六郷神社の狛犬/東京都大田区

20170130

所在地:東京都大田区東六郷・六郷神社境内
撮影日:2014年1月17日

年代:貞享2年(1685) 
材質:石造
型式:はじめ型

今から3年前、「武蔵国式内社めぐり」で六郷神社を訪ねた際にこの狛犬を見て、その「ブサカワ」ぶりにビックリして、それ以来狛犬を楽しむようになった。
いわば、狛犬の楽しさを教えてくれたのが、この狛犬である。

六郷神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


境内の一角に、頼朝奉納の手水鉢などと一緒に、植木のなかにわりと無造作に置かれている。

説明
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阿形獅子
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吽形獅子
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特徴:
・阿形、吽形両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・吽形の頭に角らしき突起がある。
・顔は典型的な「ぶさかわ」で、ユーモラスな笑顔で、親しみやすい。
・前足は短くまっすぐ。付け根から長く毛が延びて翼のようになっている。
・後足は蹲踞。
・尾はシンプルな短い付き尾。毛先が背中に向けて巻いている。

「はじめ型」の特徴である、髪の毛先だけがカールしていて、尾が背中にくっついている。

髪の毛先だけがカールしている。
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尾はシンプルな短い付き尾で、毛先が背中に向けて巻いている。
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短い前足の付け根から長く毛が延びて翼のようになっている。
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「はじめ型」の、小型で四つん這い、髪の毛先だけがカールしている、尾が背中にくっついている特徴を表わしていて、彫りが実にシンプルで、それが親しみやすい印象を与えている。
「はじめ型」の特徴である、ユニークな笑い顔の親しみやすい顔であり、とても可愛い狛犬だ。
「ぶさかわ」の典型的な狛犬で、私にとってはこれが一番好きと云ってもいいくらいだ。



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東台遺跡(奈良時代製鉄遺跡)/埼玉県ふじみ野市

20170129

所在地:埼玉県ふじみ野市大井514-12 東台金山公園
訪問日:2017年1月18日

この日、「田子山富士塚」、「引又河岸跡」、「いろは樋模型」を尋ねたあと、ここを尋ねました。

私が仕事をしていた会社は、自動車関連の鉄系素材メーカーだったので、こういう遺跡には目が無いです(笑)

現場は、マンションの一角にある小さな公園です。
この場所からは、旧石器時代、縄文時代早期・中期・後期、奈良時代、平安時代、近世の集落跡のほか、7~9世紀の製鉄関係遺構が多数検出されているそうです。
製鉄遺跡は現在「東台金山公園」として保存されています。
これらの遺跡は、史跡には指定されておらず、発掘調査の後、宅地化され、余地に解説板などが設置されているのみです。

公園の一角に設置されている。
右のガラスケース内が「製鉄炉跡」、左のガラスケース内が「東台遺跡模型」。
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製鉄炉跡のガラスケース
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説明
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製鉄炉跡は奥のマンションを建設する際に発見され、移築保存したもので、奈良時代から平安時代初期に造られたと推測されています。
古代の鉄作りでは粘土で直径1m程の円筒形の炉を作り、 原料の砂鉄と燃料の木炭を投入し、長時間燃やし続けて鉄の塊を生産していました。 少し削れているような壁はその高温のために溶けてしまった炉壁と考えられています。

製鉄炉跡
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よく見ると赤っぽく錆びた鉄が見えます。
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東台遺跡模型のガラスケース
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説明
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当時の製鉄想像図
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発見された羽釜の鋳型
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8世紀の奈良時代には、「奈良の大仏」に象徴されるような大規模な国家的事業が推し進められました。
全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、各地で瓦や須恵器(すえき)を焼く窯(かま)などが作られた工房が設けられました。
ふじみ野市でも、鉄の生産が行われていたことが東台遺跡で判明しました。
発見されたのは、砂鉄から鉄の塊(かたまり)を作るための製鉄炉(せいてつろ)が7基、燃料となる木炭を焼く窯が10基、その他、炉の原料となる粘土を採るために掘った穴や、鋳物の型となる鋳型(いがた)が見つかっています。
中でも羽釜の鋳型は直径が60センチメートルもある大型品です。

ガラスケースの中の模型
縮尺が大きくて、小さい模型のため、なかなかピンとこない。
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それで、眺めているうち、ここを訪れた人の記事に、模型に人間が居ると書かれていたのを思い出した。
肉眼では分かりにくいので、カメラでズームしてみました。
居ましたね(笑)
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この人間のサイズから、製鉄所の規模を想像しましょう。
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今は、そんな面影はまったくありませんが、
ふじみ野の地は、奈良時代には巨大製鉄コンビナートだった訳です。
燃料に困らないほどの、森林地帯だったということですね。


(了)



道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)・長道磐神(ながみちはのかみ)/日本の神々の話

20170129

記紀神話に登場する神。

『古事記』では道之長乳歯神、『日本書紀』では長道磐神とある。
本居宣長は『古事記伝』で、「長乳(ながち)」は万葉集に遠き道のことを「道の長手(ながて)」と多く詠まれているので、「長乳」は「長手」と同言であり、日本書紀では単に長道(ながち)と書いているので、「乳(ち)」も「道(ち)」であるとしている。
『古事記』での歯は磐の借訓であろう。

『古事記』では、伊邪那岐神が死の国(黄泉国)から戻って禊祓をした折、 身につけているものを脱ぎ投げ出すと、それらから十二の神々が化生した。
杖より化生した神は、衝立船戸神。
御帯から化生した神は、道之長乳歯神
御嚢(みふくろ)より化生した、神は時量師神(あるいは時置師神)。
御衣より化生した神は、和豆良比能宇斯能神。
御褌(ふんどしのこと)から化生した神は、道俣神。
御冠より化生した神は飽咋之宇斯能神。
左の手纏(手にまく飾り、あるいは武具)より化生した神は、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神。
右の手纏より化生した神は、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神。

穢れを落すために、禊祓をした際に生まれた神々であるから、邪心、穢れ、疫病に対する結界を結ぶ塞の神の性格を表す神々とみなされている。

「長道」は帯からの連想である「長い道」の意味で、 長い道のりを追ってくる邪霊を防ぐ塞の神の性格を表すといい、長い道の端にいる神であるともされている。

私は、熊野大社(島根県)の摂社・伊邪那美神社の祭神として参拝している。



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引又河岸・いろは樋/埼玉県志木市

20170127

1月18日に田子山富士塚を尋ねたあと、せっかくなので付近の史跡を訪ねることにして、この日は「引又河岸跡」と「いろは樋関連史跡」を見ることにしました。

「しきし歴史まっぷ」から
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田子山富士塚から新河岸川沿い少し歩いていくと、「引又観音堂」があった。

【引又観音堂】
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【史跡 引又河岸跡】
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舟運と引又河岸
 江戸時代のはじめ(1640年頃)から新河岸川を利用した舟運がはじまり、川越と江戸を結んで、船で荷物が運ばれました。引又河岸ができ、市場も開かれ、宿場町でもあり、奥州街道(脇往還…バイパスのようなもの)などの道がとおる便利な場所だった引又宿は、大変にぎわうようになりました。
 引又河岸は、明治7年(1874)からは志木河岸とよばれ、重要な役割を果たしました。また、宗岡側には、宗岡河岸がありました。いずれも、新河岸川の改修と鉄道の発達によって舟運が衰退する昭和初めには、その役目を終えました。(「しきし歴史まっぷ」の説明から)

当時の引又河岸
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新河岸川を行く高瀬舟
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水神宮碑
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現在の新河岸川
上流
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下流
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そこから少し川沿いに行くと、道は左にカーブして「市場坂上」交差点に出るが、その直前に「いろは樋大桝」がある。
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【いろは樋大桝】
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「市場坂上」交差点を挟んで向かいに「いろは樋の模型」があった。
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【いろは樋の模型】

ガラスケースの中にジオラマ模型があり、分かり易い。
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説明図
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当時の写真
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説明
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帰って調べると、江戸時代に書かれた、斎藤鶴磯の『武蔵野話』の挿絵にも載っていた。
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ジオラマ模型
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更に、ほぼ原寸大の模型が置かれている。
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川の上に川を通すという、昔の人智に感心するが、その偉業を子供たちに、私たちに伝えようと、このようにジオラマや模型を設置した人達の熱意に対して、感服しました。

(了)



赤坂氷川神社の狛犬

20170124

所在地:東京都港区赤坂六丁目・氷川神社神門前
撮影日:2017年1月20日

年代:延宝3年(1675) 石造では都内で二番目に古い
材質:石造
型式:はじめ型

赤坂氷川神社に行くには、いつも地下鉄「六本木一丁目」駅から「南部坂」を上がって行きます。
赤坂氷川神社のある場所には、元禄の頃は備後国三次藩浅野家の屋敷がありました。浅野内匠頭の正室瑤泉院の実家で、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
そして大石内蔵助が討ち入り前に瑤泉院を訪ねた時の話が「雪の南部坂」として有名な訳です。
それで私も、いつも「南部坂」を使います(笑)

今回もブログにアッフするのに、今まで撮ってあった写真では物足りなく、ちょうどこの日「よみうりホール」で講演会があったので、その前に撮りに寄りました。
ちょうどこの日は、天気が荒れ模様で場合によっては東京にも雪が降るかもしれないという予報。
そうなれば、まさしく「雪の南部坂」(笑)というわけで、あまり天気は良くなかったのですが出かけました。
幸い、ちょっと小雨がパラつきましたが、写真は撮れました。

赤坂氷川神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


赤坂氷川神社には7組の狛犬があり、そのうち3組が江戸時代のもの。
今回のが一番古くて、都内の石造狛犬としては目黒不動のに次いで二番目に古い。

神門の前にありますが、かなり脇に置かれている。
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右側の阿形獅子
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台座に、延宝三年と刻まれている。
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・阿吽ともに、頭に窪みがあり、その中に突起が残っている。
・顔はユーモラスな笑顔で、親しみやすい。
・前足は短くまっすぐ。肘のところに巻き毛であろうか小さな翼のようなものあり。
・後足は蹲踞。
・尾は実にシンプルな真っ直ぐな付き尾。わずかに根元に巻き毛あり。

阿吽ともに、頭に窪みがあり、その中に突起が残っている。
阿形の頭頂部
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吽形の頭頂部
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これに対しては、灯明台にされたという説と、
江戸時代の神仏混合に見られる宝珠を載せたものと角のあるもののセットがあるが、その痕跡だという説がある。

前足の肘に、後世の翼とも違う、巻き毛のようなものがあるのが面白い。
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尾は実にシンプルな真っ直ぐな付き尾。わずかに根元に巻き毛あり。
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「はじめ型」の、小型で四つん這い、髪の毛先だけがカールしている、尾が背中にくっついている特徴を表わしているが、彫りが実にシンプルで、それが親しみやすい印象を与えている。
「はじめ型」の特徴である、ユニークな笑い顔の親しみやすい顔であり、とても可愛い狛犬だ。



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鈴懸の樹/目黒不動尊

20170123

目黒不動尊の山門をくぐって男坂の石段の手前、参道の右に大きな鈴懸の樹(プラタナス)がある。
樹の肌が真っ白で、巨大な樹なので目立ち、いつも行くたび見とれている。

1月12日に用事があって目黒不動に行ったときに、「鈴懸の樹」という名前の意味がわかった。

すごく立派な樹である。
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真っ白で、実に綺麗な樹だ。
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鈴なりに付いている実の姿を見て、なるほど「鈴懸の樹」だと思った。
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(了)


木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)/日本の神々の話

20170123

記紀に登場する神である。
『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。
『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)が本名、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。

『古事記』邇邇芸命の巻、「木花之佐久夜毘売」の段
(読み下し文)
 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへぼ、答へ白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへぼ、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合(まぐはい)せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへぼ、「僕はえ白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。かれ、その父大山津見神に乞ひに遣はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜(みにくき)きによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、宿婚したまひき。
 ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりていたく恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く常はに堅はに堅はに動かず坐さむ。また木花之佐久夜比売を便はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと、うけひて貢進りき。かく石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひし故に、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。かれここをもちて、今に至るまで天皇命等の御命長からざるなり。
 かれ、後に木花之佐久夜毘売参出て白さく、「妾は妊身みて、今産む時になりぬ。この天つ神の御子は、私に産むべからず。かれ請す」とまをしき。ここに詔りたまはく、「佐久夜毘売一宿にや妊める。これ我が子には非じ。必ず国つ神の子ならむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、若し国つ神の子ならば、産む時幸くあらじ。若し天つ神の御子ならば、幸くあらむ」とまをして、即ち戸無き八尋殿を作りて、その殿の内に入り、土以ちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、火をその殿につけて産みき。かれ、その火の盛りに焼ゆる時に生みし子の名は、火照命。こは隼人阿多君の祖なり。次に生みし子の名は、火須勢理命。次に生みし子の名は、天津日高日子穂穂手見命。

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

日向国に降臨した天照大神の孫、いわゆる天孫ニニギノミコトと笠沙の岬(宮崎県。鹿児島県内にも伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミ(墓は国指定陵墓・宮崎県西都市の西都原古墳群にある90号墳)はそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り、「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇(ヤマト・イワレヒコ)である。

火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られ、祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。

ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしている。また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされており、コノハナノサクヤビメにちなんで桜の木をご神木としている。

富士山麓忍野八海の湧池はコノハナノサクヤビメにゆかりの池として、毎年行うコノハナノサクヤビメの祭りで神輿をこの池の水で洗い浄める。

さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田(現在の鹿児島県霧島市)の茂穂をもって、今日の甘酒とされる天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話があることから、オオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)、コノハナノサクヤビメはサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされる。

富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、山梨県側の北口本宮冨士浅間神社、富士御室浅間神社、富士山下宮小室浅間神社などの浅間神社と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。

浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市など)に、酒解子神として梅宮大社(京都府右京区)に、また、伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石(さざれいし)神社にも姉のイワナガヒメと共に祀られている。

「木花開耶姫命像」 江戸時代 富士吉田市歴史民俗博物館蔵
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田子山富士塚/埼玉県志木市

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所在地:埼玉県志木市本町2-9 敷島神社境内
参拝日:2017年1月18日

この富士塚のことは、歴史クラブのM会長に教えていただき、資料もいただいていました。
登れるのは、大安と友引の日に限られているということなので、行く日を考えていて、
この日、天気も良くて富士山がよく見えるだろうという事で訪ねました。

敷島神社に到着。鳥居の向こうに富士塚がありました。
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近づくと、その大きさに圧倒されました。
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保存会の方が4、5名居られて、資料をいただき簡単な説明もしていただいた。

築造の由来:
幕末時代、引又宿に醤油醸造業を営み富士信仰に篤い、高須庄吉と言う人がいました。高須氏が夢のお告げに従って田子山塚に参詣したところ、「逆修」の板碑を発見しました。
この逆修板碑は、室町時代初めの暦応3年(1340)、廻国の僧(又は館村の僧)、 十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)が富士山入定に先立ち建立したものでした。
富士山を篤く信仰する高須氏はこれにいたく感激し、田子山塚の上にミニ富士山(富士塚) を築造する決心をし、同士を募り、築造期間:明治2年10月〜明治5年6月にて 農閑期を中心に作業が進められ完成しました。
この工事には多くの寄進や労力奉仕が寄せられ、数多くある石造物には寄進者合計2416名の名前 が刻まれています。

大きさ:
高さ: 約9m
麓(ふもと)の円周: 約125m
斜度39度の丸味のある方形をした築山

特長
1.この塚の規模はもちろん、石造物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並外れて優れており、 当時の引又宿の経済力と近在の人々の富士山信仰への思い入れをうかがい知ることができると共に、 貴重な文化財です。
2.石造物には、神道・仏教・修験道など、多くの系統のものが混在しており、日本人の伝統的宗教観が 良く現れています。
3. 「富士塚」としての6要件すべてを満足している富士塚は、極めて稀です。
1.「山頂に祠」があること。
2.「烏帽子岩」があること。
3.「小御嶽神社」があること。
4.富士山の溶岩「黒ぼく」があること。
5.「御胎内」(地下洞穴)があること。
6.「霊峰富士を遥拝」できること。

4.中世の富士信仰の遺物があります。
高須庄吉が発見した「逆修の板碑」は暦応三年(1340)のものであり、 中世の富士信仰遺物として極めて貴重なもので、浅間下社の御神体として祀られています。
浅間下社の外壁には、木花開耶姫・白糸の滝・食行身禄のレリーフが彫り込まれています。

「田子山富士塚」は平成18年3月に志木市として 初めて「埼玉県の有形民俗文化財」に指定されました。 国指定文化財となっている他の富士塚と比較しても遜色ない、すばらしい「お宝」です。

「志木市内の富士信仰」について:
1.かつて、志木市内には富士信仰に篤い人たちがたくさん居り、 「田子山富士」の「丸吉講」以外にも、上宗岡の「浅間神社」を中心に、 「丸藤講」がありました。
2.宗岡丸藤講では、明治13年に「羽根倉富士嶽」を築造しました。
3.宗岡丸藤講の第八代先達「日行星山」(本名:星野勘蔵)は、 篤い富士信仰に基づき「救世済民」を実践すると共に、富士山に70回余り登拝し、 明治25年には富士山麓(富士吉田市)に「吉田胎内」を開基しました。
4.この「吉田胎内」は、昭和4年に国の「天然記念物」に指定され、 平成25年に「富士山」が「世界文化遺産」に登録された時、 「吉田胎内樹型」として世界遺産の構成資産の一つになりました。
5.志木市の先人が開基した「吉田胎内樹型」が「世界遺産」に指定されたことで、 志木市民の誇りとなっている。

とにかく、この富士塚の全体図を見たときに、石碑の多さに圧倒される。
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この富士塚の特徴として、登山道が富士吉田口と同じように北側に設けられている。

入り口の左右には親子唐獅子が獅子山の形で迎える。
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【親子唐獅子】
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石灯篭
全部で14基あり。
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【琴比羅神社】
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【浅間下社】
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石祠の三面には、富士山に縁の深いものの彫刻があり。
木花開耶姫
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食行身禄
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もう一つの「白糸の滝」は撮るのに失敗。また訪れたときに撮ります。

石祠の中には、十瀧房承海の逆修板碑がご神体として納められている。
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この日求めた「田子山富士のナゾ」という小冊子に、「田子山塚」が『武蔵野話』に書かれているとあったので、帰宅後調べてみました。
私が持っている『武蔵野話』は、江戸時代に発刊された原本でなく、大正12年に鳥居竜蔵博士が復刊したものを、再復刊されたものである。

『武蔵野話』に書かれている文章
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板碑の図
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引又村全体の図
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「田子山塚」周辺
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【金山大権現】
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【「是より登山ミち」碑】
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【親子猿】
富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、富士塚には猿の石像が多く見られます。
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【雲切不動尊】
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【天狗坐像】
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一合目の合目石のところに、御座石浅間神社と鈴原社の石碑があり。
このことから、この登山道は富士吉田登山道に忠実に作られていることがわかる。
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【御座石浅間神社】
四合五勺にあったが、スバルラインの開通で五合目までの道は寂れてしまい、今は存在しない。
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【一ノ岳鈴原神社】
一合目にはこの鈴原社跡の建物があり、1840年代に建てられたものだそうで、16世紀には鈴原社という名前でこの地に社があったことがわかっています。
ここで奉られていたのが大日如来で、富士山の神様、浅間大菩薩の本地仏とされている。
ここで安置されていた大日如来像は現在富士吉田市の上吉田の御師のお宅に安置されているそうです。
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【「是よりびわの滝道」碑】
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【小室浅間神社】
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奥宮が二合目にあるのだが、その下宮である「富士山下宮小室(おむろ)浅間神社」に参拝したことがある。
以下の4点によりとても素晴らしい神社であった。
・流鏑馬が神事となっている
・神の依り代の鏡の受け台がなんとも美しい富士山である。
・大塔宮護良親王の首塚がある。
・境内に富士溶岩流の原形がある。

その記事を読む


【経ケ岳】
富士山五合五勺、日蓮が1269年に富士登山を行ない、法華経を埋納した伝説の残ることから経ヶ岳(経ヶ嶽)と呼ばれる場所
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玉垣には当時の花形歌舞伎役者の名がある。
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碑文は、池上本門寺60代住職によるもの。
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頂上を仰ぐ
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【中宮】
富士吉田登山道の五合目直下には「中宮(ちゅうぐう)」呼ばれる場所があります。富士山の中腹に祀られた「中宮三社」からそう呼称されていました。また、ここには「中宮役場」があり、「山役銭(やまやくせん)」という122文の入山料を回収する場所でもありました。入山料は登山前の御師によるご祈祷代や、杖の代金、役行者堂での護摩代や、九合目にあった石垣の橋の修繕費などの費用に充てられていました。
富士守稲荷、大日社、浅間社をお祀りしていた「中宮三社」のお社がありました。
武田信玄は娘が病気をした際に、この中宮に願文を出したとされ、信玄も信仰していた神社でもありました。

不二森稲荷神社
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中宮祠
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【泉ケ滝】
富士山で水の得られる数少ない場所で、小御嶽神社参道途中にもあたり、参詣時に道者が水垢離(みずごり=水行)をした。
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【小御嶽神社】
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【亀磐蓬莱山八大龍王神】
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【烏帽子岩】
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頂上に到着

【陰陽石】
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奥宮
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富士山がどこに見えるか探しました。
奥宮が富士山に向いていました。当然か(笑)
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非常に薄っすらだが、茶色の建物のところに見えているのを発見(嬉)
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下に降りてから、保存会の副会長さんに綺麗に見えている時の写真を見せていただいた。
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ここの富士塚からは、今でもちゃんと富士山が見えるのを知って嬉しかった。

こんどは富士塚の下から、斜面にある神社や石碑を確認していきます。
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【日本建命】
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【田子士峰之記】
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【御中道大願成就碑】
右に「宝永山」碑があり。
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【諸神祭祀碑】
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【石神坐像】
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【志木富士祠修築之碑】
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【是より御胎内道】
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御胎内道にも狛犬が侍っている。
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松尾神社脇から富士塚を見上げる。
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【松尾神社】
ご存知、お酒の神様。
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【太子像】
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【阿夫利神社】
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【ラブラブツリー】
白い木が女性、黒い木が男性。仲睦まじい男女に見えることから、ラブラブツリーと呼ばれ、縁結びや安産・子宝の御利益があるそうです。
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【御胎内】
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【住吉社】
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ラブラブツリーと登山道の間に色々な石仏があり。
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【不動明王】
不動明王の眷属、矜迦羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子。
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不動明王
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【高尾山烏天狗】
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【秋葉山烏天狗】
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【黒(くろ)ボクの山】
黒ボクとは、本物の富士山から持ってきた溶岩のことで、北側の斜面に驚くほど大量に見ることができる。
これほど多くの黒ボクを、車も鉄道もない時代に富士山から運んできたことに、敬服の念を覚える。
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これで富士塚全体を見終わったが、素晴らしい富士塚だったこと、保存会の皆さんが大事に守っていることに感謝しました。
それから、1月だったので注連縄や御幣が新しくて、とても気持ち良く見て回れました。
この後、敷島神社とその境内社にお参りして、ここを後にし付近の史跡を見て回りました。



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目黒不動尊の狛犬

20170119

所在地:東京都目黒区下目黒・目黒不動尊参道石段上
撮影日:2017年1月12日

年代:承應3年(1654)、石造では都内最古
材質:石造
型式:はじめ型

目黒不動尊には、江戸時代造立で左右揃ったものは三組あり、その中でこれが一番古い。
今まで何度も目黒不動には行き、この狛犬も撮ってあったが、満足できる撮れ方ではなかったので、今月12日に目黒に行く用事があったので、撮って来た。

目黒不動尊については、「関東36不動めぐり」で参拝した時の記事があります。

その記事を見る


参道の男坂を上がりきったところに置かれています。
これは、本堂側から撮ったもの。
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・大きな眉も含めて、顔の周囲を巻き毛が回っていて、獅子らしい顔
・顔はいかめしいが笑っていて親しみやすい。
・前足は太くてたくましいが、肘が曲がっていて動きがある。足の付け根に小さな翼あり。
・後足は蹲踞。膝に渦巻き模様。
・足首から毛が流れているが、右は巻いており、左は流れている。
・尾は付き尾だが、古代ギリシアのコリント式柱頭の装飾に使われた植物のようなデザイン。

足と胸のところに銘が刻まれている。
胸 : 奉献 不動尊霊前 唐獅子二匹
右足: 亀岡久兵衛正俊
左足: 承應三甲午三月廿二日
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「はじめ型」によく見られるが、足の間の彫りを省略している。
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足首から毛が流れていて、ちょっと見は尾にも見える。
これが右は巻いており、左は流れているのが面白い。
「右獅子、左狛犬」のたてがみの特徴と同じ。
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尾は付き尾だが、古代ギリシアのコリント式柱頭の装飾に使われた植物のようなデザインで面白い。
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「はじめ型」の年代だが、唐獅子として造られたので、大きさがあり、彫りも立派で、尾のデザインなども装飾的。
「はじめ型」と呼んでいいのかとも思うが・・・・・・
しかし、その後一世を風靡する江戸獅子や、古くからある正統派神殿型狛犬とも明らかに違っていて、非常に貴重な存在だと思う。

後世の唐獅子型と比較すると、デザインがシンプルで、なによりもユーモラスな笑い顔がなんともいえず、親しみがあって、私にとって大好きな狛犬の一つだ。



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佐久津彦命(さくつひこのみこと)/日本の神々の話

20170118

『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っているが、そのとき随行した神である。

『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

このときの饒速日尊命の巡回コースは以下のようなものであったらしい。
「田庭の比地真名井原(丹波国与謝郡)-但馬国美伊(美方郡香美町香住区三川)-小田井(豊岡市小田井)-佐々前(ささくま 豊岡市日高町佐田)-屋岡(養父市八鹿町八鹿)-比地(朝来市和田山町比治)-田庭津国(丹波)-河内国いかるが峰」

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原とここ佐久宮(佐久神社)である。
(口語訳)
天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこ あめのほあかりのみこと)は大巳貴命(おおなむちのみこと)の勅を奉じ、両槻天物部命の子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原(しのいくはら)に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作りました。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原(さたいないはら)と云います。いまの佐田伊原と称している気多郡佐々前(ささくま)村がこれです。
佐久津彦命は、佐久宮に住まわれました。天火明命の行幸や祭礼などのときのお供をされる神である、天磐船長命(あめのいわふねのおさのみこと)は、磐船宮に住まわれました。
天磐船長命は、天磐樟船命(あめのいわくすふねのみこと)の子です。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命を生みました。
佐伎津彦命は佐々前の県主(あがたぬし)となりました。

ここに登場する「佐久宮」だが、兵庫県豊岡市日高町佐田に鎮座する「佐久神社」が比定され、当地は和名抄にある「氣多郡樂前郷佐々乃久萬」の地と推定され、佐々乃久萬が「佐久」と変化し社名となったようだ。

よって、但馬国氣多郡樂前(ささくまI郷に住んだ、饒速日命を奉じる氏族の祖先神ということであろう。



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谷中七福神めぐり(後半)

20170117

1月6日に歴史クラブ行事として行いましたが、その続きです。
東覚寺、青雲寺、修性院、長安寺と回って、続いて天王寺です。

【⑤天王寺:毘沙門天】
所在地:台東区谷中7-14-8  天台宗・護国山天王寺
日蓮上人はこの地の関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻む。長燿は草庵に、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗し、天保4年(1833)、天王寺と改めた。
享保年間には富くじ興行が許可され賑い、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失した。
※木造毘沙門天立像:平安時代中期(10世紀)ごろの作品
※銅造釈迦如来坐像:元禄3年(1690)5月、神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造
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門を入ると、「雪吊り」があり。
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手水鉢にも映っていた。
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七福神・毘沙門天のある毘沙門堂
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毘沙門天
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本堂
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本尊
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本堂前には、大仏があり。
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本堂の脇に、スダジイがあり。
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その奥に、面白い柘榴の木があり。
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次の護国院に向かう途中、大雄寺に寄り、高橋泥舟の墓にお参りしました。
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樟の巨木の下にある高橋泥舟の墓
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【⑥護国院:大黒天】
所在地:台東区上野公園10-18  天台宗・寛永寺の子院
天海の弟子生順が、寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創、承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)当地へ移転した。
三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。
※絹本着色不動明王二童子画像(台東区登載文化財):海中の岩上に立つ「波切り不動」
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本堂内部
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真ん中に大黒天像が安置されている。
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三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像がその後ろに厨子の中に収められていた。
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右手脇の部屋には、辨財天、毘沙門天、薬師如来、持国天、大日如来、阿弥陀如来が安置されていた。
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辨財天
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右手脇の部屋には、不動明王、元三大師、千手観音、勢至菩薩、如意輪観音が安置されていた。
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舞殿
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庭にあった大黒天の石仏
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反対側にも彫ってあった。
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冬の演出、藁づと。
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その下に福寿草が咲いていた。
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清水坂を下って、不忍池に向かいます。
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振り返って、清水坂を。
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上野動物園の下を通る。
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鷗外温泉
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【⑦不忍池辨天堂:弁才天】
所在地:台東区上野公園2-1  弁天堂は、寛永寺の伽藍の一つ
寛永寺造営の折、不忍池を琵琶湖に見立てて、池の中に竹生島を模した小島を築かせただけでなく、竹生島にある宝厳寺の弁財天を勧請して、弁天堂を建立させたのが創建の由来。
当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、 弁天島は弁天堂に参詣する人々で賑わった。
弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁財天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。
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手水舎
磐から水が染み出るようになっている。
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辨天堂
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八臂の大弁財天
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天井の、児玉希望画伯による「金竜」の図
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参拝を終えて拝殿の回廊に立つと、真っ直ぐ参道の向こうに清水堂まで見渡せる。
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辨天堂の宝珠
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辨天堂の横からの外観
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境内には、いろいろな供養塚が多かったが、それは省略。
芭蕉碑を載せておきます。
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これで、七福神の参拝を終え、上野駅に向かいましたが、途中清水堂の下に。
新しい「月の松」も、けっこう大きくなっていた。
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名所江戸百景「清水堂から不忍池」
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(了)


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谷中七福神めぐり(前半)

20170115

1月6日に歴史クラブ行事として行いました。

コース
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山手線田端駅を10:30ちょっと過ぎにスタートしました。

【①東覚寺:福禄寿】
所在地:北区田端2-7-3  真言宗豊山派・白龍山寿命院東覚寺
本尊は不動明王像です。延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間に当地へ移転したと伝えられる。江戸時代には、寺領7石の御朱印状を拝領した。
※赤紙仁王:身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在もなお、祈願する人が絶えない。横の草鞋(わらじ)は、祈願して病気が回復した人々によって供えられたものです。江戸時代の末期までは、田端村の鎮守である八幡神社の社前にありましたが、明治維新の神仏分離を契機に、別当寺であった東覚寺の境内に移された。

右が赤紙仁王のある不動堂、左の門を入ると東覚寺境内。
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赤紙仁王
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赤紙がびっしりと貼られ、仁王はまったくわからない。
右手に病気が回復した人々によって供えられた草鞋(わらじ)がある。
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不動堂の不動明王
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東覚寺境内
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七福神の福禄寿
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賽銭箱は龍が彫られた立派なもの。
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本堂前の弘法大師
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その横に、今では珍しい二宮金次郎の銅像。
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境内に、享保3年(1718)造立の庚申塔があり。
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庭が公開されていた。
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僧形八幡像があり。
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ここに、一か所七福神があり。
恵比須
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布袋尊
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福禄寿
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毘沙門天と寿老人
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弁才天
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大黒天
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おまけで、可愛い小僧の石仏。
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次の青雲寺に向かう途中あったお風呂屋さん二軒。
千歳湯
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富来湯
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【②青雲寺:恵比須】
所在地:荒川区西日暮里3-6-4  臨済宗妙心寺派・浄居山青雲寺
本尊は観音を安置す。智光禅師が開山となり創建、堀田相模守正亮が宝暦年間(1751-64)に中興したといわれます。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため花見寺ともいわれていた。
滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
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七福神の恵比須
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滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)
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硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑
(下見のときの写真)
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当日は、水仙が咲いていた。
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撫子も咲いていた。
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雲が、タツノオトシゴの形になっていた。
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【③修性院:布袋尊】
所在地:荒川区西日暮里3-7-12  日蓮宗・運啓山修性院
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられます。江戸時代より花見寺として親しまれている。
※木造布袋尊像(荒川区登録文化財)は、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。

塀に布袋さんのタイル絵があった。
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入ってすぐに本堂。
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本堂の中に安置された、七福神の布袋尊。
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本堂前に、珍しい「ランタナ」という可愛い花が咲いていた。
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この後、谷中銀座に出たところで参加者は自由行動とし、好きなところで昼食となった。

そして「夕焼けだんだん」で集合し、七福神めぐりを再開。

【④長安寺:寿老人】
所在地:台東区谷中5-2-22  臨済宗妙心寺派・大道山長安寺
老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。
※長安寺板碑(台東区登載文化財):1.建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む、
2.弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む、3.正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む、4.応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
※狩野芳崖墓(台東区登載文化財)
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寿老人は本堂の中に安置。
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寿老人
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本堂前の「長安寺板碑」(台東区登載文化財)
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1、建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む
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2、弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む
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3、正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
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4、応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
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狩野芳崖墓(台東区登載文化財)
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門内参道には、いろいろな石仏あり。
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ここから天王寺に向かいましたが、続きは次の記事で。


谷中七福神めぐり(後半)を見る




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川越・仙波東照宮の狛犬

20170113

所在地:埼玉県川越市・仙波東照宮狛犬
撮影日:2016年11月20日

年代:寛永14年(1637)、埼玉県最古
材質:石造
型式:はじめ型

仙波東照宮の狛犬と手水鉢は明暦2年(1656)に、江戸城二の丸にあった東照宮から移されたもの。
狛犬の台座は極めて薄いものであり年代の情報は無いが、手水鉢に刻まれている年代から、寛永14年(1637)とされ、埼玉県最古の狛犬である。
そして、関東最古の参道狛犬が、日光東照宮の寛永13年(1636)であるから、それに次ぐ古い狛犬ということになる。

わりと長い石段を上がると、拝殿前に置かれている。
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・台座が極めて薄く、まるで地面に控えているような姿である。
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・阿形の頭には窪みがあり、吽形には角であったと推定される突起がある。
・巻き毛の大きな眉の顔は、いかめしいが笑っていて親しみやすい。
・前足は開き気味に真っ直ぐで、太くて短い。足の付け根に小さな翼あり。
・胴体は丸くて太い。
・後足は、お座り。膝に渦巻き模様。
・尾は、巻き毛で背中に付いている。

阿形の頭には窪みがあるが、これは何なのかわからない。
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同じ川越の氷川神社境内社・柿本人麻呂神社の狛犬にはもっとはっきりした窪みがあり、カッパ頭の狛犬ということで、岩手県遠野にある十王堂の狛犬と同様に火消しの意味ではないかと云う人が居る。
また、品川の寄木神社の狛犬にも大きな窪みがあって、こちらは漁師が頼りにした灯明台にされたという伝承が残る。
しかし、仙波東照宮の場合はそれほどの窪みでもない。

吽形のほうには、角であった思われる突起がある。
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前足付け根の翼と、後足膝の渦巻き模様。
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尾は、いわゆる「付き尾」だが、巻き毛である。
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「はじめ型」の、小型で四つん這い、髪の毛先だけがカールしている、尾が背中にくっついている特徴を表わしているが、彫りがていねいで良い出来だと思う。
「はじめ型」の特徴である、ユニークな笑い顔の親しみやすい顔であり、とても可愛い狛犬だ。



狛犬の記事一覧を見る



中山道・板橋宿(その三)

20170110

歴史クラブの行事として、10月24日に「近藤勇墓所」から「縁切り榎」まで歩きました。
その後12月21日に個人で「縁切り榎」から「荒川・戸田の渡し」まで歩きました。前回の記事「その二」で南蔵院まで記事にしていますので、その続きです。

南蔵院から中山道を歩き出します。国道17号線の区間。
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日本橋から13Km地点を通過。
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志村一里塚に到着。
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【志村一里塚】
この区間には平尾(日本橋から2里目)と志村(同3里目)に一里塚が存在しましたが、志村のみが取り壊されずに残り、明治に改まり55年後の大正11年(1922)3月に国の史跡に指定されました。
現在全国では17か所の一里塚が国史跡に指定されているそうです。
もともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事によって移動したり、削ったりはしていないそうです。
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東一里塚(江戸方面から見る)
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江戸に向かって見た一里塚
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銀杏の木も立派
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西一里塚(江戸からきて左側)
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立派な石標
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三代目だそうですが、立派な榎です。
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左右の一里塚が綺麗に残っている。
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板橋十景の一つです。
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志村一里塚から戸田の渡しまでのマップ
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志村坂上の交差点で、旧中山道は国道17号線と分かれ、左に入っていきます。
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少し行くと、「清水坂」の石標あり。
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【清水坂】
清水坂が大きく屈曲しているため、中山道で唯一右側に富士山が見える場所。

大きく左に坂がカーブしている。
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今日は晴天で、家を出るとき富士山が綺麗に見えていたので期待していましたが・・・・!?
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樹とか家が密集していて、今は富士山が見えなくなっている(泣)

道沿いの高いところに上がって見たが、駄目でした(泣)
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富士山が見える所がないか、ウロウロしていたが、下に降りてしまった。
清水坂を振り返る。
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清水坂の案内
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あの高いマンションなら、富士山の眺めは良いだろうな(羨)
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旧中山道は、清水坂を下りると大きくカーブして、国道17号線に戻る。

埼京線のガードをくぐると、前方に車が見えているのが国道17号線。
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旧道は国道17号線を突っ切ります。
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ここから国道17号線を100mほど戻って「薬師の泉」に寄ります。
歩道を渡った先の右手の森が薬師の泉。
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【薬師の泉】
薬師の泉庭園は、青雲大善庵主(俗名善左衛門、永正10年卒)が創建した大善寺のもと境内で、境内に湧き出す清水が良く、徳川吉宗が大善寺に立ち寄った際には、清水を誉めて、大善寺の本尊薬師如来を「清水薬師」と命名したといいます。大善寺は、昭和初期に総泉寺に併合、当地は総泉寺亀山荘庭園として築造されたものの戦中戦後にかけて荒廃、平成元年板橋区が整備、薬師の泉庭園として開園したといいます。

江戸名所図会「清水薬師 清水坂」
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入り口
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案内
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全景
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すごい木賊だった。
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泉は綺麗な水が湧いていた。
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旧中山道と国道17号線が交差しているのは、環八との交差点。
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環八との交差点で、国道17号線より一本脇の道が旧中山道。大きく弧を描いて、また国道17号線に戻る。
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国道17号線に戻ります。トラックが見えているのが国道17号線。
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また国道17号線を歩いていきます。
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日本橋から15Km
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新河岸川にかかる志村橋に到着
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ここまで下ってくると新河岸川も立派な川ですね。
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「舟渡」交差点に差しかかります。
もう目の前に荒川土手が見えていますが、ここを右折して、中山道と一時離れて「浮間ケ池」を見に行きます。
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浮間公園に到着
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【浮間公園】
自由蛇行していた荒川の一部が残る河跡湖を都立公園に整備した。
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浮間公園から真っ直ぐ、荒川の土手に向かいます。
土手を歩いて中山道に戻ろうというものです。
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土手を上がる。
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中山道のある川上方面
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川下方面
見えている建物は、川口市だと思う。
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東京都側の河原は広くて、ゴルフ場になっている。
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中山道に近づくと、並行している新幹線と埼京線の電車が頻繁に通る。
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【戸田橋】
中山道(国道17号線)に戻った。戸田橋である。
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戸田橋と並行して新幹線の橋が架かっている。
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下流側の歩道からは新幹線の橋が邪魔して見通しが悪い。
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新幹線が通過
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戸田橋は519mあり、長かった。
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上流側の歩道を少し戻り、荒川の上流を眺めた。
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戸田の渡船場跡を探す。
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渡船場跡の碑を川岸近くで探したが見つからず、往生(泣)
川岸で休んだ。下流を眺める。
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休んでいると、船が遡って来たが、何と水上スキーだ。
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探していた渡船場跡の碑は、土手より下の場所にあった。
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【戸田の渡し跡】
 この荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道 戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
この渡しは、資料によると天正年中(1575~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。その中には、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8年、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったが100年後の天保13年には13艘に増えています。
明治8年(1875)5月には木橋の戸田橋がついに完成、「戸田の渡し」が廃止となりました。
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蕨宿の絵になるが、『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
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江戸名所図会「戸田川渡口 羽黒権現宮」
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渡船場跡の碑の下の道に水神社があったので、お参り。

【戸田の水神社】
創立など詳しいことはわからないが、正面の「水神宮」の碑には寛政八年(1769)の銘がある。
古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様になっているようだ。
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境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座している。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されている。
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今回の中山道歩きは、これで完了としました。
板橋宿として、「近藤勇墓所」から「戸田橋」まで歩きました。



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神大市比売(かむおおいちひめ)・大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)/日本の神々の話

20170109

『古事記』だけに登場する神。

別名:大市比売命(おおいちひめのみこと)、大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)
伏見稲荷大社の上社祭神「大宮能売大神」はアメノウズメと同一視されることもあるが、これを『二十二社註式』、『稲荷神社考』では大市姫命に当てている。

大宮能売大神は、狭山市廣瀬神社の末社杉森稲荷社の祭神である。
宇都宮二荒山神社境内社「市神社」の祭神が大市比売命。

大山祇神の娘ということで、木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)、磐長姫神(いわながひめのかみ)、木花知流姫神(このはなちるひめのかみ))の姉妹です。

『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「須佐之男命の神裔」の段
 かれ、その櫛名田比売を以ちて、くみどに起して生みし神の名は、八島士奴美神と謂う。また大山津見神の女、名は神大市比売を娶して生みし子は大年神。次に宇迦之御魂神。兄八島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流姫神を娶して生みし子は、布波能母遅久奴須奴神。この神、淤迦美神の女、名は日河比賣を娶して生みし子は、深淵之水夜礼花神。この神、天之都度閇知泥神を娶して生みし子は、淤美豆奴神。
 この神、、布奴豆奴恐神の女、名は布帝耳神を娶して生みし子は、天之冬衣神。この神、刺国大神の女、刺国若比賣を娶して生みし子は、大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男神と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ、亦の名は字都志国玉神と謂ひ、井せて五つの名あり。

神社の祭神としては大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多い。
東京都青梅の式内社・虎柏神社のご祭神である。

2柱の御子神(宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神)はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。
神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。



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南宮大社の狛犬/狛犬を楽しむ

20170107

所在地:岐阜県不破郡垂井町・美濃国一之宮南宮大社楼門
参拝日:2016年8月3日

年代:寛永19年(1642)
材質:木製
型式:神殿型

美濃国一之宮・南宮大社については、既に記事があります。

その記事を読む


楼門の表側には随神が侍り、内側に狛犬が侍っている。
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通常、狛犬は神座を保護するために置かれるので、神座に背を向けて置かれる。
ところが、南宮大社では楼門の内側に置かれたため、神座に向いてしまっている。
だが、この狛犬は神殿型の体表的なかたちをしているので、本来は本殿か拝殿の前に置かれたか、置くつもりで作られたと解釈して、右左を判断した。

右側の阿形獅子
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左側の吽形・角のある狛犬
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特徴:
・全高が1.5Mくらいと大きい。
・右側が阿形、たてがみが巻き毛なので獅子。
左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬で、角がある。
・玉眼の顔は、いかめしいが笑っている。
・前足は太くて翼がついている。そして片足を前に出し、動きがある。
・胴体は丸くて太い。
・後足は、お座り。
・尾は、扇状に開いた焔の様で、立っている。


右側が阿形獅子、左側が角がある吽形狛犬と、神殿型の模範的かたち。
足に翼が付いていて、片足を前に出し動きが感じられ、尾も焔のようで勢いが良い。
しかし顔はいかめしいが笑顔であり、座り方も蹲踞(そんきょ)というよりお座りしている感じで、実に親しみやすい。



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中山道・板橋宿(その二)

20170104

前回の記事で、「近藤勇墓所」から「遍照寺(馬繋ぎ場跡)」まで書きましたが、その続きです。

コース図(遍照寺(馬繋ぎ場跡)から縁切り榎までの分)
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【旧板橋町役場跡】
旧中山道を外れて、ガイドさんが案内してくれました。
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板橋の人にとっては、明治になってしばらく埼玉県に入っていたのがおかしいらしい(笑)
・慶応4年:明治新政府の定めた「武蔵県」に属す。
•明治2年:新設の「大宮県」に属す(のちに「浦和県」となる)。
・明治4年:「廃藩置県の令」により浦和県から東京府に移管。
※はじめて「東京の板橋」になる。

当時の役場の写真
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現在は、小公園になっているが、何もない。
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【板橋宿本陣】
代々、新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡です。 参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。

大きなスーパーと民家の間に、ひっそりと立っているので、探すのに苦労した。
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ここで、板橋宿を描いた浮世絵を載せておく。
英泉と広重が交互に描いているが、板橋宿のは英泉が描いている。
中央は道標を兼ねた庚申塔で、右王子道と刻むことから、右端は巣鴨庚申塚の立場茶屋である。
左端の傍示杭は宿の入口を示し、板橋宿を接近させて描く。右が王子道で、正面は板橋宿に通じる。
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【文殊院】
真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号す。本尊は文殊菩薩。 江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し、出世寺とも呼ばれた。 山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。閻魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。 飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。(板橋区教育委員会掲示より)
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〇延命地蔵堂
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石仏が、ガードレールみたいになっていて驚いた。
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〇閻魔堂
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〇子の権現
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酢酸の木槌が奉納されていた。
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遊女の墓のある墓地には、四国八十八ケ所のお砂踏みが設けられていた。
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〇遊女の墓
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【脇本陣跡碑】
路地を左に入った奥の石碑は名主・飯田宇兵衛家の「脇本陣跡碑」。京都を出発した皇女和の宮の最後の宿泊地が飯田宇兵衛家であった。
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「板橋」の手前、この辺に高札場があった。
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【板橋】
旧中山道が石神井川を渡る地点にかけられた橋で、板橋の地名の由来となったともいわれている橋。

江戸名所図会
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昔の写真
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やってきました「板橋」に。
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日本橋から10KM642m
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説明
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実は、現在橋が二つかかっているんですね。
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手前(江戸より)が、昔江戸時代の位置。
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昔の石神井川が流れていたところは遊歩道になっている。
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これが現在の石神井川と橋
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橋のたもとに、カタツムリのシンボルマークがあった。
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調べてみたら、どうも「板橋かたつむり運動」のマークらしい。
「かたつむりのおやくそく」はごみを減らすための合言葉です。
・ごみになるものは買わない・もらわない
・同じものをくりかえし何度も使う
だそうです。

ちゃんこ料理屋さん
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【板橋宿上宿碑】
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【縁切り榎】
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江戸時代には、この場所の道を挟んだ向かい側に旗本近藤登之助の抱え屋敷がありました。その垣根の際には榎(えのき)と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃から縁切り榎木と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなる事を恐れ、その下を通らなかったと言います。板橋宿中宿の名主であった飯田侃(かん)家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)下向の際には五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎を避ける為の迂回路が作られました。そのルートは、中仙道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る1kmの道のりです。なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆う事と命じた触書の内容が伝わったものと考えられ、実際は筵で覆った下を通った事はなかった。男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮をそぎ取り煎じ、密かに飲ませるとその願いが成就されるとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれている。 (板橋区教育委員会掲示より)

初代榎の図
現在の榎は三代目です。
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「諸国道中承認鑑」に描かれている縁切り榎
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大六天の社殿
もともと、縁切り榎は大六天のご神木であった。
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二代目縁切り榎の一部
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絵馬には、生々しい願いが色々と書かれている。
いろいろな人の人生模様が伺われる。
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ここまでが、歴史クラブの行事で歩いた分でした。
ここから先は、2016年12月21日に一人で歩いた分です。

縁切り榎から志村一里塚までのコース図
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縁切り榎前から歩き出します。
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環七通りの下を通過。
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この辺から左にカーブしている。少し行けば国道17号線と合流だ。
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【種もの屋】
江戸時代、「清水夏大根のたね名物なり」と云われた。
今も一軒だけ種苗店が残る。
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国道17号線(現中山道)との合流点に来た。
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いま来た方向に、「ここから旧中山道」との標識があり。
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国道17号線の上を走っていた首都高5号池袋線は左にカーブして離れていく。
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南蔵院のすぐ手前に、17号線を行きかう人を見つめている布袋さんの石像。
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【志村不動尊・南蔵院】
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笠つきの、青面金剛庚申塔が素晴らしい。
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境内のお地蔵さんに、無事を祈ってお参り。
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不動堂もあります。
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志村不動尊・南蔵院は、「関東36不動めぐり」で以前参拝しています。

その記事を見る



ここから先は、次回記事にします。

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三毛入野命(みけいりのみこと)・御毛沼命(みけぬのみこと)/日本の神々の話

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記紀神話に登場する神。

私は神話のふるさと高千穂地方を取り上げたテレビの番組は欠かさず見ているが、それで知った神である。
高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の社伝によれば、三毛入野命が神籬(ひもろぎ)を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。

『日本書紀』では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」、『古事記』では「御毛沼命(みけぬのみこと)」と表記される。
『日本書紀』・『古事記』によると、鵜葺草不合命(うがやふきあえずのみこと)と、海神の娘の玉依姫との間に生まれた子である。

『古事記』の「火遠理命」の巻、「鵜葺草不合命の生誕」の段
(現代語訳)
(前省略)
 この天津日高日子波限鵜葺草不合命(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト)が、その叔母の玉依姫命を妻として、生んだ御子の名は、五瀬命、次に稻飯命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命で、亦の名を神倭伊波礼毘古命(神武天皇)。
そして御毛沼命は、彼の上を踏んで常世国にお渡りになり、稻飯命は、亡き母の本 国のある海原におはいりになった。

ということで、初代神武天皇の兄神である。

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。

名前の考証として、本居宣長は『古事記伝』で、「み」は敬称で、「け」は食物を意味するとしている。

宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。
高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。
三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されている。

宮崎県高千穂での伝承では「三毛入命」となっていて、その伝承を挙げておく。
高千穂の宮にいたミケイリは、兄弟たちとともに東遷のために出発した。ところが、ミケイリの船は強い風波のために押し流され、本隊と離れてしまい、高千穂に引き返した。
東遷に出発した後、高千穂地方では、鬼八(きはち)という悪者がいて、あちこち荒らし回って、人々を苦しめていた。ミケイリは高千穂の古都を荒らす鬼八を退治しようと決心した。
このことを知った鬼八は、ミケイリが引き返す道筋で邪魔を始めた。鬼八は、非常な健脚で山野を走り回ったり、悪霊を呼んで雨を降らせたりする術を使ったので、ミケイリは大変苦心した。
ミケイリが高千穂に向かって引き返す途中、川が増水して渡れなくなった。ミケイリは浅瀬を探して綱を両岸に張り、無事に渡った。この川が綱の瀬川である。さらに進んで、日之影町にある阿下(あげ)という村に着いた。ここで宿泊、その場所を御泊(おとまり)、また、その地に衣服を脱いで掛けた岩があり、この岩を「座敷のもと」と呼ぶようになった。
そこから舟の尾という村に出て、この村で食糧を入れた俵を集めて積み上げた。そこは今も俵石といっている。
鬼八は、先々で大雨を降らせて邪魔を繰り返した。ある日、ミケイリは何とかして雨を止めようと思い、天の神々に祈念した。するとたちまち雨がやみ、日が差し始めた。日之影の名前はこのとき、日の姿が見えたところということで名付けられたという。
宮水の村でも大雨に遭い、道端の大木の洞穴で休んだ。雨がやんで出発するとき、休息の記念に自然石2個を残した。村人はこの石を神石として祭った、石は今も宮水神社に祭られている。
大雨に遭ってミケイリのはかまが汚れていたので、村人が洗ってやった。この村は、袴谷(はかまだに)という村になった。この村から上手に波瀬という村がある。ミケイリはここでも休憩した。そのとき、腰掛けた石を腰掛け石という。この石を粗末にすると急に腹痛が起こった。村人はしめ縄を張って波瀬神社の境内に祭った。
ミケイリは高千穂に帰り、苦心の末、鬼八を退治した。それから高千穂地方は平和な村になった。

高千穂神社社殿の袖扉にある、鬼八退治の彫刻
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今年もよろしくお願いします

20170101

明けましておめでとうございます。

皆さまにとって、よいお年であるようにお祈り申し上げます。

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今年も、のんびりとマイペースで、楽しみながら

このブログをやっていきますので、よろしくお願い致します。



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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