走水神社

20160527

鎮座地:神奈川県横須賀市走水2-12-5
参拝日:2016年2月19日(下見)、5月11日

この神社にお参りしたのは、歴史クラブ春季定例見学会で訪れました。この日の見学会では二つ目の訪問地ですが、私には「神社巡拝」というくくりもあるので、ここを先に記事にしました。
幹事として下見にも来ているので、その際の写真も使用しました。空が曇っていたり晴れていたりと、写真が混在しますが、ご容赦ください。

横須賀で三笠記念艦を見学し、近くのポートマーケットで昼食してから、この神社にお参りした訳ですが、参加者45名の大型バスで移動しているので、神社の近くには停める場所が無く、近くの横須賀美術館の駐車場にバスを置いて歩きました。

入り口の大鳥居
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珍しい円柱の社号標
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 走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をお祀りしている。
 景行天皇即位40年、日本武尊が東征にて走水の地に到着、御所(御座所)を建てた。(現在の御所が崎)
走水の地にて軍船等の準備をして上総に出発するときに、日本武尊は自分の冠を村人に与えたので、村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てたのが、走水神社の創建。
 日本武尊は、上総国へ軍船で一気に渡ろうと船出したが、突然強い風で海は荒れ狂い軍船は転覆しそうになった。日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、
「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
と歌を残し、海中に身を投じられた。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来た。
以来、ここは水走る「走水」と言われている。
 上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたという、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったといわれております。
 また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着き、村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め「橘神社」としたが、明治18年に御所が崎(旗山崎)が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。

大鳥居と社号標のところに、弘化4年(1847)奉納の狛犬あり。
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手水舎
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河童伝説にちなんで、可愛い河童がいた。
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傍に湧水の説明あり。
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境内は山の斜面にある。
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境内図
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社務所を覗いたら、壁に弟橘媛命の絵が掛かっていた。
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あれっと思い帰ってから調べたら、「古事記」を特集した雑誌に載っていた絵だった。
「弟橘媛命の入水」/走水神社蔵
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まずは社殿にお参り。
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向拝部の彫刻
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参拝
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拝殿を斜めから
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拝殿内にある社額
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社額の左右にある、ご祭神の絵
日本武尊
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日本武尊と御后・弟橘媛命のペアの絵
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神紋は、「橘」と「十六弁八重菊」
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社殿から左手にちょっと上がると、走水湾を見下ろせる。
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残念ながら、この日は天気が悪くて向かいの房総半島が全く見えなかった(泣)
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下見のときには、快晴でとてもよく見えたので、ここに載せておきます。
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拝殿の前からも、晴れていればこのとおり。
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古代の「古東海道」のときは、ここ走水湾から向かいの上総国(富津崎)に「古東海道」が走っていた。
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それから、向かって左が御所ケ崎(または籏山崎)だが、そこに黒船騒ぎのときには川越藩が籏山台場を築いていた。
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それでは、高いところから順に境内社とか石碑などに巡拝していきます。

弟橘媛命の記念碑
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その上に三社(須賀神社・神明社・諏訪神社)があるようだったが、時間の関係でお参りできなかった。
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別宮:弟橘媛命に殉じた侍女を祀る。
4/19に下総国式内社を巡拝した時、「蘇我比咩(そがひめ)神社」に祀られていたのがその一人。
弟橘姫に付き従ってきた5人の女性もー緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰ったという。
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機械水雷:1910年に奉納された、日露戦争戦利品のロシア製機械水雷。
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稲荷神社(豊受姫命 (とようけひめのかみ)、宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ))
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稲荷神社の横にも古い石祠があり。
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水神社(河童大明神):
走水の地は特に水との縁が深く昔から水をお祀りしています。また、水の化身水神として河童の伝説もあります。河童は想像上の動物で、遭難した人を助けたり、漁業の手引きをし大漁をもたらしたとも言い伝わっています。
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もう二つ、石窟があり、何かが祀られていたが詳細不明。
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拝殿から石段を降りたところに「舵の碑」あり。
舵の碑:1975年、弟橘媛が荒海を鎮めた故事に因み、航海の安全を祈念して建立。
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針の碑:
昭和58年建立、針と衣類等に感謝。
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お砂:
白砂は走水神社に橘神社(弟橘媛命の社)が合祀される以前(1883年)橘神社があった御所が崎東海岸から小舟で運んで来て整斉したものです。
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お砂をいただいてきて、我が家の神棚に納めてあります。

包丁塚:1973年、当地で大伴黒主が日本武尊に料理を献じて喜ばれた故事に因み、建立。
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絵馬
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下から見上げた拝殿が、とてもいい感じです。
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皆さん、満足したようなので、次の予定地に向かいました。
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-2(青柳村)

20160526

5月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

堀兼地区の二回目で、堀兼地区の概要については、前回の記事に載せてあります。

今回の説明は、堀田さん、井上さん、川田さん。

この日のルートは、来光寺跡⇒馬知屋敷跡⇒丸山稲荷神社⇒青柳の馬頭観音⇒せんちゃん地蔵⇒氷川神社(富士塚、庚申塔)⇒青柳集会場⇒青柳下区共同墓地⇒釈迦堂⇒青柳下富士浅間神社⇒弁財天坐像


『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分
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明治14年作成の地図
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現在の地図
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新狭山駅南口からバスに乗り、「新屋敷」で下車。
バス停の付近はお茶畑。
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歩き出してすぐ、個人のバラ園に遭遇。素晴らしいです。
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【来光寺跡】
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来光寺由緒:
青柳778に建立されていたが、明治5年廃寺となる。
新義真言宗勝呂大智寺の末寺で、青柳山無量院と写し、恵光和尚が開山した寺と伝えられている。恵光和尚は寛文7年(1667年)に亡<なっている。
 なお 阿弥陀堂、大日堂は来光寺の持ちものでした。また 当寺が廃寺となったため、本尊の阿弥陀如来はじめ境内にあった墓石類は川越市大袋の東陽寺に納められた。来光寺跡は現在民家と畑になっている。

来光寺跡の前の道路は、当時「信者通り」と呼ばれていたそうです。
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【馬知屋敷跡】
所在地:東馬知屋敷、西馬知屋敷
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築城年:不明
城主:馬知木太郎
遺構:久保川沿いに屋敷があったと云われている。

【丸山稲荷神社】
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由緒:創立不詳。
古くから丸山地区の氏神として祀られている。
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

社号標、鳥居
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社殿が置くに鎮座
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第六天神社と八坂神社が合祀されている。
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中には、やはり三つの社が祀られている。
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【青柳の馬頭観音】
所在地:狭山市青柳226付近
 この馬頭観音は高さ93cm、幅31cm、台座高22cmの一面六臂の浮彫立像で享保14年(1729)3月に建てられたものです。市内では2番目に古いもので、一番古いのは堀兼にある正徳元年(1711)の文字塔です。
 馬頭観音は観音菩薩の変化仏の一つで、六道のうち畜生道にあつて、ここに墜ちた衆生の救済にあたる仏とされています。
 江戸時代に入ると馬は物資の運搬や農耕に欠かせないものとなり、その像容から馬の供養仏として多く建てられるようになるとともに、道しるべの主尊ともなりました。
 市内には地蔵菩薩の204基に次いで、馬頭観音は135基確認されています。
 この馬頭観音には、発菩提と施主に入間郡青柳村丸山奥富氏と刻まれているので、奥富氏が先祖供養のために建てたと思われます。
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 この馬頭観音には特徴が2つあります。
(1)珍らしい文字を刻む
 特徴の1つ目は浮彫像の右斜め上に「うはっきゆう」という珍しい文字が刻んであります。この文字は本来「烏
八臼」と書かれるのですが、ここでは「鳥八旧」となっており、烏ではなく鳥に、臼が旧となっていますが、3つの文字を組み合わせたものです。なお、この3文字の組み合わせ方は数通りあります。
 「うはっきゆう」は室町時代未から江戸時代後期の墓標に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓地に多いといわれますが、市内にはこの1基しかありません。
 それではこの不思議な文字の意味は何かということで、江戸時代から色々な説がありますが、現在のところ有力なものは久保常晴氏の説だといわれています。
 この説を要約すると「うはっきゆう」は梵字の「たん」を漢字で現したもので、この文字は滅罪(めつざい)成仏また吉祥成就などの意味を表すというもので、ここにある馬頭観音の銘文から考えると、この説が一番近いようです。
 なお入間郡の東部地域(富士見市、ふじみ野市、三芳町)の「うはっきゆう」調査によれば、富士見市の曹洞宗長谷寺には「うはっきゆう」を刻んだ墓碑が65基あるそうです。興味のある方は是非拝観してみて下さい。

「うはっきゆう」の文字
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(2)石 材
 特徴の2つ目は、この馬頭観音が約280年前に建てられ、覆屋(おおいや)が無いのに風化による像の傷みが少ないことです。頭上の馬頭は一部が欠けていますが銘文の彫りはしっかりしています。持物(じもつ)も右上の手に斧、右下の手に弓、左上の手に蓮華を持っているのが確認できます。何故この様に風化が少ないのでしょうか。
 それは江戸城修築時の残り石である伊豆石(いずいし)を使ったからだといわれています。伊豆石は硬く耐火性のある安山岩系の石で、伊豆半島の東海岸を中心に切り出されていました。
 しかし年代的に見て残り石ではないという説があります。
 青柳の馬頭観音が建てられたのは江戸城修築後約90年経っているので、残り石ではなくこれを建てるため新たに石を注文したと思われるというものです。
 丈夫な伊豆石は価格が高く誰でも使えるものではなく、名主級の裕福な家に限られていたと思われます。

「狭山博愛クリニック」でトイレ休憩
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【せんちゃん地蔵】
所在地:狭山市青柳414付近(久保川沿い)
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石橋供養塔(享保14年)。この近<の茶店を営む「せん松」というおじいさんが久保川の草刈をしていたした時にこの地蔵を掘り起こしたことから「せんちゃん地蔵」と呼ばれるようになった。
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傍に立っているのが「一石六地蔵(狭山市内で-基のみ)」
 元はどこに建てられていたのか分かりませんが、せんちやん地蔵の右側にあるのは、像が彫られている部分の高さが52cm、全高は99cmで、1石に6体の地蔵菩薩が刻まれており、正面に4体、右側に1体、左側に1体刻まれている浮彫立像の一石六地蔵です。
 右側に天明3年(1783)発卯(みずのとう)4月吉日建立、左側に武州入間郡青柳村 施主豊泉利左衛門と刻まれ、現当二世安楽と極楽往生を願って建てられたものです。
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【氷川神社】
所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475
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氷川神社、境内の富士塚、入り口の庚申塔については、既に記事にしてあります。

その記事を読む


氷川神社の近くに、もう一つ庚申塔があります。
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元禄11年(1698)造立の、合掌型一面六臂青面金剛庚申塔です。
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【青柳集会場】
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   青柳集会場前にある「開祖修徳之碑」によると、三ツ木村を開拓した三ツ木勇石衛門の一子庄石衛門が新屋敷に一家を文禄4年(1595年)創立しており、この頃から開拓が行われたと言われている。
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次の目的地に向かい歩いていると、枝豆が実りはじめていた(笑)
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この辺が、地名「水久保」といい、唯一水田であったところ。
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【青柳下区共同墓地】
青中、青丸、青新地区の墓地は個人の開拓地内にあるが、青下地区は共同墓地です。
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青下地区54家の共同妻地(青柳下区長の岩田家墓地もあり)
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馬頭観音(寛延3年)、念仏供薫塔(正徳4年)
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無縁仏墓地に権大僧都法印際宗、青石塔婆などが安置されている。
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釈迦堂橋を渡って、釈迦堂に向かう。
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【釈迦堂】
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・本尊:釈迦如来立像(石造)。銘文:延宝6年11月28日
・利白和尚が亡<なる時に、故心(出家者)を呼び「自分が亡<なったら、釈迦如来像を彫った墓石に自分の名をつけ一心に祈れば願い事がかなう」と言って亡<なった。
・その100年後安永5年(1776年)百姓安石工門の妻が子供を老母に預けて亡くなった。老婆は困りこの地蔵を-心に祈ったら「墓石近くの井戸の水を乳房に付け、朝夕水を飲めば乳が出る」と言われ、この通りにしたら乳が出た。
これを聞いた人々の参詣者が増え、信者によって堂が建てられ大変賑わった。縁日には見世物小屋が建ら、賭場も開かれたそうです。

「釈迦堂由来記」碑
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釈迦堂を開けていただき、釈迦如来立像(石造)を拝観させていただいた。
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【青柳下富士浅間神社】
所在地:狭山市青柳974
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「築造大願成就」碑の背面記事から、明治13年に20年もの歳月をかけて完成した富士塚です。

上り口脇の石祠
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富士塚頂上の奥の院は、富士山溶岩で覆われている。
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祭神は、木花開耶姫命

富士塚の側面には、色々な石碑あり。
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塚の挟には、弓なりに曲がった自然石を利用した 「富士三十七度大願成就」 の碑や「廿七度大願成就」 の碑があります。これは登山記念として先達らが一定回数の登山を果たしたとき、これを記念して建てられた碑です。
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碑には 「御八海」 と刻まれていますが、①山中湖、②河口湖、③西湖、④精進湖、⑤本栖湖 (以上が富士五
湖)、⑥明見湖、⑦須津湖(浮島湖)、⑧芦ノ湖のことです。
また、碑には「御中道」と刻まれていますが、標高377mの富士山頂上を中心として半径4Kmほどのところから円を描くように一周する道、すなわち、吉田登山道の経ガ岳の麓の五合目あたりから一周する道のことで 「御中道巡り」と称しています。

「胎内元祖日行靑○」碑
「胎内」とは長谷川角行が修行し、そして入寂した富士山麓の人穴のことを指す。
富士塚の構成要素に「お胎内」があり、この碑は「お胎内」に代わるものと思われる。
「日行」は長谷川角行の後継者日行日玥(にちぎょうにちがん)のことと思われる。
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それから元禄5年(1692)造立の、三猿型庚申塔があります。両側の猿が横を向いた変わったかたちをしている。
(写真は以前に撮ったもの)
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【弁財天坐像】
天明5年、下青柳
久保川と村と密接な関係にあったことを示す。
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これで、この日の予定は全て終了。もう南大塚駅に近いので、歩いていき、駅の近くのお寿司屋さんで昼食。懇談して解散しました。

(了)


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下照姫神(したてるひめのかみ)/高比売命(たかひめのみこと)

20160526

名前:
阿遅志貴高日子根神の同母妹
『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)。
『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。
『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命。

両親:
『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹。
『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘。
『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。

『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。
天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯‎を行った。
それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。
アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行った。
シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはない)。
『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹であるとしている。


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佐伎都比古命(さきつひこのみこと)・佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちみこと)/日本の神々の話

20160522

式内社・但馬國養父郡・佐伎都比古阿流知命神社(兵庫県朝来市)の祭神が、この二柱である。

昔、一人の人が船に乗って但馬国にやって来た。どこの国の人か、とたずねると「新羅の国の王子、名を天日槍(あめのひぼこ)という」と答えた。
その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。
この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。
一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。

また、『古事記』では前津耳は多遅摩の俣尾の娘で、天日槍の妻であると書かれており、女性だと考えられている。
『日本書紀』によると、垂仁天皇に天日槍の神宝を献上した清彦は、天日槍の曾孫にあたり、上記の諸助の孫。清彦が献上を躊躇った唯一の神宝の刀(出石)は、淡路島の祠に祀られ、今も由良湊に出石神社が存在する。

以上、よくわからない話だが、新羅の王子「天日槍」が渡来したときに最初に妻にした女性「前津耳」の両親だか先祖らしい。
天日槍は、古代の日本(敦賀から播磨、但馬)に大きな足跡を残した。
アメノヒボコの伝承地では鉄文化との関わりが強く見られることから、その方面では重要視される神である。
私は鉄文化の伝播の歴史に関心を持っているので、天日槍はかなり注目している神である。

また、『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っているが、佐伎都比古命はそのとき随行した神として挙がっている。
『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

よって、但馬国を開発した、饒速日命を奉じる氏族の祖先神ということであろう。



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45万アクセスありがとうございます

20160522

今日は、朝から出かけていて、先ほどアクセスしたら、カウントが「450014」でした。

長くやっているので、いずれは到達する数字ですが、切りのいい数字のたびに、感謝の気持ちになります。

最近は、歴史に特化した感じになっているので、そんなに読んでもらえるブログとは申せません。
しかもマイペースを貫いているので(笑)

これからも、無理せず、のんびりとマイペースでやっていきます。

今後ともよろしくお願いします。



寄居北条祭り

20160521

5月8日(日)に行われた「寄居北条祭り」を今年も楽しみました。
毎年楽しんでいますが、今年は歴史クラブの行事として催行しました。

本川越駅経由で、東武で寄居駅まで行きます。
駅前で、ポスターを手に入れ、今年はどうやって楽しむか、作戦。
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ここで大問題が!
毎年楽しみにしていた「琵琶の演奏」が今年は無い!!
これはショックだった。
「大福(おふく)御前」の物語を、この琵琶の演奏で知ったものでした。残念(泣)

しかも、京亭で色々な催しが行われていたのに、今年は開放されていなかったのもショックでしたね。

とりあえず「食の陣」に行って、時間をつぶしました。
旧北条勢力内の各都市から、B級グルメが出品されていて、なかなかの盛況。

食べものだけでなしに、こんなものを発見(嬉)
喜んで購入。
明治22年の「埼玉県全図」です。A1大でした。
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狭山市の辺は、こうなっていました。
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合戦の舞台の玉淀河原に行き、持参のお弁当を食べて、休憩していると、武者行列が始まったので、それを見に行った。
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なかなか、怖い武将だ(笑)
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手作り甲冑で参加している方。見ごたえあります。
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鉄砲隊も
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騎馬の武将
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ほら貝の音はいいですね。
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荒法師たち
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旗もち
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女武者の面々
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「くのいち」
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あでやか!
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ちびっこ軍団
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さて、合戦はどうだったかというと・・・・・・・
今年は放送で、各武者のセリフを流してくれて、とても分かり易いストーリーで合戦が進行して、素晴らしかった。
今までで、一番楽しめました(嬉)

動画で撮ったので、ユーチューブで楽しんでください。
(「その動画を見る」をクリックすれば見ることができます)

その動画を見る



(了)


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国立近代美術館/安田靫彦展

20160520

いつも私ばかりが出歩いている罪滅ぼしに、5月7日(土)にカミさんと出かけました。
都内に住んでいる娘も同行。

先に近くのKKRホテルで昼食を済ませてから、国立近代美術館に行きました。
竹橋を渡る。
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国立近代美術館
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カミさんの希望で「安田靫彦」展にしたが、もちろん私もこの作家は大好きである。
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ポスター
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例によって、私の好きな作品だけ載せておきます。

「木曽義仲図」
1899年10月(16歳)  151.5×84.7
木曽義仲と巴御前
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「御夢」
1918年9月 210.3×100.6
後醍醐天皇が笠置山で、夢を見た場面。この夢から楠木正成を重用することになる。
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「居醒泉」
1928年9月 117.5×174.5
倭建命が伊吹山の神にはげしい氷雨を浴びせられ製紙の境をさまよい、泉の水で蘇生した場面
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「役優婆塞」
1936年2月 173.7×119.6
役行者だが、通常鬼を従えた痩躯の老人で表わされるが、ここでは身心ともに頑強に描かれている。
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「赤人」
1938年3月 55.4×71.7
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「天之八衢」
1939年9月 94.7×127.3
天孫降臨の場面で、猿田彦神と天宇受賣命の交渉の場面を描いている
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「布都御魂御太刀」
1940年2月 68.3×87.3
神武天皇東征において、熊野で神武天皇が正気を失ったとき、高倉下がこの剣を奉じると目を覚まし難を逃れた。
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「古事記」
1946年 44.0×59.5
稗田阿礼が暗誦し、太安万侶が書いている。
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「飛鳥の春の額田王」
1964年9月 131.1×80.2
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「吾妻はや」
1971年9月 79.7×129.0
倭建命が、走水海で身を投げ海神の怒りを鎮めた、弟橘比売命を偲んで嘆いた言葉。
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「富士朝暾(ふじちょうとん)」
1975年2月(92歳)  41.6×32.4
この作品が、最後の展覧会出品作品だそうです。
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義高ウォーク2016/ガイド・コース誘導

20160519

5月4日(水)に行われた、狭山まちづくりストの会企画の「義高ウォーク2016」に、歴史クラブ地域連携部会から7名がガイドとコース誘導をして支援しました。
その支援状況の写真も載せて紹介したいと思ったのですが、一部の方の写真しか入手できなかったので割愛しました。
ご了承のほど。

「義高ウォーク」は、狭山市駅前から、ほぼ鎌倉街道跡をたどって、嵐山大蔵館跡まで歩こうというもので、全行程を歩くと約27Kmになります。

昨年は、私は一参加者として、毛呂山歴史民俗資料館まで歩きました。
それを読んでいただけると、だいたいのコースの様子がわかっていただけます。

その記事を読む



今年のポスター
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沢山の参加者
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歩き出す前に準備運動
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スタッフは、義高と大姫のイラストのTシャツを着ました。
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歴史クラブから参加したスタッフは、割り当てられた場所で史跡の説明と、コース誘導をするため車で移動しました。私もそうです。
だから各場所での写真は撮れていません。昨年の写真や後日いただいた写真を利用しました。

駅前から「女影古戦場」までのコース
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駅前から歩きだして、最初のポイントは「清水八幡」です。

【清水八幡】
清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。

写真は昨年のもの。
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その後入間川を渡り、次のポイントは「影隠し地蔵」

【影隠し地蔵】
ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
そこから鎌倉街道は信濃坂を上がりますが、そこにある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。

写真は昨年のもの。
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そこから、智光山公園の前を通り、しばらく歩いていくと、「日光脇往還」との交差点に出ますが、交差点の名前が「鎌倉街道」。(写真は昨年のもの)
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【日光脇往還】
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。(写真は昨年のもの)
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それから、いかにも「切り通し」らしい道を下っていくと、「鎌倉街道上道」碑があり、そこからしばらくあるいていくと「霞野神社」があり、「女影が原古戦場」となります。

【女影が原古戦場】
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をして打ち破り、ついに鎌倉に入ります。
鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている。

霞野神社を含む一帯が、女影が原古戦場といわれる。
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ここで、飲み物サービスがあり、休憩しながら説明を聞いてもらいました。
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それから、女影交差点を過ぎて、武蔵高萩駅の近くを過ぎると「旭ケ丘」住宅団地になります。
ここは戦前空軍士官学校の飛行場が設置され、戦後は大住宅団地となったため、鎌倉街道はまったくわからなくなってしまった。

旭ケ丘から西大家駅までのコース。
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ここでは、コースを間違いやすい三叉路やY字地点で、コース誘導を実施。

三叉路から正しいコースを気持ち良く歩いていく参加者。
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西大家駅横のコンビニで休憩。
ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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西大家駅横から毛呂山町歴史民俗資料館までのコース。
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ここから、コースは森戸橋を渡ってしばらく道なりに進んでいけばいいのですが、毛呂山町「市場」に入るところで、鎌倉街道旧道が残っているので、そこを誘導して、そのあとは参加者と一緒に歩きながら、要所で説明をしました。

【鎌倉街道旧道】
入り口は、雑草が繁茂していて、残念ながら歩ける状態ではない。
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ここは迂回してもらって、歩ける状態の道から歩いてもらった。
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それからしばらく歩いていくと、はっきりと鎌倉街道遺構がわかる場所に出る。

【鎌倉街道遺構】
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18年前に立てた毛呂山町の説明
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この説明のように、当時はこの説明の前が、大木が生えたものすごい藪であり、最初私がここを訪ねたときには、藪の中に無理やり入って行って、遺構らしきところを見たものだ。

それが、私が2011年にここを訪れた時にバッサリと木が切られていて、吃驚したものだ。
そのときの写真。
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現在の状態
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ここから、毛呂山町歴史民俗資料館までのコースは、とても気持ちのいい道で、大好きな道です。
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毛呂山町歴史民俗資料館に到着!!
ホッとしてしまい、写真を撮らなかった(汗)

昨年の写真を載せておきます(笑)
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無事に役目を終え、前庭で持参のお弁当にかぶりつき、団らんしながら休憩しました。
そして、嵐山に向かう参加者を送りだしてから、毛呂山町歴史民俗資料館の展示を見てから、帰途につきました。

(了)


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智光山公園の花

20160516

ずっと忙しくて、ウォーキングができなかったが、久しぶりにカミさんと智光山公園でウォーキングをした。

ここでは、いつも色々な花が眼を楽しませてくれる。

まずは「ユリノキ」
ユリノキの並木。
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この樹の花が好きで、この花を見るのを楽しみにしている。
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今日は、こんな面白い木を発見した。
「ニシキギ」である。
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花が面白い。
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バラ園も、薔薇が花盛りだった。
今日はウォーキングが中心で、カミさんに怒られるのであまり撮れなかった(笑)
ここで、たくさんの歴史クラブの方と一緒になって吃驚した。ウォーキングクラブにも入っている皆さんで、今日はウォーキングの方で来ていたのだった。

「ラ ペルラ」
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「ビバリー」
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「アユミ」
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「ツル サラバンド」
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「ダブルディライト」
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「ロナルドレーガン」
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「グレイス」
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「クイーン・オブ・スウェーデン」
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あとは、気持ちよくウォーキングした。

この林の中の道が、一番のお気に入り。
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(了)


二宮神社(寒川神社)(延喜式内論社)/千葉県船橋市

20160516

鎮座地:千葉県船橋市三山5-20-1
参拝日:2016年4月19日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、蘇我比咩神社、老尾神社、香取神社、麻賀多神社に続き、当社に参拝しました。

バスが駐車場に入る前に、道の真ん中に石碑があるのが見えたので、バスから降りて最初に見に行った。
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「延喜式内 寒川神社 二宮大明神」とある。
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社号標
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由緒:
社伝によれば、弘仁年間(810年-824年)、嵯峨天皇の勅命により創建されたという[3]。

平安時代中期の『延喜式』神名帳には「下総国千葉郡 寒川神社」の記載があるが、当社はその論社とされている。
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また、下総国の二宮として朝廷からの崇敬をうけたという(ただし旭市の玉崎神社も二宮を称する)。二宮神社と呼ばれ始めた時期は不明であるが、乾元2年(1303年)銘の梵鐘(成田市祥鳳院蔵)に「総州二宮社壇」とあることから鎌倉時代にはすでにこの呼称があったことがわかる。

また、治承4年(1180年)に藤原師経が左遷された際、藤原時平が相殿に合祀されたという。藤原時平は菅原道真の政敵であるため、天神の氏子は当社に参拝しなかったと伝わる。

三山氏が先祖代々神官を務めた。地名同様「三山」の名は古くは「御山」と見え、当社に起因する。

天正19年(1591年)には徳川家康から朱印地10石を与えられたほか、江戸幕府将軍からの寄進は幾度にも及んだ。安政5年(1858年)刊の『成田参詣記』では「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」の図の挿絵とともに紹介されている。

明治に入ると、近代社格制度において郷社に列した。また、明治43年に若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀した。

古来より「注連下」(氏子の区域)は21・3ヶ村(現在の船橋市東部・北部、習志野市、八千代市、千葉市西部)にまたがる広大な地域に達し、現在でも例祭などで、その影響力を見ることができる。

一の鳥居
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鳥居の横に、注連縄がかけられた石があるが、説明が無いので不明。
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正面の鳥居から参拝すると参道はいったん低くなり、谷を横断して進むように作られている。なお、谷の底部には小川が流れており、その水脈は習志野市の津田沼に鎮座している菊田神社境内にある池へとつながっているといわれている。
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谷の底部、参道の左側にポンプ式の井戸あり。
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谷底を直線に進むと石段をのぼりおわる頃に拝殿の向拝の唐破風が見えてくるようになっており、大きく雄大な唐破風の曲線、そして雄渾な彫刻をゆっくりと鑑賞できるようにと大工棟梁のデザインの工夫が凝らされている。
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石段を上がりきると左に、ご神木の大銀杏があり。
すらりと伸びた巨木は、 市内で最も高いイチョウで御神木として崇められています。またイチョウだけでなく、神社境内には多くの種類の叢林があり、 こうした貴重な自然環境によって守られています。樹高は25m、幹回りは4.71m樹齢約400年とも言われ、鳥居をくぐると現れるその姿は圧巻です。
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石段を上がったところに、明治十○年奉納の狛犬。
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現在の社殿は安永年間(1772-81)に再建されたものである。本殿・拝殿とも屋根は銅板葺であるが、本殿は大正11年(1922年)10月に、拝殿は大正14年(1925年)に茅葺屋根から葺き替えられた。この社殿の平面形式は江戸時代に流行した権現造だが、拝殿から幣殿にいたる床面の高さは同じになるようになっている。また、軒の組物及び腰組も当時の正規の宮大工の手法によって意匠と造作がなされている。昭和53年(1978年)10月25日に船橋市の有形文化財に指定された。

拝殿
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拝殿前に大正8年奉納の狛犬。
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拝殿の彫刻が立派。
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拝殿内部
四神旗が並んでいる。
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幣殿
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本殿
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本殿の彫刻

董永の故事/二十四孝
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孟宗の故事/二十四孝
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瞬の故事/二十四孝
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唐夫人の故事/二十四孝
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ご祭神は、建速須佐之男命、櫛稻田比賣命、大國主命、藤原時平公、大雀命(おおささぎのみこと)

神紋は「亀甲に七曜」、星を象った紋。
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神楽殿
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境内に勢いよく泳ぐ鯉のぼりが。
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末社は3ケ所にあったが、残念ながら表示がなく不明。
若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀したとあるので、それも含まれているかもしれない。

正面入り口横
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脇入り口横
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正面参道の左
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これで、当社の参拝を終え、続いて「意富比神社(船橋大神宮)」に向かいました。


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麻賀多(まかた)神社(延喜式内社)/千葉県成田市

20160514

鎮座地:
大宮:千葉県成田市台方字稷山
奥宮:千葉県成田市船形834
参拝日:2016年4月19日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、蘇我比咩神社、老尾神社、香取神社に続き、当社に参拝しました。

最初に、現在の神社の北方1kmのところにある、「伊都許利命」の墳墓がある「奥宮」に参拝しました。
当社はまず奥宮に祀られ、のち台方に前宮が出来たと考えられる。
神社の由緒などは、後述します。

【奥宮】=船形麻賀多神社(手黒社)
奥宮の社号標
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鳥居
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鳥居をくぐると、すぐに右側に「伊都許利命」の墳墓がある。
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墳墓から出土した石
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石櫃
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二の鳥居
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手黒社というのは、奥宮のこと。
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手水舎
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拝殿
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社額
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本殿
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ご祭神は、椎日女命(わかひるめのみこと)
天照大神の妹神です。

境内社
右から、菅原神社(菅原道真)、熊野神社(家都美御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神)、世直神社(不明)、粟生日神社(不明)、高津神社(仁徳天皇)
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加志波比売神社(賀志波比賣命)
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八代稲荷神社(宇迦之御魂神)
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香取神社(経津主神)
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ご神木の大杉
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それから、大宮のほうに移動した。

【大宮】=台方麻賀多神社(稷山社)

社号標
社格:延書式内社 印旛郡麻賀多神社 小、旧国幣社、旧郷社
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社名の謂れ:
「マカタ」は「真潟」であり、昔は、この付近まで潟が迫っていたのであろう。台方も「台潟」の意で、台地下の潟に沿った所と言うことであろう。
由緒:
 その昔日本武尊東征の折、この地方の五穀の実りが悪いのを知り、里人を集め大木に鏡を懸け、その根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願したところその後は豊作が続きました。
    今から1700年余前(応神天皇)のころ伊都許利命(イツコリノミコト)が印旛の国造に任命され、この地方の開発に尽くされた時に、夢のお告げに稚日女尊(ワカヒルメノミコト)の和久産巣日の神を祀れとの霊示を受け、大木の根本から玉(勾玉)を振り出して、御鏡と共に霊代として併せて祀り、麻賀多の大神として奉斎したのが創祀。
のち 推古天皇十六年(608)に伊都許利命の八世の孫、広鋤手黒彦(コソテクヒコ)が現在地に社殿を造営し、麻賀多の大宮と名付けました。
本地に鎮座以来1360余年、印旛郡下十八麻賀多の総社として、筒粥祭・御田植祭・豊年神楽などの古い儀式が継承され御祭神にゆかりのある古い地名等も現存しております。また明治5年に「郷社」に、昭和10年御神木「大杉」は県の天然記念樹に、更に近年本殿は市の文化財に、神域は史跡に選ばれ、産業・開運・長寿 厄除けの守護神として崇められています。
*この神社は国幣社で勅使の往来があり印旛湖畔に建つ大鳥居は、桓武天皇の頃勅使大伴家持の寄進によるものとされています。
*社名の由来:延書式神名帳に社名を記載の際「真賀多真(マガタマ)」が三種の神器の一つと同名であるとして、一字を取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であるところから、麻賀多神社に社名を改めた。(延書式神名帳には、「麻賀多神社」と記載されている。
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*この神社の社紋は麻の葉をデザインしており、最近まで赤ちやんの産衣に麻の菓を入れて健やかなる成長を祈願しており、お子様の守り神でもあります。
*麻賀多神社18社は、成田市に2社、佐倉市に11社、酒々井市に2社、富里市に2社、八千代市に1社、です。全国的に見ても珍しい名前の神社です。
印旛沼の東側から南にかけてのみ存在する神社であります。

境内図
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鳥居
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手水舎
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参道
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台方麻賀多神社(大宮)は、台方字稷山にあるので稷山社(あわやましゃ)と呼ぶ。
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更に石段を上がると社殿があり。
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拝殿
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向拝部
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社額
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拝殿内
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拝殿の横から本殿に。
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ご祭神は、和久産巣日神(ワクムスピノカミ)
(別名・稚産塞神)
祭神は伊勢神宮の内宮(天照大神)の姉神。

神紋は「麻の葉」
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境内社に参拝

天之日津久神社
近代の予言である「日月神示(ひつきしんじ)」:
画家であり神道家でもあった岡本天明が、この天之日津久神社に参拝後、社務所で休んでいたら、突然右腕が動き出し自動書記が始まった。これが後に「日月神示」「ひふみ神示」「一二三(ひふみ)」と呼ばれる天啓の発祥。
昭和19年6月から昭和36年までの17年の間に書かれた37巻(残り13巻が未完)が現存、岡本は2年後昭和38年没。
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天神神社(菅原道真)
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猿田彦神社
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青麻神社(天照大御神、月読神、天之御中主神、常陸坊海尊)
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幸霊神社(ご祭神の幸魂)
幸魂は、人を幸せにする神霊。
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古峯神社(日本武尊)
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三峯神社(伊弉諾尊、伊弉册尊)
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印旛国造神社
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馬来田郎女神社
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祓戸神
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:ご神木
「東日本一の大杉」県指定天然記念樹
樹齢:1400年余を誇り、推古朝からと言われる。太さ8m・高さ40m余の不老長寿祈願のご神木です。

全景
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根元は木道を巡らして、根を保護している。
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その太さには圧倒されます。
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これで当社の参拝を終え、続いて船橋市の「二宮神社」に向かいました。


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下総国一之宮・香取神宮(延喜式内社)/千葉県香取市

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鎮座地:千葉県香取市香取1697
参拝日:2016年4月19日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、蘇我比咩神社、老尾神社に参拝し、当社の前まで到着してから昼食を取り、休憩してから当社に参拝しました。

社号標
社格等:式内社(名神大)、下総国一宮、 旧官幣大社、勅祭社、別表神社
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社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。

奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)藤原良継の病の際には「氏神」として正四位上の神階に叙されている。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳(3ページ)には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載されており、式内社(名神大社)に列し、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。なお、同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった。また下総国では一宮に位置づけられ、下総国内からも崇敬されたという。

中世、武家の世となってからも武神として神威は維持されており、源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰された。一方で、千葉氏を始めとする武家による神領侵犯も度々行われていた。また、この時期には常陸・下総両国の海夫(漁業従事者)・関を支配し、香取海を掌握して多くの収入を得ていた。
千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下、天正19年(1591年)に1,000石が朱印地として与えられた。その後開かれた江戸幕府からも崇敬を受け、慶長12年(1607年)に大造営、元禄13年(1700年)に再度造営が行われた。現在の本殿・楼門・旧拝殿(現・祈祷殿)は、この元禄期の造営によるものである。

明治4年(1871年)5月14日、近代社格制度において官幣大社に列し、昭和17年(1942年)に勅祭社に定められた。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

香取の古名は「楫取」と書き、一般には舵取りの意味と考えられている。当地は利根川の側に位置し、霞ヶ浦から鹿島灘への要衝にある。大化の改新以後、全国に神郡が設置されたが、当地域は、香取神郡となった。

当然のことながら、香取神宮は広い。
香取神宮のHPに記載の境内案内図を頭に入れて、参拝を開始した。
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朱塗りの大鳥居をくぐる。
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深い木立の中の参道をしばらく歩く。
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これだけは絶対にお参りしないといけないと思っていた「要石」に通じる入り口の案内があったので、こっちを先にお参りすることにして入っていく。
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護国神社に通じる参道を行く。
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山道だが、石段が整備されている。
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まず、護国神社がある。
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その奥に「要石」がある。
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要石は石の柵の中にあり。
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傍に、末社「押手神社」あり。
ご祭神:宇迦之御魂神
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総門に通じる参道に戻ります。
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石の大鳥居の前まで来ました。
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左手に「神池」あり。
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石の大鳥居
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それをくぐると、総門前石段の下左右に大きな狛犬あり。
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総門
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手水舎
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楼門
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楼門の彫刻
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随身
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楼門をくぐる。
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楼門の内側には、木製の狛犬が侍っていた。
昭和初期の作だそうで、元・陸軍習志野鉄道隊にあった神社の狛犬。
戦後の撤収で取り壊されるところを、香取神宮が引き受けたものだそうですが、とてもいい出来です。
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拝殿
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向拝部の彫刻
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拝殿内部
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幣殿
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拝殿でお参りしたあと、本当は宝物殿に入り、黄瀬戸の狛犬を拝観したかったのですが、時間の関係で無理なので、社務所で写真が載っている冊子を探しました。
幸いにして、ありました(嬉)

国宝「海獣葡萄鏡」 中国隨時代
奈良正倉院御物、四国大山祇神社の神鏡と共に日本三名鏡といわれる。
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重文「古瀬戸黄釉狛犬」 南北朝時代
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拝殿の横から本殿が見えるところに移動。
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本殿
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拝み懸魚、降り懸魚が金の細工で美しい。
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妻側の彫刻
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【御祭神】
主祭神:経津主神(またの名は伊波比主命)
相殿神:武甕槌命、比賣神、天兒屋根命

経津主神については、別記事にしてあります。

それを読む


神紋は「五三の桐」
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摂社「匝瑳神社」
ご祭神:磐筒男命・磐筒女命
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ご神木「三本杉」
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「旧拝殿」
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楼門前右にある末社に参拝。
「諏訪神社」
ご祭神:建御名方命
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その近くに「黄門桜」があり。
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楼門前左には「木母杉」があり。
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楼門の左手には、末社・馬場殿神社あり。
ご祭神:建速須佐之男命
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その左手には、末社二社が合祀されていた。
・市神(いちがみ)社(事代主命)
・天降(あまくだり)神社(伊伎志爾保神(いきしにほがみ)・鑰守神(かぎもりがみ))
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これで時間切れとなり、参拝を切り上げたが、参拝できなかった摂末社は下記の通り。
・奥宮
・鹿島新宮(武甕槌命・天隱山命(あめのかぐやまのみこと))
・六所神社(須佐之男命・大國主命・岐神・綿津見神・雷神)
・花薗神社(六所神社に合祀、靇神)
・櫻大刀自神社(木花開耶姫命)


ここから続いて、「麻賀多神社」に向かいました。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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