健田須賀(たけだすが)神社(延喜式内社)/ 茨城県結城市

20161030

鎮座地:茨城県結城市結城195
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社、桑原神社に続き当社に参拝しました。

社号標
社格等:下總國結城郡式内社(小)健田神社、県社
161029takeda01.jpg


当神社は明治3年に健田神社と須賀神社が現在の地に合祀になったもの。

神社由緒:
健田神社の創建は大変古く、もとは結城本郷健田に鎮座していた(現在の地より2キロ程東南)。この地は古代より現在に至るまで、霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した場所と考えられる。やがて神社の様相を呈し、竹田臣一族・結城の国造が祖神武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を祀ったといわれている。『延喜式』には下総国11社の1つに記されている。以後、宝暦14年(1764)乗国寺と習合し境内に遷座、徳川幕府より祀田9石の寄進あり(朱印状現存)。明治3年神仏分離により、須賀神社と合祀された。

須賀神社は古くは天王宮と称し、結城家初代朝光公が鎌倉初期仁治3年(1242)尾張国津島神社よりご神霊を勧請し結城城の鬼門除け、結城家第一の氏神として手厚く祀られ結城家はもとより広く民衆に信仰され結城の産土神として崇敬された。特に康永2年(1343)結城家7代直朝公が「結城七社」を定め結城108郷の総社として盛観を極めた。結城家18代秀康公(徳川家康次男)福井移封後も家臣を遣わし崇敬した。昭和5年茨城県々社に昇格した。祭神は須佐之男命を祀り、夏祭り(祇園祭)は市中挙げて行われ、神輿担ぎは勇壮で日本一のあばれ神輿として有名。

牛頭天王と須佐之男命:
須賀神社は、ご祭神が牛頭天王であったから江戸時代まで天王宮といった。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。牛頭天王は丑寅すなわち鬼門をにらむ邪気よけの強い神であることから、当神社は結城城の鬼門除けの社として歴代の城主より崇敬された。10世紀より始まる祇園御霊会(現在の祇園祭、夏祭り)は牛頭天王の防疫神、天道神、糺(ただ)しの神、方位の神としてのご神徳からきている。
『薮内佐斗司作品集大博物誌』求龍堂によれば、「鬼どもの統率者たる牛頭天王は、館の鬼門に陣取り丑寅の方を睨みすえ、あらゆる邪気を退散せしむ」とある。

入り口
161029takeda02.jpg


一の鳥居
161029takeda03.jpg


手水舎
161029takeda04.jpg


161029takeda05.jpg


二の鳥居
161029takeda06.jpg


明治32年造立の狛犬
161029takeda07.jpg


161029takeda08.jpg


161029takeda09.jpg


161029takeda10.jpg


拝殿
161029takeda11.jpg


161029takeda12.jpg


161029takeda13.jpg


社額
161029takeda14.jpg


参加者が代わるがわる覗き込んでいると、宮司さんがやってきて、拝殿に上げてくれた。
拝殿の内部には、たくさんの絵馬が掛けられていた。

山岡鉄舟筆扁額
161029takeda15.jpg


谷文晁画の絵馬
161029takeda16.jpg


素晴らしい絵馬がたくさんあった。
161029takeda17.jpg


161029takeda18.jpg


161029takeda19.jpg


161029takeda20.jpg


161029takeda21.jpg


本殿
161029takeda22.jpg


ご祭神:
旧健田神社祭神:武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
旧須賀神社祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)

神紋は「右三つ巴」
161029takeda23.jpg


神楽殿
161029takeda24.jpg


続いて、境内社に参拝。
十二社(じゅうにしゃ)
161029takeda25.jpg


161029takeda26.jpg


甲子稲荷神社(きのえねいなりじんじゃ)
ご祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
161029takeda27.jpg


猿田彦神社
161029takeda28.jpg


これで当社の参拝を終え、続いて高椅神社に向かいました。


歴史クラブ行事記事一覧に飛ぶ



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

天熊人(あめのくまひと)・天熊大人(あめのくまのうし)/日本の神々の話

20161028

「関八州式内社めぐり」で下総国桑原神社に参拝した際、そこの祭神であったので調べてみました。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』では、天熊人、又は天熊人命。
神楽に登場する際は、天熊大人の名前となっていることが多いようだ。

この神は、有名な「農耕・養蚕・畜産の生成」話に登場する。
『日本書紀』では、このように登場する。
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

『古事記』では、この話は素盞鳴尊が大気津比売神を殺す記述になっており、登場人物が違っているが、このことから天熊人命=素盞鳴尊とする説もある。

『但馬故事記』には、饒速日命の田作りを手伝った天熊人命として登場する。
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。
(以下略)
(但馬故事記:吾郷清彦著より引用)


日本の神々記事一覧に飛ぶ



桑原神社(延喜式内社)/茨城県常総市

20161027

鎮座地:茨城県常総市国生1186
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社に続き当社に参拝しました。

社号標
式内社 下總國岡田郡 桑原神社、旧郷社
161027kuwa01.jpg


社伝によると宝亀三年(772)三月、当地を開拓した下総国司従四位下桑原王がその祖神を、守護神として祀ったのが起源。
ただし、桑原王は宝亀二年には上総守であるのでこの説は疑問視されている。

境内案内には、桑原王の祖・豊城入彦命、天熊人を祭神としているが他の資料では、主祭神は天熊人(天熊大人命)となっている。
『式内社調査報告』では、上毛野君の同族・桑原臣の一派が東国に下りその祖・豊城入彦命を祀ったのではないかと記されている。

当初は、現在地の東方、鬼怒川を見渡す本屋敷という台地に鎮座していたが、住民居住区の移動に伴い、延宝六年(1678)現在地に遷座したという。

式内社・桑原神社に比定されている古社だが、中世には、当社の伝承が失われ、正徳年中には香取神社と思われていたようだが享保四年(1719)本殿建替えの際に、寛永二年(1625)の棟札が発見され、桑原神社と復号されたという。

明治の社格において郷社に列し、明治四十二年二月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。

入り口鳥居
161027kuwa02.jpg


161027kuwa03.jpg


「桑原大明神」の説明
161027kuwa04.jpg


「平将門公史跡 桑原大明神」と書かれた石碑あり。
161027kuwa05.jpg


将門はこの近くの「豊田」に居を構えた時期がある。後に南の「岩井」に居を写した。

鬱蒼とした林の中の参道を行く。
161027kuwa06.jpg


参道は突き当り左に折れるが、そこに石碑の香取社が祀られている。
当社は、以前は香取社と称したので、その名残であろう。
161027kuwa07.jpg


161027kuwa08.jpg


161027kuwa09.jpg


手水舎
161027kuwa10.jpg


拝殿前
161027kuwa11.jpg


「桑原神社由来」の石碑あり。
 これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々 と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地 は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、 江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは約一六〇〇年の昔から、時に大きな館敷地 として、郡役所として、又、村人の居住集落として 使われたことが窺いしれる。
 続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は、 宝亀三年(七七二年)に、この地(本屋敷)に桑原 神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖 である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋命で 開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊穣を祈願せしも のである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀 し、未開拓の東国に衣食の恩恵を知らしめ、農業発 展の守護神としたものであろう。延喜年間(九〇二 年~九二二年)、従四位下鎮守府将軍平良将、将門 父子も、国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田 開発の祖神として尊崇す。爾来、坂東農耕の守護神 として崇拝さる。
 時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住 地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集 落は、次第に西へ移り、延宝六年(一六七八年)、 本神社を奉遷す。その後、正徳二年(一七一二年) に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明の為香 取社として許可さる。享保四年(一七一九年)本殿 建替えとなり、寛永二年(一六二五年)の棟牌(日 本国関東下総国生桑原大明神造立一宇攸)を発見、 この棟牌を役所に届ける。これより四十年後の宝暦 八年(一七五八年)、当時の寺社奉行阿部伊予守よ り呼び出しがあり、延喜式内、桑原神社を証明する 書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子たちは 法楽を奉納した。本神社、別当不動院とも、時には 五穀豊穣、安産祈願の対象として、又、民衆の憩い の場として、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深 く根ざしていった。
 ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千 数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、 本神社の由来を表記する。
161027kuwa12.jpg


拝殿前の狛犬は、新しいもの。
161027kuwa13.jpg


拝殿
161027kuwa14.jpg


161027kuwa15.jpg


161027kuwa16.jpg


社額
161027kuwa17.jpg


拝殿の内部は、まったく窺えなかった。

本殿覆屋
161027kuwa18.jpg


御祭神:豊城入彦命、天熊人、稚彦命、大山咋命
配祀 
稚彦命 『平成祭データ』
天熊大人命、稚彦命、猿田彦命、大山咋命 『明治神社誌料』

神紋は「右三つ巴」
161027kuwa19.jpg


境内社に参拝:

社殿右手に、石祠の大杉社(大杉大神)
161027kuwa20.jpg


161027kuwa21.jpg


4つの石祠の四社宮
161027kuwa22.jpg


拝殿左手には、石碑と青面金剛の庚申社
161027kuwa23.jpg


元文5年(1740)建立の青面金剛庚申塔
161027kuwa24.jpg


さらに石祠の稲荷社、日枝社、天神社、八坂社、八幡社、愛宕社、その他の境内社が並んでいる。
下がっている白い袋は賽銭入れ。
161027kuwa25.jpg


これで、当社の参拝を終え、続いて健田須賀神社に向かいました。


歴史クラブ行事記事一覧に飛ぶ



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



木場の角乗り

20161020

10月16日に江東区木場公園で行われた「角乗り」を、歴史クラブ行事として参加し、見てきました。
これは、「江東区民まつり」の中のイベントとして開かれたものです。

木場公園は、東西線「木場」駅から歩いて6、7分。
すごく広い会場で驚きました。
161020kaku01.jpg


「角乗り」は、上の図で④の入り口広場にあるイベント池で行われました。
沢山の見物客が集まりましたが、私たちは早目に行ったので、うまく場所を取ることが出来ました。
私の場合は、最前列にカメラマンが三人座っていたので、この辺が良いのかなと思い、その後ろに陣取りました。
そしたら、そのカメラマン達が場所を詰めてくれて、私を最前列に入れてくれました。
とても有難かったですね。
おかげで、とても良いものが撮れました。感謝、感謝です。

「角乗り」はとても素晴らしいものでした。
後半に「秘技」を披露してくれて、こういう伝統の技がちゃんと継承されているこがとても嬉しかった。

全て、動画で撮ってきましたが、その中からショットを幾つか載せておきます。
161020kaku02.jpg


161020kaku03.jpg


161020kaku04.jpg


161020kaku05.jpg


161020kaku06.jpg


動画は、ユーチューブにアップしてあります。

全部で1時間半と長かったので、そのダイジェストを二回に分けてアップしました。
下記をクリックすれば、見ることができます。

「木場の角乗り(前半)」を見る


「木場の角乗り(後半)」を見る



見終わって、満足して、お腹が空きました。
ところが、すごい人出で、各地から出ている屋台の食べ物を楽しもうと予定していたのですが、ものすごい行列です。
で、参加者で相談して、隣の門前仲町に移動して、「もんじゃ焼き」でも楽しもうという事になりました。

私は、所用があって、午前中だけの予定だったので、そのまま帰途につきました。

(了)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」に飛ぶ



蛟蝄(みずち)神社((延喜式内社)/茨城県北相馬郡利根町

20161011

鎮座地:
門宮:茨城県北相馬郡利根町大字立木2184
奥宮:茨城県北相馬郡利根町大字立木882
(門宮/本宮と奥宮が離れて別の場所にある。)

参拝日: 2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社に続き当社に参拝しました。

最初に、門宮に参拝。
朱の両部鳥居が迎える。
161011mizuchi01.jpg


161011mizuchi02.jpg


鳥居近くに、二つの説明があり。
161011mizuchi03.jpg


161011mizuchi04.jpg


社格等:式内社 下總國相馬郡 蛟蝄神社、旧郷社
由緒(神社HPから)
蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。平安時代 (698年)に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台 (現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し門の宮にお祀り致しました。明治42年(1909年)に立木地区にあった「八坂神社(やさかじんじゃ)」「天神社(てんじんじゃ)」「稲荷神社(いなりじんじゃ)」「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を合祀して現在もなお一層の御神徳(ごしんとく)をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。

当社の社名は一般的には「こうもう神社と親しまれておりますが、ご祈祷のときの祝詞奏上では蛟蝄神社は「みつちのかむやしろ」と申し上げております。

逸話1 「立木」「文間」の名前の由来
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)のために蛟蝄神社で祈願をしたという言い伝えがあります。そのとき文馬(かざりうま=綺麗に装飾した馬)を木に繋いだということから蛟蝄神社のある地区を「立木(たつぎ)」(たづなをきにつなぐ→たづなき→たつぎ)、神社のある地域を「文間(もんま)」(文馬→文間)と呼ぶようになりました。

慶長三年(1598)に社殿が増修され、同九年(1604)徳川家康が五十石を寄進した。享保元年(1716)神位正一位に昇進、当社への崇敬を深くした。
明治四年(1871)郷社に列した。

「みずち」について:
蛟だけでもミズチと読む。古くはミツチと清音(ミは水、ツは助詞、チは水の霊の意)。
想像上の動物で蛇に似た龍の一種で四足を持つ。水を好み、大水を起こすと云う。

石段を上がると、手水舎。
161011mizuchi05.jpg


拝殿
161011mizuchi06.jpg


向拝柱にかかる注連縄がすごい。
房が密になり垂れさがっている。
161011mizuchi07.jpg


花頭窓がある、珍しい拝殿だ。
神仏習合の痕跡であろう。
161011mizuchi08.jpg


社額は「相馬群一宮 蛟蝄神社」とある。
161011mizuchi09.jpg


拝殿内部
161011mizuchi10.jpg


本殿
161011mizuchi11.jpg


側面の彫刻がすごい。
161011mizuchi12.jpg


161011mizuchi13.jpg


ご祭神と神紋については、奥宮のところで、述べます。

貝塚の上に建っているため、そちこちに貝殻が露出している。
161011mizuchi14.jpg


161011mizuchi15.jpg


境内社だが、鳥居をくぐった先の石段の両側にあり。

○猿田彦大神
161011mizuchi16.jpg


○大黒天
161011mizuchi17.jpg


更に、社殿の裏手にあり。
明治42年(1909年)に立木地区にあった、「八坂神社」「天神社」「稲荷神社」「八幡神社」を合祀したもの。
161011mizuchi18.jpg


続いて、そこから歩いて10分くらいで「奥の宮」に参拝。
161011mizuchi19.jpg


これが社号標だと思います。
161011mizuchi20.jpg


ここから、真っ直ぐ石段を上がる。
161011mizuchi21.jpg


石段を上がりきると鳥居。
161011mizuchi22.jpg


鳥居にかかる社額に、たくさんのハートが(笑)
161011mizuchi23.jpg


しかし、この鳥居は江戸時代のものなので、ハートではなく「猪の目」という模様なんですよね。
これは猪の目に似ているところからの呼称。
奈良時代の遺物にもみられ、さらに古墳時代の倒卵形鐔にもこの文様があり、最も歴史の古い文様の一つだそうです。
四方を睨む魔除けとして お城や神社仏閣などの建築物、門扉などに意匠されたようです。
東京大神宮には300個以上の猪目があるらしい。

手水舎
161011mizuchi24.jpg


嘉永5年(1852)奉納の狛犬
161011mizuchi25.jpg


161011mizuchi26.jpg


161011mizuchi27.jpg


161011mizuchi28.jpg


拝殿
161011mizuchi29.jpg


161011mizuchi30.jpg


向拝柱にかかる注連縄が、やはりすごい。
161011mizuchi31.jpg


拝殿に上げていただき、宮司さんの説明を受けました。

拝殿の天井には、龍の天井画があり、よくお寺では見られるが、神社では珍しい。
161011mizuchi32.jpg


161011mizuchi33.jpg


161011mizuchi34.jpg


これは、「ミズチ」が龍の一種ということからであろう。

境内の石碑にも、龍が刻まれている。
161011mizuchi35.jpg


161011mizuchi36.jpg


拝殿内部
161011mizuchi37.jpg


ご御祭神:
新たに古文書の記述が発見され、当社の相殿神に句句廻馳大神(くくのちのおおかみ)・軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)・金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)の3神が配祀されていることが判明したので、相殿神としたそうです。

主祭神:
罔象女大神(みつはのめのおおかみ)  生命の源である水をつかさどる女神様

相殿神:
埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ) 土木工事や土すべてをつかさどる女神様
句句廻馳大神(くくのちのおおかみ) 自然界の樹木や木すべてをつかさどる神様
軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ) 鍛冶や温泉など火すべてをつかさどる神様
金山彦大神(かなやまひこのおおかみ) 鉱山や技工など金属すべてをつかさどる神様
倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) お稲荷さんと親しまれている商売繁盛の神様
素戔嗚尊(すさのをのみこと) やまたのおろちを退治した厄難除けの神様
菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 秀才であったことから栄進出世・学問の神様
誉田別大神(ほんだわけのおおかみ) 八幡大神ともいわれている国家鎮護の神様

神紋は「右三つ巴」と「五三の桐」
161011mizuchi38.jpg


本殿
161011mizuchi39.jpg


161011mizuchi40.jpg


161011mizuchi41.jpg


これで、当社の参拝を終え、続いて常総市の「桑原神社」に向かいました。


歴史クラブ行事記事一覧に飛ぶ



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



賀志波比賣命(かしわひめのみこと)/ 日本の神々の話

20161007

「関八州式内社めぐり」をしていて、下総国の麻賀多神社奥宮にて境内社に「加志波比売神社」があり、これを調べていき、この神のことを知った。

徳島県阿南市の遠峯神社社伝では、神亀元年(724年)、神託により、国家鎮護・延命長寿の神として賀志波比賣命を霊山・津峰山の山頂に祀ったのに始まると伝える。延喜式神名帳には「阿波国那賀郡 賀志波比売神社」と記載されている。
161007jinmyo01.jpg


途中略して、阿波国の最後に「賀志波比売神社」がと記載され、讃岐国に続いている。
161007jinmyo02.jpg


賀志波比売神社は、カシワヒメ神社と訓み、下総国にあったのは、阿波国から分祀されたもの。
下総国と同じ房総半島に「安房国」があるように、古代四国から黒潮に乗ってやってきて、房総半島に住みついた民族が居たことを示す。

賀志波比売神社は太陽の女神を祀るとも地元では言われているそうだが、この神社を詳しく調べた記事があったので、そこから要約を載せておきます。

志波比売神社は、「カシワヒメ」という神を祀る神社というのが正しいと考える。

賀志波比売神社の有力な氏子に柏木氏と善積氏が見える。

柏木氏は、近江国甲賀郡の神宮御厨である柏木庄を姓の発祥の地としていて、阿波の賀志波比売神社と近江の柏木氏が祀る「石部鹿塩上神社」は同一神を祀ったもの。

一方の氏子の善積氏は、近江との関係を調べると近江国造族の支族であり、近江では高嶋郡善積郷に阿志都彌神社があって、神吾田鹿葦津姫(カム・アタカアシツヒメ)を祀っている。

以上から、賀志波比売神社の有力氏子の柏木氏と善積氏は、いずれも「賀志波比売」、「神吾田鹿葦津姫」の祭祀と密接に関わっている氏族と言える。

近江国造族の故郷である出雲にそのルーツを求めると、日御崎神社と社家の小野氏であろうと考える。

出雲では太陽神を祀る神社として、出雲大社より古い歴史を持つ日御碕神社が有名で、日御崎神社の神主家は、古代から連綿と続く小野氏と分家の間野氏がある。

日御崎神社の小野氏は、近江国の滋賀郡小野に領地を持ち、分家の間野氏も小野に隣接した領地を所有していたため、地名として小野と間野が残っている。

一方日御崎神社の摂社には、近江(オオミ)の神々を祀る間野社があり、意保美(オオミ)神社(淤美豆奴神)も鎮座している。

以上から、日御崎社小野家と近江国造族は系譜上順番に繋がっていると見られることが分かる。

日御碕神社の小野氏は家紋を「柏」としている。

やはり阿波国那賀郡林郷にある賀志波比売神社は日御碕神社に由来しているのであろう。

一方、出雲には「阿陀加夜努志多伎吉比売命(アダカヤ ヌシ タギキヒメ)」という長い名を持つ風土記神もあって、カヤを柏の意味である栢(カヤと訓む)と解釈すれば、アダカヤとは、アタカシワ~アタカシホ となって「吾田鹿葦津姫」の事となる。

阿陀加夜は東出雲町の地名に残っていて「出雲郷」と漢字を当てていることから要するに、吾田鹿葦とは出雲郷の事を指していることになる。

賀志波比売とは出雲の太陽神であって「阿陀加夜努志多伎吉比売命」の事であることがわかる。
更に、多伎吉とは出雲國神門郡多伎郷から来たという意味に解釈でき、多伎から拝む事ができる佐比売山の女神の事であろうと考えられる。

杵築大社上官家・富家の伝承でも、佐比売山の女神は、出雲最高の太陽の女神であると言っておられるそうだ。

ということで、下総国で出会った「カシワヒメ」は、そのルーツをたどると、阿波国、更に近江国を経て、出雲の日御碕神社に行きつき、出雲最高の太陽の女神であった。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop