御倉板拳之神(みくらたなのかみ)/日本の神々の話
20160131
『古事記』において、伊邪那岐命が黄泉の国より帰ってきて禊祓をして、最後に「三貴子」を生んで喜んでいる場面で登場する神である。
(現代語訳)
このとき、伊邪那岐命はたいそう喜んで仰せられるには、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」と仰せられて、ただちに御首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしながら、天照大御神にお授けになって仰せられるには、「あなたは高天原をお治めなさい」と御委任になった。それでその御首飾りの珠の名を御倉板拳之神という。次に月読命に仰せられるには、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と御委任になった。次に建速須佐之男命に仰せられるには、「あなたは海原をお治めなさい」と御委任になった。
「御倉板拳之神」の名が、御首飾りの珠の名の別名である。
本居宣長は『古事記伝』にて「御祖神の賜いし重き御宝として天照大神の御倉に蔵め、その棚の上に安置奉りて崇き祭りたまいし名なるべし」と言い、板拳とは「板を高く架挙て物置く所に構うる故に如此書けるならむ」とも説いている。
古事記の原文には、御倉板拳之神のところで、【訓板擧云多那】と注釈が書かれています。
「板挙」の字は、【訓板擧云多那】と断り書きを入れて、「多那・タナ」と読んでくださいと注釈が入れてあります。
本居宣長の『古事記伝』(活字版)からこの部分を載せておきます。(3行目から4行目)

「珠」というと、三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」を連想しますが、
「八尺瓊勾玉」のほうは、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられ、後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたものです。
だから、「御倉板拳之神」の名で呼ばれる「珠」のほうは、相変わらず高天原で天照大御神の御倉に置かれているのだと思います。
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(現代語訳)
このとき、伊邪那岐命はたいそう喜んで仰せられるには、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」と仰せられて、ただちに御首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしながら、天照大御神にお授けになって仰せられるには、「あなたは高天原をお治めなさい」と御委任になった。それでその御首飾りの珠の名を御倉板拳之神という。次に月読命に仰せられるには、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と御委任になった。次に建速須佐之男命に仰せられるには、「あなたは海原をお治めなさい」と御委任になった。
「御倉板拳之神」の名が、御首飾りの珠の名の別名である。
本居宣長は『古事記伝』にて「御祖神の賜いし重き御宝として天照大神の御倉に蔵め、その棚の上に安置奉りて崇き祭りたまいし名なるべし」と言い、板拳とは「板を高く架挙て物置く所に構うる故に如此書けるならむ」とも説いている。
古事記の原文には、御倉板拳之神のところで、【訓板擧云多那】と注釈が書かれています。
「板挙」の字は、【訓板擧云多那】と断り書きを入れて、「多那・タナ」と読んでくださいと注釈が入れてあります。
本居宣長の『古事記伝』(活字版)からこの部分を載せておきます。(3行目から4行目)

「珠」というと、三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」を連想しますが、
「八尺瓊勾玉」のほうは、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられ、後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたものです。
だから、「御倉板拳之神」の名で呼ばれる「珠」のほうは、相変わらず高天原で天照大御神の御倉に置かれているのだと思います。
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安房國一之宮洲崎(すのさき)神社(延喜式内論社)/千葉県館山市洲崎
20160130
鎮座地:千葉県館山市洲崎1697
参拝日:2016年1月29日
歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、最初にこのお宮に参拝しました。
延喜式神名帳の安房国の部分を載せておきます。

朝7時に狭山市駅前を小型バスで出発、首都高羽田線で川崎へ、そこからアクアラインに乗り、「海ほたる」で休憩し、房総半島に木更津で上陸し、館山に着きました。
社号標
安房國一之宮、安房国6座のうち「后神天比理乃咩命神社」大社(元名洲神)、旧県社

説明を担当された方からは(伝)一之宮と説明されましたが、私の参考にしている『全国一之宮会公式ガイドブック/奈良県大神神社内』には、安房神社とともに一之宮として記載されているので、一之宮としておきます。
由緒・沿革:
<創建>「古語拾遺」(大同2年/807)によれば神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて安房国へ上陸し開拓をした。そして「洲崎大明神由緒旧記」(宝暦3年/1753)によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりあるという。<養老4年(720)が創祇とする説もある。>
また当社には役小角にまつわる伝承が多くあり、当社は古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたとされる。
<平安時代>延長5年(927)の「延書式神名帳」には安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社大元名洲神」と記載され「天比理乃畔命神社」は大社に列格された。
「洲崎神社」はこの天比理乃咩命神社の論社の一つで、もう一つは「洲宮神社」である。(両社は江戸時代に争うようになる。)
永保元年(1081)神階が最高位の正一位に達した。また弘安4年(1281)には元寇の役の功により、勲二等に叙せられた。
治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は安房の国に逃れたが「吾妻鏡」によれば、頼朝は上総の介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り「洲崎神社」へ参拝、使者が交渉に成功して無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事役目を果たし、「洲崎神社」に神田が寄進された。また、寿永元年(1182)政子の安産祈願のため、安房国の豪族、安西三郎景益が当社へ派遣された。そして以降も関東の武家の崇敬を受けた。
<江戸時代>文化9年(1812)房総沿岸を視察に老中松平定信が「安房国一宮洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額であるが洲崎大明神であり、断定できない。
<明治以降>明治5年(1872)神祇を管轄する教部省は「洲宮神社」を式内社と定めたが、翌6年(1873)にこの決定を覆して「洲崎神社」を式内社とした。(論拠は明確でない。)
また明治6年(1873)には近代社格制度で県系社となる。
当社は海上交通の関所というべき位置にあり、昭和15年頃までは沖を通る船に奉贄を納めさせる風習があった。
昭和47年(1972)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物となった。
あいにくの雨でしたが、頑張って撮影しました。
大鳥居

結界を示す「久那戸大神」のお札があり。

手水舎


随身門
宝永年間(1704~1711)の造営。



随神門をくぐると、社殿に上がる階段、150段が続く。

入母屋造りの拝殿


老中松平定信が奉納した「安房国一宮洲崎大明神」の扁額

本殿は三間社流造で銅板葺。社伝では延宝年間(1673~1681)の造営とされるが、江戸中期以降に大規模修理をしたことが何える。館山市の文化財に指定されている。


千木が外削ぎ、鰹木が奇数なので、これは男神を祀る場合となる・・・・・??!

その理由について、ネットで調べてみたが、納得する記事は見当たらなかった。
朱塗りで、彫刻が見事。

祭神は天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)
安房神社祭神の天太玉命の后神で元の名を「洲ノ神(すさきのかみ)」と称す。なお、神名帳よりも古い成立の「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」には「天比理刀畔命」(あめのひりとめのみこと)と記されている。この相違が起こったのは元来の「刀」を「乃」に記載したためとする説がある。
また、「金丸家累代鑑」(慶長2年/1597)に安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する「洲宮后神社」は後に洲宮明神と称し、それを奥宮とし、二宮という。また洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮という。とあることから、「洲崎神社」と「洲宮神社」は「洲ノ神」を祀る二社一体の神社で「洲崎神社」が「洲ノ神」を祀る一宮、「洲宮神社」が「洲ノ神」祀る二宮とされたとの説もある。
神紋は「十六弁菊」

境内社
祀られているご祭神の札を撮影したが、字が剥げてしまっているものもあり全部は不明。帰ってから調べたが境内社について詳細に記した記事は見つからなかった。
豊玉彦命、大山津見命、建速須佐之男命、大物主命

境内社
ご祭神不明

境内社・金比羅神社(祭神:金比羅大神)

境内社・稲荷社


石段の上まで戻り、海を見る。
残念ながら、雨のため見晴らしはきかない。


集合時間まであまり時間が無いので、大鳥居まで駆け足で戻り、「神石」を見るため浜に向かう。
浜鳥居

浜鳥居外には「御神石」と称される石がある。
御神石はその昔、役行者が飛来し、海上安全のために一つを洲崎の地に、ひとつを現在の横須賀市吉井の地に置いていったという伝説と、竜宮より一対の大きな石が洲崎神社に献上されたが、ある時、その一つが天太玉命の御霊代として東国鎮護のために吉井の地に飛んでいったという伝説が残されている。吉井に飛んでいった御神石は、同所鎮座の安房口神社としてお祀りされ、両御神石は互いに向い合ってお祀りされていて「阿(安房口神社)吽(洲崎神社)の石」と呼ばれている。
「御神石」



かなり波に洗われている。

やはり、この大きな裂け目を持った石には、ただならぬものを感じる。
そして、三浦半島側が「阿」、房総半島側が「吽」といいうのは、私が古代東海道を思うときに、常に三浦半島の走水から渡ると想定するのと同じだ。
「御神石」の前の岩場が、いかにも頼朝がここで上陸した、と云いたくなるような浜である。
もちろん、上陸したのは他の場所らしいとは承知しているが(笑)


分社として、<海底への分霊>(波左間海中公園内の海底)がある。
洲崎神社近くの海中に水難事故・水難事件防止を祈願するために作られたもの。
館山市沖約600mのところ。高さ3.5mの鳥居は水深18mに、社は水深12mにある。参拝に訪れるダイバーもいる。TV等でしめ飾り取り換え等が報道されることあり。初詣も行われる。日本で唯一の海底神社と称する場合もある。
これで参拝は終わったので、浜鳥居からバスが待っている大鳥居まで帰りました。

道沿いに水仙が咲いていた。


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参拝日:2016年1月29日
歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、最初にこのお宮に参拝しました。
延喜式神名帳の安房国の部分を載せておきます。

朝7時に狭山市駅前を小型バスで出発、首都高羽田線で川崎へ、そこからアクアラインに乗り、「海ほたる」で休憩し、房総半島に木更津で上陸し、館山に着きました。
社号標
安房國一之宮、安房国6座のうち「后神天比理乃咩命神社」大社(元名洲神)、旧県社

説明を担当された方からは(伝)一之宮と説明されましたが、私の参考にしている『全国一之宮会公式ガイドブック/奈良県大神神社内』には、安房神社とともに一之宮として記載されているので、一之宮としておきます。
由緒・沿革:
<創建>「古語拾遺」(大同2年/807)によれば神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて安房国へ上陸し開拓をした。そして「洲崎大明神由緒旧記」(宝暦3年/1753)によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりあるという。<養老4年(720)が創祇とする説もある。>
また当社には役小角にまつわる伝承が多くあり、当社は古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたとされる。
<平安時代>延長5年(927)の「延書式神名帳」には安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社大元名洲神」と記載され「天比理乃畔命神社」は大社に列格された。
「洲崎神社」はこの天比理乃咩命神社の論社の一つで、もう一つは「洲宮神社」である。(両社は江戸時代に争うようになる。)
永保元年(1081)神階が最高位の正一位に達した。また弘安4年(1281)には元寇の役の功により、勲二等に叙せられた。
治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は安房の国に逃れたが「吾妻鏡」によれば、頼朝は上総の介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り「洲崎神社」へ参拝、使者が交渉に成功して無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事役目を果たし、「洲崎神社」に神田が寄進された。また、寿永元年(1182)政子の安産祈願のため、安房国の豪族、安西三郎景益が当社へ派遣された。そして以降も関東の武家の崇敬を受けた。
<江戸時代>文化9年(1812)房総沿岸を視察に老中松平定信が「安房国一宮洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額であるが洲崎大明神であり、断定できない。
<明治以降>明治5年(1872)神祇を管轄する教部省は「洲宮神社」を式内社と定めたが、翌6年(1873)にこの決定を覆して「洲崎神社」を式内社とした。(論拠は明確でない。)
また明治6年(1873)には近代社格制度で県系社となる。
当社は海上交通の関所というべき位置にあり、昭和15年頃までは沖を通る船に奉贄を納めさせる風習があった。
昭和47年(1972)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物となった。
あいにくの雨でしたが、頑張って撮影しました。
大鳥居

結界を示す「久那戸大神」のお札があり。

手水舎


随身門
宝永年間(1704~1711)の造営。



随神門をくぐると、社殿に上がる階段、150段が続く。

入母屋造りの拝殿


老中松平定信が奉納した「安房国一宮洲崎大明神」の扁額

本殿は三間社流造で銅板葺。社伝では延宝年間(1673~1681)の造営とされるが、江戸中期以降に大規模修理をしたことが何える。館山市の文化財に指定されている。


千木が外削ぎ、鰹木が奇数なので、これは男神を祀る場合となる・・・・・??!

その理由について、ネットで調べてみたが、納得する記事は見当たらなかった。
朱塗りで、彫刻が見事。

祭神は天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)
安房神社祭神の天太玉命の后神で元の名を「洲ノ神(すさきのかみ)」と称す。なお、神名帳よりも古い成立の「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」には「天比理刀畔命」(あめのひりとめのみこと)と記されている。この相違が起こったのは元来の「刀」を「乃」に記載したためとする説がある。
また、「金丸家累代鑑」(慶長2年/1597)に安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する「洲宮后神社」は後に洲宮明神と称し、それを奥宮とし、二宮という。また洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮という。とあることから、「洲崎神社」と「洲宮神社」は「洲ノ神」を祀る二社一体の神社で「洲崎神社」が「洲ノ神」を祀る一宮、「洲宮神社」が「洲ノ神」祀る二宮とされたとの説もある。
神紋は「十六弁菊」

境内社
祀られているご祭神の札を撮影したが、字が剥げてしまっているものもあり全部は不明。帰ってから調べたが境内社について詳細に記した記事は見つからなかった。
豊玉彦命、大山津見命、建速須佐之男命、大物主命

境内社
ご祭神不明

境内社・金比羅神社(祭神:金比羅大神)

境内社・稲荷社


石段の上まで戻り、海を見る。
残念ながら、雨のため見晴らしはきかない。


集合時間まであまり時間が無いので、大鳥居まで駆け足で戻り、「神石」を見るため浜に向かう。
浜鳥居

浜鳥居外には「御神石」と称される石がある。
御神石はその昔、役行者が飛来し、海上安全のために一つを洲崎の地に、ひとつを現在の横須賀市吉井の地に置いていったという伝説と、竜宮より一対の大きな石が洲崎神社に献上されたが、ある時、その一つが天太玉命の御霊代として東国鎮護のために吉井の地に飛んでいったという伝説が残されている。吉井に飛んでいった御神石は、同所鎮座の安房口神社としてお祀りされ、両御神石は互いに向い合ってお祀りされていて「阿(安房口神社)吽(洲崎神社)の石」と呼ばれている。
「御神石」



かなり波に洗われている。

やはり、この大きな裂け目を持った石には、ただならぬものを感じる。
そして、三浦半島側が「阿」、房総半島側が「吽」といいうのは、私が古代東海道を思うときに、常に三浦半島の走水から渡ると想定するのと同じだ。
「御神石」の前の岩場が、いかにも頼朝がここで上陸した、と云いたくなるような浜である。
もちろん、上陸したのは他の場所らしいとは承知しているが(笑)


分社として、<海底への分霊>(波左間海中公園内の海底)がある。
洲崎神社近くの海中に水難事故・水難事件防止を祈願するために作られたもの。
館山市沖約600mのところ。高さ3.5mの鳥居は水深18mに、社は水深12mにある。参拝に訪れるダイバーもいる。TV等でしめ飾り取り換え等が報道されることあり。初詣も行われる。日本で唯一の海底神社と称する場合もある。
これで参拝は終わったので、浜鳥居からバスが待っている大鳥居まで帰りました。

道沿いに水仙が咲いていた。


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伊波比神社(延喜式内社)/比企郡吉見町黒岩
20160128
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町黒岩347
参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社、御所の横見神社、久保田横見神社に次いで、このお宮に参拝しました。
出掛ける前に、目的地近くの学校などをナビに登録して出るのだが、近くにそういう施設が見当たらなかったので、地図であらかじめ見当をつけておいた。
吉見観音のほうから山に入ったところだろうと。
それが大外れで、かなり彷徨ってしまった。
それではと、八丁湖の方から山に入っていったが見つからず、八丁湖に降りて来たところで地元の人と遭遇。
やっと探しあてることが出来た。
山の斜面に、ひっそりと鎮座していた。


道から社殿まで一直線に登る。

ちょっと上がって鳥居
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 伊波比神社


手水盤

まっすぐ上る参道

社殿は一つ。


正面はスッキリとしたもの。


中に本殿が鎮座している。

和銅年間(708-715)に創建されたと伝えられている。
ご祭神は、天穗日尊(あめのほひのみこと)と誉田別尊(ほんだわけのみこと)
境内社の岩崎神社
江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。.


参拝を終えて、八丁湖に寄った。
付近の案内図
「伊波比神社」は、現在位置の矢印の先の所

八丁湖

吉見町は、水田の灌漑用の人工湖沼の多いところで、八丁湖もそのひとつ。戦前までは、「八丁八反の沼」と呼ばれていたが、実際に「八丁八反」の面積を有していたのではなく、「八」が末広がりで、かつ「八」を重ねると語呂がよいことに起因する。「八丁湖」という呼ばれるようになったのは戦後である。 湖の周囲は遊歩道が整備されており、4月は湖岸沿いに桜が咲き、6月は千株もの紫陽花が咲く。また、湖の奥には黒岩横穴墓群があり、鬱蒼とした緑に覆われている。湖最奥部にある湿地帯の原野は松山城から続いており、古戦場だったところである。
(Wikipediaから)


何という名か知らないが、赤い実をたくさんつけていた。

これで、この日の予定吉見町の4社を参拝したので、帰途につきました。
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参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社、御所の横見神社、久保田横見神社に次いで、このお宮に参拝しました。
出掛ける前に、目的地近くの学校などをナビに登録して出るのだが、近くにそういう施設が見当たらなかったので、地図であらかじめ見当をつけておいた。
吉見観音のほうから山に入ったところだろうと。
それが大外れで、かなり彷徨ってしまった。
それではと、八丁湖の方から山に入っていったが見つからず、八丁湖に降りて来たところで地元の人と遭遇。
やっと探しあてることが出来た。
山の斜面に、ひっそりと鎮座していた。


道から社殿まで一直線に登る。

ちょっと上がって鳥居
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 伊波比神社


手水盤

まっすぐ上る参道

社殿は一つ。


正面はスッキリとしたもの。


中に本殿が鎮座している。

和銅年間(708-715)に創建されたと伝えられている。
ご祭神は、天穗日尊(あめのほひのみこと)と誉田別尊(ほんだわけのみこと)
境内社の岩崎神社
江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。.


参拝を終えて、八丁湖に寄った。
付近の案内図
「伊波比神社」は、現在位置の矢印の先の所

八丁湖

吉見町は、水田の灌漑用の人工湖沼の多いところで、八丁湖もそのひとつ。戦前までは、「八丁八反の沼」と呼ばれていたが、実際に「八丁八反」の面積を有していたのではなく、「八」が末広がりで、かつ「八」を重ねると語呂がよいことに起因する。「八丁湖」という呼ばれるようになったのは戦後である。 湖の周囲は遊歩道が整備されており、4月は湖岸沿いに桜が咲き、6月は千株もの紫陽花が咲く。また、湖の奥には黒岩横穴墓群があり、鬱蒼とした緑に覆われている。湖最奥部にある湿地帯の原野は松山城から続いており、古戦場だったところである。
(Wikipediaから)


何という名か知らないが、赤い実をたくさんつけていた。

これで、この日の予定吉見町の4社を参拝したので、帰途につきました。
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横見神社(延喜式内論社)/比企郡吉見町久保田
20160126
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町久保田117
参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社、御所の横見神社に次いで、このお宮に参拝しました。
横見神社は、かって大洪水により流されたため分散し、御所と久保田に横見神社、熊谷市吉見(旧大里郡大里町)の吉見神社が論社となっている。
社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 横見神社、旧郷社

新編武蔵風土記稿によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。
社号標の横に、町指定文化財の説明があった。

これを読むと、「本殿は豊富な彫刻と共に、柱や構造材にまで地彫を施し・・・・」とあり、社殿の彫刻には特に関心のある私は躍り上がったのだが・・・・・・・・?!?
入り口からの参道が生い茂った木々の間で暗い。

途中に鳥居があり。

林を抜けたところに手洗い盤があり。

拝殿前に、大正15年(1926)奉納、埼玉立ち尾形狛犬があり。





拝殿


社額

拝殿内部

本殿覆い屋
入り口のところで、本殿の彫刻について説明があったので、喜び勇んできたのに・・・・・
なんと、まったく本殿は見ることができない(泣)

ご祭神は建速須佐之男命と櫛稲田比売命
神紋は「左三つ巴

気を取り直して、境内社を参拝する。
社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。
元々この久保田鎮守社であったという。
建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社のほうは摂社として今に至っているという。


中の古い社殿
ご祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)

拝殿の左手に境内社が固まっている。

稲荷神社
ご祭神:宇迦之御魂神

中の社殿までが近いので、全景は写せないが彫刻をできるだけ撮った。


脇扉に狐の彫刻というのは珍しい。


八坂神社
ご祭神:建速須佐之男命

中の社殿の屋根の曲線が美しい。

赤城大神の石祠

天神社と八幡神社を祀ってある。
ご祭神:菅原道真公(天神社)、誉田別尊(八幡神社)


これで、このお宮の参拝を終え、続いて「伊波比神社」に向かった。
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参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社、御所の横見神社に次いで、このお宮に参拝しました。
横見神社は、かって大洪水により流されたため分散し、御所と久保田に横見神社、熊谷市吉見(旧大里郡大里町)の吉見神社が論社となっている。
社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 横見神社、旧郷社

新編武蔵風土記稿によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。
社号標の横に、町指定文化財の説明があった。

これを読むと、「本殿は豊富な彫刻と共に、柱や構造材にまで地彫を施し・・・・」とあり、社殿の彫刻には特に関心のある私は躍り上がったのだが・・・・・・・・?!?
入り口からの参道が生い茂った木々の間で暗い。

途中に鳥居があり。

林を抜けたところに手洗い盤があり。

拝殿前に、大正15年(1926)奉納、埼玉立ち尾形狛犬があり。





拝殿


社額

拝殿内部

本殿覆い屋
入り口のところで、本殿の彫刻について説明があったので、喜び勇んできたのに・・・・・
なんと、まったく本殿は見ることができない(泣)

ご祭神は建速須佐之男命と櫛稲田比売命
神紋は「左三つ巴

気を取り直して、境内社を参拝する。
社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。
元々この久保田鎮守社であったという。
建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社のほうは摂社として今に至っているという。


中の古い社殿
ご祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)

拝殿の左手に境内社が固まっている。

稲荷神社
ご祭神:宇迦之御魂神

中の社殿までが近いので、全景は写せないが彫刻をできるだけ撮った。


脇扉に狐の彫刻というのは珍しい。


八坂神社
ご祭神:建速須佐之男命

中の社殿の屋根の曲線が美しい。

赤城大神の石祠

天神社と八幡神社を祀ってある。
ご祭神:菅原道真公(天神社)、誉田別尊(八幡神社)


これで、このお宮の参拝を終え、続いて「伊波比神社」に向かった。
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横見神社(延喜式内論社)/比企郡吉見町御所
20160125
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町御所1
参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社に次いで、このお宮に参拝しました。
横見神社は、かって大洪水により流されたため分散し、御所と久保田に横見神社、熊谷市吉見(旧大里郡大里町)の吉見神社が論社となっている。
ここで、高負比古根神社の際に載せなかったので、延喜式神名帳の該当ページを載せておこう。

神社の前に着いたのだが、参道の横に大きな広場があるのに、ロープが張ってあって入れず車を置くのに困った。

社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 横見神社、旧郷社

創建は和銅年間(708-715)。当社は吉見丘陵の東端に近い平野部に鎮座。付近には「稲荷前遺跡」(古墳時代の集落跡)「御所古墳群」がある。境内末社の稲荷社も稲荷塚という円墳の上に鎮座。本殿も古墳の上にある。
境内にあった松の大木(周囲4.5メートル)は神木として「横見の松」と呼ばれていたが、台風で折れてしまい、今はその根だけが残っている。この木の下に石室があり、豪族の墳墓ではないかとされている。
中世には「飯玉氷川大明神」と呼ばれ穀物の神として崇敬。
慶長年間(1249-56)に当社は大洪水によって流され、御神体が漂着した南の吉見町久保田ではこれを貴い神の御来臨とされ当社分社の「横見神社」が祀られている。
以前は祭神に宇迦魂命をも祀っていたが、明治5年に古墳保全の意味も含めて境内末社の稲荷社が創建されたときに遷座。
御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内に築かれ、人々がそれを「吉見の御所」と呼んでいたことから名付けられたその吉見氏は、源頼朝の弟、範頼の子孫で永仁四年(1296)まで四代にわたり当地を支配した。
延喜式神名帳時代の横見郡という地名は、現在比企郡吉見町という地名に変化している。
そして、旧来の横見郡の領域は、現在の吉見町よりも広かったと考えられている。
鳥居

神橋前に古い石灯篭あり。

弘化3年(1846)造立のもの。

神橋
稲作の時期だけ流れる用水らしく、この時は乾いていた。


拝殿


アルミサッシの扉で、開口部はまったく無く、内部はまったくわからない。

本殿は、古墳の上ということがよくわかる。


本殿の前の石段は、まるであがることを拒否しているかのよう(笑)

古墳の上にあった「横見の松」の根とは、本殿前のこれだろう。

覆い屋の中の本殿が見にくくて、これで精一杯。

ご祭神は建速須佐之男命と櫛稲田比売命
本殿の背後から

境内社の三峰神社
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊

境内末社である稲荷社も「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座している。



ここから続いて、久保田の同じく横見神社に向かった。
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参拝日:2015年12月22日
この日、高負比古根(たかおひこね)神社に次いで、このお宮に参拝しました。
横見神社は、かって大洪水により流されたため分散し、御所と久保田に横見神社、熊谷市吉見(旧大里郡大里町)の吉見神社が論社となっている。
ここで、高負比古根神社の際に載せなかったので、延喜式神名帳の該当ページを載せておこう。

神社の前に着いたのだが、参道の横に大きな広場があるのに、ロープが張ってあって入れず車を置くのに困った。

社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち 横見神社、旧郷社

創建は和銅年間(708-715)。当社は吉見丘陵の東端に近い平野部に鎮座。付近には「稲荷前遺跡」(古墳時代の集落跡)「御所古墳群」がある。境内末社の稲荷社も稲荷塚という円墳の上に鎮座。本殿も古墳の上にある。
境内にあった松の大木(周囲4.5メートル)は神木として「横見の松」と呼ばれていたが、台風で折れてしまい、今はその根だけが残っている。この木の下に石室があり、豪族の墳墓ではないかとされている。
中世には「飯玉氷川大明神」と呼ばれ穀物の神として崇敬。
慶長年間(1249-56)に当社は大洪水によって流され、御神体が漂着した南の吉見町久保田ではこれを貴い神の御来臨とされ当社分社の「横見神社」が祀られている。
以前は祭神に宇迦魂命をも祀っていたが、明治5年に古墳保全の意味も含めて境内末社の稲荷社が創建されたときに遷座。
御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内に築かれ、人々がそれを「吉見の御所」と呼んでいたことから名付けられたその吉見氏は、源頼朝の弟、範頼の子孫で永仁四年(1296)まで四代にわたり当地を支配した。
延喜式神名帳時代の横見郡という地名は、現在比企郡吉見町という地名に変化している。
そして、旧来の横見郡の領域は、現在の吉見町よりも広かったと考えられている。
鳥居

神橋前に古い石灯篭あり。

弘化3年(1846)造立のもの。

神橋
稲作の時期だけ流れる用水らしく、この時は乾いていた。


拝殿


アルミサッシの扉で、開口部はまったく無く、内部はまったくわからない。

本殿は、古墳の上ということがよくわかる。


本殿の前の石段は、まるであがることを拒否しているかのよう(笑)

古墳の上にあった「横見の松」の根とは、本殿前のこれだろう。

覆い屋の中の本殿が見にくくて、これで精一杯。

ご祭神は建速須佐之男命と櫛稲田比売命
本殿の背後から

境内社の三峰神社
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊

境内末社である稲荷社も「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座している。



ここから続いて、久保田の同じく横見神社に向かった。
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羽山津見神(はやまつみのかみ)/日本の神々の話
20160124
『古事記』では「羽山津見神」 、『日本書紀』では「麓山祇」と表記する。
この神は、島根県松江市八雲町の熊野大社の境内社「伊邪那美神社」の祭神として参拝した。
『古事記』では、刀(天之尾羽張、またの名は伊都之尾羽張)で斬られた迦具土神の各所に八柱の山津見神が生まれた。
頭に正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)
胸に淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)
腹に奥山津見神(おくやまつみのかみ)
陰部に闇山津見神(くらやまつみのかみ)
左手に志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)
右手に羽山津見神(はやまつみのかみ)
左足に原山津見神(はらやまつみのかみ)
右足に戸山津見神(とやまつみのかみ)。
『日本書紀』の一文によると、迦具土神を斬った血が、石や樹や草などを赤く染めたとなっているそうで、これによって石や樹や草などから火が出るということになった、となっていく。
イザナミが火神を生み、火神によって女陰を火傷するという話は、ニューギニアなどに分布ししているようだ。
そして、イザナミは黄泉の国にいき、地下を支配するが、地下に住む火の女神の神話もポリネシアなどにあるそうだ。
これは、火山と結びついてくる。
迦具土神の身体が切り刻まれて、岩石、雷、火焔、水、山が誕生する話も、火山の爆発に伴う現象を物語る神話といえなくもない。
『古事記』の該当するところの(読みくだし文)をここに載せておきます。
かれここに、伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へむと謂へや」とのりたまひて、すなはち御枕方に新郎ひ、卸欝に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成りし神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。かれ、その神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。
ここに伊邪那岐命、佩かせる十拳剣を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀の前に箸ける血、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は、石拆野、次に根拆野、次に石筒之男神。三神 次に御刀の本に箸ける血も、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豐布都神。三神 次に御刀の手上に集れる血、手俣より漏き出でて成りし神の名は闇淤加美神、次に闇御津羽神。
上の件の石拆野より下、闇御津羽神より前、併せて八神は、御刀によりて生りし守なり。
殺さえし迦具土神の頭に成りし神の名は、正鹿山津見神。次に胸に成りし神の名は、淤縢山津見神。次に腹に成りし神の名は、奥山津見神。次に陰に成りし神の名は、闇山津見神。次に左の手に成りし神の名は、志藝山津見神。次に右の手に成りし神の名は、羽山津見神。次に左の足に成りし神の名は、原山津見神。次に右の足に成りし神の名は、戸山津見神。正鹿山津見神より戸山津見神まで、併せて八神。かれ、斬りたまひし刀の名は天之尾羽張と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張と謂ふ。
ハ=端で奥山に対する端山を表す。ツミは住むの意。
となるそうである。
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この神は、島根県松江市八雲町の熊野大社の境内社「伊邪那美神社」の祭神として参拝した。
『古事記』では、刀(天之尾羽張、またの名は伊都之尾羽張)で斬られた迦具土神の各所に八柱の山津見神が生まれた。
頭に正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)
胸に淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)
腹に奥山津見神(おくやまつみのかみ)
陰部に闇山津見神(くらやまつみのかみ)
左手に志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)
右手に羽山津見神(はやまつみのかみ)
左足に原山津見神(はらやまつみのかみ)
右足に戸山津見神(とやまつみのかみ)。
『日本書紀』の一文によると、迦具土神を斬った血が、石や樹や草などを赤く染めたとなっているそうで、これによって石や樹や草などから火が出るということになった、となっていく。
イザナミが火神を生み、火神によって女陰を火傷するという話は、ニューギニアなどに分布ししているようだ。
そして、イザナミは黄泉の国にいき、地下を支配するが、地下に住む火の女神の神話もポリネシアなどにあるそうだ。
これは、火山と結びついてくる。
迦具土神の身体が切り刻まれて、岩石、雷、火焔、水、山が誕生する話も、火山の爆発に伴う現象を物語る神話といえなくもない。
『古事記』の該当するところの(読みくだし文)をここに載せておきます。
かれここに、伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へむと謂へや」とのりたまひて、すなはち御枕方に新郎ひ、卸欝に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成りし神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。かれ、その神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。
ここに伊邪那岐命、佩かせる十拳剣を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀の前に箸ける血、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は、石拆野、次に根拆野、次に石筒之男神。三神 次に御刀の本に箸ける血も、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豐布都神。三神 次に御刀の手上に集れる血、手俣より漏き出でて成りし神の名は闇淤加美神、次に闇御津羽神。
上の件の石拆野より下、闇御津羽神より前、併せて八神は、御刀によりて生りし守なり。
殺さえし迦具土神の頭に成りし神の名は、正鹿山津見神。次に胸に成りし神の名は、淤縢山津見神。次に腹に成りし神の名は、奥山津見神。次に陰に成りし神の名は、闇山津見神。次に左の手に成りし神の名は、志藝山津見神。次に右の手に成りし神の名は、羽山津見神。次に左の足に成りし神の名は、原山津見神。次に右の足に成りし神の名は、戸山津見神。正鹿山津見神より戸山津見神まで、併せて八神。かれ、斬りたまひし刀の名は天之尾羽張と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張と謂ふ。
ハ=端で奥山に対する端山を表す。ツミは住むの意。
となるそうである。
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元加治から仏子探訪
20160123
22日(金)に歴史クラブ行事に参加して歩きました。
テーマは「湧水と歴史を訪ねて段丘を歩く」です。
コースは、元加治駅⇒円照寺⇒アケポノゾウ足跡化石発見地⇒加治館跡⇒滝不動の湧水⇒庚申塔⇒オシャモジの田んぼ跡の湧水⇒白髭神社⇒谷田の泉⇒長徳寺⇒野田山王塚石造物群⇒野田河川公園の湧水(入間川河原)⇒清水橋の湧水⇒八坂神社⇒仏子駅

元加治駅に9:30集合。

【円照寺】
所在地:埼玉県入間市野田158

この寺については、2014年4月25日に、やはり歴史クラブの行事で訪ねていて、その際に詳細な記事を書いているので、それを読んでください。
その記事を読む
この弁天池は、ハケからでなくて段丘面上に湧き出す湧水。

今回は、墓地に足を延ばして住職の墓石を確認しました。
立派な墓石が並んでいます。



【アケポノゾウ足跡化石発見地】
1991年10月、台風の増水で砂利が流されて露出した地層(仏子層)から、約150年前の古代ゾウの足跡が発見された場所です。
私は、長瀞の自然博物館で展示されている足跡を撮影しました。

入間川に元加治からの川が流れ込むところの両側の場所で足跡が発見されている。

【加治館跡】
所在地:入間市元加治
推定されている場所には新たに住宅が立ち並び、市の説明板も無く、この辺だろうと立ち止まっただけ。

次に向かって歩いていると、民家の梅がかなりほころびていた。


【滝不動の湧水】
所在地:埼玉県入間市野田279

滝不動

真ん中の幡が邪魔になって、よく見えない。

滝不動の湧水
ハケの中腹から湧水があり、祠の近くの石垣で囲まれた穴から流れ落ちている。

開口部に蜘蛛の巣がかかっている。

蜘蛛の巣を切らないように手を突っ込むと、水がけっこう暖かく感じられた。
壊れかけた石樋の横から水が落ちている。

【庚申塔】
所在地:野田276
享保17年(1732)造立の駒形靑面合掌金剛・邪鬼・三猿庚申塔
頭が蛇になっている。


奉納の竹細工が美しかった。

庚申堂の後ろに道しるべあり。

「御大典」とある。
明治天皇なら、慶応2年から4年、大正天皇なら大正4年ということになる。

【オシャモジの田んぼ跡の湧水】
住宅地のところにボツンとあり。
かっては、この湧水の下にオシャモジ形の水田があったとか。


【白髭神社】
鎮座地:埼玉県入間市野田562-1

拝殿

社額には「白髭大明神」とあり。

拝殿内部

拡大してみると、「白髭大明神」の神像の写真があった。

祭神は猿田彦命
本殿

旧本殿の説明から、この神社の由緒がわかる。

旧本殿覆い屋

現在、これだけの神社が祀られている。

旧本殿

浅間塚


千機(せんはた)神社
当地では古くから綿織物が盛んで、境内社の千機神社は明治の初めに祀られた。


彫刻が素晴らしそうなのだが、横からは見えないのが残念だった。



拝殿左の石碑の中に、芭蕉句があり。
「都出でて神も旅寝の日数哉」
芭蕉は、元禄2年秋『奥の細道』で上方に着いて以来、丸2年間関西にあった。元禄4年9月28日膳所義仲寺境内の無名庵を後にして東下の旅に出、10月29日か11月1日江戸に到着し、日本橋橘町彦右衛門宅貸家煮に旅装を解いた。前詞からするとこの句はその旅の途次に沼津で作ったことになる。ただし、沼津通過は元禄4年10月26日頃で、前詞のいうように晦日ではなかった。この句は、久しぶりに江戸に帰って門弟たちに示した旅の土産の句であったらしい。

【谷田の泉(やたのいずみ)・下池跡】
気持ちのいいところに出た。

林に入ると庚申塔があり。
調べてみると、8代将軍徳川吉宗の時代(1716~1745年)に建立されたという説があるようです。


谷田の泉



「春の小川」がぴったり。

オオイヌフグリやタンポポが咲きはじめていた。


ここで、レストランで昼食、休憩した。
【長徳寺】
所在地:埼玉県入間市野田607

室町時代の長禄年間(1457~60)に独堂存賢が創建。境内の薬師堂の本尊は室町時代の作。眼病除けに効能があるとして信仰されている。
正面が本堂、左手が薬師堂

薬師堂

厨子が閉じられていて、薬師如来は見えない。

薬師堂左に、石仏が集められているが、その中に変った墓碑があった。
親子が居て、親の持っている何かから仏が出現している。


正中2年(1325)阿弥陀三尊種子板碑
なんだかツルツルしているが、調べたら昔入間川の川底から拾い上げられ、寺に奉納されたものだった。

【野田山王塚石造物群】


とにかく、庚申塔が7基、馬頭観音が3基とかたくさんあるので、その中から少し紹介しておく。

この中で一番古い、寛文8年(1668)造立の、笠付角塔、三猿庚申塔


台座が蓮になっている、寛文12年(1672)造立の、舟型三猿庚申塔

三猿の両側が横を向いている、延享3年(1746)造立の、駒形靑面合掌金剛・邪鬼・三猿庚申塔

宝暦12年(1762)造立の、駒形三面六臂馬頭観音

【野田河川公園の湧水(入間川河原)】
入間川河原に降ります。

桜並木が続く。

公園のハケから湧水がある。


桜並木を歩いて、中橋を渡る。

中橋の上からの入間川

【清水橋の湧水】
アミーゴの横から河原に降りて行き、大沢川が入間川に流れ込む点まで行って見た。

ここの崖には、蛇糞石が採れるそうだ。
別名サンドパパイプ、アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石である。
砂鉄が固まったものを、歴史の先輩から見せていただいた。
写真は持っていない。
清水橋で大沢川を渡る。

渡って振り返ったところ。

両側に湧水がある。


【八坂神社】
鎮座地:入間市仏子942


拝殿

拝殿の向拝破風の鬼瓦は「龍虎」、懸魚の波の彫刻もいい。

飾り瓦も素晴らしい。

拝殿正面

本殿

これで、今日の予定は全部終了。
すぐ近くの仏子駅から帰途につきました。
(了)
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テーマは「湧水と歴史を訪ねて段丘を歩く」です。
コースは、元加治駅⇒円照寺⇒アケポノゾウ足跡化石発見地⇒加治館跡⇒滝不動の湧水⇒庚申塔⇒オシャモジの田んぼ跡の湧水⇒白髭神社⇒谷田の泉⇒長徳寺⇒野田山王塚石造物群⇒野田河川公園の湧水(入間川河原)⇒清水橋の湧水⇒八坂神社⇒仏子駅

元加治駅に9:30集合。

【円照寺】
所在地:埼玉県入間市野田158

この寺については、2014年4月25日に、やはり歴史クラブの行事で訪ねていて、その際に詳細な記事を書いているので、それを読んでください。
その記事を読む
この弁天池は、ハケからでなくて段丘面上に湧き出す湧水。

今回は、墓地に足を延ばして住職の墓石を確認しました。
立派な墓石が並んでいます。



【アケポノゾウ足跡化石発見地】
1991年10月、台風の増水で砂利が流されて露出した地層(仏子層)から、約150年前の古代ゾウの足跡が発見された場所です。
私は、長瀞の自然博物館で展示されている足跡を撮影しました。

入間川に元加治からの川が流れ込むところの両側の場所で足跡が発見されている。

【加治館跡】
所在地:入間市元加治
推定されている場所には新たに住宅が立ち並び、市の説明板も無く、この辺だろうと立ち止まっただけ。

次に向かって歩いていると、民家の梅がかなりほころびていた。


【滝不動の湧水】
所在地:埼玉県入間市野田279

滝不動

真ん中の幡が邪魔になって、よく見えない。

滝不動の湧水
ハケの中腹から湧水があり、祠の近くの石垣で囲まれた穴から流れ落ちている。

開口部に蜘蛛の巣がかかっている。

蜘蛛の巣を切らないように手を突っ込むと、水がけっこう暖かく感じられた。
壊れかけた石樋の横から水が落ちている。

【庚申塔】
所在地:野田276
享保17年(1732)造立の駒形靑面合掌金剛・邪鬼・三猿庚申塔
頭が蛇になっている。


奉納の竹細工が美しかった。

庚申堂の後ろに道しるべあり。

「御大典」とある。
明治天皇なら、慶応2年から4年、大正天皇なら大正4年ということになる。

【オシャモジの田んぼ跡の湧水】
住宅地のところにボツンとあり。
かっては、この湧水の下にオシャモジ形の水田があったとか。


【白髭神社】
鎮座地:埼玉県入間市野田562-1

拝殿

社額には「白髭大明神」とあり。

拝殿内部

拡大してみると、「白髭大明神」の神像の写真があった。

祭神は猿田彦命
本殿

旧本殿の説明から、この神社の由緒がわかる。

旧本殿覆い屋

現在、これだけの神社が祀られている。

旧本殿

浅間塚


千機(せんはた)神社
当地では古くから綿織物が盛んで、境内社の千機神社は明治の初めに祀られた。


彫刻が素晴らしそうなのだが、横からは見えないのが残念だった。



拝殿左の石碑の中に、芭蕉句があり。
「都出でて神も旅寝の日数哉」
芭蕉は、元禄2年秋『奥の細道』で上方に着いて以来、丸2年間関西にあった。元禄4年9月28日膳所義仲寺境内の無名庵を後にして東下の旅に出、10月29日か11月1日江戸に到着し、日本橋橘町彦右衛門宅貸家煮に旅装を解いた。前詞からするとこの句はその旅の途次に沼津で作ったことになる。ただし、沼津通過は元禄4年10月26日頃で、前詞のいうように晦日ではなかった。この句は、久しぶりに江戸に帰って門弟たちに示した旅の土産の句であったらしい。

【谷田の泉(やたのいずみ)・下池跡】
気持ちのいいところに出た。

林に入ると庚申塔があり。
調べてみると、8代将軍徳川吉宗の時代(1716~1745年)に建立されたという説があるようです。


谷田の泉



「春の小川」がぴったり。

オオイヌフグリやタンポポが咲きはじめていた。


ここで、レストランで昼食、休憩した。
【長徳寺】
所在地:埼玉県入間市野田607

室町時代の長禄年間(1457~60)に独堂存賢が創建。境内の薬師堂の本尊は室町時代の作。眼病除けに効能があるとして信仰されている。
正面が本堂、左手が薬師堂

薬師堂

厨子が閉じられていて、薬師如来は見えない。

薬師堂左に、石仏が集められているが、その中に変った墓碑があった。
親子が居て、親の持っている何かから仏が出現している。


正中2年(1325)阿弥陀三尊種子板碑
なんだかツルツルしているが、調べたら昔入間川の川底から拾い上げられ、寺に奉納されたものだった。

【野田山王塚石造物群】


とにかく、庚申塔が7基、馬頭観音が3基とかたくさんあるので、その中から少し紹介しておく。

この中で一番古い、寛文8年(1668)造立の、笠付角塔、三猿庚申塔


台座が蓮になっている、寛文12年(1672)造立の、舟型三猿庚申塔

三猿の両側が横を向いている、延享3年(1746)造立の、駒形靑面合掌金剛・邪鬼・三猿庚申塔

宝暦12年(1762)造立の、駒形三面六臂馬頭観音

【野田河川公園の湧水(入間川河原)】
入間川河原に降ります。

桜並木が続く。

公園のハケから湧水がある。


桜並木を歩いて、中橋を渡る。

中橋の上からの入間川

【清水橋の湧水】
アミーゴの横から河原に降りて行き、大沢川が入間川に流れ込む点まで行って見た。

ここの崖には、蛇糞石が採れるそうだ。
別名サンドパパイプ、アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石である。
砂鉄が固まったものを、歴史の先輩から見せていただいた。
写真は持っていない。
清水橋で大沢川を渡る。

渡って振り返ったところ。

両側に湧水がある。


【八坂神社】
鎮座地:入間市仏子942


拝殿

拝殿の向拝破風の鬼瓦は「龍虎」、懸魚の波の彫刻もいい。

飾り瓦も素晴らしい。

拝殿正面

本殿

これで、今日の予定は全部終了。
すぐ近くの仏子駅から帰途につきました。
(了)
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厳冬の富士塚縦走
20160121
今日は「大寒」ということで、朝起きたら晴れていたので、予定どおり実行することにしました。
厳冬のなか、狭山市内の富士塚を全て廻ろうというわけです。
3日前にけっこう雪が降ったので、少しはそれらしくなったが、予想に反して今日は比較的暖かかったので、ほとんど悲壮感は無し(笑)
狭山市内全域ををほとんど廻るので、車でまわることにしました。ちょっとズルイ(笑)
カミさんと二人旅です。
回ったのは、上広瀬富士浅間宮⇒柏原富士塚公園⇒柏原白鬚神社⇒梅宮神社富士塚⇒田中稲荷神社富士塚⇒入間川富士浅間神社⇒堀兼神社富士塚⇒氷川神社富士塚⇒青柳富士浅間神社⇒下奥富浅間神社⇒笹井浅間神社富士講石塔の11ケ所です。
【上広瀬富士浅間宮】
所在地:狭山市上広瀬983-2
入り口

入り口の面はまったく雪が無くて安心したが、参道の日陰には雪がまだある。

頂上の「富士浅間宮」の碑
丸ろ講、丸の中を緋色に塗るので「ひろせ」となる。

頂上から木の間越しに富士が見えた。


五合目の蚕影神社の前からのほうが、富士は見やすい。


【柏原富士塚公園】
所在地:狭山市柏原337-23
狭山工業団地の中、セコムのラグビーグランドの近くにある。
公園入り口

工業団地完成記念碑の向こうに富士塚はフェンスに囲まれてある。

フェンスには扉があり、鍵がかかっていないので、中に入れます。

正面に回る。

頂上の「浅間宮」碑
丸藤講

残念ながら、工場に囲まれているので、富士は見えない。

【柏原白鬚神社】
所在地:狭山市柏原1153
先に、柏原上宿の富士塚の跡地に行きます。
昨年の正月に、白鬚神社の宮司さんにお話を伺いに訪ねたときに、「そういえば富士塚は、いま重機が入っていますよ」と云われ、驚いて飛んでいったときの写真がこれ。
正月休みで工事が中断していたので、塚が三分の一くらいの状態を確認できた。

今日の状態がこうで、宅地にされるようだ。

現在のここは、道沿いに民家がびっしり立ち並んでいて、富士はまったく見えない。
白鬚神社

境内の浅間社の傍らに、上宿にあった富士塚の石碑三体が安置されている。
(
真ん中が笠付石塔「木花開耶姫命碑」
右側面に「旡彦火瓊瓊杵尊」、左側面に「大山祇尊」、裏面に「雷神風神尊」と刻まれている。
左が「小御岳石尊大権現」の石碑
右が「○柏同行」碑

【梅宮神社富士塚】
所在地:狭山市上奥富508

富士塚

頂上の「富士嶽神社」碑

富士山の方向には、樹が生い茂り、民家もあって全く見えない。

近くで富士山が見えるところを探したら、一の鳥居のところから綺麗に見えた。
(二の鳥居の位置からも見えた)


【田中稲荷神社富士塚】
所在地:狭山市狭山27

富士塚の昇り口にまわる。

頂上の「富士浅間宮」碑

頂上から、白い斜めの屋根が特徴の市民会館の向こうに、綺麗に富士が見えた。


【入間川富士浅間神社】
所在地:狭山市入間川3-14
石無坂(いしんざか)の途中にあり、色々な碑が集められている。この辺の道路拡張などの影響であろう。

木花開耶姫立像

ここからの、眺望の開口部はこれだけで、富士山は見えない。

【堀兼神社富士塚】
所在地:狭山市堀兼2220

鳥居横にある、丸吉講の碑

富士塚の上に、堀兼神社の社殿がある。

五合目の小御嶽神社


社殿

富士塚の頂上からは、深い木立にさえぎられて、まったく外が見えない状態。


【氷川神社富士塚】
所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475

富士塚

頂上の「富士嶽神社」碑
左右に猿が侍っている。

ここも、建物にさえぎられて、富士山は見えない。

【青柳富士浅間神社】
所在地:狭山市青柳974

頂上の、溶岩に覆われた石祠


お昼を過ぎて、雲が出てきてしまって、富士山がよくわからない。
これかもしれない。

ここの庚申塔の三猿が、両側の猿が横を向いていて、変わっている。

【下奥富浅間神社】
所在地:狭山市下奥富490-1

下から見ると小高い丘の中腹にあり。
下が薬師堂

浅間神社

ここからは、わりとはっきりと富士山が確認できた(嬉)


【笹井浅間神社富士講石塔】
所在地:狭山市笹井
本来、ここからスタートすべきなのに、ミスって飛ばしてしまったので、最後にここを訪ねました。
笹井白髭神社からちょっと上がった、河岸段丘の上にあります。

「大祖参神霊」と刻まれている。
丸日立講

河岸段丘の上なので、視界は開けていて見えるはずなのだが、雲が出てしまってはっきりしない。
ここは、再度来てみることにして、今日は完了とした。
後日(1月27日)、10時ころに確認しました。
近くで富士山が見えるところで方向を確認した結果、「大祖参神霊」碑の前から富士山の方向を向くと、そこには林が茂っていて、現在は富士山を見通すことは出来ない。

河岸段丘のハケに木が生い茂っているのだが、富士山に向かって左の方にハケは蛇行していっているので、4、50m先では林が無くなって、綺麗に富士山が見える。



林には、そんなに太い木は見当たらないので、富士講碑を設置した頃には、富士山は見えていたと推定はできます。
結局9:30に家を出て、帰宅したのが15時だった。
(了)
「狭山市の歴史を訪ねる」に飛ぶ
厳冬のなか、狭山市内の富士塚を全て廻ろうというわけです。
3日前にけっこう雪が降ったので、少しはそれらしくなったが、予想に反して今日は比較的暖かかったので、ほとんど悲壮感は無し(笑)
狭山市内全域ををほとんど廻るので、車でまわることにしました。ちょっとズルイ(笑)
カミさんと二人旅です。
回ったのは、上広瀬富士浅間宮⇒柏原富士塚公園⇒柏原白鬚神社⇒梅宮神社富士塚⇒田中稲荷神社富士塚⇒入間川富士浅間神社⇒堀兼神社富士塚⇒氷川神社富士塚⇒青柳富士浅間神社⇒下奥富浅間神社⇒笹井浅間神社富士講石塔の11ケ所です。
【上広瀬富士浅間宮】
所在地:狭山市上広瀬983-2
入り口

入り口の面はまったく雪が無くて安心したが、参道の日陰には雪がまだある。

頂上の「富士浅間宮」の碑
丸ろ講、丸の中を緋色に塗るので「ひろせ」となる。

頂上から木の間越しに富士が見えた。


五合目の蚕影神社の前からのほうが、富士は見やすい。


【柏原富士塚公園】
所在地:狭山市柏原337-23
狭山工業団地の中、セコムのラグビーグランドの近くにある。
公園入り口

工業団地完成記念碑の向こうに富士塚はフェンスに囲まれてある。

フェンスには扉があり、鍵がかかっていないので、中に入れます。

正面に回る。

頂上の「浅間宮」碑
丸藤講

残念ながら、工場に囲まれているので、富士は見えない。

【柏原白鬚神社】
所在地:狭山市柏原1153
先に、柏原上宿の富士塚の跡地に行きます。
昨年の正月に、白鬚神社の宮司さんにお話を伺いに訪ねたときに、「そういえば富士塚は、いま重機が入っていますよ」と云われ、驚いて飛んでいったときの写真がこれ。
正月休みで工事が中断していたので、塚が三分の一くらいの状態を確認できた。

今日の状態がこうで、宅地にされるようだ。

現在のここは、道沿いに民家がびっしり立ち並んでいて、富士はまったく見えない。
白鬚神社

境内の浅間社の傍らに、上宿にあった富士塚の石碑三体が安置されている。
(

真ん中が笠付石塔「木花開耶姫命碑」
右側面に「旡彦火瓊瓊杵尊」、左側面に「大山祇尊」、裏面に「雷神風神尊」と刻まれている。
左が「小御岳石尊大権現」の石碑
右が「○柏同行」碑

【梅宮神社富士塚】
所在地:狭山市上奥富508

富士塚

頂上の「富士嶽神社」碑

富士山の方向には、樹が生い茂り、民家もあって全く見えない。

近くで富士山が見えるところを探したら、一の鳥居のところから綺麗に見えた。
(二の鳥居の位置からも見えた)


【田中稲荷神社富士塚】
所在地:狭山市狭山27

富士塚の昇り口にまわる。

頂上の「富士浅間宮」碑

頂上から、白い斜めの屋根が特徴の市民会館の向こうに、綺麗に富士が見えた。


【入間川富士浅間神社】
所在地:狭山市入間川3-14
石無坂(いしんざか)の途中にあり、色々な碑が集められている。この辺の道路拡張などの影響であろう。

木花開耶姫立像

ここからの、眺望の開口部はこれだけで、富士山は見えない。

【堀兼神社富士塚】
所在地:狭山市堀兼2220

鳥居横にある、丸吉講の碑

富士塚の上に、堀兼神社の社殿がある。

五合目の小御嶽神社


社殿

富士塚の頂上からは、深い木立にさえぎられて、まったく外が見えない状態。


【氷川神社富士塚】
所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475

富士塚

頂上の「富士嶽神社」碑
左右に猿が侍っている。

ここも、建物にさえぎられて、富士山は見えない。

【青柳富士浅間神社】
所在地:狭山市青柳974

頂上の、溶岩に覆われた石祠


お昼を過ぎて、雲が出てきてしまって、富士山がよくわからない。
これかもしれない。

ここの庚申塔の三猿が、両側の猿が横を向いていて、変わっている。

【下奥富浅間神社】
所在地:狭山市下奥富490-1

下から見ると小高い丘の中腹にあり。
下が薬師堂

浅間神社

ここからは、わりとはっきりと富士山が確認できた(嬉)


【笹井浅間神社富士講石塔】
所在地:狭山市笹井
本来、ここからスタートすべきなのに、ミスって飛ばしてしまったので、最後にここを訪ねました。
笹井白髭神社からちょっと上がった、河岸段丘の上にあります。

「大祖参神霊」と刻まれている。
丸日立講

河岸段丘の上なので、視界は開けていて見えるはずなのだが、雲が出てしまってはっきりしない。
ここは、再度来てみることにして、今日は完了とした。
後日(1月27日)、10時ころに確認しました。
近くで富士山が見えるところで方向を確認した結果、「大祖参神霊」碑の前から富士山の方向を向くと、そこには林が茂っていて、現在は富士山を見通すことは出来ない。

河岸段丘のハケに木が生い茂っているのだが、富士山に向かって左の方にハケは蛇行していっているので、4、50m先では林が無くなって、綺麗に富士山が見える。



林には、そんなに太い木は見当たらないので、富士講碑を設置した頃には、富士山は見えていたと推定はできます。
結局9:30に家を出て、帰宅したのが15時だった。
(了)
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邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)/日本の神々の話
20160119
昨年の11月に3日間の出雲の旅を楽しんだ際に、ちょっと足を延ばして石見國一之宮である物部神社に参拝したときに、祭神の宇摩志麻遅命の父神として相殿に祀られていた。
また、「関八州式内社めぐり」で常陸國の稲村神社にて祭神として参拝している。
『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命と表記する。
別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。天照国照彦火明櫛玉饒速日命ともされる。
まず、いずれの神名にも共通する「ハヤヒ」について、戸矢学氏の『縄文の神』での説明を載せておく。
「いずれの神名表記にも共通するのは「速日」 のみである。つまり「速日」 こそがニギハヤヒの正体に迫ることのできる最大の手掛かりなのである。それ以外の表記は個別の性格付けを表す“形容” “味付け”にすぎないと言ってよい。速日とは、文字通り「速い日」 であり、あるいは「速い火」 であるだろう。隕石は火の玉となって落下した。その様を目にした人々は、恐れを込めて「速日」、「速玉」と呼び、最大級の破壊の神として祀ったのだ。
また、「日」は「火」 であり、さらに古神道では神霊の「靈(ひ)」を意味する。それは、何か。アマテラスはその神格を太陽に擬らえられた。アメノミナカヌシは北極星である。
特定の神を特別な星として信仰するのは、神道のより古い姿であると考えられる。自然信仰の究極の形だろう。とりわけ重要な神は、「天の神」という観念からの発想もあってか、「星」 に擬らえることが多い。その論理から、アマテラスから統治者として任命されたニギハヤヒとは、太陽から発して飛来する火の星、すなわち隕石であると考えられる。だから「速い日」 の字が充てられている。」
続いて、この神が記紀などで、どう書かれているのかを挙げておく。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。
「神武天皇」の巻、「久米歌」の段
(現代語訳)
そこからお進みになって、忍坂の大室にお着きになったとき、尾の生えた土雲という大勢のつわものが、その岩屋の中で待ち受けて、うなり声をあげていた。そこで天つ神の御子(イハレピコノ命=神武天皇)の御命令で、御馳走を大勢のつわものに賜わった。このとき、多くのつわものに当てて多くの料理人を用意して、一人一人に大刀をはかせ、その料理人たちに教えて、「歌を開いたら、いっせいに斬りつけよ」と仰せになった。そこで、その土雲を討とうとすることを示した歌は、
“忍坂の大きな土室に、人が数多く集まってはいっている。どんなに多くの人がはいっていても、勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の大刀でもって、撃ってしまうぞ。勢い盛んな久米部の兵士らが、頭椎の大刀や石椎の大刀でもって、今撃ったらよいぞ。”
このように歌って、大刀を抜いていっせいに打ち殺してしまった。
その後、トミピコ(=長髄彦)を討とうとされたとき、歌われた歌は、
“久米部の者たちの作っている粟畑には、臭気の強い韮が一本生えている。そいつの根と芽といっしょに引き抜くように、数珠つなぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。”
またお歌いになった歌は、
“久米部の者たちが垣のほとりに植えた山椒の実は辛くて、口がひりひりする。われわれは、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。”
またお歌いになった歌は、
“伊勢の海の生い立つ石に這いまつわっている細螺のように、敵のまわりを這い回って撃ち滅ぼしてしまうぞ。”
またエシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)をお討ちになったとき、命の軍勢はしばし疲れた。そこでお歌いになった歌は、
“伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、われわれは腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐに助けに釆てくれ。”
さて、ここに二ギハヤヒノ命が、イハレピコノ命のもとに参上して、天つ神の御子に申しあげるには、「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」と申して、やがて天つ神の子であるしるしの宝物を献って、お仕え申しあげた。
そして二ギハヤヒノ命は、トミピコの妹のトミヤビメと結婚して生んだ子がウマシマヂノ命で、この人は物部連・穂積臣・婇臣(うねめのおみ)の祖先である。
さて、このようにしてイハレピコノ命は、荒ぶる神たちを平定し和らげ、服従しない人たちを撃退して、畝火の白檮原宮(かしはらのみや)において天下をお治めになった。
(注)
忍坂:奈良県桜井市忍阪
『日本書紀』では、神武天皇が東征で、長髄彦と対時している時、 長髄彦の使者が来て、「この国には先に天津神の御子饒速日命と申す神が天降って来て、我が妹を娶り、可美真手命をもうけているほどである。 したがって自分はこの神を主君として仕え奉っているのである。 天津神の御子に二種ある筈がない。いまごろ天津神の御子であると名乗って人の国を奪おうとするのはけしからぬ」と言った。 神武天皇は、「天津神の御子といっても数は多い。いまお前が君として仕えている神が真の天津神たらば、必ず表物をもっているだろうから、それを見せろ」と言われた。 長髄彦は早速、饒速日命の天羽々矢一隻と歩靱を見せた。神武天皇はこれを見て、「なるほど偽りではないが、私もまたお前に示すべき表物がある」と言われ、 天羽々矢と歩靱を示された。これを見た長髄彦は、心では恐縮したが、兵士たちの勢いもあって、頑強に戦いを挑んだ。 だが饒速日余は、神武天皇が皇祖の大詔によって天降った天孫の正統な君であることを知り、 また長髄彦はいくら諭しても解る者でないことを知って、遂に長髄彦を殺して天皇に恭順した。 また、饒速日命を物部氏の遠祖とある。
『日本書紀』などの記述によれば、邇藝速日命は神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
邇藝速日命を祭神とする飛行神社(京都府八幡市)があり、饒速日命は古典に「天磐船に乗りて太虚(おおぞら)を翔行(めぐ)り」の古事に基づき航空祖神とされていて、空の神とも言われ信仰を集めている。
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また、「関八州式内社めぐり」で常陸國の稲村神社にて祭神として参拝している。
『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命と表記する。
別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。天照国照彦火明櫛玉饒速日命ともされる。
まず、いずれの神名にも共通する「ハヤヒ」について、戸矢学氏の『縄文の神』での説明を載せておく。
「いずれの神名表記にも共通するのは「速日」 のみである。つまり「速日」 こそがニギハヤヒの正体に迫ることのできる最大の手掛かりなのである。それ以外の表記は個別の性格付けを表す“形容” “味付け”にすぎないと言ってよい。速日とは、文字通り「速い日」 であり、あるいは「速い火」 であるだろう。隕石は火の玉となって落下した。その様を目にした人々は、恐れを込めて「速日」、「速玉」と呼び、最大級の破壊の神として祀ったのだ。
また、「日」は「火」 であり、さらに古神道では神霊の「靈(ひ)」を意味する。それは、何か。アマテラスはその神格を太陽に擬らえられた。アメノミナカヌシは北極星である。
特定の神を特別な星として信仰するのは、神道のより古い姿であると考えられる。自然信仰の究極の形だろう。とりわけ重要な神は、「天の神」という観念からの発想もあってか、「星」 に擬らえることが多い。その論理から、アマテラスから統治者として任命されたニギハヤヒとは、太陽から発して飛来する火の星、すなわち隕石であると考えられる。だから「速い日」 の字が充てられている。」
続いて、この神が記紀などで、どう書かれているのかを挙げておく。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。
「神武天皇」の巻、「久米歌」の段
(現代語訳)
そこからお進みになって、忍坂の大室にお着きになったとき、尾の生えた土雲という大勢のつわものが、その岩屋の中で待ち受けて、うなり声をあげていた。そこで天つ神の御子(イハレピコノ命=神武天皇)の御命令で、御馳走を大勢のつわものに賜わった。このとき、多くのつわものに当てて多くの料理人を用意して、一人一人に大刀をはかせ、その料理人たちに教えて、「歌を開いたら、いっせいに斬りつけよ」と仰せになった。そこで、その土雲を討とうとすることを示した歌は、
“忍坂の大きな土室に、人が数多く集まってはいっている。どんなに多くの人がはいっていても、勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の大刀でもって、撃ってしまうぞ。勢い盛んな久米部の兵士らが、頭椎の大刀や石椎の大刀でもって、今撃ったらよいぞ。”
このように歌って、大刀を抜いていっせいに打ち殺してしまった。
その後、トミピコ(=長髄彦)を討とうとされたとき、歌われた歌は、
“久米部の者たちの作っている粟畑には、臭気の強い韮が一本生えている。そいつの根と芽といっしょに引き抜くように、数珠つなぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。”
またお歌いになった歌は、
“久米部の者たちが垣のほとりに植えた山椒の実は辛くて、口がひりひりする。われわれは、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。”
またお歌いになった歌は、
“伊勢の海の生い立つ石に這いまつわっている細螺のように、敵のまわりを這い回って撃ち滅ぼしてしまうぞ。”
またエシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)をお討ちになったとき、命の軍勢はしばし疲れた。そこでお歌いになった歌は、
“伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、われわれは腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐに助けに釆てくれ。”
さて、ここに二ギハヤヒノ命が、イハレピコノ命のもとに参上して、天つ神の御子に申しあげるには、「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」と申して、やがて天つ神の子であるしるしの宝物を献って、お仕え申しあげた。
そして二ギハヤヒノ命は、トミピコの妹のトミヤビメと結婚して生んだ子がウマシマヂノ命で、この人は物部連・穂積臣・婇臣(うねめのおみ)の祖先である。
さて、このようにしてイハレピコノ命は、荒ぶる神たちを平定し和らげ、服従しない人たちを撃退して、畝火の白檮原宮(かしはらのみや)において天下をお治めになった。
(注)
忍坂:奈良県桜井市忍阪
『日本書紀』では、神武天皇が東征で、長髄彦と対時している時、 長髄彦の使者が来て、「この国には先に天津神の御子饒速日命と申す神が天降って来て、我が妹を娶り、可美真手命をもうけているほどである。 したがって自分はこの神を主君として仕え奉っているのである。 天津神の御子に二種ある筈がない。いまごろ天津神の御子であると名乗って人の国を奪おうとするのはけしからぬ」と言った。 神武天皇は、「天津神の御子といっても数は多い。いまお前が君として仕えている神が真の天津神たらば、必ず表物をもっているだろうから、それを見せろ」と言われた。 長髄彦は早速、饒速日命の天羽々矢一隻と歩靱を見せた。神武天皇はこれを見て、「なるほど偽りではないが、私もまたお前に示すべき表物がある」と言われ、 天羽々矢と歩靱を示された。これを見た長髄彦は、心では恐縮したが、兵士たちの勢いもあって、頑強に戦いを挑んだ。 だが饒速日余は、神武天皇が皇祖の大詔によって天降った天孫の正統な君であることを知り、 また長髄彦はいくら諭しても解る者でないことを知って、遂に長髄彦を殺して天皇に恭順した。 また、饒速日命を物部氏の遠祖とある。
『日本書紀』などの記述によれば、邇藝速日命は神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
邇藝速日命を祭神とする飛行神社(京都府八幡市)があり、饒速日命は古典に「天磐船に乗りて太虚(おおぞら)を翔行(めぐ)り」の古事に基づき航空祖神とされていて、空の神とも言われ信仰を集めている。
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高負比古根(たかおひこね)神社(延喜式内社)/埼玉県比企郡吉見町
20160118
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町田甲1945
参拝日:2015年12月22日
個人的に取り組んでいる「武蔵國式内社めぐり」で12月に参拝したのですが、他の記事を優先していて、アップが遅れました。
正面から

鳥居の右に「獅子封じ塚」があった。



社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち、高負比古神社(たけぶひこのかみのやしろ)

高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。
和銅3年(710年)創建と伝えられる古社。田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、ここのポンポン山(後述)の下もかっては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
当社の祭祀には吉志(きし)氏(壬生吉志・渡来系氏族=屯倉管理か?)が関係していたとされる。横見郡三座のうちでもっとも古く、天平勝宝7年(755)に官符がひかれており(入間郡の正倉火災に関係)、奈良時代にはすでに官社となっていた。
中世以降は衰退し不明。「玉鉾氷川名神社」と称していた。氷川社となったのは天穂日命の6代、五十根彦命の別名を高負比古命とする氷川神社宮司家の伝承によるものという。
天明3年(1783)に再興。
『新編武蔵風土記稿』の記述
横見郡 巻之ニ
田甲村タカヲ 附持添新田
村内高負比古根ノ神社ハ延喜式神名帳ニ載ル所且和名鈔ノ郷名ニ高生ト載ス多介布ト註スレハ舊キ名ナル事シラル又當郡東ノ方荒川ヲ隔テ足立郡高尾村アリ 古ハ田高トモ記セシ由是田甲ノ轉訛ナラン 想ニ唱ト云ヒ□キ一河ノ隔ト云ヒ當所ノ名ノ廣ク彼所迄モ及シナラント里人語レリ
高負比古根神社 村ノ鎮守ナリ 例祭九月十九日 當社ハ延喜式神名帳ニ載ル所ノ高負比古神社ニシテ祭神ハ昧鉅高彦根命或ハ素盞鳴尊ナリトモ云 中古以來玉鉾氷川明神稱シ來リテ式社タル事モ定カナラサリシニ後高負比古根神社ト稱セシ由ナレト果シテ古ノ式社ナリシヤ未詳ニセス 社ノ後背ハ高十一間許ナル□石ノ丘ニテソノ内社ニヨリタル邊踏鳴セハ皷ノ如ク響キアル處アリ ソコヲ玉鉾石ト稱ス又通シテ玉鉾山トモ號セリ 玉鉾神靈ノ寓スルト云意ナル欺ヨリテ玉鉾氷川トイヒシトミユ 又社傍ニヨモキノ松ト云アリ圍ミ一丈餘 社前ニ湊石ト云アリ共ニ由來詳ナラス 村内福聚寺ノ持
鳥居


鳥居をくぐった左に、「珪化木」があり。
灯明台にしたのだろうか。


真っ直ぐな参道の左に、献財者の石碑が並んでいる。


拝殿前左右に文政3年(1820)奉納の石灯篭があり。


入母屋造りの拝殿


鬼瓦には「高負」とあり。

向拝には龍と獅子。
龍の顔はおどけているが、獅子の顔はいかめしい。

社額

拝殿内部

奥に本殿が鎮座

本殿覆い屋

祭神:味耜高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)、大己貴尊(一説に素戔嗚尊)
祭神はいずれも出雲系であるが素戔嗚尊が混入したのは牛頭天王信仰によるものとされる。
また、吉見町の伝説に祭神が登場する「楡の木の下の話」がある。
むかしこの地方(比企郡吉見町)には鬼が住み、鬼の毒気により市野川の水も飲むことができなかった。里人たちは川辺の楡の木の下に集まって相談をしたが、良い考へも浮かばずに解散した。一人の若者がそのまま木の下に残って市野川の流れを見てゐると、美しい娘が声をかけ、一掬ひの水を求めた。若者が毒の水だから飲めないと事情を告げると、娘は、里人のために清い水にしてみせませうといって、剣を若者に授けて、自分は市野川に飛びこんだ。すると川底から不思議な石が現はれて霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となったといふ。若者は剣で鬼を退治した。娘は岩室の観音様の化身といひ、若者の名は高負彦根命で、高負比古根神社に祀られてゐる。
境内社は、三峰神社のみ。
祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊。

中には、布袋様や大黒様が奉納されていた。

ポンポン山に向かいます。

ポンポン山(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38Mの小山(磐座)の頂上に鎮座している。社殿後方の巨岩に近い地面を踏みならすと「ポンポン」と太鼓のような響きがするために「ポンポン山」と呼ばれている。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説がある。
神社の表から入ると、山と言われてもまったくピンとこないが、ここを参拝したあと次の目的地に向かうときに、反対側から眺めてみたら、たしかに「磐座」であって、ここに祀ったのはうなづけた。

先ほどの説明板には、このように説明がある。

このあたりだと、見当をつけ足でたたいてみると、たしかに音がするところがあった。
ちょっと楽しんでしまった(笑)

それから岩となるが、そこに大変良い庚申塔があり、嬉しくなった。

宝暦6年(1756)建立のものだが、良い石を使っていて、風化が少なく綺麗な状態。


足元には、猿と酉が二羽いる。
猿は「三番叟」の姿で、珍しい。

磐座の上にも、風化していて年号は確認できなかったが、庚申塔があり。


磐座の上


たぶん、筑波山、赤城山、榛名山だと思う。
うっすらと遠望できる。気持ちよく見晴らしを楽しんだ。



磐座から降りてきて、けもの道があるのに気付いた。

そこを行って見ると、磐座の裂け目があった。

続いて、「横見神社」に向かった。
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参拝日:2015年12月22日
個人的に取り組んでいる「武蔵國式内社めぐり」で12月に参拝したのですが、他の記事を優先していて、アップが遅れました。
正面から

鳥居の右に「獅子封じ塚」があった。



社号標
延喜式内社 武蔵國横見郡三座のうち、高負比古神社(たけぶひこのかみのやしろ)

高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。
和銅3年(710年)創建と伝えられる古社。田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、ここのポンポン山(後述)の下もかっては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
当社の祭祀には吉志(きし)氏(壬生吉志・渡来系氏族=屯倉管理か?)が関係していたとされる。横見郡三座のうちでもっとも古く、天平勝宝7年(755)に官符がひかれており(入間郡の正倉火災に関係)、奈良時代にはすでに官社となっていた。
中世以降は衰退し不明。「玉鉾氷川名神社」と称していた。氷川社となったのは天穂日命の6代、五十根彦命の別名を高負比古命とする氷川神社宮司家の伝承によるものという。
天明3年(1783)に再興。
『新編武蔵風土記稿』の記述
横見郡 巻之ニ
田甲村タカヲ 附持添新田
村内高負比古根ノ神社ハ延喜式神名帳ニ載ル所且和名鈔ノ郷名ニ高生ト載ス多介布ト註スレハ舊キ名ナル事シラル又當郡東ノ方荒川ヲ隔テ足立郡高尾村アリ 古ハ田高トモ記セシ由是田甲ノ轉訛ナラン 想ニ唱ト云ヒ□キ一河ノ隔ト云ヒ當所ノ名ノ廣ク彼所迄モ及シナラント里人語レリ
高負比古根神社 村ノ鎮守ナリ 例祭九月十九日 當社ハ延喜式神名帳ニ載ル所ノ高負比古神社ニシテ祭神ハ昧鉅高彦根命或ハ素盞鳴尊ナリトモ云 中古以來玉鉾氷川明神稱シ來リテ式社タル事モ定カナラサリシニ後高負比古根神社ト稱セシ由ナレト果シテ古ノ式社ナリシヤ未詳ニセス 社ノ後背ハ高十一間許ナル□石ノ丘ニテソノ内社ニヨリタル邊踏鳴セハ皷ノ如ク響キアル處アリ ソコヲ玉鉾石ト稱ス又通シテ玉鉾山トモ號セリ 玉鉾神靈ノ寓スルト云意ナル欺ヨリテ玉鉾氷川トイヒシトミユ 又社傍ニヨモキノ松ト云アリ圍ミ一丈餘 社前ニ湊石ト云アリ共ニ由來詳ナラス 村内福聚寺ノ持
鳥居


鳥居をくぐった左に、「珪化木」があり。
灯明台にしたのだろうか。


真っ直ぐな参道の左に、献財者の石碑が並んでいる。


拝殿前左右に文政3年(1820)奉納の石灯篭があり。


入母屋造りの拝殿


鬼瓦には「高負」とあり。

向拝には龍と獅子。
龍の顔はおどけているが、獅子の顔はいかめしい。

社額

拝殿内部

奥に本殿が鎮座

本殿覆い屋

祭神:味耜高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)、大己貴尊(一説に素戔嗚尊)
祭神はいずれも出雲系であるが素戔嗚尊が混入したのは牛頭天王信仰によるものとされる。
また、吉見町の伝説に祭神が登場する「楡の木の下の話」がある。
むかしこの地方(比企郡吉見町)には鬼が住み、鬼の毒気により市野川の水も飲むことができなかった。里人たちは川辺の楡の木の下に集まって相談をしたが、良い考へも浮かばずに解散した。一人の若者がそのまま木の下に残って市野川の流れを見てゐると、美しい娘が声をかけ、一掬ひの水を求めた。若者が毒の水だから飲めないと事情を告げると、娘は、里人のために清い水にしてみせませうといって、剣を若者に授けて、自分は市野川に飛びこんだ。すると川底から不思議な石が現はれて霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となったといふ。若者は剣で鬼を退治した。娘は岩室の観音様の化身といひ、若者の名は高負彦根命で、高負比古根神社に祀られてゐる。
境内社は、三峰神社のみ。
祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊。

中には、布袋様や大黒様が奉納されていた。

ポンポン山に向かいます。

ポンポン山(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38Mの小山(磐座)の頂上に鎮座している。社殿後方の巨岩に近い地面を踏みならすと「ポンポン」と太鼓のような響きがするために「ポンポン山」と呼ばれている。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説がある。
神社の表から入ると、山と言われてもまったくピンとこないが、ここを参拝したあと次の目的地に向かうときに、反対側から眺めてみたら、たしかに「磐座」であって、ここに祀ったのはうなづけた。

先ほどの説明板には、このように説明がある。

このあたりだと、見当をつけ足でたたいてみると、たしかに音がするところがあった。
ちょっと楽しんでしまった(笑)

それから岩となるが、そこに大変良い庚申塔があり、嬉しくなった。

宝暦6年(1756)建立のものだが、良い石を使っていて、風化が少なく綺麗な状態。


足元には、猿と酉が二羽いる。
猿は「三番叟」の姿で、珍しい。

磐座の上にも、風化していて年号は確認できなかったが、庚申塔があり。


磐座の上


たぶん、筑波山、赤城山、榛名山だと思う。
うっすらと遠望できる。気持ちよく見晴らしを楽しんだ。



磐座から降りてきて、けもの道があるのに気付いた。

そこを行って見ると、磐座の裂け目があった。

続いて、「横見神社」に向かった。
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歴博フォーラム「申年のサル」
20160117

昨日、例年どおり新橋のヤクルトホールで行われた、国立歴史民俗博物館主催の「歴博フォーラム」に行ってきました。
プログラム:
開会の挨拶/青山 宏夫(国立歴史民俗博物館副館長)
報告1「サルの伝承」/小池 淳一(民俗研究系)
報告2「生活のなかのサル」/山田 慎也(民俗研究系)
報告3「サルの民俗芸能と信仰」/川村 清志(民俗研究系)
休憩
報告4「描かれたさる」/大久保純一(情報資料研究系)
報告5「造形のなかのサル一美術工芸品に見る猿の図像-」/日高 薫(情報資料研究系)
報告6「古代東アジアの申」/上野 祥史(考古研究系)
興味深かったことを、順不動で書いておきます。
【厩猿】
日光東照宮の、「見ざる・言わざる・聞かざる」三猿の彫刻が神厩舎(神馬をつなぐ厩)にある意味がわかった。
猿が馬の守り神だったのですね。
昔の農家にとっては馬は牛と並んで重要な労働力であり、家族同然に大切に扱われていた。人間を守る神と同様、馬を守る存在として生まれたものが厩神の信仰とされている。
厩神を祀る多くの地方では猿が馬の守り神とされており、厩の柱の上に厩神の祠を設け、猿の頭蓋骨、または猿の手足を神体として納めていた。簡易な方法で済ます際には、猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼っていた。
また当時は季節ごとに馬の安全を願う祭礼として、厩の周りで猿を舞わせる風習もあった。大道芸の猿まわしはその名残りである。
大道芸の猿まわしが、馬の安全を祈る祭礼からきているとは驚きでした(笑)
どうして、猿を守り神にしたのかという点については、下記が考えられるとのこと。
・祖先神として神聖視した
・人身御供の代用
・馬が病気になったときの薬効
平安時代の絵巻物のなかで厩に猿がつながれているのが描かれているので、古くからの風習らしい。
古代中国でも、猿と馬の取り合わせが、オルドス青銅器などで見られるそうだ。
庚申塔に彫られる猿で、猿と馬の取り合わせが紹介されていた。
私は、いままで三猿くらいしか見ていないので、驚いた。
八王子にあるというので、近いうちに見にいこうと思っている。
とりあえずネットで調べたら、画像があったので載せておく。


【サルのお守り】
飛騨地方に多い「サルボボ」が紹介されていた。

私が育ったのは、信州の山村だが、道祖神祭りの子供の小屋掛けにたくさんサルが吊るされていたのを覚えている。
【山王信仰と猿】
山王さまといえば、赤坂の日枝神社が有名だが、そこの神猿については、「今年の干支」という記事で紹介している。
その記事を読む
興味深かったのは、埼玉県鴻巣市の「三ツ木神社」を紹介していた。
もとは山王社だったそうだが、ここでは願掛けに、オサルサマに光明丹を塗るので、真っ赤になっている。
そしてイシザルを持ち帰り、願がかなうと倍にして奉納するので、奉納されたイシザルが6000体もあるそうだ。
先の赤坂の山王日枝神社でも、拝殿前の神猿には赤いおべべを着せている。
これは、日枝神社の祭神・大山咋神が関係しているのではないか。
京都の上加茂神社の由緒にある、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。
丹塗矢の正体が大山咋神である。
とりあえず、鴻巣市の「三ツ木神社」には、近々行かないといけない。
【アマメハギ】
石川県輪島市門前町の行事で、「ナマハゲ」と同じことを能登半島でもしていたことに吃驚した。
天狗が一人、鬼が二人、猿面が一人。


同じ日本海沿いなので、同じ内容の行事が伝播したものだろう。
フォーラムでは、ビデオが紹介された後で、輪島市からわざわざ来てくれて、会場中を暴れまわった。
泣き叫ぶ子供は居らず、年よりばかり多かったので、ちょっとやり難そうだったが(笑)
(了)
愛宕神社
20160115
鎮座地:東京都港区愛宕一丁目5番3号
参拝日:2016年1月10日
10日に、虎の門金刀比羅宮「初こんぴら」に行きましたが、その後昼食後ここに参拝しました。
社号標

愛宕神社は、山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。
防火・防災に霊験のある神社として知られる。
慶長8年(1603)、江戸に幕府を開いた徳川家康の命により防火の神様として祀られた。
慶長15年、本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立された。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものだった。
その後江戸大火災で全焼してしまったが、明治19年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなる。
大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失したが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至る。
愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませている。
大鳥居の前には、「出世の石段」と大きな掲示があり。

【出世の石段】の前に狛犬があり。
両方とも角があり、顔の表情がいい。






【出世の石段(男坂)】がそびえている。

時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
明治15年・石川清馬(セイマ。宮城県出身)
大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった
昭和57年・渡辺隆馬(ワタナベ リュウマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番で。
この番組では石川五右衛門は本当に大凧に乗って逃げたのか、なんていうのもやりました。
(愛宕神社ホームページから)
この日は、歴史クラブの一員として参加していて、高年齢の方が多いので、幹事は女坂のほうを案内したのですが、私はいつもこの坂を見ると上りたくなるので、この日もこちらを上がりました。

昨年の春、身延山久遠寺の桜を撮りにいきましたが、あの時に上がったく287段の石段「菩提梯」と比べたら楽ですよね。
上がりきると【一の鳥居】ですが、まだ初詣の参拝者が多くて、すごい行列でした。

石段の下を見ると、さすがにすごいですね。

行列に並ぶと、写真を撮れなくなってしまうので、この日は脇からお参りすることにして、行列の脇から撮りました。
手水舎


【丹塗りの門】
ほおずき市の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるといいます。




丹塗りの門からの眺めが、広重の「江戸名所百景」に描かれている。
海がきれいに見えている。
人物は、落款に「正月三日毘沙門使」とあることから、麓の円福寺で強飯式を終え、一本歯の高下駄を履き巨大な杓文字(しゃもじ)とすりこぎを手に、やっとの思いで急な石段を登って来たところ。

【招き石】
丹塗りの門から拝殿の間にあり、この石をなでると福が身につくといいます。

【拝殿】




【本殿】

祭神は、
主祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)
配祀:罔象女命(みずはのめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・将軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)・普賢大菩薩(ふげんだいぼさつ)
神紋は「三つ葉葵」

境内末社に参拝
【太郎坊社】猿田彦神(天狗様)を祭神とする末社です。



【福寿稲荷社】
宇迦御魂神を祭神とする末社です。



【大黒天社】
大國主命、事代主命を祭神とする末社です。

【弁財天社】
市杵島姫命を祭神とする末社です。


社殿の横に弁天池あり。けっこう大きい。
愛宕山の頂上なのに、昔から水が湧いていたのだろうか?


【梅軍梅】江戸時代、曲垣平九郎が将軍徳川家光に献上したと言われる梅です。

【桜田烈士愛宕山遺跡碑】
桜田門外で井伊直弼大老を暗殺した水戸浪士たちは、ここに集合し桜田門に向かった。江戸城・桜田門までは約2キロメートル。ここから歩いて2~30分の距離である。

【狂歌合長者園撰】

上には弁天、恵比須、大国が描かれていて、天明期の狂歌師:大田南畝(蜀山人)等の狂歌も刻まれている。

下には、社頭霞、愛宕山、甲子などに分かれて石碑いっぱいに狂歌が刻まれている。

愛宕神社がある愛宕山は標高25.7メートル。出世階段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としてはこれは23区内で一番の高さ。

蝋梅が咲いていた。


最後に、隣の真福寺にある【勝軍地蔵菩薩】にお参り。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命により、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことにはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られている。
真福寺

銅製で復元された「勝軍地蔵菩薩」




(了)
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参拝日:2016年1月10日
10日に、虎の門金刀比羅宮「初こんぴら」に行きましたが、その後昼食後ここに参拝しました。
社号標

愛宕神社は、山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。
防火・防災に霊験のある神社として知られる。
慶長8年(1603)、江戸に幕府を開いた徳川家康の命により防火の神様として祀られた。
慶長15年、本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立された。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものだった。
その後江戸大火災で全焼してしまったが、明治19年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなる。
大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失したが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至る。
愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませている。
大鳥居の前には、「出世の石段」と大きな掲示があり。

【出世の石段】の前に狛犬があり。
両方とも角があり、顔の表情がいい。






【出世の石段(男坂)】がそびえている。

時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
明治15年・石川清馬(セイマ。宮城県出身)
大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった
昭和57年・渡辺隆馬(ワタナベ リュウマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番で。
この番組では石川五右衛門は本当に大凧に乗って逃げたのか、なんていうのもやりました。
(愛宕神社ホームページから)
この日は、歴史クラブの一員として参加していて、高年齢の方が多いので、幹事は女坂のほうを案内したのですが、私はいつもこの坂を見ると上りたくなるので、この日もこちらを上がりました。

昨年の春、身延山久遠寺の桜を撮りにいきましたが、あの時に上がったく287段の石段「菩提梯」と比べたら楽ですよね。
上がりきると【一の鳥居】ですが、まだ初詣の参拝者が多くて、すごい行列でした。

石段の下を見ると、さすがにすごいですね。

行列に並ぶと、写真を撮れなくなってしまうので、この日は脇からお参りすることにして、行列の脇から撮りました。
手水舎


【丹塗りの門】
ほおずき市の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるといいます。




丹塗りの門からの眺めが、広重の「江戸名所百景」に描かれている。
海がきれいに見えている。
人物は、落款に「正月三日毘沙門使」とあることから、麓の円福寺で強飯式を終え、一本歯の高下駄を履き巨大な杓文字(しゃもじ)とすりこぎを手に、やっとの思いで急な石段を登って来たところ。

【招き石】
丹塗りの門から拝殿の間にあり、この石をなでると福が身につくといいます。

【拝殿】




【本殿】

祭神は、
主祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)
配祀:罔象女命(みずはのめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・将軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)・普賢大菩薩(ふげんだいぼさつ)
神紋は「三つ葉葵」

境内末社に参拝
【太郎坊社】猿田彦神(天狗様)を祭神とする末社です。



【福寿稲荷社】
宇迦御魂神を祭神とする末社です。



【大黒天社】
大國主命、事代主命を祭神とする末社です。

【弁財天社】
市杵島姫命を祭神とする末社です。


社殿の横に弁天池あり。けっこう大きい。
愛宕山の頂上なのに、昔から水が湧いていたのだろうか?


【梅軍梅】江戸時代、曲垣平九郎が将軍徳川家光に献上したと言われる梅です。

【桜田烈士愛宕山遺跡碑】
桜田門外で井伊直弼大老を暗殺した水戸浪士たちは、ここに集合し桜田門に向かった。江戸城・桜田門までは約2キロメートル。ここから歩いて2~30分の距離である。

【狂歌合長者園撰】

上には弁天、恵比須、大国が描かれていて、天明期の狂歌師:大田南畝(蜀山人)等の狂歌も刻まれている。

下には、社頭霞、愛宕山、甲子などに分かれて石碑いっぱいに狂歌が刻まれている。

愛宕神社がある愛宕山は標高25.7メートル。出世階段を登り切った右手には、山の証しである三角点があります。天然の山としてはこれは23区内で一番の高さ。

蝋梅が咲いていた。


最後に、隣の真福寺にある【勝軍地蔵菩薩】にお参り。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命により、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことにはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られている。
真福寺

銅製で復元された「勝軍地蔵菩薩」




(了)
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虎の門金刀比羅宮「初こんぴら」
20160114
10日(日)に昨年と同じく、「初こんぴら」に行きましたが、今年は歴史クラブ行事として参加です。
地下鉄「虎の門」から歩いてすぐ。
「虎の門琴平タワー」がそびえています。

ビルの横の鳥居から入る。

虎の門金刀比羅宮については、別記事で既にアップしています。
その記事を読む
お神楽を10:30から楽しむつもりで、それに間に合うように行ったのですが、既に行われており、10:30前に終了してしまった。

おかしいなと思い、社務所の張り紙を見たら、やはりお神楽は10:30からとなっている。
またやるのかなと、神楽殿の前で待っていて、ちょうど神楽殿から人が出てきたので聞いたら「早くやりました」との答えに、アングリ(怒)
10:30前に上演していたお神楽「三番叟」は、昨年動画を撮ってあるので、それをご覧ください。
「三番叟」の動画を見る
11時から、「七福神行列」が行われた。


七福神から、持ち物で福を授けていただき、ひよっとこの方からお菓子をもらったし、とても気分がよかった。
「七福神行列」は動画を撮りました。
「七福神行列」の動画を見る
七福神行列が終わると、拝殿前で七福神が勢ぞろい。


その後、12時から「初こんぴら祭」が拝殿でありました。
拝殿に昇殿させていただき、神事を拝観、最後に玉串を奉じて、お神酒をいただきました。



今年は、このような神事に参加させていただき、何やら今年は良い年になりそうな予感です(嬉)
その後虎の門ヒルズ内のレストランで昼食。
その後、愛宕神社に参拝しました。
その記事は、別途アップします。
愛宕神社の記事を読む
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地下鉄「虎の門」から歩いてすぐ。
「虎の門琴平タワー」がそびえています。

ビルの横の鳥居から入る。

虎の門金刀比羅宮については、別記事で既にアップしています。
その記事を読む
お神楽を10:30から楽しむつもりで、それに間に合うように行ったのですが、既に行われており、10:30前に終了してしまった。

おかしいなと思い、社務所の張り紙を見たら、やはりお神楽は10:30からとなっている。
またやるのかなと、神楽殿の前で待っていて、ちょうど神楽殿から人が出てきたので聞いたら「早くやりました」との答えに、アングリ(怒)
10:30前に上演していたお神楽「三番叟」は、昨年動画を撮ってあるので、それをご覧ください。
「三番叟」の動画を見る
11時から、「七福神行列」が行われた。


七福神から、持ち物で福を授けていただき、ひよっとこの方からお菓子をもらったし、とても気分がよかった。
「七福神行列」は動画を撮りました。
「七福神行列」の動画を見る
七福神行列が終わると、拝殿前で七福神が勢ぞろい。


その後、12時から「初こんぴら祭」が拝殿でありました。
拝殿に昇殿させていただき、神事を拝観、最後に玉串を奉じて、お神酒をいただきました。



今年は、このような神事に参加させていただき、何やら今年は良い年になりそうな予感です(嬉)
その後虎の門ヒルズ内のレストランで昼食。
その後、愛宕神社に参拝しました。
その記事は、別途アップします。
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亀戸天神社(東宰府天満宮)
20160111
鎮座地:東京都江東区亀戸3−6−1
参拝日:2014年2月26日、2015年12月7日、2016年1月7日
7日に亀戸七福神めぐりの後参拝しましたが、下見の時の写真と、2014年2月に梅を撮りにきたので、その三回の写真で記事を作りました。
境内図

大鳥居


正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。
太鼓橋(男橋)の手前、左右に台座があるが、これが何かの跡だと思うのだが、調べてもわからなかった。

太鼓橋(男橋)

この太鼓橋は、広重の名所江戸百景「亀戸天神境内」に描かれている。

残念ながら藤のは無いが、色々な取り合わせの写真を載せておく。




太鼓橋の上からスカイツリーを。

整理していて気が付いたが、太鼓橋(男橋)の上から、真っ直ぐ拝殿までを撮った写真が無い(汗)
太鼓橋(女橋)の手前、左側からの拝殿。

拝殿



社額

祭壇

2月25日の菜種御供(なたねごく)
天神様の忌日にあたり、菜の花をお供えして、御霊を宥める神事。
梅を撮りに行ったときに、ちょうどその翌日でした。


本殿は、探したが全景を撮れる場所はなく、屋根だけ見える。

ご祭神:天満大神(菅原道真公)、相殿神:天菩日命(菅原家の祖神)
神紋は「剣梅鉢」

舞殿

次いで摂末社です。
○御嶽神社
御祭神:比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正
社殿は、寛文9年(1669)11月21日に九州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社とも号された。現在の社殿は、菅原道眞公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和51年(1976)に再建されたもの。
由緒:
法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀された。法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶3年(930)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰され以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈った。




○花園社



○弁天社



○紅梅殿




○神牛


舞殿の背後に「亀井戸跡碑」と「おいぬさま」があり。
○亀井戸跡碑


○おいぬさま
塩をかけて病気平癒を願うのだそうです。


○五歳の菅公碑


菅原道真公が五歳の時に詠まれた歌が台座にあり。
「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくそある」

○累卵(るいらん)塔
五歳菅公像の後方に累卵塔と額刻り(がくぼり)し、その下にお盆らしき物の上に卵を七個積み重ねた線画が入っている碑があります。累卵とは、卵を積み重ねることで、崩れやすくきわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に明治天皇の主事医を務めた千葉愛石が天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納しました。
この碑の裏面には大政奉還を行った15代将軍徳川慶喜公と深く関わった“幕末の三舟“と称された勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名前が刻まれています。


○うそ替え神事の碑


○芭蕉句碑



スカイツリーが池に写っているのを撮った。

せっかくだから、2014年2月に撮った梅を載せておきます。
時期的には、まだ早すぎた。
拝殿前の紅白梅


「楠玉」

「月影」

「呉服枝垂」


「鹿児島紅」

「紅冬至」

「一重緑蓴」

「冬至梅」

(了)
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参拝日:2014年2月26日、2015年12月7日、2016年1月7日
7日に亀戸七福神めぐりの後参拝しましたが、下見の時の写真と、2014年2月に梅を撮りにきたので、その三回の写真で記事を作りました。
境内図

大鳥居


正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。
太鼓橋(男橋)の手前、左右に台座があるが、これが何かの跡だと思うのだが、調べてもわからなかった。

太鼓橋(男橋)

この太鼓橋は、広重の名所江戸百景「亀戸天神境内」に描かれている。

残念ながら藤のは無いが、色々な取り合わせの写真を載せておく。




太鼓橋の上からスカイツリーを。

整理していて気が付いたが、太鼓橋(男橋)の上から、真っ直ぐ拝殿までを撮った写真が無い(汗)
太鼓橋(女橋)の手前、左側からの拝殿。

拝殿



社額

祭壇

2月25日の菜種御供(なたねごく)
天神様の忌日にあたり、菜の花をお供えして、御霊を宥める神事。
梅を撮りに行ったときに、ちょうどその翌日でした。


本殿は、探したが全景を撮れる場所はなく、屋根だけ見える。

ご祭神:天満大神(菅原道真公)、相殿神:天菩日命(菅原家の祖神)
神紋は「剣梅鉢」

舞殿

次いで摂末社です。
○御嶽神社
御祭神:比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正
社殿は、寛文9年(1669)11月21日に九州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社とも号された。現在の社殿は、菅原道眞公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和51年(1976)に再建されたもの。
由緒:
法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀された。法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶3年(930)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰され以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈った。




○花園社



○弁天社



○紅梅殿




○神牛


舞殿の背後に「亀井戸跡碑」と「おいぬさま」があり。
○亀井戸跡碑


○おいぬさま
塩をかけて病気平癒を願うのだそうです。


○五歳の菅公碑


菅原道真公が五歳の時に詠まれた歌が台座にあり。
「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくそある」

○累卵(るいらん)塔
五歳菅公像の後方に累卵塔と額刻り(がくぼり)し、その下にお盆らしき物の上に卵を七個積み重ねた線画が入っている碑があります。累卵とは、卵を積み重ねることで、崩れやすくきわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に明治天皇の主事医を務めた千葉愛石が天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納しました。
この碑の裏面には大政奉還を行った15代将軍徳川慶喜公と深く関わった“幕末の三舟“と称された勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名前が刻まれています。


○うそ替え神事の碑


○芭蕉句碑



スカイツリーが池に写っているのを撮った。

せっかくだから、2014年2月に撮った梅を載せておきます。
時期的には、まだ早すぎた。
拝殿前の紅白梅


「楠玉」

「月影」

「呉服枝垂」


「鹿児島紅」

「紅冬至」

「一重緑蓴」

「冬至梅」

(了)
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亀戸七福神めぐり
20160109
7日(木)に、歴史クラブ行事として行いました。30名参加の盛況でした。
JR亀戸駅から、まずは一番遠い龍眼寺まで歩いていき、それから巡拝していきました。

☆龍眼寺【1.布袋尊】
江戸名所図会にも描かれた江戸の萩の名所。

龍眼寺の創立は応永2年(1395)で、良博大和尚が開山しました。その後、江戸初期に住職が諸国から集めた百種類もの萩が植えられたことから、「萩寺」として呼ばれるようになり、江戸名所図会にも描かれるなど、江戸の名所となりました。
本堂

清簾度量のご利益があるとされる布袋尊が境内の一角にあるお堂にまつられています。


松尾芭蕉の句碑
「濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩」

万治2年(1659)造立の庚申塔



これは12月初めの下見の時の写真ですが、紅葉とスカイツリーの取り合わせ。

他にも、本尊の聖観世音菩薩、不動堂の不動明王、色々な人の句碑、見事な鯉、仰天するような大きな金魚など、見どころがありましたが、ここでは割愛しました。
☆天祖神社【2.福禄寿】
天祖神社の創立年代は明らかではありませんが、推古天皇の時代に創建され、聖徳太子作のご神体がまつられていたといわれています。
ご祭神:天照大御神
また、天正年間(1573~1592)に悪病が大流行したとき、織田信長がこの神社で流鏑馬の行事を行わせたところ、たちまち収まったと伝えられ、このことにちなむ祭事として、毎年9月16日に400年以上の伝統を持つ「流鏑馬(こども歩射)」が行われています。
拝殿

人望福徳のご利益があるとされる福禄寿が境内の一角にあるお社にまつられています。


拝殿前の獅子山


境内のあちこちに双体道祖神がおかれていたが、他は最近のものだったが、これは古い感じでよかった。

天祖神社の氏子社中毎に作っている手ぬぐいが飾られていた。

天祖神社から木下川沿いの道に出て、次の目的地に向かうが、その辺の橋から木下川に写るスカイツリーを撮れる。
下見のときには、こんな感じで波が立っていて、ちょっとしか映らなかった。

この日はもっと風が強くて全然期待できないため、皆さんに案内もしなかった。
【梅屋敷跡】
次の香取神社に向かう途中にあった。


広重の「江戸名所図会」

☆香取神社【3.恵比寿神・4.大国神】
香取神社は、天智天皇の4年(665)に中臣鎌足が東国下向の際に勧請したと伝えられる区内で最も古い歴史を持つ神社です。また、平将門の乱のとき、俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈り、祈願成就の後、弓矢を奉納したとされ、このことにちなむ祭事として、毎年5月5日に「勝矢祭」が毎年行われています。古来より武運長久の神として、現在ではスポーツの振興の神として多くの人々に親しまれています。
鳥居から長い参道が。

拝殿
ご祭神:経津主神 (ご相殿)武甕槌神、大己貴神

愛敬富財のご利益があるとされる恵比寿神と有富蓄財のご利益があるとされる大国神

亀戸の地名のもとになった「亀が井戸」あり。


区内で最も古い歴史を持つスポーツ振興の神なので、お願いはスポーツに関することだった。

亀戸大根の碑


「紙本淡彩道祖神祭図」広重


拝殿前の紅梅がほころびていた。

テレビで「もやもやサマーズ」とか「有吉正直散歩」をよく見ているが、「正直シール」が張ってあるのは、初めて見た(笑)

香取神社の全体については、別途記事にします。
☆東覺寺【5.弁財天】
東覺寺の創立は享禄4年(1531)で、開山は玄覚法印と伝えられる真言宗のお寺です。当時は、不動明王をご本尊に安置して、江戸時代には「亀戸不動」として有名でした。明治34年(1901)に深川本村町(現、猿江2)にあった覚王寺と合併し、大日如来をご本尊として今日に至っています。 東京にある弘法大師ゆかりの八十八ヶ所のお寺を巡る「御府内八十八ヶ所霊場」の73番目の札所です。
本堂

芸道富有のご利益があるとされる弁財天が境内の一角にあるお堂にまつられています。



四面の彫刻が素晴らしい宝篋印塔


門前にある不動明王標柱
正面に「大山同木□作 不動明王」とあります。
江戸時代の「亀戸不動」当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689~773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。

☆常光寺【6.寿老人】
常光寺は曹洞宗の寺院で、本尊の阿弥陀如来は行基の作と伝えられています。「江戸六阿弥陀詣」の6番目の霊場です。六阿弥陀詣とは春と秋のお彼岸に行基作の6体の阿弥陀像を参詣することで、江戸時代の人々の行楽の一つでした。他の5か所は、西福寺、無量寺、与楽寺(以上北区)、恵明寺(足立区)、常楽寺(調布市)です。
その起源については、こんな伝説があります。
奈良時代のこと、足立宰相藤原正成の娘「足立姫」は、豊島左衛門尉清光に嫁いだところ姑との折り合いが悪く、12人の侍女とともに荒川に身を投げて死んでしまいました。
これを悲しんだ父正成は、諸国巡礼の末、紀州(和歌山県)熊野三山に参詣して神木を授かり、行基に6体の阿弥陀仏を彫刻してもらって帰国し、これを6か所の寺に分散して供養したのが六阿弥陀の始まりということです。
本堂

延命長寿のご利益があるとされる寿老人が境内の一角にあるお堂にまつられています。



境内に「六阿弥陀道道標」あり。
左側面に「自是右六阿弥陀道」とあるので、もともとは常光寺にやってくる道の途中にあったもの。

「丸彫庚申塔」

戦災で分断されていたものを再建したもので、頭部は昭和40年頃に他の像のもので補ったそうです。
最初、台座に「庚申」とあり、胴体は靑面金剛らしくはあるものの、頭部がいかにも異常で、「何だこれは・・・・」と思ったのですが、調べたらそういうことでした。
天和3年(1683)造立で、丸彫りの靑面金剛像は都内では珍しい。

「武州本□」、「住所下総國葛飾郡」とある。
□は、江東区広報課発行の「史跡を訪ねて」では「所」と推定している。

ここから一旦駅まで戻り、会員の一人の昔馴染みのお店で昼食。どの定食も美味しかったと好評でした。
☆普門院・毘沙門堂【7.毘沙門天】
真言宗智山派寺院の普門院は、福聚山善應寺と号します。普門院は、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転したといいます。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。
毘沙門堂



墓地に伊藤佐千夫の墓あり。
伊藤左千夫は、名を幸次郎といい、元治元年(1864) 8月18日、千葉県成東町に生れました。
18歳で上京、勉学に励み、明治22年現在の錦糸町駅南側のところで牧場、搾乳業を営みました。
明治33年37歳のとき、正岡子規の門に入り、たちまち根岸派歌壇の重鎮となりました。
歌壇アララギを主宰し、小説(野菊の墓)を著し、すぐれた多くの門弟を指導、近代短歌の興隆に力を尽した功叢は大きい。
墓碑銘は中村不折の書

このあと、亀戸天神社に参拝しましたが、別記事で詳しくアップします。
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(了)
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JR亀戸駅から、まずは一番遠い龍眼寺まで歩いていき、それから巡拝していきました。

☆龍眼寺【1.布袋尊】
江戸名所図会にも描かれた江戸の萩の名所。

龍眼寺の創立は応永2年(1395)で、良博大和尚が開山しました。その後、江戸初期に住職が諸国から集めた百種類もの萩が植えられたことから、「萩寺」として呼ばれるようになり、江戸名所図会にも描かれるなど、江戸の名所となりました。
本堂

清簾度量のご利益があるとされる布袋尊が境内の一角にあるお堂にまつられています。


松尾芭蕉の句碑
「濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩」

万治2年(1659)造立の庚申塔



これは12月初めの下見の時の写真ですが、紅葉とスカイツリーの取り合わせ。

他にも、本尊の聖観世音菩薩、不動堂の不動明王、色々な人の句碑、見事な鯉、仰天するような大きな金魚など、見どころがありましたが、ここでは割愛しました。
☆天祖神社【2.福禄寿】
天祖神社の創立年代は明らかではありませんが、推古天皇の時代に創建され、聖徳太子作のご神体がまつられていたといわれています。
ご祭神:天照大御神
また、天正年間(1573~1592)に悪病が大流行したとき、織田信長がこの神社で流鏑馬の行事を行わせたところ、たちまち収まったと伝えられ、このことにちなむ祭事として、毎年9月16日に400年以上の伝統を持つ「流鏑馬(こども歩射)」が行われています。
拝殿

人望福徳のご利益があるとされる福禄寿が境内の一角にあるお社にまつられています。


拝殿前の獅子山


境内のあちこちに双体道祖神がおかれていたが、他は最近のものだったが、これは古い感じでよかった。

天祖神社の氏子社中毎に作っている手ぬぐいが飾られていた。

天祖神社から木下川沿いの道に出て、次の目的地に向かうが、その辺の橋から木下川に写るスカイツリーを撮れる。
下見のときには、こんな感じで波が立っていて、ちょっとしか映らなかった。

この日はもっと風が強くて全然期待できないため、皆さんに案内もしなかった。
【梅屋敷跡】
次の香取神社に向かう途中にあった。


広重の「江戸名所図会」

☆香取神社【3.恵比寿神・4.大国神】
香取神社は、天智天皇の4年(665)に中臣鎌足が東国下向の際に勧請したと伝えられる区内で最も古い歴史を持つ神社です。また、平将門の乱のとき、俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈り、祈願成就の後、弓矢を奉納したとされ、このことにちなむ祭事として、毎年5月5日に「勝矢祭」が毎年行われています。古来より武運長久の神として、現在ではスポーツの振興の神として多くの人々に親しまれています。
鳥居から長い参道が。

拝殿
ご祭神:経津主神 (ご相殿)武甕槌神、大己貴神

愛敬富財のご利益があるとされる恵比寿神と有富蓄財のご利益があるとされる大国神

亀戸の地名のもとになった「亀が井戸」あり。


区内で最も古い歴史を持つスポーツ振興の神なので、お願いはスポーツに関することだった。

亀戸大根の碑


「紙本淡彩道祖神祭図」広重


拝殿前の紅梅がほころびていた。

テレビで「もやもやサマーズ」とか「有吉正直散歩」をよく見ているが、「正直シール」が張ってあるのは、初めて見た(笑)

香取神社の全体については、別途記事にします。
☆東覺寺【5.弁財天】
東覺寺の創立は享禄4年(1531)で、開山は玄覚法印と伝えられる真言宗のお寺です。当時は、不動明王をご本尊に安置して、江戸時代には「亀戸不動」として有名でした。明治34年(1901)に深川本村町(現、猿江2)にあった覚王寺と合併し、大日如来をご本尊として今日に至っています。 東京にある弘法大師ゆかりの八十八ヶ所のお寺を巡る「御府内八十八ヶ所霊場」の73番目の札所です。
本堂

芸道富有のご利益があるとされる弁財天が境内の一角にあるお堂にまつられています。



四面の彫刻が素晴らしい宝篋印塔


門前にある不動明王標柱
正面に「大山同木□作 不動明王」とあります。
江戸時代の「亀戸不動」当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689~773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。

☆常光寺【6.寿老人】
常光寺は曹洞宗の寺院で、本尊の阿弥陀如来は行基の作と伝えられています。「江戸六阿弥陀詣」の6番目の霊場です。六阿弥陀詣とは春と秋のお彼岸に行基作の6体の阿弥陀像を参詣することで、江戸時代の人々の行楽の一つでした。他の5か所は、西福寺、無量寺、与楽寺(以上北区)、恵明寺(足立区)、常楽寺(調布市)です。
その起源については、こんな伝説があります。
奈良時代のこと、足立宰相藤原正成の娘「足立姫」は、豊島左衛門尉清光に嫁いだところ姑との折り合いが悪く、12人の侍女とともに荒川に身を投げて死んでしまいました。
これを悲しんだ父正成は、諸国巡礼の末、紀州(和歌山県)熊野三山に参詣して神木を授かり、行基に6体の阿弥陀仏を彫刻してもらって帰国し、これを6か所の寺に分散して供養したのが六阿弥陀の始まりということです。
本堂

延命長寿のご利益があるとされる寿老人が境内の一角にあるお堂にまつられています。



境内に「六阿弥陀道道標」あり。
左側面に「自是右六阿弥陀道」とあるので、もともとは常光寺にやってくる道の途中にあったもの。

「丸彫庚申塔」

戦災で分断されていたものを再建したもので、頭部は昭和40年頃に他の像のもので補ったそうです。
最初、台座に「庚申」とあり、胴体は靑面金剛らしくはあるものの、頭部がいかにも異常で、「何だこれは・・・・」と思ったのですが、調べたらそういうことでした。
天和3年(1683)造立で、丸彫りの靑面金剛像は都内では珍しい。

「武州本□」、「住所下総國葛飾郡」とある。
□は、江東区広報課発行の「史跡を訪ねて」では「所」と推定している。

ここから一旦駅まで戻り、会員の一人の昔馴染みのお店で昼食。どの定食も美味しかったと好評でした。
☆普門院・毘沙門堂【7.毘沙門天】
真言宗智山派寺院の普門院は、福聚山善應寺と号します。普門院は、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転したといいます。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。
毘沙門堂



墓地に伊藤佐千夫の墓あり。
伊藤左千夫は、名を幸次郎といい、元治元年(1864) 8月18日、千葉県成東町に生れました。
18歳で上京、勉学に励み、明治22年現在の錦糸町駅南側のところで牧場、搾乳業を営みました。
明治33年37歳のとき、正岡子規の門に入り、たちまち根岸派歌壇の重鎮となりました。
歌壇アララギを主宰し、小説(野菊の墓)を著し、すぐれた多くの門弟を指導、近代短歌の興隆に力を尽した功叢は大きい。
墓碑銘は中村不折の書

このあと、亀戸天神社に参拝しましたが、別記事で詳しくアップします。
亀戸天神社の記事を読む
(了)
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「水-神秘のかたち」展/サントリー美術館
20160105
1月4日(月)、例年どおり日本橋高島屋で、江戸木遣り・はしご乗りを楽しんだ後、六本木ミッドタウンに移動し、昼食後、この展示を見ました。
ミッドタウン内の飾り


サントリー美術館前の吹き抜けには、書が垂れていた。

サントリー美術館

今回の展示は「水-神秘のかたち」

私たちは水によって生命を維持しており、欠かせないもの。
一方で、水が多すぎたときに大変な災害ももたらしてきた。
だから、人はずっと水に祈りを捧げて来た。
今回の展示は、そういう祈りのかたちを特集したものです。
展示は次のようにわかれていた。
1.水の力
2.水の神仏
3.水に祈りて
4.水の理想郷
5.水と吉祥
6.水の聖地
この記事では、この全体像を説明しているものではありません。
ここでは、今回の展示の中で感心したもの、珍しい神仏のかたちを知って嬉しかったものなどを、私が勝手に取り上げています。
興味を持たれましたら、2月7日まで開催しているので、ぜひ会場に足を運んでください。
流水文のある銅鐸
弥生時代 大阪府八尾市跡部(あとべ)遺跡出土

「京都八坂神社・祇園社大政所(お旅所)絵図」に書かれた湯立神事
2014年9月に鎌倉御霊神社で行われた、この神事を見ている。

弁才天の出展が多かったが、その中から、
「江島縁起絵巻」から弁才天

弁才天坐像
鎌倉・南北朝時代 金亀山與願寺(江島神社)

弁才天の頭上に坐すが、単体でも信仰の対象とされている「宇賀神」
江戸時代 大阪・本山寺

ちょっと不気味な宇賀神も、木喰上人が彫るとこんな感じに。

住吉神像
鎌倉・南北朝時代 鎌倉・鶴岡八幡宮
住吉大神は、伊邪那岐尊が禊を行った際に生まれた底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称であり、一つの神で表わされることもある。

「水天」の石碑は方々で見るが、図像で見たのは初めて。
水天像
室町時代 滋賀・園城寺

空海は、東寺時代に西寺の守敏との祈雨争いに勝って、空海の名声を不動なものにしたが、その時に使用した「倶利伽羅龍剣」
和歌山・龍光院

善女龍王(ぜんにょりゅうおう)
平安時代 和歌山・金剛峯寺
雨乞いの対象である龍王のうちの一尊だが、先の空海と西寺の守敏との祈雨争いの際に、空海の祈りに応じて出現した。
衣の裾から、龍の尾が見える。

円空が彫った「善女龍王」

高野四社明神像
鎌倉時代 和歌山正智院
○丹生明神(丹生都比売)

○狩場明神(高野御子大神)

丹生都比売と高野御子大神は、空海が高野山を開いた由緒に登場する神である。
弘仁7年(817年)のことだが、弘法大師は白と黒の犬を連れた猟師と出会った。その時、猟師は「この山の向こうに、夜になると不思議な光を放つ山がある。この犬に案内させよう」と教え、二匹の犬を放った。
この猟師は、高野山の地主神で「狩場明神」だった。
大師は、二匹の犬の案内に従って、山に入っていった。すると今度は丹生都比売神(丹生明神)と名乗る女性と出会った。比売が指さす方を見ると、大師が唐から願いを込めて投げた三鈷杵(さんこしょ)が松の枝にかかっていたという。
弘法大師は、三鈷杵のあった場所に金剛峯寺を建てて高野山を開いた。
○気比明神
丹生明神の娘で、高野明神(狩場明神)の妹です。

○厳島明神(弁才天)

三宝荒神とか、荒神の石碑はよく見るが、その図像は初めてだ。
三宝荒神
鎌倉時代 東京国立博物館

子島荒神
室町時代
壷阪山の麓にある子島寺、そして、壷阪寺の中興の祖である真興僧都が感得したと伝えられる荒神

「天稚彦図屏風」で、日本版七夕伝説があることを知った。
今まで知っていた七夕伝説(牽牛と織女)は中国の伝説である。
日本版は、天稚彦という男神と人間の娘の物語。
しかし、「天稚彦」とは日本神話にも登場する。
葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が3年経っても戻らず、次に遣わされたが大国主の娘下照姫命と結婚し戻らなかったのが天稚彦。
しかし、どうも神話に出てくる「天稚彦」と七夕伝説に登場する「天稚彦」は違うような気がする。
「天稚彦図屏風」で天の川を挟んで座す、天稚彦と娘。

(了)
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ミッドタウン内の飾り


サントリー美術館前の吹き抜けには、書が垂れていた。

サントリー美術館

今回の展示は「水-神秘のかたち」

私たちは水によって生命を維持しており、欠かせないもの。
一方で、水が多すぎたときに大変な災害ももたらしてきた。
だから、人はずっと水に祈りを捧げて来た。
今回の展示は、そういう祈りのかたちを特集したものです。
展示は次のようにわかれていた。
1.水の力
2.水の神仏
3.水に祈りて
4.水の理想郷
5.水と吉祥
6.水の聖地
この記事では、この全体像を説明しているものではありません。
ここでは、今回の展示の中で感心したもの、珍しい神仏のかたちを知って嬉しかったものなどを、私が勝手に取り上げています。
興味を持たれましたら、2月7日まで開催しているので、ぜひ会場に足を運んでください。
流水文のある銅鐸
弥生時代 大阪府八尾市跡部(あとべ)遺跡出土

「京都八坂神社・祇園社大政所(お旅所)絵図」に書かれた湯立神事
2014年9月に鎌倉御霊神社で行われた、この神事を見ている。

弁才天の出展が多かったが、その中から、
「江島縁起絵巻」から弁才天

弁才天坐像
鎌倉・南北朝時代 金亀山與願寺(江島神社)

弁才天の頭上に坐すが、単体でも信仰の対象とされている「宇賀神」
江戸時代 大阪・本山寺

ちょっと不気味な宇賀神も、木喰上人が彫るとこんな感じに。

住吉神像
鎌倉・南北朝時代 鎌倉・鶴岡八幡宮
住吉大神は、伊邪那岐尊が禊を行った際に生まれた底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称であり、一つの神で表わされることもある。

「水天」の石碑は方々で見るが、図像で見たのは初めて。
水天像
室町時代 滋賀・園城寺

空海は、東寺時代に西寺の守敏との祈雨争いに勝って、空海の名声を不動なものにしたが、その時に使用した「倶利伽羅龍剣」
和歌山・龍光院

善女龍王(ぜんにょりゅうおう)
平安時代 和歌山・金剛峯寺
雨乞いの対象である龍王のうちの一尊だが、先の空海と西寺の守敏との祈雨争いの際に、空海の祈りに応じて出現した。
衣の裾から、龍の尾が見える。

円空が彫った「善女龍王」

高野四社明神像
鎌倉時代 和歌山正智院
○丹生明神(丹生都比売)

○狩場明神(高野御子大神)

丹生都比売と高野御子大神は、空海が高野山を開いた由緒に登場する神である。
弘仁7年(817年)のことだが、弘法大師は白と黒の犬を連れた猟師と出会った。その時、猟師は「この山の向こうに、夜になると不思議な光を放つ山がある。この犬に案内させよう」と教え、二匹の犬を放った。
この猟師は、高野山の地主神で「狩場明神」だった。
大師は、二匹の犬の案内に従って、山に入っていった。すると今度は丹生都比売神(丹生明神)と名乗る女性と出会った。比売が指さす方を見ると、大師が唐から願いを込めて投げた三鈷杵(さんこしょ)が松の枝にかかっていたという。
弘法大師は、三鈷杵のあった場所に金剛峯寺を建てて高野山を開いた。
○気比明神
丹生明神の娘で、高野明神(狩場明神)の妹です。

○厳島明神(弁才天)

三宝荒神とか、荒神の石碑はよく見るが、その図像は初めてだ。
三宝荒神
鎌倉時代 東京国立博物館

子島荒神
室町時代
壷阪山の麓にある子島寺、そして、壷阪寺の中興の祖である真興僧都が感得したと伝えられる荒神

「天稚彦図屏風」で、日本版七夕伝説があることを知った。
今まで知っていた七夕伝説(牽牛と織女)は中国の伝説である。
日本版は、天稚彦という男神と人間の娘の物語。
しかし、「天稚彦」とは日本神話にも登場する。
葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が3年経っても戻らず、次に遣わされたが大国主の娘下照姫命と結婚し戻らなかったのが天稚彦。
しかし、どうも神話に出てくる「天稚彦」と七夕伝説に登場する「天稚彦」は違うような気がする。
「天稚彦図屏風」で天の川を挟んで座す、天稚彦と娘。

(了)
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江戸火消しの木遣り・はしご乗り
20160105
高野御子大神(たかのみこのおおかみ)/日本の神々の話
20160103
既に、「丹生都比売命(にうつひめのみこと)」の記事を載せていますが、丹生都比売命を調べた際にわかった神です。
弘法大師・空海が高野山を開いたときの有名な話に登場する神。
弘仁7年(817年)のことだが、弘法大師は白と黒の犬を連れた猟師と出会った。その時、猟師は「この山の向こうに、夜になると不思議な光を放つ山がある。この犬に案内させよう」と教え、二匹の犬を放った。
この猟師は、高野山の地主神で「狩場明神」だった。

大師は、二匹の犬の案内に従って、山に入っていった。すると今度は丹生都比売神(丹生明神)と名乗る女性と出会った。
比売が指さす方を見ると、大師が唐から願いを込めて投げた三鈷杵(さんこしょ)が松の枝にかかっていたという。
弘法大師は、三鈷杵のあった場所に金剛峯寺を建てて高野山を開いた。
この話は『金剛峯寺建立修行縁起』に書かれている。
このときの「狩場明神」が、高野御子大神の別名だとされています。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」の、丹生都比売神と共に祭神として祀られている。
高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる。しかし、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
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弘法大師・空海が高野山を開いたときの有名な話に登場する神。
弘仁7年(817年)のことだが、弘法大師は白と黒の犬を連れた猟師と出会った。その時、猟師は「この山の向こうに、夜になると不思議な光を放つ山がある。この犬に案内させよう」と教え、二匹の犬を放った。
この猟師は、高野山の地主神で「狩場明神」だった。

大師は、二匹の犬の案内に従って、山に入っていった。すると今度は丹生都比売神(丹生明神)と名乗る女性と出会った。
比売が指さす方を見ると、大師が唐から願いを込めて投げた三鈷杵(さんこしょ)が松の枝にかかっていたという。
弘法大師は、三鈷杵のあった場所に金剛峯寺を建てて高野山を開いた。
この話は『金剛峯寺建立修行縁起』に書かれている。
このときの「狩場明神」が、高野御子大神の別名だとされています。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」の、丹生都比売神と共に祭神として祀られている。
高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる。しかし、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
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今年の干支2016
20160102
昨日の元旦の記事に、年賀状が無いので秩父神社の「お元気三猿」を載せたが、
せっかくだから記憶を頼りに、撮った写真を引っ張り出して、今年の干支・猿の像をまとめて載せておきます。
赤坂山王日枝神社は、神の御使いが猿なので、猿の像があります。
神門に「神猿」が居る。



拝殿前の左右にも神猿が居り、特に左の母猿は人気が高い。



さきたま古墳群のところにある、武蔵國式内社・前玉(さきたま)神社の拝殿には干支の彫刻があり。


富士吉田の北口本宮富士浅間神社の神楽殿に干支の彫刻あり。


柴又帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連しており、猿の像も多い。
参道の石碑のところにいた猿


柴又帝釈天の鐘楼には、日蓮の法難の彫刻がびっしりとされていますが、そこに猿が至る所に登場している。
ここでは三つだけ紹介。




王子稲荷の拝殿にも干支の彫刻があり。


庚申塔には「三猿」がつきものですが、目黒行人坂にある大円寺境内にあった庚申塔は、寛文7年(1667)造立なのに、ほとんど風化せず綺麗な像で吃驚しました。



狭山市の庚申塔は、ほとんどのものがかなり風化していますが、廣瀬富士浅間宮にある庚申塔の三猿がちょっとダイナミックで好きです。


もう一つ狭山市から。
青柳の氷川神社境内の富士塚には猿の像があり。
富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、そのため60年に一度回ってくる庚申の年は御縁年といって盛大に祭典が行われ、多くの信者が登山していたといわれます。
このことによって富士信仰の中に「猿」が登場したことが考えられます。
ちなみに今年は、「丙申(ひのえさる)」です。



絵画からも二つ紹介。
「ぶらさがる猿図」河鍋暁斎

「猿猴摘桃図」伊藤若冲

(了)
せっかくだから記憶を頼りに、撮った写真を引っ張り出して、今年の干支・猿の像をまとめて載せておきます。
赤坂山王日枝神社は、神の御使いが猿なので、猿の像があります。
神門に「神猿」が居る。



拝殿前の左右にも神猿が居り、特に左の母猿は人気が高い。



さきたま古墳群のところにある、武蔵國式内社・前玉(さきたま)神社の拝殿には干支の彫刻があり。


富士吉田の北口本宮富士浅間神社の神楽殿に干支の彫刻あり。


柴又帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連しており、猿の像も多い。
参道の石碑のところにいた猿


柴又帝釈天の鐘楼には、日蓮の法難の彫刻がびっしりとされていますが、そこに猿が至る所に登場している。
ここでは三つだけ紹介。




王子稲荷の拝殿にも干支の彫刻があり。


庚申塔には「三猿」がつきものですが、目黒行人坂にある大円寺境内にあった庚申塔は、寛文7年(1667)造立なのに、ほとんど風化せず綺麗な像で吃驚しました。



狭山市の庚申塔は、ほとんどのものがかなり風化していますが、廣瀬富士浅間宮にある庚申塔の三猿がちょっとダイナミックで好きです。


もう一つ狭山市から。
青柳の氷川神社境内の富士塚には猿の像があり。
富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、そのため60年に一度回ってくる庚申の年は御縁年といって盛大に祭典が行われ、多くの信者が登山していたといわれます。
このことによって富士信仰の中に「猿」が登場したことが考えられます。
ちなみに今年は、「丙申(ひのえさる)」です。



絵画からも二つ紹介。
「ぶらさがる猿図」河鍋暁斎

「猿猴摘桃図」伊藤若冲

(了)
今年もよろしくお願いします
20160101
例年、元旦の挨拶は年賀状をそのまま載せていましたが、昨年母親を亡くしたので年賀状は出していません。
それで今年は干支の「申」で、何か良いものをと探しました。
秩父神社本殿の彫刻「お元気三猿」です。
「よく見・よく聞いて・よく話そう」ということで、今年も仲間と仲良くやっていきたいと思います。

今年も、「歴史三昧」でいきたいと思っています。
スタッフをしている歴史クラブでは、春と秋の定例見学会の企画を頑張って皆さんに楽しんでもらいたい。
同じくスタッフをしている「江戸再発見」のグループ、「伝統民俗芸能」のグループも企画をしっかりやっていきたい。
個人的には「神社巡拝」と「日本の神様の確認」を進めていきたい。
「神社巡拝」では、歴史クラブでは「関八州式内社めぐり」に参加しています。
個人的には「武蔵國式内社めぐり」ですが、論社も全て数えると90社あり、現在ちょうど50社終わったところです。
「全国一之宮めぐり」も機会をできるだけとらえて参拝していきたいと思っています。
昨年は11月に念願の出雲地方を巡拝しました。
今年も、どこかに遠征したいと考えています。
「日本の神様の確認」は、現在566柱となっています。
このブログに「日本の神様の話」をアップしていっていますが、まだ87柱しか記事にしていません。
申し訳ないので、ちょっと頑張ってアップしないといけませんね。
こんな感じで、今年も忙しく過ごすことになりそうですが、よろしくお願いします。
それで今年は干支の「申」で、何か良いものをと探しました。
秩父神社本殿の彫刻「お元気三猿」です。
「よく見・よく聞いて・よく話そう」ということで、今年も仲間と仲良くやっていきたいと思います。

今年も、「歴史三昧」でいきたいと思っています。
スタッフをしている歴史クラブでは、春と秋の定例見学会の企画を頑張って皆さんに楽しんでもらいたい。
同じくスタッフをしている「江戸再発見」のグループ、「伝統民俗芸能」のグループも企画をしっかりやっていきたい。
個人的には「神社巡拝」と「日本の神様の確認」を進めていきたい。
「神社巡拝」では、歴史クラブでは「関八州式内社めぐり」に参加しています。
個人的には「武蔵國式内社めぐり」ですが、論社も全て数えると90社あり、現在ちょうど50社終わったところです。
「全国一之宮めぐり」も機会をできるだけとらえて参拝していきたいと思っています。
昨年は11月に念願の出雲地方を巡拝しました。
今年も、どこかに遠征したいと考えています。
「日本の神様の確認」は、現在566柱となっています。
このブログに「日本の神様の話」をアップしていっていますが、まだ87柱しか記事にしていません。
申し訳ないので、ちょっと頑張ってアップしないといけませんね。
こんな感じで、今年も忙しく過ごすことになりそうですが、よろしくお願いします。