豊年足踊り&天狐の舞/笹井白髭神社

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10月18日(日)に行われた、狭山市の笹井白髭神社の豊年足踊りを見てきましたので紹介します。
その際に、一緒に行われた「天狐の舞」も見ました。狭山市にもお神楽が残っていたと嬉しく思いました。

15時から行われるということで、ちょっと早めに行きました。

鳥居の前には、祭礼の幟が立てられています。
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まずは参拝。拝殿にも幔幕と提灯がかけられています。
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奏上門にも幔幕と提灯が張られ、その前に御幣とか榊が置かれています。
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普段は閉じられている、本殿の扉も開かれていました。
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拝殿から望遠で撮った本殿正面。
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ここは、狭山市で唯一空襲の被害を受けたところで、そのことを忘れまいと戦災に関する俳句の会の活動をしています。
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今年も、この例大祭に奉納された俳句がたくさん披露されていた。
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子供たちも負けていません。
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さて、豊年足踊りですが、従来は屋台で披露されていました。
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天候の影響を受けるのが残念だと、「神籟館」という建物を建て、今年がお披露目だそうでした。
現代版神楽殿ですね。
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屋台と神籟館と両方で踊りは行われたそうですが、私が見に行った時間帯には神籟館で行われました。
屋台のほうが、伝統芸能らしくていいのですが、神籟館ではその代わり足踊りを三人の方が同時に踊りを披露してくれるという、珍しいものを見ることが出来ました。

まず最初に「天狐の舞」が披露されました。
これは、いろいろな神社で御神楽の演目とされているもので、狭山市にもお神楽が残っていたと、嬉しい気持ちで観ました。
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動画で撮ってきましたので、ご覧ください。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

動画を見る



いよいよ「豊年足踊り」です。
この踊りは、明治から大正にかけて、当地出身の桜井藤太郎が、苦心を重ねて創作したものです。当初は瞽女(ごぜ)の三味線に合わせて踊っていたが、やがて笹井囃子に合わせて踊る今の形になったものです。
演者が仰向けになって、両脚を高く上げ、左足にヒョットコ面と男物の衣装をつけ、右足にオカメ面と女ものの衣装をつけ、手に扇子や日傘を持ち、踊るものです。

このように足の先に面をつける。
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足を高くあげて、色々な踊りを披露します。
10分くらい、ずっと足を上げたまま踊りを披露しているのは、すごいものだと感心しながら見とれていました。
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動画で撮ってきましたので、ご覧ください。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

動画を見る



(了)


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長髄彦(ながすねひこ)/日本の神々の話

20151028

まず、「長髄彦」が神なのかどうなのかということだが、記紀神話に登場している人物である。そして、神武天皇の東征の際に歯向かっで負けた側なので、貶められているということもある。
一方で、建御名方命と同人物とする説があるので、取り上げています。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

記紀神話での内容は次のようなものである。
神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦が迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。
その後、迂回して熊野から上陸した神武天皇と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。

長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。  

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世に武将として台頭した織田家(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。

長髄彦は饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。
旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ここに、とても興味深い説を見つけ、私は共感している。
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、後者は前者の叔父となる)ということになる。
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝の時代に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。


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伊能忠敬記念館&佐原の町なみ

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10月14日(水)の歴史クラブの秋季定例見学会ですが、「伊能忠敬の事蹟を偲ぶ」というテーマで、つくば国土地理院「地図と測量と科学館」、筑波宇宙センターの後に、ここを見学しました。

伊能忠敬記念館
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館内は撮影禁止なので、資料から転載して載せておきます。

館内の様子
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彼のすごいところは、婿養子に入った家で懸命に働いて、50才で隠居するまでに家の財産を三倍に増やしたこと。
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伊能忠敬が使った道具

小方位盤
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量程車
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小象限儀
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小象限儀で勾配を測る
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伊能隊の測量を描いた「浦島測量之図(部分)」
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伊能中図
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伊能忠敬記念館を見学した後、一時間ほど伊能忠敬旧宅など小野川沿いの佐原の町並みを楽しみました。

案内図
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伊能忠敬旧宅の前にある、樋橋。通称ジャージャー橋。
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橋の踏板の下が水を通す樋になっている。小野川に交差して用水を渡している。
30分に一度、水を落してデモンストレーションしている。
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伊能忠敬旧宅
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内部
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瓦を利用した水よけがきれいだ。
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庭にある伊能忠敬像
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伊能忠敬家訓書
寛政3年(1791)忠敬46歳の時に書いた家訓。
1.仮にも、嘘、偽りをしてはいけない。親孝行、兄弟仲良くして正直であること。
2.自分より目上の人、目下の人の意見をよく聞いて、納得できれば用いること。
3.篤く敬う心を持ち、控えめにして、心を広く持ち、決して人と争いなどしてはならない。
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家の前の船着き場のところを、小野川遊覧船が行く。
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忠敬橋までの間の旧家を撮った。
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忠敬橋角の「植田屋荒物店」
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店内
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昔の看板
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忠敬橋から三菱館までのお店を撮った。
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三菱館
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忠敬橋に戻って来て、川上、川下の眺め。
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忠敬橋角の旧油惣商店
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丸型ポストが似合ってる。
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正文堂のへんの屋根の重厚さがすごかった。
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この日、とても収穫の多い一日で、満足して帰途につきました。


(了)


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筑波宇宙センター(JAXA)

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10月14日(水)の歴史クラブの秋季定例見学会ですが、つくば国土地理院「地図と測量と科学館」の後に、ここを見学しました。
この日のテーマは、「伊能忠敬の事蹟を偲ぶ」ということですが、伊能忠敬が日本地図作成という大きな事業を成し遂げるきっかけとなったのは、最初暦学と天文学を志したからでした。
ということで、「伊能忠敬が見つめ続けた空」ということで宇宙のことも知ろうというわけです。

到着して、最初に「H-Ⅱロケット」実物の前で記念撮影。
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案内図
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この日は、JAXAの社員食堂で昼食を予約してあり、その時間まで「広報・情報棟」の廊下に貼ってある宇宙から見た地球の美しい写真を見ました。
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JAXAの社員食堂で昼食を食べたあと、「展示館スペースドーム」を自由見学。
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日本列島のはるかな上に宇宙ステーションがあり、種子島からロケットが打ち上げられている。
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今回のテーマに即した、陸域観測技術衛星「だいち」。
災害状況の把握や地図作成などに大活躍しています。
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「だいち2号」
さきほどの宇宙からの地球の写真で、「函館」と「サウジアラビア 円形農場」の写真は「だいち」が撮った写真でした。
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インターネット衛星
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宇宙ステーション
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日本実験棟「きぼう」はここにある。
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「きぼう」
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きぼう内部
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実際は、計器などがぎっしり詰まり、このように。
若田さんの写真。
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マニピレーター
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宇宙ステーション補給機
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H-ⅡA/Bロケット
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宇宙服
子供が入って、お母さんが写真を撮っている。
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宇宙日本食
私は、ショップで「おこのみやき」と「たこやき」を買ってきました。
味はそういう味だが、パサパサで、飛行士の皆さんが気の毒に思った。
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宇宙飛行士の皆さんのサイン。
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これで、「筑波宇宙センター」の見学は終り、常磐高速、圏央道を使って佐原の伊能忠敬記念館に移動しました。



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刺国大神(さしくにおおのかみ)/日本の神々の話

20151024

この神が登場するのは、『古事記』において、「天照大神と須佐之男命」の巻の「須佐之男命の神裔」の段
(現代語訳)
 そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。

たぶん「刺国王」なのだろうが、この国は調べてもよくわからない。娘の刺国若比賣の生んだ大巳貴命が兄弟神のなかで軽んじられていたのは、兄弟こぞって八上比賣に求婚に行くときに他の兄弟の荷物をみんな背負わされていくのをみれば明らかだ。だから「刺国王」というのは身分の低い王だったのではないか。

本居宣長による説では、和歌山県和歌山市にある刺田比古神社の祭神、刺田比古神を『古事記』の出雲神話における「刺国大神」と推定している。刺国大神は大国主の外祖父にあたる神である。そして『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、『古事記』で大巳貴命が八十神による迫害で二度目に殺され、母神(刺国若比賣)の力で生き返り、母神の勧めで紀伊の大屋毘古神のところに逃げさせたこととの関連を指摘している。



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つくば国土地理院「地図と測量と科学館」

20151022

10月14日(水)に、歴史クラブの秋季定例見学会があり、進行役としての参加でした。
この日訪れたのは、ここと、筑波宇宙センター、佐原に移動して伊能忠敬記念館と佐原の町並み散歩でした。
テーマとしては、「伊能忠敬の事蹟を偲ぶ」ということにしています。
参加者は43名でした。

7時に狭山市を出発、関越、常磐高速を経由して、順調だったため、開館時間の9時半より前に到着。
まず記念写真を撮り、それでもまだ時間があったので、ちょっと建物の外を見ました。

構内図
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VLBIアンテナが、けっこう激しく動いていて、皆さん吃驚(笑)
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国土地理院の測地VLBIは、そのデータを地球上の位置や距離および地殻変動や地球回転速度などの地球に関する情報を得るために行っています。
VLBIアンテナは、はるか数十億光年離れた宇宙の星(クエーサー)からの電波を受信しています。 クエーサーは、強烈なエネルギーを出している天体ですが、あまりにも遠い場所にあるため、その電波が数十億年かけて地球に到達する時には非常に微弱になっています。
そのため、巨大なアンテナが必要となっています。

「電子基準点」が立っていた。
この先端部には、GPS等のGNSS衛星からの電波信号を受信するアンテナが取り付けられている。
これを全国に設置して、ここ「つくば中央局」に転送して位置を正確に把握する。
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開館時間の9時半になり、中に入り、まずオリエンテーションを受けました。

案内図
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まずは、一階エントランスにある、3Dの日本地図を楽しんだ。
これは赤と青のめがねをかけると立体的に見えるように作られている。
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フォッサマグナ(中央地溝帯)がよくわかる。
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二階に上がって、展示を見る。

「測量の世界」
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「高覘標(こうてんぴょう)」
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「劔岳点の記」、良かったですよね。

地図のところでは、皆さん熱心にみていました。
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「坤輿万国全図」
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日本については、地名の位置がずっこけちゃいますね(笑)
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「ベハイムの地球儀(ドイツ)」
現存する世界最古のもの(1492年作成)です。
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右側の島が日本列島です。大きく描かれていますね。
中国あたりから「黄金の国ジパング」とか情報が伝わっていたのでしょうか。
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この辺に、あるべきものがありません。
アメリカ大陸です。
コロンブスが、実際にアメリカ大陸に到達したのは1498年ですからね。
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日本最古の地図「行基図」
奈良時代の僧、行基が描いたもの。
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「日本海山潮陸図」
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全国の一之宮のリストが書かれている。
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「改正日本輿地路程全図」
通称「赤水図」
伊能図が出来るまではこれが使用されていた。
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「大日本道中行程細見記」
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伊能忠敬の測量機材
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「地方測量の図」で様子がわかります。
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伊能忠敬が使った測量器具
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伊能図
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「迅速測図原図」
これは、ほぼ江戸時代といってもいい時点だし、地形がよくわかるので、私たちが重宝している地図です。
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同じ二階に、航空写真から地図を作成していた実際の機器(一時代前だが)が置いてあった。

航空写真を撮っていた飛行機「くにかぜⅡ」の運転席。
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航空写真から地図を作成していた、手動の「立体図化機」
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二階のフロアの柱にある、東日本大震災のときの津波の到達高さ。
一階のフロアからの高さです。
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外で出て、庭の展示を見た。

日本列島球体模型
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もし肉眼で見える程視力があったとしても、湾曲しているので、九州の先端からは、北海道が見えないことが実感される。
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南鳥島って離れているんだな、と実感した。
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「くにかぜ」の方に行こう。
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一代前の航空写真撮影用の「くにかぜ」
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機底にある、撮影用のガラス窓。
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一応見終わり、館内のショップに飛んで行きました。
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地図とか、地理的な案内書とか、欲しい本ばかりで目移りして困った。
懐と相談して、二冊の購入で我慢した。

これで、「地図と測量と科学館」の見学は終り、同じつくば学園都市内にある「筑波宇宙センター」に移動しました。


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金山毘古神・金山毘売神/日本の神々の話

20151020

『古事記』の神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

『古事記』では金山毘古神、金山毘売神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。

神名の通り「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観からの連想によるものと考えられる。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。

私が参拝したのは、まだ金山毘古神のみで、
狭山市柏原の、槍鍛冶増田大水正金を始祖とする増田家の氏神「金山神社」
狭山市笹井金井の「金山神社」(笹井の鍛冶師か鋳物師により建立された神社であると思われる)
坂戸市赤尾の「金山彦神社」

全国の金山神社で金山毘古神を祀るが、金山毘売神を祀る神社は少ないようで、
両神を祀っている:
島根県益田市の「佐比𧶠山神社」、島根県安来市の「金屋子神社」。
岐阜県垂井町では、南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)となっている。
金山姫神のみ祀っている:
三重県伊賀市の伊賀国一宮「敢國神社あえくにじんじゃ」で、
主祭神が大彦命(おおひこのみこと)、配神として少彦名命と金山比咩命となっている。



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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/篠井村(笹井)-後半

20151019

10月13日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」の続きです。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さん、野口さんと池田さん。

「笹井の冨士浅間神社」と横の「土屋家墓所」のあと訪ねたのが白髭神社です。

【笹井・白髭神社】
『新編武蔵風土記稿』には、ごく簡単に載っている。
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社号標
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「戦災の跡地」の表示もあり。
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古記録がないため、由緒は明らかでありませんが、伝承としては、古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面巡錫じゅんしゃくの折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝えられています。しかし、この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられています。
 明治5年、社格制定の折、村社となり明治の一村一社の法令により、明治45年3月26日に、字愛宕にあった愛宕神社、字仲居にあった神明社、字八木上にあった鹿島神社を合祀し、大正元年8月24日字東川端にあった愛宕神社を合祀しました。
 昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失し、社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建されました。
 元旦祭及び春祭、秋祭に狭山市指定無形文化財「笹井豊年足踊り」が奉納されています。

鳥居
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境内は広々としている。
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手水舎
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拝殿
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神明造りの破風に棟木が突き出ているのが面白い。
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拝殿から奏上門を望む。
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主祭神:猿田彦命、武内宿禰
合祀神:愛宕大神、神明大神、鹿島大神

奏上門
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奏上門には、空襲の焼け跡が残っています。空襲による被害を受けた地区として、記憶にとどめるため、残してある。
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当神社を含む笹井地区が爆撃を受けたのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月25日の夜11時頃から26日の未明のことです。東京方面に向かって来たB29爆撃機500機の内1機が、迷って笹井地区に向かって飛んできました。
笹井ダムの向こう岸の黒須地区と笹井地区に焼夷弾5,000発が投下されました。この5,000発は黒須と笹井の20倍の広さを焼きつくす量だといわれています。いかに集中的に投下されたかが分ると思います。
笹井ダムから白髪神社を中心にしたこの一帯は火の海となり、焼失家屋や羅災者は多数を数え、死者13人、被災世帯69戸に達しました。その時の焼夷弾により当神社も拝殿と社務所を焼失しました。幸いにも本殿は無事で、本殿前の奏上門の破風を焦がしただけで類焼を免れました。この炭化した黒い破風がその時の名残です。

地元の人は本殿が助かったのは神様のおかげといっています。今でも毎年、笹井の俳句の会の
人達によって戦災の記憶を忘れないようにとの強い思いから、戦災の俳句が作られています。これ
らの俳句は神社境内に掲示されています。
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新しい俳句
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境内にある「土屋家稲荷神社」
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鳥居の笠木が面白い。
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芭蕉の句碑が、鳥居の近くにあり。
「武蔵野や一寸ほどの鹿の声」
出典は『俳諧当世男(いまやうをとこ)』。 延宝3年(1675年)、芭蕉32歳の時の句。
此の句の碑は珍しいそうだ。
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【薬王寺・薬師堂】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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現在の薬師堂に行く途中に、以前薬師堂があった場所を教わった。
「立ち入り禁止」の札のところから上がる石段の上にあった。
左側に、辨天社のあった位置に「弁財天」の石碑が立っている。
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薬王寺・薬師堂の案内標から入ります。
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これが、現在の薬師堂
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開山・役小角から数えて、第52世の澁谷操氏から説明をいただいた。
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その中から抜粋して載せておきます。

○薬王寺紀元
所在地:狭山市大字笹井二五七五各地
管理者:第五十二世 澁谷操
本 尊 :不動明王立像
由 緒: 『新編武蔵風土記塙』の記述と同じ

○薬王寺
 現在、薬師堂は澁谷家の屋敷内にあるが、もとは笹井2553番地の小高い山林中にあり、間口五間、奥行2間半、須弥壇が三尺四方の豪華な建物であったといわれる。
 澁谷家所蔵、天保6年(1835)の笹井付近の古地図によると、薬王寺の境内は、百メートルくらい離れた薬師堂から弁天社、それから入間川の河岸まで続く長い参道、渕上の澁谷家墓地までの広範囲であり、往時の薬王寺の勢カが観音堂の配下とはいえ、相当偉大なものであったことを知ることができる。
 また、当寺の歴史がいかに古いかは、同家に残された第四十七世岱忍〔天保8年(1837)十月十九日寂〕が書かれた縁起と法脈によって知ることができる。なお、同家の墓地にある歴代の墓石がこれを証明している。(墓石は恐らく法脈を書いた岱忍が天保時代に整理して建立したものと思われるが、当時は確実な資料があり、これによって墓碑が挙られたのであろう。)

現在の薬師堂に安置されていたのは下記。
・本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩、月光菩薩
・それを守る十二神将
廻るようになっていて、今年の干支「未」にあたる「波夷羅(はいら)神将」が手前に来ている。
・役小角像
・尊師堂内合合祀社は、弁才天社、雷神社、太子様、天神社。
・弁才天坐像
・聖徳太子像

澁谷家にて安置されている薬王寺本尊の「不動明王立像」も拝観させていただきました。

以上全て写真を撮らせていただきましたが、ここでの公開は控えておきます。

製薬も行われていたそうで、当時の道具も保存されていた。
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薬師堂前に、薬王寺跡にあった石仏が安置されていた。
左から一里塚、馬頭観音、水神様、祈願地蔵三体
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澁谷家のお庭に、茶の木「栂尾」がありました。
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茶の木「栂尾」:
延暦二十四年(805)、最澄が唐からもたらし畿内周辺に薬用として栽培され、宮中にも官営茶園が設けられた。
嗜好用としては建久2年(1191)、明庵栄西が宋より茶種をもたらし九州に植えられたが、明恵が山城の                                                                        醍醐、宇治、きらに駿河、武蔵などにも広がった。

この日、時間の関係で澁谷家墓地の予定をカットしたが、池田さんから澁谷家墓地の写真を提供されたので載せておきます。
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【笹井堰】
薬師堂から、入間川の堤に出て、入間川沿いに笹井観音堂に向かいます。

入間川
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笹井堰
左側が、根岸のほうに分流させている堰
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『新編武蔵風土記塙』に記述あり。
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【笹井観音堂】
『新編武蔵風土記塙』の記述
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入間川近くの参道
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国道299号線の入り口
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現在の観音堂を管理している、篠井家当主のご厚意で観音堂を拝観させていただき、お話も伺いました。
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笹井観音堂は伊豆に流罪中の大宝2年(702)笹井を訪れた役小角を開祖とし、当時は滝音山と祢されました。
この後次第に衰退した滝音山は平安時代後期に園城寺(滋賀県)の行尊によって中興されました。この時十一面観世音菩薩像を安置したことから、以後観音堂とされました。
室町時代から戴国時代までは入間郡、高麗郡、多摩郡の54寺を触下に従えた京都聖護院を本山と仰ぐ修験道の大寺となり、天文21年(1552)聖護院門跡の御教書により青梅地方と高麗郡の聖護院支配の寺々を束ねる役に任じられました。
徳川幕府によって寺領を10石に減らされて観音堂は衰え、更に明治政府の太政官布告により修験道は廃止となり廃寺となりました。
現在の笹井観音堂は廃寺となった跡に建てられた小堂です。

大僧正行尊:
行尊(天喜3年(1055年)一長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。
父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から濯頂を受けた。1070年(承久2年)頃より大峰山・葛城山・熊野などで修行し、修験者として知られた。
1116年(永久4年)、2代熊野三山検校に補任。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。1107年(嘉承2年)5月法眼に叙せられる。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。1125年(天治2年)大僧正。その後、諸寺の別当を歴任する-方、衰退した園城寺を復興した。

回國雑記(かいこくざっき):
著者の道興准后は文明十八年(1486)六月から約一年東国への旅に出た。
この廻國雑記の旅程をみると、後の松尾芭蕉「奥の細道」、菅江真澄「菅江真澄遊覧記」に多大な影響を与えていることがわかる。
道興准后が笹井を訪れたときの武蔵野巡礼は、「半沢、霞の関、宗岡、堀兼の井、入間川、佐西、十玉坊、大石信濃守、上寺山、勝呂野寺、野火止塚、所沢、久米川、越年、正月の日々、浜崎」と廻っている。期間は約三ケ月とみられ、文明十九年二月の初めに一行は甲州路へと旅立っている。 当時の佐西観音堂は所沢付近にあったといわれる大塚の十玉坊と勢力範囲が接しており、配下寺院の争奪で紛争が絶えなかった。道興は笹井訪問の直後に、十玉坊を廻っていることから、状況確認のために訪れたと思われる。 後の時代、文禄三年(1594)には本山修験総本山の聖護院から裁定書が出ている。百年以上の長きに亘って両者間の紛争が絶えなかったことが判る。

観音堂
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内部
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かっての観音堂の写真がありました。
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安置されていたのは:
・本尊の十一面観世音菩薩像
・役小角像

徳川幕府の時代には、神君家康公への信仰を要求されたそうです。
・神君徳川家康公像
・篠井家伝家康公位牌

ご本尊を拝観させていただき、聖護院形式の荘厳な厨子の扉を閉じたところ。
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堂内に安置されていた仏像など全て写真を撮らせていただきましたが、ここでの公開は控えておきます。


今日は、澁谷家のご当主、篠井家のご当主のご厚意により、大変貴重なものを拝観させていただき、感激しました。


(了)


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/篠井村(笹井)-前半

20151017

10月13日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は岸野さん、野口さんと池田さん。

朝9:00にファミレス「とんでん」駐車場に集合。ここからスタートしました。

篠井村全体の記事
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【土屋昌吉屋敷跡】
『新編武蔵風土記稿』では、昌吉を「昌言」と誤って書いている。
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原本からの最初の翻刻である明治十七年の内務省版では、四箇所共に「昌言」、-方「寛政譜」は「昌言」はなく、該当する名は「昌吉」のみ。法名も稿は「全桂」、譜は「全柱」とあり、実際の墓石に刻まれた法名からは「全柱」が正しい。
推定するに、原本であるくずし字本から翻刻する際、稿で誤訳がおこりそのまま、現在の千秋社版および雄山閣版に引き継がれたと思われる。風土記稿の内務省版は随分と手早く翻刻したらしく至るところに誤訳があることで有名であり、その校訂のためもあり雄山閣版が出来たわけであるが、それでも誤りが相当内在するということであろう。

場所は、笹井保育所の東側の一角である。
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【宗源寺】
所在地:狭山市笹井2丁目17番8号
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法流は大本山永平寺、大本山総持寺です。本寺は昔関東三ヶ寺の1つと言われた龍穏寺です。当寺には古記録はありませんが、伝承として寺となる以前は宗源庵という草庵があり、弘法大師作の地蔵菩薩像が安置されていたとのことです。
 開基については、文禄・慶長年間(1592年~1615年)当時の領主徳川家の臣・土屋三郎右衛門尉昌吉、土屋治左衛門の2家によって、堂宇が建立され、本寺第16世鶴峯聚孫禅師によって開山されました。その後本寺20世撫州春道禅師(正保3年(1646年)7月25日入寂)が初専任となったので副開祖とされています。
 本尊である木造宝冠釈迦如来坐像は、市指定文化財です。

『新編武蔵風土記稿』の記述
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山門前に石仏あり。
真ん中は狭山市で一番古い、寛文13年(1673)の阿弥陀如来。
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本堂
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土屋家墓所
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中央(下の写真では左側)にあるのが、開基の土屋昌吉の墓。後ろに子孫の墓が並びます。
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土屋昌吉の墓石に「宗源院」と刻まれており、宗源寺は土屋昌吉の戒名から命名したことがわかる。
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『寛政譜』による、土屋昌吉について:
勝頼につかふ。天正十年武田家没落ののち山林に潜居す。この時東照宮甲斐國にご進發ありて、武田家の諸士をして、をのゝその舊里にかへらしめたまふにより、昌吉もまた舊領の他にかへる。八月北条左衛門大夫綱成甲斐國三坂峠を越、黒駒に出張するのとき、昌吉いまだ御麾下に列せずといへども、綱成が兵とたたかひ大草左近某をうちとり、いた手を員ふ。鳥居彦右衛門元忠このことぞ言上せしかば、めされてつかへたてまつり、二十二日甲斐國成田のうち五十貫文井上のうち十八貫文の地もとのごとく宛行はるぺきむね、大久保新十郎忠隣奉る所の御朱印を下され、十一年閏正月十四日本領の御朱印を賜ふ。十二年長久手の役に供奉し、首級を得たり。十八年小田原陣のときしたがひ奉り、のち采地をあらためられ、武蔵國高麗多摩上総國園長柄三部のうちにをいて四百十石餘をたまふ。十九年九戸一授のとき陸奥國岩手澤まで雇従す。慶長五年七月十一日
※鳥居彦右衛門元忠:伏見の戦で城と共に討ち死にした鳥居元忠である。

【野菊の墓ロケ地】
これは、さる旧家で醤油の醸造などをしていた家だが、映画「野菊の墓」のロケに使用されたお宅だそうです。
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それから白山神社に向かって歩いていると、見事なアケビの垣根のお宅がありました。
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【根笹井】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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村民仁右衛門が宅は、滝不動を南に下った地点が想定され、『入間郡誌(大正元年)』に「村の中央に清水湧き出す井あり。村民之を愛せかば村名となると伝ふ。その泉尚存す」とあり。

候補地その一
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候補地その二
手前の井戸がそうだと想定されている。
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【白山神社】
入り口には何の表示もなく、野道を入った林の中にひっそりと鎮座している。
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中には、朽ちかけているが彫刻が立派な社殿が納まっていた。
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【滝不動】
『新編武蔵風土記稿』の記述
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役小角が不動明王を彫刻しも安置したところで、観音堂の故地であり、下に瀧があることから、この地を「瀧ケ谷」という。

入り口は狭くて分かりにくい。
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小路を抜けて、吃驚した。あまりに広々としていた。
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2013年に歴史講座で訪ねたときには、鬱蒼とした森のなかにあった、その時の写真。
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現在の状態
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滝は水量が豊富。
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滝不動
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【笹井の冨士浅間神社】
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狭山市史によれば、本神社は大正14(1925)年、 笹井富士講により建立されたもの。

表の参道から入ろうととしたが、すごい藪で入るのはあきらめた。
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烏坂を上がり、裏から入っていく。
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富士塚があり。
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中心にある最も大きな石碑には「大祖参神霊」とある。
裏面に「大正14年6月1日建設」とある。
日立講である。
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富士塚の構成要素は、ほとんど失われ、「小御嶽大神」碑があったのみ。
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歌の彫られた石碑あり。
「冨士の山教のごとく あらたにぞまつり  おこのふ千代よろずよも」と、なんとか読んだ。
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【土屋家墓所】
富士塚の隣に、もう一つの土屋家墓所がある。
先に宗源寺で土屋昌吉家墓所を見たが、こちらは「土屋正久家墓所」である。
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『寛政譜』による、土屋正久について:
父・次左衛門正家は、武田信玄をよび勝頼につかふ。天正三年長篠合戦のとき討死す。年四十。
土屋正久、父と同じく武田家につかへ、勝頼没落のゝち、めされて東照宮につかへたてまつり、天正十一年間正月十四日甲斐國の本領國衛の内二十三貫文の地相違あるぺからざるのむね御朱印を下さる。のち、采地を武蔵圃高麗郡の内に移さる。文禄元年肥前國名護屋に供奉し、慶長五年台徳院殿、眞田安房守昌幸がこもれる信濃國上田城を攻めたまふのとき、したがひたてまつり、寛永四年八月二十一日死す。年六十二 法名善正。(今の呈譜全勝)武蔵國高麗郡篠井村宗源寺に葬る。のち正英に至るまで葬地とす。

土屋正久家は、寛政譜に「のち正英(四代目)にいたるまで宗源寺を葬地とす」とあり、葬地が宗源寺から離れた鳥坂の富士浅間神社脇墓所にいつ頃、移されたかは不明である。
次ぎに示すように宗源寺との繋がりは浅いことが理由の-端かも知れない。五代目忠英以降の墓所は江戸市ヶ谷長延寺にあり、明治初年に纏められた「旧旗下相知行調」などの資料を見ると、幕末時点の当主清之丞は、甲府勤番としている。また、甲府橘小路に居宅があることが、山梨県庁公開の絵地図で判る。

また、最初に挙げた『新編武蔵風土記稿』の記述に「土屋勘右衛門」とあるが、誤りで土屋勘左衛門正次のこと。
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土屋勘左衛門正次は、笹井土屋正久家初代の源三正久の嫡男(次男)で二代目。寛永十年では四百石の知行高。寛永四年遺跡を継いだ後、大番に列する。承応二年、大坂御金奉行に転じ萬治二年十二月二日卒。(参照:寛政譜)
勘右衛門は誤り。我々が教材とする「稿」の原本「浄書本」は、原則寛永前の文書を古文書として書写(くずし字)し、本文は楷書で清書している。浄書本では「勘右衛門」である。「稿」草本の元であった各村々の「書上帳」から「浄書本」への転写の際に「勘右衛門」と誤ったか或いは「書上帳」が誤っていたかの何れかであろう。
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烏坂を下って、白髭神社に向かいます。
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青幡佐草日古命(あおはたさくさひこのみこと)/日本の神々の話

20151016

別名:青幡佐久佐丁壮命(:あおはたさくさひこのみこと)、青幡佐草壮丁命(:あおはたさくさひこのみこと)

須佐之男命と奇稲田姫命の子であり、八重垣神社宮司の始祖であるという。

出雲の八重垣神社は、障壁画でも、鏡池の縁結び占いでも有名なお宮さんだが、社名にしても祭神にしても変遷があったようだ。

八重垣神社は、須佐之男命が八岐大蛇と戦うに際し、奇稲田姫を隠した「佐久佐女の森」の故地である。
八重垣神社の社名は『古事記』に記載の須佐之男命が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌にちなむといわれ、現在は須佐之男命・奇稲田姫命を祭神とし、合祭神として大己貴命、相殿には青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)を祀っている。
佐久佐女さくさめの森とよばれる奥院の森は、奇稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるために八重垣を築いて避難したところといわれ、また、この森の中にある鏡ノ池は奇稲田姫命が避難した際に飲料に用い、姫命はその水面に姿を映して化粧を行ったと伝える。

このように、八重垣神社は奇稲田姫命との関連を物語るさまざまな伝承を有する神社なのだが、天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』に八重垣の社名がみえない。
『出雲国風土記』は大草郷について「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(丁壮命)坐す。故、大草といふ」と記し、同書では意宇郡に「佐久佐社」が、『延喜式』神名帳では意宇郡四八座のうちに「佐久佐神社」がみえる。

八重垣の社名は戦国期から近世にかけて佐久佐社に代わって使用されており(慶安五年「八重垣社領検地帳」佐草家文書など)、八重垣神社が他の地域から移転してきた可能性は充分に想定される。現在の祭神が『古事記』の出雲神話にちなんだ素戔嗚命・奇稲田姫命で、『出雲国風土記』に登場する青幡佐久佐日古命(丁壮命)が相殿となっていることも、社名・社格の変遷を物語っているかもしれない。

近世を通じて八重垣神社の祭神は素戔鳴尊・稲田姫・大己貴命になっていた。ところが 明治に入り、延喜式にない社名では高位の社格を得られないことから、本社と末社の関係を元にもどして 「佐久佐神社」と改め、主祭神を青幡佐久佐比古命として当局に届け出た。
しかし、久しく馴染んできた「八重垣」という社号を伏せておくに忍びず、社号を「八重垣神社」に戻すことを陳情、容れられて祭神も明治以前に復し、現在、青幡佐久佐比古命は合殿神となったということである。



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新宿歴史博物館

20151015

所在地:東京都新宿区三栄町22番地

10月6日(火)に、歴史クラブ行事「市ヶ谷探訪ツアー」に参加しました。
「防衛省市ヶ谷台」、「市谷亀岡八幡宮」と回ったあと訪れました。
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この辺は坂がきついところで、玄関の横から見ると庭は地階にあたるようです。
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玄関前に、「四谷見附橋 高欄」が展示してあった。
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レイアウト
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博物館のガイドさんの案内で見学しました。
館内は、撮影OKの場所にはその旨表示があるというスタイルでした。

古代のものでは、貴重な二点があります。
隆起線文系土器
縄文時代草創期
百人町三丁目西遺跡から出土した隆起線文系の深鉢形土器。埋没谷の谷頭の谷底で、割れて散らばったような状態で出土したが、調査範囲からは住居跡のような遺構は発見されなかった。
 出土した80点の破片のうち69点が接合し、その結果、形状は丸底で、楕円形の口縁部をもち、その下に2条の隆起線文が施されていた。
 隆起線文系土器は、縄文時代草創期(約12,000年前)に製作された日本最古級の土器として知られるが、これまでの発見例はいずれも細片での出土であり、このような本来の器形に復元できる資料は、全国的にも極めて少なく貴重である。
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小銅鐸
弥生時代後期
身長4Cmと小さい。
高田馬場三丁目遺跡から出土した青銅製の小銅鐸。弥生時代後期の土器が伴出した小型の竪穴住居跡(第7号住居跡)の北側壁中央部から発見された。
素文で正面にのみ二つの型持孔があけられる。舌は発見されなかったが、内突帯があり、音響具としての機能を備えていたことがわかる。
銅鐸は弥生時代の祭祀用具で、北九州から関東地方にかけて広く出土例が報告されているが、都内では珍しく、最初の出土例として知られている。
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内藤新宿の模型
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四谷大木戸の部分
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江戸名所図会「四谷大木戸」
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同じく、江戸名所図会「内藤新宿」
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広重の「名所江戸百景」のうち「四ツ谷内藤新宿」
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ここは、玉川上水の「川番所」
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玉川上水沿いの桜並木
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商家のたたずまい
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菓子の型
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東京市電5000系
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文化住宅の生活
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建設中の京王プラザホテル
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我が家の家族にとっては、ここで待ち合わせしたり食事したりと、このホテルはとても馴染みの場所。

中庭
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中庭に、「空印の石手水鉢」があり。
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こういうところに来ると、本を漁るのが楽しみ。
この日、ここで購入した二冊。

「江戸名所図会でたどる 新宿名所めぐり」/新宿歴史博物館
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「新宿の文化財」/新宿歴史博物館
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(了)



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市谷亀岡八幡宮

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鎮座地:東京都新宿区市谷八幡町15

10月6日(火)に、歴史クラブ行事「市ヶ谷探訪ツアー」に参加しました。
「防衛省市ヶ谷台」を見学した後昼食休憩して、訪れたのがこの神社です。

通りから入っていくと、社号標があり、そこから石段を上がるようになっています。
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社号標
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この神社のホームページの説明です。
大田道灌は文明十一年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請し、これを鶴に対して、亀岡八幡宮と称しました。のちになって、外濠が完成すると、さらに外郭の地、市谷の稲荷社地内に遷座【せんざ】。この稲荷神社が、現在の茶の木稲荷で、市谷には古くからあったものです。
鎌倉時代、この周辺は市買村と呼ばれ、豪族市谷氏が所領していたといわれています。その市買村の鎮守が、田の神をまつる稲荷神だったわけです。
江戸城と河越城を拠点に、太田道灌の名声が高まるにつれ、その実力に不安を抱いた主君の上杉定正は、道灌を相模国糟谷の館によびよせ、浴室で斬殺してしまいました。五十五歳の生涯でした。
この由緒ある亀岡八幡宮も、天正年間に戦火で破壊され、荒地と化してしまいました。慶長のころ、この荒廃に憤激した、別当源空少僧都【そうず】は自力で再建しましたが、むかしの規模にはくらべようもありません。 徳川家康が江戸城入城の折、当社の由来をたずね、その後、三代将軍家光から莫大な援助がありました。元禄十五年、将軍綱吉の母桂昌院が亀岡八幡宮の来歴を聞き、神輿【みこし】のたらないのを悲しまれて、黄金を寄進。これによって、三基の神輿が完成するとともに、社のにぎわいも、ますます盛大になって行きました。桂昌院は、たいへん信仰深い方だったのです。 同じ元禄年間に綱吉の側用人で、その権威並ぶ者なしといわれた柳沢吉保が、当社に参詣し、詩歌を献上しています。また、お参りのおり、境内に立ちならぶ露店の品々を、残らず買い上げ、露天商を感激さたという逸話もあります。
石段の上には、江戸八所の一つである時の鐘があって、江戸ッ子に時刻を知らせていましたが、明治初年の神仏分離の際に、”神社内に、鐘撞堂【かねつきどう】あるべからず”の達しによって、これを撤去してしまいました。むかしは、七ツの時(午後四時)を合図に境内の諸門をいっせいに閉じたのです。

広重の『名所江戸百景』、「市ヶ谷八幡」です。
銅鳥居の辺からの眺めが素晴らしそうなのと、門前の賑わいがわかります。
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『江戸名所図会』の「市谷八幡宮」の一部です。
銅鳥居が書かれていて、その上の鐘楼の辺には茶屋や芝居小屋があり、大変にぎわっていたことがわかります。
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石段を上がっていくと途中に「茶の木稲荷」があります。
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わりと大きな狐でした。
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拝殿
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あとで石段を上がっているときに撮った本殿。
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ご祭神は、:稲荷大神・保食神

神紋は「包み抱き稲」
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文化元年(1804年)建造の、銅造明神鳥居。
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社額は播磨国姫路藩3代藩主酒井忠道の筆による鳩文字。
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鳥居をくぐると素晴らしい狛犬が。
享保十四年(1729)造立の、古江戸型狛犬。
なんと、2010年に山形県山辺町畑谷/三嶋神社から里帰りしたものだそうです。
私が今まで撮影してきたなかでも、古いほうから13番目に入ります。
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さらに石段を上がると、また良い狛犬が。
文化元年八月(1804)造立の、江戸尾立型狛犬。
阿像に宝珠、吽像に角があります。
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手水舎
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拝殿
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屋根には、神紋「右三つ巴」が。
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向拝
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拝殿内部
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本殿
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ご祭神は、:誉田別命、気長足姫尊、与登比売神

この神社に伝来する、太田道灌奉納の軍配団扇の写真を載せておきます。
新宿区の文化財となっています。非公開。
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境内社

石段の途中にある、金刀比羅宮。
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社殿前左側にある、出世稲荷。
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力石
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防衛省市ヶ谷台見学

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10月6日(火)に、歴史クラブ行事「市ヶ谷探訪ツアー」に参加しました。
探訪したのは「防衛省市ヶ谷台」、「市谷亀ヶ岡八幡宮」、「新宿歴史博物館」です。

現在の地図
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明治17年測量地図
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外堀以外は、道もあまり変わっていません。
明治17年の地図は測量地図なだけあって、地形もかなり分かります。

今日の目玉は、なんといっても「防衛省市ヶ谷台」です。
旧大本営跡ということで、歴史的なものが偲ばれる場所です。
ここの見学は人気があり、幹事は予約を取るのに苦労したようです。

防衛省のガイドマップによると、ここの庁舎群は全体として「平等院鳳凰堂」をイメージとした、左右対称、大回廊を採用している。
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全体図
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入り口は、やはりものものしい警戒です。
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受付を待つ。
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前の道から、グワッとせり上がった高台に位置するので、受付から入ると建物が堂々と聳えている感じ。
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A棟のヘリポートから、ヘリが飛び立っていった。
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庁舎のある高台に上がるのに、まずエスカレーターで(笑)
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A棟の前で、防衛省のガイドさんから説明、注意を受ける。
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庁舎の前にある回廊を進んでいき、ちょうど玄関に差しかかった時に、一台の車がつき降りて来たのが中谷防衛大臣。
政治家らしく「どこからいらしたんですか・・・・・」など笑顔で会話してくださった。

○市ヶ谷記念館
旧陸軍士官学校本部だった陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館の一部を同敷地内に移築・復元し開設したものです。
昭和21年(1946)極東国際軍事裁判が開かれた大講堂などを公開している。
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白いバルコニーがまず目に入りますね。
作家の三島由紀夫が、昭和45年11月25日に一号館で東部方面総監部の総監を人質にして立てこもり、バルコニーで演説したあと割腹自決しました。

きれいな建物ですね。
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記念撮影をしました。
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玄関
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玄関を入ると、「桜」と「時計」が左手に置いてありました。旧一号館のシンボルでした。
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市ヶ谷記念館1階の大講堂。
ここは、昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として作られました。
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戦後昭和21年5月から昭和23年11月まで、東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷として使われた歴史的な場所でもあります。

天井のライトは、大講堂建設当時(昭和9年)に作られたもので、電球以外は当時のものをそのまま使っているそうです。

ビデオで説明を受けました。
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大講堂の正面の、天皇の玉座。
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壁紙が美しい。
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玉座のあるステージから見た全景。
正面の二階に、三島事件のあった部屋などがあります。
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ステージ脇の階段。右側が天皇陛下専用の階段。陛下が歩きやすいよう、こまごまとした工夫がなされている。
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大講堂の壁沿いに、色々と陳列されていた。

夏用軍服
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陸軍中将正装
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コート
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儀礼用軍服
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軍刀の陳列
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荒木大将愛用の軍刀
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大講堂の菊のレリーフ
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ここで行われた東京裁判の写真を載せておきます。
全景
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裁判官席
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被告席
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二階に上がり、「旧陸軍大臣室」
三島事件のあった場所。
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部屋の中央には、旧1号館の50分の1の復元模型があります。
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玄関に置いてあった「桜の紋章」がある。
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部屋は三島由紀夫が演説をしたというバルコニーにつながっている。
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この部屋は三島由紀夫が刀をふるった部屋ということで、その際の刀傷が扉になまなましく残っていた。
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その隣には、便殿(びんでん)の間があり、士官学校時代、陛下のご休憩所として使われた部屋です。
その後は、陸上自衛隊幹部学校長室として使われました。
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便殿の間は壁がやたらに厚く、50センチくらいはあったようですが、中は空洞になっています。
これは、冷房などがなかった時代に、地下から冷たい空気を上らせて、 部屋を涼しくし、陛下が過ごしやすいようにするための工夫なのだそうです。
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重厚なデザイン。
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窓際にも、空調の吹き出し口が。
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昭和9年の群馬県の特別演習の写真がありました。
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中央に昭和天皇陛下。
後ろに鈴木貫太郎氏が付き添っています。
侍従長、枢密顧問官も兼任。二・二六事件の際は襲撃されるが一命を取り留めた。陛下の信認が厚く終戦間際、陛下の要請で首相を引き受け、陸軍の反対を押し切って大東亜戦争を終戦に導いた。
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右から5人目が山本五十六大将。
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二階ロビーからの大講堂。
遠近法を利用しているのがよくわかる。
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二階廊下に飾られた歴代校長。
大山巌の顔があり。
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これで、市ヶ谷記念館を後にしたが、今年がツアー15周年とのことでした。
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そこから、厚生棟にいき休憩。
ここで、色々なお土産を購入できる。
私は好きな「海軍カレー」を購入。やはり美味しかった。

○屋外ヘリ展示場。
陸上自衛隊で実際に使用されていた多用途ヘリ「UH-1H(ひよどり)」が展示されています。
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今日お世話になったガイドさん。
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○メモリアルゾーン
自衛隊殉職者慰霊塔、雄健(おたけび)神社跡、市ヶ谷台の各所に点在していた記念碑等を移設してあります。
ちょうど、大規模な修復中で、近くには入れませんでした。
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儀仗広場に戻ってきて、解散前のあいさつ。
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目の前で、何かの訓練をしていた。
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ガイドさん、案内ありがとうございました。
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前津見(まえつみ)/日本の神々の話

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『古事記』の応神天皇の巻、「天之日矛の渡来」に登場し、新羅の王子「天之日矛」が日本に渡来して「前津見」を娶り、その子孫が神功皇后、応神天皇であることを語っています。

ちょっと長くなるが、載せておく。
 (現代語訳)
 また昔、新羅の国王の子で、名はアメノヒホコという者がいた。この人がわが国に渡って来た。渡来したわけはこうである。新羅の国に一つの沼があって、名は阿具奴摩といった。この沼のほとりに一人の賎(しず)の女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。また一人の賎の男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そこでその様子をうかがっていた賎の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。
 この男は、田を谷間に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中にはいって行くとき、その国王の子のアメノヒホコに出会った。するとヒホコがその男に尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」 といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れようとした。その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」といった。けれどもヒホコはやはり赦さなかった。そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。
 それでアメノヒホコは、その賎の男を赦して、その赤玉を持って来て、床のそばに置いておくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。それでヒホコは少女と結婚して正妻とした。そしてその少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。ところが、その国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、ただちにひそかに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾(ひめこそ)神社に坐すアカルヒメという神である。
 そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。それで、またもどって、但馬国に停泊した。ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女(むすめ)マヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。この人の子はタヂマヒネであり、その子はタヂマヒナラキである。この人の子は、タヂマモリ、次にタヂマヒタカ、次にキヨヒコの三人である。このキヨヒコが、タギマノメヒと結婚して生んだ子が、スガノモロヲ、次に妹のスガクドユラドミである。そして上に述べたタデマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメノ命が御母である。そして、そのアメノヒホコの持って渡って来た宝物は、玉つ宝といって珠の緒二連、それから波を起こす領巾・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾・風を鎮める領巾、および沖つ鏡・辺つ鏡、合わせて八種である。これらは伊豆志神社に祭る八座の大神である。

「マヘツミ」というのは、多遅摩(たぢま)の俣尾(またを)の女(むすめ)、名は前津見(まえつみ)。
「オキナガタラシヒメノ命」というのは、息長帯比売命すなわち神功皇后のこと。
「伊豆志神社」は、兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定されています。

ここで語られている内容を、整理して系図にするとこうなります。
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ここで、私たちが頭に入れておかなくてはならないのは、ヤマト朝廷が編纂した記紀にはっきりと、新羅から渡来した人物の子孫が神功皇后、応神天皇であると書いていること。
その系図が、もちろん天皇:の系図に繋がっているわけです。
もちろんヤマト民族(天孫族)は、高天原から天下ったわけではなく、朝鮮半島から渡来した民族だというのは定説となっていると思いますが。
隣同士だから当たり前かもしれませんが、韓国とは兄弟の国だということですね。

また、「天之日矛」について注目して調べているのだが、その伝承は広範囲の各地に残り、なかなかまとまりがつかない。
渡来人がもたらした各種の産業の中でも製銅、製鉄産業との関連が強い。
そもそも神功皇后の名「オキナガタラシヒメ」の「オキナガ」とは「金属の精錬に使うフイゴの風」を意味していると、書いてある本があって、納得した。



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飽富(あきとみ)神社(延喜式内社)/千葉県袖ヶ浦市

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鎮座地:千葉県袖ヶ浦市飯富2863

9月25日に、歴史クラブ行事で上総国の式内社5社を回ったが、「橘樹神社」、「玉前神社」、「島穴神社」、「姉埼神社」に続いて、この日最後に参拝した神社です。

道から石段を上がると鳥居があり。
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延書式内社 上総国・「飽冨神社」、元県社
延書式神名帳を確かめると、記載名は「飽冨神社」と、「とみ」が点の無い「冨」と書かれている。そして、「アキトミ」と仮名がふってある。

最初に説明しておくと、「島穴神社」、「姉埼神社」、「飽冨神社」は、奈良時代の「東海道」に沿っている。
この時代には、東山道を「山の道」として武蔵国府を通り、「東海道」が「海の道」として上総国府を通る道として設定されていた。
江戸時代の日本橋を起点とした東海道とはまったく違う道である。
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社伝によると第二代綏靖天皇(すいぜん)元年に天皇の兄・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)が創建したと伝えられている。現在の主祭神は「倉稲魂命」と言う五穀豊穣の神である。
社名になっている飲富氏の祖神「神八井耳命」を祭神とする説もある。
◇この鎮座地は、古代は海であったがその後、土地の隆起や小橋川の土砂が堆積したりして、この入海は次第に潟となり、芦荻の茂る沼沢地となっていった。そこへ、古墳時代の終わり頃、有力な首長(飲富氏)を中心とする集団が来て定住し、この広大な沼沢地を開墾し、生産力の大きな農地を造りだしたものと思われ。境内地付近には円墳も確認されており、古くからの開拓地であったことを偲ばせます。
◇創建したとされる「神八井耳命」は神武天皇の皇子で帝位を弟の綏靖天皇に譲り、弟の天皇を補佐するとともに自らは神祇を司る斎人(いわいびと)となった方である。その子孫は多くの氏族に分かれて、全国に分布し、いずれもそれぞれに繁栄し。「古事記」にも意富臣(オオノオミ)、長狭国造などの祖であると書かれている。上総の国望蛇郡の飲富氏の一族は隣接する長狭の国から移動してきたとの推定もある。多臣という氏族は、これま での忌部、物部、蘇我、日本武命などとは別系統の氏族のようである。なお「古事記」の編者「太安万侶」も「多」氏の一族と言われる。「多氏」は日本古代に活躍した古代氏族で、大、太、意富、飲富、於保などとも書くがすべて「おお」と読ませている。神武天皇の御子である、神八井耳命の後裔と称し、いわゆる皇別に分類される氏族である。
◇ 鎮座地の現地名は「飯富」という。古来は「飲富(オオ)」と呼称されており、いつしか「飲」が「飯」と誤って伝承されたものとされる。神社の名称は「飽富」であり、飲富が飯富、そして飽富となり、さらに飯富に復帰と誤って呼称されたようである。

手水舎
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天保9年(1838)造立の狛犬
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拝殿は入母屋造り。
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向拝部分は、華麗な彫刻です。
雨のため、きちんと撮れなかったのが残念。
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社額
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拝殿内部
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絵馬
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本殿は流造ですが、拝殿と繋がっており権現造りとなっています。
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ご祭神は、倉稲魂命、大己貴命、少彦名命

また当社は国家鎮護、ことに福神五穀成就の神霊故に、社中に源家の大将、鎌倉の右大臣、頼朝公を、白幡権現として勧進し奉り、又、新田義貞公を新田八幡として勧進し奉る。また本殿右脇には東照宮が鎮座する。

神紋は「五七桐」と「十六弁菊」
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境内には沢山の末社があります。なんと「75社」とのことです。
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社名は木札に墨書されており、全て撮ったのですが、文字がかすれてしまって読めないものあり、75坐すべては明らかになりませんでした。
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それでも72坐までは明らかになりました。
神社については、祭神が明らかなものは括弧内に書き込みました。

金刀比羅宮(大物主命)
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末社
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内訳は:
・大王大明神
・大山祇神社(大山祇命)
・龍田大神宮(天御柱命、国御柱命)
・彦龍大明神
・姫龍大明神
・東明大明神
・大田命宮(大田命:猿田彦神の子孫)
・牛頭天王宮(須佐之男命)
・三之宮大神
・稚産大明神(和久産巣日神)
・福王神社(毘沙門天)
・澳津彦神(奥津日子神)
・澳津姫神(奥津比売命)
・香取大神宮(経津主大神)
・鹿島大神宮(武甕槌大神)
・白鳥大神宮(日本武尊)
・大将軍神(仏教での本地:他化自在天)
・酒解大明神(大山祇神)
・石凝姥神社(石凝姥)
・柳葉大明神
・白狐大明神
・東鎮神社
・子安大明神(木花咲耶姫)

東照宮(東照大権現・徳川家康)
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彫刻が素晴らしい。
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末社
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内訳は:
・久保田 八幡神社(誉田別尊)
・三ツ作 三輪大明神(大物主神)
・野田神社
・伊邪那岐・伊邪那美神社
・下?? 若宮八幡神社(大鷦鷯尊)
・大巳貴大神
・少名彦大神
・住吉大明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)

末社
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内訳は:
・稲荷大明神(宇迦之御魂神)
・藏波 八幡神社(誉田別尊)
・疱瘡神
・庚申 猿田彦大神
・月山神社(月読命)
・卒土神社(埴安姫?)

末社
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内訳は:
・菅苞大明神
・岡象大明神(罔象女神)
・草姫大明神
・岐大明神
・海神之宮
・高之宮
・合云鬼大明神
・天雲神社
・茅輪大明神
・飯取大明神
・服部大明神
・第二大神宮
・第四大神宮
・第五大神宮
・飯粥大明神
・見通大明神

末社
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内訳は:
・会山井大神
・高原大権宮
・玄畑大権言
・米倉大権言
・秋口大権言
・飯岡大権言
・薬加大権言
・広田大権言
・飯森大権言
・清北大神宮
・東光取大明神
・花輪之大明神
・初杉大明神
・軻遇突智社
・木花浅間宮

末社・子育て弁天宮(淡島神社)(淡島大神)
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末社・太宰府天満宮(菅原道真)
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これで72座は明らかになっています。

あと、不明な石祠が並んでいたが、この数から「75座」以外のものということになります。
明治になって、近在から合祀されたものではないかと思う。
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出雲大社遥拝所がありました。
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速佐須良比売(はやさすらひめ)/日本の神々の話

20151004

私はこの神に、三峰神社境内祓戸神社と阿伎留神社境内祓戸大神社にてお参りしました。

神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになります。
なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

『延喜式』の原本(文亀3年(1503)写本⇒江戸城紅葉山文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館蔵)の該当する部分の画像を載せておきましょう。
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速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。

速佐須良比売は、根の国との関連から、根の堅洲国にいる須佐之男命とする説や、大国主神を根の国で迎えた、須佐之男命の娘の須勢理毘売と同じ神であるとする説もある。 さらに、大国主神を根の国へ逃がした大屋毘古命や須勢理比売命を生んだ佐美良比売命のことであるとも連想できる。

なお、本居宣長は、『古事記』において伊邪那岐命が「禊祓」をする場面をとりあげて、
瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てていますが、当てているだけでその神と同一視されるほどのものではないとしています。



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姉埼(あねさき)神社(延喜式内社)/千葉県市原市

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鎮座地:千葉県市原市姉崎2270

9月25日に、歴史クラブ行事で上総国の式内社5社を回ったが、「橘樹神社」、「玉前神社」、「島穴神社」に続いて、この神社に参拝した。

午前中は雨が降ったり止んだりだったのだが、この神社は雨中での参拝となりました。

境内は下図のようになっていますが、バスを駐車場に入れたので裏参道の神門から入り、雨の中、団体行動ということで、表参道の一の鳥居、二の鳥居、竜宮神社、水祖神は行けませんでした。
回った場所でも、撮りこぼしたところがけっこうあります。
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神門の前の鳥居から入ります。
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神門
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内側には、「萬世太平」の額が。
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社格等は、上総国延書式内社(小)、旧県社。

由緒:
『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇40年、日本武尊が東征の際、走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭ったが妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた。社伝では、日本武尊が当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗辨命を祀ったのが当社の始まりとつたえる。
日本武尊の没後、父である景行天皇は日本武尊の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊を合祀した。成務天皇5年、当地を支配していた上海上(カミツウナカミ)の国造の忍立化多比命(オシタテケタヒコノミコト)と塞三柱神(サエノミハシラノカミ)を合祀し、履中天皇4年、忍立化多比命の孫の忍兼命(オシカネノミコト)が大雀命(オオササギノミコト)を合祀した。姉崎一帯は上海上(カミツウナカミ)国造の勢力の中心地であり、多くの古墳(姉崎古墳群ほか)が残っています。平安時代中期の『延書式神名帳』には「上総国海上郡姉埼神社」と記載され、小社に列している。

かっては島穴神社と深い関係にあり、神輿が両社を行き来していた。

その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀剣一振りが奉納された。ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬揃えをして、武運長久を祈願したという。
さらに関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。元和4年(1618)11月にはこの地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、藍屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。
明治維新後、当地は木更津県となり、近代社格制度において県社に列格した。

当社境内には松の木がない(境内の木々は多くが杉の古木である)。松をきらう由来や地名の起源については以下のように諸説あり、混在している。
あるとき支那斗弁命が、出かけたきり(旅に出たきり、とも)いつ帰ってくるかわからない志那都比古尊を思い、「待つのはつらい」と嘆いたことから、「待つ」に通じる「松」が当地では忌まれるようになった(なお、参道の前を走る平成通りが開通すれば、島穴神社と一本道で結ばれることになる)。
支那斗弁命と志那都比古尊がこの地を訪れた際、姉神(支那斗弁命)の方が先に来て当地で弟神(志那都比古尊)を待ったので「あねがさき」という地名になった(この時「待つ身はつらい」と言ったという説もある)。
元々の地名は「姉ヶ松」であったとする伝承も存在する。この地では姉妹がいる家からは妹ばかりが先に嫁いで行き、姉が実家に長く残ることが多かったとされ、「あねがまつ(姉が待つ)」という地名にその原因があるのではと考えた人々が、姉から先に嫁に行けるようにとの願いを込め、地名を「あねがさき(姉が先)」に変えたのだとされる。

また、氏子区域内では正月に松を飾らないという風習がある。したがって門松を飾ることも避けられ、松ではなく榊を用いた門榊(かどさかき)が飾られる。

地名は姉崎だが、社名は「姉埼神社」と「埼」の字をあてる。
『延喜式神名帳』は「姉埼神社」である。
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広々とした境内
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手水舎
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社殿は、銅板葺きで、流れ造りの本殿、入母屋造りの拝殿。権現造り(右の本殿から左の拝殿までが接続し1棟となっている)。
昭和61年に火災で焼失し、昭和63年に再建。
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多くの神社は南向きに建立されているが、姉埼神社は西向きに(海を望む方角)建立されている。
社伝に云う「弟橘姫(おとたらばなひめ)」を偲ぶためであろうか

これが表参道を上から眺めたところ。
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三の鳥居前の、昭和4年造立の狛犬。
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三の鳥居
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続いて、文化6年(1809)造立の狛犬
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拝殿までまっすぐの参道
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茅の輪が常設してありました。
いままで私が経験していたのは、「夏越の祓」で茅の輪をくぐるというものでした。
常設は珍しいと思う。
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拝殿
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注連縄が独特
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社額
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拝殿内部
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本殿
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主祭神:支那斗辨命(しなとべのみこと)
配祀神:日本武尊 (やまとたけるのみこと)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、塞三柱神 (さえのみはしらのかみ)、大雀命 (おおささきのみこと、仁徳天皇)

神紋は「伍七の桐」
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境内社に移ります。

浅間神社
富士塚となっています。古墳でもあります。
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小御嶽碑
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食行身禄が入定した「烏帽子岩」
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磐長比賣の碑
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頂上には「浅間大神」碑
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その近くには、「青葉台造成による遷座神」が祀られている。
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菅原神社(祭神:菅原道真)
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末社殿15社
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このように、祀られている神が表示されていたので、全て撮ってきました。
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15社とは次の神々でありました。
○日月神社(ひつきじんじゃ) (祭神:日神・天照大神、月神・月読尊)
○稲荷神社(祭神:倉稲魂命)
○竈神社(かまどじんじゃ) (祭神:奥津比古命、奥津比売命、火産霊命)
○大國主神社(祭神:大國主命)
○神武天皇神(祭神:神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)
日本で初めての天皇。 神武天皇の呼び名は奈良時代につけられた謚号とされる。
○子安神社(祭神:木花咲耶姫命)
○奥宮神社(祭神:伊弉諾命、伊弉册命)
○大宮神社(祭神:国常立命)
○日枝神社(祭神:大山咋命)
○石凝神社(いしこりじんじゃ) (祭神:石凝姥命(いしこりどめのみこと)
三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を作った神。
○雨降神社(あふりじんじゃ) (祭神:大山衹命)
○粟島神社(あわしまじんじゃ) (祭神:小名彦名命)
○白鳥神社(祭神:日本武尊)
日本武尊は死後、白鳥となり都を目指したとの神話がある。
○新波々木神社 (あらはばきじんじゃ) (祭神:句句廼駆命(くくのちのみこと))
○大六天社(だいろくてんしゃ) (祭神:面足尊命、惶根尊)

帰ろうとして、神門をくぐったときに横に「東照宮」があるのを発見。
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すぐ近くに、前方後円墳があり、「海上家奥津城」もあるので、その辺を見られなかったのが残念でした。



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島穴(しまあな)神社(延喜式内社)/千葉県市原市

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鎮座地:千葉県市原市島野1129

9月25日に、歴史クラブ行事で上総国の式内社5社を回ったが、「橘樹神社」、「玉前神社」に参拝したあと昼食後に、続いてこの神社に参拝した。

午前中は雨が降ったり止んだりだったのだが、この神社に到着する頃には、しっかり雨が降っていた。

一の鳥居は、バスの中から。
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宮之橋の手前でバスを降ります。
大正8年建設の石造の橋は、車は通行禁止となっている。
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社号標
延喜式武内社 上総国海上郡 嶋穴神社 小 、旧社格は県社。
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『古事記』・『日本書紀』によれば、景行天皇40年の日本武尊が東征の際、走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭ったが妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた。社伝では、そのとき弟橘姫が大和国の龍田大社の神に、無事に上総まで航行させてくれるのなら風鎮めの神を祀ると祈ったので、日本武尊は弟橘姫命の遺志に従いこの地に志那都比古尊を祀ったと伝える。
日本武尊の歿後の景行天皇57年、日本武尊の父の景行天皇は日本武尊東征の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊命・倭比売尊を合祀した。

明治6年(1873年)近代社格制度において郷社に列格し、明治12年(1879年)県社に昇格した。

旧社地:
北方約200m、線路を挟んだ地に所在。当社は元ここにあり、昔はかなりの広さを持っていたという。林の中に深い穴があってそこから常に清い風が常に吹いていることから、これは風の神である志那都比古尊のなすところとされ「島穴」の社名もこれに因むとされる。穴は確認されておらず不明で、古墳の石室であるという可能性も指摘されている。

地名の島野:
所在地の島野は、「和名抄」の烏穴郷に比定され、シマアナがシマナに、さらにシマノに変わったものであろうという。また、この地は「延書式」の兵部式に「大前、藤瀦、島穴、天羽各五匹」と記載され、上総国府から安房国府に通じる宮路で、上総国の古代交通の要所であったことがうかがえる。

二の鳥居
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手水舎
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文政8年(1825)造立の狛犬
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拝殿は杉・松・樺を使用、切妻造り、嘉永2年(1849)建立、平成元年屋根修復。
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拝殿に文政6年(1823)、老中・松平定信筆による「嵩穴神社」の扁額があり。
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社 殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体となって連なる権現造り。
本殿は流造り、天明3年(1783)建立、明治25年く1892)屋根を鋼板葺きに改め、平成元年屋根替え。
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本殿は、彫刻などの装飾が素晴らしく、また流れ破風の拝み懸魚はもちろん降り懸魚がこんなに数が多いのは初めて見た。
じっくり見たかったのと、雨がひどくて思うように撮影が出来なかったのは残念(泣)
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本殿背面にも、波の模様などの彫刻が多くて素晴らしかった。
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祭 神:志那津比古尊(しなつひこのみこと)
風の神。暴風を鎮め、人々の生活環境を守り豊かな恵みを与える神。「息長津彦尊(しなつひこのみこと)とも称される。市原市姉崎の姉崎神社の祭神・級長戸邊命(しなとペのみこと)の夫もし<は弟であるとの説もある。
副祭神は、日本式尊と倭比売尊。

神 紋は、「五七の桐」と「十六弁菊」でした。
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境内社です。

天神社(祭神:菅原道真)
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疱瘡神社(祭神:疱瘡神)
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第六天神社(祭神:面足尊、惶根尊)
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八雲神社(祭神:素戔嗚尊)
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三社合祀
子安神社(祭神:木花咲耶姫)
愛宕神社(祭神:火産霊命)
淡島神社(祭神:少名比古那神)
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浅間神社(祭神:木花咲耶姫)
富士塚となっている。
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頂上の「浅間大神」碑
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五合目の「小御嶽神社」
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厳島神社
祭神:宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)
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資料によれば、道祖神社があるはずだが、確認できなかった。

また、社名が確認出来ない石祠が二体あった。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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