中山道小田井宿散策
20160630
6月27日(月)に、両親の墓参りに佐久に行ったあと、この宿を歩きました。
ここは、中山道六十九次のうち、江戸から数えて21番目の宿となります。
大名の奥方や姫君が泊まり、女性が安心して利用できたので「姫の宿」と呼ばれた。
歩いたのは、追分「分け去れ」から皎月原(こうげつはら)までです。

小田井宿を描いた浮世絵

【追分の分去れ】
北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へむかう分岐点となりました。
左が国道18号線(中山道)、右が北国街道です。

「追分の分去れ」については、「追分宿」の記事で詳しく書いています。
その記事を読む
すぐに、旧中山道は国道18号線と分かれます。

「いちにちじゅうやまみち」と読む(笑)

旧中山道

すぐに「中山道69次資料館」があります。
【中山道69次資料館】


ここが、中山道全体の資料館としては唯一だと思います。
館内は、69宿すべてに平等なスペースを設けていて、中山道全体を楽しむことが出来ます。

日本橋

板橋宿

大宮宿(氷川神社)

龍吐水

からくり儀右衛門のからくり人形

縄文時代の石棒

柳田国男著「石神問答」

ここで、館長さんから「ミシャクジ神」だと云って見せていただいた。

「ミシャクジ神」については、諏訪大社がらみで諏訪地方の信仰について調べたときに知り、大変関心を持っていたので、館長さんとかなり色々と楽しくお話をさせていただいた。
館長さんは、徳島の方で、高校の地理の先生をしていたが、中山道に惹かれてしまい、とうとうここに住みついてしまったという、ユニークな方でした。
庭には、ミニ中山道が造ってありました。
日本橋

板橋

万次の石仏(下諏訪)

和田峠

資料館の館長さんに再会を約して、進みます。
日陰が欲しい暑さでした。

【御代田の一里塚】
しばらく行くと、右手にあります。
入り口

浅間山は、頂上が雲に隠れている。

この一里塚には、見事な桜が生えているので、以前桜を撮りにきました。
その桜の紹介を兼ねて、そこに一里塚の説明も載せてあるので、それを読んでください。
その記事を読む
もう片方の一里塚

そこから少し行くと、しなの鉄道線路にぶつかり、旧中山道は地下道となります。
そこを渡る前に、旧御代田駅跡を見ていきます。
【旧御代田駅】
旧御代田駅はスイッチバックの駅として有名で、私は小学生のときに遠足で一時間くらい歩いて、スイッチバックを見にきました。
群馬県側の横川駅から、アブト式(歯車を利用した滑り止め)で一気に長野県側の軽井沢まで上り、そこから再び碓氷峠ほど急勾配でないにしろ、結構な勾配を小諸に向けて駆け下りてくるのです。昔の重たい蒸気機関車では止まっていられない勾配というわけで、スイッチバック方式で駅を設けました。
この駅に停車する列車は、水平に設置された分岐レールによって駅に入っていき停車しました。
東京からきた列車は駅に入っていき停車し、客が乗降後バックで発車していき、本線に乗ったら停車。そののち小諸方向に走っていったのです。
旧御代田駅跡地には、デコイチが置かれている。

線路に目を凝らせば、まだ引き込み線のポイントが残されている。

【地下道】
地下道入り口の表示。行き先は塩名田になっている。

地下道


地下道を上がり、右手の信号の斜め方向が旧中山道。

そこからしばらく歩いていくと、「小田井宿入り口」となる。
【小田井宿入り口】


根元に小さな道祖神があり、近くに筆塚がある。


少し行くと、小田井宿説明板があり。


【皇女和宮拝領人形】
小田井宿祭りには、有名な「皇女和宮拝領人形」も登場するようだ。

給仕をした少年に、和宮が恵与したもの。

【長倉諏訪神社】
鎮座地:長野県北佐久郡御代田町御代田小田井
説明板の向かいの細い道を入っていくとある。社叢が見える。

鳥居
注連縄が面白い

この社は、『延喜式神名帳』に、信濃国 佐久郡鎮座 長倉神社と載る、れっきとした式内社である。
現在は、長倉神社・諏訪神社合殿と称している。
もと伍賀村久能の宮平にあったと伝。長倉牧と関係あるものと思われる。それは「藁馬」からも推測できる。
明治16年造立だが、この狛犬はとても気に入りました。




社殿


社額

拝殿内

随身


ご祭神:天兒屋根命
(合祀神:健御名方命
神馬舎の写真は撮り忘れた(汗)
中の藁馬


町指定無形民俗文化財「小田井の道祖神まつり」に使われる藁馬。
毎年2月に行われる民俗行事で、子供たちがこの藁馬を町内中引き歩き、ここ長倉・諏訪神社でお祓いを受けます。子供たちの和合、無病息災の祈願行事だそうです。
境内には、「宮型の道祖神」がたくさん祀ってありました。


街道に出ると、お休み處が。


【寶珠院】
所在地:長野県北佐久郡御代田町大字御代田1814
藁ぶきの鐘楼が良いというので、寄りました。

樹齢300年以上、二本の幹を寄せ植えしているアカマツ。


鐘楼



寺用水の「桝石」


本堂

【本陣跡】




【上の問屋】



【下の問屋】



【脇本陣跡】
現在、建物は無し。街道脇の用水が良い。

宿屋らしい建物

静かです。

小田井宿を出るところにあった石仏群

不明

大乗妙典八十八番供養塔

不明

顔が実に良し。

馬頭観音

これは塞の神としての「ミシャクジ神」だと思います。

「ミシャクジ神」については、記事にしてあります。
その記事を読む
【皎月原(こうげつはら)】
旧中山道が国道と合流する交差点のちかくにある。

公園になっている原は、気持ちのいい空間だった。

これは、白山宮だろう。

「旧跡 皎月歌碑」
享保七年(1723年)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人が、当時の小田井本陣主安川庄右衛門に送った文書「夢想皎月記」の中に見られる。
「むかしより かわらぬ影を うつしてや 月毛之駒の 跡のみちしば」


この古歌を昭和十年当時の御代田村が浅井洌氏に揮毫を依頼して建立したのがこの歌碑である。
浅井洌氏といえば、有名な「信濃の国」の作詞家。
原には、白樺も生えていて、しばしのんびりと休憩した。

これで、小田井宿の散策は終了。
いつも必ず寄る、軽井沢のスーパー「ツルヤ」に直行して、コーヒー飲みながら休憩したあとショッピング。
私が必ず買うのは、「イナゴの佃煮」、ヨーグルト、チーズ。今回は生の杏も買った。キノコも地物があったので買った。
カミさんも、ずいぶんと色々なものに手を出していた(笑)
(了)
「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ
ここは、中山道六十九次のうち、江戸から数えて21番目の宿となります。
大名の奥方や姫君が泊まり、女性が安心して利用できたので「姫の宿」と呼ばれた。
歩いたのは、追分「分け去れ」から皎月原(こうげつはら)までです。

小田井宿を描いた浮世絵

【追分の分去れ】
北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へむかう分岐点となりました。
左が国道18号線(中山道)、右が北国街道です。

「追分の分去れ」については、「追分宿」の記事で詳しく書いています。
その記事を読む
すぐに、旧中山道は国道18号線と分かれます。

「いちにちじゅうやまみち」と読む(笑)

旧中山道

すぐに「中山道69次資料館」があります。
【中山道69次資料館】


ここが、中山道全体の資料館としては唯一だと思います。
館内は、69宿すべてに平等なスペースを設けていて、中山道全体を楽しむことが出来ます。

日本橋

板橋宿

大宮宿(氷川神社)

龍吐水

からくり儀右衛門のからくり人形

縄文時代の石棒

柳田国男著「石神問答」

ここで、館長さんから「ミシャクジ神」だと云って見せていただいた。

「ミシャクジ神」については、諏訪大社がらみで諏訪地方の信仰について調べたときに知り、大変関心を持っていたので、館長さんとかなり色々と楽しくお話をさせていただいた。
館長さんは、徳島の方で、高校の地理の先生をしていたが、中山道に惹かれてしまい、とうとうここに住みついてしまったという、ユニークな方でした。
庭には、ミニ中山道が造ってありました。
日本橋

板橋

万次の石仏(下諏訪)

和田峠

資料館の館長さんに再会を約して、進みます。
日陰が欲しい暑さでした。

【御代田の一里塚】
しばらく行くと、右手にあります。
入り口

浅間山は、頂上が雲に隠れている。

この一里塚には、見事な桜が生えているので、以前桜を撮りにきました。
その桜の紹介を兼ねて、そこに一里塚の説明も載せてあるので、それを読んでください。
その記事を読む
もう片方の一里塚

そこから少し行くと、しなの鉄道線路にぶつかり、旧中山道は地下道となります。
そこを渡る前に、旧御代田駅跡を見ていきます。
【旧御代田駅】
旧御代田駅はスイッチバックの駅として有名で、私は小学生のときに遠足で一時間くらい歩いて、スイッチバックを見にきました。
群馬県側の横川駅から、アブト式(歯車を利用した滑り止め)で一気に長野県側の軽井沢まで上り、そこから再び碓氷峠ほど急勾配でないにしろ、結構な勾配を小諸に向けて駆け下りてくるのです。昔の重たい蒸気機関車では止まっていられない勾配というわけで、スイッチバック方式で駅を設けました。
この駅に停車する列車は、水平に設置された分岐レールによって駅に入っていき停車しました。
東京からきた列車は駅に入っていき停車し、客が乗降後バックで発車していき、本線に乗ったら停車。そののち小諸方向に走っていったのです。
旧御代田駅跡地には、デコイチが置かれている。

線路に目を凝らせば、まだ引き込み線のポイントが残されている。

【地下道】
地下道入り口の表示。行き先は塩名田になっている。

地下道


地下道を上がり、右手の信号の斜め方向が旧中山道。

そこからしばらく歩いていくと、「小田井宿入り口」となる。
【小田井宿入り口】


根元に小さな道祖神があり、近くに筆塚がある。


少し行くと、小田井宿説明板があり。


【皇女和宮拝領人形】
小田井宿祭りには、有名な「皇女和宮拝領人形」も登場するようだ。

給仕をした少年に、和宮が恵与したもの。

【長倉諏訪神社】
鎮座地:長野県北佐久郡御代田町御代田小田井
説明板の向かいの細い道を入っていくとある。社叢が見える。

鳥居
注連縄が面白い

この社は、『延喜式神名帳』に、信濃国 佐久郡鎮座 長倉神社と載る、れっきとした式内社である。
現在は、長倉神社・諏訪神社合殿と称している。
もと伍賀村久能の宮平にあったと伝。長倉牧と関係あるものと思われる。それは「藁馬」からも推測できる。
明治16年造立だが、この狛犬はとても気に入りました。




社殿


社額

拝殿内

随身


ご祭神:天兒屋根命
(合祀神:健御名方命
神馬舎の写真は撮り忘れた(汗)
中の藁馬


町指定無形民俗文化財「小田井の道祖神まつり」に使われる藁馬。
毎年2月に行われる民俗行事で、子供たちがこの藁馬を町内中引き歩き、ここ長倉・諏訪神社でお祓いを受けます。子供たちの和合、無病息災の祈願行事だそうです。
境内には、「宮型の道祖神」がたくさん祀ってありました。


街道に出ると、お休み處が。


【寶珠院】
所在地:長野県北佐久郡御代田町大字御代田1814
藁ぶきの鐘楼が良いというので、寄りました。

樹齢300年以上、二本の幹を寄せ植えしているアカマツ。


鐘楼



寺用水の「桝石」


本堂

【本陣跡】




【上の問屋】



【下の問屋】



【脇本陣跡】
現在、建物は無し。街道脇の用水が良い。

宿屋らしい建物

静かです。

小田井宿を出るところにあった石仏群

不明

大乗妙典八十八番供養塔

不明

顔が実に良し。

馬頭観音

これは塞の神としての「ミシャクジ神」だと思います。

「ミシャクジ神」については、記事にしてあります。
その記事を読む
【皎月原(こうげつはら)】
旧中山道が国道と合流する交差点のちかくにある。

公園になっている原は、気持ちのいい空間だった。

これは、白山宮だろう。

「旧跡 皎月歌碑」
享保七年(1723年)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人が、当時の小田井本陣主安川庄右衛門に送った文書「夢想皎月記」の中に見られる。
「むかしより かわらぬ影を うつしてや 月毛之駒の 跡のみちしば」


この古歌を昭和十年当時の御代田村が浅井洌氏に揮毫を依頼して建立したのがこの歌碑である。
浅井洌氏といえば、有名な「信濃の国」の作詞家。
原には、白樺も生えていて、しばしのんびりと休憩した。

これで、小田井宿の散策は終了。
いつも必ず寄る、軽井沢のスーパー「ツルヤ」に直行して、コーヒー飲みながら休憩したあとショッピング。
私が必ず買うのは、「イナゴの佃煮」、ヨーグルト、チーズ。今回は生の杏も買った。キノコも地物があったので買った。
カミさんも、ずいぶんと色々なものに手を出していた(笑)
(了)
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『古事記』によると、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(またの名は夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
これに該当する『古事記』の記述は、「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段である。
(読み下し文)
かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。
羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。
上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神。
羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して生まれた、これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる、と説明されている。
そして、「夏高津日神」は稲作に関る夏の日の神。日が高く昼が長いという意味だろうとされている。
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若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(またの名は夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
これに該当する『古事記』の記述は、「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段である。
(読み下し文)
かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。
羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。
上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神。
羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して生まれた、これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる、と説明されている。
そして、「夏高津日神」は稲作に関る夏の日の神。日が高く昼が長いという意味だろうとされている。
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堀兼地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会
20160626
6月20日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「堀兼地区」です。
コースは、下新田の共同墓地⇒権現橋の石仏群⇒あぐれっしゅげんき村⇒堀兼神社⇒堀兼の井⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼の新田開発

【下新田の共同墓地】
所在地:狭山市大字北入曽636付近

向かって右が普門品読誦供養塔、左が馬頭観音供養塔

1)普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔(くようとう) :明治3年(1870)
比較的新しい供養塔で、台座に刻まれている銘文から、観音経を唱えた北入曽村の信者集団が、ある回数観音経を唱えたことの記念と自分たちの村の安寧を祈って立てたものと云うことがわかります。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道標も兼ねています。
もとはこの先の堀兼(上)の交差点付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。
2)馬頭観音供養塔(文字塔) :天保9年(1838)8月
馬頭観音は観音菩薩が姿を変えた仏様で、衆生の無知や煩悩を断ち切り、諸悪を破壊消滅させる力を持っています。ここにあるのは文字塔で、銘文から北入曽下新田の馬持中が建てたものとわかります。馬頭観音は、頭上に馬の頭を乗せ、怒った形相で表現される浮彫像も各地で見られます。近世には民間信仰と結びつき、現当二世安楽を願って建てるものと、生産社会の中で大切な役割を果たしていた馬の守護神として建てるものとにかわってきました。
この供養塔も同様に道標を兼ねており、「右 新かし(河岸)、左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものですが、いつの頃からか。現在の場所に移転されました。
【権現橋の石仏群】
所在地:狭山市大字堀兼743付近

権現橋は不老川にかかっている。

権現橋の袂に石仏が4体並んでいます。この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。
石仏は以前、旧鎌倉街道に面し、鳥居やケヤキ、近くに茶店もあって、旅人はここで一休みし、旅の無事などを願ったと言われています。


現在は、旧鎌倉街道に直角に、不老川に面して並んでいる。
石仏は正面向かって右から、地蔵菩薩、子の大権現、馬頭観音、月待供養塔であり、権現橋の名前は子の大権現に由来しています。
○地蔵菩薩
向かって右端が地蔵菩薩です。造立されたのは享保4年(1719)、本体には堀金村施主と刻まれ、高さは174cmです。地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
なお、この地蔵には次の「化け地蔵」の伝説があります。昔、東三ツ木住んでいた気の弱い大工さんが、仕事帰りに地蔵さんの前を通ると、突然大入道のようなものが現れて道を塞ぎました。怖くなって持っていた斧を振り下しました。実は大入道は地蔵さんで、今も右肩が欠けており、化け地蔵だから切られたと言われ、遠くまで知れ渡ったそうです。

○子(ね)の大権現
右から2番目が「子の大権現」で、正面に「子大権現」と刻まれた文字塔です。橋の名前はこの文字塔の名前に由来しています。造立されたのは文政5年(1822)11月、台座には堀金村中と刻まれています。
この「子の大権現」は飯能市吾野の通称「子の権現」を本社として、大麟山雲洞院天龍寺で延喜11年(911) に創建されています。子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれた子(ね)の聖が各地行脚の後当山を開かれたそうです。その後、弟子の恵聖上人が子の聖を大権現と崇め、子の聖大権現社を建立したそうです。
なお、子の聖が亡くなる時、足腰の病める者は一心に祈れば、その効き目を得るでしょうと言われて以来、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に堀金村が子の大権現を勧請したものと言われています。この「子の権現」には草鞋や下駄が奉納されています。

○馬頭観音(馬頭観世音菩薩の略)
向かって右から3番目が馬頭観音で、元文5年(1740)9月の造立です。正面右側に為先祖有縁聖霊追建立之、下部に堀兼村願主横山氏と刻まれています。なお、馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられます。
しかし、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養する為に造立したものです。馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示し、ここを往来する人々に手を合わせて貰うのが、最大の供養であると思われています。

○月待供養塔
左端が「月待供養塔」で、正面に元禄2年(1689)2月造立、武州入間郡河越領堀兼村 相岳儀円首座 願主心窓妙伝大姉 名主宮沢口左衛門と刻まれ、その下に与頭吉沢□右□□ほか15名と刻まれていました。
左側面には上赤坂ほか64ケ村、右側面には双柳(なみやなぎ:飯能市)ほか54ケ村、裏面には月待講 小澤平次郎ほか10名とありました。
正面の浮彫像は、月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜、十五夜、二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。この供養塔の特徴は、側面に120ケ村の村名が刻まれて いたことにあり、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものでないかと言われています。

ここから歩きだしてすぐのところに、道端に大きなサボテンがはみ出していて、大きな花を咲かせていた。


堀兼神社に向かう途中、JA直売所「あぐれっしゅげんき村」で休憩。

この日は暑かったので、日陰の道になると大喜び(笑)

【堀兼神社】
堀兼神社については、既に詳しく記事にしているので今回は省略します。
その記事を読む
堀兼神社は、境内のほぼ全域が木陰となっていて、皆さんホッとして説明を聞いています。

随身門前での説明。

随身門には欄間の彫刻とか立派です。

境内にある石仏の説明を聞く。

随身門から本殿に上がると、富士塚の頂上です。
富士塚の参道を下って、五合目の小御嶽神社、麓にある日枝神社の彫刻なども確認しました。

【堀兼の井】
堀兼神社の由緒にあるように、日本武尊が掘ったという言い伝えがありますが、詳しいことは不明です。「ほりかねの井」は古い文献にも出てきます。最も古いところでは伊勢大輔が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶深さまされる」の1首です。平安時代に清少納言が著した『枕草子』には「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるがをかしきなり」という有名な文があります。しかし、記録がないので、ここが「ほりかねの井」かどうかははっきりしていません。
井戸の傍らにある石碑の内、川越藩主の秋元喬知(たかとも)が建てさせた左側の石碑に「この凹んだ地形のところがいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来がわからなくなるのを恐れるので、石の井桁を窪みの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以て構成の参考に備える次第である。云々」(原文は漢文)とあり、これによって堀兼の井といえばここであることが定説となりました。
大正13年(1924)に県の文化財に指定されています。
「堀兼の井」の前で説明を聞く。

堀兼の井

川越藩の石碑


【上赤坂弁財天】
所在地:狭山市大字上赤坂87付近
説明はコース手前の、上赤坂の森を出る直前に木陰の下で行いました。

上赤坂弁財天:
弁財天は、元禄13年(1700) 頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠損)、左手に宝珠を持つ浮彫2臂で、台座には波を切って走る帆掛け船が刻まれています。
最下部には「これより中山はんのふ(飯能)、此の道大目(青梅)、左ハ武蔵野所沢」と刻まれていて、作善としての道標も兼ねていることがわかります。
手前の道は江戸時代には河岸街道とよばれていて新河岸川の河岸場へと通じる道です。当時、新河岸周辺は舟運により江戸と川越を結ぶ物資の集散地でした。川越からは米・茶などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や古着等が送られてきました。狭山周辺の村もその物流経済の中にありましたので、この弁財天の特徴である台座の帆掛け舟は、舟運による流通経済の発展と舟の安全を願って刻まれたものとも推察されます。
弁財天はインドから豊穣をもたらす大地の神として伝わったものですが、仏教が民間に広く普及するとともに、庶民の発想による様々な弁天様が登場します。圧倒的に多いのは水の恵みと深くかかわる弁天様です。狭山市周辺でも豊かな水の恵みを請い、五穀豊穣を祈って建てられた弁天像がいくつか見られます。上赤坂の弁財天も水の乏しいこの地域にあって、本来の役割を担うとともに、現世のご利益をも受け持つ多彩な神様となっています。
上赤坂弁財天と庚申塔がある十字路。


弁財天

台座の帆掛け舟

横にある庚申塔:
この庚申塔は、元文5年(1740)10月造立、一面六臂の浮彫青面金剛立像で、上赤坂の村民13名によって建てられたことが碑文によってわかります。邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。持ち物は鉾・弓・矢と左手が欠落していますが法輪を持っていたと思われます。日・月・鶏も印刻されています。これらのことから五穀豊穣・現当二世安楽を願ってたてられたものでしょう。
また、この庚申塔の場所は。旧堀兼村と旧上赤坂村の村境で、村外から侵入してくる疫病や病虫害から守る「塞ぎ(ふせぎ)」を目的として建てたといわれています。

【堀兼の新田開発】
不老川を挟んで向う側に、新田開発された畑が見通せる場所で説明。


天正18年(1590年)北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命令で新たな領主として徳川家康が江戸に入城しました。それを契機として江戸周辺地域で年貢収入の増加を図るために、多くの新田開発が実施されました、当地北武蔵の新田開発は、年貢の増収を図ることで藩の財政を少しでも豊かにするために川越藩の政策で行われました。
尚、江戸幕府創立は徳川家康・征夷大将軍の慶長8年(1603年)―大政奉還は徳川慶喜・慶応3年(1867年)の264年間です。
徳川家康は天文11年(1543年1月31日)生まれで死亡は元和2年(1616年6月1日)です。
堀兼の新田開発は三代将軍家光に仕えて、寛永16年(1628年)忍藩(おしはん)から第五代川越藩主として入城した老中の松平伊豆守信綱で慶安2年(1649年)に着手しました。信綱は「知恵伊豆」と称された人で新河岸川を整備して川越と江戸の間に舟運を開設し、玉川上水の工事を完成させ野火止用水を開削、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発しました。
この地域の新田村で最も古いのは柏原新田で50石、その後開発されたのが堀兼村で1300石、続いて開発されたのが上赤坂村の300石、中新田の260石です。川越市分は今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
近隣の新田は川越藩領として県道126号線沿いの所沢方面に三冨(さんとめ)新田(上冨、中富、下富)や三芳新田があります、その他今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
五代将軍綱吉に仕えて元禄7年(1694年)に江戸在勤から第8代川越藩主として入城した大老格の柳沢吉保が開発に着手しました、論語より三富(さんとめ)の名をとって近世新畑開発のモデルとしました。
堀兼の開発責任者は上奥富村の名主の二男だった志村次郎兵衛(ベーエ)が選任され、堀兼の開発引受人として宮沢兵右衛門が当てられました。
承応年間(1652-55年)になると、近隣の村から次男・三男が入植して開発が進められました。(着手から3年後に入植)
入植から10年余り経った寛文元年(1661年)5月の検地帳によりますと、入植者は62戸となっています。
この新田は千年前の政治家王安石の考案した短冊形農地で、千百(せんぱく)法による地割(南北の畦道、東西の畦道)によっています。間口が約20間(約36m)、奥行き約460間(830m)の長方形の土地で面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした、今見ても整然と区画された土地は開発当時からの姿です。
所有面積は7町歩が3戸、4町歩が8戸、3町歩が22戸、2町歩が24戸、1町歩が5戸です(合計62戸)。土地が短冊状に区割りされた理由は、牛馬が農作業をやり易いようにし、住居を出来るだけ1か所に集め、後背の林も集中させ、幹線道路へのアクセスを各戸が平等に便利になるように考えたためといわれています。
開拓作業は生い茂るススキの原野を焼き払って、くわ、すき、かま、モッコ等を使い全て人力で開墾しました。
堀兼の地は、大昔この辺りは古多摩川が流れており、大小の石ころで大変な労苦を強いられました。
土地の北側に家を建て、南に広がる原野を開墾していきました、そして北側にコナラ、クヌギ等の広葉樹を植え、その枯葉を堆肥として、木や枝を燃料としました、今我々が目にする雑木林は当時植えたもので、人によって管理された2次林です。
不老側の向こうに、短冊形に開発された畑が広がっています。
家があり、その向こうの屋敷林までで、830mとなります。


カーブミラーに、説明を受けている皆さんが映っていた。


これで、予定は全て完了。
出発地点近くまで戻り、涼しいレストランで昼食・歓談をしてから、解散となりました。
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今回のコースは「堀兼地区」です。
コースは、下新田の共同墓地⇒権現橋の石仏群⇒あぐれっしゅげんき村⇒堀兼神社⇒堀兼の井⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼の新田開発

【下新田の共同墓地】
所在地:狭山市大字北入曽636付近

向かって右が普門品読誦供養塔、左が馬頭観音供養塔

1)普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔(くようとう) :明治3年(1870)
比較的新しい供養塔で、台座に刻まれている銘文から、観音経を唱えた北入曽村の信者集団が、ある回数観音経を唱えたことの記念と自分たちの村の安寧を祈って立てたものと云うことがわかります。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道標も兼ねています。
もとはこの先の堀兼(上)の交差点付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。
2)馬頭観音供養塔(文字塔) :天保9年(1838)8月
馬頭観音は観音菩薩が姿を変えた仏様で、衆生の無知や煩悩を断ち切り、諸悪を破壊消滅させる力を持っています。ここにあるのは文字塔で、銘文から北入曽下新田の馬持中が建てたものとわかります。馬頭観音は、頭上に馬の頭を乗せ、怒った形相で表現される浮彫像も各地で見られます。近世には民間信仰と結びつき、現当二世安楽を願って建てるものと、生産社会の中で大切な役割を果たしていた馬の守護神として建てるものとにかわってきました。
この供養塔も同様に道標を兼ねており、「右 新かし(河岸)、左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものですが、いつの頃からか。現在の場所に移転されました。
【権現橋の石仏群】
所在地:狭山市大字堀兼743付近

権現橋は不老川にかかっている。

権現橋の袂に石仏が4体並んでいます。この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。
石仏は以前、旧鎌倉街道に面し、鳥居やケヤキ、近くに茶店もあって、旅人はここで一休みし、旅の無事などを願ったと言われています。


現在は、旧鎌倉街道に直角に、不老川に面して並んでいる。
石仏は正面向かって右から、地蔵菩薩、子の大権現、馬頭観音、月待供養塔であり、権現橋の名前は子の大権現に由来しています。
○地蔵菩薩
向かって右端が地蔵菩薩です。造立されたのは享保4年(1719)、本体には堀金村施主と刻まれ、高さは174cmです。地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
なお、この地蔵には次の「化け地蔵」の伝説があります。昔、東三ツ木住んでいた気の弱い大工さんが、仕事帰りに地蔵さんの前を通ると、突然大入道のようなものが現れて道を塞ぎました。怖くなって持っていた斧を振り下しました。実は大入道は地蔵さんで、今も右肩が欠けており、化け地蔵だから切られたと言われ、遠くまで知れ渡ったそうです。

○子(ね)の大権現
右から2番目が「子の大権現」で、正面に「子大権現」と刻まれた文字塔です。橋の名前はこの文字塔の名前に由来しています。造立されたのは文政5年(1822)11月、台座には堀金村中と刻まれています。
この「子の大権現」は飯能市吾野の通称「子の権現」を本社として、大麟山雲洞院天龍寺で延喜11年(911) に創建されています。子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれた子(ね)の聖が各地行脚の後当山を開かれたそうです。その後、弟子の恵聖上人が子の聖を大権現と崇め、子の聖大権現社を建立したそうです。
なお、子の聖が亡くなる時、足腰の病める者は一心に祈れば、その効き目を得るでしょうと言われて以来、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に堀金村が子の大権現を勧請したものと言われています。この「子の権現」には草鞋や下駄が奉納されています。

○馬頭観音(馬頭観世音菩薩の略)
向かって右から3番目が馬頭観音で、元文5年(1740)9月の造立です。正面右側に為先祖有縁聖霊追建立之、下部に堀兼村願主横山氏と刻まれています。なお、馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられます。
しかし、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養する為に造立したものです。馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示し、ここを往来する人々に手を合わせて貰うのが、最大の供養であると思われています。

○月待供養塔
左端が「月待供養塔」で、正面に元禄2年(1689)2月造立、武州入間郡河越領堀兼村 相岳儀円首座 願主心窓妙伝大姉 名主宮沢口左衛門と刻まれ、その下に与頭吉沢□右□□ほか15名と刻まれていました。
左側面には上赤坂ほか64ケ村、右側面には双柳(なみやなぎ:飯能市)ほか54ケ村、裏面には月待講 小澤平次郎ほか10名とありました。
正面の浮彫像は、月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜、十五夜、二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。この供養塔の特徴は、側面に120ケ村の村名が刻まれて いたことにあり、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものでないかと言われています。

ここから歩きだしてすぐのところに、道端に大きなサボテンがはみ出していて、大きな花を咲かせていた。


堀兼神社に向かう途中、JA直売所「あぐれっしゅげんき村」で休憩。

この日は暑かったので、日陰の道になると大喜び(笑)

【堀兼神社】
堀兼神社については、既に詳しく記事にしているので今回は省略します。
その記事を読む
堀兼神社は、境内のほぼ全域が木陰となっていて、皆さんホッとして説明を聞いています。

随身門前での説明。

随身門には欄間の彫刻とか立派です。

境内にある石仏の説明を聞く。

随身門から本殿に上がると、富士塚の頂上です。
富士塚の参道を下って、五合目の小御嶽神社、麓にある日枝神社の彫刻なども確認しました。

【堀兼の井】
堀兼神社の由緒にあるように、日本武尊が掘ったという言い伝えがありますが、詳しいことは不明です。「ほりかねの井」は古い文献にも出てきます。最も古いところでは伊勢大輔が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶深さまされる」の1首です。平安時代に清少納言が著した『枕草子』には「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるがをかしきなり」という有名な文があります。しかし、記録がないので、ここが「ほりかねの井」かどうかははっきりしていません。
井戸の傍らにある石碑の内、川越藩主の秋元喬知(たかとも)が建てさせた左側の石碑に「この凹んだ地形のところがいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来がわからなくなるのを恐れるので、石の井桁を窪みの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以て構成の参考に備える次第である。云々」(原文は漢文)とあり、これによって堀兼の井といえばここであることが定説となりました。
大正13年(1924)に県の文化財に指定されています。
「堀兼の井」の前で説明を聞く。

堀兼の井

川越藩の石碑


【上赤坂弁財天】
所在地:狭山市大字上赤坂87付近
説明はコース手前の、上赤坂の森を出る直前に木陰の下で行いました。

上赤坂弁財天:
弁財天は、元禄13年(1700) 頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠損)、左手に宝珠を持つ浮彫2臂で、台座には波を切って走る帆掛け船が刻まれています。
最下部には「これより中山はんのふ(飯能)、此の道大目(青梅)、左ハ武蔵野所沢」と刻まれていて、作善としての道標も兼ねていることがわかります。
手前の道は江戸時代には河岸街道とよばれていて新河岸川の河岸場へと通じる道です。当時、新河岸周辺は舟運により江戸と川越を結ぶ物資の集散地でした。川越からは米・茶などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や古着等が送られてきました。狭山周辺の村もその物流経済の中にありましたので、この弁財天の特徴である台座の帆掛け舟は、舟運による流通経済の発展と舟の安全を願って刻まれたものとも推察されます。
弁財天はインドから豊穣をもたらす大地の神として伝わったものですが、仏教が民間に広く普及するとともに、庶民の発想による様々な弁天様が登場します。圧倒的に多いのは水の恵みと深くかかわる弁天様です。狭山市周辺でも豊かな水の恵みを請い、五穀豊穣を祈って建てられた弁天像がいくつか見られます。上赤坂の弁財天も水の乏しいこの地域にあって、本来の役割を担うとともに、現世のご利益をも受け持つ多彩な神様となっています。
上赤坂弁財天と庚申塔がある十字路。


弁財天

台座の帆掛け舟

横にある庚申塔:
この庚申塔は、元文5年(1740)10月造立、一面六臂の浮彫青面金剛立像で、上赤坂の村民13名によって建てられたことが碑文によってわかります。邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。持ち物は鉾・弓・矢と左手が欠落していますが法輪を持っていたと思われます。日・月・鶏も印刻されています。これらのことから五穀豊穣・現当二世安楽を願ってたてられたものでしょう。
また、この庚申塔の場所は。旧堀兼村と旧上赤坂村の村境で、村外から侵入してくる疫病や病虫害から守る「塞ぎ(ふせぎ)」を目的として建てたといわれています。

【堀兼の新田開発】
不老川を挟んで向う側に、新田開発された畑が見通せる場所で説明。


天正18年(1590年)北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命令で新たな領主として徳川家康が江戸に入城しました。それを契機として江戸周辺地域で年貢収入の増加を図るために、多くの新田開発が実施されました、当地北武蔵の新田開発は、年貢の増収を図ることで藩の財政を少しでも豊かにするために川越藩の政策で行われました。
尚、江戸幕府創立は徳川家康・征夷大将軍の慶長8年(1603年)―大政奉還は徳川慶喜・慶応3年(1867年)の264年間です。
徳川家康は天文11年(1543年1月31日)生まれで死亡は元和2年(1616年6月1日)です。
堀兼の新田開発は三代将軍家光に仕えて、寛永16年(1628年)忍藩(おしはん)から第五代川越藩主として入城した老中の松平伊豆守信綱で慶安2年(1649年)に着手しました。信綱は「知恵伊豆」と称された人で新河岸川を整備して川越と江戸の間に舟運を開設し、玉川上水の工事を完成させ野火止用水を開削、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発しました。
この地域の新田村で最も古いのは柏原新田で50石、その後開発されたのが堀兼村で1300石、続いて開発されたのが上赤坂村の300石、中新田の260石です。川越市分は今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
近隣の新田は川越藩領として県道126号線沿いの所沢方面に三冨(さんとめ)新田(上冨、中富、下富)や三芳新田があります、その他今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
五代将軍綱吉に仕えて元禄7年(1694年)に江戸在勤から第8代川越藩主として入城した大老格の柳沢吉保が開発に着手しました、論語より三富(さんとめ)の名をとって近世新畑開発のモデルとしました。
堀兼の開発責任者は上奥富村の名主の二男だった志村次郎兵衛(ベーエ)が選任され、堀兼の開発引受人として宮沢兵右衛門が当てられました。
承応年間(1652-55年)になると、近隣の村から次男・三男が入植して開発が進められました。(着手から3年後に入植)
入植から10年余り経った寛文元年(1661年)5月の検地帳によりますと、入植者は62戸となっています。
この新田は千年前の政治家王安石の考案した短冊形農地で、千百(せんぱく)法による地割(南北の畦道、東西の畦道)によっています。間口が約20間(約36m)、奥行き約460間(830m)の長方形の土地で面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした、今見ても整然と区画された土地は開発当時からの姿です。
所有面積は7町歩が3戸、4町歩が8戸、3町歩が22戸、2町歩が24戸、1町歩が5戸です(合計62戸)。土地が短冊状に区割りされた理由は、牛馬が農作業をやり易いようにし、住居を出来るだけ1か所に集め、後背の林も集中させ、幹線道路へのアクセスを各戸が平等に便利になるように考えたためといわれています。
開拓作業は生い茂るススキの原野を焼き払って、くわ、すき、かま、モッコ等を使い全て人力で開墾しました。
堀兼の地は、大昔この辺りは古多摩川が流れており、大小の石ころで大変な労苦を強いられました。
土地の北側に家を建て、南に広がる原野を開墾していきました、そして北側にコナラ、クヌギ等の広葉樹を植え、その枯葉を堆肥として、木や枝を燃料としました、今我々が目にする雑木林は当時植えたもので、人によって管理された2次林です。
不老側の向こうに、短冊形に開発された畑が広がっています。
家があり、その向こうの屋敷林までで、830mとなります。


カーブミラーに、説明を受けている皆さんが映っていた。


これで、予定は全て完了。
出発地点近くまで戻り、涼しいレストランで昼食・歓談をしてから、解散となりました。
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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-3(三ツ木村・加佐志村)
20160623
6月14日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
堀兼地区の三回目で、堀兼地区の概要については、前々回の記事に載せてあります。
今回の説明は、川田さん。
この日のルートは、推定鎌倉街道堀兼道枝道⇒東原富士塚⇒愛宕神社⇒伝上杉定朝討ち死にの場⇒阿弥陀堂⇒鎌倉街道切り通し遺構⇒寿荘(トイレ休憩)⇒馬頭観音(道標)⇒共同墓地⇒羽黒神社⇒普門寺跡伝承地⇒石橋供養塔⇒三ツ木家の観音堂(子育て観音)⇒東三ツ木薬師堂

『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分





【推定鎌倉街道堀兼道枝道】
進行方向左手に三ツ木が原古戦場跡、その向こうに道路を挟んでホンダ技研の狭山工場が見えます。

「三ツ木が原の合戦」の戦場になったのは三ケ窪(現在の本田技研の入口から工場にかけてのあたり)周辺と伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』記述:
「三ケ窪より末に鎌倉の古道とて小径あり南の方と所澤より、堀兼村にかかり加佐志青柳の界を経て村内へかかり五町許を経て奥冨の内にて八王子道に合ふ。北条氏の寄せ来りしは此の道なるべしと云」
この道は、振り返ると西武新宿線線路で切断されている。

この角を左に行くと、「三ツ木が原古戦場」碑が立っている公園があり。

【東原富士塚】
所在地:狭山市新狭山三丁目(東原)


小御嶽神社碑

「書行(角行)大神・身禄大神」碑

山頂には、「富士岳神社」碑
裏面に明治16年建立とある。
碑が「神社」となっていることからも、明治に建てられたものであることが裏付けられる。

随身の猿が御幣と神楽鈴を持っているのが、実に良い。

境内社か、以前からここにあったものか。
琴平神社

保食社(うけもちしゃ)
祭神は保食神(うけもちのかみ)と云い、食物神である。
同じ食物神である宇迦之御魂神(稲荷神社の祭神)とも同一視され、稲荷神社に祀られることもある。

これも、以前からここ(付近)にあったものと思われる。
文政7年(1824)建立の馬頭観音


【愛宕神社】
鎮座地:狭山市大字東三ツ木字下の沢79


由緒碑

明治41年12月21日、古くから祀られていた当神社は堀兼神社に合祀されたそうです。
そのあとに祀られていた愛宕神社石祠(寛政二年1789建立)・七柱神社石祠(明治二十二年)・山田神社石祠(明治十八年)をもとの愛宕神社の祀られていた所に集めて境内社とし、昭和50年神殿を造営して今の愛宕神社となった。
社殿

本殿が扉に接して置かれていて、全体は撮れない。

主祭神;軻遇突智命
合祀神:天神七世尊、倉稲魂尊
天神七世とは『古事記』では、次の神である。
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)
「元弘天文之戦場」碑が境内にあり。
堀兼村青年団東三ツ木支部・堀兼村女子青年団東三ツ木支部が建てたもの。


【伝上杉定朝討ち死にの場(江丸橋東公園付近)】


川越城を北条氏綱に奪われた上杉朝定が北条氏網の後を継いだ氏康の奇襲を受けて戦死したと伝えられている場所です。このあたり一帯まで激戦の戦場となっていたことが推測できます。
加佐志にある鎌倉街道標示


【阿弥陀堂】
西丸山の共同墓地にあり。


安置されている阿弥陀仏


入り口付近にある、元文4年(1739)造立の馬頭観音。


【鎌倉街道切り通し遺構】



此の道はこの後2つに分かれます。一方は川越市の大袋新田、池辺を経て上戸の河越館に、一方は奥冨の前田集落を経て柏原の城山砦付近を通り上宿で分岐しますが、ともに以後の道筋ははっきりしません。
【寿荘(トイレ休憩)】

この辺りは昔は湧水が出ていて、縄文時代の生活跡が発掘されています。


上池の跡

【馬頭観音(道標)】
明治15年 粕谷久五郎
右 所沢 四谷道 左 上とめ道 板橋


【共同墓地】

「耳だれ地蔵」
元禄七年(1694)建立 浮彫立像地蔵菩薩 願主;斎日講中 現当二世安楽


※洒を入れた「たかずっぽ(竹筒)」を供えて巌掛けをし、代わりに以前供えてあるたかずっぽを持ち掃って中の酒を耳に付ける。治った時はお礼に2本のたかずっぽを収める。

「三体の丸彫り地蔵菩薩立像」
1.(石橋供養塔)安永十年(1781)2月 願主;得性(僧侶?行者?)
久保川に架けた石橋の完成記念 銘文に「風下村」
2.(念仏供養塔) 享保四年(1719) 加佐志村村民による
岩船地蔵信仰に基づいて建てられたものと思われます。
3.(三界万宝塔) 享保八年(1723)8月 願主;加佐志村奥冨氏
※明治30年代(189了~1906)赤痢の流行‥・橋の傍らから3体の地蔵菩薩(夢のお告げ)

【羽黒神社】
鎮座地:狭山市大字加佐志174

・主祭神:稲倉魂尊(うがのみたまのみこと)
合祀神:須佐之男命、火産霊命、十九神霊社(大東亜戦争戦没者19柱を祀る)
・出羽の国羽黒山出身の伴蔵人一俊が応永年間(1394~1497)に創建か?
羽黒権現を村の産土神に。 「奥冨扇斗」に改名⇒ほとんどが「奥冨」姓
・菩提樹;伴蔵人一俊が奥州羽黒山より持参し植えたという言い伝えがあります。


この日は、ちょうど花が終わったところ。
葉の裏から華房がぶら下がっている。


これは2012年に撮った、もうちょっと遅い時期の写真。
葉から実がぶら下がっている。

別当寺は寶林寺(峯林寺)といい、現在は加佐志集会所となっている。
宗派は新義真言宗・羽黒山恵日院と号し、靑梅市金剛寺未と云われ、開基は村内百姓甚五郎衛門(元和二年三月二日1616没。)
本尊は大日如来立像。体内仏があるといわれていますが、不明です。
大日如来立像を中心に33体の金箔の木造坐像が安置されています。台座を含め、高さ30cm程度。これらの坐像は文化文政のころ60年間に作られ、江戸の商人や寺からの寄贈名と年月が書かれています。地元の先祖が靑梅の聞修院からもらいうけ、明治2年(1869)に遷し祀られました。
風土記稿によると観音堂があり、千手観音が祀られていたということですが、今は行方不明だそうです。
かって会員の方から、33体の金箔の木造坐像の写真を頂いてあるので載せておきます。

【普門寺跡伝承地】
老人ホーム「さくら」周辺。「さくら」ができる以前は、遠くから見ると他の畑地よりも-段高くなっていて目立っていたということです。そういわれればそう見えなくもないところです。

【石橋供養塔】
薪狭山南口交差点付近に、寛延三年(1750)造立の浮彫地蔵立像の石橋供養塔が久保川の三ツ木堀にかかっている小さな橋のたもとに立っています。





【三ツ木家の観音堂(子育て観音)】
昔から子育て、安産にご利益があるとされ、個人所有の観音堂ですが祭りの日には屋台が出るほど賑わったそうです。すぐ近くのお茶屋、三ツ木園が代々管理している。




本尊:十一面観世音菩薩坐像
背に墨書銘あり「干時慶長拾余年(1609)太良右門 妙春 武州入間都□郷観音
昭和11年に塗り直されていて、ピカピカです。


境内に三ツ木家墓地。2基の書石塔婆があります。応安四年(1371)と明徳三年(1392)。

【東三ツ木薬師堂】


・金子国重⇒三ツ木国重 守護神の薬師如来の「夢のお告げ」により、金子領三ツ木から当地に移る。
・木造薬師如来立像及び十二神将(お堂の中にあって、見ることができません。)
当薬師堂縁起によると、奈良時代に行基が刻んだ尊像となっていたが、昭和3年(1928)の調査の結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨暮があることがわかりました。14世紀に当地を開いた金子国重の守護神といわれています
木造薬師如来立像及び十二神将については、以前文化財調査が行われた際に立ち会った会員の方から写真を頂いていたので、ここに載せておきます。

・石幢六地蔵
貞享五年(1688)10月15日
三ツ木家の先祖の回向仏であるにもかかわらず近隣6か村の名も刻まれている。三ツ本家が当地の有力者であったためと思われる。
※貞享5年は9月29日迄。9月30日から元禄3年

・馬頭観音(文字塔)
明治31年(1898)成5月16日 功徳主・三ツ木富之助
午の供養のために建てたものだといわれています。

これで、この日の予定は全て消化しました。
満足して、新狭山駅前のレストランで昼食歓談後、解散しました。
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『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
堀兼地区の三回目で、堀兼地区の概要については、前々回の記事に載せてあります。
今回の説明は、川田さん。
この日のルートは、推定鎌倉街道堀兼道枝道⇒東原富士塚⇒愛宕神社⇒伝上杉定朝討ち死にの場⇒阿弥陀堂⇒鎌倉街道切り通し遺構⇒寿荘(トイレ休憩)⇒馬頭観音(道標)⇒共同墓地⇒羽黒神社⇒普門寺跡伝承地⇒石橋供養塔⇒三ツ木家の観音堂(子育て観音)⇒東三ツ木薬師堂

『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分





【推定鎌倉街道堀兼道枝道】
進行方向左手に三ツ木が原古戦場跡、その向こうに道路を挟んでホンダ技研の狭山工場が見えます。

「三ツ木が原の合戦」の戦場になったのは三ケ窪(現在の本田技研の入口から工場にかけてのあたり)周辺と伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』記述:
「三ケ窪より末に鎌倉の古道とて小径あり南の方と所澤より、堀兼村にかかり加佐志青柳の界を経て村内へかかり五町許を経て奥冨の内にて八王子道に合ふ。北条氏の寄せ来りしは此の道なるべしと云」
この道は、振り返ると西武新宿線線路で切断されている。

この角を左に行くと、「三ツ木が原古戦場」碑が立っている公園があり。

【東原富士塚】
所在地:狭山市新狭山三丁目(東原)


小御嶽神社碑

「書行(角行)大神・身禄大神」碑

山頂には、「富士岳神社」碑
裏面に明治16年建立とある。
碑が「神社」となっていることからも、明治に建てられたものであることが裏付けられる。

随身の猿が御幣と神楽鈴を持っているのが、実に良い。

境内社か、以前からここにあったものか。
琴平神社

保食社(うけもちしゃ)
祭神は保食神(うけもちのかみ)と云い、食物神である。
同じ食物神である宇迦之御魂神(稲荷神社の祭神)とも同一視され、稲荷神社に祀られることもある。

これも、以前からここ(付近)にあったものと思われる。
文政7年(1824)建立の馬頭観音


【愛宕神社】
鎮座地:狭山市大字東三ツ木字下の沢79


由緒碑

明治41年12月21日、古くから祀られていた当神社は堀兼神社に合祀されたそうです。
そのあとに祀られていた愛宕神社石祠(寛政二年1789建立)・七柱神社石祠(明治二十二年)・山田神社石祠(明治十八年)をもとの愛宕神社の祀られていた所に集めて境内社とし、昭和50年神殿を造営して今の愛宕神社となった。
社殿

本殿が扉に接して置かれていて、全体は撮れない。

主祭神;軻遇突智命
合祀神:天神七世尊、倉稲魂尊
天神七世とは『古事記』では、次の神である。
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)
「元弘天文之戦場」碑が境内にあり。
堀兼村青年団東三ツ木支部・堀兼村女子青年団東三ツ木支部が建てたもの。


【伝上杉定朝討ち死にの場(江丸橋東公園付近)】


川越城を北条氏綱に奪われた上杉朝定が北条氏網の後を継いだ氏康の奇襲を受けて戦死したと伝えられている場所です。このあたり一帯まで激戦の戦場となっていたことが推測できます。
加佐志にある鎌倉街道標示


【阿弥陀堂】
西丸山の共同墓地にあり。


安置されている阿弥陀仏


入り口付近にある、元文4年(1739)造立の馬頭観音。


【鎌倉街道切り通し遺構】



此の道はこの後2つに分かれます。一方は川越市の大袋新田、池辺を経て上戸の河越館に、一方は奥冨の前田集落を経て柏原の城山砦付近を通り上宿で分岐しますが、ともに以後の道筋ははっきりしません。
【寿荘(トイレ休憩)】

この辺りは昔は湧水が出ていて、縄文時代の生活跡が発掘されています。


上池の跡

【馬頭観音(道標)】
明治15年 粕谷久五郎
右 所沢 四谷道 左 上とめ道 板橋


【共同墓地】

「耳だれ地蔵」
元禄七年(1694)建立 浮彫立像地蔵菩薩 願主;斎日講中 現当二世安楽


※洒を入れた「たかずっぽ(竹筒)」を供えて巌掛けをし、代わりに以前供えてあるたかずっぽを持ち掃って中の酒を耳に付ける。治った時はお礼に2本のたかずっぽを収める。

「三体の丸彫り地蔵菩薩立像」
1.(石橋供養塔)安永十年(1781)2月 願主;得性(僧侶?行者?)
久保川に架けた石橋の完成記念 銘文に「風下村」
2.(念仏供養塔) 享保四年(1719) 加佐志村村民による
岩船地蔵信仰に基づいて建てられたものと思われます。
3.(三界万宝塔) 享保八年(1723)8月 願主;加佐志村奥冨氏
※明治30年代(189了~1906)赤痢の流行‥・橋の傍らから3体の地蔵菩薩(夢のお告げ)

【羽黒神社】
鎮座地:狭山市大字加佐志174

・主祭神:稲倉魂尊(うがのみたまのみこと)
合祀神:須佐之男命、火産霊命、十九神霊社(大東亜戦争戦没者19柱を祀る)
・出羽の国羽黒山出身の伴蔵人一俊が応永年間(1394~1497)に創建か?
羽黒権現を村の産土神に。 「奥冨扇斗」に改名⇒ほとんどが「奥冨」姓
・菩提樹;伴蔵人一俊が奥州羽黒山より持参し植えたという言い伝えがあります。


この日は、ちょうど花が終わったところ。
葉の裏から華房がぶら下がっている。


これは2012年に撮った、もうちょっと遅い時期の写真。
葉から実がぶら下がっている。

別当寺は寶林寺(峯林寺)といい、現在は加佐志集会所となっている。
宗派は新義真言宗・羽黒山恵日院と号し、靑梅市金剛寺未と云われ、開基は村内百姓甚五郎衛門(元和二年三月二日1616没。)
本尊は大日如来立像。体内仏があるといわれていますが、不明です。
大日如来立像を中心に33体の金箔の木造坐像が安置されています。台座を含め、高さ30cm程度。これらの坐像は文化文政のころ60年間に作られ、江戸の商人や寺からの寄贈名と年月が書かれています。地元の先祖が靑梅の聞修院からもらいうけ、明治2年(1869)に遷し祀られました。
風土記稿によると観音堂があり、千手観音が祀られていたということですが、今は行方不明だそうです。
かって会員の方から、33体の金箔の木造坐像の写真を頂いてあるので載せておきます。

【普門寺跡伝承地】
老人ホーム「さくら」周辺。「さくら」ができる以前は、遠くから見ると他の畑地よりも-段高くなっていて目立っていたということです。そういわれればそう見えなくもないところです。

【石橋供養塔】
薪狭山南口交差点付近に、寛延三年(1750)造立の浮彫地蔵立像の石橋供養塔が久保川の三ツ木堀にかかっている小さな橋のたもとに立っています。





【三ツ木家の観音堂(子育て観音)】
昔から子育て、安産にご利益があるとされ、個人所有の観音堂ですが祭りの日には屋台が出るほど賑わったそうです。すぐ近くのお茶屋、三ツ木園が代々管理している。




本尊:十一面観世音菩薩坐像
背に墨書銘あり「干時慶長拾余年(1609)太良右門 妙春 武州入間都□郷観音
昭和11年に塗り直されていて、ピカピカです。


境内に三ツ木家墓地。2基の書石塔婆があります。応安四年(1371)と明徳三年(1392)。

【東三ツ木薬師堂】


・金子国重⇒三ツ木国重 守護神の薬師如来の「夢のお告げ」により、金子領三ツ木から当地に移る。
・木造薬師如来立像及び十二神将(お堂の中にあって、見ることができません。)
当薬師堂縁起によると、奈良時代に行基が刻んだ尊像となっていたが、昭和3年(1928)の調査の結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨暮があることがわかりました。14世紀に当地を開いた金子国重の守護神といわれています
木造薬師如来立像及び十二神将については、以前文化財調査が行われた際に立ち会った会員の方から写真を頂いていたので、ここに載せておきます。

・石幢六地蔵
貞享五年(1688)10月15日
三ツ木家の先祖の回向仏であるにもかかわらず近隣6か村の名も刻まれている。三ツ本家が当地の有力者であったためと思われる。
※貞享5年は9月29日迄。9月30日から元禄3年

・馬頭観音(文字塔)
明治31年(1898)成5月16日 功徳主・三ツ木富之助
午の供養のために建てたものだといわれています。

これで、この日の予定は全て消化しました。
満足して、新狭山駅前のレストランで昼食歓談後、解散しました。
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高倍神(たかべかみ)/日本の神々の話
20160622
この神のことは、安房国式内社高家(たかべ)神社で知ったが、他にも延喜式神名帳宮中36坐に含まれ、また盛岡八幡宮境内社にも祀られていることがわかった。
延喜式神名帳では、大膳職三座の一つである。
3ページ目の4行目にあり。


東京遷都後も宮中に祀られたかどうかについては、「祭紀録」等には徴すべきものがないが、「神殿」の「天神地祇」中に祀られていると見るべきである、とのこと(元掌典川出清彦氏教示)。
高家神社とその祭神磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)のことについては、高家神社のパンフレットに下記のように記されている。
『日本書記』の第十二代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されているが、延歴8年(789)に命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」にさらに詳細に記述されている。
景行天皇が亡き皇子日本武尊の東国平定の事業を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折り、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり、海に入れたところ堅魚を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾にして差上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(注=子々孫々天皇の食事を司どる役)を賜った。
これにより磐鹿六雁命(尊称高倍神)はわが国の料理の祖神となり、宮中大膳職の祭神であると同時に、ここ安房、千倉に鎮座する延喜式内社高家神社の祭神として祀られている。また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え高倍さまとして宮中醤院で、醤油、調味料の神としても祀られている。』(「高家神社由来」より)
ヒゲタ銚子工場の正門の右手に醤油醸造の神様をお祀りした「高倍(たかべ)神社」がある。
毎月5日に幹部社員が揃って参拝し、良質な製品の出来上りと工場の安全を祈願している。
この高倍神社は、第十三代田中玄蕃直太郎(金兆子と号し「醤油沿革史」などを著した。)が醤油醸造家にも守護神があるはずだと考え、いろいろ調べた結果、高倍神という神様があり、そのご本体は磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)であることがわかった。命の業績をあらわした最もゆかりの深い南房総に行き調べたところ、安房郡千倉町(現、南房総市)の高家(たかべ)神社に命が祀られていることが確認されたので、それを崇拝するようにした。
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延喜式神名帳では、大膳職三座の一つである。
3ページ目の4行目にあり。


東京遷都後も宮中に祀られたかどうかについては、「祭紀録」等には徴すべきものがないが、「神殿」の「天神地祇」中に祀られていると見るべきである、とのこと(元掌典川出清彦氏教示)。
高家神社とその祭神磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)のことについては、高家神社のパンフレットに下記のように記されている。
『日本書記』の第十二代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されているが、延歴8年(789)に命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」にさらに詳細に記述されている。
景行天皇が亡き皇子日本武尊の東国平定の事業を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折り、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり、海に入れたところ堅魚を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾にして差上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(注=子々孫々天皇の食事を司どる役)を賜った。
これにより磐鹿六雁命(尊称高倍神)はわが国の料理の祖神となり、宮中大膳職の祭神であると同時に、ここ安房、千倉に鎮座する延喜式内社高家神社の祭神として祀られている。また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え高倍さまとして宮中醤院で、醤油、調味料の神としても祀られている。』(「高家神社由来」より)
ヒゲタ銚子工場の正門の右手に醤油醸造の神様をお祀りした「高倍(たかべ)神社」がある。
毎月5日に幹部社員が揃って参拝し、良質な製品の出来上りと工場の安全を祈願している。
この高倍神社は、第十三代田中玄蕃直太郎(金兆子と号し「醤油沿革史」などを著した。)が醤油醸造家にも守護神があるはずだと考え、いろいろ調べた結果、高倍神という神様があり、そのご本体は磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)であることがわかった。命の業績をあらわした最もゆかりの深い南房総に行き調べたところ、安房郡千倉町(現、南房総市)の高家(たかべ)神社に命が祀られていることが確認されたので、それを崇拝するようにした。
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広瀬・根岸地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・鵜ノ木第七自治会
20160618
5月29日(日)に行われた、鵜ノ木第七自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「広瀬・根岸地区」です。
コースは、本富士見橋(入間馬車鉄道)⇒本富士見橋⇒富士見橋架設記念碑⇒日暮らしの馬頭さん⇒廣瀬神社⇒入間馬車鉄道広瀬停車場⇒信立寺⇒広瀬浅間神社⇒清水宗徳の墓⇒明光寺⇒日光脇往還⇒根岸の渡し跡

【本富士見橋(入間馬車鉄道)】
入間馬車鉄道は、埼玉県入間郡入間川町(項在の狭山刊と入間郡飯能町(現在の飯能市)を結んでいた馬車鉄道で、明治34(1901)年5月~大正6(1917)年12月までの16年間、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の開通前、鉄道の存在しなかつた飯能地区と、南北に伸びる川越鉄道(現在の西武新宿線)とを連絡する鉄道系交通幾関として重要な役割を果たしました。
(概要)
川越鉄道の入間川駅(現狭山市駅)の西口から北麓を回り込むように新たに鉄道用に造られた馬車新道(現在の狭山市駅から市民会館へ向かう道路の七夕通りの交差点まで)を走ったのち、入間川町の中心街(ほぼ三百戸の街並み)を経て、入間川を本富士見僑付近で渡り、水富村(項在の広瀬・根岸・笹井地区)をひたすら西進して飯能町の中心部に至っていました。
(停車場などの路線データ)
全線で13の停車場がありました。停車場の位置は公表れた正確な記録が残っていないが、当時の経営者家族、株主、付近の古老など百人近い人々から聞取り調査した結果、ほぼ確定しています。
入間川駅発着所-菅原一諏訪下-河原宿-広瀬-根岸-笹井-八木(はちぎ)-野田-岩沢一双栁-前田-飯能発着所。
(入間馬車鉄道の歴史)
当馬車鉄道敷設の契機になったのは、明治28年に開通した川越鉄道です。鉄道路線がなかった埼玉県西部地域が、この開通でようやく鉄道の恩恵を受けることが期待されました。しかし、同鉄道は南北に伸びる路線であり、直接的に恩恵を受けるのは所沢・入間川町・川越町などに限られた地域のみで、同鉄道の路線から大きく外れた飯能町方面からは、昔ながらの馬・馬車・大八車、数少ない人力車をもつて旅客や貨物を運ぶしかありませんでした。そこで川越鉄道を補助する東西の路線として、入間川駅を起点とする馬車鉄道が計画されたのです。入間馬車鉄道(株)はこのような期待のもと株主約2百名、資本金6万円(現在価値=2億4千3百万円)で発足しました。

【本富士見橋】
「富士見橋架設記念碑」
広瀬側本富士見橋たもと
刻文:
文化の進展は交通の利便に待つこと甚だ多く 交通の利便は橋梁の完備に関わること極めて大なり。然るに往年入間川飯能道は完全なる橋梁なく入間の奔流に交通を遮断させらるること屡(しばし)なりき。上広瀬の人清水宗徳氏夙(つと) に之を憂い明治八年官許を得て徴料広瀬渡船橋を榮し後 同族下邑登代作氏之に代わりて来往の便を謀りしが入間川水富の両町民は尚交通の安恒と利便とを期し渡津の利権を購(あがな) ひ大正九年十一月無賃渡船橋に改せり。柳本橋の堅否は地方の発達に甚大なる関係あるを以て同十一年十二月通常県会に於いて懸費架橋の議決を可決せり。乃(すなわ)ち本年三月工を起し八月成を告げ名つけて富士見橋と日(いう)。長さ八十四間幅弐間、工費に弐萬餘円を算す。
鳴呼、橋梁既に完し交通の便備わりき。今より後文化の進展に新生面を開かんことを必せり。茲に沿革を略叙し以て後昆に告ぐと云ふ。
大正十二年十一月県会議員 岡野近三撰

【日暮らしの馬頭さん】
所在地:狭山市広頼1丁目1番付近
造立:文政13年(1830年)

元は旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にありましたが、県道の拡幅で現在地へ移転しました。伝説にこんな話が伝わつています。
昔、下広瀬の街道脇に立派な馬頭醗世音の石碑が立っていました。ある日の事、石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、「う-む、これは素晴らしい。なんとも見事な文字じゃ。実にうまい」としきりに感心し、とうとう座り込んでしまいました。通りがかった人たちも「云われてみると素晴らしい文字じや」と口々に云いながら眺めておりました。そのうちにお天道さまも西に傾き、やがて-番星が輝き始めました。それでも人々はあきずに文字を見続 けました。文字が立派でいくら見ていてもあきないことから、誰云うとなく「日暮しの馬頭さん」と云われるようになったとのことです。

【廣瀬神社】
鎮座地:狭山市広瀬2丁目23番1号

廣瀬神社は、延長5年(927)の延書式神名帳に記載されている神社であり、国が公認し、幣帛を奉った格式のある神社。武蔵の国には44座、入間郡には5座あるが狭山市には当社のみである。
廣瀬神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
県指定文化財である、樹齢800年の大欅


拝殿

【入間馬車鉄道広瀬停車場】
廣瀬神社入り口付近


【信立寺】
所在地:狭山市広瀬3丁目5番1号
信立寺は日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊四士四天王(いっとうりゆうそんしししてんのう)立像です。
一塔とは本堂にある宝塔のことで、両尊は釈迦如来坐像と多宝如来坐像、四士は法華経に説かれている無辺行・上行・浄行・安立行の各菩薩、四天王は持国天・広目天・毘沙門天・増長天の各立像です。
創建は天正18(1590)年ごろといわれ、開山は池上本門寺12世買主の目性(にっせい)上人、開基は当地方を領有していた加治家信です。寺宝の-つに軸装された日蓮上人真筆がありますが、これは家信が文禄年間(1592~96)に寄進したものです。家信は慶長17(1612)年に亡くなりましたが、その墓石とされる五輪塔が同寺に隣接する墓地にあります。なお、同寺の本堂は享保15(1730)年に再建されたもので、市内の寺院ではもっとも古い建物の一つです。
入り口

山門

本堂

本堂内の祭壇

本堂の左に鬼子母神堂あり。
鬼子母神は、法華経の守護神とされるため日蓮宗の寺院に祀られることが多い神で、安産や子育ての神としても信仰されています。

お堂内部

墓地に入っていくと、加治左馬之助家信の供養塔あり。


加治氏(かじし)は、武蔵国高麗郡加治(現在の埼玉県飯能市)付近から秩父にかけて活動していた武蔵七党の丹党に属する豪族。
鐘楼

梵鐘は大東亜戦争の際、鋳つぶされてしまいましたが「此地往古ヨリ兵乱屡々アリテ幾多屍ヲ埋ムル処=テ‥・天正六年如月吉辰当国領主加治左馬之肋丹治家信公発願当寺ヲ創建シ‥・惺聖人ヲ聘シテ開山トシ惺安山信立寺卜号ス 正徳四年四月‥・佐野ノ名匠藤原家治ノ鋳セル梵鐘ハ花震月夕哺風吼霜永年近郷一円ニ妙音ヲ伝へ来レルモ昭和十九年大東亜戦争ニ際シ末曽有ノ国難ニ殉ジテ遂ニ姿ヲ失フニ至レリ‥・」と記されてあり、かっての梵鐘の再現に先代が拘ったものと思われます。家長が開基の発端となった戦乱とは北条氏政が上杉謙信に小田原城を包囲された後、謙信や武田信玄にも奪われた関東北部の失地回復に動いた時の戦乱ではないかと想像されます。
【広瀬浅間神社】
所在地:狭山市上広瀬983-2
脇から上る

正面

庚申堂の前で説明

富士信仰について:
富士山は霊山として、噴火を神の怒りとして捉え、噴火を鎮めるために古く奈良・平安の時代から崇められてきました、江戸時代になると長谷川角行東覚により富士信仰の基礎が確立されました、享保年間(1716-36)に食行身録(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊東伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東一円に同信者の集団である富士講が組織されました。
富士倍抑の拠点富士塚:
富士山を模した塚を各地に築いて(初めは江戸高田)信仰の拠点としました。
ここにある広瀬浅間神社は上広瀬、下広瀬の富士講-丸ろ講の人々によって万延元年(1860)7月に隣接の愛宕神社の境内社として、安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して創建されました。
河岸段丘を利用して上り口に石造の鳥居があり、急斜面の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちよういし)をはじめ5台目の小御嶽大神、8合目の角行・食行の碑やいくつかの神社の石碑があり、頂上に「富士浅間宮」の石碑が建てられています。
ご祭神は木花咲開耶姫、彦火火見尊、大山大山祇之尊の三神です。
富士講の目的
塚の頂から富士山を望む遥拝所としての役割を担っています、地域の老人や女子にとっては、この塚に登れば富士登拝(とうはい)と同様の御利益が得られる有り難い場所でした。
山頂

広瀬浅間神社については、既に詳しく載せた記事があります。
広瀬浅間神社の記事を読む
平成9年に(1997)狭山市指定文化財に(無形民陰対ヒ財)に指定されている、広瀬の火祭りは明治時代初期(1867)から始まりました、山梨県富士吉田市に鎮座する北口本宮富士浅間弼土の火祭り(8/26~27)を模倣したもので毎年8月21日に丸ろ講により行われます(富士山の山開きは7/1~8/未)。
広瀬の火祭りについては、記事があります。
広瀬の火祭りの記事を読む
【清水宗徳の墓】
所在地:狭山市上広瀬の霞が丘墓地

大変に高く(369cm)、大きい墓石で「前代議土清水宗徳の墓」と刻まれています。また、墓石の下には2本のレーノが敷かれています。
清水宗徳は狭山市が生んだ大人物で明治の先覚者であり、いまだに宗徳を超える人物は狭山市では出ていないと云われております。
清水宗徳は天保14年(1843)に当地、上広瀬の名主の長男として誕生しました。埼玉県が生んだ明治の大実業家である渋沢栄-が天保11年(1840)の生まれですので、渋沢栄-と同時代の人であり栄一の影響を受けたとも云われています。ペリーが黒船で浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)ですので、栄「が10才の
時であり、1868年の明治維新を25才で迎えたわけです。
宗徳も最初は家督を継いで名主をしておりましたが、明治12年(1879)に第1回埼玉県県議会議員に選出され、次いで明治23年(1890)には第1回衆議院議員に埼玉2区で当選いたしました。
政治家としての宗徳は自由党に属し、地租徴収期限の改正等で活躍いたしました。
次に特筆すべき地域産業の発展、狭山市及びその周辺の近代化に尽くした実業家としての宗徳です。まず、狭山の地が桑の栽培に適しているとのことから、村有の荒れ地に桑の栽培を奨励し、養蚕の振興に寄与し、県内最初の機会製糸工場である暢業社を明治9年(1876)に創設し、その品質屈指との評判を得、経営的にも大変な好業績を残しました。また、当地域特産物である斜子織の改良に努め、斜子織の同業組合である「廣瀬組」を結成、製品の粗製乱造を防止し、廣瀬料子を全国的に広めました。そして斜子織はシカコで開催された世界博覧会で名誉賞を受けるほどになりました。
そして最大の功績は交通機関の敷設と思います。川越から所沢を経て国分寺を結ぶ鉄道である川越鉄道(現西武国分寺線)を開設し、更に、飯能、青梅方面と川越鉄道を接続させるべく道路にレールを敷いて馬車を走らせる馬車鉄道会社を設立して第2代社長として経営改善に貢献しました。墓石の下の2本のレールはその業績を讃え、馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いたものです。
墓石

馬車鉄道のレール

それから、水富公民館でトイレ休憩をしてから、明光寺に向かった。
【明光寺】
所在地:狭山市根岸2丁目5-1

明光寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は木造地蔵菩薩坐像です。同寺は応和2(962)年に明光上人によ り創設されたと伝えられています。『新編武蔵風土記稿』によると、明光は明応7(1498)年に没したとあります。中興開山は覚円(かくえん)で、天正7(1579)年に当地を領有していた加治家信(かじいえのぶ)から、南宋時代の禅僧牧黙(もつけい)が描いた楊柳(ようりゆう)観音画像の寄進を受けたと云い、寺宝となっています。また、天正19(1591)年に五石のご朱印を得ています。
明光寺の本堂に、地蔵十王図が掲げられています。十王とは冥途で死者を裁く王のことです。人は亡くなると、遺族は初七日・ニ七日(ふたなのか)・三七日(みなのか)にはじまり、百箇日・一年忌・三年忌と追善供養を行いますが、これは遺族が供養することによって、死者が極楽へ行けることを保証するという「地蔵十王思想」が、真言・天台・浄土などの諸宗派によって盛んに喧伝されたためです。
追善供養と十王は次の関係になります。
初七日→秦公王、二七日→初江王、三七日→宋帝王、四七日→五官王、五七日→閻魔王、六七日→変成王、七七日→太山王、百箇日→平等王、一年忌→都市王、三年忌→五道転輪王
この寺のものは、十王のほかに地蔵菩薩・奪衣婆・修羅の3幅を加えて、全部で13幅からなつています。
本堂に上げていただき、住職さんから地蔵十王図の前で説明をいただいた。

地蔵十王図は、それぞれ縦93cm、横39cmのものです。
参考に13幅のうちから4幅を載せておきます。

日光脇往還の説明は、明光寺山門前で行った。

【日光脇往還】

この街道の特徴は、日光山火防の任にあった八王子千人同心が警備につく際に往来した道であるという点です。このため、この街道は「千人同心日光道」や「日光御火之番様御通り之道」とも呼ばれています。
八王子千人同が日光山火防のため「日光勤番」を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月のことです。そして実際に日光勤番につくために八王子を出発したのは承応元(1652)年12月13日であり、以後、承応2年8月3日に第2番、9月25日に第3番が出発しています。第1番、第2番は八王子から江戸へ出て、千住から宇都宮を経由するという日光道中を用いています。第3番からは八王子から江戸へ向かわず「日光脇往還」を経ることになります。以後、幕末の慶応4(1868)年4月8日まで、217年間に約1030回の日光勤番を、日光脇往還を経て日光勤番が続くことになります。この点から日光脇往還の成立は承応2(1652)年以後といえます。
日光脇往還の経路は、八王子→拝島→箱根ヶ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→川俣→館林→佐野→冨田→栃木→合戦場→金崎→喩木→鹿沼→文挟-今市→日光。
八王子千人同心は、天正18(1590)年8月の徳∥家康の関東入国に伴い、武田氏や後北条氏の遺臣、その他浪人を集め、元八王子(現在の東京都八王子市)周辺に住まわせ、新領土である江戸の防衛のため、甲州口の備えと八王子を中心とする後北条氏遺臣の反逆に備えたのが、その始まりです。八王子千人同心が日光火之番を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月です。八王子千人同心が火之番を命ぜられた理由は定かではありませんが、本来の軍事的役割が薄れてきたためかとも思われます。
【根岸の渡し跡】
日光脇往還の交通量の増加により、入間川に渡船(わたしぶね)を設けることを幕府に出願し、文化8年(1811)に渡船場(とせんば)が開設され、その渡船場は「根岸の渡し」と呼ばれました。

(了)
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今回のコースは「広瀬・根岸地区」です。
コースは、本富士見橋(入間馬車鉄道)⇒本富士見橋⇒富士見橋架設記念碑⇒日暮らしの馬頭さん⇒廣瀬神社⇒入間馬車鉄道広瀬停車場⇒信立寺⇒広瀬浅間神社⇒清水宗徳の墓⇒明光寺⇒日光脇往還⇒根岸の渡し跡

【本富士見橋(入間馬車鉄道)】
入間馬車鉄道は、埼玉県入間郡入間川町(項在の狭山刊と入間郡飯能町(現在の飯能市)を結んでいた馬車鉄道で、明治34(1901)年5月~大正6(1917)年12月までの16年間、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の開通前、鉄道の存在しなかつた飯能地区と、南北に伸びる川越鉄道(現在の西武新宿線)とを連絡する鉄道系交通幾関として重要な役割を果たしました。
(概要)
川越鉄道の入間川駅(現狭山市駅)の西口から北麓を回り込むように新たに鉄道用に造られた馬車新道(現在の狭山市駅から市民会館へ向かう道路の七夕通りの交差点まで)を走ったのち、入間川町の中心街(ほぼ三百戸の街並み)を経て、入間川を本富士見僑付近で渡り、水富村(項在の広瀬・根岸・笹井地区)をひたすら西進して飯能町の中心部に至っていました。
(停車場などの路線データ)
全線で13の停車場がありました。停車場の位置は公表れた正確な記録が残っていないが、当時の経営者家族、株主、付近の古老など百人近い人々から聞取り調査した結果、ほぼ確定しています。
入間川駅発着所-菅原一諏訪下-河原宿-広瀬-根岸-笹井-八木(はちぎ)-野田-岩沢一双栁-前田-飯能発着所。
(入間馬車鉄道の歴史)
当馬車鉄道敷設の契機になったのは、明治28年に開通した川越鉄道です。鉄道路線がなかった埼玉県西部地域が、この開通でようやく鉄道の恩恵を受けることが期待されました。しかし、同鉄道は南北に伸びる路線であり、直接的に恩恵を受けるのは所沢・入間川町・川越町などに限られた地域のみで、同鉄道の路線から大きく外れた飯能町方面からは、昔ながらの馬・馬車・大八車、数少ない人力車をもつて旅客や貨物を運ぶしかありませんでした。そこで川越鉄道を補助する東西の路線として、入間川駅を起点とする馬車鉄道が計画されたのです。入間馬車鉄道(株)はこのような期待のもと株主約2百名、資本金6万円(現在価値=2億4千3百万円)で発足しました。

【本富士見橋】
「富士見橋架設記念碑」
広瀬側本富士見橋たもと
刻文:
文化の進展は交通の利便に待つこと甚だ多く 交通の利便は橋梁の完備に関わること極めて大なり。然るに往年入間川飯能道は完全なる橋梁なく入間の奔流に交通を遮断させらるること屡(しばし)なりき。上広瀬の人清水宗徳氏夙(つと) に之を憂い明治八年官許を得て徴料広瀬渡船橋を榮し後 同族下邑登代作氏之に代わりて来往の便を謀りしが入間川水富の両町民は尚交通の安恒と利便とを期し渡津の利権を購(あがな) ひ大正九年十一月無賃渡船橋に改せり。柳本橋の堅否は地方の発達に甚大なる関係あるを以て同十一年十二月通常県会に於いて懸費架橋の議決を可決せり。乃(すなわ)ち本年三月工を起し八月成を告げ名つけて富士見橋と日(いう)。長さ八十四間幅弐間、工費に弐萬餘円を算す。
鳴呼、橋梁既に完し交通の便備わりき。今より後文化の進展に新生面を開かんことを必せり。茲に沿革を略叙し以て後昆に告ぐと云ふ。
大正十二年十一月県会議員 岡野近三撰

【日暮らしの馬頭さん】
所在地:狭山市広頼1丁目1番付近
造立:文政13年(1830年)

元は旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にありましたが、県道の拡幅で現在地へ移転しました。伝説にこんな話が伝わつています。
昔、下広瀬の街道脇に立派な馬頭醗世音の石碑が立っていました。ある日の事、石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、「う-む、これは素晴らしい。なんとも見事な文字じゃ。実にうまい」としきりに感心し、とうとう座り込んでしまいました。通りがかった人たちも「云われてみると素晴らしい文字じや」と口々に云いながら眺めておりました。そのうちにお天道さまも西に傾き、やがて-番星が輝き始めました。それでも人々はあきずに文字を見続 けました。文字が立派でいくら見ていてもあきないことから、誰云うとなく「日暮しの馬頭さん」と云われるようになったとのことです。

【廣瀬神社】
鎮座地:狭山市広瀬2丁目23番1号

廣瀬神社は、延長5年(927)の延書式神名帳に記載されている神社であり、国が公認し、幣帛を奉った格式のある神社。武蔵の国には44座、入間郡には5座あるが狭山市には当社のみである。
廣瀬神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
県指定文化財である、樹齢800年の大欅


拝殿

【入間馬車鉄道広瀬停車場】
廣瀬神社入り口付近


【信立寺】
所在地:狭山市広瀬3丁目5番1号
信立寺は日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊四士四天王(いっとうりゆうそんしししてんのう)立像です。
一塔とは本堂にある宝塔のことで、両尊は釈迦如来坐像と多宝如来坐像、四士は法華経に説かれている無辺行・上行・浄行・安立行の各菩薩、四天王は持国天・広目天・毘沙門天・増長天の各立像です。
創建は天正18(1590)年ごろといわれ、開山は池上本門寺12世買主の目性(にっせい)上人、開基は当地方を領有していた加治家信です。寺宝の-つに軸装された日蓮上人真筆がありますが、これは家信が文禄年間(1592~96)に寄進したものです。家信は慶長17(1612)年に亡くなりましたが、その墓石とされる五輪塔が同寺に隣接する墓地にあります。なお、同寺の本堂は享保15(1730)年に再建されたもので、市内の寺院ではもっとも古い建物の一つです。
入り口

山門

本堂

本堂内の祭壇

本堂の左に鬼子母神堂あり。
鬼子母神は、法華経の守護神とされるため日蓮宗の寺院に祀られることが多い神で、安産や子育ての神としても信仰されています。

お堂内部

墓地に入っていくと、加治左馬之助家信の供養塔あり。


加治氏(かじし)は、武蔵国高麗郡加治(現在の埼玉県飯能市)付近から秩父にかけて活動していた武蔵七党の丹党に属する豪族。
鐘楼

梵鐘は大東亜戦争の際、鋳つぶされてしまいましたが「此地往古ヨリ兵乱屡々アリテ幾多屍ヲ埋ムル処=テ‥・天正六年如月吉辰当国領主加治左馬之肋丹治家信公発願当寺ヲ創建シ‥・惺聖人ヲ聘シテ開山トシ惺安山信立寺卜号ス 正徳四年四月‥・佐野ノ名匠藤原家治ノ鋳セル梵鐘ハ花震月夕哺風吼霜永年近郷一円ニ妙音ヲ伝へ来レルモ昭和十九年大東亜戦争ニ際シ末曽有ノ国難ニ殉ジテ遂ニ姿ヲ失フニ至レリ‥・」と記されてあり、かっての梵鐘の再現に先代が拘ったものと思われます。家長が開基の発端となった戦乱とは北条氏政が上杉謙信に小田原城を包囲された後、謙信や武田信玄にも奪われた関東北部の失地回復に動いた時の戦乱ではないかと想像されます。
【広瀬浅間神社】
所在地:狭山市上広瀬983-2
脇から上る

正面

庚申堂の前で説明

富士信仰について:
富士山は霊山として、噴火を神の怒りとして捉え、噴火を鎮めるために古く奈良・平安の時代から崇められてきました、江戸時代になると長谷川角行東覚により富士信仰の基礎が確立されました、享保年間(1716-36)に食行身録(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊東伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東一円に同信者の集団である富士講が組織されました。
富士倍抑の拠点富士塚:
富士山を模した塚を各地に築いて(初めは江戸高田)信仰の拠点としました。
ここにある広瀬浅間神社は上広瀬、下広瀬の富士講-丸ろ講の人々によって万延元年(1860)7月に隣接の愛宕神社の境内社として、安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して創建されました。
河岸段丘を利用して上り口に石造の鳥居があり、急斜面の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちよういし)をはじめ5台目の小御嶽大神、8合目の角行・食行の碑やいくつかの神社の石碑があり、頂上に「富士浅間宮」の石碑が建てられています。
ご祭神は木花咲開耶姫、彦火火見尊、大山大山祇之尊の三神です。
富士講の目的
塚の頂から富士山を望む遥拝所としての役割を担っています、地域の老人や女子にとっては、この塚に登れば富士登拝(とうはい)と同様の御利益が得られる有り難い場所でした。
山頂

広瀬浅間神社については、既に詳しく載せた記事があります。
広瀬浅間神社の記事を読む
平成9年に(1997)狭山市指定文化財に(無形民陰対ヒ財)に指定されている、広瀬の火祭りは明治時代初期(1867)から始まりました、山梨県富士吉田市に鎮座する北口本宮富士浅間弼土の火祭り(8/26~27)を模倣したもので毎年8月21日に丸ろ講により行われます(富士山の山開きは7/1~8/未)。
広瀬の火祭りについては、記事があります。
広瀬の火祭りの記事を読む
【清水宗徳の墓】
所在地:狭山市上広瀬の霞が丘墓地

大変に高く(369cm)、大きい墓石で「前代議土清水宗徳の墓」と刻まれています。また、墓石の下には2本のレーノが敷かれています。
清水宗徳は狭山市が生んだ大人物で明治の先覚者であり、いまだに宗徳を超える人物は狭山市では出ていないと云われております。
清水宗徳は天保14年(1843)に当地、上広瀬の名主の長男として誕生しました。埼玉県が生んだ明治の大実業家である渋沢栄-が天保11年(1840)の生まれですので、渋沢栄-と同時代の人であり栄一の影響を受けたとも云われています。ペリーが黒船で浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)ですので、栄「が10才の
時であり、1868年の明治維新を25才で迎えたわけです。
宗徳も最初は家督を継いで名主をしておりましたが、明治12年(1879)に第1回埼玉県県議会議員に選出され、次いで明治23年(1890)には第1回衆議院議員に埼玉2区で当選いたしました。
政治家としての宗徳は自由党に属し、地租徴収期限の改正等で活躍いたしました。
次に特筆すべき地域産業の発展、狭山市及びその周辺の近代化に尽くした実業家としての宗徳です。まず、狭山の地が桑の栽培に適しているとのことから、村有の荒れ地に桑の栽培を奨励し、養蚕の振興に寄与し、県内最初の機会製糸工場である暢業社を明治9年(1876)に創設し、その品質屈指との評判を得、経営的にも大変な好業績を残しました。また、当地域特産物である斜子織の改良に努め、斜子織の同業組合である「廣瀬組」を結成、製品の粗製乱造を防止し、廣瀬料子を全国的に広めました。そして斜子織はシカコで開催された世界博覧会で名誉賞を受けるほどになりました。
そして最大の功績は交通機関の敷設と思います。川越から所沢を経て国分寺を結ぶ鉄道である川越鉄道(現西武国分寺線)を開設し、更に、飯能、青梅方面と川越鉄道を接続させるべく道路にレールを敷いて馬車を走らせる馬車鉄道会社を設立して第2代社長として経営改善に貢献しました。墓石の下の2本のレールはその業績を讃え、馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いたものです。
墓石

馬車鉄道のレール

それから、水富公民館でトイレ休憩をしてから、明光寺に向かった。
【明光寺】
所在地:狭山市根岸2丁目5-1

明光寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は木造地蔵菩薩坐像です。同寺は応和2(962)年に明光上人によ り創設されたと伝えられています。『新編武蔵風土記稿』によると、明光は明応7(1498)年に没したとあります。中興開山は覚円(かくえん)で、天正7(1579)年に当地を領有していた加治家信(かじいえのぶ)から、南宋時代の禅僧牧黙(もつけい)が描いた楊柳(ようりゆう)観音画像の寄進を受けたと云い、寺宝となっています。また、天正19(1591)年に五石のご朱印を得ています。
明光寺の本堂に、地蔵十王図が掲げられています。十王とは冥途で死者を裁く王のことです。人は亡くなると、遺族は初七日・ニ七日(ふたなのか)・三七日(みなのか)にはじまり、百箇日・一年忌・三年忌と追善供養を行いますが、これは遺族が供養することによって、死者が極楽へ行けることを保証するという「地蔵十王思想」が、真言・天台・浄土などの諸宗派によって盛んに喧伝されたためです。
追善供養と十王は次の関係になります。
初七日→秦公王、二七日→初江王、三七日→宋帝王、四七日→五官王、五七日→閻魔王、六七日→変成王、七七日→太山王、百箇日→平等王、一年忌→都市王、三年忌→五道転輪王
この寺のものは、十王のほかに地蔵菩薩・奪衣婆・修羅の3幅を加えて、全部で13幅からなつています。
本堂に上げていただき、住職さんから地蔵十王図の前で説明をいただいた。

地蔵十王図は、それぞれ縦93cm、横39cmのものです。
参考に13幅のうちから4幅を載せておきます。

日光脇往還の説明は、明光寺山門前で行った。

【日光脇往還】

この街道の特徴は、日光山火防の任にあった八王子千人同心が警備につく際に往来した道であるという点です。このため、この街道は「千人同心日光道」や「日光御火之番様御通り之道」とも呼ばれています。
八王子千人同が日光山火防のため「日光勤番」を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月のことです。そして実際に日光勤番につくために八王子を出発したのは承応元(1652)年12月13日であり、以後、承応2年8月3日に第2番、9月25日に第3番が出発しています。第1番、第2番は八王子から江戸へ出て、千住から宇都宮を経由するという日光道中を用いています。第3番からは八王子から江戸へ向かわず「日光脇往還」を経ることになります。以後、幕末の慶応4(1868)年4月8日まで、217年間に約1030回の日光勤番を、日光脇往還を経て日光勤番が続くことになります。この点から日光脇往還の成立は承応2(1652)年以後といえます。
日光脇往還の経路は、八王子→拝島→箱根ヶ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→川俣→館林→佐野→冨田→栃木→合戦場→金崎→喩木→鹿沼→文挟-今市→日光。
八王子千人同心は、天正18(1590)年8月の徳∥家康の関東入国に伴い、武田氏や後北条氏の遺臣、その他浪人を集め、元八王子(現在の東京都八王子市)周辺に住まわせ、新領土である江戸の防衛のため、甲州口の備えと八王子を中心とする後北条氏遺臣の反逆に備えたのが、その始まりです。八王子千人同心が日光火之番を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月です。八王子千人同心が火之番を命ぜられた理由は定かではありませんが、本来の軍事的役割が薄れてきたためかとも思われます。
【根岸の渡し跡】
日光脇往還の交通量の増加により、入間川に渡船(わたしぶね)を設けることを幕府に出願し、文化8年(1811)に渡船場(とせんば)が開設され、その渡船場は「根岸の渡し」と呼ばれました。

(了)
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天津甕星(あまつみかぼし)・香香背男(かがせお)/日本の神々の話
20160615
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。
『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。
第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。
平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。
茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
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『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。
第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。
平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。
茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
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小石川散策(2)
20160613
6月7日(火)に歴史クラブの行事で廻りました。
前回の記事で、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院まで述べて、それから昼食・休憩をした後の分です。
徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園までが残りのコースとなります。
春日通りを横切って、「安藤坂」を下って安藤坂交差点で「巻石通り」を行きます。金冨小学校の前を通りこしたら、右手に「新坂」があり、それを上がりきったところが「徳川慶喜終焉の地」です。
新坂

【④徳川慶喜終焉の地】

徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉昭の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
説明板とイチョウの大木がある。

すぐ横が谷になっていて、丸ノ内線が走っている。

また「巻石通り」に戻り、称名寺の手前の「荒木坂」を上がる。
荒木坂の途中の説明板で、神田上水の開渠の部分に水質を保つため蓋をしたが、その石蓋を「巻石」と言うと知った。

これは嘉永7年の「東都小石川繪図」だが、「アラキザカ」、これから訪ねる「キリシタンザカ」、「深光寺」、「林泉寺(シハラレ地蔵)」がわかる。

【⑤切支丹屋敷跡】

島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられた。その後、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりである。
寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続き、鎖国禁教政策の下で、宣教師や信者を収容した。
宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられた。
徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられた。



蛙坂


この坂を下りきると、丸ノ内線の高架下。

そこから「茗荷坂」を上がりかけ、拓殖大学の門の向かいに深光寺がある。
【⑥深光寺(滝沢馬琴の墓)】


急坂を上り切った本堂の左手前に、馬琴の墓がある。馬琴は江戸後期の戯作者で、超大作『南総里見八犬伝』で名高い。強情で偏執的な性格が補いしてか人に仕えては失敗し、寡婦お百に婿入りして戯作に打ちこんだ。晩年は失明したが、息子の嫁お路に代筆させて、28年がかりで『八犬伝』106冊を完成させた。享年82歳。
本堂

滝沢馬琴の墓



そこからほんのちょっと上がったところが林泉寺だが、全面改装中でまったく中に入れず、下見のときにあきらめて帰りかけたら、近所の人が教えてくれた。
縛られ地蔵だけ、脇のほうから参拝できるようになっていた。
しかし入り口には何も表示が無いので、初めて来た人は見つけることが出来ないと思う。
【⑦林泉寺(縛られ地蔵)】
しばり地蔵ともいわれている地蔵は伊藤半兵衛長光が両親の供養のために寄進した物であり、33世林泉寺住職江田和雄和尚によると「寺社奉行が町民の不満対策のために地蔵を縛らせることで解消させようとした」と推測している。願掛けのために地蔵を縛り、願いが叶ったらほどくと言われていると『江戸砂子』に書かれている。
「大岡政談」の話にある「縛られ地蔵」は、現在の葛飾区東水元「南蔵院」にあり、これとは別。



ここから丸ノ内線の高架下まで戻り、「藤坂」を上がると春日通り。
そこから、気持ちのいい桜並木の坂「播磨坂」を下る。



【⑧小石川植物園】
元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された小石川御薬園であった。幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である。その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが「小石川養生所」であり、 山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語である。
のちに、養生所は江戸時代の七分積金をもとにした東京市養育院の設立(明治5年)につながった。なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として享保20年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名である。
その後、明治期に入り、東京大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現・理学部)の附属施設となり、広く一般植物などを多種揃えた植物学の研究施設として生まれ変わった。
同時に、一般にも公開されるようになった。
1897年には本郷キャンパスにあった植物学教室が小石川植物園内に移転し、講義棟も建設され、植物学に関する講義も行われることになった(1934年に植物学教室は本郷に再移転)。
1998年より、現在のように大学院理学系研究科の附属施設となった。理学部→理学系研究科の附属施設ということもあり、毎年5月に理学系研究科・理学部の学生・教職員交歓会が開催されている。
案内図


本部建物

ソメイヨシノ林

カエデ並木

精子発見したイチョウ




傍のアジサイが咲き出していた。


旧養生所に関しては、井戸が残っている。


ハナショウブ



旧東京医学校本館建物が見えるところまできた。

ここで、私の好きな泉鏡花著「外科室」より、ここが登場する場面を紹介しておこう。
数ふれば、はや九年前なり。高峰が其頃は未だ醫科大学に学生なりし砌(みぎり)なりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅の花盛なりし。渠とともに手を携へ、芳草の間を出づ、入りつ、園内の公園なる池を巡りて、咲揃ひたる藤を見つ。
歩を転じて彼處なる躑躅の丘に上らむとて、池に添ひつつ歩める時、彼方より来りたる、一群の観客あり。
・・・・・・・
中なる三人の婦人等は、一様に探張の涼傘(ひがさ)を指翳して、裾捌の音最冴(いとさや)かに、するすると練来れる、ト行違ひざま高峰は、思はず後を見返りたり。
「見たか。」
高峰は頷きぬ。「むゝ。」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されど唯赤かりしのみ。
・・・・・・・・
高峰はさも感じたる面色にて、「あゝ、眞の美の人を動かすことあの通りさ、君はお手のものだ、勉強し給へ。」
予は畫師たるが故に動かされぬ。
行くこと数百歩、彼の樟(くすのき)の大樹の鬱蒼たる木の下蔭の、梢薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。
旧東京医学校本館建物は実に美しい。









鳥ものんびりしている。

次郎稲荷
小石川植物園のうちには太郎稲荷と次郎稲荷が祀られている。江戸時代からあった稲荷らしい。麻布の薬園をこの地に移した時、薬園内の稲荷も移しているので、どちらかが該当する可能性がある。江戸には数多くの稲荷があり、人々のありとあらゆる願いを引き受けていたが、養生所から下りて来る鍋割坂、通称・病人坂の近くに位置している太郎稲荷は、養生所には必要不可欠な存在であったろう。一方、次郎稲荷の方は、湧水地と思われる場所に置かれているので、湧水を守るために祀ったのかも知れない(湧水地に稲荷を祀った事例もある)。
また、御薬園は二つに分けて管理していたので、各々の区画に稲荷を祀ったとしてもおかしくはない。或は、御殿跡地の低地に幾つかの屋敷があった時期があり、屋敷稲荷として祀られた稲荷が、たまたま2社残った事も考えられるそうである。
時間の関係で、太郎稲荷には寄れなくて、次郎稲荷にだけお参りした。

狐がずいぶんと怖い(笑)
狼みたいな感じだ。


社殿と、その左にちゃんと狐穴がある。

ツュンベリーの松


関東大震災記念碑


さきほどの「外科室」に登場している、「樟(くすのき)の大樹」



これで、この日の予定を全て終了。
ここから、また播磨坂を上がって春日通りに出て、「茗荷谷」駅から帰宅した。
(了)
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「お気に入りの場所」に飛ぶ
前回の記事で、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院まで述べて、それから昼食・休憩をした後の分です。
徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園までが残りのコースとなります。
春日通りを横切って、「安藤坂」を下って安藤坂交差点で「巻石通り」を行きます。金冨小学校の前を通りこしたら、右手に「新坂」があり、それを上がりきったところが「徳川慶喜終焉の地」です。
新坂

【④徳川慶喜終焉の地】

徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉昭の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
説明板とイチョウの大木がある。

すぐ横が谷になっていて、丸ノ内線が走っている。

また「巻石通り」に戻り、称名寺の手前の「荒木坂」を上がる。
荒木坂の途中の説明板で、神田上水の開渠の部分に水質を保つため蓋をしたが、その石蓋を「巻石」と言うと知った。

これは嘉永7年の「東都小石川繪図」だが、「アラキザカ」、これから訪ねる「キリシタンザカ」、「深光寺」、「林泉寺(シハラレ地蔵)」がわかる。

【⑤切支丹屋敷跡】

島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられた。その後、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりである。
寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続き、鎖国禁教政策の下で、宣教師や信者を収容した。
宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられた。
徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられた。



蛙坂


この坂を下りきると、丸ノ内線の高架下。

そこから「茗荷坂」を上がりかけ、拓殖大学の門の向かいに深光寺がある。
【⑥深光寺(滝沢馬琴の墓)】


急坂を上り切った本堂の左手前に、馬琴の墓がある。馬琴は江戸後期の戯作者で、超大作『南総里見八犬伝』で名高い。強情で偏執的な性格が補いしてか人に仕えては失敗し、寡婦お百に婿入りして戯作に打ちこんだ。晩年は失明したが、息子の嫁お路に代筆させて、28年がかりで『八犬伝』106冊を完成させた。享年82歳。
本堂

滝沢馬琴の墓



そこからほんのちょっと上がったところが林泉寺だが、全面改装中でまったく中に入れず、下見のときにあきらめて帰りかけたら、近所の人が教えてくれた。
縛られ地蔵だけ、脇のほうから参拝できるようになっていた。
しかし入り口には何も表示が無いので、初めて来た人は見つけることが出来ないと思う。
【⑦林泉寺(縛られ地蔵)】
しばり地蔵ともいわれている地蔵は伊藤半兵衛長光が両親の供養のために寄進した物であり、33世林泉寺住職江田和雄和尚によると「寺社奉行が町民の不満対策のために地蔵を縛らせることで解消させようとした」と推測している。願掛けのために地蔵を縛り、願いが叶ったらほどくと言われていると『江戸砂子』に書かれている。
「大岡政談」の話にある「縛られ地蔵」は、現在の葛飾区東水元「南蔵院」にあり、これとは別。



ここから丸ノ内線の高架下まで戻り、「藤坂」を上がると春日通り。
そこから、気持ちのいい桜並木の坂「播磨坂」を下る。



【⑧小石川植物園】
元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された小石川御薬園であった。幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である。その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが「小石川養生所」であり、 山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語である。
のちに、養生所は江戸時代の七分積金をもとにした東京市養育院の設立(明治5年)につながった。なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として享保20年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名である。
その後、明治期に入り、東京大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現・理学部)の附属施設となり、広く一般植物などを多種揃えた植物学の研究施設として生まれ変わった。
同時に、一般にも公開されるようになった。
1897年には本郷キャンパスにあった植物学教室が小石川植物園内に移転し、講義棟も建設され、植物学に関する講義も行われることになった(1934年に植物学教室は本郷に再移転)。
1998年より、現在のように大学院理学系研究科の附属施設となった。理学部→理学系研究科の附属施設ということもあり、毎年5月に理学系研究科・理学部の学生・教職員交歓会が開催されている。
案内図


本部建物

ソメイヨシノ林

カエデ並木

精子発見したイチョウ




傍のアジサイが咲き出していた。


旧養生所に関しては、井戸が残っている。


ハナショウブ



旧東京医学校本館建物が見えるところまできた。

ここで、私の好きな泉鏡花著「外科室」より、ここが登場する場面を紹介しておこう。
数ふれば、はや九年前なり。高峰が其頃は未だ醫科大学に学生なりし砌(みぎり)なりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅の花盛なりし。渠とともに手を携へ、芳草の間を出づ、入りつ、園内の公園なる池を巡りて、咲揃ひたる藤を見つ。
歩を転じて彼處なる躑躅の丘に上らむとて、池に添ひつつ歩める時、彼方より来りたる、一群の観客あり。
・・・・・・・
中なる三人の婦人等は、一様に探張の涼傘(ひがさ)を指翳して、裾捌の音最冴(いとさや)かに、するすると練来れる、ト行違ひざま高峰は、思はず後を見返りたり。
「見たか。」
高峰は頷きぬ。「むゝ。」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されど唯赤かりしのみ。
・・・・・・・・
高峰はさも感じたる面色にて、「あゝ、眞の美の人を動かすことあの通りさ、君はお手のものだ、勉強し給へ。」
予は畫師たるが故に動かされぬ。
行くこと数百歩、彼の樟(くすのき)の大樹の鬱蒼たる木の下蔭の、梢薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。
旧東京医学校本館建物は実に美しい。









鳥ものんびりしている。

次郎稲荷
小石川植物園のうちには太郎稲荷と次郎稲荷が祀られている。江戸時代からあった稲荷らしい。麻布の薬園をこの地に移した時、薬園内の稲荷も移しているので、どちらかが該当する可能性がある。江戸には数多くの稲荷があり、人々のありとあらゆる願いを引き受けていたが、養生所から下りて来る鍋割坂、通称・病人坂の近くに位置している太郎稲荷は、養生所には必要不可欠な存在であったろう。一方、次郎稲荷の方は、湧水地と思われる場所に置かれているので、湧水を守るために祀ったのかも知れない(湧水地に稲荷を祀った事例もある)。
また、御薬園は二つに分けて管理していたので、各々の区画に稲荷を祀ったとしてもおかしくはない。或は、御殿跡地の低地に幾つかの屋敷があった時期があり、屋敷稲荷として祀られた稲荷が、たまたま2社残った事も考えられるそうである。
時間の関係で、太郎稲荷には寄れなくて、次郎稲荷にだけお参りした。

狐がずいぶんと怖い(笑)
狼みたいな感じだ。


社殿と、その左にちゃんと狐穴がある。

ツュンベリーの松


関東大震災記念碑


さきほどの「外科室」に登場している、「樟(くすのき)の大樹」



これで、この日の予定を全て終了。
ここから、また播磨坂を上がって春日通りに出て、「茗荷谷」駅から帰宅した。
(了)
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小石川散策(1)
20160612
6月7日(火)に歴史クラブの行事で廻りました。
西武新宿線、山手線、丸ノ内線を経由して「後楽園」駅で降り、スタートしました。
コースは、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院⇒昼食・休憩⇒徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園⇒茗荷谷駅

【①文京シビックセンター25階展望台】
文京シビックセンター25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されています。展望ラウンジの高さは、地上約105メートル。文京区内にある東京大学、小石川植物園はもとより、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がります。
また、この階に展望レストラン(椿山荘)があり、リーズナブルで季節にマッチした美味しい料理なので、気に入っています。

後楽園遊園地ジェットコースターの向こうに東京タワーの先端が見える。(下見のときの写真)

スカイツリー(下見のときの写真)

春日通り

これから行く伝通院の山門と小石川植物園。
この日は天気が悪くて、見通しが悪い。

足元の小石川後楽園。

今が見ごろの花菖蒲園には人が多い。

下見に来た5月18日には、まだ富士山がなんとか見えた。
新宿超高層ビル群の左に、うっすらと見える。


次の目的地に向かうのに、春日通りを横切るが、そこからの文京シビックセンター。
(下見のときの写真)


【②源覚寺(こんにゃく閻魔)】
寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された浄土宗の寺。
当寺院の別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代、運慶派の仏師の作と推定される、像高100.4センチの木造閻魔王坐像である。像内に寛文12年(1672年)の修理銘がある。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのは、以下のような伝説がある。
宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたという。以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。

閻魔堂



たしかに、閻魔像の右側の眼が黄色く濁っている。

毘沙門天(小石川七福神)


塩地蔵尊


汎太平洋の鐘



鐘はサイパンの悲哀を今日も幾多の弾痕として留めます。

私の富山の義父はもう亡くなりましたが、ホテルニューオータニ本館の設計に携わった人です。戦争中は南方に従軍したそうで、家族には何も語らなかったそうですが、私は近所の人から、「何も食べる者が無くて、飢えて皆座り込んでいた。そこにやってくるトカゲや蝶々が食料だった」と語っていたと聞きました。
骨と皮だけになって帰国したが、身体を壊したので、私が結婚したころはほとんど病院に居た。
家族には、私が聞いたことを話しました。
南洋群島物故者慰霊像



本堂のご本尊は阿弥陀如来像です。


【善光寺坂】
ここは、当初予定に無く、伝通院に向かう道筋として通っただけです。
そこにあった説明板を撮って、帰ってから読んで、芭蕉の句碑があったのがわかったので、後日また訪ねたので、それを載せておきます。

坂の名前の由来である善光寺は省略して、「沢蔵司稲荷・慈眼院」に参拝。



手水舎

手水舎の4面の彫刻は素晴らしかった。

拝殿

向拝蟇股のところに、漆喰で狐の彫刻は珍しい。

神紋も「包み抱き稲に宝珠」で珍しい。

芭蕉句碑
戸田權太夫亭にて「一しぐれ 礫や降て 小石川」
延宝5年(1677年)、芭蕉34歳の時の作。この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机したらしい。
戸田権太夫は芭蕉と同郷の伊賀上野の人で、壱岐坂の中程に邸があったそうだ。


沢蔵司稲荷は、他にもいろいろ良い物があるので、後日記事にします。
沢蔵司の魂が宿っているという椋の老木。



【③伝通院】
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受け、伝通院の建立を決めた。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
善光寺坂を上がりきると、伝通院。

山門

葵の紋があり。

山門の前の石柱


本堂


本堂内

ご本尊の阿弥陀如来像

本堂の向かって右にある「如是我聞」碑



ここの墓地には、多くの有名人の墓があり。


於大の方(家康の生母)の墓


千姫の墓


藤井紋太夫の墓
この日、見つけられなかったが、水戸光圀の重大な関係者ということで、あきらめられず後日再訪してお参りした。
藤井紋太夫は、旗本荒尾家の4男として生まれ、その明晰さを惜しまれてのことだろう、伯母である水戸家の老女藤井の養子となる。
14才のときに、水戸家書楼で働いていたとき、光圀が何気なくつぶやいた「それにしても師が欲しい」に、滅びた明国からの亡命者を雇ったら、と進言する。
のちに朱瞬水を光圀の師として迎えるきっかけとなり、紋太夫は光圀にその明晰さから重用され、水戸家家老にまでなる。
しかし、その紋太夫が主君光圀に刺殺されるのである。
光圀が隠居してから、江戸城ほかで何やら変事があり光圀が調べると、水戸家三代目藩主は光圀の兄の子を養子に迎えたのだが、(光圀にはちゃんと子が居て、そのことについても大きなドラマがある)、その藩主を将軍にしようという企みがあった。
光圀が紋太夫に詰問すると、光圀の勤王思想を信奉するあまり、それをつき進めて、水戸藩主を将軍に据えてのち「大政奉還」をするのだ、と考えていることがわかった。
それでやむなく、光圀は紋太夫を自分の手で刺殺したのである。
前回に懲りて、戒名をもとに探した結果、無縁仏が集められた一角にて探しあてることが出来た。



清河八郎の墓


佐藤春夫の墓

柴田錬三郎の墓も分かりにくかった。
最初「柴田」で探したが、わからないので、戒名で探したら、卒塔婆に書かれていて、ようやくわかった。

斎藤家之墓となっている。

画家橋本明治の墓

これで墓参は終り、「お休み處」で休憩しようと寄ったら、「お大の方の像」と「徳川家康産着の鎧」が置いてあった。




このあと、伝通院門前のレストランで昼食。
休憩してから、午後の部となりますが、続きは次回記事とします。
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西武新宿線、山手線、丸ノ内線を経由して「後楽園」駅で降り、スタートしました。
コースは、文京シビックセンター25階展望台⇒源覚寺(こんにゃく閻魔)⇒善光寺坂⇒伝通院⇒昼食・休憩⇒徳川慶喜終焉の地⇒切支丹屋敷跡⇒深光寺(滝沢馬琴墓)⇒林泉寺(縛られ地蔵)⇒小石川植物園⇒茗荷谷駅

【①文京シビックセンター25階展望台】
文京シビックセンター25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されています。展望ラウンジの高さは、地上約105メートル。文京区内にある東京大学、小石川植物園はもとより、東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がります。
また、この階に展望レストラン(椿山荘)があり、リーズナブルで季節にマッチした美味しい料理なので、気に入っています。

後楽園遊園地ジェットコースターの向こうに東京タワーの先端が見える。(下見のときの写真)

スカイツリー(下見のときの写真)

春日通り

これから行く伝通院の山門と小石川植物園。
この日は天気が悪くて、見通しが悪い。

足元の小石川後楽園。

今が見ごろの花菖蒲園には人が多い。

下見に来た5月18日には、まだ富士山がなんとか見えた。
新宿超高層ビル群の左に、うっすらと見える。


次の目的地に向かうのに、春日通りを横切るが、そこからの文京シビックセンター。
(下見のときの写真)


【②源覚寺(こんにゃく閻魔)】
寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された浄土宗の寺。
当寺院の別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代、運慶派の仏師の作と推定される、像高100.4センチの木造閻魔王坐像である。像内に寛文12年(1672年)の修理銘がある。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのは、以下のような伝説がある。
宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたという。以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。

閻魔堂



たしかに、閻魔像の右側の眼が黄色く濁っている。

毘沙門天(小石川七福神)


塩地蔵尊


汎太平洋の鐘



鐘はサイパンの悲哀を今日も幾多の弾痕として留めます。

私の富山の義父はもう亡くなりましたが、ホテルニューオータニ本館の設計に携わった人です。戦争中は南方に従軍したそうで、家族には何も語らなかったそうですが、私は近所の人から、「何も食べる者が無くて、飢えて皆座り込んでいた。そこにやってくるトカゲや蝶々が食料だった」と語っていたと聞きました。
骨と皮だけになって帰国したが、身体を壊したので、私が結婚したころはほとんど病院に居た。
家族には、私が聞いたことを話しました。
南洋群島物故者慰霊像



本堂のご本尊は阿弥陀如来像です。


【善光寺坂】
ここは、当初予定に無く、伝通院に向かう道筋として通っただけです。
そこにあった説明板を撮って、帰ってから読んで、芭蕉の句碑があったのがわかったので、後日また訪ねたので、それを載せておきます。

坂の名前の由来である善光寺は省略して、「沢蔵司稲荷・慈眼院」に参拝。



手水舎

手水舎の4面の彫刻は素晴らしかった。

拝殿

向拝蟇股のところに、漆喰で狐の彫刻は珍しい。

神紋も「包み抱き稲に宝珠」で珍しい。

芭蕉句碑
戸田權太夫亭にて「一しぐれ 礫や降て 小石川」
延宝5年(1677年)、芭蕉34歳の時の作。この年に芭蕉は俳諧宗匠として立机したらしい。
戸田権太夫は芭蕉と同郷の伊賀上野の人で、壱岐坂の中程に邸があったそうだ。


沢蔵司稲荷は、他にもいろいろ良い物があるので、後日記事にします。
沢蔵司の魂が宿っているという椋の老木。



【③伝通院】
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受け、伝通院の建立を決めた。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
善光寺坂を上がりきると、伝通院。

山門

葵の紋があり。

山門の前の石柱


本堂


本堂内

ご本尊の阿弥陀如来像

本堂の向かって右にある「如是我聞」碑



ここの墓地には、多くの有名人の墓があり。


於大の方(家康の生母)の墓


千姫の墓


藤井紋太夫の墓
この日、見つけられなかったが、水戸光圀の重大な関係者ということで、あきらめられず後日再訪してお参りした。
藤井紋太夫は、旗本荒尾家の4男として生まれ、その明晰さを惜しまれてのことだろう、伯母である水戸家の老女藤井の養子となる。
14才のときに、水戸家書楼で働いていたとき、光圀が何気なくつぶやいた「それにしても師が欲しい」に、滅びた明国からの亡命者を雇ったら、と進言する。
のちに朱瞬水を光圀の師として迎えるきっかけとなり、紋太夫は光圀にその明晰さから重用され、水戸家家老にまでなる。
しかし、その紋太夫が主君光圀に刺殺されるのである。
光圀が隠居してから、江戸城ほかで何やら変事があり光圀が調べると、水戸家三代目藩主は光圀の兄の子を養子に迎えたのだが、(光圀にはちゃんと子が居て、そのことについても大きなドラマがある)、その藩主を将軍にしようという企みがあった。
光圀が紋太夫に詰問すると、光圀の勤王思想を信奉するあまり、それをつき進めて、水戸藩主を将軍に据えてのち「大政奉還」をするのだ、と考えていることがわかった。
それでやむなく、光圀は紋太夫を自分の手で刺殺したのである。
前回に懲りて、戒名をもとに探した結果、無縁仏が集められた一角にて探しあてることが出来た。



清河八郎の墓


佐藤春夫の墓

柴田錬三郎の墓も分かりにくかった。
最初「柴田」で探したが、わからないので、戒名で探したら、卒塔婆に書かれていて、ようやくわかった。

斎藤家之墓となっている。

画家橋本明治の墓

これで墓参は終り、「お休み處」で休憩しようと寄ったら、「お大の方の像」と「徳川家康産着の鎧」が置いてあった。




このあと、伝通院門前のレストランで昼食。
休憩してから、午後の部となりますが、続きは次回記事とします。
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赤坂日枝神社神幸祭
20160611
6月10日(金)に、歴史クラブの行事として参加しました。
幹事さんが、立派な冊子を参加者全員の分をあらかじめ入手してくれていた。

日枝神社神幸祭は、隔年に神田祭り神幸祭と交互に行われる天下祭りである。
例年のごとく、コースは赤坂日枝神社を7:30に出発し、日本橋日枝神社まで行き、赤坂日枝神社に戻ってくるのが16:45という、長い行程である。

私は、2012年、2014年に続き三回目となります。
前の二回は、元山王である国立劇場で待ち、そこでの神事と休憩を利用して写真を撮り、そこから東京駅まで追っていた。
前回の2014年も歴史クラブの行事としたが、国立劇場から皇居まで追いかけるのに、今回と同じような暑さで、リタイアする人が続出してしまった。

それで今回は、幹事さんが皇居坂下門での神事を中心に見ることだけにして計画した。
暑いので、参加者の皆さんには桜田門から入ったところの日陰のベンチで待機してもらい、私は桜田門から行列の到着を見張る役を買って出た。
桜田門の日陰に立ち、ここからだと議事堂入り口の辺まで見通せるので、行列の到着がわかるというわけだ。


日枝神社の神幸祭行列は、ほぼ1000人規模の大したもの。

今回の行列は、二重橋前広場の直線コースで、動画で撮影しました。
下の「その動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。
その動画を見る
この行列の内訳については、2012年に全部撮りました。
その記事を読む
2012年も、2014年も、その少し前に皇族の方が亡くなるという不幸があり、何れも坂下門に入ることが遠慮され、私は三回目にして初めて坂下門での神事を拝観することが出来ました。
坂下門での神事のうち、「剣の舞」を動画で撮ったので、ご覧ください。
その動画を見る
その後、東京駅付近まで行列に付き、見送りました。
東京駅の地下、丸ノ内線に乗るすこし前、地下に「丸の内歴史往来図」という壁画があった。




丸ノ内線で赤坂見附まで移動し、そこで昼食。
美味しいお蕎麦でした。
それから、参加者の皆さんは赤坂日枝神社にお参りしました。
私は、所用があり別れましたが、
赤坂山王日枝神社については、既に記事にしているので、それを見てください。
その記事を読む
過去の、日枝神社神幸祭についても紹介しておきます。
2012年の日枝神社神幸祭の記事を見る
2014年の日枝神社神幸祭の記事を見る
(了)
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幹事さんが、立派な冊子を参加者全員の分をあらかじめ入手してくれていた。

日枝神社神幸祭は、隔年に神田祭り神幸祭と交互に行われる天下祭りである。
例年のごとく、コースは赤坂日枝神社を7:30に出発し、日本橋日枝神社まで行き、赤坂日枝神社に戻ってくるのが16:45という、長い行程である。

私は、2012年、2014年に続き三回目となります。
前の二回は、元山王である国立劇場で待ち、そこでの神事と休憩を利用して写真を撮り、そこから東京駅まで追っていた。
前回の2014年も歴史クラブの行事としたが、国立劇場から皇居まで追いかけるのに、今回と同じような暑さで、リタイアする人が続出してしまった。

それで今回は、幹事さんが皇居坂下門での神事を中心に見ることだけにして計画した。
暑いので、参加者の皆さんには桜田門から入ったところの日陰のベンチで待機してもらい、私は桜田門から行列の到着を見張る役を買って出た。
桜田門の日陰に立ち、ここからだと議事堂入り口の辺まで見通せるので、行列の到着がわかるというわけだ。


日枝神社の神幸祭行列は、ほぼ1000人規模の大したもの。

今回の行列は、二重橋前広場の直線コースで、動画で撮影しました。
下の「その動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。
その動画を見る
この行列の内訳については、2012年に全部撮りました。
その記事を読む
2012年も、2014年も、その少し前に皇族の方が亡くなるという不幸があり、何れも坂下門に入ることが遠慮され、私は三回目にして初めて坂下門での神事を拝観することが出来ました。
坂下門での神事のうち、「剣の舞」を動画で撮ったので、ご覧ください。
その動画を見る
その後、東京駅付近まで行列に付き、見送りました。
東京駅の地下、丸ノ内線に乗るすこし前、地下に「丸の内歴史往来図」という壁画があった。




丸ノ内線で赤坂見附まで移動し、そこで昼食。
美味しいお蕎麦でした。
それから、参加者の皆さんは赤坂日枝神社にお参りしました。
私は、所用があり別れましたが、
赤坂山王日枝神社については、既に記事にしているので、それを見てください。
その記事を読む
過去の、日枝神社神幸祭についても紹介しておきます。
2012年の日枝神社神幸祭の記事を見る
2014年の日枝神社神幸祭の記事を見る
(了)
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高麗郡建郡1300年記念「にじのパレード」
20160609
5月22日に行われた、高麗郡建郡1300年記念事業の一つ、「にじのパレード」を見てきました。

会場は日高市文化体育館「ひだかアリーナ」から高麗川中学校のコース。

駐車場が心配なので早目に行ったので、比較的アリーナに近いところに停めることが出来た。
アリーナに行くと、いろいろな屋台が出ていて、人でも多かった。

アリーナに入ると、高麗郡建郡の頃の遺跡からの出土品が展示してあった。

ほとんどは、既に見たことがあったが、3月に新聞に載った、「厨」の文字が記された須恵器が展示されていたのは嬉しかった。


現物ではかなり分かりにくいが、横においてあった写真だと、なんとかわかる。

アリーナの中は、参加する人が高句麗の衣装でたくさん待機していた。




テラスから外を見ると、続々と参加者が到着してくる。

今年行われる、鶴ヶ島市の、5年に一度の「雨乞い祭り」の宣伝があった。


私はスタート地点から100mくらい進んだところで撮った。
まずは、よさこいが始まった。




スタート地点でくす玉が割られて、パレードが開始。

ゆるキャラ「くりっかー、くりっぴー」

まずは幼稚園のパレード


ゆるキャラ「コバトン、さいたまっち」

各種団体さん


各地区からの参加



日高市長など、記念事業実行委員会役員の皆さん

各地区からの参加が続く


韓国から駆け付けた姉妹都市の皆さん


またまた各地区からの参加





小学校のパレード



中学校のパレード




東京韓国学校のパレードは華やかだった。





日韓伝統武芸人交流会の皆さん






パレードの最後は、お神輿が出てきた。

参加者の多さに圧倒されました。
参加している皆さんがとても楽しそうな笑顔で参加しているのが印象的でした。
(了)
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会場は日高市文化体育館「ひだかアリーナ」から高麗川中学校のコース。

駐車場が心配なので早目に行ったので、比較的アリーナに近いところに停めることが出来た。
アリーナに行くと、いろいろな屋台が出ていて、人でも多かった。

アリーナに入ると、高麗郡建郡の頃の遺跡からの出土品が展示してあった。

ほとんどは、既に見たことがあったが、3月に新聞に載った、「厨」の文字が記された須恵器が展示されていたのは嬉しかった。


現物ではかなり分かりにくいが、横においてあった写真だと、なんとかわかる。

アリーナの中は、参加する人が高句麗の衣装でたくさん待機していた。




テラスから外を見ると、続々と参加者が到着してくる。

今年行われる、鶴ヶ島市の、5年に一度の「雨乞い祭り」の宣伝があった。


私はスタート地点から100mくらい進んだところで撮った。
まずは、よさこいが始まった。




スタート地点でくす玉が割られて、パレードが開始。

ゆるキャラ「くりっかー、くりっぴー」

まずは幼稚園のパレード


ゆるキャラ「コバトン、さいたまっち」

各種団体さん


各地区からの参加



日高市長など、記念事業実行委員会役員の皆さん

各地区からの参加が続く


韓国から駆け付けた姉妹都市の皆さん


またまた各地区からの参加





小学校のパレード



中学校のパレード




東京韓国学校のパレードは華やかだった。





日韓伝統武芸人交流会の皆さん






パレードの最後は、お神輿が出てきた。

参加者の多さに圧倒されました。
参加している皆さんがとても楽しそうな笑顔で参加しているのが印象的でした。
(了)
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ミシャグジ神/日本の神々の話
20160609
私は、全国一之宮めぐりで諏訪大社に参拝したときに、ミシャクジ神が存在することを知った。
これは縄文の神であると考えられ、最初に戸矢学氏の『縄文の神』に載っている説明を先にする。
諏訪地方では、出雲族が征服してから建御名方神、それ以前は洩矢神(モレヤ神)となっているが、それより以前のこの地方の根源神は縄文時代から連綿と信仰されてきた「ミシャグジ」である。
表記は、「ミシャグジ」、「御社宮司神」、「御左口神」、「御石神」、「社貢寺」、「釈地」などがあり、更に柳田国男は『石神問答』で、「石神」、「石居神」、「釈護子」、「遮軍神」、「遮愚儞」、「蛇口神」、「社宮司」、「佐口司」、「佐久神」、「射軍神」を挙げている。
〇賽ノ神説
柳田国男は「賽の神」であるとしている。
現に私も、中山道小田井宿の入り口の辺に石棒が立てられているのを確認しているので、この形があったのは確かだ。
長野県地域では、男根の形をした「石棒」の形を採っているところが多いそうで、これが山梨県になると完全な球体の「丸石」を信仰しているそうである。
〇神長官・守矢家の敷地に「御頭御社宮司総社」が鎮座しており、「ミシャクジ神」は樹や石に降りてくる霊魂や精霊で人にも憑く神である、としている。
そしてミシャクジ神の祭祀権を持っていたのが神長官で、代々守矢家の世襲となっている。祭祀は柊樹のある「鶏冠社」で行われるが、神霊を招奉じるのは「要石」である。
今でも、諏訪大社の神事となっている「御頭祭」は、4月15日に上社前宮で行われるが、昔は75頭もの鹿の頭の奉納、猪鹿、鳥、魚の大祝や神官による饗膳などの諸神事が行われた。
現在は、鹿の頭のはく製5頭を供えるだけだそうだが、それでも、狩猟民族(縄文時代)の神事が、まだ残っているのである。
〇諏訪大社に、根源的信仰だったミシャグジ神の依り代は残っているのか?
上社本宮の「硯石」が、一之御柱、二之御柱との位置関係から言ってそうではないかと戸矢学氏は言う。
〇「ミシャグジ」を「シャ」と「グジ」とヤマト言葉での発想で原型を考えると、「サ」+「クチ」で、サは「狭・裂・賽」の意味で境目のことになる。クチは「口」である。
「割け口」、「割く地」、「境目」、「裂け目」となると、フォッサ・マグマという巨大断層地帯との重なりが意識される。
ミシャグジ神を祀る祠の分布は、今井野菊氏の調査によれば、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、三重県140社、岐阜県116社だそうだ。
かって大地が裂けて未曽有の大地震災害をもたらした記憶に起因した信仰なのでは、という考えには説得力がある。
地震災害などのその地の平穏を祈る信仰であろう。
あと、wikipediaに載っている説明も載せておく。
柳田國男はミシャグジ=塞の神(サイノカミ)=境界の神であり、すなわち、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとは考察している。信仰の分布からミシャグジ信仰の淵源は、諏訪信仰に関わるとする見方もある。神徳は百日咳治癒、口中病治癒、安産、子育てなど様々だが、社祠・神座や伝承は年々消滅し続けている。
『駿河新風土記』には、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がある他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神(サイノカミの一種)としている。ミシャグジの実態は解明されたとは言い難い。
石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数あるが、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている。シャグジは社貢寺とされるが、その名の社寺は現存せず、土俗名ともされる。北左農山人の『江南駅話』には「あの宮が釈地大明神といふ。それをあがめておの字を附け、言ひちがへておしゃこじといふわなぁ」とある。
諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある。諏訪地方に於いては太古の昔からのミシャグジ信仰に後から来た建御名方神が習合、同一視されるに到ったともいわれるが、元々諏訪地方の土着神だったミシャグジ神が記紀神話に取り入れられて建御名方神になったという説もある。
考古学的成果としては、守矢家が守ってきた「七本の峰のたたえ」はミシャグジが降りる木とされ、この内の一本(守矢家屋敷の近くの尾根先端にある一本)が発掘調査されており、尾根は「狐塚」と呼ばれ、当初は古墳という説があったが、発見されたのは縄文時代の墓としての土坑であり、認定された。
この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る。
ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。
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これは縄文の神であると考えられ、最初に戸矢学氏の『縄文の神』に載っている説明を先にする。
諏訪地方では、出雲族が征服してから建御名方神、それ以前は洩矢神(モレヤ神)となっているが、それより以前のこの地方の根源神は縄文時代から連綿と信仰されてきた「ミシャグジ」である。
表記は、「ミシャグジ」、「御社宮司神」、「御左口神」、「御石神」、「社貢寺」、「釈地」などがあり、更に柳田国男は『石神問答』で、「石神」、「石居神」、「釈護子」、「遮軍神」、「遮愚儞」、「蛇口神」、「社宮司」、「佐口司」、「佐久神」、「射軍神」を挙げている。
〇賽ノ神説
柳田国男は「賽の神」であるとしている。
現に私も、中山道小田井宿の入り口の辺に石棒が立てられているのを確認しているので、この形があったのは確かだ。
長野県地域では、男根の形をした「石棒」の形を採っているところが多いそうで、これが山梨県になると完全な球体の「丸石」を信仰しているそうである。
〇神長官・守矢家の敷地に「御頭御社宮司総社」が鎮座しており、「ミシャクジ神」は樹や石に降りてくる霊魂や精霊で人にも憑く神である、としている。
そしてミシャクジ神の祭祀権を持っていたのが神長官で、代々守矢家の世襲となっている。祭祀は柊樹のある「鶏冠社」で行われるが、神霊を招奉じるのは「要石」である。
今でも、諏訪大社の神事となっている「御頭祭」は、4月15日に上社前宮で行われるが、昔は75頭もの鹿の頭の奉納、猪鹿、鳥、魚の大祝や神官による饗膳などの諸神事が行われた。
現在は、鹿の頭のはく製5頭を供えるだけだそうだが、それでも、狩猟民族(縄文時代)の神事が、まだ残っているのである。
〇諏訪大社に、根源的信仰だったミシャグジ神の依り代は残っているのか?
上社本宮の「硯石」が、一之御柱、二之御柱との位置関係から言ってそうではないかと戸矢学氏は言う。
〇「ミシャグジ」を「シャ」と「グジ」とヤマト言葉での発想で原型を考えると、「サ」+「クチ」で、サは「狭・裂・賽」の意味で境目のことになる。クチは「口」である。
「割け口」、「割く地」、「境目」、「裂け目」となると、フォッサ・マグマという巨大断層地帯との重なりが意識される。
ミシャグジ神を祀る祠の分布は、今井野菊氏の調査によれば、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、三重県140社、岐阜県116社だそうだ。
かって大地が裂けて未曽有の大地震災害をもたらした記憶に起因した信仰なのでは、という考えには説得力がある。
地震災害などのその地の平穏を祈る信仰であろう。
あと、wikipediaに載っている説明も載せておく。
柳田國男はミシャグジ=塞の神(サイノカミ)=境界の神であり、すなわち、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとは考察している。信仰の分布からミシャグジ信仰の淵源は、諏訪信仰に関わるとする見方もある。神徳は百日咳治癒、口中病治癒、安産、子育てなど様々だが、社祠・神座や伝承は年々消滅し続けている。
『駿河新風土記』には、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がある他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神(サイノカミの一種)としている。ミシャグジの実態は解明されたとは言い難い。
石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数あるが、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている。シャグジは社貢寺とされるが、その名の社寺は現存せず、土俗名ともされる。北左農山人の『江南駅話』には「あの宮が釈地大明神といふ。それをあがめておの字を附け、言ひちがへておしゃこじといふわなぁ」とある。
諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある。諏訪地方に於いては太古の昔からのミシャグジ信仰に後から来た建御名方神が習合、同一視されるに到ったともいわれるが、元々諏訪地方の土着神だったミシャグジ神が記紀神話に取り入れられて建御名方神になったという説もある。
考古学的成果としては、守矢家が守ってきた「七本の峰のたたえ」はミシャグジが降りる木とされ、この内の一本(守矢家屋敷の近くの尾根先端にある一本)が発掘調査されており、尾根は「狐塚」と呼ばれ、当初は古墳という説があったが、発見されたのは縄文時代の墓としての土坑であり、認定された。
この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る。
ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。
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笹井地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・旭町自治会
20160604
5月15日(日)に行われた、旭町自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから3名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。今回は他に地域の方でとても歴史に詳しい方を一人お願いしました。
旭町自治会では第三回目の開催となります。
今回のコースは「笹井地区」です。

バス停「グリーンハイツ」⇒笹井ダム⇒笹井白髭神社⇒北野家⇒日光脇往還と根岸
狭山市水富地区にある笹井は、市の中央部を西から兼北へ向って流れる入間川の左岸の河岸段丘に開けた場所にあります。
大別すると、沖積層の低地と洪積層の台地になります。
・低地は入間川の水の恵みを受けた豊穣な土地で、昔より多くの人々が住み、いろいろな文化が芽生え発展しました。
・台地も太古の縄文時代より集落が形成されて人が住みはじめました。
現在それらが多くの遺跡として残っております。
バス停「グリーンハイツ」から入間川の河原に出て、しばらく河原の道を歩いてた。

【笹井ダム(堰)】

外秩父山地を源流(主として名栗渓谷の水)として、東へ向かつて流れる入間川lが飯能市から入間市を抜け狭山市に入つてくる入り口の部分をせき止めて作られた堰です。
この堰は江戸時代以前に作られたと考えられる水田用水の取水のためのものであります。そして(上流から下流を見て)左岸の笹井村、根岸村、上広瀬村、下広瀬村に用水を送っていたので堰の普請はこれらの村々が共同で行っていたと考えられます。また、右岸では堰を取水口とした赤間川(新河岸川の源)が流れています。笹井ダムと呼ばれる現在の堰は、昭和12年(1937)の災害復興工事として着手し、同14年6月に完成し、下流の広範囲の水田を潤しています。
しかし、このダムも昭和22年(1947)のカスリン台風でダムの-部が破壊され、流出家屋13戸、倒壊家屋1戸、半壊家屋6戸、床上浸水20戸、床下浸水80戸、流失田畑3.32ヘクタール、冠水田畑69.3ヘクタールという大被害を出しました。そしてさらに追い打ちをかけるように昭和24年(1949)8月31日~9月1日にかけてのキティ台風とそれに続く大洪水のためにわずか数mを残して堤防が決壊しました。そのため、水冨村、柏原村、入間川町、奥富村の水田を潅漑する機能を失いました。
その後、水富村を中心とする関係町村は笹井ダムの早期復興を願い、その工事の着手を県と国に働きかけました。このエ事は昭和27年4月にようやく完成し、関係町村は苗代づくりを前に安堵の胸をなでおろしたということです。
今ではダムの周辺は風光が美しく堤には桜も植えられ、魚釣りに訪れる人も多く、水辺に棲む鳥も観察できます。戦後の一時期、西武鉄道が遊園地としてポートを浮かべていたこともあります。ダムのすぐ下には明治の初め頃までは、対岸の入間市黒須とを結ぶ渡船が行なわれ賑わっていました。渡船場跡と言われる所も今では往時を偲ぶのみです。
ごく最近では、環境に配慮した魚道などの設備が整えられました。
笹井のメタセコイアの化石林・‥笹井堰下
メタセコイアはスギの仲間ですが、スギが常緑の針兼樹であるのに対して、冬には集を落とす落椚柵です。メタセコイアの化石は昭和16年(1941)、和歌山県下の新生代第4紀の地層からはじめて見つかりました。その後、同種のものが岐阜県や大阪府などからも発見されています。現在、アメリカの西海岸に生息しているセコイアスギ(樹高100m直径10mに成長)と似ているが葉のつき方や球果のつき方が違っていることやアメリカ産のヌマスギとも異なつた特徴を持つことから、学名をメタセコイア、和名をアケボノスギと名づけられました。この種は今から170万年前ぐらいには絶滅したと考えられていました。
昭和20年(1945)に中国の四川省で森林調査をしていた王戦と言う林務官が、それまで化石としてしか知られていなかった自生のメタセコイアを見つけ「生きている化石」として世界的な話題となりました。
昭和49年(1974)の8月末、笹井堰下の入間川は大型台風に伴う出水で河原の堆積物が広範囲にわたりえぐり取られ河床が露出しました。この露出したところより樹の大株を見つけたのは、笹井在住の今板隆二・志村直治の両氏です。昭和50年(1975)2月埼玉大学の堀口高吉教授を団長とす尋化石林調査団が様々の調査を行ない多くのことが分かりました。
メタセコイアについて言えば株の残っているもの18株、株の中心は無いが根だけ残っているもの9株、根の痕跡だけのもの2株で合計29株でした。さらに同じ地層の中からメタセコイアの球果、ハンノキの種子、オオバタグルミの種子、エゴノギの種子などが発見されました。
しかし、現在では土砂に埋没したり、風化、流出などでほとんど見られません。(1株を掘り出して、広瀬1丁目の今宿遺跡公園に展示してあります。)

発掘当時の写真


これは、智光山公園にあるメタセコイア

笹井で発掘されたアケボノゾウの発掘の説明もありました。
アケボノゾウは、いまから170万年~70万年前に生息していたゾウの仲間です。体高は1.5メートル~1.8メートル、体重は2トン~3トンと推定され、アジア(インド)ゾウより小柄だったといわれていますが、長いキバをもっていました。
その生息地域は東アジア、インドなどですが、日本が大陸と地続きなっていた時期に、日本へ移住してきたと考えられています。日本では大正4年(1915)に石川県で発見されて以来各地で発掘され、カントウゾウ、スギヤマゾウ、アカシゾウなどと同じ種類のゾウと考えられています。
アケボノゾウは、入間川流域の6カ所で体化石(たいかせき・体の一部が化石となったもの)が、2カ所で足跡化石が発掘されています。このうち狭山市では、昭和50年(1975)に大臼歯(だいきゅうし)、肩甲骨(けんこうこつ)などが、昭和60年(1985)には肋骨ろっこつ、大腿骨だいたいこつ、肩甲骨など、ほぼ1頭分にあたる58点の化石骨が発掘されました。ほぼ全身の骨格化石の発掘は、狭山市笹井のものが全国で初めてです。
一番上が臼歯

発掘の写真。
右下の川に足跡の化石があるのがわかる。

アケボノゾウの化石
これは発掘を行った長瀞の自然博物館にある本物。狭山市博物館には、このレプリカがある。

足跡の化石

それから、珍しい「サンドパイプ」を説明者の橋本さんが見せてくださった。
【蛇糞石(じゃふん石・じゃくそ石)】別名サンドパパイプ
アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石
鉄を含んでいて、ずっしりと重い。なるほど入間川から良質な砂鉄が採れたという話ですからね。


【笹井白髭神社】


白鬚は旧笹井村の総統守で、集神は猿田彦命(きるたひこのみこと)です。猿田彦命は天孫降臨の神話でその先導役の神と言われています。
同社の創立は伝承によると、室町時代中期の文明18年(1486)に聖議院門跡の道興准后(どうこうじゆこう)が笹井観音堂を訪れ4、5日逗留したときに、当社を参拝したと言われています(古記録を失っているため創立年代は不明です)。
笹井は中世以前に開かれた集落(白鬚神社より150mぐらい離れた所に奈良・平安時代の大きな集落跡が発見されています。)であると考えられるので、その創立はかなり古いと考えられます。
白鬚大明神の絵姿

奏上門の戦火跡
白鬚神社附近一帯は太平洋戦争中の昭和20年(1945)5月26日米国軍のB29爆撃機による空‡削こ遭い死者13人、被災世帯69戸という大被害を出しました。(今坂柳二著覚書狭山戦災史に詳しい。)
同社も拝殿と社務所を焼夷弾によって焼失しました。本殿前の奏上門は一部を焦がしただけで類焼を免れました。(このことを土地の古老は神の力のおかげであると言っています。)軒先の木の部分をよく見ると黒色になっている部分があります。これがそのときの名残です。

笹井豊年足踊り
笹井豊年足踊り(市指定文化財・昭和52年〔1977〕指定)は笹井囃子の演目の1つで毎年4月と10月の中旬に行われる白鬚神社の祭札に奉納されています。
この囃子は江戸時代に川越藩主松平信綱の上覧を賜ったことから上覧囃子とも言われています。豊年足踊りは明治初期笹井の桜井藤太郎が苦心を重ねて創作したものです。演者が仰向けになって足を高くあげ、ヒヨットコとオカメの面を着け、さまざまな仕草を演じて見せるものです。近年は遠く海外公演にも出かけています。



【笹井観音堂】
滝不動の本尊笹井観音堂は、飛鳥時代に役小角(えんのおづぬ)により開かれたと害われています。二世長岳から二十世長尊の時代にかけて次第に衰微していきましたが、平安時代後期にそれを再興したのが近江の圏域寺(三井寺)の大僧正行尊です。行尊は皇室とも親交のあった高僧で、この地で不動明王を拝謁したが、背負ってきた十一面観音菩薩像を取り出し、堂舎を建てて安置したと害われています。行幸が笹井観音堂二十一世に擬せられ、しかも中興開山とされるのはこうした事情によるためです。また、本尊が不動明王から十一面観音菩薩像になり、観音堂と呼ばれるようになつたのもこの時からであると考えられます。
笹井観音堂は本山派修験聖議院末二十八院の-つで、中世から江戸時代に当地方にあって多くの山伏を配下に治め絶大な権力を有していたと言われています。(高麗郡、多摩郡、入間郡一帯の行事職であった。)
笹井観音堂は高祖役小角よりはじまり現在で60世良勝氏となっています。
また、観音堂の西方にあり薬師如来を本尊とする薬王寺がありました。観音堂の寺務を補佐する執事職を代々務めておりました。現在52世で渋谷操氏となっております。
長い参道の入り口

昔の写真
長い参道で、現在観音堂の前を横切っている県道も存在しない。

現在の当主の説明をお聞きすることができた。

現在の観音堂

内部

役小角像

徳川家康像

不動明王坐像

【映画「野菊の墓」のロケ地:北野家】
長い塀に固まれた北野家住宅は作り醤油の家、以前は煉瓦の煙突があつた。映画「野菊の墓」のロケ地として使われました。

【宗源寺】


宗源寺は曹洞宗の寺院で寺伝によると、かつて宗源庵という草庵があり、木造の地蔵菩薩億が安置されていたといわれています。
開基は江戸時代の笹井村に180石余りの知行地を持っていた旗本土屋昌吉と同じく100石を領していた土屋正久の両人です。開山は宗源寺の本寺である越生町龍穏寺(りゆうおんじ)の16世鶴峰(かくほう)禅師で、開山の年代は文禄…慶長年間(1592~1615)です。
本尊は木造宝冠(ほうかん)釈迦如来坐像です。尊顔は微笑みを浮かべ、わずかに口元から白い歯をのぞかせています。そのため微笑釈迦牢尼仏とか歯仏(しぶつ)といわれています。

その他、当寺二世である撫州禅師の木造撫州禅師椅像があります。それは当寺で正保3年(1646)7月に没した龍穏寺20世です。
木造釈迦如来像はかつての本尊で宗源寺4世の嶺州(ふくしゆう)禅師の時代に寄進されたものといわれています。
撫州菩薩禅師堂

掲額に「雹難消除」とある。これは当時雹の被害が多かったので、撫州禅師が亡くなるとき、「これからは私が龍となって、雹の被害は無くしてやる」と言い、それ以後票の被害が無くなったとか。

また境内には石仏として寛文13年(1673)道立の阿弥陀如来と享保4年(1719)連立の地蔵があります。
江戸時代に笹井村領主であった、旗本の土屋昌吉の養は宗源寺墓所に、土屋正久の基は笹井小学校校庭前の林の中、鳥坂の右手の富士浅間社の脇にあり、笹井地区の平穏と発展を願って静かに眠っています。


【日光脇往還と根岸】
江戸より日光への道は、五街道の-つである「日光道中」、そして将軍社参の道である「日光御成道」がありました。家康・家光廟が祀られている日光山は幕府や各藩の大名・武士・町人・農民などに厚く尊崇され、多くの人が参詣しています。そのため、上記の街道以外にも日光への道は脇往還・裏街道があったと考えられます。
ここで言う日光脇往還は、八王子千人同心が日光山火防の任の警備につく際に往来した道です。初めて八王子千人同心が日光山火防の勤番を命ぜられたのは慶安5年(1652)であり幕末の慶応4年(1868)まで続きました。何とこの街道が水富地区の根岸を通っていたのです。
道順は八王子より拝島、箱根ヶ崎、扇町屋を経て根岸を通り、高萩、坂戸、松山、行田、館林、佐野、栃木、鹿沼、今市を通って日光へ到着しました。
扇町屋村(入間市扇町屋)は戸数90軒が左右に軒を連ね3、8の日毎に市(いち)がたって賑わっていました。
根岸村には根岸の渡がありました。(入間市黒須と狭山市根岸を結ぶ渡し)文化9年(1812)には渡船が始まりました。また、水の少ない季節には仮木橋を架けたと言われています。
根岸は民家33軒が道の左右に軒を並べていましたが市の立つこともない小規模な宿駅で、御用を主体とした人馬や荷物の継ぎ送りが主な任務でした。
そのため問屋(現在の久下雅義宅)が設置され、上りは高萩村へ、下りは扇町屋へ継送されました。
また、この時代は御用荷物などの継ぎ送りを手伝う人足と、馬を提供する「助郷の制度」もありました。寛文9年(1669)には笹井村と両広瀬村に幕府評定所より根岸村への『助郷の命』が下されました。命じられた村々はかなりの負担になりました。いつの世でもお上からの命令は領民にとってきついものです。
日光脇往還
明光寺門前、久下家の前。

根岸の渡し
根岸の渡しは、根岸村(狭山市)と黒須村(入間市)を結ぶ渡しで、中世から交通の要所でした。
ここは、後北条氏(小田原の北条氏)の時代から北武蔵や上州に通じる道として重要でした。また、江戸時代は八王子から日光へ至る街道(日光脇往還)にあたり、交通の要でした。
この渡しは、江戸時代後期の文化9年(1812)に高麗郡根岸村の組頭反四郎が渡船の権利を獲得しています。
渇水の時期は橋を渡し、増水期には渡船を行い、その経費はすべて権利者が負担しました。渡船の運営は根岸村と黒須村で進められ、嘉永・安政・慶応年間まで続きました。
古文書によれば、嘉永2年(1849)の船賃は、1人12文、人馬20文、橋銭は1人4文、人罵8文でした。しかし、渡船の収益が増加するに従い、権利をめぐる対立が激しくなりました。慶応4年(1868)には、根岸村に加え、上広瀬村・下広瀬村・笹井村が渡船運営に参画し、黒須村との間に訴訟が繰返されました。
明治時代の未には6尺板を横に渡した長さ10間の木橋が架けられ、すでに船は使用していませんでした。橋を渡るのに人は1人1銭、車は2銭を徴収しましたが根岸と黒須の人は無料でした。
また、筏(飯能上流で産する西川材を江戸へ運ぶためのもの)が通る時は番人が橋板をあげ賃銭をとっていました。
大正9年(1920)に豊水橋が完成して木橋は廃止となりました。
根岸の渡し跡は正確にはわかりませんが、ほぼ現在の豊水橋の所を渡っていたと考えられています。今は、河川改修等により渡し場の痕跡は全く残されていません。付近は、都市化・宅地化が進み入間川の水が静かに流れているのみです。
当日は、明光寺門前で説明し、近くのバス停からバスに乗って帰ったので、根岸の渡し跡には行きませんでした。
写真を載せておきます。

(了)
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歴史クラブから3名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。今回は他に地域の方でとても歴史に詳しい方を一人お願いしました。
旭町自治会では第三回目の開催となります。
今回のコースは「笹井地区」です。

バス停「グリーンハイツ」⇒笹井ダム⇒笹井白髭神社⇒北野家⇒日光脇往還と根岸
狭山市水富地区にある笹井は、市の中央部を西から兼北へ向って流れる入間川の左岸の河岸段丘に開けた場所にあります。
大別すると、沖積層の低地と洪積層の台地になります。
・低地は入間川の水の恵みを受けた豊穣な土地で、昔より多くの人々が住み、いろいろな文化が芽生え発展しました。
・台地も太古の縄文時代より集落が形成されて人が住みはじめました。
現在それらが多くの遺跡として残っております。
バス停「グリーンハイツ」から入間川の河原に出て、しばらく河原の道を歩いてた。

【笹井ダム(堰)】

外秩父山地を源流(主として名栗渓谷の水)として、東へ向かつて流れる入間川lが飯能市から入間市を抜け狭山市に入つてくる入り口の部分をせき止めて作られた堰です。
この堰は江戸時代以前に作られたと考えられる水田用水の取水のためのものであります。そして(上流から下流を見て)左岸の笹井村、根岸村、上広瀬村、下広瀬村に用水を送っていたので堰の普請はこれらの村々が共同で行っていたと考えられます。また、右岸では堰を取水口とした赤間川(新河岸川の源)が流れています。笹井ダムと呼ばれる現在の堰は、昭和12年(1937)の災害復興工事として着手し、同14年6月に完成し、下流の広範囲の水田を潤しています。
しかし、このダムも昭和22年(1947)のカスリン台風でダムの-部が破壊され、流出家屋13戸、倒壊家屋1戸、半壊家屋6戸、床上浸水20戸、床下浸水80戸、流失田畑3.32ヘクタール、冠水田畑69.3ヘクタールという大被害を出しました。そしてさらに追い打ちをかけるように昭和24年(1949)8月31日~9月1日にかけてのキティ台風とそれに続く大洪水のためにわずか数mを残して堤防が決壊しました。そのため、水冨村、柏原村、入間川町、奥富村の水田を潅漑する機能を失いました。
その後、水富村を中心とする関係町村は笹井ダムの早期復興を願い、その工事の着手を県と国に働きかけました。このエ事は昭和27年4月にようやく完成し、関係町村は苗代づくりを前に安堵の胸をなでおろしたということです。
今ではダムの周辺は風光が美しく堤には桜も植えられ、魚釣りに訪れる人も多く、水辺に棲む鳥も観察できます。戦後の一時期、西武鉄道が遊園地としてポートを浮かべていたこともあります。ダムのすぐ下には明治の初め頃までは、対岸の入間市黒須とを結ぶ渡船が行なわれ賑わっていました。渡船場跡と言われる所も今では往時を偲ぶのみです。
ごく最近では、環境に配慮した魚道などの設備が整えられました。
笹井のメタセコイアの化石林・‥笹井堰下
メタセコイアはスギの仲間ですが、スギが常緑の針兼樹であるのに対して、冬には集を落とす落椚柵です。メタセコイアの化石は昭和16年(1941)、和歌山県下の新生代第4紀の地層からはじめて見つかりました。その後、同種のものが岐阜県や大阪府などからも発見されています。現在、アメリカの西海岸に生息しているセコイアスギ(樹高100m直径10mに成長)と似ているが葉のつき方や球果のつき方が違っていることやアメリカ産のヌマスギとも異なつた特徴を持つことから、学名をメタセコイア、和名をアケボノスギと名づけられました。この種は今から170万年前ぐらいには絶滅したと考えられていました。
昭和20年(1945)に中国の四川省で森林調査をしていた王戦と言う林務官が、それまで化石としてしか知られていなかった自生のメタセコイアを見つけ「生きている化石」として世界的な話題となりました。
昭和49年(1974)の8月末、笹井堰下の入間川は大型台風に伴う出水で河原の堆積物が広範囲にわたりえぐり取られ河床が露出しました。この露出したところより樹の大株を見つけたのは、笹井在住の今板隆二・志村直治の両氏です。昭和50年(1975)2月埼玉大学の堀口高吉教授を団長とす尋化石林調査団が様々の調査を行ない多くのことが分かりました。
メタセコイアについて言えば株の残っているもの18株、株の中心は無いが根だけ残っているもの9株、根の痕跡だけのもの2株で合計29株でした。さらに同じ地層の中からメタセコイアの球果、ハンノキの種子、オオバタグルミの種子、エゴノギの種子などが発見されました。
しかし、現在では土砂に埋没したり、風化、流出などでほとんど見られません。(1株を掘り出して、広瀬1丁目の今宿遺跡公園に展示してあります。)

発掘当時の写真


これは、智光山公園にあるメタセコイア

笹井で発掘されたアケボノゾウの発掘の説明もありました。
アケボノゾウは、いまから170万年~70万年前に生息していたゾウの仲間です。体高は1.5メートル~1.8メートル、体重は2トン~3トンと推定され、アジア(インド)ゾウより小柄だったといわれていますが、長いキバをもっていました。
その生息地域は東アジア、インドなどですが、日本が大陸と地続きなっていた時期に、日本へ移住してきたと考えられています。日本では大正4年(1915)に石川県で発見されて以来各地で発掘され、カントウゾウ、スギヤマゾウ、アカシゾウなどと同じ種類のゾウと考えられています。
アケボノゾウは、入間川流域の6カ所で体化石(たいかせき・体の一部が化石となったもの)が、2カ所で足跡化石が発掘されています。このうち狭山市では、昭和50年(1975)に大臼歯(だいきゅうし)、肩甲骨(けんこうこつ)などが、昭和60年(1985)には肋骨ろっこつ、大腿骨だいたいこつ、肩甲骨など、ほぼ1頭分にあたる58点の化石骨が発掘されました。ほぼ全身の骨格化石の発掘は、狭山市笹井のものが全国で初めてです。
一番上が臼歯

発掘の写真。
右下の川に足跡の化石があるのがわかる。

アケボノゾウの化石
これは発掘を行った長瀞の自然博物館にある本物。狭山市博物館には、このレプリカがある。

足跡の化石

それから、珍しい「サンドパイプ」を説明者の橋本さんが見せてくださった。
【蛇糞石(じゃふん石・じゃくそ石)】別名サンドパパイプ
アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石
鉄を含んでいて、ずっしりと重い。なるほど入間川から良質な砂鉄が採れたという話ですからね。


【笹井白髭神社】


白鬚は旧笹井村の総統守で、集神は猿田彦命(きるたひこのみこと)です。猿田彦命は天孫降臨の神話でその先導役の神と言われています。
同社の創立は伝承によると、室町時代中期の文明18年(1486)に聖議院門跡の道興准后(どうこうじゆこう)が笹井観音堂を訪れ4、5日逗留したときに、当社を参拝したと言われています(古記録を失っているため創立年代は不明です)。
笹井は中世以前に開かれた集落(白鬚神社より150mぐらい離れた所に奈良・平安時代の大きな集落跡が発見されています。)であると考えられるので、その創立はかなり古いと考えられます。
白鬚大明神の絵姿

奏上門の戦火跡
白鬚神社附近一帯は太平洋戦争中の昭和20年(1945)5月26日米国軍のB29爆撃機による空‡削こ遭い死者13人、被災世帯69戸という大被害を出しました。(今坂柳二著覚書狭山戦災史に詳しい。)
同社も拝殿と社務所を焼夷弾によって焼失しました。本殿前の奏上門は一部を焦がしただけで類焼を免れました。(このことを土地の古老は神の力のおかげであると言っています。)軒先の木の部分をよく見ると黒色になっている部分があります。これがそのときの名残です。

笹井豊年足踊り
笹井豊年足踊り(市指定文化財・昭和52年〔1977〕指定)は笹井囃子の演目の1つで毎年4月と10月の中旬に行われる白鬚神社の祭札に奉納されています。
この囃子は江戸時代に川越藩主松平信綱の上覧を賜ったことから上覧囃子とも言われています。豊年足踊りは明治初期笹井の桜井藤太郎が苦心を重ねて創作したものです。演者が仰向けになって足を高くあげ、ヒヨットコとオカメの面を着け、さまざまな仕草を演じて見せるものです。近年は遠く海外公演にも出かけています。



【笹井観音堂】
滝不動の本尊笹井観音堂は、飛鳥時代に役小角(えんのおづぬ)により開かれたと害われています。二世長岳から二十世長尊の時代にかけて次第に衰微していきましたが、平安時代後期にそれを再興したのが近江の圏域寺(三井寺)の大僧正行尊です。行尊は皇室とも親交のあった高僧で、この地で不動明王を拝謁したが、背負ってきた十一面観音菩薩像を取り出し、堂舎を建てて安置したと害われています。行幸が笹井観音堂二十一世に擬せられ、しかも中興開山とされるのはこうした事情によるためです。また、本尊が不動明王から十一面観音菩薩像になり、観音堂と呼ばれるようになつたのもこの時からであると考えられます。
笹井観音堂は本山派修験聖議院末二十八院の-つで、中世から江戸時代に当地方にあって多くの山伏を配下に治め絶大な権力を有していたと言われています。(高麗郡、多摩郡、入間郡一帯の行事職であった。)
笹井観音堂は高祖役小角よりはじまり現在で60世良勝氏となっています。
また、観音堂の西方にあり薬師如来を本尊とする薬王寺がありました。観音堂の寺務を補佐する執事職を代々務めておりました。現在52世で渋谷操氏となっております。
長い参道の入り口

昔の写真
長い参道で、現在観音堂の前を横切っている県道も存在しない。

現在の当主の説明をお聞きすることができた。

現在の観音堂

内部

役小角像

徳川家康像

不動明王坐像

【映画「野菊の墓」のロケ地:北野家】
長い塀に固まれた北野家住宅は作り醤油の家、以前は煉瓦の煙突があつた。映画「野菊の墓」のロケ地として使われました。

【宗源寺】


宗源寺は曹洞宗の寺院で寺伝によると、かつて宗源庵という草庵があり、木造の地蔵菩薩億が安置されていたといわれています。
開基は江戸時代の笹井村に180石余りの知行地を持っていた旗本土屋昌吉と同じく100石を領していた土屋正久の両人です。開山は宗源寺の本寺である越生町龍穏寺(りゆうおんじ)の16世鶴峰(かくほう)禅師で、開山の年代は文禄…慶長年間(1592~1615)です。
本尊は木造宝冠(ほうかん)釈迦如来坐像です。尊顔は微笑みを浮かべ、わずかに口元から白い歯をのぞかせています。そのため微笑釈迦牢尼仏とか歯仏(しぶつ)といわれています。

その他、当寺二世である撫州禅師の木造撫州禅師椅像があります。それは当寺で正保3年(1646)7月に没した龍穏寺20世です。
木造釈迦如来像はかつての本尊で宗源寺4世の嶺州(ふくしゆう)禅師の時代に寄進されたものといわれています。
撫州菩薩禅師堂

掲額に「雹難消除」とある。これは当時雹の被害が多かったので、撫州禅師が亡くなるとき、「これからは私が龍となって、雹の被害は無くしてやる」と言い、それ以後票の被害が無くなったとか。

また境内には石仏として寛文13年(1673)道立の阿弥陀如来と享保4年(1719)連立の地蔵があります。
江戸時代に笹井村領主であった、旗本の土屋昌吉の養は宗源寺墓所に、土屋正久の基は笹井小学校校庭前の林の中、鳥坂の右手の富士浅間社の脇にあり、笹井地区の平穏と発展を願って静かに眠っています。


【日光脇往還と根岸】
江戸より日光への道は、五街道の-つである「日光道中」、そして将軍社参の道である「日光御成道」がありました。家康・家光廟が祀られている日光山は幕府や各藩の大名・武士・町人・農民などに厚く尊崇され、多くの人が参詣しています。そのため、上記の街道以外にも日光への道は脇往還・裏街道があったと考えられます。
ここで言う日光脇往還は、八王子千人同心が日光山火防の任の警備につく際に往来した道です。初めて八王子千人同心が日光山火防の勤番を命ぜられたのは慶安5年(1652)であり幕末の慶応4年(1868)まで続きました。何とこの街道が水富地区の根岸を通っていたのです。
道順は八王子より拝島、箱根ヶ崎、扇町屋を経て根岸を通り、高萩、坂戸、松山、行田、館林、佐野、栃木、鹿沼、今市を通って日光へ到着しました。
扇町屋村(入間市扇町屋)は戸数90軒が左右に軒を連ね3、8の日毎に市(いち)がたって賑わっていました。
根岸村には根岸の渡がありました。(入間市黒須と狭山市根岸を結ぶ渡し)文化9年(1812)には渡船が始まりました。また、水の少ない季節には仮木橋を架けたと言われています。
根岸は民家33軒が道の左右に軒を並べていましたが市の立つこともない小規模な宿駅で、御用を主体とした人馬や荷物の継ぎ送りが主な任務でした。
そのため問屋(現在の久下雅義宅)が設置され、上りは高萩村へ、下りは扇町屋へ継送されました。
また、この時代は御用荷物などの継ぎ送りを手伝う人足と、馬を提供する「助郷の制度」もありました。寛文9年(1669)には笹井村と両広瀬村に幕府評定所より根岸村への『助郷の命』が下されました。命じられた村々はかなりの負担になりました。いつの世でもお上からの命令は領民にとってきついものです。
日光脇往還
明光寺門前、久下家の前。

根岸の渡し
根岸の渡しは、根岸村(狭山市)と黒須村(入間市)を結ぶ渡しで、中世から交通の要所でした。
ここは、後北条氏(小田原の北条氏)の時代から北武蔵や上州に通じる道として重要でした。また、江戸時代は八王子から日光へ至る街道(日光脇往還)にあたり、交通の要でした。
この渡しは、江戸時代後期の文化9年(1812)に高麗郡根岸村の組頭反四郎が渡船の権利を獲得しています。
渇水の時期は橋を渡し、増水期には渡船を行い、その経費はすべて権利者が負担しました。渡船の運営は根岸村と黒須村で進められ、嘉永・安政・慶応年間まで続きました。
古文書によれば、嘉永2年(1849)の船賃は、1人12文、人馬20文、橋銭は1人4文、人罵8文でした。しかし、渡船の収益が増加するに従い、権利をめぐる対立が激しくなりました。慶応4年(1868)には、根岸村に加え、上広瀬村・下広瀬村・笹井村が渡船運営に参画し、黒須村との間に訴訟が繰返されました。
明治時代の未には6尺板を横に渡した長さ10間の木橋が架けられ、すでに船は使用していませんでした。橋を渡るのに人は1人1銭、車は2銭を徴収しましたが根岸と黒須の人は無料でした。
また、筏(飯能上流で産する西川材を江戸へ運ぶためのもの)が通る時は番人が橋板をあげ賃銭をとっていました。
大正9年(1920)に豊水橋が完成して木橋は廃止となりました。
根岸の渡し跡は正確にはわかりませんが、ほぼ現在の豊水橋の所を渡っていたと考えられています。今は、河川改修等により渡し場の痕跡は全く残されていません。付近は、都市化・宅地化が進み入間川の水が静かに流れているのみです。
当日は、明光寺門前で説明し、近くのバス停からバスに乗って帰ったので、根岸の渡し跡には行きませんでした。
写真を載せておきます。

(了)
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智光山公園の花菖蒲
20160603
岡谷公二氏著『神社の起源と古代朝鮮』によって知った神です。
『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に「伊香具神社」がある。余呉の湖の近くで、その祭神が伊香津臣命。そして余呉の湖の周囲に式内社「乎彌(おみ)神社があり、その祭神が巨知人命である。更に同じく式内社の「乃彌(のみ)神社があり、その祭神が梨津臣命。
そして、有名な余呉の湖の羽衣伝説がある。
『近江国風土記』逸文によると:
古老(ふるおきな)の傅へて曰へらく、近江の國伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶(とも)に白鳥と為りて、天より降りて、江の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遙かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、往きて見るに、實に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して得還り去らず。竊(ひそ)かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隱しき。天女、乃(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人(ななたり)は天井に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、即ち地民(くにつひと)と為りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家(をとひめ)と為りて此處に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連等が先祖(とほつおや)、是なり。後に母(いろは)、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、唫詠(ながめ)すること断(や)まざりき。
わかりやすく書くと:
余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。
それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。
地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。
これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。
妻を失った伊香刀美は、寂しくため息をつき続けたという。
そして、伊香刀美は伊香津臣命と、意美志留は巨知人命と、那志刀美は梨津臣命と同人とされている。
伊香津臣命は、中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
その子は、前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)であり、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。
672年に伊香姓を賜姓した近江、伊香氏の元祖は、 臣知人(おみしるひとのみこと・意美志留)といいます。
この筋が伊香具神社社家となります。
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。
また、伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、中臣氏に近づいたもの」としている。
日本の神々記事一覧に飛ぶ
『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に「伊香具神社」がある。余呉の湖の近くで、その祭神が伊香津臣命。そして余呉の湖の周囲に式内社「乎彌(おみ)神社があり、その祭神が巨知人命である。更に同じく式内社の「乃彌(のみ)神社があり、その祭神が梨津臣命。
そして、有名な余呉の湖の羽衣伝説がある。
『近江国風土記』逸文によると:
古老(ふるおきな)の傅へて曰へらく、近江の國伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶(とも)に白鳥と為りて、天より降りて、江の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遙かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、往きて見るに、實に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して得還り去らず。竊(ひそ)かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隱しき。天女、乃(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人(ななたり)は天井に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、即ち地民(くにつひと)と為りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家(をとひめ)と為りて此處に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連等が先祖(とほつおや)、是なり。後に母(いろは)、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、唫詠(ながめ)すること断(や)まざりき。
わかりやすく書くと:
余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。
それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。
地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。
これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。
妻を失った伊香刀美は、寂しくため息をつき続けたという。
そして、伊香刀美は伊香津臣命と、意美志留は巨知人命と、那志刀美は梨津臣命と同人とされている。
伊香津臣命は、中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
その子は、前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)であり、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。
672年に伊香姓を賜姓した近江、伊香氏の元祖は、 臣知人(おみしるひとのみこと・意美志留)といいます。
この筋が伊香具神社社家となります。
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。
また、伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、中臣氏に近づいたもの」としている。
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横須賀「記念館三笠」・走水湾・観音崎・久里浜「ペリー公園・記念館」
20160601
5月11日に、歴史クラブ春季定例見学会で、横須賀から久里浜までを見学して回りました。
コースは、記念館三笠⇒ポートマーケット⇒走水湾・走水神社⇒観音崎公園⇒久里浜ペリー公園・ペリー記念館。
【記念館三笠】
朝7時に狭山市を出発、参加者は45名。観光バスで圏央道、東名高速、横浜横須賀道路を経由して、最初の目的地が記念館三笠。
団体は、1時間のプログラムということで、前半30分はビデオと説明を受けて、後半30分が自由見学。

戦艦三笠は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦として英国で建造。奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島、初瀬、朝日。
1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊維を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災により破換、同20日廃艦。
保存運動により1925年(大正14年)構須実に記念艦として保存決定。
第2次大戦の終戦後は物資不足などで金属類や甲板木材などが盗まれるなどして荒廃し、その後、進駐軍によりダンスホールや後部主砲塔があった場所にはま水族館が設置された。
現在は、防衛省が所管し神奈川県境須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
艦級 :敷島型(四番藍)
排水量:15′140トン(常備)
全幅 :23.2m
機関 :15,000馬力
航続距離:10ノットで7,000海里
兵装 :主砲40口径30.5糎連装砲2基4門
対水雷艇砲:40口径7.6糎単装砲20門
魚雷発射管:45糎発射管4門
舷側 :9インチ(229mm)
就役 :1902年3月1日
全長 :131.7m
吃水 :8.3m
最大速力:18ノット
乗員 :860名
副砲 :40口径15.2糎単装砲14門
47ミリ単装砲:16基
装甲 :KC(クルップ)鋼
甲板 :3インチ(76mm)
説明を受けた後、時間が少ないので駆け回った(笑)

東郷連合艦隊司令長官は、各司令長官、幕僚を従えて参内し、海戦の経過を奏上した。

日本海海戦の結果、日本は強国ロシアとの講和が成立した。


秋山真之
日露戦争では、連合艦隊作戦主任参謀。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公。愛読しました。

秋山真之の手紙


「三笠艦橋の図」

戦艦「三笠」




三笠の艦主飾り

東郷平八郎

東郷元帥の自筆書

27日6時21分、秋山真之の電文
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

27日13時55分「皇國興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とのZ旗が旗艦三笠の艦橋に掲揚された。
Z旗の本来の意味は「もう後が無い」である。

「旗艦三笠」
バルチック艦隊を目前に敵前大回頭を行い、激しい砲撃を受けながら満を持して一斉砲撃を開始する直前の三笠。

砲兵

電信室

47ミリ単装砲

長官室


三笠神社


上甲板に出ました。船尾側。

猿島がきれいに見える。

島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。
幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年(弘化4年)に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。実際に本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本では数少ないフランドル積みが見られる。国の史跡に指定されている。
映画『天空の城ラピュタ』を連想させるとして人気を集めており、『仮面ライダー』の撮影ではショッカーの基地があるとされたことでも知られている。
三笠桟橋(三笠公園内)より船で10分。船は、3月〜11月は毎日運航、12月〜2月は土日祝日のみ運航。
黒船騒ぎのときの、川越藩士の日誌を読むと、しきりにこの島が出てくる。
今回は駄目だったが、ぜひ渡りたい所だ。
主砲40口径30.5糎連装砲

船首に向かう。

最上艦橋からの眺め

最上艦橋の伝声管

操舵室に伝声管が降りている。


前方主砲

もう時間が迫り、出口に急ぐ。
時間が、まったく足りなかった。済まないことでした。

外に出て、改めて全景を。

昼食・休憩・買い物場所の、すぐ近くの「ポートマーケット」に移動。
風が強い。

【ポートマーケット】


ここで、お土産を買い、お弁当を買ってフードコートで食べたり、海軍カレーを食べたりした。
【走水湾】
ポートマーケットから10分ほどバスで走り、「横須賀美術館」の駐車場にバスを置いてもらい、そこから歩いて10分ほどで、「走水神社」に到着。

走水神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
走水神社境内の見晴台から走水湾が眺められる。

この日は天気が悪くて、眺望が効かなかったが、下見のときには晴れていたので、対岸の房総半島がこのように良く見えた。

走水湾は、古代東海道の港であった。

奈良時代・平安時代は、律令制度(中央政権的な統治制度)によって、日本は、大和・山城・摂津・河内・和泉の「畿内五乱と、東海道・栗山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の「七道」の、「五畿七道(こきしちどう)」という行政区画に分けられていた。
宝亀2年([1)以前の「乗海道」のルートは下記となっていた。(平安遷都:794年)
足柄峠一坂本駅(南足柄市関本)一小田原市高田(足下国府説)一小総駅(小田原市国府津)一箕輪駅(推定地・平塚市域)一平塚市四之宮一某駅(藤沢?)一鎌倉郡衛一業駅(葉山?)一横須賀市走水一上総国(富津崎)
宝亀2年(771)以降は、「下総道」が「中路に準ずる」となり、乗海道・東山道と同等の主要国遵に格上げ。
更に従来東山道に位置づけられていた武蔵国が東海道に編入された。
江戸時代を偲ぶ:旗山台場
走水湾に向かって左袖が、御所ケ崎であり、籏山崎とも呼ばれる。
川越藩は相模国に分領を持っていたため、沿岸警備を担当していた。
異国船来航:
明和8年(1771)にはハンガリーから、安永7年(1778)にロシア船が来航。寛政4年(1792)には、ロシア使節が大黒屋幸太夫を護送して根室に来航、 通商を要求。
文化5年(1808)イギリス軍艦
文政元年(1818)~文政7年(1810) イギリス3回来航、通商を要求。
文化7年(1810)会津藩に相模浦賀辺、白河藩に安房・上総の海防を命じる。川越藩は相模沿岸警備の任を解かれる。
文政3年(1820)川越藩は浦賀奉行助役を命じられる。
(この間、色々なゴタコタがあるが省略)
天保13年(1842)相模国海防を川越藩に、房総の海防を忍藩に命じる。
天保14年(1843)観音崎台場が川越藩に引き渡され、警備の第一陣が川越を出発。
旗山台場は走水湾の、海に向かつて左袖にあたる。

嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航、川越藩警備につ<。
嘉永6年(1853)川越藩は相模海岸警備を免除、品川第一台場の警備を命じられる。
嘉永7年(1854)ペリーが再び来航。川越藩内から多数の人足が動員さる。以降、川越藩は品川第-、第二、第五台場を警備。
観音崎台場は、その後も第二次大戦終戦まで東京湾警護の要塞として使われた。
現在、「砲台跡」として見られる場所は幾つかあるが、「旗山台場跡」は未だ公開されていないので入れない。
2015年9月に「走水低砲台ガイドツアー(試行)」(25名参加)があったので、数年以内には公開される可能性があると思われる。
【観音崎公園】
走水湾から、バスでほんのちょっと移動すれば「観音崎公園」である。
ここで、東京湾の素晴らしい眺めを楽しんでもらうつもりだったが、あいにくの天気。雨は上がったものの曇天で、ものすごい風。
しかし、あえてしばらく眺めてもらった(汗)
この辺は「たたら浜」です。

海は風で荒れている。



晴れていれば、このように船舶とか、対岸の房総半島が見えて、絶景です。
(下見のときの写真)



この辺にも、色々と史跡がある。再度来訪しなくては。

【ペリー公園・ペリー記念館】
所在地:神奈川県横須賀市久里浜7-14
浦賀にも、もちろん色々な史跡はあるのだが、大型バスでの旅行となると、まったくバスを停める場所が無くて断念。
浦賀を通り越して、久里浜に移動しました。
黒船来航
嘉永6年(1853)に浦賀に来航したペリーのアメリカ艦隊は、太平の世にあった日本社会に大きな衝撃を与えた話は有名ですが、実はそれ以前からアメリカ、ロシア、イギリス、オランダ、フランスの船が様々な形で日本近海に現れ、江戸幕府はその対応に苦慮せざるを得なくなりました。
黒船という通称は16世紀に始まったそうです。当時交易していたポルトガルの貿易船が船体をタールで黒く塗っていたために中国船と区別して呼ばれていたのが、19世紀に入って通称を求めて頻繁に出没するアメリカやイギリスの船も同じように呼ばれるようになったと、物の本に書いてありました。
嘉永6年6月 ペリー 久里浜に上陸
6月9日、ペリーは浦賀沖に停泊した軍艦4隻の威圧を背景に、米大統領フィルモアからの国書の受け取りを要請しました。幕府は当初、長崎での対応に持ち込もうとしましたが、ペリーの強圧に屈し、浦賀の隣の入り江である久里浜に急設の応接所を設け、浦賀奉行であった戸田氏榮(うじひで)と井上弘道を「日本の最高司令官」としてペリーと会見させ、「日本皇帝(将軍)」宛ての国手を受け取りました。
ペリー側は約400人の完全武装の兵を率いて久里浜に上陸しました。それに対して日本側は500人ないし700人の騎馬組・大砲租・徒歩組・弓矢組で武装していたということです。
江戸幕府は寛政3年(1791)に、外国船が来航したときの処置方針を定め、全国に通知しました。同4年には沿岸に領地のある諸藩に対して書庸を厳重にするよう命じました。川越藩は相模の国(現神奈川県)に分領を持っていたため、本格的に沿岸書備を担当することになりました。
松平大和守家の相州領は、前橋藩時代の明和年間(1764一}1772)に1万5千石余あったという記録が残っているそうです。また、天明4年(1784)の藩領の書き上げによると川越藩の相州領は計52か村。この内直接海浜に面していた領地は三浦都と淘綾部におよそ7千300石でありました。
こうした相州領が松平大和守蒙に引き継がれてきた理由は不明だそうですが、『前橋市史』では寛延2年(1749)に姫路から前橋に入封した松平大和寺家が、旧藩主だった酒井家の所領を引き継いだためと推測しています。相州領を持つ川越藩松平大和守家では、7代目から11代目までの5代に渡り、江戸湾の海防問題に取り組みました。
ペリー公園

説明板


ペリー上陸記念碑
ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。ビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。



ペリー記念館

風見鶏ならぬ、風見「黒船」

玄関にある、ペリー提督と戸田伊豆守の銅像


一階ホールに、1853年にやってきた4艘の黒船のジオラマあり。

旗艦蒸気船「サスケハナ号」
乗組員数300名

蒸気船「ミシシッピー号」
乗組員数268名

帆船「サラトガ号」
乗組員数210名

帆船「プリマス号」
乗組員数210名

久里浜付近の陸地

遠く、富士山も見えている。

二階には、色々なものが展示されている。

1854年 当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物

1853年7月14日 ペリー上陸直前を描いた絵巻物

黒船来航の様子を伝える記録

瓦版と庶民の目



ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物




三浦半島の模型


これで、この日の予定を全て終了。
満足して帰途につきました。
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コースは、記念館三笠⇒ポートマーケット⇒走水湾・走水神社⇒観音崎公園⇒久里浜ペリー公園・ペリー記念館。
【記念館三笠】
朝7時に狭山市を出発、参加者は45名。観光バスで圏央道、東名高速、横浜横須賀道路を経由して、最初の目的地が記念館三笠。
団体は、1時間のプログラムということで、前半30分はビデオと説明を受けて、後半30分が自由見学。

戦艦三笠は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦として英国で建造。奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島、初瀬、朝日。
1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊維を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災により破換、同20日廃艦。
保存運動により1925年(大正14年)構須実に記念艦として保存決定。
第2次大戦の終戦後は物資不足などで金属類や甲板木材などが盗まれるなどして荒廃し、その後、進駐軍によりダンスホールや後部主砲塔があった場所にはま水族館が設置された。
現在は、防衛省が所管し神奈川県境須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
艦級 :敷島型(四番藍)
排水量:15′140トン(常備)
全幅 :23.2m
機関 :15,000馬力
航続距離:10ノットで7,000海里
兵装 :主砲40口径30.5糎連装砲2基4門
対水雷艇砲:40口径7.6糎単装砲20門
魚雷発射管:45糎発射管4門
舷側 :9インチ(229mm)
就役 :1902年3月1日
全長 :131.7m
吃水 :8.3m
最大速力:18ノット
乗員 :860名
副砲 :40口径15.2糎単装砲14門
47ミリ単装砲:16基
装甲 :KC(クルップ)鋼
甲板 :3インチ(76mm)
説明を受けた後、時間が少ないので駆け回った(笑)

東郷連合艦隊司令長官は、各司令長官、幕僚を従えて参内し、海戦の経過を奏上した。

日本海海戦の結果、日本は強国ロシアとの講和が成立した。


秋山真之
日露戦争では、連合艦隊作戦主任参謀。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公。愛読しました。

秋山真之の手紙


「三笠艦橋の図」

戦艦「三笠」




三笠の艦主飾り

東郷平八郎

東郷元帥の自筆書

27日6時21分、秋山真之の電文
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

27日13時55分「皇國興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とのZ旗が旗艦三笠の艦橋に掲揚された。
Z旗の本来の意味は「もう後が無い」である。

「旗艦三笠」
バルチック艦隊を目前に敵前大回頭を行い、激しい砲撃を受けながら満を持して一斉砲撃を開始する直前の三笠。

砲兵

電信室

47ミリ単装砲

長官室


三笠神社


上甲板に出ました。船尾側。

猿島がきれいに見える。

島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。
幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年(弘化4年)に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。実際に本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本では数少ないフランドル積みが見られる。国の史跡に指定されている。
映画『天空の城ラピュタ』を連想させるとして人気を集めており、『仮面ライダー』の撮影ではショッカーの基地があるとされたことでも知られている。
三笠桟橋(三笠公園内)より船で10分。船は、3月〜11月は毎日運航、12月〜2月は土日祝日のみ運航。
黒船騒ぎのときの、川越藩士の日誌を読むと、しきりにこの島が出てくる。
今回は駄目だったが、ぜひ渡りたい所だ。
主砲40口径30.5糎連装砲

船首に向かう。

最上艦橋からの眺め

最上艦橋の伝声管

操舵室に伝声管が降りている。


前方主砲

もう時間が迫り、出口に急ぐ。
時間が、まったく足りなかった。済まないことでした。

外に出て、改めて全景を。

昼食・休憩・買い物場所の、すぐ近くの「ポートマーケット」に移動。
風が強い。

【ポートマーケット】


ここで、お土産を買い、お弁当を買ってフードコートで食べたり、海軍カレーを食べたりした。
【走水湾】
ポートマーケットから10分ほどバスで走り、「横須賀美術館」の駐車場にバスを置いてもらい、そこから歩いて10分ほどで、「走水神社」に到着。

走水神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
走水神社境内の見晴台から走水湾が眺められる。

この日は天気が悪くて、眺望が効かなかったが、下見のときには晴れていたので、対岸の房総半島がこのように良く見えた。

走水湾は、古代東海道の港であった。

奈良時代・平安時代は、律令制度(中央政権的な統治制度)によって、日本は、大和・山城・摂津・河内・和泉の「畿内五乱と、東海道・栗山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の「七道」の、「五畿七道(こきしちどう)」という行政区画に分けられていた。
宝亀2年([1)以前の「乗海道」のルートは下記となっていた。(平安遷都:794年)
足柄峠一坂本駅(南足柄市関本)一小田原市高田(足下国府説)一小総駅(小田原市国府津)一箕輪駅(推定地・平塚市域)一平塚市四之宮一某駅(藤沢?)一鎌倉郡衛一業駅(葉山?)一横須賀市走水一上総国(富津崎)
宝亀2年(771)以降は、「下総道」が「中路に準ずる」となり、乗海道・東山道と同等の主要国遵に格上げ。
更に従来東山道に位置づけられていた武蔵国が東海道に編入された。
江戸時代を偲ぶ:旗山台場
走水湾に向かって左袖が、御所ケ崎であり、籏山崎とも呼ばれる。
川越藩は相模国に分領を持っていたため、沿岸警備を担当していた。
異国船来航:
明和8年(1771)にはハンガリーから、安永7年(1778)にロシア船が来航。寛政4年(1792)には、ロシア使節が大黒屋幸太夫を護送して根室に来航、 通商を要求。
文化5年(1808)イギリス軍艦
文政元年(1818)~文政7年(1810) イギリス3回来航、通商を要求。
文化7年(1810)会津藩に相模浦賀辺、白河藩に安房・上総の海防を命じる。川越藩は相模沿岸警備の任を解かれる。
文政3年(1820)川越藩は浦賀奉行助役を命じられる。
(この間、色々なゴタコタがあるが省略)
天保13年(1842)相模国海防を川越藩に、房総の海防を忍藩に命じる。
天保14年(1843)観音崎台場が川越藩に引き渡され、警備の第一陣が川越を出発。
旗山台場は走水湾の、海に向かつて左袖にあたる。

嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航、川越藩警備につ<。
嘉永6年(1853)川越藩は相模海岸警備を免除、品川第一台場の警備を命じられる。
嘉永7年(1854)ペリーが再び来航。川越藩内から多数の人足が動員さる。以降、川越藩は品川第-、第二、第五台場を警備。
観音崎台場は、その後も第二次大戦終戦まで東京湾警護の要塞として使われた。
現在、「砲台跡」として見られる場所は幾つかあるが、「旗山台場跡」は未だ公開されていないので入れない。
2015年9月に「走水低砲台ガイドツアー(試行)」(25名参加)があったので、数年以内には公開される可能性があると思われる。
【観音崎公園】
走水湾から、バスでほんのちょっと移動すれば「観音崎公園」である。
ここで、東京湾の素晴らしい眺めを楽しんでもらうつもりだったが、あいにくの天気。雨は上がったものの曇天で、ものすごい風。
しかし、あえてしばらく眺めてもらった(汗)
この辺は「たたら浜」です。

海は風で荒れている。



晴れていれば、このように船舶とか、対岸の房総半島が見えて、絶景です。
(下見のときの写真)



この辺にも、色々と史跡がある。再度来訪しなくては。

【ペリー公園・ペリー記念館】
所在地:神奈川県横須賀市久里浜7-14
浦賀にも、もちろん色々な史跡はあるのだが、大型バスでの旅行となると、まったくバスを停める場所が無くて断念。
浦賀を通り越して、久里浜に移動しました。
黒船来航
嘉永6年(1853)に浦賀に来航したペリーのアメリカ艦隊は、太平の世にあった日本社会に大きな衝撃を与えた話は有名ですが、実はそれ以前からアメリカ、ロシア、イギリス、オランダ、フランスの船が様々な形で日本近海に現れ、江戸幕府はその対応に苦慮せざるを得なくなりました。
黒船という通称は16世紀に始まったそうです。当時交易していたポルトガルの貿易船が船体をタールで黒く塗っていたために中国船と区別して呼ばれていたのが、19世紀に入って通称を求めて頻繁に出没するアメリカやイギリスの船も同じように呼ばれるようになったと、物の本に書いてありました。
嘉永6年6月 ペリー 久里浜に上陸
6月9日、ペリーは浦賀沖に停泊した軍艦4隻の威圧を背景に、米大統領フィルモアからの国書の受け取りを要請しました。幕府は当初、長崎での対応に持ち込もうとしましたが、ペリーの強圧に屈し、浦賀の隣の入り江である久里浜に急設の応接所を設け、浦賀奉行であった戸田氏榮(うじひで)と井上弘道を「日本の最高司令官」としてペリーと会見させ、「日本皇帝(将軍)」宛ての国手を受け取りました。
ペリー側は約400人の完全武装の兵を率いて久里浜に上陸しました。それに対して日本側は500人ないし700人の騎馬組・大砲租・徒歩組・弓矢組で武装していたということです。
江戸幕府は寛政3年(1791)に、外国船が来航したときの処置方針を定め、全国に通知しました。同4年には沿岸に領地のある諸藩に対して書庸を厳重にするよう命じました。川越藩は相模の国(現神奈川県)に分領を持っていたため、本格的に沿岸書備を担当することになりました。
松平大和守家の相州領は、前橋藩時代の明和年間(1764一}1772)に1万5千石余あったという記録が残っているそうです。また、天明4年(1784)の藩領の書き上げによると川越藩の相州領は計52か村。この内直接海浜に面していた領地は三浦都と淘綾部におよそ7千300石でありました。
こうした相州領が松平大和守蒙に引き継がれてきた理由は不明だそうですが、『前橋市史』では寛延2年(1749)に姫路から前橋に入封した松平大和寺家が、旧藩主だった酒井家の所領を引き継いだためと推測しています。相州領を持つ川越藩松平大和守家では、7代目から11代目までの5代に渡り、江戸湾の海防問題に取り組みました。
ペリー公園

説明板


ペリー上陸記念碑
ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。ビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。



ペリー記念館

風見鶏ならぬ、風見「黒船」

玄関にある、ペリー提督と戸田伊豆守の銅像


一階ホールに、1853年にやってきた4艘の黒船のジオラマあり。

旗艦蒸気船「サスケハナ号」
乗組員数300名

蒸気船「ミシシッピー号」
乗組員数268名

帆船「サラトガ号」
乗組員数210名

帆船「プリマス号」
乗組員数210名

久里浜付近の陸地

遠く、富士山も見えている。

二階には、色々なものが展示されている。

1854年 当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物

1853年7月14日 ペリー上陸直前を描いた絵巻物

黒船来航の様子を伝える記録

瓦版と庶民の目



ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物




三浦半島の模型


これで、この日の予定を全て終了。
満足して帰途につきました。
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