茂侶(もろ)神社(延喜式内論社)/千葉県流山市

20160929

鎮座地: 千葉県流山市三輪野山5-619
参拝日: 2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、今回残る5社に参拝です。
参加者は10名。マイクロバスで移動です。

この神社には駐車場が無いため、斜め向かいのコンビニの駐車場に置かせてもらいました。参加者がコンビニで買い物したのは勿論です。

茂侶神社の社叢
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社号標
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社格等:式内社 下総国葛飾郡茂侶神社(小)、旧社格は村社
『延書式神名帳』には小社として「下総国葛飾郡茂侶(ほろの)神社」として記載されており、その論社に当たる。論社には他に2社(松戸市と船橋市)がある。

『延書式神名帳』
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論社とは:
武内社の後裔が現在のどの神社なのかを比定する研究は古くから行われている。現代において、延書式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしや)・比定牡(ひていしゃ)などと呼ばれる。
式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。延書式編纂時以降、社名や祭神・鎮座地などが変更されたり、他の神社に合祀されたり、また、荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることもある。
論社には、他の研究によって後裔社だとみなされることもあるが、その神社自ら武内社だと主張することも多い。

茂侶神社自体の国史での初見は、『日本三代実録』貞観13年(817年)11月12日条「茂侶神に従五位上の神階を授ける」という記述である。その後、元慶3年(879年)9月25日に正五位上を授けられた。

当社の創建は不詳。祭神の大物主命は、奈良県の三輪山にある大神神社の分霊とされており、社名の「茂侶」は、三輪山の旧名「御諸山(みもろやま)」の「モロ」のことであると見られている。そのため、当社の鎮座する台地もまた「三輪山(三輪野山)」と呼ばれている。神宮寺跡・旧参道西平井の鳥居跡・八木郷の地名由来などから、当社は広大な神域を有していたと推測されている。

慶長3年(1598年)、江戸川が掘られたことにより神域が分断された。当神社はその東岸にあたる。そのため、元和年間に江戸川西岸に分社し、三輪神社が創建された。また、当社には江戸幕府から毎年25石の祭祀料が捧げられていた。

一の鳥居
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二の鳥居
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二の鳥居をくぐると、両側に石灯篭が並ぶ参道が真っ直ぐ社殿に延びている。
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手水舎
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拝殿
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拝殿向拝部
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拝殿内部
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本殿
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ご祭神は、大物主命
大物主命については、既に記事にしています。

その記事を読む


神紋は「三杉」
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大国主命像(平成8年・1996)
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主な神事「ジンガラ餅(1月8日)
新年祭(オビシヤ)において、鏡餅を神前にそなえたのち氏子が引きちぎりあう。餅の割れ方により、その年の作柄を占っていた。流山市指定無形民俗文化財に指定されている。
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境内の万葉歌碑
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万葉集 巻14-3386
「鳰鳥(にほどり)の 葛飾(かづしか)早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも」
(作者) 未詳。下総国の歌。
(大意) 
葛飾の早稲を神様に供える夜は身を慎まなければならないのだけれども、あのいとしい人が来たら外に立たせたままにすることができるでしょうか。とてもできません。
(注釈) 
「鳰鳥(にほどり)」は 、潜ルの意のカヅクから、葛飾(カヅシカ)につながる。「饗(にへ)す」は、その年の新(にい)物をささげることで、東国ではその夜は物忌みが厳重で、その供応にあずかる神以外は、家人はすべて外に出された。「とも」は逆接仮定条件の接続助詞、・・デアルトシテモ。「その愛(かな)しきを」は、ソノイトシイ人ヲ。「立てめやも」は、終助詞ヤモで、強い反語となり、立タセルコトガデキルダロウカ、イヤデキヤシナイ、の意。

神宮寺のなごりであろうか、入り口近くの境内に沢山の石仏が並んでいた。
中央に、不動明王などが納まる祠がある。
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その左に石仏が並ぶが、その中に四体青面金剛庚申塔があった。
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造立年不確認、剣とショケラ型青面金剛庚申塔
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元禄4年(1691)造立の、合掌型青面金剛庚申塔
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天保10年(1839)造立の、合掌型青面金剛庚申塔
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天明3年(1783)造立の、剣とショケラ型青面金剛庚申塔
背後の植え込みが近くて、満足な撮影は出来なかった。
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右側にも石仏が並ぶが、その中に三体の文字塔の庚申塔があった。
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これで、当社の参拝を終え、続いて蛟魍(みずち)神社に向かいました。


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江島(えのしま)神社(後半)

20160922

鎮座地:神奈川県藤沢市江の島2-3-8
参拝日:2016年9月15日

青春18キップの最後の1日の旅で、相模国一之宮・寒川神社に参拝した後、移動して江島神社に参拝しました。小田急「片瀬江ノ島」駅から、弁天橋を渡り江ノ島に入り、瑞心門、辺津宮、中津宮までは、「江島(えのしま)神社(前半)」で、既に記事にしており、今回はその続きの記事です。

「江島(えのしま)神社(前半)」の記事を見る


境内図
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中津宮を出て、江ノ島灯台の下を通ってすぐ、海上亭というお店の辺で眺めの良い展望台があり、小休止。
そこから江ノ島灯台がきれいに見えた。
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「一遍上人の島井戸」
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「山二つ」
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「下道」への分岐点のところに、「木喰上人行場窟」の碑があり。
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この辺はアップダウンが激しい。
「山二つ」から下ってきて、「下道」への分岐点を過ぎて、また上がります。
これは振り返って撮ったもの。
赤い服の女性の左が、「下道」への分岐点のところ。
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「群猿奉賽像庚申塔」
これは、各地の庚申塔を追いかけている私にとって、この日の最大の収穫でした(嬉)
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四面にびっしりと36匹の神猿が刻まれている。
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これは烏帽子を冠って御幣や扇を持っている。
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いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」の三猿だが、踊りながらのものは、私は初めて。
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はしご乗り、棒からぶら下がり、棒渡りなど曲芸みたいなのもあり(笑)
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【奥津宮】
多紀理比賣命を祀る。

鳥居
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源頼朝が奉納した石鳥居が、かってここにあったらしい。
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手水舎
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吐水口は、普通は龍だが、ここでは亀。
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「亀石(亀甲石)」
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奥津宮社殿
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明治26年奉納の狛犬
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弘化三年(1846)奉納の石灯篭
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竿の部分に竜が巻き付いている。
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獅子の彫刻
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左右の石灯篭の台座に浦島太郎と乙姫がそれぞれ掘られている。
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拝殿天井には酒井抱一の『八方睨みの亀』が描かれている。
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拝殿の大きな杓子には、飛天と龍が描かれている。
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入母屋造の本殿は天保13年1842年に再建されたもの。
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【龍宮(わだつみのみや)】
龍宮大神を祀る。
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鳥居
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祠の上に龍宮大神がいる。
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石積みの祠の中に社殿あり。
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ここから海の近くに降りていく。
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ちょうど海沿いの崖の上に出たところに、松尾芭蕉などの碑がある。
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芭蕉の句碑
「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」
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服部南郭の島で一番古い詩碑
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そこから降りると「稚児が淵」。
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「岩屋橋」を渡って、岩屋に。
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【岩屋】
岩屋は「第一岩屋」と「第二岩屋」に分かれていますが、第一岩屋が「江島神社発祥の地」。(上の写真)
社伝によると欽明13年(552年)に欽明天皇の勅命で、ここに神様を勧請したのが江島神社の始まり。
は旧暦4月~10月は岩屋に海水が入り込み、その間ご祭神は本宮(御旅所)に遷座していた。それが大正時代の関東大震災で1mほど島が隆起。現在は海水が入り込まなくなったとのこと。

長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成ります。昭和46年以来、長期閉鎖されていましたが、周辺施設を一新し、平成5年4月から再開されています。

古くから信仰の対象にもされてきた岩屋は、弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。

岩屋に入ります。
照明や音響で演出された洞内では、様々な展示物から江の島が歩んできた歴史と文化の一端をご覧いただけます。
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与謝野晶子の歌碑
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日蓮の寝姿石
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「第一岩屋」を出て、「第二岩屋」に向かう。
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途中の橋から、「亀石」が見える。
この時間は、潮が上がっていて、波が来ると姿が隠れてしまう。
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「第二岩屋」は、手蝋燭を渡されて奥に進む。
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「天女と五頭龍」
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洞窟の奥に、龍の姿があり。
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『江島縁起』は平安時代に創られたとされています。
そのあらすじは:
昔、鎌倉の深沢には周囲40里もある湖があり、そこには五頭龍が住んでいました。その龍の行った悪行はと言えば、山を崩す、洪水を起こす、疫病をはやらす…そして生贄として子供まで食べていた。
欽明13年4月12日(552年)、黒雲が天を覆い、大地震が起きて高波が村を襲いました。大地は10日間揺れ、揺れが収まると今度は海底が大爆発を起こし、岩を吹き飛ばすとそこには小さな島が…。(これが江ノ島です。)
すると雲から美しい天女が現れました。五頭龍はこの様子を見守っていましたが天女にひとめ惚れをして、結婚を申し込みます。しかし天女は悪行を理由に拒否。
諦めきれない五頭龍は行いを改めることを約束し、天女も結婚を受け入れました。その後五頭龍は日照りに雨を降らせ、台風を防ぎ、津波を押し返すなど、約束通り村を守ります。しかしその度に弱って行き、最期を悟った五頭龍は山となり村を守るようになりました。(片瀬山)
天女は江の島の弁財天として、五頭龍は江の島の向かいにある「龍口明神」に祀られています。

「第二岩屋」を出て、帰りは海野景色を楽しみながら、帰ります。
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帰りは、「下道」を通って、朱紅鳥居のところに戻った。
途中、茅ケ崎の方を見通せるところがあり。
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望遠スームで、なんとか烏帽子岩を捉えた。
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そこからちょっと行くと、眼下の堤防で釣りなどして遊んでいるのが見えた。
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江ノ島を出る前に土産物を物色し、帰途についた。
この日は、相模国一之宮・寒川神社参拝のあと、江島神社に来たわけだが、軽く考えていたら江ノ島全部を駆け巡ることになり、大汗をかいた(笑)。
だが、やはり江ノ島は面白かった。収穫も沢山あり楽しい一日だった。

帰りは疲れていたので、JRは新宿までとして、そこからは西武新宿線で帰った。

完遂した「青春18キップ」です。
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(了)


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神楽舞「高麗照耀」&薩摩琵琶「高麗王若光」

20160920

昨日、9月19日(月)に、高麗神社の音楽祭の中で行われるというので、出かけました。
家を出る時は、降っているか分からないくらいの雨。
しかし、高麗神社に着いたら、しっかりと降っていました(泣)

幸い、テントの観客席の最前列に場所を確保できたので、雨のカーテン越しに(笑)
撮影することが出来ました。

高麗神社には立派な神楽殿があります。
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【神楽舞「高麗照耀」】
これは高麗郡建郡1300年記念として創作された、高麗神社オリジナルの神楽舞です。
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雨の影響で、ピントがずれた部分を除きましたが、全編を二回に分けてユーチューブにアップしました。
下記クリックすれば、見ることが出来ます。

神楽舞「高麗照耀」前半を観る



神楽舞「高麗照耀」後半を観る




【薩摩琵琶「高麗王若光」】
これは高麗郡建郡1300年記念として、琵琶奏者:藤野水銘氏が創作されたオリジナルの薩摩琵琶です。
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「高麗王若光」の物語なので、省略せず全編を二回に分けてユーチューブにアップしました。
下記クリックすれば、見ることが出来ます。

薩摩琵琶「高麗王若光」前半を観る



薩摩琵琶「高麗王若光」後半を観る



高麗神社でしか観ることが出来なくて、しかも大好きな神楽舞と琵琶演奏だったので、大満足でした。
伝統芸能は素晴らしいですね。

(了)


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宗像三女神/多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命

20160918

宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称である。
宗像神(むなかたのかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれる。

『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。
沖ノ島の沖津宮:多紀理毘売命(たきりびめ)、別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)
大島の中津宮:市寸島比売命(いちきしまひめ)、別名 狭依毘売(さよりびめ)
宗像本土・田島の辺津宮(へつみや):田寸津比売命(たぎつひめ)

一方、『日本書紀』本文では以下のようになっている。
沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)神
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)神
辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)神

古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命(すさのを)の十拳剣を譲り受けて生んだとされており、須佐之男命の物実(ものざね)から化生したので須佐之男命の子としている。 『日本書紀』については本文と一書で天照大神と素戔嗚尊の誓約の内容が多少異なる。

『日本書紀』には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道を導く最も尊い神として崇敬を受けたことが記されている。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち、=天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち、=大国主命)のみである。
このことから、宗像三女神が皇室をはじめ人々から、いかに篤い崇敬を受けられていたかがうかがえる。これは、宗像から大陸への海路は中央政権にとっても大切な道であり、歴代天皇のまつりごとを助ける宗像三女神が、中央政権と強く結びついた国家神であったともいえる。

この三女神は、後世の『西海道風土記』 によると、天降った時、まず埼門山(さきとやま)に降り、青い玉を奥津宮 (現在の宗像郡の北西海上の沖の島)、紫玉を中津宮(宗像郡の海上の大島)、八爬の鏡を辺津宮 (宗像郡玄海町田島) に、それぞれ自分の象徴とし、神体として、三宮に納め、身を隠したという。

沖ノ島から出土した遺品8万点が全て国宝となり、いかに古代において沖ノ島が国家祭祀の中心であったことが窺える。
朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。

『古事記』に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、胸形氏ら海人集団の祭る神であった。それが、朝鮮半島との緊密化により、土着神、地方神であった三神が5世紀以降国家神として祭られるようになったと思われる。

宗像三女神を祀る、主な神社
・宗像大社 - 福岡県宗像市田島鎮座 総本社
・厳島神社 - 広島県廿日市市厳島鎮座 総本社 安芸国一宮
・江島神社 - 神奈川県藤沢市江の島鎮座


○多紀理毘売命・田心姫神
宗像大社では、「田心姫神」として沖津宮に祀られている。

『古事記』の大国主命の系譜では、多紀理毘売命は大国主命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだと記されている。

神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである。

この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、天照大神(あまてらす)と素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)の誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。

○田寸津比売命・湍津姫神
宗像大社では、「湍津姫神」として中津宮に祀られている。

『先代旧事本紀』には、後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。

神名の「タギツ」は「滾(たぎ)つ」(水が激しく流れる)の意で、天の安河の早瀬のことと解釈される。

タギツヒメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている

○市寸島比売命・市杵嶋姫神
現在の宗像大社では、『日本書紀』本文のとおり、辺津宮の祭神としている。

『日本書紀』本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしている。現在宗像大社では、辺津宮の祭神としている。
また市杵島神社では、「市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されているという。」という説明板がある。

神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。辺津宮は陸上にある宮であり、その意味では、中津宮・沖津宮の祭神とする『記紀』の記述の方が神名の由来に近いことになる。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。

宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、天照大神(あまてらす)と素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)の誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。

後に仏教の弁才天と習合し、本地垂迹において同神とされた。
そのため、弁才天を祀っていた神仏習合のお宮は、明治になってからたいていは祭神を市杵島姫命としている。

市杵島姫神は鎌倉時代に行勝上人により厳島神社から勧請され丹生都比売神社の主祭神のうち第四殿の祭神となった。
丹生都比売神社 : 和歌山県伊都郡かつらぎ町鎮座 総本社

市杵島姫神は中津島姫命の別名とされ大山咋神と供に松尾大社の主祭神である。
松尾大社 : 京都市西京区鎮座 総本社



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江島(えのしま)神社(前半)

20160917

鎮座地:神奈川県藤沢市江の島2-3-8
参拝日:2016年9月15日

青春18キップの最後の1日の旅で、相模国一之宮・寒川神社に参拝した後、JR相模線宮山駅から茅ヶ崎を経由して藤沢まで来て、そこから小田急で「片瀬江ノ島」駅まで乗車。
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参道が真っ直ぐ、江ノ島に続いている。
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途中から、弁天橋になります。
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島に着くと、青銅の鳥居が迎える。
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江の島道においては三の鳥居で、一の鳥居は遊行寺前に、二の鳥居は洲鼻通りにありましたが、現存するのはこの三の鳥居のみ。
延享4年(1747)に創建され、文政4年(1821)に再建されたもので、200年近くの永きにわたり江の島の参道に立ち、参詣者の姿を見守り続けている。

鳥居に掲げられている扁額「江島大明神」は、鎌倉時代の蒙古が襲来した文永の役(1274)の勝利のお礼として、後宇多天皇から奉納された勅額の写しという、歴史と由緒あるものとなっています。
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境内マップ
これを見ると、江ノ島全部が「江島神社」の境内であり、宗像三女神を祀る「奥津宮(おくつみや)」、「中津宮(なかつみや)」、「辺津宮(へつみや)」、竜宮の4つのお宮が存在する。
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青銅の鳥居から、参道の両側にお店が並ぶ。
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社号標
社格等:県社、別表神社
日本三大弁天の一つに数えられる。
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社伝によれば、欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。

当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の3つの別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)・上之宮(現在の中津宮)・下之宮(現在の辺津宮)を管理していた。その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640年)、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。

明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。

朱紅鳥居
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この鳥居の傍には、慶應元年(1865)奉納の狛犬があり。
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更に「瑞心門」に続く石段が続く。
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瑞心門:神門は龍宮城を模した竜宮造の楼門。
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瑞心門の手前に、今年の干支の大絵馬があり。
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瑞心門の両側の壁に描かれた獅子が迎える。
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瑞心門から振り返ると、参道、弁天橋、片瀬海岸が一望に。
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更に石段が続く。
石段の踊り場から振り返って、下にある瑞心門の屋根を見下ろす。
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更に登る(汗)
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手水舎
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この石段を上がれば、やっと辺津宮だ(嬉)
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石段を上がりきると、琵琶の形をした「江島神社絵図」があり。
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【辺津宮】
旧下之宮。田寸津比賣命を祀る。建永元年(1206年)源実朝が創建。権現造の社殿は延宝3年(1675年)に再建された。

茅の輪をくぐってから、お参り。
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拝殿
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社額
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向拝の彫刻は、音楽を奏でる飛天。
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拝殿内部
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辺津宮の賽銭箱は巾着形をしていて、お賽銭を投げ入れると綺麗な音が出るようになっている。
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祭神であるが、宗像三女神を祀っていて、島の西方の「奥津宮(おくつみや)」に多紀理比賣命、中央の「中津宮(なかつみや)」に市寸島比賣命、北方の「辺津宮(へつみや)」に田寸津比賣命をそれぞれ祀り、「江島大神」と総称する。
江戸時代までは弁財天を祀っており、江島弁天・江島明神と呼ばれた。
現在の祭神は明治の神仏分離の際に改められたものである。

【奉安殿】
八臂弁財天と妙音弁財天が安置される。
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右が八臂弁財天、左が妙音弁財天
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○八臂弁財天御尊像
神奈川県の重要文化財です。
鎌倉時代初期の物で、源頼朝が鎌倉幕府を開く時に調伏祈願の為に造らせたと「吾妻鏡」にて記されています。
江戸時代には勝運守護の神様として広く信仰されていました。
「八臂弁財天御尊像」は鎌倉時代には勝運守護の神様として戦勝祈願をする武家だけでなく庶民の人々にも広く信仰を集めていました。この「八臂弁財天御尊像」は安芸の宮島、近江の竹生島と並んで日本三大弁財天の一つに数えられるほか、七福神の紅一点としても信仰を集めています。江戸時代には芸能や音曲上達祈願のためにも信仰されていました。

○妙音弁財天
「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の座像です。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい御姿で、鎌倉時代中期以降の傑作とされています。音楽芸能の上達を願う多くの人々より信仰を集めています。

「霊石蛇紋岩」もあり。
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「銭洗白龍王」
相模彫りの創始者である鏡碩吉が製作したもの。
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若い人たちが、お賽銭箱に投げ入れ、「入った」、「外れた」と騒いでいた(笑)
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【境内社・八坂神社】
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須佐之男命を祀る。
伝承によると、江の島対岸の小動岬にあった社が大波で流され、江の島の海で漁をしていた漁師がその御神体を拾い上げて祀ったのだという。
江戸時代まで「天王社」と呼ばれていたが1873年(明治6年)に改称。
7月に行われる祭礼は、「江の島天王祭」とも呼ばれ、神輿が海に入り、対岸の小動岬にある小動神社へと神幸する。
巳年と戌年に行われる6年に一度の大祭では、祭神が開帳される。
現在の社殿は、江島神社御鎮座1450年を記念して、2002年(平成14年)に改築されたもの。

八坂神社の狛犬は、安永7年(1778)奉納のもの。
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【稲荷社、秋葉社】
江の島内にあった祠を合祀した社。
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その向かいに、「むすびの樹」なるものあり。
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その横に、弁天橋を綺麗に見渡せるポイントがあった。
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○宗国伝来の古碑
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【猿田彦大神碑】
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そこから少し行くと、見事な展望台あり。
しばし、眺めながら休憩した。
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また石段を上がって、中津宮に向かう。
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中津宮に到着
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江戸時代に江の島への参詣が盛んに行われていた証しとして、境内には江戸時代の商人や歌舞伎役者など、様々な人達から献納された燈篭が並んでいます。
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謡曲「江島」もあり。
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中津宮前の狛犬は、宝暦13年(1763)奉納のもの。
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【中津宮】
中津宮:旧上之宮。市寸島比賣命を祀る。仁寿3年(853年)創建。権現造の社殿は元禄2年(1689年)に改築された。
文徳天皇仁壽三年(853年)に慈覚大師が創建した中津宮は、市寸島比賣命をお祀りしており、元の上之宮とされるお社です。
中津宮の権現造りの社殿は、本殿・幣殿・拝殿共に徳川五代将軍綱吉によって、元禄2年(1689)に再建されたものを、平成8年(1996)に大改修を行って、再建当時の朱色鮮やかな姿が再現されました。

拝殿
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拝殿内部
幣殿の前左右には随身が侍る。
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拝殿内の天女の彫刻
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拝殿の格天井には、四季折々の花鳥画154枚が描かれている。
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本殿
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神紋は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の三つ鱗」。
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※『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられている。

社殿の横に「水琴窟」があった。
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今回の記事は、ここまで。
続きは、「江島(えのしま)神社(後半)」にてアップします。


「江島(えのしま)神社(後半)」を見る


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意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)(延喜式内社)/千葉県船橋市

20160915

千葉県船橋市宮本5丁目2−1
参拝日:2016年4月19日

もうアップしてあると思いこんでいたこの記事がアップしていないことに、調べたいことがあり照会しようとして、気付いた(汗)
それで、慌ててアップです。済みませんでした。

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、この日下総国の式内社11社のうち6社に参拝しましたが、蘇我比咩神社、老尾神社、香取神社、麻賀多神社、二宮神社(寒川神社)に続き、この日最後の参拝となります。

社号標
式内社 下總國葛餝郡 意富比神社、旧県社
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社伝によると、景行天皇の御代四十年、皇子・日本武尊東征の途次、船橋湊郷に御到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以て創建された。
また、大干ばつで当地方の人々が苦しんでいたので日本武尊が、伊勢神宮を拝祭して征夷と降雨を祈願したところ、忽然と黒雨が降り、人々は歓喜した。
その後、北方の夏見の地に遷され、さらに現在地に遷座。以来、朝廷・将軍家などより御崇敬極めて篤く、
近衛院の時(仁平年間)、船橋六郷の地寄進の院宣を賜り、源義朝は、これを報じて当社を再興した。
この文書には、当社は「船橋伊勢大神宮」と記されていた。
一説には、式内社・意富比神社が存在していた地の近くに伊勢神宮の神領(船橋御厨、夏目御厨とも)が設定されて神明宮が創建され、後に、意富比神社と神明宮が合体したのが当社であるという説もある。
初出の文献は、平安中期の『日本三代実録』貞観5年(863)の記事で、「下総国憲富比神」とあります。これは、船橋市域に関する文献として最古のものです。また平安中期の格式ある神社を記した『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(じんみようちょう)にも、下総国11社の中に「意富比神社」として載せられています。
この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出されました。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関係をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場します。つまり中世から幕末までは-般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照皇大御神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では最有力な説となっています。

ちなみに、江戸名所図会には「船橋 意富日神社」と書きこまれている。
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一の鳥居
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真っ直ぐな参道が続く。
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二の鳥居の前に、明治14年奉納の狛犬があり。
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その先の両側には、大きな寛政6年(1794)奉納の大灯篭があり。
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手水舎
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遥拝所
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拝殿
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本殿は、瑞垣の外から辛うじて遠望できるだけ。
拝殿の横から遠望。
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なんとかズームで、これだけ撮れた。
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御祭神:天照坐皇大御神
配祀:萬幡豊秋津姫命、天手力雄命

当社の神紋は「八咫の鏡」ということで、大変珍しいのだが、残念なことに確認はできなかった。

境内には沢山の境内社が祀られていた。

○大鳥神社(日本武命)
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○天之御柱宮(伊勢神宮の「心御柱」に相当する存在と思われる)
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○豊受姫神社(外宮)
御祭神の豊受大神は、伊勢豊受大神宮(外宮)に御祀りされ、天照皇大御神のお食事を司られる神様で、五穀豊穣と衣食住の守り神様。
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お食い初めに使う歯固め石が、こちらに用意してあった。
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○八雲神社
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明治4年奉納の狛犬
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社殿
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○水天宮(天御中主神、安徳天皇、建礼門院、二位の尼)
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○稲荷神社
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○古峯神社(日本武尊)・秋葉神社(火之迦具土大神)
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○金刀比羅社(大物主命)
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○十社宮(2つの社殿で構成)というが、16社あり。
天神社・天満宮、安房神社・玉前神社、鹿島神社・香取神社、春日神社・祓所神社、住吉神社・岩島神社、多賀神社(伊弉諾尊・伊弉冉尊)・客人神社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫)命・道祖神社・龍神社・竈神社(玉依姫命・神功皇后・応神天皇)・八幡神社
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岩島神社というのが分からず悩んだが、岩島(地名)に祀られている「諏訪神社」のことか、「厳島神社」の厳島を簡略字で表わしたもののどちらからしい。

○猿田比古神社石碑
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○三峯神社(伊弉諾尊・伊弉册尊)
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○産霊神社(高皇産霊神・神皇産霊神)・水神社、大国主神社・事代主神社、大山祗神社・阿夫利神社(大山祇神)、岩長姫神社・祈年穀神社、根神社(面足尊・惶根尊・素盞嗚尊・猿田彦神)・粟島神社(淡島神)
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○舟玉神社(弟橘比売命)
社が船の上に載っている。
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神楽殿
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八劔神社・八幡神社の神輿奉安殿
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境内に隣接している丘には、「灯明台」(千葉県有形民俗文化財)がある。
境内東方の丘に立てられている木造瓦葺きの灯台は3階建てで高さ12m程あります。
3階の灯室は、洋風の灯台の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹きます。
明治13年(1880)、地元の漁業関係者によって建設されました。普段は非公開ですが、正月三が日は公開されます。
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脇の参道入り口には、ずいぶんと高い東郷平八郎揮毫の社号標があった。
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これで当社の参拝を終え、無事にこの日の予定6社に参拝でき、満足して帰途についた。


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相模国一之宮・寒川神社

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鎮座地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916
参拝日:2016年9月5日

青春18キップがまだ一日残っており、9月10日までが通用期間なので、何処に行こうかと考え、行きたいところは色々あったのだが、JRの駅に近くて、割と距離があって割安になるところを選び、当社に参拝することにしました。
JR笠幡駅で、高麗川経由八王子行きに乗り、八王子、橋本で乗換え、茅ケ崎の少し手前「宮山」で降り、徒歩5分でした。

社号標
社格等:式内社(名神大)、相模国一宮、旧国幣中社、別表神社
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御由緒:
関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。即ち総国風土記によると、約千五百年前雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。
以後桓武天皇の延暦七年五月をはじめとして、御歴代奉幣、勅祭を行わせられたことは史上枚挙に遑まがない。仁明天皇承和十三年以来、数次に神階の奉授があり、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭に預る名神大社にも列せられた。
斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原北条氏も累代社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。後年徳川氏も亦代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年、官国幣社の制定定まるや明治四年五月、国幣中社に列格せられた。昭和二十年十二月十五日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げる神社として崇敬されている。

古代には相模湾がここまで入り込んでおり、神社からさらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国分寺があった。
古代、相模川沿いは相模国造がおり、有力な豪族のいずれかが造営したと推定される。雄略天皇の時期に奉幣、神亀4年(727年)に社殿建立の記録があるが、公式には『続日本後紀』にて承和13年(846年)に仁明天皇から従五位下を授る記録がある。
『延喜式神名帳』では「相模国高座郡 寒川神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされたことがわかる。戦国時代には武田信玄が行軍中に当社を参拝し、自身の纏っていた兜と太刀を安全祈願に奉納した。

現在も八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まり、正月の三が日にはのべ40万人が初詣に訪れる。なお、新年の幕開けとなる元日午前0時には大太鼓の合図と共に八方除祭・元旦祈祷祭が行われ、近年では迎春ねぶたの初点灯も実施されている。一方、テレビ放送の関係者には古くから「視聴率祈願の神社」として知られ、新番組開始前に参拝を行うことが多い。高倉健など芸能人の参拝者も多い。

寒川神社は、千葉の玉前神社(上総国一之宮)から富士山、元伊勢を通って出雲大社へ繋がる春分・秋分のレイライン上にあるばかりでなく、冬至・夏至のレイライン上にもある。
四季の節目のすべてのレイライン上にある事からも、寒川神社に神聖なエネルギーが集まっていることが分かる。そして、複数のレイラインが通過しているという事は、寒川神社から多方向にエネルギーが向かっているという事でもある。
この事からも、寒川神社が八方除けの神社として信仰を集める一因があるとも言える。寒川神社は神奈川県・関東のみならず、日本でも有名なレイライン上にあり、強いエネルギー場である。

境内図
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参道は当社境内から南に1kmほど進んだJR相模線の踏切近くにある一之鳥居から始まり、参道途中には二之鳥居(大鳥居)、境内入口には最後の鳥居となる三之鳥居がある

私は、三の鳥居から参拝した。

三の鳥居の前には、「神池橋」がかかっている。
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三の鳥居
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「重修寒川神社太鼓橋記」碑があり、これを読むと、寒川神社再建に努力した地域の方の努力がよくわかる。
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神池
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神池のほとりに、「相模薪能 石橋」碑があり。
毎年、8月15日に薪能を催しているようだ。
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気持ちの良い参道
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参道脇に、寛政8年(1796)奉納の鳥居で、安政の大地震、関東大震災の二つを経験(倒壊)した鳥居の一部が置かれていた。
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参道の右手に「人形奉斎殿」があり、通りかかったらちょうど納められた人形を神官がお祓いをした後だった。
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まず南門から入った。
元の神門を一九したもの。
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昭和8年奉納の狛犬
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南門
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南門から入り、中央の参道に移る。
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手水舎
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神門の横に客殿、社務所があり。
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神門に進む。
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神門前の、平成6年奉納の狛犬。
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神門のすぐ前に「神馬舎」があり。
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神馬を猿が曳いている。
猿は、平安時代には既に馬の守り神とされていた。
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神門
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神門には、2001年より、新年から2月の節分まで、神話にちなんだ迎春ねぶたが飾られるようになり、夜にはライトアップもされているそうです。 2012年まではその年の干支にちなんだねぶたが飾られていたが、干支が一巡した2013年からは神話ねぶたが飾られているとのことで、私も来年から見にこようかなと思った。

迎春ねぶたの写真を探したらありました。
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神門から入ると、広い空間が広がっている。

正面に社殿
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左右を回廊が囲んでいる。
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拝殿
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拝殿内部
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脇に置かれている四神旗
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幣殿
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本殿は、屋根しか見えない。
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現在の祭神は以下の2柱で、寒川大明神と総称される。2柱とも記紀には記載がなく、詳細は不明。
寒川比古命 (さむかわひこのみこと)
寒川比女命 (さむかわひめのみこと)

寒川大明神は八方除の神とされる。なお、八方除では当社の他にも久伊豆神社などが知られる。

また、祭神については他にも八幡神、あるいは菊理媛、素盞嗚命、稲田姫尊などの諸説がある。

神紋は、「十六弁八重菊」、「右流水巴」、「八角に剣四つ星」
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「方位盤と渾天儀」
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台座の四方には四神が彫刻されている。
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龍が四隅に配置されている。
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拝殿前左手に、一対のご神木あり。
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末社・宮山神社
境内西方に鎮座。宮山地区にあった7社をまとめて祀る。
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神橋を渡った先にある。
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合祀された神社とご祭神
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社殿
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境内に「平和塔 和光」があり。
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本殿裏手に「神嶽山神苑(かんたけやましんえん)」があるのだが、生憎この日は月曜で休苑日にあたり、入れず。
「難波の小池(なんばのこいけ)」を中心に、裏山の神嶽山(かんたけやま)を主とする。2009年に開苑した。

この中に、末社・御祖神社があるのだが、参拝できず。

荒垣の外に出る出口から遠望する。
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これで、当社の参拝は終え、門前近くに美味しそうなお蕎麦屋さんがあったので、そこで昼食。

次いで、江の島神社に参拝に向かいました。

(了)


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豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)/日本の神々の話

20160910

第10代崇神天皇皇子である。
『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。
東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。

第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。垂仁天皇(第11代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄である。

『日本書紀』によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。

この神に参拝した神社
・宇都宮二荒山神社(栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1)
・阿彌神社(茨城県稲敷郡阿見町阿見2353)
・赤城神社(群馬県前橋市三夜沢町114)


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下野国一之宮・宇都宮二荒山神社

20160909

鎮座地:栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
参拝日:2016年8月16日

この日、宇都宮にある栃木県立博物館に調べものがあるので出かけ、当社にまだ参拝していなかったので、参拝しました。

宇都宮駅に降り立ち、まずは「餃子の碑」
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もちろん、私も餃子を食べるのを楽しみにしています(笑)

駅正面の大通りを8分ほど歩いて到着。
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社号標
社格等:式内社(名神大)論社、下野国一宮、 旧国幣中社、別表神社
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正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。

社伝では、仁徳天皇41年に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。ただし、それ以前に豊城入彦命によって三輪山から勧請された大物主命が祀られていたとも伝えられている。地元では、当社に参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めた。
当初の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎(現 摂社下之宮が鎮座)であったが、承和5年(838年)に現在地の臼ヶ峰(明神山)に遷座した。
遷座の謂れは、道路の近くで、通行の人々に無礼があり、災いや落馬が続出したためだそうだ。

「二荒山神社」を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるが、中でも当社と日光の二荒山神社の2社が古社として知られている。平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「下野国河内郡 二荒山神社」の記載があるが、その帰属を巡って日光社との間で議論がある(「二荒山神社」を参照)。その後神階は正一位まで進み、下野国一宮となったとされる(ただし日光社も一宮を称する)。

また、宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある。宇都宮氏は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。庶流に常陸国守護小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した紀清両党とも姻戚関係にあった。

「宇都宮」という地名は当社に由来するものとされる。
ただし、一宮(いちのみや)の訛りという説、
遷座したことから「移しの宮」の転という説、
「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、
豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説など諸説ある。

明応9年(1498年)に17代当主宇都宮成綱によって建て替えられる。
明治20年(1887年)3月17日の内務省訓令第15号「官国幣社保存金制度」により、以降15年間に亘り官国弊社保存金が配付された。
当社の社殿は、かっては20年毎に立て替えられていた。
また、戦国時代以降は戦火あるいは失火による焼失に見舞われ、後北条氏の宇都宮侵攻の際、また宇都宮宿における幾度かの大火、さらに宇都宮戦争(戊辰戦争)の際に新政府軍の砲弾攻撃により破壊され焼失している。
現在の社殿は明治10年(1877年)に明治新政府によって仮社殿として再建されたものである。正面の石垣は江戸末期のもので、弘化3年丙午正月吉日の記載がある。


鳥居
樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いた、高さ9.7m、幅13.8m、柱の直径90cmの大鳥居。江戸時代の同神社の両部鳥居を復元したものである。かつてあった鳥居は、第2次世界大戦中に空襲で焼失し、その代わりとして1946年12月に明神鳥居が建てられたが、その鳥居も老朽化が進んだため、2008年10月12日に現在のものに建て替えられた。
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境内図
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正面の大石段を登ります。
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途中、左右に末社があるので、先に参拝。
その背後には、江戸末期の石垣が聳えている。
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水神社(ご祭神:罔象女神)
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荒神社(ご祭神:素戔嗚命)
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松尾神社(ご祭神:大山咋神・中津嶋姫命)
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針供養塚
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筆塚
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菅原神社(ご祭神:菅原道真)
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十二社
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剣宮(ご祭神:素戔嗚命)
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ここから更に登って神門となる。
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神門
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神門に続く、東回廊が絵馬堂になっていた。
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手水舎
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神門から真っ直ぐ参道が社殿に延びている。
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拝殿前
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昭和52年奉納の狛犬
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拝殿
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拝殿前の大きな鉄製天水桶は昭和48年奉納のもの。
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社額
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拝殿内部
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本殿(神明造)
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この日はカンカン照りだったので、明暗が激しく、千木が白く飛んでしまっている。
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主祭神:豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)
相殿神:大物主命、 事代主命
主祭神・豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子で、勅命を受けて東国治定のため、毛野国 (栃木県・群馬県)に下られた。国土を拓き、産業を奨励 し民を慈しんだので、敬服されている。
四世の孫奈良別王が第十六代 仁徳天皇の御代に下野国の国造となり国を治めた。

神紋は「十六弁菊の心に右三つ巴)」。
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神楽殿
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境内社に参拝

須賀神社(ご祭神:素戔嗚命)、市神社(ご祭神:大市姫命)
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昭和59年奉納と新しいが、この狛犬はとても気に入りました(笑)
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中には神輿が納められていた。
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女体宮(ご祭神:三穂津姫命)
社が瑞垣と一体化している。
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十社宮
下野国内の式内社の祭神を祀ってあります。
特に説明は無いが、総社の役目をした時期があったのかもしれない。
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初辰稲荷神社(ご祭神:倉稲魂命)
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至る所に狛狐が置かれていた。
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明神の井
宇都宮は各所に湧水があり、明神の井の湧き水は江戸時代には宇都宮名水「七水」のひとつとして数えられた。明治天皇の御行幸の折にはこの水を茶の湯としたと伝えられる。
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東照宮(ご祭神:徳川家康公)
裏参道にあり。
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精子の動きの撮影に成功した銀杏
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説明碑
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精子の動きを撮影に成功したイチョウ
このイチョウは樹齢約300年の雌株である。イチョウは精子を作って受精するが、その精子は1896年、東大助手 平瀬作五郎氏 によって初めて発見された。
(その銀杏の木は、今年6月に小石川植物園で見ました。)
しかし、精子の姿は映画には勿論、写真にすら撮られていない。
この木は1972年、高校教諭 松本正臣・斉藤長重の両氏が研究の末、そのギンナンによって動く精子の姿を世界で初めて映画にとらえることに成功したイチョウである。
二 荒 山 神 社

ネットで調べると、次のような説明が見つかりました。
イチョウは春、花粉を飛ばします。花粉が若いギンナンの内部に取り込まれると卵が作られ始めます。
それから約4カ月後、成長したギンナンの内部で卵は成熟します。花粉は花粉管を伸ばし、その中に精子を作ります。同じ頃、イチョウは種子(ギンナン)の中に精子が卵まで泳ぐ「海」を用意します。この「海」を泳いで、精子は卵と受精します。
コケ植物・シダ植物などの原始的な陸上植物は精子を放出し、外界の水に泳がせて受精します。被子植物などの高等な植物は「雄しべ」から「雌しべ」へ花粉を届けます。花粉は「雌しべ」の水分と養分を利用して花粉管を卵まで伸ばし、直接精細胞を卵へ届けます。
この2つの生殖方法を進化的につなぐのが、1896(明治29)年に発見されたイチョウ精子(平瀬作五郎)であり、ソテツ精子(池野成一郎)でした。植物は生殖の瞬間はダイナミックに動きます。しかし最もデリケートな時期でもあるので、生きている状態での観察は困難でした。
近年、日本の植物研究は、生きている状態での裸子植物の精子による受精と、被子植物の重複受精の観察・撮影を世界で初めて可能にしました。

蒲生君平顕彰碑
「前方後円墳」は蒲生君平の造語だそうです。
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前田雀郎句碑
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宰鳥句碑
宰鳥(さいちょう)とは与謝蕪村のこと。
蕪村の前の、「宰鳥」で詠んだ最後の句と「蕪村」の号で詠まれた最初の句です。
宇都宮で蕪村29歳(1745年頃)今から266年前頃です。
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鶏は羽に 初音を打つの 宮柱
(とりは はに はつねを うつの みやばしら)

初音を打つ と うつのみや が重なり面白い。

最後に、当社に「鉄製狛犬」があるのだが、どうせ宝物館にあるのだろう。
せめて、写真を手に入れようと、社務所にて尋ねたら、なんと社務所に展示してあった。
しかも、江戸時代だと思っていたら、鎌倉時代建治3年(1277)製という古いもので、吃驚、狂喜してしまった。
残念ながら片方は失われてしまっている。
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他にも色々展示されていたが、その中から。
尉頭兜
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三十八間星兜
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これで参拝を終え、11時半杉なので、美味しい餃子を食べようとした。
宇都宮二荒山神社の近くにも、事前に調べた有名店が2店あったが、行って見ると既に30人ほどの行列が出来ていた(驚)
半分走り回った後なので、行列に加わる元気は無し。
そこそこの行列のお店に入った。
美味しかった(嬉)
やはり宇都宮の餃子は美味しい!!

満足して、二荒山神社の前からバスに乗り、栃木県立博物館に向かいました。

(了)


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サミット「東アシアの国際交流~古代から未来へ~」/高麗郡建郡1300年記念事業

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開催場所:國學院大學学術メディアセンター常磐松ホール
開催日:2016年9月3日(土)
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高麗郡建郡1300年記念事業の一つということで、聴講しました。
渋谷駅から歩いて15分ほど。金王八幡の前からだいたいの方向に見当をつけ歩いていきました。すぐに随分と高い校舎ビルが見えたので、迷わなくて済みました(笑)

学術メディアセンター
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開演前の会場風景、開演の頃にはほぼ一杯になりました。
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最初に、「高麗1300」理事長である大野松茂氏より挨拶があり、始まりました。

この日の題目
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どの場面だったか、記憶が定かでないが、このサミットの日の前日に読売新聞に載った記事の紹介があり、「縄文人のDNAを受け継いでいる人の割合が12%に過ぎない」とのことのようである。
いかにその後の渡来人が多かったかということである。

【記念講演Ⅰ:「渡来人」と日韓関係の未来】
講師:國學院大學文学部助教・山崎雅稔氏
1.渡来人・渡来文化と古代史の叙述
2.日韓の歴史学・歴史教育の対話のなかで
3.新たな日韓共通教材と渡来人

内容:渡来人研究・渡来人論が新しい日韓関係の構築にどのように寄与してきたか、90年代後半から昨今にいたる日韓両国の歴史教育の動向を振り返りつつ、今後の展望・課題に触れた。

日本での学校教育では、「日本史」において、関係する部分のみを切り取って示されるだけなので、東アジアの歴史について体系的な教育はされていない。
韓国では、高等学校選択科目として「東アジア史」の実施が決まり、その教科書作成が進んでいる。

日韓両国で、1976年頃から歴史認識を同じにし、共通の歴史教科書を作ろうとする活動があるのを初めて知った。
こういうところから、日韓関係が改善されていけば良いと切に思った。

【記念講演Ⅱ:「渡来人」と「日本人」】
講師:関東学院大大学経済学部数授・田中史生氏
1.古代の「帰化人」と近代日本
2.「帰化人」から「渡来人」へ
3.「帰化人」か「渡来人」か

内容:渡来人研究が「日本」「日本人」とは何かという問いと深く結び付いて進展した研究分野であったこと、また最新の研究成果をふまえて、今後の私たちが渡来人をどう捉えていくべきかについて考える。

いま、「帰化人」という言い方がされず、「渡来人」と言う。
面白いのは、『日本書紀』では「帰化」を用い、『古事記』や『風土記』では、「渡来」を用いている。
「帰化」という言葉は、中国の「中華思想」において使用されていた言葉だそうで、『日本書紀』のように国家という視点で視ると「帰化」となり、『古事記』のように一般人視点で視ると「渡来」となる。
それで、その見方が、戦前の日本のように極端な民族主義により、「日鮮同祖」論から「日韓併合」が正当化されてしまった。
その反省から「帰化」が、使われなくなったようだ。
言葉の持つ意味の重要さについて、考えさせられた。

【事例発表】
○代表事例発表「古代飛鳥の国づくり~土木やから見た“日本創成”~」
奈良県明日香村村長・森川裕一氏
京大卒、奈良県庁を経て、5年前村長に立候補し、当選。
飛鳥時代、都造りより前に難波津から飛鳥京まで大路造りをしたように、大陸・朝鮮半島からの情報入手に積極的だった。
現在の、飛鳥に親しんでもらうための各種取り組みの紹介。

○事例発表1「歴史と文化を学ぶ会」群馬県高崎市
理事長・結城順子氏
多胡碑(日本三大古碑の一つ)は、和銅4年(711)に多胡郡を建てた建郡碑。
2011に建郡1300年を迎え、2009年に「多胡郡設立1300年記念実行委員会」を発足したのが、今の「歴史と文化を学ぶ会」の前身。
私が所属している歴史クラブで、「多胡碑」、「山上碑」、「金井沢碑」を訪ねたことがあり、懐かしかった。

○事例発表2「信州渡来人倶楽部」長野県松本市
日本人、在日韓国人(民団系)、在日朝鮮人(総連系)、ニューカマーの4者の集まり。
「針塚古墳」(高句麗系積み石古墳)、「桜ケ丘古墳」(大伽那系古墳)があり。
「渡来人まつり」が今年で11回目。
私は、2014年に歴史クラブ行事で、松代をメインにした旅行に参加したが、そのとき長野市大室にある「大室古墳群」で、渡来人の墓と云われる大規模な古墳群を見た。
「積み石古墳」、「合掌型組石古墳」などが印象に残っているが、「この場所で?」という衝撃から、それ以来渡来人を強く意識するようになった。

○事例発表3「近江渡来人倶楽部」滋賀県大津市
代表:河 柄俊氏
在日コリアンと日本人で結成。
大津は、天智天皇が都にしたこともあり、当時渡来人が脚光を浴びていた時代でもあり、渡来人との縁が強い。
天智4年(665)に、百済の遺民400人余を近江国神崎郡に、天智8年(669)には余自信、鬼室集斯ら百済人700人余を近江国蒲生郡に移住させている。
代表が在日コリアン2世といことで、正しい歴史認識により、人権尊重、国際理解を深める活動をしていると、熱く語っていたのが印象的だった。
私は、ついこの間(8月2日~4日)に、青春18キップで湖北の渡来人系神社などを訪ね、しかも義仲寺のある膳所まで行っている。膳所は大津の一駅隣である。
もうちょっと早く知っていれば、「渡来人歴史館」、「鬼室神社」などを計画に組み入れることが出来たのにと残念だった。次回はぜひ訪ねたい。

ここで、どうしても外せない用事が夕方あったので、
「事例発表4:「百済の会」大阪府枚方市」、「事例発表5:「一般社団法人高麗1300」埼玉県日高市」は割愛した。

昼食休憩時に、国学院大博物館を見学した。
学術メディアセンターの地下一階にあります。
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展示室(資料から転載)
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ここの特色は「神道展示室」があること。「考古展示室」はとても充実していた。
時間が無くて、飛んで回っただけ。
再訪したいと思った。


(了)


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熱田神宮

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鎮座地:愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
参拝日:2016年8月4日

青春18キップの旅三日目、尾張国一之宮・大神神社に参拝した後、「尾張一宮」から「熱田」駅まで移動。計画よりも40分早く、9:26に着き、最後の訪問地ということもあり、想像以上に境内が巨大で、しかもとても気持ちの良い空間で、昼食も含めて3時間も滞在してしまいました(笑)

熱田駅から熱田神宮沿いに歩いていき、東門から入りました。
東門の鳥居
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楠の巨木の多い広い境内で、参道は昼なお暗いという感じで、境内を歩き回っている間、ほとんど日光に照らされているところが無かった感じでした。
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とりあえず正門まで行き、そこから参拝することにしました。
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正門の大鳥居
社格等:式内社(名神大)、尾張国三宮、旧官幣大社、勅祭社、別表神社
宮中の四方拝で遥拝される一社。
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境内図
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三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、(形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている。(「天叢雲剣」を参照)。また、景行天皇43年創建と伝えられており、同年は西暦に換算した場合に113年とされることから、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えるとされ、同年5月8日に「創祀千九百年大祭」が行われた。

東征を終えた日本武尊は、宮簀媛命の元に、この神剣をあずけ、そのために、伊吹山の神の祟りによって命を落としてしまう。
宮簀媛命は、日本武尊との契りにより、その神剣を守ってきたが、宮簀媛命が老い衰えてきたので、社地を定めて神剣を祀ることにした。
その社地には、楓樹一株があったのだが、自然に燃えて水田に倒れ、その火が、いつまでも消えず、周囲の水田が熱くなったので、「熱田」と呼ぶようになった。

その後、神剣は、新羅の法師道行によって盗まれたが、無事、天皇家に戻り、宮中に祀られていたが、天武天皇朱鳥元年(686年)、天皇の病気の原因が草薙剣の祟りであるとして、熱田の社へ戻し、守人七人を置いて、これを祀ったという。

当社の近くにある断夫山古墳は、宮簀媛命を葬った場所で、日本武尊に忠誠を尽くし、以後、夫を持たなかったため、断夫という。また、おなじく近くにある白鳥古墳は、日本武尊の御陵であるという。

大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏は権宮司を務める。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。

戦国時代に織田信長は桶狭間の戦いの前に戦勝を祈願して見事に勝利を収めた。

江戸時代は当社周辺に東海道五十三次の43番目「宮宿」が設けられ、当地から桑名宿への七里の渡しが運行されていた。また『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載されている。

1868年(慶応4年)6月に神宮号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改め、1871年7月1日(明治4年5月14日)の近代社格制度の制定により、熱田神宮は官幣大社に列格した。熱田神宮には「三種の神器の一つを祀っているから、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張があり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの、この請願は却下されている。次いで大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、1889年(明治22年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。

1945年(昭和20年)の終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への一時的な遷座が計画されたが、同年8月15日の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われるおそれがあるとして、同年8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年(昭和30年)10月に再建された。新しい建物のため、指定文化財ではない。

鬱蒼とした森に囲まれた、広い中央の参道を進む。
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鳥居
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手水舎
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樹齢千年以上の大楠
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建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っているそうです)。

本宮拝所(外玉垣御門)
伊勢神宮と同じ唯一神明造の拝殿。
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それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、1889年(明治22年)、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。また、熱田神宮の国への働きかけにより、1890年(明治23年)9月、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議に提出された(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。その背景には伊勢神宮の反対があったという。神明造による社殿の造営は進められ、1893年(明治26年)に竣工したが、この社殿は太平洋戦争の空襲により焼失し、再建されたもの。

中重の鳥居と瑞垣御門
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瑞垣内の本殿
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祭神:
主祭神は熱田大神(あつたのおおかみ) 三種の神器の1つ・草薙神剣(くさなぎのみつるぎ、草薙剣・天叢雲剣とも)を神体とする天照大神を指すとしている。

相殿神:
天照大神(あまてらすおおかみ)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)

熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常にかかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。

相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。

668年(天智天皇7年):草薙剣が新羅の僧道行により盗難(『日本書紀』)(草薙剣盗難事件)。
686年(朱鳥元年):草薙剣が熱田神宮へ返還(『日本書紀』)。
1839年(天保10年)1月19日:八剣宮の御神体を妖僧が盗み出すも未遂。

神紋は「五七桐竹紋」
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次いで、正門に戻り境内社に参拝していく。

○式内社・日割御子神社(ご祭神:天忍穂耳尊)
尾張國愛智郡 日割御子神社 名神大
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○式内社・孫若御子神社(ご祭神:天火明命)
尾張國愛智郡 孫若御子神社 名神大 
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○式内社・上知我麻神社(ご祭神:乎止與命)
尾張國愛智郡 上知我麻神社
かっては下知我麻神社とともに南区の星宮社に祀られていた。
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○大国主社・事代主社
上知我麻神社末社:大国主社(ご祭神:大国主命)
上知我麻神社末社:事代主社(ご祭神:事代主命)
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○別宮八劔宮(ご祭神:熱田大神)
式内社:尾張國愛智郡 八劔神社
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○南新宮社(ご祭神:素盞嗚尊)
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○八子社(やこのやしろ、ご祭神:五男三女神)
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○曽志茂利社(そしもりしゃ、ご祭神:居茂利大神(素盞嗚尊))
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参道のあちらこちらで、子供たちが七夕飾りを作っていた。
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「清雪門」
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熱田神宮側の文献として、鎌倉時代初期頃の成立になる『尾張国熱田太神宮縁記』では、道行を新羅僧として説話を記載する(素性を新羅僧とするのは、一説に『日本書紀』の記述の拡大解釈)。

同縁記によると、道行は熱田社から神剣(草薙剣)を盗み出し本国に渡ろうとしたが、伊勢国において神剣は独りでに抜け出して熱田社に還った。道行は再び盗んで摂津国より出港したが、海難のため難波に漂着した。道行は神剣を投げ捨て逃げようとしたが、神剣がどうにも身から離れず、ついに自首して死罪に処せられたという。

熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる。

○楠之御前社(ご祭神:伊弉諾尊、伊弉册尊)
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七夕飾りを作り上げた子供たちが行進を始めた。
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「佐久間灯篭」
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○徹社(とおすのやしろ、ご祭神:天照大神和魂)
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○菅原社(ご祭神:菅原道真)
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大楠の近くに、七夕飾りを先頭にして子供たちが集合してきて、神官も到着。
お祭りが始まった。
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○東八百萬神社(ご祭神:東国坐八百万神)
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○西八百萬神社(ご祭神:西国坐八百万神)
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○内天神社(ご祭神:少彦名命)
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○六末社
下記末社が並んでいる。
・乙子社(おとごしゃ、ご祭神:弟彦連)
・姉子神社(あねごじんじゃ、ご祭神:宮簀媛命)
・今彦神社(いまひこじんじゃ、ご祭神:建稲種命)
・水向神社(みかじんじゃ、ご祭神:弟橘媛命)
・素盞嗚神社(すさのおじんじゃ、ご祭神:素盞嗚尊)
・日長神社(ひながじんじゃ、ご祭神:日長命)
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「信長塀」
永禄3年(1560年)5月19日:織田信長とその手勢が桶狭間の戦いに赴く際に立ち寄り、戦勝祈願を行った。合戦後、信長が勝利した御礼として築いたとされる塀(信長塀)の一部が現存し、「日本三大土塀」の一つとされる。
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「西楽所」
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神楽殿の前の広い庭。
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「ならずの梅」
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神楽殿
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神楽殿の横を通ると、大きな岩が立てかけてあって、吃驚した。
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何の木か、大切に保護されていた。
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○土用殿
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○龍神社(ご祭神:吉備武彦命、大伴武日命)
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○式内社・御田神社(みたじんじゃ、ご祭神:大年神)
尾張國愛智郡 御田神社
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○清水社(ご祭神:罔象女神(みずはのめ))
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「お清水」
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この石に水をかけて祈願する。
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ちょうど、続いてやってきた男性に頼んで撮らせてもらった。
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「こころの小道」
社殿の背後にあり、気持ちの良い道だった。
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玉垣に西の門が設けられていた。
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○一之御前神社(いちのみさきじんじゃ、ご祭神:天照大神荒魂)
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これで、ほぼ境内社参拝を終え、本殿玉垣の前に戻って来た。
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疲れはて、境内の真ん中辺にある「きよめ茶屋」でお茶漬けを食べて、休憩。
美味しかった。

それで、一応チェックすると、wikipediaからのリストでは境内社がまだまだあるようだが、境内案内図には載っていないので、それはあきらめた。

この茶屋のすぐ近くの「二十五丁橋」がまだだったので、それで終わりとすることにした。

「二十五丁橋」
西行法師が腰をかけて休んだという伝承がある「二十五丁橋」は、尾張名所図会や名古屋甚句に登場し、名古屋では最古の石橋とされる。
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これで熱田神宮の参拝は終了。三時間も居たのだから、充分に参拝。

歩いて、12:30に「JR熱田駅」に戻ると、岐阜と大垣の間で人身事故が起こったとのこと。
快速は取り止めになっているとのことで、とりあえず東京に向かって、来た電車に乗って先に進むことにした。
12:59にやってきた電車に乗った。

大府で、快速が動いていたら乗換えようと思ったが、駅員がそのままこの電車で行ったほうが良いというので、そのまま岡崎まで乗車。新快速豊橋行きに乗り継ぎ、豊橋では乗り継ぐ先の電車が待っててくれていて、走って乗車。次の浜松でやっと計画通りの時間の電車になり、遅れは解消。
ずいぶん遠くまで、影響はあるものだと判った。

静岡に着いたところで、一旦外に出て、コーヒーブレイク。
17:00に静岡出発、熱海、国府津で乗換て、新宿に着いたのが20:49。

熱田から新宿まで、7時間49分かかったわけだが、まったく退屈はしなかった。
鈍行の旅の面白さが今回わかった。

これで、今回の青春18キップの旅は終了しました。
あと二日分残っているので、9月10日の期限までに、これも有効に使いましょう。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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