水戸・偕楽園好文亭

20160229

27日(土)に、水戸の偕楽園に観梅に出掛けましたが、その際に偕楽園の中にある「好文亭」を見学しました。

「好文亭」の名前の由来は、晋(しん)の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」といったことから命名されたといわれています。
好文亭は水戸藩第九代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の別墅(べっしょ)であるが、そこは己一人が楽しむ所ではなく、民と 偕(とも)に楽しむ所であった。

二層三階の好文亭と北側の奥御殿からなり、一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます。
昭和20年の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年から3年かけて復元されたものです。好文亭三階の楽寿楼(らくじゅろう)からの千波湖や田鶴鳴梅林の四季折々の眺望は見事です。

好文亭へのアプローチは、右手に鬱蒼と茂った林、左手は瀟洒な緑が鮮やかな寒竹が茂っている。
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「芝前門」から入る。
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凝った樹に囲まれて好文亭はある。
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ここにも「簾の内枝垂(みすのうちしだれ)」という梅があり。
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三階の屋根
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玄関から入ってすぐのところに、今は無い「羽衣の松」の幹が置かれていた。
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奥御殿(おくごてん)に入る。
奥御殿は十室からなっています。奥御殿は昭和44年9月2日の落雷により焼失し、再び昭和47年に復興された。

なお、襖の絵は昭和30年台の建屋復元の際に、当時の東京藝術大学の教官であった須田珙中と田中青坪が描いたもの。

菊の間と桃の間は、いずれも総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された。

○菊の間
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○桃の間
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これは、何という樹だろうか。
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つつじの間、桜の間、萩の間は、藩主婦人来亭の際など、お付きの婦人た ちの詰め所、休憩室として使用された。

○つつじの間
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○萩の間
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○桜の間
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松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間である。
藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔ててある。

○松の間
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○紅葉の間
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竹の間、梅の間、清の間(せいのま)の三室の一棟は、明治二年に水戸市柵町にあった中御殿の一部材料を運び奥殿に増築したもの。
斉昭公夫人の貞芳院が明治2年から6年まで「梅の間」を中心に住まわれた。(その後は東京に移られた。)
自来この梅の間は、亭中最貴の室とされている。

○梅の間
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この梅の間を謳った北原白秋の短歌が、飾られていた。
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屋根は柿葺(こけらぶき)である。

○竹の間
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梅の間、竹の間などの奥御殿濡れ縁からの眺め
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太鼓廊下の左側に篠で作った格子窓があり、これは外からは窓であることが判らないように工夫されているそうです。
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東塗縁広間は、列公が藩内の家臣、庶民の老人を招いて慰労の催しをされた総板縁の室。
養老の催しは、諸士は80歳以上、庶民は90歳以上の者を招いた。
藩主が来亭して、この室にいるときは、何かと用務もなさっていた。部屋には床の間を設けず、竹の柱だけを下げ、極めて簡素に作られており、竹のアジロ網の中に紗を張った網代戸をとおして左右の間が見えるようにしてある。
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広間の天井は杉板のアジロ張り。
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茶室に至る長押(なげし)に、烈公の歌が彫れらた円形の板額がかけられている。
「世をすてて 山に入る人 山にても なほう(憂)きときは ここに来てまし」
意味: (山に入っても、なお落ち着かなかったら、静かなここ好文亭にお出で下され)

暗かったので、見事にブレてしまった(汗)
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ここから、急な階段を上がって三階に。
三階を特に「楽寿楼(らくじゅろう)」と呼んでいる。

三階に上がってすぐに目に着いたのが配膳用のエレベータ。 いざというときには緊急避難路にもなるらしい。この配膳用エレベータは烈公(徳川斉昭公)の創意によるものと伝えられている。
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この八畳間の正室からの眺めは格別である。
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床柱は、島津藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)から贈られたサツマ竹が用いられた。
このサツマ竹床柱の節は、漢字「武士」の画数にちなんで11個ある。
床の間左側には、烈公が陣太鼓を作ったときの余材を利用して作った漆塗り丸窓の富士見窓を有する。その陣太鼓は常磐神社境内の義烈館に陳列されている。
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一階に降りたときに、例の配膳用のエレベータがあった。
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武士のたしなみ、木賊。
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玄関から出て、待合のほうに行ってみる。

露地門があり。
七曲がり坂を登ったところにあり、現在は解放されていない門であるが、昔はこの露地門をくぐり待合に入った。
日常世界と茶の湯の庭との界に置かれる門である。
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待合(まちあい)
茶室何陋庵(かろうあん)の露地の西側にある。
茶室に招かれた客が、席の準備ができるまで控え待つ場所。
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茶室何陋庵(かろうあん)の露地
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これで、好文亭の見学を終え、再び観梅を楽しみ、続いて茨城県立歴史館に向かった。

(了)


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水戸・偕楽園の梅

20160228

昨日、27日(土)に観梅に出掛けました。
関越高速、外環、常磐高速を走り、水戸インターで降りて偕楽園のところまでは順調に行ったのですが、駐車場が混みあっていて大変だった。
あちこちにあるのでウロウロして結局5ケ所目にやっと停められました。
場所は千波湖の近く。まだ11時だったのですが、そこの近くのレストランで早目の昼食を食べました。

千波湖のほとりに「水戸光圀公」の銅像があった。
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そこからちょっと行くと、今度は「水戸斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)」銅像があり。
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道路と線路を渡る歩道橋の上から、偕楽園の中の好文亭が見えた。
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東門から偕楽園に入る直前、「大日本史完成之地」の碑あり。
水戸藩第二代藩主・徳川光圀公が編纂に着手してから、実に250年を経て明治39年にこの地で397巻の完成をみた。
偉業の碑にしては、ひっそりと佇んでいた。
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東門から中に入ります。
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偕楽園の梅は、早咲き、中咲き、遅咲きの種類が混在しているので、長い期間楽しめるが、満開の花盛りという眺めは無いですね。

これから、色々な銘柄の梅をアップしていきますが、「水戸の六名木」というのがあって、「烈公梅」、「白難波」、「月影」、「江南所無」、「柳川枝垂」、「虎の尾」だそうです。

今回は、「虎の尾」と「月影」が咲いていました。

「虎の尾」
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「月影」
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撮った順に、どんどんアップしていきます。

「思いのまま」
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「一重寒紅」
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「水心鏡」
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「雛曇り」
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「養老」
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「一名匠」碑
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「道知辺(みちしるべ)」
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「遺徳之碑」
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ここで、好文亭の前に来たので、中を拝観した。
別記事にて紹介します。
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好文亭の玄関前にも、綺麗な枝垂れ梅あり。

「簾の内(みすのうち」枝垂」
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好文亭から出て、再び観梅を続ける。

「銘不明」
幹がすごかった。
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梅の枝のアーチ
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「大盃」
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「銘不明」
梅は、200年を過ぎると幹がねじれると云います。
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「琳子梅(りんしばい)」
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「藤牡丹枝垂」
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横の孟宗竹もきれいだった。
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「緋の司」
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好文亭表門から出て、隣の「茨城県立歴史館」に行きました。
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茨城県立歴史館のチラシを半月くらい前に手に入れて、「茨城の宝」展をやっており、鹿島神宮の神宝など普段なかなか見られないものが出ているのがわかっていたので、行きました。
内容は別記事でお知らせします。

それを見終わって満足して、また偕楽園を突っ切って駐車場に戻るときには、もう陽が下になっていて、逆光で紅白梅が綺麗だった。
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(了)


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/水野村・南入曽村

20160225

2月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

今回の説明は、横山さんと和光さん。

まず明治末期の入間村(北入曽、南入曽、水野)付近の地図に色付けして、当時の道路と川を判りやすくしたものを載せておきます。
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これは北入曽・南入曽・水野の関係が分かる現在の地図。
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水野村の新編武蔵風土記稿記事
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南入曽村の新編武蔵風土記稿記事
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入間地区は、広大な武蔵野台地の中央部に位置し、6000万年前に、青梅から流れ出た「古多摩川」が形成した、扇状地と言われる。この古多摩川は地殻変動によって流れを南方に変え、現在は東京都内を東に向かって流れている。地形は、中央部が東西に長い帯状の低地をなし、七曲の井戸付近は海抜72m、幅は約1,500mである。この帯状低地の北寄りを不老川(としとらずがわ)が西から東へ向かって流れているが、これは古多摩川の名残り川である。
北入曽・南入曽・水野の集落は何れもこの帯状低地内にある。地質を見ると、地表の一番上部はうすい黒色土、その下が厚さ約1mの赤色をした立川ローム層である。このローム層は火山灰の堆積したもので、乾燥すると風によって舞い上がる特徴がある。このローム層の下は厚い砂礫層で、古多摩川の河床であったことを裏付けている。なお砂礫層の厚さは、南小学校で20mを測定している。このローム層と砂礫層は水を通し易い。入間地区に水田が無いこと、不老川が雨の少ない冬に水枯れ現象を起こすのも、この地質の為である。

この水平な台地は武蔵野台地の中でも高燥で、小名で、堀兼井と言われるほどの乏水地域にあり、この上を南北に所沢道(入間路・鎌倉街道)が、東西には幾通りもの、新河岸街道が走り、それに沿うように不老川が流れ、道は中心地で交わり、この交通の要所を中心に道沿いに人々の生活が営まれ、神社・寺院が配置され人々の生活の歴史が造られてきた。

この日は、入曽駅前に集合、まずは南入曽村と水野村の境道を行く。水野村は東西に長く、全域は無理なので、この日は入曽駅から東の部分のみとした。
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【水野村の誕生】
寛文5年(1665)、川越城主松平輝網(信綱の子)が鹿狩りに出かけた。その時、野先案内人を勤めたのが堀金村の名主牛久保金左衛門であった。
堀金の浅間神社で休息した輝網公は、西南に展開する原野を見て新田取立ての旨仰せ付けられた。金左衛門は堀金村の名主を娘婿に譲り、当時20歳の嫡子牛右衛門忠元と水野の新田開発にあたった。南入曽村など近隣村の二男や三男たちと共に原野を切り開いた。
名付け親は郡奉行安松金石衛門で、藤原俊成の古歌『むさし野に堀兼の井もあるものを嬉しく水の近付けにけり』より、水野村と命名し、翌寛文6年(1666)正式に川越藩領水野村が誕生した。

水野村のあらまし:
開発から3年間は年貢が免除されていたが、4年目の寛文9年(1669)には年貢を納めるようになり、天和2年(1682)326石、貞享5年(1688)428石、元禄5年(1692)の水野村明細帳には戸数81軒、人口431人内男222名女209名、馬39頭、竪堀井戸10ケ所、206町9反6畝14歩、石高は679石と10年間で2倍になっている。
地割は、間口20間(36m)奥行き250~300間(450~540m)ぐらいに区切られ、北端が屋敷、それに続く南に長い畑、南端が雑木林、また屋敷の裏には竹を植えた。

【元浅間神社跡・水野の庚申塔】
元浅間神社跡碑と庚申塔が並んで立つ。
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浅間社は、創建は不明だが、新村成立の早い時期に水野村の鎮守様として村の中央に祀られた。名主の牛久保家が堀金村から移り住んだ事と関連があると思われる。明治40年(1907)入間野神社へ合祀され、『元村社浅間神社乃跡』と刻まれた石碑がある。
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庚申塔は、天明2年造立、一面六臂の青面金剛像・塔身に二童子・二邪鬼・二鶏、台座に三猿像
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【高札場】
風土記に「村の東よりにあり」と記されている高札場は、当時の道の交差から判断して、「月見野交差点」ではないかと推定される。
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当時の道を偲ばせる道あり。
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【新田開発】
先に川越城主松平輝網の命によって新田開発が行われたことは説明したが、其の地割はこのようなものだった。
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それがそのまま残っているところ。
この道を挟んで両側36mが地割り。
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今でも、地割りの中にお墓がある。
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ここは、古多摩川の河原だった場所なので、出てくる石は皆丸い。
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一軒の家の地割りを住宅地に開発したので、このように帯状に宅地が並んでいるところがあった。
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豪農だということを偲ばせる家が多い。
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【牛窪家本家】
牛久保金左衛門から続く新田開発を主導した、現牛窪家は健在です。
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【水野新田開発由来看板】
消防署の前に立つ。
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【八幡社】
開拓の責任者で名主の牛久保忠元が自分の敷地内に寛文6年(1666)8月石造の八幡宮を建立した。小高い八幡宮からは正面に富士山と水野村が一望できる。
貞享元年(1684)北入曽村ほか5ケ村から秣場が狭まるとの訴訟が出されたが、「八幡社が祀ってあるのは村として成り立っている」として、訴状は避けられた。

ということで、水野の人にとっては大恩ある八幡様なのだが、行ってみたら大変な藪の中であった。
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参道の石段も埋もれていたが、天明2年(1782)の石柱が確認できた。
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八幡社
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八幡宮の石碑
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変電所の間を行く。
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【牛窪家墓所】
牛久保家屋敷裏の畑の一画に、初代金左衛門から9代忠助までの笠付角柱型墓石が並んでいる。
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初代寛忠の墓
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二代忠元
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四代寛伴(水野姓を賜る)
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奇特者忠助:
牛久保家4代忠助寛伴のこと。日頃から村民を教輸して農業に心を用いた功より、天明2年(1782)川越城主松平大和守より黄金若干と苗字帯刀を許され水野の性を名乗った。また牛久保家墓地にある墓石の裏面には『筆子門弟200余人』とあり、歴代名主の中でも傑出した人物と思われる。

【不老川(としとらずがわ)】
不老川・水無川、色々な名で呼ばれるが、この川沿いに村は成立した。
冬季には枯渇する、水の乏しい川なので、こう呼ばれた。

小川(こかわ)との合流点に出た。
小川については後述。
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しばらく不老川沿いに歩く。
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御嶽信仰のしるしあり。
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【山王様】
不老川にかけられた山王橋を渡った右手に山王様を祀った社があり、由来碑が建てられ、又天明3年当時の名主小野田四郎右衛門が村人や水野村の人達のために発願してかけた石橋の橋桁が置かれている。山王様は寛文11年入曽村の有志が村の息災を顛って勧請したもので、神徳は山王塚と言う地名を生み更に山王橋と言う橋の名を産んだ。昭和51年に至り小中学校の校名に山王が冠せられた。
昭和30年頃山王橋の架け替え時、天明3年小野田四郎右衛門の文字の彫られた桁が外され露座の状態に置かれていた。昭和の終わり頃から大型車も通れる改修が行われると同時に右岸にあった山王様の移転要請が出され。関係者の努力で、平成2年5月現在地への遷座と新山王橋が出来た。
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ここでは、山王信仰と庚申信仰が習合したかたちになっている。
山王さま(大山祇神)が靑面金剛のかたちをとり、山王様のお使いは猿なので、三猿も違和感はない。
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小野田四郎右衛門の文字の彫られた桁が、お堂の後ろに置かれている。
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小川(こかわ)の流れが民家の間に確認できる。
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「山王塚市民緑地」として、貴重な雑木林が保存されている。
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【下水野の地裁尊(化け地蔵)】
この地蔵菩薩は浮き彫りの立像で、連立された貞享2年(1685)は水野村が新田として開発されてから20年目にあたります。両面には同村の開発に直接携わったと思われる48人の名前が刻まれています。
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このお地蔵は願掛けの時に縄を縛り、願いがかなったらほどいてやると言う、庶民の素朴な信仰のかたちがあると云われているが、現在では願掛けをする人が居ないようで、あまり縄がかかっているのを見なくなった。
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【入曽用水跡(小川 こかわ)】
入曽用水は狭山丘陵から流れ出る水を集めた、林川が北入曽で不老川と合流しますが、その手 前から分水して南入曽へと流され、かっては南入曽村の人々にとってはかけがえのない生活用 水でした。当時の人達は親しみをもって、入曽用水を「小川」、不老川を「大川」と呼んでいたようです。この用水がいつ頃、開削されたのかは不明ですが、天正6年に筑前守が出した触書によると、「用水の堀を崩した者は厳罰に処す」と記されているので、16世紀後半には存在したと思われる。寛文6年に開発された水野新田は、開発当時井戸は10ケ所しかなく、生活用水を賄うのには困難が伴いました。そこで水野村は延宝2年、南入曽村に入曽用水の分水を願い出たのですが、しかし、大変貴重な水を分けることは南入曽村にとっても死活問題でした。
そんな事情により、水野村への分水が許可されたのは、24年後の元禄12年でした。
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残っている「こかわ」を探しました。
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【金剛院内造立石造物】
多摩郡成木村安楽寺 (現青梅市成木)の末で、維新以前は御嶽神社(現入間野神社)の別当寺でありました。創立年代は不詳でありますが、天文2年(1533年)深悦沙門が中興し、慶安2年(1649年)十石の朱印状を付せられました。
天保4年及び明治38年11月に火災にあい、四脚門と土蔵を残して全焼しましたが、翌年仮本堂を建て、昭和32年大改装を行いました。境内には薬師堂・地蔵堂があり廃堂としましたが、これらの堂は院よりも古いといわれています。
寺宝の木造地蔵菩薩立像は、市指定文化財です。

*光明真言読誦供養塔
裏側から来たので、すぐに浮き彫りの大日如来を主尊とする石塔が目に入る。文久2年(1862)に建てられたもの。正面上部に光明真言を円形に配置し、その下に大日如来を配している。
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*四脚門
正面に回り、四脚門から入る。
安永10年(1781)建立。当院で最も古い建物。
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*本堂
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*庚申塔
この庚申塔は、浮き彫りの青面金剛を主尊として天明2年(1782)に金剛院2世法印寛慶の指導のもと、南入曽村の人々と名主の小野田四郎右衛門により国家の安穏、五穀豊穣、万民の安楽を願って建てられた。
主尊が一面四臂、二邪鬼、左右に童子、台座に三猿でなく四夜叉を従え、陀羅尼集経の中の「靑面金剛呪法」に比較的忠実に造立されている。
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以上で、この日の予定を終了。
入曽駅近くのレストランで昼食を食べながら、参加者懇談。
解散となりました。


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筑土八幡神社

20160217

鎮座地:東京都新宿区筑土八幡町2-1
参拝日:2016年2月6日

この日は、午後によみうりホールで「奈良学文化講座」があり、それではと午前中は面白い庚申塔がある二か所に寄ることにしました。鎧神社に続いてここに参拝しました。

JR飯田橋駅から歩いて5分くらいです。
細長くて上る参道が延びている。
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社号標
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当神社は嵯峨天皇の時代(809年 - 823年)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれている。
その後、円仁(慈覚大師)が東国へ来た際に、神像を彫刻して祀った。その時、筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけたという。
その後、文明年間(1469年 - 1487年)に当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。
上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。

社伝では「筑土」の名の由来は「筑紫」「宮土」であるとされているが、当社の西隣にあった築土明神に由来する可能性もある。
築土明神は、もとは現在の大手町にあたりの津久戸に創祀され津久戸明神と称されていたが、田安へ遷座して田安明神、さらに、当社筑土八幡神社の横に遷座した。
この「津久戸」が「筑土」と書かれたのかもしれない。
現在、西隣にあった津久戸明神は、九段北に築土神社として遷座されている。

『江戸名所図会』に津久戸明神と筑土八幡神社が並んで書かれている。
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さらに、津久戸明神は平将門の首を祀り、最初は血首明神と称されていたが、「津久戸」へ変化したとも云われ、「平将門魔法陣」なるものに両神社とも入れられているそうだ。

石段の上がりはじめに、石柱が二本に横木を渡している。鳥居の原型とも云われる柱に注連縄を渡したものがあるが、それともちょっと違った形だ。
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石段の途中に、石造鳥居あり。
新宿区登録有形文化財(建造物)で、新宿区内最古の鳥居。
享保11年(1726年)、当時常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納された。総高は375cmである。
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石段を上がりきると08境内だが、やはり細長い。
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手水舎
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拝殿
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拝殿前に、文化7年(1810)奉納の狛犬あり。
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拝殿にて参拝。
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本殿
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ご祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇

神紋は「右三つ巴」
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社殿の前に紅白梅があり。

白梅はわりとほころんでいた。
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紅梅は、まだまだ固い蕾。
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境内社は「宮比神社」があります。
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御祭神は、宮比神で大宮売命(おおみやのめのみこと)・天細女命(あめのうずめのみこと)ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったものを、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。平成十四年飯田橋自治会の人々が浄財を集めて再建したものである。

神輿庫
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境内社・宮比神社の前にご神木の銀杏があり、その下にお目当ての庚申塔がある。
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庚申塔は、新宿区指定有形民俗文化財。
寛文4年(1664年)造立、太陽と月・桃の木・二匹の猿をあしらった舟型の石造庚申塔。
三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が、きわめて珍しい。
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「田村虎蔵の顕彰碑」がありました。
-唱歌『金太郎』『浦島太郎』などを手がけた作曲家です。
当神社の裏手に住んでいたそうです。
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これで午前の予定を終え、飯田橋駅近くで昼食。
有楽町に移動し、「奈良学講座」を13:30から受講しました。


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鎧神社

20160215

鎮座地:東京都新宿区北新宿3-16-18
参拝日:2016年2月6日

この日は、午後によみうりホールで「奈良学文化講座」があり、それではと午前中は面白い庚申塔がある二か所に寄ることにしました。
最初が、ここ鎧神社です。
場所は、山手線新大久保駅から歩いて7、8分でした。JR中央線大久保駅の方が数分近いです。

社号標
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鳥居
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由緒等の説明があり。
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社務所でいただいたパンフレットの説明を載せておきます。
当社の創建は、約千百年前に遡ります。醍醐天皇の時代(八九八~九二九)、理源大師の徒弟である筑波の貞崇僧都、行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建されました。その際、寺の鬼門鎮護のため当社が創建されたと伝えられています。
伝説によると、天皇の命によって東国の平定に向かった日本武命が、当地に甲冑六具を藏めた(しまいかくした)ことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。
当社は江戸時代まで鎧大明神と称していました。江戸名所図会には、「相伝ふ、藤原秀郷将門を誅殺し凱旋の後、将門の鎧をこの地に埋蔵し、上に禿倉を建てて鎧明神と称すというふ。社前に兜松と称する古松あり。これも兜を埋めたる印と云ふ。」と記されています。
天慶三年(九四〇)関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(九四七)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。
また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、嗣を建ててその霊を弔ったところ、病気がたちまち治ったとも言われます。それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけてきたと伝えています。

江戸名所図会
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鎧神社の鳥居に並んで、摂社の天神社があり、そこにお目当ての「狛犬型庚申塔」があるので、そちらに先に参拝。
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狛犬型庚申塔は、とても珍しい。狛犬としても古い形式のもの。
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社殿の左右に畏まっている。
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向かって右側の「阿形(雄)」
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台石に「庚申奉造立供養」とある。
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向かって左側の「吽形(雌)」
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続いて、鎧神社に参拝します。

手水舎
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拝殿前の、昭和11年奉納の狛犬。
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拝殿
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社額
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本殿
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ご祭神は、日本武命、大己貴命、少彦名命、平将門公

神紋は「右三つ巴」
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神楽殿
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境内末社
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社は二つですが、三社が合祀されている。
稲荷神社・三峰神社・子の権現
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神輿庫
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裏口のところに、江戸時代の狛犬があり。
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天保7年(1836)奉納の狛犬
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これで、ここの参拝を終り続いて飯田橋駅近くの「筑土八幡」に向かった。


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阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)/日本の神々の話

20160213

この神には、日光二荒山神社、東京都あきる野市五日市の阿伎留神社、吉見町の高負比古根神社で参拝しました。

『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。
別名、迦毛大御神(かものおおみかみ)。

『出雲国風土記』に登場する阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ)を同神とする説もあるが、両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。

大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。
農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)、鴨神社(岡山県玉野市長尾)などに祀られている。
別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。

『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。
神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。

『古事記』では、葦原中国平定において登場する。
天照大御神から葦原中国平定を二番目に命じられた天若日子が、大国主神の娘下照比賣と結婚してしまい復命しない。そして高木神の返し矢で天若日子は死んでしまう。
それに続く話である。
(現代語訳)
  さて天若日子の妻の下照比賣の泣く声が、風の吹くにつれて響いて天上に届いた。そこで天上にいる天若日子の父の天津国玉神神や、その妻子がこれを聞いて、降って来て泣き悲しみ、やがてそこに喪屋を作り、川雁を食物を運ぶ係とし、鷺を掃除係の箒持とし、翡翠を御饌の係とし、雀を米つき女とし、雉を泣き女とし、このように葬儀の役目を決定して、八日八夜の間歌舞して死者を弔った。
そのとき、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子の喪を弔問するとき、天上から降って来た天若日子の父、またその妻がみな泣いて、「わが子は死なずに生きていたのだ。わが夫は死なずに生きておられたのだ」と言って、手足に取りすがって泣き悲しんだ。
このように阿遅志貴高日子根神を、天若日子と間違えたわけは、この二柱の神の顔や姿がたいへんよく似ていたから、それで間違えたのである。そこで阿遅志貴高日子根神はひどく怒って言うには、「わたしは親しい友だちだから、弔問にやって釆たのだ。なんだってわたしを汚らわしい死人に見立てるのか」と言って、身につけておられた十拳剣を抜いて、その喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。これが美濃国の藍見河の川上にある喪山という山である。そのとき手にして喪屋を切った大刀の名は大量(おおはかり)といい、またの名は神度剣(かむどのつるぎ)という。そして、阿遅志貴高日子根神が怒って飛び去ったとき、その同母妹の高比売命は、兄神の御名を明かそうと思った。そして歌った歌は、

 天上にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つを越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根神である。

と歌った。この歌は夷振(ひなぶり)の歌曲の歌である。


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禅龍寺で豆まき体験

20160212

2月3日(水)に、歴史クラブ行事で豆まきを体験しました。
このお寺では、希望者は豆まきが出来るということで、企画したものです。

まずは禅龍寺についておさらい。
【禅龍寺】
所在地:狭山市広瀬2丁目20-1
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当寺は万寿山禅龍寺といい、入間市金子にある瑞泉院の末寺ですが、現在では本寺・末寺の関係はほとんど無いようです。宗派は曹洞宗で、本尊は木造の千手観音坐像で、像高27cm、台座高33cm、全高76cmです。
当寺の由緒は、太平洋戦争中に供出した享保年間(1716~36)に鋳造された梵鐘(ぽんしょう)の銘文に、「玉岫璘公尼(ぎょくしゆうりんこうに)が明応年間(1492~1501)に開山し、瑞泉院5世の華厳文説(けごんぶんせつ)が天正元年(1573)に、宗派を臨済宗から曹洞宗に改め中興開山した」と刻まれていました。
一方では万寿(まんじゆ)年間(1024~28)に創建されたので、山号を「万寿山」と称したとも伝えられています。
「新編武蔵風土記稿」には、当初は尼寺であったと伝えられ、鎌倉時代に当寺が全盛であった頃は千石を領する大寺であったと記載されています。

豆まきの会場となる三仏堂に安置されている「木造千手観世音菩薩坐像」は狭山市指定文化財です。

【木造千手観世音菩薩坐像】
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三仏堂内に安置されているのが昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・彫刻として指定された木造千手観音菩薩坐像で、かつての本尊といわれています。像高は64.4cm、寄木造りで頭上に10の尊顔と阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を戴き、合掌印を結んだ2本の手を除き40本の手を持ち、光背は舟形の透かし彫りで、瑞雲の中に11面の円鏡が配置されています。
40本の手はそれぞれが25の世界を表し、「40×25」で千手と説明され、台座は華盤(けばん)が大きく反る堂々たるもので、精巧に造られた蓮華座(れんげざ)の蓮弁(れんべん)も1枚ずつ丁寧に彫刻されています。製作年代は不詳ですが16~17世紀初頭に造られたものではないかと推察されています。
この仏像は寛延4年(1751)3月に亡くなった当寺の第5世玉鳳冨泉大和尚の時代に、当地の野島家と片岡家の祖先が、鎌倉の東慶寺から担いで持ち帰ったとの伝承が残っています。
この三仏堂内には、他に木造の不動明王坐像と二童子像および僧形の木造川崎大師坐像が安置されています。


【節分の豆まきについて】
○飾分の由来
「節分」とは、本来「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節目を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日に1年で4回ありましたが日本では立春は1年の始まりとして特に尊ばれていて次第に節分と言えば春の節分のみを指すようになっていった。立春(毎年2月4日ごろ)の前日は2月3日となる。
室町時代以降は豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し民間にも定着していった。「神社では節分祭」、「寺院では節分会」の呼称が一般的である。

○豆まきの由来
「節分」には豆をまきますが、これは中国の習俗が伝わったものとされている。
豆は「魔滅(まめ)」に通じ無病息災を祈る意味があります。昔、京都の鞍馬に鬼が出た時、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけたところ鬼を退治できたという話が残っており、「魔の目(魔目(まめ))に豆を投げ付けて「魔を滅する(魔滅=まめ)」に通じるということです。
豆まきは一般的に一家の主人あるいは「年男」が豆をまくものとされているが、家庭によっては家族全員で・・・というところも多い。
家族は自分の数え年の数だけ豆を食べると病気にならず健康でいられると言われています。
ただ、豆まきに使う豆は妙った豆でなくてはならない。なぜなら生の豆を使うと、拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪いからです。
「妙る」は「射る」にも通じ、また、鬼や大豆は陰陽五行説(「木」「火」「土」「金」「水」の五行)の「金」にあたり、この「金」の作用を滅すると言われる「火」で大豆を妙ることで、鬼を封じ込めると言う意味があります。
そして最後は豆を人間が食べてしまうことにより鬼を退治したということになるそうです。
妙り豆の代わりに落花生をまき寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もある。「落花生は大豆より拾いやすく地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆まきとなったとのことです。

希望者が多くて三回に分けて実施するということで、歴史クラブの皆は二回目に参加することになりました。
そろそろ時間だということで、裃をつけます。
慣れないこと故、大騒ぎ(笑)
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着付けが終わって本堂の前に集合。
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廣瀬囃子が景気よく響きます。
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会場の三仏堂に入ります。
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参加者の無事を願って、護摩が焚かれます。
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いよいよ豆まき。
たくさんの人が拾いに来ています。
子供が押し寄せるので、播くというより、親切に手渡ししている人が多い(笑)
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最後にお坊さんが出てきて、豆をまいて終了。
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参加者の皆さんは、「福をあげる」ということで、とても気持ち良い体験をしたと、上機嫌でした。
このあと、皆で近くのファミレスで楽しく懇親会を楽しみました。

(了)


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莫越山(なこしやま)神社(延喜式内論社)/千葉県南房総市

20160211

鎮座地: 〒299-2526 千葉県南房総市宮下27
参拝日:2016年1月29日

歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、洲崎神社、安房神社、下立松原神社、天神社、高家神社に続き、この日最後の参拝地となります。

社号標
安房国式内社朝夷郡4座のうち「莫越山神社」 小社、 旧郷社
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なお、南房総市沓見253にも同じく「莫越山神社」があり、論社となります。

神社本庁『平成祭りデータ』による由緒書き:
当社は、天正天皇養老二年(セー八)、勅願所にかかり地を賜る。
神武天皇辛酉元年、天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請によりその祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延書式に載する安房六座中小四座の一なり。
『古語拾遺』に曰く、天照大神、高御産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率いて、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。さらに神武天皇が大和、内を平定して、橿原を都と定めた時、天富命が手 置帆負命、彦狭知命二神の裔の一族を率い、紀伊国名草郡御木、あらか郡より斎斧斎鋤を以て始めて山の材を伐りて宮城の正殿を造り、これがわが国建築のはじめとされる。更に神武天皇の命により四国の阿波に赴き麻殻を殖培し、のち天富命は更に肥沃な土地を求め、阿波忌部氏を率いて舟で東方に向かい今の房総半島に上陸し、水利と渡度、狐座、御木の三官有林を中心とした豊かな山林に恵まれたこの地を開拓し故国の地名より安房と称し定住し、それまで土着の民の祀っていた神体山の渡度山(莫越の山)に祖神を祀り、また付近に莫越山神社を中心として、古墳時代後期には神祭が盛んに行われていたことを物語る東畑遺跡、石神畑遺跡、六角堂遺跡などが発掘されている。

社殿は、はじめ遥拝所として造られ、後世、里宮が建てられるまで山そのものを御神体として拝祀し、万寿二年に再建され、さらに治承年中修造、天正七年、社殿修造莫越山神社と奥の院、渡度神社修造の棟札もみられ、寛文九年再造、元禄十六年、大地震により社殿倒壊を受け、賓永四年、時の領主酒井氏再建のち関東大震災により社殿倒壊をうけ、氏子はもとより遠く県外よりも多くの浄財がよせられ、昭和二年、現社殿が再建された。

鳥居(神明型)
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参道に二組の石灯篭があり。

まずは、弘化2年(1845)松平下総守奉納の石灯篭
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中台四面には、麒麟・鳳凰、竿には龍、格挟間の四面には唐獅子が浮彫りされて、精巧な彫刻が施されています。
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二組目は、大正10年(1921)奉納の石灯篭。
どういう訳か、右の一基だけが蔦で覆われている。
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莫越山神社所蔵の文化財の説明あり。
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手水舎
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鳥居(明神型)
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文政10年(1827)奉納の狛犬
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拝殿
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拝殿向拝部
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社額
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拝殿内部
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拝殿内の社額
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本殿
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ご祭神は、手置帆負命、彦狹知命
配祀は、小民命(こたみのみこと)と御道命(おみちのみこと)

神紋は「五七の桐」
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境内社・八幡神社
莫越山神社の鬼門除けとして建立された。
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境内社の八雲神社・山神社
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本殿背後のご神木
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永代護摩壇寄進碑
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これで、この日予定していた安房国式内社6社を回り、帰途につきました。



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高家(たかべ)神社(延喜式内社)/千葉県南房総市千倉町

20160208

鎮座地:千葉県南房総市千倉町南朝夷164
参拝日:2016年1月29日

歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、洲崎神社、安房神社、下立松原神社、天神社に続きこのお宮に参拝しました。

社号標
安房国式内社朝夷郡4座のうち「高家神社」 小社、 旧郷社
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「料理の祖神」を祀る神社として料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬される。
由緒:
創建は不詳。高家神社の由緒書では、磐鹿六雁命(尊称:高倍神)の子孫の高橋氏の一部の者が、祖神に縁のある安房国に移り住み氏神として祖神を祀ったのではないかとしている。
・延書式神名帳に「安房國朝夷郡高家神社」と記載されているが、後に衰退・廃絶したものと見られ、長らく所在は不明となっていた。
・現在の高家神社の起源は江戸時代の初頭である。
 元和6年(1620)、高木吉右衛門が桜の木の下から木像と2面の鏡を発見し、それを神体として「神明社」として神社を創建した。
その約200年後、この鏡に「御食津神、磐鹿六雁命」と書かれていることがわかり、これは所在が不明であった高家神社の神体であろうということで、文政2年(1819)、京都の吉田御所に届け出て証を願い出て、神明社から高家神社に改称した。
・銚子市のヒゲタ醤油工場内に醤油醸造の守護神として当社の分霊が勧請されている。勧請したのは、後に『醤油沿革史』を著する同社社長(当時)・田中直太郎(金兆子)である。田中直太郎や『日本料理法大全』の石井治兵衛、日本料埋研究会の三宅孤軒らの紹介により、高家神社の名が日本全国に知られる。

「料理の祖神」を祀る神社を謳う社名板
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鳥居(神明型)
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傍らの紅梅が咲き始めている参道
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参道わきの、この絵は磐鹿六雁命だろう。
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左右の石灯篭に狛犬が居る。
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拝殿に上がる石段の途中に「三宅孤軒(みやけ こけん)の碑があり。
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日本料理研究会創立者であり初代会長でもある三宅孤軒は『全国同盟料理新聞』に関わり、食に対して深い造詣と情熱を持ったジャーナリスト。当時の日本料理界は調理師会を単位とする同門の結束が強く技術の伝承はその中だけで行われていたため、この状況が続ければ『日本料理の伝統が衰退する』との危機感を持ち、日本料理界全体の技術の向上と伝統の継承を目指す機関の必要性を業界の各分野に説き、調理師会幹部有志および料理店経営者などの協力を得て「日本料理研究会」を1930年に設立。設立当初より各界の専門家による「料理展示会」や「料理講習会」、「栄養学」、「伝統文化」といった講習会を積極的に展開。機関誌『日本料理』の刊行により、業界内の情報の発信源としての役割を担う。

手水舎
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拝殿・鞘殿(萱葺八幡造)
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社額
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拝殿内
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本殿(銅板葺神明造)
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主祭神は、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)・天照皇大神・稲荷大神

「日本書紀」の第十二代景行天皇五三年冬十月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されているが、延暦八年(789)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文(たかはしうじぶみ)」にさらに詳細に記述されている。
 景行天皇が皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所、堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膳にして差し上げたところ、天皇は大いに賞昧され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおとものぺ)を賜った。
 この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳の職を継ぎ、もし世継ぎの無いときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るように賜った。
 また、大いなる瓶(かめ=ベ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味料の神として祀られている。醤には、野菜を発酵させた草醤(くさびしお)、穀物を発酵させた穀醤(こくびしお)、魚などを発酵させた肉醤(にくびしお)があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁である。

神紋は「右三つ巴」
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本殿の脇と、本殿の横に社があるが、境内社についてはまったく情報が無い。
もしかしたら天照皇大神と稲荷大神の社か。
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神輿殿
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包丁塚が二つあり。

社殿右の包丁塚
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社殿左の包丁塚
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あらためて、拝殿内の奉納額を拝見。

ヒゲタ醤油(株)の奉納額
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天岩戸の場面
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庖丁儀式の写真
毎年10月、11月に行われる包丁式には包丁と箸を使い、手を触れずに鯛、鯉、鮭など大きな魚をさばく。
古式ゆかしいその包丁さばきは、日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式である。
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庖丁儀式の絵
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千葉県市原市滝口生まれの詩人近藤文子氏の詩
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「包刀道」と銘された奉納額
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よくわからないが、庖丁道をイメージ化したものみたいだ。
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境内にあった、咲ほころびかけていた梅を載せておく。

白梅
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紅梅
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下立松原神社(延喜式内論社)&天神社(あまのかみのやしろ)(延喜式内社)/千葉県南房総市白浜町

20160202

鎮座地:千葉県南房総市白浜町滝口1728
参拝日:2016年1月29日

歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、洲崎神社、安房神社に続きこのお宮に参拝しました。

参道の石段上り口の左手に「滝口の井戸」と呼ばれる涌き水があり。
正月15日に行う筒粥{つつがゆ}神事の供え粥の白米を清めた神水である。今は生活用水として利用されているが、右奥からの清冽な湧水は昔から地域の人々に崇められているそうです。
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うっかりして、社号標の確認を忘れました(汗)
安房国式内社朝夷郡4座のうち「下立松原神社」、旧村社
「式内社 安房國朝夷郡 天神社」を合祀している。

下立松原(しもたてまつぱら)神社は、千葉県南房総市にある神社である。
同名社が白浜町と千倉町に2社ある。いずれも式内社 「安房国朝夷部下立松原神社」の後裔社を称している。長ら<論争となっていたが、結局どちらにも決め手がな<、そのままとなっている。

由緒:
下立松原神社は天日鷲命を祀る式内社で、昔朝廷の命により、天富命が天日鷲命の孫由布津主命、その他の神々と房総地方開拓に上陸し、後由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社である。
上陸当時 野山に鹿が多<、住民がその被害に苦しんでいたのを神々が狩を行い害を除き住民を安堵させた神徳を慕い今も神狩の神事としてl日暦11月26日より10日間神狩祭が行われている。なお大鹿の角が社宝として現存している。
古来武将の尊崇も厚く源頼朝や里見義実などが太刀を奉納して武運長久を祈願している。
『義経記』には、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は安房に逃けのぴたが、まず洲崎神社に参拝した後、瀧口大明神(当社)で一夜を明かしたとある。江戸時代以前には「小鷹明神」「瀧口明神」と称していた。

ここも石段が多かった。洲崎神社のように連続して150段もあるわけではないが、「えっ、また石段か!」というように現れる(笑)
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一の鳥居(明神型)
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石の崖を切り開いたような石段
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石段が切れて、平地に出ると右手に二つのお社があり。

まず「后{きさき}神社」
阿波忌部{いんべ}の祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫由布津主命(ゆふつぬしのみこと)の后で、房総を開拓した天富命(あめのとみのみこと)の娘の飯長姫命(いいながひめのみこと)を祀った社殿である。
由布津主命は天富命に従って東国開拓をした安房忌部の祖神。
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招魂社
戦没者の霊を祀る。傍に大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した滝口地区106名の慰霊碑があったらしいが撮り漏らした。
石段下の手水鉢は嘉永3年(1850年)のものだそうです。
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嘉永2年(1849)奉納の石灯篭
左右とも獅子の彫刻が良い。
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二の鳥居(神明型)
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しばらく平らな参道で、また行く手に石段が見える。
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帰ってきてから得られた情報で、石段下の灯篭は享保8年(1723年)に建てられたもので、境内にある奉納物のなかでは一番古いことがわかった。
辛うじて写っているが、ちゃんと撮ればよかった。
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石段下に「ミカリ神事」の説明あり。
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寛政6年(1794年)に滝口村の若者たちが奉納した狛犬。
実にいい表情をしている。
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最後の石段を頑張って上がる(汗)
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手水舎
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慶応4年(1868年)奉納の手水鉢
正面には「無塵浄{むじんじょう}」とある。参拝前にここで「穢れを祓い心身を清める」という意味。
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拝殿前の明治3年(1870年)奉納の狛犬
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玉が凝っている。
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拝殿
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向拝部
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社額
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向拝に掛けられた絵馬
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美しい貝の奉納額
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鯨のどこのヒゲだろう。下は鯨を突く銛の先だろうか。
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拝殿内部
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拡大して、ここに狛犬が居るのにビックリ!
貴重なものを撮り逃がした(泣)
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調べると、載っているのはこのブログくらいでした。
これを見ると、とても素晴らしい狛犬であることがわかります。
http://wankomesen.blog.fc2.com/blog-entry-958.html

本殿
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彫刻が素晴らしい。
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時間が無いのと、雨のため、本殿の彫刻もきちんと撮れなかった。
先ほどの拝殿内の狛犬といい、再訪したいと思った。

御祭神:
天日鷲命 天太玉命 天富命 伊弉諾命 伊弉册命
配祀:
阿八別彦命 須佐之男命
合祀:
住吉大神 高倉彦命 大麻産靈命高靇命 闇靇命 高皇産靈神 神皇産靈神 倭健命 柿本人丸 天忍日命 天照皇大神 磯根御氣姫命 衣通比賣命 木花開耶姫命 金山彦命 菅原道眞

主祭神の天日鷲命は、『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、木綿(ゆふ)麻を植えて紡績の業を創始した阿波の忌部氏(いんべし)の祖神。別名では、高魂命または天日鷲翔失命(あめのひわしかけるやのみこと)や天加奈止美命(あめのかなとみのみこと)といわれている。

天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命と表記する。忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。日本書紀には天照大神が天岩戸に隠れた際に、神々が天太玉命に占いをさせたり、神を鎮めるための白い幣と青い幣を持たせたことが書かれている。

天富命は太玉命の孫。神武天皇のため橿原(かしはら)の御殿を作ったという。また斎部(忌部)(いんべ)をひきいて神宝の鏡,玉,矛,盾,木綿(ゆう),麻をつ<らせた。はじめ阿波,ついで安房に移住。麻をうえ,太玉命の社をたてたといわれる。

神紋は「五瓜に唐花」
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壁画殿
紀元2600年 (昭和15年)記念事業として建設された。内部には、同年に寺崎武男画伯(1883年~1967年)が奉納した当社の由緒を物語る壁画10枚が展示されている。
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壁画は忌部氏の一族を讃える内容となっている。
なお、寺崎武男は昭和前半に館山に住み、戦後安房高の美術講師をした。
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(1)国防
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(2)斎部廣成{いんべのひろなり}
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(3)源頼朝の参篭
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(4)開拓
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(5)天日鷲命
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(6)由布津主命
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(7)飯長姫命
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(8)造営
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(9)造船
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(10)神狩{みかり}
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【天神社(あまのかみのやしろ)】
鎮座地:千葉県南房総市白浜町滝口 下立松原神社境内
安房国式内社朝夷郡4座のうち 「天神社」
祭神は高皇産霊命{たかみむすびのみこと}・神皇産霊{かみむすび}命で、元の社地は滝口字天神免の観音堂あたりとされ、のちに別当寺の紫雲寺裏北西の本郷谷{やつ}に移ったといわれている。
昭和12年(1937年)に現在地に遷宮された。
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安房國一之宮安房(あわ)神社(延喜式内社)/千葉県館山市大神宮

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鎮座地:千葉県館山市大神宮589
参拝日:2016年1月29日

歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、この日安房国式内社6社を回りましたが、洲崎神社に続きこのお宮に参拝しました。

社号標
東郷平八郎元帥の揮毫によるもの
安房國一之宮、安房国6座のうち「安房座神社」明神大社、旧官幣大社、別表神社
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特 徴:
古代に神郡(しんぐん、かみこうり)(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。
当時全国には神郡として、ほかに伊勢国度会郡・伊勢国多気郡・下総国香取郡・常陸国鹿島郡・出雲国憲宇郡・紀伊国名華郡・筑前国宗像郡の計8郡があり、これらは「八神郡」と総称された。
御神徳:
日本産業の総祖神として崇められ、交通安全、厄除開運家内安全、商売繁盛など
由 緒:
・社伝によれば、神武天皇の命を受けて、天富命(天太玉命の孫)は天日鷲命の後喬を引き連れて、四国・阿波へ渡りその土地を開拓。その後、阿波国の忌部を引き連れて、当地へ上陸、この地を開拓、当地は良い麻が生育することから、総(ふさ、麻の古語)の地と名ずけ、神武天皇元年に布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命、天比理刀畔命を示巳った。これをもって創祀とする。
・養老元年(717)吾谷山山麓の現在地に遷座し、その際天富命・天忍日命(天太玉命の弟神)が摂社(下の宮)に祀られた。
・延長5年(927)「延書式」神明帳に「安房座神社 名神大月次新嘗」として、名神大社に列する。
・治承4年(1)180)源頼朝 当社に祈祷を命じ、神田8町を寄進。
・明応8年(1499)6月の大地震で社殿全て倒壊。
・文亀3年(1536)領主の里見義成 本殿・瑞垣を造営。
・天文5年(1536)改めて里見氏造営。慶長年間(1592-1615)さらに里見氏こよって社殿の修造が行われる。
・寛永13年(1637)3代将軍徳川家光から朱印地30石余安堵された。
・明治4年(1871)5月 近代社格制度にて 官幣大社に列し。戦後は神社本庁の別表神社に列した。
・平成21年(2009)本殿・拝殿の大修造を行った。

境内図
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一の鳥居
白い鋼鉄製の神明鳥居
全て鳥居は白だった。
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参道は、背の低い桜並木。八重桜だろうか。
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二の鳥居
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右に御洗池
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三の鳥居
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手水舎
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参道が右に折れて社殿となる。
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拝殿は、昭和52年(1977)の造営。鉄筋コンクリートによる神明造り。
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向拝の庇が大きいので、こういう日はとても有難い。
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社額
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拝殿内部
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「當國一宮」の額
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幣殿のところを覗いたが、本殿に上がる階段が見えるだけだった。
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現在の本殿は、明治14年(1881)の造営。間口3間・奥行2問の神明造り、屋根は檜皮葺。平成21年(2009)に大修造を実施。
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主祭神:天太玉命(あめのふとだまのみこと)・・忌部氏(斎部氏)の祖神
配 祀:天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)・后神
忌部五部神(現在は祀られていない)
・櫛明玉命(<しあかるたまのみこと)-出雲忌部の祖
・天白鷲命(あめのひわしのみこと)-阿波忌部の祖
・彦狭知命(ひこさしりのみこと)-紀伊忌部の祖
・手置帆負命(たおきほおいのみこと)-讃岐忌部の祖
・天日一箇命(あめのまひとつのみこと)一筑紫忌部・伊勢忌部の祖
                     
*主祭神の天太玉命は中臣氏の祖神。天児屋根命と相並んで、天照皇大神の側近に重臣として奉仕し、政治・祭祀・農漁業・建築・金属工業など、諸産業の祖神を統率された大力無双の神。天照皇大神の天岩戸幽居の際、大神の出御に大功をたてた。

神紋は、「十六弁八重菊」紋と酢漿草(かたばみ)紋
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宝物狛犬で、木製狛犬があることがわかっていたので、拝殿の中に置かれてはいないかと探したが、見当たらなかった。たぶん宝物殿の中だろう。
情報では、文永元年(1264)、日蓮上人四十二才の厄年に一週間安房神社にお篭りになり坐定して刀を振って狛犬を彫刻せられ、誓願成就の御礼の意味にて奉納されたものである。
ネットで探した画像をアップしておく。
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これから、境内社などを参拝。

摂社・下の宮
ご祭神;天富命(あめのとみのみこと、天太玉命の孫神)、天忍日命(あめのおしひのみこと、天太玉命の弟神)
養老元年(717)の創祀。
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境内社・琴平社
ご祭神:大物主神
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何も表示のない、白壁づくりの建物。宝物殿ではないかと思う。
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ご神木の槇
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社殿のすぐそばまで岩の崖がせまっている。
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神饌所
明治41年築。神様に奉る神饌(お食事)を作るための建物。現在は主に1月14日の置炭神事祭場として利用されています。
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拝殿と神饌所を結ぶ渡り廊下の向こうに盛り砂があり。
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本殿の左側にある、吾谷山(あづちやま)から湧き出ているという御神水。
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御仮屋
例祭の時に安房神社周辺の9社が神輿を奉安しておく場所。
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名を書いた札が下がっていたので、内訳を撮ってきました。
洲宮神社(天比理刀咩命)、布良崎神社(天富命・須佐之男命・金山彦命)、相濱神社(日本武尊・宇豆毘古命)、熊野神社、犬石神社(月読之命)、八坂神社(須佐之男命)、日吉神社(大己貴神・大山咋神)、下立松原神社(阿八別彦命・須佐之男命)、白浜神社(伊古奈比咩命)

境内社・厳島社
ご祭神;市杵島姫命
拝殿前に横たわる巨大な海食岩をくりぬいてお祭りされた末社。
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忌部塚(洞窟遺跡):
「安房神社」の境内から100m歩いたところにうります。
昭和7年(1932)井戸掘削工事の際、地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡。全長約11メートル、高さ2メートル、幅1.5メートル。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967)干葉県指定史跡に指定されたが、現在は埋め戻されている。
出土した人骨22体のうち、15体に抜歯の風俗が見られることが注目される。土器の存在が明らかでな<、詳細は不明。人骨の年代についても再検討が必要とされている。
人骨の一部は近<の宮ノ谷に埋葬され「忌部塚」として祀られて「忌部塚祭」が行われている。
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駐車場に戻る道沿いに、鎌倉でよく見られる「やぐら」みたいに岩壁の洞窟を利用していた。
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とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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