城山砦の清掃

20160730

今年の3月まで、市から委嘱されて「NPO・ユーアイネット柏原」が城山砦を管理していましたが、その期間が終了し、その後は「城山砦を守る会」が城山砦を守っていこうということになりました。

その最初の取り組みが、今回の清掃(草刈り)で、昨日29日(金)に行われました。

作業に参加したのは19名で、歴史クラブからは5名が参加しました。

ちょっと早めに行って、清掃前の状態を撮っておきました。
入り口付近
160730shiroyama01.jpg


二の郭付近
160730shiroyama02.jpg


本郭
160730shiroyama03.jpg


訪問者の休憩用にベンチを置いてあるのですが、ちょっと入れませんね(汗)
160730shiroyama04.jpg


160730shiroyama05.jpg


というように、至る所雑草が生い茂っているのですが、2時間の作業でどこまで綺麗になるのか??

「NPOユーアイネット柏原」の手持ちの道具を活用しました。
160730shiroyama06.jpg


さあ、作業開始!!
160730shiroyama07.jpg


歴史クラブが参加したグループは、本郭を担当。
最初は、鎌や鋏で雑木や大きな草を刈ったり、枯れ枝を片付けたり・・・・
160730shiroyama08.jpg


160730shiroyama09.jpg


動力付き刈り払い機で仕上げ。
160730shiroyama10.jpg


正直なところ、2時間の作業は、やはり暑くて大変でした(汗)
熱中症にはならないようにと、注意して頑張った。

2時間で、作業は終了しましたが、思ったよりもきちんと、大体のところは綺麗に出来ましたね。
皆さんの頑張りが素晴らしかったです。

入り口の農道わきも、綺麗にスッキリしました。
160730shiroyama11.jpg


本郭の、手入れ前と、手入れ後です。
ほんとに綺麗になって、嬉しくて仕方ありませんでした(笑)
160730shiroyama12.jpg


160730shiroyama13.jpg


訪問者休憩場所の、手入れ前と手入れ後です。
これなら、気持ち良く休んでもらえますね。
160730shiroyama14.jpg


160730shiroyama15.jpg


ほとんどの場所が、こんな感じになりました。
160730shiroyama16.jpg


充分な達成感をもって、お互いに感謝しながら作業を終えました。
「城山砦を守る会」の皆さん、お疲れ様でした。
歴史クラブから参加の皆さん、お疲れ様でした。

歴史クラブも、いままで地域連携活動として、主としてガイドに力を注いできましたが、今年から「地域連携活動部会」を発足させ、従来の活動に加え、文化財を守る活動にも参加していこうとしているので、今回の参加は有意義なものだったと、嬉しく思いました。

(了)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

文京・朝顔ほおずき市

20160725

24日(日)、「文京・朝顔ほおずき市」で琵琶の演奏があるというので、聴きに出かけました。
160725bunkyo01.jpg


会場は、こんにゃくえんま、善光寺、澤蔵司稲荷、伝通院、牛天神です。
160725bunkyo02.jpg


「こんにゃくえんま」から伝通院までは、ちょうど6月7日に歴史クラブ行事「小石川散策」で廻っていますので、その様子は別記事を読んでください。

その記事を読む


「こんにゃくえんま」
入ると、参道わきにほおずきの籠が並べられていた。
160725bunkyo03.jpg


えんんま様も、参詣者が多くてニヤニヤしているような気がした(笑)
160725bunkyo04.jpg


善光寺坂には、「「文京・朝顔ほおずき市」ののぼりが並んでいる。
160725bunkyo05.jpg


のぼりは、古地図を染め抜いた立派なものだった。
160725bunkyo06.jpg


160725bunkyo07.jpg


善光寺は、「変化朝顔」の会場
160725bunkyo08.jpg


境内には「変化朝顔」が展示されていた。
160725bunkyo09.jpg


160725bunkyo10.jpg


160725bunkyo11.jpg


160725bunkyo12.jpg


160725bunkyo13.jpg


琵琶の演奏は本堂の中で行われた。
160725bunkyo14.jpg


薩摩琵琶の演者は「川嶋信子氏」
160725bunkyo15.jpg


演目は、「祇園精舎」と「八つのひかり~南総里見八犬伝より~」

演奏は、とても素晴らしいものだった。
しかし、撮影禁止だったため、皆さんにその素晴らしさを紹介する事ができないのは、とても残念です。

善光寺坂にある、椋の巨木
160725bunkyo16.jpg


伝通院
160725bunkyo17.jpg


境内には、ずらっと朝顔の鉢が並べられていた。
160725bunkyo18.jpg


160725bunkyo19.jpg


綺麗に開いている花もあり。
160725bunkyo20.jpg


160725bunkyo21.jpg


160725bunkyo22.jpg


飴細工の人が、綺麗に朝顔を作っていた。
160725bunkyo23.jpg


(了)


「お気に入りの場所」を見る



前玉彦命(速甕之多気佐波夜遅奴美神)・前玉比売命/日本の神々の話

20160724

さきたま古墳群にある延喜式内社「前玉(さきたま)神社の祭神が、前玉彦命(さきたまひこのみこと)と前玉比売命(さきたまひめのみこと)であり、私は前玉神社で、両神に参拝している。

この両神は、『古事記』の「大國主神」の巻、「大國主神の神裔」の段に登場している。
(読み下し文)
 かれこの大国主神、胸形の奥つ宮に坐す神、多紀理比賣命を娶(めと)して生みし子は、阿遅鉏高日子根神、次に妹高比賣命。亦の名は下光比賣命。この阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛の大御神といふぞ。
大国主神、また神屋楯比賣命を娶して生みし子は、事代主神。また八嶋牟遅能神の女、鳥耳神を娶して生みし子は、鳥鳴海神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇神を娶して生みし子は、國忍富神。この神、葦那陀迦神、亦の名は八河江比賣を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。この神、天之甕主神の女、前玉比賣を娶して生みし子は、甕主日子神。この神、淤加美神の女、比那良志比賣を娶して生みし子は、多比理岐志麻流美神。この神、比比羅木之其花麻豆美神の女、活玉前玉比賣神を娶して生みし子は、美呂浪神。この神、敷山主神の女、青沼馬沼押比売を娶して生みし子は、布忍富鳥鳴海神。この神、若晝女神を娶して生みし子は、天日腹大科度美神。この神、天狭霧神の女、遠津待根神を娶して生みし子は、遠津山岬多良斯神。
右の件の八嶋牟遅能神以下、遠津山岬多良斯神以前を、十七世の神と称す。

分かりにくいので、前玉比賣までを抽出すると以下のようになる。
大国主神が八嶋牟遅能神の女、鳥耳神を娶して生みし子⇒鳥鳴海神
二代目鳥鳴海神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶して生みし子⇒國忍富神
三代目國忍富神が(葦那陀迦神、亦の名は八河江比賣)を娶して生みし子⇒速甕之多気佐波夜遅奴美神
四代目速甕之多気佐波夜遅奴美神が天之甕主神の女、前玉比賣を娶して生みし子⇒五代目甕主日子神。

なので前玉神社の祭神「前玉彦命」は、イコール速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤノミカノタケサハヤヂヌミノカミ)ということになります。

前玉彦命(速甕之多気佐波夜遅奴美神)は大国主神直系四代目ということです。

ここで「甕(みか)」とは「酒や水を入れる大がめ」の意味なので、食糧貯蔵に関わる意が含まれた神といえる。

前玉比売命の父親「天之甕主神」ですが、『古事記伝』にて本居宣長は「こは何となき名なり」と述べたきりです。
「甕(みか)」そのまんま、という意なのか。現在ネットで検索しても全く何も引っかかってこないところを見ると、本居宣長以後何も追加はされていないとみられます。

同じく、本居宣長は『古事記伝』にて、「前玉比賣」については、次のように述べている。
「名の義、書紀に所謂幸魂の意か。又幸をなす徳ある寶の玉の意にもあらむ。敏達紀に幸玉ノ宮、式(延喜式)に伊豆國賀茂郡佐伎多麻比咩命神社、また武蔵國埼玉郡前玉神社二座あり。」
「前玉」は「幸魂」であろう、と。
同じ神が伊豆國賀茂郡の「佐伎多麻比咩命神社」にも祀られていることがわかる。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



さきたま史跡の博物館

20160723

所在地:埼玉県行田市埼玉4834

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」と「さきたま史跡の博物館」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。

なお「さきたま古墳群」は別に記事にしています。

その記事を読む


もちろん、「さきたま史跡の博物館」は「さきたま古墳群」の中にあります。
160723haku01.jpg


駐車場から博物館に歩いていくときにあった、「埼玉県名発祥の地」の碑
160723haku02.jpg


さきたま史跡の博物館
160723haku03.jpg


博物館にあった埼玉古墳群の航空写真
160723haku04.jpg


写真撮影は、フラッシュをたかなければOKです。

まず最初に見るのは、やはり国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)」
(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)

窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
160723haku05.jpg


160723haku06.jpg


1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(ただし新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1979年)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。

書かれている文字
160723haku07.jpg


これを解釈すると、「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」

以下はWikipediaに載っている説明。
年代:
辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。

通説通り471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなる。この通説に則れば、21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。

「オホヒコ」について:
銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。

以上Wikipediaによれば、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は「雄略天皇」とされていて、「さきたま史跡の博物館」の説明も、そうなっています。

「前玉神社」の祭神が出雲系であることを考えると、「さきたま古墳群」の古代豪族は、出雲系ではないだろうかと
考えられる。氷川神社も出雲系だし、そうとすると、極めて浅学な私の勝手な想像だが、大和の中央政権とは別に、そのころはまだ関東に「大王」が居たと考えるのも面白い。
「古代の探求」は、想像の余地がものすごくあって、面白いんですね(笑)

閑話休題

国宝「画文帯環状乳神獣鏡」/稲荷山古墳
年代: 古墳時代後期
鏡の一部に赤色顔料が付着している。鏡を包んでいた布の痕跡がわずかに残る。外区には竜や虎、亀、馬車などが神仙を乗せて走っている画像。太陽や月の運行が描かれ、内区には東王父・西王母・伯牙弾琴など4人の神仙とそれらを背中に乗せる竜や虎が描かれる。中国の道教思想に基づく画像表現である。群馬県高崎市八幡観音塚古墳出土鏡・千葉県大多喜町台古墳出土鏡など5枚の同型鏡がある。
160723haku08.jpg


160723haku09.jpg


国宝「龍文透彫帯金具」/稲荷山古墳
160723haku10.jpg


説明のチラシで模様がはっきりします。
160723haku11.jpg


チラシによると、このように飾っていたらしい。
160723haku12.jpg


左側が馬につける旗竿金具/将軍塚古墳
160723haku13.jpg


馬の冑/将軍塚古墳
160723haku14.jpg


こんな風になるらしい。これは朝鮮半島でよく見られるそうで、その文化がここまで来ていたことを示します。
160723haku15.jpg


ガラス玉/将軍塚古墳
160723haku16.jpg


人形埴輪/瓦塚古墳
160723haku17.jpg


琴を弾く男子
160723haku18.jpg


「美豆良(みずら)」という古墳時代の一般的な男子の髪形
160723haku19.jpg


女性の埴輪
160723haku20.jpg


頭の上の四角い板状のものは「島田髷」
160723haku21.jpg


楯を持つ人物
160723haku22.jpg


鈴鏡を腰につける巫女
島田髷と乳房で女性であることがわかる。
160723haku23.jpg


冑をかぶる武人二体
160723haku24.jpg


160723haku25.jpg


大きな馬形埴輪
160723haku26.jpg


犬形埴輪/瓦塚古墳
160723haku27.jpg


水鳥形埴輪/瓦塚古墳
160723haku28.jpg


きりがないので、このくらいにしましょう。

帰りがけに、「はにわの館」をのぞいてみました。
160723haku29.jpg


聞いてびっくり!!
材料代が普通の量で600円。これしか、かかりません(笑)
焼くのはタダだし、スタッフが教えてくれるし。
作るのに、慣れた人で2時間半くらい。
この日は、土曜日なので家族連れなどで、沢山の人が楽しんでいました。

中にもたくさん置いてありましたが、入り口のところにもたくさん並んでいて、これを見るだけでも楽しい。
160723haku30.jpg


160723haku31.jpg


(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



さきたま古墳群

20160721

所在地:埼玉県行田市埼玉4834付近

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。
なので、季節がバラバラの写真になりますが、ご容赦のほど(笑)

埼玉古墳群は国指定史跡で、県名発祥の地「埼玉」にあります。前方後円墳が8基、円墳が2基、方墳が1基の合計11基の大型古墳を中心として、稔数40基ほどの古墳が存在していました。現在は、前方後円墳が8基、円墳が2基残っています。
 埼玉古墳群は国宝金錯銘鉄剣が出土したことで有名ですが、大型の古墳がせまい範囲に集中して築造されていることも大きな特徴です。また、5世紀後半から7世紀初め頃までの釣150年の間に次々に造られたことも特徴で、築造した豪族の勢力を物語っています。
埼玉古墳群の謎
(1) それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現われた。
(2) 東西500m、南北800mのせまい範囲の中に大型の古墳が造られた。
(3) 前方後円墳は同じ規格で築造されている。
   ・長方形の二重の堀を巡らしている。(通常、盾型)
   ・造出しは西側にある。
   ・ほぼ同じ方向を向いている。

武蔵国造の乱:第二十七代 安閑天皇即位元年甲寅(きのえとら)534年
 日本書紀に、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と、国造の地位を争ったことが記されています。争いに勝ち、武蔵国国造に任命された、笠原直使主は埼玉群笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。さきたまの地に突如として、畿内に匹敵する大型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓と考えることもできます。

埼玉古墳群の場所は交通の要衝地
 東日本では、交通の要衝地に大型古墳が集中する傾向にあると言われています。埼玉古墳群の場所について見ると、当時は東京湾に注いでいた利根川と利根川の支流であった荒川の合流点近くに位置していて、利根川、荒川、渡良瀬川、思川などを伝って各地と容易に連絡できる内水面交通の要衝地点でありました。

大宮台地
 埼玉古墳群は、南から延びてきていた大宮台地上に築造されました。これは発掘調査でわかっています。築造されたときは周囲より高い場所にありましたが、関東造盆地運動と呼ぼれる地殻運動によって台地が沈降し、今では周囲と変わらず平坦になっています。

各古墳の位置
160721saki01.jpg


【愛宕山古墳】
駐車場から歩きだすと、まず現れるのはあまり大きくない「愛宕山古墳」
名前の由来はかって墳丘上に愛宕神社が祀られていたことによります。
160721saki02.jpg


いまは三体の石仏が立っています。
160721saki03.jpg


丸墓山古墳に向かって進みます。

「史跡埼玉村古墳群」の標示あり。
160721saki04.jpg


石田堤
豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、丸墓山古墳を起点に南北に堤を築きました。その一部です。
160721saki05.jpg


丸墓山古墳のふもとにあった、「埼玉村古墳群」の石碑
160721saki06.jpg


160721saki07.jpg


【丸墓山古墳】
160721saki08.jpg


日本最大規模の円墳で、埼玉古墳群の大型古墳で登ることができるのは、稲荷山古墳と丸墓山古墳のみ。
直径105メートル、高さ18.9メートル。
遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土しており、これらの出土遺物の形式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。
1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。

1590年(天正18年)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が丸墓山古墳の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど作る。丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残である。

忍城は、肉眼で辛うじてわかる。ちょうど真ん中のあたり。
160721saki09.jpg


望遠ズームで撮った。
160721saki10.jpg


お隣の「稲荷山古墳」がよく見える。
160721saki11.jpg


反対側に降りた。
160721saki12.jpg


ニッコウキスゲが咲いていた。
160721saki13.jpg


【稲荷山古墳】
続いて「稲荷山古墳」に向かうと、何と!!
この日(2016.7.16)は整備工事のため、来年の3月末まで登れない(泣)
160721saki14.jpg


160721saki15.jpg


2013年5月8日に登ったときの写真を載せておきましょう。

稲荷山古墳は、全長120m、後円部径62m、後円部高さIl・7mの2番目に大きな古墳です。後円部上に稲荷社の祠があったことから命名されました。
 稲荷山古墳は、昭和12年に前方部が削平されて、円墳のような姿になっていました。風土記の丘整備事業の一環として、昭和43年に後円部の発掘調査が行われ、2基の埋葬施設が発見されました。一つは「粘土槨」と呼ばれる竪穴の中に粘土を敷いて木棺を置いたものですが、盗掘され、出土遣物はほとんど残っていませんでした。もう一方は、「礫槨(れきかく)」で舟形に掘り込んだ竪穴に河原石を貼り付け、中央の空間に木棺を置いたものです。こちらは上に稲荷社があったためか盗掘されてなく、埋葬時の様子を完全に留めた状態で、金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土しました。
 外堀からは、多くの円筒埴輪や朝顔形埴輪、武人や巫女などの人物埴輪が出土しました。出土遺物から、古墳群中、最も古い5世紀後半から末の築造と考えられます。
 前方部は平成16年に復元されました。

上ります。
160721saki16.jpg


金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土した礫槨(れきかく)発掘場所。
160721saki17.jpg


こんな感じで埋葬されていました。
160721saki18.jpg


金錯銘鉄剣などの出土品については、あとで「さきたま史跡の博物館」のところで説明します。

もう片方の粘土槨発掘場所。
160721saki19.jpg


前方部は復元されたばかりなので、新しい感じです。そのはるか前方に富士山が見えました。
160721saki20.jpg


160721saki21.jpg


方形部分は、後円部からいったん下がって、また上がっています。
160721saki22.jpg


後円部から方形部先端まで、ゾロゾロ移動。
160721saki23.jpg


降りてからの、稲荷山古墳方形部の眺め。
160721saki24.jpg


稲荷山古墳横からの「丸墓山古墳」
160721saki25.jpg


続いて将軍山古墳。これは稲荷山古墳の後円部から眺めたもの。
160721saki26.jpg


将軍山古墳は、石室の中を見ることができます
160721saki27.jpg


【将軍山古墳】
160721saki28.jpg


将軍山古墳は、全長90m、復円部径39mの前方後円墳で、古墳群中4番目の大きさです。現在の墳丘は平成9年に復元されたものです。
墳丘と造出しには円筒埴輪や形象埴輪(教・盾・大刀など)が立て並べられ、土師器や須恵器が置かれていたと考えられます。
 明治27年(1894)に地元の人々によって石室が発掘され、馬具や武器、武具類、銅椀(どうわん)など豪華な謝葬品が出土しました。馬冑(ばちゆう・馬用の冑)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき・馬に装着する旗竿金具)、銅椀(どうわん)などは朝鮮半島との関わりの強い遺物です。その他に、甲冑や大刀の残片、各種馬具、ガラス玉などが出土しています。
 石室は横穴式で、天井石には緑泥片岩が、奥壁・側壁には房州石と呼ばれる千葉県富津市で産出した石材がそれぞれ使われています。出土遣物や石室の構造からみて6世紀後半の築造と考えられます。

外に置いてある埴輪も、草が茂っていてよくわからない。
160721saki29.jpg


2013年9月24日に訪ねたときは、ちょうど整備された後で、埴輪がよくわかりました。

稲荷山古墳の上から見た、将軍山古墳全景
160721saki30.jpg


方墳底辺の左端からの眺めが、起伏に富んでいていいですね。
160721saki31.jpg


望遠でひきつけると、迫力があります。
160721saki32.jpg


160721saki33.jpg


置かれている埴輪
160721saki34.jpg


石室に入ります。
160721saki35.jpg


入ると、説明のパネルあり。

整備される前の将軍山古墳。
160721saki36.jpg


出土した馬装品の説明
160721saki37.jpg


160721saki38.jpg


出土されたときの姿や出土したものの写真パネル。
160721saki39.jpg


二階の石室に上がります。
160721saki40.jpg


石室内部は埋葬されていた状態に復元されています。
160721saki41.jpg


【二子山古墳】
160721saki42.jpg


 全長138m、後円部径70m、後円部高13m、前方部高14.9mの前方後円墳で、古墳群の中でも、また武蔵国でも最大の古墳です。名称は、横から見ると二つの山のように見えることに困ります。
 周堀や墳丘の造出し周辺から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥など)の破片、土師器や須恵器の破片か出土しています。埴輪は鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯と東松山市の桜山窯から供給されたものです。
 築造時期は外堀の底に6世紀初頭に噴火した榛名山ニッ岳の火山灰が堆摸していることから、5世紀末と考えられます。一方、出土遺物から推定して、6世紀初頭とする説もあります。

周堀のふちに沿って歩きます。確かにデカイ。
160721saki43.jpg


二子山古墳では、気になっていた堀を見に行くと、たしかに空堀になっていた。
160721saki44.jpg


2013年9月24日に訪れましたが、それは少し前の朝日新聞の埼玉欄に、二子山古墳で内堀の水を抜いて埋め立て、空堀にする工事を進めているという記事がありました。それによると、浸食により墳丘外周の崩落が深刻になったためとあります。また出土した微生物の死骸から、6世紀初めに築かれたときは空堀だったと考えられており、埋め立てで当初の姿に戻るとも。

1968年に復元されたときに水堀として整備されたものだそうです。
2013年の記事にあった航空写真。
160721saki45.jpg


二子山古墳の全貌
160721saki46.jpg


その時は、上の図で右下隅のところから入っていきました。
内堀のところに来ると、埋め立てられてなにか作業をしています。(2013年当時)
160721saki47.jpg


方墳の底辺のところですが、発掘をしている感じですね。(2013年当時)
160721saki48.jpg


方墳の底辺の右端のところに戻り、内堀のまわりを人が歩けるようになっているので、反時計まわりに一周することにしました。

少し行くと、埋め立てが途切れます。こちらが早く埋め立てられたみたいで水辺には草がびっしり生えています。(2013年当時)
160721saki49.jpg


円墳の端まできました。

2013年当時の、円墳の外周を囲む内堀。
160721saki50.jpg


反対側まで来ると、向こうの方、方墳のところで埋め立てられているのが見えます。(2013年)
160721saki51.jpg


埋め立ての端まできました。こちらは埋め立てられたばかりですね。(2013年当時)
160721saki52.jpg


振り返って、円墳の周囲を眺めます。これが来年には水堀でなくなってしまうというわけです。(2013年当時)
160721saki53.jpg


というわけで、さきたま古墳群のなかで、かって唯一水堀に囲まれていた「二子山古墳」は、空堀となってしまいました。
保存上、仕方ないですが、なんだか寂しい。

【浅間塚古墳・前玉神社】
160721saki54.jpg


160721saki55.jpg


浅間塚古墳の上には、延喜式内社「前玉神社」があります。
この「前玉」⇒「埼玉(さきたま)」⇒「埼玉(さいたま)」となり、県名になっているわけです。

「前玉神社」については、既に記事にしてあります。

その記事を読む


【鉄砲山古墳】
160721saki56.jpg


 全長109m、復円部径55m、復円部高9m、前方部高10.1mの前方後円墳で、この古墳の周辺に忍藩の砲術演習場があったための名称です。
 発掘調査の結果、墳丘中段に埴輪列が巡っていたことが判明しました。また、墳丘西側のくびれ部付近に、古墳の名前の由来となった忍藩の砲術演習場の遺構が見つかり、約150発の弾丸が発見されています。忍藩はもともと、和流砲術が盛んな藩であり、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後には、江戸湾の第3台場の警備についていました。

【奥の山古墳】
160721saki57.jpg


 全長70m、後円部径34m、後円部高5・6m、前方部高6・0mの前方後円墳で、埼玉古墳群中2番目に小さい古墳です。渡柳三大墳を東から見たとき、一番奥に位置します。
 造出しから、多くの須恵器片が出土し、接合作業の結果、装飾付壷や高坏形器台であることがわかりました。
このような須恵器が東日本の古墳から出土することは非常に珍しく、大変貴重な発見です。
 周堀から円筒埴輪・形象埴輪の破片も出土しています。出土遣物から、6世紀中頃から後半の築造と推定されます。
160721saki58.jpg


160721saki59.jpg


160721saki60.jpg



【瓦塚古墳】
最後が、瓦塚古墳です。
全長73m、後円部径36.5m、後円部高5.1m、前方部高4.9mの前方後円墳で、平面形態を見ると、前方部が後円部に比べて大きく造られています。古墳の名前は、明治時代初期に瓦職人がこの付近に居住していたことに由来します。
 前方部前面の縁の真ん中が三角形に突き出た形状になっていて、古墳を大きく見せる効果があります。これは「剣菱形」と呼ばれる形状で、古墳時代後期の前方後円墳に見られます。剣菱形が確認されている古墳は、今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と全国でわずかです。
周堀や中堤から多量の円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・水鳥・鹿・犬・大刀・盾・家など)が出土しています。埴輪の他に、須恵器・土師器も出土しています。大半は造出周辺からで、高坏や提瓶(ていへい)、器台など供献用の土器であることから葬送儀礼に用いられたものと考えられます。出土遺物から、6世紀前半から中頃の築造と推定されます。
160721saki61.jpg


以上で、さきたま古墳群は終りです。

参考に、さきたま古墳群に関するシンポジウム、講演会の記事を載せてありますので、よかったらご覧ください。

○シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」

その記事を読む


○さきたま将軍山古墳と上総金鈴塚古墳-出土馬具を中心に/さきたま講座

その記事を読む


○須恵器からみた埼玉古墳群の葬送儀礼/さきたま講座

その記事を読む



(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



荒脛巾神(あらはばきがみ)/日本の神々の話

20160720

アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。

この神については、諸説あり、その要約をWikipediaから転載しておく。

○民間の俗説/足腰の神説
「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から「長脛彦」を祀るともされた。

○吉野裕子/蛇神説
吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説で唱えられているもの。
吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく 。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

○谷川健一/塞の神説
宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川は述べている。
さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」であり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけたともいっている。

○近江雅和/製鉄民説
先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。
近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。

○真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる。

荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。
これは、「客人神」の記事で説明している。

その記事を読む


また当然かもしれませんが、所沢市三ヶ島の「中氷川神社」に摂社「八坂神社(祭神:須佐之男命)」があり、
ここに、「荒脛社(あらはばきしゃ)」を合祀してあり、ご祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)、足摩乳命(あしなづちのみこと)と説明されている。

○「客人神」の記事のなかで、「荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある」と書いておきましたが、それは折口信夫氏の説です。
折口信夫氏は、次のように述べている。 「地主神みたいな、神杜以前の土着神―おそらく土地の精霊―を、かえって客神として取り扱う。だからあべこべに、ほんとうの後来神または、時あって来る神を客神、客人権現などいう名で示していないのだと思います」つまり、客人神というのは、後来の神ではなくて、神社の建つ前の地主神、もしくは土着神」だというのである。
この説明が、しっくりくる。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



客人神(まろうどがみ)/日本の神々の話

20160718

これは、単体の神の名称ではなく、神の位置づけの呼称。

平凡社の『世界大百科事典』から引用しておきます。
神社の主神に対して、ほぼ対等か、やや低い地位にあり、しかしまだ完全に従属はしていないという、あいまいな関係にある神格で、その土地に定着してから、比較的時間の浅い段階の状況を示している。
ふつう神社の境内にまつられている境内社には,摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)とがある。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である場合が多い。
客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅にまつられたり、〈門(かど)客神〉と称され随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴である。
東北・関東の〈荒脛巾(あらはばき)神〉、南九州の〈門守(かどもり)神〉などはその一例だが、なかには普通の境内社より大きな一社を別個にたててまつる例もある。
客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。
客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。
氷川神社の門客神神社、気比神宮の角鹿(つぬが)社、厳島神社の客神社、美保神社の客人神社などは、有名な大社にまつられた客神の代表例である。

ここでは、大宮氷川神社の摂社「門客神神社」について記しておく。

荒脛巾神(アラハバキ)については、別途説明する。

荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースが、埼玉県大宮の氷川神社で見られる。
この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。
『新編武蔵国風土記』には、現在の大宮氷川神社、その摂社門客人(まろうど)社の記述として、「いにしえは、荒脛巾神社と号せし」という記述があり、(荒脛巾神社を)「門客人社と改め、テナヅチ、アシナヅチの二座を配した」とある。

だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある。
氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。しかし、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したという説と、氷川は「ピカワ」から転訛したという説を双方とって、両者に全く繋がりはないという説もある(しかし、シカワ説もピカワ説も格別有力な説というわけではない)。
この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、氷川女体神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない。

現在、門客神神社の祭神は「足名椎命・手名椎命」とされています。八岐大蛇退治の際に登場するので皆さんよくご存じの稲田姫命の両親です。
これは氷川神社の祭神が須佐之男命・稲田姫命・大己貴命なので、摂社としてはふさわしい神だと云えます。
そして、荒脛巾神(アラハバキ)と「足名椎命・手名椎命」とは似通っているところがあります。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



古代蓮の里

20160717

所在地:埼玉県行田市小針2375番地1

家をのんびりと9時に出たら、土曜ということで圏央道から関越道に移る手前でもう行列となっていた。そこで東松山インター経由で行くのを変更して、圏央道をそのまま進み桶川で降りて、ナビを頼りに一般道を行き、10時半に到着。
ものすごく車が集まっていたのに吃驚したが、駐車場がたっぷりと用意されていたので、良かった。

園内は、すごく広くてびっくり。
160717hasu01.jpg


古代蓮としては、私は「大賀ハス」しか知らなかったので、それを移植したものかしらん、と思っていたが、それとは違うものだった。

「古代蓮の里」ホームページの説明:
1971年(昭和46年)
市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事をはじめました。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。
1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。 
5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。
6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。
6月23日 花柄が1本見つかる。
7月13日 開花
7月19日 花の数は合計52本となる。
市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。
(この辺は、すぐ近くに「さきたま古墳群」がある地ならではの、行政の対応でした。)
1974年(昭和49年)
3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼しましたが、期待したような結果を得ることはできませんでした。
1975年(昭和50年)
4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行いました。
2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果でした。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定しています。
(ただし、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。なお、現在種子を直接測定した最も古い古代蓮は中国の約1,300年前のものである。)

ふるさと創生事業 の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園「古代蓮の里」は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古代蓮会館」が開館した。

園内は広い。
160717hasu02.jpg


たくさん咲いていて、すごい。
160717hasu03.jpg


160717hasu04.jpg


蓮田のまわりは、芝生とか林があって、とても素晴らしい環境。
160717hasu05.jpg


行田蓮(古代蓮)は、花幹が長くてスックと立っている感じだ、
160717hasu06.jpg


160717hasu07.jpg


大きな展望タワーと。
160717hasu08.jpg


展望タワーに上がろうと思ったが、整理券が発行されている状況だったので、あきらめた。

行田蓮の花は綺麗だ。
花びらは17~18枚。大賀ハスよりも色は濃い。
160717hasu09.jpg


蕾から順に。
160717hasu10.jpg


160717hasu11.jpg


160717hasu12.jpg


160717hasu13.jpg


160717hasu14.jpg


160717hasu15.jpg


160717hasu16.jpg


160717hasu17.jpg


年齢のせいか、散り際も気になる(笑)
160717hasu18.jpg


一枚だけ、散りたくないと抵抗している(笑)
160717hasu19.jpg


散ったあとも綺麗だ。
160717hasu20.jpg


160717hasu21.jpg


160717hasu22.jpg


カミさんと話していて気が付いたが、花が萎れたり汚れたりしていないので、蓮の花は綺麗だ。
ということは・・・・・・・・・?

探して見ると、花びらは確かに綺麗なカタチのときに散っている。
160717hasu23.jpg


160717hasu24.jpg


だから、蓮の花は「清浄無垢」な花なのだ。

花びらを大きな葉の下をのぞいて探していたら、昨日の雨のしずくが葉の上にまだ残っているのに気が付いた。
160717hasu25.jpg


160717hasu26.jpg


こんな巨大なしずくの塊もあった(笑)
160717hasu27.jpg


行田の蓮を十分見終わって、最後に「世界の蓮園」で、他の蓮の花も見た。

「アメリカ黄蓮」
花弁数17~20枚。黄色。
160717hasu28.jpg


160717hasu29.jpg


「西湖蓮」
花弁数100~200枚! 白八重咲き種。
160717hasu30.jpg


160717hasu31.jpg


160717hasu32.jpg


160717hasu33.jpg


160717hasu34.jpg


「中国古代蓮」
花弁数24~26枚。色はピンク。
160717hasu35.jpg


160717hasu36.jpg


「漢蓮」
花弁数50~100枚。白の八重咲き種。
160717hasu37.jpg


160717hasu38.jpg


160717hasu39.jpg


「小舞妃蓮」
花弁数16~18枚。色は淡黄色で弁先は紫紅色。
160717hasu40.jpg


160717hasu41.jpg


160717hasu42.jpg


160717hasu43.jpg


蓮にも、色々と種類があって、蓮の綺麗なカタチにも色々あることがわかり、満足しました。

(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



羽山戸神(はやまとのかみ)/日本の神々の話

20160712

『古事記』によると、大年神の子である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(またの名は夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
羽山戸神と穀物神である大気都比売神との婚姻によって生まれた神々は植物の成育を示しており、 羽山戸神が、山裾の肥沃な土地の神であると想像できる。

これに該当する『古事記』の記述は、「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段である。
(読み下し文)
かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
 上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。
 羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。
 上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神。

妻の大気都比売神は、食物起源神話のヒロイン。
この大気都比売神は、須佐之男命に、殺されてしまいます。
『古事記』(読み下し文)
「 また食物を大気都比売神に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して、種々作り具へてた進(たてまつ)る時、速須佐之男命その態(わざ)を立ち伺ひて、穢汚(けが)して奉進るとおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれ、ここに神産巣日の御祖命、これを取らしめて種ど成したまひき。」

しかし、殺された大気都比売神の体から、いろいろな穀物が生えてきたのです。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



浅草寺「四万六千日」&下町七夕まつり

20160710

7月9日(土)に、歴史クラブ行事として催行されました。
前日から、雨の予報だがどうしようと、スタッフでやきもきしましたが、せっかくの「功徳日」でもあり、小雨位なら決行しようとなりました。

朝起きた時は、雨は止んでいてホッとしたのですが、浅草に着いたときには雨(泣)

仲見世も傘の行列です。
160710asakusa01.jpg


160710asakusa02.jpg


今日は縁日とあって、宝蔵門もすごい人だかり。
160710asakusa03.jpg


宝蔵門から入ったところで、長老から薀蓄の披露がありました。
160710asakusa04.jpg


浅草寺には、室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。
中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ございますが、定説はありません)。

まずは参拝
160710asakusa05.jpg


本堂は、すごい人の波。
160710asakusa06.jpg


四万六千日と雷除の縁日です。
160710asakusa07.jpg


「雷除」については、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになりました。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」のご縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っています。

本堂の中は、人波でお賽銭箱に近づくのも大変(笑)
160710asakusa08.jpg


四万六千日の9日・10日限り授与される「雷除札」をいただきました。
160710asakusa09.jpg


160710asakusa10.jpg


160710asakusa11.jpg


本堂を出ると、押し寄せてくる人の波がすごい。
160710asakusa12.jpg


「ほおずき市」を楽しみました。
160710asakusa13.jpg


160710asakusa14.jpg


160710asakusa15.jpg


160710asakusa16.jpg


お隣の、三社祭で有名な「浅草神社」にもお参り。
参道には、七夕飾りが林立(笑)
160710asakusa17.jpg


160710asakusa18.jpg


160710asakusa19.jpg


待ち合わせ場所の宝蔵門に行くと、艶やかな浴衣姿につられて、ついパチリ(笑)
160710asakusa20.jpg


160710asakusa21.jpg


浅草寺を出ようとして、スカイツリーが目に入った。上は雲で隠れていた。
160710asakusa22.jpg


浅草寺を出て、かっぱ橋本通りに行く途中で、昼食のお店を物色。
女性軍は「かき小屋」を発見。生牡蛎と牡蠣のフライを楽しんだ。
男性軍は今半でスキヤキを堪能。

「下町七夕まつり」のかっぱ橋本通りにやってきました。
160710asakusa23.jpg


160710asakusa24.jpg


残念ながら、雨のため七夕飾りも元気が無い。
160710asakusa25.jpg


この通りは、通りの向こうにスカイツリーが見えるのが売り。
さっきより、雲が下に来ている。
160710asakusa26.jpg


あちこちにカッパが居ます。
160710asakusa27.jpg


ここで、ハーレーのパレードに遭遇。
唯でさえハーレーは迫力があるのに、サイドカー付きで満艦飾でした。
すごかった。
160710asakusa28.jpg


160710asakusa29.jpg


160710asakusa30.jpg


「かっぱ寺」を皆さんに案内できると思っていたら、なんと門が閉じられていて中に入れず(泣)
残念!!

「台東区のヘソ」のところにある「かっぱの乙女」
人気があります。
160710asakusa31.jpg


160710asakusa32.jpg


本当は、「越中おわら節」を見たかったところですが、雨の中2時間くらい待っているわけにもいかず、上野駅入谷口まで歩いて、終了としました。

私は、富山県が故郷なので、「越中おわら」は何度も見ています。
今回、「越中おわら」が見られなくて残念な方は、その記事をご覧ください。

その記事を見る



(了)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



梅宮神社

20160708

鎮座地:狭山市上奥富507

まず、江戸時代に編纂された『新編武蔵武蔵風土記稿』に載っている図によれば、現在の赤間川の位置に神橋があり、そこから真っ直ぐに参道が延びていたことがわかる。
160708umemiya01.jpg


160708umemiya02.jpg


160708umemiya03.jpg


この場所に、かっては神橋があった。
160708umemiya04.jpg


江戸時代には、ここから真っ直ぐに参道があった。
160708umemiya05.jpg


ここに「舗石供養塔」があるが、天保12年(1841)造立のものなので、ここからの参道に舗石を奉納した記念の碑であろう。
160708umemiya06.jpg


一の鳥居
160708umemiya07.jpg


由 緒:
 当神社の創建は古く承和(じょうわ)5年(838)といわれ、京都市右京区の桂川沿いに鎮座する梅宮大社から分祀したものです。広瀬神社と並んで市内で最も古い神社の1つです。
かっては奥富のほか三ツ木、沢、田中、峰の総鎮守であったとのことです。
 また当神社に遺されている鰐口の銘文から当初は西方滝(にしかたたき)、現在の狭山清陵高校付近に鎮座していたと推察されます。その後、天文年間(1532~1555)の中頃に社殿を焼失したため現在の地に移ったといわれ、氏子も次第に近隣に移住してきたものと思われます。
なお、当神社は酒造、安産、林業、農業、交通守護の神として崇拝されています。

二の鳥居
160708umemiya08.jpg


二の鳥居をくぐると、参道には石灯篭3組、手水舎、狛犬が並ぶ。
160708umemiya09.jpg


最初の石灯篭一組は、元文2年(1737)に「上奥富村」と「下奥富村」の氏子によって奉納され、「梅宮大明神御寶前」と刻まれている。
160708umemiya10.jpg


手水舎
160708umemiya11.jpg


160708umemiya12.jpg


狛犬(奉納年不明)
160708umemiya13.jpg


160708umemiya14.jpg


160708umemiya15.jpg


子犬と手が離れてしまっているのが、ご愛嬌(笑)
160708umemiya16.jpg


160708umemiya17.jpg


拝殿
160708umemiya18.jpg


拝殿内部
160708umemiya19.jpg


ここで、拝殿内などにある三つの市文化財について説明。

○鰐口(わにぐち)
160708umemiya20.jpg


円形で偏平な形をした銅製品で、下部には横長の口があります。社殿や仏殿前の軒下につるされ、布で編んだ綱を振って打ち鳴らす仏具の1つです。
当神社の鰐口は昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・工芸品として指定されました。
この鰐口は、かつては当神社の別当寺であった梅宮寺(廃寺)が所有していました。直径は14cmと小型で、しかも片側が欠損していますが、残された部分に応永33年(1426)5月3日の銘があり、また彫られた銘文からかつて梅宮神社は奥留の西方滝と呼ばれる場所にあり、当時は入間郡の一部を入東(にっとう)郡と称していたことがわかるなど、奥富地区の歴史を知るうえで貴重な資料となっています。

○神号(しんごう)
160708umemiya21.jpg


梅宮神社と書かれた神号は、右から左に陽刻したもので、文字は金泥で書かれています。大きさは縦が43.7cm、横が115.6cmのケヤキ材で出来ており、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・書跡として指定されました。
筆者は亀田鵬斎(かめだほうさい)で、宝暦2年(1752)に江戸の生まれとされていますが、一説では上野国ともいわれる儒学者です。折衷学派と呼ばれ、孔子の説を中心に据えながらも自身で学んだ事や判断を重視するものです。23歳の時に私塾を開設して多くの旗本や御家人が入門しましたが、鵬斎自身は生涯仕官をしませんでした。著書には「論語撮解(さっかい)」などがあります。
また江戸時代を代表する「書」の名手で、特に草書は虹矧(みみず)書きと呼ばれ、近世を通じての名手ともいわれています。欧米の書の収集家からは「フライングダンス」と呼ばれています。
 鵬斎の書による神額がいつごろ書かれたか、どうして当神社にあるのかは不明です。書が評判となるのは鵬斎が荻生狙彿(おぎゅうそらい)を排撃して朱子学を批判したため、「寛政異学の禁」で弾圧を受けた以後、旅先の出雲崎で良寛に出会ってからなので、神号の書跡も晩年の作(没年は文政9年(1826))と推察されています。

○桃園三傑図
160708umemiya22.jpg


拝殿に掲げられている桃園三傑図(とうえんさんけつず)は、中国の三国時代(3世紀)の初めに蜀(しょく)の英雄劉備玄徳(りゆうびげんとく)と、勇猛な武人として知られる 関羽、張飛の2人が、桃の木の下で義兄弟の盟約を結ぶさまを描いた絵画です。この絵画の大きさは縦125cm、横180cmで、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
絵の中央に酒肴(しゆこう)を画き、その回りの中央上に玄徳、向かって右に関羽、左に張飛を描いています。一般的には「桃園の誓い」とか、「桃園結義」と称されています。
作者は雲谷派(うんこくは)の画家、堤等琳(つつみとうりん、号を雪山(せつざん))で江戸時代後期の人です。同派は雲谷等顔(うんこくとうがん)を開祖とする江戸時代の画派で、主に中国から北九州地方を活躍の場としていました。雪舟の画法を忠実に守り、真に力強く押しつけるような墨線(ぼくせん)や墨色に特徴があり、その特徴はこの三傑図にも見られます。

拝殿には、こんな額もあり、猫の描写が秀逸。
160708umemiya23.jpg


160708umemiya24.jpg


拝殿の背後に、覆い屋で覆われた本殿がある。
160708umemiya25.jpg


160708umemiya26.jpg


拝殿と本殿とは橋で結ばれている。
160708umemiya27.jpg


本殿は彫刻が立派な流れ造り。
160708umemiya28.jpg


160708umemiya29.jpg


前扉には、神紋の桃が彫刻されている。
160708umemiya30.jpg


160708umemiya31.jpg


海老虹梁と、その上の「手挟み(たばさみ)」の彫刻も良い。
160708umemiya32.jpg


向拝柱の木鼻彫刻が素晴らしい。
獏の牙の長いこと!!

向かって左側
160708umemiya33.jpg


160708umemiya34.jpg


向かって右側
160708umemiya35.jpg


鳥の彫刻が三面に。
160708umemiya36.jpg


160708umemiya37.jpg


160708umemiya38.jpg


床下束の木鼻の彫刻は亀となっている。
160708umemiya39.jpg


160708umemiya40.jpg


160708umemiya41.jpg


本殿のすぐ背後、玉垣の中に神木。
枯れた太い幹から、それでも生きた枝が出ているのがありがたい。
160708umemiya42.jpg


160708umemiya43.jpg


ご祭神(括弧内は別名):
・瓊々杵尊(大若子神)
・彦火々出見尊(子若子神)
・大山祇神(酒解神さかとけのかみ)
・木花咲耶姫命(酒解子神)

ちなみに、本社京都の梅宮大社のご祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神となっています。
狭山市の梅宮神社の場合は、わかりやすい神名にしているわけです。

※当神社の甘酒祭りは、毎年厳冬の2月10日・11日の2日間にわたり執り行われます。甘酒祭りは全国的に行われており、珍しいものではありませんが、「頭屋制」という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で1200年前の平安の昔よりそのまま継承して挙行されているところから、平成4年(1992)3月11日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。

このとき、祭事は領主、神官、役人を正座とする饗宴型で、一献ごとに優雅な謡を謡われます。
160708umemiya44.jpg


その謡の一部を紹介しておきます。
160708umemiya45.jpg


160708umemiya46.jpg


甘酒祭りの様子は、既に記事にしてあります。

その記事を読む



境内社は、八坂神社、蚕影神社、愛宕神社、三峰神社、山の神社、御嶽神社、松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社があるとの情報ですが、はっきり確認できるのは石碑の松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社のみです。

他は表示が無いため、どれがどれかは不明です。
160708umemiya47.jpg


160708umemiya48.jpg


160708umemiya49.jpg


160708umemiya50.jpg


松尾神社(石碑)
 松尾神社の石碑は京都の松尾大社を勧請したもので、明治13年(1880)に建てられました。梅宮神社とともに酒造り神として有名です。全高は170cm、幅が68cmです。
祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)で、台座正面には入間川村の長木屋銀次郎、上奥富村の長木屋吉蔵と白井藤太郎の計3名の清酒醸造人の名前が刻まれています。
160708umemiya51.jpg


阿夫利神社
160708umemiya52.jpg


【富士塚】
社殿の向かって左側に富士塚があります。
160708umemiya53.jpg


ほどほどの高さがあり。
160708umemiya54.jpg


登り口
160708umemiya55.jpg


二合目の合目石
160708umemiya56.jpg


参道は、わりと広い。
160708umemiya57.jpg


五合目に「小御嶽神社」碑
160708umemiya58.jpg


石段を上がります。
160708umemiya59.jpg


「書行藤覚(長谷川角行)」と「烏帽子岩入定 食行身禄」碑
160708umemiya60.jpg


頂上の「富士嶽神社」
明治13年建立でした。
160708umemiya61.jpg


160708umemiya62.jpg


頂上の石垣
160708umemiya63.jpg


富士講碑
160708umemiya64.jpg


160708umemiya65.jpg


富士塚のまわりは林になっていて、当然富士塚からは富士山は見えない。

しかし、一の鳥居のところからなら、綺麗に富士山が見えます。
160708umemiya66.jpg


160708umemiya67.jpg



(了)


「狭山市の歴史を訪ねる」に飛ぶ



吉見神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

20160705

鎮座地:埼玉県熊谷市相上1639-1

7月2日(土)に、「武蔵国式内社めぐり」で参拝しました。
宮代町にある「姫宮神社」に参拝したあと、ナビまかせで、途中昼食休憩をしながら移動しました。

吉見神社は県道257号線を道なりに北上し、和田吉野川の橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見えます。
160705yoshimi01.jpg


一の鳥居
この吉見神社は延喜式内社「横見神社」の論社、比定社とされている。
160705yoshimi02.jpg


一の鳥居から参道を少し行くと、墓地があるが入り口に狛犬があるので、注目すると「須長家奥津城」とあるので、代々宮司をされている須長氏の墓地であることがわかった。
160705yoshimi03.jpg


160705yoshimi04.jpg


『大里郡神社誌』に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。

参道を直進すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
160705yoshimi05.jpg


神社に参拝する前に、土手に上がってみると、土手がTの字になっていることがわかる。
和田吉野川は、この堤が突き当たった向うである。
160705yoshimi06.jpg


二の鳥居
160705yoshimi07.jpg


熊谷市相上(あいあげ)地区は荒川の南に位置し、国道407号線上に隣接している冑山神社に近く、行政区域としては熊谷市だが吉見町との文化的、経済的にも繋がりが濃い。この相上地区に吉見神社が鎮座している。 

この近くには、縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。

 『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だった。

『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。
 和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。

二の鳥居から入ると、右手に慶應2年(1866 明治改元の2年前)に建てられた「奉納 永代御供米田地」の碑があり。
160705yoshimi08.jpg


二つの小さな石祠あり。
読むと、「豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)」と「櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)」とあるので、「門神」である。
160705yoshimi09.jpg


160705yoshimi10.jpg


境内の様子
160705yoshimi11.jpg


一段上がった玉垣の中に社殿あり。
160705yoshimi12.jpg


玉垣前に二基の石灯篭があり、背面に刻まれた説明を読むと、明治期に出征したこの地域の人を偲ぶものであった。
160705yoshimi13.jpg


社殿は、遥拝所、拝殿、本殿という構成
160705yoshimi14.jpg


遥拝所で参拝
160705yoshimi15.jpg


ご祭神は、神明社だったということなので天照大神となる。

拝殿
160705yoshimi16.jpg


本殿
160705yoshimi17.jpg


破風板の拝懸魚と降り懸魚は何を形どったものだろうか。
160705yoshimi18.jpg


本殿背面
160705yoshimi19.jpg


背後に小道あり、入ってみる。
160705yoshimi20.jpg


小さな沼あり。
ここには藤原長盛の大蛇退治の伝説があるそうだ。
『新編武蔵風土記稿』相上村の項には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものではないかと思う。
160705yoshimi21.jpg


そこから、和田吉野川の堤防まで草地。和田吉野川の堤防は改修工事が行われていた。
160705yoshimi22.jpg


神木のスダジイ
160705yoshimi23.jpg


160705yoshimi24.jpg


境内には、摂社・末社が非常に多い。
これは、明治39年(1906年)の勅令によって神社合祀政策が強引に進められたからである。

社殿右手前に摂社の三社
天神社
160705yoshimi25.jpg


東宮社
160705yoshimi26.jpg


伊奈利神社
160705yoshimi27.jpg


160705yoshimi28.jpg


社殿右手の末社群
詳細は不明。祀られているものの、かなり寂れている。
160705yoshimi29.jpg


160705yoshimi30.jpg


社殿左手の末社群
やはり詳細は不明。祀られているものの、かなり寂れている。
160705yoshimi31.jpg


160705yoshimi32.jpg


社殿左手の末社群から、更に下がって末社群があるが、幸い石祠には神名が刻まれてあり、社名は明らか。
安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などがある。
160705yoshimi33.jpg


八幡宮
160705yoshimi34.jpg


不明
160705yoshimi35.jpg


天満宮
160705yoshimi36.jpg


寛政3年(1791)建立の「牛頭天王」
160705yoshimi37.jpg


辨才天女宮
160705yoshimi38.jpg


「頭大宮」
これが参った。何の神様かわからない。
160705yoshimi39.jpg


金毘羅大神社
大天狗、小天狗が従っているのが変わっている。
160705yoshimi40.jpg


天神宮
160705yoshimi41.jpg


本殿横にある石碑。「鈴水神楽記」とあります。
160705yoshimi42.jpg


160705yoshimi43.jpg


ここ吉見神社の相上神楽は、大里村の無形民俗文化財に指定されているので、それの石碑だと思われます。
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。
160705yoshimi44.jpg



(了)


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



姫宮神社(延喜式内論社)/埼玉県南埼玉郡宮代町

20160703

鎮座地:埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373

7月2日(土)に、「武蔵国式内社めぐり」で参拝しました。
圏央道を「白岡菖蒲」インターで降り、ナビにインプットした近くの小学校を頼りに車を進めて、無事到着しました。
160703hime01.jpg


すると、鳥居前右手に石仏群があり、その中に二基の庚申塔がありました。
庚申塔については、かなりの関心を持っているので放っておけません(笑)
160703hime02.jpg


文化四年(1807)造立の庚申塔 台越村講中
160703hime03.jpg


享保17年(1732)造立庚申塔 台越村講中
160703hime04.jpg


さて、姫宮神社です。

社号標
160703hime05.jpg


延喜式内論社: 武蔵国埼玉郡鎮座 宮目神社

天長5年(824)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神としたのが創建とされている。

当社は、かつて旧百間(もんま)領の総鎮守であったことから、昭和30年旧須賀村と合併の際、「姫宮」の宮をとり現町名の一部とした。新編武蔵風土記稿等によれば、祭神は多気利姫・多気津姫・市杵島姫の三柱の姫を祀る。神体は釣境三面を掛けおくとあるが明らかでない。
一説に、当社は延喜式(平安時代の法令集)にある埼玉郡宮目神社とも言われているが、騎西町に宮目神社があり明らかではない。

説明板
160703hime06.jpg


160703hime07.jpg


160703hime08.jpg


両部式鳥居
160703hime09.jpg


160703hime10.jpg


鳥居の前に、一対の嘉永5年(1852)奉納の石灯篭があるが、「火袋」の部分が無い。失われたのだろうか。
160703hime11.jpg


参道は細長く、真っ直ぐ。
160703hime12.jpg


手水舎
160703hime13.jpg


手水鉢には、こう刻まれている。
「奉納御寶前 干時享保四年五月吉日 粕壁前町 野口半兵衛」
享保四年は1719年、粕壁は今の春日部か。
160703hime14.jpg


小石がたくさん積まれているが、その意味はわからない。
160703hime15.jpg


拝殿前
160703hime16.jpg


拝殿前に力石あり。
正徳5年(1715)奉納。右側が33貫(123Kg)、左が43貫(163Kg)
160703hime17.jpg


拝殿前の狛犬は、天保12年(1841)奉納のもの。
足の爪とか毛並みとかの造形が素晴らしい。
160703hime18.jpg


160703hime19.jpg


160703hime20.jpg


160703hime21.jpg


160703hime22.jpg


160703hime23.jpg


拝殿
160703hime24.jpg


160703hime25.jpg


160703hime26.jpg


160703hime27.jpg


向拝柱に榊を供えてあるのがいい。
160703hime28.jpg


社額
160703hime29.jpg


拝殿には、多数の絵馬がみられて、その絵馬は、神に祈願または恩がえしの記として奉納する絵の額である。当社には、寺子、伊勢まいり、富士などの絵馬があり、まゆ玉の現物や硬貨(一文銭)を用いて造られたものなどもある。さらに、文化年間の俳句の絵馬(南枝の時代)、杉戸町本郷の処土大作暢書も掲げてある。
とのことだが、覗いても残念ながら拝殿の中は真っ暗で何も見えない。
実に残念だった。

本殿は覆い屋の中にあり。
160703hime30.jpg


残念ながら、覆い屋によって本殿の正面部分はまったく見ることが出来ない。
側面などから、或は彫刻など素晴らしいのではないかと思うのだが、いかにも残念。
160703hime31.jpg


側面の彫刻
160703hime32.jpg


本殿背面
160703hime33.jpg


本殿背面にも賽銭箱あり。
160703hime34.jpg


ご祭神は、多記理姫命、多記津姫命、市杵嶋姫命
宗像三女神ということになります。

本殿の蟇股の彫刻が干支になっている。


160703hime35.jpg



160703hime36.jpg



160703hime37.jpg


あとはピンボケになっていたり、元々本殿の前面はまったく見えないので、全部は確認できなかった。

神紋は「丸に鶴」
160703hime38.jpg


続いて境内社になります。

鹿島社・香取社
160703hime39.jpg


160703hime40.jpg


160703hime41.jpg


天神社
160703hime42.jpg


地主社
ご祭神:大地主神(おおとこぬしのかみ)
160703hime43.jpg


八幡社
ご最新:誉田別尊
八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。
160703hime44.jpg


160703hime45.jpg


160703hime46.jpg


160703hime47.jpg


三峰社
ご祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命
160703hime48.jpg


稲荷社
ご祭神:宇迦之御魂大神
160703hime49.jpg


160703hime50.jpg


神社の脇を、東武スカイツリーラインの電車がひっきりなしに通るので、けっこう賑やかだった。
160703hime51.jpg


これで、当社の参拝を終え、次の参拝地熊谷市にある「吉見神社」に向かいました。


神社巡拝記事一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop