面足神・惶根神(おもだるのかみ・かしこねのかみ)/日本の神々の話

20150628

この神は、私が参拝した下記の神社の祭神として祀られていた。
・青梅市「虎柏(とらかしわ)神社」:大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)と惶根神。
・常陸太田市「稲村神社」:饒速日尊、配祀が神世七代の神々ということで、國常立尊、國狹槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸之道尊、大苫邊尊、面足尊、惶根尊。
・狭山市「第六天神社」(狭山市鵜ノ木):面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)

狭山市の第六天神社を最近ガイドしたので、その話から書いていきます。
第六天神社の特徴として、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代の(面足命・惶根命)に祭神を変更した。
ここで、「神世七代」について、『古事記』でおさらいする。
1.天地の初め
(読みくだし文)
天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。
次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂へる時、葦牙の如く萌え騰る物によりて成りし神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき。
 上の件の五柱の神は別天つ神。
次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神も独神と成りまして、身を隠したまひき。
次に成りし神の名は、宇比地邇神、次に妹須比邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。二柱 次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神
次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。上の件の国之常立神より下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。上の二柱の独神は、各一代と云ふ。次に双へる十神は、各二神を合せて一代と云ふ。

つまり、“国之常立神より下、伊邪那美神より前”は、二神がセットで現れ、各一代と数える。
その6番目が於母陀流神(面足神)と妹阿夜訶志古泥神(惶根神)である。

オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である、とされる。
神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、
整った容貌に対する畏怖を示すとする説、
神の言葉の神格化とする説、
あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろあり。

狭山市「第六天神社」(鎮座地:狭山市鵜ノ木20番40)
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/柏原村(後半)

20150626

6月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は池田さんと私。

朝9:30に柏原公民館集合。ここからスタートしました。

柏原は広いので二回に分けて実施することにし、前回北東部編を実施、今回は中南部です。
コースは、白鬚神社⇒永代寺⇒小山坊⇒西浄寺⇒円光寺⇒劔明神社⇒「神邊」で昼食⇒解散でした。

【白鬚神社】
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風土記稿の記述のなかで、白鬚神社に関係するのは、「右から天王社まで」と「左から二つ、神明社と稲荷社」である。
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「當社の本地は十一面観音、鉄圓鏡」の5面については市の文化財であり、参加者全員周知なので省略。

「社地樹木森茂し」というのは現在はあたらないが、「中に大なる槻一株」というのは、宮司さんが樹齢700年位と言われるケヤキがある。
槻というのはケヤキの古語。
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「天王社 社の傍に神体と称する槻あり、囲二条三四尺、これも古跡と見えたり」とあるが、こちらのケヤキは堂々としているが若い。二代目か。
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「神明社」は石碑
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風土記稿が記述された以後に増えているのが、浅間神社と富士講碑である。
右が浅間神社、左が風土記稿に載っている稲荷社。
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浅間社はもともと上宿にあり、大正2年に白鬚神社に移された。
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この浅間社に掛けられていた絵馬二体が市の文化財になっている。
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「子返しの図絵馬」
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「陰陽和合図絵馬」
こちらは、平成25年2月1日指定されたもので比較的新しいので、ちょっと説明も述べておきます。
この絵馬は、桐材に着色された絵馬(扁額)で、大きさは、縦44.3cm、横81.7cmであり、製作の時期は江戸時代末期と推定されます。
表面上部には墨書で、「月と日の 晦日の契り なかりせは なにかなるへき 願主小谷野勝平」とある。
富士信仰の中で形作られた生命感、特に男女とその間に生れた子供の関係を説きそれをいわば絵解きしたものである。
もしかするとこの絵馬は実際に信者に絵解きされたものである可能性もある。この絵馬は上部に三つの宝珠が描かれているが、この三つの宝珠は参玉(みたま)すなわち霊魂であり、これを宿す人間は男女の交わり、つまり陰陽(月と日)の和合によって産まれたものである。またこの珠は同時に三宝であり、元の父母と富士山であり、月と日と富士山そしてそこから産まれた人間(子供)の四者が-体となり摂理にしたがうと説いている。いわゆる富士講の一仏一体の思想を説いていると考えられる。中央に書かれた「天合空大息」は「てんごうくうたいそく」と読み、また宝珠下の記号のようなものは「参」の字をアレンジしたものと考えられる。また富士信仰は出産習俗との関わりが濃く、富士講が独自の生命感倫理観をもとに説いた産育や孝行の思想が民俗化したものと考えられる。
*天合空大息=二人合空一人息  (息=生きる)
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浅間社の傍らには、上宿にあった富士塚の石碑三体が安置されています。
○笠付石塔「木花開耶姫命碑」
 右側面に「旡彦火瓊瓊杵尊」、左側面に「大山祇尊」、裏面に「雷神風神尊」と刻まれている。
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○「小御岳石尊大権現」の石碑(建立天保12年2月 1841)
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○「○柏同行」碑
建立天保十二年(1841)、銘文には「○柏同行 天保十二辛丑歳正月初申 先達広行栄我情行 世話人増田熊太郎(他三名」と刻まれる。
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柏原上宿の富士塚は天保十二年から十四年頃にかけて整備されたと考えられる。九月一日にはおたき上げの神事が行なわれていた。相原村でも主に上宿の人たちで講が結成されていたようである。上宿に住む先達が没してからは、富士講そのものは解散となったが、白鬚神社の宮司や有志による瓦火鉢での線香の焚き上げがしばらく行なわれていた。

富士塚跡地には、その後塚の一部が残っていたが、今回の調査をしている際に、平地にされていくのを目撃した。

もう一つの文化財「韋駄天の絵馬」は拝殿内に掛けられている。
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この日気が付いたが、拝殿から本殿には神橋が掛けられている。
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【永代寺】
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風土記稿記述
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永代寺については、参加者は知っているので、石仏群と「古碑」について説明した。
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○宝筐印塔
全高は270cmで、銘文から寛延2年(1749)11月に66カ所の霊場に納経した記念に廻国供養塔として柏原村ほか近隣の村11ケ村の協力を得て、当寺の住職の法印権大僧都英乗(えいじょう)の指導のもとに建てられたもの。
宝筐印塔は、「宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を塔身に納め、後世に伝え残そうという考えから建てられたものですが、のちには供養塔、墓石塔として建てられるようになりました。
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○三界万霊供養塔
この供養塔は高さ109.5cm、傘幅27cm、柱幅15.5cm、台座幅45cm、浮彫で石幢六地蔵立像の三界万霊供養塔です。三界とは仏教の世界観で欲界、色界、無色界の三つの世界のことをいい、万霊はこの世に命のあるもの、人だけでなく鳥獣、虫や草木などすべてのものをいいます。
三界万霊供養塔は他の石仏とは異なり、造塔が目的ではなく塔自体にこの世の全ての霊を宿らせ、供養するためのものです。そのため多くは寺院境内や墓地の入口など、多くの人から回向(えこう)を受けやすいところに建てられています。
石幢は石塔の一種で六角または八角の柱状幢身(ちゅうじょうどうしん)で龕部(がんぶ)、笠、宝珠などから成り、仏像、梵字(ぽんじ)を各面に刻むものです。この六角柱の石塔には、各面に地蔵菩薩の立像が彫られ延命(えんめい)地蔵菩薩経の偶(げ)が刻まれています。
銘文を見ると安永5年(1776)3月に施主伊藤茂太夫により建てられたと刻まれています。
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○霊場巡礼供養塔
丸彫立像の地蔵菩薩を主尊とした像高が74cm、幅25cm、台座高は68.5cm、幅37.5cmで、銘文から寛政3年(1791)2月に願主は柏原村の増田権七で、法印英辨(えいべん)の指導のもとに建てられたものです。霊場巡拝供養として建てられたものですが、「右 ま戸ば」、「左 さかと」と刻まれているので、道しるべの目的もあり、作善の意味もあったと考えられます。
現在は他の石仏と一緒にここに建てられていますが、造立時は北へ150m行ったところの三叉路に、行先表示から見て柏原下宿からの案内であったと思われます。
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風土記稿に出てくる「永和4年の古碑」は墓地にあり。
はじめて見たときには、けっこう汚れていたが、今年調査の際に綺麗に洗れているを見てビックリした。
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その他にも板碑が二体あり。
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【小山坊】
風土記稿記述
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小山坊は移転され、福徳院の本堂(現在のものは建て直されており、その前身)となりました。
薬師堂は今でも小山氏がお守りしており、この日、本尊も見せていただきました。
現在の薬師堂(以前撮ったものです)
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「薬師如来之縁起」の巻物を見せていただきました。
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薬師如来縁起の泉(現在は非常に水が少なくなっている)
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高根社石祠
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ここで、小山坊に関係する小山氏についての文書「武蔵国柏原郷と小山一族/吉田弘」から要点を抽出しておく。
『吾妻鑑』に畠山重忠の従軍五騎として「柏原太郎」の名が見られる。
しかし、二俣川の戦いで畠山重忠が幕府により謀殺された後、他の4騎については消息が明らかになっているが、柏原太郎についての消息が書かれたものは見つかっていない。
その後の柏原郷について史料に登場しているものがある。
「長沼宗政譲状」である。下野国の有力御家人、小山氏の庶流、長沼宗政が嫡子時宗に所領を譲るという内容だが、これに「武蔵國柏原郷」が載っている。
畠山重忠が没した際に一緒に柏原太郎は討死したか、その前後の時期に病死したか、いずれにせよ長沼宗政に柏原郷が恩賞として与えられたと推察される。
そして、先述の「薬師如来之縁起」である。
これは、建久の頃(1190~1199)、小山判官朝政が眼病を長く患っていたため、保養のため采地下野へ下向する途中、夢現によりこの地に霊水があることを知る。翌日、野営の側の盛土を掘ると、薬師如来の石像がでてきた。さらに、そこから霊水が湧き出し、それにより眼病が治癒したので、朝政は、そこに一宇を建立したという。
近年、埼玉県が小山坊の北側の発掘調査を実施した。遺跡の形状としては、台地上から、はけの部分にかけて発掘領域となっていたが、台地上において、掘跡とそれに付随して堀立柱遺構を含んだ柱列が検出された。
堀跡から青色塔婆三基も出土している。「小山ノ上遺跡」である。
小山氏は、足利氏とも良好な関係であったので、足利基氏の「入間川御所」滞陣の折には、小山氏がここに出城の性格の城館を構えたものではないかと、「小山ノ上遺跡」を著者は位置づけている。

小山ノ上の堀跡(狭山市文化財調査報告書7より)
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【西浄寺】
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風土記稿の記述
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この寺には河鍋暁斎が描いた「ねずみの図」があることで有名。
本尊は、現在は「木造大黒天立像」であり、その大黒天の使いであるねずみを描いています。
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本尊
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風土記に書かれている宝篋印塔は、現在は後ろの山上でなく、本堂の前に安置されています。
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風土記に載せられている文章
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徳川右衛門督宗武卿の命にて
此制底一基を造工する。
以て、胄子寿丸君の寿福を祈る。
貧道欽(よろこん)で宝篋印陀羅尼経
一巻を書写し以て干塔内に納む。
兼ねて書く四如来の種子をすなわち
之に於いて四面に刻むという


池田さんの説明によれば、経筒に入っていた文書の目撃談によると、文書を本堂一杯に拡げた。それは十センチ程の幅で四メートル程の長さがあったというので、紙の長さからすると、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」の全文(唐不空漢訳五千文字)が入っていた可能性がある。

西浄寺と田安宗武卿との関係であるが、狭山市の資料に載っている以上のことは判らなかった。ただ、宗武卿は、関係がある婦女子のために、その関連する多くの寺社に仏像や宝篋印塔を寄進している。
考えられるのは、宗武卿に近しい女性が西浄寺に関連していたのではないかと思われる。

【円光寺】
風土記の記述
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この中に出てくる、柏原の神田家作の銅像正観音(市文化財)
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問題は風土記の記述に出てくる「古碑」で、この日の参加者誰も確認が出来ていなかった。
それで、手分けして墓地を探して、見つけました(嬉)
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傍の宝篋印塔も、詳しい人でもたぶんリストアップしていないかもしれない。
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「外に断碑一基あり」と書かれているのも分かりました。
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【劔明神社】
風土記の記述
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「里正務兵衛」というのは、長谷川家ということがわかっており、長谷川家の敷地内に現在も祀られています。
(1月の下見のときに撮ったもの)
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以上で、この日の予定は全て消化し、参加者全員で昼食後解散しました。


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40万アクセス

20150624

今日は、「さやま市民大学同窓会」の総会があり、朝からその準備があり、午後にその開催と、一日外で仕事していて、
それが無事に終わり、夕食後PCを立ち上げて、ブログをのぞいたら、累積アクセス数が40万を超えていました(嬉)

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長い間やっていれば、誰でも通る通過点とはいえ、こういう大台の数字を通過するのは嬉しい事です。
このブログを始めたときとは、ずいぶんとブログの中身が違ってきて、訪ねてくださる人も変わってきています。

生来ののんびり屋なので、これからもマイペースで自分の関心事を記事にしていきますが、
これからも、このブログをよろしくお願いします。


虎狛(こはく)神社(延喜式内論社)/東京都調布市

20150624

鎮座地:東京都調布市佐須町1-14

個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、今回っている「多摩郡八座」のうち、5月28(木)に、調布にある、布多天神社と虎狛神社を参拝しました。

布多天神社から虎狛神社に向かいます。
深大寺に向かって歩いていき、途中で右折して行けば着くということで歩いていくと、「桐朋学園大学音楽部 調布キャンパス」の前に出ました。
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行くときは出会わなかったのですが、虎狛神社から戻るときには、ここから調布駅まで沢山の芸術家の卵たちがそれぞれヴァイオリンやチェロなどを背負って歩いて来るのとすれ違いました。

右折してすぐに野川を渡ります。
この辺だと、川ものんびりしていていいですね。
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虎狛神社の森の角には、白い花をつけた大木がありました。
「ヤマボウシ」ですね。
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入り口に鳥居
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【社格】旧郷社
【由緒】崇峻天皇2年創建。鎌倉・室町時代地頭より毎年米一俵が下附。天和3年(1683)12月造営。文政年間造営。
明治維新で別当祇園寺と分離。明治6年12月郷社
創建は第32代崇峻天皇2年という。
深大寺縁起によると、 深大寺を開基した満功上人の祖父右近長者の住んだ柏野の里の名と、祖母の名の虎から虎柏神社と名付けられたという。

『延喜式神名帳』には武蔵国多摩郡八座の一座に、「虎柏神社」があり、調布市の虎狛(こはく)神社は、これは狛の字を柏に写し間違えたのだと言われ、論社となっている。
一方、東京都青梅市根ヶ布に「虎柏神社(とらかしわじんじゃ)」も存在する。

明治41年造立の狛犬ですが、なかなかいい感じです。
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手水舎
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その横に、横から見てその厚さに吃驚する、文政11年(1828)建立の「由緒碑」があり。
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碑文の一部
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こう書いてあるようです:
太古■牟聞神祠攸肇■稽古書式武蔵国風土記載多摩郡狛江郷 虎柏神社圭田七十三束一祭神則 大歳御祖神也 崇峻天皇二年巳酉八月始祭事有之云 延喜之式亦載 社号也夫 崇峻巳酉距於今文政戌子一千二百四十年也 延喜紀元既垂千年而其祠巍然猶存埃其郷民故家而亦存埃実鎮護吾郷霊社也豈不感載尊敬乎哉或日風土記二己久埃今所傳社非其旧其書体■大異于出雲豊後等之風土記■其所以不能無疑也雖然記裁簡古夫非近世所偽撰者仮令使其偽亦豈容併疑其所載神祠子況復式之全然存子故今表而出之以傳後世也

参道、社殿が西側に寄っていて、東側はポッカリと空いている。
社殿が、神社には珍しい北向きです。
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拝殿
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向拝に珍しい虎の彫刻。社名からすれば珍しくはないか。
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向拝柱目貫の獅子の彫刻も怖い目をしている。
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拝殿の後ろに本殿の覆い屋。
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覆い屋の壁の隙間がずらして二重に貼られているため、ちょっとしか覗けない。
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本殿の左に御幣がたくさん立ててある。何かの神事に使われるのだろう。
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神紋は、「十六弁菊」と「右三つ巴」
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社殿の後ろには、少し林が残っている。
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本殿の横に大きな木があり、「ソロ」と名札が付いていた。
聞きなれぬ名だったので、家に帰ってから調べてみると「アカシデ」のことだった。
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境内に大きな株が残っていたので調べてみると、大きなクロマツがあり、かっては名所図絵にも描かれた都内の三大巨松のひとつだった。近年、枯死して平成8年に伐採されてしまったそうです。
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布多天神社(延喜式内社)/東京都調布市

20150622

鎮座地:調布市調布ヶ丘1-8-1

個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、今回っている「多摩郡八座」のうち、5月28(木)に、調布にある、布多天神社と虎珀神社を参拝しました。

京王線調布駅より歩いて5分くらいで着きました。
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社号標
延喜式神明帳所載武蔵国多摩郡八座の内の一座・武蔵国布多天神社、旧郷社
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鳥居
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説明板
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当神社は延喜式神明帳[第六十代醍醐天皇の延長5年(927)につくられた書物]にも記されている。多摩郡でも有数の古社である。もと多摩川畔の布天神というところにあったが文明(1469-87)年間多摩川の洪水を避けて、現在地に遷座された。そのとき祭神少彦名命に菅原道真公を配祀したと伝えている。
また往古広福長者という人が、当社に七月七日参詣して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて、朝廷に献った。これが本朝における木綿の初めという。帝この布を調布と名づけられ以来、この辺りを調布の里とよぶようになったといわれる。
ちなみに本殿宝永3年(1706)覆殿昭和40年幣殿拝殿向拝は昭和60年の造営にかかる。(社殿約170方米)
七月二十五日の例祭日には奉納神楽があり、境内は市がたち参拝者で賑わう。

境内は気持ちのいい森
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近藤勇の孫ゆかりの碑
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右の碑の裏面に、近藤勇の孫「近藤久太郎」の名があり。
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手水舎
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センサーが設置してあり、人が近づくと水が流れる。
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瑞垣の門のところに古木あり。
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「太閤の制札」があるとのこと。
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寛政8年(1796)造立の狛犬
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「御神牛」
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拝殿
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本殿は覆い殿の中
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祭神:少彦名命・菅原道真公

神紋は「加賀梅鉢」
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拝殿階段の左右に蓮の鉢と、稲の樽が置かれていた。
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神田ではなくて樽で育てているのは珍しい。
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神楽殿
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神楽殿に架けてあった奉納額
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拝殿の右に境内社あり。
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狛犬
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真ん中に、大鳥神社と金刀比羅神社
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左に稲荷神社
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右に三社並ぶ
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御嶽神社
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祓戸神社
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疱瘡神社
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少し離れて、厳島神社
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「多摩川の碑」
松寿軒筆子中の布多天神社由来碑
この碑は弘化三年(西暦1846年)に、国領宿で寺子屋松寿軒を開いていた小林信継が 建立したものである。
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沢山の村の名が刻まれている。
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他の境内社と離れて、参道の真ん中辺に、もう一つの稲荷社があり。
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参拝を終えて、しばらく木蔭で休憩してから、虎珀神社に向かった。
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足名椎命・手名椎命/日本の神々の話

20150620

川越氷川神社の祭神です。
氷川神社なので、当然主祭神は素盞鳴尊ですが、加えて脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)。さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神である奇稲田姫命。そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫の大己貴命(おおなむちのみこと)の五柱の神様が祭神となっています。

『古事記』では「足名椎命」・「手名椎命」と表記、『日本書紀』では「脚摩乳尊」・「手摩乳尊」と表記する。

『古事記』の記述で、「天照大御神と須佐之男命」の巻の「八俣の大蛇」を、長いですが<読みくだし文>でみましょう。
「かれ避追(やら)はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。この時、箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ね覓ぎ上り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまひき。かれ、その老夫答へ言さく、「僕は国つ神大山津見神の子なり。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」とまをしき。
 また「汝の哭く由は何ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「我が女は本より八稚女ありしを、この高志の八俣のをろち年ごとに来て喫へり。今そが来べき時なるが故に泣く」とまをしき。ここに「その形は如何に」と問ひたまへば、答へて白さく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿と檜・椙と生ひ、その長(たけ)は谿八谷・峡八尾に度りて、その腹を見れば悉に常に血に爛れたり」とまをしき。 ここに赤かがちと謂へるは、今の酸醤(ほおずき)なり。
ここに速須佐之男命、その老夫に詔りたまはく、「この汝の女は、吾に奉らむや」とのりたまへば、「恐し。また御名を覚らず」と答へ白しき。ここに答へて詔りたまはく、「吾は天照大御神のいろせなり。かれ、今天より降りましぬ」とのりたまひき。ここに足名椎・手名椎白さく、「然坐さば恐し。立奉らむ」とまをしき。ここに速須佐之男命、すなはちゆつ爪櫛にその童女を取り成して、御みづらに刺して、その足名椎.手名椎神に告りたまはく、「汝等八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八門を作り、門ごとに八さずきを結ひ、そのさずきごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待て」とのりたまひき。
かれ、告りたまひし随(まにま)に、かく設け備へて待ちし時、その八俣のをろちまことに言の如来つ。すなわち船ごとに己が頭を垂れ入れて、その酒を飲みき。ここに飲み酔ひて留まり伏し寝ねき。ここに速須佐之男命、その佩かせる十拳剣を抜きて、その蛇(をろち)を切りはふりたまひしかば、肥河血に変りて流れき。かれ、その中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀(か)けき。ここに恠(あや)しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見たまへば、都牟羽の太刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀なり。
 かれ、ここをもちてその速須佐之男命、宮造るべき地を出雲国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまはく、「吾ここに釆て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮を作りて坐しき。かれ、そこは今に須賀といふ。この大神、初め須賀宮を作りたまひし時、そこより雲立ち騰りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌に白はく、
    八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (一)
 ここにその足名椎を喚びて、「汝はわが宮の首に任けむ」と告りたまひ、また名を負せて稲田宮主須賀八耳神と号(なづ)けたまひき。」

要約すると、アシナヅチはオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。
スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。


2013年3月の東京都民俗芸能大会にて上演された、東都葛西神楽保存会の神楽「八岐大蛇」の写真を載せておきます。
ここでは、アシナヅチは登場するがテナヅチは登場しない。
アシナヅチ
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スサノオ
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スサノオ、アシナヅチ、クシナダヒメ
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酒を用意するテナヅチ
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オロチ
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スサノオとオロチの闘い
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草なぎの剣を手にするクシナダヒメ
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外堀クルーズ&日本橋・兜町散策

20150619

6月17日(水)に歴史クラブの行事で参加しました。
利用したのは、「東京湾クルーズ」の「日本橋・神田川ぐるり90分コース」です。
日本橋川、神田川の位置関係は、大雑把にはこういうもの。
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日本橋のところで乗船し、日本橋川から隅田川に出て、遡上して神田川に入り、小石川のところで日本橋川に入り、日本橋に戻るというもの。
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乗船が13時ということで、ゆっくりと出てきて、日本橋で降りてすぐに昼食。
あの「丸善」で食べました(笑)
ハヤシライス、美味しかったです。
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乗船時間まで、日本橋・兜町をブラつきました。
日本橋のウンチクを先輩から聞く。
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日本橋
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東海道や中山道の起点、「道路元標」
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これが道路の真ん中に埋められている。
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麒麟の翼
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思わずシャッターを押した建物のなかから、ちょっと紹介。

きれいな金色。
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三越の正面の飾りが綺麗になっていた。磨いたみたいだ。
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三井ビル本館の装飾
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窓も綺麗
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三重物産館の入ったビル
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ゆるキャラが面白かった。調べたら、三重県津市の「シロモチくん」だった。
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日銀本館
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窓の鉄格子が厳めしい。
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お弁当やさんの台車が並んでいた。
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日本橋に戻ってきました。
今日のテーマだとこれは外せない。

日本橋魚市場発祥の地の碑
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日本橋の上でのんびりしていたら、私たちの乗る船がやってきて、客を降ろした。
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乗り場
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乗船
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船が出ると、一度日本橋をくぐってから旋回し、またくぐって隅田川に向かう。
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上の高速道路の底が、意外ときれいな模様だった。
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普段は目にしない場所の日本橋の装飾
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高速道路の下を進みます。
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○江戸橋
右手には、郵便局発祥の地「日本橋郵便局」があり。
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都心環状線の「江戸橋ジャンクション」
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○鎧橋
橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。鎧の名の由来には2通りの言い伝えがある。一つは源頼義が奥州討伐の際にこの場所で暴風雨に遭い、自分の鎧を海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったのが始まりとする説、もう一つは平将門が兜と鎧を奉納したのが由来とする説である。
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○茅場橋
地名の 「茅場町」 から付けられている。この 「茅場町」 の町名の由来は、 寛永年間(1624~1643) に 『神田橋』 の外側にあった 「茅場」 を、この辺りに移したことによるという。 「茅場」 とは、刈り取った茅の置場である。
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前方に「湊橋」が見えたところで、高速は外れていった。
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☆日本橋水門
霊岸橋付近で日本橋川から分流し南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に折れ、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流する「亀島川」である。
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○湊橋
中央区新川 と 箱崎方面 を結ぶ通称 「湊橋通り」 が 「日本橋川」 を渡る橋である。
この橋の創架は江戸時代の前期、延宝7年(1679) であると伝えられており、 霊岸島(現在の新川地区) と 箱崎町 を結ぶ橋として架設された。
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帆掛け船のパネルが洒落ている。
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○豊海橋
日本橋川が隅田川に流入する河口部に位置し、梯子を横にしたような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計された。シンプルなデザインのなかに鋲止形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重である。
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カモメと鳩が仲良く憩っている。
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隅田川に出ると、右に永代橋。
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○上に首都高9号深川線、下に隅田川大橋
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○清州橋
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○萬年橋
隅田川から分流する小名木川にかかる。
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成田詣でをする日本橋の旦那衆はこの川を行き、葛西で上陸して成田街道を行った。

芭蕉像が見ている。
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○新大橋
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○首都高6号向島線と首都高7号小松川線
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首都高6号と首都高7号が分かれます。
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☆竪川水門
竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河である。
江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称となった。
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○両国橋
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両国橋を過ぎると左に神田川の入り口が見える。
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○総武線の架橋
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スカイツリーの手前に、総武線と首都高6号、そして隅田川の船遊び。
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○柳橋
いよいよ神田川に入ります。
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○浅草橋
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この辺には屋形船がびっしりと浮かんでいる。
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○左衛門橋
明治維新までずっと、出羽鶴岡藩(あるいは庄内藩)の大名・酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。
このため近辺の河岸地に、殿様にちなんだ「左衛門河岸」の名が定着しており、明治に入って「橋をかける」ということになった際、直接にはこの河岸地の名前をとるかたちでこの名になったらしい。
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○美倉橋
そばに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった、といわれているそうだ。ただ、幕末から明治初頭にかけては「新シ橋」「アタラシハシ」といった名前が地図に見られる。
南詰側は有名な「柳原土手」
柳原土手は古着屋,古道具屋の床店が軒をつらね,夕方それらの店がしまると入れかわりに夜鷹(よたか)が跳梁(ちようりよう)することでも知られていた。夜鷹(路傍で客をひく下級の売春婦)が現れる場所として時代小説にはしばしば登場する。
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○和泉橋
和泉橋は秋葉原駅の昭和通り口の程近くにあるが、この和泉橋の北に藤堂和泉守高虎(とうどういずみのかみたかとら)の屋敷地があり、橋の名はこれに由来するといわれる。
ちなみに松尾芭蕉は、俳句の世界で名前が知られていない頃、この藤堂藩の下級士族として神田川の治水に関わる仕事をしている。
その頃の庵が関口芭蕉庵である。
本来は青く塗られた鉄橋だが、工事でシートが貼られている。
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雨が降って来た(泣)
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○神田ふれあい橋
神田ふれあい橋は、東北・上越両新幹線東京駅乗り入れ工事に伴うJR鉄橋工事用の橋が、地元の要望でそのまま一般開放されたといういきさつをもつ人道橋。
神田川下流エリアにかかる橋としては、現在のところいちばんの新顔になる。
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雨が激しくなった(泣)
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橋の下に船を停めて、配られた合羽を着た。
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○万世橋
万世橋の歴史は、1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に「筋違見附」があり、橋はその見附の付属物であった。
1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成し、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。
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この後、煉瓦造りの建物があったのだが、雨への対応に追われ、そしてカメラのレンズについた水滴でフォーカスも狂い、ものすごいボケ写真しか撮れていなかった(泣)

○昌平橋
この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられているが、1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、同年2月2日(1691年3月1日)に「昌平橋」と命名された。
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○総武線の架橋が斜めに川を横切る。
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総武線電車
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○丸ノ内線架橋
聖橋手前にあり。他に気を取られていて、丸ノ内線の電車が通ったのに、撮り損ねた(泣)
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○聖橋
御茶ノ水駅の東端にある。
名前は東京府東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。
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聖橋を過ぎるとすぐに御茶ノ水駅の拡幅工事
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○御茶ノ水橋
JRお茶の水駅(南詰)と営団地下鉄丸の内線お茶の水駅(北詰)をつなぐ橋。
お茶の水橋のたもとの交番の横に「お茶の水」の由来石碑がある。「お茶の水」が湧いていた場所は碑のある場所から神田川を見下ろした対岸、本郷台の川っぷちの低湿地である。
つまり本郷台地の地下水脈が崖に出会ってわき水になったものが「お茶の水」であって、源流ははるか関東平野の奥の奥にまでさかのぼることになる。おいしい水が出たというのもうなづける。
が、その湧き水の池は最終的には神田川の拡幅工事(江戸時代)で川といっしょくたになってしまったとのこと。もしかしたら今も神田川の底でこんこんと湧いているのかもしれない。
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「警戒船」に遭遇。旗を振っている。どうも工事現場で交通整理をしている人がいるが、あの役目と同じ?
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このクルーズ船のガイドさん(右側)と運転手さん(左側)
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両側の堤がいい感じです。
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工事現場
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順天堂大学
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東京医科歯科大学
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江戸時代の堤跡
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○水道橋
江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、この橋名は、本橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来する。
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○後楽橋
水道橋駅から東京ドームに行くときは、これを渡る。
シートがかかっている。
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振り返ってみた後楽橋。
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○小石川橋
ここで日本橋川に分流しているので、ここで左折して日本橋川に入る。
上にあるのは、これから日本橋川の上を走ろうという高速道路。
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○三崎橋
おおむね本来の神田川(中世の平川)のルートにあたる日本橋川は、江戸時代には治水工事の結果、ここから先、堀留川あたりまでが埋められており、必然的にこの橋も存在しなかった。
明治36年、以前の平川のルートにほぼ沿うかたち(厳密には少々東寄り)で再掘削工事が行われ、それに伴っていちばん上流にかけられたのがこの橋、ということになる。
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○新三崎橋
三崎橋の南側、JRの鉄橋をはさんですぐの位置にかかる橋。2002年、近辺の再開発事業と連動するかたちで新しい橋に架け替えられた。
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ここから高速の下を行きます。
雨なので、少し楽になった。
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○あいあい橋
日本橋川にかかる現時点で最新の橋。JR飯田町貨物駅跡地の再開発プロジェクト「飯田町アイガーデン エア」の施工に伴って、その敷地と水道橋方面をつなぐかたちで新たにかけられた歩行者専用橋。
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この辺から、川の両側に高いビルが林立。
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○新川橋
千代田区西神田 と 同区飯田橋を結ぶ小さな橋。
この辺りも江戸時代には 川 は埋め立てられており、橋が架けられたのは、明治36年(1903) の 日本橋川再開削の後と考えられる。再開削直後は「新川」だったからか?
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○堀留橋
江戸時代初期の神田川開削の際に日本橋川の神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋めたてられ、この付近が堀の終点となっていたことから「堀留」の名がある。1903年に再びこの区間が開削され日本橋川となった。
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○南堀留橋
直上の首都高速は、西神田出入り口が近いため5車線分の幅があり、完全に川を覆っている。
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○俎(まないた)橋
江戸時代初期の架橋と思われるが、詳しい年代は不明である。江戸時代には東側には武家地が広がり、西側は飯田町と称した[2]。東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった。
万治年間より1903年(明治36年)までの期間、日本橋川は神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋め立てられており、堀留橋付近がその名の通り堀留で、俎橋が日本橋川の最も上流に架かる橋であった。俎橋と堀留の間の西岸には1664年(寛文4年)より俎河岸が存在し、物資の荷揚げが行われた。
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○宝田橋
初代の橋が架けられたのは1929年(昭和4年)10月で、震災復興事業の一環であったが耐震・耐火性に劣る木造橋であった。橋名は、かつてこの付近にあった宝田村から採られている。
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雨がひどい。
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○雉子橋
皇居内堀に最も接近する箇所に架かる。北詰には共立女子学園があり、道路を直進すると神田神保町に至る。南に進むと皇居内堀清水濠に出る。
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江戸城外堀遺構が続く。
石に色々な刻印がありますが、これは江戸城築城の際に工事を請け負った藩が、自藩の石に刻印をしたのです。
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雨がひどい(泣)
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○一ツ橋
「一ツ橋」の地名は中心部よりやや南を南東から北西へ縦断する日本橋川に架かる一ツ橋(一橋)に由来している。一ツ橋付近はもともと日本橋川と小石川(現在の白山通り)の合流地点であり、合流点を表す「ひとつ」がこの地点に架かる橋の名称、さらにこの付近の地名になった。町名の由来となった一ツ橋は後述の一橋御門の築造以前から存在していたと考えられている。
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○錦橋
大手町一丁目から神田錦町三丁目に通じる道筋。関東大震災の復興橋の一つで、昭和2年(1927)5月5日に架設された。橋名は錦町や錦町河岸(旧地名)から付けられた。「錦」は昔近くに一色という武家屋敷が二軒あったので、二色→錦と転化したのだといわれている。
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○神田橋(工事中)
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来する。江戸城の増築により外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられた。寛永時代の地図では「大炊殿橋」の名で記されている。神田橋から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は、歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから「御成道」と呼ばれた。現在でも、天皇皇后両陛下が車で北関東方面に向かう際にここを通ることから、「御成道」の名は残っている。
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○鎌倉橋
徳川家康 が江戸城に入城後の慶長年間(1596~1614) には、 城内や城壁、濠などの大規模な改修工事が行われた。この江戸城改修に伴って、付近の川筋には鎌倉からの石材が陸揚げさるようになり、その頃から 「鎌倉河岸」 と呼ばれるようになったという。
『鎌倉橋』 の名称は、この 「鎌倉河岸」 から付けられたものである。
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雨がひどい(泣)
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○中央線快速の跨線橋
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○新常盤橋
「新常盤橋(しん ときわ ばし)」は、千代田区大手町 と 中央区日本橋本石町 の間で、大手町と本石町を結ぶ 「江戸通り」 が 「日本橋川」 を渡る橋で、最初の架橋は大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。
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やはり、ずぶ濡れの客で一杯の船とすれ違い。
大変ですよね(笑)
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○常磐橋
大工事中でした。
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○常盤橋
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常盤橋(ときわばし)・常磐橋(読み方は同じ)は、東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋。ただし、現在は上流にある人通専用の旧橋を常磐橋、その後造られた新橋を常盤橋と称する。

元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。
徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉や府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州や房総に連絡していたと考えられている)。
ただし、大橋が架かる日本橋川は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。

寛永6年(1629年)、常盤橋の前に常盤橋門が設置され、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。「常盤」の由来については、『金葉和歌集』(巻1)の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。江戸の交通の中心は日本橋にその地位を譲ったものの、常盤橋から浅草方面の途中には「伝馬町」「馬喰町」など運送業者に由来する町(名)が引き続き栄えていた。

明治になってから、石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。平成19年(2007年)3月28日に常磐橋・常盤橋はともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定された。

以上の情報は、常盤橋(ときわばし)・常磐橋(読み方は同じ)をきちんと分けて書いていない。
常盤橋門(常磐橋門)の見附の石垣から延びているのは常磐橋なので、こちらの方が江戸城と結びつけるのにはふさわしい。
「常磐橋」という名は、「常盤橋」だと皿が割れるのでこの名に変えたという話も残っている。

○一石橋
皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋された橋である。 日本橋川に架かる橋では最も低い橋。
江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。
北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。
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○西河岸橋
中央区日本橋 と 日本橋室町 の間で、 三越本店の裏通りから日本橋・八重洲方面に通じる、通称 「日銀通り」 と呼ばれる小さな通りが「日本橋川」 を渡る橋である。
『西河岸橋』 の名称は、当時この橋の南側が 「東京市 日本橋区 西河岸町」 であったことから付けられている。
これは 日本橋川 の右岸を 「西河岸」 と呼んでいた河岸の名称からきており、 左岸は 「北河岸」 と呼ばれていたという。
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○日本橋帰還(嬉)
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橋の上から、「よくもまあ雨の中を、屋根の無い船で」とあきれて見ている(笑)
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ヤレヤレとホッとした顔で皆さん降りていきました(笑)
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今回は、全部の橋は撮れたが、それに気を取られて、沿岸の景色を楽しむゆとりが全然なかった。
あと二回くらい乗りたいと思っている。

(了)


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熊谷市野原地区と滑川町を歩く

20150616

5月22日(金)に歴史クラブ行事で歩きました。
コースは、立正大学博物館、文殊寺、淡洲神社、天神前l号墳、亀入沼、天神山横穴墓群、淡洲神社、谷津の里、浅間神社、成安寺です。
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東武東上線の森林公園駅からバスに乗り、「立正大学」で下草、まず立正大学の博物館を見学。

【立正大学博物館】
所在地:埼玉県熊谷市万吉1700

バスを降りると、既にキャンパス内でした。
博物館は木立の中にあり、とてもいい環境でした。
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館内は撮影禁止だったので写真はありませんが、マップはこのようになっていた。
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アジア各地の鐘、矢じりのコレクション、板碑もいいのがありました。
驚いたのは黒曜石の巨大な塊を斧にしたものがあった。北海道で収集されたものだが、あんな巨大な黒曜石の塊は初めて見た。

また頂いた資料で「近世の墓石と墓誌を探る」が大変参考になるもので、有難かった。
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【文殊寺】
所在地:埼玉県熊谷市野原623
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曹洞宗、本尊:文殊菩薩
日本三体文殊の一つ(京都の切戸(天橋立)文殊、山形の亀岡文殊、武州野原の文殊)
文明15(1483)に古河公方の家臣である増田四郎重富が本寺を再建したとある。ここには、増田館があったと伝えられ、本堂の裏、西側・北側に土塁と堀が残る。増田重富は小川町高見の四ツ山城に居住したとも伝わる。

仁王門
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鐘楼門
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鐘楼門の右手に白山大権現社
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その横に庚申塔
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境内は巨木も多く、素晴らしい雰囲気でした。
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本堂
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本堂の左手の林の中に「芭蕉塚」があり。
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文政3年(1820年)2月、五道庵竹二坊建立。
碑面には「文化十三丙子年 十月十二日 五道庵建」とあるが、何らかの都合で遅れたのか。
五道庵は福田村(現・比企郡滑川町)の人で、竹二坊と号した。
寛政10年(1795年)、『芭蕉翁正伝』を著し、世に知られている。
天保6年(1836年)、没。

横に芭蕉の句碑あり。
「はつしくれ猿も小蓑をほしけなり」
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『猿蓑』冒頭の句です。
元禄2年(1689年)9月下旬、芭蕉46歳の作。
芭蕉が『奥の細道』の旅を終え伊勢へ足をのばした後、故郷上野へ帰る途中に伊賀街道の長野峠で詠んだものとされている。

諸仏堂あり。本尊の文殊菩薩が拝めなかったので、ここで。
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本堂の裏の土塁と堀
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【淡洲神社】
鎮座地:埼玉県比企郡滑川町大字土塩
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拝殿
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後ろに本殿の覆い屋
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拝殿内部
奥に本殿が見える。
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境内社・天神社
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境内社・三峰神社
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【天神前l号墳】
滑川町の土塩球場南側の丘陵上に分布している。
円墳、古墳時代後期の群集墳と思われる。滑川町は古墳が多いが、きちんと形が残り、はっきりと見える古墳は少なく、これは貴重な存在。

入り口
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天神前l号墳
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【亀入沼】
滑川町に約200基ある溜池の一つ。
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蓮が咲いていた。
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【天神山横穴墓群】
吉見百穴と同じ横穴墓。1基のみ見ることができる。
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【淡洲神社】
鎮座地:埼玉県比企郡滑川町大字福田
土塩の淡洲神社と祭神が異なる。
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参道
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社殿
大きな覆い屋だった。
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中には朱塗りの社殿が納まっていた。
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お百度参りの算木があった。
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【谷津の里】
「日本の里山の景観を今に伝える」自然とのふれあいや農業を体験できる場として、滑川町が整備。道の両側の谷津に谷在家沼、中人沼がある。
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谷津田センターで、持参のお弁当で昼食、休憩。

里山風景の中をのんびりと歩きました。
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【浅間神社】
鎮座地:埼玉県比企郡滑川町大字福田
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山を上ります
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途中に境内社あり。
津島神社(建速須佐之男命)
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雷電神社(火雷大神、大雷大神)
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拝殿
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本殿
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拝殿の中に、富士講奉納の絵馬があり。
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【成安寺】
所在地:埼玉県比企郡滑川町大字福田1205
曹洞宗、開基は酒井重勝と伝わる。
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馬頭観音堂
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彫刻もなかなかのもの。
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向拝格天井に馬の姿絵が措かれている。
剥離が激しい。
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馬頭観音は簾があって見えない。
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格天井には、色々な鳥の姿が描かれている。
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奉納絵馬
辛うじて字が残っており、「甲源一刀流」のものということは判った。
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建長板石塔婆(建長3年)
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近くに大きな板碑があったが、残念なことに年号が判らない。
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境内一帯は徳川家族本、酒井重勝(1549・1613)陣屋跡と伝わる。酒井家墓所がある。

酒井重勝(1549-1613)について:
 徳川家旗本。通称は与九郎または作右衛門尉とされ、永禄6年(1653)三河一向一揆では徳川氏に敵対した。元亀3年(1572)三方原の合戦時には家康の浜松城への退却に活躍。天正12年(1584)長久手の合戦では鎗奉行として活躍。翌年の真田氏の上田城攻めにも功績あり。その後長柄奉行を務め、家康の関東入府に伴い武蔵比企郡福田、岡部、上総山部郡土気合わせて2千石を知行される。なお、上総山部郡土気(とけ)には千葉氏の一族原氏家臣である同姓の上総酒井氏の居城が所在していたことは興味深い符合である。
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際には三河寺部城を預かり5千石の知行を得たともいわれる。その後伏見城の御天守番を務め慶長18年5月伏見にて死去。享年65歳。法名は成真。「鎗」の長短の優劣を巡る有名な逸話もある。(「寛政重修諸家譜」「

酒井家墓所
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酒井家の有名な「片喰」紋。
先祖は葵紋を使用していたが、家康の先祖松平氏の頃、松平氏に葵紋を所望され献上し、代わりに形の似ている「片喰」紋を使用した。
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五輪の塔、宝篋印塔で変わったのがあり。
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入り口近くに、庚申塔などが並べられており、興味を引いたが時間が無く団体行動の悲しさ、遠くから撮ったものから。
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これで予定を全て終え、成安寺門前のバス停から森林公園までバスに乗り、帰途につきました。

(了)


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品川・天王祭(品川神社・荏原神社・寄木神社)

20150612

6月7日(日)に歴史クラブの行事で、天王祭を見物しました。

天王祭とは、牛頭天王を祀る天王社が行うお祭りのことで牛頭天王とは疫病よけの神。
品川神社(北の天王祭・北品川)と荏原神社(南の天王祭・南品川/東品川)の両社で執り行う祭事。
今年の北の天王祭は6/5(金)、6(土)、7(日)の3日間、南の天王祭はその年によって若干のずれがあるが今年は同時期の開催となりました。

「新馬場」の駅に降り立つと、品川神社は目と鼻の先です。
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富士塚にも、沢山の人が登っている。
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石段の下から境内が屋台で埋め尽くされています。
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拝殿の前には五色旗が立ち、華やか。
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品川神社については、以前に記事にしているので、そちらを読んでください。

品川神社の記事を読む


この日は宝物殿が公開されていました。
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撮影禁止でしたので、撮ってありませんが、展示されていた宝物は以下のようなものでした。
・元禄7年(1694)奉納の「酒呑童子図大絵馬」
・江戸時代奉納「能・小鍛冶図大絵馬」
・徳川家康奉納「天下一嘗の面」
・能面八面
・四神置物
・明治時代の大神輿(千貫神輿)
・勝安房(勝海舟)揮毫額「葵神輿」

境内に「品川拍子保存会」の獅子頭が置かれていた。
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幸いなことに、品川神社里神楽の上演演目のうちの一つ「天孫降臨」を、タイミングよく自由行動の時間内で録画することが出来ました。

長いので、ユーチューブには二回に分けてアップしてあります。

品川神社里神楽「天孫降臨」(前半)を見る


品川神社里神楽「天孫降臨」(後半)を見る


残念ながら、品川神社の神輿は朝8時に出社しているので、見ものの急な石段を降りるところは見ることが出来ませんでした。

「北馬場参道通り」も沢山の人出。
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東海道に出たところで、子供が引く北二町の山車「法橋」がやってきました。
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そして子供神輿も。
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手が届かない(泣)
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そして天王祭の起源となった、江戸時代に牛頭天王の面が品川浦で発見されたときに、このお宮に奉納されたということなので、寄木神社に参拝しました。
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この神社の部分は、「神社巡拝」リストの関係で、別の記事にしてあります。

その記事を読む


「品川宿交流館」で休憩
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南の天王祭が行われている荏原神社に参拝。
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こちらも人出でごったがえしている。
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荏原神社については、以前に記事にしているので、そちらを読んでください。

荏原神社の記事を読む


この日は、拝殿に「四神旗」が出されていた。
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北の玄武(げんぶ)
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西の白虎(びゃっこ)
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東の青竜(せいりゅう)
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南の朱雀(すざく)
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この後、荏原神社の神輿が海中渡御から戻って来るのを待つことにしました。
南の天王祭での神輿は、昔は社を出て、南品川宿内と門前町屋など氏子町を渡御し、海晏寺門前(今の南品川3丁目)から海中にかつぎ込み、海中を渡御して南品川猟師町から上陸し、南品川1丁目の御仮屋に入りました。この神輿が海中を渡御するところから、荏原神社の天王祭を「かっぱまつり」とよんでいます。
砂浜や浅瀬のなくなった現在は、お台場海浜公園まで舟で運んで海中渡御が行われています。
海中渡御(かいちゅうとぎょ)とは、お神輿が海の中を練り歩く儀式で、お台場海浜公園で行われます。海中渡御は、江戸時代に牛頭天王(現在は素戔鳴尊(すさのうのみこと))の面が品川沖で発見されたことに由来しています。
その面が神輿に奉戴されますが、この御神面は室町時代に農夫が霊夢により海岸で拾い上げたという言い伝えが残っており、この伝説によって拾い上げた場所が天王洲と呼ばれるようになり、禁漁区となったそうです。

はじめは、目黒川を遡ってくることはわかっているものの、何処で上陸するのかわからず、色々な所で聞き込みをして、寄木神社の前の道が目黒川を渡る「洲崎橋」のところだとわかり、そこで待機しました。

神輿が船で目黒川を遡ってきて、上陸する様子をカメラの動画機能で撮影したので、見てください。
ユーチューブにアップしてあります。

その動画を見る



原神社の神輿が海中渡御から戻って来るのを見届けた私たちは、満足してぶらぶらと「新馬場」で電車に乗って帰るべく、東海道を歩いて、「山手通り」まで来たときに、運よく品川神社の神輿に出会いました(嬉)
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聴こえてくるのは品川神社の太々神楽の太鼓の拍手に江戸の躾子の笛の拍手を採りいれ、一つの独特の拍手を作りだし徳川家より神輿が奉納された当時より「神泉の渡御」に用いてられてきた「品川拍子」です。
北も南も神輿が合わせて巡行する品川拍手(太鼓=大拍手と篠笛)は品川区無形民俗文化財に指定されており神輿の左脇にくくりつけられた締太鼓を2本のバチを打ちトンビと呼ばれる篠笛を演奏し、この調子に合わせながら練り歩きこの音を聴くと品川っ子の血が騒ぎ出すとのこと。

担ぎ方は「城南担ぎ」と呼ばれる独特のスタイルで横棒に肩を入れ連行方向ではなく神様にお尻を向けないよう神輿に向かって担ぐ。
小刻みに激しく神輿をもむが「さざ波」に揺れる小舟を表現したものと言われるとのことで、いかにも旧漁師町らしい勇牡で荒っぽい担ぎ方で慣れないと頭や肩に棒が当たってかなり痛いとのことです。

「天下一嘗めの面」がいいですね。
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「城南担ぎ」
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東海道を進んでいきました。
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この日は、天王祭を品川神社と荏原神社が同じ日に行ってくれたので、北の天王祭の「天下一嘗めの面」の面をつけた神輿と、南の天王祭の「牛頭天王(現在は素戔鳴尊(すさのうのみこと))の面」をつけた神輿、両方を見ることが出来て、良い一日でした。

(了)


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品川の天王祭/寄木(よりき)神社

20150612

鎮座地:東京都品川区東品川1-35-8

6月7日(日)に歴史クラブの行事で、天王祭を見物しました。
その際に、天王祭の起源となった、江戸時代に牛頭天王の面が品川浦で発見されたときに、このお宮に奉納されたということなので、参拝しました。
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現在は荏原神社の末社となっている。
由緒:日本武尊が御東征の折、相模固から走水の海(浦賀水道)を渡ろうとした際に海神により嵐が起こされ船は沈没寸前となった。弟橘姫は海神の怒りを奨めるべくその身を犠牲にして入水したことにより日本武尊は難を逃れた。船が嵐に見舞われ蔽現した際の木片が品川浦に漂着し、これを漁民らが納めて祀ったとのこと。

境内には3対の狛犬があります。

まず青銅製のもの(昭和63年造立)
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次いで「かっぱ狛犬」です。文政11年(1828)造立。
阿形吽形共に頭頂部にくぼみ(皿)が造られている。この皿の役目は昔、神社前に海が広がっていた頃、海苔採り等は暗いうちに海に出たりする際、その皿の部分にロウソクを立て火を灯し灯台の代わりとして沖にいる船の目印にしていたと言われている。
祭祀等別の目的があったかも知れないとのこと。
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最後に拝殿前(尾流れ型)、大正2年(1913)造立。
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拝殿前に神輿が置かれ、御神面「牛頭天王(須佐之男尊)」が付けられている。
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*かっぱ祭り
江戸の奇祭のひとつ「かっぱ祭り」は荏原神社の末社:寄木神社の神輿がお台場で海中を渡御し御神面を海に帰して海上安全と豊漁、五穀豊壌を祈願する神事。

御神面の由来‥・宝暦元年(1751)6月昼辰時(午前8時)出漁中、波間に光りを見て恐る恐る近寄ってすくいあげて見ると見事な面であったので持ち帰り恐れ多いので「寄木神社に奉納」した。
一方武州彦宗郷(三郷市)番匠免に、昔優れた面作りの木工が居て見事な面を作りあげその代償として番匠免を授けられた。
ある時この地方に大洪水が起き付近一帯は白海と化して面作り大工のお面も水渦の中に流出し、探し回ったが見つからずこの面が品川に流れ着き、寄木神社に安置されていることを聞き相方の名主と宮司と相談の上、あらためて稲穂と甘酒を供え、面を「荏原神社に奉納」することとした。
由緒ある面とわかり、奇しくも荏原神社の御祭神の須佐之男尊の面とわかり御神面として奉ることになり荏原神社の大祭には神輿の屋根の上に付け鳳凰の口に稲穂をくわえ五穀豊穣と豊漁祈願を込めて渡御することになったとのこと。
その際は、寄木神社前の海岸より海中渡御するようになった。また、この日を御神面の里帰りとい。日没に御帰社し神輿より御神面を取り外しご本殿に奉安される。

拝殿
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各部の彫刻が細緻で見事です。
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御神号額
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ご祭神:日本武尊、弟橘姫
合祀:西宮大神、大巳貴尊、少彦名尊

神紋は「16弁裏菊」
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石倉造りの本殿内の2枚の扉には江戸時代後期~明治時代に活躍した左官の名工伊豆長八の漆喰鏝絵(しっくいこてえ)」があります。
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拝殿からのぞくと、ガラス戸越しに、かすかに一部が見えました。
左扉の「天鈿女命」
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その上部に「瓊瓊杵尊」
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この鏝絵については、見せていただける日があるということなので、後日改めて見せていただくつもりです。

境内社の「庄野稲荷神社」、「亀の甲神社」も祭りに浮かれていて、きちんと参拝できませんでした。
これも後日改めて。


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智光山公園植物園の花

20150606

今日はウォーキングも兼ねて、智光山公園に行き、緑化植物園などで花の写真を撮ってきました。

薔薇はもう遅かった。
それでも三つ、まあまあの写真が。

「彩雲」
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「シャルル・ドゥ・ゴール」
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「ローラ」
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緑化植物園では、いろいろと珍しい花がありました。

「クサボケ」
草木瓜、バラ科ボケ属
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「キンシバイ」
金糸梅、オトギリソウ科オトギリソウ属
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「ブルーベリー」
これは花ではないが、可愛かったので(笑)
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「ホザキシモツケ」
穂咲下野、バラ科シモツケ属の落葉低木
シモツケソウに似ているが、穂になっている。
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咲きはじめ
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咲いて
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花が終わると、このように灰色の穂になる。
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「エキナセア」
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「ヘリオプシス」
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「ストケシアミックス」
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白い花
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紫の花
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温室にいくと、少しだが面白いのがあった。

「ミッキーマウスの木(オクナ・セルラタ)」
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これは、ちょっと違うけど面白い。
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こういうのが撮れればグッド(ネットで探した画像)
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「フクシア」
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「ブーゲンビレア」
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おなじみの花だが、ピンクの花びらに見えるのは萼(がく)であり、本当の花はその内側にあることを初めて知った。
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(了)


甕速日神(みかはやひのかみ)/日本の神々の話

20150606

「二神の神産み」において、伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』において、「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「火神迦具土神」の段での記述は以下の通り。
(読み下し文)
かれここに、伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へむと謂へや」とのりたまひて、すなはち御枕方に新郎ひ、卸欝に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成りし神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。かれ、その神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。
 ここに伊邪那岐命、佩かせる十拳剣を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀の前に箸ける血、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は、石拆野、次に根拆野、次に石筒之男神。三神 次に御刀の本に箸ける血も、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豐布都神。三神 次に御刀の手上に集れる血、手俣より漏き出でて成りし神の名は闇淤加美神、次に闇御津羽神。
(以下略)

イザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
また、武甕雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕雷男神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕雷男神が同時に生まれたとも記されている。

神名の甕(みか)はイカにも通じるものであり、イカは「いかめしい・厳」などのイカで、怒るも同義同根の語である。速は猛く烈しいという意味があり、日・火と同意語といえよう。この神名は火の威力を表現したものである。また、剣の威力を称えた神名であるという説もある。


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入間川地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・旭町自治会

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5月24日(日)に行われた、旭町自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから5名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。
旭町自治会では第二回目の開催となります。
今回のコースは「入間川地区」です。
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適宜、明治14年迅速測量図も用いて説明しました。
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参加者は46名でした。
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【綿貫家の墓地】
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綿貫家は、江戸時代「西の鴻池、東の綿貫」と言われたほどの豪商で、ほとんど江戸で商いをしたのだが、慶應三年(1867)古文書によると老中酒井雅楽頭への貸し付けが現在の価格に変換して857億であり、最盛期には諸大名、旗本、商家、などへの貸し出し額と現金在高の合計が6兆93億円(現在の価額に換算)に達したという。
しかし、徳川幕府の瓦解と運命を共にした。

今回の説明は、子供も参加していたため、童話「入間川のお大尽だった綿貫家のお話」をした。
◉綿貫家の井戸
◉綿貫家のどんどん出てくる傘
◉音色のいい鐘


【福徳院】
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福徳院不動尊の来歴は、「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。
 福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。
二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。
 その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。
 昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。
本尊  不動明王:高さ43cm

現在の不動堂は平成18年に建て替えられ、これに合わせて本尊も新しい木造不動明王坐像となりました。かっての本尊は新しい本尊の真上の天井裏に安置されているそうです。

以前、現在の不動堂の中を見せていただいたときに撮ってあった、現在の本尊です。
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参道の途中にある、三面八臂の馬頭観音。
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馬頭観音は、観世音菩薩の化身で,六観音の一つ。忿怒相をもち,人身で,頭が馬のものと,馬の頭飾りを戴くものとがあり,馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされる。
しかし,江戸時代後期以降、一般には馬の無病息災の守り神として信仰され,3面8臂,4面8臂などのものもある。

【徳林寺】
福徳院の下にあり、裏の墓地の方から入ったため、墓地にある板碑と五知如来の説明が先となりました。

○板碑
 板碑とは石で造った卒塔婆の一種で、個人の追善供養のために建てられたものと、自分の死後の冥福を祈って生前に営む法事で建てられたものがあります。当寺境内にある板碑は武蔵系板碑、または青石塔婆といわれ、秩父地方から産出される力で緑泥片岩で造られたものです。板碑は鎌倉時代に発生しましたが、江戸時代になると消滅し、その後は作られなくなりました。この墓地には34基の板碑があり、これらは瑠璃光寺跡から出土したものをここに移転しており、瑠璃光寺跡は以前綿貫家の墓地があった場所でもあります。
板碑の真ん中に立っている丸彫りの石仏は、五知如来の一つである大日如来です。
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○五知如来
  ここに5基の丸彫りの石仏がありますが、真ん中の地蔵菩薩を除き、左から釈迦如来、阿閦如来(アシュクニョライ)薬師如来、阿弥陀如来と、本来ならここにあるべき大日如来は墓地中央付近の東屋の左隣にある板碑の真ん中にあります。像高は120~150㎝、蓮華座が20~30㎝で、等身大に近い大きなものです。

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○子育地蔵尊
山門を入った左側に「子育地蔵尊」の額を掲げた六角堂の中に、台座、蓮華座などを含めた全高176.5㎝、像高124㎝の石仏の丸彫り地蔵菩薩が安置されています。お堂の周りに「祈安産」と書かれた襷(たすき)や涎掛けが供えてあるところから、今でも安産と子育ての地蔵様として信仰を集めています。
この地蔵菩薩は別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石の」の伝説を持っています。
河原から穴の空いた石を捜して来て、これを供え願掛けをすれば耳が聞こえるようになるというもので、数は少なくなっていますが、今でもお堂の前に穴の空いた石が供えられています。
銘文からこの地蔵菩薩は、入間川村の斎日講71人の人達が現当二世安楽を願って元禄6年(1693)2月(322年前)に建てたもので、背中には六地蔵の種子が彫られており、一体六地蔵と思われます。また六角堂の前の高さ179.5センチの燈籠には、片側3体ずつ一対で6体の浮彫の地蔵菩薩が彫られており、これも六地蔵と思われます。
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○本堂
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当寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院です。
創建時の宗派は不明ですが、天文元年(1532年)(483年前)に曹洞宗に改宗しています。
本尊は像高32.5㎝、台座高55㎝の木造宝冠釈迦如来坐像で、文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊形式のものです。創建の時期は不明ですが、13世紀初頭に徳林寺の前身と思われる薬師堂が草創されたそうです。言い伝えにによると、新田義貞が元弘3年(1333)(682年前)5月の鎌倉攻めの際、徳林寺の場所に本陣を置き、守護仏としていた聖観音を薬師堂へ安置したといわれ、後にこの観音堂を入間川村地頭の小沢主税に贈ったことにより本尊にされたと思われます。
また鎌倉公方・足利基氏が、南朝方の新田勢の再起に備えて文和2年(1353年)から9年間(1362年)(662年前~671年前)この場所に「入間川御所」を置いて滞陣したところといわれ、その後この入間川御所跡に薬師堂が移転し改名して徳林寺となりましたが、当時の宗派はりんざいしゅうであったといわています。

○絹本着色釈迦涅槃図
この絹本着色釈迦涅槃図は昭和61年(1986年)(29年前)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
釈迦涅槃図はお釈迦様の臨終を描いた仏画で、臨終に際し、弟子をはじめ諸王、大臣、梵釈、諸天から鳥獣に至るまで、ともに集まって悲しんでいる様子を描いたものです。
○絹本着色釈迦八相図
この絹本着色釈迦八相図は昭和61年(1986年)(29年前)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
八相図は、お釈迦様の生涯における8つの事跡を描いたものです。

本堂に上げていただき、「絹本着色釈迦涅槃図」と「絹本着色釈迦八相図」を参加者に間近に見ていただいた。
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ここで、駅横の市民交流センターに戻り、休憩を取った。

【八幡神社】
「八幡さま」は、全国の神社のなかで一番多い神社です。「八幡太郎義家」でわかるように、源氏の氏神となったので、京都には石清水八幡宮、鎌倉には鶴岡八幡宮と八幡さまが設けられ、全国にも「八幡さま」が各地に設けられました。
現在は、「鎮守の森」として、その地に暮らす人々の安全を守る神様となっています。
初詣もそうですが、半年の穢れを落してこれからの安全を祈る、6月30日の「夏越の祓」、狭山市で茅の輪をくぐれるのはこの八幡さまだけだと思います。
それから「年越しの祓」で、土地の人は小さい御幣をいただいて、玄関とか畑に立てて、災いが入らないよう、安全を祈っています。

年中行事としては、まず7月の「入間川の天王さま」があります。
これは、境内社の八雲神社の祭りですが、夏に牛頭天王が疫病を流行らせないように祈る行事で、ここに住んでいる人の健康を祈ってしているわけです。
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それから、9月例大祭の「鹿子舞(ししまい)」があります。
市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
 明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺を獅子舞の一行が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として答めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。
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○「新田義貞駒つなぎの松」
本殿向って左側の柵外にある松の木は史跡の「新田義貞駒つなぎの松」です。
新田義貞は元弘3年(1333)に鎌倉幕府を攻めた際、徳林寺に陣を置いて源氏ゆかりの八幡宮に自ら赴き戦勝を祈願しました。その際愛馬をつないだ松といわれていますが、本物の松はすでに枯れて現在は枯れた根だけが残っています。
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○各所の彫刻が見事です
●本殿の正面を除く3面の壁面に総彫りともいえる彫刻が施されています。壁面の彫刻は中国の貴人に親しまれた琴、囲碁、将棋、書画を、浮き彫りと透かし彫りという2つの技法を巧みに使い分けて彫ってあります。
制作者は棟札の墨書から、上野国勢多郡上田沢村(現群馬県桐生市)の並木源二と、勢多郡深沢村(現群馬県みどり市)の鏑木半二です。
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本殿の下の部分にも、龍の間に面白い彫刻があり。
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これは獅子舞
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●拝殿の向背柱・木鼻の獅子の彫刻
 牡丹の一枝を咥えているのと、透かしの籠に玉が入っているのを持っている。
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●手水舎
 浦島太郎などの彫刻がある。
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【清水八幡】
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清水八幡宮は狭山市指定文化財で、清水冠者義高(源義高)を祭神とする神社です。源義高は木曽義仲の嫡男(ちゃくなん)として木曽で母・山吹姫との間に1173年に生まれました。
源義仲は1183年源頼朝と敵対し頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高は人質として大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきます。
しかし、結局朝廷での情勢が悪化し、義仲は源頼朝が送った弟の源範頼(のりより)・義経の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江の国粟津の戦い(あわずのたたかい)で1184年討たれました。
頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃そうとします。義高は女房姿に扮して大姫の待女達(じじょたち)に囲まれ屋敷を抜け出し、大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します。
義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・男衾群(おぶすまぐん)の大蔵館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゅう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石祠(せきし)が安置されています。この石祠の出土地(しゅつどち)をかつての清水八幡宮の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。



【諏訪神社】
・ 御祭神:タケミナカタノ命(大国主命の二男 武力に優れた神様で武士の信仰が多い)
・ 初めて建てられた時代:古い記録がなく不明であるが、鎌倉時代、或いは戦国時代後期 甲斐武田氏の家臣等が諏訪大社の御魂を勧請したとも伝わる。
屋根の鬼瓦と野地板に「四つ割菱」武田菱ともいう が見える。
・ お諏訪さまナスとっかえ:「狭山市無形民俗文化財」平成9年6月2日指定。
8月の第4土・日、地域の夏祭りと併せて行われる。
ナスを神社に奉納して代わりに神前に供えられているナスを持ち帰って食べると一年中病気をしないといわれる風習。起源はわからない。ナスの毒消し効果が信じられた。
・ 神事:神主の祝詞奏上、玉串奉納。氏子の役員等の玉串奉納と拝礼。30分ほどで終り、かっては本殿でナスとっかえが行われたが、数年前からナスとっかえの代わりに「厄除茄子」が販売されている。
茄子3本入厄除札付で200円。現在でもまれにナスとっかいをされる信者もいる。
・ 「ナスとっかい」にまつわる伝説があります。t
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「石無坂」の上り口
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ここが、大正天皇が観望されたところですよ。
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【慈眼寺】
本堂の前は、カンカン照りなので、境内の隅の木蔭で説明。
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本堂
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宗派:曹洞宗 高祖:道元、太祖:螢山 本山:永平寺(福井県)、 総持寺(横浜市)
山号:妙智山  ご本尊:木造聖観音菩薩坐像 像高46㎝、台座込み96㎝
創建:650~660年前(室町時代の中頃)より前、この地に阿弥陀如来をご本尊とする草葺きの阿弥陀堂があったと伝わる。
略歴:500年ほど前(大永年間)に、瑞泉院(入間市木蓮寺)の第三世一樹存松が阿弥陀堂をこの地から現在の入間川2丁目の「子ノ神付近」に移して曹洞宗のお寺を建たと伝えられる。江戸時代の慶安 2年 徳川三代将軍家光から10石の寺領を保証する朱印状を賜る。幕末の慶応元年火災に遭い、しばらく仮本堂でお勤めする。明治17年この地に戻り本堂等を建立。
所蔵文化財・石仏
☆木造阿弥陀如来立像:木造阿弥陀如来立像(阿弥陀如来の立ち姿)
☆丸彫地蔵菩薩立像
☆結界石を兼ねた三界万霊等
☆廻国供養塔
☆六地蔵

所蔵の円空仏を見せていただいた。
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予定を終了し、帰途につきます。
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集会所で、お弁当をいただきながら、懇親会をして終了でした。

アンケートの結果も良かったようで、次はどこにしようかと・・・・・・・
有難いことです。


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中山道・岩村田宿

20150601

4月23日に両親の墓参りをして、その後「御代田・一里塚の桜」を撮りました。この日に行くことにしたのは桜の時期に合わせたため。
その後、通常なら軽井沢で遊ぶのですが、この際だからと岩村田宿の写真を撮ってきました。

その後他のアップする記事が続いて、やっとこれを記事にすることができました(笑)

岩村田は、私が生まれた村の隣で、鉄道(小海線)の最寄り駅であり、私が通った高校がある町です。

両親の墓は、上信越高速道のすぐ近く。
墓参りのあと、撮った写真。
天気が良くて、浅間山もきれいに見えました。
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中山道「御代田・一里塚」で桜の写真を撮ってから南下して、「小田井宿」はパスして、その南の岩村田に入っていきます。

岩村田宿について:
ルート図
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中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場。
現在の長野県佐久市岩村田一帯。岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町であった。宿場の本陣は存在したが、大破し、その後も再建できず旅籠も最盛期で8軒と少なかった。

岩村田宿を描いた浮世絵
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住吉神社の手前に、石仏がありますが、この奥に「大井一族」の墓地があります。
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったといいます。
信濃守護代にまでなった名門です。
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【住吉神社】
鎮座地:佐久市岩村田住吉町
かっては岩村田宿の入口付近に鎮座し、宿場町の枡形が隣接していたと言われています。
入り口から中山道と浅間山を振り返る。
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社号標
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鳥居
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鳥居の先には、推定樹齢7〜800年の御神木の欅が佇んでいます。
すごいコブ!!
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鳥居の右手に、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
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その先に、“従是善光寺道”の旧道標がある。
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二の鳥居と参道
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二の鳥居の横にも、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
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拝殿
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拝殿内部。奥に本殿が見える。
祭神は住吉三神。
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社殿の左側にあった講の石祠
浅間山を望んでいるから、浅間講なのか?
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石碑がズラッと並んでいます。
江戸時代のものが多かった。
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「天明八甲年正月」と刻まれた双体道祖神
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住吉神社を出て南に向かう。
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【善光寺道・道標】
住吉神社の少し先で善光寺道が右に分岐する。復元した“従是善光寺道”の道標が立っている。元の道標は交通事故で破損、修復して住吉神社に移設されている。

道標から中山道の小田井宿方向を見る。
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道標に刻まれた説明
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道標の先、右に入る道が「善光寺道」
中山道は直進。岩村田宿の入口はこの辺りだそうだ。
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そこから少し行ったところで左に入れば、「龍雲寺」。
この日は、龍雲寺をパスしたので、2011年2月に撮影した写真で説明します。

【龍雲寺】
所在地:佐久市岩村田415

実は、私が中学のときの英語の先生がここの住職でした。
中学のときに、お寺を案内してもらった記憶がありますが、記憶にあるのは「武田信玄二十四将図」くらいです。

信濃の攻略が一段落した永禄3年(1560)信玄は荒れ果てた龍雲寺を復興し、師と仰ぐ大和尚、北高禅師を迎え中興開山しました。
もとは鎌倉時代初めの正和元年(1312)地頭の大井実作入道玄慶による創建で大井氏の菩提寺でした。
武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をしました。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。1931年(昭和6)には、信玄のものと推測される遺骨が発掘され、現在その遺骨は、本堂横にある信玄公霊廟に眠っています。
元亀4年(1573)4月、信玄は遠征先の下伊那郡阿智村駒場で死を迎えたのです。信玄の訃報を聞いた北高禅師は、下伊那に駆けつけ、遺体を荼毘に付し引導をわたしたといいます。そして遺骨の一部と刀工島田助宗の短刀を形見に持ち帰り、境内に懇ろに葬ったといいます。

本陣が無かったので、身分の高い人物は武田信玄縁の龍雲寺で宿泊や休息をとり、本陣のような役割をもちました。

入り口
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巨大な山門
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本堂
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信玄の遺骨が発見された場所に建つ供養塔
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総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
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岩村田の商店街に入り、西念寺への入り口を探していたら、大きな数珠が下がっていてすぐに分かった(笑)
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この商店街の街灯には「岩村田宿」と。
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ここには、信長、秀吉、家康に仕え、初代小諸藩主となった「仙石秀久」の墓がある。
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【西念寺】
所在地:佐久市岩村田1188番地

西念寺開山岌往上人は、伊勢の国に生まれ美濃から信濃・甲府まで武田信玄公の動きに前後して約70ケ寺の寺院を建立している。
弘治元年(1555年)に閻魔大王などを奉る十王堂で岌往上人は浄土宗の布教をはじめ、大変な崇敬を集め永禄3年(1560年)には8間6間の本堂を建立。この時より『一行山西念寺』と呼ぶようになり、永禄6年に宇治の平等院と同じ定朝様式を伝える高さ5尺8寸の阿弥陀如来座像を修理し本尊とした。
現在は長野県宝に指定されている。
織田信長公・豊臣秀吉公・徳川家康公・2代秀忠公に仕えた小諸城初代藩主仙石秀久公は西念寺を菩提寺と定め、住職を登城首座に任じた。
仙石家の領地岩村田も元禄16年(1703)には内藤公が岩村田藩主となり、西念寺を菩提寺に定め、徳川家康公はじめ徳川十代将軍の位牌を西念寺に奉安している。

西念寺入り口
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入り口わきに置かれたプレートを見ると、岩村田藩主「内藤正国」の墓もあり。
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山門
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本堂
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仙石秀久の墓
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家紋の「永楽銭」は織田信長にもらったもの。
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仙石秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
信濃小諸藩の初代藩主。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
秀吉の九州征伐の際、戸次川の戦いで大敗を喫した後、逃亡したため改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。
天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると故郷である美濃国で浪人衆を集め、また秀吉の盟友となっていた徳川家康からの推薦もあって陣借りという形式で豊臣軍参加を許された。この時、秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。
秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程であった。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍として参戦、家康からの書状に応じて中山道と北国街道を結ぶ要所である小諸を引き続き鎮撫している。信州に着陣した秀忠を出迎えると、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いでは城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。

所領面では旧領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となるが、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績である。特に小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、歴戦の武人らしく華美な装飾を省いた質実剛健な作りとなっている。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残した。

さて、内藤正国の墓を、墓地内を彷徨って探したがわからない。
あきらめて帰ろうとしたら、なんと墓地ではなく門前にあった。
道を挟んで左側の松の木の下である。
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岩村田内藤家は内藤忠政の3男内藤正次を祖とする家柄で当初は500石だったが立身出世を繰り返し1万6千石の大名となる。
領土は関東全域に分散した形になっていたが元禄16年(1703)それらの石高を統合し同等な領地佐久郡27ヶ村を与えられ岩村田藩として立藩。2代藩主正敬の代にようやく岩村田に在任し領内経営がなされ、7代正誠まで内藤家が世襲して藩主となり明治維新を迎えている。6代藩主正縄は当時の老中水野忠邦の実弟であった為、伏見奉行に抜擢され無城主格から城主格へと格上げされ、7代正誠は岩村田城の築城を開始するが明治維新後に版籍奉還、廃藩置県が行なわれたことで城は未完のまま廃城となった。
昨年ブームとなった、浅田次郎「一路」には、7代正誠が登場し、ピエロ役を演じている。

さきほどの門前のプレートには「七代」とあったが、墓地の標識には正しく「五代」とあった。
内藤正国(ないとう まさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃岩村田藩の第5代藩主。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の叔父である。

正国の墓
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最初、「紋はやはり、内藤の下がり藤」と書いたんですが、後日パラパラと家紋集を眺めていたら、「岩村田藤」とあったので吃驚!
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岩村田商店街の中山道を南下。
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旧中山道の道を右折して、小海線の踏切を越えると御嶽神社。
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【御嶽神社】
社号標
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境内の右に石碑が並ぶ。
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せっかくだから、ここの石碑全部を紹介。

「月読尊」
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「庚申」
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妙見尊
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保食神社(保食神)
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上に日月が刻印された「不動尊」
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「甲子大黒天」
甲子大黒天といえば、弘法大師作の像がある山形県の寺が有名で修験道の聖地です。
入間市の豊岡にある「長泉寺」に•武蔵野七福神の一つ、「甲子大黒天」がありますね。
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社殿
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続いて高校の前を通ります。
私の母校です。
この高校に機械科ができると聞いて入った一期生でした(笑)
2年くらいになると世の中が見えてきて、進学したいというと、担任の先生が「どうせ製図や実技はまた大学でやるのだから、その時間は家で勉強していろ」と受験勉強に協力してくれました。
とても有難い先生でした。懐かしい。
高校のときは、前の道が中山道なんて、まったく知らなかった。
三年間この道を自転車で通学していました。
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それから、私の母が10年くらい入院していた「浅間病院」の前を通り、その外れに「相生の松」があります。
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【相生の松】
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、縁起のいい名前から、野点をされたと言われている。
「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目である。
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それから少し行き、濁川のすぐ先に《荘山稲荷神社》が見える。ここには、芭蕉句碑がある。
「野を横に 馬引きむけよ 郭公  芭蕉」

ところが、それが見つからない。
土地の人に聞いたが、知らないようで、代わりに「芭蕉の句なら、あそこにあるよ」と言われて撮ったのがこれ。
「刈りかけし田づらのつるや里の秋」
出典は『鹿島紀行』。
貞亨4年(1687年)8月15日、芭蕉は根本寺の佛頂和尚を訪れた。その帰途、詠まれた句であろう。
芭蕉44歳の時である。
あるサイトの、芭蕉句碑のリストには、ここの碑のことが「長野県佐久市の旧中山道沿いに句碑がある」と載っていた。
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《荘山稲荷神社》の芭蕉句碑は、後日探すことにして、「岩村田宿」はこれで切り上げた。

この道をいけば、次の「塩名田宿」。
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(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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