所沢混声合唱団定期演奏会

20150530

今日、30日(土)所沢ミューズのアークホールで開かれた演奏会を聴いてきました。
歴史クラブの友人、小田さんが参加している合唱団の定期演奏会を、カミさんと聴きにいきました。
昨年はヨーロッパに演奏旅行をしたという、立派な合唱団です。
今年も、会場前に長蛇の列ができている人気でした。
プロも交えての本格的な演奏会なので、とても素晴らしかったです。

今年のプログラム
150530所沢合唱団


前半は、日本の素晴らしさを情感たっぷりに聴かせてくれました。

ベートヴェンの「ロマンス」は健友会管弦楽団と長岡氏のソロで、楽しく聴かせてくれました。
長岡氏のソロがとても良かった。

そして、初めて取り組んだというベートヴェンのミサ曲。
曲想がドラマティックなので、聴きごたえのある曲に仕上がっていました。
三塚さんのソプラノをはじめ、プロがソロをとっているので実に美しく、敬虔なものになっていた。
合唱団の声も最後までしっかりと歌っていました。

清潔さと、ふくよかで優しい感情と充実した音楽になっていましたね。

満ち足りた思いで、帰りました。
カミさんも、いいものを聴かせていただいたと喜んでいました。



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波自加弥神(はじかみのかみ)/日本の神々の話

20150530

石川県金沢市花園八幡町にある波自加弥神社の祭神。

この神社は延書式内小社で、社伝によれば祭神は波自加弥神と八幡神とされる。波自加弥とは薑(はじかみ)のことで、生姜・山椒など歯で噛んで辛いもののことである。波自加弥神は調味・医薬の神として祀られている全国唯一の例である。

『古事記』中巻の神武天皇の御東征の条に、長脛彦との戦いに歌った「みつみつし久米の子等が垣下に植えし薑、口ひびく吾は忘れじ、うちてしやまん」(勇ましい久米の人々の、垣根に植えた薑、口がひりひりして恨みを忘れかねる、いざ賊を打ち果たしてしまおう)という歌がある。
この場合の薑は山椒とも解されるが、のちに生姜と併称され、現在ではもっぱら生姜の呼称となっている。生姜は香辛料として広く料理に用いられ、生姜自体も解毒・健胃・貴嘔の薬効があるとして珍重される。生姜酒は風邪薬・痰切りに効目があるとされ、また生姜湯はおろし生姜に砂糖を混ぜて熱湯をさして作られ、発汗剤としても用いられる。

昔の菓子に生姜糖といって、砂糖を固めて生姜の風味を付けたものがあった。今でも、滋賀県の多賀大社や伊勢の皇大神宮では、土産物として生姜糖が売られている。また、新しい生姜は安く、老成の物の方が値が高いのは、植物性の食物のなかでは生姜だけである。

さて波自加弥神社の例祭は六月十五日で、生姜祭りという。江戸時代には、加賀・越前・越中・能登の国々の料理屋は、この日に必ず参詣し、調味の守護神に祈願した。また医者や薬屋も多く参詣したという。
生姜祭りの名の由来は次のように伝えられている。昔この地方が大旱魃に見舞われたとき、国造(現在でいえば県知事)が高松山に籠り、21日目の満行の日、霊水が湧き出して稲は助かったという。土地の者たちは神霊に感謝して、供え物をしようとしたが、長く続いた旱魃のため何もなく、ようやく一籠の生姜を供えることができたという。祭りはこの言い伝えによる。
生姜祭りの直会(祭りの儀式が終わってから、神酒・供物を下げていただく宴会)では、最後に擦り生姜に熱湯を注いだ生姜湯を土器で三回飲み、この土器を社殿前で割って祭りが終わる。



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猿田彦珈琲

20150528

今日は、調布にある式内社のお宮二社にお参りしてから、新宿に戻ってきて恵比寿にまわり、このお店に来た。

このお店を知ったきっかけは、カミさんに「猿田彦珈琲ってなに?」と聞かれたからだ。
なんでも、缶コーヒーのCMに、そう書かれた缶コーヒーが登場しているらしい。

猿田彦が大好きな私としては放っておけない(笑)
私は、歴史に関する取り組みの中で個人的には日本の神様に軸足を置いていて、自分で確認した神様の数が、現在478柱になっているが、一番最初にマイブームとして取り組んだのが「猿田彦」である。
SSCC(現在はさやま市民大学)歴史講座の研究コースのときに、学園祭に「猿田彦」について発表したくらいだ。
それでネットで調べてみた。

こんなことがわかった。
猿田彦珈琲は恵比寿にある、わずか8.7坪のスペシャルティコーヒー専門店だ。
現在調布の仙川駅前に焙煎所を兼ねた60坪の二号店がオープンしているそうだ。
それが、大手飲料メーカーの缶コーヒーの監修を行い、さらにはオーナーの大塚氏がバリスタとしてテレビCMにも登場した。大塚氏は近年流行のサードウェーブコーヒーの先駆者として業界でも一目置かれる存在になっており、それが抜擢の理由。
ネットでの評判は、本物のコーヒーの味とフレンドリーなお店ということで、とても評判が良い。

それで、今日行ってみたというわけだ。

恵比寿から歩いて2、3分という近さ。

ほんとにお店は小さい(笑)
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とても入りやすいお店に入って、幸い席が空いていたのでカフェ・ラテを頼んだ。
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私は、どこに入ってもたいていカフェ・ラテを飲んでいる。
ここのは、文句なしに美味しい。
カフェ・ラテなんだから、クリーミーで、まろやかな味である。
しかし、後味にしっかりとコーヒーの味が残って主張してくる。
そのコーヒーが美味しい!!

私の座った席の近くに「猿田彦神社」の「何か」が置いてあった。
聞いたら、伊勢の猿田彦神社だった。
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どうして「猿田彦珈琲」という個性的な店名をつけたのか?
ネットで調べていたら、出世払いで店の看板のデザインをしてくれた友人の奥さんから「猿田彦珈琲ってどう?」と提案されたため、他のアイディアもあったがその名前に決めたという。
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その方が、どういう気持ちで「猿田彦」を提案したのかは書いてなかった。

私にはわかるような気がする。
『古事記』に登場するのは、瓊瓊杵尊が「天孫降臨」したときに、途中で出迎えて先導した神である。
だから、現在でも私たちは猿田彦を良く目にする。
神様の行列には、必ず先導役の猿田彦がいる。

赤坂日枝神社山王祭神幸祭の先導しかり。
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今年の神田祭りの神幸祭にも。
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狭山市の式内社廣瀬神社の、秋季例大祭の神輿の先導も。
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「猿田彦珈琲」と命名した、オーナーの友人の奥さんの気持ちも、「業界を先導する、リーダーとしての存在になって欲しい」という思いだと思う。

東京に出たとき、必ず寄りたいと思うお店だった。

カフェ・ラテがとても美味しかったので、昨夜ネットで調べていて面白いなと思った「カフェ・ラテのもと」も、迷わず購入してきた。
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/上廣瀬村・根岸村

20150526

5月12日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さん、野口さんと山畑さん。

今日のスタートは信立寺から。
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参道入り口に「鬚題目」の供養塔あり。
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【信立寺】
所在地:狭山市広瀬3丁目5番1号

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山門前にはツツジが綺麗に咲いていた。
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本堂
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風土記稿には本尊は釈迦、多宝如来と記されているが、現在の本尊は「一塔両尊四士四天王」と「日蓮上人坐像」。
一塔両尊:
日蓮が法華経の仏の世界を文字で表した十界曼荼羅を元にして、その主要な部分を仏像として造形化したもので、宝塔に南無妙法蓮華経と書かれた題目宝塔が中央にあり、その左右に釈迦如来・多宝如来の二仏を配置したもの。題目宝塔と二仏は、一基の須弥壇に配置することが一般的である。
一塔両尊四士:
一塔両尊の左右に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩を配置したもの。
一塔両尊四士四天王:
一塔両尊四士の左右に持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王を配置したもの。

四士四天王は確認できなかったが、「題目宝塔」は「日蓮上人坐像」の上部に、かなりの部分が見えた。
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墓地に開基加治左馬之助家信の墓と、開山日惺上人の墓あり。

墓地に入っていくと、加治左馬之助家信の供養塔あり。
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加治氏(かじし)は、武蔵国高麗郡加治(現在の埼玉県飯能市)付近から秩父にかけて活動していた武蔵七党の丹党に属する豪族。

加治左馬之助家信の五輪塔
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一番右が開山日惺上人の墓
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【高札場、郷藏】
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確かではないが、屋号に「蔵前」という家あり。そのお宅の上の辺ではないかと推定。
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【根堀地区】
都市河川観賞魚遊泳モデル事業となっている。
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【塞ぎのお札】
広瀬と根岸の境界に「道饗祭」のお札があり。
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この場所は、「西方地区の根堀取水口(T字路右)と呼ばれる場所で、広瀬と根岸・笹井をつなぐ道路で、延喜式内社廣瀬神社の「道饗祭」のときに結界とする場所。
「道饗祭」のお札を立てる場所は8ケ所ある。
そこは、昔からの道ということになります。

広瀬と根岸の境界らしく、電柱は「根岸」、根元の塀には「広瀬三丁目」と(笑)
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【白髭神社跡】
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ここに白髭神社があったときの参道は、小学校の敷地になっているが、跡地は、いまでも保存されている。
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【水富神社】
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手前の碑の揮毫は乃木希典元帥書
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【白髭神社】
鎮座地:狭山市根岸2丁目25番付近

昭和43年11月27日、水富小学校防音鉄筋校舎の新築により、参道が中断するため旧地(現在地からおよそ100メートル東)より現在の地に遷宮 せんぐうされました。なお、当社は明光寺の所有であり、また明光寺も旧白鬚神社脇にあったといわれ、おそらく応和2年(962)創建と伝えられる明光寺の守護神として創立されたと考えられています。

横から、いきなり境内に入りました。
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手水舎
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拝殿と狛犬
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拝殿、石の間、本殿
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本殿
瑞垣があり、近寄れない。
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主祭神:猿田彦命
合祀神:火産霊命、奥都彦命、奥都姫命
以前は、合祀神三柱を「竈三柱大明神」と称していた。
また、根岸の鎮守として祀られており「万(よろず)の救け神」として、氏子の厚い信仰を受けている。

以前は、村内の邪鬼や疫病を祓うために、上尾市平方の八枝神社の神輿を借り受けて区域内を渡御する行事があった。これはお獅子様と呼ばれ、近郷一円でリレー式に行われたもので、根岸では笹井から神輿を受け、一晩村内に安置し、翌日渡御を行い、夕方飯能市の芦刈場へ渡していた。毎年11月に行われていたこのお獅子様の行事も、交通量の増加により、昭和35年ごろから中止されたままとなっているそうである。
また、婦人の行事として、3月におしら講が社務所で行われている。

鳥居と社号標
参道が一般道になっている。
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【旧水富村役場跡】
白髭神社の参道の途中、水富公民館の向かいのJAが該当する。
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日光脇往還に出て、金山神社に向かいます。
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【金山神社】
鎮座地:旧字金井(笹井村の飛地か?)
創立その他不詳。
また金糞が発見された笹井村金井の田中敬二氏宅付近であり笹井の鍛冶師か鋳物師により建立された神社であると思われる。
昭和15年(1940)、行幸道路建設のため現在地に移転。
その後、昭和44年(1969)に根岸の久下三男氏(故人)により社殿が建立された。根岸白鬚神社の裏、西北の崖の中腹にひっそりと鎮座する。

参道が、現在はけもの道となっている。
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社殿
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祭神は金山彦之命、水速女之命(=弥都波能売神)
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お参りし終わって、道から金山神社のあったところを見る。
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【日光脇往還】
明光寺門前、久下家の前。
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風土記稿記述
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国道407号の旧道ですが、江戸時代の日光脇街道跡で、日光火の番街道、千人同心街道とも呼ばれていました。日光脇街道は八王子から日光まで40里、約160kmの街道です。
現在も豊水橋の手前から金井坂までの約500mが現存しています。この街道は根岸村を南北に通る街道で、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番御用のために整備された道です。
八王子千人同心とは江戸幕府の職制の1つで、武蔵国多摩郡八王子に配置されて徳川家に庇護された、甲斐武田家遺臣を中心とした郷士(ごうし)身分の幕臣集団のことです。
任務は武蔵と甲斐の国境の警備と治安維持でしたが、江戸時代に太平の世が続いて国境警備としての役割が薄くなると、日光東照宮の火の番御用が主な役目になりました。
現在でも日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号には、「日光街道杉並木」といわれる杉並木が残っています。

根岸村の役割は日光御用を主体とした人馬、荷物の継ぎ送りが主要任務でした。問屋が設置され、上りは高萩の宿、下りは扇町屋の宿まで継ぎ送りをしたそうです。根岸の問屋を勤めたのが、この前に屋敷がある久下(くげ)家です。

日光街道の交通量の増加により、入間川に渡船(わたしぶね)を設けることを幕府に出願し、文化8年(1811)に渡船場(とせんば)が開設され、その渡船場は「根岸の渡し」と呼ばれました。

【久下家】
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【明光寺】
所在地:狭山市根岸2丁目5−1

風土記稿記述
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応和2年3月(962年)明光上人の開祖に依ります。昔は高野山の直末寺で古義派でありましたが、延宝5年(1677年)中に新義派(智山派)となったと伝えられています。末寺は西光寺(広瀬)、深泉寺(明光寺内)、長栄寺(鵜ノ木)の3ヶ寺がありましたが、現在は長栄寺のみです。
また、大正15年4月11日、第23世住職盛範和上により武州高尾山から飯縄大権現を勧請し、以来4月11日を例大祭としています。昔は「埋め墓」「まいり墓」の両墓制という珍しい風習がありましたが、現在は火葬によるため、この風習は残っておりません。
なお、当寺は大本山高尾山出張所になっており、奥多摩新四国第44番霊場となっています。
寺宝の紙本地蔵十王図付他二幅は、市指定文化財です。
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参道入口左側の丸彫立像の地蔵菩薩を主尊とする供養塔は、文化8年(1811)3月に根岸村の人達によって穏やかな世の中が続くように願って建てられました。台座の銘文に光明真言と刻まれているので、光明真言読請供養塔であるこが分ります。像高が95m、全高は204cmです。
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右側の文字塔の供養塔は、天保14年(1843)3月に根岸村の光明真言講を願主に、世話人に和田くら女・まつ女、また村の人々の助力により、明光寺第20世住職法印隆伴の指導で建てられました。
 光明真言の24文字の梵字は、円形に刻まれて真下から時計回りに読み、日本語に訳すと「大日如来よ、智慧と慈悲を、たれてお救い下さい」との意味になります。全高は167cm、台座高は33cmです。
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山門
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本堂
本尊:地蔵菩薩
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○板 碑
右側の板碑は南北朝時代の康安元年(1361)11月に建てられたもので、主尊は阿弥陀三尊で観無量寿経の偈文(げぶん)が刻まれています。
中央の板碑は康安元年(1361)5月に建てられもので、主尊は釈迦如来一尊で法華経方便品の偈文が刻まれています。
左側の板碑は応永32年(1425)9月に建てられたもので、主尊は阿弥陀三尊で涅槃経の偈文が刻まれています。
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寛政2年(1790)造立の宝篋印塔
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○児童文学作家「土屋由岐雄氏」碑
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鉢植えの菖蒲が咲いていた。
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【馬頭観音】
根岸の渡し跡に向かって歩いていく途中、歩道橋の下に、文久2年(1862)造立の馬頭観音あり。
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【根岸の渡し跡】
「根岸の渡し跡」ですよね。
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現在の「豊水橋」
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私は、いままで気楽に「ほうすいきょう」と呼んでいたが、それは俗称であり、正しくは「とよみず橋」である。
豊岡町と水富村を結んでいるのだから当然だ。

日光に東照宮が造営された後、八王子の千人同心が火の番の任に当たり、慶応四年まで210余年にわたり往復した街道である。今でも県北を結ぶ重要路線である。
この川にはなぜか大正9年に橋が架せられるまで、根岸の渡し場が唯一の交通手段だった。増水期には舟で、渇水期になると坂橋を架し、通行には路銀を徴した。橋詰に建つ小島さんの家が最後の渡船場の主だった。根岸の渡しと呼ばれた様に、渡し場の権利は根岸村側で実権を握っていた事は、古文書によっても明らかである。

以上で、この日は終了し、昼食を皆で食べて解散となったわけですが、
当初予定に入れたものの、かなりひどい藪の中なので、大勢で行くのは無理と、省略した「三王塚(山王塚)」に池田さんが解散後に行って、写真を送ってくれましたので、載せておきます。
池田さん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。

【三王塚(山王塚)】
狭山市最古の富士塚です。

大型トラックが間断なく通過している道端から入りますが、枯れ木が行く手を阻み、2回ほど木枝で手に傷を追う始末となりました。
(池田さん)

参道?の標識
昭和7年の鎮火祭記念碑
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塚上の石祠
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「根岸村 河野古菴」 どなたでしょうか。
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明和七年(1770)と富士講としてはかなり古い。
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一旦抜けて、北側の工場側から見る。
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坂戸・入西(にっさい)地区を歩く(後半)

20150524

4月24日に行われた、歴史クラブの行事の後半です。
私は所用があり参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事を作成しています。

三福寺に続いて、龍光寺です。

【龍光寺】
龍光寺と入西神社が隣接している。
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龍光寺歴代住職墓域
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龍光寺中興開山隆圓和尚の墓石
風土記稿に、「新義眞言宗今市村報恩寺ノ門徒ナリ本尊釋迦ヲ安ス開山ノ年曆詳ナラス中興開山隆圓ナリ享保九年四月十三日示寂セリ」
とある。
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【入西神社】
入西神社の境内
幡柱石から社叢の森まで随分と距離がある。昔は全て鎮守の森だったのだろうか?
神社北側にある字竹之内(館の内)の低地が平安時代末期の入西氏の館趾という話がある。
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入西神社の社殿
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「当社は本来氷川神社であり、須佐之男命と稲田姫命を祀る社で、神仏分離まで竜光寺が別当を務めていた。また、当社は明治41年まで社が上宮・下宮に分かれていた。
現在、境内地前方に”オハヤシ山”と呼ばれる雑木林があり、古くはそこに下宮の社があったが、合祀時廃されて今は無い。
明治22年の町村合併により、小山以下17ヵ村が合併し、入西村が成立した。村名は、近世当地域を入西領と呼んだことに由来する。
明治41年に大字長岡の氷川・愛宕・日枝社、竹之内の稲荷社、善能寺の天神・琴平社、小山の氷川・八幡・熊野社、堀込の三島・日枝稲荷社、新堀の金山・稲荷・愛宕・日枝社、更に大正元年には北峰の稲荷社・同境内社稲荷神社が合祀され、社号を氷川神社から村名にちなみ入西神社と改め、小山・長崎・竹之内・善能寺・堀込・新堀・北峰の旧七ヵ村の村社となった。」
以上、「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より。

水盤に明治41年の年号が残る。
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昭和天皇から賜った御製記念碑
社殿の中にある写真で、よくわかった。
現在ある背後の工場が民家と森であったことがわかる。
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境内社(社名不明)
中に社が二つあったが朽ちている。
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境内社(社名不明)
合祀された稲荷社が三つあり、その何れか三つ共か。
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【竹之内分館前】
現代の遺跡
最近の科学進歩?は少し前のものが遺跡となる。
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現代の遺跡の説明板
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【泉福寺薬師堂】
長岡公会堂
風土記稿に、「泉福寺 藥王山ト號ス天台宗仙波中院門徒ナリ本尊地藏ヲ安セリ」とある。
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泉福寺薬師堂の地蔵菩薩立像
かっての泉福寺本尊か
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瑠璃光薬師如来
薬師堂本尊
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瑠璃光殿の額
仙波中院の記銘がある。
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薬師堂の脇にある長岡公会堂の用水解散記念碑
十字用水南堀解散記念碑
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薬師堂の脇にある長岡公会堂の用水解散記念碑
十字用水南堀解散記念碑
風土記稿に、「彌陀堰 村ノ西ノハテニアリ堀幅七八尺其所ハ總テ岩石ニテ容易ニ穿チカタキヲ昔堀篭村彌陀ノ靈夢ニ由テ新ニ穿チ通シテ堰ヲ設テ水流ノ下十ケ村ノ用水トナセリサレハ古名ヲ負テ彌陀堰ト云且長岡十ケ村用水トモイヘリ」とある。
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【長岡墓地】
板碑あり。
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大日一尊種字 形式から十三世紀後期造立と思われる。
下部表面が剥離している。
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阿弥陀三尊種字の文字塔
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自然石に刻むこの形式は結構珍しい。総じて大型のものが多い。
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享保元丙申天の紀年銘がある。
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【萬福寺】
風土記稿に、「新義真言宗今市村報恩寺ノ門徒ナリ天徳山地蔵院ト號ス相傳フ當寺ハ當所ノ名家淺羽氏ノナリト…」
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本堂軒の半鐘
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寛政六年造立宝篋印塔
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宝篋印塔基礎正面の種字
種字はシッチリア宝筐印陀羅尼(三世一切の如来:最勝尊)を刻す。
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万福寺の板碑
埼玉県指定考古資料(昭和40年)
風土記稿にも「古碑 客殿ノ傍ニアリイト古質ニシテ…」と記載し、図示説明の後に、「此碑近キマテ用水溝ノ梁ニ用ヒテ有シヲ見出シテ爰ニ移建シリト云傍ニ貞治三年甲辰七月七日ノ斷碑アリ」
各地の発掘調査により、板碑は墓石、供養塔としてではなく、色々な用途に二次使用されたことが分かっている。
近世以前の人は、板碑をさほど神聖視していなかったということか?
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万福寺の板碑(上半部)
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万福寺の板碑(下半部)
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万福寺の断簡板碑
これが風土記稿に載っている断簡板碑か?
非常に長い間、表面を上に向けていたと思われ、紀年銘部分は完全に磨耗あるいは表面剥落している。
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万福寺の板碑の説明板
下の七黨系圖記載の行業の三男の五郎兵衛尉行長が万福寺を再建している。
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万福寺の板碑の説明板
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【八幡神社】
浅羽氏の祖、浅羽小太夫行成(行業)という人物が功有り、右大将源頼朝の命により鶴岡正八幡を頼朝から賜った地の一つである浅羽庄へ勧請したという。
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本殿と幣殿・社殿
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武藏七黨系圖に「入西資行―浅羽小太夫行業―三郎行親―小三郎行元(一に行光)―三郎行信―新三郎行家、弟三郎太郎行季―小三郎経行。行信の弟中務丞行忠―泰行(弟中務丞行澄、其の弟長岡四郎盛行)―太郎五郎行氏(弟二郎五郎行村)―左近将監氏盛(正応六年入道果円一味・為自害。弟重氏)。行元(行光)の弟四郎維行―二郎行胤(兄四郎維平、弟三郎行道―二郎高実)―太郎某(弟小四郎行久―平太郎信行)―四郎種村。四郎維行の弟五郎兵衛尉行長(頼朝奥州合戦有軍功)―民部丞行直(養子)―左衛門尉入道俊直(弟二郎入道行季―又二郎季隆、行季の弟四郎入道頼仲)―左衛門尉大炊助重直(正応六年合戦。弟に三郎太郎兼直・弘安正応合戦、彦五郎俊家・正応合戦、伊予房賢慶、民部房某・政所)―太郎実直」とある。

御神木
老木から今年も若葉が出たようだ。メデタシメデタシ
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境内社・若宮八幡社
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境内社・三峰神社
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境内社・高良社
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ここに社号標がありました。
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これで、この日の予定を全てクリアし、今西バス停から北坂戸駅に出て帰途につきました。


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坂戸・入西(にっさい)地区を歩く(前半)

20150523

歴史クラブの行事で、4月24日に行われました。
私は所用があり参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事を作成しています。

坂戸市は弥生時代、古墳時代にも人が住んでいたところで、紛200基の古墳が見つかっています(多くは消滅していますが)。東部では東山道武蔵路跡が見つかっています。また、約700基の板碑があります。坂戸市立歴史民俗資料館の展示によると、坂戸市東部の勝呂地区には名号板碑、西部の入西地区には大日種子板碑が多く、それぞれ中世の初め頃からこの地を支配した勝氏と浅羽氏の信仰と関係があると考えられるそうです。中世の館跡と称される場所も多く残っています。

ルート図
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本川越駅改札口に集合して、東上線・川越市駅⇒坂戸駅⇒大橋行きバスに乗車、北峰バス停下車して歩き始めました。

【北大塚墓地】
ここには嘉元4年(1306)の大日種子板碑が、近くの石上神社神職の木下家墓地脇に所在する。
惜しいことに左上部が失われている。
磨耗しているものの銘文は判読出来る。
胎蔵界大日如来種子(アーウンク)を荘厳体の薬研彫で大きく刻み、中央の左右に梵字で光明真言四行、中央に紀年銘そして下部左に敬白、右に造立者名。
この板碑の特徴として、石材に嵌め込む本来の立て方を保持していることが挙げられる。
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同じく、木下家墓域にあった明徳三年の青石塔婆。
この頃になると板碑は普及品が殆どを占める。
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石上神社に向かう途中、北峰と北大塚を区切る用水際に馬頭観音あり。
峯村との村境に大塚村の人々が造立したもの
中:文化五年 左:天明二年 右:不明
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【石上神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市北大塚131
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大塚村の産土神で御神体は長四尺横一尺程の赤い石と伝わる。
由来碑には、
「石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(1302)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(1590)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拝殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(1767)揮毫し篆刻奉納したものである。

文化六年(1806)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拝殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである。

社額
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向拝の彫刻
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社殿裏にある成願寺2号墳(前方後円墳:50m)
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墳頂にある半鐘
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○入西のビャクシン
廻りの筒は肥料注入用の穴。
案内版には、「埼玉県指定天然記念物 入西のビャクシン 坂戸市北大塚一三八 昭和六年三月三十一日指定
このビャクシンは、樹高十二メートル、樹周約三メートル枝下五メートルの大木である。幹も枝も赤味がかった褐色で、たてに無数の裂け目をみせたまま大きくよじれているので、土地の人々は「ねじり木」と呼んでいる。
昭和五十五年(1980年)四月  氏子中」
ビャクシンは、ヒノキ科の常緑針葉針葉木で、正式名称は「イブキ」であるが、ビャクシンと呼び慣わされている。樹高は普通十五~十七メートルで、巨木は四国、和歌山など温暖な地方に多い関東では、直径一メートル以上のものはきわめて少なく、鎌倉の建長寺、湯河原の城願寺のほか県内では川口市芝の町徳寺にある、よじれて奇異な樹相を呈しているこのビャクシンには、次のような伝説がある。
「住古、諸国巡錫の、ある名僧が、この地にたたずみ、手にした枝を地面に突き立て、枝葉茂りて栄ゆるようにと祈ったところ、祖の枝が出、葉がついた」
昭和五十一年三月十五日」
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石段由来碑
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【成願寺】
曹洞宗、地名になっている。
稲荷神社が並んで建つ。

味わいのある稲荷神社社殿と対照的な成願寺社殿
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成願寺本堂
明治初期、境内は東西三十八間南北二十五間九百六十九坪であった。曹洞宗田波目村惠源寺の末、無量山と号す。
風土記稿には、「古刹でかっては勝れたる伽藍であった。本尊は薬師を安す」といったようなことが記されている。
写真中央が本尊薬師如来坐像、左は阿弥陀三尊立像。
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稲荷社
珍しい茅葺き
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【北峰の石橋供養塔】
説明板
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説明板は、かなり剥落していて肝心なところが読みにくい。
以下は池田さんの独自解読です。
坂戸市指定史跡(昭和59年指定)
正面中央に浮彫地蔵菩薩立像、台座四方に一部判読できない部分があるものの、「入間郡峯村の(福生寺)大徳元□、自得□□の二名の僧と□沢安兵衛、同長兵衛らが發願、同村の甚兵衛らが勧進し、近村約50ヶ村の助力により寶曆五年に造立」といったような銘文がある。
昭和59年に堂を新設した。
左は馬頭観音の文字塔で嘉永六年造立
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○葛川と北峰橋
この橋の近くに北峰の石橋供養塔あり。
葛川:毛呂山町、坂戸市域を流下し高麗川に合流する。
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【北峰の福生寺跡地】
風土記稿に、「新義真言宗今市村報恩寺門徒ナリ本尊十一面觀音ヲ安ス」
明治十四年の郡村誌には福生寺の記載が無い。江戸末期から明治初めにかけて廃寺になったのであろう。
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○北峰の天和三年大日如来
坂戸市有形民俗文化財(平成五年指定)
グルグルと赤い布が掛けられお地蔵さんのようになっているが、坂戸市最古の石造大日如来である。
三百年以上経過しているにも係わらず、黴などによる白濁がなく、磨耗が少ないのは堂内にずっと安置されていたためであろう。
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北峰の天和三年大日如来の説明板
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北峰の天和三年大日如来の台座右「武刕入間郡峯村」
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北峰の天和三年大日如来の台座左「天和三癸亥年十一月」
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【北峰古墳群】
北峰の福生寺跡地傍、北峰の天和三年大日如来そばの古墳。
北峰にはこのような小型古墳がいたる所にある。(北峰古墳群)
この古墳は代々此の家の一族に大事にされてきたようだ。
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河原石の葺石が認められる。
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北峰古墳群の発掘現場に出くわす。
左側の円形部分が古墳とのこと。
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参道らしき凹状の路が右に。
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【北峰稲荷神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市北峰80
北峰稲荷神社への道にあった藤の木
どうして鎖で固定されているんでしょうか?
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北峰稲荷神社の桜
桜の葉が青々としています。
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二週間前は満開
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北峰稲荷神社傍の古墳です。北峰古墳群です。
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その隣にも古墳が二つあり。
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【掘込の牛久保家供養塔群】
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由来碑
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関東七十二箇所寅薬師を巡礼納経したときの供養塔
「寅薬師巡礼」とは寅の日に薬師如来に参ることですが、「関東七十二箇所寅薬師」で調べてみると、「中武蔵七十二薬師霊場」というのがあるそうで、埼玉県の中央部の4市4町にまたがるものです。札所1番を務めるのは坂戸の龍福寺とのことです。関心のある方は七十二薬師の内訳も調べてみたら面白いと思います。
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湯殿山、月山、羽黒山と西国、坂東、秩父三十四箇所供養塔
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四国八十八箇所、奥の院二十箇所を巡礼納経したときの供養塔
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六字名号塔 承和元年三月十五日弘法大師空海六十一歳の書
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甲子大黒天 文久四年正月甲子日當所牛久保万右衛門 八十二才とある。この高齢では、現在でも水杯での諸国巡礼行脚の旅であろう。それにしてもパワフルな爺様だ。(池田さん感嘆)
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馬頭観音
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明治三十一年九月十二日造立の馬頭観音
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【伝掘込館跡】
掘込の牛久保家の向かい
掘籠村は家康入府の後、多田所左衛門の知行所(五百石)となった。此処にその陣屋が有ったと伝わる。
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堀跡?
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【大法寺】
所在地:埼玉県坂戸市堀込63
真言宗智山派
児玉党浅羽氏から分かれた堀籠氏の居館であったといわれるが定かでない。大法寺南西の三福寺は後北条氏が兵を駐屯させた城郭構えの寺院である。天正十八年には豊臣秀吉の小田原攻め別働の前田利家らによって焼かれている。大法寺館も当時は後北条氏に従った武士たちが詰めていたと思われる。
堀込地区は百m足らずの間隔で四つの城館址が密集している。
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風土記稿に、
「金生山ト號ス新義眞言宗今市村報恩寺ノ末ナリ開山堯龍慶長十年六月寂スト云本尊不動…」とある。
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【三福寺】
所在地:埼玉県坂戸市小山259
浄土宗三福寺は平安時代に創立の起源を持つ古刹である。武装寺院だったのかはわからないが戦国時代には後北条氏の庇護を受けていたと思われその軍勢の駐屯地として使用された陣城という。
天正十八年に後北条氏は豊臣秀吉との和平交渉が決裂し、関東の諸城を改修して兵を入れて上方勢の来襲に備えた。比企郡の後北条氏の有力支城は松山城である。上州方面から攻め寄せた前田利家と上杉景勝らは松山城の周辺諸城を攻め潰しつつ行軍した。その時に三福寺も兵火にかかり伽藍や宝物の多くが焼失したという。
東の農地側に折りと思しきものがあった。
やはり陣城趾のようだ。

本堂
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三福寺本堂裏の古墳
本堂背後には古墳群があると言われている。見回してもそのようなものは無かったが、これが古墳?
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三福寺の東方飛来薬師如来説明板
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三福寺の本尊薬師如来坐像
風土記稿に、
「瑠璃光山ト號ス浄土宗ナリ本尊薬師立像ニシテ長四尺二寸春日ノ作ナリ…」
とある。全高が大体同じなので坐像の誤りと思われる。
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三福寺本堂
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三福寺境内の藤の花
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続き、後半を読む



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久能山東照宮

20150520

鎮座地:静岡市駿河区根古屋390番地

5月13日(水)、歴史クラブの春季定例見学会ということで、参加者41名で「富士山本宮浅間大社」と「久能山東照宮」にお参りしました。
「富士山本宮浅間大社」に参拝した後、昼食を新東名高速のSAで採り、日本平ロープウェイの乗り場までやってきました。
このロープウェイが日本平と久能山を結んでいます。

ロープウェイから振り返ると、高い塔のあるところが日本平ロープウェイの乗り場前の駐車場
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もう一台行き交います。
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浸食作用で出来た「屏風岩」が見物なのだが、この日は超満員の状態でいい写真が写せず、下見(3月)のときの写真を載せておきます。
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着きました。
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久能山側のロープウェイ乗り場の横にある、樹齢500年の楠木。
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駿河湾が一望に。
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昨日台風が駆け抜けたが、まだ風が強い。
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受付から入ると、石段の上に楼門が聳える。
後水尾天皇の御宸筆の額が掲げられているので、「勅額御門」とも称する。
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久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。

家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存せず)、楼門が増築された。

なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった。

造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。

立派な楼門
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随身
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彫刻も見事
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内側には獅子狛犬が置かれていました。
獅子と狛犬の配置については、『禁秘抄』と『類聚雑要抄』に共通して獅子を左、狛犬を右に置くとの記述があり、『類聚雑要抄』ではさらにそれぞれの特徴を「獅子は色黄にして口を開き、胡摩犬(狛犬)は色白く口を開かず、角あり」と描いている。
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楼門をくぐると、ちょっとした広場があり、その先に二の鳥居があり。
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右手には厳島神社と稲荷神社が。
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厳島神社
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稲荷神社
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神厩
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二の鳥居の下の、元和3年(1617)奉納の手水舎があり。
ということは、2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されたときのものである。
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家康梅
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二の鳥居をくぐると、石灯篭が並ぶ。
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家光により建立された五重塔跡。
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石段上に唐門があるが、参拝者は右から回り道。
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堂々たる華麗な唐門
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狛犬ではなく、獅子が頑張っている。
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右に廻ると、正面上に神倉があり。
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脇のモミジの若葉が燃えている。
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石垣も、キチッとした見事な造り。
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神楽殿の横に(株)バンダイからの献納品が陳列されていました。静岡に大きな工場があります。
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家康公モデルのガンダムのプラモデルを奉納しています。
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その他にも、いろいろ面白いものがありました。
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愛宕神社
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その横の「河津桜」のさくらんぼが可愛かった。
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日枝神社。
もとは、薬師如来像が安置された御本地堂だったが、明治三年神仏分離により日枝神社と改められたもの。
拝殿・本殿と同じ元和三年の建造らしい。
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歴代将軍の葵紋が陳列されていた。
見比べると、違うんですね。
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いよいよ社殿です。
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瑞垣内に入って、まず唐門を見に行きます。
扉の彫刻が見事。
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次いで、まずは瑞垣内側の彫刻。
全部撮りましたが、そのなかから幾つか紹介。
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実に豪華な社殿
華麗な日光東照宮の権現造りは、ここから始まった。
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拝殿内部
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御祭神は、徳川家康公(東照公)
相殿に、豊臣秀吉公、 織田信長公

装飾も華麗です。
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拝殿内部の欄間も豪華極まりなし。
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本殿
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廟門
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修復された廟所の石垣。
この上に「添え石垣」が保存されている。
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廟門から御神廟までの間をつなぐ参道です。左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が据えられており、厳かな雰囲気が漂っています。
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あらためて、鳥居がある。
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廟所宝塔(神廟)に通じる石段。
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廟所宝塔(神廟)
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しばしば話題となるのが、家康の御霊を久能山から日光に移した際、遺体も移したか否かだ。改葬は大化の改新で知られる藤原鎌足の死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事にならったものとされ、「遺体も移ったと考えるのが自然」とみる識者もいる。ただ、落合宮司は「家康公は今もここに眠っていると思っている」と話す。「四角い棺(ひつぎ)の中に正装して座し、西を向いているはず。遺体を日光に運んだのなら、久能山に大きな墓を建てる必要はなかった」
 改葬を取り仕切った僧・天海が「あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という和歌を残していることもその証左だという。「くのなき」は「躯(く)=むくろ=のなき」と読めるからだ。
 久能山の神廟も日光の奥宮も、これまで発掘調査は行われていない。いずれにせよ、「御霊は久能山と日光にあり、人々を見守っているのは間違いない。

ここにいたボランティアのガイドさんから、この宝塔は、一つの石から全部彫りだしたもの、と聞いて吃驚した。
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たしかに屋根の庇の部分には、どこにも継ぎ目が無い。一枚ものの証拠である。
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家康公の愛馬を埋めた所
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その昔、愛馬は夜になると家康公神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。

まわりの石垣も、丁寧に積まれているのがわかる。
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さらにガイドさんから、角の柱とさらに柱二本分が一つの石から造られていると教えられ、吃驚。
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横から見える場所から、下の土台の張り出しまでも一枚岩となっていると教えられる。
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他の場所で、一枚岩であることが、入った亀裂でわかるのを見つけた.
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更に面白いことを、このガイドさんから教わった。
石段の下で立っている位置が、神廟の真西にあたる。
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どういうことかというと、上の広場の参道(正中)、石段、踊り場での「正中」一より、右にずれないと、灯篭と宝塔が一線にこない。
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踊り場での「正中」の位置だと、このように灯篭と宝塔がこんなにズレてしまう。
宝塔の基壇(水平)に対して、広場や石段が傾いているのがわかる。
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熱心なボランティアのガイドさんのおかげで、教わらないとわからない貴重な経験をした。
とてもありがたかった。

宝塔の近くには、こういうものもあった。
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満足して下に降り、武田信玄により築城された城である「久能城」の痕跡を探した。
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信玄の軍師であった山本勘介が掘った(掘らせた?)井戸が残っていた。
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以上で、この日の定例見学会の予定は終了。
帰途につきましたが、途中でバスが故障するアクシデント!
それでも予定より一時間半遅れで済んだのは、助かりました。


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奈良別命(ならわけのみこと)/日本の神々の話

20150518

2013年10月に、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、熊谷市の「奈良神社」を訪ねましたが、その神社の祭神でした。

その記事を読む


豊鍬入彦命の4世の孫。仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命が任を終えて、開拓し奈良郷を築いたとされる。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って当社、奈良神社を創立したという。

『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

奈良別に関する伝承を有する神社。
○宇都宮二荒山神社 (栃木県宇都宮市) - 奈良別王による創建という。
○野木神社 (栃木県下都賀郡野木町) - 奈良別王が下毛野国造赴任の際、菟道稚郎子命の遺骸を奉じて祀ったという。
○奈良神社 (埼玉県熊谷市) - 奈良別命が国造の任を終えたのち、同地の開拓に携わったという。

注)菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の名前が出てきたので調べてみたら、なかなかに興味を引いた。
名前の「菟道」が山城国宇治(現・京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。
中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。


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富士山本宮浅間大社

20150517

鎮座地:(本宮)静岡県富士宮市宮町1-1、(奥宮)富士山頂上

5月13日(水)、歴史クラブの春季定例見学会ということで、参加者41名で「富士山本宮浅間大社」と「久能山東照宮」にお参りしました。

バスから降りたのが、ちょうど大鳥居の前。なによりもこの日は富士山がきれい見えたのが嬉しかった。
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大鳥居
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社号標
社格等:式内社(名神大)、駿河国一宮、 旧官幣大社、別表神社
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富士信仰の中心地として知られ、境内は広大で、本宮社地で約17,000m2になるほか、富士山の8合目以上の約385万m2も社地として所有している。本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧玉池」があり、国の特別天然記念物に指定されている。

当社は木花之佐久夜毘売命を祭神に祀っており、祭神にまつわる桜を神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。また、古来より富士氏が大宮司を務め、「日本三大宮司」の1つに数えられた。古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地は大宮・村山口登山道の起点に位置することもあり、古くから登山を行う修験者からの崇敬も受けていた。

富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。

江戸時代の屋代弘賢による『古今要覧稿』には「二神を祭る」という表現もあるが、現在は上記のように「浅間大神は木花之佐久夜毘売命の別称」としており、習合した1柱の神格を主祭神としている。また配祀神については、『富士本宮浅間社記』では太元尊神と大山祇神としている。太元尊神は国常立尊とされるが、明治初年以降から現在に至るまでは、太元尊神に代えて瓊々杵尊を配祀神の1柱としている。

社伝『富士本宮浅間社記』によると、垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。そして景行天皇の時代、日本武尊は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮(現 山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀った。のち大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。

貞観6年(864年)から貞観8年(866年)に多くの被害を出した富士山の貞観大噴火に対して、朝廷では占いにより噴火を当社の祭祀怠慢によるものとした。その結果甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり、結果的に浅間信仰は甲斐側にも広がることとなった。

きもちのいい参道をいく。
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二の鳥居
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狛犬
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源頼朝の銅像(富士の巻狩り)
社伝によると建久4年(1193)源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、当大社に流鏑馬を奉納し武運長久・天下太平を祈願した。
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鏡池にかかる太鼓橋(神橋)
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桜の馬場には、5月5日に行われた流鏑馬の名残が残っていた。
立っているのは、観客席と馬場を分ける仕切りの柱です。
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ここの流鏑馬は、天正5年(1577)の『富士大宮御神事帳』、慶安3年(1650)の『富士本宮年中祭禮之次第』などにも記載されている800余年の伝統を持つ神事です。
流鏑馬自体は、5月5日に奉納されますが、これに先立ち様々な祭儀が行われます。これらは、本宮祭儀を行うための重要な意味を持っています。

手水舎
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楼門
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その前に「鉾立石」があり。
その昔4月・11月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際鉾を立てた石。
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堂々たる威容の楼門
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東西に回廊がまわります。
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随身
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楼門をくぐって中に入ると、楼門の脇舎に見事な絵が奉納されていました。

「富士爛漫」/三谷祐資
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「煌雲昇陽」/三谷祐資
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拝殿
拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。
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やはり彫刻が綺麗。祭神の木花之佐久夜毘売命にちなんで桜の意匠も目立ちます。
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主祭神:木花之佐久夜毘売命(別称:浅間大神)
配祀神:瓊々杵尊 - 木花之佐久夜毘売命の夫神。大山祇神 - 木花之佐久夜毘売命の父神。
ご神体:富士山(神体山)

拝殿と本殿
(3月の下見のときの写真)
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「浅間造」の本殿(重要文化財)
関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向により、慶長9年(1604年)に造営。
桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は檜皮葺であり、この本殿の特徴的な形態は「浅間造」と称される。
各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が附され、蟇股には菊花紋や葵紋や五三桐紋が並んで附されている。
また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。
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神紋は「棕櫚の葉」。天狗の団扇のようにみえるが、棕櫚は、神霊の憑代で、富士大宮司の紋。
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本宮境内の摂社・末社に移ります。
本宮境内には、摂社・末社あわせて16社が鎮座。ただし、10社(次項)は安政大地震で大破したため内陣に合祀され、社殿はない。事実上、次の摂社2社と末社4社が境内社となっている。

内陣に合祀された末社(安政大地震で社殿が大破したため、内陣に合祀)は次のとおり。
荒神社(荒御魂神)、水神社(弥都波能賣神)、牛頭天王社(神速須佐之男命)、日之宮社(天照大御神)、伊勢社(豊受大神)、八幡社(応神天皇)、辨天社(市木島比賣神)、追加明神(不詳)、見目社(岐神)、飯酒王子社(不詳)

社殿左側に、摂社・三之宮浅間神社(淺間第三御子神) 
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同じく瑞垣内に一緒に置かれている「富士山 浄砂」
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社殿右側に、摂社・七之宮浅間神社(淺間第七御子神) 
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同じく瑞垣内に一緒に置かれている「富士山頂奥宮境内地行政訴訟勝訴之碑」
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それで気になったのが三及び七之宮浅間神社です。他の例えば一之宮神社とかは?
ネットで調べてわかったのは次の3社だけ。
若之宮浅間神社(主祭神:浅間第一御子神)/富士宮市元城町32-28
二之宮浅間神社(主祭神:浅間第二御子神)/富士宮市光町2-1
米之宮浅間神社(主祭神:木花開耶姫命(浅間第八御子神・十八御子神))/富士市本市場582


拝殿手前左側に置かれている「火山弾」
富士山噴火のときに落下したもの。およそ100Kg。
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一緒に置かれていた「南極の石」
富士浅間大神を奉斎している砕氷船「ふじ」の乗組員からの奉納。
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玉垣から出て、「湧玉池」のまわりに境内社があります。

末社・天神社(菅原道真) 
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天神社の前に「筆塚」があり。
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末社・水屋神社(御井神・鳴雷神) 
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ちょうど藤が終わりかけていた。
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境内に残る神仏混合時代の灯篭
「富士浅間大菩薩」とあり。
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末社・稲荷神社(宇迦之御魂神・大宮能賣神・猿田毘古神) 
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湧玉池にかかる「神路橋」
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水が澄んでいて、実に綺麗。
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末社・厳島神社(市杵嶋姫神) 
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気持ちがいい。
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湧玉池から神田川となって出ていきます。
湧出量毎秒3.6トン、年間を通じて水温13度だそうです。
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駿州赤心隊の碑
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御神幸道首標の碑(丁目石)                                              
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平成の名水百選「湧玉池・神田川」の碑
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神田川に沿って、駐車場に戻ります。
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本当に、この日は富士山がきれいに見えてよかった。
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親切に案内して下さったガイドさんに感謝しつつ出発し、途中昼食休憩を挟んで、久能山東照宮に向かいました。


久能山東照宮の記事を読む



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神田祭り神幸祭など

20150515

5月9日(土)に、歴史クラブ行事として神田祭り神幸祭見学を企画しました。
将門首塚のところで神幸祭を見学してから、神田明神で将門公御神像が公開されているので、神田明神に参拝するという日程です。

地下鉄大手町で降りて、首塚の所に行くと、既に人だかりがすごくて、太鼓の演奏がされていました。
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伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。
その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外地図にある首塚である。
築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

しばらく待っていると、神幸祭行列がやってきて、首塚で神事が行われ、その間行列の皆さんは思い思いに休憩しています。
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諌鼓山車(かんこだし)に乗っているだいこく様とえびす様は乗ったままで休んでいた。
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神馬は、ちょっと離れたところでのんびり。
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やがて時間となり、先導車が、そろそろ行こうかと。
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行列が動き始めます。
1000人以上の行列とあって、ほぼ全部撮りましたが、ここでは代表的なものを載せておきます。

鼻高面(猿田彦)
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江戸っ子「みこしー」は車に乗って参加(笑)
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諌鼓山車(かんこだし)にはだいこく様とえびす様が乗っている。
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由布籠
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獅子頭山車
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錦旗
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七色旗
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御楯、御鉾
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錦蓋
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一之宮鳳輦(大己貴命おおなむちのみこと=大国主命)
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市女笠
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随神
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紫翳と二之宮神輿(少彦名命)
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真榊
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菅蓋
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三之宮鳳輦(平将門公)
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四神旗
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由布籠山車
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神幸祭行列を見送った後、将門首塚にお参りしました。
お参りする人でごったがえしていました。
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首塚の前に祭壇が設けられていて、お賽銭を入れるのに一苦労。
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祭壇があって、奥まで入れないため、板碑の奥にある本来の塚は、皆さん見なかったようなので、ここに載せておきます。
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そのあと大手町の、とあるビルの地下にあるリストラン街で昼食後、大手町から新御茶ノ水まで一駅地下鉄を利用して神田明神にお参りしました。
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すごい人です。
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参拝する人の列も、随身門の外まで延びていました。
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将門公御神像も拝殿に安置されていました。
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神田大明神の神輿
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頂点の鳳凰を横から
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背面の見送りも豪華です
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境内に二つの山車が置かれていた。

岩本町岩井会の「桃太郎人形山車」
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魚河岸水神社、魚河岸会の「賀茂能人形山車」
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そして気になったのが、こういう人たち。
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やがて、この人たちが拝殿に入ってお祓いを受けました。
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なかなか念入りな扮装です。
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着ているハッピから「文化資源学会」の皆さんだとわかりました。
そして、夕方からある「神幸祭附け祭り」の参加メンバーに名がありますから、お祓いを受けてから「附け祭り」に向かうのだということがわかりました。
「文化資源学会」というのは、これまでの豊かな文化資源を有効に活用し、新たな文化資源を創成して未来へ引き継ぐ責任を果たそうと活動している団体とのことです。

今年は「神幸祭附け祭り」は見ることが出来ませんでしたが、次回はぜひとも見たいと思っています。

拝殿から出てきた文化資源学会の皆さんの粋な扮装をちょっとご紹介。
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ついでに境内にいた「あかぼうくん」も紹介(笑)
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境内社「小舟町 八雲神社」の神輿が公開されていたので、参拝。
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境内で、一時間半自由行動でいろいろと楽しんだあと、帰途につきました。

(了)


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米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ) /日本の神々の話

20150514

孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。応神天皇に「しとぎ」を作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。

小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。
ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。

米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。

富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図での米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。

表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」とする見解もある。


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江戸東京博物館「大関ヶ原展」「広重・名所江戸百景展」&横網公園・旧安田庭園

20150512

5月7日(木)、歴史クラブ行事で行ってきました。

両国駅から歩いてすぐ、江戸東京博物館はあります。
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ここで「大関ヶ原展」が開催されています。
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【大関ヶ原展】
会場の入り口を入ると、3組の「関ヶ原合戦図屏風」が展示されていました。
とても巨大に屏風です。
全部は当然載せても、何だかまったくわからないので、部分を少し載せておきます。

「関ケ原合戦国展風」/大阪歴史博物館
江戸時代初期 八曲一双
江戸時代初期に描かれた現存する最古の関ケ原合戦図屏風で、八曲というかなり大型のものである。本作品は、徳川家康の養女である満天姫が、慶長十七年(1612)に津軽信牧に嫁ぐにあたって持参した嫁入り道具のうちの一つで、その来歴から「津軽屏風」と呼称されている。
 右隻には、赤坂に向かう徳川家康の軍や、石田三成が入った大垣城、そして杭瀬川の戦いの様子などが描かれ、左隻には関ケ原合戦の当日の様相が描かれている。

石田三成が入った大垣城の部分
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杭瀬川の戦いの様子
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「杭瀬川の戦い」とは、いよいよ家康が着陣したため、西軍が動揺いちじるしいため、その士気を回復するため、島左近が兵500を率い、宇喜多秀家が兵800をつけ、杭瀬川で東軍に戦を仕向けたもの。
東軍中村一忠が応ずるが、誘われ深入り。有馬豊氏の隊が救援、これも深入り、壊滅。
家康はこの敗戦を収束させるため、本多忠勝を派遣。敗兵を収容した。

家康が赤坂の地に到着する様子
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東軍諸将が、家康本陣にしようと赤坂の「岡山」に築いた陣地の様子。
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「関ケ原合戦国展風」/鳥取・渡辺美術館
江戸時代 六曲一双
鳥取県にある渡辺美術館が所蔵する関ケ原合戦図屏風。各所で刃を交える武将達の姿が躍動感溢れる筆致
で描かれている。
右隻の第一扇に陣幕を張って諸将と共に着座する徳川家康と思われる武将の姿が認められるほか、関ケ原に参集した武将の旗や馬印が随所に描かれるが、全体的に構図は乱戦の様相を呈している。

徳川家康の陣
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島津の陣に攻め込む井伊直政隊
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「関ケ原合戦国展風」/福井・敦賀市立博物館
菊池容斎画 安改元年(1854) 六曲一双
関ケ原合戦の様相を題材に措かれた屏風で、左隻は藤堂高虎や福島正則、井伊直政、本多忠勝など徳川方の諸将の軍勢を中心に描かれ、右隻には島津義弘や字喜多秀家といった石田方の陣容が描かれでいる。また小早川秀秋や脇坂安治ら内応軍の姿も配置されている。石田三成の陣は右隻の左下に「大一大万大吉」の旗印とともにあり、また右隻中央の上部には面体を頭巾で覆った大谷吉継の姿が見える。ただし徳川家康の軍勢の姿ははっきりと見えない。この屏風を描いたのは、幕末から明治維新にかけて活躍した狩野派の絵師菊池容斎。本作品は合戦の陣立てや合戦の流れを記録的に描いたものではなく、参戦した武将の旗などを描写しつつ、躍動感のある戦いの姿を表現して、歴史物語として関ケ原合戦を主題化した作品となっている。

画像は省略しました。

あと出展されていたものの中から、特に気に入ったものを数点載せておきます。

直江状
家康を怒らせた直江兼継の反論と伝えられる書状
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金扇馬標
戦場で家康を象徴した金の扇
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短刀 銘吉光 名物「包丁藤四郎」
大谷吉継が所持していたもの。
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槍 銘藤原正真作 号「蜻蛉切」
本多忠勝が所要した天下の名槍
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それから、常設展の階に行き、広重の「名所江戸百景」展を楽しみました。

再現された日本橋を渡ります。
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【広重・名所江戸百景展】
これは、前期と後期にほぼ半分ずつ出展され、前期と後期で総入れ替えされています。
私は前期も後期も見ました。
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幾つか紹介しておきます。

「日本橋雪晴」
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「両ごく回向院元柳橋」
いま大相撲が開催中ですが、相撲ヤグラを手前に配しています。
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「昌平橋聖堂神田川」
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そのあと、常設展を時間が許すだけ見ました。

【常設展】
「広重・名所江戸百景」のうち、「亀戸梅屋鋪」の版木による多色刷りの展示がされていた。
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「南総里見八犬伝」の展示
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神田明神の山車「関羽」の再現
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千代田区東神田の都立一ツ橋高校地層の発掘調査。
ここは、中世までは日比谷入江近くの葦の原で、江戸初期に埋め立てられて、寺院の一角となった。1657年の明暦の大火により焼失した後、長屋が建てられ、町屋のまま明治を迎えた。
その後震災、空襲の2度の惨禍にあい、今日にいたった。
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歌舞伎「助の由香縁江戸櫻」の再現
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それから、参加者全員で7階の「桜茶寮」で昼食。

横網公園に向かう途中、三階のテラスで、「浅草寺旧本堂大棟部分復元」を見た。
慶安2年(1649)に完成、昭和20年(1945)戦災炎上に至るまで大棟にあったもの。
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【横網公園】
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったという。震災後、その3万8000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も1930年9月1日に開園した。翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。しかし、1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。他には関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり、横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が強い公園となっている。

幽冥鐘の前で、先輩から話を聞きました。
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幽冥鐘は、関東大震災時に遭難死した死者追悼の目的で、中国仏教徒から寄贈された鐘です。
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慰霊堂は、外部の大規模な修復工事中でした。
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内部には、素晴らしい空間が広がっています。
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有名な建築家・伊東忠太氏の設計した空間は見事です。
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外部の工事の囲いに、装飾をマスコット化した「レイレイ」、「マモリュウ」、「ライオー」の絵があった。
この日は内部にあった「マモリュウ」と、復興記念館にある「ライオー」だけしか確認できなかった。
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続いて復興記念館です。
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よく見ると、「ライオー」はかなり傷んでいますね。空襲でやられたのでしようか。
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建物の横に、「震災記念屋外ギャラリー」があります。
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被災した物が展示されている。
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大日本麦酒株式会社吾妻橋工場の鉄柱が猛火により溶解し、かたまりとなってしまっている。
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自動車の焼骸
銀座の明治屋商店で使用されていた車。
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丸の内の内外ビル玄関脇の鉄筋コンクリート柱。
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そして、復興記念館の中に入ろうとしたら、なんと休館(泣)
ゴールデンウイーク連休直後が災いしました。
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下見のときに写した写真から、ちょっと載せておきます。

震災で折れた「凌雲閣」を爆破しているところ。
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震災で、皇居前広場に集まった避難民
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震災で炎上中の帝劇と警視庁
見物人は、まだ震災の深刻さを感じていない。
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黒煙の中の日比谷交差点
煙は境地用するため描き加えられている。
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交番に伝言の貼り札
これは東京駅丸の内側南口前にある警官詰め所。
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ということで、復興記念館展示を見てもらえなくなったので、急きょ近くにある「旧安田庭園」に皆を案内しました。
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これで、この日の予定は終了。
両国駅に戻るときに国技館の前を通りました。
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今場所は、初日に逸の城が白鵬を破ったので、面白い場所になりそうですね。


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源義高ウォーク

20150505

4日に「狭山市をおもしろくする会」、「狭山まちづくリストの会」共催のウォークに参加しました。
源義高に想いをはせながら、狭山市から嵐山の「大蔵館」まで歩こうという企画です。

私は、けっこう普段から史跡めぐりで歩き回っているとはいえ、長距離のウォークには自信が無く、この後も幹事を引き受けているイベントが13日までに3つあることから、ここで体調を崩すと大変なことになるので、「毛呂山歴史民俗資料館」まで参加することにしました。

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清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。

40名を超える参加者で、まずは準備体操をして体をほぐしてから歩き始めました。
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清水八幡
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。
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入間川を渡ります。
鎌倉街道のころは、「八丁の渡し」があったあたりで、当時は徒歩渡りでした。
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信濃坂にある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。
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ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
安永3年(1774)造立の石橋供養塔が道しるべになっています。
4面にそれぞれ「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれている。
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智光山公園の前をとおり、
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お弁当など買い物と休憩タイム
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日光脇往還との交差点「鎌倉街道交差点」
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日光脇往還
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。
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その先に、いかにも「切り通し」らしい道があります。
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「鎌倉街道上道」碑
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さりげなく無事を祈る「馬頭観世音」碑
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霞野神社
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霞野神社本殿の南には、「女影ケ原古戦場跡」 の碑がある。
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をしている。

道標を兼ねた大乗妙典碑
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霞野神社前の鎌倉街道と、右に分かれる道との間に隠れて道標を兼ねた「大乗妙典碑」があり、「右あうぎ町谷八王子道、左入間川所沢みち」と刻まれています。
「右あうぎ町谷八王子道」は、南の大谷沢で日光裏街道(国道407号線)に出て、入間市の扇町屋を通り、その後、国道一六号線を八王子に向かう道ではないかと思われます。
そして「左入間川所沢みち」が、いま通って来た鎌倉街道です。

女影交差点
この辺りは、鎌倉時代も「女影宿」として栄えた所と言われるところです。交差点の角に、「女影時計台」と表示されているかわいい時計塔が建てられています。
『新編武蔵風土記稿』には、「女影」の地名の由来となった伝説が載っています。それによると、女影に「千丈ケ池」があり、その昔、「せん」という女性がこの池に身を投げて死んだと伝えられ、その後、この池にその女性の影が映るようになり、地元の人がこれを「女影」と呼び、これが村の名前になったとあります。
今も女影の南にある「仙女ケ池」がそれであると言われています。
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この辺りは、昔(奈良時代)は大きなお寺(女影廃寺跡)があり、街道を挟んだ西が比定地。
発掘調査が行われ溝跡から多数の瓦や瓦塔片などが検出されたそうです。瓦塔は全国的には珍しく関東特有のものと考えられているようです。代表的なものとして美里町の東山遺跡から出土した重要文化財指定のものがあります。ここに古代の寺院跡があるということは、この付近はかなり古い時代から開かれていたことがうかがわれます。この交差点から県道を西に4.5キロメートルほど行ったところは高麗本郷といい、高岡廃寺や聖天院、高麗神社など朝鮮半島に関系した史跡・遺跡が多くあります。『続紀』にもあるように高麗人がやって来て移り住んだところです。

境橋
橋の、片側の欄干はかなり古いもので、この辺の道自体も旧街道の雰囲気は感じられます。
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橋を振り返る
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戦後の区画整理によって出来た旭ヶ丘の辺。このあたりは、街道の姿を探すのは、難しいです。
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西大家駅横の踏切
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ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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そこから旭ヶ丘に100mくらい行ったところの道で。
駅からここまでは川になっている。
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ここから先は、川の横に道が復活している。
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森戸橋
高麗川を渡ります。
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寛政7年(1795)造立の馬頭観音
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鎌倉街道旧道
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鎌倉街道遺跡
最初訪ねたときには、雑木林の中に入り込んでいって街道の輪郭がなんとなくわかる場所でした。
2011年11月に二度目訪ねたときに、バッサリと木が全部切られていて吃驚しました。
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この辺が鎌倉街道上道全体のなかでも、とても気持ちのいい部分です。
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県道39号線との交差点。
毛呂山歴史民俗資料館のすぐ近くです。
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毛呂山歴史民俗資料館到着
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毛呂山歴史民俗資料館前庭で昼食
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私と山畑さん、池田さんはここでリタイア。
皆さんを見送ってから、毛呂山歴史民俗資料館の展示を見て
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今回は「毛呂季光の活躍と末裔たち」という冊子を購入して、資料館を後にしました。
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それから30分ほど歩いて「武州長瀬」駅に。
池田さんが同行しているので、途中石碑を撮ったりして。
池田さんは、まだまだ歩き回りたいようでしたが、私はギブアップ寸前なのでそれを振り切り(笑)
帰途につきました。
武州長瀬駅に着いた時点で、同行した山畑さんの万歩計の数字が三万歩でした。
足がパンパンで、夜苦しかった(笑)

(了)


四千万歩の男(二)/井上ひさし

20150503

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第二巻を読み終えました。
ちょっとバタバタしていて、しばらく放っておいたので、ちょっと時間がかかった。
この本は、著者らしくすこぶる長編である。
第一巻が663ページだった。第二巻は634ページだった。
この調子で5巻あるという。
しかし、伊能忠敬の歩いた範囲の四分の一か、五分の一かしか書いていない。井上ひさしがもっと長生きしたら、長編小説の世界記録が生まれたのではないか。
私はこういうのが好きだ。
よ~~し、読んでやる。と(笑)

第二巻の目次
・箱館まで
・隠密詮議
・大野村逗留
・礼文華のオムシャ
・東蝦夷の図
・百人の千人同心
・道案内人
・長逗留

津軽海峡を渡り、まず箱舘に向かうところから始まります。
この本は井上ひさしのフィクションがかなり入っているので、だから読み物としてとても面白いのだが、公儀と松前藩の蝦夷地統括を巡る駆け引き、加えてアイヌの独立の動きと弾圧政策、ロシア南下に対するさまざまな思惑を始め、利権に群がるさもしい根性など、これは当然の人間の営みだと思える。

この巻でも様々な人物が登場する。
高田屋嘉兵衛、間宮林蔵と出会い、あるいは大黒屋光太夫や平賀源内に話しが飛んだりする。
これに当時の蝦夷の様子と和人に対するアイヌの抵抗運動が重なり、読んでいて興奮しきりである。
そして今回も公儀測量方が暗殺された不始末を理由に松前藩を潰そうとする陰謀が仕組まれ、それをアイヌ抵抗運動のリーダであるエカシクチャや伊能忠敬を嫌いつつも公儀の陰謀から松前藩を守ろうとする剣客が伊能を助ける話しが織り込まれている。

井上ひさしのアイヌの自立と友好を願う気持ちが随所に光る。
それにしても、日本人はアイヌの人たちにひどいことをしたものだと思う。
アメリカ大陸で白人がインディアンに行った仕打ちよりもひどいのではないか。
まあ、今でも沖縄にひどい苦労を押し付けていても、内地では皆平気にそんなことは、われ関せずと生活しているからなあ・・・・・・・・

この巻で、八王子千人同心が登場したのでビックリした。
八王子千人同心というのは、かって武田信玄に仕えた武士たちで、武田家滅亡後徳川家に召し抱えられ、江戸の甲府方面の境界警備として八王子に住んだ。
やがて太平の世になると、境界警備もないだろうと、日光東照宮の火の番警護の役となり、八王子と日光の間を「日光脇往還」で往復していた。
その「日光脇往還」が狭山市にも通っているので、私にもおなじみである。
それがどうして蝦夷にいるのかというと、寛政11年(1799)に八王子千人同心の十組の一つ「原組」100名が蝦夷地開拓を願い出て、許されたものだという。
それ以降は九百人同心となっていたわけか(笑)

それはともかく、歴史講座から一緒で歴史クラブでの友人で、伊能忠敬の事蹟をずっと追いかけている稲葉さんから、ついこの間八王子に行ってきましたと、「塩野滴齋」という方の情報と写真をもらったばかりだ。
蝦夷にも行き、「新編武蔵風土記稿」執筆にも加わっている。
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塩野滴齋の墓のある極楽寺
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びっくりしたのは、陰謀家として登場の間宮林蔵。
どうも井上ひさしは間宮林蔵のことは好きではないらしい。

伊能忠敬という碑とは、とにかく「愚直」。
この「愚直」というのは、井上氏が若い頃(NHKの放送作家時代)に伊能忠敬を調べた時の感想だそうです。
その時には、偉大ではあるが愚直な作業、と思っていたのが 20数年後には「 愚直でなければ、そんな大事業はできない。あらゆる大事業を支えてきたのは、この愚直さなのだ 」という風に変わってきたとか・・・


狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/柏原村(前半)

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4月14日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は池田さんと私。

朝9:30に智光山公園集合。ここからスタートしました。

柏原は広いので二回に分けて実施することにし、今回は北東部編としました。
コースは、智光山公園⇒町久保周辺⇒上宿周辺⇒常楽寺⇒城山砦⇒智光山に戻る。
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【智光山公園】
新編武蔵風土記稿記述で該当するのは、この用水などに関する部分で、「高根」、「前山」、「半貫山」に該当する部分で、今でも字(あざ)地名として残っている。
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明治14年の「フランス式測量地図」でのこの地点は、池がある辺である。
この沼で湧水した水が、川となって流れている。
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現在の智光山公園
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私が下調べをしているときには、まず湧水している場所を探して右往左往したが、この案内図と、宮沢湖から来ている用水が公園の中を流れていることが分かった。
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これをもとに公園の管理事務所の方に話を聞いた結果、以下のようなことがわかった。
・九頭竜池のところで湧水があったことは聞いている。
・釣り堀、キャンブ場の池、ひょうたん池は公園を整備するときに作った。
・用水は、九頭竜池、ひょうたん池を経由して、外に流れている(5号幹線水路)。
・花菖蒲園、釣り堀は、地下水及び水道を使用している。

宮沢湖からの用水は、日高市特別支援学校と本田技研工業工場の間から公園に流れ込んでいる。
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木道に沿って流れていき
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九頭竜池に流れ込んでいる。
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カワセミを撮ろうと、いつも九頭竜池にはカメラマンが頑張っている。
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【九頭竜大権現】
九頭竜池のたもとにあります。
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九頭竜大権現というのは、水を鎮める神なので、昔は水が豊富で、また大雨で洪水を引き起こしたのではないかと考えられます。
「智光山の大蛇」という民話も、九頭竜大権現と結びついている。
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この民話の中の「木を伐り過ぎてはいけない」という部分は、周りに住むお百姓さんが智光山の林を大切にしようという気持ちがこめられている。

【智光山】
智光山公園には、かって修験道が行われていた「智光山」の跡があります。
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この墓碑の戒名に「智光」という文字が入っており、現在の「智光山公園」の名前のもとになっています。
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裏面に「森本宗興」という名があります。
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ここで、慶安3年(1650)頃作成された「武蔵田園簿」を参照すると、柏原村を領主としていたのは、松平伊豆守、酒井紀伊守、幕府直轄地高室代官、森本助右衛門、永井五右衛門となっています。
このうち松平伊豆守は松平信綱(川越藩主)、酒井紀伊守は酒井忠吉(川越藩主忠利死去後3000石を継いだ)。
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このなかの、森本助右衛門一族とみられる。

かたわらには、ここで修験道が行われていたことを語る「智光山先達」の碑があります。
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その近くにある、智光山開園記念碑にも「九頭竜池」の名が出ている。
また、当初は有志の方々がこの地を遊園地として活用しようと、整備して徐々に形を整えて7年の努力の結果、市から補助金を受けるまでになり、やがて現在のような立派な市の公園になった、ということがわかる。
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それから、雨の中上宿に移動しました。
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【上宿】
新編武蔵風土記稿記述
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明治14年の「フランス式測量地図」で、青い○から上の部分です。
靑丸は、高札場があったのではないかと推定した場所。
なお、この図には参考のために現在の道を薄く重ねています。
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最初に訪れたのは、「東上宿」バス停のところにあった、柏原富士塚跡です。

【柏原富士塚跡】
現在、柏原白鬚神社境内に、上宿にあった浅間神社、富士塚にあった石碑が置かれている。
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石碑の年号から天保12年(1841)には富士塚は整備されていたことがわかる。
大正二年に、浅間神社・富士塚石碑が柏原白髭神社に移されたそうである。

2013年3月に白鬚神社境内社浅間神社の「陰陽和合図絵馬」の文化財指定説明会の際に、柏原富士講も説明されたが、その時に見せられた富士塚跡地の写真。
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そして今回、下調べで2015年1月2日に宮司さんから富士塚跡地の場所を教わったときに、「いま重機が入ってるよ」と教わり、翌3日に現地確認した状況。
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その時には、かろうじてバス停のところにまだ「山」が少し残っていたのだが、
2015年2月1日に確認した状況。まったく跡形もなくなっていた。合掌・・・・・・
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そのバス停の道を挟んで反対側に、「文化十五星宿戊寅三月建」(1818)と造立年が、「武州高麗郡柏原村上宿 講中」と刻まれた文字馬頭観音がある。
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その奥に金子家墓地があり、その中に地蔵菩薩があり、右「奉造立為念佛供養二世安楽」、左「元禄四辛未天十一月□武刕高麗郡柏原村同行四拾五人」と銘文がきざまれている。

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他にも、石仏がたくさんあり。
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【上宿の馬頭観音道標】
「東上宿」バス停のすぐ近くにあり。
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寛政8年(1796)造立、浮彫の馬頭観音を主尊とする道しるべは、「右太田ヶ谷(現鶴ヶ島市)」「左坂戸道」と刻まれている。
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そこからちょっと北に行くと、上宿宝荘入り口にある「庚申塔道標」があります。

【上宿宝荘入り口三叉路の庚申塔道標】
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六臂の青面金剛で、足元に猿が一つ、酉がひとつはわかります。三猿ではないような感じ。
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向かって右側は剥落がひどい。
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池田さんの話では、かなり以前からひどい状態だったということで、2006年の写真を後日送っていただきました。
それを見ると、足元の猿の右側にも酉がいるのがわかります。
右側は、既にひどい状態です。
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路しるべについては、当時池田さんが解読したものは
     さかと
右     みち
     いはとの

    たかはぎ 柏原村

     おごせ  願主
          沼崎彦右衛門 

右が「坂戸」「岩殿」、左が「高萩」「越生」ですね。

【長源寺】
ここの枝垂れ桜は、まだ少し花が残っていました。
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ここでトイレ休憩。

新編武蔵風土記稿記述
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【常楽寺】
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桜の樹の下にある石仏群
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○七親音の石仏
この七観音は一番上に千手観音、右側上から馬頭観音、聖観音、准胝(じゅんてい)観音、左側の上から十一面観音、如意輪観音、楊柳(ようりゅう)観音が細かいところまでていねいに彫られています。
この七観音は天保15年(1844)に、ここ柏原村の斎日講中が建てたものです。
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○半跏趺坐の地蔵菩薩
この地蔵菩薩は丸彫半跏趺坐像(はんかふざぞう)で、台座の正面に延命地蔵菩薩経の侶(げ)という仏を称える言葉を詩の形に整えたものが刻まれています。
銘文を見ると宝暦7年(1757)11月に柏原村の斎日講の女性達を主体に村の人々が協力して二世安楽、極楽往生を願い、当寺の住職典英の指導で建てたものであることが分かります。
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ここは無住持のお堂となっています。
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新編武蔵風土記稿記述
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中には、風土記稿の記述どおりの諸仏が置かれています。
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○増田正金五百年記念碑
この常楽寺の増田家墓地にあります。
此の碑は正金没後500年を記念して大正15年(1926)3月に、増田家が建てたものです。
増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
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この後、城山砦が最後の目的地だったのですが、朝からずっと小雨の中を歩いてきて参加者に疲労が目立ったのと、時間の関係で打ち切ることにしました。
用意した資料で、記事にしておきます。

【城山砦跡】
新編武蔵風土記稿記述
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新編武蔵風土記稿記載の絵
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現在の遺構
新編武蔵風土記稿記載の絵とほとんど変わらぬ状態である。
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砦跡の歴史
・城山砦の歴史を見ると、古くは柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。柏原太郎は源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人といわれた人物です。
吾妻鏡の記述
「鎌倉出御よりお供の輩」部分は、更に左にずらっと書かれていますが省略しました。
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・2番目に初代鎌倉公方で「入間川殿」と呼ばれた足利基氏(もとうじ)が、南北朝時代に新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟の鎌倉攻めに対する北の防御の要として、入間川宿(現在の徳林寺の辺り)に文和2年(1353)から9年余り長期滞陣したときの出城という説があります。
・3番目に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おおぎがやっ)上杉氏の対立で、明応5年(1496)山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉朝良(ともよし)の河越城を攻めたときに、山内上杉氏と手を組んだ足利政氏(まさうじ)が着陣したと伝えられています。
・4番目に天文14年(1545)から15年(1546)にかけて半年近くに渡り、山内上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたため別名を上杉砦ともいわれています。
この布陣は扇谷上杉朝定(ともさだ)が天文6年(1537)の三ツ木原の合戦で、北条氏に奪われた河越城を奪い返すため、また憲政にとっても河越城は目の上のたんこぶで、北条氏の武蔵国への進出を阻止する上でも重要な布陣でした。
この戦いは河越夜戦といい、日本三大奇襲戦といわれ、8千の北条軍が8万の両上杉・古河公方連合軍を破って劇的な勝利に終わった戦です。この戦が上杉家没落のきっかけといわれ北条氏の武蔵国の覇権が確立した戦です。
・5番目に城山砦は北条氏の手に移り、北条氏照(うじてる)の滝山領に組み入れられ、氏照配下の出城として徐々に手を加えられたと推察されます。この地域に居住して槍などを生産していた柏原鍛冶集団を統率するに当っても有効に機能したと思われます。
・河越夜戦後の山内上杉氏は上野国の平井城(現在の群馬県藤岡市)に退却していました。北条氏に対応していた憲政は平井城も攻撃され、天文21年(1552)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼つて落ち延び、保護を受ける代償として上杉氏の家名と管領職などを譲り、関東管領として君臨した上杉氏も終わりを告げました。

南側、下から見た城山砦
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この砦の「虎口(こぐち)」部
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この砦を再現したジオラマでは、この小口を守るため、土塁を大きく突き出させた「横矢掛かり」がよくわかる。
現在もこの部分はよく残っているが、ここに焦点を当てた写真を撮っていなかった(汗)
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砦を再現したジオラマで、よくわかる「折り」
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外側から見た「折り」部
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「横矢掛かり」に対面する土塁の後には「稲荷」がある。
新編武蔵風土記稿に記載されている「鷲宮稲荷」にあたる。
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小雨の中、歩き回って疲れた体にむち打ち、智光山公園まで戻り、「智光山荘」で昼食を取ったあと、解散としました。
お疲れ様でした。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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