大物主神(おおものぬしのかみ)/日本の神々の話

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『古事記』では、最初「御諸山の神」と書かれ、後には「大物主神」の名で登場する。
『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。
『出雲国造神賀詞』では「倭大物主櫛瓺玉命」という。
別名:三輪明神。

大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰の古い神の一柱とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。

『古事記』の「大国主神」の巻、「少名毘古那神と御諸山の神」の段
大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。

『古事記』の「神武天皇」の巻、「伊須気余理比売」の段
三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となった。

『古事記』の「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主神」の段
崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。なお、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。
この意富多多泥古が神の子孫だと知ったわけは次のとおりである。
活玉依比売(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
この意富多多泥古命は、神君、鴨君の祖先である。

『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫命との神婚譚が記されている。
百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。

明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

「日本書紀」神功皇后摂政前紀において、気長足姫尊が筑紫に大三輪神社を創祀したところ新羅遠征のための軍兵がうまく集まったとの記述がある。このことから、大物主は水神であるとともに軍神・国の守護神であったことがうかがえる。

日本酒の造り酒屋では風習として杉玉を軒先に吊るすことがある。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれる。

戸矢学氏が『縄文の神』に書かれている解釈を要約で載せておく。
オオモノヌシは名前ではないだろう。「オオ」は強調であり、「モノ」はカミであり、「ヌシ」は当地の主宰者を表している言葉であるから、固有名詞ではない。漠然とした代名詞と考えるのが妥当だろう。
「物」とは、物部(もののふ)のことである。武力・軍事に長けた者、という意味である。これが民族名になるのは後のことだ。
それでは「偉大なる物部の主」とは、誰のことか。それは、物部氏の氏視であるウマシマジの伯父であり、後見人でもある長髄彦(ながすねひこ)である。長髄彦の本来の名は、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)、登美毘古(とみぴこ)である。ニギハヤヒが降臨した鳥見自庭山とみのしらにわやま(現・生駒)を本拠としていたことによる名であろう。
三輪山の神こそは長髄彦である。崇神王朝に崇りを為した「神宝」こそは、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。そして、崇り神として鎮魂されている。正体を蛇としているのはその証しだ。蛇体すなわちオロチと呼ばわるのは定める意図があってのものであって、その意図とは「崇り神」である。
三輪信仰の本質も、崇り神であって、だからこそ手厚く祀れば強力な守護神となるというのは、御霊信仰の原理である。
すなわち、かつてこの地に存在した三輪王朝こそは、長髄彦王朝であろう。
物部神社は祖神・ニギハヤヒを祀らない。それは無関係だからである。本来は長髄彦から祀るべきであるが、ヤマト朝廷を憚って、あえてウマシマジから始まるかのように装ったのだ。三輪山の神の名をオオモノヌシとするのは、尊称であろう。名前ではなく長髄彦の尊称だ。「偉大なる物部の主」という一種の代名詞である。それゆえに、本来は三輪山でしか用いられない呼び名であった。
そして、ウマシマジは神武に統治権を禅譲した。長髄彦軍による勝ち戦を、わざわざ放棄して、大将軍の長髄彦を殺してまで勝ちを譲っている。しかし、そんな馬鹿げた選択はあるはずもない。記・紀においての「不自然な記述」は、何らかの隠蔽工作があったことの痕跡なのである。


大物主神を祀る神社で今まで参拝したのは下記。
・入間川八幡神社境内・琴平神社
・武蔵国式内社・阿伎留神社(東京都あきる野市五日市)
・上野国式内社・美和神社(群馬県桐生市)
・尾張国一之宮・大神神社(愛知県一宮市)


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尾張国一之宮・大神(おおみわ)神社

20160830

鎮座地:愛知県一宮市花池2-15-28
参拝日:2016年8月4日

青春18キップの旅三日目、やはり朝早く目が覚めたので、ホテルで朝食後すぐに出発。JRではここ尾張一宮から徒歩20分となっていて、名鉄なら次の駅の「妙興寺」から徒歩10分となる。体力温存のため名鉄を使うことにした。名鉄一宮駅で電車に乗ったのは、計画より1時間早い7:39だった。次の駅「妙興寺」で下車、徒歩10分で到着。

社号標
社格等:式内社(名神大)、尾張国一宮、 旧郷社
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拝殿前の由緒書きには、こうあり。
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崇神天皇の御代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。大和の國一の宮大神神社の祭神で、三輪の神とよばれ、大國主神(大國様)の別名がある。
大和の大神神社と同じく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。鎮座地の花池は水が美しく、蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。
奈良時代に國司が赴任して、國中の神社を代表として、國府宮の「尾張大國霊神社」を尾張の總社に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張の一の宮」に指定した。「文徳実録」「尾張國帳」には従一位大名神とあり三宮明神、三明神へ神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があったと称せられ、延長5年延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。
尾張の國中には、大名神八座、小一二三座あって、当時の大名神八座の内の一座である。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「大神神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
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『妙興寺文書』「中島長利寄進状」(観応元年(1350年))では、大神の地はと塚(現・一宮市大和町戸塚)の北東部になるとあり、この記載が名神大社比定の傍証になる。一方、他の名神大社と異なり『延喜式』臨時祭 名神祭条では当社の記載がないため、神名帳の「名神大」を衍字と見る説もあるが、肯定説では『貞観式』や臨時祭式の成立後に当社が名神大社の列に加わったためと推測する。また『和名抄』に見える郷名のうちで、当地を中島郡美和郷にあてて「みわ(神/美和)」のつながりを見る説が古くからあるが、『新編 一宮市史』では拝師郷または川埼郷にあてる。

明治5年(1872年)5月には近代社格制度において郷社に列した。現在では尾張国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している(ただし一般的には尾張国一宮は真清田神社とされる)。これに関して大神神社側では、真清田神社・大神神社が対の宮であったとし、ともに一宮となったと主張している。
現在神職は常駐しておらず、一宮市内の大神社の宮司が兼務する。

入り口に灯明台が左右にあり。
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右にあるのが、安政5年(1858)に氏子中奉納のもの。
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左が驚いたことに「武州新座郡野火止平林寺16世大和尚」奉納となっている。安政4年(1857)奉納。
この尾張の地で、平林寺の名前を見て驚いた。
この神社の別当寺と関係があったのであろう。
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鳥居
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手水舎
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祓所
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拝殿前には、大きな石灯篭と狛犬が並ぶ。
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巨大な石灯篭2基は、大正3年奉納のもの。
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同じく大正3年奉納の狛犬。
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吽型の狛犬に子犬が手にじゃれている様子がいい。
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拝殿
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神号額には「大神大明神」とあり。
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拝殿内部
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本殿
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ご祭神は、大物主神で、奈良の大神神社と同神とするのが通説。
他には、火明命十世孫にあたる「大美和都禰命」を祀るとする説もある。
火明命の後裔であれば、尾張氏と同祖であるから、当地において大神と称されても当然と思われる。

神紋は奈良桜井市の大神神社と同じ三杉である。
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ここには、文化12年(1815)造立の木造狛犬があるとのこと。
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境内社は、本殿に並び瑞垣の内にあります。

六所社(ご祭神:豊受大神、応神天皇、天児屋根神、倉稲魂神、武甕槌神、底筒男神)
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三島社(ご祭神:大山祇神)
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白山社(ご祭神:伊弉冉神)
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神明社(ご祭神:天照皇大神)
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神馬
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境内にあった招魂社に思わぬ拾いものがありました。
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慶應2年(1866)奉納の狛犬。
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不思議なことに、尾の形が左右違います。
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社殿に相対する位置に、「蕃塀」があった。
蕃塀は、神社の一施設で、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い塀である。「不浄除け」、「透垣」、「籬」などとも呼ばれる。正殿を直視しない(できない)ようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために造られたと思われるが、正確な目的は不明である。辞書などでは「蕃塀」は伊勢神宮のものを指すことが多い。
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これで参拝を終え、また名鉄「妙興寺」駅に戻ったが、その途中ここの地名「花池」に誘われ、道沿いの民家の庭に咲いている花を撮りながら行った。
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「妙興寺」から「名鉄一宮」に戻り、JRで「尾張一宮」から「熱田」駅まで移動。
今回の青春18キップの旅での最後の訪問地「熱田神宮」に向かいました。



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天火明命(あめのほあかりのみこと)・火明命(ほあかりのみこと)/日本の神々の話

20160828

『古事記』には天火明命、『日本書紀』には火明命、天照国照彦火明命、また『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)と記されている。 
尾張氏(尾張連)、海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。

『古事記』によれば、天火明命はアメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれている。
『古事記』、「邇邇芸命」の巻「邇邇芸命の生誕」の段
(現代語訳)
 そこで天照大御神と高木神の仰せによって、日嗣の御子のマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ命に対して、「今、葦原中国を平定し終ったと申して釆た。だから、先に委任したとおり、その国に天降ってこ統治なさい」 と仰せになった。
 ところが、その日嗣の御子のアメノオシホミミノ命が答えて申すには、「私が天降ろうと支度をしている間に、子が生まれました。名はアメニキシク二二キシアマツヒコヒコホノ二二ギノ命と申します。この子を降すのがよいでしょう」と申し上げた。この御子は、アメノオシホミミノ命が、高木神の女のヨロヅハタトヨアキツシヒメノ命と結婚なさって生んだ子で、アメノホアカリノ命と、次にヒコホノ二二ギノ命の二柱である。こういうわけで、オシホミミノ命の申されたとおりに、ヒコホノ二二ギノ命に仰せ言を下して、「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。

ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。 

また『先代旧事本紀』では、穂積臣、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。 
一方、『播磨国風土記』ではオホナムチの子とする。

名前の「天照国照」「火明」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である。
また、本居宣長の『古事記伝』では「ホアカリ」は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前でもあり、太陽神、農業神として信仰されている。 
このようなことから天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としていることが伺える。
「天照」の名があるが「天照大神」とは別の神である。元伊勢の籠神社では、主祭神を「天照国照彦火明命」とし、相殿神に「天照大神」としてそれぞれ別の神としている。

祀る主な神社としては、
真清田神社(愛知県一宮市)
住吉大社(大阪市住吉区) - 住吉三神を祀る。住吉大社を創建した田蓑宿禰は尾張氏の一族であり、その子孫が住吉大社の歴代宮司家としての津守氏である。
また全国の天照御魂神社は天火明命を祀るところが多い。

始祖とする氏族:
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、天火明命の御子「天香山命(あめのかぐやまのみこと)」の時に定住し、真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
尾張氏(尾張連)・津守氏、海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。
穂積氏、物部氏の祖であるニギハヤヒと同一ともいわれる。


※「火明命」で注意することがある。
『播磨国風土記』に登場する「ホアカリ」である。
『播磨国風土記』には、出雲王国に属する神々の分裂や争いの話を多く載せている。オオクニヌシとその子、ホアカリのすさまじい争いの話がある。
そこには、多くの女性を魅了した美男子オオクニヌシの姿はなく、歳をとり、癇癪持ちとなった暴君オオクニヌシの姿がある。
オオクニヌシの息子ホアカリというのはニニギの兄弟と同名であるが、それとは異なる神であると思われる。
オオクニヌシの子にホアカリという神がいたことは記紀には語られていない。ホアカリは『播磨国風土記』にのみ出てくる神である。
ちなみに姫路という名は、オオクニヌシの乗った船がホアカリによって壊され、そこに積んだ「蠶子(ひめこ)」すなわち蚕(かいこ)が落ちたので、「姫路」と名付けられたという。
姫路は播磨の中心都市であり、当然、明治維新の際には、県庁所在地が置かれるはずの地であったが、姫路藩は彦根藩とともにあくまで薩長に抵抗した佐幕の藩であったので県庁の所在地を奪われ、名もない港であった神戸を国際港として開港し、県庁所在地としたのである


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尾張国一之宮・真清田(ますみだ)神社

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鎮座地:愛知県一宮市真清田1-2-1
参拝日:2016年8月3日

青春18キップの旅の2日目、多賀大社、義仲寺、南宮大社のあと、東海道本線垂井駅から移動して、尾張一宮駅に降りたのが16:02。
ここから徒歩8分ということで、歩き出しました。
途中、環状交差点(ラウンドアバウト)があった。私は出くわしたのが初めてだったので珍しかった。
尾張一宮駅の方向に向けて撮っている。
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真清田(ますみだ)神社に到着。
社号標
社格等:式内社(名神大)、尾張国一宮、 旧国幣中社、別表神社
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真清田の由来:
当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。
今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。

当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。

江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。

創建について現在の真清田神社社伝では、祭神の天火明命は大和国葛城地方(現・奈良県葛城地方)の高尾張邑を出て、神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとする。

一方古文献では、真清田神社の創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説が知られる。

上記の文献はいずれも中世以降の成立になるため、これらの伝承の真偽や、神武天皇や崇神天皇の時期に淵源を求めた理由は明らかとなっていない。このうち神武天皇33年3月3日という年月日については、すでに存在した桃花祭(3月3日)から逆に創造されたとする説がある。これら文献を受け『真清田神社史』では、尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命(『先代旧事本紀』「天孫本紀」に見える人物)の時期に神社が創祀されたと想定している。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「真墨田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
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社名「ますみだ」の語源は明らかでないが、後述のように文献では「真清田」「真墨田」の2種類の用字が存在する。この相違に関して、『延喜式』のみ「墨」の用字であることから、『延喜式』の表記が実は『弘仁式』(820年)の古い表記の踏襲と推測する説がある。歴史的には、その後は好字「清」の表記が定着した。なお『延喜式』神名帳では美濃国各務郡に村国真墨田神社(岐阜県各務原市)とも見え、真清田神社との関連が指摘される。

永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に「尾張国一宮 八丈五疋」とあるのを初見として、平安時代末期以降に真清田神社は尾張国で一宮の地位にあったとされ、これは現在の一宮市の市名の由来にもなっている。一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが、神階・格式の点では熱田神宮の方が尾張国で最高位にあり矛盾する。この点については古来諸説が挙げられているが、今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている。

江戸時代に入ると徳川氏から庇護を受けて復興し、尾張藩主松平忠吉から社領200石の寄進、さらに寛永4年(1627年)には藩主徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領を有するようになったという。寛永16年(1639年)には義直から細別を記した黒印状が下されたほか、寛文5年(1665年)には4代将軍徳川家綱から朱印状が下されている。

明治維新後、明治18年(1885年)に近代社格制度において国幣小社に列した。かって「真清田大名神」「真清田大明神」「一宮真清田大神」「一宮大明神」と称された社名も、明治に現在の「真清田神社」に統一された。その後、大正3年(1914年)に国幣中社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

境内図
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鳥居
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神橋
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楼門
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手水舎
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拝殿
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拝殿内部
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本殿は、ほとんど見えず。
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主祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)

祭神については、色々な説がある。
現在、真清田神社の祭神は上記の通り天火明命とされるが、かつては国常立尊祭神説や大己貴命祭神説など複数説が存在した。
・国常立尊祭神説は、『真清田神社縁起(古縁起)』(室町時代末期頃成立)に記される説で、最も古い時代に遡る。
・大己貴命祭神説は『大日本国一宮記』に見える説で、出現は室町時代末期から江戸時代初期頃に遡り、諸文献に散見される。

これらに対して天火明命祭神説は、江戸時代に吉見幸和や栗田寛により唱えられたものである。天火明命は、『日本書紀』『古事記』の神話では天照大神の孫神(天忍穂耳命の子神)とされ、『先代旧事本紀』では饒速日命と同一視される神である。そしてこの天火明命に比定する説において、社名の「マスミ」が真清鏡(ますみのかがみ)のように鏡に関係する語であるとして、鏡作氏や尾張氏の祖神の天火明命が祭神だと想定された。しかしながら、尾張氏は尾張地方に広く勢力を持った氏族ではあるが、真清田神社との関係を示す文献・伝承は知られていない。

歴史的には、中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流で、明治の時点での祭神は国常立尊のほか天照大御神・月夜見神・大己貴神・大竜王神の5柱となっていた。しかし『特選神名牒』において「天照大御神」が「天火明命(天照国照彦天火明尊)」の誤記と見なされ、かつ他の4柱が省略され天火明命1柱とされた関係で、以後は現在まで天火明命1柱説が採用されている。なお、『真清田神社史』では国常立尊祭神説を荒唐無稽としながらも、天火明命と大己貴命については、それぞれ尾張氏の祖先神と奉斎神(土地神)であった可能性を指摘する。

なお祭神の性格に関しては、過去の祭神に龍神が見えることから水神の性格が指摘されるほか、『赤染衛門集』の記述から農業神の性格も指摘される。

神紋は「竹の輪に九枚笹」
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続いて、境内社に参拝。

○摂社・服織神社(はとりじんじゃ )
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真清田神社の主祭神「天火明命(あめのほあかりのみこと)」の母神である「萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつりひめのみこと)」をお祀りする。機織の神様である。尾張地方は、昔から稲作(尾張米)と繊維業が盛んだが、それだけに天火明命と萬幡豊秋津師比賣命の母子神は地域の人々から篤い信仰を集めている。なお、萬幡豊秋津師比賣命は別名を「棚機姫神(たなばたひめのかみ)」と呼ばれ、七夕伝説の「織姫」と同一と考えられている。そのため“縁結びの神様”としても信仰を集めるようになった。

社号標
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社殿
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拝殿内
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主祭神は萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつりひめのみこと)

良縁を求める方は「赤い糸むすび」を奉納しているみたいです。
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「真清田さまのご霊水」
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お願いは、井戸に顔を写してするみたいですね。
子供のころ、よく井戸を覗き込んでいましたが、その時の井戸よりこちらのほうが、はるかに水面が近くて、自分の顔が映っているのを見てギョッとしました(笑)
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「神馬」
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○稲荷社(ご祭神:倉稲魂命)
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○厳島社(ご祭神:市杵島姫神)
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○八龍神社
境内末社のうちでは最も新しい平成元年(1989年)の創建。元は厳島社に祀られた龍神石が、神仏分離で日泰寺に移り、再び真清田神社に還ったときに創建された。
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○愛宕社(ご祭神:火産霊命)
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○秋葉社(ご祭神:訶遇突智神)
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○須佐之男社(ご祭神:須佐之男神)
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○三末社
服織神社東側に3社を併祀している。
祀られている神様の数がすごく多い。
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明治42年(1899)奉納の狛犬
顔がなかなかいいですね。
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社殿
☆天神社
3社のうち西社。ご祭神は天神七代神(伊弉冉命、速玉男神、事解男神、訶遇突智神、市杵島姫神)。明治44年(1911年)から大正元年(1912年)の間に旧第二別宮の七代宮(天神七代神)に愛宕社・熊野社・厳島社・新愛宕社を合祀。
☆犬飼社
3社のうち中央社。ご祭神は犬飼神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、猿田彦命、真神田曽根連、本宮荒魂、菊理姫命。大正元年(1912年)に元々の犬飼社(犬飼神)に住吉社・三明神社(1993年に境内摂社として分祀)・白山社・古守社を合祀。
☆愛鷹社
3社のうち東社。ご祭神は愛鷹神、瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主命、木花咲屋姫神。大正元年(1912年)に元々の愛鷹社(愛鷹神)に祓戸社・浅間社を合祀。
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○三八稲荷社(ご祭神:倉稲魂命)
元は「新稲荷社」として境内西北に鎮座したが、戦後に「三八稲荷社」に改称して現在地に遷座。社名「三八(さんぱち)」は、戦前まで真清田神社社前で開かれた織物中心の市「三八市」に由来する。
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大きな「おしゃもじ」が奉納されている。
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社殿の後ろに出ると、もう一つ社が存在する。
奥宮?
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もう一つ、鳥居の列が存在する。
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これで、真清田神社の参拝は終了。
無事に青春18キップ二日目の旅は終了。
尾張一宮駅の近くにホテルを取ってあるので、達成感と共にぶらぶらとホテルに向かった。


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美濃国一之宮・南宮大社

20160824

鎮座地:岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1
参拝日:216年8月3日

境内図
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青春18キップの旅の二日目、多賀大社、義仲寺の後、13:56に東海道本線「垂井」駅に降りた。
予定では徒歩20分なのだが、義仲寺から駅に向かうときに熱中症の予兆みたいなものがあったので、南宮大社に寄るタウンバスがすぐに出るというので、それを使うことにした。
料金100円を払い乗り込み、やれやれ助かったと思った。
しかし、これが大誤算だった(泣)
あっちこっちに寄りまくって行くので、結局駅を降りたときから35分くらいかかってしまい、南宮大社では駆け回ることになってしまった(汗)

タウンバスから降りると、こんな表示が。
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そうだった、南宮山の麓なのだ、ここは!
関ケ原の戦いのときに、総大将の毛利秀元・安国寺恵瓊ら毛利軍が陣取った南宮山である。
「関ヶ原」駅の次が「垂井」駅だったが、ずいぶんと電車は走った。
ずいぶん離れているのを実感した。
一説では、安国寺恵瓊らが企んだのは、石田三成と徳川家康の両者をけしかけて戦わせて、両者共倒れにさせて毛利の天下を狙ったのだというが、さもありなんと思わせる、南宮山の位置である。

南宮大社の向こうの山、あれが南宮山だろう。
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社号標
社格等:式内社(名神大)、美濃国一宮、 旧国幣大社、別表神社
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岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。

御由緒(境内説明より)
 御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様であります。 社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕された故を以て、当郡府中に 祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。
 御神位は古く既に貞観十五年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国三十九 座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶三年(940)、 平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任追討の神験によって、正一位 勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の 有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。
1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。
近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。
『延喜式神名帳』 美濃国最初のページのみ載せておきます。
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また、興味深いのは、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』の中で、「出雲人の東漸」の部分で、真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』における説を紹介しているが、それは以下のようなものであ。
「その起源において諸説のある諏訪の御柱について独自の意見を提出する。踏鞴炉の高殿の四本の押立柱がもとだとするのであり、これらの柱のうち、南の柱をもっとも神聖視して、そこに金屋子神を祀る。それゆえ製鉄業者たちの崇敬する神社は南宮と呼ばれるので、『梁塵秘抄』にほ、「南官の本山は、信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮、伊賀国には椎き児の官」とあって、南宮の本山は諏訪大社なのである。因みに「中の宮」は、今は南官大社と呼ばれている大垣の近くの仲山金山彦神社であり、「椎き児の官」は、伊賀上野(現在伊賀市)の敢国神社である。
(ここで、南宮大社は美濃国一之宮、敢国神社は伊賀国一之宮である)
そうなると祭神のタケミナカタのミナカタは、南方と考えられるのであり、実際『延書式』において諏訪大社は「南方刀美二座 明神大」と記されているのだ。建御名方が武神だけでなく、鉄の神である可能性は大きい。」

境内は広大。
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「石輪橋」と「楼門」
 楼門の前の川には、石輪橋、石平橋という二つの見事な石橋が架かっている。造営時期は社殿と同じ寛永十九年。
門の正面が石輪橋。花崗岩で造られ、その名の通り輪のように円弧を描いている。この形は、そり橋とも呼ばれ、神様が通られる橋、つまり人間は通ってはいけない橋を意味している。
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楼門の彫刻
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楼門の向こうに舞殿、社殿が見える。
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楼門の表には左右に随身。
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楼門の裏には木造狛犬があります。
様式から寛永19(1642)年のものと推定する。
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「手水舎」
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手水舎と舞殿の間に、左右に鉄製の柱がある。幡を提げるものでしょうか。
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「舞殿」
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舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高いようです。

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「拝殿」
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 木々の緑に囲まれた社殿は、十五棟からなる。本殿、弊殿、拝殿、樹下社、高山社、隼人社、南大神社、七王子社、回廊(左右)、勅使殿、高舞殿、楼門、神輿舎、神官廊。そのすべてが国の重要文化財に指定されている。
 建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、南宮造と呼ばれている。本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも特徴の一つと言える。社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦の兵火で社殿は焼失。そののち寛永19(1642)年、この地にゆかりの乳母・春日局らの願いを聞き入れた三代将軍、徳川家光によって再建された。
 現在の南宮大社の社殿、石鳥居、石橋などは、このとき家光が寄付した七千両(約21億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。

拝殿内部
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本殿は、ほとんど見ることが出来ない。
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御祭神は金山彦命
配祀:見野命、彦火火出見命

『美濃明細記』『美濃国式内神社祭神記』では、「金山彦命 御野命 彦火々出見命」とあり、秘神として「罔象女命、埴山媛命」としている。

配祀の見野命について、『日本書紀』には、豊組野尊(豐斟渟尊)の別名に見野尊が登場するが、美濃國の神、美濃国造の祖神ということかもしれない。

拝殿には、ご祭神にふさわしく、金物の奉納額が掛けられている。
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神紋は、「十六弁菊」と「左流水三つ巴」
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拝殿回廊の、蟇股には鳥の彫刻が目立った。
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続いて、境内社を参拝。

本殿回廊内
○摂社・樹下神社(ご祭神:大己貴命)
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○摂社・隼人神社(ご祭神:火闌降命)
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京都の四条でさらし首になっていた平将門の首が関東に飛び立ったとき、再び反乱が起きることを恐れた南宮大社の隼人神は、飛びゆく将門の首を弓矢で射落としたという伝説がある。そのとき首が落ちた場所とされる岐阜県大垣市荒尾町には御首神社というのがあり、そこでは将門の首を祀っている。
隼人神社の前には矢竹が植えられている。

○摂社・高山神社(ご祭神:木花開耶姫、瓊瓊杵尊)
南宮山山頂に奥宮が鎮座する。
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○摂社・南大神社(ご祭神:天火明命)
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○末社・落合神社(ご祭神:素盞嗚命)
駐車場脇にあり。
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西門から出ます。
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○末社の二社が合祀
金敷金床神社(ご祭神:豐岡姫命、蛭兒命)
石船社(ご祭神:鳥石楠船神)
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この位置から、本殿の真後ろにあり、拝殿の方から全く見ることが出来ない「七王子神社」を見ることができないかと試みた。
これかと撮ってきたが、どうもこれは「南大神社」みたいだ。その左奥にうっすらと屋根がみえるのがそうらしい。
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幸い、南宮大社公式サイトに載っていた写真を載せておく。

○摂社・七王子神社(ご祭神:大山祇神、中山祇神、麓山祇神、䨄山祇神、正勝山祇神、高靇神、闇靇神)
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「聖武天皇大仏建立勅願所」碑
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「引常明神・湖千海神社」の鳥居
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手前に「引常明神磐境石」、奥に「湖千海神社」
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神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという。

説明
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北条政子が源頼朝の菩提のため、ここに、南天竺の鉄塔を建立し、金水の和合を祈願した。
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「瓦塚」
「引常明神・湖千海神社」の手前にある瓦塚は、社殿の古瓦で、常世神である引常明神に捧げ祀ったもの。
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更に、上に上がっていくと、下記境内社があるとの情報があったが、時間切れであきらめた。
・荒魂社 - 祭神:本社祭神の荒魂
・伊勢両宮 - 祭神:天照大神、豐受大神。古くは本社本殿が鎮座した
・東照宮
・南宮稲荷神社
境内前方にもあったが、参拝から漏れた。
・数立神社 - 本社入り口脇に鎮座。美濃国総社という説もある

駅に向かって、予定している電車に間に合わせようと、急いで歩いたが、途中工事中の大鳥居の下をくぐった。
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急ぎ足で、ほぼ20分で垂井駅に到着。
15:26の東海道本線大垣行きに乗り、大垣で乗換え、特別快速豊橋行きに乗り、尾張一宮に16:02に到着。
次の目的地「尾張一之宮・真清田神社」に参拝した。



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義仲寺(木曽義仲・巴の墓、俳聖松尾芭蕉の墓)

20160821

所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-12
訪問日:2016年8月3日

青春18キップの旅の二日目、多賀大社に参拝し、彦根駅に戻り、東海道本線快速で石山まで行き、普通に乗換「膳所(ぜぜ)」駅で下車。
朝、計画より1時間20分早く出たのが、多賀大社でじっくり過ごした関係で、膳所駅に到着したのは計画より50分速い状況。

徒歩300mだというので、のんびりと歩く。
道標のある三叉路に来た。
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道標には「右義仲寺」とあります。結局どっちに行っても義仲寺に行けますが、ちょっとでもいいから旧東海道を歩きたくて右に行きます。
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旧東海道に出たら、左折。これが旧東海道。
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「東海道名所図会 義仲寺」を見ると、琵琶湖の縁を旧東海道が行ってたんですね。
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旧東海道を5、60mほど歩くと、もう義仲寺に着いてしまう(汗)
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国指定史跡です。
紫金の「しぐれても道はくもらず月の影」が刻まれた石灯篭を、キリシタン灯篭だと言う人もいるらしい。
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この義仲寺は、今回の旅でどうしても来たかった所。
木曽義仲には、かなりの思い入れがあり、また住んでいるところの近くの入間川河原で、木曽義仲の嫡子義高が討たれている。
俳聖松尾芭蕉の墓もあるので、なおさらである。

受付で拝観料を払い、チケットをいただく。
この絵もいいものだ。
「芭蕉翁絵詞伝」は、松尾芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人五升庵蝶夢が、寛政4年、芭蕉百回忌に芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れ、絵巻物として義仲寺に奉納したもの。
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 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり、古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
治承四年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日 (四月改元して元暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年三十一歳。
 その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。
 時代は移り、戟国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。
 貞享年間(1684~8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
 明和六年(1769)に蝶夢法師の中興があり、その後も、安政三年(一入実)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戟後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、壊滅に瀕した。ここにおいて、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行った。この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志家の寄進によったもので、子細は境内の昭和再建碑に記されている。
 本寺は、昭和四十二年十一月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

境内見取り図
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最初に墓参をしました。
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○義仲公墓(木曽塚)
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芭蕉翁は木曽塚ととなえた。義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三土曜日に営む。
義仲寺のリーフレットには、芭蕉が義仲を詠んだ句を二つ載せている。
燵山にて(元禄二年)
燵山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。
「義仲の寝覚の山か月悲し」
この句は、倶利伽羅峠の芭蕉塚に句碑があった。

無名庵にての作(元禄四年)
「木曽の情雪や生ぬく春の草」

○巴塚
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私は、「関東36不動めぐり」で、横浜市保土ケ谷区和田にある「和田不動」を訪ねたときに、巴御前が和田義盛の妻になったと知り、驚いた。和田で亡くなったのかと思っていたが、膳所に移っていたのだった。

○山吹供養塚
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「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」と説明にある。
山吹姫については、埼玉県嵐山町の「班渓寺」に墓と位牌があり、私は何度かお参りしている。

○芭蕉翁墓
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 芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
 芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営んでいる。

○巴地蔵堂
 山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するもので、以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている。
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墓参を終え、あとは見学をしました。

「資料観」
 粟津文庫に収蔵の史料什宝を適時取り替え展観している。昭和五十一年秋、文庫改築のときに開設した。
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「芭蕉翁絵詞伝」
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「芭蕉翁の椿の杖」
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「木曽義仲公像」
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歌川国芳の「義仲公版画」
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「朝日堂」
 義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和五十四年(1979)十一月改築されたものである。
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ご本尊の木彫聖観世音菩薩
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諸ご位牌
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義仲公、義高公父子の木像が納まっている厨子。
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義仲公木像(義仲寺リーフレットより)
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清水義高に関係の深い地に住んでいるので、今回の参拝の目的の一つは、厨子に納められている義高像の写真が載っている本や冊子がありはしないか探す目的があった。
ネットで探しても見つからないので。
受付の方に、希望を話したところ、受付で販売している本・資料を一緒に探したが載っていなくて、その方が色々探してくださり、写真が小さくて良くないがと、寺の資料を見せてくださった。
だいたい、どういうお姿なのかは知ることが出来たので、とても有難かった。
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「翁堂」
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 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若沖筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和六年(1769)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(1856)類焼、同五年再建。現在の画像は明治二十一年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
 芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

伊藤若沖筆の天井画
花卉図は若冲最晩年の大仕事、石峰寺観音堂の天井画として描かれたとみられている。明治の初めに観音堂が壊された際、古美術商の手に渡り、めぐりめぐって現在、義仲寺と信行寺(非公開)に残っているのだそうです。
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「資料観」にデジタル複製されたものが一つ置いてあり、間近に見ることができた。
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芭蕉翁座像
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丈艸居士
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去来先生
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蝶夢法師陶像
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「木曽八幡社」
 木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和五十一年(1976)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。
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あと、境内の句碑であるが、全部写真は撮ってきたが、記事が冗長になるので、ここでは芭蕉の句碑だけアップするに留めます。

「行春をあふミの人とおしみける  芭蕉桃靑」
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「旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁」
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「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉翁」
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佐渡の赤石
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これで、参拝を終え、日陰でしばしくつろぎました。
とても気持ちのいい空間でした。
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もう一度、墓石群(手前から巴、義仲、芭蕉)に気持ちを残して退出しました。
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最後に、受付で「大津絵」を買ったので、一枚載せておく。
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ここを出て、すぐのところに美味しそうなラーメン屋があったので、そこで昼食。
食べ終わって、時間を見たら計画していた電車に間に合いそうだった。先の米原駅で昼食の時間を予定に入れてあるので、あわてることは無かったが。
急ぎ足で歩いていると、クラクラッとめまいが来た。
・・・やばい、熱中症だ・・・・・

しばらく立ち止まり、休息して、気持ちは焦っているが並足で・・・・・・
それでも、予定どおり膳所駅12:03の電車に間に合って、次の目的地「南宮大社」のある、美濃の「垂井」駅に向かった。



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多賀大社

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鎮座地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604
参拝日:2016年8月3日

青春18キップの旅、二日目の朝早く目が覚めたので、予定より早くホテルを出発し、計画より1時間20分速い電車で、近江鉄道の彦根駅を出発した。

この日、最初に向かったのは「多賀大社」。以前よりこのお宮に参拝したいと思っていた。
このお宮は、『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と書かれているお宮である。
現在、これに相当する神社としては2社あり、一つは淡路島の多賀にある「伊弉諾神宮」、もう一つが近江にある「多賀大社」である。
「淡海」を一方は淡路に、一方は「淡海(琵琶湖)⇒近江」としている。
面白いなと思うのは、淡路島と琵琶湖の関係である。とても形が似ていて、淡路島を切り取った跡が琵琶湖に見える。この二者のそれぞれに伊邪那岐命が坐しておわれるわけである。
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近江鉄道の「大社前」駅を出ると、目の前に鳥居が迎えている。
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風情のある門前町を抜けて行く。まだ朝が早いので静か。
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どのお宅も、多賀大社の注連飾りを飾ってある。「笑門」と干支の文字が書かれている。
「笑う門には福来る」と、伊勢地方の「温かく旅人を迎えた人に幸せがもたらされた」故事に因んだおもてなしの心を表わしているそうだ。
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多賀大社に到着して、西口参道入り口にきた。
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ここから入ってもよかったが、まずは正門からと、水路沿いに歩く。気持ちがよかった。
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正門前の道路には、大きな「笑門」の絵馬が下がった大きなアーチがあった。
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社号標
社格等:式内社(小)・官幣大社・別表神社
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多賀大社は伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

創祀年代は不詳。
社伝では、鎮座の仔細を以下のように伝えている。
伊邪那岐大神が、多賀宮に鎮まり坐そうとして杉坂の急坂にさしかかった時、土地の老人が、栗の飯を柏葉に包んでさし上げた。大神は、その志を愛でて、食後に箸を地に挿した。後に、この箸が大杉となって「杉坂」となった。
また、山路の途中に疲れて「くるしい」と言った場所が、「栗栖」という地。そこには現在、御旅所の調宮がある。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

多賀大明神:
室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。
多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

1930年(昭和5年)、本殿を改修。大社造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

長寿祈願:
多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。
これは、元正天皇の病気に際し、当社の神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上、天皇はたちまち治癒されたと伝え、そのしでの木が現存する飯盛木で、杓子は「お多賀杓子」として有名。

境内図
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これから参拝するのだが、この日の夜から「万灯祭」ということで、境内は提燈で埋め尽くされていた(汗)
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鳥居
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明治43年奉納の狛犬
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「太閤橋」の前も提燈の海
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「太閤橋」
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天正16年(1588年)に、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

現在では珍しく、この太鼓橋は渡れる(嬉)
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意気揚々と渡りはじめたら、これが大変!!
誰か、渡っている人を写すと分かり易いのだが、生憎早朝なので他に人が少なくて撮れなかった。
滑り落ちないように丸太を渡してあるのだが、これが微妙に間隔が広いのだ(汗)
次の丸太に足をかけて、手すりにかけた手で身体を持ち上げる感じで、やっと渡った。
女性とか子供は往生すると思う。
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太鼓橋のてっぺんから横を見る。
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神門を上から見る感じである。けっこう高い。
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神門前の左右に境内社があるので、先に参拝する。

○秋葉神社(ご祭神:火産霊賀具都智神)
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○愛宕神社(ご祭神:火産霊神、伊邪那美神)
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「夫婦桜」
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年代不詳だが、巨大な灯明台
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○天満神社(御祭神:菅原道真公)
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ここの絵馬もお杓子である。
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神門
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神門左右の塀も実に厚い。
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提燈で飾られた神門をくぐる。
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手水舎
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広々としているはずの境内が提燈で埋まっている(汗)
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夜は、こんなに見事になるようです。(多賀大社HPから)
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拝殿
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拝殿を通して本殿を伺う。
大きな、お杓子がある。
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本殿がきれいに見渡せないので、大社造りだという本殿の姿がとらえらにくい。
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拝殿の前からだと、本殿の屋根はこのくらいしか見えない。
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あとで参拝した、金咲稲荷神社の辺から、本殿の大棟はこのくらい見えた。
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ご祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命。

神紋は、「三つ柏」、「虫くい折れ柏」又は「柏葉筵字」、「右三つ巴」
「虫くい折れ柏」の紋は、お守りにしか見つけられなかった。
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「神馬舎」
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「神楽殿」
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○年神神社(ご祭神:年神)・竈神神社(ご祭神:竈神)
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「寿命石」
鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする齢61の重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」はこの伝承が由来である。
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私も、カミさんの名を一緒に書いてお供えしました。
ただ長生きしたいのではなく、ピンピンコロリが理想です(欲張り(笑))
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○熊野神社・天神神社・熊野新宮
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○三宮神社(ご祭神:角杙神・活杙神、大戸之道神・大戸之辺神、面足神・惶根神)・聖神社(御祭神;少彦名命)
日向神社に遷っておられた。
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○金咲稲荷社(御祭神;宇迦之御魂神)
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左右の狐の足元に蛙がいる。
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金咲稲荷社の神紋は、「抱き稲」と「宝珠」
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「絵馬堂」
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大きなお杓子もあった。
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「神輿庫」
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「鐘楼」
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「文庫」
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「太閤倉」
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○夷神社(御祭神;事代主命)
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西口参道から入った突き当たりに、4社祀られている。
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○神明両宮(ご祭神;天照大御神、豊受大御神)
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○日向神社(ご祭神:瓊々杵命)
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○子安神社(御祭神;木花開那姫命)
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これで参拝を終え、西口参道入り口より駅に向かった。
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「大社前」駅から近江鉄道で彦根に出て、東海道線で「膳所」駅まで行き、次の目的地「義仲寺」に向かった。


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伊香具(いかぐ)神社

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鎮座地:滋賀県長浜市木之本町大音688
参拝日:2016年8月2日

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社、余呉湖の伝承二つの地、乎彌神社・乃弥神社のあと、余呉駅から隣の駅木ノ本に移動して参拝しました。

木ノ本駅を15:14に降りたち、どうしようかと考えた。駅から神社まで2Km。また貸自転車を探そうかとも考えたが、慣れぬ自転車で2ケ所走り回って尻が痛いし、今回は歩きたい気持ちが勝った。

往きは、まあまあ普通に歩いて、そんなに疲れた感じもなく到着。
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背後が賎ヶ岳です。麓にあり、近くに賎ヶ岳への登り口もありました。
400年前の柴田勝家と羽柴秀吉との、「賎ヶ岳の合戦」でよく知られたところで、中でも特に激しかった戦いは、勝家の先鋒佐久間盛正との戦いで、世に言う「賎ヶ岳の七本槍」としてよく知られています。
この神社も、その戦の際に社殿、古記録を焼失したとのこと。

神橋があり、社号標、鳥居が立つ。
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社号標
社格:式内社 近江國伊香郡 伊香具神社 名神大、 旧県社
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この日の旅のいままでの流れからでは、余呉湖の羽衣伝説で、天女と結婚した「伊香刀美」を祀るのが、この神社。伊香刀美と天女の間に生まれた二人の男子「意美志留(おみしる)と那志等美(なしとみ)」を祀っているのが、先ほど参拝した「乎彌神社・乃弥神社」と言う事になります。

「延喜式内社」ですが、近江國は多くて155座もあります。そのうち伊香郡は特に集中して多く当伊香具神社の大社一の他小社45座を数えている。

延喜式神名帳(伊香郡最初のページのみ)
「明神大」なので、重きをなしていたことがわかる。
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上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。
貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。
菅原道真公は幼小の時この北方にある菅山寺という寺で修業されたこともあってこの伊香具神社を厚く信仰され、自筆の法華経、金光明経を奉納された。また宇多天皇に申し上げて「正一位勲一等大社大名神」の額を賜った。
その後足利尊氏が200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。
明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。

『平成祭データ』によれば、「伊香」と書いて古くは「いかご」あるいは「いかぐ」と発音した。ですから万葉集ではこの背後の山すなわち賊ケ岳連山を「伊香山」と書いて「いかご山」と読ませています。そしてその名は古事記に出てくる火の神「迦具土の神」の徳を受けられたところからきているようで、そのことはこの社のすぐうしろの山の小字名を「かぐ山」とよび、又摂社に有る「意太神社」の御祭神「迦具土の神」となっていることからも証明される。昔からこの神社は「火伏せの神」「防火の神」としての信者が大変多く、特に火をよく使う商売の人々の間にその霊験は大変あらたかといわれてその加護を祈る人があとをたたないそうです。

鳥居
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参道はとても長かった。100m以上はあったと思う。
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入り口
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独特な「伊香鳥居」が迎えます。
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中央の鳥居の形は神明鳥居。
それに、両部鳥居のように稚児柱が付いているが、これが通常四本のところを、倍の八本!
さらに、鳥居左右に三輪鳥居のように脇鳥居が付いている。
境内の説明書きでは、「三輪式と厳島式を組み合わせたのは、このあたりまで入江であった」とされている。
神奈備である香具山を祀る形態が三輪に通じるとしたものだろうか。

手水舎
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一段上がると社殿
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そこに上がる前に、神馬がいる。
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その横に、歌碑があり。
古今和歌集 巻8 離別歌 0373
東の方へまかりける人によみてつかはしける 伊香子厚行
「思へども 身をしわけねば 目に見えぬ 心を君に たぐへてぞやる」
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九世紀の後半当神社の神官で伊香津臣命から第十六代目にあたる伊香厚行という人は、中央政府でも活躍し菅原道真公との親交が有ったそうだ。

石段を上がると、狛犬(年代不明)があり。
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茅葺の拝殿
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社額「伊香具神社」
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本殿は瑞垣に囲まれ、神門があり。
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神門には「伊香大社」の額。
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瑞垣の上から本殿をなんとか覗く。
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各部の彫刻が美しい。
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主祭神は、伊香津臣命
天児屋根命の五世孫(あるいは六代孫)である。
伊香郡に居住した伊香連の祖神であり、伊香連は藤原氏と同祖である。
昔、当地が湖沼地であり、田園もなく、郡や国というものが無い時代、当地を訪れた祭神が、この地を開拓し、祭神名に因んで、伊香郡となったという。
羽衣伝説の、天女と結婚した「伊香刀美」が伊香津臣命であると、思われている。

神紋は「上がり藤」
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瑞垣に囲まれた本殿の左右に摂社がある。
天表春(あめのうわはる)神社(ご祭神:天表春命)と天下春ゅあめのしたはる)神社(ご祭神:天下春命)。
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社殿の右手には、立派な招魂社があり、さらに境内の右手に行くと、蓮池と独鈷水がある。
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蓮池
当時の伊香小江の形状を模した伊香の小江の遺跡だという。
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弘法大師が、独鈷によって掘り出した清水が、独鈷水。
伊香の小江(湖沼)に住む大蛇(あるいは悪龍)を退治して湖を埋め、田を開拓して、独鈷を以って池を穿ちて、大蛇の霊魂を納めたという。
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いまは水が少ないらしいが、中央が濡れているので水は湧いている。
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井から少し離れたところに水汲み場があり。
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近くに、境内社の一ノ宮があるというので、そちらに向いていこうとすると、生糸の説明があった。
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呉の国からやってきた4人の女工が、この地で疲れを癒し、お礼に糸とりの技法を教えたという。
また、独鈷水を用いて製造した生糸は光沢があり、弾力性に富む、当地の産業をなっていたという。
伊香具地区の生糸が名産となったのは、伊香厚行が宮中へ献上したことに端を発するとあった。

また、江戸時代の近江源氏の山武士の住まいが隣接してあった。
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伊香具神社から東へ300mの場所に、一ノ宮神社(天之押雲命)があり、伊香具神社摂社の中での一ノ宮ということらしい。
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さらに、東に少し行くと、一ノ宮神社の御神木であるという白樫が、野神として祀られていた。
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これで、伊香具神社参拝を終えたわけだが、初日、計画どおり予定をクリアした解放感と共に、疲れがドッと出て帰りの道はつらかった。
「往きはヨイヨイ、帰りはツライ」というわけである。
途中で、膝が痛くなってきて、膝が痛いというのは初めての経験だったので、不安になった。
無理をしないよう、休憩しながら2Kmの道を歩き、木ノ本駅から米原を経由して彦根に移動した。
彦根駅に着いたのが18時。
前日の23時10分に東京駅を出てから、実に長い一日が終わった。

二日目は多賀大社、義仲寺に行くので、彦根にホテルを取った。



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伊香津臣命(いかつおみのみこと)・中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)・雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)/日本の神々の話

20160817

「近江国風土記逸文」に、伊香津臣命・烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美・雷大臣命とも書く。

中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。
672年に伊香姓を賜姓した近江、伊香氏の元祖は、 臣知人(おみしるひとのみこと・意美志留)といいます。
この筋が伊香具神社社家となります。
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。

中臣烏賊津使主は意美佐夜麻命の子。天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。神功皇后の審神者。中臣氏の祖。
仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は烏賊津使主、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。
烏賊津使主は、後に皇后の勅を受けて百済に使いし、百済の女を娶り一男を生んだ。
允恭天皇の時、烏賊津使主は天皇の命令を受けて衣通姫を迎える使者になり、 熱心に頼んで姫を天皇の后とするのに成功した。
神功皇后が新羅を征した時、軍に従ひ勲功ありて、 凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。

伊香津臣命は、中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
その子は、前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)であり、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。

また、伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、中臣氏に近づいたもの」としている。

『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に「伊香具神社」がある。余呉の湖の近くで、その祭神が伊香津臣命。そして余呉の湖の周囲に式内社「乎彌(おみ)神社があり、その祭神が巨知人命である。更に同じく式内社の「乃彌(のみ)神社があり、その祭神が梨津臣命。
この三柱の神は、有名な余呉の湖の羽衣伝説と結びついている。
『近江国風土記』逸文によると:
古老(ふるおきな)の傅へて曰へらく、近江の國伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶(とも)に白鳥と為りて、天より降りて、江の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遙かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、往きて見るに、實に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して得還り去らず。竊(ひそ)かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隱しき。天女、乃(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人(ななたり)は天井に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、即ち地民(くにつひと)と為りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家(をとひめ)と為りて此處に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連等が先祖(とほつおや)、是なり。後に母(いろは)、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、唫詠(ながめ)すること断(や)まざりき。

わかりやすく書くと:
 余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。
それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
 天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。
地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。
これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。
妻を失った伊香刀美は、寂しくため息をつき続けたという。

そして、伊香刀美は伊香津臣命と、意美志留は巨知人命と、那志刀美は梨津臣命と同人とされている。


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乎彌(おみ)神社・乃弥(のみ)神社

20160815

鎮座地:滋賀県長浜市余呉町下余呉2053

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社のあと、余呉駅で降りて自転車を借り、まず余呉湖に伝わる伝承二つの地を訪ねたあと、この神社に参拝しました。

余呉湖の羽衣伝説で、天女と結婚した「伊香刀美」を祀るのが、この神社のあと木ノ本に移動して参拝する予定の「伊香具神社」、伊香刀美と天女の間に生まれた二人の男子「意美志留(おみしる)と那志等美(なしとみ)」を祀っているのが、この神社「乎彌神社・乃弥神社」です。
この三社は何れも、延喜式内社となっている。
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社前に小川が流れ、赤い欄干の神橋が架かっている。
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社号標
式内小社・旧村社
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創祀年代は、不詳。
『近江伊香郡誌』によると、醍醐天皇の時代に、創建されたという。氏人の祖神である臣知人命を祀ったものと考えられている。
合祀されている乃彌神社も式内社、もとは現在地(乎彌神社)の南100mほどの場所にあり、奥の堂と呼ばれる平地に旧跡があるという。
乎彌神社の氏子を北組といい、乃彌神社の氏子を南組と呼んだが、寛延二年、積雪のため社殿が破損したため、両組が相談し、乎彌神社に合祀された。
合祀の理由は、積雪ではなく、賤ケ岳合戦の兵火によるという資料もあるらしい。

石の鳥居に大きな注連縄がかかっている。
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由緒の説明
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手水舎
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社殿には石段を上がるが、左右の石垣がかなり立派だった。
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石段の下、右に祓所があり。
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大正9年奉納の狛犬
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拝殿には、白い幕が張ってある。
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拝殿内部
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拝殿の後方の階段の上に本殿がある。
瑞垣に囲まれた覆屋の中に本殿はあり、瑞垣の神門も合わせた大きな屋根が付いている。
覆屋の左に境内社が鎮座しているが、どの境内社かは不明。
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瑞垣の神門の前に回った。
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瑞垣の神門の上まで、覆屋の屋根が大きく張り出している。
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神門の前にも狛犬があり。
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立派な神門
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主祭神は、巨知人命(おみしるのみこと)、梨津臣命(なしとみのみこと)(乃弥神社)、海津見命(わたつみのみこと)

神紋は、「右三つ巴」、「三羽鶴」
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境内社
『平成祭データ』には、摂末社として以下の名が記されている。
八幡神社(應神天皇)、村草神社(天照大神)、大名持神社(大名持命)、塞神社(八衢比古神 八衢比賣神)。
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ご神木の「夫婦杉」
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これで参拝を終え、余呉駅に停まる北陸線普通電車は一時間に一本なので、余呉湖伝説探訪と乎彌神社参拝を自転車で廻って2時間。
余呉駅に戻って自転車を返し、隣の木ノ本駅に移動しました。


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天日槍(あめのひぼこ)/日本の神々の話

20160814

アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。

この神については、伝承が残る地域が広く、例えば谷川健一氏の『青銅の神の足跡』では、細かい字で330ページもある本の半分以上が天日槍に費やされている。
だから、この記事でも全貌を伝えるのは難しいが、私が注目しているのは古代鉄が製造された場所にこの神が祀られていることが多いということ。

渡来人の持参した技術を生かして、実に広範なところを開発していったのは、弘法大師空海と似たようなところがある。

『古事記』では、「応神天皇」の巻、「天之日矛」の段
(現代語訳)
 また昔、新羅の国王の子で、名はアメノヒホコという者がいた。この人がわが国に渡って釆た。
渡来したわけはこうである。新羅の国に一つの沼があって、名は阿具奴摩といった。この沼のほとりに一人の賤の女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。また一人の賤の男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そこでその様子をうかがっていた賤の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。
 この男は、田を谷間に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中にはいって行くとき、その国王の子のアメノヒホコに出会った。するとヒホコがその男に尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れようとした。その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」といった。けれどもヒホコはやはり赦さなかった。そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。それでアメノヒホコは、その賤の男を赦して、その赤玉を持って釆て、床のそばに置いてぉくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。それでヒホコは少女と結婚して正妻とした。そしてその少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。
ところが、その国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、ただちにひそかに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾神社に坐すアカルヒメという神である。
 そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。それで、またもどって、但馬国に停泊した。ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女のマヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。この人の子はタヂマヒネであり、その子はタヂマヒナラキである。この人の子は、タヂマモリ、次にタヂマヒタカ、次にキヨヒコの三人である。このキヨヒコが、タギマノメヒと結婚して生んだ子が、スガノモロヲ、次に妹のスガクドユラドミである。そして上に述べたタヂマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメノ命の御母である。そして、そのアメノヒホコの持って渡って釆た宝物は、玉つ宝といって珠の緒二連、それから浪を起こす領巾・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾・風を鎮める領巾、および沖つ鏡・辺つ鏡、合わせて八種である。これらは伊豆志神社に祭る八座の大神である。

ここで、オキナガタラシヒメノ命というのは神功皇后のことである。
よって、系図に整理すると、このようになる。
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天日槍は、皇統の外祖先ということになる。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、羽太の玉(はふとのたま) 1箇、足高の玉(あしたかのたま) 1箇、鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇、出石の小刀(いづしのかたな) 1口、 出石の桙(いづしのほこ) 1枝、日鏡(ひのかがみ) 1面、熊の神籬(くまのひもろき) 1具 を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。

同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、葉細の珠(はほそのたま)、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、 出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の大刀(いささのたち) を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守(たじまもり)を儲けたという。
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田道間守は菓子の神・菓祖として信仰されている。

『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。
これは、先述の谷川健一氏の『青銅の神の足跡』によれば、大国主命(葦原志許乎命)を奉じる出雲族との主として鉄資源を巡る覇権争いと説明されている。(伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神)は同神とみなされている。)

○揖保郡揖保里 粒丘条:
客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か[7])の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命に宿所としての土地を求めると、志挙乎は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという。
○宍禾郡比治里 奪谷条:
葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという。
○宍禾郡柏野里 伊奈加川条:
葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという。
○宍禾郡雲箇里 波加村条:
伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという。
○宍禾郡御方里条:
葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。
○神前郡多駝里 粳岡条:
伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする。

最後に、現在は、天日槍は個人ではなく、集団であろうとの意見が大方を占めていて、中には一回きりの集団の渡来ではなく、数次にわたる渡来を一つの話としているのだ、と主張する向きもあることを述べておく。


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余呉湖の伝説探訪

20160813

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社のあと、ここにきました。
余呉湖(よごのうみ)は琵琶湖の北に位置する一周約6キロ、最大水深13メートルの湖。
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この写真は、今朝大垣から敦賀に向かう電車の中から撮ったもの。
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今、故郷の富山県福光町(金沢の隣町)に帰る時は北陸新幹線で大宮から金沢まで「かがやき」で2時間と5分。その前は、上越新幹線で越後湯沢まで、そこから特急「はくたか」で金沢まで帰った、4時間半。
そして、その前は東海道新幹線で米原まで、そこから特急「しらさぎ」などで帰った。
そのときには、当然余呉湖の横を走っていくので、いつも見ていた景色だ。

今回、余呉駅に立ち寄ったのは、当初計画では「乎弥(おみ)神社」。次いで隣の駅木ノ本から「伊香具神社」という計画だった。
この二社は、有名な「羽衣伝説」にゆかりの人物が祭神となっている。
が、ロマンチックな「羽衣伝説」だからではなく、もうおわかりだと思うが、気比神宮から始まって、この日訪ねているのは何れも渡来人の影が濃い神社ばかりです。
今年、武蔵国旧高麗郡では、ちょうど高麗群建郡1300年ということでかなり盛り上がり、私も渡来系神社についてかなり関心が高くなっているので。

この日、計画よりは1時間ほど先行しているので、ここで2時間使うことにして、余呉湖周囲を自転車で探索することにした。目的は余呉駅の対岸の辺にある「新羅崎神社跡」であるが、同時に伝説を訪ねることにもなった。

どうして一時間先行出来たかというと、「ムーンライトながら」で大垣に着いたら、洗面・朝食などでゆっくりしようと、30分ほど時間を取った。ところが、ほとんど眠れなかったので車内で持参のおにぎりなど食べてしまっていたし、大垣駅に着いたら皆走っていくので、それにつられて(笑)、先の電車に飛び乗ったら、米原で接続の北陸線が敦賀行き(計画では近江塩津で乗換)だったので更に効率よく、結果として1時間計画より早く敦賀に着いたのである。

ここでは、余呉駅で自転車を貸してくれることがわかっていた。
空いているかどうかドキドキだったが、まだ5台くらい余裕があった。
ここでは500円で、16:30までに返してくれれば良いということだった。

炎天下、エッチラオッチラ自転車を走らせて、まずは「天女の衣掛け柳」に。
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「天女の衣掛け柳」
左にあるのが、借りたママチャリ。
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羽衣伝説は日本各地にあるが、最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが『丹後国風土記』に見られます。どちらも1200年以上前に書かれたもの。
特に『近江国風土記』に書かれている説話が日本最古の羽衣伝説として有名。

『近江國風土記』から:
 「近江の国伊香の郡にある余呉の湖に天の八女(やおとめ)、ともに白鳥(しらとり)となって天より降り、湖辺で水浴をせし。この時、伊香刀美、西の山でこの白鳥を見て、この形もしや神人と疑い、浜辺に往って見るに、真にこれ神人なりき。伊香刀美、感愛を生こし、白き犬に妹の天の羽衣を盗ませし。姉の七人の天女は天上に帰りしが、妹は羽衣無く天上に帰れず。伊香刀美、この天女と夫婦となり、男女二人ずつをもうけし。兄の名は意美志留(おみしる)、弟、那志等美(なしとみ)、姉、伊是理媛(いせりひめ)、妹、奈是理媛(なせりひめ)。これは伊香連(いかごのむらじ)等の先祖でなりき。後に天女、羽衣を探し当て、天上へと帰りし。伊香刀美は一人空しく床を守り嘆くことしきりなし。」
天女の羽衣を隠した伊香刀美はこの地方を治めた伊香連の祖先とされています。

岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、「かって新羅の地であった江原道金剛山温井里に伝わる、羽衣伝説(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』による)を紹介したあと、天女伝説のあるところは決まって渡来人の多く住んだところだと言う。付け加えるなら、その渡来人の多くは新羅=伽耶系であった。余呉について言うなら、前述のように、ここには天日槍を祀る神社が二つ(新羅崎神社と鉛練比古神社)もあり、その上天日槍が山を削り、余呉湖の水を排して湖面を狭め、田畑を開拓したという言い伝えさえもあるのだ(『近江伊香郡志』)」と書かれている。

余呉湖近くにあり、最後に訪ねる予定の「乎弥(おみ)神社」の祭神は臣知人命(おみしるのみこと)と梨迹臣命(なしとみのみこと)で、この二神は天女伝説のなかの意美志留、那志等美です。
また、余呉町に隣接する木之本町大音にある「伊香具神社」は白鳳時代(七世紀後半から八世紀前半)に建立された神社で祭神は伊香津臣命で、伝説の中の伊香刀美を示し、伊香連を意味します。

衣掛け柳の下から、余呉の湖対岸の上に賤ヶ岳が見える。
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400年前の柴田勝家と羽柴秀吉との、「賎ヶ岳の合戦」でよく知られたところで、余呉湖は血の色に染まったといいます。中でも特に激しかった戦いは、勝家の先鋒佐久間盛正との戦いで、世に言う「賎ヶ岳の七本槍」 (実際は七人ではなく九人らしい。七本は後の人がつけた名称です)としてよく知られています。

いまは、真夏の昼どき、誰も居なくて静かなものです(笑)
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そこから少し行くと、天女像があった。
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左側に「天女の衣掛け柳」が見える。
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それからまた、エッチラオッチラ自転車で向かったのは、余呉湖の余呉駅と反対側にある「新羅崎神社跡」。

その目印になるのが、菊石姫伝説の「蛇の目玉石」。
その伝説は次のようなもの。
余呉湖より二丁余り西、桐畑口というところに桐畑太夫という都からの落人が住んでいた。弘仁二年の春の終わり、太夫最愛の一人の女の子が生まれました。
菊石姫と名付けられたこの娘は、7、8歳になると次第に蛇体の姿となったので、太夫も家に置いておくものではないと、屋敷から一丁余り東北の屋賀原というところに仮家を建て、捨て置きました。
食物も与えられなかったので、菊石姫のお守係の下女が憐み、自分の食物を与えて養育していました。菊石姫が十七、八歳になった夏、川並村は長い日照りに見舞われました。毎日強い夏の日差しが続き、一滴の雨も降りませんでした。 村人達は次第にしおれて行く作物を見ると、胸が締め付けられる様な思いでした。
これまで仮家に閉篭もって一歩も外へ出た事のない菊石姫が、仮家から外に出て、湖の傍に立ち、じっと湖面を眺めていました。しばらく湖面を眺めていた菊石姫は意を決して乳母に「今から、私はこの湖の主になり、雨を降らせて、村人を救ってあげます。」と言いました。
そのとき、片目を引き抜き、「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切にしなさい。」と長く養育してもらったお礼として下女に与えました。
形見の品として大切にしていた目玉だったが、やはり病を治すのによく効き、その他にもいろいろ不思議なことがあました。
このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられました。
下女は仕方がなく差し出しましたが、龍の目は両眼とも持参せよとのご上意で、片目しかない訳を話しても追及は続く。
耐えられなくなった下女は、湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」とよびました。すると、にわかに湖水が波立ち、水を左右に分けて乱れた髪でやって来ました。
下女は「両眼を差し出せねば、火責め水責めにあう。」と訴えた。
菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両目を失っても命の別状ない。しかし、盲目となったら時刻を知ることはできないから、湖水の四方にお堂を建て、時を知らせる鐘をついてくれと、太夫に伝えてください。」といって目玉を抜き、石に投げつけました。
目玉のあとが石に鮮やかについた。この石を名付けて「目玉石」といいます。
目玉石のそばに、長さ3尺横1尺ばかりの石があり、これを枕に菊石姫はしばし休みました。 「これからは私を呼んではなりません。もし会いたくなったら、この石を見なさい。」そういって湖中に消えていきました。この石を「蛇の枕石」と呼んでいます。
両眼を地頭に差し出した下女は助かったが、菊石姫の母はこのことを聞いてから病の床につき、ほどなくしてなくなりました。それからは太夫も病弱になって、菊石姫のことを案じ、湖畔の7つの森にお堂を建てて、時の鐘をつかせました。
菊石姫が盲目となってより、水青く晴天の日でも底が見えなくなったといいます。

これは、余呉湖周遊の道沿いにあり、簡単にわかりました。
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「目玉石」
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道路側
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湖側
こちらに目玉のあとと思しき窪みがあり。
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ここから見える余呉湖
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さて、問題の「新羅崎神社跡」です。
いま居るところが、「白木」森であり、その山中に「新羅崎神社旧跡」と刻まれた碑が立っているのだが、上がり口は、「菊石姫と蛇の目玉石」の傍の「新羅崎の森濠」説明板のところを入っていくと説明されている。

その説明
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上りはじめてすぐに、濠跡らしきものはあり。
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さあ、そこからである・・・・・・・
石碑が、幾ら探してもわからない(泣)
時間は迫る(汗)

ついに石碑一本、ということなので、あきらめました(涙)。

新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)関連の神社で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、近隣の北野神社に合祀された。祭神の新羅大明神にちなんで、明治までは白木神社と書きこの一帯の森は白木の森と呼ばれたとのこと。とにかく今は1柱の石碑が残るのみである。

北野神社は、ちょっと山に入ったところにあり、最初からあきらめていました。

朝、ラッキーにも一時間ほど時間を稼げたので、ここで2時間過ごすことにしたが、まだ「乎弥(おみ)神社」が残っている。余呉駅に停まる北陸線の普通電車は1時間に1本。今日中に隣の木ノ本駅に移動して、「伊香具神社」にも行かなくてはいけない。

ということで、またエッチラオッチラ自転車で、「乎弥(おみ)神社」に向かいました。

なので、今回の記事は、それが目的ではなかったが、「伝説探訪」ということになった。


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猿田毘古神/日本の神々の話

20160813

武蔵国旧高麗郡の白髭神社、隅田区・白髭神社、岩村田・鼻顔稲荷神社、さいたま市・足立神社、近江高島白髭神社などの祭神
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する。
『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。
『古事記』 「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神」の段
(現代語訳)
さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名はサルタピコノ神と申します。私がここに出ているわけは「 天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた。
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「天孫の降臨」の段省略

「猿田毘古神と天宇受売命」の段
(現代語訳)
 さてそこで、二二ギノ命がアメノウズメノ命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕したサルタピコノ大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして獲女君たちは、そのサルタピコの男神の名を負うて、女を猨女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。さてそのサルタピコノ神は、阿那珂(あざか)におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。
 さてアメノウズメノ命は、サルタピコノ神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」 と問いただしたとき、多くの魚がみな「お仕え申しましょう」と申しあげた中で、海鼠だけは答えなかった。そこでアメノウズメノ命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠のロは裂けている。こういうわけで、御代ごと
に志麻国から初物の魚介類を献上する時に、獲女君たちに分かち下されるのである。
以上

その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。
『日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことになる。神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間では伝えられているのは、この記述によるものと考えられる。

「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。

倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。

『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、本居宣長の『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

整理してみる。

1)言葉の忌からは、サ(神稲)ル(の)タ(田)。
猿は元来太陽神とされたが、太陽神は稲田の神とも考えられて、「猿田毘古」と呼ばれたのであろう。
(古事記/次田真幸)

2)記紀神話から、日本の先住人の王だったという説。または天孫族(=天津神=大陸からの渡来民族)と、国津神(=天孫族渡来前の原住民)との仲を取り持った有力豪族の長、という見方もある。

3)「日本書紀」では「衢(ちまた)の神」と記されている。
道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神とされている。
通常、この役目として村の境などに「道祖神」がある地域が多い。道祖神は男女の二像が多く、なかでも猿田彦命と天宇受売命が多い。
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4)神なのに、唯一具体的な姿を見せて人気者(異称が多い)
その神の鼻長は七咫(あた)、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている。(日本書紀)
神幸祭や神輿渡御の際、鼻高面を被った猿田彦役の者が先導をする。
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5)庚申信仰において、猿が必ず登場するが、通常主神は青面金剛なのだが、「サル」通じで主神を猿田彦にした庚申塔がある。
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白髭神社/近江高島

20160812

鎮座地:滋賀県高島市鵜川215
参拝日:2016年8月2日

三日間の「青春18キップの旅」の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮のあと、ここに参拝しました。
敦賀から北陸線に乗り、近江今津で湖西線に乗換え、近江高島駅で降りました。
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心配していたのが交通手段です。歩いて40分、とてもこの暑さのなかでは歩く元気はありません。バスの路線もありません。
事前の情報では、駅前の観光案内所に貸自転車があるというので電車から降りたら、飛んでいきました。
幸い、5台くらい並んでいて借りることが出来てホッとしました。2時間で300円と保証金300円を払って借り受け、さあ出発!

炎天下で、すぐにハアハア、ヨレヨレ(笑)
我慢してペダルをこいで、「乙女が池」に到着。
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古代、このあたりは深い湾入部をなし、勝野津と称して琵琶湖の交通の要衝だったのだが、いつのまにか湖との間が隔てられて池と化したそうです。
ここに寄ったのは、恵美押勝の乱をおこした押勝らがこの池の辺で斬られたと、この間読んでいた本で知ったので。
恵美押勝とは藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)のことで、藤原武智麻呂の次男として生まれる。武智麻呂は藤原不比等の長男、鎌足の孫で、藤原南家の始祖である。
淳仁天皇から藤原恵美押勝の名を賜る。
光明皇后に寵愛され、人臣の位を極め、孝謙天皇が譲位すると淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになります。しかし光明皇太后が崩御すると、仲麻呂にとっては大きな打撃となる。
一方孝謙上皇は道鏡を寵愛し、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれてしまい、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。
ついに孝謙上皇と淳仁天皇との内戦が起り、孝謙上皇に先手を打たれた仲麻呂は平城京を脱出し、子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図ろうとするが、官軍に阻まれて失敗、この地で討たれた。

湖に背を向けて立つと、すぐ正面に見える小高い三尾山は、壬申の乱の戦場となった三尾城のあったところ。
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壬申の乱は壬申の年(672)、天智天皇の子大友皇子(おおとものみこ)と天皇の実弟大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇 位継承権をめぐって、近江・大和を舞台に約1ヶ月にわたって行われた内乱である。
大海人皇子は、天智の死後、兵を挙げ、わずか30数人の手兵を従えて吉野を発った。伊賀・伊勢(三重県)を経て美濃(岐阜県)にはいり、東国への道を押えて近江に進攻し二手に分かれた。
琵琶湖の北を回った軍勢は、北陸路から西近江路にはいり、大友軍の前線基地である三尾城(高島町)を陥落させた。
瀬田などの戦いが有名だが、ここにも戦地がありました。

再び、自転車を漕いでいくと、琵琶湖沿岸に出た。
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沿岸に沿って自転車を進めると、海水浴をしている。
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松林のキャンプ場があり、「白ひげ水泳・キャンプ場」の看板があった。
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それから少し行くと、大鳥居が湖水の中にあった!
白髭神社に到着(嬉)
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まずは、白髭神社のシンボル、大鳥居。
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大鳥居は湖中に立ち、当社のシンボルとなっている。鳥居について古くは弘安3年(1280年)の絵図では陸上に描かれているが、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったと伝える。その伝説に基づいて昭和12年(1937年)に鳥居の寄進がなされ、昭和56年(1981年)に現在に見る鳥居が再建された。

琵琶湖沿岸スレスレに国道161号線があり、その向こうに白髭神社がある。

鳥居
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境内に入る前に、国道沿いの常夜灯を確認。
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永代常夜灯は、江戸時代に京都の近江屋藤兵衛氏が奉納されたもので、以前は湖岸に立ち沖往く舟の灯台としての役割を果たしていた。常夜灯の石柱には、(前=琵琶湖側)白鬚大明神、(後)永代常夜燈、(右)海上安全心願成就の文字が大きく刻まれている。建立は天保4年8月、願主 紅 近江屋藤兵衛 発起京都 早藤卯左衛門 松尾卯兵衛の名前も見える。

境内図
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社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。
当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている。
国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良神」が当社にあたるとされる。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。
弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「白ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初見)、『太平記』巻18では「白鬚明神」という記載も見える。また、謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている。

その後、慶長年間(1596年-1615年)には豊臣秀頼によって境内の整備が行われた。慶安元年(1648年)には朱印地として100石を受け、のちには189石余となったという。
明治に入り、明治9年(1876年)に近代社格制度において郷社に列し、大正11年(1922年)に県社に昇格した。

ここで、岡谷公二氏が『神社の起源と古代朝鮮』で書いていることを載せておく。
社伝によると、垂仁天皇二十五年の創祀と伝え、琵琶湖周辺最古の神社という。しかも式内社ではない。垂仁天皇二十五年はあてにならないとしても、神社の裏山に古墳があることや、さまざまな言い伝えから推して、きわめて古い神社であるのはまちがいない。この事実は、いくつかの興味深い問題を提起する。一つは、渡来人の祀る神社が、他の神社と同じくらい、或いはそれ以上に古い歴史を持っているのではないか、ということであり、また、たとえ古社であろうが、渡来人の祀る神社は、或る時期、或いは或る時期まで、官社とは認められなかったのではないか、ということである。後者に関しては、たとえば『古語拾遺』 (807)応神天皇の項に、「〔……〕秦・漢・百済の内附(まいしたが)へる民、各万を以て計(かぞ)ふ。褒賞(ほ)むべきに足る。皆其の祠は有れども、未だ幣例に預らず」という一節が思い出される。
白鬚神社が新羅系渡来人の奉祀した神社だとは、ほぼ定説になっている。白髭神社とは、古代からの名前ではなく、その名の初見は応永二年(1395)だという。それ以前は比良神、比良明神と言われた由で、ヒラはシラ、或いはヒナに通じる。シラは、新羅の最初の国号である斯廬あり、新羅であり、白である。

手水舎
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大正3年奉納の狛犬
吽の狛犬の角が立派なのがいい。
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拝殿は明治12年(1879年)の造営で、間口三間三尺・奥行二間の四棟造。
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拝殿内部
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長押には、三十六歌仙だと思う額が掲げられていた。
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境内は、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼によって整備が行われた。本殿は慶長8年(1603年)の造営。棟札等から、片桐且元を奉行として播州の大工の手で建てられたとされる。間口三間・奥行三間の入母屋造で、向拝一間を付し、屋根は檜皮葺である。向拝の手挟・蟇股等に桃山時代の特徴を示している。明治の拝殿造営・接続に伴い、向拝の軒先は切り縮められて権現造のような複合社殿様式となり、その際に屋根も柿葺から檜皮葺に改められている。この本殿は国の重要文化財に指定されている。この本殿のほか、境内社4殿も同時期の慶長期の造営になる。
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ご祭神は猿田彦命。

猿田彦については、色々な側面があり、稲田の神、天孫族(=天津神=大陸からの渡来民族)と、国津神(=天孫族渡来前の原住民)との仲を取り持った有力豪族の長、衢(ちまた)の神(道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神)、庚申信仰などがある。

この神社の場合はどうかと思っていたら、神社の説明書には、御神徳は古くから延命長寿白髭の神として広く崇敬され、また縁結び・子授け・福徳開運・譲災招福・商売繁盛・交通安全など人の世の総ての導き・道開きの神として信仰されてきた、とあった。


武蔵國の旧高麗郡にも白髭神社が多く、現に私が住んでいる近くにもあり、越してきたときから我が家の産土神として、毎年元日には参拝をしている。
旧高麗郡の白髭神社についてネットで調べているときに、いつもこの近江の白髭神社も挙がってきて当時は邪魔で仕方が無かった(笑)
当然の話で、高麗郡にも白髭神社よりも、はるかに大きなお宮なのだから。

同じ祭神猿田彦命を祀っているが、高麗郡の白髭神社は「高麗神社」から派生しているので高句麗系。一方の近江の白髭神社は新羅系である。

両社ともに、「白髭明神」を祀ることから白髭神社という社名になっている。
が、今回その「白髭明神」が違うことがわかった。
近江の白髭神社の説明書には、「当社にお祀りしているご祭神の猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、社名の由来になっている」とある。
一方旧高麗郡の白髭神社は、高麗神社のご祭神「高麗王若光」が白髪白鬚の老人のお姿だったので、「白髭明神」とも呼ばれたことに因んでいる。

神紋は「右三つ巴」
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拝殿の近くに、謡曲「白髭」の説明があった。
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境内社を参拝。

摂社・若宮神社
ご祭神:太田命
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若宮神社の横から石段を上がると境内社が鎮座している。
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天照皇大神宮
ご祭神:天照大神
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豊受大神宮
ご祭神:豊受姫神
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三社
・八幡神社「ご祭神:應神天皇」・高良神社「ご祭神:玉垂命」・加茂神社「ご祭神:建角身命」
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寿老神社「ご祭神:壽老神」・鳴子弁財天社「ご祭神:鳴子弁財天」
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波除稲荷社「ご祭神:稲荷大神」
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天満神社「ご祭神:菅原道眞」
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岩戸社には、ここから少し登ります。古墳が点在しているようです。
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岩戸社と磐座が並んでいる。
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岩戸社「ご祭神は不詳」
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覗き込むと、古墳の一つの横穴式石室がそのまま岩戸社として祀られていることがわかります。
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その横には、古代磐座として祀られたのだろうな、と思わせる岩が鎮座している。
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境内には、歌碑・句碑がたくさんありました。

源氏物語の作者でもある紫式部のもので、「三尾の海に 網引く民のひまもなく 立居につけて 都恋しも」という歌が記されています。越前国主となった紫式部の父、藤原為時に従って越前に向かう途中、大津から船路で湖西を通り三尾崎(白鬚神社のある岬)の浜辺で漁をする人の網引く見馴れない光景に都の生活を恋しく思い詠んだものとされています。

海を見渡せる場所に建つ。
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これは観光協会の解釈碑
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紫式部が詠んでいる様を筋彫りで描いた碑
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与謝野鉄幹・晶子夫妻が大正元年にこの白髭神社を参拝した時に読んだ「しらひげの  神の御前にわくいずみ これをむすべば 人の清まる」の歌碑もあります。この歌は社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、上の句は鉄幹、下の句は晶子が詠んだ合作。
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最後に、俳聖・松尾芭蕉の「四方より 花吹入れて 鳰の湖」の句碑。
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一応、境内を隈なく回って参拝を終え、日陰でホッと一休み。
真夏のカンカン照りで、時間は正午。
予定よりも1時間ほど先行しているし、30分ほど昼寝をしようかと思った。
しかし、次の目的地「余呉湖」と近くの乎彌神社参拝を1時間で計画してあるのだが、本当は余呉駅の対岸に訪れたい場所があった。
このペースなら、余呉駅で運よく自転車を借りられれば貯金の時間をはたいて行けるな、と思ったら矢も楯もたまらなくなって、汗ぐっしょりになりながら、近江高島駅まで15分ほど自転車を飛ばして、駅前のコンビニでおにぎりを買って、うまいことあった電車に乗り込んだ。


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鶴ヶ島市・脚折(すねおり)雨乞いまつり

20160810

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 脚折雨乞は、国選択無形民俗文化財に選択されている埼玉県鶴ヶ島市を代表する民俗行事です。
竹と麦わらで巨大な龍蛇を作り、それを担いで白髭神社から雷電池(かんだちかいけ)まで練り歩きます。龍神 (神社を出発する前に宮司の入魂の儀により龍神となる) は、長さ36m、重さ約3トンあり、約300人が担ぎます。龍神が雷電池まで練り歩く様、そして木立の中から龍神が現れ、しずしずと池の中に入り勇壮に動き回る様は圧巻です。
 平成25年には「第17回ふるさとイベント大賞」で県内初の大賞(総務大臣表彰)を受賞しました。

 脚折(すねおり)雨乞については、次のような伝承が残っています。
昔から日照りのとき、脚折の雷電池のほとりにある脚折雷電社の前で雨乞の祈願をすると、必ず雨が降った。特に安永・天明(1772~1789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。しかし、天保(1830~1844) の頃にはいくら雨を祈ってもほとんど「おしるし」がなくなつてしまった。
 雷電他には、昔、大蛇がすんでいたが、寛永(1624~1644) の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町) にある雷電池に移ってしまい、そのため雨が降らなかった。と言い伝えられています。(明治8年頃『村誌編輯』)

明治7年(1874)の夏の干ばつの時には、「畑の作物が枯れそうなので近隣の人が脚折雷電社で雨乞い祈願をしたが、そのしるしがなかった。そこで脚折のムラ人が協議して、板倉雷電神社に行き、神官に一晩中降雨を祈願してもらい、翌日傍らの池の水を竹筒に入れて持ちかえった。
脚折雷電社で、白髭神社の神官が降雨祈願をしていたが、そこに板倉の水が到着したとたん、快晴の空がたちまち曇り出し、まもなく雨が降った」とされています。(同『村誌編輯』)

 脚折雨乞は、昭和30年代半ば頃から行事の担い手である専業農家の減少など社会環境の変化により、昭和39年(1964) を最後に一度途絶えてしまいます。しかし、昭和50年 (1975)に雨乞いの持つ地域の一体感を再認識した地元脚折地区住民が、『脚折雨乞行事保存会』 を結成し、翌51年、脚折雨乞を復活させました。その後、昭和54年(1979)、昭和59年(1984) に実施し、それ以降は、4年に一度行われるようになりました。
 「脚折雨乞行事保存会」 では、龍蛇の骨組みの組み方や龍蛇の目などの竹細工の講習会等による「技」 の伝承や、子ども達が担ぐ「ミニ龍蛇」を作成したりと後継者育成にも力を注いでいます。
 こうした努力により、脚折雨乞は我が国の「雨乞い」を知るうえで貴重な行事と認められ、国選択無形民俗文化財に選択されました。

コース
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歴史クラブの行事にしたので、参加者大勢で東武東上線若葉駅から歩きました。
暑いのと、途中のトイレ休憩で時間を取られてしまい、白髭神社に到着したときには、まさに龍蛇がスタートするところ。
飛んで行って、参道入り口のところで撮りました。
やはり3トンと馬鹿デカク、36mと長いので圧倒的迫力ですね。
(全部まとめて動画にし、後の方にリンクを載せてあります)

龍蛇を見送ってから、白髭神社に参拝。
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社殿の後ろに、樹齢900年余の大ケヤキがあります。
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今度は、善能寺の前から出てくる龍蛇を待ち構えて撮りました。

そして、先行して国道407号線交差点を横断するので、見晴らしが良いので、そこで待ちかまえます。
日陰で待っていて、頃合いを見て陣取りをして、良い位置をキープ。

国道407号線交差点を龍蛇が通っていったあと、歴史クラブの参加者でバテた人がたくさん出て、ここで解散として帰りたい人には帰ってもらった。
最後の見せ場、雷電池には大勢の人が詰めかけていて、ちゃんと見ることは難しいと思われたが、やはり見たいという人が居たので、見に行った。

全然位置的な判断が分からず、場所取りをしたが、運よく神事をする場所の対岸だったので、人の波ごしでも、なんとか神事を撮れたのはラッキーでした(嬉)

雷電池に竜蛇が入ってから昇天(解体)するまで、かなりの時間がかかり(1時間半くらい)、腕を高くかかげての撮影で体力的に参ったのと、暑さで電池が消耗して、思いのほか早く電池を使いきってしまったので、残念ながら竜蛇の昇天(解体)は、撮ることができなかった。

白髭神社出発から雷電池に竜蛇が入るまでの動画を一本にまとめてアップしたので、見てください。

その動画を見る


(了)


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都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)/日本の神々の話

20160809

気比神宮摂社「角鹿神社」の祭神
「天日槍」と同一の神とする説もある。

『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。
『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)」とする。
意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている。

『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

2つ目の所伝では、都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

Wikipediaに載っている考証は以下の様である。
名の「つぬが」については、新羅や加耶の最高官位「角干(スプルカン)」を訓読みしたことに由来するとする説が有力であり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ/アッチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。

また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる[8]。

谷川健一氏が『青銅の神の足跡』において、ツヌガアラシトについてどう書いているかを紹介しておく。
「垂仁紀」の記事によると、ツヌガノアラシトという渡来人が、日本国に聖皇がいますと聞いて帰化しようとしてやってきたとき、穴門の国、つまり長門国の西南部で、そこの国の王と称する伊都都比古と呼ばれる人間から、とどまることをすすめられた。しかしそれをことわって、島や浦をつたい、北海をめぐり笥飯(けひ)の浦まできた。北海というのは出雲の国以北の海岸一帯を指す。
ここにいう「額に角有ひたる人」という奇怪な表現をどのように理解すればよいのだろうか。
例えば本居宣長は、「実の角には非じ、頭に冠りたりし物の角と見えたるなるべし」としている。
谷川健一氏は、額に角の生えた人間というのは、銅や鉄の精錬技術をもたらした大陸系の渡来人にほかならぬ。そう推測するのは、兵器の生産神として古代中国の神話に登場する蚩尤(しゆう)は、銅頭鉄額にして、鉄石を食うとあり、またその耳ぎわの毛は剣戟のようにするどく、頭に角があって、それでたたかうとされているからである。
同様の根拠は、『今昔物語』巻十七、 『宇治拾遺物語』 にみられるとしている。

敦賀駅前に立つ、「都怒我阿羅斯等」の像
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伊奢沙和気命 (いざさわけのみこと)/日本の神々の話

20160809

福井県敦賀市に鎮座の「越前國一之宮・気比神宮」の祭神である。
渡来人で、製鉄に従事する人などに祀られている「天日槍(あめのひぼこ)」と同神説がある。
日本の神社のなかで一番多いといわれる八幡神社の祭神である応神天皇(誉田別命)と名前を交換したという、尋常ではない存在感の神である。

気比神宮のしおりによれば、
千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される伊奢沙別命は笥飯大神(けひのおほかみ)、又の名を御食津大神(みけつおほかみ)と称へ奉り食物を司り給う神で、上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。また、ケは食物を意味し、ヒは霊妙(不可思議な働き)を意味するとも伝えられる。また、弘法大師が立宗された真言宗(密教)では、高野山真言宗の四大守護神(四社明神)のひとつとして祀られ、伝教大師が立宗された比叡山天台宗においても山中に氣比神社を建て守護神として祀られている。

応神天皇が去来紗別尊(いざさわけのみこと)と呼ばれた皇子から初めて皇太子となったとき、越国に行き敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)をお参りした。神の名は誉田別尊。この神に頼まれて名を交換したという。
これは『古事記』の「仲哀天皇」の巻、「気比大神」の段に記述されている。
(現代語訳)
 そこでタケシウチノ宿禰命は、その皇太子を連れて禊をしようとして、近江および若狭国を巡歴した時、越前国の角鹿に仮宮を造って、そこにお住ませ申した。ところがそこにおられるイザサワケノ大神の命が、夜の夢に現われて、「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と仰せになった。そこでその神を祝福して申すには、「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名をいただいて名を変え申しましょう」と申しあげた。するとまたその神が仰せられるには、「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈物をさし上げましょう」と仰せになった。
 そしてその翌朝、皇太子が浜にお出ましになったところ、鼻の傷ついた海豚(いるか)が、すべて浦いっぱいに寄り集まっていた。これを見て御子が、神に申し上げさせて、「神が私に食料の魚を下さった」と仰せになった。それでまたその神の御名をたたえて御食つ大神と名づけた。それで今に気比大神というのである。またその傷ついた海豚(いるか)の鼻の血が臭かったので、その浦を名づけて血浦といったが、今は角鹿と呼んでいる。
*「禊をしようとして」とあるのは、忍熊王(おしくまにみこと)との戦いの際に、敵軍を騙すため「御子は既に亡くなりました」と太子を死んだように言い広めた時の穢れを祓うための禊。

また、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、このように書かれている。
伊奢沙和気のいざさ、乃至いささが、天日槍(あめのひぼこ)の将来した胆狭浅の大刀(いささのたち)とかかわりがあり、出石に因む名であるところからして、この大神は天日槍であると考えるむきも多い。
 伊著沙和気=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、共に就て、書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云がたし」と、栗田寛は『神祇志料』の中で、「此(=祭神)は天日槍命にはあらじかと思はるゝ由あり」と書き、今井啓一はその著『天日槍』の中に「気比大神は天日槍であろう」の一章を設け、三品彰英も、大神を天日槍とする豊田亮「気比神考」を引いて同意を表明している。

付言すると、神功皇后の出身氏族「息長氏」について山尾幸久氏は、「息長氏は、五世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した、新羅文化を背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下にそのころ在地に台頭した集団と考えられる」 (『日本古代王権形成史論』)としている。
天日槍は、新羅の王子であったが、日本にやってきたとの伝承なので、神功皇后がこの神を強く信じていたのは当然と思う。



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越前國一之宮・気比神宮

20160808

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
参拝日:2016.8.2

青春18キップの旅の最初の訪問地である。「ムーンライトながら」で大垣に5:50に着き、そのまま北陸線に乗換え、7:36に敦賀駅に着いた。
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駅前に、「都怒我阿羅斯等」の像があり。この神は気比神宮の摂社「角鹿神社」の祭神。
もともと、この地は「角鹿(つぬが)」だったのが、敦賀に変じた。
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敦賀駅から徒歩15分で、気比神宮に到着。
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大鳥居の前に、狛犬、石灯篭、社号標などが並ぶ。
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社号標
式内社(名神大7座)、越前国一宮、旧官幣大社、別表神社
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由緒沿革(気比神宮しおりより)
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、笥飯大神(けひおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籠磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位(192)の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿爾命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により気比神宮と改められた。延書式神名帳(えんぎしきじんみようちょう)に「越前国教賀郡気比神社七座並名神大社」とあり、また朝廷からの御崇敬は特に厚く伊勢の神宮と並び四所宗廟の一社に数えられた。
中古より越前園一ノ宮と定められ、明治28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨(みくりや)となった。
渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の気比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、気比神宮宮司が検校した。
南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。
元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天簡山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の嗣官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。
慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。
その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年気比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御代に至って御大典記念気比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により己むなく解体、平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。


以上がこの社の説明だが、現在私は渡来系の神社に特に関心があるのだが、この社の祭神については、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』を読んで、私も大いにうなずいているところであり、それを載せておく。
記紀に早く名の現われる古社で、たとえば紀の仲哀天皇二年の条に、「角鹿に幸す。即ち行宮を興てて居します。是を笥飯宮(けひのみや)と謂す」とある。神宮の名も神の名も出てこず、このままではなぜ天皇が角鹿(敦賀)に行ったのかは分からないが、神功皇后の「三韓征伐」前夜のことであり、社記が言うように戦勝祈願でぁったのはまちがいないだろう。その後、記では、「三韓征伐」を終え、香坂王・忍熊王の反乱を鎮圧した直後、神功皇后は、武内宿禰に伴わせて、皇子(後の応神)を「楔せむと為て」敦賀へやり、伊奢沙和気大神を参拝させている。
そして夜、大神は王子の夢に現われて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と言うのである。この名換えに関しては諸説があり、ここではあまり立ち入らないこととする。ただ、少なくとも神功皇后が、伊奢沙和気大神に深く帰依していたことだけは、記紀を通してはっきりと知ることができる。
 気比神宮の祭神は、この大神であって、仲哀天皇以下は、後からの合祀にすぎない。伊奢沙和気のいざさ、乃至いささが、天日槍(あめのひぼこ)の将来した胆狭浅の大刀(いささのたち)とかかわりがあり、出石に因む名であるところからして、この大神は天日槍であると考えるむきも多い。
 伊著沙和気=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、共に就て、書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云がたし」と、栗田寛は『神祇志料』の中で、「此(=祭神)は天日槍命にはあらじかと思はるゝ由あり」と書き、今井啓一はその著『天日槍』の中に「気比大神は天日槍であろう」の一章を設け、三品彰英も、大神を天日槍とする豊田亮「気比神考」を引いて同意を表明している。
付言すると、神功皇后の出身氏族「息長氏」について山尾幸久氏は、「息長氏は、五世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した、新羅文化を背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下にそのころ在地に台頭した集団と考えられる」 (『日本古代王権形成史論』)としている。
また、『古事記』の応神記に書かれているが、神功皇后は天日槍の子孫ということになる。

神橋
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大鳥居
(重要文化財指定 日本三大鳥居)
高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆。寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保2年(1645)建立した。(初代の鳥居は弘仁元年(810)境内東側にて創建されたが、康永2年(1343)暴風で倒壊となり、後に現在の西側の地に再建された。)
明治34年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の御染筆である。昭和20年(1945)の敦賀空襲では唯一その戦火を免れている。
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境内マップ
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参道
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途中、「長命水」あり。
気比神宮の説明によると、大宝2年(702年)、氣比神宮はそれまで伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(氣比大神)1柱を祀る神社でありましたが、文武天皇の勅命で大神とのご神縁により仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され、御祭神は七柱とされました。その際、神宮を修営しましたが、修営途中突然として地下水が噴出したと伝えられます。合祀された神々、特に武内宿禰命は大変長生きをされた神様でありますので、これは、祀られた神々の御神徳が宿る神水として信仰され、1300年以上の長きに亘り今に長命水の名称で親しまれています。近年ではパワースポットとして多くの参詣者がここを訪れ、境内名所の一つとなっています。
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手水舎
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神門を入ると、広々とした空間が広がっている。
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拝殿
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向拝部の彫刻
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拝殿内部
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幣殿
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拝殿の横に回り、本殿を仰ぐ。
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ご祭神は
本殿に
伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。

四社の宮
東殿宮:日本武尊
総社宮:応神天皇 - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命 - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする。
西殿宮:武内宿禰命

神紋は「十六弁八重菊」、「五七の桐」、「三つ巴」
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これから、境内社を参拝します。

【土公】
気比神宮境内全域11,253坪。天筒山の方角、神宮北東部に残る「土公」は気比大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地である。社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地に撒けば悪しき神の崇りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊。古い時代における多くの祭祀の形態は神籠磐境(ひもろぎいわさか)と呼ばれ、大きな岩を中心とした山での祭祀、大木を中心とした森での祭祀など自然の形を損なうことなく祭祀が営まれた。仏教伝来による寺院建築の影響もあり、奈良時代から現代のような社殿を建て祭祀を行うように変化した。当神宮創祀は2,000年以上の神代に遡り、当初は現在の土公の地で祭神を祀ったと云うが、大宝2年(702)朝廷御関係の神々を合祀、現在のような社殿の元が建立され祭祀がなされた。御社殿建立後も土公は当神宮の古殿地として手厚く護られ、平安時代の名僧伝教大師最澄、弘法大師空海は当大神に求法の祈誓をかけこの土公前で7日7夜の大行を修したと伝えられる。

現在は、隣接する小学校のグランドに存在するが、大切に保存されているようだ。

境内に遥拝所がある。
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説明
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享和元年(1801)奉納の狛犬が、大きくて立派。
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遥拝所
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土公
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【摂社・角鹿(つぬが】神社】
ご祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇気比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が表通であったため気比神宮本社の門神と云われる。

当ブログの「日本の神々の話」で、「客人神(まろうどがみ)」を既に取り上げていて、気比神宮の角鹿(つぬが)社も例として載せている。
客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。
客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。

また谷川健一氏が『青銅の神の足跡』において、ツヌガアラシトについてどう書いているかを紹介しておく。
「垂仁紀」の記事によると、ツヌガノアラシトという渡来人が、日本国に聖皇がいますと聞いて帰化しようとしてやってきたとき、穴門の国、つまり長門国の西南部で、そこの国の王と称する伊都都比古と呼ばれる人間から、とどまることをすすめられた。しかしそれをことわって、島や浦をつたい、北海をめぐり笥飯(けひ)の浦まできた。北海というのは出雲の国の海岸一帯を指す。
ここにいう「額に角有ひたる人」という奇怪な表現をどのように理解すればよいのだろうか。
例えば本居宣長は、「実の角には非じ、頭に冠りたりし物の角と見えたるなるべし」としている。
谷川健一氏は、額に角の生えた人間というのは、銅や鉄の精錬技術をもたらした大陸系の渡来人にほかならぬ。そう推測するのは、兵器の生産神として古代中国の神話に登場する蚩尤(しゆう)は、銅頭鉄額にして、鉄石を食うとあり、またその耳ぎわの毛は剣戟のようにするどく、頭に角があって、それでたたかうとされているからである。
同様の根拠は、『今昔物語』巻十七、 『宇治拾遺物語』 にみられる。

社号標
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鳥居
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狛犬
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社殿
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【末社・兒宮】
ご祭神は、伊弉冉尊(いぎなみのみこと)。
平安朝時代、花山天皇寛和2年(986)9月20日遷宮の事が残されており、その以前より御鎮座の事があきらかである。徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。
拝殿には、母子大小の狛犬が御護りする。

鳥居
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拝殿
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享保11年(1726)奉納の狛犬。
母(大)と子(小)が左右に侍っているのは、初めて見た。実に珍しい。
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向拝部の獅子の彫刻
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【末社・大神下前(おおみわしもさき)神社】
ご祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)
式内社、気比大神四守護神の一つとして、もと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
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奉納年不明だが、良い感じの狛犬
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社殿
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遥拝所の庇が長い。団体での参拝が多いのか。
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【末社・猿田彦神社】
大鳥居から入ってすぐにある。
ご祭神:猿田彦大神
気比大神の案内をされる神で、一般に庚申様と唱えて信仰が篤い。
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寛保3年(1743)奉納の狛犬
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社殿
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社殿の周りを岩で囲んでいる。瑞垣に代わるものか。磐境か。
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参拝者が多いのが感じられる。
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三猿の彫刻があり。
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社額
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【九社之宮】
境内の西方に位置し、九社が鎮座する。古来より気比大神の御子神等関係の神々をお祀りし、「九社之宮」として崇敬されている。

鳥居から入ると、まず二社鎮座している。
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○伊佐々別神社[いささわけじんじや]
ご祭神:御食津大神荒魂神(みけつおおかみあらみたまのかみ)。
当宮奮記によれば「古来漁捕の輩之を尊敬し奉る」とある。この社殿が北面しているのは漁拷を守る神であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易(か)うる事を約しまた仰せの通り翌朝浜に出てみると笥飯の清一面に余る程の御食(みけ)の魚(な)を賜わった。天皇大いに嬉び給うと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂(あらみたま)を勧請崇祀せしめられたのがこの社である。

○擬領神社[おおみやつこじんじや]
社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。奮事紀には「蓋し富国国造の祖なるべし」と載せてある。

そして、本殿と並行の向きに、七社鎮座している。
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○天利劒神社【あめのとつるぎじんじや]
ご祭神:天利劒大神。
式内社、仲哀天皇当宮に参拝、宝劒を奉納せられ霊験いと奇しと云う。後に嗣(ほこら)を建て天利劒宮と称え奉り御神徳をさずかる崇敬者は多い。

○天伊弊奈彦神社[あめのいざなひこじんじや]
ご祭神:天伊弊奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。
式内社で續日本後記に、承和7年(840)8月越前囲従二位勲一等気比大神御子無位天利傲神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

○天伊弊奈姫神社[あめのいざなひめじんじや]
ご祭神:天比女若御子大神。
式内社、社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。

○鏡神社[かがみのじんじや]
神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わされたので別殿に国常立尊(くにのとこたちのみこと)と共に崇め奉り天鏡宮(あめのかがみのみや)と称え奉ったと云う。慈悲の大神として知られる。

○金神社[かねのじんじや]
素蓋鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、家内安全の神とされている。
垣武天皇延暦23年(804)8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法(てんどくぐほう)にて渡唐を祈る。嵯峨天皇弘仁7年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の気比明神はこれである。

○林神社[はやしのじんじや]
林山姫神(はやまひめのかみ)を祀る。
福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と御同体である。垣武天皇延暦4年(785)勅に依り僧最澄気比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山菊比明神の本社である。

○劒神社[つるぎじんじや]
ご御祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、薪生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えらる。

【末社・神明両宮】
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社殿西側の最奥に鎮座。
ご祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
外宮は慶長17年(1612)3月28日、内宮は元和元年(1615)9月28日それぞれ勧請奉祀されたものである。

【絵馬堂】
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亀の池に接してあり、たくさんの絵馬が掛けられていた。
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【芭蕉の碑】
○芭蕉の像があり、台座に句が刻まれている。
「月清し遊行のもてる砂の上     はせを」
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『おくのほそ道「敦賀」』
やうやう白根が岳隠れて、比那が嵩現る。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。
その夜、月殊に晴れたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるが如し。
往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍ると、亭主の語りける。
「月清し遊行のもてる砂の上」
十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。
「名月や北国日和定めなき」】

○ライオンズクラブ国際協会第42回年次大会記念碑
芭蕉翁月五句
「国々の八景更に氣比の月」
「月清し遊行のもてる砂の上」
「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」
「月いつく鐘は沈る海の底」
「名月や北国日和定なき」
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○句碑(右)と芭蕉翁杖跡碑(左)と樹齢700年と云われるタモの木
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句碑:
「なみたしくや遊行のもてる砂の露  ばせを」
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芭蕉翁杖跡碑:
「なみたしくや遊行のもてる砂の露 はせを」
「月清し遊行のもてる砂の上     はせを」
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【ユーカリの巨木】
敦賀市指定天然記念物
この巨木が北陸の寒冷地に育つことは珍しい。
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これで参拝を終え、駅に向かって急ぎましたが(北陸線は本数が少ないので、乗り遅れるとダメージが大きい)、
振り返ると、気比神宮の向こうに伊奢沙別命が降臨したという天筒山が聳えていた。
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青春18キップの旅の、次の目的地は近江高島に鎮座する「白髭神社」です。


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入間川七夕祭り

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この七夕は、8月6日(土)と7日(日)に行われます。
実は去年まで、毎年娘たちの希望で8月の第一土日に富山に帰省するのが我が家の習わしでした。
今年は、都合で時期をずらしたので、この七夕を見ることができました。
十何年ぶりかに見ました。

都合で、今日早く見る必要があって、11時ころに行ったらまだ全然七夕飾りが下がっていなくて、ガックリ。
図書館で時間をつぶして、駅前でランチして、12時半くらいに行ったら見事に飾りつけしてあり、
その手際の良さに感服しました。

駅前西口ロータリーから市民広場に下るところから七夕飾りがされています。
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子供たちが書いた短冊がびっしり。
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狭山茶のサービスです。
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手ぬぐいと風鈴の組み合わせで粋でした。
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狭山市には自衛隊基地があり。
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熊本がんばれ!!
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某中学の七夕
これでいいのか(笑)
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浴衣美人発見!!
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細工が細かい
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今夜は花火もあります。
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(了)


「お気に入りの場所」を見る



「青春18キップ」の旅

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今年は、「青春18キップ」の旅をやろうと決めていて、何処を旅するかだが、「ムーンライトながら」のことを知ってこれに乗ろうと決めた。
「青春18キップ」対応としてだろうか1ケ月間のみ運行、普通列車のくせに全車指定で、リクライニングシート。
岐阜県大垣から朝6時にスタートできるのが良い。
ただ、指定を取るのが大変だった。「えきねっと」でトライを重ねて、ようやく8月1日夜出発の分を獲得することができた。

では、どこを廻るか。
ベースは、前から機会があれば出来るだけやろうと決めている「諸国一之宮めぐり」にした。
北陸で、越中國、能登國、加賀國は済んで、越後國は、車でいつでも行けるとの安心感からまだ未了。残る越前國の一之宮が敦賀なので今まで行き難かったのでこれを入れる。
あと美濃国一之宮と尾張國一之宮を当然入れた。
近江の「白髭神社」を入れたのは、旧高麗郡に展開されている白髭神社は高句麗系渡来人が祀った神社だが、近江の白髭神社は新羅系らしく、その存在が気になっていた。
となると、湖北に存在する渡来人が祀った神社が多いのだが、その中から「羽衣伝説」で名高い神社を参拝することにした。
「お多賀さん」も当然参拝しなくてはいけない。
「熱田神宮」も昔行ったことがあるのだが、その頃は歴史に詳しくなく、全然参拝したとは言えないので、今回ちゃんと参拝することにした。

それから、木曽義仲の墓と芭蕉の墓がある「義仲寺」には、この際どうしても訪ねたいので入れた。

他にも行きたい所がどんどん出てきて迷いに迷ったが、なにしろ「青春18キップ」は5日分とはいえ、この暑い時期に5日は無理で、3日間として、前記のところに落ち着いた。

それから時刻表と首っ引きで、行程を組み立てた。

実績が下記のもの。
計画した行程表を持参して、実績時間を書き込みしていった。

8/1 東京23:10発「ムーンライトながら」乗車
8/2 小田原駅0:31から青春18キップ。車掌さんにスタンプを押してもらう。
大垣5:51着 (社内朝食)
大垣5:53発⇒東海道本線⇒米原6:30着 6:50発⇒北陸本線敦賀行⇒敦賀7:36着⇒徒歩15分 【越前国一之宮 気比神宮】(1H47分)⇒敦賀駅発9:23北陸本線⇒近江今津10:00 10:11発湖西線⇒近江高島10:21着⇒貸自転車 【白髭神社】(2H02分) 近江高島12:23発敦賀行(車内昼食)⇒近江塩津13:03 13:06発北陸本線⇒余呉13:10⇒駅の貸自転車 【余呉湖・菊石姫と蛇の目玉石・新羅崎神社・乎彌神社】(2H)⇒余呉15:10⇒北陸本線⇒木ノ本15:14⇒徒歩片道2Km 【伊香具神社】(1H37分)⇒木ノ本17:14⇒北陸本線⇒米原17:42 17:48⇒東海道本線⇒彦根17:53
〔彦根泊〕

8/3
彦根7:20発⇒近江鉄道⇒多賀大社前7:40⇒ 【多賀大社】 (1H31分)⇒多賀大社9:11⇒近江鉄道⇒彦根9:26着 9:28発東海道本線新快速⇒石山10:15 10:23発⇒膳所ぜぜ10:26着⇒徒歩300m【義仲寺:木曽義仲と松尾芭蕉の墓 】 (昼食含め1H37分)⇒膳所12:03⇒東海道本線⇒石山12:05 12:13発新快速⇒米原12:53 13:30発⇒東海道本線⇒垂井13:56着⇒往きタウンバス、復路徒歩20分 【美濃一宮・南宮大社】 (1H30分)⇒垂井15:26発⇒東海道本線⇒大垣15:33 15:41発特別快速⇒尾張一宮16;02着⇒徒歩8分 【尾張一宮・真清田神社】⇒ホテル
〔尾張一宮泊〕

8/4
名鉄一宮7:39⇒名鉄名古屋本線⇒妙興寺7:41着⇒徒歩10分 【尾張一宮・大神神社】 (1H)⇒妙興寺8:50発⇒名鉄名古屋本線⇒名鉄一宮8:52 尾張一宮9:04発⇒東海道本線快速⇒名古屋9:15着 9:19発⇒東海道本線⇒熱田9:26⇒ 【熱田神宮】 (昼食含め3H)
*熱田駅に12:30頃着いたが、直前に岐阜・大垣間で事故があり、快速が運行中止などダイヤが乱れていた
熱田12:59⇒東海道本線普通⇒大府13:19(快速に乗換しようとしたが、そのまま普通)⇒岡崎着13:50着 13:55発新快速⇒豊橋14:25 14:27発⇒東海道本線⇒浜松15:04 15:09⇒静岡16:20着 (休憩) 17:00発東海道本線普通⇒熱海18:14着 18:34発普通宇都宮行⇒国府津19:10 19:33発湘南新宿ラインに乗換⇒恵比須まで来たが埼京線事故で不通、山手線に乗換え⇒新宿20:49着


「ムーンライトながら」は、アイマスクは当然持参、リクライニングシートだし、少しは眠れるかなと思ったが、全然眠れず(泣)
朝方少しウツラウツラした程度。
初日が不安になったが、気分が高揚していたせいか、全然身体もダルくなくて、一日元気に歩き回れた。
事前に2週間くらいウォーキングで鍛えた甲斐があったかもしれない。

「ムーンライトながら」
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シートはこんな感じ。
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毎日、1時間くらい計画より速い時間でスタートして、気に入った場所で貯金の時間を使ってのんびり過ごした。
初日は余呉の湖、予定では駅に近いところだけのつもりだったが時間に余裕あったので貸し自転車で余呉の湖の周りを走った。
二日目は木曽義仲の墓と芭蕉の墓がある「義仲寺」。
三日目は熱田神宮。

普通列車の旅というのは、特急の指定を取っているとか、制約が無いから気楽。
早く目が覚めて早く出たら、それなりに速い電車に乗ればいい。
何かアクシデントで遅れたら、それなりに遅い電車に乗って先に進めばいい。
気楽に移動できました。

出掛ける前は、天気予報は曇りだったのに、三日間とも「カンカン照り」。暑くて参った。
熱中症との闘い。どうしてもギリギリまで写真を撮っていて、駅まで急ぎ足のときにクラクラッときて、熱中症だヤバイと。気持ちは焦っていても、並足でトロトロと(笑)

初日、二か所で貸自転車で炎天下を走ったが、あれはヤバかった。
これは熱中症になるな、と思いながらも見たい気持ちが先行して足は動いた(笑)
坂道の上りがシンドクて、焦るな焦るなとセーブしながら移動した(笑)

神社は、樹が多くて日陰が多くて助かった。

それぞれの場所は、これから個別にアップしていきます。

三日目、お昼から帰ろうとしたら、東海道線岐阜と大垣の間で事故。予定していた快速電車が運行中止。とにかく普通電車で先に進むことにした。
乗り継ぎ駅に遅れて到着して、待っている電車に飛び乗ったのが岡崎と豊橋。浜松で計画では30分前に着いて休憩を入れるはずが、5分の待ち時間となった。それでも、そこから予定時間どおりの電車となった。
ずいぶん遠くまで影響するものですね、事故の影響は。

名古屋から新宿まで8時間ほどかかったわけだが、意外と退屈しなかった。
持参した本が面白くて読了した。
車窓風景が、新幹線のときとは違い、よく見えて楽しかった。
現れてくる駅名が、旧東海道の宿名だったりして、旧東海道を歩いているような気分にもなった。

三日消化した、「青春18キップ」
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どのくらい、安かったかを計算した。
通常運賃が、
一日目小田原から敦賀、湖北等を経過して彦根まで、9310円。
二日目が2910円。
三日目が新宿までで、6560円。
合計18560円。

「青春18キップ」のほうは、2370円×3=7110円

差し引き、11670円安くあがったことになる。


まだ二日残っているのだが、カミさんに二人で日帰りでどこかに行こうと提案しているのだが、「日帰りで行くようなところなら、車の方が楽だし、涼しい」と拒否されている(汗)

どうしたもんじゃろなあ・・・・・・・・



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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