鬼平犯科帳を歩く

20170225

2月15日に歴史クラブ行事に参加して歩きました。

コースは、押上駅⇒春慶寺⇒西尾隠岐守屋敷跡⇒業平橋⇒大横川親水公園⇒出村の桜屋敷跡⇒高杉銀平道場跡⇒法恩寺⇒相模の彦十の家跡⇒勝海舟居住の地⇒五社稲荷神社(勝海舟揺籃の地)⇒長谷川平蔵の旧邸⇒堀部安兵衛道場跡⇒寿座跡⇒すみだ北斎美術館

コース図
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スタートは、押上駅(スカイツリー前)のソラマチ広場から。
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【春慶寺】
所在地:東京都墨田区業平2丁目14−9
春慶寺は鬼平犯科帳の中で、鬼平の親友 岸井左馬之助の寄宿先として、たびたび登場しています。とくに、「明神の次郎吉」(文春文庫第八巻所収)という作は春慶寺を舞台とした筋立てとなっており、当時の押上近辺の様子が生き生きと描かれている。

春慶寺は、元和元年(1615年)浅草森田町の地に、真如院日理上人によって創建されました。その後、寛文7年(1667年)に浅草から本所押上村に移転、現在まで約四百年の歴史を持つ由緒あるお寺です。
江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年、巳年守り本尊として多くの参詣人で賑わっています。当時の隆盛ぶりは、「東都歳時記」や「武江年表」等で再三紹介されています。また、天明(1781~89年)の頃に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という浮世絵には、石の道標に「押上村」「普賢菩薩」という文字が見られ、押上村の春慶寺に“お参りに行く”ことが人々の大きな楽しみであったことがうかがえます。
現在、境内には「鶴屋南北の墓」や「関東俳優之碑」が残っています。震災や大戦による災禍もあって一時、寺運が衰えたこともありましたが、昭和58年、奇特な信者の寄進と役員の努力により再興されました。そして平成13年7月、浅草通りに面した境内地に新しい堂宇を得、普賢菩薩鎮護の法華経道場としての道を歩みつづけている。

春慶寺はビルになっている。
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入り口にある「岸井左馬之助の寄宿先」碑
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鶴屋南北の墓は、お寺の前、通りに面して置かれている。
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ガラスケースに入っているのが、もともとの墓の断片。大きな墓だった。
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関東俳優之碑
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お寺の中に入り、お寺の奥さんに簡単に説明していただいた。

「御江戸大絵図」
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大判三枚続 「押上村行楽」/勝川春潮
流れている川は、北十間川。
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【西尾隠岐守屋敷跡】 墨田区業平1-13-7
遠江国横須賀藩3万5千石の西尾家下屋敷がありました。周辺は穏やかな田園風景が広がる人気の行楽地。夜になると下屋敷は博奕場へと変わり、すねにきずを持つ者が身を隠す場所として作品に登場します。
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【業平橋】 墨田区吾妻橋3-4
「敵」の中で、大滝の五郎蔵が橋を渡ったところで尾行されていると感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立に身を隠す場面で登場します。
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スカイツリーが良く見える。
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大きなマジックミラーが置いてあって、スカイツリーと一緒に撮れる。
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【大横川親水公園】
最初は釣り堀。鳥の被害が大きいのか、ネットを張ってある。
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色々な橋をかけたり、楽しそうな親水公園になっていた。
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【出村の桜屋敷跡】 墨田区横川1-1
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出村町には一刀流の剣客高杉銀平の道場があった。道場のとなりは、このあたりの名主・田坂直右衛門の屋敷で[桜屋敷]と呼ばれていた。
平蔵と左馬之助は田坂直右衛門の孫娘・おふさに想いを寄せていました。横川を行く、おふさの嫁入り舟を平蔵と左馬之助が万感の思いで見送る場面は心に残ります。

高札にある二十余年後の展開とは:
今は人手に渡った[桜屋敷]の前で、平蔵は剣友岸井左馬之助に出会った。若き日の平蔵と左馬之助が憧れた「桜屋敷」の孫娘「おふさ」が、嫁ぎ先の近江屋清兵衛方を追い出された後、御家人服部角之助の後添えとなっていることを知る。
昔馴染みの無宿者・相模の彦十を服部屋敷で開かれる賭場に潜り込ませ、同屋敷に小川や梅吉が出入りしている事を突き止めた。折りしも彦十の仲間の蓑虫の久から、おふさが服部屋敷にたむろする無頼浪人と小川や梅吉をそそのかし近江屋へ押し込む計画があるとの情報がもたらされた。
蓑虫の久と相模の彦十を誘った一味は全員捕縛されたが、おふさには昔の面影はなく、平蔵も左馬之助も覚えていなかった。
以後、相模の彦十は密偵となり、岸井左馬之助も平蔵を助けることになる。

高札の後ろの倉庫らしい建物には、蔦がびっしりと生えていた。
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【高杉銀平道場跡】 墨田区太平1-25-4
横川沿いの出村町にあった道場に平蔵が19歳のときに入門し、ここで生涯の友・岸井左馬之助に出会います。高杉先生から同時に目録を授けられ「竜虎」と呼ばれました。
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【法恩寺】
所在地:墨田区太平1-26-16
太田道灌ゆかりの寺で、「本所桜屋敷」では平蔵と左馬之助が門前の茶店「ひしや」で20余年ぶりに旧交を温める場面に登場。「尻毛の長右衛門」は、この法恩寺から物語が始まります。
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門前に、雪吊りの演出。
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太田道灌と山吹の碑があり。
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ある日、鷹狩に出かけた若き日の太田道灌が、にわか雨に遭遇して村のあばら家で蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は無言のまま、山吹の一枝を道灌に差し出した。道灌は怒ってその場を立ち去ったが、あとで家臣から、少女の行為は「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑のひとつさえ持てないかなしさを山吹の枝に託したものだ、と聞かされて自分の無学を恥じ、それ以降歌道に精進した。

この伝説の舞台がここなのか?と思い調べてみた。
場所としては、以下の諸説があり、いずれも確証はないようですが、法恩寺の辺ではないようで、早とちりしなくてよかった。
①.豊島区高田付近とする説
「山吹の里」の石碑がある面影橋近辺とする説。この近くに「山吹の里公園」もある。
②埼玉県入間郡越生町とする説
「山吹の里は山吹の咲く里ではなく、豪族山吹氏が住んでいた里で、その地は埼玉県入間郡越生町」(浅沼政直氏の説)。 越生町には「山吹の里歴史公園」がある。

本堂
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梅が綺麗だった。
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太田道灌供養五輪塔
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法恩寺橋を渡る。
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大横川親水公園がまだ続いている。
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清平橋の横に大きな水道橋がかかっている。
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【相模の彦十の家跡】 墨田区亀沢4-14-6)
彦十は本所松井町の「岡場所」に巣食う香具師あがりの無頼者。若かりし平蔵が、放蕩無頼の暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人です。密偵に転じると、その働きは目を見張るものがありました。
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【勝海舟居住の地】 墨田区緑4-35-6
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【五社稲荷神社(勝海舟揺籃の地)】 墨田区緑4丁目11−6
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境内に、「勝海舟揺籃の地」という標柱あり。
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【長谷川平蔵の旧邸】 墨田区緑4-12-7
「鬼平」こと平蔵が27歳のときまで暮らしていた屋敷のあった場所です。実父の宣雄が目黒行人坂の下手人を捕らえた手柄により京都町奉行に出世し、長谷川家はこの地を去りました。
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竪川の上を首都高7号線が走る。
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首都高のカーブが面白い。
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【堀部安兵衛道場跡】 墨田区立川3丁目15番地
安兵衛公園になっている。
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この後、墨田区史跡「寿座跡」にあるファミレス「ジョナサン」で昼食。

寿座跡(寿劇場跡):
本所相生町5丁目(現緑1丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治25年(1892)廃絶したが、廃絶を惜しむ声に支えられ、明治31年(1898)、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場として開座した。幾多の名優の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜しくも昭和20年(1945)2月閉座、同年3月10日戦災により焼失し、その幕を閉じた。

昼食後、「すみだ北斎美術館」を見学。
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「すみだ北斎美術館」については、別途記事にします。

これで、この日の予定は完了。帰途につきました。



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橘樹(たちばな)神社の狛犬

20170221

所在地:千葉県茂原市本納 橘樹神社参道
撮影日:2015年9月15日

年代:享保5年(1720)
材質:石造
型式:江戸狛犬(付き尾)

歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で、旧上総国式内社を訪ねた際に橘樹(たちばな)神社に参拝しました。

その記事を見る


ここには、三組の狛犬が居ました。

もう二組ですが、拝殿直前にあるのが一番古いものでしたが、造立年代が不明で片方の狛犬の首が欠落していたのでこれは省きました。
もう一組の、文久3年(1863)奉納の狛犬は、後でアップします。

拝殿前に台座上に安置されている。
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右側に阿形獅子
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子獅子を連れている。
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左側に吽形獅子
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玉を持つ
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特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・顔は、前髪&眉がカールして中央分け、顎髭も豊かで前髪と同様にカールしている、唐獅子のスタイル。
・表情は親しみやすい笑顔。
・前足は、子獅子を連れているか、玉を持っている。
・後足は蹲踞。足の付け根に巻き毛あり。
・尾は、背中に沿って豊かに流れている。


「江戸狛犬」は、「関東型」とも云われ、左右とも唐獅子となり、子連れ、玉持ちが多い。
尾が、初期は「立ち尾」、後期が「流れ尾」と云われている。
今回のは、顔は唐獅子のものであり、子獅子を連れ、玉を持っているので、「江戸狛犬」として間違いない。
しかし、尾が背中に付いて流れており、唐獅子特有の巻き毛もそんなに協調されていないのは、まだ「はじめ型」の影響が残っているのではないかと思われる。



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馬力神(ばりきしん)/日本の神々の話

20170219

記紀などの神話に登場する神でなく、民俗信仰によるもの。

栃木県を中心とする北関東地方から南東北地方で江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習で、愛馬の冥福を祈り石碑を建てるもの。
ネットで見つかる記事で推測すると、範囲は宮城県、茨城県、栃木県と思われる。
埼玉県、東京都では、私は見かけたことが無い。

『日本民俗大辞典』(福田アジオほか/編 吉川弘文館 1999)によると、「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の1851年(嘉永4)例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があります。

たとえば栃木県では、『下野の野仏』緊急碑塔類調査報告 (栃木県教育委員会/編 1973)の塔碑類一覧で調べると県内に274の馬力神があることがわかります。

「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう。

「馬力神」の石碑
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中山道・蕨宿(その二)

20170218

2月11日に「戸田の渡し」から蕨宿の出口まで歩きましたが、前回の記事で「戸田の渡し」から「蕨宿本陣跡」まで書いたので、その続きです。

まずは、中山道を木戸まで歩き、その後「三学院」、「はね橋」、「和楽備神社」、「蕨城址」、「長泉院(おしゃみの鐘)」、宝樹院(渋川公墓)」と、JR蕨駅に向かって、周辺の史跡を訪ねて歩きました。
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昔をしのばせる家を眺めながら歩きます。
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「板橋宿から二里十町」のところに、「蕨宿まちづくり憲章」が掲げてありました。
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新しい店舗でも、このようにしてあります。
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旧い家が多いので、その景観を楽しみながら歩きました。
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蕨宿の木戸まで来ちゃいましたね。ここで国道17号線と合流します。
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国道17号線側から眺める。
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【中山道ふれあい広場】
木戸の内側にあり、休憩するのにぴったしでした。
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中山道の説明
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広場の真ん中に大きいケヤキがあり、タイルの壁画がある。
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皇女和宮の行列
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大名行列
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中山道沿いに時計台が。
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ちょうど13時だったので、音楽が鳴っていた。
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下には人形と街並みの模型が。
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大きなケヤキがよかった。
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ここから中山道を少し戻って、「地蔵の小道」を三学院に向かいます。
中山道を離れて、周辺の史跡を楽しみます。
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【三学院】
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所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。

梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
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山門
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地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
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この中で珍しいのが地蔵石仏(目疾地蔵)
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仁王門
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仁王門の塀に沿って、阿弥陀堂と不動堂の間に石仏群あり
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明和6年(1769)造立の青面金剛型庚申塔
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寛文2年(1662)建立の二菩薩碑
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貞享元年(1684)造立の三猿型庚申塔
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水舎
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圧倒的な迫力で聳える本堂
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鐘楼
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三重塔
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阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)が、目立たない所にあります。
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蕨宿関係墓石群
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左側が元和9年(1623)とかなり古い。右側のは明暦2年(1656)。
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木食観正塔
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住職墓域の、卒塔婆型墓石
こういう形式の墓石を初めて見ました。
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これで三学院見学を終り、近くのはね橋に寄りました。

【はね橋】
民家から用水を渡って道に出るため設けられていた。
復元されている。
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この家は、当時は織物工場をしていたので、女工の逃亡防止のため上げていたのだと言う人も居るようだが、このはね橋は内側から操作するようになっているので、そうではなく外部からの侵入防止だろう。

【和楽備神社】
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和楽備神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


和楽備神社の境内の池は、かっての蕨城の堀の跡です。

【蕨城址】
御殿堀
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御殿堀から続く石垣
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蕨城址碑
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「成年式発祥の地」碑がありました。
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今年の正月にテレビでやっていましたが、蕨市が成人式の発祥の地なんです。
終戦で若者が元気をなくしているのを見て、青年団が元気づけようと昭和21年に始めたそうです。
だから、今でも蕨市の成人式は青年団が運営している。

その近くに、ウルマンの青春の詩があります。
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
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この石垣は、当時のものかどうかわからないが、これを眺めてから後にした。
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【長泉院(おしゃみの鐘)】
所在地:蕨市中央5-13-3
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真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。

鐘楼は、なんと現代的なお寺の上にあり。
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裏のほうから望遠を効かして鐘を撮った。
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【宝樹院】
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
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参道
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本堂
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渋川公墓(市指定文化財)
渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
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これで、蕨宿周辺の散策を切り上げ、JR蕨駅から帰途につきました。

(了)


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浅草神社の夫婦狛犬

20170216

所在地:東京都台東区浅草 浅草神社境内
参拝日:2015年3月17日

年代:江戸時代(1600年代後半~1700年代前半)
材質:石造
型式:はじめ型

浅草神社については、既に記事にしています。

その記事を読む



浅草神社の参道には、天保7年(1839)奉納のものと、昭和36年奉納のブロンズの狛犬がありますが、境内の一角に、引退してのんびりと過ごしている「夫婦狛犬」が居ます。

しかも相合傘で(笑)
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神社の説明
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阿形、吽形がくっついて並んでいる。
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阿形
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吽形
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斜め後ろから
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特徴:
・右側が吽形、左側が阿形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・阿吽ともに頭に窪みがあるが、はめ込み式の角があったと説明あり。
・両方とも角だったのか、片方が宝珠で片方が角だったのか、興味をひくところである。
・顔は、実に親しみやすい笑顔。
・前足は太くたくましく、短い。
・後足は蹲踞。足の付け根の巻き毛から三本長く延びているのが特徴。
・尾は手のひらのように伸びた付き尾。根元のほうにわりと多い巻き毛あり。

頭の窪み
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足の付け根の巻き毛と、付き尾。
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神社の「夫婦狛犬」という演出と相まって、「はじめ型」の特徴である、小型で四つん這い、ユニークな笑い顔の親しみやすい顔によって、実に親しみやすい狛犬である。
彫りがシンプルなのも、親しみやすい印象を与えている。



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中山道・蕨宿(その一)

20170213

前回、板橋宿として「戸田の渡し」まで歩いたので、ここから蕨宿の出口まで、2月11日に歩きました。

「戸田の渡し」から蕨宿出口までのマップ
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基本的には、国道17号線ですが、所々中山道旧道が残っているところがあります。

埼京線「戸田公園」を降りて、まずは参考にしているマップに載っている「戸田漕艇場」に向かいました。
これは、中山道・蕨宿を描いている渓斎英泉の画がこういう浮世絵だからだろう。
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【戸田漕艇場】
1937年(昭和12年)、東京オリンピック (1940) のボート競技会場、および、荒川の治水対策のために建設開始された。しかし、日中戦争(支那事変)の激化を理由に同オリンピックの開催権を日本が返上したため、同オリンピックでの使用はなくなった。ただし治水対策の面もあったため、建設工事は規模を縮小しながらも続けられ、1940年(昭和15年)に完成した。
1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック (1964) の会場となったため、拡幅工事や周辺整備をした。

埼京線「戸田公園」から歩いて6、7分で到着。
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学生がボートをかついで行く。
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ずいぶんボートが居る。
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中にちょっと入ってみました。
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ボートの手入れをしている。
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カヌーが出ていくところ。
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艇庫が並んでいるところから、荒川の堤防に上がることにした。
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堤防からボートをかついだ女性が降りて来た。
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堤防に上がって見ると、早朝から荒川でボートを漕いでいたのであろうグループが上がってきていた。
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堤防を国道17号線の戸田橋交差点まで行く。
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中山道を歩く旅は、ここからスタートです。
まずは、「歴史のみち」を歩く。水神社は前回立ち寄っているので、地蔵堂を目指します。
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【歴史のみち 中山道】
交差点から階段を降りる。
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地蔵堂
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入り口に、享保16年(1731)造立の、青面金剛庚申塔があり。
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「歴史のみち」に戻ってすぐのところに小公園あり、中山道のルートの説明があった。
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菖蒲川を渡った先は、稲荷社を目印にして一里塚があった場所を探すことにした。

「歴史のみち」を行くと、菖蒲川のところで途切れます。
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ここで「曲尺手橋(かねのてばし)」を探します。
国道17号線が菖蒲川を渡る橋だった。

【曲尺手橋(かねのてばし)】
街道が堤外で屈曲していたため、「曲尺手」の地名が誕生した。
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橋のプレートに橋名の表示あり。
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菖蒲川
向うの橋が川岸橋
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曲尺手橋全景
グリーンの歩道橋の向こうに国道17号の橋があり。
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続いて、「上戸田のエノキ」を探す。
資料では、「一里塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木がある」と書かれているので、幼稚園を探す。
先入観から、国道17号線より外れた細い道をウロウロ彷徨ったあげく、土地の人から国道17号沿いにあると教わったので助かった。

【上戸田のエノキ】
日本橋から4番目の一里塚。
現在は、塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木の古木がある。 幼稚園園庭には貞享5年(1688年)の銘の庚申塔が残っている。

幼稚園発見
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この木ではないだろうか?
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17号沿いにも、この木がある。どちらかだろう。
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ここから少し先に、旧道が残っているのでそちらを歩く。
現在は公団の前の通りになっていて、ケヤキの並木の綺麗な通りである。
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マップに記載された「ミニパーク」だと思いここで休憩したが、後で検討して見ると、どうも違っていたみたいだ。
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そこから少し進むと、五差路になっている。
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【戸田の街道】
自然堤防が2か所あり、街道が屈曲している。中山道の原形を80mほど留める。

赤いジャンパーの人が居る点の通りが、「戸田の街道」となる。
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ふたたび国道17号線を進む。
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蕨市に入る。
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蕨宿入り口に到着。
左側が国道17号線、右に分かれているのが中山道旧道。
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【蕨宿・板橋側木戸】
木戸が迎える。
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蕨宿周辺史跡マップ
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この日は、蕨宿出口まで歩き、その後「はね橋」、「三学院」、「和楽備神社」、「蕨城址」を尋ねたあと、JR蕨駅から帰途につくことにする。

少し歩くと、ポケットパークあり。
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ここで、中山道旧道から一本脇の道に入り、「玄蕃稲荷」と「観音堂」を訪ねる。
【玄蕃稲荷】
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扁額は狐の鏝絵だった。
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社前に、「従是堀迄玄蕃持地」の石標と、何か不明な石が置かれていた。
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【観音堂】
由緒不明。
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中に祀られていたのは、元禄6年(1693)建立の石仏だった。
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【歴史民俗資料館分館】
中山道旧道に戻ったところにあり、明治時代に織物の買継をしていた家を保存してある。
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閉まっていたので、あれれと思ったら、この日は祝日(建国記念の日)だった。
普通の土曜日だと思い、出かけて来たのだが(汗)
毎日が日曜日状態だと、祝日もどうでもよくなってしまう(苦笑)

仕方ないので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。
館内案内図
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建物庭から見た建物
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庭のユーカリの樹がきれいだった。
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中山道に面した建物の部分
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ふたたび中山道旧道を歩きます。
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【蕨町道路元標】
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横に、方位盤がありました。
南から撮っています。
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ちなみに、昔は方位をこのように表していた。
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中山道老舗の漬物屋さん
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「中山道蕨宿」と入ったマンホールのフタがあった。
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【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡地)】
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横に本陣入り口を再現
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残念ながら、この日は休館となっていたので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。

中山道を利用した大名、姫君
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高札場と庚申塔のレプリカ
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蕨宿模型
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入り口に、「叶う道の碑」があった。
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川越・氷川神社(境内社柿本人麻呂神社)の狛犬

20170209

所在地:埼玉県川越市宮下町 氷川神社境内社柿本人麻呂神社前
参拝日:2016年2月21日

年代:享保3年(1718)
材質:石造
型式:はじめ型

川越の氷川神社境内社・柿本人麻呂神社の狛犬です。

川越氷川神社と境内社柿本人麻呂神社については、既に記事にしています。
記事は2013年に作ったもので、柿本人麻呂神社周囲がその当時と現在では、ちょっと変わっています。

その記事を読む


柿本人麻呂神社
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阿形獅子
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吽形獅子
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吽形の足に、享保3年と刻まれている。
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特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・阿吽ともに頭に窪みがあるが、何故かは不明。
・顔は下半分がずいぶんと前に突き出され、ユーモラスな笑顔と相まって、親しみやすい。
・前足はまっすぐで、前に出しかげん。
・後足は蹲踞。
・尾はシンプルな真っ直ぐな付き尾。根元のほうにわりと多い巻き毛あり。

阿吽ともに頭に窪みがある。
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・尾はシンプルな真っ直ぐな付き尾。根元のほうにわりと多い巻き毛あり。
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玉を持っているのは、江戸狛犬型の(中期)以降だが、尾のかたちほか全体がまだ「はじめ型」である。
頭の上がお皿のようにくぼんでいるので、まるでカッパのように見え、人気を集めているようです。
特徴は獅子といえ、彫りが実にシンプルなため、和犬のような親しみやすさがある。



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白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)/日本の神々の話

20170207

二十二代清寧天皇のことである。
『古事記』では白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記される。

雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

葛城 円:
紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。曾祖父は武内宿禰とあるので名門である。
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

葛城韓媛:
5世紀半ば、雄略天皇の皇子時代からの妃。葛城円 大臣の娘。安康天皇の死後,皇位継承争いが発生したが、『日本書紀』雄略天皇即位前紀によると、眉輪王と雄略天皇の兄の坂合黒彦皇子が円大臣の家へ逃げ込んだ。円は雄略天皇に娘の韓媛と葛城(奈良県御所市西部)の宅7区を献上してかくまった罪の許しを求めた。結局は許されず円は殺されたが、韓媛は雄略の妃となった。『古事記』安康天皇の条によると,雄略はすでに妻問いをしており相手を知っていた。葛城氏の没落により、以後葛城氏出身の后妃はいない。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺 してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。

清寧天皇には子供が無かった。
次代天皇となる二王子発見の物語が、『古事記』では死後発見されることになっており、『日本書紀』では清寧天皇が探し出すことになっている。

ここでは『古事記』に基づいて書いておく。
白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗(みかくり)の宮にて、天下を治めた。この天皇には皇后が無く、亦御子も無かったのて゛、御名代として白髪部を定めた。それで、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がおいでにならなかった。ここに、皇位を継ぐべき王を問うたところ、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
(市辺忍歯別王とは、履中天皇の第1皇子で父雄略天皇の叔父にあたり、雄略天皇に殺害された)

『古事記』では暗に、『日本書紀』でははっきりと飯豊王が皇位を継承したと記している。

さて、山部連小楯(やまのべのむらじおだて) とうい人が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられ、その国に住む志自牟(しじむ)という人の家の新築の宴会に訪れた時のことです。
宴もたけなわになったころ、竈の傍に火を焚く係りの子供が二人いたのですが、その子達にも舞をさせようということになりました。
どうやらこの二人は兄弟のようで、 「兄上が先に舞って下さい。」「いやいや、お前が先に舞いなさい。」と譲り合っている様子を見て、集まっていた人たちは笑い合いました。
結局、兄が初めに舞う事になり、兄が舞い終わると、次に弟は調子をつけて歌うように、こう言ったのです。
「武人(ぶじん)の我が兄上が、佩いている太刀の柄(つか)に 、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって、見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先を、なびかせるように、また八弦(はちげん)の琴を、奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(いざほわけのすめらみこと:履中天皇)の、御子の、市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の、今は奴となっている、その子が私である。」
これを聞いた山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は驚いて床から転げ落ちてしまいました。

山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は、その家の人を追い出すと、二人の御子を左右の膝の上に乗せ、泣いて喜びました。そして仮宮を作り、その宮に御子を連れてくると、早馬の使者を走らせました。
その知らせを聞いた叔母の飯豊王(いいよどのみこ)は大変喜んで、兄弟を角刺宮(つのさしのみや)に迎えました。

こうして市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で八年間天下を治めました。
第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。

ここで天皇の系図を確認すると、二十二代清寧天皇、二十三代顕宗天皇となっている。
『古事記』でも『日本書紀』でも飯豊王が皇位を継承したと記しているのだが。
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この神には、飯能市岩沢の白髭(しらが)白山神社と熊谷市妻沼の白髪(しらかみ)神社の祭神として参拝している。
この神をまつる神社が、飯能と熊谷にポツンとあるのは何故かと考えてみた。
『古事記』によれば、「この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。そこで天皇の御名代として白髪部をお定めになった。」とある。
この「白髪部」とは、白髪部舎人(とねり),膳夫(かしわで),靫負(ゆげい)の区分があり、天皇の宮に出仕した舎人以下のトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であることを示す。白髪部という氏姓は,武蔵,上総,下野,美濃などの東国と山背,備中などに分布するようで、のちに「白壁皇子」が出た時代に同じ名前は恐れ多いと「真壁」に改称した氏もあるそうである。
飯能岩沢と熊谷市妻沼には、「白髪部」の部民が住んでいて、白髮大倭根子命を祀ったのではないかと思われる。



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白髪(しらかみ)神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

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鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼字女体1038
参拝日:2017年1月28日

社号標
式内論社 武蔵國播羅郡 白髪神社、旧無格社
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利根川の南岸、407号線の東の畑の中に、ポツンとある木立の中にある小さな社。
社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。
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まず、「白髪神社」の読みであるが、「しらひげ」と読んでいる方が多い。これは他に「白鬚(しらひげ)神社」が多いせいであろう。
ご祭神が「白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)」なので、念のため『延喜式神名帳』を確認したら、「しらかみ」とルビが振ってあった。
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「白髪神社」の故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっているが、それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

治承三年(一一七九)、年齢も古希になった斎藤実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
ここで「古社」というのは「白髪神社」のことであり、白髪神社と聖天院の神仏混合でずっと祀られてきた。

そして、慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、住僧と神職の争いが起りました。
当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀った。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、宿井往來可爲境事」と定めた。

よって、大我井神社をもって白髪神社の論社とする見方があり、それはうなずけるところです。
しかし、大我井神社もまた「二柱神社」としていた経過もあり、「大我井神社」という社名になったのは、なにか別の影響もあったと推定されます。
別の動きとして、高岡稲荷に白髪神社が合祀されたということもあったのでしょう。

もう一方に立つ、高岡稲荷神社の社号標。
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鳥居が赤いのは、高岡稲荷神社のものだからでしょう。
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社殿
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社殿内部
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御祭神:白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと=清寧天皇)
配祀: 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命、合祀: 須佐男之命

白髮大倭根子命は『古事記』に記載されている名で、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。
雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を楯にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。

狭い境内を見て回ったが、他には不明の境内社が二社あるのみだった。
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春日大社の狛犬/東京国立博物館「春日大社展」

20170203

昨日、2日に東京国立博物館平成館で開催されている「春日大社展」に行ってきました。
他にもたくさんの興味を引く展示品がありましたが、私にとっては鎌倉時代の狛犬を間近に見ることが出来て、とても嬉しかった。
この狛犬については、「春日大社式年造替」(2016年に行われた)のテレビ特集番組で取り上げられていました。
鎌倉時代から昨年まで本殿の前回廊に置かれていた狛犬が役目を終え保存されることになり、新しい狛犬が作られる様も放送されていました。

その役目を終えた、第一殿から第四殿までの四組の狛犬が展示されていました。
それを間近に見ることが出来て幸いでした。
撮影は禁止なので、別途手に入れた写真で説明をします。

年代:鎌倉時代(1185~1333年) 、第三殿の狛犬と第四殿の獅子は室町時代
材質:木製
型式:神殿型

【第一殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
動きのない姿勢や巻き毛を強調しない点は平安時代の影響が残る。
阿形が獅子、吽形が狛犬。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角があり、これは初めて見た。
口の周りには、ヒゲを植毛した跡が残る。
尾は炎のような尾で背中に付きぎみ。

阿形
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吽形
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【第二殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
首をひねって顔を上げていて、姿勢に人懐こさが感じられる。
口の周りには、ヒゲを植毛した跡が残る。
尾は炎が後ろになびいているようなかたち。

阿形
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吽形
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【第三殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。狛犬は室町時代で、時代が異なる。
眼は透明なガラスの玉眼。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
吽形狛犬が中腰の、面白い姿勢をしている。
尾は、両方炎状だが、阿形は巻き毛が目立ち、吽形は筋状に流れて広がっている。
獅子と狛犬の毛の特徴を尾に出しているような感じ。

阿形
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吽形
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【第四殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。獅子は室町時代で、時代が異なる。
眼は透明なガラスの玉眼。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
阿形獅子が立ち上がって、走りだしそうな姿勢をしている。
尾は、両方炎状で立っていて、阿形は八つ手の葉のように広がり、吽形は炎がすぼまっているようなかたち。

阿形
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吽形
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神殿型の狛犬は、木製であり彩色されていた。
残存している色から、金や群青などで彩色されていたことが伺われるが、この狛犬たちに替わって現在本殿に置かれている狛犬は、テレビで放送されたのでわかっている。
とても鮮やかで素晴らしい配色である。

狛犬が置かれている場所
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新しく作られた狛犬
(ちょうど地震警報が出ていた)
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第一殿狛犬
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妻沼聖天山歓喜院(式内社白鬚神社故地)/埼玉県熊谷市

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鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2017年1月28日

「武蔵国式内社めぐり」で訪れた。
「幡羅郡・四坐のうち白髪(しらかみ)神社」の論社として「大我井神社」、「白髪神社」の他に故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっている。
それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

それで今回訪問してみたが、社殿の前に狛犬が二組あり、本殿(歓喜院聖天堂)の裏に境内社が7社が今でも祀られているのを確認したので、私も「式内社白鬚神社故地」として挙げておくことにした。

寺号標
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寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

 実盛は藤原氏の流れである越前国の斎藤則盛の子に生まれ、幼名を助房といった。十三歳の時に故郷の越前で事件に遭遇し、縁戚である武蔵国長井庄の庄司・斎藤実直の養子となり、養父・実直の「実」と実父・則盛の「盛」を一字ずつとり「実盛」と名乗った。
 生まれ故郷の北陸地方は、古くから信仰心の深いところで、越前国の人々には早くから聖天信仰が普及していたため、実盛も幼少の頃から歓喜天を深く信仰し、自らの守り本尊と心に決め、平時には居間に祀っては朝夕の礼拝を欠かさず、戦場にあってもこの歓喜天を、かた時も離すことはなかったといわれている。
 治承三年(一一七九)、年齢も古希になった実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
(さきたま文庫「妻沼聖天山」より)

中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年1(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

背の高い石灯篭の先に貴惣門がある。
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【貴惣門】
境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。

横からの、三つの破風をもつ特異な眺めがこの門の特徴。
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この門の彫刻も素晴らしい。
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持国天、多聞天は修復中という掲示が出ていたが、どうやら多聞天は修復されて納められた直後らしい。
しかし、残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
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貴惣門をくぐると、この日は土曜日で、フリーマーケットが開催中。
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齋藤実盛像
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2016年11月に郷里に帰った際、石川県加賀市の実盛塚(篠原古戦場)、小松市の多太神社に参拝しており、最近実盛に縁が深い。

実盛塚(篠原古戦場)の記事があります。

その記事を読む


木曽義仲が、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納した多太神社の記事があります。

その記事を読む


【四脚門】
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仁王門の前に、慶應4年(1868)年奉納の狛犬がある。
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【仁王門】
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いきなりカミさんが鳴らしたのでビックリしたが、仁王門に大きな鰐口が下がっている。
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拝殿の前に、文政7年(1824)奉納の狛犬がある。
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【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

拝殿
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向拝部分も、彩色彫刻が素晴らしい。
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拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」
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虎の左右の蟇股彫刻が、鬼が噛みついている様になっていて面白い。
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肘木の透かし彫刻が、鯉から龍に出世するまでを表わしている。
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そして中央の龍に
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海老虹梁(えびこうりょう)と手挟み(たばさみ)の彫刻も素晴らしい。
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いよいよ奥殿を見る。
拝観料を取られるが、そのかわりボランティアガイドの説明があり、その説明がとても良かった。
そして、カメラの撮影がOKというのも、嬉しい限りだった。

奥殿は満艦飾の彩色彫刻である。
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三手先の、白い象の奥の部分が塗られていないのは、わざと未完成のかたちにしているのだ。
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花頭窓
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大羽目の彫刻は七福神、腰羽目の彫刻は唐子遊びを主題としていて、南面から北面に向かって、春から冬への変化が植物で表現されている。

南面唐破風下の彫刻「三聖吸酸」
これは、孔子、釈迦、老子が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したものであり、「三聖吸酸さんせいきゅうさん」という中国の故事に由来しています。つまり、酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つであるという「三教一致さんきょういっち」を意味しています。
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北面唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」
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滝に落ちかけた猿を鷲が救っている図。
猿は煩悩にまつわれた人間に、鷲は歓喜天に、それぞれたとえられている。
左甚五郎の作と伝えられている。
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「吉祥天と辨天さまのすごろく」
かっては、七福神に吉祥天も入っていたそうです。
どちらが残るか、すごろくで勝負しているのでしょうか。
毘沙門天はすっかりすごろくの勝負に夢中になり、おかげていつも踏みつけられている天邪鬼が解放されてのびのびとしている。
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「小間取り遊び七人」植物は「梅」
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「竹馬遊び」植物は「桜」「蘇鉄」
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「獅子舞」
あっかんべーをしている。
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どこを見ても素晴らしい彫刻ばかり。
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私が今回飛びついたのは、桁を支えている猿。
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ガイドさんが、拝殿前に移動して教えてくれたのは、手挟み(たばさみ)にも猿が居ると(笑)
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聖天堂(本殿)の拝観が終わってから、本殿の奥に境内社があったので、それに参拝しました。
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境内社・三宝荒神社
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境内社・五社神社
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不明
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境内社・天満宮
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妻沼聖天山本殿の彫刻は、素晴らしいものでした。
これを守っている努力も素晴らしい。
ボランティアのガイドさんが説明してくださったおかげで、認識を新たにしたことが沢山あったので、有難かった。
今回の目的である、かって神社も存在していたという証も得られたので、よかった。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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