出雲・日御碕神社の狛犬/狛犬を楽しむ

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所在地:島根県出雲市大社町・日御碕(ひのみさき)神社
参拝日:2015年11月12日

年代:安土桃山時代(1573~1615)
材質:木製
型式:威嚇型

2015年11月に、出雲地方の色々な神社を巡っているときに、日御碕神社で出会った。

日御碕神社については、既に記事にしている。

その記事を読む


立派な楼門の左右に狛犬が置かれていた。
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右側の吽形獅子
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左側の阿形獅子
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特徴:
・全高が2Mくらいと巨大。
・右側が吽形、左側が阿形となり、通常とは異なる。
・左右共に角がある。
・阿形は、舌までリアルに表現している。
・前足は巨大で、真っ直ぐに踏ん張っている。
・胴体も太くて堂々とした巨体。
・後足は 蹲踞。
・たてがみは、左右とも巻いているので両獅子である。
・胸の襟毛は、アゴ下から左右に巻き毛が一列。
・尾は、後ろからは見えないためよく分からないが、見えている部分から扇状に広がって身体に付いている。

巨大な木製のため傷みは激しいが、威厳は損なわれていない。
いかめしく、まっすぐ前を見つめ、堂々としていて聖域を守護するに十分な威厳がある。
厳かなお宮であることを知らせてくれる。

威嚇型とは:
胸を前に張り出し、顔つきはあくまでいかめしく威厳をもって前を見つめている。
そして筋肉質の長い前足で紙面を踏みしめる。
神殿の中に置かれていた頃の狛犬に似せて造られ、角が残っているものが多い。



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中山道・板橋宿(その一)

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中山道の「板橋宿」として、近藤勇の墓所から荒川戸田の渡しまでです。
歴史クラブの行事として、10月24日に近藤勇の墓所から縁切り榎まで歩きましたが、個人的に中山道を歩いているので、下見(9月1日)の際に確認したところ、及び12月21日に個人で縁切り榎から荒川戸田の渡しまで歩いたのを追加してあります。

コース(近藤勇の墓所から縁切り榎まで)
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【近藤勇墓所】
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 慶応4年(1868年)3月、甲斐国(山梨県)柏尾の戦いに敗れて江戸に戻った新選組は、江戸城無血開城を受けて綾瀬から下総国(千葉県)流山へと逃れ、再起を図ろうとしたが、間もなくそこで包囲され、4月3日、ついに近藤は新政府軍に投降した。先行きに絶望したためとも、自分がオトリになることで新選組本隊を逃がそうとしたためとも言われるが、その意図は定かではない。だが、いずれにしても近藤の投降によって新選組本隊は追捕を免れ、北開束から東北へと転戦を続けていくのである。
 一方、中山道を経由して江戸に向かっていた新政府の東山道総督府軍は、当時江戸を目前に控えた板橋宿に本陣を構えていた。捕縛された近藤は、取調べのため4月5日に板橋宿に移された。
 そこで近藤は平尾宿脇本陣の豊田家に幽閉され、最期の20日間ほどを過ごした。付き添っていた新選組隊士の相馬主計(後の主殿)と野村利三郎も共に捕らえられた。近藤の処遇を巡っては、薩摩藩と土佐藩の間で意見の相違があったが、結局斬首されることと決まった。
 相馬らも近藤と共に幽閉され、一緒に処刑されるはずであったが、近藤の嘆願により許されて所属藩へと戻された(途中で脱走し、新選組に合流)。相馬らが幽閉されていた場所は相馬の手記「贈友談話」などにも書かれておらず定かではないが、おそらくは板橋宿の中であったと考えられる。
 4月25日、近藤は板橋宿の近く(正確な場所は不明)にて斬首された。
 その後、明治9年(1876年)に、元新選組の永倉新八(杉村義衛と改名)や幕府奥医師であった松本良順(松本順と改名)らによって、当時の板橋宿の南東のはずれ(現在のJR板橋駅前)に新選組隊士の慰霊碑が建てられており、その脇には近藤の墓や永倉の墓(小樽にある杉村家の墓から分骨されたもの)も建てられている。
(板橋区立郷土資料館資料より)

近藤勇と新選組隊士供養碑
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近藤勇埋葬当時の墓
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近藤勇の銅像
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長倉新八の供養碑
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【むすびのけやき】
観光センターでもらったマップにあり、気になったので寄った。
近藤勇墓所と反対側のJR板橋駅前にあり。
縁切り榎があるので、それに対してか?
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傍らに「板橋驛の碑」もあり。
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【加賀公園】
この付近は、加賀藩下屋敷跡にあたる。先のルート図でオレンジの太線で囲った部分が加賀藩下屋敷だった。
加賀藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷ともに中山道に面している。上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。
加賀藩下屋敷は、延宝7年(1679)五代目の前田綱紀が、四代将軍家綱から6万坪を拝領したのが始まり。
最終的に総面積は21万7千坪余りとなった。下屋敷は、前田家の参勤交代途中の休息、狩猟、散策などに利用された。

横の石神井川にかかる橋が「金沢橋」
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公園はまずまずの広さ
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この公園は、下屋敷全体の中で、わずかに築山の部分のみ。
丸印をつけたところ。
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築山は、あまりきれいではなかった。残念。
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横の石神井川が、桜並木で花が咲いたら見事なことが容易に想像できる。
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中山道に戻り、まず平尾宿。
板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿で構成されている。
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【東光寺】
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創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。

境内の石仏
昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔
「庚申曼荼羅」と呼ばれる優れたもの。
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明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の供養塔
宇喜多秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、豊臣家を支えた。関ヶ原では西軍の副大将として奮戦するが敗れ、薩摩藩に匿われるが、自首して八丈島にながされてその地で没する。
妻が前田利家の娘・豪姫だったので、宇喜多秀家の八丈島での生活は加賀藩が支えた。
明治になり、加賀藩下屋敷跡にこの供養塔が建てられたのは、その縁からである。
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平成7年度板橋区の有形文化財に登録された、江戸時代には平尾一里塚上にあったと伝わる石地蔵菩薩坐像
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【平尾追分】
ここは、自分たちでは場所が特定できず、午後観光センターのボランティアガイドさんに教わった。
川越街道は日本橋から川越までであり、ここ板橋宿までは中山道と同じで、この平尾追分で中山道と離れる。
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川越街道について
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以前の追分の様子。
追分のところに警察があった。
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いまは、こんな感じになっていた。
交番は移っているので、以前来た時に交番を探したのだが、ピンと来なかったのだ。
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30mくらい先で、現在の17号線から左に入っていく道が、旧川越街道。
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ところどころ、こういうアーチがあり。
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この辺の旧中山道は「不動通り」と呼ばれる。その訳は「観明寺」の説明にあり。
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【観明寺】
当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
明治6年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来します。

門前にある庚申塔は、貫文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。
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門は、もと加賀藩下屋敷にあった赤門です。
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境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
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その正面欄干は、名人左甚五郎作と伝わる作品。
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出世不動
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柊が花をつけていた。
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ちょっと行くと、旧安田貯蓄銀行の建物あり。
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【平尾脇本陣跡碑】
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあります。
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【板橋三丁目縁宿広場】
中山道の説明
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向かいには、立派な銭湯があり。
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いたばし観光センターに到着。
ここで自由行動で昼食・休憩。それから観光センターに集まり、午後は縁切り榎までボランティアガイドさんに案内してもらいました。

【いたばし観光センター】
集合して、観光センター内の説明を受ける。
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皇女和宮についての説明あり。
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板橋宿についての説明あり。
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初代縁切り榎が保存されていた。
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観光センターからスタートして、最初に先述の平尾追分の場所を教えてもらい、それから再スタート。

板橋宿のアーチには、浅間山と月とウサギが。
ウサギのマスコットは「ラッピー」と言い、ハッピーとラビットを掛け合わせた、この商店街のシンボルらしい。
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仲宿に入ります。
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大正15年建築の坂五商店
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【遍照寺(馬繋ぎ場跡)】
江戸時代は大日山と号し、区内内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動尊と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっています。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立などがつながれていた。明治40年(1907)頃まで、馬市も開かれていた。
境内にまつられる寛政10年〈1798〉建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめる。
また、堂内には上宿の居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

下見のときには見逃してしまった入り口
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ただ空き地が広がっていた。
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町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額と駅馬模型は、写真を見せてもらった。
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広場の手前に石仏群があり。
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三猿の庚申塔
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ユニークな顔の馬頭観音
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一番奥にも石仏群あり。
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ここから先は、次回記事とします。


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年末ぶらぶら

20161228

今日は、美味しい蕎麦を食べたくて、神田まで出た。
入ろうと思っていたお店は「かんだ やぶそば」。
ところが11:30に着いたのだが、既にたくさん並んでいて、整理の人に聞いたら1時間待ちだと。
それで、あきらめて、何でもいいやとウロウロして、バスタの店だと思って入ったらラーメンだった。
お店の外観とお店の人の恰好が、パスタのお店のような服装だったのだ(笑)
美味しかったから良しとした(笑)

その後は、この辺はカミさんは初めてだから、観光コース。
まず湯島聖堂。
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もう門には竹と松が立てられていた。
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ここに来るといつも、屋根のシャチホコと霊獣に関心する。
伊東忠太の設計だ。
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今日は湯島聖堂の前身の絵図をゲット。
尾張中納言徳川義直が林羅山のために孔子廟を建てたのがはじまり。
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続いて神田明神
鳥居に迎春の垂れ幕を張ろうとしていた。
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境内では、大祓の茅の輪が既にセットされていた。
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その傍に、神馬のポニーが日向ぼっこしていた。
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境内は、落ち着いた感じ。
最近ここに来るのは、神田祭りとか人出がものすごい時なので、今日はのんびりお参りできた。
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狛犬の分類で「威嚇型」のモデルにいいなと、拝殿前の狛犬を撮影。
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境内社・小舟町八雲神社の狛犬が文化6年(1809)だったので撮影。
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神田明神前の天野屋に寄る。
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もう門松が飾ってあった。
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カミさんがお汁粉を食べたいというので、隣の茶店に。
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店内はレトロな雰囲気でよかった。
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続いて、ニコライ堂に行こうと、御茶ノ水駅前まで行くと、「ソラシティ」とかの巨大なビルが建っていてびっくり。
そういえば、最近この辺に来てなかった。
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ニコライ堂
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中を拝観することにした。
私も中に入るのは初めて。
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中の、静かな落ち着いた空間のなかで、のんびりと30分くらい半分寝ている感じで過ごした。
とても気持ちよかった。

ニコライ堂については、気に入ったデザインのところを色々と撮ってきたので、別途記事にするつもりです。


これで、今日のブラブラは終り、帰途についた。

(了)


立連日男命(たちはやひをのみこと)・速経和気命(はやふわけのみこと)/日本の神々の話

20161228

この神には歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、常陸太田市里野宮町の「薩都(さと)神社」にて参拝しました。
ここのご祭神が立連日男命(別名が速経和気命)でした。

この神は、『常陸国風土記』にしか登場しない天津神です。
立連日男命は、松沢(現在の瑞竜町)の松の木に降臨されたが、そのあたりは人家に近く、不浄であったため、神は村人に厳しく崇り、一方里人はその厳しい崇りを畏れ、延暦7年(788)に社を建てて祀った。
朝廷は片岡の大連を派遣し、高い山の清浄なところに移るよう奏上したところ、神はその願いをお聞き入れになり、延暦19年(800)、賀毘礼(かびれ)の峰(現在の日立市入四間町)にお移りになった。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806)に、現在の鎮座地の近くに遷座された。永正年間(1500年ごろ)以降、里川沿岸の佐都郷給33か村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522)に現在地に移された、とあります。

『常陸国風土記』の記述は:
此より北に薩都の里あり。
古、國栖(くず)あり。名を土雲といふ。
ここに、兎上命(うなかみのみこと)、兵を發して誅ひ滅しき。
時に、能く殺して、「福(さち)なるかも」と言へりき。
因りて佐都(さつ)と名づく。
北の山に有らゆる白土は、畫に塗るべし。
東の大き山を、賀毘禮の高峯と謂ふ。
即ち天つ神有す。名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。
本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。
神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、災を示し、
疾苦を到さしめければ、近く側に居む人、毎に甚く辛苦みて、
状を具べて朝に請ひましき。
片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らしむるに、祈みてまをししく、
「今、此處に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐すべからず。
宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをしき。
是に、神、祷告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。
其の社は、石を以ちて垣と為し・・・

まず、薩都の地名の由来の話だが、討伐した兎上命に関しては他の書物にはなく、時代も出自も不詳であるが、隣接した千葉県北部には古代、海上国(うなかみのくに、菟上とも書く)と呼ばれた地域があり、それと関連があるのではないかと言われている。
土雲というのは、古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称であるから、ちょっとやりきれない話である。

立連日男命であるが、先着天孫である男性太陽神「饒速日」とも音が近く、なにか関係があるのかもしれない。
要は、天より降りて人に祟ったということであるから、「速日」についてよく言われるように、隕石が降ってきた遠い記憶にもとづくものかも知れない。それと鉱毒が関係しているかもしれない。



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楯縫神社の狛犬/狛犬を楽しむ

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所在地:茨城県稲敷郡美浦村・楯縫(たてぬい)神社
参拝日:2014年6月27日
年代:室町時代後半(1450~1573)
材質:木製
型式:神殿型(はじめ型)

この狛犬は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で常陸国を巡拝していたときに、私がこの神社の説明を担当し、事前調査で木製狛犬が置かれていることを知った。
役場の文化財担当に電話して拝見できないかとお願いすると、役場から宮司さんに連絡してくれて、参拝当日拝殿に上げていただいた。

楯縫神社については、記事があります。

その記事を読む


境内にあった、狛犬の説明
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拝殿内の狛犬の所にあった説明
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狛犬については、定義が統一されていないため、この説明と私の判断とでは食い違ってきます。
獅子と狛犬の分類として、参考にしている先人お二人の本から、私はたてがみが巻いていれば獅子、たてがみが流れていれば狛犬としています。
そうすると、右側の阿形が狛犬となる。左側が吽形獅子となる。
一般に狛犬に角があるとされているが、ここでは左側の吽形獅子の頭に穴があるので、ここに角があったと判断し、獅子に角があったとしました。

狛犬が置かれているのは、拝殿内の幣殿入り口
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右側の阿形狛犬
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左側の吽形獅子
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特徴:
・前足は短く、ピーンと立っている。
・胴体は丸まっていて親しみやすい印象となっている。
・後足は お座り。
・たてがみは、右側が流れており狛犬であり、左側が巻いており獅子となる。
・胸の襟毛は長く下がっている。
・尾はあるかないかわからない付け尾

かなり単純化され、小さいため、かわいらしく親しみやすい印象が強い。
神前を守るというよりは、参拝に訪れる人をニコニコ迎えているといった感じである。
置かれかたから「神殿型」とするが、自由に作られた感が強く、「はじめ型」にした方がぴったりとする。


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多太神社/石川県小松市

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鎮座地:石川県小松市上本折町72
参拝日:2016年11月26日

この日、富山県福光の「巴塚の松」、石川県加賀市の「実盛塚」、小松市の「那谷寺」、樹齢2300年の栢野大杉を回ったあと、ここに来ました。
ここには、実盛の冑が奉納されているのと、芭蕉が有名な句「むざんやな甲の下のきりぎりす」を詠んだ場所です。

社号標
式内社 加賀國能美郡 多太神社、旧県社
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多太神社由緒:
当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると 六世紀初め武烈天皇の五年に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘五年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。
寿永二年(1183)源平合戦のとき木曽義仲が本社に詣で、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。
室町時代初めの応永二十一年(1414)には、時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供養された。 以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いて いる。
大正元年に本殿後方から発掘された八 千五百余枚に及ぶ古銭は 室町中期の十五世 紀初めに埋納されたもので 当時の本社の活 動と勢力の大きさを示すものである
慶長五年(1600)、小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され、三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある。加賀三代藩主前田利常は、寛永十七年(1640)に社地を寄進し、慶 安二年(1649)の制札には、能美郡全体の総社に制定し、能美郡惣中として神社の保護と修 理にあたるべきことを決めている。
元禄二年(1689)松尾芭蕉が、奥の細道の途次本社に詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げている。歴代の加賀藩主及び為政者はいたく本社を崇敬し、神領や数々の社宝を奉納になった。
明治十五年に県社に指定された。
-境内由緒石碑-

鳥居前に、実盛の兜の説明碑があり。
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鳥居掲額
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鳥居をくぐると、芭蕉像あり。
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芭蕉の句碑と解説碑があるが、これは新しいもの。以前からの句碑は拝殿前にあり。
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続いて参道には斉藤実盛像があり。
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玉垣の中に入る。
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手水舎
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昭和4年奉納の狛犬
後足が立った形で珍しい。出雲地方に多い「かまえ型」ともちょっと違う。
ありそうで、ほとんどないタイプ。
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拝殿
雪国らしい造りである。
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社額
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拝殿内部
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右手からは、本殿はほとんどうかがえず。
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左手に回ってみると、瑞垣が列柱になっていて、見ることが出来た。
本殿も、雪国らしく、石垣を高く積み、覆い屋もすっぽりと板壁で覆っている。
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御祭神は、衝桙等乎而留比古命(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)、仁徳天皇

衝桙等乎而留比古命だが、『出雲国風土記』に登場し、素戔嗚尊の子であるという。
多太郷(現松江市東長江町・西長江町・秋鹿町の地域)の条:
「郡家の西北五里一百二十歩の所にある。須佐能乎命の御子、衝桙等番留比古命(つきほことおひこ)が国を巡りなさったときに、ここにいらしておっしゃられたことには、「私の心は明るく正しくなった。私はここに鎮座しよう。」とおっしゃられて鎮座なさった。だから多太という。

これは、まったくの私の感想だが、出雲族が海を北上してここに定住したことをしめしているのだろうか。

神紋は「加賀梅鉢」と「菊菱」である。
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さて、問題の実盛の兜だが、撮影禁止なので、入手した資料から転載しておく。
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当社は、兜の八幡様と呼ばれ、実盛の兜を社宝としている。
この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。
実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で73歳で討死にした。
初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え、武蔵の国・長井の庄の別当として居住したという。
争乱の中、幼少の木曽義仲の命を救ったこともあったが、平家敗亡の軍の時、手塚の太郎光盛に討たれた。武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。
敵に老武者と侮られることを口惜しいと白髪を黒く染め、潔く散った老将軍であった。
その後、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献し、現在、国の重要文化財となっている。

境内に、「謡曲 実盛」の説明があり。
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室町時代前期の応永21年(1414年)3月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。
これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている。

拝殿前の芭蕉の句碑
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芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが300年前の元禄2年(1689年)7月25日(9月8日)であった。7月27日、小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

『奥の細道』には、こう書かれている。
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす

境内社・松尾神社
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境内社・福久宮稲荷神社
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これで、この日の予定をすべて終了。
金沢のホテルに帰った。


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坂戸天物部命(さかとのあめのもののべのみこと)/日本の神々の話

20161224

『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津国より天降っているが、そのとき随行した神である。

『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

このときの饒速日命の巡回コースは以下のようなものであったらしい。
「田庭の比地真名井原(丹波国与謝郡)-但馬国美伊(美方郡香美町香住区三川)-小田井(豊岡市小田井)-佐々前(豊岡市日高町佐田)-屋岡(養父市八鹿町八鹿)-比地(朝来市和田山町比治)-田庭津国(丹波)-河内国いかるが峰」

「坂戸(さかと)」は造姓であり、『「旧」天神本紀』に五部造のひとつとしてみえ、饒速日命の天降りに際しては伴領となって天物部を率い供奉したという。
ウヂ名の坂戸は、河内国古市郡尺度(さかと)郷の地名にちなむ。
坂戸物部を管掌する伴造と見られる。
「坂戸物部 (さかとのもののべ) 」は、河内国古市郡尺度郷が本拠地と見られ、『「旧」天神本紀』に二十五部のひとつとして酒人物部(須尺物部とするは誤り)がみえ、饒速日命が天降ったときの従者・坂戸天物部の後裔。

よって、河内国古市郡尺度(さかと)郷に住む、饒速日命を奉じる氏族の祖先神ということであろう。



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栢野菅原神社・栢野の大杉/石川県加賀市

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鎮座地:石川県加賀市山中温泉栢野町ト49
参拝日:2016年11月26日

この日、富山県福光の「巴塚の松」、石川県加賀市の「実盛塚」、小松市の「那谷寺」を回ったあと、山中温泉の奥に樹齢2300年の大杉があるというので、ここに来ました。
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菅原神社由緒:
白山を開いた僧泰澄が、大杉は百本の木(木へんに百のつくりで栢)に勝るとし、栢野寺を設け白山の妙理観世音大菩薩を祀り、平安の頃は栢野社、明治5年に廃仏毀釈で古文書を焼却し史実も明らかでないが、明治20年天神様を併せて祀り菅原神社とし、神饌料供進指定社となる。

古くは平氏、源氏、朝倉氏、富樫氏の武将の多くが参詣したと伝えられ、大聖寺川を挟む対岸の菅谷町へ渡る平岩橋たもとの天井壁と呼ぶ岩山の上に、柴田勝家の甥で麾下の佐久間盛政の家来の栢野城と呼ばれた山城の土台石の痕跡が有り、加賀平野(金沢平野)南端が見えるこの地の地勢から加賀一向一揆時代、朝倉氏時代、一揆平定の柴田勝家の時代まで越前領地の東北端境であって一揆約100年間加賀と越前の境で翻弄の中に有ったとも言える。
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鳥居をくぐると、すぐに大杉が林立している。
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【国指定天然記念物・栢野の大スギ】
栢野大杉(かやのおおすぎ)は、石川県加賀市山中温泉栢野町の菅原神社境内にある杉の巨木で、同神社に4本ある神木の1つ。別名天覧の大杉(てんらんのおおすぎ)。
菅原神社境内にある4本の神木のうち、最大のものである。古くから著名であったため、栢野の大杉や栢野の大スギなど、別表記も多い。1928年(昭和3年)11月に国の天然記念物に指定された。指定名称は栢野の大スギである。

樹高約54.8m、根元周約11.5m(径3.41m)、胸高幹周9.6m(径3.0m)、地上高4.9mで幹周5.1mと5.75mの2つに分岐し分岐部直下の幹周約9mの、二又の杉の巨木である。

なお、境内に立つ他の3本の杉も栢野大杉よりは小振りながら、各胸高幹周8.8m、6.65m、7.8mの巨木で2005年(平成17年)8月、「菅原神社の大スギ」の名称で石川県指定天然記念物に指定されている。

明治・大正・昭和期の植物学者三好学(東京大学教授、日本植物学会長)が内務省の嘱託として1928年(昭和3年)に樹齢2,300年と鑑定。同年国の天然記念物に指定された。

この地域の原始植生時代の林相の残存との見方もあるが、4本の杉で長方形を成す位置関係、太さ、推定樹齢、土器の出土等を勘案すれば自然林ではなく、神を祀り植樹されたとも考えられる。

4本の大杉の間に、浮橋参道が設けられている。
2003年(平成15年)から樹木医の奨めにより境内参道の石畳の上に木製の浮き橋「浮橋参道」を設け4本の神木の健康を維持のためさらなる土壌保護を施している。
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奥の二本のうち右側が天然記念物の大スギ。
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天覧の大杉
さすがに、ものすごいパワーを感じた。
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逸話:
倶利伽羅峠の戦いに続く篠原の戦いで負傷の武士が千年の杉を目指せ、よもぎ草だんごを食べよと二度の観音様のお告げから傷を癒し無事に京へ辿り着いたと伝えられ古来からの地元では草だんごを食す風習がある。

1947年(昭和22年)第二回国民体育大会が石川県で開催の折り、昭和天皇が当地を訪れ、栢野の青年の説明のもとこの大杉を見たことから天覧の大杉とも呼ばれる。
生物学者でもあった昭和天皇は栢野から山中温泉へ国道364号の砂利道約2キロを徒歩にて帰る途中、道端の草々やその茎を手に取り観察し、存分に楽しんだことをその夜香淳皇后に長電話したという。
また途中後から来た地元のトラックが天皇を追い越すことができず、後から離れてついてきたが、しばらくしてそのことに気付き、先に行かせよと告げ、その運転手はたいそう恐縮の体であったなどの逸話もある。

【菅原神社】
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二組の狛犬が奉納されていたが、手前の狛犬が秀逸だった。
阿吽立て尾の両獅子型。
向かって右の阿形獅子。
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向かって左の吽形獅子。
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足の蹄がすごい。
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尾の形が素晴らしい。
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拝殿
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向拝
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社額
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本殿
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菅原神社の参拝を終え、大スギを再度眺めながら後にしました。
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続いて、実盛の冑が奉納されていて、そこで芭蕉が句を詠んだ「多太神社」に向かった。



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碓氷峠の狛犬/狛犬を楽しむ

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所在地:長野県北佐久郡軽井沢町碓氷峠(長野県側:熊野皇大神社、群馬県側:熊野神社)
参拝日:2012年10月7日
年代:室町時代中期(1450位)
材質:石造
型式:はじめ型

この神社は、長野県と群馬県の県境に建っており、社殿も両県の神社が並んでいる。
参道のちょうど真ん中が県境である。
従って、狛犬も社殿に向かって右側は群馬県に、左側は長野県に位置する。

この時の記事は、「軽井沢」としてまとめている。

その記事を読む


この頃は、まだ狛犬にあまり関心が無かったときで、きちんと写真を撮っていない。
こんど機会があったら、もっとちゃんとした写真を載せたいと思っている。

神社の説明
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右側(社殿に向かって)
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左側
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問題は「阿吽」である。
右側は、口を開いているように見えないが、左側を見るとキュッと口をツボめているように見え、それからまた右側を見ると口が緩んで見える。
で、説明に書かれているように右が阿形、左が吽形とする。
たてがみから判断すると、阿形狛犬、吽形獅子となる。
これは大勢とは異なるが、「はじめ型」だから、良しとする。

特徴:
・前足が太めで短く、ピーンと立っている。
・胴体が四角く真っ直ぐで、極めて特徴的。
・後足は 蹲踞(そんきょ)
・たてがみは、前足の付け根の上に、流れているか、巻き毛模様を刻んでいる。
・胸の襟毛は横に刻んで、下手したら三重アゴにとらえられかねない(笑)
・尾は付け尾

風化が進んでいて、表情がわかりにくいが、ユーモラスな顔であることはわかる。
かわいらしく親しみやすい印象が強い。
神前を守るというよりは、参拝に訪れる人をニコニコ迎えているといった感じだ。


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那谷寺/石川県小松市

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所在地:石川県小松市那谷町ユ122
参拝日:2016年11月26日

この日、福光で「巴塚の松」、片山津ICを降りてから「実盛塚」の後に、ここに参拝した。
駐車場が満杯で吃驚。
加賀温泉郷のすぐ近くなので、混んでいるのも当たり前だが。
門前の食堂で腹ごしらえをしてから参拝。
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山門
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那谷寺の由来:
那谷寺は白山信仰の寺で、養老元年 (717) 越の大徳泰澄神融禅師によって開創されました。
禅師は夢にみられた十一面千手観世音菩薩のお姿を自らお造りになり、洞窟内に安置し、岩屋の胎内をくぐって、人としての罪を白く清める霊場としました。そして、この地にお堂を建立され、自生山岩屋寺と名づけられました。
その後、寛和二年 (986) に西国三十三番札所を開かれた花山法皇がこの地においでになった時、洞窟内の観音様を拝せられ、西国三十三ケ所第一番紀伊の那智山と、第三十三香美濃の谷汲山の各一字をとって郡谷寺と改め、七堂伽藍を御造営なされました。
往時は寺院250ケ坊に及ぶ隆盛を極めましたが、延元三年 (1338) 南北朝の争い、弘治元年 (1555) 朝倉景隆により坊舎が焼きつくされました。
しかし寛永年間 (1640)、加賀藩主前田利常公がその荒廃を嘆き、後水尾天皇の勅命を仰ぎ、岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建、境内の一大庭園を復興され今日の御祈願所とされました。
白山信仰の寺というのは、泰澄禅師が白山比咩神のなかに十一面千手観世音菩薩を見たとして、神仏習合の寺だということです。

山門の扉に、仁王の彫刻があり。
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金堂華王殿の前に、「那谷寺の御柱」があり。
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金堂華王殿への参道の両側は苔むしている。
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金堂 華王殿:
十一面千手観世音菩薩をお祀りする金堂は、平成2年(1990年)の再建で鎌倉時代の和様建築様式、総桧造りです。南北朝の戦火で消失以来、650年ぶりに再建です。京佛師・松久宗琳師作の十一面千手観音は木曽檜の寄せ木つくりで7.8m、金堂の中で厳かに鎮座されています。
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入り口に注連縄があったので、入ってお坊さんに聞いたら、「当寺は、いまでも神仏習合の形を守っています」とのことだった。そういうお寺は、現在では高野山、熊野三山など、限られている。
明治初期の神仏分離令の嵐を、どうやって切り抜けたのだろうか。
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本尊丈六の十一面千手観音はすごかった。
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普門閣(宝物殿)に向かうときに、とてもいい石仏があった。
三尊の上に、瑞雲と飛天が舞っている。
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普門閣(宝物殿)
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伊能忠敬「関東・東北・北陸謹図、前田利常公肖像、狩野探幽花鳥図、風神・雷神立像、源平合戦屏風など、素晴らしい宝物が展示されていた。

参道
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苔が素晴らしい。
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手長猿みたいだ。
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奇岩遊仙境(国名勝指定園)を楽しみます。
観音浄土補陀落山を思わせるこの天然公園は、現世のパラダイスとして大切にされてきました。太古の噴火の跡と伝えられ、長い年月の間、波や風雪に洗われ今日の奇岩が形成されました。面積三万三百平方米が国名勝指定園となっています。
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本殿に至る門をくぐる。
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ここからの眺めもいい。
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本殿下不動明王
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自生稲荷大明神は入れないようです。
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洞窟には石仏があり。
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この洞窟の上には、「願掛け猿」が。
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本殿に上がる石段に、大正2年奉納の狛犬。
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本殿
大悲閣拝殿、唐門、本殿(重要文化財)からなり、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願より、大悲閣と名づけられました。岩窟中復に建てられ、四棟舞台造り、四方欄間に浮き彫りが施され、鹿、鳳風、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉などの花鳥が配されています。
唐門は岩窟入口、本殿は岩窟内にあり、厨子に郡谷寺御本尊十一面千手観音菩薩が安置されています。
また、白山の遥拝所となっています。古くはイワヤ寺と言ってイワヤは古代語だそうです。岩窟内は胎内をあらわし、女性の胎内を通って、あの世からこの世へ生まれ変わり再生することを輪廻転生といいますが、魂が生まれ変わり、この世で罪を洗い流し、新しい自分に生まれて白山のように美しく、出直すことを祈る聖地とのことです。
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拝殿の回廊からの眺め
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本殿内では撮影しなかったので、那谷寺のパンフレットから転載。
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拝殿から出ようとした時でした。
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渡り廊下から、拝殿の袖に江戸時代のものと見られる狛犬が置かれているのを発見。
全然傍に寄れなかったし、後で調べてみたが詳細は不明。しかし、いい感じの狛犬である。
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静かな池
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三重塔(重要文化財)
大悲閣西南の山上にあり、方三間三層で、扇垂木を使用。四方の壁面は唐獅子の二十の行態や牡丹の彫刻が施されており、内には、元金堂にあった鎌倉時代の作、胎蔵界大日如来を安置してあります。
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胎蔵界大日如来
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壁面の唐獅子彫刻
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楓月橋
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欄干に、木組みの猿発見
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楓月橋から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、白山妙裡大権現を祀る山上鎮守堂よりの眺望は境内一の絶景。
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鎮守堂
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展望台に降りる。
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展望台から鎮守堂を見上げる。
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下まで降りて、三重塔を見上げる。
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芭蕉句碑
石山の石より白し秋の風
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脇の翁塚に『おくのほそ道』の文章が刻まれていた。
「山中の温泉(いでゆ)に行ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(かざん)の法皇、三十三所(さんじゅうさんじょ)の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」
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庚申塚
説明を読むと、塞の神(さいのかみ)として祀られていたようです。これは関東でも多くの地域で庚申塔を塞の神としていて同じ。長野県では道祖神がその役目をしている。
ただし、関東の庚申塔とはまったく違う姿である。
丸彫りの青面金剛で、一面四臂、頭に髑髏と火焔髪、三眼、上の二手には剣と宝珠、下の二手の法具は失われている。邪鬼を踏んづけているが、この邪鬼もいい姿をしている。
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護摩堂(重要文化財)は、時間の関係で寄りませんでした。
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鐘楼には、山道を上がって見た。
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鐘楼堂(重要文化財)
入母屋造りの和様建築で、袴腰の上まで石造。寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。
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鐘楼からの下り道は、落ち葉が湿っていて滑りやすく、歩きにくかった。
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これで、那谷寺の拝観を終え、また門前の食堂で甘いものを食べて休憩。
次の目的地「樹齢2300年・栢野の大杉」に向かいました。



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那牟羅彦神(なむらひこがみ)・那牟羅姫神(なむらひめがみ)/日本の神々の話

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この神は、「天日槍」について調べていて、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』にて知った。

滋賀県蒲生郡竜王町綾戸にある苗村神社の祭神である。
『近江蒲生郡志(大正11・1922)』によれば、
*「苗村神社は苗村大字綾戸に鎮座す。延喜式神名帳本郡十一座中の「長寸神社」にして、鎮座年代は上古に属す。那牟羅彦神(ナムラヒコ)・那牟羅姫神(ナムラヒメ)・国狭槌尊(クニノサツチ)を祭神とす。
*『日本書紀』の垂仁紀3年3月の新羅王子天日槍(アメノヒホコ)来朝の条に、「天日槍は宇治川を遡って、近江国の吾名邑(アナムラ)に入って暫く住んだ。また近江より若狭国を経て、西のかた但馬国に至りて即ち住処を定めた」とあるが、吾名邑は後に那牟羅(ナムラ)と略称され、長寸の假字を用ひ、其他(地の誤記か)の主神たるにより長寸神社と称し、やがて神名帳に加列されたり。
*長寸神社は苗村の字を用ひしは何れの時代に始まりしや詳ならず。現存の史料にては明徳2年(1391・北朝年号)の鐘銘を最古とす」という。
*「両神は、当地方に初めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神で、夫婦和合・諸願成就の神として、古来より篤く尊崇申しあげる祖神」という。

当地に新羅王子・天日槍の伝承があり、近くに須恵・弓削・鏡などの古地名があったことから、造陶・造鏡などの工芸技術を有する渡来系の人々の居住が推測され、そのような人たちが、自分らの祖としての天日槍夫婦を祀ったとも考えられるという(式内社調査報告)。

ということで、那牟羅彦神・那牟羅姫神の両神は、(吾名邑=那牟羅=苗村)に住んだ渡来系の人々の神であり、それは天日槍夫妻であると考えられている。



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実盛塚(篠原古戦場)/石川県加賀市

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所在地:石川県加賀市篠原新町
訪問日:2016年11月26日

この日の朝、福光で「巴塚の松」の写真を撮ったあと、家族で向かったのは「那谷寺」です。
小矢部インターから北陸高速に乗り、降りたのが片山津インター。

この日「斎藤実盛」関係の史跡を二つ訪ねることにしており、「実盛塚」が片山津ICから約1.8kmのところにあるので、まずはここに訪問した。

片山津ICから県道20号線を走れば、沿線にあるのは事前に調べて分かっていたのだが、大分通り過ぎたところで地元の人に聞いて、ようやくわかった。

駐車場もちゃんとあり。
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そこから県道20号線沿いに100mほど歩くと、民家の間に細い路地の入口がある。
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実盛塚
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倶利伽羅合戦で木曽義仲に大敗したが、平氏軍はまだ余力があり、加賀平野を南下し、篠原の地(加賀市篠原町)でなんとか態勢をたて直し、義仲に再び挑みます。
ここで敗れたことで決定的な平氏の敗戦となります。
その中でただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斎藤別当実盛です。
かって不憫に思って、命を助けた幼い駒王丸が今成長して敵方の将軍として兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、実盛は平家の一武士として見事な最期を遂げます。

Wikipediaの記事により、斎藤実盛を紹介しておく。
斎藤実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へよく出かけていたので、実盛を知っていたといいます。

源平の争乱の中で篠原の地で命を失った斎藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったところと伝えられている場所です。

正面には、お参りする場所が用意されている。
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石垣の周りをまわって、勢いよく茂っている松の枝の間から中をうかがう。
手前の円形の石碑は「実盛塚保存会厚志芳名の碑」
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南無阿弥陀仏と彫られた碑が中央にある。
実盛の供養塔だろう。
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円形の石碑「実盛塚保存会厚志芳名の碑」の表側を見ようとして、あちこち場所を探すが松の枝に阻まれて、よく見えない。一部のみ撮れただけ。
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この松はすごい。
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長い枝が地を這っている。
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素晴らしい松だ。
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この記事を書くため調べていたら、安宅関でも歌を詠んでいるそうだが、与謝野晶子がこの地も訪れ一首残しているそうです。
「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきたる塚」

最近、近江の高嶋・白鬚神社、江ノ島神社など、与謝野晶子の歌碑にも、よく会います。

近くには、実盛の首と義仲対面の場面の銅像のある「篠原古戦場跡公園」とか、「首洗い池」とかがあるのだが、この日は、他にも色々と行きたい所があり、同行している家族へのサービスで「那谷寺」にも行くので、今回は「実盛塚」だけにした。
但し、実盛の冑が奉納されている「多太神社」にはこの日参拝している。(別記事)

ここから「那谷寺」に向かった。


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香取神宮の陶製狛犬/狛犬を楽しむ

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所在地:千葉県香取市「下総国一之宮・香取神宮」
参拝日:2016年4月19日
年代:南北朝時代(1336~1392)
材質:陶製(黄瀬戸)
型式:神殿型(香取型と呼ぶ人もいる)

香取神宮については、既に記事にしています。

香取神宮の記事を読む


この狛犬は、現在宝物館に置かれており、撮影禁止のため、画像は神社発行のパンフレットに記載のものとなります。
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・右阿形、左吽形
・頭には角はない
・耳は伏せ耳
・たてがみは、両方ともに流れており、両狛犬型と判断する
・胸の襟毛:あり
・顔の特徴:ユーモラスな笑い顔
・前足:まっすぐ直立している
・胸は張っている
・胴は細い
・後足: 蹲踞(そんきょ)
・尾:写真では確認できない
・特徴:ユーモラスな顔で、体躯も武張ったところはなく、親しみやすい印象である


陶製狛犬でもっとも古いとされ、これに似た形の狛犬を総称して「香取型」という人もいる。
胴体が細く、胸を張り、前足がまっすぐ下へ出ている。
胸には襟毛がある。



狛犬の記事一覧を見る



秩父夜祭2016

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2016年12月3日に、歴史クラブ行事で参加しました。
例年通り、参加者を確認して1ケ月前の11月3日の早朝、レッドアローの指定を往復購入した上で催行しました。
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12時に西武秩父駅に到着。1日にユネスコ世界遺産に決定、土曜日だということもあり、ものすごい人出だった。

秩父神社に到着。
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今年の屋台歌舞伎の当番は、宮地屋台なので、秩父神社の境内で行われるということで、今年はずっと秩父神社に居ることになる。

神楽殿では、ちょうど「天の石戸開き」を上演していた。
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神楽殿の隣で、宮地屋台ではちょうど舞台を作っている最中。
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ハッピがカッコいい。
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12:30から予定の、宮地屋台の屋台芝居が時間になってもなかなか始まらない。
するうち、神門前で参拝していた下郷笠鉾が動き出した。
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秩父神社からの宮出しを、「ギリ回し」も含めて動画で撮ったので観てください。

「下郷笠鉾宮出し」の動画を観る


さて、宮地屋台では舞台も出来上がりました。
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今回は、あまりの人の多さに、場所取りもかなわず、遠くからの鑑賞となりました。

まずは子供たちの『白浪五人男』。
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子どもたちの熱演に拍手喝さい。たくさんのおひねりが舞いました。
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目の前に、いなせな鉢巻がカッコいい人が居たので、ついぱちり(笑)
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今年の当番屋台である、宮地屋台の屋台歌舞伎の演しものは「忠臣蔵」だった。
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宮地屋台の屋台歌舞伎が終わってしばらくすると、神楽殿でお神楽を上演。
今回は、お神楽をメインに撮ろうと思っていたが、タイミングがイマイチ合わなかった。
来年は朝から来ようかな。

動画で撮れたのは、「第18座代参宮御神楽奉仕」と「第25座国平の鎚(大国舞)」
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お神楽の動画を観る


「第25座国平の鎚(大国舞)」のときには、正面で撮っていたら、大黒様が福をばらまくので、観客が殺到してカメラと三脚を守るのに一苦労した。
しかし、私もちゃんと福を確保しましたよ(嬉)

夕食を食べるため、一旦秩父神社から出て、秩父駅の近くのお店で夕食と休憩。
ブラブラと秩父神社に帰るころには、日が暮れて空に三日月が綺麗に光っていた。
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ちょっと早めに秩父神社に帰ってきて幸いした。例年だと秩父神社に入れなくなるのは18時だったが、今年は17:15から入場規制になってしまった。あまりに人出が多いせいだろう。
あわてて、まだ帰ってきていない参加者に電話連絡。事なきをえた。

神楽殿側の出口から、神幸祭行列を見送り。
出発前には、神馬の暴走もあったようだ。
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中近笠鉾と宮地屋台の宮出しを待つ。
近くでは、引手のイナセなお姉さんたちが記念撮影に興じていた。
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中近笠鉾と宮地屋台の宮出し。
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これは、動画で撮影しました。

宮出しの動画を見る



中近笠鉾と宮地屋台の宮出しを見送った後、のんびりと西武秩父の駅に向かって歩きながら、花火を鑑賞。
残念ながら、バッテリー切れで、撮ることはできませんでした。

帰りのレッドアローの指定を取っておいたのですが、特急に乗り込んだころに、所沢駅で人身事故が発生。
それでも特急の座席に座って発車を待っていたので、疲れた身体では、本当に助かった。
30分遅れくらいで、無事に発車したので、良かった。

(了)


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巴塚の松/富山県南砺市

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所在地:富山県南砺市福光天神
撮影日:2016年11月26日

25日に母の三回忌の法要をし、近くのホテルで宿泊をして26日の朝ここを訪れました。
私の実家から車で15分くらいの場所であり、以前から知ってはいたが、27日の「義仲・巴フォーラム」に参加を控え、この際ちゃんと写真に収めておこうと思った。
この日は、その後も色々とゆかりの場所を訪ねました。

現在の南砺市は、東礪波郡の福野町、城端町、平村、上平村、利賀村、井波町、井口村と西礪波郡の福光町が合併し誕生。長年なじんできた「福光町」が消えてしまい、現在の市名にはなじめない私です(苦笑)。
本当に昔は山奥で地の果てといった感じだった、平家の落人部落として有名だった「五箇山」まで同じ市になってしまったのだから。

福光(ふくみつ)は、こんな位置関係です。
有名な「倶利伽羅峠」は、この図で「小矢部・砺波JCT」の左に位置します。
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巴塚周辺の地図です。
左上から右下に延びる国道304号線は、別名「金名線」といい、金沢と名古屋を結んでいる。
「城端」から山にかかり、山を登りきったところが「五箇山」。さらに進んで岐阜県に入ると「白川郷」となります。
縦に真っ直ぐ伸びる東海自動車道は、北陸高速の「小矢部・砺波JCT」から東名高速の「尾張一宮JCT」に繋がっています。
JR福光駅は、北陸線高岡駅から城端(じょうはな)駅を結ぶ「城端線」にあります。
左の山を越えると金沢市で、県が違い、山越えですが金沢の隣町となります。
倶利伽羅峠は左上となります。
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JR城端線「福光」駅
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駅前に「巴御前終焉の地」という碑がある。
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巴御前については、各説入り乱れているが、『源平盛衰記』による、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の姉妹で、源義仲の「便女」というのが私にはしっくりきます。

宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

『源平盛衰記』では、宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた榛沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。

その後であるが、Wikipediaでは、「『源平盛衰記』で、落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる。」となっている。

私の好きな本『ともえ/諸田玲子』では、鎌倉に向かったのは、わが子義高の命を救わんがため、という話になっている。鎌倉の手前で和田義盛の手の者に捕らえられ、頼朝は切るつもりだったが、大姫、和田義盛の助命嘆願により永らえ、義高死後、義仲・義高の供養のため生きる決心をする。
和田義盛の妻になるが、和田義盛もまた、畠山重忠、梶原景時と同様、邪魔になった北条鎌倉幕府により滅ぼされてしまう。

その後の巴御前の足跡は各地に残っている。
義仲の墓のある義仲寺にも、庵を結んだという伝承が残り、この間訪ねた上田市丸子の岩谷堂観音にも近くの池の平に庵を結んだと説明が書かれている。

このように、各地を訪れ義仲の供養をして歩き、晩年を福光で過ごしたようである。

閑話休題:
ここ福光には、戦時中棟方志功が疎開をしており、棟方志功の事蹟が豊富に残っています。
駅前にも碑があった。
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【巴塚の松】
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宇都宮二荒山神社の鉄製狛犬/狛犬を楽しむ

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所在地:栃木県宇都宮市「下野国一之宮・宇都宮二荒山神社」
参拝日:2016年8月16日
年代:建治3年(1277) 鎌倉時代
材質:鉄製
型式:はじめ型
国指定重要美術品

宇都宮二荒山神社に参拝したときに、事前の調査で存在がわかっていたので、写真でもいいから載っているパンフレットをと、社務所に尋ねたら、見ることができました(嬉)

宇都宮二荒山神社の記事を読む


「宇都宮二荒山神社」の鉄製狛犬
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背に「建治三年丁丑二月 吉田直連施入」の溶鋳銘がある。
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陳列されている向きから、顔が見えなかった。
わからないかと探して、「宇都宮の歴史と文化財ホームページ」から写真を拝借しました。
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・高さ約36cm、重さ約22㎏、鋳鉄製の狛犬
・口を結び、吽形のほうである。一双であったが、もう片方はうしなわれたと説明がある。
・耳の垂れ下がった日本犬が坐った姿。
・背をいくぶん丸め、尾を付け、後ろ足を揃えている。
・体は左右2つに割った型を用いていることが、体の中心部を通るバリからわかる。
・足は棒状で別の体とは別の型を用いて後に接合したもの。
・左前足を失っているのは、火災にあったためであると伝えられている。
・顔や胸のはりや後ろ足に弧状の隆起線を鋳出すなど、鉄という鋳造には難しい素材を用いながらもその技術は巧みである。
・本狛犬は日本犬を表現しており、大変珍しいものであり、「はじめ型」と考える。


「はじめ型」:
初期に、「狛犬というものがあるそうだ」と全国に話がひろまったとき、各地の職人が自由な発想で製造したものをいう。造形的には「和犬」を参考にしたものが多い。



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斜子(ななこ)織の復元活動

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12月2日(金)に広瀬公民館で、「斜子織と広瀬」というタイトルで、講演会がありました。
高橋光昭先生から「「斜子織と広瀬」について講演があり、
その後復元された織り機により、「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが実演をされました。

【斜子織について】
⇒幕末から明治時代を通じ、埼玉県は全国屈指の機業県で、なかでも入間・高麗両郡は、斜子織・木綿飛白(かすり)の中心的な生産地。
⇒斜子織は魚子織、七子織ともいう絹織物。市域の上広瀬・下広瀬・柏原・入間川・上奥富の各村を中心とする斜子織は、18世紀初頭から生産を開始。
⇒各村で製織された反物は川越城下に集積、「川越斜子」の名で江戸へ搬出、越後屋・大丸などの有名呉服店で販売。
 ⇒しかし、基本的な生産手段は旧来の躄機(いざりばた)であったため生産量は伸びず、製品の質的・量的発展は高機(たかばた)が導入された、幕末期慶応年間(1856~68)以降のこと。
⇒明治26年(1893)になると、入間・高麗両郡の総生産高は3万8463反。そのうち水富村は36.4%を占める。
⇒生産形態は依然として農家の副業であったが、同村で明治19年(1886)に30戸だった生産農家が同26年には80戸、同28年には100戸へと飛躍的に増加、高機も40台から 100台、130台へと増加。
⇒生産のピークは明治35年(1902)で10万4000反を製造、産額も130万円となる。

〇発展の要因 
⇒第1は、入間川沿岸の井戸水や入間川の水そのものが、斜子織の原料糸の濯ぎ(練る)に最適だったこと。
⇒第2は、躄機(いざりばた)に代わって導入された高機が明治20年代(1887~)から急速に普及。生産力が2倍になったこと。
⇒第3は、埼玉県の強力な支援。県令の白根多助は明治10年(1877)、「斜子おり広瀬の漁のあやなるを誰れ川越の名に流しけん」と歌い、広瀬こそが斜子織の本場だと称え、土地の人々を激励して生産力の向上を支援。
⇒第4は、当時の需要に斜子織がマッチしていたこと。その後、羽二重が量産されるまで、羽織・袴・帯として庶民に愛用される。
⇒第5は、清水宗徳の提唱により生産者が「広瀬組」を結成、品質の維持・改良と粗製濫造品の混入を防止したこと。
⇒ことに明治26年(1893)、アメリカのシカゴで開催されたコロンビア世界博覧会に出品した広瀬組の斜子織が「名誉賞状」を受賞、品質のよさを絶賛される。これ以降、広瀬産の斜子織は最高級品としての地位を確立。

ただ、羽二重の普及によって、斜子織の生産は衰退してしまいます。
明治35年(1902)を境に斜子織の生産は減少、同40年代(1907~)以降になるとより顕著になる。
羽織・袴・帯として愛用されてきた斜子織が、急速に普及しはじめた羽二重に取って代わられ、急速に衰退してしまいました。

◆「斜子織の碑」(埼玉県令白根多助歌碑。広瀬神社境内)
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<表>
奈ゝこ於梨廣瀬乃 浪農安や那累遠 堂禮川越能 名尓流志計無(ななこおり広瀬の浪のあやなるを たれ川越の 名に流しけむ)
  く裏〉
本村魚子織の起因ハ古書の徴すへきものなしと雖も 當地乃早く村里となりしハ紀元壱千年餘なりし 當廣瀬神社の旧記に見へて 遠く古代に始りしものなるハ遺品と口碑に依りて疑ふべきものなし 徳川氏江戸開市の頃  白なゝこと称し漸く天下に著ハるゝ處となり 尓来三井大丸其他豪商川越なゝこと称し 大に此を賞賛し聲價を博し たるものは 実に当郷里より産出せる物にして 即ち本邦なゝこ織の嚆矢なり 往昔販路未た開けず 僅に川越商人の手に属したるより川越魚子と称せしも 尓後気運開明に趣くに従へ 万事実地を喜好するより廣瀬なゝこの名弘く世上に著ハれ 今や村名改れりと雖も廣瀬の名称は益々世に顕る 是れ他なし 各府縣の魚子織多しと雖も 当所その嚆矢なると品位卓越たるとに依りて 博覧會共進會に於て頗る賞賛を得 幾回も褒賞を授与せらるゝこと数回 文官内省の御用品となり同省の賞賛も殊に厚し 尚且つ去る明治十年十一月 故埼玉縣令白根多助君此他に巡回せられ 宗徳と親しく なゝこ織の沿革を諮問せらる 依て上にいへる事とも答へき時に 縣令感賞の餘に碑面の和歌を詠し 尚将来本業の廣張を勧諭せらる 當時同業者一同感激に耐す 益々事業の改良を圖り 併せて当所の魚子織の嚆矢たることを後世に傳んと有志議り 茲に碑を建て聯か其由を記す
明治二十四年四月 衆議院議員 清水宗徳選書

◆コロンビア世界博覧会の受賞メダル
(この日、岸野家より展示されました)
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◆「斜子織」の着物も展示されました
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【斜子織の高機の復元】
現「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが、斜子織を復元したいと思い立ち、地域の旧家のお宅や高齢者でご存知の方は居ないかと尋ね歩き、やっと高機が一台、柏原のお宅から寄贈されたものが狭山市博物館の倉庫にあることにたどりついたそうです。
しかし、かなりの部分が壊れ、部品もかなり失われた状態だったので、斜子織の織り機を経験した方が残存していない中で、他の織り機などを参考にしながら、文字通り手探りで、復元したのだそうで、大変なご苦労だったことが偲ばれます。

会場に展示された、その経過の写真
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【斜子織の実演】

織り機全景
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今回手作りで補修したところが、よくわかります。
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最初は、細い幅でトライしたそうです。
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今回、はじめて幅が一尺の「反物」に挑戦だそうです。
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糸繰り機も手製です。
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これから、ちゃんと織れるまで確認していって、将来は糸も生産したいと、遠大な計画をお持ちです。
なので、もっともっと仲間を増やしたいそうです。
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かって、この地域を潤していた主要な産物であった「斜子織」を復元するということは、単に過去にスポットを当てているということではないと思います。
こういう取り組みが出来るということは、自分が住んでいる地域を愛して、活気づけていくにはどうしたらいいだろうか、という気持ちを持った方が沢山居ることの現れです。

とても嬉しく、拝見、拝聴させていただきました。



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刺国若比賣(さしくにわかひめ)/日本の神々の話

20161204

この神が登場するのは、『古事記』において、「天照大神と須佐之男命」の巻の「須佐之男命の神裔」の段
(現代語訳)
 そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。

求婚に行った兄弟である八十神に、八上比売は大穴牟遅神と結婚すると答える。
そのため大穴牟遅神は兄弟である八十神に殺されます。最初は真っ赤に焼いた猪に似た石を抱かせて、二度目は大木の割れ目に挟んで。
それを生き返らせるように、二度とも骨を折ったのが母である刺国若比売です。そして紀伊国の大屋毘古神のところに逃がします。

この神は、大国主神の大事な母親だというのに、祀っている神社はほとんど無いようです。

調べていると、長野県上伊那郡辰野町の「宮木諏訪神社」に祀られていて、墓まであることがわかった。
まだ私は参拝してないが、見つけた記事から紹介しておきます。
境内の左奥に大きな石碑がある。
「刺国若比売命陵」とあり、背後にある注連縄で囲われた小塚がお墓である。
碑の裏に、次のような「解説」があ。
刺国若比売命御縁起
刺国若比売命は大国主命の御母であり健御名方命則ち諏訪大明神の御祖母であります。
御孫君健御名方命が出雲から、諏訪に向かわれる時同行なされ祖母神だけはこの月丘の森に住まわれ長寿の後ここでなくなられました。御陵はこの奥にあります。命は古事記にも記されているように禍を除き福を授ける神様として多くの人達の信仰を受けて来られました。
宮木諏訪神社



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江戸城歴史ウォーキング

20161201

アップが遅れましたが、阪急交通社が催行しているガイド付きのウォーキングに歴史クラブから30人で参加しました。
コース
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東京駅に集合です。
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添乗員とガイドに迎えられ、挨拶が済むとさっそくの案内です(笑)
東京駅と皇居外苑にはさまれた丸の内は、大名屋敷が多<あったそうです。大名が江戸入りの宿舎にするため邸宅を建てたので、「大名小路」ともいわれていました。備前岡山藩の池田家(丸の内)、阿波徳島の蜂須賀家(東京駅)、肥後熊本の細川家(丸の内)など有力大名の上屋敷が並んでいたそうです。

皇居外苑に入る前、ガイドから石垣の積み方について説明を受けました。写真の石垣積みは「切り込み接ぎ」といわれるもので、ほぼ方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法です。石材同士が密着しているため、排水が出来なく排水溝が設けられているそうです。

堀に面している面は「野面積み」、道路側が「切り込み接ぎ」
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外苑の松の多さには驚きです。1本1本丁寧に手を入れるので、予算が相当かかるそうです。
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扇状に広がった松
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【二重橋】
二重橋というと、メガネ橋とばかり思っていたのですが、それは正確には「正門石橋」といい、その奥にあるもう1つの鉄橋「正門鉄橋」を指すのだそうです。しかし、今は石橋と鉄橋2つを総称して「二重橋」と呼ばれるようにもなったそうです。

江戸城のころの二重橋
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手前は「正門石橋」
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奥の鉄橋「正門鉄橋」が二重橋。
一般参観の人がゾロゾロ歩いている。
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これが、鉄橋「正門鉄橋」
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【坂下門】
坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近<西丸の通用門として利用されていました。
今は宮内庁の出入り口として使われています。
坂下門が有名なのは、文久2年(1862)江戸城坂下門外で、尊擾派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃して負傷させた事件があったからです。桜田門外の変で井伊大老が暗殺された後、信正は開国路線を継承し、公武合体を推進しました。これに反対する水戸浪士が憤激して襲撃した事件です。
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また、この坂下門前広場では、天下祭りである「神田祭り」巡行祭と、赤坂日枝神社巡行祭がここで奉納を行います。
赤坂日枝神社巡行祭では、ここで神事があり、「剣の舞」が奉納されます。

「剣の舞」を見る


宮内庁の建物
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【桔梗門】
 内桜田門ともいわれています。桔梗門の名称の謂れは、昔この門の瓦に太田道淫の桔梗の家紋が付いていたからといわれています。家来たちは下馬先である門前の広場で各大名の帰りを待っていたそうです。そして政治の話、大名たらの動向など、いろいろと噂話に時を過ごしたので、責任のないところで種々の批評や噂話を「下馬評」といいます。
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【桜田二重櫓(巽櫓)】
江戸城に残る唯一の隅櫓。本丸から見て南東(巽)の方角にあるので、巽櫓という。
出窓上の突き出しが「石落とし」で、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。
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【大手門】
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大手門は濠側の高麗門と渡櫓から出来ています。江戸城の正門です。
ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代大名がこの門の長になって、番侍は常に肩衣を着て、鉄砲20挺、弓10張、持笛2挺等を持って警戒に当たっていたそうです。

明治初頭の大手門
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高麗門を入ると、「桝形」である。
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渡櫓
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桝形の隅に置かれていた、「旧大手門渡櫓の鯱」
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渡櫓をくぐった先に、十月桜が咲いていた。
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【大手三の門】
ここを駕籠のまま通れるのは徳川御三家、日光門主だけでした。
他の大名は、この辺で駕籠から降りて歩いていきます。
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三の門跡
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【同心番所】
 番所とは警備の詰所のことで、城の奥の番所ほど、上位の役人が詰めていました。
同心番所は大手円から最初に通る番所で、与力、同心が詰めて警護にあたったところです。大手三ノ門の内側にあり、同心番所は主として登城する大名の供の監視にあたっていました。
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元は三ノ門の外側にあったようです。
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同心番所には、「葵の紋」が残っている。この紋が残っているところを探すのも楽しい。
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ここを抜けると、「中の門跡」
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【百人番所】
百人番所は本丸に入る最大の検問所で、甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が昼夜交替で守りを固めていました。
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【中之門跡】
中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
 中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い、整層・布積みの石垣です。明暦4年(1658)に普請され、元禄16年(1703)地震で倒壊した石垣を修復し、その後約300年の間に、石材の移動による目地の開き・孕み、荷重や風化による破損・剥離等が発生していたため、平成17年(2005)から平成19年(2007)まで20ヶ月かけて解体・修復工事が行われました。三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定するなどの修復工事の概要が、中之門跡に詳しく表示されています。

石垣に使われている二種類の石
右が伊豆石、左が花崗岩
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中之門石垣
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往時の中之門
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石垣の積み方
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見事に水平に目地をそろえている。こんな石垣は他では見られない。これを大名に見せつけていた。
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踏み石も巨大である。
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【大番所】
中之門の内側にあり、中之門からがいわゆる本丸なので、大番所の役割は極めて大きかった。
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【中雀門跡】
 中之門に入ると長い緩やかな坂道が続きます。登ってい<と石垣が見えます。中雀門跡です。本丸御殿に通じる最後の門で、御三家も日光門主もこの門で乗り物を降りて、徒歩で本丸御殿に向かうことになります。

この門は文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時、類焼し石垣の表面が熱でボロボロになったといわれています。門の通り道の石垣はボロボロでしたが、外側は全く異状がありません。どうしてかなと思いました。
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ガイドさんの説明によると、下の写真のように櫓門が燃えたところの石垣が焼けたということでした。
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旗を持ったガイドさんが立っているところが本丸御殿の玄関があったところ。
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本丸御殿からちょっと離れて富士見櫓を見に行く。

【富士見櫓】
残念ながら工事中で全容を見ることが出来ませんでした。
案内板によれば、3つの櫓が残っていますが、その中で富士見櫓は唯一の三重櫓です。
明暦の大火(1657)で焼失した天守閣の代用として使われたとありました。
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この辺は、木蔭が多くてホッとする。
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【松之大廊下跡】
富士見櫓から近い道路わきにポツンとある小さな石碑に「松の大廊下跡」と刻まれています。
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【バラ園】
徳川家康が築いた天守閣は、この辺だったそうです。
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【石室】
 用途は不明だが、大奥の上納戸脇にあたるので、非常の際の奥向きの調度、文書を収納したところではないかという説が有力。
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ここから天守台に向かう道には、珍しい竹があった。

蘇芳竹(すほうちく)
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亀甲竹
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金明孟宗竹(きんめいもうそうちく)
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【天守合】
江戸城の天守閣は将軍の変わるごとに築かれましたが、家光が建てた天守閣が明暦の大火で焼け落ちてからは、加賀藩の前田家が天守台を築いた後、その上に天守閣が建てられることはなかったそうです。
明暦の大火は3日間にわたって外堀の内側を焼き尽くし、死者は10万人を超えたとと言われています。将軍家綱を補佐していた保科正之が天守閣の復旧については「国の財を費やすときにあらず」と反対し、江戸の町の復旧を優先した。
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家光の天守閣を図面から復元したCGを、ガイドさんが見せてくれた。
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加賀前田藩の威信をかけて築いた、天守台の石垣。
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【北桔橋門(きたはねばしもん)】
この門は本丸に一番近い橋なので、重要な地点として橋が、跳ね上がる仕掛けになっていたそうです。
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ここは「野面積み」ですね。
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小さい穴の狭間が設けられている。
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北桔橋門の外観
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そこから北の丸公園に行きます。

現在科学技術館がある場所は、春日局の屋敷があったそうです。
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平成26年12月2日に「東京」の気象観測地点を千代田区大手町から北の丸公園へ移転しましたが、ここです。
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以上で、ツアーは終了。
北の丸公園で、ツアーに含まれていた「なだ万」のお弁当を食べました。
そのすぐ近くで、私たちを恐れることなく、すずめたちが砂浴びをしていた(笑)
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その後「国立公文書館」を見学。
このときの企画展は「時代を超えて輝く女性たち」でした。
ホールには、戦前の「大日本帝国憲法の公布原本」、「日本国憲法の公布原本」、「終戦の詔書原文」が展示されていました。

(了)



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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