経津主神(ふつぬしのかみ)/日本の神々の話

20160429

下総国一之宮・香取神宮の祭神

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。

経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。
神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説のほか、「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとする説があり、建御雷之男神が出雲の浜で大国主命に国譲りを迫った際波頭に突き立てた剣、神武天皇の東征の際に熊野で神武天皇が正気を失って倒れた時に天照大御神と高木の神の要請で建御雷之男神が高倉下に託して神武天皇に与えた剣の布都御魂(ふつのみたま)の剣を神格化したとする説がある。
なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫だったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられている。
『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。 第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたために岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。

この神に関する伝承は複雑なので、葦原中国平定に関して整理する。
『日本書紀』九段本文で、磐裂根裂の子、磐筒男・磐筒女が生んだ神で、葦原中国平定の為の使いとして選ばれた神。選ばれなかった武甕槌神が、自薦により同伴する。(経津主神が主)
『日本書紀』九段一書(第一)では、武甕槌神・経津主神がともに派遣される。(並立)
『日本書紀』九段一書(第二)では、経津主神・武甕槌神が派遣されるが、天にいる悪神・天津甕星(別名天香香
男を「主」に制圧する神として説明されている。(経津主神が主)
『古語拾遺』では、経津主神・武甕槌神が派遣される。(並立)
『先代旧事本紀』では、経津主神に武甕槌神をそえて派遣される。(経津主神が主)
『古事記』では、建御雷之男神のみの派遣、同行したのは天鳥船神。(建御雷之男神が主)
建御雷之男神の別名を建布都神・豊布都神といい、神武東征の際に、建御雷神が下した剣の名を、佐士布都神・甕布都神・布都御魂という。つまり、建御雷之男神が稲佐の浜で国譲りを迫るときにその上に乗った剣が経津主神、あるいは御魂であると思われる。剣がモノを「フツ」と斬る機能、または剣そのもの。また、布都御魂は石上神宮に祀られているともあり、物部氏との関係も示唆されている。
『出雲國造神賀詞』では、交渉から戻った天菩比命は、再度、御子神・天之夷鳥命をともなって天降り、 荒ぶる神を征服し、「国作之大神」、すなわち大名持神を鎮めたとある。天之夷鳥命に、布都怒主命を副えて派遣される。(天之夷鳥命が主)

※これらのことから、もともと、経津主命が派遣の主体であったが、後に武甕槌命が加えられ、次第に、その主役が交代したと思われる。武甕槌神が中臣氏(藤原氏)の祀る神であり、経津主神は本来は物部氏の祭神であったので、その流れも理解できる。

香取神宮宝物館所蔵の「香取経津主神」画像
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老尾(おいお)神社/千葉県匝瑳市

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鎮座地:千葉県匝瑳市生尾75
参拝日:2016年4月19日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、最初の蘇我比咩神社に続き、当社に参拝しました。

社号標
式内社(小) 下總國匝瑳郡 老尾神社、旧郷社
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匝瑳市教育委員会の説明
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由緒:社伝によれば崇神天皇7年(紀元前91年)の創建と伝えられ、祭神の阿佐比古命は葦原中国を平定するため天下り、後に当地の守護神になったという。また、下絵国一宮「香取神宮」は経津主命を祀っており、同族で下総国東部を支配していたことがうかがわれる。匝瑳都唯-の武内社であり、匝瑳都を代表する神であった。
正平24年(1369)、社殿を焼失し、千葉氏によって再興され、以降千葉氏の保護を受けたが、千葉氏の衰えとともに当社も衰退し、現在は生尾地区の氏神として存立する。香取神宮の末社に「匝瑳神社」があり、ここから旧I匝瑳郡匝瑳村大字生尾の老尾神社に分祀されたと伝承されている。

匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良の正倉院に伝わる庸調に見られる天平13年(741)の記録が最古とされている。
匝瑳の由来は、『続日本後紀』によれば大化の改新(645年)の100年以上前、5世紀から6世の初めにかけて、畿内の暮族であった物部小事(もののべのおごと)なる人物が、坂東を征した功績により朝廷から下総国の-部を与えられ、匝瑳都(そうさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられている。
匝瑳の語源については諸説があるが、930年代に編纂された『倭名抄』には、狭布佐(さふさ)と書かれている。また、『下総国旧事考』」に「名義は、或書に狭麻の義とす。猶考ふべし。」とある。-般的には『倭名抄』の狭布佐の説を採り、「狭」は美しい、「布佐」は麻の意で、美しい麻の採れる土地であったことから、狭布佐(さふさ)が転じて匝瑳(そうさ)になったとされる。
漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで「匝(めぐ)る」と読み、ひと巡りして帰るという意味があり、「瑳」は訓読みで「瑳(あざ)やか」あるいは「瑳(みが)く」と読み、あざやかで美しいという意味がある。
匝瑳市のホームページでは、「匝瑳の語源については、諸説があって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、「美しい麻のとれる土地」であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の都であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。」とある。

入り口鳥居の先の参道は鬱蒼とした林の中の一本道。
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参道からちょっと入った場所に、末社であろう石祠がところどころにある。
今日は6社廻ると云う事で時間の制限がきついので、他の皆さんに遅れないようにするため、参道から望遠モードで撮りながら急ぐ。
帰ってから、ネットで調べても境内社に関する情報が皆無である。
一応掲載しておく。

末社(左は「道祖神」、右は不明)
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末社(不明)
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末社(天神社)
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末社(不明)
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末社(不明)
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手水舎
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拝殿
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本殿
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本殿背後から
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ご祭神:
主祭神は阿佐比古命(香取神宮の祭神・経津主命の御子神)
合祀神は磐筒男命、磐筒女命、国常立命。

神紋は「左三つ巴」
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境内社・子安神社
ご祭神は、木花之佐久夜毘売だと思う。
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右側の古い石祠に「子安大明神」とあり、左側の新しい石祠が現在の子安神社と思われる。
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社殿の向かって右前に巨木あり。
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そして社殿の背後に、市指定天然記念物のご神木(杉)が聳えている。
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更に、境内から50mほど離れた墓地に、市指定有形文化財の文和2年(1353)建立の板碑があり。
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蓮華座の上に種子「胎蔵界大日如来」を刻んでいる。
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これで当社の参拝を終え、香取神宮に向かいました。


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蘇我比咩(そがひめ)神社(延喜式内社)/千葉県千葉市中央区蘇我町

20160426

鎮座地:千葉県千葉市中央区蘇我町1丁目188
参拝日:2016年4月19日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、最初に参拝したのが当社です。

下総国延書式内社の神名帳の写しを掲げておきます。
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そのうち「千葉郡」二坐のうち一座が当社。
「蘇」の字が、当時は「蘓」と書かれていたようです。
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入り口鳥居
武内社:下総国千葉郡 蘓我比呼神社、旧社格は郷社。
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由緒:
創建の年代は不詳である。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうと走水の海(浦賀水道)に出たところ、渡りの神が荒立って暴風が起こり、乗船していた船が危なくなる。それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性もー緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武辛が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。
応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。

ただし、これには別の伝承もある。浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。

手水舎
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瑞垣の中、真っ直ぐに参道があり、瑞垣を入った所に狛犬があり。
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大正15年奉納の狛犬。
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拝殿前に石灯篭一組と、銀杏の巨木などが聳えている。
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拝殿
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拝殿内部
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本殿は、社殿の横に入っていけないため、ほとんど見えない。
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主祭神は、蘇我比呼大神(そがひめ)と千代春稲荷大神(せんだいはるいなり)。
合紀神は、天照皇大神、春日神(経津主神・建御雷神・天児屋根神・天児屋根比売神)及び八幡神(応神天皇・比呼大神・神功皇后)

中世には春日神が信仰の中心となっており、春日大明神と称していた。

神紋は、蘇我比呼大神が「五七の桐」、千代春稲荷大神が「包み抱き稲」。
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境内社を参拝

「大山阿夫利神社・大三輪神社」
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「浅間大神」
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「手置帆負命」
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近くにスズランが咲き始めていた。
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荒垣の外に、かってはここも神域だったことを主張している三峰神社があり。

「三峯神社」
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横の銀杏の巨木がすごかった。
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これで当社の参拝を終え、続いて匝瑳市の「老尾神社」に向かいました。


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神産巣日神(かみむすびのかみ)/日本の神々の話

20160425

私がお参りしたのは、狭山市三柱神社の祭神として、出雲大社摂社・命主社の祭神として、出雲大社御客座神として。

『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では神魂命と書かれる。

天地開闢の時、天御中主神・高皇産霊神の次に高天原に出現し、造化三神の一柱とされる。本来は性のない独神であるが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。また、『先代旧事本紀』においては、高皇産霊神の子であるとも言われる。

「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神であり、高皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられる。

高御産巣日神が天孫降臨神話等、天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場し、 神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場するのが特徴。
従って、高御産巣日神は高天原系(皇室系)、神産巣日神が出雲系の神であると思われる。

『出雲風土記』では神魂命として登場し、出雲の神々の母とも言われている。

『古事記』でどのように登場するかというと、
「農業の起源」
建速須佐之男命が食物の神である大宜都比売を斬り殺した後、大宜都比売の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれたので、神産巣日神がそれらをとって地上に蒔いた。

「因幡の白兎」
因幡の白兎の物語の後、大穴牟遅神(大国主命)は八十神に殺される。それを知った大穴牟遅神のお母さんはひどく悲しみ、神産巣日神に「息子を生き返らせてほしい」とお願いに行く。神産巣日神は蚶貝姫と蛤貝姫を遣わし、大穴牟遅神を治療、蘇生させる。

「大国主命の国造り」
大国主命が国造りに悩んで、岬でぼーっとしていると、少名毘古那が登場。神産巣日神の息子だと知った大国主命は神産巣日神に会いに行く。すると、少名毘古那が国造りを手伝ってくれることになる。

日本書紀では「大国主命の国譲り」の際、神産巣日神が出雲大社の造営も手伝ったという書もある。
神産巣日神が自ら出雲の神々を招集し、自分が住む高天原の神殿を参考にして出雲大社を建設した。

戸矢学氏が『縄文の神』で書いている解釈を載せておく。
さてそれでは本来の「ムスヒ」とは何か。
「苔生す」などの用例もあるように、芽生える、発生するという「産生」 の意味から、タカミムスヒは天岩戸開きを指示して夜明けをもたらし、またカミムスヒはオオナムヂを生き返らせたことから「蘇生」 の意味にまで至る。すなわち、万物の生成発展に寄与する力であり、神道の根元思想である。
ムスヒ神もアマテラス神も、ともに 「ヒ」 の信仰であることは言うまでもないが、アマテラスがあくまでも太陽の恵みを体現する 「日」あるいは「火」 であるのに対して、ムスヒはそれとは次元の異なる 「靈 (霊)」 によっている。これは「精霊」 のことであって、自然崇拝の本質であろう。
ちなみに、霊の旧字である 「靈」は、元々の漢字の成り立ちとしては雨乞いを意味する。「靈」という文字の象形は、地上で巫女が祈り、降り注ぐ雨を三つの器(多数の器) で受ける様子を表している。後に、神霊を降下させることそのものをもいうようになり、わが国では当初よりその意味で用いられた。
「ムスヒ (産巣日、産霊など)」が神名に含まれる神は、ムスヒの働きをする神々のことであり、神々の大本となる原初の神である。
皇居内の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿) の神殿には天神地祇および天皇守護の八神が祀られているが、八神のうち五神は「ムスヒ神」である。



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日本橋から板橋まで(その三)/中山道

20160424

4月16日に歩いたもので、巣鴨地蔵通りのとげ抜き地蔵尊でちょっと休憩してから、また歩き始めました。
巣鴨地蔵通りが旧中山道です。
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名物の赤パンツ屋さん。
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通りにあった「巣鴨史跡マップ」。まだまだ行ってないところがたくさんある。
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「巣鴨庚申塚」にやってきました。
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巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていました。江戸名所図会ではそれらの様子がにぎやかに描かれています。
一番右端の、屋根の葦簀(よしず)の上に見えているのが庚申塚です。
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ここは中山道板橋の宿場にも近く、右に向かえば花の名所「飛鳥山」、紅葉の王子にでる王子道の道しるべを兼ねた庚申塔が建っていました。庚申塚は広重の浮世絵にも描かれています。
現在は庚申堂に猿田彦大神を合祀しています。猿田彦大神とは日本神話に登場する神様です。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されました。

狛犬でなく、狛猿が左右に居ます。庚申塔みたいに三猿も刻まれています。
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手水舎
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社殿
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都電荒川線の踏切を渡る。
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一つ向うの駅「新庚申塚」に停まっている電車を望遠モードでパチリ。
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ここで、ちょっと旧中山道から外れて「高尾太夫の墓」と「お岩様の墓」に寄りました。

「高尾太夫の墓」のある西方寺にお参り。
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西方寺の縁起は、元和8年(1622)道哲大徳が浅草聖天町吉原土手附近で遊女が無縁仏として投げ捨てられるのを悲しみ道蓮社正誉玄育上人を請じ聖天町に一宇を建立。大正4年(1915)春火災焼失。昭和2年(1927)浅草聖天町より現在地へ移転とあります。

高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。
西方寺にあるのは、2代目の「万治高尾」。仙台高尾・道哲高尾とも。11代のうち最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つである。(伊達騒動参照)万治3年(1660年)没。

万治高尾の墓は、墓石中央に地蔵像を浮き彫りにし、右に「轉誉妙身信女万治三年十二月二十五廿五日」左に「完封にもろくもくつる紅葉かな」とある。震災で戒名の一部と辞世の句の一部を損傷している。
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参道に、石仏にしては精緻な曼荼羅がありました。
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「お岩様の墓」のある妙行寺にお参り。
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妙行寺は、寛永元年(1624)赤坂に起立し、四谷鮫ヶ橋南町への移転を経て、東京府による市区改正事業のため明治40年当地へ移転しました。境内には、四谷怪談のお岩さまの墓所、浅野家遥泉院供養塔の他、うなぎ供養塔、魚がし供養塔、浄行様があります。

境内の様子
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お岩さまの墓に進んでいくと、その手前に浅野家遥泉院供養塔がありました。
これは知りませんでした。

浅野家遥泉院というのは、松の廊下で刃傷沙汰を起こし、赤穂浪士討ち入りのもととなった、浅野内匠頭長矩の奥さんですね。
討ち入り直前に、大石内蔵助が遥泉院を訪ねる「雪の南部坂」が有名です。
瑤泉院は祖母高光院の永代供養を当寺に依頼し三捨両を寄付、その書状も残されているそうです。

墓域
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瑤泉院の祖母高光院の供養塔
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浅野内匠頭長矩後室瑤泉院の供養塔
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瑤泉院はここが菩提寺というわけでなく、祖母の供養を依頼した縁で供養塔が建てれらています。ただし古い物ではなく昭和二十八年の二百四十回忌に建てられた物です。泉岳寺が菩提寺です。

お岩さまの墓
立派なので驚きました。
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お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も四谷にあったが、明治42年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。(境内掲示より)

でもお墓が立派過ぎたので、気になって帰ってから調べると、事実はこういうことらしい。
伊右衛門と妙行寺に眠るお岩さんは、仲睦まじい夫婦だった。家の格式も高い。ところが、経済的には困窮しており、家計は火の車だ。これじゃいけない、お家を再興せねば。伊右衛門とお岩さんは、奉公に出ることにする。そのとき、お岩さんは、田宮家の庭にある屋敷神を信仰したおかげで、お家を再興することができた。その噂を聞き付けた人々が、田宮家の屋敷神を「お岩稲荷」と呼んで参拝に訪れるようになった。それが、今のお岩稲荷の由来である。
真実のお岩さんは、武士の妻の鑑とも言える女性だったのだ。これなら、神様として祭られても不思議ではない。
しかし、経済的に成功した者は、妬みで世間から爪弾きにされる。当時の江戸では、この傾向が特に顕著だった。かくして田宮家は、怨霊に苦しめられた、などと悪意のデマが噂されるようになる。そんな噂話をベースに、鶴屋南北は『四谷怪談』を書き上げたのである。
けど、さすがに実名を出したり、実在の土地を舞台にするのはまずい。そこで、脚本では修正を入れた。田宮の名前も民谷になっているし、舞台は四谷左門町ではなく雑司ケ谷四谷(早稲田大学のすぐ近)。関係のない地名である「東海道」を頭につけたのも、フィクションであることを強調するためである。

旧中山道に戻り、地蔵通りとは違って静かな「庚申塚通り」をしばらく行きます。
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すると、「大正大学さざえ堂」なる旗が。
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ええっ! さざえ堂があるの! と寄ってみました。
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栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。
通常、二重螺旋構造となっていて、上っていく人と下っていく人が交わらないようになっている。

入り口
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入り口から入ると、「制咜迦童子(せいたかどうし)」がこちらを向いて立っています。
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上りの階段の壁には、仏像の代わりに種子字が書かれている。
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可愛いお地蔵さんが置かれている。
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頂上には、聖観自在菩薩(鴨台観音)が安置されていた。
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降りの階段の壁は色の壁となっていて、上りとちがう道だとわかる。
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ところどころに女童の人形が置かれている。
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下に降りきると、制咜迦童子の後ろ側に出た。
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出口
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「僧話花(そわか)」という、お坊さんカフェもあった。
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また歩いていくと、明治通りと交差する「堀割」交差点の角に、時計の壁画でいっぱいのお店あり。
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ここから滝野川商店街に入る。
この通りでは、なんといっても亀の子たわしのお店・工場だろう。日本全国津々浦々でみかけるたわしの本社である。
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もうゴール間近と、ウキウキした気分で滝野川商店街を歩いていく。
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板橋駅に向かい、左に折れるとすぐに「近藤勇墓所」がある。
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近藤勇と新選組隊士供養碑
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近藤勇埋葬当時の墓
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近藤勇の銅像
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長倉新八の供養碑
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ゴールのJR板橋駅に15時ちょうどに到着。
ばんざい!!
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駅前のコンビニでアイスクリームを買って、公園で疲れを取ってから帰途につきました。
なかなか、楽しい一日でした。
次回は「板橋宿」ですね。


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日本橋から板橋まで(その二)/中山道

20160422

4月16日に歩いたもので、東大農学部正門の前で、旧白山通りになり、すぐの喫茶店で「ハチ公カレー」を食べながら休憩したあと、また歩き出しました。

花みずきが咲きだしていました。
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しばらく行くと、それぞれ八百屋お七にゆかりのある、右に大円寺があり、左に園乗寺があります。
先に大円寺に入りました。
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大円寺は曹洞宗の寺院。慶長2年(1597年)に神田に創建し、文京区の白山神社にほど近い現在地には慶安2年(1649年)に移転してきた。
幕末の砲術家である高島秋帆(1798-1866年)の墓があり、国指定史跡となっている。境内に八百屋お七由縁のほうろく地蔵がある。

入るとすぐに「ほうろく地蔵」があります。
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当寺は、3500人が亡くなったという天和の大火(1683年)の火元である。この時の八百屋お七についての有名な俗説は、「八百屋の娘のお七は天和の大火で家族と焼け出され、避難先の寺(近くの円乗院や吉祥寺などの説あり)で寺の小姓と恋仲となる。やがて再建された自宅に戻ったお七は、再び火事になれば想い人に会えるかもと自宅に放火し、火刑に処された」という筋立てのもので、歌舞伎や浄瑠璃や浮世絵などの題材となった。ただし、話の粗筋には結構バリエーションがあり、また実際にわかっているのは、お七という娘が放火の罪で処刑されたことだけである。
境内には、八百屋お七を供養するため1719年に建てられたほうろく地蔵がある。この地蔵は、お七のために熱したホウロク(浅い素焼きの土鍋)をかぶって焦熱の苦しみを受けているとのことで、首から上の病気平癒に霊験ありといい、祠の前には願いを記したホウロクが多く納められている。

ほうろく地蔵
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ここの住職さんが絵が達者だそうで、絵馬がどれも味のあるものだ。
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そして、私が踊りあがって喜んだのは、地蔵堂の前に三体もの庚申塔があったのだ。
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延宝3年(1675)造立の、三面に猿を配した三猿庚申塔。
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元文5年(1740)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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青面金剛像や邪鬼は傷みが激しい。
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台座の三猿は、動きがあって面白い。
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天明4年(1784)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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青面金剛の像が明確で力強い。
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特にショケラが、腰巻一つなのがはっきりとわかり、「半裸の女人」としては今まで沢山の庚申塔データの中で最高だ。
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境内は、この句碑が語っているように、とても良い感じだ。
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本堂
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高島秋帆の墓にお参りする。
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寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。
しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳で死去した。

墓地の前には花がさたくさん咲き乱れていた。
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墓石
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花を楽しみながら立ち去った。
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中山道を挟み反対側の園乗寺に向かう。
「浄真寺または於七坂」を下ったところが園乗寺。
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園乗寺入り口にある「お七地蔵」
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本堂
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園乗寺入り口にあった「八百屋お七の墓」の説明。
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お七のお墓は3体並んであり、真ん中の石が処刑された当時に寺の住職が供養のため建てたもので、右側は歌舞伎役者岩井半四郎建立したもの、左側は近所の有志が270回忌の供養に建立したもの。
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ただし、八百屋お七のことを調べたときにWikipediaでは墓のことをこう述べた記事もあった。
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている[1](お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)。

八百屋お七の墓の横にも庚申塔があるのを発見(嬉)

天明4年(1784)造立の、剣人型青面金剛庚申塔。
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像はちょっと損傷が目立つ。
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邪鬼がいい出来だ。
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園乗寺から中山道に戻り、ちょっと歩くと「白山上」の交差点。
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やはり、好きな白山神社に寄ることにした。
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このお宮は、東京十社巡りで既に参拝している。
その記事を読む


また、このお宮には「白旗桜」という珍しい桜があります。
その記事を読む


この日、手水舎の上の白旗桜に、まだ花が残っていた。
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境内には、鮮やかに咲いたツツジもあった。
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「白山上」の交差点に戻って、歩き出すとすぐに東洋大学の正門。
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迫力ある入り口です。
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気持ち良く歩いていく。
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現在の大きな白山通りと合流。
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「千石」駅の前を通過。
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前方右側に、JR巣鴨駅の建物。やっと巣鴨まで来たぞ!
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JRの陸橋を通過。
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「おばあちゃんの原宿」が近いので、一気に人通りが増える(笑)
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江戸六地蔵の真性寺
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さあ、おばあちゃんの原宿・地蔵通りです。この通りが旧中山道。
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高岩寺・とげぬき地蔵尊
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境内の広場で一休み。
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菜の花に蝶々が。
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本堂
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「洗い観音」
巣鴨とげ抜き地蔵尊といえば、この観音様をタオルでこする光景が必ず放映されます。なんと、とげぬき地蔵は非公開で、これは「洗い観音」だそうです(笑)
御本尊のとげ抜き地蔵尊や、とげ抜き地蔵尊にまつわるお話しよりも、こちらの観音様のほうが有名みたいです。 
檀家の屋根屋喜平次が明暦の大火 ( 1657年 ) で亡くなった妻の供養のために寄進した聖観世音菩薩像は、永年に渡って使われたタワシで顔が磨り減ってしまい、平成四年に二代目の観音様に替わりました。
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洗うためにすごい行列です。
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まだまだ板橋まで歩くわけですが、次の記事とします。

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日本橋から板橋まで(その一)/中山道

20160421

4月16日に歩きました。
私が育ったところが信州で中山道に近く、高校の前の道が中山道であることもあり、両親の墓参りなどで帰郷するたび、ちょこちょこと中山道の宿場町を訪ねはじめていました。
それで、今回日本橋から最初の宿場町・板橋まで歩いて、これから機会をとらえて中山道を歩いて、とぎれとぎれではあるけれども出来るだけ繋げていきたいと思っています。

地下鉄東西線の日本橋駅を降りて地上に出て、9:15に日本橋に立ちました。
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翼のある麒麟に道中の無事を祈る。大袈裟(笑)
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道路中央の「道路元標」を確認。
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歩道に、その複製が置いてあります。
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歩き出して、すぐに三越の前。
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ライオンの前を通る。
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室町を歩いていって、今川橋を過ぎて、前方に総武線の高架が見えた。
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JR神田駅
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神田駅入り口に「健やかに/田中昭」という彫刻あり。
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現在の国道17号は右にカーブしていくが、旧中山道を直進。
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国道17号は万世橋を渡り、秋葉原の繁華街に。
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こちらは、神田須田町に。
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中央線快速の線路に突き当たり、
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その線路沿いに、ちょっと左に進む。
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この辺に、大木戸にあたる筋違御門(神田見附)があった。

江戸城を囲む、各門
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「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
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手前が神田川。左側の橋が筋違橋で、多少斜めにかかっているように見える。右端に昌平橋の一部が見える。
この絵によれば、私は左上からやってきて、川沿いに沿って行き、昌平橋を渡ります。

昌平橋を渡る。
前方の陸橋は総武線。
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昌平橋の上から万世橋を望む。
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昌平橋
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橋のたもとに「神田旅籠町」の説明があった。
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総武線と中央線快速の立体交差。向うに聖橋が見える。
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ちょうど地下鉄丸ノ内線の電車が見えた。
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昌平橋からちょっと行き、「神田明神下」の交差点を左折。
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神田明神の少し手前から、はやくも大型バスの路上駐車が続く。
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左が湯島聖堂
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右に神田明神。
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湯島聖堂と神田明神については、何度も訪れているので今回は立ち寄らず。

以前訪れたときの記事があります。
その記事を読む


その先には、日本医科歯科大学、順天堂大学が左手に続きます。
道の右手はホテル。
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「順天堂」の「天」の字が素晴らしい。
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「壱岐坂上」を過ぎてしばらく行くと、春日通りと交差する「本郷三丁目」交差点。
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交差点の左手前に「かねやす」のビルがある。
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 「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と古川柳に詠われ、享保年中(1716~36)に歯磨き「乳香散」で繁盛した兼康(現在は洋品店)がある。乳香散は兼康祐悦という口内医師が考案し売り出したものだ。本店は京都の今出川で本郷の店は芝柴井町にあった支店のさらに出店。ところが店先に幕を張り屏風を立て、番頭が乳香散の効能を面白おかしく喋るので評判になり人気が出たという。ただ、すぐ近くにも通称おもだか屋という歯磨商があって常々張り合っていたという。
「おもだかを買って兼康ただ聞かれ」という皮肉な川柳もあったという(笑)
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交差点を越えて左側にある「本郷薬師」を覗いてみる。
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地図を見ると、更にその奥に「桜木神社」があり、名前に惹かれお参りした。
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由緒の石碑を読むと、太田道灌が江戸城に北野天神を勧請して祀ったものが、ここに遷座されたものだった。
この神社の詳細は、別途記事にします。

その記事を読む


旧中山道に戻り、すぐに菊坂の入り口があり。
樋口一葉はじめ文豪が多く住んだことで名高い。
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そこからすぐに、右手は東大の敷地がはじまるが、これはまるまる加賀藩前田家の上屋敷跡だ。
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有名な赤門
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しばらく歩くと、正門
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今日は土曜なので、通用門だけ開いている。
銀杏並木が見える。
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まだまだ東大が続くる
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東大の前らしい店名の喫茶店と、時代がかった書店。
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「本郷弥生」交差点のところに、「かばんのお医者さん 吉田屋」というのがあり。
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もしかして、私の好きな「吉田のかばん」の本店かなと思ったが、家に帰って調べたら違っていた。
が、カバンの修理では知られた名店らしかった。

この一つ先の交差点(東大農学部正門近く)で本郷通りと分かれ、中山道は旧白山通りを行きます。
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曲がってすぐに「追分一里塚跡」の表示あり。
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その近くの喫茶店に気になるメニューが!
その名も「ハチ公カレー」
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一日限定5食とあります。
時間は11時15分。これならあるのでは、と思い聞いたらあるとのことだったので、ここで昼食としました。

来ました!
見た目は、とても可愛いですが、とても美味しかった。
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思い出しましたが、去年ハチ公の銅像が東大農学部キャンパスにも出来たんですよね。
カレーを食べながら、お店をしている年配のご夫婦と、そんな話をしました。
「ハチ公カレー」も東大の学生さんの提案で出来たそうです。
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(続く)

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桜木神社(文京区本郷)

20160421

鎮座地:東京都文京区本郷4-3-1
参拝日:2016年4月16日

この日、旧中山道を日本橋から板橋まで歩いていて、立ち寄りました。
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社号標
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手水舎
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由緒を記した石碑あり。
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櫻木神社由緒略記(石碑より)
櫻木神社は約五百年前、後土御門天皇の御宇文明年間に太田道灌が江戸築城の際菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられたものを其後湯島高台なる旧櫻の馬場の地に神祠を建立してその近隣の産土神として仰がしね櫻木神社と名付けられたといはれる。
其後元禄3年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌を設立するに当り更に現在の地に遷座即ち今を去る実に二百七十五年前の事である。
旧社殿は東山天皇の御宇の創建であるが六十四年を経た桃園天皇の宝暦三年に改築爾来連綿実に百九十一年昭和の大東亜戦争により烏有に帰し仮社殿であったが氏子相計り昭和三十四年九月新築落慶して今日に至ったものである。
本年之を再建せんとし幸い氏子有志の協力によりこれが完成を見たのである。
昭和四十年三月吉日 櫻木神社氏子中

拝殿
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本殿
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主祭神は菅原道真

神紋は「加賀梅鉢」
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さすがに、掛けられている絵馬は合格祈願のものばかり。
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社殿の右に桜樹あり。
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その近くに、寛政7年(1795)奉納の石灯篭あり。
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中台の獅子の彫刻がよかった。
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境内社・稲荷大明神
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阿須波神(あすはのかみ)/日本の神々の話

20160420

「座摩巫祭神五座」のうちの一柱の神

延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎにまつるかみ)五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
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平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である。

「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、宮中の敷地を守る神々とされる。『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している。

座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。

座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。

宮中諸神では、大御巫の祀る8神の祭祀は神殿(宮中三殿の1つ)に継承されているが、座摩神含む他の諸神もこの神殿の「天神地祇」のうちに含まれると考えられる。

阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-1(堀金村・中新田・上赤坂村)

20160417

4月12日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明は、井上さん、堀田さん、川田さん。

この日のルートは、入曽駅⇒堀兼神社⇒堀兼、上赤坂ふるさと緑の景観地⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼地区の新田開発⇒堀兼公民館⇒光英寺⇒鷹場標示石⇒馬頭観音⇒丸山弁財天⇒新狭山駅

堀兼地区の概要:
堀兼地区は狭山市の南東部に位置し、東三ツ木、加佐志、青柳、中新田、掘兼、上赤坂からなり、面積は狭山市の約24%を占め、その1/3が農地です。
(1)成り立ち
  堀兼地区は昭和29年(1954年)の市制以前は堀兼村と称していました。堀兼村の誕生は明治22年(1989年)4月、前年に公布された市制・町村制に基づいて発足しました。従って、堀兼村の誕生以前は、堀金→堀兼(明治20年以降)、東三ツ木、加佐志、青柳、中新田、上赤坂はそれぞれ独立した村でした。これらの村を大別すると、堀兼、中新田、上赤坂は川越五代城主松平伊豆守信網の開発計画により誕生した新田村であり、東三ツ木、加佐志、青柳の三か村は 江戸時代以前から在った旧村である。
(2)道と川
  この堀兼地区には、堀兼神社の前を通る南北の道は、往古、鎌倉(源頼朝)と信頼関係のあった川越(太郎重頼)および戦いのあった東≡ツ木との閏を、政治・軍事用として利用された鎌倉街道(上道の指道で堀兼道とも称す)があり、一方、乗西の道は江戸時代、入間地区などから中新田や堀兼を通って川越へ向かった商業用の新河岸街道が在ります。

下の地図は明治14年(1881年)測図です。★印の道路は旧鎌倉街道(上道)の脇道(堀兼道)と言われています。鎌倉街道は本来直線道路だと言われていますが、一部曲がっている所があります。何らかの都合で直線部が無<なったのでないかと言われています。往古、この鎌倉街道は鎌倉と川越間の往復や東≡ツ木の合戦時には、鎌倉武士が往来したのでないかと言われています。
・南北:
鎌倉街道★印[上道の脇道一堀兼道(堀兼一加佐志一東三ツ木一川越)、もう一つ東三ツ木一城山砦。
草刈街道●印(青柳一堀兼(草刈橋)一上赤坂)
・東西:
新河岸街道(入間地区一堀兼一中新田一川越)
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下は現在の地図
主な新設道路
・南北:東京狭山線(所沢堀兼狭山線:R126)の新設
・東西:
旧新河岸街道脇の川越入間緑(R8)の新設
東三ツ木一青柳(青下)-川越の直線道路の新設
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また、川は小流であるが、南に不老川、北に不老川に合流する久保川(新編武蔵風土起稿では不老川、川越市史全図では窪川と記載)が流れており、集落は街道や川に沿って形成されている。

堀金村の新編武蔵風土記稿記事
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中新田と上赤坂村の新編武蔵風土記稿記事
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この日は、9:20に入曽駅東口改札前に集合し市内循環バス乗り、堀兼神社に到着。

【堀兼神社】
元浅間神社、明治41年、42年に各村の神社を合祀して堀兼神社となります。境内には稲荷社、牛頭天王社、天満宮、下浅間社が祀られています。石段を上る途中には溶岩があり、右からの登り口には1合目、途中の5合目に小御嶽神社があります。また、境内に富士山登拝した氏子が持ち帰ったと思われるバラモミの切り株があります。
 堀兼道(鎌倉街道枝道) (西武新宿線新所沢駅の南で、鎌倉街道上道本道から狭山市堀兼に向かい堀兼道といわれる枝道が分岐していました。堀兼道は狭山市堀兼神社を越えて三ツ木原の古戦場址の手前で狭山市柏原の城山砦方面に向かう道筋と川越市上戸の河越氏館方面へ向かう道筋に更に分かれていました)
 随身門 (新編武蔵風土記稿によると仁王門―市内唯一の随身門で建立の時期は定かでありません。万延元年《1860》神像を塗り替えたという記録があります。 明治42年神像塗り替え 大正14年草ぶき屋根を銅板葺  向かって左 豊磐間戸命《とよいわまどのみこと》右 奇磐間戸命 《くしいわまどのみこと》)  
境内にある石仏群 (寛文9年の庚申塔  延宝5年の庚申塔  安永10年の庚申塔《文字塔》  嘉永7年の出羽三山供養塔  元文5年の馬頭観音)
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堀兼神社の詳細については、既に記事があります。
その記事を読む


ただ、バラモミについては今回、初めて知りました。
富士山登拝した氏子が持ち帰ったと思われるバラモミの切り株と石碑
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再植樹したバラモミ
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ここには、「堀兼の井」もあるのですが、この日の参加者は既に見ているので省略しました。
データは揃っているので、後日にアップします。

それから、この神社は富士塚の上に設けられた浅間社だったのですが、ここから富士山がよく見えた証しとして、富士の名が付く字名がたくさんあったことでわかります。
傑作なのは、ここの富士塚のために富士山が見えないので「富士隠し」という字名があった。
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【堀兼、上赤坂ふるさと緑の景観地】
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身近な緑が姿を消しつつある中で、この地域が「ふるさと緑の景観地」に指定されました。畑作地帯の中に典型的な武蔵野の雑木林としての景観をとどめています。
ふるさと緑の景観地 (狭山市堀兼・上赤坂ふるさと緑の景観地は、狭山市の南東部にあり、川越市と所沢市の行政界に接する畑作地帯の中にある大規模な平地林です。コナラ、イヌシデ、クヌギ、アカマツ、エゴノキ等から構成される武蔵野の面影を残す雑木林です。この地域の植生は、コナラ群落が大部分を占め、その他はシラカシ等の常緑樹林とコナラ・イヌシデ等の落葉樹林からなる混交林、スギ・ヒノキ群落などとなっています。
鳥類はツバメ、シジュウカラなど、両生類・爬虫類・哺乳類はアマガエル、カナヘビ、アズマモグラ、昆虫類はノコギリクワガタ、サトキマダラヒカゲなどが確認されています。)

東京・狭山線沿いの「アグレッシブ元気村」農産物直売所で休憩 
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また、しばらく林の中を歩く。
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【上赤坂の弁財天と庚申塔】
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上赤坂弁財天:
  旧堀金村と上赤坂村の村境に弁財天と庚申塔が並んで鎮座しています。近くに不老川が流れ、普段は水が乏しいのですが、いったん雨が降り出すと一面水浸しになり、村人は水で苦労したことが多く、水の恵みを受けたく弁財天の石塔をたてたのでしょうか。
弁財天の像容は、8臂と琵琶を弾く2臂が一般的です。しかし、上赤坂の2臂の弁財天は頭に鳥居を載せて宝剣と宝珠はもっていますが、琵琶はもっていません。元禄13年《1700》の造立です。台座には波の上を走る帆掛け船が刻まれています。新河岸川の水運の無事を願ってではないでしょうか。

庚申塔:
元文5年(1740)造立の青面金剛庚申塔で、日月瑞雲があり、一面六臂で、本手は合掌、他の四手は三叉矛・法輪・弓・矢を持ち、一邪鬼を踏み、台座に三猿があり。

【堀兼地区の新田開発】
 堀兼地区のうち堀兼、中新田、上赤坂の畑一面は、今は青々とした野菜畑が広がっていますが、往古はこの一帯宏大な原野で、承応年間から開拓民によって開発された所です。
○新田開発の経緯
 新田開発に毒手したのは慶安2年(1649年)、開発を命じたには松平伊豆守信綱で、信綱が広大な武蔵野の開発を決意したのは、年貢の増収を図ることで、藩の財政を少しでも豊かにすることに有りました。その候補地として堀兼、中新田などの一体が選ばれました。この地の選ばれた理由の-つは、城主松平伊豆守信綱が老中であり、幕府より川越藩の-部として公認されていた為でもあった。信綱は新田の開発を決意すると、この広大な土地開発を担うだけの指導力と経済力のある人を探しました。
 開発総責任者として上奥富村の名主の次男であった志村次郎兵衛を選任し、各地区に開発引受人を選任しました。
堀兼村:南大塚村の宮崎兵石衛門
中新田村:三河国の尾崎三左衛門
上赤坂村:島伊左衛門(辞退)一村田某
こうして承応年間(1652年~1654年)になると、開発予定地には近隣の村々から次男・三男が次々に入植し、本格的に開墾されていきました。
○新田の特徴
新田の特徴は土地区画が整然としている点にありました。入植者が与えられた土地は間口が約20問(約36m)、奥行きが約460闇(830m)前後で、短冊形の長方形でした。面積は3町歩(約3血a)前後でした。
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上赤坂の家並み、屋敷林の景観
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新田開発の名残を留めている長い短冊形の畑を通っていく。
畦畔茶がある。
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不老川を渡る。向うの橋が「草刈り橋」。
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反対側
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長い短冊形の畑を通っていく。
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この辺に「古多摩川」が流れていたという。出てくる石が皆川原石。
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【堀兼公民館】
手洗い休憩
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堀兼の碑
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【光英寺】
 光英寺の沿革については、数度の火災のため古い記録はありませんが、本堂裏にあります開山覚運和尚、中興開山栄俊の墓碑銘には、開山覚運は元禄7年(1694年)に亡くなっており、当寺の過去帳の最も古い年号としては、万治元年 (1658年)の記録があり、万治元年頃から元禄7年の間に創建されたのではないかと思われます。正式名称は堀兼山山王院光英寺で、宗派は真言宗(豊山派)です。
  新編武蔵風土記稿によると、堀兼地区には4つの寺がありましたが青柳地区の来光寺、加佐志地区の寶林寺、堀兼神社境内の心静院が明治初年に廃寺になって、光英寺だけが現存しています。

元護国寺の裏門を移したと伝えられる山門。
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本堂
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山門を入った左側に、立派な宝篋印塔あり。
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狭山の歴史学科石仏・文化財コース第1班(池田守、今野敞輔、山﨑茂、近藤彰男、山瀬和子、田島芳章)がまとめました『狭山市の宝篋印塔』から、この宝篋印塔の説明を転載しておきます。
・山門を潜って、左側の木立の中にある。竹林が三方を囲み雰囲気が良い。
・四メートル近い狭山市域屈指の宝篋印塔。台石を三段に高く積み上げた上に乗る。
・笠四面の隅飾りが大きく外に開く、江戸時代を下った塔の特徴を表わしている。
・上から順に、宝珠・上請花・九輪・請花・伏鉢・露盤・笠石・斗形・塔身・蓮台・返花坐・基礎・蓮台・敷茄子・返花坐・基壇・台坐・台石
・敷茄子に阿吽形獅子の浮き彫りが向かい合い、基壇に蓮の花を浮き彫りしている。しかし天明期造立と比較的新しいのに、塔身の蓮台が壊され、四面銘文が殆ど剥離している。石などで叩き剥がされたのだ。相当高いところにあるので子供の悪戯ではない。そうなると、明治初期の廃仏毀釈ということになるが、その凄まじかったことがあらためて思い知らされる。
・この塔は、硬く丈夫な石を使い全体にわたって彫が良い。造塔時は相当美しかっただろう。残念だが、これも先祖から伝えられた文化である。現代の我々が後代に伝える義務がある。

【鷹場標示石】
光英寺の近くにあり、見ることが出来た。
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尾張徳川家は寛永10年(1633)、将軍より江戸西方の地を鷹場として賜る。
承応元年(1652)、武蔵野を開発して新田とした松平信綱は、堀兼・上赤坂の2村を尾張家鷹場として寄進。
『徳川実記』によると、ほぼ2年に1回の割合で鷹狩りを実施。
享保元年(1716)、八代将軍吉宗により鷹場が再設置(返上は元禄6年=1693)。
翌2年5月、同家は再度江戸西方の地を鷹場として賜る。これを契機に、その範囲を示す標示杭を設置。堀兼村は2本、上赤坂・水野の両村は1本。

【馬頭観音】
  堀兼の集落も上赤坂の集落と同じように、道路に沿って北側に家が並び、その裏は屋敷林になっています。南側は短冊形の畑が並んでいます。堀兼の屋並みを見て、屋敷林の小路に入ると、個々に建立された墓地を見ることが出来ます。この墓地の片隅に狭山市で一番古い馬頭観音{正徳元年(1711年)}があります。

集落の中の曲がり角の、ここにその馬頭観音があった。
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屋敷林の小路から、それぞの墓地に入っていくようになっていて、その墓地にひっそりとあった。
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堀兼中学校の横を通って、新狭山ハイツまで行く。
堀兼中の農場が学校の横にあった。
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【丸山弁財天】
  武蔵野の原の、鎌倉街道のほとりに湧水があり、多くの旅人が渇を癒してよろこばれたのが、丸山の池であるといわれています。北條時頼が関東巡視の際、道に迷って渇を潤したのもこの池で、その時、時頼公が池のそばに弁財天をお祭りしたのがはじまりとされています。 寛政3年(1791)の正月に願主となり、武州青柳村丸山組中が石宮を建立して再興を計り、弁財天の祭典を正月の初巳の日と定めたとされています。
 池の水でお金を洗いますとその年の内にお金が倍額になるとの伝説があり、いつしか参詣する人達に「銭洗いの祭り」と呼ばれるようになって、その後、180年ほど経った明治の初期には、銭洗いの風習はなくなり、崇敬者が池に鯉や緋鯉・亀などを奉納して祈願するようになったとのことです。

新狭山ハイツの中にあり。
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池にはまったく水は無くなっている。
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弁財天
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由来を記した石碑
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以上で、この日の予定は終了。新狭山ハイツからバスで新狭山駅に出て、駅近くのレストランで昼食後、解散しました。


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御毛沼命(みけぬのみこと)/日本の神々の話

20160414

『古事記』では「御毛沼命(みけぬのみこと)」、『日本書紀』では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」と表記される。
神武天皇(初代天皇)の兄である。
『古事記』で「火遠理命」の巻、「鵜葺草葺不合命の生誕」の段:
海神の娘、豊玉毘売命がにわかに産気つき波打ち際で萱を葺いただけの産屋でお産をするが、火遠理命が覗いたところ、ワニの姿でお産をしていた。それを見られた豊玉毘売命は恥じて帰ってしまう。
生まれたのが天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。
火遠理命が豊玉毘売命を偲んで悲しんでいると、豊玉毘売命は玉依毘売を送ってくる。

この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、その姥玉依毘売命を娶して、生みし御子の名は、五瀬命、次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波礼毘古命。
かれ御毛沼命は、彼の穂を跳みて常世国に渡りまし稲氷命は妣の国として海原に入りましき。

ここで、神倭伊波礼毘古命が神武天皇である。

『日本書紀』神武即位前紀では、もうちょっと詳しく書かれていて、
兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、御毛沼命は「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。

また、宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命(御毛沼命)は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されている。


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袋田の滝

20160412

所在地:茨城県久慈郡大子町袋田3−19
訪問日:2016年4月9日

この日は、まず水戸光圀が植えたという樹齢320年余りの「外大野のしだれ桜」を訪ね、次いで樹齢約500年の「小生瀬の地蔵桜」を訪ねた後、この滝を訪ねました。

この滝は華厳滝、那智滝とともに日本三名瀑のひとつに挙げられ、日本の滝百選にも選定されている。1990年(平成2年)に行われた日本の滝百選の人気投票では1位を取ったそうです。

袋田の滝は、久慈川の支流滝川の水が、この固く何百万年もの浸食にも耐えてきた、かっての海底火山の噴出物が作る断崖から落ちることによって作られた。地形としては日光男体山の溶岩によって川がせき止められてできた日光の華厳滝に似ているが、この溶岩は約2万年前のもので、地質学的には袋田の滝の場合よりもはるかに新しい。また、袋田の滝の地形はせき止めによるものではなく、浸食に耐え残った約1500万年前の火山噴出物が作る「崖」である。

前後しますが、観瀑台にあった説明図もここに載せておきます。
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事前に調べて、無料駐車場はあるが、そこから1.5kmほど歩くようなので、できるだけ滝に近いところの有料駐車場に停めようと、国道461号線から分かれてどんどん入っていき、土産物店が並んでいる通りの入り口付近で停めました。
下図の「よねや」の辺でした。
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そこでもらった地図を見ながらぶらぶら歩いて料金所からトンネルに入ります。
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正面から滝の全景を観賞するためには、「袋田の滝 観瀑トンネル」(長さ276m、高さ3m、幅員4m)を通って第1・第2観瀑台へ行く必要があります。
従来の観瀑台(第1観瀑台)へは、袋田の滝観瀑トンネルを通り、徒歩約5分。滝の上から3段目の目の前にある(最上段は見えない)。
新観瀑台(第2観瀑台)が、2008年(平成20年)9月13日午後1時にオープン。袋田の滝観瀑トンネルの途中に新設した2機のエレベーターで、上部に上がる。最上段を含めた滝の全景を観賞することができる。

トンネルに入って、まもなく「滝見観音」があり。
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第1観瀑台の手前に、つり橋に向かう出口があり。
そこで撮っておこうと、出口の人に聞いたら、つり橋まで行って帰ってきても券があれば入れると云ってくれたので、先につり橋に行って横から滝を見た。
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再びトンネルに戻り、第1観瀑台から滝を見た。
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第2観瀑台に向かうエレベーターの前に、「四度瀧不動尊」あり。
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第2観瀑台から滝の全景を見た。
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ここまでの、三つの場所からの滝の眺めを動画で撮ったので、それを見てください。
音も一緒に聞いてもらったほうが、迫力があります。

その動画を見る


満足して、出口からつり橋を渡った。
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つり橋の下流には、大きな石がゴロゴロしている。
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実に大迫力なものを見たので、ちょっと疲れが出て、甘いお汁粉を食べて元気を取り戻し、帰途についた。


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小生瀬の地蔵桜(こなませのじぞうざくら)/茨城県久慈郡大子町

20160411

所在地:茨城県久慈郡大子町大字小生瀬4050
枝垂桜(江戸彼岸桜)、樹齢約500年(推定)。
撮影日:2016年4月9日

毎年、樹齢何百年という「名桜」を訪ねるのを楽しみにしていますが、今年訪れる予定にしているうちの一つで、この日、同じ大子町にある外大野のしだれ桜を訪ねた後、そこから車で10分ほどでこの桜を訪ねて来ました。

あちこちに設けられた「小生瀬地蔵桜」の案内に従って進み、駐車場に車を停めましたが、そこから小さい丘を上がって下ったところに目的の桜はあった。

案内
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丘を降りていくと、地蔵堂の向こうに桜があった。
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地蔵桜全景
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説明
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私たちが越えて来た、小高い丘に広大な寺屋敷があり、竜骨が秘蔵されたという伝説があるようです。八竜山地福寺の寺跡があります。現在、寺跡に地域有志により子安地蔵堂が祀ってあります。
シダレザクラは、幹周り約4m、推定樹齢500有余年、樹高約15m、幹周りは中央部が朽ち果て無惨な姿でありますが、四方に伸びる枝は隆々とたくましく、地域の有志が支柱を施して管理しているそうです。

中央の幹
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見ると、地蔵堂参道の石段があったのでそこを下りて、下から桜を眺めながら上がりました。
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石段の中間点から。
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参道を左に外れて桜を撮る。
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石段を上がりきる直前に、振り仰ぐ。
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こっち側からの幹。
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石段を上がりきると、桜越しに地蔵堂が見える。
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改めて、桜を撮る。
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伝承に出てくる「竜骨」とは、やはり龍の骨ということだろうか・・・・・・・・・

なんだか聞いたことがあるような気がしたので、家に帰ってから調べると、漢方薬の材料で「竜骨」は存在する。
基原(素材):古代哺乳動物(象・犀・牛など)の骨の化石。中国の北部および四川省に産する。
薬効:鎮静作用、収斂作用、止血作用 
薬理作用:臍(へそ)下の動悸を鎮め、不眠を治す薬として用いられる。
禁 忌:収斂の効能が強いので、湿熱・実邪には禁忌。

材料の「竜骨」の写真もあった。
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秘蔵品の伝承が、「龍の骨」だというほうが、ロマンがあって私は好きだが。

この桜を見てから、続いて「袋田の滝」にカミさんを案内した。


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外大野のしだれ桜/茨城県久慈郡大子町

20160410

所在地:茨城県久慈郡大子町大字外大野
エドヒガンの一種で別名糸桜、樹齢約320年(推定)。茨城県指定天然記念物。
撮影日:2016年4月9日

毎年、樹齢何百年という「名桜」を訪ねるのを楽しみにしていますが、今年訪れる予定にしているうちの一つ、この桜を昨日訪ねて来ました。
この桜を選んだのは、水戸光圀が植えたという伝承の桜だから。
去年から、水戸光圀にかなり惹かれています。
今年の観梅も、そういうわけで偕楽園に行ってきました。

事前に調べた情報では、地元では俗に「下大倉(しもおおくら)の桜」と呼ばれ、伝承によれば、かつて水戸光圀公お手植えの桜といわれ、「他所へ移植されても根付くな」と言う意味の和歌を作られたといいます。今その和歌の記録はありませんが、この木は挿木しても根付かないといわれています。

常磐高速を那珂インターで降りて国道118号線を北上、袋田駅の近くで461号線に乗り換えて、袋田の滝入り口を過ぎてから、「外大野のしだれ桜」の案内を頼りに到着しました。
大子町には有名な桜が多く、あちこちにしっかりと案内板が立っていて、迷わずにすみました。
とても有難かった。

駐車場から入り口の案内のところから斜面を上がります。
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すぐに桜の下の広場に出ました。
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県の説明
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下からの全景
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樹齢300年を越す、堂々とした幹。
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廻りを柵で囲んであり、ぐるっと一周できます。
向かって右の斜面から。
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背後から
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背後からの眺めを少しアップで。
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下に戻ってきて、横の家で接待をしていたので、寄らせていただきました。
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中は桜の写真のギャラリーとなっていた。
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桜の正面には祭壇があり。
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改めて正面から。
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各部のアップ。
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そばに、水芭蕉が少し咲いていた。
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水芭蕉と桜のツーショット。
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良い桜だったので、これで満足して次の桜に会いにいった。

(了)


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原山津見神(はらやまつみのかみ)/日本の神々の話

20160407

「二神の神産み」において、伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』において、「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「火神迦具土神」の段での記述は以下の通り。
(読み下し文)
かれここに、伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へむと謂へや」とのりたまひて、すなはち御枕方に新郎ひ、卸欝に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成りし神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。かれ、その神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。
 ここに伊邪那岐命、佩かせる十拳剣を抜きて、その子迦具土神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀の前に箸ける血、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は、石拆野、次に根拆野、次に石筒之男神。三神 次に御刀の本に箸ける血も、ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豐布都神。三神 次に御刀の手上に集れる血、手俣より漏き出でて成りし神の名は闇淤加美神、次に闇御津羽神。
  上の件の石拆野より下、闇御津羽神より前、併せて八神は、御刀によりて生りし守なり。
 殺さえし迦具土神の頭に成りし神の名は、正鹿山津見神。次に胸に成りし神の名は、淤縢山津見神。次に腹に成りし神の名は、奥山津見神。次に陰に成りし神の名は、闇山津見神。次に左の手に成りし神の名は、志藝山津見神。次に右の手に成りし神の名は、羽山津見神。次に左の足に成りし神の名は、原山津見神次に右の足に成りし神の名は、戸山津見神。正鹿山津見神より戸山津見神まで、併せて八神。かれ、斬りたまひし刀の名は天之尾羽張と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張と謂ふ。

「原」は平で開けた土地を表す。「ツミ」は住むの意なので、山頂が尖っておらず平らになっている山を司っているととらえられる。
山の上が平らになっている場所というのは、いつの時代も重要な場所になる可能性がありますね。


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高麗神社桜まつり「巫女舞」「獅子舞」

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昨日、4月3日(日)に高麗神社にて「桜まつり」が行われたので行ってきました。
今年は歴史クラブの行事としました。狭山市駅から電車で、JR川越駅経由で高麗川駅まで行き、そこから20分ほど歩いて高麗神社に到着。
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参道も桜が満開。
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社殿前の樹齢400年のエドヒガン桜が見事に満開。
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幹もすごい。
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しばし桜を堪能。
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この桜の根元には、今日楽しみにしている獅子舞を詠った折口信夫の歌碑い゛ある。
「山かげに 獅子ぶえおこる 獅子ぶえは 高麗のむかしを 思へとぞ ひびく」
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境内では、氏子の皆さんが餅つきをして、参詣客に振る舞っています。
その外にお団子や飲み物、お酒まで無料でサービスしていました。
(素晴らしい)
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外人さんが、喜んで餅つきに参加(笑)
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もうそろそろかな、と巫女さんの様子をうかがいながら待つことしばし。
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11時から「巫女舞」が行われました。
演目は「浦安の舞」です。
「浦安の舞」は、1940年(昭和15年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。
1933年(昭和8年)の昭和天皇御製
「天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」
が神楽の歌詞となっています。
今でも、大半の神社で、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事を祈って奉納されます。

巫女舞「浦安の舞」は動画で撮りました。

その動画を見る


終わった巫女さんは、斎館に戻り、本殿に一礼。
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記念写真に応じてから、斎館に入りました。
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使用された神楽鈴。
この間テレビでやっていましたが、この鈴は手で打ち出したものでないと、高い良い音が出ないそうです。
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ここで、皆で休憩と昼食を高麗家住宅近くの四阿でとりました。

高麗家住宅のところの樹齢400年の枝垂れ桜は盛りを過ぎていますが、まだまだ見ごたえがありました。
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再び、12時から巫女舞がありましたが、今度は遠くから桜越しに見ていました。
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そして、高麗神社の獅子舞が始まるのを待ちます。

高麗神社の獅子舞は、毎年例大祭(10月19日)の当日、氏子の人たちによって奉納されています。起源は明らかではありませんが、神社に残る資料によりますと、徳川時代初期から奉納されてきた事が知られます。また、雌獅子一頭、雄獅子二頭による三頭一人立ちの風流獅子舞に分類され、「ししっくるい」と称される程、勇壮な舞と哀調をおびた篠笛の響きが特徴的です。
鳴物は、「笛」・「ササラ」・「ホラ貝」、所役は、「棒使い」・「貝吹き」・「天狗」・「おかめ」・「ササラ」
「導き」・「獅子」・「笛方」・「唄方」と総勢50名程です。場面は、「宮参り」・「獅子がくし」・「竿がかり」「願獅子(がんじし)」に分かれ、場面毎に獅子の役者がかわります。

獅子舞には大きく分けて、「宮参り」、「雌獅子隠し」、「竿がかり」、「願獅子」の四種類があるようです。
□ 宮参り
小学生から中学生位までの子供が獅子となるため「子獅子(こじし)」とも言われます。客殿を出発、境内の外側を廻り、一の鳥居から境内に入り、参道を練り歩きながら本殿に参ります。その後、山上の水天宮に参り、役者が交代します。
□ 雌獅子隠し
「中獅子(なかじし)」と言われ、子獅子を終えた役者によって行われます。雌獅子隠しは、三庭の中で最も長く、獅子は水天宮を出発すると山下に戻ります。しばらく仲良く舞っていますが、突然一頭の雌獅子が花に隠され、それをいち早く探し出そうとする雄獅子が争いあいます。お互いを威嚇したり相撲をとったりする様が印象的です。
□ 竿がかり
「親獅子(おやじし)」と言われ、子獅子、中獅子を終えた役者が行います。仲良く花を愛でていた三頭の間に突然竿が入れられてしまい、取り残された雌獅子の元に行こうとする雄獅子が竿を乗り越えようとしたり、潜ろうとしたり様々な手を尽くします。
□ 願獅子(がんじし)
三庭のほかに行われる特別な獅子です。当社の獅子舞はご神前に奉納するに当たり、氏子は元より近隣の人々から様々な願がかけられます。願獅子はそれらのお願い事を神様に祈願するためのもので、役者も他の三庭を勤め上げた熟練者で無ければなりません。社殿を7回りし、ご神前に参るごとに激しく狂う様は、まさに「勇壮」の一言に尽きます。
「雌獅子隠し」と「竿がかり」の間に行われます。

高麗神社の獅子舞は、折口信夫が歌に歌ったほか、坂口安吾も『安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛 武蔵野の巻』という短編を書いている。

そのうち「宮参り」を動画で撮ったので、見てください。
後半の桜の下で舞う場面は、とても良く撮れたと思います。

その動画を見る


時間の関係で、この日は「宮参り」しか見ることができませんでした。
とても良い獅子舞だとわかったので、他の部分も撮りたいと思っています。

(了)


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高麗神社桜まつり{

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サイクリングロードの桜のトンネル

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所在地:埼玉県狭山市柏原

家のすぐ近くに、入間川沿いのサイクリングロードが通っていて、そこに1Kmくらいにわたって桜のトンネルがある。
そろそろ満開だろうと、今日はその下をウォーキングした。
今日は曇りなので、ちょっと花の色は冴えないが「花曇り」そのものだった。

ほぼ満開
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けっこう大きくなった樹もある。
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ほんとうに桜のトンネルで、毎年ここを歩くのを楽しみにしている。
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幹のあちこちから花が咲いている。
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七分咲きくらいかな。
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自転車で楽しむ人。
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気持ちよさそうにランニングする人。
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のんびりと歩く人
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横でグラウンドゴルフを楽しんでいた。
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なんと結婚式の写真を撮っている人も(笑)
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ラッパ水仙と
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何の花?
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桜の花だった(笑)
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ムラサキサギゴケの花のところにも
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ムラサキサギゴケもずいぶん咲いていました。
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土筆を発見!
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花桃もきれいだ。
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道路をはさんで反対側に、純白の花桃があった。
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これは素晴らしい!!
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満足して、振り返りながら帰途についた。
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(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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