贄持之子(にえもつのこ)/日本の神々の話

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神武天皇が東征で、熊野から吉野に出たときに出会った神である。

『古事記』の中巻、「神武天皇」の巻、「布都の御魂と八咫烏」の段
ここでは、まず神武天皇が熊野村に入ると正気を失って倒れ、建御雷神の下した剣を熊野の高倉下が届けたことにより、気を取り直し荒ぶる神を倒した後、
「 そこでまた高木大神の仰せで教えて申されるには、「天つ神の御子を、ここから奥の方に行かせ申してはならない。荒れすさぶ神が非常にたくさんいる。今、天上から八咫烏を遣わそう。そしてその八咫烏が先導するであろう。その烏の飛び立つあとについてお進みなさいませ」と申された。それで、その教えさとしに従って、その八咫烏のあとについてお進みになると、吉野川の川下にお着きになったとき、筌(うえ)を作って魚を取っている人がいた。そこで天つ神の御子が、「おまえはだれか」とお尋ねになると、「私は国つ神で、名は二ヘモツノコと言います」とお答え申した。これは阿陀の鵜飼部の祖先である。(以後略)」

ここで、「筌(うえ)」とは、竹で編んだ筒を流れに仕掛けて魚を獲る道具のこと。
「阿陀の鵜飼部」とは、鵜を使って魚を捕り、朝廷に献納した部民。

八咫烏は、今やサッカー界の守り神として有名である。


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玉前神社(たまさきじんじゃ)(延喜式内社)/千葉県長生郡一宮町

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鎮座地:千葉県長生都一宮町一宮3048

9月25日に、歴史クラブ行事で上総国の式内社5社を回りましたが、「橘樹神社」に続いてこの神社に参拝しました。

社号標
延喜式武内社(名神大社)玉前神社、上総国一宮、旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。
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由緒:
創始は古く詳らかではありませんが、延書式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました。明治4年には国幣中社に列しています。
昭和23年に当時皇太子であられた今上陛下がご参拝、同28年には昭和天皇、平成4年には今上陛下より幣餞料を賜りました。
また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした
貞観10年(868)従四位下
元慶元年(877) 正四位下
 同8年(884)正四位上
延久2年(1070)8月3日 上総国一宮御託宣とある
治承元年(1182)上総権介平広常社殿造営
永禄5年(1562)里見頼義の兵火で焼失、その後海部郡飯岡に逃れ15年遷座
天正5年(1577)一宮に戻る
同15年(1587)里見頼義神地寄進
同19年(1591)徳川家康神田寄進
貞享4年(1687)3月13日造営
明治4年国幣中社

朱の一の鳥居
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鳥居の脇に狛犬
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しばらく進むと、文化3年建立の石造明神型の二の鳥居あり。
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石段の上に、昭和13年造立の狛犬があり。
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ここで右に直角に折れて社殿の方向。
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手水舎
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社殿のある地より一段低い地にも色々あり、それから先に拝見します。

さざれ石
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奉納された酒樽
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子宝・子授けいちょう
雄株と雌株の真ん中に実生の子供いちょうが育っている。
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境内社の三峰神社
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両部式朱の三の鳥居をくぐって、石段を上がると社殿です。
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石段の両側には、「徳一祐神惟」と「徳一歸民惟」の文字があり。
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拝殿は、「平成の大修理」中だった。
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御幣の向こうは写真である。
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代わりに、横の建物を拝殿として使用していた。
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入ると神輿とか宝物などが並んでいた。
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仮祭壇
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ご祭神の玉依姫の絵があった。
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本殿
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社殿の説明
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本殿は黒を基調とした厳かな造り。
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ご祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
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神紋は「十六弁八重菊」でした。
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神楽殿
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境内社の十二神社(一宮町内にあった12社)
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十二神社のご祭神と神社名一覧
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獲錨記念碑
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神木「いす」
私には、深大寺の「なんじゃもんじゃの木」で馴染みがあります。
この花の形が面白くて「なんじゃもんじゃ」となったそうです。
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招魂殿
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砲弾が飾って在り。
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「平廣常」顕彰碑
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橘樹(たちばな)神社(延喜式内社)/千葉県茂原市

20150927

鎮座地:千葉県茂原市本納738

9月25日(金)に、歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、旧上総国五社を訪ねました。
下図の7番から11番の神社で、橘樹神社、玉前神社、島穴神社、姉埼神社、飽富神社の順に参拝しました。
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朝から雨だったが、この神社に着くころ、雨が止んだ。

社号標
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社格等:上総国式内社(小) 橘神社、上総国二宮、 旧県社
創建:(伝)第12代景行天皇40年
概史:
*社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」とあり、この時祀られたのが由来とされる。

*国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

*中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。
・明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。

*本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が造営されるまで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていたという。また、境内の吾妻池はこの墳墓を掘った跡の穴であると伝えられる。                               

延喜式神名帳上総国の部分の写しを掲示しておきますが、この神社は「橘神社」と記載されています。
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参道には、石造神明型の一の鳥居をはじめとして、鳥居がたくさん並んでいる。
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天明5年(1785)建立の石造明神型二の鳥居
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寛保2年(1742)建立の石造明神型三の鳥居
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安永6年(1777)造立の石灯篭
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神橋
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四の鳥居
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和やかな感じの境内
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手水舎
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騎馬像がありましたが、誰の像か表示なし。
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社殿前に、狛犬が三組あり。
社殿から遠いほうから、文久3年(1863)造立の狛犬
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享保5年(1720)造立の狛犬
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年号不明だが、かなり古いと思われる狛犬
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銅板葺神明造の拝殿・幣殿
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社額
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拝殿・幣殿内部
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本殿(銅板葺入母屋造)
江戸時代の寛政12年(1800年)の造営
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彫刻が立派な感じだが、近づけない。
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本殿の社額は「橘神社」となっていた。
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ご祭神:弟橘比売命
相殿神:日本武尊(弟橘比売命の夫)、忍山宿禰(おしやまのすくね - 弟橘比売命の父)。
ご神体:弟橘比売命墳墓

神紋:「橘」
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弟橘比売命墳墓の前に手水舎あり。
寛延元年(1748)の手水鉢であった。
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弟橘比売命墳墓
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摂末社はいずれも末社。                                 
秋葉神社 (祭神:伊弉冉命、火産霊命)-天正年間勧請。  
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扉の桟の感覚が狭い上に、中に納められている社殿が一杯の大きさなので、全体が撮れない(泣)
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粟嶋神社 (祭神:少彦名命)-文禄年間勧請。
吾妻池の中にあり。
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吾妻池
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窟戸神社 (祭神:天手力雄命)-本納城落城とともに遷座。
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子安神社 (祭神:木花開耶媛命)-永禄年間に勧請。
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稲荷神社 (祭神:保食命)-創建以来鎮座。 
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時間が無くて、じっくり見られなかったが、吾妻池の傍に石碑群があり。
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茂原市指定天然記念物「本納橘神社社叢」があるのだが、時間が無いのと、天気が悪かったため足を踏み入れることが出来なかった。
昭和55年2月26日指定
神社裏側の森林は、高木、亜高木、低木からその下に生える下草まで全部そろつていて自然の姿に森林を放置した時どうなるかを学習するのに最適な自然林である。境内にこれだけの大木が自然の形に繁茂しているところは市内では他に見られない。
樹木の種類は、エノキ、タブノキ、ケヤキ、ウスノキ、ムクノキ、スダジイ等が多い。
神社裏の高所は人工の塚か自然の丘陵の一部かは明らかでないが神社の境内ということもあつて手を加えられていないので自然林の様相をよく残している。



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高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・高木神(たかぎのかみ)/日本の神々の話

20150924

この神は、狭山市の三柱神社の祭神として、おなじみである。
『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊神と書かれる。

天地のはじめ、天之御中主神・神産巣日神とともに高天原に成った「造化三神」の一柱である。
葦原中津国平定・天孫降臨の際には「高木神」という名で登場する。

抽象的霊格であるにもかかわらず、天照大神とともに高天原の重大事を主宰する神として登場する、「造化三神」のなかで独特な存在である。

「産霊(むすひ)」は、「ムス」は「苔むす」と同じで生産・生成を意味する言葉で、「ビ」は日・火のことで、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。女神的要素を持つ神皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる。
高御産巣日神は天孫系(皇室系)、神皇産霊神は出雲系の神と位置づけられる。

別名「高木神」は、名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。

『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)がいる。

天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千千姫命(たくはちぢひめのみこと)と結婚して生まれたのが天孫・瓊々杵尊であるので、高皇産霊神は天孫・瓊々杵尊の外祖父に相当する。

ここでちょっと長くなるが、『古事記』の「葦原中國平定」の巻の「天菩比神と天若日子」の段を紹介しておく。
(現代語訳)
天照大御神の仰せで、豊葦原の干秋長五百秋の水穂国は、わが子の正勝吾勝勝早日天忍穂耳命の統治すべき国である」 と、統治を御委任になって、御子を高天原からお降しになった。そこで天忍穂耳命が、降る途中で天の浮橋に立って仰せられるには、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、ひどく騒がしい様子だ」と仰せになって、また高天原に帰り上って、天照大御神に指図を仰がれた。
 そこで高御産巣日神と天照大御神の御命令で、天の安河の河原にあらゆる多くの神々を召集して、思金神に方策を考えさせて仰せられるには、「この葦原中国は、わが子天忍穂耳命の統治する国として委任した国である。ところがこの国には、暴威をふるう乱暴な国つ神どもが大勢いると思われる。どの神を遣わして、これを平定したらよかろうか」と仰せられた。そこで思金神やあらゆる神々が相談して、「天菩比神を遣わすのがよいでしょう」と申し上げた。それで天菩比神を遣わしたところ、この神は大国主神に媚びへつらって、三年たっても復命しなかった。
 そんなわけで、高御産巣日神と天照大御神が、また大勢の神たちに尋ねて、「葦原中国に遣わした天菩比神が、久しい間復命しない。こんどはどの神を遣わしたらよかろうか」とお尋ねになった。そこで思金神が答えて、「天津国玉神の子の天若日子を遣わすのがよいでしょう」と申し上げた。そこで天の真鹿児弓と天の羽羽失を天若日子に授けて遣わされた。ところが天若日子は、葦原中国に降り着くと、ただちに大国主神の娘の下照比売メを娶り、またその国をわがものにしようとたくらんで、八年たっても復命しなかった。
 そこで天照大御神と高御産巣日神が、また大勢の神たちに尋ねて、「天若日子が長い間復命しない。こんどはどの神を遣わして、天若日子が久しく逗留している理由を尋ねようか」と仰せられた。このとき大勢の神々と思金神が、「雉の、名は鳴女というものを遣わすのがよいでしょう」とお答え申しあげた時に、仰せられるには、「おまえが行って、天若日子に尋ねることは、『あなたを葦原中国に遣わした理由は、その国の荒れ狂う神たちを服従させ帰順させよ、というのである。それをどういうわけで、八年になるまで復命しないのか』と尋ねよ」と仰せられた。
 そこで鳴女は、高天原から降り着いて、天若日子の家の門前の神聖な桂の木の上にとまって、くわしく天つ神の仰せのとおりに伝えた。そのとき、アメノサグメがこの鳥の言うことを聞いて、天若日子に語っていうには、「この鳥は、その場く声がたいそう不吉です。だから射殺してしまいなさい」 と勧めた。すると天若日子は、天つ神の下された天の櫨弓と天の鹿児矢を執って、その雉を射殺してしまった。ところがその矢は、雉の胸を貫いて、さかさまに射上げられて、天の安河の河原に掛られる天照大御神と高木神の所に達した。この高木神というのは、高御産巣日神の別名である。それで高木神がその矢を取ってご覧になると、血がその矢の羽についていた。そこで高木神は、「この矢は、天若日子に与えた矢である」 と仰せられて、ただちに大勢の神たちに示して仰せられるには、「もしも天若日子が命令に背かず、悪い神を射た矢がここに飛んで釆たのだったら、天若日子にあたるな。もしも邪心を抱いているのだったら、天若日子はこの矢にあたって死ね」と仰せられて、その矢を取ってその矢の飛んで来た穴から、下に向けて突き返されたところ、天若日子が朝の床に寝ていた、その胸に命中して死んでしまった。これが返し失の起りである。またその雉はついに還らなかった。それで今でも諺に「雉のひた使」というが、その起りはこれである。

戸矢学氏が『縄文の神』で書いている解釈を載せておく。
さてそれでは本来の「ムスヒ」とは何か。
「苔生す」などの用例もあるように、芽生える、発生するという「産生」 の意味から、タカミムスヒは天岩戸開きを指示して夜明けをもたらし、またカミムスヒはオオナムヂを生き返らせたことから「蘇生」 の意味にまで至る。すなわち、万物の生成発展に寄与する力であり、神道の根元思想である。
ムスヒ神もアマテラス神も、ともに 「ヒ」 の信仰であることは言うまでもないが、アマテラスがあくまでも太陽の恵みを体現する 「日」あるいは「火」 であるのに対して、ムスヒはそれとは次元の異なる 「靈 (霊)」 によっている。これは「精霊」 のことであって、自然崇拝の本質であろう。
ちなみに、霊の旧字である 「靈」は、元々の漢字の成り立ちとしては雨乞いを意味する。「靈」という文字の象形は、地上で巫女が祈り、降り注ぐ雨を三つの器(多数の器) で受ける様子を表している。後に、神霊を降下させることそのものをもいうようになり、わが国では当初よりその意味で用いられた。
「ムスヒ (産巣日、産霊など)」が神名に含まれる神は、ムスヒの働きをする神々のことであり、神々の大本となる原初の神である。
皇居内の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿) の神殿には天神地祇および天皇守護の八神が祀られているが、八神のうち五神は「ムスヒ神」である。




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柏原太郎/吾妻鏡

20150923

9月18日(金)に、国立公文書館で『吾妻鏡』と『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧しました。
『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧したのは、いま梅原猛の「神々の流竄」を読んでいますが、その中で延喜式の「祝詞」を引用しているので、この際原本を手に入れておこうと思ったので。

『吾妻鏡』については、最近狭山市の「城山砦」の子供向けパンフレット作製に携わった際に、手持ちデータの整備もしました。
その中で、「柏原太郎」の名前が出てくる『吾妻鏡』については、いままで活字にされた翻訳本のコピーしか持っていなかったので、原本のコピーを手に入れよう、というわけです。

狭山市の史跡「城山砦」の歴史で、一番古い話として、柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。
柏原太郎の名は、『吾妻鏡』に源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人として名が載っています。

閲覧は、巻別に出来るようになっていましたが、不勉強で『吾妻鏡』の構成もわかっていなかったので、全冊閲覧としました。
全部で51冊となり、一度には30冊までというルールなので、二回に分けての閲覧でした。

国立公文書館に蔵書されているのは、以下の経歴のものです。
室町時代写本⇒紅葉山文庫(江戸城将軍の文庫)⇒明治期皇居内文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館

表紙
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原本(写本)の表紙画像
原本は重要文化財なので、画像で製本されたものとなります。
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このように、二枚を並べて1ページとしています。
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で、源頼朝の奥州藤原氏征伐は文治5年(1189)と判っていますから、目録から九巻であることがわかる。
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その該当する部分の記事がこれです。
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先陣の畠山重忠だけ特別扱いで、従軍五騎の名前まで書かれているため、結果として「柏原太郎」の名が確認できた。

その後は、鎌倉から進発した武将の名が、そうそうたる名前が続いています。
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どういうことが書かれているかというと、翻訳本の写しを載せましょう。
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その後、柏原太郎はどうなったかというと、従軍五騎のうち他の四騎については、畠山重忠と一緒に二俣川で討死にしたとか、記録は残っていますが、柏原太郎については記録がありません。

柏原太郎についての記録がありませんが、柏原郷については、寛喜2年(1230)に作成された「長沼宗政譲状」がある。
これは小山一族の有力御家人長沼宗政が嫡子の時宗に所領を譲るという内容だが、これに「武蔵国柏原郷」が載っている。

それで推理されるのが、柏原太郎は畠山重忠と一緒に滅び、有力御家人の長沼宗政が領地としてもらった、ということでしょう。
ちなみに、そのゆかりの子孫「小山氏」が柏原に現在も住んでおられ、そこには「小山判官朝政」にからむ「薬師縁起」の話も残っており、その宅地にあった不動堂を譲り受けて入間川の福徳院の不動堂としています。
(現在のお堂は新築されたもので、それ以前のお堂の話です。)

さきほどの、『吾妻鏡』の記事で、畠山重忠従軍五騎のあと、「鎌倉出御よりお供の輩」の中に「長沼宗政」の名も載っています。
赤の四角で囲った名前がそうです。
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(了)


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吾妻鏡/目録・系図

20150923

9月18日(金)に、国立公文書館で『吾妻鏡』と『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧しました。
『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧したのは、いま梅原猛の「神々の流竄」を読んでいますが、その中で延喜式の「祝詞」を引用しているので、この際原本を手に入れておこうと思ったので。

『吾妻鏡』については、最近狭山市の「城山砦」の子供向けパンフレット作製に携わった際に、手持ちデータの整備もしました。
その中で、「柏原太郎」の名前が出てくる『吾妻鏡』については、いままで活字にされた翻訳本のコピーしか持っていなかったので、原本のコピーを手に入れよう、というわけです。

所期の目的の部分を撮影はしましたが(別記事)、せっかくなので、今後の参照のため目録と、巻初に載っていた「系図」も撮影してきたので、ここに紹介します。

『吾妻鏡』について:
(Wikipediaから)
鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。
編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。

なお、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。

閲覧は、巻別に出来るようになっていましたが、不勉強で『吾妻鏡』の構成もわかっていなかったので、全冊閲覧としました。
全部で51冊となり、一度には30冊までというルールなので、二回に分けての閲覧でした。

国立公文書館に蔵書されているのは、以下の経歴のものです。
室町時代写本⇒紅葉山文庫(江戸城将軍の文庫)⇒明治期皇居内文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館

表紙
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原本(写本)の表紙画像
原本は重要文化財なので、画像で製本されたものとなります。
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このように、二枚を並べて1ページとしています。
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目録
このようになっていて、年号がわかればお目当ての巻がわかるようになっています。
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鎌倉幕府将軍次第
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三代のあと一時、北条政子が将軍となり、その後は京都から公家の子供や親王を、お飾りとして据えた。
大人になってくると自立心から北条政権と軋轢が生じてきて、首を挿げ替えるといった推移が続いた。
北条政子が「平政子」と書かれたのは、三代で源氏の政権は終わったということを示している。
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源氏の系図
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歴代の鎌倉幕府執権
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平氏の系図
北条時政、政子の名前があり。
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中世の、特に東国武士団の歴史については、一つのテーマとして抱いているので、何かにつけ『吾妻鏡』の記述を参照するようにして、やっていきたいと思っています。


(了)


多氣比賣(たけひめ)神社(延喜式内論社)/埼玉県桶川市

20150921

鎮座地:埼玉県桶川市篠津 58

16日(水)に個人的に巡拝している「武蔵国式内社めぐり」で、さいたま市飯田の「足立神社」、さいたま市浦和の「足立神社」、そしてこの神社の三社を回りました。

延喜式神名帳記載の足立郡4座のうち「多氣比賣神社」に相当する論社は二社あり、この神社の他に、さいたま市浦和の氷川女体神社が比定されています。

社号標
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参道をちょっと入った所に鳥居があり、その横の有名な大シイが目立ちます。
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鳥居の前に、天保4年造立の社号標があり。
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ご由緒
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木製両部鳥居
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社額
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多気比売神社の大シイ
市指定天然記念物となっている「多気比売神社の大シイ」は、樹齢約600年と推定され、その規模は以下のとおりである。
樹高 13m 根廻り 6.7m
枝張り 17m(南北) 14.1m(東西)
境内にある他の樹木とともにこの大シイは、鎮守の森として篠津地区の人々の信仰と親愛の情によって守られ、今なお、五月末ごろには黄色い房状の花が咲き、やがて小さなシイの実をつける。
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樹齢約600年だけあって、すごい。
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手水舎
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手水舎と社殿の間には、ご神木のスダジイがあるが、この木もかなりの巨木です。
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拝殿
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向拝部の彫刻は、素晴らしい。
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拝殿の社額は「姫宮大明神」
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拝殿内部
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拝殿の前に狛犬が無かったな、と思っていたのですが、帰ってから写真を眺めていたら、拝殿の中に狛犬が畏まっているのを発見!
内部が暗くて気が付かなかった(汗)
けっこう古いものだと思う。
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拝殿内の奉納額
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本殿
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ちゃんと竹をはさんであり。
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本殿の裏側の中心下部に小さな穴が開けられている。
これは、案内リーフレットによると、「神さまが受けとめた参拝者の穢れや、災危を後ろの穴から追い出してあげるために開けられている」という口伝があるそうです。
この話は、初めてでした。
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社殿の後ろには、鬱蒼とした竹の林があり。
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拝殿の横にも、大きなシイの木があり。
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祭神は、豊葦建姫命

神紋は、一つは「三つ巴」ですが、拝殿内の垂れ幕は「右三つ巴」、大棟瓦のは「左三つ巴」である。正解はどっちだろう。
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もう一つは「十六弁八重菊」
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境内社は社殿手前左側に手前から天満社、稲荷社が鎮座。
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天満社
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稲荷社
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本殿の裏には三峯神社。
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参道の途中にあった石灯篭が明和3年(1766)造立のもの。
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「姫宮大明神」とあり。
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「武州足立郡篠津村」とあり。
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享保8年(1723)の力石
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天保12年(1841)建立の庚申塔があり。
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ラグビーワールドカップ・南アに勝利!

20150920

私はラグビーの記事は普段書きませんが、1987年12月の「雪の早明戦」以来のラグビーファンです。
といっても、ここ数年は歴史にどっぷりハマってしまって、ちょっと関心が薄れていました。

今回の対南ア戦は、2年前からそれがわかっていて、南アを倒すために練習を重ねてきたと、いつだかのニュースで云っていたので、どのくらい善戦するのかな、という期待だった。

昨夜は徹夜できる状況ではなかったので、録画を設定して寝た。
今朝起きて朝食食べてから、まず早送りして結果を確認したら、本当に驚いた。
なんと!!!
勝ったではないか。

それから、最初から見始めた。
結果がわかっているのに、全然目を外せない状況が続く。
追いつ抜かれつ・・・・・・・
一番離れた点差が、南アの7点リード。
ワントライ・ワンゴールの点差でしかない。

日本の南ア対策はすごかった。
ボールを持ったデカい相手に、二人タックル。
これで次々と相手を倒していた。
前半の途中から、明らかに南アの選手は、「こんなはずでは・・・・」という顔になっていた。

それでも、ゴール近くのモールには、やられた。
これで二回トライされた。
デカいのが密集して押してくるのだから。

南アがリードして、日本が追いついて・・・・・・
その展開で推移して。

ノーサイド寸前で南アが3点リード。
そして、日本にゴール前の最後のチャンス!!
ペナルティキックの場面もあったが、それでは同点でしかないと、トライを狙った。
ギャンブルだ。
最後にトライして、逆転してノーサイド!

本当にやってくれました(嬉)

おめでとう!!!!!



析(裂)雷神(さくいかづちのかみ)/日本の神々の話

20150920

八の雷神(やくさのいかづちがみ)の一柱
『古事記』では「析雷」と、『日本書紀』では「裂雷」と記されている。

『古事記』に記された神話の中では、火之迦具土神を生んだ事で女陰を焼いて死んだ妻の伊邪那美命を追って伊邪那岐命が黄泉の国に下った際、伊邪那美命は黄泉の国の食物を食べた事により出る事が出来ないと伊邪那岐命に応じた。しかし自分を追って黄泉まで来た伊邪那岐命の願いを叶え地上に戻るために黄泉の神に談判すると御殿に戻った。その後に何時まで経っても戻られぬ伊邪那美命の事が気になり、伊邪那岐命は櫛の歯に火を点けて御殿に入った。
そこで伊邪那岐命は、体に蛆が集かり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に析雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)が生じている伊邪那美命の姿を見たとされる。


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足立神社(延喜式内論社)/さいたま市浦和

20150920

鎮座地:さいたま市浦和区上木崎5-11-1

16日(水)に個人的に巡拝している「武蔵国式内社めぐり」で、さいたま市飯田の「足立神社」、さいたま市浦和の「足立神社」、そして桶川市の「多気比売神社」の三社を回りました。

最初のさいたま市飯田の「足立神社」の次に訪ねたのがこの足立神社ですが、延喜式神名帳記載の「足立神社」に相当する論社は4社あり、この社の他に、さいたま市飯田の足立神社、鴻巣の久伊豆神社、そして大宮宮原の加茂神社が論社となっています。

社号標
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当社の社名は、江戸期まで高塙明神社であった。この「高塙(たかはな)」というのは、中世、浦和市から大宮市にまたがる「高塙郷」であると考えられ、この郷の鎮守として祀られたのが当社であると思われる。この時期、当社に関与した氏族は、当郷を開発した在郷地頭の高塙(高鼻)氏であろう。高塙氏の初見史料は、『吾妻鏡』文治五年(1189)七月十九日条の「高鼻和太郎」であり、ほかに浦和市本太鎮座の氷川神社に伝存する宮殿の宝徳三年(1451)九月二十四日の墨書銘「大檀那高埇左衛門盛影」「地頭たかはな殿」がある。
『風土記稿』上木崎の項には「高塙明神社 祭神猿田彦命、當村及び下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守なり、境内に観音堂あり」とある。これを見ると、祭祀圏は中世の高塙郷から縮小したものの、江戸期も当郷の有力社として存在していたことがうかがえる。
祀職は、大宮市高鼻鎮座の氷川神社社家『東角井家日記』文化七年(1810)十月の記録によると、「木崎村高鼻村大明神禰宜村田近江殿」とある。村田近江は、吉田家配下の氷川神社社家触れ下であった。
明治期になると、上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は、当社を延喜式内社の足立神社であると主張し、社名変更を行った。(「埼玉の神社」より)

社号標と共に、参道入り口の幟支柱が古い感じだったので、見たら嘉永2年(1849)造立だった。
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民家に挟まれながらも、参道がまっすぐ長く延びている。
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一の鳥居
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二の鳥居
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ようやく神域となる。
玉垣がきれいに整備され、よく管理されたお宮という印象。
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入り口に三の鳥居。
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三の鳥居前の石灯篭は、嘉永3年(1850)造立。
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三の鳥居前の狛犬は、平成15年と新しい。
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三の鳥居は、大正12年建立の石造明神型。
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鳥居から社殿までは、広々とした空間が広がっている。
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桜やモミジが植えられていて、季節にはいい感じになることがわかる。
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手水舎が二つ並んでいる。
合祀されたものだろう。
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大正3年の百度石
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拝殿
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重厚な屋根
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軒先瓦には、「防火」の意味を持たせた「流水三つ巴」の紋が続いている。
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向拝部分
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本殿は、瑞垣とともに金網を張ってあるため、とても見づらい。
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隙間から本殿を。
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流れ造りの本殿
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背後からの本殿
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祭神:猿田彦命
相殿:天鈿女命、天照皇大神、倉稲魂命、別雷命、菅原道真公、木花咲姫命、応神天皇、大山祇命、事代主尊、清和天皇

神紋は、「右三つ巴」
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拝殿前の、明治29年奉納の石灯篭が大事に保護されていた。
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神楽殿
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境内社は、社殿に向かって右側に三社。
八雲神社(素戔嗚命)、稲荷神社(宇迦之御魂神)、浅間社(木花開耶姫命)。
全部同じ社殿を三つ並べていました。
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社殿に向かって左側に二社。
境内社神明社(天照大神)、風天社(風天)。
こちらも、まったく同じ社殿を二つ並べてありました。
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風天社の「風天」という神ですが、仏教における天部の一人で、十二天の一天。風を神格化したもので、インドのヴァーユが仏教に取り入れられたもの。
形象は、腕は2本で甲冑を着て片手に旗のついた槍を持ち、風天后・童子を眷属とするものがある。
両界曼荼羅や十二天の一尊として描かれるほかは、単独で信仰されることはあまり見られない。
ということなので、珍しいと思います。


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足立神社(延喜式内論社)/さいたま市西区飯田

20150917

鎮座地:埼玉県さいたま市西区飯田 54

16日(水)に個人的に巡拝している「武蔵国式内社めぐり」で、さいたま市飯田の「足立神社」、さいたま市浦和の「足立神社」、そして桶川市の「多気比売神社」の三社を回りました。


最初に訪ねたのがこの足立神社ですが、延喜式神名帳記載の「足立神社」に相当する論社は4社あり、この社の他に、さいたま市浦和の足立神社、鴻巣の久伊豆神社、そして大宮宮原の加茂神社が論社となっています。


社号標
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足立神社は古代における殖田(植田)郷に鎮座し、この殖田郷を本拠としていた豪族足立氏が奉祀していた神社であると考えられる。ただ長い年月で足立氏は衰微し、江戸期には足立神社と称する社が多数にわたる状態となり、 「新編武蔵風土記稿」では足立氏の子孫と伝える植田谷本村の名主であった小島勘太夫の屋敷内で祀っていた足立神社が式内社であるとされている。
そして、明治40年に政府の合祀計画により近隣の村社、無各社計30社を合祀。この中に有力な式内社「足立神社」であった植田谷本村の足立神社、水判土村の足立神社も含まれ、この合祀を機に氷川神社から足立神社と社名も改められた。
その詳しい内容は、境内に立てられた説明板によって明らかです。
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入り口
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一の鳥居(神明型)
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手水舎
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二の鳥居(明神型)
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狛犬は新しいものだった。
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入母屋形の拝殿
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社額
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拝殿内部
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朱色が鮮やかな本殿
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祭神は、説明板にてあきらかなように猿田彦命を含む24柱となります。

神紋は「右三つ巴」
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境内社の十二所権現神社
十二所権現とは、まず熊野三社の主祭神として祭られる、本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉(はやたま)神、那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)の三神。
それから五所王子(小守の宮・児の宮・聖の宮・禅師の宮・若王子
)、および四所明神(一万の宮または十万の宮・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子)のこと。
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境内社といいながら、前の説明のように他にあったときには社殿とされていただけあって、とても立派な構造の社殿となっています。
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普通は、神社は「鎮守の森」といわれるように、鬱蒼とした森となっていることが多いですが、ここは氏子の皆さんによって「アジサイ園」として整備されていて、とても明るい空間になっています。
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時期になると、アジサイに埋もれた社殿となりますね。
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いまの季節でも、ほんのわずかですが花が咲いていて吃驚しました。
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金屋子神(かなやごかみ)/日本の神々の話

20150916

中国山地のたたら場では必ず金屋子(かなやご)神を祀っている。
金屋子神の本社は島根県安来市広瀬町西比田にあるが、金屋子神の信仰は中国地方を中心に九州、四国の一部から遠く関東、東北の一部まで広がっている。
現在、製鉄などに関する人たちが祀る神社の祭神は金屋子神ではなく、金山彦命、金山媛命になっていますが、本来は金屋子神である。
金山彦、金山媛が祀られたのは恐らく近世以降で、記紀神話で書かれた金山彦命、金山媛命の権威を高めるためだったと思われます。

金屋子神は安部氏によって代々祀られている。安部氏は神官としてのみならず、たたら技術の巡回指導も行ったとのことです。

宮崎アニメ「もののけ姫」の舞台がたたら製鉄の里でありましたが、まず登場する「エボシ御前」については、奥出雲菅谷たたらの中に祀られている金屋子(かなやこ)神が宿る岩が烏帽子岩である。
もののけ姫がモロの君に乗っている姿ですが、これは、奥出雲一帯で見られる絵図「金屋子神乗狐掛図」にそっくりです。メーキングビデオでも、そのことが説明されている。
この絵図は、旧暦の11月8日のふいご祭には、家の床の間に飾るのが習わしだそうです。
狐と犬神(あるいは狼)の違いはありますが、構図は全く同じです。
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金屋子神には、色々な面白い話がある。(以下Wikipediaによる)

中国地方を中心に、鍛冶屋に信仰される神。一般には女神であるとされるが、男神とする説もある。金山彦・金山媛や天目一箇神と同一、もしくは何らかの関係がある神とされるが、全く別神とする説もある。

金屋子神の総本社とされる島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社には、以下の伝説がある。
高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。各地で金屋子神は自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。

金屋子神の特徴としては:
自分あるいは部下の村下が、麻につまづいて転んで死んだので麻を嫌うと言う。また、犬に追いかけられ、蔦に取り付いて登って逃れようとしたが、蔦が切れたので、落ち、犬に咬まれて死んだので、犬と蔦は嫌いとも言う。さらに、犬に追いかけられた時、みかんの木に登って、あるいは藤に掴って助かったので、みかんと藤は好むらしい。桂は神木。

死の穢れには無頓着どころか、むしろ好むとされ、たたら炉の周囲の柱に死体を下げることを村下達に指導したと言う。また、死骸を下げると、大量に鉄が取れるようになったとも。
女性を極端に嫌う。自分が女性なので、嫉妬であると言われているが、この為、鍛冶関係の作業場には女性を入れない掟があったという。また、昔の村下は、折口信夫の様だが、女性が入った後のお湯を使ったりすることもしなかったと言われている。
上記は、伯耆国日野郡宮市の住人 下原重仲が著した『鉄山秘書』にも詳しく書かれている。

しかし一方では『街道をゆく』で司馬遼太郎等が述べているように、中世の悪文と『鉄山秘書』等を見なし、『島根県口碑伝説集』などにみられるような古事記との関連性をいうものもある。以下にその一例を示す。
比田村には、金屋子神社がある。伊邪那美命が、迦具土の命を生み給うてから、病に罹られ吐物から金山毘古神、金山毘売命を生み給い、遂に神避り給うたことを「古事記」に記され、「日本書紀」には金山の意味を、枯れ悩みこし、悶熱懊悩因為吐の文字があるが、金屋子神社は、社号其の物が己に枯れ悩み児の意義を現し、加之金山毘古、金山毘売の二柱の神を併せて祭って居るところを見ても、女神終焉の地たることを想像される。(東比田小学校長辻勝太郎氏報)

金屋子神の特徴の解釈としては、
陰陽五行説より、桂(土が2つ字の中にある)や死体は土性であり、土性は金性を生ずることから、鉱山・鍛冶の歩留まりが良くなるからではないか、との説がある。

金屋子神社より西方約40kmに石見銀山があり、当地に佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)があるが、この『佐毘売』は、金屋子神の別名ではないかと言われている。『さ』、『さひ』は鉄を意味していると推測されている。

尚、饒速日尊や物部氏と関係が深いとされる三瓶山は古来、佐比売山と呼ばれていた。また、三瓶山の西約5kmに、石見国一宮で、石上神宮と表裏一体であると言われる物部神社が鎮座する。

また、岡山県英田郡西粟倉村に伝わるタタラ唄に『金屋子神の生まれを問えば、元は葛城 安部が森』との言葉が残る。


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八幡神社鹿子(しし)舞

20150915

9月13日(日)に、歴史クラブ行事としてこの鹿子舞を見学しました。

この八幡神社は鎌倉街道沿いにあり、新田義貞が鎌倉に攻め上がるとき、この神社に参拝し、「新田義貞駒つなぎの松」が残っています。

この鹿子舞は、埼玉県内全域で行われている一人立ち獅子舞のひとつであり、太鼓を叩きながら三人一組になって踊る三匹獅子舞のかたちをとっています。
土日の両日にわたり、鹿子舞の一行が地区内にある神社・寺院をまわって、舞いを奉納しながらねり歩きます。
土曜日は、12時に八幡神社を出発、「天満天神社」、「水神社」、「子の神社」、「清水八幡」、「諏訪神社」、「長栄寺」と廻り、17時ころ終了。
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日曜は、12時に八幡神社を出発、「旭愛宕社」、「峰愛宕社」、「白山神社」、「八幡神社」の順です。
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八幡神社で舞うのは日曜だけなので、この日に行事の催行としました。
そして白山神社で待ち構えて、白山神社と八幡神社で舞を見ることにしました。

「鹿子舞」は、昔は「獅子舞」と書かれておりましたが、明治時代の初め、同社の別当寺(神仏分離以前に神社に設けられた寺院)であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、維新政府の神仏分離政策により獅子は仏教に属すものとしてとがめを受けました。このとき土地の機転者が、「私のところは獅子でなく鹿子である。鹿は神の使いである」といって禁を免れたというもので、それ以来、鹿子舞と書くようになったとのことです。

白山神社では境内が狭いため、お囃子と獅子舞の人たち、関係者しか入れず、見物人は道路からの見物となります。
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獅子舞が終わって、休憩してから行列で八幡神社に向かいます。
金棒を先頭に、神官、氏子役員、山伏、花笠、歌役、笛役、天狗、世話人、そして3頭の鹿子と続きます。
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私たちは、近道をして行列が到着するのを待ちます。

行列が八幡神社に到着。
石段上の鳥居のところでほら貝が吹かれ、行列は急な石段を上がります。
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鹿子は、石段の途中で、草鞋を履き替え、服装を整え、「砂糖水」を飲んで、お浄めをして鹿子舞に備えます。

境内の奉納場では、待っている間、囃子方の一人が珍しい「鼻笛」を披露してくれました。
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舞うのは3匹の獅子と天狗。
演目は「竿がかり」から入りました。
舞は、女獅子(金の獅子)をめぐって 若い獅子(赤い獅子)と年上獅子(黒い獅子)が争う、というのがメインのストーリー。
それに天狗がちょっかいを出します。

鹿子の袴はかまを見るとヘビの鱗うろこ模様が染め抜かれていますが、これは雨乞あまごいや五穀豊饒を祈願したためと考えられています。

動画を撮ったのでそれを見てください。
長いので、前半と後半の二つに分けてアップしました。

動画(前半)を見る



動画(後半)を見る



いま、どういう舞をしているかをマイクで解説をしてくれたので、判りやすくて良かったですね。
満足しました。


この鹿子舞の特徴として、「各盞(かくさん)の儀」と呼ばれる儀式が伝承されているところにあります。これは奉納舞をはじめる前と終わりに行うもので、「来年の同月同日の何時まで」と次回の儀式が必ず行われるように約束することをいいます。

歴史クラブが見学にきているというので、進行役の方が喜んでくれて、保存会会長様などのご厚意で、特別にその場に入れていただき、「各盞(かくさん)の儀」を見学することが出来ました。
神事ということで、ケーブルテレビも来ていましたが、「各盞(かくさん)の儀」だけはカメラが入れてもらえなかった状況の中、本当に思いもよらぬご厚意がとても嬉しく、感謝しつつ拝見しました。
とても貴重な経験をさせていただきました。

(了)


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日野・八坂神社

20150914

鎮座地:東京都日野市日野本町3丁目14−12

9月11日(金)に、歴史クラブ行事「新選組の故郷・日野を歩く」で、日野宿本陣跡の次に、この日最後に立ち寄りました。
ここには近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてある「天然理心流奉納額」があるので、コースに入れたものです。

鳥居
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鳥居の前に、「天然理心流奉納額」の説明があります。
天然理心流の創始は寛政元年(1789)ころと推定されています。
創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、二代目三助は戸吹(現八王子)、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていました。
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当社の創立年代は不詳であるが、むかし日野本郷の多摩川の流れに沿って土淵という深淵があり、それでこの付近を土淵の庄と云ったが、あるとき多摩川洪水の後、数夜にわたってその淵に何か怪しい光るものがみえたと云う。里の老翁がこれを拾い上げたところ、金色燦然とした牛頭天王の神像であったため、里人は歓喜してこれを勧請し、祠を建立、鎮守として祀ったのが当八坂神社の起源と云われ、五穀豊穣・疫病除け・子孫繁栄に霊験無双の神なりとしてある。
本殿は、寛政一二年(一八〇〇年)に完成したもので、様式一間社造り、屋根は流れ造りで、正面に千鳥破風・軒唐白木彫りの彫刻垂木の組物等、建築技術の粋をつくした絢爛華麗な江戸後期の典型的な社殿(本殿)建築である。この本殿には、安政五年(一八五八年)に天然理心流近藤周助の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている。
例大祭は、毎年九月、盛大に行われ、特に「千貫みこし」とよばれる神社神輿の渡御は都内、近県でも有名な神事で、絢爛豪華な祭絵巻が繰り広げられている。(境内掲示より)

鳥居をくぐると、広々とした空き地が広がっていて、その一隅に社殿がある。
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手水舎
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大正4年造立の狛犬
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社殿
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本殿
本殿は、棟札により寛政12年(1800年)に再建されたもので、大工棟梁は武蔵国大里郡上吉見領村の須長伊右衛門源国信・織江源信安父子であることがわかる。一間社々殿としてはかなり大規模なもので、間口二間・奥行二間半・棟高五間・総欅造り・流造りの正面屋根に千鳥破風と軒唐破風を設け、建物の壁面は床上・床下ともに中国故事をはじめ、昇龍降龍・牡丹に唐獅子・波に鯉等の浮彫り、透彫り装飾を取付け、また柱・梁・貫及び高欄にいたるまでその木部表面に獅子頭・龍頭・獏頭の木鼻、葡萄と波・菊花・牡丹等の浮造り・透彫りの文様を彫るなど、きわめて装飾的な社殿となっている。ただし、すべて素木で彩色はない。神社の記録によれば、本殿両扉・南側両大壁の彫物などは、明治3〜5年に仲井の彫師平野治助によって修理された。
郷村の鎮守本殿としては、規模もかなり大きく、その華麗な彫刻装飾は、時代の好みを表わす力作で、江戸後期における神社建築・装飾彫刻の粋を集めた優れた作品である。なお現在本殿は神明造りの覆屋で保護されている。
構造形式:一間社流造り、正面千鳥破風及び軒破風付き、柿葺(日野市教育委員会掲示より)

この本殿は拝殿を兼ねた覆屋の中にあり、拝殿に設けられたお賽銭の落とし口から、辛うじて本殿の正面が覗けるのみでした。
華麗な彫刻装飾をぜひ見たいものです。
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本殿の前向かって右には、鏡と玉がついた真榊と旗があり。
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本殿の前向かって左には、剣がついた真榊と旗がありました。
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祭神は素盞嗚尊
相殿神が櫛御気野命、倉稲魂命、大山咋命

神紋は、「祇園守り」と「右三つ巴」でした。
「祇園守り」は京都八坂神社と同じ神紋。
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続いて境内社です。

蚕影神社
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蚕影神社の前面に、二つの神像の大きなポスターが貼ってあった。
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山王社(大山咋命)
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「甲州道中分間延繪図」の説明があり。
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筆塚
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新選組の故郷・日野を歩く

20150913

9月11日(金)に、歴史クラブ行事で参加しました。
最初の訪問地は、土方歳三の生まれた地である石田村にある「石田寺」で、モノレール万願寺駅から歩きました。
石田寺の周辺は、ほとんど「土方」姓のお宅でした。

【石田(せきでん)寺】
宗派は真言宗、高幡山金剛寺の末寺。新選組副局長土方歳三が生まれた石田村「いしだむら」にあります。多摩川と浅川の合流地点にあるこの寺の起源にも川の流れが関っています。
寺伝によると、南北朝時代の康安元年(1361)吉祥坊慶興という僧が建立したものの、永和3年(1377)頃から衰えて一時は廃寺となった場所に、百数十年を経た天文13年(1544)7月9日、多摩川に大洪水が起こり、一体の観音像が石田に流れ着きました。それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり、文録2年(1593)に慶心という僧が一宇を建立、石田寺と号したといいます。

山門
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大きなカヤの木の下で説明を聞く。
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石田寺の境内に入ってまずは目を引かれるのは、日野市の天然記念物にも指定されているカヤの木です。目通りの太さは4.5m、高さ26m、その樹齢は400年以上、または600年かともいわれています。
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本堂
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カヤの木に隣り合って建てられているのが、現在の石田寺再興のきっかけになった十一面観音像を安置している観音堂です。
本堂とは向かい合い、北向きに建てられていることから北向観音とも呼ばれて、古くから勝負運に強く、病魔退散、子育ての北向観音として知られています。
北向観音は、お厨子の中に入っていて見ることはできなかった。
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カヤの木の下を墓所に進むと右手に「土方歳三義豊之碑」が立てられています。これは、早くして両親をなくした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄、喜六の曾孫にあたる土方 康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したものです。
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土方歳三の墓所
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戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」。土方家の菩提寺は高幡山金剛寺(高幡不動)であり、歳三の位牌も金剛寺本堂の大日堂に納められています。
土方家の墓所は金剛寺の末寺である石田寺にあり、ここに土方歳三義豊の墓石も立てられている。
右側が土方歳三の墓石
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献花の絶えることはないそうです。
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【石田村名主 伊十郎屋敷】
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【土方歳三資料館】
この日は開館日でないため、入れず。
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土方歳三銅像と資料館
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また、万願寺駅に戻りモノレールで高幡不動駅を降りて昼食。
満腹で気持ち良く、高幡不動にお参りしました。

【高幡不動尊】
ここには、既に2回参拝しています。

最初の参拝は、「関東36不動めぐり」で2010年12月に。

その時の記事を読む


それから2011年11月の「萬燈会」に。

その時の記事を読む


さて、今回ですが、山門がすっぽりと囲われていて工事中。
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土方歳三銅像の前で記念写真を撮りました。
この銅像はとても男前ですね。
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ここで説明を受けてから、自由行動。
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土方歳三銅像の横の「近藤勇・土方歳三顕彰碑は、説明を読むと、書は幕府典医頭・松本順、篆額は京都守護職会津藩主・松平容保だった。
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境内をのんびりと散策。
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不動堂にはお参りしました。
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五重塔の下にある休憩所で、しばらく休憩。
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購入した冊子に載っていた「新選組まつり」の写真を載せておきましょう。
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集合して、高幡不動駅前から日野市役所前までバスに乗り、JR日野駅周辺の関連地をまわりました。
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【新選組のふるさと歴史館】
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壁入り口前の絵は、多摩川と浅川でしょうね。
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このホールは撮影OK
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この椅子に座って土方歳三と記念写真。
山家さんと撮りあいました(笑)
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展示はとてもよかった。
今までの企画展の簡単な資料も、無料で置いてあったので、ずいぶんと資料を入手しました。
購入したのは、「新選組誕生前夜」と「中山道板橋宿(新選組の軌跡を辿って)」。

【宝泉寺】
宝泉寺は、臨済宗建長寺派の禅寺です。開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、創立は元徳年間(1330年頃)で、当初は姥久保(現新町、中央高速が通るあたり)にありましたが、火災にあい、その後、現在の地に再建されたといわれています。

山門
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本堂
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本堂の奥に、井上源三郎顕彰碑が建てられています。
新選組六番隊長・副長助勤でした。
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墓地の奥まった所に井上家の墓所があります。墓所内には新選組六番隊長・副長助勤井上源三郎(戒名:誠願元忠居士)の墓碑が建てられています。
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【大昌寺】
浄土宗知恩院派三鷲山鶴樹院大昌寺。
慶長7年(1602)創建。新選組最大の支援者だった佐藤彦五郎と妻ノブ(歳三の実姉)の墓所。日野宿の時の鐘などがあります。

山門
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本堂
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新選組を支えた佐藤彦五郎、そして土方歳三の姉ノブが眠る佐藤家の墓所。
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黒みかげ石の墓誌に、名がある。
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【日野宿 問屋場、高札場跡】
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【日野宿本陣】
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建物は、さすがにどっしりとしている。
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内部
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鎧兜があり。
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雪見障子から庭。
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このあと、近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてある「天然理心流奉納額」のある「八坂神社」に寄りましたが、それは別の記事とします。


続き「日野・八坂神社」記事を読む


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延喜式神名帳

20150905

3日(木)に、歴史クラブの仲間である和光さんと池田さんに誘われて、国立公文書館に行きました。
結局午後には国会図書館にも回りました。
和光さんは、狭山市周辺のお茶畑が明治、大正、昭和でどう推移しているか地図で確かめたい、池田さんは、「新編武蔵風土記稿」の原本(浄書本)の挿絵がずいぶんと綺麗なので、それを撮りたいとの事でした。
公文書館は閲覧した文書を、持参したカメラで撮ることが出来るそうで吃驚しました。

それで、私は現在「式内社めぐり」をしているのですが、式内社のリストは、ネットで入手したものです。この際、「延喜式神名帳」の原本(写本)を閲覧し、撮影することにしました。
公文書館で登録したあと、パソコンで検索して探すのですが、「延喜式神名帳」では出せなくて、「延喜式」しかリストに出ない。
職員の方に確認したら、やはり「延喜式」全部を閲覧することになりました。
45巻丸々です(笑)
当初は「武蔵国」くらいの範囲を撮影すればいいかなと思っていましたが、欲が出て「目録」、「序・第一巻(神祇)」、「第九巻神名(上)」、「第十巻神名(下)」を撮影しました。

「延喜式」一冊目の「目録」
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「延喜式」の構成は、「格巻」と「弐巻」となっている。
「神名帳」は弐巻の第九、第十です。
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弐巻の五十まであり、目録まで含めて45冊となっています。
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延喜式「一」
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「序」
「紅葉山本」の印がありますが、これは江戸城の紅葉山にあった文庫で、江戸時代、幕府将軍のために江戸城内紅葉山に設けられた文庫(現代における図書館)。「紅葉山文庫」の名称は明治時代以降に用いられたもので(現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)、江戸時代には単に「御文庫」と呼ばれた。
明治維新後は幕府の崩壊、江戸城の接収にともない、紅葉山文庫は太政官の管轄に移され、宮城内の書庫に保存された。のちに内閣文庫に継承される。昭和46年(1971年)、総理府の附属機関として国立公文書館が設置された(現在は独立行政法人)のにともない、他の内閣文庫本とともに移管、一般公開された。
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「格巻第一(神祇)」は、宮中の祭事を記したもの。
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延喜式が発行されたのが延長5年(928)です。
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延喜式「九」
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延喜式弐巻第九、神明上。
延喜式に記載された天神地祇(神様)は総数3,132座、神社は2,861社となります。
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まず宮中神、36座からはじまっている。
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第九、十の、いわゆる「神名帳」の部分は、全国の全社を撮影しちゃいました(笑)

「武蔵国」44座の部分を載せます。
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武蔵国最後の「みか神社」は、PCで活字が出なくて、皆さんを泣かせています。
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「延喜式弐巻第十、神明下」の最後は、「對馬嶋29座」です。
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この写本は、文亀3年(1503)に作られたことがわかる。
応仁の乱が納まった頃、これから戦国時代に突入していく頃です。
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池田さんは、結局挿絵だけでなくて、本文もせっせと撮っていました。
私ものぞいて、ずいぶんと違うものだとビックリしました。
私も、城山砦と梅宮神社の挿絵を撮りました。

池田さんが閲覧していたのは、こういうものですが、「大学蔵書」と「浅草文庫」の印があります。
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徳川幕府学問所から浅草文庫に移ったものですね。
浅草文庫(あさくさぶんこ)とは、徳川幕府の学問所と将軍の紅葉山文庫の書籍を蔵書とした、明治初期に東京で開設された明治期の公立図書館。
明治政府は旧幕府から接収した書籍類を太政官や各大学へ分割して引き継いだが、文部省博物館(本省機構かつ展示施設、現東京国立博物館)はこれらを1か所にまとめて公衆の閲覧に供することとし、(明治5年)に日本最初の近代的公立図書館として「書籍館(しょじゃくかん、図書館の古称)を湯島聖堂(大成殿)に開設した。
1874年(明治7年)になり明治政府は書籍館閲覧室となっていた大成殿大講堂を会議場として利用するため、当時は太政官博覧会事務局管轄下となっていた書籍館を閉鎖し、蔵書を浅草蔵前の旧浅草御蔵の米蔵に移した。そして同地に閲覧所を新築し翌1875年(明治8年)に開館した。
それから、現東京国立博物館か内閣文庫となり、内閣文庫にあったものは、現在は国立公文書館に保存されている。

現在歴史クラブの「新編武蔵風土記稿勉強会」で使用しているのは、雄山閣版です。
そこに出てくる城山砦周辺の挿絵は、こういうものです。
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「大学蔵書-浅草文庫」本の同じところの挿絵
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城山砦周辺がこのように違う。
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新編武蔵風土記稿で「義貞砦跡」と言われているところもずいぶん違う。
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これで、一応池田さんと私は初期の目的を果たしましたが、和光さんは満足いく地図が無かったようです。
それではと、お昼を食べてから国会図書館に三人で行くことにしました。

国会図書館では、登録するのにちょっと時間がかかりましたが、これで3年間は有効なカードが手に入りました。
ただ、こちらはカメラは持ち込み禁止です。
欲しいのは複写してもらうことになります。
和光さんは、所期の目的を達せた様です。

私も地図室で物色し、伊能全図(大)のうち4枚を複写することが出来ました。
パッと目についた能登半島と石川富山の部分を4枚複写。
この場所は、伊能忠敬記念館の展示では、はるか上の方にあってよく見えないので、ひっかかっていたんですね。
伊能図(大)一枚をA3で4枚に分割してコピーすることになりました。
これは、とても嬉しかった。
次回来たときは、武蔵国の辺をコピーしよう。

(了)


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青渭(あおい)神/日本の神々の話

20150904

この神とは、武蔵国式内社めぐりで稲城市の青渭神社で出会った。
ちなみに、この神社の祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱であるが、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この地は水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

それで「渭」という字の意味を調べたが、これがなかなか難しい。
「行く」とか「流水する」とかいう意味にも用いられたらしいが、普通は川の名のことであり、すなわち唐時代の文学に名高い「渭水」または「渭川」のことだと、それで終わり。
なかなか意味の説明にはたどりつかない。

武蔵国には、入間郡にも「国渭地祇神社」という神社がある。
しかし、どうも「渭」という字は難しいようだ。

あるサイトの方が、「渭」の音がヰであるところから、ある学者が、しゃれて「井」の字に変えて使用したのではないかと書いていたが、それが当たっているのではないかと思う。

青渭神社は、論社が三社あって、稲城市の青渭神社の他に、
青梅市の青渭神社は、奥宮のある惣岳山の山頂近くには真名井という霊泉がある。青渭の井とも呼ばれ、社名の由来になったといわれている。
調布市深大寺の青渭神社は、あの辺は湧水の盛んなところで、ご祭神は水波能売大神と青沼押比売命とされているが、いずれも「水神」である。

水神といっても、色々あるが、三社とも地形からみて、「渭水」のような大河に住む水神ではなくて、「井」を守る水神のほうがふさわしい。


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「画鬼暁斎」展/三菱一号館美術館

20150901

所在地:東京都千代田区丸の内2-6-2

8月31日に行ってきました。
河鍋暁斎については、狭山市文化財指定「ねずみと小鎚図」が柏原の西浄寺にあり、この寺に暁斎の絵の門人にして、湯島霊雲寺での同じ法弟である「林宝仙(法泉)が住職として居た関係で、しばしば西浄寺を訪ねており、そのため私の持っている資料によれば狭山市には暁斎の絵が16点ある。
ということで、河鍋暁斎については以前から関心がありました。

今回の展示会は、三菱一号館復元五周年を記念したもの。
三菱一号館は、高名な英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計によるもので、コンドルは河鍋暁斎に絵について師事しましたが、親密に交際し、暁斎の死の際にはコンドルの手を握って亡くなっていったそうです。

東京駅丸の内出口から、それほど歩くことなく三菱一号館に到着。
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中庭入り口の企画展示塔も五年でこんなに蔦に覆われている。
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中庭の風景
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到着した時間が11:30だったので、事前に調べたらカフェで「文明開化ランチ」をしていることがわかっていたので、それで昼食としました。

カフェ入り口
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カフェ内部
明治期に銀行営業室として使われていた空間を復元した、二層吹き抜けの開放感あるフロアです。
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美味しいランチで満足して、いよいよ美術館に。
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暁斎とコンドルの出会いは、明治14年に上野で開催された博覧会のメイン会場である博物館を29歳のコンドルが設計し、この博覧会に暁斎は4点出品し、そのうちの「枯木寒鴉図」が最高賞の「妙技二等賞」を受賞した。
コンドルはそれまでも暁斎の絵を目にしていたはずだが、これを機に暁斎に入門した。

コンドル絵「上野博物館遠景之図」
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「東京名所之内 上野山内一覧之図」/河鍋暁斎
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「枯木寒鴉図」/河鍋暁斎
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「鯉之図」/暁英(コンドル)
水の描き方が暁斎そっくり。
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暁斎は、毎日絵日記を描いていたが、それにも当然しばしばコンドルが登場している。
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「Kyousai Sensei at Nikko Aug5」/コンドル
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暁斎の絵は洒脱なものが多い。
気に入ったものをあげておきます。
「ぶらさがる猿図」
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「布袋の蝉採り図」/河鍋暁斎
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これは、古事記の世界などの特集でしばしば引用されているので、欠かせない。
「伊邪那岐と伊邪那美図」/河鍋暁斎
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途中のテラスから中庭
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二階の廊下
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「惺々狂斎画帖(三)」から/河鍋暁斎
大きく引き伸ばした絵で、この前で画中の男と同じように吃驚してのけぞった姿をして写真を撮れるようにしてあった。
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河鍋暁斎の戯画も沢山出ていた。

「蟹の綱渡り図」/河鍋暁斎
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美人画の中では、これが気に入った。
「美人観蛙戯画」/河鍋暁斎
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これを見て、ああこれはこういう場面で、場所は・・・・・
と分からない自分が歯がゆい。
「惺々狂斎画帖(三)」から/河鍋暁斎
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出口にコンドルが座っていて、「一緒に写真をどうぞ」とあったので、カミさんに撮ってもらった(笑)
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雨が上がっていたので、三菱一号館を後にして、皇居のまわりを少し散歩してから、帰った。
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楠公銅像
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(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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