須我神社

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鎮座地: 島根県雲南市大東町須賀260
参拝日:2015年11月13日

出雲大社前で昼食を食べてから、須賀神社に向かいました。
ナビの案内に従い、出雲インターから山陰自動車道に乗り、松江・玉造インターで降り、後は一般道を走りました。

午後はしっかりと雨になってしまい、ここと次の熊野大社は雨の中の参拝となりました。

入り口に鳥居、社号標、手水舎があり。
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社号標
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旧社格は県社。
『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされている。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。
風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。
本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、当社の奥宮となっている。この巨石は磐座であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものである。
天文年間(1532年 - 1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった。
明治25年(1892年)に県社に列した。

手水舎
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石段脇に「日本初之宮」碑
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石段を上がると神門があり。
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神門前に狛犬
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神門をくぐると、社務所の前を通って、石段を更に上がって社殿となる。
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社殿に上がる石段の脇に、須佐之男命が詠んだ、日本で最初の和歌の歌碑があり。
「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」
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石段を上がると拝殿。
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拝殿正面の石段を上がったところに狛犬
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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本殿
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主祭神:須佐之男命、稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(両神の子)
合祀:武御名方命

神紋は「二重亀甲に八雲」
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拝殿横にご神木
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拝殿横の石段を上がったところにも狛犬があり。
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摂末社を参拝します。
○海潮(うしお)神社(天神神社、大石神社、山神神社を合祀)
ご祭神は、宇能遅比古命、須我禰命、櫛名田姫命、手名椎命、事湯津比古命、少彦名命、足名椎命、伊邪那岐命、大山祇命。
注連縄のある拝殿と出雲造りの本殿からなる本格的な社である。
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狛犬
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拝殿内部
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同じ大東町南村に海潮神社があり、『出雲国風土記』大原郡海潮郷の条に「古老の言うには、宇乃治比古命が御祖の須我禰命を恨み、北方の出雲の海潮を押し上げて御祖神を漂わせたが、その海潮がここまで来た。ゆえにウシホという」という地名起源伝承が記されている。

○荒神社
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○若宮神社(稲荷神社、秋田神社、火守神社、琴平神社、木山神社が合祀)
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秋田神社は不明。
火守神社は、島根県出雲市宇那手町にある神社。料理祖神である櫛八玉命を主祭神とする。
木山神社は、岡山県真庭市の木山神社だと思う。祭神は牛頭天王。

○御仮殿
前に狛犬
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御仮殿
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○山上にある、御親神社、社日神社、義綱神社
ちょっと上りかけたが、雨のなか道が悪い為自重した。
義綱神社は、須賀城主・菅孫三郎義綱公を祀っている。南朝忠臣とのこと。
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○「踏まぬ石」
御親神社・社日神社・義綱神社の上がり口にあった。
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これで、須賀神社の参拝を終え、ここの奥宮である「夫婦岩」に参拝します。
夫婦岩に上がる入り口は約2キロ上った場所になり、車で向かいましたが細い道が続いて、途中で迷ったが、所々案内があったので上がっていけました。
この大きな看板を発見して一安心。
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ここから400m歩きます。
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60基建立された文学碑の路(ぶんがくひのみち)になっている。
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こんな感じで碑がある。
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途中に「神泉坂根水」がある。
禊場ですね。
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また、せっせと山道を上がります。雨のためぬかるんでいて歩きにくい。
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鳥居があり、ここから奥宮だということがわかる。
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急な階段の上にあるのが、そうか?
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あった(嬉)
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実に神々しく見える夫婦岩。
大きなものから須佐之男命、奇稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命。
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まさに、天から神が降臨するとされる磐座に間違いない。

横から見ると、巨石の間を通れるようだが、雨でぬかるんでいるので、通るのは控えた。
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後ろを振り返ると、深い山々が続いている。
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岩の前で休んでいると、眼下の道を二人連れが上がってくる。
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お二人と入れ替わりに下りはじめて、人を入れて撮れば大きさがわかるな、とパチリ。
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これで、須賀神社とその奥宮の参拝を終え、この日の最後の参拝地、熊野大社に向かった。


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古代出雲歴史博物館

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所在地:島根県出雲市大社町杵築東99-4
訪問日:2015年11月13日

出雲大社の参拝を終えて、次に向かったのはこの博物館です。
ここには、発掘された宇豆柱、古代の出雲大社の模型、荒神谷遺跡から発掘された358本の銅剣、銅鐸6個、銅矛16本があります。
私は2012年東京国立博物館で行われた特別展で見ていますが、カミさんにも見せたかったから。

出雲大社の銅鳥居前から外に出てこちらに来たので、博物館の後ろからアプローチしたことになります。
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出雲大社に居るころからポツリポツリと雨が落ちはじめ、博物館に向かうときにはどんどん雨が強くなってきたので、正面から入るときには走っていたので、正面の写真は無い(笑)

博物館の平面図
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中央ロビーに入ると、出雲大社本殿前より出土した「宇豆柱」が展示されている。
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2000年に発掘された「宇豆柱」である。
発掘時の写真
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目にするのは二回目だが、やはり実物を目の前にしたら、圧倒される。なにしろ巨大な柱を三本金輪でくくって一つの柱にしているのだが、その金輪の直径が3mである。ものすごい柱なのだ。
これが出土したため、古代の出雲大社の高さが48.5mもあった、いやそんなはずは無い、という論争に決着をみたのである。それが2000年という、ついこの間のことだというから、私も興奮してしまう。
そして、この柱が「大黒柱」の起源ともなっている。

これを裏付ける、平安時代の児童の「口遊」のなかで「雲太、和二、京三」という句があったそうである。
大屋では、出雲大社の本殿が太郎、次いで大和の東大寺の大仏殿が次郎、京の御所の大極殿が三郎、という意味で、この伝承からいっても出雲大社は大仏殿より大きくなければならない。

出雲大社の宮司を務める出雲国造家には、古代本殿の構造を示す「金輪造営図」が伝わっており、これが柱が発掘されたことで、実証された。
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古大出雲大社の復元模型
スケール 1/10
階段のスロープは100mくらいになるという。下から延々と続くスロープをあがっていく心地はどんなものだろうか。
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出雲大社の屋根にあった千木・勝男木
明治14年(1881)遷宮の御用材で、昭和28年(1953)遷宮の際に撤下されたもの。
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江戸時代の「大社縁結図」
出雲大社の「神在祭」で集まった神々が縁結びを行っている様を描いたもので、なかなか面白い。
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これは、明治時代に月岡芳年が描いた、「大社ゑんむすび」
縁を結び間違えて、追及する神様と、指摘されて逆ギレする神様などを描いている(笑)
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出雲風土記の時代の出雲地方
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現在の出雲地方。ずいぶんと違う。
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出雲風土記の最初の版本「訂正出雲風土記」
江戸時代後半、千家俊信が校訂(他の写本と比べ合せて正す)した最初の版本。
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古代の暮らしのコーナー
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面白いものがあった。
絵馬のルーツは、馬の奉納である。
雨を願うときには黒毛の馬を、晴れを願うときには白毛馬をそれぞれ献納した。
古代にも、そういうことが行われていた。
展示されていたのは「土馬(どば)」
雨乞いや祓えの呪具だそうである。
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現代の道具と形が同じものが多い。
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荒神谷遺跡から発掘された銅剣
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1984年、荒神谷遺跡から358本の銅剣、銅鐸6個、銅矛16本が発掘された。
そして、1996年に加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が発掘された。
その結果、出雲地方に、やはり強大な勢力が存在したことが実証された。

古事記のなかに、出雲系の神話がかなりの部分に取り入れられているのは、やはりそれだけの勢力が存在したからなのだということが実感できる。

梅原猛氏が「神々の流竄」という本を書いたときは、まだ発掘される前だったので、出雲には強大な勢力は無かったということで考察されていた。
そして、この発掘の結果を踏まえて、2010年に「葬られた王朝」という本を書いて、「神々の流竄」の内容を訂正している。
今回、私の出雲訪問にあたっては、「葬られた王朝」を参考にさせてもらっている。

2012年東京国立博物館で行われた特別展に続き二回目なので、今回は細かいところを落ち着いてみることが出来た。

加茂岩倉遺跡発掘の銅鐸
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製作時の赤銅色にかがやく銅剣、銅鐸
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多数の銅鐸の展示に圧倒される。
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かなり鳴らした痕跡のある銅鐸
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どうして大量の銅鐸が埋まっていたのか?
使用された銅鐸が埋められた、ということは一つの重大なヒント。

顔が描かれた銅鐸
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「兄弟銅鐸」
同じ鋳型で作られた複数の銅鐸。
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ウミガメが描かれた銅鐸
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シカの群れが描かれた銅鐸
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馬上の大首長
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外交使節を迎える額田部臣たち
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埴輪と一緒にものすごい「子持ち壺」があった。
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満足して博物館を出ました。
雨は、かなり激しくなっていた。
午後に参拝する予定のお宮は、山の中なんだよなと、ちょっと重い気分で出雲大社前のお店で昼食。
やはり出雲そばと出雲ぜんざいを食べました。
ぜんざいは出雲発祥だそうです。


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出雲の國一之宮・出雲大社

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所在地:島根県出雲市大社町杵築東195
参拝日:2015年11月13日

命主社(いのちぬしのやしろ)に先に参拝し、真名井の清水にも寄って、いよいよこのお宮に参拝です。
本当なら、ここにはそうそう来られないのでじっくりと参拝したいところだが、今日はこの後山に入って須賀神社、熊野大社にもお参りする計画なので、ちょっと駆け足めいた参拝となりました。

とにかく広いです。
境内図
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大鳥居はパスして、勢溜の鳥居からスタートです。
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ここは、「ブラタモリ出雲編」で教わりましたが、かって砂丘の頂上だったところで、浜から上がってきてここが一番高く、ここからまた参道は下っていくと、珍しい「下り参道」になっている。

社号標
21日から神迎祭ですよと表示がされていた。
社格等:延喜式内社 杵築大社(名神大)、出雲国一宮、官幣大社、勅祭社、別表神社
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延喜式神名帳には「杵築大社(名神大)」と載っている。
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出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
『古事記』:
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。
『出雲国風土記』出雲郡杵築郷:
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。
『出雲国風土記』楯縫郡:
神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。
『日本書紀』:
崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。
『古事記』:
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

季節柄、菊が奉納されていた。
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このように、参道が下っていく。
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◇末社・祓社
御祓いの場所が用意されている神社では、ちゃんとこういうところでお祓いしてからお参りすべし。
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◇浄の池
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◇末社・野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)
ご祭神:野見宿禰命(第13代出雲國造・襲髄命(かねすねのみこと)にあたる)
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ここでは、そこら中にウサギが居るが、ここにも褌をしめたウサギが(笑)
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メタセコイアがあるな、と思い近づくと「あけぼのすぎ」という和名があった。
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◇「水辺を歩く」像
帰ってから、この像の情報を探したが不明。
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◇祓橋
横に禊場らしき石段があった。昔はここで禊をしたのではないか。
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祓橋を渡ると、松の参道が始まる。
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◇鉄の鳥居と神橋のなごり
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◇松の参道
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とても気持ちのいい参道です。
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◇ムスビのご神像
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『日本書紀』:
(少彦名神が常世国に渡ってしまわれて、)これより後、国の中でまだできていないところは、大己貴神(大国主大神)が独りで巡ってよく国造りされた。ついに出雲国に至って言葉に出されて言われた「葦原中国(日本の国のこと)は元々荒れていた。岩や草木に至るまでことごとに暴れていた。しかし、私は既にくじいて皆従わないものはない。」そして、「今この国を治めるのは私独りだけだ。私と共に天下を治める者はいるだろうか。」と言われた。
 その時、不思議な光が海を照らし、突然浮かび上がってきたものがあった。そして、「もし私がいなければ、汝はどうやってこの国を平らげることができただろうか。私の存在があったから、汝は国造りの大きな功績をあげることができたのだ。」と言われた。この時に大己貴神は「それでは汝は誰だ。」と聞かれた。それに答えて「私は汝の幸魂奇魂だ。」と言われた。大己貴神は「そうだ。了解した、汝は私の幸魂奇魂だ。今どこに住みたいと思うか。」と聞かれると、「私は大和の三諸山に住みたいと思う。」と言われた。そこに宮を作っていって住まわれた。これが大三輪の神である。
ということで、大己貴神の幸魂奇魂は、大神(おおみわ)神社のご祭神「大物主神」のことだとなっている。
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幸魂とは、一つのものから多くのものが派生し発展していく魂の意味、奇魂は、多くのものを一つにまとめる魂を指す。オオクニヌシは、自分の生命に内在する幸魂奇魂の偉大な霊力を悟ることで国づくりを達成できたとされている。

◇手水舎
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◇銅の鳥居
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◇拝殿
室町時代の1519年に尼子経久が造営。名工の坪井大隅守が華・青龍・松竹梅など豪華絢爛で高く評価したが、1953年5月27日午前1時ごろ本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に鑽火殿(さんかでん)から出火、拝殿まで及び姿は消えてしまった[20]。原因は餅つき場の残り火の不始末だった。
復興事業として、高松宮宣仁親王を総裁として、設計を担当したのは神社建築学の福山敏男博士、1959年に完成した。
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神楽殿にかかっている注連縄より小さいとはいえ、ものすごい大きさである。
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◇八足門
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特別エリアの瑞垣に設けられた門で、正月三が日など特別な日や祈祷(きとう)を受けた人以外は入ることができません。
ツアーのオプション等で事前に予約をすれば入れます。私もフリープランのツアーということでJTBで飛行機や宿を手配したので、申し込めば入れたのですが、時間が12:30からと14:00なので、今回神社を10社くらい参拝したいという計画にうまく合わなくて、今回は入るのをあきらめました。

八足門で入り口からの楼門
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八足門の彫刻が素晴らしい。
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ご祭神:大国主大神
御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった。
やがて、神仏習合の影響下では、一時素戔嗚尊の時代があった。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

神紋は「二重亀甲に剣花角」
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花角紋は花菱紋と混同されがちだが、花の形が菱形ではなく、隅立角形であるのが特徴。

◇本殿
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。

本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈(48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。
この説については賛否両論あるが、2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘され、往古32丈(およそ96m)あったとする説が優勢となっている。

出雲大社の遷宮は概ね60〜70年毎に行われていて、2008年の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われ、2013年5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われた(平成の大遷宮)。

本殿を瑞垣の外から眺める。
瑞垣の外に水路や溝があるため、瑞垣に近寄れず、瑞垣の隙間からカメラを入れて本殿全景を撮るということが出来ない(泣)
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瑞垣の中に、本殿と一緒に鎮座している摂社も屋根しか見えなかった。
◇摂社
○門神社(もんじんのやしろ) - 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。
○伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) - 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
○大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) - 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
○神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) - 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。

それぞれ式内社とあるが、延喜式神名帳にこのように載っている。
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◇本殿瑞垣外出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) - 式内社。父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
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◇本殿の後ろに、出雲国造奉納のウサギ(平成の大遷宮記念)
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◇彰古館
大正3年(1914)に出雲大社全体の宝物館として造られたもので、趣がある建物。
大小の大国様、恵比寿様がずらりと並ぶほか、神楽用の笙やひちりきなどの楽器類、神社に伝わる古文書類も多数展示。
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入り口に「野見宿禰像」
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八雲琴
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色々な大黒様が並んでいた。
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◇氏社(うじのやしろ) - 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
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◇釜社(かまのやしろ) - 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
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◇十九社(じゅうくしゃ) - 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。
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◇神楽殿
明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本最大である。
神楽殿では婚礼なども執り行われている。
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巨大な注連縄
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こんなところにお賽銭が(笑)
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狛犬が侍っていた
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◇神牛・神馬
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◇御慈愛の御神像
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◇縁むすびの碑
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三々九度の杯をしていた(笑)
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うさぎ石像
いままで各所にあったウサギを載せてきたが、これは平成の大遷宮を記念して置かれたものだそうです。
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これで、出雲大社の参拝を終え、次いで隣の島根県立古代出雲歴史博物館を見学しました。


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御食津神(みけつがみ)/日本の神々の話

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この神は、石見國一之宮・物部神社の相殿神のうち「鎮魂八神(たましずめやはしらのかみ)」の一柱としてお参りした。
鎮魂八神とは、高皇産霊神、神皇産霊神、魂留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御食津神であった。

別名:御食神:みけつのかみ、御膳神:みけつのかみ、大御食津臣命:おおみけつおみのみこと、大御食津命:おおみけつのみこと、大御食津彦命:おおみけつひこのみこと、大御食津姫命:おおみけつひめのみこと

食物を司る神である。

『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀った八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。

『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。

延喜式神名帳(文亀3年(1503)写本⇒「紅葉山文庫」⇒内閣文庫⇒国立公文書館収蔵)の該当箇所
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応神天皇が太子の時代に越前敦賀の気比大神(伊奢沙和気大神之命)と名を交換した話によって、敦賀の氣比神宮の祭神・伊奢沙和気大神之命と同神ともされている。
その話とは、敦賀の仮宮で、伊奢沙和気大神之命が太子の夢に現れ、「私の名を御子の御名に変えたい」と告げ、 太子が承諾すると「明日の朝、浜へお出かけください。名を変えたしるしの贈り物をさしあげましょう」と言った。
翌朝、太子が浜へ出てみると、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集まっていた。 太子は「神が私に食料の魚を下さった」といい、神の御名を称えて御食つ大神と名づけた。
古代において名は霊威のこもる実体と考えられたから、その交換・命名は、 相互の霊的、社会的関係(支配や服属など)の更新を意味した。 名易えの結果、気比大神が「御食つ大神」と称えられたことは、 大陸交通の要衝であった越前敦賀と宮廷が食物献上を通して新たな服属関係を結んだことを意味する。
また、敦賀の伊奢沙和気大神之命は、天日槍命、あるいはその後裔と思われる。 母の神功皇后も天日槍命の末裔であり、祖神に挨拶することで皇位を継ぐ準備ができたとも思われる。
「ナ」は「魚」を暗示する謎掛けになっており、翌朝海辺に打ち寄せられたイルカを見て太子は「神が御食の魚を下さった」と、 見事にその謎を解いた。そこには難題克服による太子の成人を称える意味もある。


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稲佐の浜・出雲阿国の墓・命主の社・真名井の清水

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所在地:島根県出雲市
訪問日:2015年11月13日

出雲市内のホテルで朝食後、8:30ころ出発して、最初に向かったのは「稲佐の浜」。
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【稲佐の浜】
ここには、どうしても寄らないといけない。
何故ならば、ここが「国譲り」の舞台だから。
そして、「神在月」の旧暦10月10日から17日まで、出雲大社では全国から神々をお迎えして、神迎神事、神在祭などが執り行われるが、神在祭の前夜、稲佐の浜では、神々をお迎えする神迎神事が行われるのだ。
今年は、11月21日(土)がその日にあたります。

稲佐の浜は、出雲を中心とする葦原中つ国(地上世界)の国造りを果たした偉大な王・大国主命と高天原の使者・建御雷神が対面し、国譲りの強談判が行われた場所に比定される。すなわち、国を譲るかどうかをめぐり否(いな)か、諾(せ)(肯定)か、と交渉が行われ、「いなせ」が「いなさ」の地名となったと考えられている。

古事記が物語るように、出雲の国譲りは一筋縄ではいかない。葦原中つ国の支配と統治を望む天照大神の意向を受け、最初の使者として天菩比を派遣して平定しようとしたが、大国主命になびき三年たっても返事をしなかった。天菩比は出雲大社を統括する出雲国造の祖先神とされる。
 さらに二番目の使者として派遣された天若日子は、八年たっても返事をしないばかりか、大国主命の娘で美女の下照比売と結婚。逆に国を自分のものにしようとたくらんだ果てに、高木神(高御産巣日神)によって殺されてしまう。
こうした展開は、大国主命を代表とする出雲族の勢力の強大さを示唆してくれる。そして最後の使者・建御雷神の登場となる。
波頭に逆さに突き立てた剣の上にあぐらをかく建御雷神と、にらみ合う大国主命の幻像は、しかしあまりにも平和な朝の光景からは、なんとも立ち現れてはこなかった(笑)

私たちの所では「神無月」と呼ぶが、出雲地方では「神在月」となる。
その全国の神々が集まる「神在祭」は、この浜で全国の神々を迎える神事からはじまる。

稲佐の浜に一際目立つ丸い島があります。
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地元では「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている島で、かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていました。
昭和60年前後までは、島の前まで波が打ち寄せていましたが、近年急に砂浜が広がり、現在では島の後まで歩いて行けるようになりました。

神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていましたが、明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。
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千鳥が遊んでいるのに誘われて、島の下まで行ってみました。
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満潮だと、もっと潮がくるのか、岩ノリだろうかワカメだろうか岩についていた。
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かなり遠浅な感じで、波もほとんど感じられない、極めて穏やかな海。浜辺。
とても「国譲り」の現場という緊迫感など、どこにも感じられない平和な場所でした。

【出雲阿国の墓】
稲佐の浜から出雲大社に行く道の途中に、出雲阿国の墓があったのでお参りした。
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墓の入り口にあったパンフレット
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歌舞伎の始祖とされる出雲阿国は、出雲大社の鍛冶職中村三石衛門の娘で、出雲大社の巫女であったと言われています。阿国は出雲大社本殿の修理費勧進のため、大人たちとともに諸国巡業の旅に出ました。踊りが好きで、才能もあった阿国は、京都でややこ踊りを上演して人気を博し、出雲阿国の名は都中に広まりました。
その後、阿国はかぶき者の風俗を表現したかぶき踊りを創始。男装し、最新のファッションで身をまとった阿国かぶきは一世を風靡しました。
晩年は大社に帰り、尼となって智月と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の生活を送り、静かな余生を過ごしたといわれています。

入り口
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墓は自然石でした。
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阿国法要の様子(パンフレットから)
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【命主社(いのちぬしのやしろ)】
鎮座地:島根県大社町真名井
出雲大社の駐車場に車を停め、出雲大社にお参りする前に、このお宮に参拝しました。
正式な名称は「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」で天地開闢(世界のはじまり)の造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。

出雲大社のすぐ近くの街を200mほどあるくと、細い路地の奥に鎮座しています。
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ご祭神の神皇産霊神は、大国主神が八十神から焼石の御難にあわれた時、蚶貝比売命、蛤貝比売神を遣わして、大国主神の命を助けます。そのことからわかるように、神皇産霊神は出雲系神の始祖と位置づけられます。
造化三神のうち、最初に現れた天御中主神は具体的な働きがまったく記述されていないことから、全ての神の頂上に位置する象徴的な中心の神。高皇産霊神(高木神)は、天照大御神と共に天孫降臨の際とか神武天皇東征の際に神武天皇を助けるなどしているので、天孫族(大和朝廷)の始祖神。そして神皇産霊神は出雲系の始祖神というわけです。

巨岩の前に建てられていたことから、古代の磐座(いわくら。神の御座所。自然の巨石をさす場合が多い)が神社に発展した例として貴重な神社です。

江戸時代寛文5年(1665)の出雲大社御造営にあたり、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)が発見されました。
銅戈は銅鉾(どうほこ)、銅鐸(どうたく)と並んで弥生時代を代表する青銅器ですが、勾玉と一緒に発見されたことは注目されます。
銅戈は北部九州産、硬玉製勾玉は新潟県糸魚川産の可能性が高く、この時代に北部九州、北陸と交流があったことを物語っています。
出雲と越(北陸)の交流は、『古事記』でも、八千矛神(大国主神)の高志(越)国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚する場面で歌をやりとりします。第1首は女の家にやって来た男の求愛の歌で,戸外に立たされたまま夜が明けてしまう。第2首では女が,男の要求を拒みつつも男をなだめ,明晩を約束する、という歌の内容がかなり色っぽくて、印象的な場面となっている。

2つの遺物は、天孫系三種の神器のうち、剣と玉にあたり(あと1つは鏡)、これが出雲大社の近くから出土したこともあって昭和28年(1953)に重要文化財に指定されました。
出雲大社の宝物殿に展示されている。

今まで「三種の神器」について深く考えていなかったが、そのうち剣は素戔嗚が八岐大蛇を退治したときに得た剣なので出雲由来のもの、勾玉は出雲・沼河(糸魚川)あたりでしか出来ないので、これも出雲由来のものとなり、鏡だけが天孫系由来のものとなるのかな、と認識を新たにした。

社殿
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社殿の前に聳える、推定樹齢1000年のムクノキ。
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社殿の後ろに、かって巨石があったという「真名井遺跡」がある。
けっこう荒れた感じなのが、残念。
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【真名井の清水】
所在地:島根県出雲市大社町杵築東182

命主社のちょっと先に、島根の名水百選「真名井の清水」があると、ガイドブックの地図に載っていたので、寄りました。
古事記や日本書紀の神話の中で「真名井」は、神聖な水として登場します。
例えば素戔嗚尊と天照大御神の「二神の誓約生み」のところでも、それぞれ剣や玉に「天の真名井の水」を振り注ぎます。

やはり、ここの水も出雲大社の神事に関わる水でした。
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真名井の清水
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榎の木の根元から湧いています。
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口に含んでみると、実にやわらかい水でした。
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湧いているところでは、どのくらい湧いているのか判らなかったが、けっこう湧いていた。
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この後、いよいよ出雲大社に参拝しました。


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日御碕神社

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鎮座地:島根県出雲市大社町日御碕455
参拝日:2015年11月12日

物部神社から車を飛ばして、出雲市内を通り越して日御碕神社に急いだのは、ここが日没の名所だからである。
稲佐の浜を過ぎると、半島にかかり昇り道になる。海からせり上がった崖の道は、九十九折の急カーブが続く。
海には夕日がかかっているので絶景が続き、カミさんは「すごい、すごい・・・・」と感嘆符つきの感想を漏らしているが、私のほうは急カーブが続いているので「よそ見」は厳禁。
何度か車を停めて絶景を撮りたいと思ったが、早く日御碕神社に着いて、そこで日没をむかえなきゃと思い、車を飛ばした。

日御碕神社に近づいたころ、道の左肩に「日御碕神社全景スポット」の案内が。これはわかっていたので、車を停めて撮影。
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日御碕神社に着いたときには、まだ日は落ちていなかった(嬉)
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鳥居をくぐると、「国立公園 日御碕」の案内図が。
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もっと早く来ることができれば、日御碕灯台など色々と楽しめるのだが、今回は日御碕神社参拝がやっとだ。

境内図
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楼門の前に手水舎と社号標があり。
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茅葺の手水舎
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社号標
社格等:式内小社、国幣小社、別表神社
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下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。
「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。
現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光の命により、松江藩主京極忠高が1634年(寛永11年)に着手し、1644年に松平直政が完成させました。
壁や木の切り口は白色で、柱や横木が丹塗(にぬ)りされた社殿は桃山時代の面影を残し、二つの本殿どちらも拝殿と本殿が続く権現造りです。
西日本で他に例がない「総権現造り」です。
上の宮(本殿・幣殿・拝殿・玉垣・宝庫・鳥居2基)と、下の宮(本殿・幣殿・拝殿・玉垣・禊所・廻廊・楼門・客人社2棟)からなり、これら社殿の全てと境内の石造建造物も含め、貴重な神社建築として全て国の重要文化財に指定されています。

天照大御神を祀る「日沉宮」、右手上には素戔嗚を祀る「神の宮」が鎮座。大きな社を二つ構えて両神を祭るのは全国でも珍しい。
もともと「神の宮」は日御碕灯台近くの「隠ケ丘」にあった。「日沉宮」は、ウミネコの繁殖地として知られる経島(ふみしま)にあり、平安時代に二つの社を同じ境内に祀った。
日御碕神社の伝承によると、隠ケ丘こそ出雲の神々の祖・素戔嗚の御陵であり、日御碕がスサノオ終息の地とされる。
素戔嗚が、出雲の国造りをした後「私の魂はこの柏の葉がとどまる所にすもう」と言って葉を投げ、風に舞って葉がとどまった地が隠ケ丘。隠ケ丘からは「神紋石」と呼ばれる柏葉の化石が見つかり、日御碕神社の神紋「三ツ柏葉」の由来となっている。

夕日が群青の日本海に沈んでいく、素戔嗚の霊地とされる日御碕で日の神天照神との和解もなったのだろう。仲たがいした弟と姉が一緒に祀られている日御碕神社で、神話の平和な結末となっている。

楼門
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楼門の中をのぞいて吃驚した。高さ2mくらいの木製狛犬である。
双方とも角つきというのも珍しい。
帰ってから調べると、安土桃山時代のものというので、私の集めたものの中では6番目に古いものとなる。
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楼門をくぐると、「客人神社」が左右にあり。
ご祭神は、櫛磐窗神(櫛磐間戸神)と豐磐窗神(豐磐間戸神)ということなので、随神門の随身と同じ神様です。
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先に、「神の宮」(素戔嗚尊)に参拝します。
上り口は二つある。

楼門をくぐって、すぐに右二上がる石段。
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日沉宮の前から上がる石段。
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拝殿
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拝殿内部
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本殿
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千木は内削ぎ(平削ぎ)。
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ご祭神:
主祭神:素盞鳴尊
相殿:天照大神との誓約の際に、素盞鳴が生んだ宗像三女神(田心姫、湍津姫、厳島姫)

神紋は「「三つ柏」
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「日沉宮」を見下ろす。
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神の宮からちょっと下がって、多くの末社群。
八幡社、大歳社・若宮社、坂戸社、加賀社・問社、大野社、真野社、窟社、宇賀社、中津社、摂社立花社、大土社・波知社、意保美社・大山祇社、曽能若姫社・秘臺社、日和碕社となります。
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「日沉宮」に参拝。
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拝殿内部
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拝殿の側面
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本殿
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千木は「外削ぎ」
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一般的に、男性神の場合に「外削ぎ」、女性神の場合に内削ぎと言われますが、このお宮ではその逆となっていました。

ご祭神は:
主祭神:天照大神
相殿: 素盞鳴尊との誓約の際に天照大神が生んだ五神(正哉吾勝尊、天穂日命、天津彦根、活津彦根命、熊野櫲樟日命)

神紋は「「三つ柏」
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日御碕神社には素盞鳴尊にまつわる秘祭「神剣奉天神事」が伝わる。旧暦の大みそかに連綿と営まれており、誰も見ることができない。
八岐大蛇を退治した際、素盞鳴尊は八岐大蛇の尾から天叢雲剣を得て高天原の天照大神に献上する。この時、素盞鳴尊の使者を務めた御子神が日本書紀に出てくる天之葺根神(あめのふきねのかみ)。
天照大神は大いに喜び、お返しに草木の種を授けた。
この古事記と日本書紀には見られない伝承を反映したのが「神剣奉天神事」だ。
日御碕神社の宮司を代々務める・小野家の先祖が天之葺根神。宝剣献上の使者を務めた天之葺根神に倣ってか、歴代宮司は家伝の宝剣を持ち、一人で山に登り神事を営む。


神倉
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境内社/荒魂神社
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境内社/蛭児社
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境内社/韓国神社
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「神の宮」横に、御神砂の碑と神紋石舎。神紋石舎内部に神紋の柏の化石が表面にあったという「神紋石」があったはずなのだが、見落としました(泣)

境内では、日没を見られる適当な場所が見つからなかったため、浜に出ることにした。

途中、境内社があり。
中之島になっているので、厳島神社か宗像神社だと思われる。
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ちょうど日が落ちるところだった。
浜の鳥居のシルエット越しにきれいな夕日が見えた。
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夕日が海に映える。
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経島(ふみしま)
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かって日沉宮」のあった経島では、毎年8月7日に「夕日の祭」が行われる。
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海に落ちる綺麗な夕日を見られたので、大満足。
帰りは、のんびりと車を走らせて、この日の泊りの出雲市内のホテルに向かいました。


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石見國一之宮・物部神社

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鎮座地:島根県大田市川合町川合1545
参拝日:2015年11月12日

11月12日から14日、出雲・松江地方を廻ってきました。テーマは「神話のふるさと・出雲を訪ねる」です。
10:15に羽田を飛び立ち、出雲空港に向かいました。
途中富士山が雲の上から顔を出していた。
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出雲空港でレンタカーを借り、まずは昼食。レンタカーを借りる時に出雲蕎麦のお店を聞いて、教わったお店に行ったら名店らしくて行列が出来ていたが、さすがに美味しかった(嬉)

最初に向かったのが、石見國一之宮・物部神社。
取り組んでいる神社巡拝のなかでも、全国一之宮めぐりというテーマも持ち、全国の全部はとうてい無理だろうが、出来るだけ努力したいと思っています。
それで、今回も出雲國一之宮はもちろんだが、お隣も調べると石見國の物部神社なら出雲空港から一時間半くらいでいけそうなので、まずは遠くからと、ここに一番に参拝することにした。

社号標
社格等:式内社(小)、石見国一宮、 旧国幣小社、別表神社
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由緒:御祭神の宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。
(神社HPより)

駐車場から一段上がって境内、後ろに八百山の森があり。
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大鳥居
境内は広大。
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明治32年奉納の狛犬
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台座に鶴と亀が。
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手水舎
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この手水石は「含金石」と言って、砂金を含んでいるらしい。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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巨大で毛のある天狗が奉納されていた。
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拝殿も大きいが、本殿がそれにも増して巨大だ。
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すごく、質実剛健という感じ。
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破風の拝み懸魚の亀の彫刻に注目。
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下から見ると小さく見えるが、なんと1m50cmあるそうです。
人と同じくらいの大きさと考えると本殿の大きさがよく分かります。
なぜ亀が彫ってあるかというと、亀は「水をよぶ」として防火の意味(過去に石見銀山の争奪の兵火などで3回消失したそうだ)、そして神紋と絡めて「鶴と亀」で縁起が良いから。
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ご祭神は、
主祭神:宇摩志麻遅命。
相殿神は、
右座:饒速日命、布都霊神、
左座:天御中主大神、天照大神
客座 五神(詳細は不詳なれども別天神か)
別天神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿新訶備比古遅神、天之常立神)
鎮魂八神(高皇産霊神、神皇産霊神、魂留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御食津神)


宇摩志麻遅命は、物部氏の祖とされる人物。饒速日命(後述)が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。
『古事記』によれば、始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、以後自らの部族である物部(もののべ)を率いて皇城守護の任に当たったという。また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。
物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたという。越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。

饒速日命は、『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられている。
つまり、瓊々杵尊の天孫降臨よりも先に、饒速日命が降臨していたということだ。これは渡来の順序ととれるだろう。

物部氏についても、少し記しておこう。
大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。

仏教が入って来たときに、それまでの神道を守ろうした排仏派の物部氏は、崇仏派の蘇我氏と争い、敗れた。
それから、「物部氏の七転び八起き」と言われる歴史があるが、ここでは長くなるので多くは語れない。
物部氏は技術集団の氏族だったので、簡単には滅びないのだ。
その後は、石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 山野辺の道にある石上神宮が氏神である。石上神宮には素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの布都御魂剣として神宝となっている。
ここから、物部氏は先に大和に進出していた出雲系の部族であるという説が信憑性を帯びる。

社務所に安置されている、宇摩志麻遅命の像。
日露戦争の時に作られ、大日本帝国海軍『戦艦石見』の守護神とされた神像だそうです。
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神紋は「ひおい鶴」
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物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。 この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
(物部神社HPより)

○社殿右側に安置されているもの
祓所
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神井
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境内末社/一瓶社(ご祭神:佐比売山三瓶大明神)
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境内摂社/後神社(ご祭神:師長姫命)
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境内末社/
・須賀見神社(ご祭神:六見宿禰命)
・乙見神社(ご祭神:三見宿禰命)
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境内末社/東五社(神代七代社)
ご祭神:国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煮尊・砂土煮尊・角杙尊・活杙尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊
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○社殿左側に安置されているもの
御腰掛岩: 宇摩志麻遅命が天下った祭に腰掛けられたと伝えられる。昭和56年(1981年)道路拡張に伴い、本来あった折居田から保存のため境内に移された。
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境内末社/西五社
・荒経霊社(ご祭神:須佐之男尊)
・皇祖四代社(ご祭神:天忍穂耳尊・瓊々杵尊・彦火々出見尊・鵜草葺不合尊)
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境内末社/稲荷神社(ご祭神:稲倉魂命、合祀:大穴牟遅命・大年神・大地主神)
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境内末社/菅原神社(ご祭神:菅原道真公)
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境内末社/柿本神社(ご祭神:柿本人磨朝臣)
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境内末社/淡島神社(ご祭神:少彦名命)
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稲荷神社の横から、ご祭神・宇摩志麻遅命の御神墓に上がる道があるので、そこを上がりました。
10分ほどだが、参道は荒れていて昇りにくい。
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御神墓
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墓碑は風化していて、読めない。
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下りは上りよりも歩きにくく、カミさんは悲鳴をあげていた。
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境内に下りて、参道左手に安置されているものにお参り。

ご神馬銅像
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境内末社/恵比須神社(ご祭神:事代主命・大国主命)
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夜泣き椨(たぶ)・聖天さん
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聖天さん
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これで、すべて参拝が終り。
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ここからまた一時間半くらい車を飛ばして出雲に戻り、日没に間に合うように「日御碕神社」に参拝せねばなりません。急ぐ気持ちを押さえて、まずはコンビニで小休止してから、車を飛ばしました。



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速玉之男命/日本の神々の話

20151120

速玉神と記す時、速玉男命とする場合と、熊野速玉大社の祭神・伊弉諾尊とする場合がある。

この神には、鉢形城遺跡内の熊野神社、碓氷峠・熊野神社、王子神社の祭神としてお参りしている。

この神は古事記にはでてこないで、日本書紀の一書に出てくるだけの、特殊な神です。
死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男とされている。

唾を、約束をかためる意につかうことは,海幸・山幸の神話にもみえるので、古代の風習であったとみられます。



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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/奥富村(含柏原新田)

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11月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は村越さんと池田さん。

大正12年の地図で、赤線で囲っているのが奥富村。
緑で塗っているのが水田(陸田)です。
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今回の探訪ルート
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訪ねたのは:
前田稲荷神社・前田公民館(元観音寺・金毘羅神社)・弁財天坐像・水神宮・浮彫像塔・九頭龍大権現・文字塔・くずはき橋への道十字路・戸隠神社石祠・柏井公民館(堂跡)・亀井神社・大膳堀・元常円寺墓地・八雲神社・富森稲荷神社

大きな史跡として、梅宮神社、広福寺などがあるが、参加メンバーには周知として割愛している。

新狭山駅北口階段下に集合して、西武バスに乗り①「前田」で下車した。

②【前田稲荷神社】
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由緒
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堂内
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「稲荷大明神安鎮之叓」という、京都伏見稲荷が発行した文書の写しが置かれていた。
最後の字を「古文」と最初読んでしまったが(笑)、それでは意味不明なのでよく見直すと「叓」であり、調べたら「事」の古字「叓(じ)」であり、「こと」と読むことがわかった。
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現在「奥富十二支めぐり」というのがあり、ここは「亥」だった。
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③【前田公民館】
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鳥居があり、参道の左側に石仏や橋げたに使われていた石材が置かれている。
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元観音寺
新編武蔵風土記稿の記事
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金毘羅神社
狭山市の社寺誌に“廃社”とあるが、鳥居があり、手水鉢と賽銭箱が置かれている。
中はわからない。
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石仏は宝暦14年(1764)造立のもの。
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それから入間川にむかってすぐの橋のところに弁財天あり。
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④【弁財天坐像】
享保7年(1722)、前田村己巳待講中
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左側の上から二つ目の手に鍵を持っているので「弁財天」。
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⑤【水神宮・浮彫像塔】
資料によれば、「文政12年(1829)造立。右手に剣を取り、左手に竜索を持って亀に乗る弁才天浮き彫り像が刻まれていたが、風化している。左手に十方助力 願主亀井純静と刻む」とある。弁才天は普通坐像であるが、珍しい立像である。

草を足で踏み分けてみたが、亀は確認できなかった。
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⑥【九頭龍大権現・文字塔】
嘉永3年(1850)造立。
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以前来たときには、ちゃんと立っていた「馬頭観音」の断片が今は倒れていた。
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「奥富十二支めぐり」、ここは「戌」だった。
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堤を歩いて柏原新田地区へ。

⑦【くずはき橋への道十字路】
くずはき橋というのは、平成17年2月に撤去されました冠水橋。
かってあった、くずはき橋に向かう道。
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入間川まで行ってみたが、堤防を整備していて、痕跡は何もわからなかった。

ここは、明治14年の地図と現在の地図を比べてみると大改修をしたことが一目瞭然である。
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そこから少し堤防を歩いていくと、戸隠神社石祠がある。

⑧【戸隠神社石祠】 
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戸隠神社・九頭龍大神と彫られている。
大正8年(1919)建立
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柏原新田とある。
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さっきの、くずはき橋への道十字路に戻り、柏原新田に入る。
柏原新田は寛永年間(1624~)に開発。狭山市内で最古の新田である。
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秋だ
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農家の納屋
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⑬【柏井公民館】 
石仏が残るので、堂跡と思われるが、不詳。
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新編武蔵風土記稿の、柏原新田の記述はこうなっていて、最後の地蔵堂がどこか不明なため、ここがそうかもしれない。
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入り口に、小さなお堂あり。
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中には人物像が。お坊さんか、お大師さまか。
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「奥富十二支めぐり」、ここは「子」だった。
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⑪【亀井神社】
鎮座地:狭山市下奥富1465
もと産土神白髪神社と称した。創立:寛弘3年(1006)、広福寺の管理下にあった。
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新編武蔵風土記稿の記述
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社号標
亀の字がいい。
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鳥居
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拝殿
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本殿覆い屋
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八雲神社
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石灯篭には、天保14年(1843)奉納とある。
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社殿内部
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奉納絵馬
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「猿田彦大神」、「倉稲魂命」、「蚕影山大権現」の石祠。
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二つの力石が無造作に置かれていた。
狭山市内では、当社にしかない。大事にしたい。
大きい方は「奉納 四十八〆目」と読めるが、小さい方の重量は判読できず。
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「奥富十二支めぐり」、ここは「丑」だった。
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亀井神社を去りながら、全景を。
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⑬【大膳堀】
川越市藤倉村開拓の祖、藤倉大膳が構築した。

顕彰碑
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大膳堀
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その近くの墓地に、常円寺(?)開基の石碑がある。

⑭【元常円寺?墓地】
「慶安3年(1650)」の銘文がある常円寺開基の石碑あり。
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更に、その墓地の隣に石仏群があり。
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一番奥に立派な石仏あり。良い石を使用しているため、ほとんど風化していない綺麗なもの。
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宝永4年(1707)造立の地蔵菩薩
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慶安3年(1650)と寛永17年(1640)の墓碑
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宝永5年(1708)の菩薩像
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⑮【八雲神社】  
牛頭天王と称したが、明治になって八雲神社となった。
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神紋は「織田木瓜」
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隅に、文久2年奉納の手水鉢があり。
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社殿裏に合祀した神社の石祠あり。
左から、三島神社、八幡神社、愛宕神社、厳島神社、浅間神社
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「奥富十二支めぐり」、ここは「寅」だった。
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⑬【富森稲荷神社】
ここにも前田稲荷神社と同じような由緒がある。
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鳥居に寛政元年(1789)の奉納年記あり。
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社殿
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内部
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神紋は、「鍵と宝珠」
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「奥富十二支めぐり」、ここは「卯」だった。
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これで、この日の予定はすべて終了し、参加者で昼食後解散となった。


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柏原の歴史と文化を子供たちに語る/学校支援ボランティア

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6日(金)、柏原小学校の6年生に「柏原の歴史・文化にふれよう-お話を聞く会」を実施しました。
5年前から始まった企画で、社会の時間2時限を使って行います。
学校支援コーディネーターの私が窓口になり、「狭山歴史ガイドの会」の協力で行っています。協力していただいた方は狭山歴史ガイドの会の会員ですが、この日参加したボランティアは私も含め7名中6名が歴史クラブの会員でした。

二部構成で、一部では生徒98人全員を対象に15分「柏原の歴史についての概要」を私が話しました。
城山砦を市からの委託で管理しているNPO法人ユーアイネット柏原が、今年子供向けパンフレットを作る際に説明文を担当したので、全員にそのパンフレットを配り、その説明もしました。
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「柏原の歴史についての概要」は、以下の話を子供向けにわかりやすく話しました。
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1.歴史から生き方を学ぶ。
「東日本大震災」での原発事故の放射能で、多くの人が被害。
関係者は「想定外」と云ったが、普段歴史に関心があった人は首をかしげた。
というのは、平安時代に発生した「貞観地震」というのが今回の場所に近く、やはり巨大な津波が発生していたから。しかし、原子力関係者は「具体的なデータが無いからよくわからない」として、その地震が無かったかのように無視してしまった。
一方で、こういう事もあった。
その昔の津波のときに、ここまで津波が来たと石碑を置いて、そこより下には家を建てなかった。
海岸から遠くなるけど高いところに住んで海辺に通って仕事したり漁に出たりしていた。
今回の津波のときには、大きな地震のあとには津波が来るぞと、子供たちも聞かされていたので、おじいちゃん、おばあちゃん逃げようと云って、子供たちがお年寄りを助けて避難して、死んだ人は一人も居なかったという地域があった。
とても、素晴らしいことです。
「伝承」といいますが、昔からの言い伝えを大事にして、暮らし方や生き方の参考にしていきましょう。
2.柏原の縄文時代
柏原には24もの遺跡が見つかっている。
柏原が住み易かった。
入間川という大きな川が近いので、そこで魚や貝が取れて、高台なので入間川が氾濫しても安全だった。
智光山公園のところで大量の湧水が出ていて、それが柏原のほうに流れてきていたので、生活するのに必要なきれいな水があった。
遺跡のへんの畑のわきを歩いていると、今でも縄文土器のかけらが拾える。
小さなカケラだが、5000年前の人が作って使っていたものだと思うと、とても不思議な気がする。
3.中世の「城山砦」に関する話
最初に出てくる名前は「柏原太郎」。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の家来で「畠山重忠」という有名な人がいる。
源頼朝が東北を攻めたときに、畠山重忠の名前と一緒に「柏原太郎」の名前が書かれている。
この人が最初に城山砦を作ったと思われている。
それから、天文14年(1545年)、467年前、それまで関東を納めていた上杉氏と、小田原から勢力を広げてきた北条氏の勢力争いの戦があった。
川越城をめぐる戦いのときに、大将の上杉憲政(のりまさ)が城山砦に陣を敷いた。それで、ここを「上杉砦」とも言う。
残念ながら「川越夜戦」で上杉がたは敗れ、越後に落ちていった。
越後では上杉謙信が出て武田信玄と川中島の戦いなどをする。
上杉謙信の先祖が城山砦に陣を構えたことがあったというわけです。
4.この頃の柏原の産業
鉄を鍛えて主に武器を作っていた。槍や刀を作っていた。
大和郡山から、甲冑師の明珍家系の人が招聘されて槍鍛冶を始めたのがはじまり。
入間川で良質な砂鉄が採れた。
鋳物師といって鉄の鋳物でいろいろな製品を作る人もいた。
5.江戸時代の学び
江戸時代、柏原には、よみ・書き・そろばんを教える寺子屋という学校が3つありました。
「識字率」という数字があります。たとえば柏原に100人、人が居たとして、字が読める人はどのくらい居ただろう、という数字です。80人いたら80%ですね。江戸時代の日本は80%くらいで世界で一番だったと云われています。
あのイギリスのロンドンだと、同じ頃で10%だと云いますから、日本はすごかったんですよ。
今、毎年ノーベル賞をもらって日本はすごいと言われますが、昔からよく勉強をしていたんですね。

時間の関係で、このくらいにしますが、歴史を勉強すると、自分たちの生き方にとても参考になるので、ぜひ興味を持ってください。


二部は、体育館の中で7つの場所に分かれて、並行進行でお話をしました。
お話は、休憩を挟んで同じことを二回繰り返すので、子供たちは聞きたいテーマを二つ聞くことができます。

話は以下の7つのテーマでした。
私も一つ受け持ちました。
ア)上宿の庚申塔と下宿の馬頭観音について
イ)西浄寺のねずみの図と大六天の碑・大山灯篭
ウ)城山砦跡
エ)常楽寺の七観音と大水正金の槍および五百年碑
オ)永代寺の本尊、不動明王および霊場巡拝供養塔など
カ)影隠し地蔵と円光寺のお地蔵さん
キ)白髭神社の子返しの図、御正体、韋駄天の図、柏原祇園囃子


【上宿の庚申塔と下宿の馬頭観音について】
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上宿の庚申塔
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下宿の馬頭観音
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【西浄寺のねずみの図と大六天の碑・大山灯篭】
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ねずみの図/河鍋暁斎
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【城山砦跡】
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城山砦
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【常楽寺の七観音と大水正金の槍および五百年碑】
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七観音
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大水正金五百年碑
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【永代寺の本尊、不動明王および霊場巡拝供養塔など】
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不動明王
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霊場巡拝供養塔など
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【影隠し地蔵と円光寺のお地蔵さん】
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影隠し地蔵
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円光寺のお地蔵さん
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【白髭神社の子返しの図、御正体、韋駄天の図、柏原祇園囃子】
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子返しの図
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御正体
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韋駄天の図
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生徒の皆さんは、とても熱心に聴いてくれました。
質問も活発に出ました。
これから、郷土柏原を大事にしてくれると思います。

(了)


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加茂神社(延喜式内論社)/埼玉県さいたま市

20151111

鎮座地:埼玉県さいたま市北区宮原町4-8-1

10月30日に、個人的に取り組んでいる「武蔵國式内社めぐり」で参拝した。
場所は東宮原駅の西、国道16号線と17号線が分かれた間に鎮座する。

社号標
この神社は、一之宮氷川神社の別当神社ということで、氷川神社から奉献されたもの。
社挌: 延喜式内論社(武蔵國足立郡4座のうち足立神社の論社)、旧村社
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当神社は延喜式式内社の一つで、さいたま市浦和区上木崎と飯田に鎮座する二つの足立神社及び鴻巣市に鎮座する久伊豆神社と共に武蔵国足立神社の論社とされている。

社号標のところにあった、周辺の案内図がとても良く出来た案内図で、感心した。
これなら、この辺の人は色々と訪ねて回る気になるだろう。
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境内の掲示の由緒
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その中にあった、「木曽街道上尾宿」
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「金の御幣(ごへい)伝説」というのがある。
参勤交代の途中、加賀前田家の家臣堀丹波守の妻女が産気づいた。当社に無事を祈願したところ陣痛がおさまり、国元で無事男子を産んだ。丹波守は霊験に感謝し、金の御幣を奉納したといもの。

入り口から入ると、左に折れて参道となる。
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ここに、元からあった社号標があり。
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大正10年奉納の一の鳥居(明神型)
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宝暦3年(1753)奉納の石灯篭
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文政10年(1827)奉納の石灯篭
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両部型二の鳥居
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境内の様子
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手水舎
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享保11年(1726)奉納の手水鉢
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狛犬
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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拝殿から石庭を介して本殿。
開放的な覆いで、有名な「競らべ馬」などの彫刻がある本殿が良くみえたのは、とてもありがたかった。
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本殿
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本殿の足もとに、小さな狛犬が置かれてあり、損傷しているが江戸時代と思われたので、工夫して刻まれた文字もなんとか写した。
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台座に、「熊野十二社大権現」と「稲荷大明神」とあり、明治40年に合祀した「熊野稲荷合社」のものとわかった。江戸時代のものなので大切に保存してあるのだろう。
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年号がまた悩んだ。
「安○3年」の○がわからない。
最近古文書を勉強し始めて、部首とつくりを本来横並びを縦に描いたりする異体字に悩まされているので、縦に書いているのを横に並べて見たらわかった(嬉)
「安政3年」でしたね。1856年。
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本殿の正面
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扉脇の龍の彫刻
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扉の彫刻に巳がある。この地帯に水神信仰があり、それによるものか?
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階段下部にも丁寧な彫刻があり。
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脇障子の彫刻「獅子の子落とし」
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右側面の彫刻
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背面の彫刻
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左側面の彫刻
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階段側面の彫刻
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ご祭神は別雷命、倉稲魂命、伊弉諾命、伊弉冉命、菅原道真公

神紋は、京都の賀茂別雷神社と同じ、ちょっと形は違うが「二葉葵」。
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神楽殿
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境内社の三峰神社
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文化9年(1812)奉納の石灯篭
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社殿
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中に奉納されていたのが、まさに蛇が龍になった瞬間みたいな額。
ここにも水神信仰が見られた。
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これで、足立神社の論社4社が終り、「氷川神社」、「調(つき)神社」、「多氣比賣神社」も終わっているので、武蔵國足立郡の4座は終了した。



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久伊豆(ひさいず)神社(延喜式内論社)/埼玉県鴻巣市

20151108

所在地  埼玉県鴻巣市笠原1755

10月30日に、個人的に取り組んでいる「武蔵國式内社めぐり」で参拝しました。

社号標
昭和11年建立、國學院大学学長阿野氏の書
社挌: 延喜式内論社(武蔵國足立郡4座のうち足立神社の論社)、旧村社
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笠原久伊豆神社は延喜式式内社の一つで、さいたま市浦和区上木崎と飯田に鎮座する二つの足立神社及び同市北区宮原町に鎮座する賀茂神社と共に武蔵国足立神社の論社とされている。

そして、久伊豆神社もまた方々にたくさん鎮座している。その鎮座地は埼玉県内の、綾瀬川左岸(東岸)を中心に集中的に分布している。これはちょうど氷川神社勢力圏と香取神社勢力圏とに挟まれたエリアであり、こうした「棲み分け」を武蔵七党、特に野与党・私市党の勢力範囲と関連づけられるという説もある。

この神社の由緒については不明らしく、掲示されている説明は下のようになっている。
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笠原姓は東日本地方に圧倒的に多く存在する中、岡山、大阪地方にも多くいることは着目に値することだ。岡山県には金工鍛冶の技術を持つ吉備氏系の笠氏の存在があり、新撰姓氏録では笠臣国造として孝霊天皇の皇子・稚武彦命の後裔氏族つぃて登場する。

笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。

「埼玉苗字辞典」によると「笠原」姓の源流は朝鮮半島の弁韓国の中の「蓋(かさ)族」より来るらしい。この弁韓国は弁辰ともいい、紀元前2世紀から4世紀にかけて存在していた三韓(馬韓、辰韓)の一つである。領域は馬韓の東側で、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域と推測されている。この蓋族が古代日本に移住し姓も「笠、上、賀佐、風」と称した。

また、鴻巣の地名の由来は、古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす)」と呼ばれたのが始まりとされ、それが「こふのす」となり、後に「コウノトリ伝説」から鴻巣の字をあてはめるようになったと云われている。

参道に一の鳥居(明治38年建立)
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参道が右に折れる。
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社殿まで、灯篭、狛犬、二の鳥居、が並ぶ。
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大正7年(1918)奉納の流れ尾形狛犬
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二の鳥居(明治38年建立)
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手水舎
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手水鉢が二つ並ぶ。
右側は、元文3年(1738)奉納のもの。左側は宝暦13年(1763)奉納で、梅鉢紋があるので合祀された菅原神社のものだったとわかる。
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拝殿
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入母屋の屋根は立派なものだ。
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普通社額がかかる位置には、伊勢と金毘羅参拝記念の奉納額がかかる。
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拝殿内部
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下部しか見えないが、本殿は彫刻など素晴らしそうだ。
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拝殿と本殿覆い屋は渡り廊下でつながれている。
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本殿覆い屋は開いたところは無くて、本殿はまったく見えない。
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ご祭神は大己貴命

神紋は「左三つ巴」
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神楽殿
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各部装飾が素晴らしい。
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境内社の菅原神社
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何も表示が無いので、最初は神社名がわからなかったが、よく見ると梅鉢紋が見つかったので、菅原神社だと判明。
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その前に力石があり。
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社殿の左側に二つの石祠あり。
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右側は、「八幡宮」と「稲荷大神」と刻まれているので、二社合祀の祠と判明。
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左側は不明
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二の鳥居から左に入って行く参道あり。
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突き当たりに「辨天宮」があり。
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これで、この神社の参拝を終え、さいたま市北区宮原町に鎮座する賀茂神社に向かった。



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古武道・流鏑馬・薩摩琵琶/明治神宮秋の大祭

20151105

11月3日文化の日、歴史クラブの企画で明治神宮で催された「古武術」、「流鏑馬」、「薩摩琵琶」を見学しました。

原宿駅から、大鳥居の下をくぐって入ります。
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今年も菊花展をしています。
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明治神宮概要と菊花展については、昨年11月の記事を参照してください。

その記事を読む



さすがに、この日は人出がすごい。
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今年も神門に、笠間稲荷から菊花の奉納があり。
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拝殿前の広場は、すごい人だかりです。
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最初は、西参道沿芝地で10時から行われた「古武術」の演武です。
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各流派が近接した二つの会場で演武を進行させたので、動画を撮っていて他の流派の説明の音声が入ったりしてますが、わかりやすく編集しました。長いので、二つに分けてアップしてあります。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

古武道大会(前半)の動画を見る


古武道大会(後半)の動画を見る



約束の時間に集合して昼食を食べることになっていて、気が付いたら5分前(汗)
かなりの距離を、7割がた走って、間に合いましたが汗だくで、足はヨレヨレ(苦笑)

昼食後、やはり西参道沿芝地で行われる流鏑馬を見ました。
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明治神宮で行われる流鏑馬は「武田流」でした。

武田流(たけだりゅう)は弓術・馬術・礼法などからなる弓馬軍礼故実(弓馬故実・武家故実)の流派。細川流とも呼ばれた。小笠原流と同じく、流鏑馬に代表される弓馬故実を伝える流派である。
清和天皇の皇子貞純親王が、朝廷の諸儀礼に通じていた源能有(文徳天皇皇子)から故実を伝授されたのが起源であるという。その後清和源氏を経て 武田氏・小笠原氏に伝えられ、武田氏では安芸武田氏に伝えられた。安芸武田氏が若狭国守護職を得たことから若狭武田氏に伝わり、安土桃山時代に若狭武田氏が滅亡すると、武田信直(吸松斎)から姻戚(下記参照)の細川藤孝(幽斎)に伝授された。
旧熊本藩主の細川護久侯爵は井上平太に伝書一切を印可相伝させ、「第三十三代武田流司家」を襲名させたという。井上は昭和8年に没し、翌9年に井上の弟子金子有鄰が細川護立侯爵(当時の細川家当主)の許しを得て、細川侯・熊本県知事立会のもと、「三十四代武田流弓馬軍礼故実司家」を相伝した。1939年(昭和14年)には金子堅太郎を会長に社団法人大日本弓馬会が設立された。
大日本弓馬会(鎌倉)鶴岡八幡宮流鏑馬(神奈川県鎌倉市、鎌倉まつり)、三浦道寸まつり笠懸(神奈川県三浦市)、明治神宮流鏑馬神事(東京都渋谷区、秋の大祭)など、関東地方を中心に活動するほか、海外での公演も行っている。2001年10月の米国ブッシュ大統領訪日時には明治神宮で流鏑馬を披露した。またNHK大河ドラマなどの演技に協力している。

会場には、早目に行ったつもりですが、招待客の桟敷がロープ際ほとんどを占めているため、私たちのような一般客はその後ろのため、馬場を見通すことは、とうてい出来ませんでした。
一瞬、駆け抜ける騎馬を見るだけです。

しかも、一番的だと思い場所を取ったのですが、二番的でした(泣)

一番的は先に矢をつがえているため当て易く、一番的から二番的の間にまた矢をつがえるのが難しく、半分くらいは射ることが出来ませんでした。
二番的をあきらめた射手は余裕をもって三番的を射ることができます。
ということで、二番的にはあまり射れる騎手はいなかった。

下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

流鏑馬の動画を見る



早目に上がって、ようよう自動販売機を探して喉を潤し、14:45から社殿にて薩摩琵琶奉納があるというので、それを拝聴しました。

奉納ということなので、演者は内拝殿に座り、本殿に向かい奉納します。
ということで、私たちは拝殿前から演者の背中を見ながら拝聴しました。
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演目は、
最初に、明治天皇御製歌「いかならむことある時もうつせみの 人の心よゆたかならなむ」と
「壇ノ浦」でした。

演者の友吉鶴心のプロフィール:
65年浅草生れ。幼い頃より様々な伝統芸能を学び、両祖父の偉業である薩摩琵琶の発展を志し、鶴田錦史に師事。文部大臣奨励賞・NHK会長賞等々受賞。
宮家御前演奏の栄を賜る他、国立劇場主催公演、国際交流基金主催海外公演を始め様々なセッションを重ね活躍中。また、数々のNHK大河ドラマ・スペシャルドラマの琵琶指導・出演を経て本年度大河ドラマ『花燃ゆ』にて劇中の芸能全般の考証・考案・指導を担当する「芸能指導」を勤めている。

動画を撮りましたが、明治天皇御製歌はそのまま、「壇ノ浦」は著作権の関係があり、一部のみアップしています。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

薩摩琵琶の動画を見る



薩摩琵琶奉納を拝聴して、この日の予定は終了。
なんといっても、普段見ることがない「古武術」を見ることができたのが収穫でした。
満足して帰途につきました。

(了)


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幕末維新祭り/松陰神社

20151102

10月25日に歴史クラブの企画で、世田谷松陰神社で行われた「幕末維新祭り」を楽しみました。

JR澁谷、三軒茶屋を経由して、「松陰神社前」で電車を降りて、商店街を抜けると松陰神社です。
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鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。1882年(明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。

まずは、吉田松陰のお墓にお参りしました。

墓域の、一の鳥居を進む。
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右に折れると、木戸孝允が寄進した鳥居があります。
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吉田松陰のお墓
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瑞垣の前には、徳川慶喜がおわびにと奉納した灯篭があります。
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墓前には献花がたくさんされていました。
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墓石
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境内の32基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。
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さて、維新祭りだが、色々な催しがされていた。
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まず、11時から境内で「よさこい鳴子踊り」があり、それを楽しんだ。
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「よさこい鳴子踊り」の動画も撮ったので、それを見てください。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

動画を見る


そのあと、商店街でお店を探して早目にお昼を食べて、また神社に戻り、「松下村塾」を見た。
これは、萩にあるものを模して建てられている。
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松陰の銅像
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13:15から神楽殿で、「会津白虎隊踊り」を観た。
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「会津白虎隊踊り」の動画も撮ったので、それを見てください。
下の「動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

動画を見る



そろそろ「騎兵隊パレード」のために、境内にも集まっていた。
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神輿が出ていくのを見送った。
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「騎兵隊パレード」は、駅と神社の間の商店街で待っていて見た。

国士舘大のブラスバンド
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子供神輿
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吉田松陰
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「花燃ゆ」のヒロイン、美和もいる。
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騎兵隊
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時々、鉄砲を一斉射撃していた。
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女性の鉄砲隊
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新選組もいる。
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大砲も引っ張っていた。
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神社に戻って来た。
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本殿前に集合
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吉田松陰はじめ、色々な人の挨拶があって、「勝ちどき」をあげた。
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最後に記念撮影
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それから、松下村塾前で行われていた「幕末歴史講演会」を少し拝聴してから、帰途につきました。

(了)



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堀兼ウォーク/地域連携活動・狭山台自治会連合会

20151101

狭山台自治会連合会では、月に二回ウォーキング活動をしていますが、10月24日(土)に元気プラザから堀兼神社までウォーキングをするので、堀兼神社で説明をして欲しいとの依頼があり、一緒にウォーキングをして、堀兼神社・堀兼の井の説明をしました。

元気プラザの体育館に集合。
今日はガイドがあるということで、通常よりもずいぶんと多くて28名の参加でした。

まずはストレッチをして準備体操です。
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参加者はピンクの帽子で、よく目立ちます(笑)
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堀兼神社に到着。
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ちょっと休憩してから、説明をしました。
ここには、大きく分けて三つの史跡があるので、三人で説明をしました。

【堀兼神社】
所在地:狭山市大字堀兼2220-1

堀兼神社入り口(鳥居から)
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1.由緒
当神社は江戸時代まで「浅間宮」と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に「浅間神社」と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。その後、明治39年(1906)の勅令による神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に「堀兼神社」と再度改められ現在に至っています。
 当神社の創建は社伝によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えみし)征伐から帰る途中、この地に立ち寄ったところ、土地の人たちが水不足で大変苦しんでいることを知り、何とか救おうと富士山を遥拝して井戸を掘らせ、漸く水を得ることができました。そこで土地の人たちがそれを記念して、浅間宮をお祀りしたのが始まりといわれています。

 この地の領主松平伊豆守信綱公が新田開発事業を進めるにあたって、入植者の長寿と子孫繁栄、そして松平家の武運長久を願って家臣の長谷川源左衛門に命じて社殿を建立させました。

江戸後期の文化文政(1804~1830)の頃に刊行された「武蔵野話(むさしやわ)」という本に「堀兼の井戸」の記事が載っており、その挿絵を見ると、鎌倉街道沿いに、堀兼神社、富士塚、堀兼ねの井が描かれていて、江戸時代から現在まで変わらない姿であることがわかります。
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武蔵野話:
初篇は文化12年(1815)刊、序文によれば斎藤鶴磯が所沢に寓居する間、閑をみつけては周辺に足を延ばし、叢の祠や、古い社寺を訪ね、或は旧家に伝わる古器や旧記を見たことを筆書し刊行している。
続編は文政10年(1827)刊、老齢に達していて門人岡部静斎の校訂で上梓となった。

斎藤鶴磯(さいとうかくき):
1752-1828 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。江戸の人。武蔵(むさし)所沢(埼玉県)にすみ,武蔵野の歴史地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」をあらわした。


随身門
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 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
 この随身門は「単層入母屋造りの八脚門」という建築様式で、柱の間が三間、そのうち出入り口が一戸であるところから、「三間一戸の八脚門」と呼ばれています。
 間口が7m弱、奥行きが4mほどです。いつ頃建てられたかは分っていませんが、幕末の万延元年(1860)に8両2分の費用をかけて神像を塗り替えたという記録があることから、1800年代の前半には建てられていたと考えられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
ここに安置されている二神像は随身と呼ばれ、神域を守り祭神が外出するときには護衛として付き従います。
向かって左を矢大臣、右を左大臣といい、正式にはそれぞれ「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」といいます。「豊」は豊作や多産を、「奇(くし)」はめでたい兆しを意味する言葉です。
『古事記』では、天石門別神(あめのいわとわけがみ)という名で登場。
高天原の宮殿の門を守る神でしたが、天孫降臨の時、天照大神の命令で瓊瓊杵尊に従って降臨しました。
『古語拾遺』では、天照大神が岩戸から新殿に遷座したあと「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。

本殿は、富士塚の上に建てられている。
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富士塚は富士山に登れない老人や子供でも、これに登って富士山を拝めば富士山に登ったのと同じご利益があるという信仰から、多くの村々で村人たちが力を合わせて土砂を積み上げて築きました。
特に女性は、富士山に登れるようになったのは明治5年であり、それまでの富士山は女人禁制でした。
現在残っている富士塚は、東京都は191、埼玉県は577と言われています。
狭山市には、私が確認している富士塚跡で、10ケ所あります。

富士塚の上り口にある「浅間神社」
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そこから上っていくと五合目に「小御嶽神社」があります。
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「小御嶽」というのは、現在の富士山の場所に、一番最初にあった山の名前。
実際の富士山にも、五合目に「小御嶽神社」がある。
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本殿
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主祭神は富士浅間大社(ふじせんげんたいしや)から勧請(かんじょう)した木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。
 記紀の神話では、この神は山の神々の元締めである「大山祇神(おおやまずみのかみ)」の娘で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃(きさき)でもあります。
 また、瓊瓊杵尊に不義を疑われ、身の潔白を証明するために産室に火をかけて三人の神子(みこ)を産んだという気性の激しさが、美しいけれどもいつ噴火するかわからない激しい富士山の神に相応しいということで、富士山を祀る富士浅間大社の祭神になったということです。
 富士山はその豊富な伏流水のため、あるいは火と水がつきものということからか水の神としても尊崇され、農業神つまり作神として特に関東地方の農民層に厚く信仰され、したがって明治時代まではどこの村にも浅間宮が祀られていました。


本殿の裏に建立年月日である「慶安三庚寅(かのえとら)天五月吉祥日」と建立の趣旨「浅間宮の御加護の下(もと)に入植者の長寿と子孫の繁栄を願う処としてお社一屋を建て奉ります」を刻んだ剣先(けんさき)を上にした形の石の棟札が建っています。
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続いて、堀兼の井の説明に移ります。
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【堀兼之井】
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この堀兼之井は昭和36年(1961)9月1日に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。
この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる掘り難いの「ほりかねの井」の1つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることになります。
「ほりかねの井」の文献初登場は、9世紀末に伊勢が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶ぞ探さまされる」の1首です。
また平安時代に清少納言が著した「枕草子」には、「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるが、をかしきなり」という有名な文があります。
どちらも「ほりかねの井」が何処にあるのかを示していないので、それが何処にあるのか、古くから論じられてきました。

都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。
神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようです。
江戸後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」を見ても、「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地
に残っており、どれを本当の場所とするかは定めがたいとあります。

井戸の傍らには、2基の石碑があります。

左奥にあるのは川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。
書かれている碑文は漢文ですが、現代訳にすると「この凹んだ地形の所がいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来が判らなくなるのを恐れるので、石の井桁をくぼみの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以って後世の参考に備える次第である。里人の言い伝えによると、この土地は、地を掘ってもなかなか水を得難いので、そのようにいうわけで、つまり兼ねとは難いという意味で、兼を難に通じていう次第であると思うが、ことの正否は、良く判らず、只世間の説に従うだけである」と刻まれています。
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手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が
刻まれています。
漢詩を現代訳にすると「この遺跡の井戸は昔から堀兼の井と呼ばれて来ているが、一体誰が名付
けたのであろうか?  今ここを訪ねて見ると、石の井戸側は青々と苔に埋もれ、水の滑れた井戸が昔を語り顔に残っていることである。伝えいう所によれば、その昔かの日本武尊が東征の際、水に因っていた住民のために大変に骨を折られ、井戸をお撮りになった跡ということで、つまり恩沢を後世に残して、多くの人々を救われた遺跡である」と刻まれています。
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【堀兼神社の石仏群】
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ここに3基の庚申塔がありますが、庚申信仰は中国から伝来した道教の教えで、三戸(さんし)という体内に住んでいる虫が、60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の夜、体内から抜け出し天に昇り、天帝にその人の罪科を報告して寿命を縮めるというものです。
そこで庚申の晩は、三戸が抜け出さないように寝ないで過ごす庚申待ちという習慣が生まれました。
江戸時代に入ると、当初は静かに長寿を願っていましたが、そのうち飲食をともにして農作業の情報交換などをはじめ、現当二世安楽や五穀豊穣を祈って夜を明かす信仰に変わっていきました。
そうした人達が信仰と団結の輪をより一層強いものにしようと、お金を出し合って庚申塔を建てたのです。
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(1)寛文9年の庚申塔
 右端の庚申塔は、小沢平左衛門尉(おざわへいざえもんのじょう)ほか10人の庚申信仰の同信者により寛文9年(1669)11月1日に建てられたもので、三猿が刻まれています。
尉というのは日本の律令制下における官職であり、「左衛門尉」などという官位がありました。
勝手に名乗ったのか、先祖がそうだったという伝承だったのか。

(2)延宝5年の庚申塔
左端の庚申塔は、寛文9年の庚申塔から8年後の延宝5年(1677)2月13日に建てられた2番目に古いもので、前者と同じように三猿が彫られています。
しかし、その違いは建てた人が田中仁左衛門、大野甚右衛門など、「尉」のつかない一般的な名前になっている点です。
このことは、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を駆逐し、幕藩体制を確立したことを物語っています。

(3)自然石に「庚申碑」と刻む石塔
中央の文字塔は前の2基より110年程後の安永10年(1781)4月に建てられた庚申塔です。文字塔としては市内で最も古いもので、建てた人は銘文に彫られていないので分かりません。


これで、説明を終え、しばらく休憩した後、また元気プラザまで戻りました。
帰りには、権兼橋に寄って、その石仏を説明、近くの新田開発の模様も見ていただきました。


(了)


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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