白山比咩(しらやまひめ)神社の狛犬-2/狛犬を楽しむ

20161130

石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」の宝物殿に保存されている古い狛犬二組のうち、平安時代末の方は既にアップしていて、今回はもう一組の狛犬です。

所在地:石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」宝物館
参拝日:2014年8月3日
年代:鎌倉時代
材質:木製
型式:神殿型

白山比咩神社は、全国に三千余社あるという白山(はくさん)神社の本社にあたります。

白山比咩神社の記事を読む


この狛犬は、現在宝物館に置かれており、撮影禁止のため、画像は神社発行のガイドブックに記載のものとなります。
161130hakusan01.jpg


161130hakusan02.jpg


161130hakusan03.jpg


161130hakusan04.jpg


・右阿形、左吽形
・耳は、開き気味で伏せ耳
・たてがみは、両方ともに巻き毛であり、両獅子型となる
・胸の襟毛:無し
・顔の特徴:唇に朱、歯に金泥が施され、獰猛だが威厳も備わる
・前足:たくましく短めで、直立している
・胸が張って堂々としている
・後足: 蹲踞(そんきょ)
・尾:短く、付き尾
・特徴:肉付きのよい体躯は力強さに満ちており、胸をぐっとそらして堂々としている



狛犬の記事一覧を見る



スポンサーサイト

「義仲・巴」フォーラム in 石川

20161129

母親の三回忌の法要のため、25日から27日まで富山県に帰省しましたが、タイミングよく27日(日)の午後に石川県津幡町で行われたので、これに参加してから帰ってきました。

津幡は、倶利伽羅峠の石川県側の麓です。
義仲軍の進路で言えば、富山県の小矢部から倶利伽羅峠に上り、石川県側に下ったところが津幡です。

「義仲・巴」広域連携推進会議というのがあり、スローガンは「義仲・巴」を大河ドラマにしてもらおう、というのであるが、石川県・富山県・長野県・埼玉県が参加している、規模の大きな団体です。

私の住んでいる狭山市にも、木曽義仲の長男「清水冠者源義高」ゆかりの史跡があります。

フログラム
161129forum01.jpg


〇講演「木曽義仲と巴御前~源平合戦の真実」
講師:河合敦氏

講師の方は、歴史作家・歴史研究家であり、NHKの「謎解き!江戸のススメ」、日本テレビの「世界一受けたい授業」、テレビ朝日の「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」などに出演されている方。
P・Pでとてもわかりやすい講話でした。
そのなかから、記憶に残ったポイントを挙げておきます。
・義仲は情に流されやすいやさしさがあり、冷血な頼朝と対照的。
・平家討伐の令旨を出した以仁王の第一王子北陸宮(ほくろくみや)を奉じて上京した。
・その北陸宮を天皇に奉じようとして、後白河法皇と対立してしまったが、一介の武士が皇位継承について奏上したのは、歴史上初めてのこと!
・木曽義仲は一年半くらいで、京都に入ってしまい、無位無官であった。
・木曽軍が京都で乱暴狼藉を働いたという評判になってしまっているが、平家が福原に都を移したため、京都は無政府状態。木曽軍が都に入ってマシになったのが真実。
・江戸時代の評価はよかった。頼朝は悪人で、その被害者的見方だった。
・明治になると、皇国史観から悪者にされた。
・では戦後に復活したかというと、源義経をヒーロー視する傾向と、教科書には「頼朝が鎌倉幕府を開く」前については一切記述がなくなってしまった。
・現在は、国語の教科書で「平家物語」のところで「木曽最期」がほとんどの教科書に載っている。
 これは、今井兼平との「兄弟愛」、「友情」がテーマとなっているから。

〇倶利伽羅峠の歌
出演:津幡町立刈安小学校児童
161129forum02.jpg


161129forum03.jpg


子供たちが懸命に歌っているのが、とても微笑ましかった。

〇語り「木曽最期」 原典:平家物語より
語り:若村麻由美   (薩摩琵琶)岩佐鶴丈   (能菅・尺八)設楽瞬山

若村麻由美さんは、野村萬斎さんと組んで「劇世界・平家物語」を上演したり、語りをする際にも紅の唐衣・白の大袴に烏帽子を着け薙刀を手にして、語りをするようですが、この日も着物袴姿でした。

語りは平家物語の原文そのままでなく、現代文でわかりやすい語りだったので、とても素晴らしいものでした。

『平家物語』で他の場面では比較的義仲を良く書いていないことが多いのだが、「木曽最期」については、とても美しい名調子で描いています。
そのため、国語の教科書で平家物語というと、現在はほとんどが「木曽最期」を載せているそうです。

なので、「木曽最期」で検索すれば、たくさん現代語訳が載っているので、すぐに理解はしていただけるので、ここではフォーラムのプログラムの裏面に記載されていた解説文をそのまま転載しておきましょう。

「木曽最期」
「平家物語」は、平安末期の貴族の社会から武士の社会に移る大動乱期に生きた、源氏と平家を中心とした数多くの人々を描いた歴史物語です。その時代を生きた人物を克明に表現することによって、大きな歴史の流れを見事に描き出した壮大な叙事詩として、およそ七百五十年にわたって日本人の心を揺り動かしてきました。

これからお聞き頂きます「木曽最期(きそさいご)」は、『平家物語』の中でも屈指の名文といわれる物語です。
おごる平家にたいして打倒平家の動きは急を告げ、相模の国では源頼朝、木曽では源義仲といった源氏の武将が次々と挙兵します。

寿永二年(1813)、木曽義仲は平家の追討軍十万余騎を倶梨伽羅(くりから)落しの奇襲で壊滅させ、更に篠原の合戦では平家軍を敗走させます。篠原合戦のわずかニケ月の後には、日の出の勢いで都に進軍する義仲の軍勢をおそれ、平家一門は都を落ちていきます。
平家一門を追い落として都入りし、朝日将軍と呼ばれた木曽義仲も、都での粗暴な振る舞いの果てに後白河法皇と対立します。法皇は源頼朝に義仲追討の命令を下し、義仲は頼朝の遣わした源義経・範頼軍に破れ、粟津の原で討ち死するのでした。

「木曽最期」の物語は、男勝りで義仲の恋人でもある女武者巴の紹介から始まります。
都六条川原の合戦で義経軍に破れ、巴をふくむわずか七騎となった義仲が、勢田を守備していた乳兄弟の今井兼平と一目会って死のうと、勢田に向います。同じ思いの兼平も都を目指し、二人は大津で再会、最後の戦を挑みます。敵の大軍のなかを縦横無尽に戦い、駆け抜け主従五騎になります。討ち死に覚悟の義仲はこれまで共に戦い抜いてきた巴を戦線から立ち去らせます。巴は共に死ぬことが許されない口惜しさに、最後の奮戦をして去って行きます。

残るは義仲と兼平二騎。「日頃はなんとも思わない鎧兜が重くなった」と弱気を見せ、一緒に討ち死にするという義仲を兼平は命がけでいさめ、自ら奮戦して敵を防ぐ間に自害するよう勧めます。やむなく自害するため粟津の松原に向かう義仲の馬は深田にはまり、身動きが取れなくなります。義仲がおもわず兼平の方を振り向いた瞬間、敵に射殺されます。これを見た兼平は「日本一の豪傑の自害の見本」と太刀をくわえ、馬から飛び落ちて義仲の跡を追います。

この当時、同じ乳で育った乳兄弟、乳母子(めのとご)は、血を分けた兄弟よりも、深い契りでした。駆け抜けるように激しく戦い、次々と平家を打ち破り天下を取り、そして瞬く間に滅び去っていった義仲を中心に、乳兄弟の今井兼平、同じく兼平の妹であり木曽の恋人でもある巴の、三人三様の激しい生と死の姿が強烈に浮かびあがります。


最近、色々な縁からずいぶんと木曽義仲に深入りしています。
今回は、河合敦氏の独自の解釈も色々聞くことができて、義仲像がまた深く広まりました。
若村麻由美さんの語りも素晴らしくて、次はぜひ野村萬斎さんとの「劇世界・平家物語」を観たいと思いました。


「お気に入りの場所」に飛ぶ



蚕神(かいこがみ)・蚕影神(こかげかみ)/日本の神々の話

20161128

狭山市では、亀井神社境内社、広瀬富士浅間宮の養蚕神社、長野県丸子の依田神社境内社、前橋・総社神社境内石碑で参拝している。
養蚕の守護神。各地で蚕影明神とか「おしらさま」などでも信仰対象とされる。

狭山市での蚕神(かいこがみ)は下奥富の亀井神社境内にあり、文政13年(1830)に造られたもの。家屋形の石祠せきしには「蚕影山大権現」と刻まれ、左側面には「願主講中」とあります。
ここでいう講中とは、養蚕が主に女性の手で行われていたことを考えると、女性を中心とした「おしら講」ではないかと思われる。
なお、蚕影山は茨城県つくば市所在の蚕影神社のことで、古くから養蚕の神として信仰されています。
この社に伝わる縁起は興味深い。
養蚕および蚕神の起源を説く金色姫の物語が中世末から近世にかけて語られていた。御伽草子《戒言(かひこ)》もその一つである。

金色姫伝説:
天竺に舞台が及ぶ壮大な伝説で、「日本一社蚕影神社御神徳記」のほか、上垣守国が享和2年(1802年)に著した「養蚕秘録」、伊藤智夫の「絹1 ものと人間の文化史」等の養蚕書に紹介がある。
(概略)
欽明天皇御代(539-571年)、北天竺の旧仲国の霖夷大王と光契夫人の間に金色皇后(金色姫)という娘がいた。夫人は病で亡くなり、王は後妻となる后を迎えたが、后は金色姫を疎み、王の目を盗んで、姫暗殺の奸計を巡らせた。
第一に、獅子王という獣が巣食う師子吼山に捨てさせたが、獅子王は金色姫を襲うことなく丁重に宮殿に送り届けた。
第二に、鷲、鷹、熊などが巣食う辺境の鷹群山に捨てさせたが、鷹狩のために派遣された宮殿関係者が発見した。
第三に、海眼山という不毛の孤島に流させたが、漂着した漁師に保護された。
第四に、清涼殿の小庭に埋めさせたが、約100日も経った頃、地中から光が差したので、王が掘らせたところ、金色姫がやつれた姿で救い出された。事情を知り、姫の行く末を案じた王は桑で作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。この船は常陸国の豊浦湊に漂着した。
豊浦湊に住む漁師、権太夫夫婦が金色姫を救い面倒を見たが、姫は空しく病に倒れた。ある夜、夫婦の夢枕に姫が立ったので、唐櫃を開いたところ、亡骸はなく無数の虫が動いていた。金色姫が靭船で流れてきたことから、桑の葉を与えたところ、虫は喜んで食べ、次第に成長した。ある時、虫は桑を食べず、頭を上げてわなわなと震え出した。夫婦が心配していると姫が再び夢枕に立ち、この休みは継母から受けた受難の表れだと告げた。「獅子の休、鷹の休、船の休、庭の休を経て、靭船の中で繭を作ることを覚えた」という。姫が告げた通り、虫はしばらくして繭を作った。
夫婦は筑波山の「影道(ほんどう)仙人」(蚕影道仙人とも)に繭から綿糸を紡ぐ技術を教わった。さらに筑波に飛来された欽明天皇の皇女各谷姫(かぐや)に神衣を織る技術を教わった。これが我が国における養蚕と機織の始まりという。
養蚕と機織を営んだ夫婦は、靭船が辿り着いた豊浦に御殿を建立、金色姫を中心に、左右に富士と筑波の神を祀った。

おしら様は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。
ご神体を桑の木で作るので、蚕の神様であることは間違いない。

これは、埼玉県秩父郡長瀞町井戸の岩根神社にある「蚕神様」である。
蛾になった蚕の冠を被り、右手に繭、左手に桑の枝を持つ。
161128kaiko01.jpg


それから、調べていて面白いものが見つかった。
「狛猫」である。
かって養蚕は、比較的短期間に現金収入の得られる副業として、日本全国の農家で盛んに行われていた。
ところがネズミは、蚕の卵、幼虫、蛹(繭玉)、いずれ構わず食べてしまう。
たった一晩で、大きな損害となってしまう。
養蚕農家はネズミの被害を恐れて、ネズミの天敵の猫を飼ったりして防御に努めた。加えて、養蚕農家は、神社などに参拝して、蚕神に祈り、「蚕病、鼠除けのお札」や「猫絵」「猫石」などを頂いたりして、豊蚕と養蚕守護を願った例がある。
京都府京丹後市峰山町字泉、金毘羅神社内には「狛猫」がある。
161128kaiko02.jpg



日本の神々記事一覧に飛ぶ



木曽義仲挙兵の地を訪ねる/長野県上田市丸子地区

20161123

2016年11月17日に、木曽義仲に関わる史跡めぐりをした。
結果的に回ったのは、依田城上り口の宗龍寺、依田神社、依田城跡(義仲館跡)、御嶽神社、義仲挙兵の地の看板のある砂原峠、正海清水(清水義高名のもと)、岩谷堂観音。

上信越高速道の「東部湯の丸」インターで降り、ナビの助けを借りて、目的地域でのキーポイント「依田川橋」に到着。
この地方は,浅間山の麓,千曲川に沿って開けた上田盆地。
千曲川の支流依田川に沿って義仲の史跡が点在している。

ちなみに、私は現在違う姓となっているが、旧姓は「依田」であり、丸子に親戚があって子供の頃泊りがけで遊びに来た思い出がある。依田川のすぐ近くの家だった。

後述の砂原峠にあった、義仲関係史跡案内図
161123yoshinaka01.jpg


治承5年(1181年)6月,以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は,丸子の依田城に2年滞在。
この地で挙兵し、『平家物語』『源平盛衰記』で語り継がれる海野宿近くの「白鳥河原の勢揃」となる。

【宗龍寺】
所在地:長野県上田市御嶽堂145番地

治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
というのも、木曽義仲の父・源義賢の妹が嫁いでいたのが依田為実であり、今の当主・依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士の関係だった。
源義朝の弟である源義賢は、埼玉県嵐山の大蔵館で、甥の悪源太源義平に討たれる。その時3歳だった義仲は討手側の温情で匿われ、木曽で育てられた。

依田城は山城であり、依田信実は麓の館を木曽義仲に譲り、自身は山城に住んだという。

その登り口にあるのが、宗龍寺である。
161123yoshinaka02.jpg


少し入った所に「扇子池」があり、弁財天を祀っている。
161123yoshinaka03.jpg


三門
正式には三解脱門である。
享保年間に建てられた三門は唐様造りで文久3年の火災を免れた同寺最古の伽藍。「龍宮城の門」と呼ばれ親しまれている。
161123yoshinaka04.jpg


161123yoshinaka05.jpg


161123yoshinaka06.jpg


額は、佐久市内山の正安寺十六世大梅法噀大和尚の筆によるもので「伽藍摩」と揮毫されている。
161123yoshinaka07.jpg


扁額の左右に鳳凰、裏面に龍の彫刻が施されている。
161123yoshinaka08.jpg


161123yoshinaka09.jpg


本堂
161123yoshinaka10.jpg


161123yoshinaka11.jpg


花頭窓のガラスに鐘楼の屋根が映っていた。
161123yoshinaka12.jpg


 宗龍寺は文安年間(1944~1449)、室町時代に開闢したが火災で焼失。慶長5年(1600)中山勘解由左衛門宗龍を開基とし、上田市の龍洞院三世・底山元徹大和尚禅師を開山に迎え、曹洞宗中峰山宗龍寺として再建開創された。
 寺の裏の城山は、木曽義仲が挙兵の根拠地とした依田城跡であり「木曽は依田城に有りけるが」と平家物語にも語られている。また同寺は菅平根子岳、烏帽子、浅間山などを望む景勝の地で、丸子八景の一つに数えられる。

鐘楼
 大正10年建立。大戦のため提出した梵鐘を昭和37年「世界平和を祈る鐘」として復元。「おやすみの鐘」として夜9時に平和を祈り響き渡っている。
161123yoshinaka13.jpg


161123yoshinaka14.jpg


161123yoshinaka15.jpg


境内に見事なモミジがあり。
161123yoshinaka16.jpg


161123yoshinaka17.jpg


161123yoshinaka18.jpg


161123yoshinaka19.jpg


さて、依田城だが、事前調査では、頂上の城跡まではけっこう険しい山道を30分かかるらしかった。
この日はカミさん同行のため、頂上まで登るのはあきらめ、10分ほど登ると「依田城登り口」の標識があるので、そこまで登るつもりだった。
登り口がわからなくて、お寺に聞きに行くと、この間の台風ですぐ上ががけ崩れになっていて、「依田城登り口」の標識のところまでも行けない。現在誰も登るのは禁止となっている、との説明だった。

残念ながら、この先はいけない(泣)
161123yoshinaka20.jpg


161123yoshinaka21.jpg


この山の頂上が依田城。
161123yoshinaka22.jpg


三門のところから、丸子の町がよく見えた。
161123yoshinaka23.jpg


【依田神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂403
依田氏ゆかりの神社(氏神)だと思われるが、縁起・創建時期など不明。
義仲が戦勝を祈願し八幡社を勧進したと伝わる。
161123yoshinaka24.jpg


161123yoshinaka25.jpg


両部鳥居
161123yoshinaka26.jpg


161123yoshinaka27.jpg


手水鉢
161123yoshinaka28.jpg


その後ろに、庚申塔が二基あり。
161123yoshinaka29.jpg


石段を上がる。
161123yoshinaka30.jpg


参道は真っ直ぐ。
161123yoshinaka31.jpg


平成4年奉納の狛犬
161123yoshinaka32.jpg


拝殿
161123yoshinaka33.jpg


161123yoshinaka34.jpg


本殿
161123yoshinaka35.jpg


161123yoshinaka36.jpg


神紋は「立ち梶」と「依」
「立ち梶」は諏訪大社からの関係かと思う。
161123yoshinaka37.jpg


境内社・「蚕神様」
161123yoshinaka38.jpg


境内社・三宝荒神
161123yoshinaka39.jpg


【依田城跡(義仲館跡)】
依田城跡に向かう入口に,御嶽神社の鳥居が建っています。
161123yoshinaka40.jpg


161123yoshinaka41.jpg


161123yoshinaka42.jpg


依田城とは、丸子地区御岳堂の集落後方に屏風のようにそそり立つ金鳳山まで含めた一帯をいうのだとか。山裾には,義仲が起居したという義仲館跡があります。

御嶽神社の少し手前に、参道から左に折れると館跡。
161123yoshinaka43.jpg


161123yoshinaka44.jpg


通用門
161123yoshinaka45.jpg


161123yoshinaka46.jpg


一族が住まいした館跡。一番奥まで行って撮りました。わりと広い。
161123yoshinaka47.jpg


治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
そして養和元年(1181年)6月、「横田河原の合戦」を睨んで、あの白鳥河原に信濃・西上州の兵を集結させ、挙兵した。
161123yoshinaka48.jpg


依田城跡から眼にする上田の街並み。
素晴らしい展望。当時義仲は、この景色を眺望しながら,熱い心をたぎらせていたのでしょう。
161123yoshinaka49.jpg


右の方に浅間山も見える。
161123yoshinaka50.jpg


【御嶽神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂
鳥居のところの説明では、木曾の御嶽山を勧請とあるので、「おんたけじんじゃ」なのかなと思ったが、鎮座地名の御嶽堂(みたけどう)同様、地元では「みたけじんじゃ」と呼ぶらしい。

鳥居
161123yoshinaka51.jpg


木立のなかを参道がまっすぐである。
161123yoshinaka52.jpg


161123yoshinaka53.jpg


一段上がって社殿。
161123yoshinaka54.jpg


社殿
161123yoshinaka55.jpg


拝殿
161123yoshinaka56.jpg


創祀年代は不詳。
古来、依田村内の上組の産土神として崇敬された神社。
一説には、依田城に在った木曽義仲が、「王の御嶽(みたけ)」として信仰していた木曾の御嶽山の神(大己貴命・少彦名命)を祀ったという。あるいは、奈良金峯山の蔵王権現(安閑天皇)を勧請し水分(みくまり)山である城山を御嶽(みたけ)としたという説もあるらしい。

永禄年中、武田信玄によって拝殿が造営され、天正三年(1575)六月本殿が再建された。
元は、御嶽権現と称していたが、明治三年十月、御嶽神社と改称し、明治六年四月御嶽堂・生田・東内・西内・腰越五ヶ村の郷社に列した。

ご祭神は木曾の御嶽山と同じ、大己貴命、少彦名命、安閑天皇。
社殿には御神体として、正面に黒衣束帯に彩色された地蔵尊の木像座像、右手には彩色してない地蔵尊の木像立像、左手には衣冠束帯に彩色された木像座像が祀られているらしい。

本殿
161123yoshinaka57.jpg


161123yoshinaka58.jpg


石組の手前、境内の左手に石祠が九社並んでいる。
確認できたのは、石尊社・諏訪社・白山社・稲荷社。
他は、情報では三峯社・大神宮・金毘羅社、あとは不明。
161123yoshinaka59.jpg


161123yoshinaka60.jpg


【砂原峠】
長野県上田市御嶽堂
木曽義仲挙兵の地の看板
161123yoshinaka61.jpg


この看板があるのは砂原峠。塩田平から丸子へ鎌倉道が走っていますがその道沿いにある峠です。木曽義仲は丸子の依田城におよそ2年ほど居城し、ここで兵馬を集めて京に攻め上った。

ゆかりの史跡を示す案内図がある。
161123yoshinaka62.jpg


看板の足元に「馬頭観音」がある。
161123yoshinaka63.jpg


浅間山がきれいに見える。
161123yoshinaka64.jpg


【正海清水】
所在地:長野県上田市御嶽堂
161123yoshinaka65.jpg


鎌倉街道沿いにある湧水で、依田氏の居城で生活用水として使ったり、武田信玄も汲んだといわれています。
木曽義仲も愛用した清水といわれています。
161123yoshinaka66.jpg


正海清水
161123yoshinaka67.jpg


中山水道施設当時に建てられた記念碑があり、義仲軍団に愛飲されたであろう正海清水の昔をしのぶことができます。
161123yoshinaka68.jpg


その訳
161123yoshinaka69.jpg


その裏面に、明治に「報徳精神」から、この清水を上水道に利用した説明がある。
161123yoshinaka70.jpg


上水道の水源となっているので、当然ながら鉄板による蓋がされ、鍵がかかっており、残念ながら水場として汲める場はありません。
161123yoshinaka71.jpg


ここから浅間山を望む。
161123yoshinaka72.jpg


※清水冠者義高
正海清水の近くには、木曽義仲の長男、義高の屋敷があり、人々は義高を「清水冠者」と呼んでいたと伝えられています。
1183年、義仲は人質として義高を源頼朝のところへ遣わし、頼朝は義高を長女「大姫」の婿としました。この夫婦の悲話が、中世の御伽草子「清水冠者物語」などに語られています。
「義仲戦死後、頼朝は義高を殺そうとした。しかし殺害計略が漏れてしまい、大姫は急を義高に知らせた。驚いた義高は女房姿に身をやつし、近習海野幸氏や望月重隆らの助けで脱出したが、追手に見つかり、入間川の河原で処刑された」
なお近習として仕えていた海野幸氏・望月重隆は、その忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた。
後に頼朝に仕え、二人とも弓の名手として重用された。

続いて最後の訪問地,岩谷堂観音がある龍洞山宝蔵寺です。

【岩谷堂観音】
所在地:長野県上田市御嶽堂84
161123yoshinaka73.jpg


ここは,義仲が戦勝祈願したと伝わる、比叡山第3代座主慈覚大師円仁開基の古刹ですが、訪ねてみると義仲の事蹟だけでなく、平家の猛将とその寵姫の哀話も残っており、驚きました。

縁起(お寺のパンフレットより):
 当岩谷堂は平安時代の初期(承和元年〔834〕)比叡山の第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、大師御謹刻の聖観世音菩薩を安置いたす御堂で、未塗りに映える現在の堂宇は徳川時代中期、今から凡そ230年前安永6年(1778)の建立で、それ以前は現在「奥の院」と呼ばれている本堂裏の洞窟の中に安置されておりました。
 境内の下を通っております道路はかっての鎌倉街道でありまして当時の一級国道です。岩窟中に安置された霊佛と稀なる風光明眉なこの場所を往来の旅人は自から参詣の念を起し、過去の縁者の冥福と我が身の息災を祈念したものと思われる五輪塔(石塔婆)が境内から無数に発見されます。

いかにも観音霊場らしい参道を上がる。
161123yoshinaka74.jpg


わりと急な石段を上がると山門があり。
161123yoshinaka75.jpg


山門左右の石垣
161123yoshinaka76.jpg


161123yoshinaka77.jpg


山門をくぐると社務所前に、義仲手植えと伝えられる「義仲桜」がある。
幹の周囲が5m近くあるしだれ桜で,樹齢800年。これは、来春ぜひとも桜の写真を撮りにこよう。
161123yoshinaka78.jpg


161123yoshinaka79.jpg


岩谷堂観音を祀る本堂。
161123yoshinaka80.jpg


彫刻が見事です。
161123yoshinaka81.jpg


161123yoshinaka82.jpg


お参りする。
161123yoshinaka83.jpg


161123yoshinaka84.jpg


本堂の前に、木曽義仲史跡の説明。
161123yoshinaka85.jpg


本堂の横に岩窟堂があり。
161123yoshinaka86.jpg


161123yoshinaka87.jpg


岩窟堂の正面には「楓の前」とある。
161123yoshinaka88.jpg


覗くと、中央に小さな厨子が安置されていた。
161123yoshinaka89.jpg


それで、お寺のパンフレットで探すと、「平景清と楓の前」の説明があった。
「平景清と楓の前」:
 平家の猛将と云われた悪七兵衛平景清は平家壇ノ浦で滅亡後一門の仇を討つべく、旅の憎に身を変えて鎌倉に向う途路、当寺に立寄ったと云われております。
これを追って景清の寵姫「楓の前」も当寺に参りましたが、景清が鎌倉で捕まったのを知り、この寺に留まり景清と平家一門の菩提のために生涯をささげたと云われており、景清公の遺品が寺宝として伝えられております。

岩窟堂の前から、本堂の後ろに入れるようになっていた。
「奥の院 洞窟観音」とある。
161123yoshinaka90.jpg


洞窟の中は、そんなに深くないが、照明が無いので何があるのかまったくわからない。
とりあえずストロボで撮っておいたら、観音らしき石仏が安置されていた。
161123yoshinaka91.jpg


本堂の回廊からの眺め。
眼下に丸子の町と、遠くに浅間山が見える。
161123yoshinaka92.jpg


参道を上りきったところにある、「二尊堂」
阿弥陀如来と薬師如来を祀ってあった。
161123yoshinaka93.jpg


義仲桜のところから右に行くと、聖徳太子堂と岩窟古墳とあり。
161123yoshinaka94.jpg


落ち葉で滑りやすい、細い山道を行くと、まず聖徳太子堂があり。
161123yoshinaka95.jpg


そこから、更に急斜面となり、落ち葉で滑りやすく、つかまるところも無いので、岩窟古墳に行くのは断念。
161123yoshinaka96.jpg


ズームで撮ると、崩落除けにタイヤを積んである。中には入れないようだ。
161123yoshinaka97.jpg


最後に降りて来た道には、「馬大門」の説明がある。
義仲は正面の石段を使わず,馬で脇参道の急坂を一気に駆け上がったと伝えられ,その参道は「馬大門」と呼ばれているそうです。
161123yoshinaka98.jpg



これで、この日訪ねる予定にしていたところは全て終了。
現地に行けば、マップとか手に入って何とかなるだろうと、高をくくってやってきましたが、そういうものは見つからなくて、最初はかなりまごつきました(笑)
宗龍寺は分かっていたので、そこからスタートして、それからは、当ても無しに道を走っていて出くわしたところ(笑)
それでも、土地の方に場所を教えていただいたりして、初期の目的は果たせました。

(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



鹿島神宮の鎌倉時代狛犬/狛犬を楽しむ

20161122

所在地:茨城県鹿嶋市・鹿島神宮
参観日:2016年2月27日 茨城県立歴史館「茨城の宝・Ⅰ」展
年代:鎌倉時代(1185~1333年)
材質:木製
型式:神殿型

茨城県立歴史館の「茨城の宝・Ⅰ」展を見に行ったときに、出展されていた鹿島神宮の鎌倉時代の狛犬三組(うち一組は片方欠損)を見ました。
その三組を今回アップしますが、撮影禁止だったので、図録の写真しかありません。

鹿島神宮については、記事があります。

その記事を読む


■一組目(茨城県指定文化財)
阿形
161122kashima01.jpg


161122kashima02.jpg


吽形
161122kashima03.jpg


161122kashima04.jpg


ヒノキ材による寄木造り。
阿形はたてがみが巻いており獅子、吽形はたてがみが流れていて狛犬で角があり、典型的な獅子狛犬である。
前足はたくましく直立し、後足は蹲踞している。
尾は自然な形の尾で立っている。
顔は、精悍だが笑顔で親しみやすい。

■二組目
阿形
161122kashima05.jpg


161122kashima06.jpg


吽形
161122kashima07.jpg


161122kashima08.jpg


ヒノキ材による寄木造り。
阿形はたてがみが巻いており獅子、吽形はたてがみが流れていて狛犬で角があり、典型的な獅子狛犬である。
前足は、阿形は交差し直立し、吽形は開き気味で直立している。後足は蹲踞している。
尾は体に付いているようだが、正面からの写真なので詳細はわからない。(記憶もたしかでない)
顔は、笑顔で親しみやすい。
大きさが、かなり小さいことから祭事に使われた狛犬と考えられると、神事の図も付いている。
161122kashima09.jpg


■三組目(茨城県指定文化財)
阿形は失われ、吽形のみ。
161122kashima10.jpg


161122kashima11.jpg


ヒノキ材による寄木造り。
たてがみが流れていて狛犬で角がある。
前足は、開き気味で直立し、後足は蹲踞している。
尾は正面からの写真なので、まったく見えないのでわからない。(記憶もたしかでない)
顔は、困った顔で親しみやすい。


(了)



狛犬の記事一覧を見る



御前神(みさきのかみ)・荒御前神(あらみさきのかみ)/日本の神々の話

20161120

御前神は、島根県熊野大社摂社・稲田神社(祭神は櫛名田比売命)の配祀神として、
荒御前神は、加賀一之宮・白山比咩神社摂社・荒御前神社のご祭神としてお参りしている。

「御前神」は主神の御前にあって前駆をつとめる小神の意であったが、のちには民間信仰における死霊や怨霊、きつね、つきものなどの呼び名となった。
御前神の荒々しい姿を荒御前神という。

荒御前神は、私のわかっている部分で、次の三つがある。
① 武徳の高い先駆けの神。神功皇后の征韓の時に御座船に現れて守護したという日本武尊または住吉の大神の荒御魂(あらみたま)をいう。
② 〔「みさき」を「御裂き」の意にとって〕 愛人・夫婦などの仲をさくと考えられていた嫉妬深い神。
③加賀一之宮・白山比咩神社の摂社に「荒御前神社」があり、ご祭神は「荒御前大神」であ。この神は白山比咩大神の荒御魂と説明されている。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



佐倉(国立歴史民俗博物館、佐倉城址、武家屋敷)探訪

20161119

10月12日(水)に歴史クラブの秋季定例見学会で訪ねました。
46名の参加で、電車で移動しました。京成佐倉駅に10時半に到着。
まずは歩いて10分ほどの、国立歴史民俗博物館を見学です。

入り口から夢少し登ったところに、臼杵石仏のレプリカがあり。
161119sakura01.jpg


161119sakura02.jpg


【国立歴史民俗博物館】
全景の写真を撮らなかったので、公式HPから写真を借用しました。
161119sakura03.jpg


入場チケット
161119sakura04.jpg


入場して記念写真を撮ってから集合までの、昼食を含めての自由時間が3時間。
6つの室に分かれているが、一つの室をきちんと見たら2時間はかかります。
見たかった「民俗」の室はリニューアルに入ったため、来年の4月以降に再訪する予定。

ここでは、6月の下見のときにじっくり見た「中世」と、10月本番のときの「近世」を載せておきます。
全部が面白かったので、載せたいところだが、膨大なものになってしまうので、ほんの一部だけ載せておきます。

■中世
161119sakura05.jpg


宮廷の模型。狛犬の発祥「鎮子(ちんす)」がある。
鎮子:几帳などが風にあおられないよう、押さえるもの
161119sakura06.jpg


161119sakura07.jpg


「乎己止点図」が面白かった。
161119sakura08.jpg


161119sakura09.jpg


徳川家康が使用した印刷の活字
161119sakura10.jpg


161119sakura11.jpg


武士の館
161119sakura12.jpg


161119sakura13.jpg


洛中洛外図屏風
特に市中の様子が面白い。
161119sakura14.jpg


161119sakura15.jpg


161119sakura16.jpg


洛中洛外図をジオラマにしたもの
161119sakura17.jpg


161119sakura18.jpg


「海東諸国紀」と「籌海図編」
書き込まれている日本の地域名がメチャクチャで面白い。
161119sakura19.jpg


1632年、マテアスが作った地球儀。
161119sakura20.jpg


161119sakura21.jpg


織田信長の楽市令制札
161119sakura22.jpg


「高尾観楓図屏風」
161119sakura23.jpg


161119sakura24.jpg


茶売り
161119sakura25.jpg


春日社の田楽
161119sakura26.jpg


161119sakura27.jpg


浦嶋明神縁起絵巻
161119sakura28.jpg


161119sakura29.jpg


■近世
161119sakura30.jpg


江戸図屏風
川越が描かれている。
161119sakura31.jpg


161119sakura32.jpg


朝鮮通信使
161119sakura33.jpg


161119sakura34.jpg


輸出品
生糸
161119sakura35.jpg


鮫皮加工品
161119sakura36.jpg


海産物
161119sakura37.jpg


須弥山世界
161119sakura38.jpg


161119sakura39.jpg


算木
161119sakura40.jpg


161119sakura41.jpg


のぞきからくり
「時代屋の女房」を思い出す。
161119sakura42.jpg


161119sakura43.jpg


アイヌの着物「チカルカルベ」
161119sakura44.jpg


蝦夷国魚場風俗図鑑
161119sakura45.jpg


161119sakura46.jpg


161119sakura47.jpg


早竹虎吉の軽業
161119sakura48.jpg


161119sakura49.jpg


161119sakura50.jpg


養蚕技術の輸出
161119sakura51.jpg


161119sakura52.jpg


奉納算額
「天地明察」に刺激されて、川越にある算額を探して歩いたことがある。
161119sakura53.jpg


161119sakura54.jpg


平田国学
161119sakura55.jpg


161119sakura56.jpg


161119sakura57.jpg


村芝居の世界
161119sakura58.jpg


阿波人形
161119sakura59.jpg


161119sakura60.jpg


161119sakura61.jpg


161119sakura62.jpg


百姓一揆の作法(夢の浮橋)
161119sakura63.jpg


161119sakura64.jpg


161119sakura65.jpg


161119sakura66.jpg


161119sakura67.jpg


国立歴史民俗博物館の見学を終え、その時間帯のなかで、レストランなどで昼食も済ませており、集合後佐倉城跡を見学。
時間の関係で、歩きながら見る、といった感じだったので、下見のときの写真も併せて載せておきます。

【佐倉城址】
161119sakura68.jpg


佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。

※千葉親胤は暗殺された当時、反北条氏的な立場であったらしく、暗殺劇の裏には北条氏と、千葉氏筆頭家臣で実力的には千葉氏を抑えていた原氏らの意向が伺える。

※千葉邦胤の暗殺のキッカケは「屁コキ事件」。天正十三(1585)年正月、邦胤が本佐倉城内に家臣を迎えての新年の宴を催した。その最中に配膳役の桑田万五郎が、役目の最中に二度に渡って屁を放った。当然、邦胤が怒ったが、万五郎は自然現象と開き直った。激怒した邦胤は万五郎を蹴り倒し、謹慎にした。万五郎はこの時の遺恨が忘れられず、ついに寝所に忍び入り、邦胤を二太刀斬り付けたという。結局万五郎は城下で自刃(あるいは斬殺)となり、邦胤も数日後にこの傷が元で死去してしまった。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多かった。

江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、堀田家が安定した藩の経営を行った。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦(ほった まさよし)は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名である。

城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。

博物館のすぐ横にある、巨大な「馬出し空堀」
161119sakura69.jpg


本丸跡への入り口に立つ「堀田正睦とタウンゼント・ハリス」の像
161119sakura70.jpg


少し進むと、正岡子規の句碑がある。
161119sakura71.jpg


161119sakura72.jpg


深い空堀
161119sakura73.jpg


一の門跡
161119sakura74.jpg


161119sakura75.jpg


広大な本丸跡
161119sakura76.jpg


土塁が高い
161119sakura77.jpg


本丸跡の土塁にある、「夫婦モッコク」
161119sakura78.jpg


161119sakura79.jpg


161119sakura80.jpg


161119sakura81.jpg


雑木林の中を行く。
161119sakura82.jpg


三の門跡
161119sakura83.jpg


極めて幅の広い空堀
161119sakura84.jpg


佐倉城は、普通の大きな城に見られるような、石垣と水堀は無いが、高い土塁と広大な空堀に守られた良い城であることがわかった。

佐倉城址を後にして、少し歩き「ひよどり坂」に向かった。

【ひよどり坂】
急坂の両側を深い竹林が囲んでいて、とても良い坂なので、あえてコースに入れた。
161119sakura85.jpg


161119sakura86.jpg


161119sakura87.jpg


161119sakura88.jpg


【武家屋敷通り】
161119sakura89.jpg


例えば、金沢の武家屋敷町は、石垣と土壁で通りと隔て、家は瓦葺きなのに対して、
佐倉の武家屋敷は、通りには土塁を築きその上に生垣を設け、家は茅葺だったりして、全く趣の違うものである。
161119sakura90.jpg


三軒の武家屋敷が公開されている。
時間の関係で、中に入らなかった。
161119sakura91.jpg


但馬家住宅
161119sakura92.jpg


161119sakura93.jpg


くらやみ坂
161119sakura94.jpg


河原家住宅
161119sakura95.jpg


161119sakura96.jpg


静かな空間だ。
161119sakura97.jpg


161119sakura98.jpg


児玉源太郎が住んでいた。
161119sakura99.jpg


これで、武家屋敷の見学を終え、この日の予定は終了。
旧商家町を通って、駅に向かった。

旧佐倉町道路元標と佐倉藩高札場跡
161119sakura100.jpg


161119sakura101.jpg


佐倉市立美術館
レトロな建物部分は、旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)です。
161119sakura102.jpg


街灯もいいですね。
161119sakura103.jpg


京成佐倉駅に帰りつき、この日の見学会は終了。
まだまだ、佐倉には行きたいところが沢山ある。
再訪を期しています。



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



お気に入りの場所一覧に飛ぶ



宗像大社の狛犬/狛犬を楽しむ

20161118

所在地:福岡県宗像市・宗像大社辺津宮
参観日:2014年10月7日 出光美術館「宗像大社国宝展」
年代:建仁元年(1201)
材質:石造(石灰岩)
型式:神殿型
国指定重要文化財

この狛犬は、出光美術館で行われた「宗像大社国宝展」で見た。
この展示会に行ったのは、新聞の広告にこの狛犬の写真が載っていたからだ。

宗像大社国宝展の記事を読む


宗像大社は、発掘されたもの8万点が全て国宝という神の島「沖ノ島」を持つ神社であり、切望しているがまだ参拝を果たしていない。

お目当ての狛犬は、室内に置かれていたと思われ、まったく汚れのない真っ白な姿で輝いていて、その愛嬌のある姿が好ましく、何度も繰り返しその場所に戻って見入ってしまった。

中国の南宋で作られたということでその点は明白だが、左右とも獅子である。たてがみが両方とも巻き毛であることでわかる。

もちろん展示会は撮影禁止なので、図録に載っていた写真を借用します。

阿形は子獅子を抱いている。
161118muna01.jpg


161118muna02.jpg


161118muna03.jpg


吽形は玉を抱いているが、玉についているリボ゛ン状の布を口に咥えている。
161118muna04.jpg


161118muna05.jpg


161118muna06.jpg


阿形、吽形ともに背中に「奉施人宗像宮第三御前宝前、建仁元年辛酉藤原支房」という銘が彫り込まれていて、建仁元年(1201)に宗像大社第三宮(辺津宮)に奉納されたことがわかる。
161118muna07.jpg


奉納者については、関連史料が無く詳細は不明であるが、宗像大社に所縁のある人物であることは疑いなく、大宮司家一族あるいは宗像に地縁のある人物で、南宋交易に関わっていた太宰府政庁の役人ではないかと、推測されている。

特徴:
・子獅子を抱く阿形、玉を持つ吽形の、両獅子の狛犬一対
・各々一塊の石灰岩から台座ごと掘り出された美しい作品
・室内にずっと置かれていたと思われ、白く輝いている
・彫刻技術や唐獅子の形状から南宋からの渡来品と考えられている

真っ白い綺麗な状態で、笑顔で、あるいは子獅子を抱き、あるいは玉を持つ姿は、愛嬌があって、とても親しみやすいものだった。


狛犬の記事一覧を見る



八重垣神社の狛犬/狛犬を楽しむ

20161115

所在地:島根県松江市・八重垣神社
参拝日:2015年11月14日
年代:平安時代末(1100年代)
材質:石造(来待石)
型式:神殿型

八重垣神社は、松江を訪れた観光客はたいてい訪れるのではないかという神社です。
私は、「神話のふるさと出雲地方を訪ねる」という旅をして、訪れました。
161115yaegaki01.jpg


八重垣神社の記事を読む


この狛犬は、随身門をくぐった直後の場所に置かれています。
161115yaegaki02.jpg


〇右(神殿に向かい)
たてがみの先端が明瞭ではないが巻き毛となっているので獅子だが、吽形だと思われる。
161115yaegaki03.jpg


161115yaegaki04.jpg


たてがみの巻き毛
161115yaegaki05.jpg


〇左(神殿に向かい)
口のところが大きく欠けているので、阿形だったと思われる。
非常にもろい来待石で出来た古い狛犬はたいていこうなっている。
161115yaegaki06.jpg


161115yaegaki07.jpg


島根産の来待石(きまちいし)という非常にもろい石で作られているため、磨滅と欠損がひどい。
そのため、神社の説明している年代を疑う意見もあるが、造型が日本最古とされる東大寺南大門のものと似ていること、奇跡を信じたいので、「1100年代」とする。

・たてがみから、獅子と狛犬の区別は辛うじて判別でき、神殿に向かって右が獅子、左は狛犬というのは合っている。しかし、阿吽は通常とは逆であるが、これはよくあること。
・耳は、よくわからない。
・たてがみは、右が巻いているので獅子と判断。左は巻き毛は認められないので狛犬であろう。
・胸の襟毛:長くストレート
・顔の特徴:わからない
・前足:太く、長く、直立していて、後足とほとんどくっついている。
・胸が張って堂々としている
・後足: 蹲踞(そんきょ)
・尾:付き尾

・特徴:
・顔が不明なので、精悍さなどはわからないが、姿勢からはのびやかなものを感じる。
・最古とされる石像狛犬が東大寺南大門にあるが、姿勢がそれと似ている。
・石造だが、造型は神殿型であり、以前は本殿の前とかに置かれていたのではないかと思う。
・出雲地方にありながら、「出雲型(かまえ型)」でないのが、かえっておかしい(笑)


狛犬の記事一覧を見る



野見宿禰命(のみのすくねのみこと)・襲髄命(かねすねのみこと) /日本の神々の話

20161113

出雲大社に参拝したときに、末社野見宿禰神社に参拝。
また出雲大社の彰古館には、入り口ロビーに野見宿禰命像が置かれていた。
161113nominosukune.jpg


野見宿禰は天穂日命十四世の孫、土師の祖、菅原道真の遠祖である。
また、第13代出雲國造(出雲大社宮司)である襲髄命(かねすねのみこと)の別称。

出雲大社公式HPに載っている野見宿禰の説明:
野見宿禰は第13代出雲國造(出雲大社宮司)である襲髄命(かねすねのみこと)に別称です。垂仁天皇の御代7年、当時大和国に当麻蹶速(たいまのけはや)という天下一の力人がおりましたが、垂仁天皇はこの当麻蹶速に匹敵する者が他にいないだろうかと御下問になられました。その際、一人の家臣が進み出て、出雲国には野見宿禰という力人がいることを申し出ると、すぐに役人が出雲国へと遣わされ、野見宿禰は朝廷へと趣きました。そして当麻蹶速と野見宿禰による御前相撲が執り行われ、野見宿禰は見事に打ち勝ち、以降、大和国へ留まって朝廷へ仕えました。このことが『日本書記』に伝えられていることから、野見宿禰は古くより相撲の祖と称えられ、今日では相撲を始めスポーツを志す人々に篤く信仰されています。
また、野見宿禰が朝廷へ仕えた際、墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪(はにわ)を納める葬儀を考案。その功が称えられて焼物に適した土地を与えられ、土部(土師)職(=はじのつかさ)に任じられるなど、文武両道の神として崇められています。

垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。

また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。

播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。

野見宿禰は祖先として土師氏に崇められた。
土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、その菅原氏から公家の五条家が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。

光仁天皇の天応元年(781)、後裔の土師宿禰古人は、 住む土地の名によって土師を改め菅原姓を賜わった。 古人の子が清公、清公の子が是善、是善の子が菅原道真。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



白山比咩(しらやまひめ)神社の狛犬/狛犬を楽しむ

20161112

今まで、撮りためていた狛犬が相当の数になりました。
その魅力にハマッています。
これから、江戸時代以前のものに限定して、私が確認した狛犬を年代の古い順にアップしていきたいと思います。

最も古いのは、石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」の狛犬

所在地:石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」宝物館
参拝日:2014年8月3日
年代:平安時代末
材質:木製
型式:神殿型

白山比咩神社は、全国に三千余社あるという白山(はくさん)神社の本社にあたります。
161112koma01.jpg


白山比咩神社の記事を読む


この狛犬は、現在宝物館に置かれており、撮影禁止のため、画像は神社発行のガイドブックに記載のものしかありません。
161112koma02.jpg


161112koma03.jpg


161112koma04.jpg


・阿吽あり、ただし獅子と狛犬のセットとは云い難いが、頭には、吽形に角を取り付けたあとあり
・耳は、目立たない
・たてがみは、流れていて、獅子と狛犬の区別は無い
・胸の襟毛:無し
・顔の特徴:獰猛
・前足:細く、長く、直立している
・胸が張って堂々としている
・後足: 蹲踞(そんきょ)
・尾:付き尾
・特徴:精悍で獰猛で、今まさに飛びかからんとする力強さがある

狛犬のルーツは各説ありますが、日本でのルーツは、神聖な場所を守護するため、また宮中の調度品「鎮子(ちんす)」として、室内に置かれました。

「神殿型」というのは、主として木製で、神聖な場所を守護するため社殿内(回廊まで含む)に置かれたものをいう。
その説明によく引用されるのが、今回の「白山比咩神社」にある「絹本着色白山三社神像図」(鎌倉時代)です。
一番下に狛犬一対が描かれている。
161112koma05.jpg


狛犬の記事一覧を見る




三囲(みめぐり)神社

20161111

鎮座地:東京都墨田区向島2丁目5−17
参拝日:2016年11月3日(10月2日、2012年4月24日)

3日に浅草寺で「白鷺の舞」を観たあと、吾妻橋から隅田公園を抜けていき、牛島神社に参拝した後、当社に参拝しました。

今回使用している写真は、当日幹事で思うように写真を撮れなかったため、10/2の下見の時、2012年に参拝したときの写真も使っています。

三囲神社に到着。
161111mimeguri01.jpg


社号標
161111mimeguri02.jpg


旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。
社伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。
元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。

「江戸名所繪図」
161111mimeguri03.jpg


隅田川から随分離れています。
本来は牛嶋神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した。
その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれたそうです。

安政年間の「隅田川向島繪図」に描かれているのが、そうですね。
上が北の方向に置きました。
赤丸で囲ったのが三囲稲荷。
161111mimeguri04.jpg


ところが現在は、牛ノ御前(牛島神社)の位置が変わってしまって、水戸下屋敷跡が隅田公園ですが、そこにあります。

玉垣に、三越のマークが。
161111mimeguri05.jpg


鳥居脇に、百貨店生みの親である日比翁助氏の歌碑があり。
161111mimeguri06.jpg


161111mimeguri07.jpg


鳥居をくぐると、境内最古の三つ穴石灯篭があり。
161111mimeguri08.jpg


161111mimeguri09.jpg


延享2年(1745)奉納の狛犬。
161111mimeguri10.jpg


161111mimeguri11.jpg


161111mimeguri12.jpg


161111mimeguri13.jpg


161111mimeguri14.jpg


161111mimeguri15.jpg


161111mimeguri16.jpg


狛ライオン
かっては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。
大正の頃に三越呉服店を率いていた日比翁助氏がライオン好きで、三越本店にライオン像を置いたのが、三越のライオン像のはじまり。
161111mimeguri17.jpg


161111mimeguri18.jpg


目じりの下がった愛嬌ある狛狐「コンコンさん」
161111mimeguri19.jpg


161111mimeguri20.jpg


161111mimeguri21.jpg


161111mimeguri22.jpg


拝殿
161111mimeguri23.jpg


161111mimeguri24.jpg


161111mimeguri25.jpg


彫刻が良い。
161111mimeguri26.jpg


161111mimeguri27.jpg


社額
161111mimeguri28.jpg


とても良い音がする鈴緒だった。
161111mimeguri29.jpg


161111mimeguri30.jpg


拝殿内は伺えなかったが、沢山の奉納絵馬があるようだった。
161111mimeguri31.jpg


161111mimeguri32.jpg


本殿
161111mimeguri33.jpg


ご祭神は、宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)。

神紋は「抱き稲に三」
161111mimeguri34.jpg


社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。
161111mimeguri35.jpg


161111mimeguri36.jpg


陶製の狛犬
161111mimeguri37.jpg


161111mimeguri38.jpg


161111mimeguri39.jpg


161111mimeguri40.jpg


社殿の彫刻が素晴らしい。
161111mimeguri41.jpg


161111mimeguri42.jpg


161111mimeguri43.jpg


161111mimeguri44.jpg


161111mimeguri45.jpg


石造りの三柱鳥居
161111mimeguri46.jpg


161111mimeguri47.jpg


三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がある。
161111mimeguri48.jpg


老翁老女の石像
161111mimeguri49.jpg


161111mimeguri50.jpg


161111mimeguri51.jpg


161111mimeguri52.jpg


碑はないが、ここにも三囲を詠んだ其角の句があります。
「早稲酒や狐呼びだす姥が許(もと)」

其角の有名な句
「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」
161111mimeguri53.jpg


161111mimeguri54.jpg


161111mimeguri55.jpg


境内には、其角の句碑がもう1基ある。
「山吹も柳の糸のはらミかな」
161111mimeguri56.jpg


社殿横に宗因白露の句碑
「白露や無分別なる置きどころ」
句碑は二つの石が合せられていて、右に「白露や」の句、左に芭蕉、其角、許六などの宗因を褒める文章が刻されている。
161111mimeguri57.jpg


161111mimeguri58.jpg


阪井久良伎の川柳
「広重の雪に山谷は暮れかかり」
161111mimeguri59.jpg



これで、当社の参拝を終え、今日の予定は終了です。
のんびりと、隅田川のテラスを歩いて吾妻橋に向かい、帰途につきました。

(了)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



牛島神社

20161108

鎮座地:東京都墨田区向島1−4−5
参拝日:2016年11月3日(10月2日、2012年4月24日)

3日に浅草寺で「白鷺の舞」を観たあと、参拝しました。
吾妻橋から隅田公園を抜けていくと、隅田公園の一番奥にあります。

今回使用している写真は、当日幹事で思うように写真を撮れなかったため、10/2の下見の時、2012年に参拝したときの写真も使っています。

鳥居
161108ushi01.jpg


161108ushi02.jpg


縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、「牛御前社」と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。
また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。以後千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わり、箱書に「此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者 先祖千葉家被再興候 慶長18(1613)年9月15日 国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺」とあります。

安政の絵図に「牛ノ御前」と載っている。
場所は、今よりも言問橋寄りの位置であった。
161108ushi03.jpg


鳥居をくぐると、大きな狛犬が迎える。
161108ushi04.jpg


161108ushi05.jpg


手水舎
161108ushi06.jpg


拝殿前には、珍しい「三輪鳥居」がある。
161108ushi07.jpg


三輪鳥居をくぐると、拝殿前にはなんと4組もの狛犬、狛牛がある。

拝殿から遠いほうから挙げていく。

文化8年(1811)奉納の狛犬
161108ushi08.jpg


161108ushi09.jpg


161108ushi10.jpg


161108ushi11.jpg


161108ushi12.jpg


161108ushi13.jpg


獅子山
161108ushi14.jpg


161108ushi15.jpg


狛牛
161108ushi16.jpg


161108ushi17.jpg


享保14年(1729)奉納の狛犬
161108ushi18.jpg


161108ushi19.jpg


161108ushi20.jpg


161108ushi21.jpg


161108ushi22.jpg


161108ushi23.jpg


161108ushi24.jpg


拝殿
161108ushi25.jpg


161108ushi26.jpg


向拝部分の彫刻が素晴らしい。
161108ushi27.jpg


161108ushi28.jpg


161108ushi29.jpg


社額
161108ushi30.jpg


拝殿内部
161108ushi31.jpg


ご祭神:須佐之男命、天之穂日命、貞辰(さだとき)親王命
貞観二年(860)に、慈覚大師が神託により須佐之男神を郷土守護として勧進。後に天之穂日命を合祀し、さらに清和天皇第七皇子の貞辰親王が当地で没したのを、大師の弟子である良本阿闍が神霊をまつり「王子権現」と称したという。


神紋は、「丸に剣方喰(けんかたばみ)」と「九重菊」
161108ushi32.jpg


161108ushi33.jpg


神楽殿
161108ushi34.jpg


〇撫牛
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな日ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
161108ushi35.jpg


161108ushi36.jpg


この神社の祭りの風習などが書かれた説明板
161108ushi37.jpg


161108ushi38.jpg


烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」
談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
161108ushi39.jpg


161108ushi40.jpg


境内に富士塚の名残のようなものがあり、そこにも自然石の形を利用した牛が置かれていた。
161108ushi41.jpg


161108ushi42.jpg


これで、当社の参拝を終え、次いで三囲神社に向かいました。



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



浅草寺・白鷺の舞&隅田川散策

20161106

11月3日に浅草寺で行われた白鷺の舞を、歴史クラブ行事として観にいきました。
11時半から行われるということで、11時ころに地下鉄浅草駅に到着。
浅草寺境内の、演奏される場所で待っていると、なんということか、開始が一時間遅れると(汗)

この日は、その後色々と予定を組んでいたので、まずは順番を変えて浅草観光センターに行きました。
雷門の向かいにある、このビル、気になってはいたんですが、まだ入ったことは無かった。
下見に来たときに入ってみたら、展望テラスからの眺めが気に入って、この日のコースに組み込んでいた。

浅草観光センターの建物
隈研吾氏の設計で、平屋の家屋を縦に積み重ねたようなデザイン
161106asakusa01.jpg


展望テラスからの仲見世。人出がすごいのがよくわかる。
161106asakusa02.jpg


161106asakusa03.jpg


スカイツリーとサントリービル
161106asakusa04.jpg


二階には、台東区の観光案内のパンフレットがびっしりと並んでいる。
二階からの雷門
161106asakusa05.jpg


12時に、再び浅草寺境内で、場所取りをして白鷺の舞の開始を待つ。
12半に始まったが、ここで大変な事態が(汗)
バックに浅草寺本堂を入れて撮ろうと、場所を確保していたら、なんとお囃子の山車が入ってきて、目の前に停まってしまった。
お陰で、その辺は大混乱(笑)
しかし、執念で山車の横の辺で、なんとか良いポジションを獲得できた(嬉)

やはり、白鷺の舞は優雅な舞でした。
161106asakusa06.jpg


161106asakusa07.jpg


カメラの動画機能で、撮影しました。
ユーチューブにアップしたので、観てください。
下記をクリック

白鷺の舞の動画を観る


白鷺の舞を見終わって、お腹がペコペコになった皆を案内したのが、「まるごとにっぽん」という面白いビル。
木馬亭の先にあります。
161106asakusa08.jpg


ここには、日本全国の優れものが集まっていて、とても楽しいビル。
そこの4階に、各地から美味しいお店が集まっています。
161106asakusa09.jpg


お腹が一杯になり、買い物も済ませたので、その後のんびりと隅田川沿いに散策しました。
吾妻橋を渡って、隅田公園から三囲神社まで行きました。

吾妻橋を渡ってすぐ、川岸に気持ち良く寝ている人発見(笑)
この日は天気がよく、風もなく、気持ちの良い日だった。
161106asakusa10.jpg


勝海舟の銅像
161106asakusa11.jpg


161106asakusa12.jpg


161106asakusa13.jpg


源森川を渡る「枕橋」
161106asakusa14.jpg


スカイツリーと源森川
161106asakusa15.jpg


安政の絵図では、「源兵エ橋」と書かれているのが、今は「枕橋」
161106asakusa16.jpg


そして、この繪図では、水戸藩下屋敷、ミメグリ稲荷社(三囲神社)、牛御前(牛島神社)と続きます。

しかし今は、隅田公園(水戸藩下屋敷跡)、牛島神社、三囲神社となっていて、神社の位置が入れ替わっている。
これが、時代の変遷というやつですね。
161106asakusa17.jpg


隅田公園にある、水戸藩下屋敷跡の説明。
161106asakusa18.jpg


明治天皇行幸碑
161106asakusa19.jpg


明治天皇御製歌碑
「いつみてもあかぬ景色は隅田川  難美路の花は冬のさきつつ」
161106asakusa20.jpg


その後、参拝した「牛島神社」、「三囲神社」は別記事とします。

牛島神社の記事を見る



三囲神社の記事を見る




歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」に飛ぶ



野木町煉瓦窯(ホフマン窯):国指定重要文化財

20161104

所在地:栃木県下都賀郡野木町大字野木3324-1
訪問日:2016年9月23日

この日は、下総国式内社めぐりで5社参拝したあとなので、予定時間に遅れてしまったのだが、ご厚意でガイドをしていただいた。

最初に野木町煉瓦窯(ホフマン窯)の説明をしておく。

ホフマン窯はドイツ人のフリードリヒ・ホフマンが1858年に特許を取得した赤煉瓦焼成用の窯で、日本各地に築造されましたが、現在は栃木県の野木町、埼玉県の深谷市、滋賀県の近江八幡市、京都府の舞鶴市の4基のみ残っています。

※野木町煉瓦窯の歴史:
明治21年(1888)赤煉瓦製造の為に「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は三井物産の三井武之助を中心とし、旧古河藩主の土井利与や豪商丸山定之助らも参加し、初代理事長は丸山定之助であった。
明治22年には野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される、隣接する「旧谷中村」(現在の渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造 に適した立地であった。当初、赤煉瓦焼成窯は登り窯一基だけであったが、明治23年に「ホフマン式輪窯」と呼ばれる当時最新鋭の煉瓦窯(東窯)が完成し、続いて、明治25年には同じ「ホフマン式」の西窯が完成して、赤煉瓦製造が本格的に開始された。このうちのホフマン式の東窯が現存している。西窯は関東大震災で倒壊した。明治26年株式会社に移行して、社名を「下野煉化株式会社」に改めた。赤煉瓦の生産量は明治27年には475万個、明治28年には563万個、明治29年には619万5千個と増大し、以後、大正期、昭和期に渡り、工場や鉄道建設の為に赤煉瓦を供給した。昭和46年社名を「株式会社シモレン」に改め、昭和47年に需要の衰退により、赤煉瓦製造販売が中止された。
 昭和54年(1979)2月3日現存していたホフマン式の東窯が国の重要文化財に指定された。

※設備の概要
ホフマン式輪窯(東窯)は、16個の窯をリング状に並べた連続焼成窯である。焼成中の窯から熱風を前工程の窯に送って、素地煉瓦の乾燥に利用すると同時に、後工程の窯では、煉瓦を冷却する為に取り入れた外気が暖まるので、これを焼成中の窯に送る空気として利用する。
時間がたっと、火を入れる窯を時計回りにシフトさせ、半永久的に運転することが可能である。熱の利用効率が高く、大量生産に適した設計になっている。輪窯の容量は1基当たり、28万8千立方メートルであり、通常は1窯当たり1万4千個、全16窯で約22万個が焼成することが可能である。1年間で輪窯1基当たり、約450万個の焼成能力があると考えられている。

焼成温度は約1,000℃、燃料は粉炭が用いられた。粉炭は常磐炭鉱のものが使われた。煙突の高さは約34,67m、輪窯の周囲は約100mである。窯はイギリス積の煉瓦造りで、屋根は鉄板葺である。窯内部は高さ2,8m、幅3,3m、平面がドーナツ形のトンネル状をなし、天井はボールト形である。外壁には16カ所にアーチ形の出入り口を設け、内壁下方には16ケ所に中央の煙突に通じる煙道を設け、窯内は16室に分かれ、室間に隔壁はない。窯の天井の上部には幅5,6mの床面がドーナツ形に巡り、その外周には高さ1,1mの胸壁がある。
  この床面の内縁と外縁には燃料の運搬用のトロッコのレールが一周する形で敷設され、これらに挟まれた床面には一面に投炭孔が配置される。窯は1979年に国の重要文化財に指定された。

昭和26年には全国で50基のホフマン式輪窯が存在していたとされるが、現在は4基のみである。老朽化が課題であったが、2006年に野木町が施設管理者となり、2011年~2016年まで修復工事が行われ、2016年5月10日「野木ホフマン館」としてリニューアルオープンした。

下野煉化製造の煉瓦を用いた主な建築物:
*東京駅
*日本鉄道会社:鉄道の橋脚・トンネル等
*西堀酒造(小山市)
*結城酒造(結城市)
*日光金谷ホテル(日光市):登録有形文化財
*足尾銅山(日光市)
*新井家ふるさと記念館(野木町)

ホフマン窯での煉瓦焼成図
161104nogi01.jpg


1、2、3室から空気を取り込み、3~7室の焼成後の製品を冷却し、8、9室で焼成。
煙は10、11室の材料を予熱した後で12室から煙突に導入され外部に出る。

全景
161104nogi02.jpg


161104nogi03.jpg


まずは、窯の内部に案内される。
161104nogi04.jpg


出入り口は、ヴォールト・アーチ構造
161104nogi05.jpg


窯内部
161104nogi06.jpg


161104nogi07.jpg


天井には、粉炭を投入する穴が開いている。
161104nogi08.jpg


基本的な窯の構造を見てから、窯を移動。
161104nogi09.jpg


仕切り壁
161104nogi10.jpg


161104nogi11.jpg


点火窯・焚口
161104nogi12.jpg


161104nogi13.jpg


外に出る。
161104nogi14.jpg


上に上がる階段のところで、二種類の煉瓦の積み方が見える。
161104nogi15.jpg


階段に設けられたアーチ。
161104nogi16.jpg


下のほうは「フランス積」
161104nogi17.jpg


上のほうは「イギリス積」
161104nogi18.jpg


窯の上部に上がる。
161104nogi19.jpg


窯に粉炭を投入する部分。
161104nogi20.jpg


粉炭の運搬と投入口
161104nogi21.jpg


161104nogi22.jpg


161104nogi23.jpg


161104nogi24.jpg


窯に粉炭を投入する部分から一段下がり、煙突の周りを見る。
161104nogi25.jpg


巨大な煙突は迫力あり。
161104nogi26.jpg


161104nogi27.jpg


点検、補修用の穴
161104nogi28.jpg


161104nogi29.jpg


煙道などのしくみの写真説明
161104nogi30.jpg


161104nogi31.jpg


161104nogi32.jpg


161104nogi33.jpg


161104nogi34.jpg


煙突の補強構造
161104nogi35.jpg


161104nogi36.jpg


161104nogi37.jpg


見学を終え、階段を下りる場所からの眺め。
隣に、すごく立派な乗馬クラブがあった。
161104nogi38.jpg


煙突の旧補強材基礎
161104nogi39.jpg


161104nogi40.jpg


見学を終え、改めてホフマン窯を見る。
161104nogi41.jpg


161104nogi42.jpg


駐車場からのショット。
迫力あります。
161104nogi43.jpg


時間が遅くなったのに、親切に対応してくれた、ガイドさんなどにお礼を述べ、感謝しながら帰途につきました。


歴史クラブ行事記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」一覧に飛ぶ



高椅(たかはし)神社(延喜式内社)/栃木県小山市

20161101

鎮座地:栃木県小山市高椅702
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社、桑原神社、健田須賀神社に続き、この日最後の参拝社となります。

社号標
式内社 下總國結城郡 高椅神社、旧県社
161101takahashi01.jpg


由緒:
当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天寓尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の12年(684年)祭神の後裔・高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合祀して、高椅神社と尊称するに至った。延書式の神名帳(927年)に登載されている古社である。
磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の孫で、景行天皇の皇子日本武尊の東征の戦跡を巡視なされた際、膳臣として供をし、当地まで来たが、老令のため許しを得てこの地にとどまり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。天武天皇の12年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代々高橋朝臣を襲名した。「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。
後一条天皇の長元2年(1029年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なこととされ、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日までこの禁を犯す者がな<、鯉を食べないことは勿論、五月節句の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
高椅神社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
結城代々の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文二十余通神納され現存する。殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々代参を欠かすことがな<、明治維新まで続けられた。
明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。

参道には、赤い灯篭が並んでいる。
161101takahashi02.jpg


ショックなことに、楼門が工事中だった。
161101takahashi03.jpg


161101takahashi04.jpg


この楼門は、天文24年(1555)結城正勝が改修を行い、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は      水野結城家の寄進により、宝暦4年より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものである。
大正10年、従来の茅葺きを鉄板葺きにすると共に、彫刻等の彩色をはじめ、建物全体を塗り替えるなどの大修理を行い、次いで昭和58年、現在の銅板葺きとした。
昭和42年、小山市指定文化財に指定され、次いで平成7年、栃木県指定文化財の指定を受ける。

Wikipediaのところに載っていた写真を載せておく。
161101takahashi05.jpg


楼門の先の参道
161101takahashi06.jpg


拝殿の前には、石灯篭と狛犬があり。
161101takahashi07.jpg


昭和12年造立の狛犬
161101takahashi08.jpg


161101takahashi09.jpg


161101takahashi10.jpg


161101takahashi11.jpg


拝殿
161101takahashi12.jpg


161101takahashi13.jpg


神名額
161101takahashi14.jpg


本殿
161101takahashi15.jpg


161101takahashi16.jpg


屋根が、瓦屋根に千木と鰹木を載せた面白い形となっている。
161101takahashi17.jpg


ご祭神は:
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
園常立尊(くにのとこたらのみこと)
合祀神:
木花開耶姫命、経津主神、高靇神、火産雲命、豊受比責神

磐鹿六雁命:
 料理の始祖であり・調理のすべてを司る料理人の守護神である。
第10代崇神天皇の時に設けられた四道将軍の一人である大彦命(おおひこのみこと)の孫とされ、後裔が代々天皇の食膳を担当した高橋氏であると伝えられています。
『日本書紀』や、789年(延暦8)に磐鹿六雁命の子孫の高橋氏が朝廷に奉った『高橋氏文』によると、景光天皇が安房の浮島の宮に行幸された際、侍臣であった磐鹿六雁命は、弓の弦を取って海に入れて堅魚(カツオ)を釣り上げ、また砂浜を歩いている時に白蛤を見つけました。
この堅魚と白蛤をなます料理にして献上したところ、天皇は大いにその味を賞賛され、「膳大伴部」の姓(位)を賜ったと記されています。このようないわれから、磐鹿六雁命は調理や料理、料理人の神、さらに醤油、みそ醸造・調味料の神として、多くの料理人や調味料関係業者の篤い信仰を集めています。

国之常立尊:
日本神話に登場する神である。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されている。
『日本書紀』においては、初めての神とされる。(天地初めて判るるときに、始めて倶に生づる神有す。国之常立尊、天鏡尊を生む。天鏡尊、天萬尊を生む。)


神紋は「五七の桐」
161101takahashi18.jpg


神楽殿
161101takahashi19.jpg


境内社に参拝。

社殿右側
疱瘡神社(少彦名尊)、日高神社(天鈿女命)、雷電社(大雷命)、八幡宮(誉田別命)、神明宮(大日孁貴命=天照大神)
161101takahashi20.jpg


白幡神社(武嚢槌神)
161101takahashi21.jpg


社殿左側
天満宮(菅原道真公)
161101takahashi22.jpg


真剣神社伯本武尊)、春日神社(天児屋根命)、東照宮(徳川家康公)、天建神社(素蓋嶋尊)、健田神社(健田大神)
161101takahashi23.jpg


稲荷神社(倉稲魂神)、大椙神社(大物主命)、上宮神社(聖徳太子)
161101takahashi24.jpg


高椅神社が「鯉の明神さま」と親しまれ、境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されているというので、神池にも行って見た。
161101takahashi25.jpg


161101takahashi26.jpg


161101takahashi27.jpg


雨で煙っていて、鯉は良く見えないが、居ることはわかった。
161101takahashi28.jpg


161101takahashi29.jpg


鯉のエサを置いてあった(有料)ので、エサを投げてみると、さすがに集まってきた(笑)
161101takahashi30.jpg


161101takahashi31.jpg


161101takahashi32.jpg


161101takahashi33.jpg


161101takahashi34.jpg


161101takahashi35.jpg


これで二回に分けての、下総国の式内社11社すべてに参拝しました。

この後、幹事さんが「いいところがある」と見つけてくれた「野木町煉瓦窯」に向かいました。
予定より遅れていましたが、ガイドさんが待っていてくださるというので、急いで向かった。


歴史クラブ行事記事一覧に飛ぶ



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop