邇邇芸命(ににぎのみこと)/日本の神々の話

20160329

この神は、狭山市の梅宮神社の祭神である。
そして、「天孫降臨」という神が地上に降りてくる際の主人公である。

『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、
『日本書紀』では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、
一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。

邇邇芸命の正式な名前は、古事記によれば「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」ととても長い名前になっている。
その名前の意味は以下の様になっている。
天邇岐志国邇岐志=天地が豊かに賑わう
天津日高日子=天津神(高天原でお生まれになった神)
番能邇邇芸=稲穂が豊かに実る

天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

ちょっと長くなるが、『古事記』の最も肝心なところなので、邇邇芸命の生誕から天孫降臨の場面まで、『古事記』の現代語訳で載せておく。

○邇邇芸命の生誕
 そこで天照大御神と高木神の仰せによって、日嗣の御子のマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ命に対して、「今、葦原中国を平定し終ったと申して来た。だから、先に委任したとおり、その国に天降って統治なさい」と仰せになった。
 ところが、その日嗣の御子のアメノオシホミミノ命が答えて申すには、「私が天降ろうと支度をしている間に、子が生まれました。名はアメニキシク二二キシアマツヒコヒコホノ二二ギノ命と申します。この子を降すのがよいでしょう」と申し上げた。この御子は、アメノオシホミミノ命が、高木神の女のヨロヅハタトヨアキツシヒメノ命と結婚なさって生んだ子で、アメノホアカリノ命と、次にヒコホノ二二ギノ命の二柱である。こういうわけで、オシホミミノ命の申されたとおりに、ヒコホノ二二ギノ命に仰せ言を下して、「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。

○猿田毘古神
さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか」と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名はサルタピコノ神と申します。私がここに出ているわけは「 天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた。

○天孫の降臨
 こうしてアメノコヤネノ命・フトダマノ命・アメノウズメノ命・イシコリドメノ命・タマノオヤノ命の、合わせて五つに分かれた部族の首長を加えて、天降りしたもうた。そのとき、あの天照大御神を石屋戸からお招きした八尺の勾玉と鏡、及び草なぎの剣、それに常世のオモヒカネノ神・タヂカラヲノ神・アメノイハトワケノ神をもお加えになって、天照大御神は、「この鏡はひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祭りしなさい。そしてオモヒカネノ神は、私の祭に関することをとり扱って政事を行ないなさい」と仰せになった。
 この二柱の神(天照大御神とオモヒカネノ神)は、五十鈴宮に鄭重に祭ってある。次にトユケノ神は、度会の外宮に鎮座されている神である。次にアメノイハトワケノ神は、またの名をクシイハマトノ神といい、今一つのまたの名をトヨイハマトノ神という。この神は宮門を守護する神である。次にタヂカラヲノ神は、伊勢の佐那県に鎮座しておられる。そしてかのアメノコヤネノ命は、中臣連らの祖神であり、フトダマノ命は忌部首の祖神であり、アメノウズメノ命は、猿女君らの祖神であり、イシコリドメノ命は作鏡連らの祖神であり、タマノオヤノ命は玉祖連らの祖神である。
 さてそこで、天つ神はヒコホノこ二ギノ命に仰せ言を下され、二二ギノ命は高天原の神座をつき離し、天空にいく重にもたなびく雲を押し分け、神威をもって道をかき分けかき分けて、途中、天の浮橋から浮島にお立ちになり、筑紫の日向の高千穂の霊峰に、天降りになった。そのとき、アメノオシヒノ命・アマツクメノ命の二人は、りっばな靭を負い、頭椎の大刀を腰に着け、櫨弓を手に執り、真鹿児矢を手挟み持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。なおそのアメノオシヒノ命は、大伴連らの祖先、アマツクメノ命は、久米直らの祖先である。
 このとき二二ギノ命が仰せられるには、「この地は朝鮮に相対しており、笠沙の御崎にまっすぐ道が通じていて、朝日のまともにさす国であり、夕日の明るく照る国である。だから、ここはまことに吉い土地だ」と仰せられて、地底の磐石に太い宮柱を立て、天空に千木を高くそびえさせた、壮大な宮殿にお住まいになった。


天孫降臨にあたり天照大御神は、邇邇芸命に3つの神勅を与えられた。
■天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は天照大御神の子孫が王として治めるべき地であるので皇孫が行ってこれを治めなさい。天の神の靈統を継ぐ者が栄えることは、天地と共に永遠で窮まりないでしょう。
■宝鏡奉斎の神勅
宝鏡(八咫鏡)を天照大御神と祀りなさい。ともに床を同じく殿を共にして、斎鏡としなさい。
■斎庭の稲穂の神勅
高天原の稲穂を地上にもたらして育て、葦原中津国を高天原のような稔り豊かで安定した国にしなさい。

以上の神託と三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、天村雲剣)、高天原の稲を持って天孫降臨に当たった。

天孫降臨の後、邇邇芸命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。その娘は大山津見神の子で名前を木花之佐久夜毘売命といい邇邇芸命は求婚された。
大山津見神は大変喜び、姉の石長比売とともに差し出しましたが邇邇芸命は石長比売を帰してしまい美しい木花之佐久夜毘売命と結婚されてしまいました。
それを受けた大山津見神は「娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売命を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約をしたからです。木花之佐久夜毘賣命だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と申されこれが寿命の起源とされています。

子を授かった木花之佐久夜毘売命は邇邇芸命にその事を報告します。
しかし、邇邇芸命は一日で懐妊した木花之佐久夜毘売命に国津神の子ではないか、と疑う。
そこで木花之佐久夜毘売命は「お腹の子供が国津神の子ならば、きっと出産のときに無事では済まないでしょう。もしあなたの子ならば無事に生まれるはず」と言うと、出入口のない産屋を造り、室内を壁土で塗り込めると、その産屋に火を放った。

木花之佐久夜毘売命は火照命(海幸)・火闌降命・彦火火出見尊(山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇である。

邇邇芸命は、高天原の稲穂を地上にもたらしたので、農業の神として信仰されている。


邇邇芸命降臨/安田靫彦
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高麗神社の枝垂桜

20160328

昨日27日((日)に、高麗神社で高麗郡建郡1300年を記念して、高麗神社オリジナルの舞楽が奉納されるということで、高麗神社に行きました。

有名な樹齢400年の枝垂れ桜は、五分咲きくらいでした。
これが私の、今年の「初桜」となりました。

高麗家住宅は、高麗神社の宮司を代々務めた高麗氏の旧住宅で、1596年建築のもので、国指定重要文化財となっています。
この高麗家住宅との取り合わせがとてもいい。
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2014年12月に訪ねたときには、ちょうど高麗家住宅は修復中で見ることが出来なかった。
修復して間もないということで、屋根の曲線などがとても美しい。
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高麗神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


高麗神社の二本の樹齢400年の桜についても既に記事にしています。

その記事を読む



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堀兼神社

20160326

鎮座地:狭山市大字堀兼2220-1
参拝日:2011年、11月16日、2012年10月11日、2015年10月20日

社号標
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由緒:
当神社は江戸時代まで「浅間宮」と呼ばれていましたが、幕末の慶應4年(1868)から明治元年(1868)の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に「浅間神社」と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。
その後、明治39年(1906)の勅令による神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に「堀兼神社」と再度改められ現在に至っています。
 当神社の創建は社伝によると、日本武尊が蝦夷征伐から帰る途中、この地に立ち寄ったところ、土地の人たちが水不足で大変苦しんでいることを知り、何とか救おうと富士山を遥拝して井戸を掘らせ、漸く水を得ることができました。そこで土地の人たちがそれを記念して、浅間宮をお祀りしたのが始まりといわれています。
 しかし、この辺りは江戸時代の前期に新田が開発されるまで、人が住んだ形跡が全くないそうで、史実としての創建は江戸時代前期の慶安3年(1650)です。
 この地の領主松平伊豆守信綱公が新田開発事業を進めるにあたって、入植者の長寿と子孫繁栄、そして松平家の武運長久を願って家臣の長谷川源左衛門に命じて社殿を建立させました。
 本殿の裏に建立年月日である「慶安三庚寅天五月吉祥日」と建立の趣旨「浅間宮の御加護の下に入植者の長寿と子孫の繁栄を願う処としてお社一屋を建て奉ります」を刻んだ剣先を上にした形の石の棟札が建っています。

正面入り口
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一の鳥居
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この鳥居の横に、嘉永元年(1848)の舗石供養塔があるが、富士講の供養塔となっている。
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手水舎
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鉢は、寛政年間(1789~)のもの。
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二の鳥居
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二の鳥居をくぐると随身門。
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随身門及び二神像
 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
 この随身門は「単層入母屋造りの八脚門」という建築様式で、柱の間が三間、そのうち出入り口が一戸であるところから、「三間一戸の八脚門」と呼ばれています。
 間口が7m弱、奥行きが4mほどです。いつ頃建てられたかは分っていませんが、幕末の万延元年(1860)に8両2分の費用をかけて神像を塗り替えたという記録があることから、1800年代の前半には建てられていたと考えられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
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この二神像は随身と呼ばれ、神域を守り祭神が外出するときには護衛として付き従います。
向かって左を矢大臣、右を左大臣といい、正式にはそれぞれ「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」といいます。「豊」は豊作や多産を、「奇(くし)」はめでたい兆しを意味する言葉です。
『古事記』では、天石門別神(あめのいわとわけがみ)という名で登場。
高天原の宮殿の門を守る神でしたが、天孫降臨の時、天照大神の命令で瓊瓊杵尊に従って降臨しました。
『古語拾遺』では、天照大神が岩戸から新殿に遷座したあと「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。
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随身門を抜けると、社殿に上がる石段。
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狛犬は石段の途中と、上がりきった所の二組あり。
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社殿
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主祭神は富士浅間大社から勧請した木花咲耶姫命です。
記紀の神話では、この神は山の神々の元締めである大山祇神の娘で、瓊瓊杵尊の妃でもあります。
また、瓊瓊杵尊に不義を疑われ、身の潔白を証明するために産室に火をかけて三人の神子(みこ)を産んだという気性の激しさが、美しいけれどもいつ噴火するかわからない激しい富士山の神に相応しいということで、富士山を祀る富士浅間大社の祭神になったということです。
富士山はその豊富な伏流水のため、あるいは火と水がつきものということからか水の神としても尊崇され、農業神つまり作神として特に関東地方の農民層に厚く信仰され、したがって明治時代まではどこの村にも浅間宮が祀られていました。
しかし、神社合祀令で多くの浅間神社が郷社や村社に合祀されたことにより、現在ではそれぞれの合祀先で末社、摂社として祀られています。

社殿を廻って背後に行くと、由緒のところで述べた、「剣先を上にした形の石の棟札」がある。
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社殿と瑞垣の間の狭い所に立っているので、刻んだ文字を読むことは難しい。
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幸い、『堀兼神社社格昇進願』という文書に、石の棟札に刻まれている文が載っているので、それを載せておきます。
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社殿が建っているこの小高い丘は富士塚です。
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富士塚は富士山に登れない老人や子供でも、これに登って富士山を拝めば富士山に登ったのと同じご利益があるという信仰から、多くの村々で村人たちが力を合わせて土砂を積み上げて築きました。
特に女性は、富士山に登れるようになったのは明治5年であり、それまでの富士山は女人禁制でした。
この富士塚がいつ築かれかは分かりませんが、江戸後期の文化文政(1804~1830)の頃に刊行された「武蔵野話(むさしやわ)」という本に「堀兼の井戸」の記事が載っており、その挿絵にこの富士塚が描かれていますので、その頃までには築かれていたことになります。
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武蔵野話:
初篇は文化12年(1815)刊、序文によれば鶴磯が所沢に寓居する間、閑をみつけては周辺に足を延ばし、叢の祠や、古い社寺を訪ね、或は旧家に伝わる古器や旧記を見たことを筆書し刊行している。
続編は文政10年(1827)刊、老齢に達していて門人岡部静斎の校訂で上梓となった。
斎藤鶴磯(さいとうかくき):
1752-1828 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。江戸の人。武蔵(むさし)所沢(埼玉県)にすみ,武蔵野の歴史地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」をあらわした。

この辺りは冬の天気の良い日、西の方に富士山を望むことができます。そのため「富士見台」「富士見里」「富士見丘」など、富士の付く字(あざ)があります。興味深いのは、この神社の東4~500mの所に「富士隠(ふじがくれ)」という字があります。この富士塚が視界を遮って本物の富士山が見えないため、富士山が隠れたという奥ゆかしい言い回しで字の名を付けたものと思われます。

現在は富士塚とその周りが深い森になっているため、富士塚の頂上からは樹に視界を遮られていて、残念ながら富士山は見えない。

富士塚の名残を見ていきます。

社殿に向かって右下に境内社がある。

手水舎
鉢は明治3年のもの。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石があり、紛らわしいのだがこの境内社の社殿は日枝神社です。
ずっと下浅間神社だと思っていましたが、この間地元の方に教わりました。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石
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日枝神社社殿の中に、立派な本殿がある。
この日枝神社は、明治40年に大字芳野から合祀されたもの。
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本殿の彫刻が素晴らしい。
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左側面彫刻「温公瓶割り図」
中国、司馬温公が7歳のとき酒瓶の中に落ちた子供を、石を投げて瓶を割り、子供を助けた故事
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裏面彫刻「俵藤太秀郷の物語」
大ムカデを退治した俵藤太秀郷が湖の龍神からつり鐘をもらう物語。
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右側面彫刻「三兄弟の物語/中国二十四孝」
物語は、むかし中国に、田真、田広、田慶の三兄弟がおり、親が亡くなって後、遺産を三つに分けて分配したが、庭にある一本の紫荊樹(はなずおう)も三本に分けて分配しょうと夜間相談し、翌朝三人は、木を切ろうと木のもとに行ったところ、昨日まで栄えていた木が枯れてしまっていた。田真は、これを見て「草木にも心があり別けられるのを知りて枯れてしまったのであろう」と、三兄弟も人間として争い事をすべきでないことを悟り、木は別けずにおいたところ、紫荊樹は、また再び元の如く栄えたという物語である。
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登山路を上がる。
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五合目に小御嶽神社
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石組は富士山の溶岩を使用している。
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萬延元年(1860)に建立された石祠
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頂上
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下に降りて、神楽殿
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境内社に参拝。
参道の右側、神楽殿の近くにあるのを先に。
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「井上稲荷神社」
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三柱が祀られているようですが、わかったのは「牛頭天王」と「疱瘡大神」。
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続いて参道の左側、「堀兼の井」近くにあります。
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「金比羅大権現」と「天満宮」を合祀。
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脇にある説明によると、江戸時代の浅間宮の時代から境内社として天満宮が二社あったようで、もう一つの「天満宮」。
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続いて、境内にまとめて置かれている石仏群。
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寛文9年(1669)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で最も古い。
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天保4年(1833)の馬頭観音文字塔。
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安永10年(1781)の自然石に「庚申碑」
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嘉永7年(1854)の出羽三山供養塔
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延宝5年(1677)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で二番目に古い。
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ご神木が二本あり。

参道近くにあるご神木。
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堀兼の井近くにあるご神木。
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(了)


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高負比古根命(たかおひこねのみこと)/日本の神々の話

20160325

吉見町にある式内社「高負比古根神社」に参拝したときに知った神。

現在の祭神は味耜高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)と大己貴尊(おおなむちのみこと)となっているが、この神社のことを調べているときに、次の伝説があることを知った。

 むかしこの地方(比企郡吉見町)には鬼が住み、鬼の毒気により市野川の水も飲むことができなかった。里人たちは川辺の楡の木の下に集まって相談をしたが、良い考へも浮かばずに解散した。一人の若者がそのまま木の下に残って市野川の流れを見てゐると、美しい娘が声をかけ、一掬ひの水を求めた。若者が毒の水だから飲めないと事情を告げると、娘は、里人のために清い水にしてみせませうといって、剣を若者に授けて、自分は市野川に飛びこんだ。すると川底から不思議な石が現はれて霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となったといふ。若者は剣で鬼を退治した。娘は岩室の観音様の化身といひ、若者の名は高負彦根命で、高負比古根神社に祀られてゐる。
(藤沢衛彦『北武蔵の伝説』)

高負比古根神社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。
「たかおひこ」は「たかおの男。「ね」は「もと。根源。物事の始まるもととなる所。」


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東京都民俗芸能大会

20160321

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この大会は今年で第47回だそうだが、私は2012年に江戸東京博物館で行われたものを観にいって以来、毎年観ている。

この記事は19日(土)に行われたもので、歴史クラブの行事にもしている。
ちなみに私は19日(土)と20日(日)の二日間ともに観た。

19日(土)に行われたプログラム。
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以前は届け出れば撮影が出来たのだが、昨年から撮影が禁止になったので、この日の雰囲気を示せる写真は無い。
プログラムからの転載で我慢してください。

【1.八王子車人形】
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 車人形は江戸時代の終わり頃、現在の埼玉県飯能市に生まれた山岸柳吉(初代西川古柳)が考案した「ろくろ車」という、前に二個、後ろに一個の車輪がついた箱形の車に腰掛けて、一人の人形遣いが一体の人形を繰る、特殊な一人遣いの人形芝居。
 八王子車人形は、八王子に160年以上続く国選択無形民俗文化財であり、西川古柳座の前身は、瀬沼時太郎(2代目西川古柳)が、18、9歳の頃、初代西川古柳に弟子入りしたことから始まりました。古柳座の芸能は、初代西川古柳や、江戸の最後の人形遣い吉田冠十郎、文楽の吉田文昇らの指導を受けています。さらに、伝統的な車人形の操法を基礎として新鮮な工夫を重ね、昭和56年には乙女文楽の技法を取り入れた「新車人形」を考案しました。また、技法のみならず、首や衣装を始め豊富な用具を多数保有しており、古柳座独自の用具なども考案して新作の上演も可能にしています。

この日上演されたのは、幕開けにふさわしく「寿式三番叟」だった。
6体もの人形が登場し、舞台中を所せましと動き回るダイナミックなもので、人形同士のかけあいもあり、見ていてとても楽しかった。
普通文楽では一体の人形に三人ついて操るが、それを一人でやろうと台に座り、その台に車をつけて動き回れるようにした、その工夫には感心しきりだった。

【2.寺島のあおり獅子】
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 寺島のあおり獅子は、旧寺島町(現東向島全域、京島、向島、押上、墨田、八広の各一部)の高木神社、白蒙神社に受け継がれている祭礼伝統行事です。
「あおり」という長さ8間(約15m)ほどの幕布が獅子頭に付き、4名ほどで獅子の頭を持ち、胴体の長いあおりを氏子の手で両側から上下にバタバタとあおることにより罪積れを祓い、運気を呼び込み、あおればあおるほど景気回復、商売繁盛が成就されるといわれています。また、獅子は邪気を祓うので神輿の順路を清める大事な神事でもあります。
 獅子には雄雌があり、合図によって動き始め互いの尻尾(御幣)に誘導されて雄雌は合体、二匹は頭上高く差し上げ天を仰ぐ形になり、同時に拍子木が高らかに打ち鳴らされます。この儀式を下町の細い路地、氏子の家の軒先に一軒一軒入りながら行います。

普通の獅子舞と違い、大勢の人が幕をあおぐ。沢山の人が参加して、しかも動きをあわせなければならない。
老若男女が参加出来て、楽しみながら共同作業をするわけで、地域の一体感が生まれて、楽しい祭りになるんだろうな、と思った。

【3.ちんどん芸】
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 ちんどん芸は、街頭宣伝業の一種として発生しました。街頭で寄席の宣伝をする業態は、江戸時代から記録として残っています。明治以降は楽隊(西洋式・おり難子式)と口上を合わせた宣伝業が隆盛しましたが、景気の後退や取り締まりにより衰退しはじめ、大正後期になると「ちんどん」と後に呼ばれる太鼓と鉢を合体させた楽器の誕生と共に現在のちんどん芸が生まれました。当初は「ちんどん」一丁と口上のみの宣伝業でしたが、昭和初期には楽器や三味線との組み合わせで街を練り歩くようになりました。チンドン屋は、今では町を演奏しながらパレードをして商店などの宣伝を行うものですが、昭和30年代までは辻々で寸劇や珍芸を披露するなど変化しました。
 チンドン芸能社は、2015年「とやま全国ちんどん大会」で最優秀賞を受賞しました。この世界で最高峰の技を備える団体で、本公演ではチンドン芸能社の美香を中心に、戦前から戦後にかけてのチンドンの歩みを追った著作『聞き書きちんどん物語』の著者としても知られる「ちんどんワカメ」こと大場ひろみ、「豆太郎」の名で親しまれる若手の代表格・里野立による特別編成チームを組みました。舞台では伝統的な寸劇をはじめ、昭和20年代から伝承されてきた人形踊りなどを披露しました。

懐かしかった!!!
昔は、色々なところでチンドン屋さんに遭遇した。
口上もいいし、音楽もよかった。
今のように、自由な身の上なら、遭遇したらどこまでも付いて歩いていくことだろう。

【4.口上芸】
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 舌耕芸といえば、落語、講談、浪曲などの伝承芸が思い浮かびますが、街頭を舞台とする大道芸人たちも語りを伝承してきました。「がまの油売り」「バナナの叩き売り」などもそうした伝統の語りの一つです。
 口上芸の一つである「のぞきからくり」は、箱のなかの作り物や絵などを覗き穴から覗き見させる見世物で、図画としては貞享二年(1685年)園果亭義栗画『文字ゑつくし』に描かれています。その八年後には近松門左衛門の「ひら仮名太平記」に小道具として登場しています。最初は、からくり人形を見せたところから「のぞきからくり」と呼ばれましたが、江戸中期ごろ、西洋伝来の透視図の技法で描かれた風景画をみせるようになりました。のちに独特の節づけでうたう『からくり歌』で、地獄極楽や八百屋お七などを語るようになり、現在、新潟市西蒲区巻博物館に保存され、今もなお伝承されています。本公演では「のぞきからくり」を「八百屋お七」の演目で披露しました。
 坂野比呂志大道芸塾は、1985年浅草奥山風景という催しに際し、大道芸の第一人者であった坂野比呂志の指導により、浅草寺境内で大道芸を実演する目的で結成されました。当初は「大江戸観光クラブ」と称しておりましたが、その後、日本の大道芸の研究、記録、伝承などを目的として「坂野比呂志大道芸塾」と変更し、1989年から実演に関しては「浅草雑芸団」とも称して活動しています。

のぞきからくりは、実際には見たことがない。
私にとっての「のぞきからくり」は、夏目雅子の「時代屋の女房」に登場したものである。
あれはよかった。
この日も、口上の片方の人が女性だったので、夏目雅子に見えて仕方なかった。

【5.飴売り芸】
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 飴売りは、室町時代の「三十二番職人歌合」に登場する「地黄煎売り」は、薬草の地黄を煎じて製造した水飴で、補血、強壮、止血の効用をうたう薬でした。江戸時代になると糖分補給の駄菓子となり、家庭内生産が可能であったことから日銭稼ぎの振売りの格好な商品となりました。購買対象は、子どもや長屋のおかみさんたちであり、奇抜な衣装や面白おかしい歌や踊りを演じて興味をそそり売り歩いていました。
 江戸時代に飴売りの奇抜な姿が絵や随筆に残されていますが、今回は坂野比呂志より伝えられた「げんこつ飴売り」「物産飴売り」と、新潟県三島郡越路町(現長岡市)の祭りに踊られていた「飴屋おどり」を実演した。

見て聞いて楽しく、子供のときにこれを見たなら飛んでいったと思うものだった。

【6.岩手の鹿踊】
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 東京鹿踊(とうきょうししおどり)は、岩手県一関市舞川地区出身の東京近郊在住者と、鹿踊を通して郷土芸能や地域への関わり方、あり方、未来を考えるための様々なプロジェクトを実行するための外部有志で組織されています。
 舞川鹿子躍(まいかわししおどり)保存会は、岩手県一関市の山間地である舞川地区に1700年代から伝わっており、発祥は今の宮城県南三陸町と伝えられています。現在も南三陸町に伝わる行山流水戸辺鹿子踊は踊りや装束など一切が行山流舞川鹿子踊に準じて演じています。
 行山流舞川鹿子躍保存会(岩手県一関市)は、約300年前の江戸時代に、宮城県南三陸町から平泉に接する舞川地区へと伝わった「鹿踊」です。盆供養や豊作祈願として、本物の鹿角をつけ、背中にササラと呼ばれる竹竿を背負い、太鼓を叩きながら8人で歌い踊ります。若手も多く、他の鹿踊団体と交流会や寺社への奉納、歌の復活などに積極的に取り組んでおり、現在、岩手県無形民俗文化財の指定を受けています。

私が花巻で鹿踊りを見たのは、調べたら2006年だから10年前ですね。
宮沢賢治の足跡を訪ねて歩いているときに、花巻駅前で高校生が演じるのを見ました。

その記事を読む


この日は、一関から駆け付けたという人が埼玉県出身だということで驚いた。農業を勉強しているときに一関に行き、惚れこんで一関の市役所に勤務しているのだという。

【7.江戸太神楽】
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 太神楽の起源は平安時代に遡り、神社に伝わる「散楽」という芸能がその源といわれています。太神楽が民衆の人気を集めたのは江戸時代になってからでした。民衆から熱心な信仰を集めていた伊勢神宮や熱田神宮の神官の子弟が獅子頭を持って各地に出張し、神様に代わって縁起物の「獅子舞」を演じて神社の御札を配って廻りました。「神様の代わり、直接参拝する代わり」という意味から、当時はそれを「代神楽」と呼んでいました。
 丸一仙翁社中は、江戸時代から続く熱田派の太神楽で、寛文9年(1669年)に江戸城で将軍家の上覧に供し、三代将軍家光のお墨付きで苗字・帯刀を許されるに至り、徳川家の御用神楽となりました。八代将軍吉宗の時代になり、将軍の命を受けて神楽を一般庶民にも供する機会が生まれ、江戸民衆の趣向に合わせて「獅子舞」はよりユーモラスなものとなり、また「曲芸・茶番」等が大衆化して「江戸太神楽(代神楽)」の名でいまに継承されています。近年では昭和29年に昭和天皇のもとで御前公演、昭和39年及び53年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞し、昭和55年には東京都無形民俗文化財の指定を受けました。
 おめでたい獅子舞と、お馴染み傘の上で色々な品物をまわす曲芸、数個の鞠や撥、輪などを放る曲芸など、お茶椀やグラスをのせた道具を体の色々なところに立てる曲芸など、ドキドキ・ハラハラ楽しんでもらえるパフォーマンスを心掛けています。

やはり、傘の上で色々なものを回して見せてくれるのが、とても楽しかった。

(了)


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福井神(さくゐのかみ)/日本の神々の話

20160318

「座摩巫祭神五座」のうちの一柱の神

延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎにまつるかみ)五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
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平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である。

「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、宮中の敷地を守る神々とされる。『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している。

座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。

座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。

宮中諸神では、大御巫の祀る8神の祭祀は神殿(宮中三殿の1つ)に継承されているが、座摩神含む他の諸神もこの神殿の「天神地祇」のうちに含まれると考えられる。

祀る神社:
・福長神社(京都府京都市上京区)
座摩5神のうち福井神・綱長井神の後継社であると伝える。この福長神社は、天正年間(1573年-1592年)頃に現在地に遷座したという。
・坐摩神社(大阪府大阪市中央区)
坐摩神社神主の渡辺家の伝承では、この家から座摩巫を出したという。この坐摩神社は難波宮での座摩神祭祀に関係する神社と見られ、同じく宮中奉斎神のうちの生島神・足島神を祀る生國魂神社(大阪府大阪市天王寺区)の存在と併せ、朝廷による難波の重要視の様子が指摘される。
足羽神社(福井県福井市)
5神を「大宮地の霊」として祀る。そのため、かつては「福井」という地名を福井神に由来すると見る説があった(現在では「福居」に始まり「福井」に改まったとされる)。


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/北入曽村・南入曽村

20160317

3月8日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

今回の説明は、塩崎さん、和光さん、横山さん。

まず明治末期の入間村(北入曽、南入曽、水野)付近の地図に色付けして、当時の道路と川を判りやすくしたものを載せておきます。
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北入曽村の新編武蔵風土記稿記事
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コースは、入曽駅⇒入間村100年碑⇒粕谷新道⇒天王山・八雲神社跡⇒常泉寺⇒井戸神さま⇒観音堂・七曲井⇒入間野神社⇒夢地蔵

入曽駅から歩きはじめ、Aコープ入曽店の前にある「入間村100年」碑をみる。

【入間村100年碑】
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旧入間村役場跡
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【粕谷新道】
Aコープ入曽店の前から、踏切を渡って粕谷新道を行く。
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不老川を渡る。
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権現道(寺街道)に出る。
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【天王山・八雲神社跡】
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大きな欅の木と小川家の文久2年(1862)百番観音巡礼供養塔と三面馬頭観音があり。
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町屋街道と飯能街道の分岐点を確認しながら進み、寺子屋をしていたという田口家を過ぎる。
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県道狭山所沢線に出て、常泉寺に。

【常泉寺】
当寺は蔵王山観音院常泉寺といい、宗派は真言宗智山派で、本尊は木造釈迦如来坐像です。本寺は日高市にある聖天院です。創建は不明ですが当寺が所蔵する「当山沿革史考」によれば、天正年間(1573~92)には存在したとあります。その後元禄2年(1689)3月、権大僧都法印教海)が荒廃した当寺を再興拡張したところから中興の祖と仰がれています。またこの時、七曲井から観音堂だけを残して現在地へ移転しました。
正徳2年(1712)8月、権大僧都法印伝海の時に聖天院の末寺になりました。明治18年(1885)の火災により本堂、庫裡、山門などを焼失しましたが、飯能の宝泉寺の本堂を90円で買い受け、明治20年に再建されたといわれています。解体した資材は飯能の小岩井から名栗川・入間川を筏で下り入間川町で陸揚げされたとの言い伝えがあります。
寺宝の木造愛染(あいぜん)明王坐像は獅子冠を戴く6皆の姿をしており、市内では珍しい仏像
です。
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住職さんが本堂の拝観を赦してくれた。
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ご本尊
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豪華な装飾
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胎蔵界曼荼羅
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金剛界曼荼羅
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祖師堂
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境内の石仏です。
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○日待供養塔
 この石仏は文字塔で、庚申日待・弁天日待・大黒日待の3つを1つの石塔に刻んだ珍しい日待
 供養塔。全高181cmで、文政(ぶんせい)3年(1820)に建てられた。
正面に青面金剛を表す種子「ウン」と庚申塔の文字が刻まれているところから、石仏の分類上は庚申塔として扱っています。
右側面に大黒天、左側面に弁財天と北入曽村惣村中、台座正面に大きく日待講中と刻まれてい ることから、北入曽村の日待講の人々が建てたことが分かります。
これらの銘文から見て分かるのは、本来の日待信仰からかけ離れて、庚申の日には庚申日待、 己巳(つちのとみ)の日には弁天日待、甲子(きのえね)の日には大黒日待というように、単な る節目(せちにち)に飲食をともにする親睦のための集団になっていたことです。
古代から太陽と月は信仰の対象とされてきました。日待とは近隣の同信者が特定の日に集まり 一夜を眠らずにこもって明かし、日の出を待って太陽を拝むことです。
市内には庚申日待や弁天日待などの供養塔が数多く建てられていますが、「日待供養」とのみ刻 まれたものは、南入曽の金剛院境内にある元禄6年(1693)の舟形光背地蔵菩薩像ただ1基のみ確 認されている。
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○廻国供養塔
角柱の台座の上に丸彫の半蜘扶坐像の地蔵菩薩を乗せた石仏は全高208cmで、角柱に彫られた銘文から願主の安心(あんじん)という僧侶または行者(ぎょうじや)が、全国66ケ所の霊場に大乗妙典を納経する大願が成就したのを記念して建てられたもの。
常泉寺住職の法印敵慶(しょうけい)の指導で万人講中と北入曽村の講中の人々が協力してお金を出し合い、国家の安穏、万民の安楽、五穀豊穣を願って元文2年(1807)2月に建てたと思 われる廻国供養塔で、納経巡拝供養塔の1種です。
発願主が僧侶や行者なのは廻国供養が多くの日数と労苦を伴い、並々ならぬ信仰心を必要とするためです。造立に当たって村人が金銭的な援助をするのは、人一倍信仰心がありながら廻国
できない村人が供養に参加したいという気持ちの表れといえます。
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常泉寺のすぐ近くに「井戸神さま」があり。

【井戸神さま】
 水天とは水を支配する神で水神(すいじん)ともいいます。水禍の難を除き適度な水の恵みをもたらす神として信仰され、農村では作神、漁村では水難除けと豊漁の神様。
市内には「水神」「水神宮」「水天宮」「水祖神」などの文字を刻むものが13基ある。
ここの水天は高さ32cm、幅30cmの楕円型の小さな自然石に文字を刻んだもので、安政7年(1860)3月に建てられた。
左下の銘文に「井戸組中」とあり、1つの井戸を共同使用している家々が井戸神さまとして祀ったことが分かる。ここから南入曽にかけては水神が2基、井戸神さまとして祀られており、いずれも10軒ぐらいで共有していたようです。
武蔵野台地の北端に位置する入曽や堀兼一帯は古来、堀兼の井や逃げ水の伝説を残すところで、用水はおろか飲料水にも困り水の確保に大変な苦労を要したところで、水野には「逃水」という地名が残っています。
開発に当たっては井戸掘りに非常な技術を要したと同時に水をいかに大切にしたかが、この水天
の井戸神さまからも想像できる。
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【野々宮神社】
 当神社の創建は古記録がないため不明だが、社家の伝承によれば奈良時代の創建と伝えられている。社家は大和朝廷の命をうけて倭姫(やまとひめ)を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理に当たったといわれている。
 本社は伊勢市倭姫宮で、戦前は神宮に列せられており、学問の神様・縁結びの神様。
当神社に伝えられる棟札には建仁2年(1202)3月、天正2年(1574)8月、宝永3年(1706)4月のものがあり、この時期には存在していたことが分る。明治40年(1907)に蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、稲荷神社、神明社が合祀され、村社となった。

社号標
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正面の鳥居は伊豆石で出来た明神鳥居で文政10年(1827)6月の銘がある。
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二の鳥居
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手水舎
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社殿
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ご祭神は倭姫命。

西側の入口には天保6年(1835)に建てられた高さが196cmの神明鳥居があり。
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境内社は、蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、稲荷神社、神明社があり。
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社殿右側の竹林の中にも境内社あり。
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左側は八雲神社と稲荷神社、右側は不明。
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野々宮神社を出てすぐ、山吹に似た花で、花が大きくふっくらした、良い花が咲いていた。
この記事をいつも読んでくださっている方から花の名前を教えていただきました。(2016.3.21)
「雲南黄梅」だそうです。

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【観音堂】
常泉寺観音堂ですが、古記録はなく創建は不明ですが、常泉寺の「当山沿革史考」によると創建は建 仁2年(1202)と伝えられています。常泉寺は以前この地にありましたが、観音堂だけを残して 元禄2年(1689)に現在地へ移転しました。
当堂の本尊は寄木造りの木造聖観世音菩薩坐像で、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文 化財・彫刻として指定されています。
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境内の石仏
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○普門晶供養塔
天保14年(1843)に建てられた全高194cm、台座高86cmの普門品供養塔。普門晶供養塔は法華経のうち観世音菩薩普門晶(一般的に観音経といわれるもの)を一定回数唱えたことを記念して建てたもの。
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○橋念仏供養塔
 この浮彫勢至菩薩を主尊とした全高が126cm、台座高は32cmの石仏は橋念仏供養塔。橋供養塔は橋を架けたときに橋の完成を祝うとともに、神仏の加護によってその橋の永続を願い、道や橋を通って村に入り込もうとする悪霊を祓う目的で建てられました。
この橋供養塔に彫られた銘文から、寛保2年(1742)2月に常泉寺の住職である倣慶(しょうけい)の指導で、北入曽村の念仏講と近隣の村の助力により建てられたことが分かります。
観音堂の前の道は昔の鎌倉街道・上道(かみつみち)であり、左側を流れている不老川に架けられた入曽橋の供養塔と思われます。
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【七曲井】
 七曲井は昭和24年(1949)2月22日に埼玉県指定文化財・史跡として指定された。この井戸は武蔵野台地にある古代の井戸で堀兼の井の遺構として価値が高いもの。かってこの地は字掘難井(あざほりかねのい)と呼ばれ、この井戸の状況を良くいい表している。
この井戸の発掘調査は昭和45年(1970)に実施され復元された。
井戸に降りる道筋は、入口が北側にあり、上線部では階段状をなし中央部では稲妻形に曲がり、底近くでは螺旋状(らせんじょう)となっていることが分かりました。その形から名前が七曲井になったといわれている。
「ほりかねの井」を最初に詠んだのは平安時代前期の女流歌人伊勢であり、清少納言の「枕草子」にも全国の著名な井戸の第1位に「ほりかねのい」を挙げています。これらの文献からもこの井戸は、平安時代にはすでに存在していたといえます。
また延長5年(927)に完成した「延書式」によると「諸国の駅路には果物の実る木を植え、旅人に休息の場を与えるとともに、飲み水のないところには井戸をほりなさい」とあります。この七曲井の脇を通る道が古代は入間路、中世は鎌倉街道であったことを考えると、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて武蔵国府の手により掘られたと考えられる。
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七曲井水神
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【入間野神社】
 当神社は、建久(けんきゆう)2年(1191)の創建と伝えられています。社伝によると旧号を国井神社、後に御嶽大権現と称した。
徳川家康より天正19年(1591)に社領を賜り、慶安(けいあん)2年(1649)には3代将軍徳川家光より、「金剛院 御嶽権現領」として10石の朱印地を賜った。
明治元年(1868)の神仏分離に伴い御嶽神社と改称し、明治40年(1907)に浅間神社、神明社、天神社、稲荷神社を合祀して入間野神社と再度改称した。

社号標
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狛犬一組と一の鳥居
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狛犬一組と二の鳥居
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三の鳥居
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手水舎
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拝殿
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本殿
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ご祭神は大山祀命と木花耶姫命。
ご神体は天正6年(1578)に造られた全高59cmの石造丸彫りの本地仏である蔵王権現。

境内社の天神社
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「入曽の獅子舞」碑
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入曽の獅子舞は昭和54年(1979)3月27日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。
獅子舞は、25人で構成される勇壮闊達なもので、埼玉県西部地区を代表する獅子舞。
毎年10月第3土曜日・日曜日の両日にわたり金剛院と入間野神社に奉納されます。それは、金剛院が入間野神社の別当寺だったためで、神仏習合の様式を伝える珍しいもの。
1日目には金剛院で揃い獅子が行われ、前狂い、後狂いの全曲が舞われます。
2日目は、午後から金剛院の本堂で式が行われ、それに続いて庭で前狂いが奉納されます。その後、山門から行列をつくり入間野神社へと進み獅子舞の全曲が舞われます。
この獅子舞の起源は分かりませんが、当神社所蔵の獅子舞を描いた奉納絵馬に、宝暦8年(1758)9月当村中の年号があり、その起源は江戸時代中期までさかのぼると推察されます。
天狗の持つ軍配には「風雨和順五穀成就」の文字が書かれており、かっては、豊作と悪疫退散を願って村内を巡行したといわれています。
また日照り続きには、雨乞い祈願で舞ったとの伝承を残しています。

【夢地蔵】
所在地:狭山市南入曽539金剛院中央霊園内
 昔はここから600mほど西の南入曽にあった金剛院大日堂(現在の狭山モータースクール裏)脇の竹林を背にして入曽用水(小川)の傍に立っていました。
昭和40年代に大日堂が取り壊されたので、この地蔵菩薩は金剛院内に安置されていましたが、その後、長野県小諸市の湯ノ瀬温泉(長野新幹線・佐久平駅の北西約5kmの千曲川河畔)に移されました。そして平成11年(1999)4月に里帰りしてここに安置されたものです。
この地蔵菩薩の銘文によると、寛政7年超第正月13日に高倉村(現入間市)の山畑八左衛門(行年77歳)が、西国、坂東、秩父百番巡拝した供養塔として遺族が建てたものです。
八左衛門は「沙弥是三」とあるので僧形で巡拝したものと思われますが、八左衛門と金剛院との関係については分かりません。
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これで、全ての予定を終え、入曽駅近くのレストランで昼食を食べながら、参加者懇談。
解散となりました。

(了)


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山王塚古墳発掘調査見学会

20160313

昨日、11日(土)に見学会に参加しました。
これは、2月に川越博物館で三回の講座「川越の古代」を受講したときに、博物館のチラシで知り、楽しみにしていたものです。
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まずは、見学会で配布された資料から、基礎知識を述べておきましょう。
冒頭に説明者から、この古墳は上円下方墳としては日本最大であり、現在国指定文化財の申請をしていると、説明があった。
複室の石室が存在することは分かっており、この夏に調査する予定だとか。
貴重なものが発見されればいいなと思う。

○山王塚古墳の造られた時代
 古墳は3世紀半ばから7世紀にかけて造られた高塚式のお墓です。
考古学では3世紀半ばから4世紀に造られたものを前期古墳、5世紀に造られたものを中期古墳、6世紀のものを後期古墳、7世紀を終末期古墳と呼び、時期区分しています。
これによれば、7世紀後半に造られたと考えられる山王塚古墳は終末期古墳として位置づけられます。
山王塚古墳が造られた7~8世紀は大化改新(645年)、壬申の乱(672年)を経て、日本が律令国家の建設に向け大きく揺れ動いた時代です。
この地域でも、中央の地方経営政策の一環として武蔵国への渡来人の移住がはじまり、霊亀2年(716)には高麗郡が建郡されます。
また、7世紀後半には山王塚古墳の西方を南北に貫いて古代の官道である東山道武蔵路が建設されます。
古墳の出現以来権力のシンボルとして造られ続けてきた前方後円墳は、この時代すでに築造されなくなり、各地に初期寺院が造られるようになります。この近辺では、7世紀後半に創建された勝呂廃寺(坂戸市)が有名です。
このように、旧来の体制が崩れ、新たな制度・価値観が創出される激動の時代に山王塚古墳は造られたのです。

○南大塚古墳群について
 川越市内には下小坂古墳群(小畔川左岸台地)・的場古墳群(入間川左岸台地)・仙波古墳群(仙波台地北東縁)などの古墳群があります。
これらはいずれも河川に臨む台地の縁辺に位置しています。
山王塚古墳の属する南大塚古墳群は入間川右岸にあり、台地縁辺に沿って約3kmにわたり古墳が点在しています。現在の入間川街道沿いに古墳が分布していると言うとわかりやすいでしょう。これらの古墳は大きく4つの支群に分けられます。地名をとって西方から、大袋新田支群、豊田本支群、大塚支群、豊田町支群と呼んでいます。
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現在27基の古墳が確認されていますが、開発により消滅した古墳もあり、現存するのは本来の数より少なくなっています。これまでの調査から本古墳群は、小規模な前方後円墳(南大塚4号墳)と多くの小円墳からなる群集填であり、5世紀前葉から7世紀代にかけて造られたことがわかっています。大塚支群に属する上円下方墳・山王塚古墳は最終段階の古墳と考えられ、これ以降、古墳は造られなくなります。
なぜこの場所に造られ、誰が眠っているのか、古墳時代の終りと古代の始まり、ふたつの時代をつなぐ謎を解く鍵となるのが山王塚古墳であると言えるでしょう。

○上円下方墳とは何か
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 日本が律令国家建設に向かってひた走っていた7世紀から8世紀、墓制の上でも大きな変化が起こりました。
畿内では大王の墓として造られ続けた巨大な前方後円墳に代わり、円墳・方墳・八角形墳などが陵墓として築造されるようになります。
上円下方墳もこうした一連の流れの中で登場します。
最初の上円下方墳がいつ、どこに造られたのか、実はまだよくわかっていません。
蘇我馬子の墓ではないかと言われている石舞台古墳(奈良県明日香村・一辺 51m)は本来、上円下方墳だったとする説があります。しかし、現在は盛土が失われており確実に上円下方填であったかどうかははっきりしません。古墳の形が被葬者の身分や職掌を表し、上円下方墳という形が有力な支配者層にのみ許された墳形であるとするならば、その後各地に造られる上円下方墳のモデルとなる最初の上円下方墳は近畿地方のどこかに眠っているのかも知れません。
7世紀後半、関東地方では横穴式石室を埋葬施設とした大型の上円下方墳が築造されます。
武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市・一辺 32m)は全長9m、天文台構内古墳(東京都三鷹市・一辺 30m)は全長7m、ともに切石切組・複室構造の長大な横穴式石童をもちます。また、墳丘には2つのタイプがあり、武蔵府中熊野神社古墳は墳丘を葺石で覆い、天文台構内古墳は地山から下方部を削り出し、墳丘は土が剥き出しのままです。山王塚古墳は天文台構内古墳と類似した構造をもつこの時期最大の上円下方墳と考えられます。

見学会は14時から始まりました。
寒いなか、ずいぶんと見学者が集まりました。
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二つの班に分かれて見学が開始され、私の班は、出土品の説明⇒7号トレンチ⇒8号⇒4号⇒5号⇒6号の順に説明を受けた。
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出土品:
近くの南大塚8号墳より出土した「埴輪」
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同じく南大塚8号墳より出土の「直刀」
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南大塚8号墳より出土の「刀柄頭の一部」
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南大塚8号墳より出土の「刀鞘の一部」
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山王塚古墳より出土品
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○7号トレンチ
現在の山王塚の参道が多より少し高くなっているが、古墳当初からのものか、後から参道が造られたのかの調査。

地山を掘り残して作った陸橋(ブリッジ)が確認できた。古墳時代のもの。
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両端(白線より外)は溝が掘られたため、明らかに違う土が埋まっている。
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○8号トレンチ
周溝のコーナーの調査
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掘り込みは浅くゆるやかで、この辺は結構雑に造られていた?
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○4号トレンチ
上円下方墳の断面と作り方を調査
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周堀の立ち上がりは、以前の発掘調査では明瞭だったが、今回のこのトレンチの場所は江戸時代に掘られた溝で壊され不明瞭。
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下方部断面
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上円部の、古墳築造時の地表(一番下の黒土)、斜めに盛られている上円部の版築(赤土)がはっきりわかる。
赤土は周溝を掘って得たものを盛っている。
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○5号トレンチ
同じく、反対側の上円下方墳の断面と作り方を調査。
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赤土と黒土を交互に積んで上円部を造っている。
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○6号トレンチ
堀の外縁の確認
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堀の外縁に窪地が掘られている。堀との関連性は今後検討。
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これで、見学会は終了。
今回の見学で、上円部の版築の方法がよくわかったのは収穫だった。
国指定の文化財になればいいと思った。

場所の確認などで、2月に事前に訪れていたので、その時に撮っておいた、山王様などをここで紹介しておく。

山王塚の全景
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山王塚の説明板
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鳥居
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塚の頂上の状態
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山王さま
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山王様のお使いの猿が左右に侍る。
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近くに、寛文12年(1672)造立の庚申塔がある。
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三猿の下に蓮が彫られている。
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(了)


八宮神社

20160310

鎮座地:埼玉県比企郡小川町小川990

2月26日(金)に歴史クラブ行事「嵐山町から小川町を歩く」で普光寺霊園・聖観音堂の後、バス停「五丁目」からバスに乗り、「八宮神社入り口」で降りて参拝しました。

社号標
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大字小川は、江戸時代、江戸と秩父方面、八王子と上州(現群馬県)方面を結ぶ街道の宿駅として発展し、寛文二年(1662)には毎月一、六の日に市もたつようになった。
当社は、『風土記稿』小川村の項に「八宮神社村の鏡守なり」と記されているように、当時の小川村の鎮守であった。
創建については、『風土記稿』に「勧請の年歴は詳ならざれど、元和三年(1617)再建の棟札あれば、それより前の集塵なりしことしらる」とあるのが、最も詳しい記録である。
当社は、元来は地内北部の日向山に鎮座していたが、享保二年(1717)に現在地に遷座したと伝えられる。この遷座の理由は明らかでないが天保四年(1833)に建立された現在の社殿は、日光東照宮全棟の工事を担当した棟梁頭平内大勝守正清の七代目に当たる林兵庫正尊を大棟梁に、上州花輪の彫工石原常八主膚を彫物棟梁にして再建された立派で大きなものであることから考えると、境内の拡張が目的であったものかと思われる。

八宮神社は、現在、小川町に四社、嵐山町に四社、滑川町に一社と、比企部に限って存在し、しかもほぼ鎌倉街道に沿って集中的に分布している。
また、八宮神社の分布している地域の東側には淡洲神社、南側には黒石神社が集中的に分布しており、この付近は神社の奉斎とその祭祀圏の関係について極めて興味のある地域である。
しかし、これらの神社の分布の持つ意味は未だに解明されておらず、八宮神社の分布についても、郷土史家の大塚仲太郎が昭和五年に神社の分布は『和名抄』所蔵の郷名と関係があり、淡洲神社の分布地は醎瀬郷(からせごう)、八宮神社の分布地は多笛郷に比定されるという説を、昭和十三年には八宮神社の分布は奈良梨から下小川に居住する千野氏や諏訪氏といった一族と関係があるという説を『埼玉史談』に発表している程度であり、この二説もまだ定説とは言い難い。
「八宮」の文字は、現在どの神社でも「やみや」と読んでいるが、『風土記稿』にはすべて「ヤキュウ」と振り仮名を付しているところから、元来は「やきゅう」と読んでいたことが推定される。
このことは、福島東雄の『武蔵誌』で、当社の社名が「八弓明神社」となっていゝることからも裏付けられ、寄居町鷹巣の矢弓神社や東松山市の箭弓稲荷神社との関係も考えられる。
なお、「八宮」を「やみや」と読むようにになった時期は明治維新直後と推定きれるが、読みを変更した理由は定かではない。

鳥居から入る。
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鳥居の先、右手に芭蕉の句碑あり。
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「先堂能む 椎の木も安里 夏木立」
(先たのむ  椎の木もあり   夏木立)
句碑は、弘化4年(1847年)5月に建立されたもの。
出典は『猿蓑』(幻住庵の記)。
元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで芭蕉は国分山の幻住庵(滋賀県大津市国分2-5)に滞在した。47歳の時である。

手水舎
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拝殿
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向拝部分の彫刻も素晴らしい。
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向拝柱に渡した注連縄
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社額
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社殿は本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿(権現造)で、棟札から本殿は天保4年(1833)の建築とわかります。大棟梁は妻沼の林兵庫正尊、彫刻棟梁は上州花輪の石原常八主信(もとのぶ)で、国宝の妻沼歓喜院聖天堂の造営にかかわった林氏・石原氏の系譜を引く見事な彫刻が施されています。埼玉県内で特徴的にみられる江戸時代中期から幕末にかけての精巧な彫刻をもつ寺社建築の中でも、年代の特定できる好例として、県の有形文化財に指定されています。
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彫刻の題材は、中国のもの。名匠石原常八の華麗な彫物がすばらしい。
覆い屋などに邪魔されずに3面が拝観できるというのは貴重だ。
じっくり、本殿の彫刻を拝観しました。
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ご祭神は、「五男三女神の八柱の神」と伝えられ、一般に「八宮」の名は八柱の神を祀ることを意味すると説かれる。しかし、「五男三女神」の具体的な神名については諸説あり、『明細帳』では「天照大御神御子五柱・月読尊御子三柱命」、『風土記稿』では「国狭槌尊・豊科尊・泥土煮尊・沙樋煮尊・大戸道尊・面足尊・憧根尊」、『比企邪神社誌』では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。
また、当社の本地仏は愛染明王で、現在も内陣に安置されている像高33cmの愛染明王坐像については『風土記稿』にも「今本地愛染を置り」との記述がある。

境内社ですが、社殿裏の小祠が二社。詳細は不明
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大黒天
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御嶽神社
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諏訪神社
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青麻三光宮(あおそさんこうぐう)本殿
小規模ながら天保13年に林兵庫正尊を棟梁として建立されたもので、合わせて県指定文化財になっている。

青麻神社の総本社は宮城県仙台市宮城野区に鎮座していて、嘗ては青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称している。東日本を中心に数多く鎮座し、御祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神の三神で、平安末期、源平合戦の折、源義経の配下で四天王として有名を馳せた常陸坊海尊を併祀する。
常陸坊海尊を併列して祀られているが、その由来として天和2年(1682年)、源義経の家臣であった常陸坊海尊(清悦仙人)であると称する老人が当地を訪れ、中風を治す霊験を顕したことによる。中風封じの御利益のある社としても有名だ。
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履物をたくさん奉納してある。
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本殿の彫刻をできるだけ撮った。
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これで、参拝を終え、再び「八宮神社入り口」からバスに乗り、小川町駅から帰途についた。

(了)


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嵐山町から小川町を歩く

20160308

2月26日(金)に歴史クラブ行事で歩きました。
コースは、武蔵嵐山駅⇒観音堂⇒積善寺⇒杉山城跡⇒普光寺・八宮神社⇒聖観音堂⇒八宮神社⇒小川町駅

ルート図
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東武東上線「武蔵嵐山」駅から歩きはじめ、最初訪れたのは観音堂。

【観音堂】
所在地:嵐山町志賀
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観音堂の前には、宝塔と石塔群があります。

享保元年(1716)建立の宝塔
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享保20年(1735)造立の庚申塔
下で三番叟を踊っている猿が見事。
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貞享5年(1688)造立の庚申塔
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安永7年(1778)造立の馬頭観音
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太子像
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ここの墓地には、板碑の墓碑が多い。
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目指す杉山城跡のある丘が見える。
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【積善寺】
所在地:嵐山町杉山600
杉山城跡への入り口にあり。
福王山、天台宗。本尊は阿弥陀如来。役小角創建と伝える。
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寺の入り口に、庚申塔4基が集められていた。
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この中で、年号が古く、しかも三猿が良い庚申塔はこれ。
元文5年(1740)造立の庚申塔
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本堂
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本堂内部
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ご本尊
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境内にある「苦悲(くび)なし地蔵」
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横に正徳4年(1714)造立の庚申塔あり。
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【杉山城跡】
所在地:嵐山町杉山
2008年(平成20年)3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに杉山城が追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。
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 戦国時代の初め頃、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉方の拠点鉢形城(寄居町)と扇谷上杉方の拠点河越城(川越市)の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。
 杉山城跡から出土した遣物の年代は、この戦いの少し後にあたります。杉山城は、旧城を再興した須賀谷城とともに、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えることができます。

杉山城跡案内図
二の郭が3ケ所、三の郭が3ケ所、それに外郭、出郭もあり、広大な城である。
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積善寺の前から、杉山城跡に向かう。
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出郭から大手口に向かう。
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大手口
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外郭の堀
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外郭と馬出郭の間の谷
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馬出郭
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横矢掛かり
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南三の郭の西虎口
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井戸跡
この城の唯一の井戸
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ここからの景色は素晴らしい。
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「折れ」がよくわかる。
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南三の郭の「食い違い虎口」
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南二の郭から本郭虎口に至る道
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南二の郭の下には土塁(帯郭)が設けられている。
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本郭の東虎口
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東虎口の現在はこんな感じだが、戦国期城郭の最高傑作であることが発掘でわかりました。
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本郭の東虎口は、方形に区画され、内側にはハの字形に広がる石積みが検出されました。この他にも本郭両虎口や北虎口、南二の郭両虎口など多くの虎口で石が使われていることがわかってきました。
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本郭の中心部
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本郭の広いのに驚いた
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本郭から日光男体山が見えるとパンフレットにあったので探した。
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見えた(嬉)
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本郭北虎口から降りる。
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搦め手口から、下の道路に降りたところに石仏群があり。
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そちらに私たちが向かうと、狸が石仏群の上を横切っていった。
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身体をボカシてあるのは、病気みたいで大分毛が抜け落ちていたから。

ここにあるのは、何れも文字塔で、庚申塔3基、馬頭観音二基、不明一基。
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少し行くと、また石仏群あり。
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宝暦11年(1761)造立の大乗妙典六十六部供養塔
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正徳6年(1716)造立庚申塔
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享保2年(1717)造立庚申塔
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元禄2年(1689)造立庚申塔
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三眼がはっきりしている。
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「猿田彦大神」碑
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文化12年造立馬頭観音
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また少し行ったところに、庚申塔二基あり、一つは文字塔だが、もう一つが良かった。
元文5年(1740)造立庚申塔
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【普光寺、八宮神社】
所在地:比企郡小川町中爪1042

この寺は正保2年(1645)の創建と伝えられていて、中爪村を治めた高木甚左衛門正則が三代将軍家光に懇願し拝領したと伝えられる絹本着色徳川家康画像を安置するため八宮神社近くに開基したのに始まるといいます。開山には男衾郡塚田村の尊栄を招き寺の第一祖としたそうです。徳川家康の画像は小川町指定文化財になっています。この他に幕府将軍から寺領確認の際下賜された朱印状や、僧形の円空仏が保管されているそうです。山門を入った両脇には板碑が立ち並び後世に集められたもののようです。これらの板碑の存在から創建以前にも前身の寺院があったのかも知れません。

入り口
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山門前に二基の石塔あり。
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一つは板碑に「二十二夜待供養」と追記してしまった、残念な板碑。
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延宝5年(1677)造立の、「靑面金剛」と文字で刻んだ庚申塔
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台座には、二羽の鶏と、二猿。
二猿は珍しい。
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山門には、茅の輪が常設されている。お寺で茅の輪は珍しい。
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山門の先の参道の両脇には板碑などが並ぶ。
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鐘楼
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本堂
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ご本尊
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脇の間
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大師像
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横の八宮神社に参拝。
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社殿の前に石灯篭一対と狛犬一対。
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拝殿内部
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社額
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境内社の東照宮
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内部
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屋根には、「三つ葉葵」の神紋が。
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【普光寺霊園・聖観音堂】
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ここから、バス停まで7、8分歩いた。
途中で、いま立ち寄った聖観音堂を谷越しに眺めた。
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バス停「五丁目」まで歩き、そこからバスに乗ったが、
健脚者は、「下里」で下りて、「題目板石塔婆」⇒「八宮神社」⇒小川町駅まで歩き。
私は、今足をちょっと痛めているので、「八宮神社入り口」でバスを降りて「八宮神社」に参拝する組に参加して、またバスで小川町に出た。

「八宮神社」については、別途記事にします。

その記事を読む


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鎌倉権五郎景政/日本の神々の話

20160303

私は、鎌倉御霊神社の祭神として参拝した。

(以下、主としてWikipediaによる)
鎌倉景政(かまくらかげまさ/平 景政(たいらのかげまさ))は、平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く。

略歴:
父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。

16歳の頃、後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
鎌倉権五郎景政は、源義家に従い後三年の役に出陣し、目に矢をうけながらも勇敢に戦った。
その矢を抜こうとした三浦為継が、景政の顔に足をかけたため、「足で顔を踏むとは何事か!」と叱責したと伝えられている。
戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。

長治年間(1104年 - 1106年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。

子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。

なお明治28年(1895年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない。

*上杉謙信の先祖でもある。
上杉謙信は、もともと長尾景虎という名であったが、小田原北条に追われ落ちてきた上杉憲政の養子となり、上杉の苗字と「関東管領」の職を受け継いだ。
長尾家の故地は、鎌倉駅近くの横浜市栄区長尾台と言う地域にある「長尾城跡」だという。
長尾城もまた、鎌倉権五郎景政が築いた城であり、長尾家は鎌倉権五郎景政の子孫だという。

『絵本写宝袋武者尽』の鎌倉権五郎景政。
目を射られた姿が描かれている。
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私は、2014年9月18日の鎌倉御霊神社・例大祭に出掛け、「湯立神楽」、「面掛け行列」を見た。

その記事を読む


(了)


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「茨城の宝・Ⅰ」展/茨城県立歴史館

20160302

27日(土)に、水戸の偕楽園に観梅に出掛けました。
今年の観梅を水戸に決めたのは、実は半月くらい前に川越市博物館に行ったときに、「茨城の宝」展のチラシを手に入れ、鹿島神宮の神宝など興味をそそられる出展だったから、これも楽しみにしていた。

それで、偕楽園で観梅したあと、すぐ近くにある歴史館に行きました。

歴史館の敷地に入ると、白亜の建物が見える。
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旧水街道小学校本館だった。
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歴史館の建物は、城の石垣をイメージさせるものだった。
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正面入り口
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中に入り、チケットを購入すると、「土日だけの喫茶コーナー開店」のチラシを渡された。
ちょうど喉が渇いていたので、先にコーヒーを飲んでから見ることにした。

メニューに「徳川将軍珈琲」というのがあり、説明に「江戸幕府15代将軍徳川慶喜が飲んだコーヒーを史実に基づき再現!」とあった。
面白かったので、それを頼んだ。
予想に反して(笑)、美味しかった。

喫茶コーナーからの中庭の噴水の眺め。
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「茨城の宝・Ⅰ」展を観る。
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沢山良い物が出展されていたが、例によって私がすこぶる嬉しく見たものだけ紹介しておきます。

入ってすぐに、会場に常設されているものだと思うが、古道のはぎ取り断面が展示されていて、これには感心した。

【五万掘古道道路跡断面】
『日本書紀』によれば、天武天皇14年(685)に東海道の記事があることから、この頃には東山道・東海道などの五畿七道制にもとづく官道の整備が行われていたことになる。
常陸国府は東海道の最終地点であったが、平成10~11年(1998~99)に行われた茨城県教育財団による五万堀古道の発掘調査の結果や、常陸国府以北の駅家の存在などから、東北方面へ古代の官道が存在していたと考えられる。
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笠間市の五万堀古道は、安侯駅家(あごのうまや 現在の笠間市安居付近)から河内駅家(かわちのうまや 現在の水戸市中河内付近)に向かう古代の官道「東海道」の一部と推定されている。発掘調査により、両側に側溝を伴う福7-10mの直線道路跡が確認された。
本資料はそのはぎ取り断面である。断面から3つの時期の道路跡が想定される。
左半分
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右半分
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【金銅製馬形飾り付き冠】
茨城県指定文化財、三味塚古墳(行方市沖洲)出土
5世紀末~6世紀初頭
頭にかぶったままの状態で頭蓋骨と一緒に発見され、冠には布片が付着していた。馬形飾りや蝶ネクタイ状の金具が付き、透彫が施された冠は、大陸の影響を受けているものの、技術的にあまさがあることから国産のものと考えられている。
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復元品
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【虎塚古墳石室内壁画】
所在地:ひたちなか市中根
これは出展品ではないが、図録に紹介されていた。
エネルギッシュな壁画に圧倒される。
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【五つの風土記】
各国で作成された風土記のうち、現在まで写本が伝わっているのが五つである。
すなわち、常陸国(茨城県)、播磨国(兵庫県)、出雲国(島根県)、豊後国(大分県)、肥前国(長崎県・佐賀県)である。
その五つが展示されていた。
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もちろん、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』も展示されていた。
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『常陸国風土記』の発見は、徳川光圀が日本の歴史書編纂を始めたことによる。光圀は18歳の時に中国の司馬遷が書いた『史記』の「伯夷伝」を読み、歴史書を作ろうと志した。その歴史書は後に『大日本史』と名付けられた。
『常陸国風土記』は、延宝5年(1677)2月に加賀(金沢)藩の藩主前田家に伝わるものを借り受け、彰考館で書写された。
その後写本を水戸に置き、研究、版行したことにより今日に伝わった。

大日本史は、水戸藩2代藩主徳川光囲が18歳の時に歴史書を編纂しようと志し、明暦3年(1657)に着手した。光圀死後も編纂作業は続き、何度かの中断を経て、明治39年(1906)に『大日本史』は完成した。全397巻と目録5巻からなる。

【韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)】鹿島神宮
国宝
奈良・平安時代
この直刀は鹿島神宮では「師霊剣」と呼称されている。現存する直刀としては国内最大のものになる。
実に271cmの長さである。
直刀は奈良時代の作、獣文や雲文が措かれた鞘は平安時代の作と推定されている。刀唐櫃は室町期の制作。風土記には「慶雲の元年、国司采女朝臣、鍛、佐備大麿等を率て、若松の浜の鉄を採りて、剣を造り…」とある。
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この展示会のチラシを見て、裏の展示品の紹介のうち、最も見たいと思ったのがこの剣である。

この「フツノミタマ」については記紀神話に登場する。
葦原中国平定の神話において、タケミカヅチらが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇している。

神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退けるちからを持つ。

神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。

一方、鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。
布都御魂は神武天皇に下される前は鹿島神宮の主神であるタケミカヅチのものであり、布都御魂が石上神宮に安置され鹿島に戻らなかったために作られた二代目が、現在鹿島に伝わる布都御魂剣であるという。

というわけで、神話に登場した剣ではないが、それに相当する剣ということである。

傍らに、同じ大きさ、同じ重さの、模造剣が下げられており、真ん中辺を持ってみることができるようになっていた。
重かった!!

【陶造狛犬】鹿島神宮
阿吽一対
室町時代
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【陶造狛犬】鹿島神宮
吽形のみ
室町時代
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【木造狛犬】鹿島神宮
阿吽一対
元和5年(1619)
2代将軍徳川秀忠により、本殿などと一緒に寄進されたもの。
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【木造狛犬】鹿島神宮
吽形のみ
鎌倉時代
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【木造狛犬】鹿島神宮
阿吽一対
鎌倉時代
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これは祭事に用いられたもの。
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【木造狛犬】鹿島神宮
阿吽一対
鎌倉時代
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この日は、偕楽園の梅も良かったし、好文亭の中も良くて、ゆっくりと楽しんだ後で、この展示がまたすこぶる良かったので、たっぷり時間をかけて眺めた。
予定では、もう一か所寄ろうかと予定していたが、歴史館を出たのが15時をまわっていたので、充分満足したこともあり、帰途についた。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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