穴澤天神社(延喜式内社)/東京都稲城市

20150731

鎮座地: 東京都稲城市矢野口3292

参拝日:2015年7月26日(日)
この日は、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、稲城市にある式内社、大麻止乃豆乃天神社、青渭神社に続いて参拝しました。

場所はナビで大丈夫だったが、最初入り口を見逃して「よみうりランド」の山に上がっていってしまい、グルッと一回りしてしまった。
続いて、あらかじめネットで調べて細い道だが上がっていくと上に駐車できる、とわかっていたのだが、いかんせん道が細すぎて入っていくのに勇気がいった(笑)

社号標
式内社(武藏國多摩郡八坐のうち、穴澤神社)、旧郷社
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創建は孝安天皇4年(紀元前423年)3月とされる。三沢川沿いの多摩丘陵の中腹が境内となっている。境内直下の崖下の洞窟の祠からは東京の名湧水57選に選ばれている湧水が湧き出ており、これを汲みに来る者が絶えない。
『穴澤天神縁起』には、元禄7年(1694年)に地頭であった加藤太郎左衛門が社殿を改修、天満神社を合祠したとの記述がある。境内の北側(三沢川側)の斜面には横穴があって、かつてはここに石仏が安置されていたが、現在は威光寺の弁天洞窟内に移されている。この処置が廃仏毀釈の結果なのかどうかは不明である。社殿は1986年に修復された。
主祭神は、少彦名命だが、これは偽書とされる「惣國風土記」が典拠らしい。式内社調査報告でも、この地の神(穴澤天神)を祀ると見ている。菅原道真は、元禄七年の合祀。

鳥居の中は広い広場が広がっている。
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手水舎
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天保14年(1843)造立の狛犬
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拝殿
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向拝蟇股の彫刻は獅子
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社額
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本殿は覆屋のなか。
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ご祭神は少彦名命、相殿が菅原道真公と大巳貴神と境内の掲示板ではなっていた。

神紋は、「右三つ巴と梅鉢」
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社殿の背後は深い谷となっている。
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神楽殿では毎年8月の例大祭時に、国指定重要無形民俗文化財の「江戸の里神楽」が奉納されます。
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「楽屋」の貼り紙があり。神楽が盛んなことがわかる。
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境内に、江戸里神楽がエジプトで上演された記念碑が立っていた。
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境内社・稲荷社
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御神木の巨大な根が保存されていた。
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筆塚
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境内から深い森となっている。
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境内には、稲城の地名の命名者といわれる漢学者窪全亮の私塾「奚疑塾」の功績を称えた顕彰碑が建つ。
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境内入口、鳥居前に境内社二社。
神明神社(天照大神)
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山王神社(大山咋神)
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境内社二社の横に坂が降りていて、「辨天社」がある。これも境内社であり参拝する。
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けっこう急な坂だ。
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こちら側にも鳥居あり。
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弁天社
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ここに洞窟があり、洞窟の平面図はH型になっている。
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右側の洞窟の奥には仏像があり。
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途中に左の洞窟に通じる横穴があり。
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左側の洞窟の奥には石祠がある。つまりこちらには何らかの神が祀られている。
穴澤天神のもとになるものか。
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すぐそばに「東京の名湧水57選」に選ばれた湧水があり、この水を汲みに来る人がひっきりなしに訪れています。
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この日も暑くて、その中を三社お参りしてきたので、この水は有難かった。
手と顔を洗って、やっと人心地が帰って来た。
飲んだら、とても美味しかった。
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すぐそばを「京王相模原線」が高架で通っていた。
鳥居越しに狙ってみた。
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この日は、朝早く出てきてバタバタと午前中に三社参拝してまわり、終わってやっとホッとして、高速インターまでの帰り道、ラーメン屋さんを探しながら行き、美味しいラーメンを食べてから帰途につきました。



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春日大神/日本の神々の話

20150730

狭山市入間川の八幡神社の主祭神は応神天皇 (誉田別命)だが、この神を合祀神としている。
「武蔵国式内社めぐり」で参拝した東京都蒲田に鎮座する、式内社薭田神社も同様に応神天皇 (誉田別命)を主祭神としているが、、この神を合祀神としていた。
春日大社から勧請を受けた神のことであり、神社の祭神を示すときに主祭神と並んで春日大神などと書かれる。

八幡神社の祭神は応神天皇 (誉田別命)ですが、戦の神として信仰されているのは、母の神功皇后が三韓征伐をしたときに身ごもっており、応神天皇は「胎中天皇」として、三韓征伐をしたことが大きいと思います。
その際に、神功皇后に対し、春日大神がお告げを出されたという伝承があるため、一緒に祀られているのでしょう。

普通、春日大神は春日明神または春日権現とも称される。
春日神を祀る神社は春日神社などという社名になっており、日本全国に約1000社ある。

春日大社の祭神は、武甕槌(タケミカヅチ)命、経津主(フツヌシ)命、天児屋根命、比売神の四柱の神である。
藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称されます。



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青渭神社(あおいじんじゃ 延喜式内論社)/東京都稲城市

20150729

鎮座地: 東京都稲城市東長沼1054

参拝日:2015年7月26日(日)
この日は、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、稲城市にある式内社三社に参拝しましたが、大麻止乃豆乃天神社に続いて参拝しました。

場所は、近くの学校をナビに入力したのですぐにたどり着きましたが、周りにびっしりと民家が建ち並び、道も狭く神社にも駐車場が無いので、車を停めるところを探して神社の廻りを二周してあきらめ、6、7分歩いたところにあるコインパーキングに停めました。

境内は、細長い参道の奥にあり。
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丸い柱の社号標
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式内社として、武蔵國多磨郡八坐のうち、「青渭神社」の論社です。
論社は、もう二社あり、調布市深大寺と青梅市沢井にあります。

創祀年代は不詳。
青渭神社の論社は三社あり、当社を採用しているのは、『特撰神名牒』『地名辞書』『風土記稿』などがある。
この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。
創建年代は不明であるが、伝承では弘仁年間(810年 - 824年)の創建とされている。現在の社殿は1974年(昭和49年)に造営されたコンクリート造りであるが、覆殿内に安置された本殿は17世紀初期の建立と推測されている。

神橋があって、一の鳥居がある。
この石造鳥居は、文政13年(1830)の建立。
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細長い参道が続いて、途中に二の鳥居があり。
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狛犬は2対置かれている。
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入り口側のは明治16年造立。こちらのほうが傷んでしまっている。
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本殿に近い1対の狛犬は文政10年(1830年)造立のもの。
頭の上がかなり窪んでいる。灯明を灯したものか、角を立てたが角が失われたものか。
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手水舎
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水盤は、嘉永元年(1848)造立で龍を刻んでいる。
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社殿の前には、古さびた大木も残っており、古くからの神域であることが理解される。
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由緒を記した看板
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拝殿
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拝殿の後ろに覆殿
覆殿の中に数百年経ているという本殿を納められているのだろう。
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祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱。

神紋は「右三つ巴」
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境内社
中に二社納められているが、社名は不明。
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「疫神大権現(やくじんだいごんげん)宮」
調べたら、疫病神から福神に転化した神で、東京都品川区南大井の浜川神社の祭神があがったが、これかもしれない。
通称、疫神(やくじん)さま、浜川(はかまわ)さま。
天明から寛政にかけて、羽黒派の修験者・教光院了善が大井鈴ヶ森に一つの祠を建てて厄神大権現を祀った。弾圧されたが、嘉永年間に教光院の子孫が再興し、明治初年には浜川神社と改称した。
ちなみに、この「疫神大権現」で、私が確認した日本の神様は500柱めになりました。
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社殿の右後方に、この大木の根があった。
かって御神木だったと思われる。
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社殿の前に、この地が東京における梨の栽培の起源地だと説明があった。
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大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ、延喜式内論社)/東京都稲城市

20150727

鎮座地:東京都稲城市大丸847

参拝日:2015年7月26日(日)
この日は、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、稲城市にある式内社、大麻止乃豆乃天神社、青渭神社、穴澤天神社の三社に参拝しました。
場所は、JR南武線南多摩駅の南、大丸にある。多摩川の南岸、川崎街道の南になる。
事前の調べで、川崎街道からの入り口は「星乃珈琲稲城店」の横とわかっていたので、迷わずに済んだ。
この神社が立地する稲城市大丸という地名も、「大きく丸い平地」という意味であるとされるが、この地は古代から多摩川の渡河点の一つ(府中街道と川崎街道がここで合流する)であり、津があったと考えるのは妥当であろう。

神社入り口
通称、天神山の中腹、鬱蒼とした林の中にある。
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社号標は自然石
式内社(武蔵國多摩郡八坐のうち大麻止乃豆乃天神社)、旧郷社
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ごく小さな社であり由緒ははっきりしないが、『式内社調査報告』では、『延喜式神名帳』に記載される武蔵国多摩郡「大麻止乃豆乃天神社」が当社であるとしている。しかし、式内・大麻止乃豆乃天神社については東京都青梅市・武蔵御嶽神社、府中市・大國魂神社、八王子市・天満社も論社となっている。

入り口からちょっと石段を上がったところに鳥居がある。
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鳥居をくく゜ると手水舎
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水盤には「無垢水」と。
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石段が真っ直ぐにあり。
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上りきると、ちょっとした広場で、そこから男坂(石段)と女坂があり。
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男坂(石段)の上り口には、天保12年造立の狛犬があり。
左右とも子犬を連れているのが特徴。
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男坂(石段)を上がります。
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石段を上がると、社殿、境内社が並ぶ。
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拝殿
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向拝柱木鼻の彫刻は波で、向拝蟇股の彫刻は亀。
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拝殿の奥に、本殿が見える。
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拝殿後方の覆殿の中に本殿があり。
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本殿には、凝った彫刻が施されている、という情報だったので期待していたが、なんと!
細かい金網とビニールで目隠しされている。まったく見せたくないらしい。
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拝殿から見える部分だけでも、彫刻が素晴らしいことがわかり、とても残念な気持ちだった。
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御祭神は櫛真智命。
もう一つの論社、武蔵御嶽神社も同じ祭神である。大和三山のひとつ天の香具山に鎮座する天香山神社も櫛真智神を祀る。そもそも櫛真知とは、卜占をつかさどる神でもある。

神紋は「右三つ巴」
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境内社で、わかっているものから。
三社合殿
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その内訳は、まず「白山神社(白山比賣命)」
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神明神社(天照大神)
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稲荷社
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その横に赤い鳥居と石碑もあり。
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津島神社(建速須佐之男命)
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後は不明な境内社。その一
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その二
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その三
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境内から見下ろすと、まわりは開発されている。
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その中で、深い森が残っているのは嬉しい。
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諏訪北澤美術館

20150725

この日、尖石縄文考古館、諏訪大社上社の前宮、本宮のあと、諏訪湖の湖畔にある北澤美術館に寄りました。
これは同行したカミさんへのサービスです。

私の生まれた故郷は佐久なので、そこに行ったあと、清里や野辺山や川上村によく遊びに行きました。

そのときに、必ず寄ったのが「清里北澤美術館」です。
諏訪の北澤バルブ、東洋バルブの創業者が開いた美術館なので、諏訪が本館と言う位置づけですが、諏訪の方には今回初めて訪れました。
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この時は「ルネ・ラリック展」をやっていた。
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私は、上品で繊細なこの作品は好きです。
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変わった作品で、「カーマスコット」がありました。
こんなのが付いていたら、素晴らしい。
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もちろん、常設展は「エミール・ガレ」のもの。
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見終わったあと、喫茶室でコーヒー、と思ったが珍しい花梨のジュースがあったので、それを頼んだ。
琵琶湖を見下ろす、いいロケーションでした。
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美術館を出てから、その前の諏訪湖を眺めた。
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逆光だと、面白い写真になる。
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藻がすごくて、綺麗な水とは云い難かったが(苦笑)
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(了)



将門神(まさかどがみ)/日本の神々の話

20150723

私たちには、東国の武士の先駆けとして、また神田明神の祭神、大手町の首塚の祭神として知られている。

平将門は、平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

死後は神田明神などに祀られ、武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。

関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。

中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、1309年(延慶2年)には神田明神に合祀されることとなった。
神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。

なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。

明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年(明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。一方で明治時代後期になると阪谷芳郎や織田完之らによる将門復権運動が行われた。
第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。

将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

大手町にある「将門首塚」
この写真には写ってないが、まわりに蛙の置物が多い。首が飛んで帰ったことから「帰りたい」などの願いで奉納されたもの。
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神田明神
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今年(2015年)の神田祭りの際に公開された、「将門公尊像」
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信濃國一之宮・諏訪大社/上社本宮

20150721

鎮座地:長野県諏訪市中洲宮山1番地

境内図
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この日、尖石縄文考古館、上社前宮に続き、参拝しました。
駐車場から正門にまわり、参道に沿って参拝しました。

まず神橋があり、それを渡ると鳥居です。
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神橋の手前右側に手水舎があり。
手水舎の建物は天保2年(1831)の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参りしました。諏訪大社の七不思講の一つに「元朝の蛙狩り」と言うのがあり。毎年正月元旦に行われる「蛙狩り神事」に、この御手洗川の神橋の上の一段高い所で氷を砕いて川底を堀り、二匹の赤蛙を捕え、神前で柳の弓を以って射通し、矢串のまゝお供えしますが、附近に川が少ない為か、どんなに寒い年でも蛙が取れ、七不思議の一つとされている。
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神橋
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社名板
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諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。

諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。

古代の神社には社殿がなかったとも言われて、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。

諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として、多くの人が参拝に訪れます。

鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもないが、我国最古の神社の一つに数えられています。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃國一之宮として信仰されていたことがわかります。

明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

全国に分布する分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされています。

神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。

鳥居をくぐります。
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○出早社
左手に、まずあるのが「出早社(いずはやしゃ)」
上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神「出早雄命」です。古くからイボ神様として敬まわれ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があります。
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○駒形屋
神馬舎とも言い、諏訪大神の御神馬の屋形で、諏訪湖におみわたりが出来た朝御神馬の身体中が汗で濡れており、附近の人々はお諏訪さまが御神馬で湖上を渡られるのだと驚き懼れたと中世の記録にあります。明治以後は現在のように木製の御神馬を祀っておりますが、明治27年7月に大風で近くの欅の大木が倒れ、この神馬舎が倒壊した時、御神馬は十米程前に跳び出た為少しも被害がなかったと、伝えられている。
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「駒形屋」と「布橋」の間に大欅あり。
樹齢約千年。古くは贄(にえ)・御狩の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ。境内最古の樹木の一つである。
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反対側から
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布橋の前に、面白い石灯篭あり。
享保20年(1735)造立
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見事なハートが
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狭山市の廣瀬神社にも、大正11年奉納の石灯篭にやはりハートのマークがあり、気になっていたので調べてみると、ハートマークは約450年前1560年頃、ヨーロッパからトランプが伝わったときにハートやダイヤ、クラブとともに伝えられました。江戸時代初期にこれが服飾や靴、帽子の模様に取り入れられます。いわゆる『キリシタン文化』です。
加賀藩はキリシタン大名の高山右近が長く暮らした(高山南坊と称した)ことからもキリシタン文化と縁が深く、江戸時代のハートマークが残っているそうです。

○布橋
入口御門・布橋(ぬのばし)
御門は一八二九年文政十二年の建立で、地元の宮大工原五左衛門が棟領ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来ばえと称えられています。長廊は約70m、三十八間あり、明治維新迄は上社の大祝(おおほうり)のみ通った所でその時に布を敷いたことから布橋の名称が附いています。現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人連が自分の手で織り上げた布を持って釆て、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としております。
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○額殿及御柱曳綱
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた所で絵馬堂とも言います。戦前迄は廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。尚床の上にある太い綱は御柱を曳いた時の綱で、藤葛を使ったり、藁や縄を使って、村中の人々が総出で作ります。太いのは元綱と言い、柱につけ、順次細い網をつなぎます。柱に依っても違いますが、百二、三十米から二、三百米にも及び、それに小綱をつけて引き摺ります。
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主な絵馬
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○摂末社遥拝所
額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、下の十三所で合計三十九杜の御名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あり、明治以後独立した関係摂末社迄合わせるとその数九十五社に及びます。上下四杜の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
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○大国主命社
遥拝所の隣の小さをお社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国さまをお祭りしている。
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○勅使殿と五間廊
大国主命社の前、廊下の反対側にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあります。朝廷から来られた勅使が着座をされたので、この名称が付いたと思われますが、色々な神事がこゝで行なわれました。低い方の建物は五間廊と言いますが、神長官以下の神職が着座したところだと伝えられ、勅使殿は元和年間(1620)頃、五間廊は安永2年(1773)に建てられたものですが、後に改築してあります。
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勅使殿
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五間廊
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○御宝殿(ごほうでん)
廊下の左側にある茅葺の建物で、本宮では一番大切な御殿です。二殿のうち左側を東御宝殿右側を西御宝殿と言い、御柱祭毎に交互に建替えをします。中にはお諏訪さまの御神輿をお納めしてあり、一般の神社の御本殿に相当します。この御宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
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○四脚門
二つの御宝殿の聞にある建物で、天正十年(1582)に兵変に依り焼失したものを慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
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○神楽殿
文政十年(1827)の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行なわれていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代のもので、直径が一米八十あり、当国随一の大きなものと言われ、唯今では元旦の朝だけ打つことにしております。
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神楽殿の横に相撲場あり。
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○天流水舎
神楽殿前の屋根にエントツのようなものがついた建物で、俗にお天水と言います。どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜ると言われております。雨乞の折にこのお天水を青竹に頂いて帰り神事をすると必ず雨が降ると伝えられ、唯今でも近郷近県からの祈願があります。この時途中で休むとそこで雨
が降るので昔は若者達がリレー式に運んだそうです。又このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
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北参道側の大鳥居
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○狛犬
下社秋宮の大狛犬の原型で、作者清水氏の好意に依り、大社ゆかりの方が昭和四十九年十月に奉納されたもの。
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社号標
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手水舎
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○明神湯
往古より諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の温泉の源泉とも伝えられている。
ここでは、私は明神湯で手を浄めた。
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○五穀の種池
清祓池の脇の小さな石の池で、毎年春になると種粒を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っており、現在でも近郷農家の人々に親しまれています。
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○雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られ、相撲とは関係が深く、神社でも年々相撲神事が行をわれており、多くの力士も参拝しています。この像は信州が生んだ江戸時代の大力士雷電の等身大のもので、お諏訪さまに対して拝礼の誠を捧げている姿です。
茅野市出身の矢崎虎夫氏が、文部大臣賞受賞を記念して昭和41年10月に奉納されたもので、横綱柏戸関(鏡山親方)がモデルだそうです。
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○塀重門
石段の上の門で、文政12年(1829)のものです。
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塀重門から右にちょっと寄ったところから中に入ると、また手水盤があり。
向うに見えるのが参拝所。
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○御社殿
本宮の建物は「諏訪造り」の代表的なもので、一種独特の形式を備えています。
正面に拝殿と幣殿が続き、その奥には御本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿と山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
この本宮の昔の建物は極彩色で結構ずくめの社殿でしたが、天正十年(1582)に織田信長の軍勢の兵火の為灰塵に帰し、天正十二年(1584)諏訪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が作られ、更に年元和三年(1617)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建しましたが、この建物は、嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要して、二代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工原五左衛門親成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られ、殊に片拝殿の粟穂と鶉や笹に鶏の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つと言われ、又拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われています。

参拝所
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拝幣殿と左右に片拝殿
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幣殿
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片拝殿の粟穂と鶉の彫刻
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片拝殿の笹に鶏の彫刻
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ご祭神:建御名方神

神紋:諏訪梶
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諏訪大社の神紋は梶の棄で葉が三枚出ているので、三本梶とも言い、足の数をもって上下社の区別がをされ、上社は四本、下社は五本足になっています。また全国の御分社の大半は一本梶と言って、葉の部分のみで一本の社紋が使われています。

○勅願殿
昔は行事殿とも御祈祷所とも言って朝廷や諸侯の祈願を行った所とも伝えられます。現在の建物は元禄三年(1690)に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
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○高島神社
武田信玄によって、諏訪頼重が討たれ諏訪家は滅びたが、頼重の弟頼忠は諏訪大社大祝として残った。
本能寺の変が起こって世が乱れたのに乗じ、諏訪頼忠は高嶋城を奪い、諏訪家を再興する。
諏訪家は徳川家配下となり、譜代大名として小田原遠征後武蔵国奈良梨に1万2千石の大名に。
諏訪頼水の代に諏訪に2万7千石を与えられ、高島藩を立藩。維新まで存続した。
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○御沓石
一之御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つお沓石。真中のへこんだところが、お諏訪様のお沓の跡だとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。
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冬なら凹みがわかるかもしれませんが、この日はこのとおり。わかりません(泣)
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○蛙石
蓮池にあります。
手前の石。
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蓮のつぼみに蜻蛉が。
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諏訪七石のうち、上社本宮境内に三つあります。
二つは確認しましたが、「硯石」を漏らしました。残念。

御柱ですが、ここ上社本宮では、三と四の御柱は立ち入れない神域にあり、近寄れません。
なんとか場所を探して遠くから撮るのが精いっぱいでした。

○本宮一之御柱
塀重門下の石段の横にあり。
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○本宮二之御柱
布橋門の脇にあり。
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○本宮三之御柱
これが一番苦労しました。
御手洗川から中は神域で入れません。
大体の位置を見当つけて、隣接するお寺側の御手洗川の土手を強引に入っていくと、お寺の住職と思しき人が作業をしていた。万事休すと思ったが、「三之御柱」を見たくて入ってきました、と言ったら通してくれた(嬉)
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○本宮四之御柱
勅願殿と宝物殿の間から、遠目に見ることになります。
ズームを効かせて撮りました。
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帰ってきて、写真を整理してみると、まだまだ撮り残しているものがありました。
暑いし、疲れてきていて、宝物殿もパスしてしまったし。
最低もう一度は参拝しないといけません。


(上社本宮 了)


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八王子神(はちおうじがみ)/日本の神々の話

20150720

母と子の守護神である。
以下は、『日本の神様読み解き事典』より一部省略して載せている。

東京都下の八王子という地名の市がある。『新編武蔵風土記稿』多磨郡柚木領、八王子横山十五宿の条に、「此宿は元八王子城下より玆に移せし故八王子とも号せり。宿の沿革を尋ねるに、昔管領上杉家分国の比は、其家の老臣大石源左衛門定久この辺を総て領せり。其比定久郡中滝山に居城せしとき、当宿は其城下町にて、只横山、八日市、八幡宿の三町のみなりしと云、今も滝山村古城跡の辺に三町の名遣れり、定久が養子陸奥守氏照、天正年中に城を今の元八王子の内慈根寺と云所へ移し、八王子の権現を祀りて城の鎮守とせり、仍て八王子の城と号せり」とある。
 また元八王子村(現在八王子市元八王子)の条に、「八王子権現社。(略)城山の中にあり、相伝ふ延喜十三年の秋、華厳菩薩、妙行和尚この辺深沢山の麓に住し、この滝に入て勤行しけるとき、牛頭天王八王子権現の告によりて、同十六年三月十五日当社を勧請し、永くこの地の鎮守とし、寺を起し神護寺と号す……」とある。
 さらに「旧蹟、八王子城跡(中略)八王子権現なるを以て城の鎮守とせしにより、八王子城と号せしという……」とあります。

このことから八王子の地名の由来が、八王子権現からきていることがわかる。

まず母子神の信仰と言うものがある。
母子を神として祀ったものは原始信仰としてあり、たとえばマリアとキリストもそうである。
巫女が祭政を一にして執行していた時代、また巫女が子を生むのに際して、処女懐胎の信仰が根強くあり、そして生まれ出た霊童といおうか神の子の父が明らかでないというところに、神秘さが倍加されて、ますます深く信仰されていた。
このように、指導者で王権者であった巫女のお腹から、神の種の子として生まれた尊い王子は、すなわち神として崇められた。
八幡神もそうである。
祭神の母が神功皇后(息長足媛)で、主祭神は応神天皇というのがそれである。

八王子神はもともと仏神の一つで、父は日月灯明仏で法華経を宣伝した仏といわれ、この仏が出家する前にもうけた、有意・善意・無量意・宝意・増意・除疑意・背意・法意の八人の王子〈八王子〉をいう。
この八王子も威徳兼備して、天下を領し善政を行っていたが、父の仏が出家するに及んで、ことごとく王位を捨てて、父に従って出家した。そして法師となり、さらに善根を積んだといい、父の死後、文殊の前身、妙光菩薩に従って仏教を学び、無量百千万億の仏を供養して皆成仏したといわれ、最後に成仏した王子を燃灯と名づけたと伝えられている。

天台宗ではこの八王子神を崇め、比叡山延暦寺を守護する神、すなわち日吉山王七社(日吉または日枝神社ともいう)の第四社としている。社伝では八王子権現というのは天照大神の御子、五男三女の八王子神のことだとしており、神体は俗形坐像、御衣は束帯で、本地は千手観音としている。
祭神は国狭槌命など、さまざまの説がある。これは中古以降の神仏習合思想によるものである。

この天照大神の御子五男三女の話は『古事記』『日本書紀』のなかに、天照大神と素戔嗚尊が、天の安の河原での誓約の条に、素戔嗚尊の劔を大神が貰い受け、三つに割って生まれた多紀理・市杵島・多岐都の三媛神と、大神の髪につけた八尺勾玉から生まれた天忍穂耳・天穫日・天津日子根・活津日子根・熊野久須昆の五神があり、五男三女とはこのことをさしている。

また、舐園すなわち八坂神社の祭神である牛頭天王(またの名を武塔天神)が薩迦陀を妻とって八王子を生んだともいわれる。これをもって牛頭天王と素戔嗚専が結びつき、素戔嗚尊の子・五男三女に八王子を配して考えている信仰もある。

なお、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、日吉山王権現・牛頭天王とともに八王子権現も廃された。
八王子社の多くは、日吉八王子神社・八王子神社・牛尾神社などとなっている。


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信濃國一之宮・諏訪大社/上社前宮

20150718

鎮座地:長野県茅野市宮川2030

この日は、最初に「尖石縄文考古館」を訪れ、次に訪れたのがここです。この日は上社だけを参拝することにしました。
事前に簡単にしか調べていなかったため、この案内図を見て呆然としました(笑)
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カミさんと一緒ということもあり、再度おとずれることにして、この日は主なところを参拝することにしました。

一の鳥居
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社号標
東郷平八郎の揮毫です。
式内社 信濃國諏方郡 南方刀美神社二座 名神大、信濃國一宮、旧官幣大社
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諏訪大社は、上社・下社に分かれており、本来、上社に建御名方神、下社に八坂刀賣神(后神)を祀っている。
また、上社には本宮と前宮、下社には秋宮と春宮があり、四社を総称して諏訪大社という。

上社と下社では、奉祀する神職の長が、上社では神別(祭神の子孫)、下社では皇別(皇族の子孫)とされている。

上社には御神体はなく、神別の大祝(おおほうり)、すなわち人間を神とする。八歳の童男をもって、大祝とし祀る。
大祝は職にある間、清浄を旨とし、郡外へ出ることも禁じられる。
前宮祭神は、現在八坂刀賣神とされているが、ミシャグジ神とする説もある。ミシャグジとは木や石に降り着く精霊・霊魂で、人にもつくらしい。あるいは、大祝をミシャグジ神としたのかもしれない。

前宮は、この大祝の住居神殿(ごうどの)があった場所。
十間廊で、上社神事のほとんどが行われる。

案内板
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諏訪信仰今年の春から「諏訪信仰」について調べ始めました。なかなかそこが深く、まだ生半可な知識しかありません。
ざっと諏訪大社と祭神の建御名方神についての概略は、以下のとおり。
『式内社調査報告』によると:
 古事記上巻国譲りの段に、天照大御神が出雲の大國主命を説得のため、建御雷・天鳥船二神差遣せらるゝ ことゝなり、(中略) 建御名方神の「州羽」、すなはち、諏訪鎮座の説話が記してあり、要点は、大国主神の御子神に、建御名方神なる勇猛な神がまし、建御雷神に敗れ、逃れて科野国諏訪の地に至り、此処に永く留まり給うたといふことである。
 日本書紀にも、出雲の国で行はれた国譲り説話が記され、 著名な伝承の一つと言へるが、日本書紀の国譲りの段には建御名方神の名はみえず、この説話に於ける同神の諏訪鎮座には疑問が残り、古来より、天孫出雲両系の間に起つた 国土避譲の事実の反映として、多くの解釈がなされてゐる。 すなはち、古代に於いて諏訪地方は、皇祖側に対する一大勢力をなし、建御名方神は、この諏訪族の祖神としてその勢力の代表者とされた。同神が、建御雷神に追ひつめられて永く諏訪に留ると誓つたといふ一段は、この文化現象を逆用的に国譲神話に持ち込んだものと考へられてゐる。
 これ以降、持統天皇皇紀五年辛卯の条に、
  八月辛酉、遣二使者一、祭二竜田風神、信濃国須波、水内神一
とあり、諏訪神が祭られたことが記され、初めて中央政府との関係を認める。以後、諏訪の地にて東国鎮撫に力を尽し、その拠点として注目され、発展していったものと考へられよう。

そして、いままで調べて私なりに整理したのが、下図です。
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まず、この地には「洩矢神」を奉じる先住民族が居り、それを出雲族が征服した。
関東でも、祭神が出雲系の神である神社が非常に多く、出雲族が多かったことがわかります。
そして、中央の大和政権と「手打ち」をして馬を手に入れ、信濃や関東を制覇したのではないかと思われます。

しかし、征服された「洩矢族」が神官の筆頭となっている(守矢家)ので、先住民族もやられっぱなしではなかった。そして神事のほとんどが洩矢族(狩猟民族)の祭りとして残ったと考えています。

私の大好きな保科正之を生んだ、高遠の保科家も「神氏」の一族だそうです。

一の鳥居を入ってすぐの右側に「溝上社」あり。
祭神の「高志奴奈河比賣命」は後で説明。
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「御手祓道」
御頭祭などの神事の際に使用された道の形跡を残している。
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「神原(ごうばら)」
県道から入って一段と高くなった処の広場一帯を言い、上社にとっては最も由緒の深い場所です。社伝によれば、諏訪大神が始めて御出現にをられたのがこの地だと伝えられています。
この神原一帯は上社の祭祀の中心地であり、御祭神の後喬で諏訪大神の神格を持った生き神、大祝(おおほうり 最高統轄者)の居館である神殿と、それに附属する数多くの重要な建物が軒をつらねていましたが、室町時代の中葉に大祝が居館を他に移したので、多くの神殿は消滅し、現在祭儀だけが残っています。
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手水舎
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手水舎の向かいには、立派な古木が。
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「若御子社」
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「旧上社大祝の居館・神殿跡」
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二の鳥居
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二の鳥居前の狛犬
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二の鳥居をくぐって石段を上がる。
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「内御玉殿」
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「十 間 廊」
間口三間、奥行が十間あるところから名称が付いていますが、昔は神原廊とも言い、上社でも最大の神事である三月西の日の神事御頭祭(大立増神事、酉の祭)がこゝで行なわれました。当日は大祝以下の全神職が総出で奉仕し、鹿の頭七十五頭をはじめ、鳥獣魚類等独特のお供えものをし、諸郷の役人が参列しました。大祝のお使(神使)が神霊を奉じて、信濃国中に出発する為の大祭でした。この時の七十五頭の鹿頭の中に毎年必ず耳の裂けたものがあり高野の耳裂鹿と言い諏訪七不思議の一つに挙げられています。
 この御頭祭、明治以後は四月十五日に行なわれ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えてお神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行なっております。
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ここから200mほど登ったところに前宮本殿はあります。
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「前官本殿」
諏訪大神が最初に居を構えた地と言われ、高台で、豊富な水と日照が得られる良き地であり諏訪信仰発祥の地であります。現在の御殿は昭和七年に伊勢神宮の古材を以って建てられたものです。
 尚本殿の左後方の小高い所は諏訪大神の御神陵だと伝えられています。

拝所と瑞垣の中に本殿があります。
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拝所や瑞垣の隙間から、中に鎮座している本殿が見える。
本殿があるのは、上社の前宮、本宮、下社の春宮、秋宮の中で前宮だけです。
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祭神:
八坂刀賣神 (本地 千手観音)
御左口神(御社宮司神) 『諸神勧請段』『年内神事次第旧記』

神紋は「諏訪梶」
上社は根が4本、下社は根が5本である。
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本殿の周りに立っている「御柱」を見て回る。

本殿前にこのような表示が。
鎌倉道が本殿の両側を通って、本殿の上で一つになっている。
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本殿前から右に行って、「前宮一の御柱」
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反時計まわりに見てまわった。

「前宮四の御柱」
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本殿の裏には、巨木がたくさんあった。
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「前宮三の御柱」
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三の御柱のちょっと下ったところから湧水が豊富に流れている。
名水「水眼」の清流。
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「前宮二の御柱」
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下の国道に出るときに、回り道をして寄りました。

「諏訪照雲頼重の供養塔」
この人物は、武田信玄に討たれた頼重とは違う人物です。
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「子安社」
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祭神「高志沼河姫命」は、同じくここの境内社「溝上社」の祭神でもあります。
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。

『古事記』の「大国主神」の巻、「八千矛神の妻問い物語」の段です。
(読み下し文)
 この八千矛神、高志国の沼河比売を婚はむとして幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて、歌ひて日はく、

八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志国に 
賢し女(さかしめ)を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして 
さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 
いまだ解かずて 襲(おすひ)をも いまだ解かねば 嬢子(をとめ)の
寝(な)すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ 
わが立たせれば 青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 
庭つ鳥 鶏は鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ちやめこせね
いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば

とうたひたまひき。ここにその沼河比売、いまだ戸を開かずて、内より歌ひて日はく、

八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば わが心 浦渚(うらす)
の鳥ぞ 今こそは 我烏にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は 
な殺せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 
笑み栄え来て 𣑥綱(たくづの)の 白き 腕 沫雪(あわゆき)の 若
やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手 さし枕き 
股長に 寝はなさむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 
神の命 事の 語言も こをば

とうたひき。かれ、その夜は合はずて、明日の夜御合したまひき。


ここから、上社本宮に向かいました。

(前宮 了)



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尖石縄文考古館

20150716

所在地:長野県茅野市豊平4734-132

日帰りで、信濃國一之宮諏訪大社上社を中心に諏訪を訪れましたが、最初に訪れたのがここです。
諏訪大社の御柱祭りを調べている時に、そのルーツとして柱を並べて祭祀を行った縄文時代の「方形柱穴列」という遺構があり、それが残っている遺跡のなかでも重要な遺跡である「棚畑遺跡」をネットで調べていたら、この遺跡から出土した「国宝 縄文のビーナス」を知りました。
それが、ここに置かれています。
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この考古館は、現在国宝の土偶2点を蔵する素晴らしいところですが、「宮坂英弌(ふさかず)」氏個人の努力から出発しています。
宮坂氏は小学校の教師をしながら考古学の研究をし、戦前から八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘を行い、特に尖石遺跡は独力で発掘を続け、日本で初めて縄文集落の全容を明らかにしました。また、与助尾根遺跡でも縄文集落を発掘しました。
スタートは、氏のお宅の縁側に並べて見学者に公開。
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自宅を改造した「尖石館」
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最初に出来た「尖石考古館」
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旧考古館で子供たちに説明する宮坂英弌氏
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「縄文のビーナス」が国宝に指定されたため、関係者、市の努力で現在の考古館に。
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現在、ここには国宝の土偶、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の2点が収蔵されていますが、国宝の土偶が全国で5点しかないことを考えると、すごいことだと思います。
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それでは、国宝の土偶2点の収蔵室から。
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なお、この考古館では写真撮影OKで、他の博物館から借りたものとか撮影禁止のものだけに「撮影禁止」の表示がされています。
とてもありがたいです。

【国宝 縄文のビーナス】
実物展示
高さ 27cm
重さ 2.14Kg
棚畑遺跡第500号土坑
縄文時代中期
約5000年前
発掘当初から「縄文のビーナス」の愛称で親しまれている。
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発掘時の状態
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【国宝 仮面の女神】
実物展示
高さ 34cm
重さ 2.7Kg
中ツ原遺跡第70号土坑
縄文時代後期
約4000年前
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「縄文のビーナス」は中が詰まった「中実土偶」ですが、「仮面の女神」は「中空土偶」です。
両脚や大きなおしり、胴体、両腕、ふくらんだおなかを別々に作り、それらをくっつけ合わせて作っていることがレントゲン撮影でわかりました。
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発見時の状況が復元されていた。
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その他の魅力的な土器

『イノシシの飾りがある土器』
梨ノ木遺跡
縄文時代中期
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『蛇体把手付土器』
尖石遺跡
縄文時代中期前半
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展示室
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『深鉢』
棚畑遺跡
縄文時代中期
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『深鉢』
中ツ原遺跡
縄文時代中期
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『深鉢』
原村・富士見市徳久利遺跡
縄文時代中期
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可愛い土偶たち
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やはり土地柄、黒曜石が多い。
材料
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矢じりとか製品を作る過程で生じた石屑
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女性を象徴した土偶がある一方で、男性を象徴したまつりの道具で「石棒」がある。
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見学者が土器、土偶を製作するスペースがある。
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【与助尾根遺跡復元住居】
与助尾根遺跡は尖石縄文考古館の隣にあり、宮坂英弌氏により昭和21年から27年にかけ、縄文時代中期の竪穴住居跡28か所が発掘されました。
このうち、ある時期に存在したとみられる縄文集落を復元してあります。
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まわりは、こんな感じ。
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竪穴住居に入ってみました。
暑い日でしたが、中はひんやりして気持ちよかった。
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考古館に戻って、アイスコーヒーで喉を癒した。
喫茶コーナーは、とても気持ちのいい空間でした。
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帰りがけに、ショップで買った本です。
著者は、この諏訪地方で生まれ、小学生のときから土器のかけらを拾って楽しむ考古学少年で、明治大学で考古学専攻、文学部教授から学部長、学長を歴任。
「仮面の女神」発掘の関係者です。
帯に「縄文人は怒っている」とありますが、現在小学校の教科書から縄文人はおろか、その祖先の旧石器人も姿を消しているそうです。
まだ読んでいないので、どういうことかわかりませんが、目次をみると今の教育界を攻撃する内容ではまったくないようです。
ちゃんと読んでから、改めて紹介します。
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(了)


鳴雷神(なるいかづちのかみ)/日本の神々の話

20150712

この神とは、栃木県の「室の八嶋」のなかにある「雷電社」のご祭神として出会いました。

「室の八嶋」
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雷電社
各地の雷電社は、たいていご祭神を明らかにしていないので、8柱の雷神(火雷大神)だろうと拝んでいるが、ここでははっきりと「鳴雷神」としている。
カミナリの多い栃木県らしい。
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八の雷神(やくさのいかづちがみ)の一柱
『古事記』に記された神話の中では、火之迦具土神を生んだ事で女陰を焼いて死んだ妻の伊邪那美命を追って伊邪那岐命が黄泉の国に下った際、伊邪那美命は黄泉の国の食物を食べた事により出る事が出来ないと伊邪那岐命に応じた。しかし自分を追って黄泉まで来た伊邪那岐命の願いを叶え地上に戻るために黄泉の神に談判すると御殿に戻った。その後に何時まで経っても戻られぬ伊邪那美命の事が気になり、伊邪那岐命は櫛の歯に火を点けて御殿に入った。
そこで伊邪那岐命は、体に蛆が集まり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)が生じている伊邪那美命の姿を見たとされる。

ここで、鳴雷神の「鳴り」は「神鳴り」のなりで、雷鳴を表わしている。


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入間川地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会

20150710

6月15日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから4名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。

狭山台中央自治会では、これまでも同様の企画を実施してきていて、今回から歴史クラブにガイドの依頼をすることになりました。
参加者は22名でした。

今回のコースは「入間川地区」です。
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適宜、明治14年迅速測量図も用いて説明しました。
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【綿貫家の墓地】
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綿貫家は、江戸時代「西の鴻池、東の綿貫」と言われたほどの豪商で、ほとんど江戸で商いをしたのだが、慶應三年(1867)古文書によると老中酒井雅楽頭への貸し付けが現在の価格に変換して857億であり、最盛期には諸大名、旗本、商家、などへの貸し出し額と現金在高の合計が6兆93億円(現在の価額に換算)に達したという。
しかし、徳川幕府の瓦解と運命を共にした。

◉綿貫家の井戸
 むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だったそうです。
 あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて
『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』
 その井戸といいますのは、一つめは隠居場のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺のあたりだったといわれております。
 いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。(広報さやま平成12年9月10日号より)
◉綿貫家のどんどん出てくる傘
 むかしのお話です。中央図書館のあたりに、綿貫家という、それは大そうな大金持ちがいたそうです。俗に、西の鴻池、東の綿貫といわれるほどのお大尽だったそうです。綿貫家は、江戸にたくさんの店を持っていました。入間川から江戸の店に行く道中の土地は、すべて自分のものであったということです。
 ある暑い夏の夕方のことです。綿貫家の近くのお宮で祭礼がありました。近郷近在から大勢の人たちが集まってきて、大そうなにぎわいでした。と、一天にわかにかきくもり、はげしい夕立になりました。大勢の人たちは、われ先にと綿貫家へ傘を借りに、かけ込みました。「お困りでしょう、さあ、どうぞお持ちください」。綿貫家では、どの人にも次々に傘を渡しました。
「これはありがたい、私もお借りしたいのですが」
あとからあとからやってくる、人、人。その数は数えきれないほどになりましたが、傘はどんどん出てきます。
「さあさ、どうぞどうぞ。どなたも傘を…」
あまり傘が限りなく出てきますので、一人の旅人がたずねました。
「さすがお大尽だけあって、傘のたくさんあること。いったい何本ぐらいあるんだべえ」
すると綿貫家の番頭は、にこにこしながら申しました。「はい、数えたことはございませんが、傘ならまだ、むこうの蔵三つにいっぱいありますからどうぞご心配なく」
 人々は、いまさらながら綿貫家のお大尽ぶりに、きもをつぶしたということであります。
(さやまの絵本「綿貫家のどんどん出てくる傘」より)
◉音色のいい鐘
 江戸時代のころ入間川にあった綿貫家は、たいへんなお大尽だったそうです。
   ~江戸は綿貫家、北が本間家で大坂は鴻池~
 と唄にうたわれたほどの大金持ちだったそうです。
 なにしろ江戸の神田に出店をたくさん持っていまして、旗本衆にお金を貸すときは二、三百両はすぐにふところから出したといいます。また、綿貫家の台所にありますお皿やお茶わんを並べますと、家の門から所沢の神明社あたりまでつづいたといいます。
 昔のおはなしです。成円寺(中央公民館あたりにあったお寺)にある鐘楼堂の鐘はたいへん 
 そのうえ遠くにまでよくひびきわたることでも有名で、一度鐘の音を聞いた人は『いったいどんな鐘だべえ?』とわざわざ見物に来たそうです。そして鐘の音のいい理由を聞いて みんな納得して帰ったそうです。
 この鐘は綿貫家が寄進したもので、鐘を鋳造するとき、おしげもなく大判、小判をどっさり焼きこんだからだそうです。(広報さやま平成8年1月10日号より)

【福徳院】
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福徳院不動尊の来歴は、「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。
 福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。
二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。
 その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。
 昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。
本尊  不動明王:高さ43cm

現在の不動堂は平成18年に建て替えられ、これに合わせて本尊も新しい木造不動明王坐像となりました。かっての本尊は新しい本尊の真上の天井裏に安置されているそうです。

以前、現在の不動堂の中を見せていただいたときに撮ってあった、現在の本尊です。
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参道の途中にある、三面八臂の馬頭観音。
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馬頭観音は、観世音菩薩の化身で,六観音の一つ。忿怒相をもち,人身で,頭が馬のものと,馬の頭飾りを戴くものとがあり,馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされる。
しかし,江戸時代後期以降、一般には馬の無病息災の守り神として信仰され,3面8臂,4面8臂などのものもある。

【徳林寺】
福徳院の下にあり、裏の墓地の方から入ったため、墓地にある板碑と五知如来の説明が先となりました。

○板碑
 板碑とは石で造った卒塔婆の一種で、個人の追善供養のために建てられたものと、自分の死後の冥福を祈って生前に営む法事で建てられたものがあります。当寺境内にある板碑は武蔵系板碑、または青石塔婆といわれ、秩父地方から産出される力で緑泥片岩で造られたものです。板碑は鎌倉時代に発生しましたが、江戸時代になると消滅し、その後は作られなくなりました。この墓地には34基の板碑があり、これらは瑠璃光寺跡から出土したものをここに移転しており、瑠璃光寺跡は以前綿貫家の墓地があった場所でもあります。
板碑の真ん中に立っている丸彫りの石仏は、五知如来の一つである大日如来です。
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○五知如来
  ここに5基の丸彫りの石仏がありますが、真ん中の地蔵菩薩を除き、左から釈迦如来、阿閦如来(アシュクニョライ)薬師如来、阿弥陀如来と、本来ならここにあるべき大日如来は墓地中央付近の東屋の左隣にある板碑の真ん中にあります。像高は120~150㎝、蓮華座が20~30㎝で、等身大に近い大きなものです。
銘文からそれぞれが同じ宝永6年(1709)(306年前)11月に、徳林寺第5世法山格雲により五知如来として建てられたものでしょう。
阿弥陀如来、釈迦如来、と薬師如来には施主として綿貫清兵衛、重右衛門、小澤久左衛門、小澤勘左衛門の名前とそれぞれの先祖と思われる戒名も彫られており、また阿閦如来にも戒名が彫られています。
大日如来の台座には三界万霊供養等と彫られているところから、三界万霊供養とともに綿貫家、小澤家の先祖供養も兼ねて建てられたものでしょう。
如来とは悟りの境地に達した仏様のことで、釈迦如来の他にさまざまな如来が存在すると考えられるようになりました。その姿は、頭はイボイボの螺髪(らほつ)、その中央に盛り上がった肉髻(にっけい)、眉間にはほくろのような白毫(びゃくこう)があり、着衣は衲衣(のうえ)をまとうだけなので、いろいろな装身具を身につけている菩薩とは容易に区別が出来ます。ただし、大日如来だけは、宝冠を戴き装身具を身に着けた姿をしていますが、印相(手の組み方)によって区別できます。
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○子育地蔵尊
山門を入った左側に「子育地蔵尊」の額を掲げた六角堂の中に、台座、蓮華座などを含めた全高176.5㎝、像高124㎝の石仏の丸彫り地蔵菩薩が安置されています。お堂の周りに「祈安産」と書かれた襷(たすき)や涎掛けが供えてあるところから、今でも安産と子育ての地蔵様として信仰を集めています。
この地蔵菩薩は別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石の」の伝説を持っています。
河原から穴の空いた石を捜して来て、これを供え願掛けをすれば耳が聞こえるようになるというもので、数は少なくなっていますが、今でもお堂の前に穴の空いた石が供えられています。
銘文からこの地蔵菩薩は、入間川村の斎日講71人の人達が現当二世安楽を願って元禄6年(1693)2月(322年前)に建てたもので、背中には六地蔵の種子が彫られており、一体六地蔵と思われます。また六角堂の前の高さ179.5センチの燈籠には、片側3体ずつ一対で6体の浮彫の地蔵菩薩が彫られており、これも六地蔵と思われます。
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○本堂
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当寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院です。
創建時の宗派は不明ですが、天文元年(1532年)(483年前)に曹洞宗に改宗しています。
本尊は像高32.5㎝、台座高55㎝の木造宝冠釈迦如来坐像で、文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊形式のものです。創建の時期は不明ですが、13世紀初頭に徳林寺の前身と思われる薬師堂が草創されたそうです。言い伝えにによると、新田義貞が元弘3年(1333)(682年前)5月の鎌倉攻めの際、徳林寺の場所に本陣を置き、守護仏としていた聖観音を薬師堂へ安置したといわれ、後にこの観音堂を入間川村地頭の小沢主税に贈ったことにより本尊にされたと思われます。
また鎌倉公方・足利基氏が、南朝方の新田勢の再起に備えて文和2年(1353年)から9年間(1362年)(662年前~671年前)この場所に「入間川御所」を置いて滞陣したところといわれ、その後この入間川御所跡に薬師堂が移転し改名して徳林寺となりましたが、当時の宗派はりんざいしゅうであったといわています。
動乱や大火で荒廃していた当寺を中興開山したのは、瑞泉院住職であった一樹村松(いちじゅそんしょう)といわれています。一樹村松は天文2年(1533)(482年前)に入寂していることから、永正年間から享禄年間(1504~32)(479~517前)のころに中興開山したと考えられます。
かっての本尊の木造聖観音菩薩坐像は、現在福徳院境内に最近建てられた観音堂に安置されています。


ここで、駅横の市民交流センターに戻り、休憩を取った。


【八幡神社】
「八幡さま」は、全国の神社のなかで一番多い神社です。「八幡太郎義家」でわかるように、源氏の氏神となったので、京都には石清水八幡宮、鎌倉には鶴岡八幡宮と八幡さまが設けられ、全国にも「八幡さま」が各地に設けられました。
現在は、「鎮守の森」として、その地に暮らす人々の安全を守る神様となっています。
初詣もそうですが、半年の穢れを落してこれからの安全を祈る、6月30日の「夏越の祓」、狭山市で茅の輪をくぐれるのはこの八幡さまだけだと思います。
それから「年越しの祓」で、土地の人は小さい御幣をいただいて、玄関とか畑に立てて、災いが入らないよう、安全を祈っています。

年中行事としては、まず7月の「入間川の天王さま」があります。
これは、境内社の八雲神社の祭りですが、夏に牛頭天王が疫病を流行らせないように祈る行事で、ここに住んでいる人の健康を祈ってしているわけです。
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それから、9月例大祭の「鹿子舞(ししまい)」があります。
市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
 明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺を獅子舞の一行が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として答めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。
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○「新田義貞駒つなぎの松」
本殿向って左側の柵外にある松の木は史跡の「新田義貞駒つなぎの松」です。
新田義貞は元弘3年(1333)に鎌倉幕府を攻めた際、徳林寺に陣を置いて源氏ゆかりの八幡宮に自ら赴き戦勝を祈願しました。その際愛馬をつないだ松といわれていますが、本物の松はすでに枯れて現在は枯れた根だけが残っています。
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○各所の彫刻が見事です
●本殿の正面を除く3面の壁面に総彫りともいえる彫刻が施されています。壁面の彫刻は中国の貴人に親しまれた琴、囲碁、将棋、書画を、浮き彫りと透かし彫りという2つの技法を巧みに使い分けて彫ってあります。
制作者は棟札の墨書から、上野国勢多郡上田沢村(現群馬県桐生市)の並木源二と、勢多郡深沢村(現群馬県みどり市)の鏑木半二です。
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本殿の下の部分にも、龍の間に面白い彫刻があり。
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これは獅子舞
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●拝殿の向背柱・木鼻の獅子の彫刻
 牡丹の一枝を咥えているのと、透かしの籠に玉が入っているのを持っている。
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●手水舎
 浦島太郎などの彫刻がある。
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【清水八幡】
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清水八幡宮は狭山市指定文化財で、清水冠者義高(源義高)を祭神とする神社です。源義高は木曽義仲の嫡男(ちゃくなん)として木曽で母・山吹姫との間に1173年に生まれました。
父親の木曽義仲(きそよしなか)は(幼名:駒王丸(こまおうまる))祖父源義賢(みなもとのよしかた)と母小枝(さえだ)の次男として嵐山の大蔵館で生まれ(1154年)、鎌形八幡神社の境内に湧き出る清水を産湯(うぶゆ)に使ったと伝えられています。
駒王丸は1164年京都石清水八幡で13歳で成人し、木曽次郎義仲(きそじろうよしなか)と名乗りました、1170年東信濃の豪族海野兼保(うんのかねやす)の娘山吹と結婚します。
源義仲は1180年に以仁王(もちひとおう)の令旨(れいし)を受け挙兵、北陸信濃で勢力を拡大、上京を目指して固く準備をする日々を過ごします。1183年源頼朝と敵対し敗れた志田義弘(しだよしひろ)と、頼朝から追い払われた新宮十郎行家(しんぐうじゅうろういくいえ)2人の叔父を匿(かくま)ったとして、頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高は人質として大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきます。
しかし、結局朝廷での情勢が悪化し、義仲は源頼朝が送った弟の源範頼(のりより)・義経の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江の国粟津の戦い(あわずのたたかい)で1184年討たれました。息子の義高は父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化します。頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃そうとします。義高と同年の側近でいつも双六(すごろく)の相手をしていた海野幸氏(うんのゆきうじ)が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の待女達(じじょたち)に囲まれ屋敷を抜け出し、大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します。しかし夜になって事が露見(ろけん)し、激闘した頼朝は幸氏(ゆきうじ)を捕え、堀親家(ほりちかいえ)ら軍兵を派遣して義高を討ち取るように命じました。義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・男衾群(おぶすまぐん)の大蔵館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。しかし、対岸の広瀬まで逃げ延びて地蔵尊の陰に隠れ、一時難を逃れたという言い伝えもあります。 こうして、義仲の家系は断絶しました、享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゅう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石祠(せきし)が安置されています。この石祠の出土地(しゅつどち)をかつての清水八幡宮の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。
義仲の妻の山吹姫は嵐山(らんざん)に班渓寺(はんけいじ)を建立して夫・義仲と息子の義高の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いました、この寺には山吹姫の墓と伝えられている五輪塔(ごりんとう)と位牌(いはい)が安置されています。

社殿
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【諏訪神社】
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・ 御祭神:タケミナカタノ命(大国主命の二男 武力に優れた神様で武士の信仰が多い)
・ 初めて建てられた時代:古い記録がなく不明であるが、鎌倉時代、或いは戦国時代後期 甲斐武田氏の家臣等が諏訪大社の御魂を勧請したとも伝わる。
・ 社殿:木造切り妻造り 出入り口は妻入り 現社殿は昭和36年に改修。
屋根の鬼瓦と野地板に「四つ割菱」武田菱ともいう が見える。
・ お諏訪さまナスとっかえ:「狭山市無形民俗文化財」平成9年6月2日指定。
8月の第4土・日、地域の夏祭りと併せて行われる。
ナスを神社に奉納して代わりに神前に供えられているナスを持ち帰って食べると一年中病気をしないといわれる風習。起源はわからない。ナスの毒消し効果が信じられた。
・ 神事:神主の祝詞奏上、玉串奉納。氏子の役員等の玉串奉納と拝礼。30分ほどで終り、かっては本殿でナスとっかえが行われたが、数年前からナスとっかえの代わりに「厄除茄子」が販売されている。
茄子3本入厄除札付で200円。現在でもまれにナスとっかいをされる信者もいる。
・ 茄子御輿と子供神輿:祭りの初日だけ、午後3時頃から上諏訪地区の子供会による茄子神輿と子供神輿が地区内を練り歩き無病息災を祈願する。
・ 「ナスとっかい」にまつわる伝説:昔この神社の裏に底なしの沼があって、ある夏の暑い日、村人が沼の前を通りがかると、急に水飛沫が立って大蛇が現れて暴れ狂った。驚いた村人は持っていた鎌と採ったばかりのナスの入った籠を投げ出して家に逃げ帰った。これを聞いた村の若い者が大蛇を退治しようと沼へ駆けつけると、空になった籠が浮かんでいるだけだった。しばらく経ったある日、村人の夢枕に龍神が現れ、「私は沼に住む龍神だが、村人が投げ込んだナスを食べたところ夏病が治った。これからは諏訪の大神に仕えるつもりだ」と言った。それ以来、夏病(暑さが原因の食欲不振、全身の倦怠感、下痢・疫病など)退散のために神社にナスを供えるようになった。
龍神が住んでいた沼は残っていない。神社の南側の道を行くと、左手の斜面の下に湧水があり、「水祖神」と刻まれた石の祠が祀られている。


【慈眼寺】
本堂の前は、カンカン照りなので、境内の隅の木蔭で説明。
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本堂
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宗派:曹洞宗 高祖:道元、太祖:螢山 本山:永平寺(福井県)、 総持寺(横浜市)
山号:妙智山  ご本尊:木造聖観音菩薩坐像 像高46㎝、台座込み96㎝
創建:650~660年前(室町時代の中頃)より前、この地に阿弥陀如来をご本尊とする草葺きの阿弥陀堂があったと伝わる。
略歴:500年ほど前(大永年間)に、瑞泉院(入間市木蓮寺)の第三世一樹存松が阿弥陀堂をこの地から現在の入間川2丁目の「子ノ神付近」に移して曹洞宗のお寺を建たと伝えられる。江戸時代の慶安 2年 徳川三代将軍家光から10石の寺領を保証する朱印状を賜る。幕末の慶応元年火災に遭い、しばらく仮本堂でお勤めする。明治17年この地に戻り本堂等を建立。
所蔵文化財・石仏
☆木造阿弥陀如来立像:木造阿弥陀如来立像(阿弥陀如来の立ち姿)
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☆丸彫地蔵菩薩立像
☆結界石を兼ねた三界万霊等
☆廻国供養塔
☆六地蔵

所蔵の円空仏を見せていただいた。
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これで予定を終了し、自治会の皆さんは懇親会ということなので、ガイドの私たちは別途昼食を食べながら懇談後、帰途につきました。
後日、とても好評だったので今後もお願いしたいとのお話をいただき、ホッとしています。


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コップのフチ子さん

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このタイプは、置く位置によってずいぶん感じが異なる。

こうして置くと、なんだか安心して見ていられる。
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こうすると、ちょっとハラハラ。
なんだか可哀そう。
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前玉彦命(サキタマヒコノミコト)・前玉比売神 (サキタマヒメノカミ)/日本の神々の話

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埼玉県行田市の「さきたま古墳群」のところにある、埼玉県という県名のもとになった前玉(さきたま)神社のご祭神です。
ご夫婦神を祭神として祀っている神社は、全国的にみてそんなにあるとは思いません。

前玉神社の記事を読む


『古事記』には、「大国主命の神裔」のところに登場します。
(読み下し文)
(前略)
大国主神、また神屋楯比賣命を娶して生みし子は、事代主神。また八嶋牟遅能神の女、鳥耳神を娶して生みし子は、鳥鳴海神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇神を娶して生みし子は、國忍富神。この神、葦那陀迦神、亦の名は八河江比賣を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。この神、天之甕主神の女、前玉比賣を娶して生みし子は、甕主日子神。
(後略)

ここで、前玉比売神の夫神は「ハヤノミカノタケサハヤヂヌミノカミ」となっていますから、これが「前玉彦命」の
別名ということになります。
オオクニヌシノミコトを祖に持つ出雲系の神です。

両神とも、『古事記』所載の出雲系の神である。
天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。
甕(みか)とは「酒や水を入れる大がめ」の意味なので、天之甕主神は食糧貯蔵に関わる神なのでしょう。
「前玉」は「幸玉」で、幸いを与える徳のある宝玉。「比売」は玉に斎く巫女。 天之甕主の神の娘で、大国主神の子孫の 速甕之多気佐波夜遅奴美神の妻になり、甕主日子神を生んだというこです。


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鵜ノ木地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・鵜ノ木第七自治会

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6月14日(日)に行われた、鵜ノ木第七自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから6名がガイドとして参加し、私も2ケ所をガイドしました。
鵜ノ木第七自治会では、現在歴史クラブが進めている地域連携活動に共鳴していただき、今回が初の企画となります。
参加者は40名と盛況でした。

今回のコースは「鵜ノ木地区」です。
さやま市民大学歴史講座の史跡めぐりコースに含まれていない場所なので、私たちにもとても勉強になりました。
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【長栄寺】
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所在地:狭山市鵠ノ木16番11号
本尊:木造千手観世音菩薩坐像
由緒:
長栄寺は根岸にある明光寺の末寺で、「入間郡誌」によると元禄2年(1689年)の建立とある。しかし最古の過去帳を見ると、「法印長賢永正二丑(1505年)二月朔日光明院弟子南院開山」とある。また、同寺は、両墓制という古い形式の墓制を持つ寺でもあるので、その草創は郡誌の記述よりさかのぽるものと思われる。

本堂でご住職の説明を受けました。
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本尊
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■長栄寺で行われる八幡神社鹿子舞(ししまい)について
行われるのは、毎年9月敬老の日直前の土曜日・日曜日の両日で、長栄寺には、土曜日の16時ころに行われます。
この鹿子舞は昭和46年(1981)4月1日に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されています。
この獅子舞は、鹿子舞(ししまい)」と呼ばれています。市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺(じょうえんじ)を獅子舞の一帯が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として咎めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。
それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。

舞には「竿がかり」と「花すい」の2種類があります。
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四隅には「ささら」を演奏する少女が立つ。
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鹿子役の袴に蛇の鱗模様が染められているのは雨乞い、五穀豊穣祈麻の現れといわれています。
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獅子頭は約4kgとかなりの重畳があるため鹿子役は20歳前後の若者が務めています。
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【入間川右岸】
入間川の歴史にも関心を持ってもらうために、今回は入間川の河床から発見された太古の化石について説明しました。
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■メタセコイヤ化石
メタセロイヤはスギの仲間で、冬には葉を落とす落葉樹です0釣100万年前に絶滅したと考えられていましたが、昭和20年(1945)生き残りが中国の馴惜の原生林で発見され、「生きている化石」として話題になった植物です。狭山市では昭和49年(1974)に笹井ダムの下の河原でメタセコイヤの株の化石が発見されました。大型台風による出水によって堆積物が流されて河床に株が現れました。翌1975年の調査で直径1~2mの株29個が確認されました。今もわずかに残っているようですが、見つけるのは難しい状態です。笹井の株化石は約100万年前のものと推定され、採集された株化石が上広瀬の今宿遺跡公園に展示されています。
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メタセコイヤ(新宿御苑にて)
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■アケボノゾウ化石
昭和50年(1975)、笹井ダム上流約500mの入間川左岸の崖から、アケボノゾウの骨の化石が発見されました。その後、昭和60年(1985)に同じ場所で発掘調査が行われ、さらに多くの骨の化石が発見され、先に発見された化石と同一個体と判断されました。骨格復元模型が狭山市立博物館と長瀞の県立自然の博物館に展示されています。
長瀞の県立自然博物館の展示
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アケボノゾウは200万年~70万年前に生息していたと推定され、・体高・(肩までの高さ)が約1.5~1.8mの小型のゾウで、長いキバを持っていました(昭和14年(1939)仏子駅北の入間川右岸で長さ2mのキバが発見されています)。

■仏子層(ぶしそう)
笹井ダム周辺の入間川河床には、「仏子屠」と呼ばれる地層が露出しています。これは狭山市内で見られる最古の地層で、地質時代第四期、150万年~100万年に堆積した地層です。入間川沿いでは、飯能市阿須から狭山市笹井にかけて露出しています。当時の関東平野は、大部分が海で、関東山地から流れ込む土砂がこの海に堆積して、仏子層が作られました。発見された化石類(植物の種、貝、干潟に住む生物の巣穴の化石)から、飯能から狭山市の-帯は湿地や水辺の森が広がっていた時期や、浅瀬の海や干潟だった時期を繰り返していたと考えられています。海岸からほど速くないところにアケボノゾウが集まっていた水辺があり、そのまわりにメタセコイヤやハンノキなどの湿地林が広がっていたと想定されます。これが化石として残っているのでしょう。

■アケボノゾウの足跡化石
西武線元加治駅そばの入間川鉄橋下の入間川河床に、灰白色の岩が広がっているのが見られますが、ここで1991年にアケボノゾウの足跡化石が発見されました。灰白色の岩は仏子層のシルト層です。シルトは粘土と砂の中間の粗さ(1/25針}1/16肌)の沈泥を意味します。仏子層は110mもの厚さがあって、大部分がシルト層ですが、植物化石の密集した亜炭層、石が混じった砂礫層がところどころに挟まれています。水辺をアケボノゾウが歩いて、泥に残った足跡が化石と・なっています。川の河床の状況は増水のたびに変化していますが、現在でも新たに露出した足跡化石を見ることができます。足跡化石はシルト層にあって、直径20~30cmほどの丸い足跡のへこみを白いツプツプが目立つ層(軽石層)が埋めています。
ここに立って、100万年という気の遠くなるような太古の時代に、ここをゾウが歩いていたと考えると楽しくなります。 
長瀞の県立自然博物館の展示
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入間川畔を気持ちよく歩きました。
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■八丁の渡し
明治14年の地図で、当時の入間川の位置、幅を説明。
文字どおり、川幅が八丁(873m)あった。
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【清水八幡】
鎮座地:狭山市入間川3丁目3770番地
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清水冠者源義高を祭神とする神社です。義高は木曽義仲の嫡男(ちやくなん)として木曽で母・叫吹姫との間に1173年に生まれました。
父親の木曽義仲は、武蔵国・嵐山の大藏館で源義賢(みなもとよしかた)の嫡男・駒王丸(こまおうまる)として久寿元年・(きゆうじゆがんねん)1154年に生まれましたが、身内の争いの大藏合戦で父の義賢が兄の源義朝(み
なもとのよしとも)の嫡男の義平(よしひら)に討たれた為に、畠山重能(はたけやましげよし)等の計らいで信濃の国木曽に逃れました、義仲は源頼朝・義経とは従兄弟(いとこ)です。
木曽義仲は1180年に以仁王(もちひとおう)の令旨(れいし)を受け挙兵し、平氏(へいじ)の大軍を破って入京しましたが、源頼朝とは独立した動きを見せました、義仲は源頼朝と敵対した2人の叔父を匿(かくま)ったとして頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高を源頼朝の長女大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきました。
連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されましたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇(ご しらかわほうおう)と不和になり、源頼朝が送った弟の源範頼(みなもとのりより)・義経(よしつね)の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江国粟津の戦い(あわすのたたかい)で1184年討たれました。
父義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化します。頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃し大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します、しかし夜になって事が露顕(ろけん)し、激高した頼朝は軍兵を派遣して義高を討ち取るように命じました。
義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・嵐山の大藏館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。しかし、対岸の広瀬まで逃げ延びて地蔵尊の陰に隠れ、一時難を逃れたという云い伝えもあります。 こうして、義仲の家系は断絶しました、享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゆう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建は、年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。
現在の清水八幡の再建は、現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石嗣(せきし)が安置されています。この石飼の出土地(しゅつどち)をか
っての清水八幡の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。
鎌倉市大船の北条泰時(ほうじょうやすとき)が建立した常楽寺(じょうらくじ)に義高の墓と伝えられる塚が裏山の中腹あたりにあります。もとは常楽寺の西南100mほどの所(大船5丁目付近)に立っていました。この塚の付近にほ義高の許嫁(いいなずけ)である大姫の墓と伝えられている塚や由縁(ゆえん)を刻んだ石碑が立っています。

記念写真
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【諏訪神社】
鎮座地:狭山市入間川4丁目4484番地

祭神:武御名方命(たけみなかたのみこと)
○創建にかかわる言い伝えあれこれ(記録が残っていないので不明)
・今から400年以前に長野県の諏訪大社の神霊を分けたものといわれている。
・戦国時代、甲斐信濃を支配していた武田氏が滅び、多くの家臣が入間川流域に移り住んだという言い伝えから、この人たちが創建したのではないか。
・清水が湧き出るなど水の豊かな土地だったので早くから人が住み、戦国時代よりもっと古くから鎮座していたとも。
・中世の武家金子氏の守諌神となっていた。
○河岸段丘のはけという立地条件
・神社西側の崖下に清水が湧いている。
・その昔、神社の北側、ハケの下には大きな龍神が住んでいたという大きな沼があった。現在は埋め立てられて、住宅、公園、駐車場などになっている。
○市の無形民俗文化財「おすわさまのなすとっかえ」
(8月26日前後の土曜日と日曜日)
・いわれ:諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、村人がそこを通りかかると急に水しぶきが上がり龍が現れて暴れ始めました。驚いた村人は採ったばかりのなすの入った籠を放り出して家に逃げ帰りました。この話を聞いた村の若者たちが、龍を退治しようと沼に駆けつけましたが、水面にはなすの入っていた籠が浮いているだけで、龍の姿はありませんでした。その後しばらくしてある村人の夢枕に龍神が現れ.「私は村に住んでいる龍神であるが、村人が放り出したなすを食べたところ、今まで苦しんでいた夏病みがすっかり治った。これからは諏訪大神に仕えるつもりである。Jといいました。それ以来村人は、夏病退散のために神社になすを具えるようになったということです。
 村人たちは自分の畑で採れたなすを神社に奉納し、神前に供えてある別のなすを戴いて特ち帰りそのなすを食べると一年中病気をしないといわれてきたおまつりです。また、龍神の姿から、蚕や苗代を荒らすネズミよけにきくとも言われてきました。最盛期には入間、広瀬、・柏原、入曹、そして遠くは川越や高萩(日高町)の方からも大勢の人達がやってきたようです。その頃は今のように「七夕まつり」がさかんでなかったので、この地域一番のにぎやかなおまつりだったそうです。
最近では取り換えは行われず、「厄除けのなす」として販売されるようになっています。
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水祖神がまつられている湧水
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【入間川富士浅間付近の庚申塔】
石無坂と稲荷山ハケ下旧道の辻に所在
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寛政元年造立庚申塔(六臂青面金剛)
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庚申信仰
現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教・特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のきまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十=支の60通りある組み合わせのうちの-つである。陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を餌で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が発・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
庚申の日の夜に人間の体の中にいる三尸の虫が、寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。ところが、三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体かや脱け出ることができないので、庚申日は、徹夜をする、これを庚申待ちという。
この庚申待の行事にさまざまなことを行って徹夜していたが、育面金剛はこの三尸の虫を喰ってしまうので、いつの頃からか、庚申待ちには、この青面金剛を本尊として拝むようになり、庚申イコール青面金剛となつた。
また、この日、睡眠をささげて、一晩一心に願い続ければ如何なる願いも叶うとされている。

六臂青面金剛のお堂の横にある文字庚申塔
安政2年造立
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左側面に、こう刻まれている。
塔の向を直し其後火災の
難なく奇異の霊験人の
伝処なり
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伝えるところでは、青面金剛像の向きを直したところ、それまでしばしば発生していた火災が収まったという。この霊験を後世に伝えるため、この文字塔を建立した。

【入間川の稲荷神社】
鎮座地:狭山市入間川4丁目5022番地
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鵜ノ木地区の南側台地にある稲荷山公園の北東に鎮座する。
祭神:豊宇気毘売命
昭和26年に社殿再建

この神社には、由緒と呼ばれるものが殆どありません。
稲荷山という地名はこの神社の「稲荷」から生じたと思いがちですが果たしてそうでしようか?
ということで、推測の説明がありました。

○先ず「鵜ノ木」の初見です。
廻國雑記:文明十八年(1486)に、篠井観音堂を訪れた道興准后が「くろす川といへる川に 人の鵜つかひ侍るを見て 岩がねにうつらふ水のくろす川 鵜のゐるかけや名に流れけんJと詠んでいます
「くろす川」とは、現在の霞川の下流域の呼び名で中流以上を桂川といった。
「鵜ノ木」の地名は、この鵜飼いの「鵜」に関連していると考えられている。

○ 次に、現在の「稲荷山j地区の明治初期までの小名あるいは字名を見てみます。
・享保二十年(1735)柏原:小谷野家の水帳写に「卯ノ木山」
・文化以降(1804以降)入間川:大野茂家文書に「鵜ノ木はけ」
・文政三年(1820)新編武蔵風土記稿では「石無坂j
・斎藤家所蔵の明治五年(1872)御水帳があるが前二者文書と大同小異
・地元の伝承では、現在の稲荷山公園駅北側を「大将陣」、配水塔付近を「殿山」
このことから、明治初期以前では「稲荷山」または「稲荷」という地名は見当たりません。
残っている古文書からは、現在の「稲荷山」地区は長い間、「鵜ノ木」の後ろにある「山」、「はけ=ゆるい崖」あるいは、小名「石無坂」の一部分と認識されており、固有の地名が無かったことが判ります。

○ 今度は、稲荷神社の経緯を「狭山市の社寺誌」から見てみます。
・大正元年に「稲荷山」公園が造られる以前は、現在の中央児童館付近にありそのため、稲荷山と言われていたといわれる。
・「造園」のため-時、天王山に遷座していた」
・「公園開場後地名である稲荷山に稲荷神社がなくてはということで角田氏の土地である現在の場所に遷された」
・昭和四年頃火災で社殿が焼失した。
・昭和二十六年に角田氏ら四名により現在の社殿が再建された。

○ 以上からすると、明治末頃、現在の中央児童館付近に稲荷神社があり、「その辺りを稲荷山と言っていたらしい」と、地名についてはあくまでも推測の域を出ていません。事実、地名を証明する古文書も今のところ出ていません。

○ そろそろ結論
「卯ノ木山」地区のある家に屋敷神としての「稲荷社」が祀られていた。
いつめ頃からか「稲荷社jガあるところを「稲荷山」というようになつた。
そのうちに、「稲荷社」がある「卯ノ木Jの後ろの「山」全体を「稲荷山」と誰かが呼び換えて(公園開場後に地区の固有名詞に昇格させて)、それが定着した!?

【稲荷山公園の誕生】
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この稲荷山がにわかこ脚光を浴びることになったのは大正元年11月のことです。
■大正天皇の行幸
大正元年(1912年)の陸軍特別大演習は東京近郊で行われる最初の大演習だったと云われています。この演習は大正天皇が統監する最初のものであり、大演習に参加する南北両軍は総数4万8700人余りで、軍馬も8200頭にのぽる大軍となりました。
大演習の二日目(11月16日)、大正天皇は臨時の大本営が置かれた川越中学(今の川越高校)をご出発、鉄道で入間川駅(今の狭山市駅)にご到着になり、入間川駅から稲荷山までは騎馬で向かわれました。稲荷山の野立所(のだらじょ)で大演習を統監なされたのち、再び入間川駅へお戻りになられています。
■稲荷山の公園化
天皇をお迎えすることのできた入間川町では記念碑の建立に発展しました。翌年(大正2年11月16日)に、入間川町は「特別大演習御野立所記念碑」を稲荷山に立てました。現在、児童館そばに見られるのがそれです。
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そこからの、現在の眺め
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更に入間川町では、大正天皇がお成りになった稲荷山を記念公薗とすることとし時の町長の提案は町議会の満場一致の議決となり、大正3年(1914年)早々に、総面積二十町歩(19・8ヘクタール)の稲荷山公園は完成を見ることになりました。
■公園の整備
こうして誕生した入間川町最初の大規模公園には、ツツジやサクラが植えられ大正から昭和にかけて園内の施設を次第に整えられました。昭和8年(1933年)4月には「稲荷山公園駅が開設され都内からの行楽客が押しかけるようになり、翌、昭和9年(1934年)には駅から公園にかけての道路両側に400本のサクラが植えられました。このようにして今、私達渦る稲荷山公園に発展してきました。

【鵜ノ木の愛宕神社】
鎮座地:狭山市鵜ノ木30番地
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祭神:愛宕大権現
昭和29年に社殿再建
当社はもと長栄寺の境内にあり、鵜ノ木地域住民の守護神として信仰されていましたが、明治政府の神仏分離令により現在の稲荷山公園の中に遷し祭られ、その後現在の他に遷座されました。終戦後、火災により社殿を焼失しましたが、昭和29年10月に再建されました。例年春の祭礼と大晦日には鵜ノ木磯子が奉納されています。(狭山市HPより)

愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰である。愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まつた修験者によつて江戸時代中頃から愛宕億仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになつた。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1000社ある。特に東北地方に多く分布する。
愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命(ほむすぴのみこと)が祭神とされる。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての偉仰もあった。民間では、各地に「愛宕講」と呼ばれる講が組織された。「千日詣」と称し、8月1日に参拝すると千日参拝したのと同じ御利益があるとされる。
直江兼続が兜の前立に「愛」をまとつていた理由の説の1つとして、愛宕信仰説がある。

境内社:御嶽山(石祠 明治38年4月)、稲荷社(石祠 寛政12年3月)
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こういう字をあてた例
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【第六天神社】
鎮座地:狭山市鵜ノ木20番40
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祭神:両足尊(おもだるのみこと)、憧根神(かしこねのみこと)
由緒‥昔からこの地に第六天が祭られ、地名も第六天となっている。しかし、石祠が破損し崩壊していたものを大正2年9月田口直進が田口家の守護神として再建し祀られた。
その後、第六天の講社鵜ノ木講ができて、現在は八十名の講員がいる。
講員は毎年岩槻市武蔵第六天神社に参拝している。

■第六天神社の特徴
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代の(面足命・憧根命)に祭神を変更した。

『日本民俗学NO.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』、『新編相模国風土記構』、『増訂・豆州志稿』によれば、「第六天神社」は江戸時代未までは関東を中心に多く存在したが、前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも300余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。

第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田借長が篤く借奉していたとされることから、天下統-の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。
さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社では、御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・鳥天狗など、第大天は天狗と関連付けられている。

■第六天魔王とは
仏教では、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩
薩界・仏界を加えたもの)といった世界観がある。
このうち・六道の地獄から人間までは欲望に捉われた世界、つまり欲界という。しかし天上界では細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界、そして精神的な無色界(これを三界という)がある。
ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、これを六欲天という。

第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。
六欲天を上から記載すると次の通りとなる。
他化自在天(たけじざいてん)、化楽天(けらくてん)、兜率天(とそつてん)、夜鹿天(やまてん)、功利天(とうりて
ん)、四大王東天(しだいおうしゆてん)。


以上で、予定された場所を全て廻り、自治会の集会所に戻り、お弁当を頂きながら、参加者とガイドが懇談し、楽しい時間を過ごしました。

この自治会では初の試みでしたが、大変好評だったようで、次回はいつやるのか、とか嬉しい反響があるようです。
ガイドした身にとっては、とても嬉しい話です。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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