甕主日子神 (みかぬしひこのかみ)/日本の神々の話

20150830

この神は、『古事記』において、「大国主神」の巻の「大国主神の神裔」の段に名前が見えます。
(読み下し文)
 かれこの大国主神、胸形の奥つ宮に坐す神、多紀理比賣命を娶(めと)して生みし子は、阿遅鉏高日子根神、次に妹高比賣命。亦の名は下光比賣命。この阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛の大御神といふぞ。
大国主神、また神屋楯比賣命を娶して生みし子は、事代主神。また八嶋牟遅能神の女、鳥耳神を娶して生みし子は、鳥鳴海神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇神を娶して生みし子は、國忍富神。この神、葦那陀迦神、亦の名は八河江比賣を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。この神、天之甕主神の女、前玉比賣を娶して生みし子は、甕主日子神。この神、淤加美神の女、比那良志比賣を娶して生みし子は、多比理岐志麻流美神。この神、比比羅木之其花麻豆美神の女、活玉前玉比賣神を娶して生みし子は、美呂浪神。この神、敷山主神の女、青沼馬沼押比売を娶して生みし子は、布忍富鳥鳴海神。この神、若晝女神を娶して生みし子は、天日腹大科度美神。この神、天狭霧神の女、遠津待根神を娶して生みし子は、遠津山岬多良斯神。
右の件の八嶋牟遅能神以下、遠津山岬多良斯神以前を、十七世の神と称す。

甕主日子神の名義は「甕を掌る主役の男子」。
天之甕主神が天上界の甕を掌るのに対して地上の甕を掌る主役。「日子」は「太陽の子」の意の場合と、「霊的な男子」の意の場合がある。ここでは後者とみる。
甕は神事用の重要な器である。
大国主神の子孫で、速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生れた神。
比那良志毘売を妻にして多比理岐志麻流美神を生む。

ここで重要なのは、「前玉比売」です。
この神は、「たきたま古墳群」の一角にある「前玉(さきたま)神社」の祭神。
「前玉(さきたま)」⇒「埼玉(さきたま)」⇒「埼玉(さいたま)」となり、県名のもとになったとされています。
「金錯鉄剣」が発見された稲荷山古墳を有する「さきたま古墳群」ですから、この地方に非常に有力な部族が存在したのは確かです。
そして「前玉神社」の祭神から、この部族が出雲族であったことも判ります。


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深大寺

20150829

所在地:東京都調布市深大寺元町5丁目15−1

個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、8月25日に靑渭神社に参拝したあと、深大寺に回りました。
深大寺は、以前歴史クラブで2012年12月に「三鷹周辺の社寺を歩く」で訪問し、記事にしています。

その記事を読む


その後、芭蕉の句碑がここにあることを知り、機会があったら撮ろうと思っていたので、今回訪ねたというわけです。

山門前は百日紅が目立ちました。
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境内に入ってから山門を。
緑がとてもいい。
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本堂
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本堂前の「天水華座」
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枝折で作った円形の衝立がいい。
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もう一方には、蓮の鉢が並べられていた。
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以前来たときに気が付かなかったが、手水舎の手水鉢が釜の形をしているのが面白い。
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手水舎の近くの植え込みに、「切支丹灯篭」があり。
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例えば大鳥神社にある切支丹灯篭は、なるほどと分かり易い形をしているが、これはどこをもって切支丹灯篭としているのかが分かりにくい。
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五大尊池の前の百日紅がきれいだった。
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五大尊池
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元三大師堂
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以前来たときには、元三大師堂前の木の根元に四方に置かれていた石仏が、横一線に並べられていた。
右から二つ目が『角大師』-良源(りょうげん)、または慈恵大師(じえだいし)、または元三大師(がんさんだいし)。
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乾門の近くに白山社があり、そこの狛犬が江戸時代のものだったので、喜んでしまいました(笑)
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天保12年(1841)造立の狛犬
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乾門を出て延命観音に向かいます。
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延命観音
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その先に芭蕉の句碑があります。
「象潟や 阿免尓西施(あめにせいし)が 合歓能花(ねぶのはな)」
松尾芭蕉が「奥の細道」(1689)で現秋田県の景勝地八十八潟の象潟(きさかた)を訪れた時の句です。当時は「東の松島九十九島、西の象潟八十八潟」と呼ばれ陸奥の2大景勝地となっていました。芭蕉は楊貴妃と並ぶ中国四大美人の一人西施(せいし)を讃えた李白の詩を踏まえた上で、「雨の象潟(きさかた)に、西施(せいし)が眠っているような姿で、ねむの花が咲いている」と詠んだ。
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青渭神社(あおいじんじゃ 延喜式内論社)/東京都調布市深大寺

20150827

鎮座地:東京都調布市深大寺元町5丁目17−10

個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、8月25日にこのお宮に参拝しました。
武蔵國多摩郡八坐のうち、「青渭神社」の論社です。
論社は、もう二社あり、稲城市と青梅市沢井にあります。

隣が小学校なので、ナビにそれを入力し、調布インターからスムーズに到着できました。
深大寺のすぐ近くです。
入り口の鳥居のところから、樹が茂って鬱蒼としています。
樹齢600年だという、大きなケヤキが気になりますが、参拝のあとでゆっくりと見ることにします。
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社号標
延喜式武蔵国多摩郡八座内青渭神社 論社、旧郷社
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境内掲示による青渭神社の由緒
創立年月日は不詳であるが、往古(三千年~四千年以前)先住民が水をもとめ居住した際、その生活に欠くことの出来ない水を尊び、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。御祭神は水波能売大神・青沼押比売命、又一説には社前大池に棲む蛇を祀ったとも云われている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳所載武蔵国多摩郡八座の内にて、官祭の社で重き御社であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水あり、音波をたたえていた所から、青波天神杜とも称された。旧深大寺町の総鎮守である。尚杜前に槻の老樹がそびえ、市内随一の巨木で、調布市文化財天然記念物に指定されている。(北多摩神道青年会掲示より)

鳥居
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社額は龍の彫刻つき
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鳥居をくぐって、石段を上がる。
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明治13年造立の狛犬
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手水舎の脇にも、大きな欅が聳えている。
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手水舎
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狛犬と同じく、明治13年造立の水盤の足が気になりました。
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力士を象ったものかと思われる。
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社殿の前は広々としている。
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入母屋造りの拝殿
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向拝部
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社額
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拝殿内部は、のぞけない。大きな御幣があるのがわかるのみ。
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勾欄の金具が美しい。
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拝殿の横は両側とも入っていけないので、本殿は遠くから見るのみ。
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ご祭神は水波能売大神と青沼押比売命

神紋は「右三つ巴」
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青渭神社の大欅は、社叢の角にある。
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ご神木の大欅は道路近くの鳥居の横にあります。幹は目通りおよそ5.5m、高さ34m。樹齢数百年の老樹でありますが、現在なお樹勢旺盛です。
「欅(けやき)」は古名では「槻(つき)」といい、『新編武蔵風土記稿』に「社ノ傍ニ囲一丈五尺アマリノ槻ノ老樹アリ」と、また『江戸名所図会』にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて文化文政の頃からすでに目立つ巨木でした。
昭和47年に調布市の天然記念物として指定されています。

『江戸名所図会』
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幹はかなり斜めになっていて、上のほうが切られているのは、持ちこたえるのが難しいからだと推察。
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じっくり拝見していると、折れた枝の跡だろうが大穴が開いていた。
綺麗なハート型でびっくりした(笑)
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この神社で、東京都の延期式内社は、比定社、論社全て完了。
これからは、埼玉県内の式内社を巡拝していくことになります。


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智光山公園緑化植物園の花

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数日前に足を痛めておとなしくしていましたが、大分良くなってきたので、智光山公園で軽く歩きました。
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緑化植物園に行くと、この季節でも咲いているものがあったので撮ってきました。

【ゴマ】
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【ハトムギ】
種子のつきかたが面白い。
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【明日葉】
名の由来は、葉を摘んでも明日にはまた萌え出ることから。
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【ミソハギ】
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【夾竹桃】
ピンクはもう終わっていて、白がまだ花がのこっている状態。
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【エビスグサ】
去年9月に、ツルが面白くて撮ったのがこの写真。
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今日は、葉が盛んであまりツルが目立たない。
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【モミジ】
種を飛ばすばかりになっていた。
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(了)



船津胎内樹型/世界文化遺産「富士山」

20150822

所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町船津6603
訪問日:2011年5月1日、2014年7月18日

世界文化遺産「富士山」の構成資産の一つ。国指定天然記念物。
昨年、歴史クラブの定例見学会のコースに候補として組み込みましたが、下見の結果大勢の団体で訪れるには、狭い洞窟なので無理があると、コースから外したため記事にはしなかったので、今回記事にしておきます。
なお、それ以前に、2011年にも友人と訪れています。

「胎内樹型」とはどういうものかというと、富士山の噴火の際の溶岩流が大木を取り囲んで固まり、その樹の型が残ったものです。
船津胎内樹型は、約1000年前の「剣丸尾溶岩流」によって作られた。大小数本の木が折り重なって出来た総延長70mに及ぶ複合型溶岩樹型。
随所に体内を思わせるところがあり、かなり狭いところがあるので、苦労して潜り抜けることにより、胎児として生まれかわるような「再生儀式」とも思わせます。
それで江戸時代から富士講などによる、「胎内くぐり」の名所でした。

船津胎内樹型を発見したのは、江戸で「高田富士」を築いた高田藤四郎です。藤四郎は食行身禄の教示に従い、「元の父母」の特定に奔走し、ついに安永元年(1772)に船津胎内を発見しました。

剣丸尾溶岩流
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江戸時代の様子
白装束姿でろうそくを持ち、膝にわらじをつけて胎内くぐりをする人々。
江戸末期錦絵
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『滑稽富士詣』より
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歌川貞秀画「富士山胎内巡之図」より
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船津胎内樹型の上には、「無戸室(むつむろ)浅間神社」がある。
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船津胎内樹型の説明
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船津胎内樹型の内部図
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無戸室浅間神社の社殿内に入り口がある。
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入り口
2011年に一緒に行った友人。
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「肋骨」
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盲腸があるという穴だが、どれがそうなのかわからない。
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真っ直ぐ進んだ行き止まりには御幣が奉安されていた。
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胞衣石があるところは、急に下がっていて滑りやすく危険。
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真っ直ぐ行くと、「瓊瓊杵尊」を経由して出口。
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胞衣石
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「母の胎内」に通じる穴。
実は2011年に最初に来たときは、普通の服装だったし、ちょっと入りかけて怖くてやめた。
閉塞感がすごかった。
あのころは、まだ歴史に目覚めてなかったのだが、「木花開耶比姫命」という名に興味を感じて入りたかったのだが。

それで二度目の2014年には、事前に調べて「膝わらじ」のことも知っていたので、何かいいものをと探して「膝パット」を用意して、泥んこになるだろうと、軍手とか替えのズボンなどを用意ししてきたのだ。

ここは、まだ楽々と通れる。
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「母の胎内」
ここは膝をつかないと通れない。
暗いし、かなり狭いし、進むのに、ちょっと勇気がいった。
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ちょっと楽になって、最後の関門がある。
このように、沁みだしてくる水でビショビショになっているので、場所によっては木道が敷かれている。
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「木花開耶比姫命」が祀られている部屋。
暗いので適当にフラッシュをたいて撮った。
乳房はわかるが、女陰石はわからず。
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「木花開耶比姫命」
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帰りは、ずっと平気な気持ちでいられた。
大丈夫と思っていても、頭のどこかに生き埋めの恐怖感がある(笑)

分岐点から「瓊瓊杵命」に向かう。
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「瓊瓊杵命」
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「瓊瓊杵命」の左上の穴で、一番奥に「子育て観音」があるという穴。
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出口に向かう。
左上に細い樹型が交差している。
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出口が見えた(嬉)
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出口付近
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出口から振り返る。この辺の天井が、黒いガラス質の岩だった。
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出口
2011年に一緒に行った友人。
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出口付近の石仏など
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八幡神 (はちまんじん)/日本の神々の話

20150819

全国で一番多い(統計の取り方、屋敷神までいれるかどうかとか、範囲の取り方などでお稲荷さんと争っている)という八幡神社の、かっての祭神。明治はじめの神仏分離令で、八幡神社の祭神は応神天皇(誉田別命)ということになったが、八幡神社が武神として信仰された理由を説明するとき、「八幡神」を持ち出した方が説明しやすい。

それから、有名な那須与一が弓を射る時に「南無、八幡大菩薩・・・・・」と唱える場面があるが、八幡という神と菩薩という仏をくっつけて言うのはおかしい、「神よ、仏よ・・・・・」という意味で言ったのだろうか、と思っていた時期があった。
本当に「八幡大菩薩」があったのだ(笑)

(以下、WIKIPEDIAから引用)
八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。

現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、神社によっては八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くある。
比売神とは、宗像三女神(すなわち多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。

ちなみに狭山市の八幡神社は、主祭神が応神天皇 (誉田別命) で、合祀神が天照皇大御神・春日大神となっており、通常のかたちとちょっと違っている。

【神仏習合】
僧形八幡神
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。
平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。

八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い。

「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。

宇佐八幡宮神託事件
神護景雲3年(769年)、天皇の位を狙っていた道鏡は、称徳天皇によって道鏡を次の皇位継承者に指名させようとして、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。しかし、朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除(そうじょ)すべし」との託宣が下り、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けて道鏡の目的は達成されなかった。(宇佐八幡宮神託事件)

明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会は、それぞれ仲秋祭、石清水祭へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。


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高野聖/泉鏡花

20150817

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毎年恒例の富山・金沢帰省を、今年も8月1日~3日にしたが、その時に泉鏡花記念館に行った。
それで帰ってから、また泉鏡花のものを読みたくなって、とりあえず最初に読んだのが『高野聖』。

この作品を若いときに読んだ時にはのけぞったものだ。
妖しく幻想的な話に。

あらすじ(WIKPEDA):
若狭へ帰省する旅の車中で「私」は一人の中年の旅僧に出会い、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊するという旅僧と同行することとなった。旅僧の馴染みの宿に同宿した「私」は、夜の床で旅僧から不思議な怪奇譚を聞く。それはまだ旅僧(宗朝)が若い頃、行脚のため飛騨の山越えをしたときの体験談だった。……

若い修行僧の宗朝は、信州・松本へ向う飛騨天生峠で、先を追い越した富山の薬売りの男が危険な旧道へ進んでいったため、これを追った。怖ろしい蛇に出くわし、気味悪い山蛭の降ってくる森をなんとか切り抜けた宗朝は、馬の嘶きのする方角へ向い、妖しい美女の住む孤家へたどり着いた。その家には女の亭主だという白痴の肥った少年もいた。宗朝は傷ついて汚れた体を、親切な女に川で洗い流して癒してもらうが、女もいつの間にか全裸になっていた。猿やこうもりが女にまとわりつきつつ二人が家に戻ると、留守番をしていた馬引きの親仁(おやじ)が、変らずに戻ってきた宗朝を不思議そうに見た。その夜、ぐるりと家の周りで鳥獣の鳴き騒ぐ声を宗朝は寝床で聞き、一心不乱に陀羅尼経を呪した。

翌朝、女の家を発ち、宗朝は里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず、僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え、引き返そうとしていた。そこへ馬を売った帰りの親仁と出くわし、女の秘密を聞かされる。親仁が今売ってきた昨日の馬は、女の魔力で馬の姿に変えられた助平な富山の薬売りだった。女には、肉体関係を持った男たちを、息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと、魂が身に戻り、踵を返しあわてて里へ駆け下りていった。


鏡花の描写は、こんなである。
女の家を発って、里の近くまで降りてきて、滝の前で一休みする。
その滝が女夫(めおと)滝で、突き出た黒い大巌で二つに滝が分かれている。
「唯一筋でも巌を越して男滝に槌りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も適わぬので、揉まれ、揺られて具(つぶ)さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶(やつ)れ容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。
男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の厳に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳(おど)る。況(ま)してこの水上は、昨日孤家(ひとつや)の婦人(おんな)と水を浴びた処と思うと、気の所為かその女瀧の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々(ありあり)、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うと又浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚(はだえ)が粉に砕けて、花片(はなびら)が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、はッと刻まれ、あッと見る間に又あらわれる。私は耐(たま)らず真逆に滝の中へ飛込んで、女滝を確(しか)と抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと地響打たせて、山彦を呼んで轟いて流れている。ああその力を以て何故救わぬ、儘よ!
滝に身を投げて死のうより、旧(もと)の孤家(ひとつや)へ引返せ。汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けは、渠等(かれら)夫婦が同衾(ひとつね)するのに枕を並べて差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりは余程の増じゃと、息切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、」

そこに、例の親父が声をかけてきた。
そして手に持った見事な鯉は、あの馬を売った金で買ったこと。あの馬は、助平な富山の薬売りの成れの果てだと告げるのである。


「高野聖」を読みながら、頭に浮かぶ光景は、中学のときに山に入り込んで遊んでいた場所だ。
私の育った場所は信州の山村。
碓氷峠と内山峠の中間の位置くらい、私の家から15分も歩けば山に入りかける。
そのまま山に入っていくと、もう人里は無くて、けっこうな山越えして出たところは群馬県の村という事になる。
中学のときには、けっこう山で遊んだ。
夏休みの宿題というかノルマというか、「げんのしょうこ」をかなり持っていかなければならなかった。
それで学校は教材を賄うというわけだ。
キノコを採りに入ったし、兄と二人で岩魚を手づかみで獲りにいったり、山椒魚を採りにいったり。
道を外れて山に分け入って、好き勝手に歩き回った。
いまでも、何処にいても方向だけは見失わない、という能力はあのころ身に着いたに違いない。

そんなときに、やはり妖しい気配の場所というのがあるもので。
こちらも中学の、もう大人になりかけた、モヤモヤした気分を抱えてもいて、
なんだか切ない気分で、草むらにひっくりかえって空を眺めていた、とか。
そういう場所が記憶されている(笑)

同じ村の家でも、ぽつんと離れてずいぶん山奥にある一軒家もあった。

だから、「高野聖」は、わりとナマナマしく感じられる話である。



丹生都比売命(にうつひめのみこと)/日本の神々の話

20150815

別名 丹生都姫神(にうつひめのかみ)、爾保都比賣命(にうつひめのみこと)、丹生明神(にうみょうじん)

私は、今年正月に「武蔵野七福神」を回った際に、飯能の諏訪八幡神社を参拝した際、境内社の丹生(たんしょう)神社(丹生大明神)にてお参りした。
丹生神社は、丹党の一族加治助季が中山の領主となった時に鎮座させたもの。
武蔵七党のうち、丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。

爾保都比賣命は国堅大神の子。
国堅大神は『播磨国風土記』に登場する名で、大国主命の別名です。
神功皇后の三韓遠の時、この神が国造石坂比売命に憑いて、 自らをよく祭祀するならば、新羅を治める善験をなさうと教へて赤土をえた。
この赤土を、天之逆鉾に塗り軍船の艫舳に挿立て、皇軍の甲衣をも染めたため、 航海の障害に合うこともなく新羅を平伏し得た。
そこで紀伊国管川藤代の峯に奉鎮されたという。
一説には、丹生都比売命は天照大神の妹神(稚日女尊)。応神天皇によって天野に祀られたという。
高野御子神は丹生都比売命の御子神、あるいは夫神であるという。
弘法大師が始めて高野へ登った時に出現して、 「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったという。
丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことで、 古代において、薬・塗料・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。 丹生都姫命は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じた神。

弘仁七年(816年)空海は嵯峨天皇から高野山を賜った。
高野山の地を空海が丹生都比売から譲り受ける説話は二種類ある。
丹生明神の土地譲り 
空海が霊地を求めて大和国宇智郡まで来たとき南山の犬飼なる大男にあった。大男の協力で大小二匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で一泊した。 そこに一人の山民が現れ空海を山へ導いた。山の王、丹生明神・天野宮の神であった。この宮の託宣により丹生明神は自分の神領を空海に献じた。
借用書の説話(1)
弘法大師は高野明神から十年間の期限付きで神領地を借り受けたが、その後密かに十の上に点を加えて千とした。高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応じなかったと云う。
借用書の説話(2)
千年の借用書で借り受けたが、白ネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなった。 

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ、にうつひめじんじゃ)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社である。別称として天野大社・天野四所明神とも。
高野山近くに鎮座し、高野山と関係の深い神社である。
国宝「銀銅蛭巻太刀拵」のほか、本殿および楼門などの重要文化財を所蔵し、境内は国の史跡である。2004年7月、本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。
祭神は、以下の4柱の神を祀る。
第一殿:丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ) - 通称は丹生明神
第二殿:高野御子大神 (こうやみこのおおかみ) - 通称は狩場明神
第三殿:大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ) - 通称は気比明神
第四殿:市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ) - 通称は厳島明神
「丹」は朱砂(辰砂-朱色の硫化水銀)のことであり、その鉱脈のある所のことを「丹生」という。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀がとれる。丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。『丹生大明神告門(のりと)』では、丹生都比売大神は天照大御神の妹神であるとしており、稚日女尊と同一神とする説もある。
創建の年代は不詳である。『丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は紀の川川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている。『日本書紀』の神功皇后条に「天野祝」の名があり、当社の神官のことと考えられている。丹生都比売神の名の国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条である。『延喜式神名帳』では「紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載されている。
空海が高野山金剛峯寺を開く際に神領の一部を寄進したと伝えられ、高野山の鎮守神とされた。『今昔物語』には、密教の道場とする地を求めていた空海の前に「南山の犬飼」という猟師が現れて高野山へ先導したとの記述があり、南山の犬飼は狩場明神と呼ばれ、後に当社の祭神である高野御子大神と同一視されるようになった。鎌倉時代以降は、高野山上の僧が厳冬期の避寒のための当社に帯在したり、高野山で火災があったときに仮執務が行われたりなど、高野山との関係がより深くなった。修験道の修行の拠点ともなっていた。
鎌倉時代に、行勝上人により気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されて、現在の形となった。行勝は若宮に祀られている。鎌倉時代ごろから紀伊国一宮を称するようになった。

空海と狩場明神と犬
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丹生都比賣の出現
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武家屋敷跡/金沢

20150813

8月3日の朝、兼六園を散歩した後、ホテルで朝食。
チェックアウトは12時までなので、それまで武家屋敷を見てまわりました。

金沢に行く前に、下の娘が金沢で行きたいお菓子屋さんがあると連絡してきて、調べると武家屋敷の野村家住宅の横にあると判り、しかも2ケ月くらい前に歴史クラブの先輩の井上さんが金沢に遊んで、野村家住宅が良かったと教えて下さったので、それなら久しぶりに武家屋敷を散策するかと、予定に入れました。

ホテルの前から坂を降りると、せせらぎ通り商店街で、流れているのは鞍月用水(くらつきようすい)です。ブラタモリでも取り上げていましたが、ここは金沢城の「外惣構え」の位置で、この眺めは「惣構え」を想像できるものです。
堀が道幅一杯であり、右手にあった土塁が今の建物と同じくらいの高さだったと云います。
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この「惣構え」は、家康が金沢を攻めると宣言したため、それに対し申し開きをするのと並行して利長が築いたもの。
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結局「お松の方」が江戸に人質に行くということで、金沢攻めは実行されなかった。
どうして家康が金沢を攻めると云ったかというと、利家死去後に、利家が家康の暗殺を企てたことがわかったから。
利家が今わの時に家康が見舞いに来たが、利家はこれが家康を倒す最後のチャンスと考え、利長に家康暗殺を命じた。利家が寝ている布団の下に刀が置いてあったという。
利長は、家康を倒しても、秀忠が成人している今となっては、徳川家優位の体制を覆すことは出来ないと、それを諌めて、実行しなかった。

しかし利家は、家康殺害を利長だけでなく、五千石取の家臣徳山五兵衛、剣の達人片山伊賀にも命じていた。
この中で、徳山五兵衛が問題の多い男だった。初め織田信長に仕え、柴田勝家が越前北の庄に封じられると家老になった。勝家が死ぬと娘が利長の家臣に嫁いでいる縁を頼って利家に拾ってもらった。ところがこの男は、いずれ天下は家康のものになると読み、利家には無断でもう一人の娘を家康に差し出していた。
そして利家の死の翌日には、さっさと出奔して家康のもとに駆け込み、利家に家康殺害の計画があったと報じ、まんまと五千石の家臣にしてもらったのである。
(『われに千里の思いあり』中村彰彦著 より)
いつの時代にも、何処にでもこういう人物は居るものだ。

せせらぎ通りから入れば、そこはもう武家屋敷町である。
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ここが人気スポット。
松を活かすために、門わきの塀を破っている。
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細く、微妙に折れたり、鍵型に曲がったりしている。
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ブラタモリで教えてもらったのだが、石高、地位で石垣の高さも決まっていて、こういうことが起こる。
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武家屋敷町を抜けると大野庄用水。
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用水沿いにちょっと歩くと、目的のお菓子屋さんと野村家住宅の前。
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大野用水について
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説明にあった句碑
「御荷川の なごり床しき 水の秋」
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野村家住宅跡
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説明書き
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この説明書きをちゃんと読まないで、中に入ったので頭を抱えてしまった。
至る所に「千二百石」と書いてある。
それで、千二百石の武士の暮らしはどんなだったろうと楽しみにしたのだ。
というのは、カミさんの家は江戸時代は百姓だが、加賀藩に千二百石納める「十村役」であった。
加賀藩は、村に「肝煎(きもいり)」を置き、十ケ村を束ねる「十村役」を置いた。加賀藩の役人は十村役を相手にすれば良いというわけである。
武士の場合は、実質4割だったそうだから、千二百石といっても実質の収入は480石だったそうだが。

野村家住宅の中を見始めて、混乱してしまった。
「謁見の間」があり、凝りに凝った茶室。
千二百石で、そんなバカな・・・・・・・
加賀藩の場合、筆頭家老本多家が五万石、家老は一万石以上。
わが歴史クラブに五千石取りだった加賀藩武士の末裔が居るが。
千二百石取り以上の武士だと、三桁は居たはずだ。
ごく中流の家庭であったはずである。

見終わって、出てからまたこの説明を見て納得。
この家は、ほとんどは豪商の遺構を持ってきたもので、誇るべき金沢文化の展示であった。

玄関
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式台を上がると、天正12年(1584)の能登末森城の戦いに野村伝兵衛が着用したという鎧兜が置かれている。
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襖、欄間、障子などきれいな部屋だ。
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書院の造りも素晴らしい。
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上段の間の釘隠し(江戸時代)
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内庭に置かれた組石は、金沢城の石垣として切り出されたが、山に残された石で、切りだし人夫の目印入りの戸室石。
当時は一般使用禁制の石だった。
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謁見の間(上段の間)
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上段の間の縁側で、庭を眺めた。
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仏間
仏壇は、北陸特有の金仏壇。
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襖絵
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茶室が二階にあり、手洗いから石段を上がっていく。
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茶室入り口
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桐板天井に神代杉の一枚板。
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もう一つの茶室
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茶室からの眺め
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○鬼川文庫
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陳列品は、金沢文化の粋。
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前田利長が与えた知行所目録
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徳川幕府の貨幣制度の説明があり、これは判りやすくて良かった。
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これで、野村家住宅を見終わり、娘が行きたがっていた菓子店「たろう」に寄った。
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まずは、奥の喫茶コーナーに飛び込んだ(笑)
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私の頼んだ「白玉ぜんざい」
美味しかった。
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その後、ここでお菓子を買って帰りました。
美味しいお菓子でした。


「たろう」のHP



これで、今回の金沢での予定は全て終了。
12時直前にホテルをチェックアウト。金沢駅から新幹線「かがやき」で帰ってきました。
今回、千二百石取の野村家住宅を見ようとして、豪華すぎてズッコケたので、次回は中流の武士の、質実剛健な生活がうかがえる家を探して見たいと思う。



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兼六園補遺/金沢

20150811

私たちが毎年金沢で泊まるのは、香林坊の金沢東急ホテルです。なんといっても地の利が良いので気に入っています。

8月3日の朝、朝食前に、7:30にホテルから兼六園まで散歩しました。
家族には散歩ですが、私には二つの目的がありました。

兼六園は、昨年(2014年)この際だからとほぼ全てを撮ったつもりでしたが、洩れているのがわかった2点です。

その兼六園の記事を読む


いつもの通り、旧四高の建物前を通ります。
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真弓坂から入っていきます。
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緑が気持ち良い。
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瓢池、夕顔亭の前を通り、松濤坂を上がると、噴水の前。
日本最古の噴水で、サイフォンの原理で霞ケ池の水面と同じ高さに上がっているわけです。
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たしか、この辺だと、「ブラタモリでやっていた、金沢城に水を送っていた桝はどこですが?」と、公園の人に訪ねるが、なかなかわからない(泣)
訪ねること三回目でやっとわかりました(嬉)

目的の物は、琴柱灯篭の向かいにありました。
霞ケ池から、こちらに水路があります。
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その水路が延びています。堰板で止められている。
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はっきりと水路はわかりますね。
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ブラタモリのときは、タモリさんは桝の所まで入れてもらっていましたが、私は望遠で撮るだけです。
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この桝から下に落として、百間堀の下を通して、逆サイフォンの原理で金沢城に水を送っていた。
江戸時代にそれをやったのだから、大したものです。

百間堀(明治時代の写真)
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現在は百間堀通りとなっている。
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百間堀通りの上を、兼六園と金沢城石川門をつないでいる石川橋
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現在は金沢の中で最も有名な場所の一つとして知られる兼六園ですが、辰巳用水が作られた頃はまだ庭園としては整備されておらず、武家地であったようです。兼六園は1822年(文政5年)、竹沢御殿として整備されたものです。辰巳用水の水は兼六園の曲水としても使われました。辰巳用水の水は城の飲料用としても使われたのですが、城との間は谷間となって百間堀がありました。そこで堀の下に導水管を通して城へ水を導いたのです。これは伏越(ふせごし)(逆サイフォン)という技術です。サイフォンは、高い場所を乗り越えて低い位置へ水などの液体を移動させることをいいますが、金沢では低い位置を通すため、逆サイフォンと呼ばれています。当初は導水管として木桶(もくひ)が使われていました。構造は角材に凹状の溝を掘り、その上に蓋をかぶせるというものです。1860年代に石管に取り替えられましたが、こちらは石の真ん中を丸くくり抜いたものでした。石管と石管の接合部分からの漏水を防ぐために松脂が使われました。石管の直径からみて、それほどの水量はなかったようです。

尾山神社境内に置いてあった石管
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霞ケ池をあとにして。
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日本武尊像(明治記念碑)を過ぎて、山崎山まで来ると、目的の芭蕉の句碑がある。
今回、倶利伽羅峠の芭蕉の句碑をきっかけに、金沢にある芭蕉句碑を調べたら、なんと兼六園にもあり、私は昨年の夏に撮り漏らしていた(汗)

山崎山という小高い丘があるが、その上り口に芭蕉の句碑がある。
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「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」 の句碑。
書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆によると案内板に書いてある。梅室は前記事の宝泉寺に句碑を残している人物である。
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「あかあかと----」の句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。

せっかくだから、山崎山に上がる。
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頂上にある四阿の掲額がよかった。
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下を見下ろすと、公園の人が朝から池の掃除をしていた。
ありがとうございます。
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山崎山の中腹にあった「御室の塔」
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歩いていくと、苔の素晴らしいところあり。
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「竜石」があり。
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「鶺鴒島」
人生の三儀式である「誕生」「結婚」「死」をそれぞれ陰陽石、相生の松、五重の石塔で表し、配置しています。昔、いざなみ、いざなぎの尊が、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事より、その名が付けられました。正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据えており、他の大名庭園でも例を見ない珍しい構成であると言えます。
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これで、今回の兼六園での補遺は終了。
芭蕉の句碑に関しては、金沢で残っているのは、いまわかっているもので、有名な忍者寺がある寺町に三か所ある。
これは、芭蕉の門人で加賀金沢の人「小杉一笑」に関するもので、絶対に外せません。
次回金沢に来た時のお楽しみとします。

ホテルの朝食バイキングが美味しいので、飛んで帰りました(笑)


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宝泉寺の芭蕉句碑/金沢

20150809

所在地:石川県金沢市子来町57

8月2日、泉鏡花記念館を見物したあと、私は近くのひがし茶屋街奥、卯辰山の宝泉寺に芭蕉の句碑があるので行くことにし、その間、家族は娘が探したレトロが売りの喫茶店で待っていることにしました。

浅野川大橋を渡ります。
左隅上の方に幟が立っているところが目的地の宝泉寺です。
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自由軒の前を通って、ひがし茶屋街に入ります。
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ひがし茶屋街を通り抜けます。
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さっさと通り抜けるつもりでも、やはり綺麗な人が居ると、ついシャッターを(笑)
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ひがし茶屋街の一番奥
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宇多須神社の前です。
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脇の急な坂道(子来坂)を登っていくと、その途中にあります
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宝泉寺に着きました。
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入り口から上りですが、石仏が並んでいます。
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入り口から入ってすぐの左手に芭蕉の句碑がありました。
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ここは、芭蕉が訪れたといわれる俳人鶴屋句空の草庵「柳陰軒」があった場所である。
現在は宝泉寺の寺域になっている。

ここでの句は「ちる柳 あるじも我も 鐘を聞く」 
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文字はほとんど摩滅しているとの情報だったが、刻み直してあった。
「柳陰軒址」も刻んである。
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せっかくだから、お寺にもお参りすることにした。
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石段を上がりつめて左に折れるとお堂がある。
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石仏が多い。
寝釈迦を彫った石仏は初めてだ。
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本堂
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天正十一年(1583)、前田利家公が加賀国金沢城入城の際、城内の越後屋敷の地に摩利支天堂を創建し、摩利支天尊を自らの守護神として奉安し信仰崇拝されました。また利家公は末森の戦や関東の戦では、摩利支天尊を兜の中におさめて出陣せられ、加護を受けられたことはつとに有名です。

慶長六年(1601)、二代目利長公のとき、金沢城の鬼門(北東)にあたる向山の中腹に一万坪の地を寄進せられ、城内の摩利支天尊を当地に移築奉安し、「摩利支天山」と命名され、加賀百万石の「鬼門封じ」とし、別当宝泉坊が勤仕したのが、当寺の起こりという。

慶長十一年(1606)、利常公が「名人越後」と呼ばれた剣聖、富田越後守重政に堂宇を建立させてより、摩利支天尊は金沢城を眼下にするこの山頂に鎮座し、加賀百万石の城下町を守護してきた。

本堂の前面に天狗の面があり。
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ちなみに、本尊の前田利家の摩利支天像は秘仏であり、ご住職も一度しか見ていないという。

境内に、泉鏡花の作品に書かれた「五本松」 がある。
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○泉鏡花の作品
明治28年1月『春夏秋冬』に発表した「聾の一心」は、彫金師の父、清次(号政光)の死を扱ったものです。その中の一節。
「魔所の名高き五本松、宇宙に朦朧と姿を顕じて(あらわして)梢に叫ぶ天狗風、川の流れと相應じて、音無き夜に物寂し」

短編『五本松』のあらすじ
秋の夜更け、血気盛んな若者三人が天神山に登り、夜中の騒がしさを嫌う魔神のすみか「五本松」前で、放歌高吟して帰る。するとそのたたりか、若者の一人は朝まで騒ぐ修羅の足音で眠れず、手足を血まみれにした仲間の一人が戸をたたく幻を見る。その下宿へ駆けつけてみると、案の定、両手は黒ずんだ赤色にまみれており、二人は顔を見合わせる。窓を開けば、五本松の梢が向こうの物干しの陰からほっかりと見えるが、それを見るにつけ、何かはばかるところがあってその二三日は垂れこめていた。それだけで無事であった。

境内に、金沢出身の幕末の俳人桜井梅室の句碑が二つあった。
「ひと雫 けふの命そ 菊の露」
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「屋の棟に そふて植けり 梅柳梅室」の句碑です。
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桜井梅室 (さくらいばいしつ 1769-1852)は、本名を能充といい、加賀藩の研刀御用係であったが、1807年(文化四)、三十九歳の時、俳諧師になるため辞職し上洛する。文政・天保期は江戸に居住。一時金沢に引退したものの再び上洛。
京都に没し、寺町広小路の北本禅寺に葬られた。享年八十四歳。

境内からの金沢の町の眺め。
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浅野川が小さく見える。
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参道に、木槿(むくげ)が咲いていた。
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この日もすごい猛暑だったのだが、待たせているという意識から、駆けずり回ったので、家族が待っている喫茶店に戻ったときには、息も絶え絶え、汗ぐっしょり(苦笑)
よくぞ熱中症にならなかったものだと、ちと反省しました。



「お気に入りの場所」に飛ぶ




泉鏡花記念館/金沢

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所在地:石川県金沢市下新町2番3号

訪問日:2015年8月2日
この日は、埴生護国八幡宮を最初に訪れ、そこから倶利伽羅峠古戦場に行き、金沢に入り昼食は二十一世紀美術館内のレストラン"Fusion21"で食べました。
ここは家族のお気に入りで、ほぼ毎年食べていますね。

二十一世紀美術館内とレストラン"Fusion21"の記事を見る


満腹して、良い気分で訪れたのが「泉鏡花記念館」。
場所は浅野川の近く、主計町茶屋街の入り口です。
駐車場を心配していましたが、今は至る所にコインパーキングがありました。

行ってみると、大通りに昔金沢の代表銘菓「長生殿」の森八本店があったところの裏でした。
昔は福光から金沢に遊びに出て、帰りがけにいつも森八でお菓子を買って帰ったものでした。

記念館は、泉鏡花の生家跡に建てられているそうです。
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入り口
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建物は、金沢の旧家の建物を使用している。
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庭に「鏡花父子像」あり。
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入った受付ロビーのところに、東京の「番町の家」にあった「雀のお宿」を再現してあった。
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館内は、受付ロビーを除いて撮影禁止なので、あとはパンフレット、カタログなどで泉鏡花の世界を紹介します。

パンフレット
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泉鏡花の書、原稿
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驚いたのは、鏡花は私と同じ酉年で、金沢では「向かい干支」といって、自分の干支から七つ目の干支を大事にすると幸運を呼ぶという言い伝えがあり、ウサギを愛していたとのことで、愛玩品が多数陳列してあった。
ステッキの握りもウサギだった。
私もこれからウサギを集めよう(笑)
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これは表紙にウサギを用いている。
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鏡花の頃の本の装丁は、ため息が出る程美しい。

○鏑木清方
『ささ蟹』の口絵
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『高野聖』の口絵
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○小村雪岱
『日本橋』表紙と見返し
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『日本橋』口絵
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橋口五葉の装幀
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ショップで買い求めたのは、『鏡花文学賞25周年記念誌』
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この誌に寄稿しているのが、尾崎秀樹、五木寛之、井上靖、また五木寛之、瀬戸内寂聴、浅田次郎で、インタビューが長嶺ヤス子、そして受賞者の寄稿と、とても読み応えのある内容になっていた。

現在は、地方文学賞がとても多いですが、その先陣をきったのが金沢市の「鏡花文学賞」だそうです。
第一回から15回まで選考委員をされた瀬戸内寂聴がこの中で、「芥川賞や直木賞より、よっぽど打率がいい」と書いている。

受賞作品一覧(第一回~6回)
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それ以降はWikipediaから転載しておきます。
第7回(1979年)- 眉村卓「消滅の光輪」、金井美恵子「プラトン的恋愛」
第8回(1980年)- 清水邦夫「わが魂は輝く水なり」、森万紀子「雪女」
第9回(1981年)- 澁澤龍彦「唐草物語」、筒井康隆「虚人たち」
第10回(1982年)- 日野啓三「抱擁」
第11回(1983年)- 三枝和子「鬼どもの夜は深い」、小檜山博「光る女」
第12回(1984年)- 赤江瀑「海峡」「八雲が殺した」
第13回(1985年)- 宮脇俊三「殺意の風景」
第14回(1986年)- 増田みず子「シングル・セル」
第15回(1987年)- 倉橋由美子「アマノン国往還記」、朝稲日出夫「シュージの放浪」
第16回(1988年)- 泡坂妻夫「折鶴」、吉本ばなな「ムーンライト・シャドウ」(「キッチン」に所収)
第17回(1989年)- 石和鷹「野分酒場」、北原亞以子「深川澪通り木戸番小屋」
第18回(1990年)- 日影丈吉「泥汽車」
第19回(1991年) - 有為エンジェル「踊ろう、マヤ」
第20回(1992年)- 鷺沢萠「駆ける少年」、島田雅彦「彼岸先生」
第21回(1993年)- 山本道子「喪服の子」
第22回(1994年)- 該当作品なし
第23回(1995年)- 辻章「夢の方位」
第24回(1996年)- 柳美里「フルハウス」、山田詠美「アニマル・ ロジック」
第25回(1997年)- 村松友視「鎌倉のおばさん」、京極夏彦「嗤う伊右衛門」
第26回(1998年)- 田辺聖子「道頓堀の雨に別れて以来なり──川柳作家・岸本水府とその時代」
第27回(1999年)- 吉田知子「箱の夫」、種村季弘「種村季弘のネオ・ラビリントス 幻想のエロス」ほか
第28回(2000年)- 多和田葉子「ヒナギクのお茶の場合」
第29回(2001年)- 久世光彦「蕭々館日録」、笙野頼子「幽界森娘異聞」
第30回(2002年)- 野坂昭如「文壇」およびそれに至る文業
第31回(2003年)- 丸谷才一「輝く日の宮」、桐野夏生「グロテスク」
第32回(2004年)- 小川洋子「ブラフマンの埋葬」
第33回(2005年)- 寮美千子「楽園の鳥―カルカッタ幻想曲―」
第34回(2006年)- 嵐山光三郎「悪党芭蕉」
第35回(2007年)- 立松和平「道元禅師」(上下)、特別賞 - 大鷹不二雄「鏡花恋唄」
第36回(2008年)- 南木佳士「草すべり、その他の短編」、横尾忠則「ぶるうらんど」
第37回(2009年)- 千早茜「魚神」
第38回(2010年)- 篠田正浩「河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶」
第39回(2011年)- 瀬戸内寂聴「風景」、夢枕獏「大江戸釣客伝」
第40回(2012年)- 角田光代「かなたの子」
第41回(2013年)- 磯崎憲一郎「往古来今」
第42回(2014年)- 中島京子「妻が椎茸だったころ」、小池昌代「たまもの」


見終わって出てくると、出入り口の突き当たり角に、笹と八つ手の葉が暑い日に爽やかだった。
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「お気に入りの場所」に飛ぶ




倶利伽羅峠

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場所:富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町

前の記事「埴生(はにゅう)護国八幡宮」で書いたように、私とカミさんの先祖両方が倶利伽羅峠の合戦に参加していた可能性があるとわかったので、ちょうど良い機会と娘二人も引き連れて倶利伽羅峠に行ったわけです。
娘二人は、全然関心は無さそうだったが(笑)

8月2日の午前、埴生(はにゅう)護国八幡宮から車で峠を上っていきました。
ただし、この日も猛暑日。毎年この時期に帰省していますが、今までで一番暑い夏です。午後には金沢で色々と行きたいところもあるため、立ち寄るのは芭蕉の句碑があり、平家軍の本陣であった「猿ケ馬場」だけとしました。

倶利伽羅峠の戦いについては、WIKIPEDIAの記事を転載しておきます。
倶利伽羅峠の戦い、または砺波山の戦いは、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。

治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。

だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。

一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。

平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

案内図
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埴生(はにゅう)護国八幡宮から上っていくと、碑が多数立っている所に出たので車を停めた。
右手が登って来た道で、左からも上がってくる道あり。
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「塔の橋」の碑
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塔の橋は、倶利伽羅峠の戦いの際、平行盛(清盛の次男で重盛の同母弟基盛の子)が陣を置き、源氏軍と対峙した場所です。
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この地は、古来より矢立まで三町程を馬の背のような険しいところでした。旅人も大変難儀しましたが、前田利長が高岡に行くようになり、北国街道が整備されました。
このことは、前田利長について勉強したときに書いてありましたね。
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そこからちょっと行くと、芭蕉の句碑あり。
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「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」であった。
この句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。
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碑の裏にも句が刻んであった。
「くりからのほととぎすなく夢の跡」
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家に帰ってから調べると、この句は、小矢部市の元市長である故松本正雄氏のもので、この芭蕉の句碑は松本正雄氏が建てたものだそうだ。
故松本正雄氏は、東大土木工学科卒業ということもあり、「文化的価値を持ち、地域の人々に親しまれ、愛される建物を作りたい」ということで、小矢部市の公共建築を新築する際に、西洋風の有名な建物を真似て建築して、これらをメルヘン建築と命名しています。
イギリスの国会議事堂、ウェストミンスター寺院、フランスのヴェルサイユ宮殿、ドイツのハイデルベルクの古城、アメリカのボストン公会堂、東京大学安田講堂などを模した建物で、当時私の娘たちも幼なかったこともあり、見物に行ったことがあります。

そこからの、日本海側、石動(いするぎ)方面の眺め。
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ねむの木が咲いていた。
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そこから少しで、いよいよ猿ケ馬場に到着。
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広いので、ちょっとずつ車を移動しながら見ていきました。

まずあったのが芭蕉の句碑。
ここには、二つ句碑があるのがわかっていましたが、これは新しいものの方。
「義仲の 寝覚の山か 月かなし」
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裏面には、詩のようなものが刻まれており、良いなと思い家に帰ってから調べたが、由来がわからない。
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道路を挟み反対側には、北陸路での芭蕉の句一覧が掲示されていた。
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源平倶利伽羅合戦、平家本陣跡
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ここで軍議をしたとあり、大岩のテーブルを置いてある。
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その場所の道路沿いに「芭蕉塚」があり。
「「義仲の 寝覚の山か 月かなし」が刻まれている。
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芭蕉は、義仲にどういう想いをよせていたのか・・・・・・・・
芭蕉は、晩年しばしば義仲寺にお参りし、元禄7年(1694年)10月12日午前4時ごろ逝去し、14日の深夜、芭蕉の遺言通り義仲の墓の隣に埋葬されました。

有名な「火牛の計」の像
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絵巻
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WIKIpediaから:
『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、そして尾に松明をくくりつけるというもので、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。この方法であれば、尻をあぶられてたまらない牛は前方に猛突進するというのは、実際に上手くいくかどうかはともかく、理屈としてはあっている。

すぐ近くに句碑あり。
「月冴えて 牛の谺は 八百年」津田三郎
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津田三郎氏は小矢部市の開業医であったようである

展望台で休む。
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カミさんの故郷、福光の方向を望む。
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トイレの表示が恰好よかった(笑)
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平為盛の塚の表示あり、行ってみる。
平 為盛(たいら の ためもり、生没年不詳)は平安時代末期の武将。平清盛の異母弟平頼盛の次男。
『源平盛衰記』には、寿永2年(1183年)5月12日、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲の部将樋口兼光に首をはねられ討死したと記されている。が、それ以降も生き延びたという異論もあり。
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まずあったのは、大きな供養塔。
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その後ろに、平為盛の塚はあった。
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これで、倶利伽羅峠の探索は終え、お昼は家族お気に入りの、金沢二十一世紀美術館にあるレストランで取る予定なので、金沢市内に一目散、向かいました。



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竹野媛(たかのひめ)/日本の神々の話

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『記紀』伝承によると、丹波大縣主の娘で九代開化の妃になった女性がいる。竹野媛(たかのひめ)とよばれる女性である。比古由牟須美命(ひこゆむすみ のみこと)を生んだ
『古事記』は、旦波(たんば)の大縣主(おおあがたぬし)、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣(たかのひめ)とする。
『日本書記』は丹波の竹野媛(たかのひめ)とだけする。

また、垂仁天皇の皇后狭穂(さほ)姫が兄狭穂彦の謀反(むほん)に連座して自殺する前に,後宮にいれることを進言した丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)の5人の娘の一人も、この名である。

こういう説がある。
竹野媛は『魏志倭人伝』に出てくる「台与(とよ)」だという。
『勘注系図』という丹波の系譜によると、建諸隅命(たけもろずみ)を『一云、丹波縣主由碁理命(たんばあがたぬしゆごりのみこと)』としている。
『勘注系図』は建諸隅命を由碁理としている。
また『勘注系図』の注記は、建諸隅命が開化に仕え、丹波の与謝郡(よさのこおり)を割いて、竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いたとする。
屯倉とは天皇や皇族の直轄領であるから、この竹野姫は開化の妃になった「たかのひめ」と考えて間違いはない。
この注記からも建諸隅命は由碁理と考えてよい。
建諸隅命の別名を竹野別(たかのわけ)とする。したがって竹野姫という名は、その父親の名に由来する。本来の名は天豊姫である。
『勘注系図』では、一説に卑弥呼とする宇那比姫の二世代後に、卑弥呼と同じ、大倭姫という大和王権の女王の名を持つ女性が登場する。この人の亦の名を天豊姫命という。
天豊姫の天は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与(とよ)に通じる。
というのが、この説の根拠である。

それでは、『魏志倭人伝』の台与(とよ)とはどういう人物なのか。
『魏志倭人伝』には、こう書かれている。
女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國[10]の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受け、同年倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。ただし張政の派遣は、正始4年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。

「台与」は「臺與」の代用。臺與の表記・読みについては異説が多く、普通は「台与」を用いる。



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埴生(はにゅう)護国八幡宮

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鎮座地:富山県小矢部市埴生2992
参拝日:2015年8月2日

8月1日から3日、北陸に帰省してきました。今回初めて新設の北陸新幹線を利用しました。
8月1日、大宮9:10の「かがやき」に乗り、金沢に到着したのが11:19。
速いですね。途中停車したのが長野と富山だけでした。
金沢駅で、乗って来たかがやきを撮影。
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金沢駅前でレンタカーを借りて、この日は富山県南砺市福光の実家とお墓で母の新盆の法事。
宿泊は金沢のホテル。

2日には色々なところを廻りましたが、午前中は「倶利伽羅峠」。
同じ歴史クラブで富山出身の小田さんが、少し前に昭和44年北日本放送から発行された「風土記とやま」という本を「よかったら読んで」と貸してくださった。その本に載っていた記事で、カミさんの先祖の一族も倶利伽羅峠の合戦の際、木曽義仲軍に参加していたことがわかった。
私の先祖の一族は、統領家が源義賢の妹、つまり義仲の伯母さんを妻にしていることもあり、一族こぞって義仲軍に参加している。
つまり私とカミさんの先祖両方が倶利伽羅峠の合戦に参加していた可能性があると、わかったのである。
それで娘二人に、そういう説明をしながら倶利伽羅峠に行った。
娘二人は、全然関心は無さそうだったが(笑)

最初に訪れたのが、この神社です。
倶利伽羅合戦の前、待ち構える平家軍を前に義仲が陣を構えたのがこの神社。

一の鳥居
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社号標に国宝とある。
社殿が、大正13年に国宝となり、現在は国指定重要文化財となっている。
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社伝によると、養老二年、豊前国宇佐宮から勧請された古社。古くから文教の祖神、殖産の神として崇敬され
通称は埴生八幡宮と称されている。
弘仁二年、国守大伴家持が国家安寧と五穀豊穣を祈願。
治承四年、平家追討の令旨に応じて信濃で挙兵した木曽義仲は、寿永二年、倶利伽羅峠で二倍の軍勢の平維盛の大軍と対峙し、埴生に陣を取って、当社に戦勝を祈願。
『平家物語』では、この時、雲の中から三羽の山鳩が飛来し源氏の白旗の上にひらひらと翻ったとあり、この瑞兆を得て大勝。『源平盛衰記』には、四・五百頭の牛の角に松明を燃やして平家の陣中に放ったとある。
以来、諸将の崇敬篤く、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親、歴代藩主前田家の信仰も篤かった。

一般に「護国」の名を持つ神社は、戦争などの国事に殉じた英霊を祀る神社だが当社の「護国」は、それとは異なる。慶長十三年頃、地方の凶作が続いたため、前田利長が当社に祈願。霊験により凶作が打破されたため『護国』の尊号を奉ったもの。
明治六年郷社に列し、明治二十七年県社に昇格。

一の鳥居の神号が鳩文字となっている。
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一の鳥居から参道がまっすぐ二の鳥居に伸びる。
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二の鳥居前左手に、日本一の義仲騎馬像。
像の重量だけで5トンもあり、馬上の人物像としては日本最大級のものです。
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鳩清水からの流れに神橋がかかり、二の鳥居前右手に鳩清水があり。
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富山の名水55選の一つ「鳩清水」。水源を倶利伽羅山の中にある鳩清水の滝に発し、3kmの山中を経てここ八幡宮の手洗鉢に至っています。この清水は、木曽義仲が埴生護国八幡宮で倶利伽羅の合戦の戦勝祈願をした時、白鳩が飛来し、その案内で源氏方が清水の霊水を発見したと伝えられています。
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二の鳥居
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石段の上り口に狛犬。
造立年代不明だが、かなり古びたものだ。
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石段は、蓮沼城主「遊佐慶親(ゆさよしちか)」の寄進によるもので、かっては108段あったが、現在は103段。
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上り始めて左に神木
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石段途中に獅子が。
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石段を上りきろうという場所右に、神木があり。
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石段を上ると、社殿があり。
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社殿は、全部が大正13年に国宝の指定を受けた。戦後再び重要文化財建造物の指定を受けている。本殿は慶長5年(1600年)前田利長が大聖寺出陣の戦勝祈願をして帰陣後寄進、釣殿は、慶長16年利長が高岡城在城の折、病に倒れその平癒祈願のためその子利常が寄進、拝殿、幣殿は利常夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進され、正保3年(1646年)に完成したもの。
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拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面に千鳥破風付、向拝一間、こけら葺きです。幣殿は桁行3間、梁間3間、1重、背面入母屋造り、こけら葺きで拝殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。  
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向拝の社額
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拝殿内部
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拝殿内の社額
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拝殿横に飾られた絵馬。
かすかに神馬がわかる。
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拝殿に、義仲と巴御前のNHK大河トラマ実現祈願の大絵馬があった。
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釣殿
慶長16年(1611)に3代藩主・前田利常が兄である利長の病気平癒を祈願して寄進した建物です。桁行2間、梁間1間、1重、両下造り、こけら葺きで、前後を幣殿と本殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
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本殿
慶長5年(1600)に前田利長が大聖寺城攻めの際、戦勝祈願し成就したことから建立された建物です。三間社流造り、向拝一間、こけら葺きで、 大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
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主祭神は「八幡大神」として、誉田別尊(応神天皇)

神紋は「加賀梅鉢」
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宝物殿
歴史上貴重な数々の古文書、武具類が収められている。源義仲願文写し、蓮沼城主遊佐新右衛門慶親の感状、武田信玄書状、佐々成政寄進状、義仲の上刺の矢、矢じり、豊臣秀吉の兜・小牧山陣立などがある。
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謡曲「木曽」と護国八幡宮
謡曲「木曽」は、木曽義仲が埴生八幡の 加護によって、平家に大勝した経緯を 描いた一番である。
木曽義仲は平家と戦って越中埴生に 陣していた時、図らずも八幡宮の大前を拝する 好運に恵まれ、随喜の涙と共に、覚明に願書 を作らせて、御宝前に熱誠の祈りを捧げた。
頼もしいかな、八幡大神、真実の心を照覧し 給うたのか、雲の中から山鳩が三羽飛来し て白旗の上に舞った。かくて、この吉兆を 拝した義仲は、遂に倶利伽羅の決戦場で 大勝を博したのである。
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護国八幡宮横基壇状遺構群
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境内の句碑
「白鳩の 木末に涼し神の御意 」 各務支考
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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