塞三柱神(サエノミハシラノカミ)/日本の神々の話

20151230

三柱の神とは、八衢比古命・八衢比売命・久那斗命ですが、
この神とは上総國式内社・姉埼神社の配祀神として、そして狭山市の廣瀬神社の相殿神で道饗祭の祭神ですから、廣瀬神社を訪れた時には参拝しています。

先に「塞神(さいのかみ)」を挙げていますが、これは日本古来からある原始神の一つであり、村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神であり、名称も形も様々です。
その土地の人が通る時に手を合わせたり、石を積んだりして信仰しています。

対して、この三柱の神は、『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、御袴から道俣神(ちまたのかみ)が化生している。
ここで、「ふなどのかみ」と「くなどのかみ」は同神とされている。
道俣神と八衢比古命・八衢比売命が同神とされている。
八衢(やちまた)とは、道が八つに分かれている所。また、道がいくつにも分かれている所。分かれ道が多くて迷いやすいことにたとえる。

姉埼神社由緒をみると、人皇第十三代成務天皇五年(135年(考古学的には保証なし))九月、このあたりを支配していた上海上(かみつうなかみ)の国造(くにのみやつこ)の忍立化多比命(おしたてけたひのみこと)が天児屋根命と塞三柱神を合祀したとある。
これは上海上国に悪疫、悪神、及び外敵が侵入しないようにとの願いであろう。

廣瀬神社道饗祭は地域に禍をなす、魑魅や妖物と食を饗して、しばらくの間、静かにして頂くもので、八衢比古命・八衢比売命・久那斗命の三神に祭りをお願いする神事です。外部からの悪疫や妖物の侵入阻止・退散が目的です。

八衢比古命・八衢比売命は『古事記』、『日本書紀』にはその名は見えません。
西暦927年、平安中期に書かれた『延喜式』の祝詞には書かれているという情報が今回調べている時にわかったので、ちょうど9月に国立公文書館で『延喜式』の祝詞の部分を撮影してきてあったので、探したら「道饗祭」の部分に、確かにありました。
151230norito.jpg


久那斗(くなど)の神と一緒に、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)という神の名が出てきます。道俣(ちまたの)神が男女一対の神であるという考え方は、遅くともこの頃までに成立していたと考えてよいでしょう。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

和楽備(わらび)神社

20151229

鎮座地:埼玉県蕨市中央4丁目20-9

12月25日(金)に、歴史クラブ行事「中山道蕨宿周辺を歩く」で参拝しました。

蕨城址から通路を使って横から入ったので、参道の入り口まで行って入り直した。
神橋から入る。
151229warabi01.jpg


鳥居
151229warabi02.jpg


神楽殿の裏に、宝篋印塔があり。
151229warabi03.jpg


151229warabi04.jpg


151229warabi05.jpg


神楽殿
151229warabi06.jpg


改めて玉垣が巡らしてあり。
151229warabi07.jpg


社号標
151229warabi08.jpg


創建から江戸時代までのことは、別当寺を務めた三学院末成就院が廃寺となり、明らかでない。
社伝によれば、室町時代に足利将軍家一族の渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡神を祭ったのが始まりとされる。一方、「世鏡伝記題臨書」によれば、永正8年(1511年)に鎌倉の住人、成田隼人正が祭ったとする。また、本殿に安置された神体(木造僧形八幡立像)の台座に天正11年(1583年)の文字が薄く残されており、江戸時代以前の創建が窺える。
江戸時代に蕨宿が整備されると、「蕨八幡」「上の宮」と呼ばれ、中の宮(宮田 氷川社)、下の宮(荒井前 氷川社)と共に蕨宿三鎮守として重きをなした。
明治6年(1873年)村社八幡社に列格、国の管理を受ける。
明治末に神社合併という国策が打ち出され、蕨町においても町内各社を当社に合併することになったが、それぞれの集落民が納得するまでには、数年を要した。明治44年(1911年)12月15日、最後まで承服しなかった塚越稲荷神社を除いた18社を合祀した。合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であった。土地名を冠することとなり、蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した。そして、各合祭神社の建物・鳥居・敷石を移転したり、境内の拡張整備を行った。この時、八幡社の本殿は末社稲荷の社殿にまわし、丁張稲荷社の本殿を当社の本殿として移築した。これらの整備は大正末までかかった。

鳥居
151229warabi09.jpg


151229warabi10.jpg


ここから参道は真っ直ぐ社殿まで延びる。
151229warabi11.jpg


手水舎
151229warabi12.jpg


水盤
151229warabi13.jpg


151229warabi14.jpg


これは狛犬でなくて、獅子ですね。
ネットで調べると、幾つかの記事に「台湾製」とあります。
しかも碁盤の上に乗っている珍しい形です。
獅子舞の芸に「碁盤乗り」というのがありますね。
151229warabi15.jpg


151229warabi16.jpg


151229warabi17.jpg


151229warabi18.jpg


151229warabi19.jpg


151229warabi20.jpg


拝殿
151229warabi21.jpg


社額
151229warabi22.jpg


祭壇には随身が侍っていました。
151229warabi23.jpg


151229warabi24.jpg


151229warabi25.jpg


本殿
151229warabi26.jpg


主祭神は誉田別尊

ご神体が「木造八幡騎馬像」ということで、ネットで探してみたら、蕨市のホームページに載っていました。
151229warabi27.jpg


神紋は「右三つ巴」
151229warabi28.jpg


境内社を参拝。

○御主殿社
祭神は渋川公とされる。明治44年に当社に合祀されたが、その石祠は蕨城址公園に現存する。
151229warabi29.jpg


151229warabi30.jpg


151229warabi31.jpg


○榛名神社(ご祭神:火産霊神、埴山姫神)
151229warabi32.jpg


151229warabi33.jpg


○第六天社
ご祭神は、神仏習合の時代では「第六天魔王」だが、現在は「面足命・惶根命」としているところが多い。
151229warabi34.jpg


○富士浅間神社・小御岳神社(ご祭神:木花咲耶姫命)
かって蕨市役所の敷地に富士山を模倣した人工の山(富士塚)が築かれ、一合目、二合目、三合目と、ぐるぐる回って登って行くと頂上に浅間神社があった。これは仲上町の鎮守であった。小御岳神社はその中腹に祭られた神社である。明治44年の合祀により当社に移設。大正時代になると、富士塚の土は当社前庭の池の埋め立てに使われ、撤去された。
151229warabi35.jpg


○菓祖神(ご祭神:田道間守命(たじまもりのみこと))
蕨は江戸時代から、和菓子・煎餅等を製造販売する商店が多かった。昭和43年(1968年)蕨菓子商組合の人々が建立し、商売繁盛を祈願している。
151229warabi36.jpg


151229warabi37.jpg


○神池(御殿堀)
蕨城を囲む堀の一部であった。江戸時代になると、徳川家が隣接する蕨城址に鷹狩用の御殿を建て、この堀は御殿堀と呼ぶようになった。
それを弁天宮が見守っている。
151229warabi38.jpg


151229warabi39.jpg


○津島牛頭天王
151229warabi40.jpg


○稲荷社(ご祭神:倉稲魂命 (うかのみたまのみこと))
151229warabi41.jpg


151229warabi42.jpg


151229warabi43.jpg


○建築三神
建築の神様、手置帆負命(ておきほおいのみこと)、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祭ったものである。通常は聖徳太子を祭るが、当社では珍しいこの三神である。毎年建設関係者が集まり祭礼する。
151229warabi44.jpg


151229warabi45.jpg


○天神社(ご祭神:菅原道真公)
151229warabi46.jpg


151229warabi47.jpg


151229warabi48.jpg


○力石
151229warabi49.jpg


・53貫目(約199kg)
151229warabi50.jpg


・48貫目(約180kg)
151229warabi51.jpg


・50貫目(約188kg)
151229warabi52.jpg


以上で、和楽備神社の参拝を終え、三学院に向かいました。


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



中山道・蕨宿

20151228

12月25日(金)、歴史クラブ行事で中山道蕨宿付近を探訪しました。
狭山市駅から、所沢、秋津、新秋津、南浦和経由で、京浜東北線浦和駅に降りたのが10時ちょっと前でした。
151227warabi01.jpg


駅前に、明治26年に駅開設の記念碑あり。
151227warabi02.jpg


駅から直進し、中山道に出る手前で右折して蕨城址に向かいます。
角に「蕨城址入り口」の碑があり。
151227warabi03.jpg


蕨城址直前に、こんな表示があり「なんだ、これは」と思わず笑う。
151227warabi04.jpg


和楽備神社の参道を横切る道で、鳥居のところが狭くなっているんですね。
151227warabi05.jpg


【蕨城跡】
所在地:埼玉県蕨市中央4-21
151227warabi06.jpg


蕨城について(ウイキぺデイアから)
南北朝時代に足利氏一門の渋川義行によって築城され、曾孫の渋川義鏡(よしかね)が古河公方に対抗するための拠点とした。
周囲を沼と深田に囲まれた微高地上に築城された平城で、幅約1l.8mの囲掘と幅約8.2mの土塁をめぐらし掘の内側の面積は約12,200㎡となっており、南側には同様の堀と土塁をめぐらせた約21,650㎡の外輪地があり二郭を形成していた。
戦国時代には扇谷上杉氏と後北条氏の境界線に位置したため、扇谷上杉氏にとっては江戸城奪回のための拠点となり、後北条氏にとっては川越城攻略の足がかりとなり、しばしば所属する勢力が入れ替わった。
現在は本丸跡地が県の旧跡に指定され、城址公園として整備されている。

江戸時代以降は、城主不在のまま廃城となった蕨城は江戸時代になると徳川家の鷹狩用の御殿として再利用された。蕨は城下で市が開かれていたため宿場としての基礎があった。そのため、中山道が整備されると宿場町として栄えた。

現代は、周辺の都市開発が進んだため「御所跡析形」「要害」「高山「堀の内」「防止」といった名称を残すのみで、掘と水濠の一部分をのぞいて痕跡を見ることはできない。
大正14年(1925)3月・埼玉県指定史蹟に指定される。
昭和36年(1961)4月・埼玉県指定旧跡に指定される。
昭和49年(1974ト市制15周年記念事業として、蕨城址公園と蕨市民会館が建設きれた。

城址公園と隣接して和楽備(わらび)神社があり、これに城址公園と市民会館を合わせたものが蕨城のかっての敷地であったと推定されている。和楽備神社は、社伝によると渋川氏が蕨城の守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。
三舟山合戦の際に渋川氏の滅亡で蕨を離れた者の中に板倉家宗家初代板倉勝重の祖父板倉頼重がいる。

わずかに残る堀と土塁
151227warabi07.jpg


151227warabi08.jpg


151227warabi09.jpg


城址公園にあったもの:
ニュートンの木
151227warabi10.jpg


151227warabi11.jpg


ウルマンの詩「青春」碑
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
151227warabi12.jpg


151227warabi13.jpg


和楽備(わらび)神社については、別途記事にします。

その記事を読む


三学院に向かう途中、蕨北小の近くにあった、延宝2年(1674)建立の庚申塔。
三猿の浮き彫が深い。
151227warabi14.jpg


151227warabi15.jpg


【三学院】
所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。
151227warabi16.jpg


全体図
151227warabi17.jpg


仁王門
151227warabi18.jpg


151227warabi19.jpg


151227warabi20.jpg


鐘楼
151227warabi21.jpg


三重塔
151227warabi22.jpg


圧倒的な迫力で聳える本堂
151227warabi23.jpg


151227warabi24.jpg


境内の石仏、石碑を探訪

○梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
151227warabi25.jpg


151227warabi26.jpg


151227warabi27.jpg


○地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
151227warabi28.jpg


地蔵石仏(目疾地蔵)
151227warabi29.jpg


ちょうどお参りに来た方が眼にお味噌をつけてお参りしていた。
151227warabi30.jpg


六地蔵石仏
151227warabi31.jpg


子育地蔵
151227warabi32.jpg


○阿弥陀堂と不動堂の間の石仏群
151227warabi33.jpg


明和6年(1769)造立の庚申塔
151227warabi34.jpg


元治元年(1864)建立の「第六天」碑
151227warabi35.jpg


寛文2年(1662)建立の二菩薩碑
151227warabi36.jpg


貞享元年(1684)造立の庚申塔
151227warabi37.jpg


○蕨宿関係墓石群
151227warabi38.jpg


寛文10年(1670)の墓碑
151227warabi39.jpg


左側が元和9年(1623)とかなり古い。右側のは明暦2年(1656)。
151227warabi40.jpg


○木食観正塔
151227warabi41.jpg


151227warabi42.jpg


○宝筐印塔寛政九年(1797)銘
151227warabi43.jpg


○宝筐印塔宝永二年(1705)銘
151227warabi44.jpg


○住職墓域の、卒塔婆型墓石
こういう形式の墓石を初めて見ました。
151227warabi45.jpg


151227warabi46.jpg


○阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)
151227warabi47.jpg


151227warabi48.jpg


151227warabi49.jpg


これで三学院見学を終り、中山道に出て、レストランで昼食後、いよいよ中山道を歩きました。

蕨宿案内図
151227warabi50.jpg


151227warabi51.jpg


151227warabi52.jpg


国道17号(中山道)から分かれて旧道を歩きます。
151227warabi53.jpg


【ふれあい広場】
151227warabi54.jpg


皇女和宮の行列を描いた壁画
151227warabi55.jpg


からくり時計
151227warabi56.jpg


151227warabi57.jpg


雰囲気のある建物
151227warabi58.jpg


【はね橋】
民家から用水を渡って道に出るため設けられていた。
復元されている。
151227warabi59.jpg


151227warabi60.jpg


あとで立ち寄った「歴史民俗資料館」にあった模型の「はね橋」
151227warabi61.jpg


中山道に戻り、ぶらぶらと。
昔をしのばせる民家あり。
151227warabi62.jpg


151227warabi63.jpg


道すじにあった「蕨宿まちづくり憲章」
151227warabi64.jpg


【仙の鐘】
「中仙道宿場まつり」の記念で作られたもので、中仙道蕨宿地域では、「人にやさしいまちづくり」・「人と人とのふれあいを大切にするまちづくり」を目指していることから、人偏をつけた「仙」の字を使っているそうです。
151227warabi65.jpg


【歴史民俗資料館】
151227warabi66.jpg


横に本陣入り口を再現
151227warabi67.jpg


中山道を利用した大名、姫君
151227warabi68.jpg


151227warabi69.jpg


中に入ると、高札場と庚申塔のレプリカ
151227warabi70.jpg


蕨宿模型
151227warabi71.jpg


151227warabi72.jpg


「一宮御幸之図」
明治元年、明治天皇本陣休憩の様子を描いたもの。
151227warabi73.jpg


151227warabi74.jpg


和宮様御下向御用留
151227warabi75.jpg


徳川家康朱印状
三学院に与えた、寺領20石を寄進することが記された朱印状
151227warabi76.jpg


151227warabi77.jpg


【蕨町道路元標】
151227warabi78.jpg


【長泉院】
所在地:蕨市中央5-13-3
151227warabi79.jpg


真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。
151227warabi80.jpg


鐘楼は、なんと現代的なお寺の上にあり。
151227warabi81.jpg


裏のほうから望遠を効かして鐘を撮った。
151227warabi82.jpg


【歴史民俗資料館 別館】
明治時代に織物の買継をしていた家を保存してある。
151227warabi83.jpg


中山道に面したお店の部分
151227warabi84.jpg


内部
151227warabi85.jpg


住宅部分の一部
151227warabi86.jpg


ユーカリの樹がきれいだった。
151227warabi87.jpg


151227warabi88.jpg


【宝樹院】
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
151227warabi89.jpg


151227warabi90.jpg


山門
151227warabi91.jpg


木鼻の彫刻(獅子?)が面白い。
151227warabi92.jpg


本堂
151227warabi93.jpg


渋川公墓(市指定文化財)
渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
151227warabi94.jpg


151227warabi95.jpg


最後に、中山道の道に埋められていた、各宿の北斎絵の陶画から、幾つか挙げておきます。
坂本宿(碓氷峠の群馬県側麓)
151227warabi96.jpg


追分宿(信濃追分:北国街道と中山道の追分)
151227warabi97.jpg

岩村田宿
151227warabi98.jpg



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」に飛ぶ



東京駅・丸の内イルミネーション2015

20151227

昨夜、26日(土)の夜にカミさんと楽しんできました。

今年は「東京ミチテラス」というイベントとかで、丸の内側駅舎をLED照明で藤色やあかね色などの「日本の伝統色」でライトアップされていた。
151227irumi01.jpg


151227irumi02.jpg


151227irumi03.jpg


151227irumi04.jpg


色のライトアップを堪能した後、KITTEのビルの色もとてもシックでいいな、とも思った。
151227irumi05.jpg


「東京ミチテラス」というイベント会場は、とても並ぶみたいだから、パスした。
151227irumi06.jpg


丸の内仲通りのイルミネーション
151227irumi07.jpg


今年は、クリスマス風の飾り付けをしたかわいらしい屋台(ヒュッテ)が並んでいた。
151227irumi08.jpg


151227irumi09.jpg


151227irumi10.jpg


愛嬌のある芸術作品も楽しい。
151227irumi11.jpg


151227irumi12.jpg


151227irumi13.jpg


これは草間彌生の「われは南瓜 2013」
151227irumi14.jpg


きれいなショーウィンドウもあった。
151227irumi15.jpg


151227irumi16.jpg


とあるビルの三階のコーヒーショップで休憩。
151227irumi17.jpg


コーヒー飲みながらぼんやり下を見ていたら、ちょっと離れたところで人だかりがしていた。
カメラの望遠でのぞいたら、ベンチのオブジェと一緒に写真撮っているのだった。
151227irumi18.jpg


コーヒーショップを出て、私も夏目漱石とツーショット(笑)
151227irumi19.jpg


三菱一号館まで行って、また東京駅までぶらぶと戻りながら、イルミネーションを楽しんで、帰途についた。
151227irumi20.jpg



「お気に入りの場所」に飛ぶ




氷川神社&富士塚/狭山市

20151224

所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475

入り口
151224hikawa01.jpg


社号標
151224hikawa02.jpg


 当神社の創建や由緒は古い記録が全く残っていないために不明です。
明治45年の「神社由緒調書」にもこうした記録がなく、わずかに現在の社殿は明治14年(1881)12月に再建されたと記されているのみです。 さいたま市大宮の武蔵一宮・氷川神社から分祀されたもので、大宮の氷川神社は由緒、規模、歴史など超一級で、武運の守護神として武士の崇拝が篤かったといわれますので、当社も武士の崇拝を受けたと思われます。

朱色の両部鳥居
151224hikawa03.jpg


参道には桜の樹が植えられている。
151224hikawa04.jpg


151224hikawa05.jpg


石灯籠が二組あるが、最初の一組は慶應2年(1866)奉納のもの。
151224hikawa06.jpg


掲示板があり、また石灯籠があり。
151224hikawa07.jpg


二組も慶應2年(1866)奉納のもの。
151224hikawa08.jpg


こちらの台座には、狛犬が彫られている。
151224hikawa09.jpg


151224hikawa10.jpg


二の鳥居(?)
笠木が巨大化したような感じのものだ。
151224hikawa11.jpg


151224hikawa12.jpg


手水舎
151224hikawa13.jpg


入母屋造りの拝殿
151224hikawa14.jpg


151224hikawa15.jpg


151224hikawa16.jpg


社額
151224hikawa17.jpg


本殿は拝殿と離れている。
151224hikawa18.jpg


拝殿から本殿にかかる朱色の橋。
151224hikawa19.jpg


当初は、拝殿から石の間に降りて、また石段と階段を上がり本殿に渡っていたことがわかる。
151224hikawa20.jpg


流れ造りの本殿
151224hikawa21.jpg


151224hikawa22.jpg


151224hikawa23.jpg


本殿背面
151224hikawa24.jpg


ご祭神は素箋鳴尊(すさのおのみこと)。

神紋は「右三つ巴」
151224hikawa25.jpg


神楽殿
151224hikawa26.jpg


151224hikawa27.jpg


151224hikawa28.jpg


境内社として明治40年(1907)に青柳下にあった第六天神社、稲荷神社を合祀している。

第六天神社
ご祭神:両足尊(おもだるのみこと)、惶根神(かしこねのみこと)
151224hikawa29.jpg


151224hikawa30.jpg


前に色々な奉納物が置かれていた。
151224hikawa31.jpg


151224hikawa32.jpg


第六天神社というのは、珍しいのでここで説明しておきます。
特徴:
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代の(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』、『新編相模国風土記稿』、『増訂・豆州志稿』によれば、「第六天神社」は江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが、前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも300余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。
鵜ノ木には、独立神社としてあり、現在も講が活動しています。
さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社が、現在も活発に活動しています。

第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。

第六天魔王とは
仏教では、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたもの)といった世界観がある。
このうち、六道の地獄から人間までは欲望に捉われた世界、つまり欲界という。しかし天上界では細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界・そして精神的な無色界(これを三界という)がある。
ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、これを六欲天という。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。
六欲天を上から記載すると次の通りとなる。
他化自在天(たけじざいてん)、化楽天(けらくてん)、兜率天(とそつてん)、夜摩天(やまてん)、忉利天(とうりてん)、四大王衆天(しだいおうしゅてん)。

境内社・稲荷神社
151224hikawa33.jpg


151224hikawa34.jpg


中に朱塗りの木の社殿あり。
151224hikawa35.jpg


境内の石仏としては、参道入り口鳥居前に庚申塔があります。
全高が100・5cm、台座高は9cmの-面大骨の浮彫青面金剛を刻んだ庚申塔。
銘文によると元文5年(1740)庚申(かのえさる)3月19日に上青柳村の馬知屋敷の庚申講中世話人代表の豊泉氏他21名と、馬智屋敷組の高橋吉右衛門ほか11名により建てられたもの。
足の不自由な人にご利益があるという言い伝えがある。
151224hikawa36.jpg


151224hikawa37.jpg


151224hikawa38.jpg


151224hikawa39.jpg


151224hikawa40.jpg


【富士塚】
昭和42年(1967)に東脇の道路改修が行われた際、富士塚と富士嶽神社が移転された。

氷川神社の富士塚:
 富士塚は浅間塚とも呼ばれています。富士塚の頂上に富士嶽神社と刻まれた高さ171cm、幅77cmの石碑があり、いわゆる霊山と生産神を表す文字塔が建てられています。富士信仰によって建てられた富士講碑です。
 富士信仰は秀麗な富士山を崇拝する山岳信仰で、長谷川角行東覚(書行藤覚)によって基礎が作られ伊藤伊兵衛(食行身禄・じきぎょうみろく)の活躍により庶民に普及し、盛んになったといわれています。
 富士山登拝の風習は関東一円に広まり多くの「富士講」が成立したようで、庶民の生活の向上により富士講が盛んになったことがうなずけます。

登り口の鳥居
151224hikawa41.jpg


合目石
151224hikawa42.jpg


151224hikawa43.jpg


四合目のところに富士講碑あり。
151224hikawa44.jpg


151224hikawa45.jpg


 この富士講碑は明治10年(1877)に建てられたもので、建てた人は分かりませんが裏面の銘文に「村内五穀豊登」と刻まれていることから、青柳村の富士講によると思われ、豊かな実りを願って建てたと思われます。
 市内には45基の富士講碑が確認されていますが、このうち江戸時代のものは7基で、ほとんどが明治時代になってから建てられたものです。
江戸時代の富士講碑には「富士浅間宮」のように「宮」、明治以降は「富士嶽神社」のように「神社」と刻まれていて、これによりある程度時代の区分けができます。
富士山は相模の大山と並んで昔から生産神として崇められ、富士山登山は富士講代表による代参で、その他の講員は老若男女が参拝できる手近な富士塚から富士山を拝んでいました。

小御嶽神社碑
151224hikawa46.jpg


小御嶽というのは、現在の富士山が出来る前に、その場所にあった山です。
本当の富士山の五合目に「小御嶽神社」があります。

烏帽子岩
本当の富士山の八号目にあり、食行身禄が入定した場所です。
氷川神社の烏帽子岩には、「角行霊神」と「食行霊神」が刻まれている。
151224hikawa47.jpg


頂上にある「冨士嶽神社」碑
151224hikawa48.jpg


151224hikawa49.jpg


「冨士嶽神社」碑は、富士山の溶岩の台座の上に安置され、左右に猿の石像があります。
151224hikawa50.jpg


151224hikawa51.jpg


151224hikawa52.jpg


全高が137cmの富士講碑の左側には高さ52。皿、右側には高さ48c皿の猿の石像が建てられています。
一般的に猿の石像は猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る神社に建てられていることが多く、また庚申塔にも三猿が見られます。
猿は富士信仰にも関連があって、富士講が造る富士塚に他の石像とともに猿の石像が建てられる場合が多くあります。
信仰の対象である富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、そのため60年に一度回ってくる庚申の年は御縁年といって盛大に祭典が行われ、多くの信者が登山していたといわれます。
 このことによって富士信仰の中に「猿」が登場したことが考えられます。

結果として、富士塚の構成要素の有無をみると、
九十九折の登山道・・・○
合目石・・・○
頂上の社殿、祠、又は碑・・・○
「小御嶽」がある・・・○
「烏帽子岩」がある・・・○
「お胎内」がある・・・×
山裾に社殿又は鳥居がある・・・○
富士山の溶岩・・・○
講社の石碑・・・○

ということで、ほぼ完全な姿で残っている素晴らしいものと言えます。
これからも、大事に保存していただきたいと思います。

(了)


「狭山市の歴史を訪ねる」に飛ぶ



松江城

20151223

11月12日から14日の出雲地方の旅の最終日、玉作湯神社、八重垣神社、揖夜神社、黄泉比良坂と回って、最後に訪ねたのは、今年国宝に指定されたのでここに行かなくてはどうすると考えた松江城でした。

とはいえ、15時に出雲空港を飛び立たねばならないので、あまり時間がありません。
松江市内に入ってから松江城にたどりつくのに、思いのほか時間がかかってしまい、城の近くで急いで昼食を食べて、走るようにして天守閣の前まで行き、中には入らず外観だけ見て戻りました。

松江城の全体図。
151223matsue01.jpg


駐車場から大手門から入ろうと内堀のところに来たら、堀遊覧の船着き場があった。
今度来たら、あれに乗りたいなと眺めた。
151223matsue02.jpg


石垣越しに、はるかに天守が見えた。
151223matsue03.jpg


松江城公園入り口のところに、堀尾吉晴像が立っていた。
151223matsue04.jpg


151223matsue05.jpg


堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた。
織田信長時代には、稲葉山城攻め。
豊臣秀吉時代には、天正10年(1582年)の備中高松城攻め、山崎の戦い。
秀吉死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
ありとあらゆる合戦を経験したキャリアで、その経験を活かして設計したこの松江城は難攻不落の城として有名。

1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とした。
1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 冬、松江城落成。(堀尾吉晴はこの年6月に完成目前で急死している。)

松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。

この日は土曜日なので、「城攻め体験」のイベントの参加者を募っていた。
151223matsue06.jpg


私も時間があれば参加したのに、残念(涙)

まず最初は「馬溜」である。
ここは大手門の前にある「桝形構造」で、大手門を守る構造になっていると同時に、いざという時にはここに馬を集めて城外に討って出る場所である。

ここに入っていくと、正面に横に長い巨大な石垣と、その上に設けられた櫓と塀に圧倒される。
高さ13mである。
151223matsue07.jpg


151223matsue08.jpg


大手門は残っていなくて、両側の石垣からその巨大さがわかる。
大手門の幅は15mで、二階建て、屋根に鯱が載っていたという。

大手門を入ると、左に折れて石段を上がっていく。
左手には、太鼓櫓があって圧倒してくる。
151223matsue09.jpg


「石落とし」がよくわかる。
151223matsue10.jpg


長い石段には途中に踊り場が設けられ、「鉄砲櫓」があり、石段も位置をずらしてあり、攻め上がる勢いを削ぐ工夫がしてある。

石段を上がりきると、左手は二の丸。
右に行くと、三の門から天守閣に通じていくのだが、ちょっと真っ直ぐ進んで「坤櫓跡」まで行って見た。

野面積の石垣が面白かった。
151223matsue11.jpg


151223matsue12.jpg


151223matsue13.jpg


三の門、二の門、一の門と天守閣に近づいていくのだが、「桝形構造」になっていて、真っ直ぐには行けない。
三の門、二の門は現在は無いので、石垣などで想像するしかない。

一の門の前も、「桝形構造」で左右を櫓で挟まれている。
151223matsue14.jpg


一の門を入って、右手に少し坂を上がると、見事な天守閣が姿を見せる。
151223matsue15.jpg


天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけている。
意匠は下見板張りで桃山文化様式である。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。
姫路城、松本城に次いで、三番目の高さである。

黒と白のコントラストが美しい。
黒下見板張りと白塗り漆喰壁である。
大きな千鳥破風の飾り屋根から、別名「千鳥城」と呼ばれる。
151223matsue16.jpg


最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。
151223matsue17.jpg


鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管展示されている。
151223matsue18.jpg


窓は突上窓と華頭窓あり。
151223matsue19.jpg


大きな「附け櫓」が出入り口で、外には「石落とし」も備え、内部は「桝形構造」になっていて、周囲から「狭間」で狙われる構造になっている。
151223matsue20.jpg


横に回ると、「附け櫓」がけっこう大きいのがよくわかる。
151223matsue21.jpg


正面は白い壁が目立つが、側面はほとんど黒で重々しい。
側面の破風は実に巨大だ。
151223matsue22.jpg


151223matsue23.jpg


紅葉とのポイントを探して撮って、これで松江城の撮影は終了。
151223matsue24.jpg


松江城から一路、高速を使って出雲空港に。
空港の近くでレンタカーを返して、空港まで送ってもらう。
151223matsue25.jpg


151223matsue26.jpg


着いた時には、気が急いていて見つけなかった、床のハートマークを探す。
これを探すと幸運だとか(笑)
151223matsue27.jpg


待合室の壁にも、大きな注連縄が飾ってあった。
151223matsue28.jpg


これで、三日間の出雲地方の旅を終えたが、「神話のふるさと」を訪ねるというテーマで廻ったので、結局神社は10社参拝できた。
行く前に、行きたい神社をリストアップしたら16社挙がっていたので、まだまだ行きたい神社が多い。
また、ぜひとも来ないといけない。


「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



黄泉比良坂

20151221

所在地:島根県松江市東出雲町揖屋
訪問日:2015年11月14日

揖夜神社から、ここに移動しました。
事前に調べたときには、満足な地図が入手できずに不安だったのですが、揖夜神社から大体の方角の検討で車を走らせたら、「⇒黄泉比良坂」の案内板を発見(嬉)
難なく到着できてホッとしました。
151221yomotsu01.jpg


151221yomotsu02.jpg


ここが、『古事記』ではどのように出てくるかというと、
 (現代語訳)
 そこで伊邪那岐命は、女神の伊邪那美命に会いたいと思って、後を追って黄泉国に行かれた。そこで女神が、御殿の鎖した戸から出て迎えたとき、伊邪那岐命が語りかけて仰せられるには、「いとしいわが妻の命よ、私とあなたとで作った国は、まだ作り終わっていない。だから現世にお帰りなさい」と仰せられた。すると伊邪那美命が答えて申すには、「それは残念なことです。もっと早く来て下さればよかったのに。私はもう黄泉国の食物を食べてしまったのです。けれどもいとしい私の夫の君が、わざわざ訪ねておいで下さったことは恐れいります。だから帰りたいと思いますが、しばらく黄泉国の神と相談してみましょう。その間私の姿を御覧になってはいけません」 と申した。
 こう言って女神は、その御殿の中に帰っていったが、その間がたいへん長くて、男神は待ちきれなくなられた。それで男神は、左の御角髪(みずら)に挿していた神聖な爪櫛の太い歯を一本折り取って、これに一つ火をともして、御殿の中にはいって御覧になると、女神の身体には蛆がたかり、ごろごろと鳴って、頭には大雷がおり、胸には火雷がおり、腹には黒雷がおり、陰部には拆雷(きくいかづち)がおり、左手には若雷がおり、右手には土雷がおり、左足には鳴雷がおり、右足には伏雷がおり、合わせて八種の雷神が成り出でていた。
 これを見て伊邪那岐命が、驚き恐れて逃げて帰られるとき、女神の伊邪那美命は「私によくも恥をかかせた」と言って、ただちに黄泉国の醜女を遣わして追いかけさせた。そこで伊邪那岐命は、髪に着けていた黒い鬘を取って投げ捨てると、たちまち山ぶどうの実が生った。これを醜女たちが拾って食べている間に、男神は逃げのびた。なお醜女たちが追いかけて来たので、男神はこんどは右の御角髪に刺している爪櫛の歯を折り取って投げ捨てると、たちどころに筍が生えた。それを醜女たちが抜いて食べている間に、男神は逃げのびた。
 そして後には、その八種の雷神に、千五百人もの大勢の黄泉国の軍勢を従わせて追跡させた。そこで男神は、身に着けておられる十拳の剣を抜いて、うしろ手に振りながら逃げて来られた。なお追いかけて、現世と黄泉国との境の黄泉比良坂のふもとにやって来たとき、男神は、そこに生っていた桃の実三つを取って、待ちうけて投げつけたところ、黄泉の軍勢はことごとく退散した。そこで伊邪那岐命が、その桃の実に仰せられるには、「おまえが私を助けたように、葦原の中国に生きているあらゆる現世の人々が、つらい目に逢って苦しみ悩んでいる時に助けてくれ」と仰せられて、桃の実に意富加牟豆美命という神名を与えられた。
最後に、女神の伊邪那美命自身が追いかけて釆た。そこで男神は、巨大な干引の岩をその黄泉比良坂に引き据えて、その岩を間にはさんで二神が向き合って、夫婦離別のことばを交わすとき、伊邪那美命が申すには、「いとしいわが夫の君が、こんなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を、一日に千人締め殺しましょう」と申した。すると伊邪那岐命が仰せられるには、「いとしいわが妻の命よ、あなたがそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」と仰せられた。こういうわけで、一日に必ず千人の人が死ぬ一方、一日に必ず千五百人の人が生まれるのである。
 それでその伊邪那美命を名づけて黄泉津大神という。また男神に追いついたので、道敷大神と呼ぶともいう。また黄泉の坂を塞いだ岩は、道反之大神と名づけ、また黄泉国の入口を塞いでおられる黄泉戸大神ともいう。そして、かのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂という坂である。

となっている。
これだと、黄泉比良坂は「けんか別れ」した場所ということで、あまり良い場所ではないとなるが、
黄泉比良坂について『日本書紀』の本文では言及がないが、注にあたる「一書」に、「泉平坂(よもつひらさか)」で言い争っていた伊弉冉尊と伊奘諾尊の仲を菊理媛神がとりもった、という話が記されている。
【解釈文】
「その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。
 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。」

菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていないが、このことから菊理媛神は縁結びや和合の神とされている。
そして、菊理媛神は、加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。

白山比咩神
151221yomotsu03.jpg


ちなみに私とカミさんは2014年8月3日に、白山本宮・加賀一之宮・白山比咩神社に参拝している。
ということで、これからも仲良くやっていこうと、安心してここを訪れたという訳です(笑)

まずは、さきほどの案内板に書かれていた「賽ノ神」にお参りしようと、ちょっと伊賦夜坂を歩いてみました。
151221yomotsu04.jpg


小石がたくさん積まれていますね。
151221yomotsu05.jpg


【賽ノ神】
151221yomotsu06.jpg


151221yomotsu07.jpg


伊賦夜坂を引き返して、黄泉比良坂にお参りしました。

【黄泉比良坂】
151221yomotsu08.jpg


神蹟黄泉比良坂石碑
皇紀2600年事業として、昭和15年に当時の揖屋町長佐藤忠次郎氏が、神蹟の荒廃を嘆き建てたものだそうです。
151221yomotsu09.jpg


151221yomotsu10.jpg


私たちが訪れた時には、駐車場とか案内とか、とても整備されていたので、それから良くなったのでしょう。

桃の木がありました。
151221yomotsu11.jpg


151221yomotsu12.jpg


151221yomotsu13.jpg


道反之大神(黄泉戸大神)
151221yomotsu14.jpg


151221yomotsu15.jpg


ここから、今回の旅の最後の訪問地である松江城に向かいました。



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



公開講座「水野の新田開発について」

20151220

平成27年(2015)12月6日(日)に、さやま市民大学学園祭参加行事として、歴史クラブが開催しました。
講師は権田恒夫氏にお願いしました。
151220kouza01.jpg


151220kouza02.jpg

(講師と講演風景の写真は、川田等さん撮影)

私は、法事のため富山県に帰省していたので、この記事は配布された説明資料と、当日投影したパワーポイント資料からの写真で作成しています。
(パワーポイントは佐藤芳子さんと池田守さんのデータから作成されました)

【はじめに】
 来年(2016年)は、水野村350周年の記念の歳に当たる。狭山市大字水野の成り立ちを中心に新田開発について話を進める。松平信綱の野火止や柳沢吉保の三富の開拓は広く知られるが、水野村については『新編武蔵風土記稿』に僅かな記述があるだけである。川越藩領の武蔵野の開発は9か村に分けられそれぞれ引受人が決められ、不老川を遡り今福村・中福村・堀金村・水野村へと南下する。水野村は川越藩領の南端に位置したので、開発は東進し三富へと続けられた。それでは、享保2年(1717)、牛久保家の第2代の牛右衛門忠元が紀述した由緒書「覚」を中心に水野村の開発を見ていく。

堀金村の開発
151220kouza03.jpg


牛久保家由緒書「覚」
151220kouza04.jpg


151220kouza05.jpg


【1.牛久保家の系譜】
 狭山市大字水野3番地の牛窪家は2町歩余りの農地を所有し、開発名主の風格を今に伝える。残された由緒書「覚」によると、出自は三河国宝飯郡牛久保村(愛知県豊川市牛久保)で、地名から牛久保姓を名乗るようになった。その後、浪々の身となり、高祖父・右馬之丞の時、武蔵国桶川宿(桶川市)に居を移す。そして、慶長6年(1606)、藤倉大膳の招介で大塚村(川越市)に移住する。その時、右馬之丞の嫡子で、牛右衛門の曽祖父・新兵衛も大塚村へ移った。慶長18年(1613)、新右衛門の嫡子・次郎右衛門は大塚新田に移り名主役を仰せ付かる。承応元年(1752)、今福村に移り住み、名主役を勤める。甥の金左衛門は堀金村(堀兼村)に居を構え、名主役を勤める。金左衛門は水野に転居、水野村牛久保家の初代となる。

【2.開発以前】
 水野村が位置する武蔵野は「草地」「芝地」と呼ばれ、草が一面に生い茂った原野であった。表土は関東ローム層の赤土のため地味が悪く、明暦年間(1655~1658)になっても開発されず、周辺村々の入会地として利用され、周辺農民の秣場(まぐさば)として川越藩の野高200石の-部であった。
151220kouza06.jpg


【3.開発の経緯】
 寛文5年(1665)、川越城主松平甲斐守輝綱が鷹狩に出掛けた折、野先案内人を勤めたのが堀金村の牛久保金左衛門であった。浅間大権現(現堀兼神社)で休憩を取った折、輝綱は一面に見える原野を見てこの地を開発しようと考え、同6年(1666)本格的に原野の開発を始める。金左衛門は当時20歳の嫡子牛右衛門と共に都奉行安松金右衛門吉政の技術的な援助を受け、原野の開発を進めた。南入曽村の百姓や川越藩内の次・三男が入植し、居屋敷を建て、開発に従事した。
 そして・『千載和歌集』にある藤原俊成の和歌「むさし野の 堀金の井も あるものを うれしや水の近付きにけり」をなぞらえて、村名を水野村と名付けられた。開発当初、屋敷はわずか81軒であった。
151220kouza07.jpg


【4.入会地論争】
 寛文6年(1666)7月25日、天領と旗本領31か村から訴えられるが、これは水野の地が入会地として利用されていた野銭場であり、境界がはっきりしていなかったからである。しかし、松平輝綱が幕府要職こあった関係で訴えは却下される。そして、貞享元年(1684)、北入曽村、黒須村、田中村、三ツ木村、風下村の5か村が訴え出たが、またも退けられる。その時、有力な証拠になったのが牛久保家の勧請した八幡宮である。現在、石詞・八幡宮は、牛久保家の雑木林の小さな建物に鎮座する。
151220kouza08.jpg


151220kouza09.jpg


【5.開発の様子】
 村作りは既存の村と境界を決めることから始められ、未開発地と開発地の境に印を付け、杭を打ち、村境とした。藤沢村から堀金村までの南入曽村境(裏通り)に道路を作り、松の木を植えて目印とした。そして、未開発地の境(表通り)に道路(野際街道)を作り、村境とした。野際街道沿いに杉を植える予定であったが、植林は実現しなかった。道路に沿って-軒分約2町歩(約2ha)の短冊形の土地(縦約20聞(約36m)、横約330間(約600m)に分け、ウツギを植えて畑境を決め、地割(じわり)した。
南入曽村境の道路に面して屋敷、次に畑地、一手奥に原野を置き、畑の真ん中に耕作道を通した。その後、残された原野にクヌギやコナラなどの雑木を植え、落ち葉を堆肥に小枝を薪に利用した。後に畦畔茶も植えている。
151220kouza10.jpg


151220kouza11.jpg


【6.開発後】
開発当初から寛文8年まで3か年は鍬下年季として年末は免除された。
講演では、詳細な石高とか内訳の説明があったが、ここでは数字は省略する。
最初の10年間、川越藩は検見取りしていたが、生産が安定すると定免取りになった。
宝永2年(1705)、柳沢吉保は甲府に転封したが、後に支配する代官の細田伊左衛門も検地を行っていない。

 寛延2年(1749)の『武州入間郡水野村明細書上帳』で、畑反別や内訳はわかる。(数字は省略)
151220kouza12.jpg


主に大麦、小麦、粟、稗、陸稲、芋、蕪、大根を栽培し、小豆、蕎麦、胡麻、芥子も少し作っている。「土地悪敷く」大豆は作付出来なかったが、糠灰、下肥、厩肥などを利用し地味を豊かにしようと努力している。
人口は男222人・女207人合計431人、家数は85軒(名主1軒、本百姓83軒、宮守一軒)、馬を39疋飼っていた。

 水野村の農民にとって生活用水の確保は大切であった。10か所のお助け井戸を掘ってもらい、8軒で1つの共同井戸を使用した(名主家は、1軒で-つの井戸)。
井戸は15mから20mも掘らねばならなかった。
掘った赤土や砂礫層が崩れないよう、太い松材で井桁を組んで井戸を仕上げた。

寛文6年(1666)開拓当初からの牛窪家井戸
151220kouza13.jpg


その後、下水野の18軒は南入曽村の入曽用水(小川=こかわ)から分水させてもらい、用水路を引いた。
入曽用水(こかわ)の跡
151220kouza14.jpg


生産性の乏しい土地での生活は苦しく、逃亡する者も出ている。そこで、精神的な拠り所としたのは地蔵尊や庚申塔などの石仏であった。開発20年後の貞享3年(1686)、下水野の農民45名は地蔵菩薩を祀っている(俗称化け地蔵)。

化け地蔵 貞享2年(1685)
151220kouza15.jpg


庚申塔 天明2年(1782)
151220kouza16.jpg


村内に檀那寺や共同墓地がなく、畑に個人墓地を造った。
151220kouza17.jpg


村の鎮守として富士浅間神社を勧請し、富士塚に祀っている。
水野 元村社浅間宮の跡碑
151220kouza18.jpg


【おわりに】
 狭山市水野の先人が営々と築き上げて来た歴史を再確認することができた。これから、循環型農業を大切にし、武蔵野の原風景が未来に引き継がれることを希望する。
現在、「里山」と言う言葉が一般に流布するようになった。管理された雑木林が後世まで残って欲しい。
明治34年(1901)刊行の国木田独歩著『武蔵野』は、雑木林の美しさを日本人に広く教えた。
伝統的な農村風景は、景色を見る人たちに落ち着きと安らぎを与えてくれる。田畑は水の循環を安定させ、熱さを和らげてくれる。伝統的な暮らしと結びついた畑や周囲の雑木林を「里山」と呼ぶ。里山は食料や燃料、生活に使う道具を得るために地形や自然の恵みを利用してきた。現在、里山の環境が失われつつある。


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「狭山市の歴史を訪ねる」記事一覧に飛ぶ



阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ)/日本の神々の話

20151219

この神を阿遅鉏高日子根神と同神とする説もある。
記紀には阿遅鉏高日子根神しか登場せず、阿遅須枳高日子は『出雲国風土記』にしか登場しない。
出自を見ると、両神ともオオアナムヂ(=大国主命)と妻の筑紫のタキリビメ(多紀理比賣)の間に誕生したとある。
しかし両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。

以下の記事は、主として山陰中央新報社の「神話のふるさと」に拠りました。

アジスキタカヒコの名は「立派な鋤を持った高く輝く太陽の子」の意味で、土地を切り開く農業の神や金属の神と考えられてきた。

『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条で、葦原中つ国の国造りを成し遂げたオオアナムヂの御子神で、言葉が話せないアジスキタカヒコ(阿遅須枳高日子)が、聖水を浴びることで災厄をはらい落とすという神話が登場する。
風土記によると、アジスキタカヒコは、顎ひげが長く伸びる大人になるまで昼夜を問わず泣き続け、言葉が話せなかった。そこで、オオアナムヂが泣くわけを知りたいと祈ると、御子神が言葉が話せるようになった夢を見た。夢からさめて御子神に言葉をかけると、その時、初めて 「御沢」と言った。オオアナムヂが場所を尋ねると、アジスキタカヒコは石の多い川を渡り、坂を上った所で止まり「ここです」 と言った。そこに湧き出ている泉で水を浴び体を清め、もろもろの災いのもとを洗い流したので健康な身となった。

この故事から、出雲国造が新任の際、天皇の治世を祝福する神賀詞を奏上するため上京する時は、ここの水をみそぎ初めの水に用いる、と伝える。

この 「御沢」の候補地は三カ所。島根県奥出雲町三沢の三津池と同町三沢の三沢池、雲南市木次町平田の前の舞の古井だ。
要害山三沢城跡保存会会長で三津池と三沢他の双方を清掃し研究する田部英年さんは、「御沢」の候補地三カ所とも、同町三沢に鎮座しアジスキタカヒコを主祭神とする三沢神社を取り巻くように位置することを指摘。「三つのどれかが神話の舞台になったのは間違いないだろう」と話す。
風土記にアジスキタカヒコは、意宇郡や楯縫郡などの五カ所に名が記され、祭神とする阿受伎社などが三十九社もみられる。
神門郡の高岸郷にも、昼夜となくひどく泣くので、オオアナムヂが高い家を建ててはしごをかけ、それを上ったり下りたりして育てた、と出てくる。

 風土記研究者の故加藤義成さんは「出雲国風土記参究」 で、三沢郷の神話の裏に、仁多郡産の優秀な鉄を使い農具や利器を作る際、清浄な泉の水で身を清めた厳粛な姿を想起。アジスキタカヒコが高岸から三沢に上った伝承を「製鉄指導者が斐伊川を上って来た面影をしのばせるものであろう」 と推測する。
 民俗学者の谷川健一さんも「出雲の神々」で風土記に記されている仁多郡の鉄に注目し、言葉を話せないアジスキタカヒコを「鉱毒により職業病になやまされたたたら師たちのことを暗示している」と考察している。


日本の神々記事一覧に飛ぶ


小鹿野鉄砲まつり

20151217

12月13日(日)に、歴史クラブの企画で、秩父郡小鹿野町飯田八幡宮で催された「鉄砲まつり」を見ました。
151217ogano01.jpg


西武秩父からバスで50分、「飯田八幡」バス停で降り、バス通りから入ると、幟が沢山立っていました。
151217ogano02.jpg


まずは、お宮に参拝。
151217ogano03.jpg


151217ogano04.jpg


賽銭箱に、こういうのが奉納されていた(笑)
151217ogano05.jpg


社殿の近くに、今日の主役、神馬が二頭つながれていた。
151217ogano06.jpg


151217ogano07.jpg


151217ogano08.jpg


神楽殿
一日お神楽が奉納されていたが、この日は小鹿野歌舞伎と鉄砲まつりを見るのが精いっぱいで、見ることができなかった。
151217ogano09.jpg


境内の適当な場所を見つけて、持参のお弁当を食べて、待つ事しばし、13時から小鹿野歌舞伎が始まった。
舞台は、秩父夜祭のときに上演される屋台芝居と同じく、山車に付け舞台をしたものだった。
151217ogano10.jpg


この日上演されたのは、「奥州安達原三段目 袖萩祭文の場」
あらすじ:
源氏に滅ぼされた安倍一族の復讐を描く名作。袖萩祭文の場は環宮明御殿(たまきのみやあきごてん)が舞台。八幡太郎義家は奥州の安倍頼時を討ち滅ぼしましたが、貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟がまたもや謀反を企てていると聞きます。そんな折、皇弟の環宮(たまきのみや)が誘拐され、宮の守り役傔杖(けんじょう)直方は手を尽くし行方を探しますが、まだ見つかりません。
 袖萩(そではぎ)は、親の許さぬ浪人との恋に勘当され流浪し、落ちぶれて盲目となっていました。父傔杖が環宮探索のかなわぬ時は切腹という話を聞きつけ雪の降りしきる中、娘お君に手を引かれて駆けつけます。しかし一徹な傔杖は、会おうとはしません。母の浜夕は、哀れな娘の姿を見て胸がはりさけんばかりの思いです。袖萩は祭文の文句に託して我が子を対面させ、父の許しを願います。
 傔杖も不憫(ふびん) な娘を許したい気持ちですが、娘の差し出した書状から貞任が夫であり、筆跡が環宮を誘拐した犯人と同筆と知り、なおさら許すことができず、奥へ入ってしまいます。雪の中に取り残された母子、そこへ義家の放った鶴殺しの嫌疑で同じ御殿に引かれていた宗任が来て袖萩に懐剣を渡し、一族の仇傔杖を殺せと迫ります。やがて義家が現れ、宗任の力量を惜しみ日本全国の通行証の金札をかけて命を助け、再び奥へ立ち去ります。
 傔杖は責任をとるため矢の根で切腹します。そうとは知らぬ袖萩も懐剣で自害。やがて、桂中納言教氏 (かつらちゆうなごんのりうじ)と偽って御殿に来ていた貞任が現れ、証拠の書状を奪い去ろうとしますが義家が現れて正体を見破ります。
 血気盛んな宗任は矢を放って勝負を迫り、詰め寄る兄弟に義家は後日、戦場で再会しようと約束して別れを告げるのです。


全体で一時間半ほどの演目でしたが、それを動画に撮ってきました。
あまりに長いので、40分弱ほどに要所で短縮し、三回に分けてアップしました。
下記クリックして見てください。

その一を見る


その二を見る


その三を見る



小鹿野歌舞伎が終り、いよいよ鉄砲まつりです。
最初、火縄銃鉄砲隊の演武を見ました。

次いで、大名行列と「お立ち神事」です。
十万石の格式の大名行列が参道を進み、その後を二頭の神馬が進みます。
神社の石段の下、両側に火縄銃鉄砲隊と地元ハンターの皆さんが待ち構え、一斉に放たれる銃火の中を行列と神馬が石段を駆け上がります。

石段の上に陣取って撮るのがいいのですが、お昼前からカメラマンに場所取りされていて、私は石段の下の参道で動画を撮りました。
下記クリックして動画を見てください。

鉄砲まつりの動画を見る


小鹿野歌舞伎と、鉄砲まつり、とても見ごたえがありました。
皆さん、満足されたようで、よかった(嬉)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



揖夜(いや)神社・同社坐韓国伊太氐(からくにいたて)神社

20151214

鎮座地:島根県松江市東出雲町揖屋
参拝日:2015年11月14日

八重垣神社から移動してきました。
参道の左側にある駐車場に車を停め、鳥居の前から参拝します。
151214iya01.jpg


この神社の御由緒書によれば、
御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、『日本書紀』斉明天皇五年 (西暦659年) の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』に 「伊布夜社」、『延書式』神名帳に 「揖夜神社」 の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。
神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から 「揖屋大明神」 「揖夜大社」と称されていた様です。
古より朝廷の崇敬が篤く、『三代實録』清和天皇の貞観九年(西暦867年) に「従五位上」、同十三年(西暦871年)に「正五位下」の御神階が授けられた記録があります。
また出雲国造奉仕の神社として早くから別火(べっか)職が設けられていました。
武将の崇敬も篤く、
天文十二年(西暦1543年) 大内義隆が太刀・神馬を寄進、
同二十四年(西暦1555年) 尼子晴久が出東郡氷室の内の百貫の土地を寄進、
天正十一年(西暦1583年)毛利元秋が社殿を造立、
慶長六年(西暦1601年)堀尾吉暗が揖屋村の内の四十石の土地を寄進、元和元年(西暦1615年) には社殿を再建し、
寛永十一年(西暦1634年)京極忠高は旧領(四十石) を安堵し、次いで同十四年(西暦1637年)社殿の修造を行っています。
さらに松平氏も、寛永十五年(西暦1638年) 初代の直政が旧例のとおり四十石を寄進、3代綱近の時に明暦三年(西暦1657年) の検地による出石十二石一斗三升六合を加えた五十二石一斗三升六合が神領とされました。
社殿の営繕は松江藩作事方の手で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。
明治五年二月郷社に列し、同四十年四月二十八日勅令による神僕幣吊供進神社の指定を受け、
大正十五年十一月二十二日縣社に昇格しました。
出雲国造との関係ですが、當社は出雲国造との関係が深い 「意宇六社」 (能野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社) の一として、江戸時代から「六社参り」 の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも出雲国造家から奉幣があります。

記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。また隣接する安来市の比婆山には関連神蹟として古事記に記された伊邪那美神のご神陵がある。

鳥居の両側にある石灯篭だが、亀趺(きふ)がいる。
この亀のような生き物は贔屓(ひいき)といい、中国における伝説上の生物。石碑などの台になっているのは亀趺(きふ)と言う。
中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、土台である贔屓を引っぱると石柱が倒れるからに他ならない。
151214iya02.jpg


151214iya03.jpg


151214iya04.jpg


手水舎
151214iya05.jpg


151214iya06.jpg


石段の下と上に、二組の狛犬が侍っている。

石段下の狛犬
151214iya07.jpg


151214iya08.jpg


151214iya09.jpg


151214iya10.jpg


151214iya11.jpg


石段上の狛犬
151214iya12.jpg


151214iya13.jpg


151214iya14.jpg


151214iya15.jpg


石段の上には、鳥居の原始的な形である石柱に注連縄を渡したものがあり。
151214iya16.jpg


続いて、随神門
151214iya17.jpg


151214iya18.jpg


151214iya19.jpg


拝殿
151214iya20.jpg


151214iya21.jpg


社額
151214iya22.jpg


拝殿に鏡が置かれ、本殿をうかがうことが出来る。
151214iya23.jpg


拝殿内に掛けられた絵馬
151214iya24.jpg


151214iya25.jpg


拝殿から石段を上がり神門があり、瑞垣の中に本殿があり。
151214iya26.jpg


151214iya27.jpg


本殿は大社造であるが、内部の造りは出雲大社とは逆の向きになっているそうである。
151214iya28.jpg


151214iya29.jpg


瑞垣の隙間から本殿の前部を見る。
151214iya30.jpg


151214iya31.jpg


ご祭神は、主祭神が伊弉冉命、
配神が大己貴命、少彦名命、事代主命、武御名方命、経津主命

神紋は「二重亀甲に剣花菱」
151214iya32.jpg


これより境内社

☆韓国伊太氐(からくにいたて)神社
本殿の左側にある。
『出雲国風土記』在神祇官社「伊布夜社」、および式内社「同社坐韓国伊太氐神社」に比定される。
ご祭神は素盞嗚命、五十猛命。
151214iya33.jpg


151214iya34.jpg


151214iya35.jpg


『延喜式』神名帳によれば、その名称のユニークさに加えて、分布にも特異性をみせている。神名帳にみえる六社はすべて出雲国に鎮座している。しかも、その内分けをみると、出雲国の九郡中、意宇郡と出雲郡とに三社ずつ分布がみられる。つまり出雲国のなかでも、国衛が置かれた東部の意宇郡と杵築大社(出雲大社)が鎮座している西部の出雲郡のみにみられる。
151214iya36.jpg


151214iya37.jpg


151214iya38.jpg


151214iya39.jpg


151214iya40.jpg


出雲国意宇郡の条に、
①玉作湯神社  同社坐韓国伊太氐神社
②揖夜神社   同社坐韓国伊大氐神社
③佐久多神社  同社坐韓国伊大氐神社
出雲郡条に、
④阿須伎神社  同社神韓国伊太氐神社
⑤出雲神社   同社神韓国伊大氐神社
⑥曽枳能夜神社 同社神韓国伊大氐奉神社

韓国伊大氐神社の由来は不明瞭な点が多いが、一般的には、スサノオ神の御子神である五十猛神と関連させてとらえ、この神を祀る神社といわれている。
通説としては、素戔嗚神が、韓国(新羅)を経由して出雲へ降るさいに同行した神が御子神の五十猛神であり、このことを前提として、伊大(太)氐は五十猛が転託したものであり、韓国とあるのは五十猛神が素戔嗚神に伴われて朝鮮半島を経由して日本へ渡ってきたことによるということになる。
ただ、他にも色々な説があるようである。

○恵比須社
151214iya41.jpg


151214iya42.jpg


○天満宮
151214iya43.jpg


○水神さま
入り口の狛犬
151214iya44.jpg


151214iya45.jpg


151214iya46.jpg


151214iya47.jpg


石祠が二つあり、その奥に龍神が祀られている。
151214iya48.jpg


龍神は二頭のものと、一頭のものがあり、それぞれ違う地区が奉納していると、宮司さんが説明してくれた。

龍神二頭のもの
151214iya49.jpg


151214iya50.jpg


151214iya51.jpg


151214iya52.jpg


龍神一頭のもの
151214iya53.jpg


151214iya54.jpg


151214iya55.jpg


境内社は、三穂津姫神社と稲荷神社もあったようだが、確認しなかった。

これで、揖夜神社の参拝を終え、「黄泉比良坂」に向かった。


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



八重垣神社

20151210

鎮座地:島根県松江市佐草町227
参拝日:2015年11月14日

玉造温泉にある「玉作湯神社」のあと、八重垣神社に向かいました。国道9号線を走っていて、誤って道を逸れてしまい、宍道湖沿いの道をしばらく走った時に、まだ朝靄が残っていて、実に幻想的な風景に出会いました。
151210yaegaki01.jpg


151210yaegaki02.jpg


151210yaegaki03.jpg


社号標
社格等:式内社(小) 佐久佐神社、県社、別表神社
151210yaegaki04.jpg


社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建され、後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。佐久佐神社という名前は延喜式神名帳に記載されているが、式内・佐久佐神社は当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている。
延喜式神名帳
151210yaegaki05.jpg


元慶2年(878年)に正五位上の神階を授かった。佐草氏が神職として奉仕し、近世には八重垣大明神と称された。
明治5年(1872年)、佐久佐神社は八重垣神社を合祀して郷社に列格し、明治9年(1876年)に県社に昇格した。明治11年(1878年)に八重垣神社に改称した。昭和56年(1981年)に神社本庁の別表神社に加列された。

以上がWikipediaに載っている説明だが、地元出雲で戦国時代にオロチ退治の伝承を記した『天淵八叉大蛇記』によると、スサノオがオロチを退治する前、いったん斐伊川の川上から離れ、佐草の里に八重の垣根を構えて中にヒメを隠した、と記されている。
そして、ここ八重垣神社でも5月に「見隠祭」という古伝神事を行っている。

鳥居
151210yaegaki06.jpg


手水舎
151210yaegaki07.jpg


随身門
151210yaegaki08.jpg


151210yaegaki09.jpg


151210yaegaki10.jpg


随身門をくぐると、狛犬が侍っている。
八重垣神社のご由緒書によれば「境内狛犬は製作年代が明らかではありませんが古色蒼然として且つ傑作で、考古学老の嘆称されますもので日本内地にこの種二個現存しているその内の一個といわれております。」とある。
奇妙な造形の狛犬で、脚の大きさ、顔のバランスと造形などがかなり特殊です。
それで、ネットで色々と調べてみると、「1100年代」とか「日本最古」と書いている人もいます。
私もそれを信じたいが、一方の情報で材質が来待石(きまちいし)と言う物凄く崩れ易い砂岩だということです。
ただ、可能性はゼロではないので、「1100年代という情報もある」と希望的判断をしておきたいです。
となると、私が経験している一番古い狛犬が、加賀一之宮・白山比咩神社にある「重要文化財・木造獅子狛犬」が平安時代のものということで1100年代ですから、これに並ぶことになります。
151210yaegaki11.jpg


151210yaegaki12.jpg


151210yaegaki13.jpg


151210yaegaki14.jpg


拝殿
151210yaegaki15.jpg


151210yaegaki16.jpg


151210yaegaki17.jpg


151210yaegaki18.jpg


拝殿内部
151210yaegaki19.jpg


151210yaegaki20.jpg


本殿の様式は大社造。
151210yaegaki21.jpg


本殿の背後
151210yaegaki22.jpg


主祭神は、素盞嗚尊、櫛稲田姫、大己貴命、青幡佐久佐日古命

近世を通じて八重垣神社の祭神は素戔鳴尊・稲田姫・大己貴命になっていた。ところが 明治に入り、延喜式にない社名では高位の社格を得られないことから、本社と末社の関係を元にもどして 「佐久佐神社」と改め、主祭神を青幡佐久佐比古命として当局に届け出た。しかし、久しく馴染んできた「八重垣」という社号を伏せておくに忍びず、社号を「八重垣神社」に戻すことを陳情、容れられて祭神も明治以前に復し、現在、青幡佐久佐比古命は合殿神となっている。

神紋は「二重亀甲に剣花菱」
151210yaegaki23.jpg


八重垣神社で見落せないのは宝物館に納められている壁画(重要文化財)です。
151210yaegaki24.jpg


神社の障壁画としては日本最古のものといわれ、落箔が甚だしいが、戦後造営のさい、本殿から取り外して樹脂注入など保存措置を講じた。
社伝では寛平5年(893年)、平安時代の宮廷画家だった巨勢金岡(こせの かなおか)によって描かれたとされたとある。
宝物殿のなかは、他に一人居ただけでとても落ち着いて壁画を見ることが出来た。
実に至近距離で見ることができて嬉しかった。
写真撮影は禁止だったので、雑誌に載っているものとかを集めて、ここにアップしておきます。

板絵は3面に、6神像が描かれている。
151210yaegaki25.jpg


中央に主祭神の素盞嗚尊と稲田姫命
151210yaegaki26.jpg


右に天照大神と宗像三女神のうちの市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。
151210yaegaki27.jpg


左に櫛稲田姫命の両親の脚摩乳命(あしなづちのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)が描かれているそうだが、脚摩乳命はまったくわからない。手摩乳命のみがわかる。
151210yaegaki28.jpg


境内社に参拝

○手摩乳(てなづち)神社
151210yaegaki29.jpg


○脚摩乳命(あしなづち)神社
151210yaegaki30.jpg


○貴布禰神社
ご祭神:高龗命(たかおかみのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
151210yaegaki31.jpg


○伊勢宮
151210yaegaki32.jpg


○山神神社
ご祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)、石長姫命(いわながひめのみこと)
151210yaegaki33.jpg


奉納されている数々に圧倒された。
151210yaegaki34.jpg


151210yaegaki35.jpg


出雲に縁結びを願って集まる若い女性の人気ナンバーワンがこの神社であろう。
これを見たヤングレディは目を回しているだろうか・・・・・・・(笑)

須佐之男命が詠んだ、 「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」の歌碑
151210yaegaki36.jpg


境内に句碑が二つありました。

「和歌の跡とふや出雲の八重霞」/芭蕉
この句碑は昭和11年6月に松江羽扇の会が建立したもの。
151210yaegaki37.jpg


151210yaegaki38.jpg


「木枯や神のみゆきの山の跡」/松平雪川公献碑
江戸後期の俳人。松平不昧公の弟。兄弟仲が良く、不昧公の治績が大きいのは雪川の協力によるものが多いそうです。
151210yaegaki39.jpg


151210yaegaki40.jpg


○奥の院に通じる階段の手前にあるご神木
151210yaegaki41.jpg


151210yaegaki42.jpg


○連理玉椿(夫婦椿)
昔、稲田姫が日本の椿の枝をお立てになられたという伝承があり、境内には三本の夫婦椿があるそうです。目についたものを二本撮ってきて、帰ってから記事を書くために調べたら三本あることがわかり、しかも一番大きなものを撮りそこねていました(汗)

神社境内にある夫婦椿(乙女椿)
151210yaegaki43.jpg


151210yaegaki44.jpg


佐久佐女(さくさめ)の森にある夫婦椿(子宝椿)
151210yaegaki45.jpg


一体になったところから沢山枝が出ているので「子宝」なんですね。
151210yaegaki46.jpg


奥の院(佐久佐女(さくさめ)の森)側の、神社参道入り口
151210yaegaki47.jpg


151210yaegaki48.jpg


大蛇退治の時、稲田姫が身を隠(かく)されたという故事に由来する5月3日の身隠(みかくし)神事の舞台もここだが、この森は佐久佐女(さくさめ)の森といい、奥の院があります。
神社がまだ社殿を持たないころ、人々が巨石や老木に神々が宿るとしたのが磐座(いわくら)とか神籬(ひもろぎ)です。この森はその神籬の遺跡と見てほぼ間違いありません。
縁結び占いで有名な鏡の池もここにあります。

入り口
151210yaegaki49.jpg


山茶花か椿が咲いていた。
151210yaegaki50.jpg


151210yaegaki51.jpg


○大杉の跡
稲田姫が、大蛇の難をお避けなさった場所の中心地で、大杉を中心に周囲に八重垣を造って避難されたといわれます。
ちなみに八重垣とは、大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣であり、今もその名が地名となって山の上、中腹などに残っているそうです。
151210yaegaki52.jpg


近くに、立派な杉があったが近寄れず、望遠で撮った。
151210yaegaki53.jpg


151210yaegaki54.jpg


○鏡の池
硬貨を乗せた用紙を池に浮かべ、その沈み具合いで縁の遅速を占う「縁占い」が若い女性に人気があるが、ここはかつて稲田姫が避難された時に、飲料水とか生活の水に使ったり、化粧の時の鏡がわりに使ったという伝承を持つ。
151210yaegaki55.jpg


151210yaegaki56.jpg


151210yaegaki57.jpg


151210yaegaki58.jpg


なお鏡の池からは以前、土馬が発見された。土馬は古代祭祀に供されたと見られる土偶(どぐう)の一種で、ここが古来聖地とされていた証左となった。
土馬は、出雲大社横の出雲古代歴史博物館で見ました。

○天鏡神社
鏡の池の奥に、池を見守るように鎮座しています。
ご祭神:稲田姫命
151210yaegaki59.jpg


これで、八重垣神社の参拝は終り、次に揖屋神社に向かいました。


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



玉作湯神社(たまつくりゆじんじゃ)

20151204

鎮座地:島根県松江市玉湯町玉造508
参拝日:2015年11月14日

昨晩は、玉造温泉に泊まりました。出雲、松江に旅行したときに、ここに泊まる方は多いと思います。
私がここに泊まるのを選んだのは、青瑪瑙(メノウ)が採取できる地で、古代勾玉・管玉を生産していた地で、三種の神器のうちの一つである「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」が作られた地として有名だからです。
出雲のキーアイテムとして、勾玉は大きい存在です。

旅館のショップで、本物のメノウの勾玉を見てため息をつき、値札を見てため息をつき(笑)
庶民が手を出せる値段ではないですね。
私は、けっこう石が好きなので、勾玉も欲しかったのですが・・・・・(泣)

旅館のホールに置いてある大きな靑瑪瑙の原石はすごかったですね。
151204tama01.jpg


151204tama02.jpg


出雲旅行の最終日、この日も16時半に出雲空港を飛び立つまでに、色々と寄るところを計画していますが、最初に訪れたのがこの神社です。
151204tama03.jpg


151204tama04.jpg


151204tama05.jpg


玉造温泉街奥部の玉湯川東側にあり、『出雲国風土記』および『延書式』にも記載されている古社。出雲玉作部(たまつくりべ)の祖神とされる櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)を祀る。出雲国造は新任のさい、朝廷に参向して神賀詞(かんよごと)を奏上し、献玉するのがしきたりであったが、その玉の多くはこの地で作った。櫛明玉命のほか温泉守護、温泉療法の神である大名持命(おおなもちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀ってある。

玉作遺跡の説明
151204tama06.jpg


鳥居
151204tama07.jpg


鳥居のちょっと奥に、玉作湯神社のどっしりと立派な石碑あり。
151204tama08.jpg


社格等:式内小社、旧県社
創建:
『延喜式』及び『出雲国風土記』に記載のある古社であるが、創建時期は不明である。
『出雲国風土記』意宇郡条に在神祇官社として「玉作湯社」と「由宇社」の2社が記載されており、それぞれが『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に記載されている「玉作湯神社」と「同社坐韓国伊太氐神社」に対応するものと考えられる。近世には「湯船大明神」「湯姫大明神」などという呼称もあった。明治に入り「玉作湯神社」の社名となった。
近代社格制度のもとでは村社となり、その後昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

韓国伊太氐(からくにいたて)神社については、この日に後で訪問した「揖夜神社」のところで説明します。

石段の上り口のところの灯篭に石積みが。
こういうのを見ると、つい私も石を積む(笑)
151204tama09.jpg


石段がいい感じです。
151204tama10.jpg


石段の途中に、立派な狛犬が。
151204tama11.jpg


151204tama12.jpg


151204tama13.jpg


151204tama14.jpg


石段の途中、左手に「玉作跡出土品収蔵庫」があり。
社宝として玉作跡から出土した玉類の完成品、半製品、砥石(といし)、古代のガラス、坩堝(るつぼ)など700余りがある。いずれも国の重要文化財。境内に古代住居を摸した収蔵庫があり、玉類をおさめている。その他の社宝に不味公の采配、玉造城城主佐々木氏の陣太鼓などがある。
151204tama15.jpg


151204tama16.jpg


「見学希望の方は宮司宅まで連絡ください」とあり、心は動いたが、その後の予定も色々あったので見なかった。

石段上に狛犬あり。
151204tama17.jpg


151204tama18.jpg


151204tama19.jpg


子犬が玉を持っているのが珍しい。
151204tama20.jpg


手水舎
女子人気スポットらしくて、若い女性が多かった。
151204tama21.jpg


151204tama22.jpg


拝殿
151204tama23.jpg


151204tama24.jpg


注連縄に挟みこんだお賽銭がすごい。
太いところの黒いポチポチも全部そうである。
151204tama25.jpg


社額
151204tama26.jpg


拝殿内部
151204tama27.jpg


主祭神:櫛明玉神、大名持神、少毘古那神
合殿神:五十猛神

神紋は、「二重亀甲に丸玉管玉勾玉」
151204tama28.jpg


この神社で人気が高いのが、「叶い石」という石で作るお守り。境内にある「願い石」といわれる石からパワーを授かり、お守りとして持って帰るというものです。
この叶い石は社務所で授けていますが、普通有料のところ泊まった旅館のサービスでいただきました。
151204tama29.jpg


151204tama30.jpg



隣に、願い石と並んでもう1つ、信仰の深い不思議な石があります。それが「御守石(みまもりいし)」。
玉造温泉は、青瑪瑙が採取できた場所として知られていますが、この御守石も青瑪瑙の原石で出来ています。
こちらにも、お参りしました。
151204tama31.jpg


境内に、綺麗に紅葉したもみじがあり。
151204tama32.jpg


151204tama33.jpg


右手に、ちょっと気になるところがあり、行って見ると「玉造要害山城」の上り口だった。
151204tama34.jpg


151204tama35.jpg


境内社にお参り。
151204tama36.jpg


この境内何か所かに、このような石の灯明台があった。
151204tama37.jpg


○稲荷大明神
151204tama38.jpg


○澤玉神社
151204tama39.jpg


151204tama40.jpg


○福徳神社
151204tama41.jpg


151204tama42.jpg


○素鵞神社・記加羅志神社
151204tama43.jpg


151204tama44.jpg


151204tama45.jpg


○御仮殿建立之御座
151204tama46.jpg


○金刀比羅神社
151204tama47.jpg


151204tama48.jpg


○湯姫大明神社
151204tama49.jpg


151204tama50.jpg


湯姫大明神のご神木「ゆひめ椿」
151204tama51.jpg



以上で参拝を終り、続いて八重垣神社に向けて、車で移動しました。


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



出雲国一宮・熊野大社

20151202

鎮座地:島根県松江市八雲町熊野2451番
参拝日:2015年11月13日

須我神社から、ナビに従って車で移動し、30分くらいで到着。
広い駐車場から鳥居に向かいます。
151202kumano01.jpg


途中、「さざれ石」があり。
151202kumano02.jpg


意宇川にかかる神橋の前に一の鳥居と社号標あり。
151202kumano03.jpg


熊野大社の碑
社格等:式内社(名神大社)、出雲国一宮。旧社格は国幣大社、現在は別表神社。
151202kumano04.jpg


創建:神代。
『日本書紀』に出雲国造をして厳神の宮を作らしむとの記載あり
火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮である。意宇六社の一つ。
紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
『出雲国風土記』には熊野大社と記されていた。その後『延喜式神名帳』では熊野坐神社と記された。
151202kumano05.jpg


それにしても出雲国はやはり式内社が多い。武蔵國が44座なのに対し、出雲国は187坐である。

近代社格制度のもとで神社名を熊野神社として1871年に国幣中社に列格した。1916年に国幣大社に昇格した。1977年に上古の名前を回復する形で現在の熊野大社と改称した。

私が手出雲地方を訪問したのは11月の12日から14日だが、今年の神在祭は11月21日からだった。
全国の神々が、ここ出雲に集まる。
どうして全国の神々は出雲に集まるのか? どうして伊勢神宮でないのか?
その一つの答えは、全国の神々の母であるイザナミの亡くなったのが旧暦10月なので、その時期に集まってイザナミを偲ぶのだ、という説がある。
全国の神々は、出雲大社に集まって「縁結び」をするだけではないのである。
熊野大社、神魂神社、佐太神社の三社はイザナミを祭って「神在祭」を行う。
この三社は、いずれもイザナミが葬られた比婆山の伝承地を神社の近くに持っている。

出雲大社と共に出雲国一之宮であるという点であるが、これは現在出雲大社の宮司である出雲国造家の動向をみればわかる。出雲国造家の本貫の地は「意宇」で、従ってその頃の出雲の国庁も意宇郡に置かれていて、氏神を祀る熊野大社を奉斎していた。
ところが第26世国造・果安(はたやす)の時代に杵築に移り、杵築大社(出雲大社)の祭祀の役割を担っている。ちなみに第27世国造・広嶋が『出雲国風土記』を監修している。
杵築に移ったのは、出雲国造家の自主的な判断よりは中央の要請あるいは命令によるものとみられている。
文書の中で、熊野大社と杵築大社が連記されることがあるが、常に熊野大社を先に書き、勲位も熊野が一等上位に立っている。
熊野大社が兄で杵築大社(出雲大社)が弟という関係だった。

「意宇」の地については、有名な伝承がある。
『出雲国風土記』によれば、「八束水臣津野命(やつかみずつぬのみこと)」が、朝鮮半島や隠岐、能登半島に至る広大な領域から国引きをして、島根半島を造り終えた際に、杖を突き立て、「意恵!(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから「意恵郡」のち「意宇郡」と呼ぶようになったと伝えられている。

意宇川にかかる神橋
151202kumano06.jpg


意宇川
151202kumano07.jpg


二の鳥居
151202kumano08.jpg


手水舎
151202kumano09.jpg


151202kumano10.jpg


石段を上がると、両側に狛犬が。
151202kumano11.jpg


151202kumano12.jpg


151202kumano13.jpg


151202kumano14.jpg


神門
151202kumano15.jpg


151202kumano16.jpg


立派な注連縄から下がる紙幣に特徴あり。
151202kumano17.jpg


神門をくぐると、広々とした神域が広がっている。
151202kumano18.jpg


拝殿
151202kumano19.jpg


拝殿前左右にご神木
151202kumano20.jpg


151202kumano21.jpg


拝殿の大注連縄
151202kumano22.jpg


拝殿内部
151202kumano23.jpg


本殿(大社造り)
151202kumano24.jpg


151202kumano25.jpg


ご祭神は、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」。1柱の神様のお名前である。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」=父神である伊邪那伎命がかわいがった御子
「加夫呂伎熊野大神(くまののおおかみ)」=熊野の地の神聖なる神
「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」=素盞鳴尊(すさのおのみこと)の別名

実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
これは『出雲国造神賀詞』に出てくる神名を採用したものであり、『出雲国風土記』には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。
現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが、『先代旧事本紀』「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも現存する伝承が成立した時にはすでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入り、祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫している。

神紋は「一重亀甲に「大」の文字」
151202kumano26.jpg


○鑽火(さんか)殿
鑽火祭の舞台となる。大正4年(1915年)造営燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)が大切に保管されている。
「亀太夫神事」が有名。
出雲大社の宮司が11月23日の「古伝新嘗祭」に使用する神聖な火を起こすため、この燧臼と燧杵を受け取りに熊野大社を訪れます。この授け渡す儀は「亀太夫神事」と呼ばれ、出雲大社が納める餅の出来映えについて熊野大社の下級神官である亀太夫(世襲)が、色が悪い、去年より小さい、形が悪いなどと苦情を口やかましく言い立てるという一風変わった神事。
151202kumano27.jpg


151202kumano28.jpg


151202kumano29.jpg


151202kumano30.jpg


○舞殿
もともと拝殿だった建物を昭和53年(1973年)に移築したもの
151202kumano31.jpg


151202kumano32.jpg


151202kumano33.jpg


151202kumano34.jpg


舞殿の内壁に、立派な奉納絵馬があり。
151202kumano35.jpg


151202kumano36.jpg


151202kumano37.jpg


○摂社・稲田神社
本殿の向かって右側に安置。
<御祭神> 櫛名田比売命、足名椎命、手名椎命
<配  祀> 御前神(みさきのかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、奇八玉命(くしやたまのみこと)
<合  祀> 火知命(ひしろのみこと)、建御名方命、大物主神
明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年に、稲田神社には6社合わせ祀った。
151202kumano38.jpg


151202kumano39.jpg


○摂社・伊邪那美神社
元々は上の宮の社殿
<御祭神> 伊邪那美命
<配  祀> 速玉之男命、事解之男命、大田神、衢神(くなどのかみ)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、天児屋根命
<合  祀> 王子神、素戔嗚尊、大山祇神、戸山祇神、事代主命、応神天皇、山雷神、爾保津姫命(にほつひめのみこと)、羽山祇神、岐神(ふなどのかみ)、長道磐神(ながみちはのかみ)、煩神(わずらいのかみ)、開囓神(あきぐいのかみ)、千敷神、大雷、火雷、土雷、稚雷、黒雷、山雷、野雷、裂雷、菊利姫命、泉守道人命(よもつちもりのかみ)
明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年に、伊邪那美神社には19社合わせて祀った。
151202kumano40.jpg


151202kumano41.jpg


151202kumano42.jpg


○末社・荒神社
151202kumano43.jpg


151202kumano44.jpg


151202kumano45.jpg


まわりに奉納された神牛とか石仏が置かれている。
151202kumano46.jpg


151202kumano47.jpg


151202kumano48.jpg


○末社・稲荷神社
151202kumano49.jpg


151202kumano50.jpg


151202kumano51.jpg


151202kumano52.jpg


151202kumano53.jpg


○環翠亭
中に、神話の画が描かれていた。
151202kumano54.jpg


151202kumano55.jpg



これで、稲佐の浜、出雲阿国の墓、命主の社、真名井の清水、出雲大社、古代出雲歴史博物館、須我神社、熊野大社と巡ってきた、この日一日の忙しい旅は終了。
この日の宿は、玉造温泉で、とても良い宿でした。
温泉と、美味しい食事を満喫しました。


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop