載せておきましょう。


速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
速開都比売は『古事記』では、「二神の神生み」のところで名前が出てきます。
伊邪那岐.伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。
この速秋津日子・速秋津比売の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝神と沫那美神、次に頰那藝神と頰那美神、次に天之水分神と国之水分神、次に天之久比奢母智神と国之久比奢母智神である。 沫那藝神より国之久比奢母智神まで、合わせて八神。
(以下省略)
なお、本居宣長は、『古事記』において伊邪那岐命が「禊祓」をする場面をとりあげて、
瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てていますが、当てているだけでその神と同一視されるほどのものではないとしています。
私はこの神に、三峰神社境内祓戸神社と阿伎留神社境内祓戸大神社にてお参りしました。
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なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。
『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
『延喜式』の原本(文亀3年(1503)写本⇒江戸城紅葉山文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館蔵)の該当する部分の画像を載せておきましょう。


速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
速開都比売は『古事記』では、「二神の神生み」のところで名前が出てきます。
伊邪那岐.伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。
この速秋津日子・速秋津比売の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝神と沫那美神、次に頰那藝神と頰那美神、次に天之水分神と国之水分神、次に天之久比奢母智神と国之久比奢母智神である。 沫那藝神より国之久比奢母智神まで、合わせて八神。
(以下省略)
なお、本居宣長は、『古事記』において伊邪那岐命が「禊祓」をする場面をとりあげて、
瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てていますが、当てているだけでその神と同一視されるほどのものではないとしています。
私はこの神に、三峰神社境内祓戸神社と阿伎留神社境内祓戸大神社にてお参りしました。
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夷針(いはり)神社(延喜式内社)/茨城県東茨城郡茨城町
20150412
鎮座地:茨城県東茨城郡茨城町大戸1768
3月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で参拝しました。
私は所用で参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
南向きに一の鳥居が建っています。

社号標
式内社 常陸國茨城郡 夷針神社、 旧村社

そこから400m程の参道が北へ延びる。
参道の中ほどを車道が横切り、そこにニの鳥居がある。

更に進みます。

手水舎

震災の傷跡がいまだに。

神木のスダジイ

「武隈大明神」縁起碑

由 緒:
創建は聖武天皇の代・神亀2年(了25年)9月29日。夷針の神はいわゆる竈(かまど)の神で、霊巌あらたか、守護安泰を司る神の由。よって古<より庶民の信仰を集めたと云われる。昔はカマドは大切にされ、火を扱う台所に神聖な神が宿ると云われ、神棚を示巳つたり、お札を貼ったりしていた.従って、天皇の祖先を祀った神社の神様に比べると、夷針の神は庶民の神様と云えよう。
応永33年(1426年)6月に、水戸城落城の時、兵火を避ける為、城の鎮守・「武隈大明神」を大戸の夷針神社に合祀したという。
江戸時代になると「武隈明神社」、「両社大明神」と称された。
拝殿


御祭神:奥津彦命(=興津日子命=おきつひこのかみ)と奥津姫命(=興津比売命=おきつひめのかみ)
配祀:武三熊之大人(たけみ<まのうし)と興玉命(おきたまのかみ)
後方に本殿がある。


本殿は葦葺き屋根であり、風情がある。風雨除けの為にトタン屋根で覆われているが損傷が激しい。


神紋は「右三つ巴」

境内社です。
素鷲神社(そがじんじや) ご祭神:建速須佐之男命


あと、三つの境内社がありました。
そのうち一社は疱瘡神社なのは資料によりあきらかですが、それがどれかわからず。



有名な「大戸の桜」
参道の東、民家の近くに、昭和了年(1932)指定の天然記念物「大戸(おおど)の桜」がある。この桜は、赤芽のヤマザワラの老大木で、樹齢500年を数える。根元周囲約10.4m、高さ約15mと云われたが、現在はだいぶ小ぶりになってしまった(根元周囲了m)。大正時代の頃には、約1,000r庁(紺300坪)の範囲に枝を広げていたという。徳川光圀公もこの桜を鑑賞したと伝えられる。


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3月27日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で参拝しました。
私は所用で参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事にしています。
南向きに一の鳥居が建っています。

社号標
式内社 常陸國茨城郡 夷針神社、 旧村社

そこから400m程の参道が北へ延びる。
参道の中ほどを車道が横切り、そこにニの鳥居がある。

更に進みます。

手水舎

震災の傷跡がいまだに。

神木のスダジイ

「武隈大明神」縁起碑

由 緒:
創建は聖武天皇の代・神亀2年(了25年)9月29日。夷針の神はいわゆる竈(かまど)の神で、霊巌あらたか、守護安泰を司る神の由。よって古<より庶民の信仰を集めたと云われる。昔はカマドは大切にされ、火を扱う台所に神聖な神が宿ると云われ、神棚を示巳つたり、お札を貼ったりしていた.従って、天皇の祖先を祀った神社の神様に比べると、夷針の神は庶民の神様と云えよう。
応永33年(1426年)6月に、水戸城落城の時、兵火を避ける為、城の鎮守・「武隈大明神」を大戸の夷針神社に合祀したという。
江戸時代になると「武隈明神社」、「両社大明神」と称された。
拝殿


御祭神:奥津彦命(=興津日子命=おきつひこのかみ)と奥津姫命(=興津比売命=おきつひめのかみ)
配祀:武三熊之大人(たけみ<まのうし)と興玉命(おきたまのかみ)
後方に本殿がある。


本殿は葦葺き屋根であり、風情がある。風雨除けの為にトタン屋根で覆われているが損傷が激しい。


神紋は「右三つ巴」

境内社です。
素鷲神社(そがじんじや) ご祭神:建速須佐之男命


あと、三つの境内社がありました。
そのうち一社は疱瘡神社なのは資料によりあきらかですが、それがどれかわからず。



有名な「大戸の桜」
参道の東、民家の近くに、昭和了年(1932)指定の天然記念物「大戸(おおど)の桜」がある。この桜は、赤芽のヤマザワラの老大木で、樹齢500年を数える。根元周囲約10.4m、高さ約15mと云われたが、現在はだいぶ小ぶりになってしまった(根元周囲了m)。大正時代の頃には、約1,000r庁(紺300坪)の範囲に枝を広げていたという。徳川光圀公もこの桜を鑑賞したと伝えられる。


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直毘神(なほびのかみ)/日本の神々の話
20150411
神道の神である。穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる。
日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。
『古事記』によれば:
伊邪那岐命が伊邪那美命に会いたいと思って、後を追って黄泉国に行かれ、そこで伊邪那美命の変わり果てた姿に驚いて逃げ帰った後、
「このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
(まず伊邪那岐大神が脱ぎ捨てた衣服・調度品から十二神ん゛生まれる)
そこで伊邪那岐命が仰せられるには、「上の瀬は流れが遠い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐつて、身の穢れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津日神、次いで大禍津日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘神、次いで大直毘神、次いで伊豆能売である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見神、次いで中筒之男命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命である。」
ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる。
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日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。
『古事記』によれば:
伊邪那岐命が伊邪那美命に会いたいと思って、後を追って黄泉国に行かれ、そこで伊邪那美命の変わり果てた姿に驚いて逃げ帰った後、
「このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
(まず伊邪那岐大神が脱ぎ捨てた衣服・調度品から十二神ん゛生まれる)
そこで伊邪那岐命が仰せられるには、「上の瀬は流れが遠い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐつて、身の穢れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津日神、次いで大禍津日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘神、次いで大直毘神、次いで伊豆能売である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見神、次いで中筒之男命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命である。」
ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる。
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「若冲と蕪村」展/サントリー美術館
20150410
4月2日に、白山神社で「白旗桜」を撮ったあと、ミッドタウン内にあるサントリー美術館で開催されている「若冲と蕪村」展を観ました。
地下鉄六本木駅からミッドタウンに入っていきます。
吹き抜けのある空間では、見ごたえのある演出がされている。



国立新美術館で開催されている「ルーヴル美術館展」の宣伝であろう、「サモトラケのニケ(複製)」が置かれていた。

サントリー美術館のある階まであがると、外の眺めも素晴らしい。


吹き抜けに大きな垂れ幕が。

サントリー美術館入り口

「若冲と蕪村」展

伊藤若冲と与謝蕪村は同じ年、正徳6年(1716)に生まれ、生誕300年を記念して開催された。
私は、両者ともに好きな絵が多い。
【若冲】
やはりこの絵から紹介せねば。
「象と鯨図」屏風


糸瓜群虫図(部分)

寒山拾得図

「乗興舟」拓版画


六歌仙図
美女の小野小町が背中しか見せてない(笑)

【蕪村】
虎も、蕪村が書くとこのとおり。
風虎図屏風(部分)

「春の夜や」自画賛

☆☆ 芭蕉を描く ☆☆
松尾芭蕉図/若冲筆

松尾芭蕉図/蕪村筆

「奥の細道図鑑」/与謝蕪村筆
これには参りました。
欲しい!!
展示会では巻物ゆえ、全部は見ることが出来なかったが、図録には縮小ながら、全て載っていたのが嬉しかった。

(了)
地下鉄六本木駅からミッドタウンに入っていきます。
吹き抜けのある空間では、見ごたえのある演出がされている。



国立新美術館で開催されている「ルーヴル美術館展」の宣伝であろう、「サモトラケのニケ(複製)」が置かれていた。

サントリー美術館のある階まであがると、外の眺めも素晴らしい。


吹き抜けに大きな垂れ幕が。

サントリー美術館入り口

「若冲と蕪村」展

伊藤若冲と与謝蕪村は同じ年、正徳6年(1716)に生まれ、生誕300年を記念して開催された。
私は、両者ともに好きな絵が多い。
【若冲】
やはりこの絵から紹介せねば。
「象と鯨図」屏風


糸瓜群虫図(部分)

寒山拾得図

「乗興舟」拓版画


六歌仙図
美女の小野小町が背中しか見せてない(笑)

【蕪村】
虎も、蕪村が書くとこのとおり。
風虎図屏風(部分)

「春の夜や」自画賛

☆☆ 芭蕉を描く ☆☆
松尾芭蕉図/若冲筆

松尾芭蕉図/蕪村筆

「奥の細道図鑑」/与謝蕪村筆
これには参りました。
欲しい!!
展示会では巻物ゆえ、全部は見ることが出来なかったが、図録には縮小ながら、全て載っていたのが嬉しかった。

(了)
西大家から坂戸(2)
20150409
3月25日に実施したFグループ行事「坂戸市(西大家駅から越生線に沿って坂戸駅へ歩く)」の続きです。
大家神社の次に訪れたのが厚川薬師堂跡。
【厚川薬師堂跡】
明和8年(1771)建立、昭和62年(1988)解体撤去。
今は公園になっていて、墓、石塔などが残っています。



【大榮寺】
真言宗智山汎天文16年(1547)創建。
境内には、最近造られた十三仏と七福神が置かれています。



鐘楼


本堂



薬師堂

「第一飛行戦隊納翼の地」碑



青石塔婆群

これは、光明真言を刻み、紀年銘「建武二年乙亥六月十五日」、造立者に「心妙尼 敬白」とあります。
この日訪ねた國渭地祇神社の隣、大徳家の阿弥陀一尊種子青石塔婆に「観應貳季辛卯 三月三日 沙弥道妙 沙弥尼心妙 敬白」とありました。
そう、観応二年(同1351年)の16年前の建武二年(ユリウス歴1335年)にも青石塔婆を造立した同一人物ということになります。

その左隣の青石塔婆は、應安五年壬子年十月十日の紀年銘が刻まれています。願文や造立者は確認できません。

あと二つは、不明。


【長久寺】
所在地:埼玉県坂戸市浅羽1486
真言宗智山派


鐘楼


浅羽観音

寛政6年(1794)造立の宝篋印陀羅尼塔

本堂



貞享2年(1685)造立の光明真言供養塔

浅羽の長久寺の青石塔婆二基です。
池田さん解読で、「貞治四年乙巳正月廿五日妙好禪尼」と「應安五年壬子三月一日」です。



文化元年(1804)造立の六地蔵


「勝軍地蔵」
猪に乗るという珍しい形の、甲宵姿の石像で、愛宕様と呼ばれる塚上に立っています。
享保14年(1729)造立。摩利支天とする説もあります。





【浅羽橋場の板石塔婆】
応長2年(1312)銘の大型板碑で、古墳「浅羽野4号墳」上に立っています。
墓地、六地蔵塔、安永5年(1776)と読める宝筐印塔などがあるので、お寺があったと思われます。


応長2年(1312)銘の大型板碑


六地蔵塔

安永5年(1776)造立の宝筐印塔

お地蔵さま

【土屋神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市浅羽野2丁目2−11
社号標

社名の「土屋」は、古墳内に石室があることによる。石室は本殿真下にあり中に石像がある。社の創建については、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われる。
神社は浅羽野1号墳(土屋神社古墳、直径50mの円墳、7世紀前半の築造)上に建っています。
一の鳥居

「摩利支天」
一の鳥居そばにあります。坂戸市歴史散歩マップに「安政6年(1859)に天然理心流の横田正秀の門人が建てた石碑」とあります。天然理心流は寛政年間(1789~1800)に近藤内蔵之助が創始した武術だそうですが、横田正秀については情報なし。

二の鳥居

拝殿

拝殿内扁額 「老幹新枝」

本殿


社殿裏にある石室入口

石室内の石像
「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より

神楽殿

続いて境内社
天神社

稲荷神社

浅間神社

神明宮

「神木スギ」
樹齢1000年余り、目通り周囲8.5m、樹高28m、県指定天然記念物



「万葉遺跡浅羽野」浅羽野一帯は万葉集に歌われた浅羽野の場所と推定されています。神社真の土屋公園内に記念歌碑がたてられています。



【花影薬師】
集会所(お堂?)と石仏が残っています。

残っている石仏たち






これで、予定を全て終了し、坂戸駅から帰途につきました。
(了)
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大家神社の次に訪れたのが厚川薬師堂跡。
【厚川薬師堂跡】
明和8年(1771)建立、昭和62年(1988)解体撤去。
今は公園になっていて、墓、石塔などが残っています。



【大榮寺】
真言宗智山汎天文16年(1547)創建。
境内には、最近造られた十三仏と七福神が置かれています。



鐘楼


本堂



薬師堂

「第一飛行戦隊納翼の地」碑



青石塔婆群

これは、光明真言を刻み、紀年銘「建武二年乙亥六月十五日」、造立者に「心妙尼 敬白」とあります。
この日訪ねた國渭地祇神社の隣、大徳家の阿弥陀一尊種子青石塔婆に「観應貳季辛卯 三月三日 沙弥道妙 沙弥尼心妙 敬白」とありました。
そう、観応二年(同1351年)の16年前の建武二年(ユリウス歴1335年)にも青石塔婆を造立した同一人物ということになります。

その左隣の青石塔婆は、應安五年壬子年十月十日の紀年銘が刻まれています。願文や造立者は確認できません。

あと二つは、不明。


【長久寺】
所在地:埼玉県坂戸市浅羽1486
真言宗智山派


鐘楼


浅羽観音

寛政6年(1794)造立の宝篋印陀羅尼塔

本堂



貞享2年(1685)造立の光明真言供養塔

浅羽の長久寺の青石塔婆二基です。
池田さん解読で、「貞治四年乙巳正月廿五日妙好禪尼」と「應安五年壬子三月一日」です。



文化元年(1804)造立の六地蔵


「勝軍地蔵」
猪に乗るという珍しい形の、甲宵姿の石像で、愛宕様と呼ばれる塚上に立っています。
享保14年(1729)造立。摩利支天とする説もあります。





【浅羽橋場の板石塔婆】
応長2年(1312)銘の大型板碑で、古墳「浅羽野4号墳」上に立っています。
墓地、六地蔵塔、安永5年(1776)と読める宝筐印塔などがあるので、お寺があったと思われます。


応長2年(1312)銘の大型板碑


六地蔵塔

安永5年(1776)造立の宝筐印塔

お地蔵さま

【土屋神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市浅羽野2丁目2−11
社号標

社名の「土屋」は、古墳内に石室があることによる。石室は本殿真下にあり中に石像がある。社の創建については、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われる。
神社は浅羽野1号墳(土屋神社古墳、直径50mの円墳、7世紀前半の築造)上に建っています。
一の鳥居

「摩利支天」
一の鳥居そばにあります。坂戸市歴史散歩マップに「安政6年(1859)に天然理心流の横田正秀の門人が建てた石碑」とあります。天然理心流は寛政年間(1789~1800)に近藤内蔵之助が創始した武術だそうですが、横田正秀については情報なし。

二の鳥居

拝殿

拝殿内扁額 「老幹新枝」

本殿


社殿裏にある石室入口

石室内の石像
「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より

神楽殿

続いて境内社
天神社

稲荷神社

浅間神社

神明宮

「神木スギ」
樹齢1000年余り、目通り周囲8.5m、樹高28m、県指定天然記念物



「万葉遺跡浅羽野」浅羽野一帯は万葉集に歌われた浅羽野の場所と推定されています。神社真の土屋公園内に記念歌碑がたてられています。



【花影薬師】
集会所(お堂?)と石仏が残っています。

残っている石仏たち






これで、予定を全て終了し、坂戸駅から帰途につきました。
(了)
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第六天(だいろくてん)/日本の神々の話
20150407
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社が存続を図るため、その社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更したことが、ややこしい事になっている。
そもそも第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。『大智度論』巻9いわく「此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う。」と、他の者の教化を奪い取る天としている。 また『起世経』巻1いわく「他化天の上、梵身天の下、其の中間に摩羅波旬・諸天の宮殿有り。」とし、他化自在天と梵衆天の中間に天魔が住んでいるとする。また『過去現在因果経』巻3には「第六天魔王」が登場し、「自在天王」と称している。 これらを踏まえ、『仏祖統紀』巻2いわく「諸経に云う、魔波旬六欲の頂に在りて別に宮殿有り。今因果経すなわち自在天王を指す。是の如くなれば則ち第六天に当たる。」とし、他化自在天=天魔であると考察している。
第六天神社(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある。
『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』より三百二十余社、『新編相模国風土記稿』より百四十余社、『増訂・豆州志稿』より四十余社の「第六天神社」を確認できたとあるように江戸時代末までは関東を中心に多く存在した。
前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも三百余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる。また、千葉県香取市の山倉大神は前述の神仏分離まで大六天王(第六天魔王と同一)を祀っており(現在では近距離に所在する真言宗山倉山観福寺に遷座)、大六天王社の総社とされていた。
一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは神奈川県神社庁の 『かながわの神社ガイドブック』(1997年、かなしん出版)によると、戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。
なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない。
この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に以下の例がある。
・東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合
・宮城県名取市の第六天神社のようにそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある。
・埼玉県飯能市の大六天神社では第六天魔王は天狗であるとされる。
・さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社でも御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・烏天狗など天狗と関連付けられている。
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そもそも第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。『大智度論』巻9いわく「此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う。」と、他の者の教化を奪い取る天としている。 また『起世経』巻1いわく「他化天の上、梵身天の下、其の中間に摩羅波旬・諸天の宮殿有り。」とし、他化自在天と梵衆天の中間に天魔が住んでいるとする。また『過去現在因果経』巻3には「第六天魔王」が登場し、「自在天王」と称している。 これらを踏まえ、『仏祖統紀』巻2いわく「諸経に云う、魔波旬六欲の頂に在りて別に宮殿有り。今因果経すなわち自在天王を指す。是の如くなれば則ち第六天に当たる。」とし、他化自在天=天魔であると考察している。
第六天神社(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある。
『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』より三百二十余社、『新編相模国風土記稿』より百四十余社、『増訂・豆州志稿』より四十余社の「第六天神社」を確認できたとあるように江戸時代末までは関東を中心に多く存在した。
前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも三百余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる。また、千葉県香取市の山倉大神は前述の神仏分離まで大六天王(第六天魔王と同一)を祀っており(現在では近距離に所在する真言宗山倉山観福寺に遷座)、大六天王社の総社とされていた。
一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは神奈川県神社庁の 『かながわの神社ガイドブック』(1997年、かなしん出版)によると、戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。
なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない。
この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に以下の例がある。
・東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合
・宮城県名取市の第六天神社のようにそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある。
・埼玉県飯能市の大六天神社では第六天魔王は天狗であるとされる。
・さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社でも御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・烏天狗など天狗と関連付けられている。
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西大家から坂戸(1)
20150406
3月25日に、Fグループ行事「坂戸市(西大家駅から越生線に沿って坂戸駅へ歩く)」がありました。
私は所用があり参加できなかったので、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真でこの記事を書きました。
コース

東武東上線「西大家」駅に降り立ちましたが、駅のすぐ横には珍しい「鎌倉街道跡」があります。
【鎌倉街道跡】
ここの鎌倉街道跡は、鶴ヶ島市内の南へ延びる街道跡で、なんと水路になっています。


この水路が鎌倉街道跡

100mくらいですか、ここまでが水路だけ。

そこから先は、水路の横に道が復活しています。

【國渭地祇神社】

社号標

この神社の詳細は、以前武蔵国式内社めぐりで訪ねた際に調べた記事があります
その記事を読む
載せていなかったのが、石専塚(石尊大権現の碑が立つ)

森戸村とあり。

不明


森戸の獅子舞は、とても良さそうです。

神社東側の塀越し、大徳家に、観応2年(1351)の大型板碑が見られます。



典型的な形状の非常に綺麗な板碑は、正体の阿弥陀一尊種子を刻んでいます。
このような完本を雨晒しにするのはまずいのですが、これだけ毀損無く綺麗だと此処のお宅が遙か昔から手入れをしてきた賜でしょう。
構成は、山形、二段切込、阿弥陀如来種子を蓮華座上に薬研彫、下に光明真言、願文、紀年銘 などを刻んでいます。

池田さんの解読です:
オンで始まる光明真言を四行で表し、
身部願文:「右志者大檀那當住權律師月證逆修」、「願予普及法界自他同證無上菩提也」
中央紀年銘:「観應貳季辛卯 三月三日 沙弥道妙 沙弥尼心妙 敬白」
権律師月証の逆修供養のために沙弥の道妙と沙弥尼の心妙が造立した、となります。
【万葉遺跡大家が原歌碑】

「入間道の大家が原のいはゐつら引かばぬるぬる吾にな絶えそね」の碑が立っています。大家郷(於保也介:おほやけ)はこの辺りと推定されます。



そこからしばらく行くと、交差点に「青面金剛供養塔」と「西国 坂東 秩父 四国 観世音供養塔」があり。


明和三年(1766)造立「青面金剛供養塔」

享和4年(1804)造立「西国 坂東 秩父 四国 観世音供養塔」

西光寺の門前に六地蔵などあり。

享保4年(1719)造立の、六地蔵横のお地蔵さま。

六地蔵

【西光寺】

曹洞宗。開山は大覚仏海。明治時代の北三芳野学校跡。
「西光寺 坂戸」で検索すると、圏央道坂戸インター近くの同名のお寺の記事しかみつからない。同じ市で同じ寺、しかも同じ宗派というのは珍しい。
これ以上の情報は得られませんでした。
本堂

「大恩徳」と書かれた額がかかったお堂。

念仏信心講中が造立した狐が左右に2基。ちゃんと「宝珠」と「鍵」を持っているので、お稲荷さんの前に居てもおかしくない。


「地蔵尊」と書かれた額の大きいこと。

明治16年造立のお地蔵さま。

「西光寺住職墓域」


ここに板碑が二枚ありました。蓮華座や上部山形形状を見ると元は一基で毀損したものと判ります。


池田さんの解読:
脇侍の菩薩種子部分が欠損していますが、阿弥陀三尊の板碑です。
彫りの深い薬研彫で主尊を表しています。
身部願文:「右志者為其父母生」、「霊往生極楽菩提也」
中央紀年銘:「永仁二年甲午年 中秋㐧 七番白 □□・・□□」
身部銘文は「そのふぼにうまれみぎこころざしをなすは」、「れいおうじょうしごくらくぼだいなり」とでも読むのでしょうか。間違っているとしても、何となく意味が解りますね。
【鶴明神社】
西光寺の裏にあります。


当社創立について、口碑に「神社のある所は村の中心で田が広がっていて、鶴が沢山飛んでくる場所であった。鶴が毎年集まるので、これは鶴の神が鎮まっているのではないかと村人が考えて神社を祀った」とある。
眞名鶴霊・伊佐波登美神を祭ります。
祭神伊佐波登美神は、神宮別宮伊雑宮の末社佐美長神社の祭神で、伊勢地方開拓の神といい、何故当社に祀られているか不詳である。
真名鶴霊は、口碑にもあるように古来人々に尊ばれた神霊の宿ることを感じ祀られたものであろう。
社殿

境内社「大口真神」


そこから鍛冶屋地蔵に歩いていく途中、「須田家重要文化財 稲掛棒の脚」が大事に保管されていた。

【鍛冶屋地蔵】
延命地蔵・子育て地蔵として親しまれています。宝暦8年(1758)造立。


享保4年(1719)造立の馬頭観音

明治39年造立の馬頭観音文字塔

【萱方堂】
萱方加仁集会所の辺りにあります。福正庵とも言われます。
正徳3年(1713)創建。本尊は地蔵菩薩。










【大家神社】
古くは白髭神社と称しました。厚川の鎮守。
鳥居

ご神木

手水舎

社殿と神楽殿

説明

社殿内部


境内社の三社(八坂神社、蚕影山神社、金刀比羅神社)

神社向左奥の覆屋に石仏が数基あります。

白い石塔の池田さんの解釈:
銘文解読を試みたところ、白石を使用した理由が何となく解りました。
ポイントは大家神社が、厚川村・萱方村二村の鎮守「白髭社」とあったことです。
銘文:
「 宝永二乙酉年□・・□
敬白
南無山王廿一社
厚川村 白髭明神 願主」

厳島大神

駒形大明神

「駒形大明神」に初めて出くわしたので、ウェブで検索したところ、千葉県鎌ケ谷市にやはり「駒形大明神」という石碑がありました。
その由来は「牧士清田家の三代の勝定は馬術にすぐれ、将軍の御前で見事に悍馬を乗りこなしたという。この馬を賜り、帰村する途中、現在の市川市北方付近に至ると、にわかに馬がたけり狂ったので、切り殺してしまった。後に、その冥福を祈るために作った小祠が、この駒形大明神と伝えられている。」ということでした。
それ以外は何もわかっていませんが、やはり愛馬の冥福を祈るために作ったのではないかと思われる。
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私は所用があり参加できなかったので、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真でこの記事を書きました。
コース

東武東上線「西大家」駅に降り立ちましたが、駅のすぐ横には珍しい「鎌倉街道跡」があります。
【鎌倉街道跡】
ここの鎌倉街道跡は、鶴ヶ島市内の南へ延びる街道跡で、なんと水路になっています。


この水路が鎌倉街道跡

100mくらいですか、ここまでが水路だけ。

そこから先は、水路の横に道が復活しています。

【國渭地祇神社】

社号標

この神社の詳細は、以前武蔵国式内社めぐりで訪ねた際に調べた記事があります
その記事を読む
載せていなかったのが、石専塚(石尊大権現の碑が立つ)

森戸村とあり。

不明


森戸の獅子舞は、とても良さそうです。

神社東側の塀越し、大徳家に、観応2年(1351)の大型板碑が見られます。



典型的な形状の非常に綺麗な板碑は、正体の阿弥陀一尊種子を刻んでいます。
このような完本を雨晒しにするのはまずいのですが、これだけ毀損無く綺麗だと此処のお宅が遙か昔から手入れをしてきた賜でしょう。
構成は、山形、二段切込、阿弥陀如来種子を蓮華座上に薬研彫、下に光明真言、願文、紀年銘 などを刻んでいます。

池田さんの解読です:
オンで始まる光明真言を四行で表し、
身部願文:「右志者大檀那當住權律師月證逆修」、「願予普及法界自他同證無上菩提也」
中央紀年銘:「観應貳季辛卯 三月三日 沙弥道妙 沙弥尼心妙 敬白」
権律師月証の逆修供養のために沙弥の道妙と沙弥尼の心妙が造立した、となります。
【万葉遺跡大家が原歌碑】

「入間道の大家が原のいはゐつら引かばぬるぬる吾にな絶えそね」の碑が立っています。大家郷(於保也介:おほやけ)はこの辺りと推定されます。



そこからしばらく行くと、交差点に「青面金剛供養塔」と「西国 坂東 秩父 四国 観世音供養塔」があり。


明和三年(1766)造立「青面金剛供養塔」

享和4年(1804)造立「西国 坂東 秩父 四国 観世音供養塔」

西光寺の門前に六地蔵などあり。

享保4年(1719)造立の、六地蔵横のお地蔵さま。

六地蔵

【西光寺】

曹洞宗。開山は大覚仏海。明治時代の北三芳野学校跡。
「西光寺 坂戸」で検索すると、圏央道坂戸インター近くの同名のお寺の記事しかみつからない。同じ市で同じ寺、しかも同じ宗派というのは珍しい。
これ以上の情報は得られませんでした。
本堂

「大恩徳」と書かれた額がかかったお堂。

念仏信心講中が造立した狐が左右に2基。ちゃんと「宝珠」と「鍵」を持っているので、お稲荷さんの前に居てもおかしくない。


「地蔵尊」と書かれた額の大きいこと。

明治16年造立のお地蔵さま。

「西光寺住職墓域」


ここに板碑が二枚ありました。蓮華座や上部山形形状を見ると元は一基で毀損したものと判ります。


池田さんの解読:
脇侍の菩薩種子部分が欠損していますが、阿弥陀三尊の板碑です。
彫りの深い薬研彫で主尊を表しています。
身部願文:「右志者為其父母生」、「霊往生極楽菩提也」
中央紀年銘:「永仁二年甲午年 中秋㐧 七番白 □□・・□□」
身部銘文は「そのふぼにうまれみぎこころざしをなすは」、「れいおうじょうしごくらくぼだいなり」とでも読むのでしょうか。間違っているとしても、何となく意味が解りますね。
【鶴明神社】
西光寺の裏にあります。


当社創立について、口碑に「神社のある所は村の中心で田が広がっていて、鶴が沢山飛んでくる場所であった。鶴が毎年集まるので、これは鶴の神が鎮まっているのではないかと村人が考えて神社を祀った」とある。
眞名鶴霊・伊佐波登美神を祭ります。
祭神伊佐波登美神は、神宮別宮伊雑宮の末社佐美長神社の祭神で、伊勢地方開拓の神といい、何故当社に祀られているか不詳である。
真名鶴霊は、口碑にもあるように古来人々に尊ばれた神霊の宿ることを感じ祀られたものであろう。
社殿

境内社「大口真神」


そこから鍛冶屋地蔵に歩いていく途中、「須田家重要文化財 稲掛棒の脚」が大事に保管されていた。

【鍛冶屋地蔵】
延命地蔵・子育て地蔵として親しまれています。宝暦8年(1758)造立。


享保4年(1719)造立の馬頭観音

明治39年造立の馬頭観音文字塔

【萱方堂】
萱方加仁集会所の辺りにあります。福正庵とも言われます。
正徳3年(1713)創建。本尊は地蔵菩薩。










【大家神社】
古くは白髭神社と称しました。厚川の鎮守。
鳥居

ご神木

手水舎

社殿と神楽殿

説明

社殿内部


境内社の三社(八坂神社、蚕影山神社、金刀比羅神社)

神社向左奥の覆屋に石仏が数基あります。

白い石塔の池田さんの解釈:
銘文解読を試みたところ、白石を使用した理由が何となく解りました。
ポイントは大家神社が、厚川村・萱方村二村の鎮守「白髭社」とあったことです。
銘文:
「 宝永二乙酉年□・・□
敬白
南無山王廿一社
厚川村 白髭明神 願主」

厳島大神

駒形大明神

「駒形大明神」に初めて出くわしたので、ウェブで検索したところ、千葉県鎌ケ谷市にやはり「駒形大明神」という石碑がありました。
その由来は「牧士清田家の三代の勝定は馬術にすぐれ、将軍の御前で見事に悍馬を乗りこなしたという。この馬を賜り、帰村する途中、現在の市川市北方付近に至ると、にわかに馬がたけり狂ったので、切り殺してしまった。後に、その冥福を祈るために作った小祠が、この駒形大明神と伝えられている。」ということでした。
それ以外は何もわかっていませんが、やはり愛馬の冥福を祈るために作ったのではないかと思われる。
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王子駅周辺・飛鳥山公園など散策
20150404
4月1日に、歴史クラブの行事で、花見も兼ねての企画に参加しました。
コースは、装束稲荷⇒王子稲荷⇒名主の滝公園⇒王子神社⇒昼食⇒飛鳥山公園⇒飛鳥山三つの博物館です。
【装束稲荷】


ここは既に以前記事にしてあり、由緒とか全体についてはそちらを参照ください。
その記事を読む
この日聞かれた質問で、「奉安されている狐が「鍵」と「玉」を咥えているが、あれは何を意味しているのか」に対してうまく説明できなかったので、帰ってから調べました。
宝珠は神の神徳を現し、宝鍵は無尽の神力(五穀豊穣の蔵の鍵)を現しているそうです。
拝殿の狐の面は健在でした。

藤棚の藤が花芽を伸ばしていました。

【王子稲荷】
山門
今日は平日なので、ここから入れません。

平日は、この中に幼稚園があるため、入れません。
従って境内社の市杵嶋神社(弁天様)にもお参りできません。
以前、日曜にお参りした記事があるので、由緒などと一緒に確認してください。
その記事を読む
今回は、桜が満開なので社殿が一層華やかでした。



拝殿で、前回撮らなかった角度のものを掲載。



本宮社の奥にある、三社稲荷(北村稲荷、嬉野森稲荷、亀山稲荷)も前回撮り漏らしていました。

三社稲荷前の狐さま


【名主の滝公園】


やはり、江戸近郊の名主とは大したものだと思いました。
案内図

まずは滝を巡ります。
女滝


独鈷滝は枯れていた。

男滝は立派でした。こんな滝が都内にあるとは!!





渓谷



下見のときの写真ですが、鳥が水浴びをしていた。


湧玉の滝



石橋と、石橋の下の面白い石


トンボの池周辺の桜が良かった。






名主の滝公園から王子稲荷に向かう道すじに、昔ながらの手づくりの久寿餅のお店があり。

店先の、花梨と草花が綺麗だった。



【王子神社】

ここも、以前お参りしたときの記事で、由緒などを確認してください。
その記事を読む
本殿は、記事のときには、周りの木立が邪魔してほとんど見えなかったのですが、今回は良く見えました。


おみくじを結ぶ木の前に、山茶花の花びらでこんなふうに。


大きな銀杏の木の横から音無川親水公園に降ります。



ここで、王子駅の周りに大きなお店が無いため、参加者は分散して好きなお店で昼食を取りました。
一時間後集合して、飛鳥山公園に向かいました。



佐久間象山の「桜の賦(ふ)」碑があり。

桜の賦(ふ)は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山(さくましょうざん)の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座(れんざ)松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。

飛鳥山公園には三つの博物館があります。

私は、まず「渋沢資料館」に入りました。

渋沢栄一という人物の業績には、まったく驚愕する思いです。
時代に恵まれたとはいえ、素晴らしいです。
ここでは、なんと「桜が咲いている期間だけ、撮影可」という二階の展望テラスがありました(嬉)



向かいの靑淵文庫の建物

残存する渋沢栄一の邸宅の一部、晩香廬と靑淵文庫を見ました。

○晩香廬(ばんこうろ)

晩香廬は渋沢栄一の喜寿を記念して清水組から贈られた木造の洋風茶室。様々な建築様式を取り混ぜ趣向を凝らした小建築で、賓客の接待に用いられた。


内部(絵葉書)
細部の装飾のデザインがとても素晴らしい。

○青淵文庫(せいえんぶんこ)

青淵文庫は渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建ての書庫。「青淵」の名は渋沢栄一の号より。外壁は石貼り、テラスに面した窓の上部はステンドガラスで飾られている。建物内部1階は床面チーク材張りの閲覧室、2階は書庫である。栄一の嫡孫・渋沢敬三が収集した論語などの漢籍約6,000冊が収蔵されていたが、これらは敬三の死去した1963年に東京都立日比谷図書館に寄贈された(現在は東京都立中央図書館蔵)。
外のデザインと桜の取り合わせの妙を楽しみました。









室内




紙の博物館も興味をそそりましたが、時間が無くて入れませんでした。
次回のお楽しみ。


ここ、飛鳥山にも古墳があります。



古墳の頂上に行きたいのだが・・・・・・行けない(汗)

集合時間となり、和服の美女に心惹かれながら、帰途につきました(笑)

(了)
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コースは、装束稲荷⇒王子稲荷⇒名主の滝公園⇒王子神社⇒昼食⇒飛鳥山公園⇒飛鳥山三つの博物館です。
【装束稲荷】


ここは既に以前記事にしてあり、由緒とか全体についてはそちらを参照ください。
その記事を読む
この日聞かれた質問で、「奉安されている狐が「鍵」と「玉」を咥えているが、あれは何を意味しているのか」に対してうまく説明できなかったので、帰ってから調べました。
宝珠は神の神徳を現し、宝鍵は無尽の神力(五穀豊穣の蔵の鍵)を現しているそうです。
拝殿の狐の面は健在でした。

藤棚の藤が花芽を伸ばしていました。

【王子稲荷】
山門
今日は平日なので、ここから入れません。

平日は、この中に幼稚園があるため、入れません。
従って境内社の市杵嶋神社(弁天様)にもお参りできません。
以前、日曜にお参りした記事があるので、由緒などと一緒に確認してください。
その記事を読む
今回は、桜が満開なので社殿が一層華やかでした。



拝殿で、前回撮らなかった角度のものを掲載。



本宮社の奥にある、三社稲荷(北村稲荷、嬉野森稲荷、亀山稲荷)も前回撮り漏らしていました。

三社稲荷前の狐さま


【名主の滝公園】


やはり、江戸近郊の名主とは大したものだと思いました。
案内図

まずは滝を巡ります。
女滝


独鈷滝は枯れていた。

男滝は立派でした。こんな滝が都内にあるとは!!





渓谷



下見のときの写真ですが、鳥が水浴びをしていた。


湧玉の滝



石橋と、石橋の下の面白い石


トンボの池周辺の桜が良かった。






名主の滝公園から王子稲荷に向かう道すじに、昔ながらの手づくりの久寿餅のお店があり。

店先の、花梨と草花が綺麗だった。



【王子神社】

ここも、以前お参りしたときの記事で、由緒などを確認してください。
その記事を読む
本殿は、記事のときには、周りの木立が邪魔してほとんど見えなかったのですが、今回は良く見えました。


おみくじを結ぶ木の前に、山茶花の花びらでこんなふうに。


大きな銀杏の木の横から音無川親水公園に降ります。



ここで、王子駅の周りに大きなお店が無いため、参加者は分散して好きなお店で昼食を取りました。
一時間後集合して、飛鳥山公園に向かいました。



佐久間象山の「桜の賦(ふ)」碑があり。

桜の賦(ふ)は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山(さくましょうざん)の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座(れんざ)松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。

飛鳥山公園には三つの博物館があります。

私は、まず「渋沢資料館」に入りました。

渋沢栄一という人物の業績には、まったく驚愕する思いです。
時代に恵まれたとはいえ、素晴らしいです。
ここでは、なんと「桜が咲いている期間だけ、撮影可」という二階の展望テラスがありました(嬉)



向かいの靑淵文庫の建物

残存する渋沢栄一の邸宅の一部、晩香廬と靑淵文庫を見ました。

○晩香廬(ばんこうろ)

晩香廬は渋沢栄一の喜寿を記念して清水組から贈られた木造の洋風茶室。様々な建築様式を取り混ぜ趣向を凝らした小建築で、賓客の接待に用いられた。


内部(絵葉書)
細部の装飾のデザインがとても素晴らしい。

○青淵文庫(せいえんぶんこ)

青淵文庫は渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建ての書庫。「青淵」の名は渋沢栄一の号より。外壁は石貼り、テラスに面した窓の上部はステンドガラスで飾られている。建物内部1階は床面チーク材張りの閲覧室、2階は書庫である。栄一の嫡孫・渋沢敬三が収集した論語などの漢籍約6,000冊が収蔵されていたが、これらは敬三の死去した1963年に東京都立日比谷図書館に寄贈された(現在は東京都立中央図書館蔵)。
外のデザインと桜の取り合わせの妙を楽しみました。









室内




紙の博物館も興味をそそりましたが、時間が無くて入れませんでした。
次回のお楽しみ。


ここ、飛鳥山にも古墳があります。



古墳の頂上に行きたいのだが・・・・・・行けない(汗)

集合時間となり、和服の美女に心惹かれながら、帰途につきました(笑)

(了)
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白旗桜/白山神社
20150402
所在地:東京都文京区白山5-31-26
旗弁化したオオシマザクラ
撮影日:2015年4月2日
東京十社めぐりで、文京区の白山神社を訪ねたときにこの桜のことを知り、楽しみにしていました。
白山神社の記事を読む
地下鉄「白山」駅で降りて徒歩5分、鳥居の所に着きます。

まずはご参拝。
拝殿の前には紅枝垂れ桜がある。

拝殿のガラス戸に写った桜

白山神社の「白旗桜」
境内社の八幡神社には、有名なご神木「白旗桜」があります。
この桜は「旗桜」と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花です。
「江戸三名桜(郊外三銘木)」のひとつに数えられ、昭和10年には国の天然記念物に指定された。 しかし、その2年後に枯死し、現在あるものはその後継樹である。
花弁の一つが立ち、旗のようになっている。
しかし、立っているのはわずかで、探し出すのに苦労した(笑)

現在は、境内に二本あり、左側のが八幡神社前に、右側のが手水舎横にある。

八幡神社

由緒は、「人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。」とあり。
○八幡神社前の「白旗桜」

樹齢100年くらいの若木



密集した真っ白な花で、そこに若葉が混じっているのがとてもいい。













旗桜、見っけ!

○八幡神社前の「白旗桜」
こちらのほうは、更に若い。


こちらも同様、密集した真っ白な花で、そこに若葉が混じっているのがとてもいいですね。




旗桜、見っけ!

(了)
櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
旗弁化したオオシマザクラ
撮影日:2015年4月2日
東京十社めぐりで、文京区の白山神社を訪ねたときにこの桜のことを知り、楽しみにしていました。
白山神社の記事を読む
地下鉄「白山」駅で降りて徒歩5分、鳥居の所に着きます。

まずはご参拝。
拝殿の前には紅枝垂れ桜がある。

拝殿のガラス戸に写った桜

白山神社の「白旗桜」
境内社の八幡神社には、有名なご神木「白旗桜」があります。
この桜は「旗桜」と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花です。
「江戸三名桜(郊外三銘木)」のひとつに数えられ、昭和10年には国の天然記念物に指定された。 しかし、その2年後に枯死し、現在あるものはその後継樹である。
花弁の一つが立ち、旗のようになっている。
しかし、立っているのはわずかで、探し出すのに苦労した(笑)

現在は、境内に二本あり、左側のが八幡神社前に、右側のが手水舎横にある。

八幡神社

由緒は、「人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。」とあり。
○八幡神社前の「白旗桜」

樹齢100年くらいの若木



密集した真っ白な花で、そこに若葉が混じっているのがとてもいい。













旗桜、見っけ!

○八幡神社前の「白旗桜」
こちらのほうは、更に若い。


こちらも同様、密集した真っ白な花で、そこに若葉が混じっているのがとてもいいですね。




旗桜、見っけ!

(了)
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