日吉大社の狛犬
20170330
所在地:滋賀県大津市坂本5−1−1
撮影日:2017年3月22日
青春18キップで旅をした際に撮影した、日吉大社の狛犬です。
本殿の回廊に置かれた狛犬は、他にも上賀茂神社、下鴨神社、春日大社などありますが、ほとんど見ることが出来ない状況です。
そのなかで、ここ日吉大社は本殿の回廊に近づけるため、間近に見ることができる貴重な場所となっています。
日吉大社については、既に記事にしています。
その記事を見る
日吉大社には、東本宮、西本宮、樹下宮、宇佐宮、白山宮と5つのお宮があり、それぞれの本殿の回廊に狛犬が居ます。
この記事で、一挙に5組の狛犬を紹介します。
【西本宮】
年代:天正14年(1586)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔はいかめしいが親しみやすい表情をしている。
・前足はたくましく、翼のような毛を持つ。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形獅子のは先端が巻き毛の太い毛が扇状に広がっていて、吽形狛犬のは真っ直ぐの太い毛が扇状に広がっている。
【東本宮】
年代:文禄4年(1595)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は丸くて、眼が中央に寄り目で、人なつこい表情をしている。
・前足はたくましく、翼のような毛を持つ。
・後足は蹲踞。
・尾は、先が丸く太い棒状の毛が扇状に広がっている。
【樹下宮】
年代:文禄4年(1595)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。
灯篭が下がっていて、灯篭が邪魔して正面からの狛犬を撮れない。辛うじて顔を撮れただけ。
右の阿形獅子



左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は四角くて、いかめしい。獅子舞の獅子にこの顔が多い。
・前足はたくましく、延びている毛の先端が巻き毛。
・後足は蹲踞。
・尾は、中央に剣状に毛がスックと立ち、そこから他の毛が枝分かれして植物状に広がっている。
【宇佐宮】
年代:慶長3年(1598)
材質:木製
型式:神殿型
本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬




特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は比較的獰猛な顔。
・前足はたくましく、延びている毛は剣のように鋭い。
・後足は蹲踞。
・尾は、扇状に広がって、背中に付いている。
【白山宮】
年代:慶長3年(1598)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子



左の吽形狛犬


特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は四角くて、いかめしい。
・前足はたくましい。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形獅子は扇状に広がって立ち、吽形狛犬は扇状に広がって背中に付いている。
彩色がほとんど剥げているのは残念だが、このように本殿の回廊に置かれた状態で、間近に見ることが出来るのはとても貴重なこと。
間近に見える位置に置かれているせいか、いずれも人なつこい姿である。
風雨にさらされているので、大変だが、いつまでも元気で居てほしい。
(了)
狛犬の記事一覧を見る
撮影日:2017年3月22日
青春18キップで旅をした際に撮影した、日吉大社の狛犬です。
本殿の回廊に置かれた狛犬は、他にも上賀茂神社、下鴨神社、春日大社などありますが、ほとんど見ることが出来ない状況です。
そのなかで、ここ日吉大社は本殿の回廊に近づけるため、間近に見ることができる貴重な場所となっています。
日吉大社については、既に記事にしています。
その記事を見る
日吉大社には、東本宮、西本宮、樹下宮、宇佐宮、白山宮と5つのお宮があり、それぞれの本殿の回廊に狛犬が居ます。
この記事で、一挙に5組の狛犬を紹介します。
【西本宮】
年代:天正14年(1586)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔はいかめしいが親しみやすい表情をしている。
・前足はたくましく、翼のような毛を持つ。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形獅子のは先端が巻き毛の太い毛が扇状に広がっていて、吽形狛犬のは真っ直ぐの太い毛が扇状に広がっている。
【東本宮】
年代:文禄4年(1595)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は丸くて、眼が中央に寄り目で、人なつこい表情をしている。
・前足はたくましく、翼のような毛を持つ。
・後足は蹲踞。
・尾は、先が丸く太い棒状の毛が扇状に広がっている。
【樹下宮】
年代:文禄4年(1595)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。
灯篭が下がっていて、灯篭が邪魔して正面からの狛犬を撮れない。辛うじて顔を撮れただけ。
右の阿形獅子



左の吽形狛犬



特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は四角くて、いかめしい。獅子舞の獅子にこの顔が多い。
・前足はたくましく、延びている毛の先端が巻き毛。
・後足は蹲踞。
・尾は、中央に剣状に毛がスックと立ち、そこから他の毛が枝分かれして植物状に広がっている。
【宇佐宮】
年代:慶長3年(1598)
材質:木製
型式:神殿型
本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子


左の吽形狛犬




特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は比較的獰猛な顔。
・前足はたくましく、延びている毛は剣のように鋭い。
・後足は蹲踞。
・尾は、扇状に広がって、背中に付いている。
【白山宮】
年代:慶長3年(1598)
材質:木製
型式:神殿型
本殿

本殿の回廊に置かれている。

右の阿形獅子



左の吽形狛犬


特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であるので獅子。
・左側が吽形、たてがみが流れているので狛犬。頭に角を備える。
・眼は玉眼、顔は四角くて、いかめしい。
・前足はたくましい。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形獅子は扇状に広がって立ち、吽形狛犬は扇状に広がって背中に付いている。
彩色がほとんど剥げているのは残念だが、このように本殿の回廊に置かれた状態で、間近に見ることが出来るのはとても貴重なこと。
間近に見える位置に置かれているせいか、いずれも人なつこい姿である。
風雨にさらされているので、大変だが、いつまでも元気で居てほしい。
(了)
狛犬の記事一覧を見る
スポンサーサイト
日吉大社(後編)
20170329
鎮座地:滋賀県大津市坂本5−1−1
参拝日:2017年3月22日
青春18キップでの京都と奈良の神社めぐりの最初に訪れたのがここですが、「前編」からの続きです。
【上七社 摂社白山姫神社】

参道

白山姫神社拝殿 重要文化財


白山姫神社本殿 重要文化財

やはり回廊に、神殿型木製狛犬が侍る。




本殿正面扉

ご祭神は、菊理姫命
神紋は、「並び杉」

白山宮境内に、四社の境内社が並ぶ。

〇下七社 末社劔宮社
ご祭神は、瓊々杵命。

〇境内社 小白山社
ご祭神は、大己貴神。


〇境内社 八坂社
ご祭神は、素佐之男神

〇境内社 北野社
ご祭神は、菅原道真公

ここから、降って東本宮に向かいます。
石段を下って、今までいた白山宮境内を見上げる。

途中の山道に、恵比須社があり。
〇日吉大社境内社 恵毘須社
ご祭神は、事代主神

境内には、鬱蒼と杉の大木が並ぶ。


向うに、東本宮の楼門が見えてきたところで、左手に八王子山(牛尾山)への登り口が見える。
登り口の両側に境内社がある。

〇境内社 三宮宮(八王子山頂の奥宮に対し、里宮)
ご祭神は、鴨玉依姫神荒魂。

〇境内社 牛尾宮(八王子山頂の奥宮に対し、里宮)
ご祭神は、大山咋神荒魂(旧称 八王子神)

神紋は「くずれ菊」。

八王子山(牛尾山)への登り口。
本当に登りたかったのだが、無念。

〇東本宮楼門 重要文化財

樹下神社と東本宮が同じ敷地にあり、楼門をくぐると、前方に東本宮の参道が延びるが、それと直角に樹下神社の参道が交わる、特異な配置になっている。

【上七社 摂社樹下神社(じゅげじんじゃ)】
摂社樹下神社拝殿 重要文化財
地味な入母屋の拝殿ですが、大きな鳥が羽ばたくような美しさを感じます。


摂社樹下神社本殿 重要文化財


回廊に、神殿型木製狛犬




本殿正面

ご祭神は、鴨玉依姫神。
賀茂建角身命と丹波国神野の神伊可古夜日売の娘。 大山咋神との間に賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を産んだ。
神紋は、「十八葉菊」

【上七社 東本宮】
東本宮拝殿 重要文化財


東本宮本殿 国宝



回廊に、神殿型木製狛犬




本殿正面

ご祭神は、大山咋神
神紋は、「二葉葵」
本殿には見つからなかったので、「二葉葵」をモチーフにした装飾を載せておく。

〇亀井霊水


〇中七社 摂社新物忌神社
ご祭神は、天知迦流水姫神。


〇摂社早雄神社・摂社大物忌神社
ご祭神:
早雄神社は須佐之男命、大物忌神社は大年神


〇境内社 稲荷社

〇下七社 末社二宮竈殿社
ご祭神は、奥津彦神・奥津姫神

〇境内社 内御子社
ご祭神は、猿田彦神

〇日吉雌梛(めなぎ)


〇日吉雄梛(おなぎ)


楼門から出て、参道を下ります。その両側に境内社があり。
〇境内社 須賀社
ご祭神は、素戔嗚神奇魂。

〇境内社 巌滝社
ご祭神は、市岐島姫神・滝津島姫神

〇猿岩


〇下七社 摂社氏神神社
ご祭神は、鴨建角身命・琴御館宇志麿

〇境内社 氏永社
ご祭神は、祝部希遠(社家先祖神)

〇境内社 八柱の神
ご祭神は、五男三女神(天照大御神と素戔嗚尊が誓約をしたときに生まれた神)

下って来た参道を振り返る。

これで、広い日吉大社の境内を駆けまわって参拝したが、ほぼ全体を廻った。
二宮橋は渡れないので、横に設けられた橋を渡る。

【重要文化財 二宮橋】



これで、広い日吉大社の参拝を終え、またJR比叡山坂本駅に戻り、京都に移動。
次の参拝地は「上賀茂社」である。
(了)
「神社巡拝」に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
参拝日:2017年3月22日
青春18キップでの京都と奈良の神社めぐりの最初に訪れたのがここですが、「前編」からの続きです。
【上七社 摂社白山姫神社】

参道

白山姫神社拝殿 重要文化財


白山姫神社本殿 重要文化財

やはり回廊に、神殿型木製狛犬が侍る。




本殿正面扉

ご祭神は、菊理姫命
神紋は、「並び杉」

白山宮境内に、四社の境内社が並ぶ。

〇下七社 末社劔宮社
ご祭神は、瓊々杵命。

〇境内社 小白山社
ご祭神は、大己貴神。


〇境内社 八坂社
ご祭神は、素佐之男神

〇境内社 北野社
ご祭神は、菅原道真公

ここから、降って東本宮に向かいます。
石段を下って、今までいた白山宮境内を見上げる。

途中の山道に、恵比須社があり。
〇日吉大社境内社 恵毘須社
ご祭神は、事代主神

境内には、鬱蒼と杉の大木が並ぶ。


向うに、東本宮の楼門が見えてきたところで、左手に八王子山(牛尾山)への登り口が見える。
登り口の両側に境内社がある。

〇境内社 三宮宮(八王子山頂の奥宮に対し、里宮)
ご祭神は、鴨玉依姫神荒魂。

〇境内社 牛尾宮(八王子山頂の奥宮に対し、里宮)
ご祭神は、大山咋神荒魂(旧称 八王子神)

神紋は「くずれ菊」。

八王子山(牛尾山)への登り口。
本当に登りたかったのだが、無念。

〇東本宮楼門 重要文化財

樹下神社と東本宮が同じ敷地にあり、楼門をくぐると、前方に東本宮の参道が延びるが、それと直角に樹下神社の参道が交わる、特異な配置になっている。

【上七社 摂社樹下神社(じゅげじんじゃ)】
摂社樹下神社拝殿 重要文化財
地味な入母屋の拝殿ですが、大きな鳥が羽ばたくような美しさを感じます。


摂社樹下神社本殿 重要文化財


回廊に、神殿型木製狛犬




本殿正面

ご祭神は、鴨玉依姫神。
賀茂建角身命と丹波国神野の神伊可古夜日売の娘。 大山咋神との間に賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を産んだ。
神紋は、「十八葉菊」

【上七社 東本宮】
東本宮拝殿 重要文化財


東本宮本殿 国宝



回廊に、神殿型木製狛犬




本殿正面

ご祭神は、大山咋神
神紋は、「二葉葵」
本殿には見つからなかったので、「二葉葵」をモチーフにした装飾を載せておく。

〇亀井霊水


〇中七社 摂社新物忌神社
ご祭神は、天知迦流水姫神。


〇摂社早雄神社・摂社大物忌神社
ご祭神:
早雄神社は須佐之男命、大物忌神社は大年神


〇境内社 稲荷社

〇下七社 末社二宮竈殿社
ご祭神は、奥津彦神・奥津姫神

〇境内社 内御子社
ご祭神は、猿田彦神

〇日吉雌梛(めなぎ)


〇日吉雄梛(おなぎ)


楼門から出て、参道を下ります。その両側に境内社があり。
〇境内社 須賀社
ご祭神は、素戔嗚神奇魂。

〇境内社 巌滝社
ご祭神は、市岐島姫神・滝津島姫神

〇猿岩


〇下七社 摂社氏神神社
ご祭神は、鴨建角身命・琴御館宇志麿

〇境内社 氏永社
ご祭神は、祝部希遠(社家先祖神)

〇境内社 八柱の神
ご祭神は、五男三女神(天照大御神と素戔嗚尊が誓約をしたときに生まれた神)

下って来た参道を振り返る。

これで、広い日吉大社の境内を駆けまわって参拝したが、ほぼ全体を廻った。
二宮橋は渡れないので、横に設けられた橋を渡る。

【重要文化財 二宮橋】



これで、広い日吉大社の参拝を終え、またJR比叡山坂本駅に戻り、京都に移動。
次の参拝地は「上賀茂社」である。
(了)
「神社巡拝」に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
日吉大社(前編)
20170327
鎮座地:滋賀県大津市坂本5−1−1
参拝日:2017年3月22日
青春18キップでの京都と奈良の神社めぐりの最初に訪れたのがここ。
JR比叡山坂本駅から歩いてきて二つ目の鳥居と社号標がある。


ここから先の両側には、比叡山の僧が高齢となり隠居所として賜った里坊が並ぶ。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
じっくりと見たいところだが、残念ながら通り過ぎる。

赤鳥居


社号標

日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定される。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。
文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に、日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
西本宮の祭神・大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。神階としては、元慶4年、西本宮の祭神が、寿永2年、東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年、二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。明治4年、官幣大社となった。昭和3年、東本宮・西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復した。
境内図

なにしろ日吉大社の境内は広く、最初から牛尾山(八王子山)山頂の磐座(金大巌)・牛尾宮・三宮宮はあきらめたので、残念だが完璧に参拝はできていない。
最初に西本宮に参拝し、東本宮に向かって順番に参拝していった。
整理して載せてはいないので、それぞれの社の山王二十一社での位置づけは、Wikipediaで参照をお願いする。
Wikipediaの「日吉大社」を見る
【中七社 摂社早尾神社】
境内入口の石段上にある。
苔むしており、すごく登り難い石段だった。


社殿

ご祭神は素盞嗚神。
残念ながら、お留守だった。

【重要文化財 大宮橋】



走井橋から眺めた大宮橋
木造橋の形式をそのまま用いている。

【重要文化財 走井橋】


走井橋そばの走井祓殿社



走井祓殿社のところの巨杉の枝がえらいことになっていた(驚)


山王鳥居が見えてきました。

〇猿塚
山王鳥居の手前に、「猿塚」と呼ばれる大きな石組がある。この写真の右側に映っているもの。
これは古墳の石室の蓋が露出したもので、境内には約70基もの古墳が確認されており、「日吉古墳群」として遺跡に指定されている。
出土品から6世紀中頃から後半と推定されるが、この古墳の穴は唐崎(日吉大社ゆかりの湖岸)まで通じていることや神様のお使いの神猿さんが年老いて自身の死期を悟ったときに、自ら猿塚の中へ入っていくという伝説があるそうです。

〇山王鳥居
私には、赤坂の日枝神社でおなじみだが、これがオリジナルのもの。
別名、合掌鳥居と云い、笠木の上の部分が合掌を意味し、神仏混合の状態をあらわす。


〇神馬舎


【神猿舎】
ちょうど係の人が掃除中でした。

猿は古くから境内で飼われており、既に室町時代の記録にも登場します。江戸時代の絵図等には「猿飼所」「猿厩」が記されている。
山王さまの神使としての猿は、「神猿(まさる)」と云われ、「魔が去る」、「勝る」に通じるとして大事にされている。
あとで覗くと、一匹いた。

西本宮楼門の前に、二つの磐座がある。
〇山王霊石「祇園石」


〇山王霊石「大威徳石」

【西本宮】
手水舎

〇楼門 重要文化財

「暮股」と呼ばれる楼門二階部分の正面にも3匹の神猿さんが、松の木の上で遊ぶように楽しげな装飾が施されている。

西本宮楼門の軒下四隅には、それぞれ違ったポーズの神猿さんがお参りに訪れる方々を見守っています。





楼門の左右には、奉納された酒樽が積まれている。

〇西本宮拝殿 重要文化財 安土桃山時代の建立

拝殿の正面に掲げられているのは、丸山応挙の高弟、長澤芦雪が描いた親子の「猿図」の絵馬。
寛政4年(1792)奉納。

西本宮本殿の正面に向かって左側の「竹臺」
伝教大師が中国の天台山から持ち帰った竹を植えたもの。

〇西本宮本殿
桁行五間・梁間三間・檜皮葺の日吉造。
織田信長の比叡山焼き打ち(1571)で焼失後、天正14年(1586)再建、慶長2年(1597)改造。
東西本宮の本殿は、日吉造という独特の構造である。

回廊には神殿型木造獅子狛犬が侍る。


正面扉

背面の屋根にのみ庇が無いのが、日吉造の特徴。

檜皮葺が厚い。

ご祭神は大己貴神(大国主神に同じ)
神紋は、「牡丹」

〇下七社 末社竈殿社
ご祭神:奥津彦神・奥津姫神

【上七社 摂社宇佐宮】
創建時から675年までは西本宮に夫とされる「大己貴神」と共に祀られていたようです。
「宇佐宮」の名は、大分県の宇佐神宮のご祭神が応神天皇、神功皇后、比売大神(宗像三女神)であることから名づけられたようです。

参道には、赤い灯篭が並ぶ。

〇宇佐宮拝殿 重要文化財


〇摂社宇佐宮本殿
西本宮本殿、東本宮本殿と同様、屋根は日吉造である。


回廊には神殿型木造獅子狛犬が侍る。




本殿正面

ご祭神は、田心姫神(たごりひめ)
宗像三神の長女(宗像大社・沖津宮に祀られている)
大国主神との間に鴨族の祖、迦毛大御神とよばれる阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)と下照姫神(したてるひめ)を生む。
神紋は「流水三つ巴」と「橘」


〇下七社 末社気比社
ご祭神は仲哀天皇

〇末社宇佐竈殿社
ご祭神:奥津彦神・奥津姫神


〇中七社 末社宇佐若宮
ご祭神は、下照姫神(宇佐宮の娘)


日吉大社(後半)の記事を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
参拝日:2017年3月22日
青春18キップでの京都と奈良の神社めぐりの最初に訪れたのがここ。
JR比叡山坂本駅から歩いてきて二つ目の鳥居と社号標がある。


ここから先の両側には、比叡山の僧が高齢となり隠居所として賜った里坊が並ぶ。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
じっくりと見たいところだが、残念ながら通り過ぎる。

赤鳥居


社号標

日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定される。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。
文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に、日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
西本宮の祭神・大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。神階としては、元慶4年、西本宮の祭神が、寿永2年、東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年、二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。明治4年、官幣大社となった。昭和3年、東本宮・西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復した。
境内図

なにしろ日吉大社の境内は広く、最初から牛尾山(八王子山)山頂の磐座(金大巌)・牛尾宮・三宮宮はあきらめたので、残念だが完璧に参拝はできていない。
最初に西本宮に参拝し、東本宮に向かって順番に参拝していった。
整理して載せてはいないので、それぞれの社の山王二十一社での位置づけは、Wikipediaで参照をお願いする。
Wikipediaの「日吉大社」を見る
【中七社 摂社早尾神社】
境内入口の石段上にある。
苔むしており、すごく登り難い石段だった。


社殿

ご祭神は素盞嗚神。
残念ながら、お留守だった。

【重要文化財 大宮橋】



走井橋から眺めた大宮橋
木造橋の形式をそのまま用いている。

【重要文化財 走井橋】


走井橋そばの走井祓殿社



走井祓殿社のところの巨杉の枝がえらいことになっていた(驚)


山王鳥居が見えてきました。

〇猿塚
山王鳥居の手前に、「猿塚」と呼ばれる大きな石組がある。この写真の右側に映っているもの。
これは古墳の石室の蓋が露出したもので、境内には約70基もの古墳が確認されており、「日吉古墳群」として遺跡に指定されている。
出土品から6世紀中頃から後半と推定されるが、この古墳の穴は唐崎(日吉大社ゆかりの湖岸)まで通じていることや神様のお使いの神猿さんが年老いて自身の死期を悟ったときに、自ら猿塚の中へ入っていくという伝説があるそうです。

〇山王鳥居
私には、赤坂の日枝神社でおなじみだが、これがオリジナルのもの。
別名、合掌鳥居と云い、笠木の上の部分が合掌を意味し、神仏混合の状態をあらわす。


〇神馬舎


【神猿舎】
ちょうど係の人が掃除中でした。

猿は古くから境内で飼われており、既に室町時代の記録にも登場します。江戸時代の絵図等には「猿飼所」「猿厩」が記されている。
山王さまの神使としての猿は、「神猿(まさる)」と云われ、「魔が去る」、「勝る」に通じるとして大事にされている。
あとで覗くと、一匹いた。

西本宮楼門の前に、二つの磐座がある。
〇山王霊石「祇園石」


〇山王霊石「大威徳石」

【西本宮】
手水舎

〇楼門 重要文化財

「暮股」と呼ばれる楼門二階部分の正面にも3匹の神猿さんが、松の木の上で遊ぶように楽しげな装飾が施されている。

西本宮楼門の軒下四隅には、それぞれ違ったポーズの神猿さんがお参りに訪れる方々を見守っています。





楼門の左右には、奉納された酒樽が積まれている。

〇西本宮拝殿 重要文化財 安土桃山時代の建立

拝殿の正面に掲げられているのは、丸山応挙の高弟、長澤芦雪が描いた親子の「猿図」の絵馬。
寛政4年(1792)奉納。

西本宮本殿の正面に向かって左側の「竹臺」
伝教大師が中国の天台山から持ち帰った竹を植えたもの。

〇西本宮本殿
桁行五間・梁間三間・檜皮葺の日吉造。
織田信長の比叡山焼き打ち(1571)で焼失後、天正14年(1586)再建、慶長2年(1597)改造。
東西本宮の本殿は、日吉造という独特の構造である。

回廊には神殿型木造獅子狛犬が侍る。


正面扉

背面の屋根にのみ庇が無いのが、日吉造の特徴。

檜皮葺が厚い。

ご祭神は大己貴神(大国主神に同じ)
神紋は、「牡丹」

〇下七社 末社竈殿社
ご祭神:奥津彦神・奥津姫神

【上七社 摂社宇佐宮】
創建時から675年までは西本宮に夫とされる「大己貴神」と共に祀られていたようです。
「宇佐宮」の名は、大分県の宇佐神宮のご祭神が応神天皇、神功皇后、比売大神(宗像三女神)であることから名づけられたようです。

参道には、赤い灯篭が並ぶ。

〇宇佐宮拝殿 重要文化財


〇摂社宇佐宮本殿
西本宮本殿、東本宮本殿と同様、屋根は日吉造である。


回廊には神殿型木造獅子狛犬が侍る。




本殿正面

ご祭神は、田心姫神(たごりひめ)
宗像三神の長女(宗像大社・沖津宮に祀られている)
大国主神との間に鴨族の祖、迦毛大御神とよばれる阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)と下照姫神(したてるひめ)を生む。
神紋は「流水三つ巴」と「橘」


〇下七社 末社気比社
ご祭神は仲哀天皇

〇末社宇佐竈殿社
ご祭神:奥津彦神・奥津姫神


〇中七社 末社宇佐若宮
ご祭神は、下照姫神(宇佐宮の娘)


日吉大社(後半)の記事を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
大山咋神(おおやまくいのかみ)/日本の神々の話
20170326
記紀神話に登場する神。
別名は、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。
日吉大社、赤坂日枝神社、根津神社、栃木県・村檜神社の祭神、狭山市・峰の愛宕神社の祭神。
須佐之男命と神大市比売との間には、宇迦御魂神(稲荷神社の祭神)と大年神が生まれる。その大年神と天知迦流美豆比売(アメノチカルミヅヒメ)との間に生まれたのが大山咋神です。
須佐之男命の孫ということになります。
『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。
なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある。
「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、共通点が多いことが指摘されている。特に、古墳群については、それらの古墳の埋葬者の勢力範囲と、大山咋神の神域とされる範囲の一致する可能性が指摘されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、最澄によって、天台宗および延暦寺の結界を守る守護神ともされた。
名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。
大山咋神の別名山王(さんのう)は中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったものである。なお、比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されている。
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。 太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
『古事記』で「葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。」と書かれていますが、これは京都の松尾大社のことで、渡来人の秦氏の氏神でした。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神(大山咋神)は酒造の神としても信仰されている。
日本の神々記事一覧に飛ぶ
別名は、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。
日吉大社、赤坂日枝神社、根津神社、栃木県・村檜神社の祭神、狭山市・峰の愛宕神社の祭神。
須佐之男命と神大市比売との間には、宇迦御魂神(稲荷神社の祭神)と大年神が生まれる。その大年神と天知迦流美豆比売(アメノチカルミヅヒメ)との間に生まれたのが大山咋神です。
須佐之男命の孫ということになります。
『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。
なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある。
「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、共通点が多いことが指摘されている。特に、古墳群については、それらの古墳の埋葬者の勢力範囲と、大山咋神の神域とされる範囲の一致する可能性が指摘されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、最澄によって、天台宗および延暦寺の結界を守る守護神ともされた。
名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。
大山咋神の別名山王(さんのう)は中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったものである。なお、比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されている。
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。 太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
『古事記』で「葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。」と書かれていますが、これは京都の松尾大社のことで、渡来人の秦氏の氏神でした。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神(大山咋神)は酒造の神としても信仰されている。
日本の神々記事一覧に飛ぶ
青春18キップの旅・2017春
20170325
今年も「青春18キップの旅」を楽しむことにして、21日の夜行で出発して、24日の夜帰ってきました。
廻ってきたのは、京都、奈良です。
テーマとしては、まず「全国一之宮めぐり」など神社めぐり。
それから武蔵国に出雲系の神社が多いことから、出雲系に関心が深くなっているので、京都と奈良に残っている出雲族の痕跡を訪ねました。
行程:
3月21日 23:10発「ムーンライトながら」乗車
【1日目・3月22日(水)】
「ムーンライトながら」大垣5:51着
大垣5:53⇒東海道本線米原行き⇒米原6:31 6:49⇒東海道本線新快速姫路行き⇒山科7:44 8:01⇒湖西線近江舞子行き⇒比叡山坂本駅8:12⇒徒歩20分⇒日吉大社(8:30~10:10)⇒比叡山坂本駅10:44⇒湖西線⇒京都駅10:58⇒ 昼食 ⇒京都駅⇒地下鉄北山駅⇒徒歩15分⇒太田神社⇒上賀茂神社(12:20~13:20)⇒市バス⇒地下鉄北山駅⇒地下鉄今出川駅⇒徒歩⇒出雲路幸神社⇒鴨川デルタ⇒河合神社⇒糺の森⇒下鴨神社⇒出雲路橋、御霊神社、出雲寺、出雲路神楽町⇒市バス⇒京都駅
京都駅18:36⇒JR奈良線⇒奈良19:27
※宿泊:奈良
【2日目・3月23日(木)】
JR奈良8:00⇒桜井線⇒三輪8:25⇒大鳥居⇒素佐男神社⇒大神神社⇒山の辺の道⇒狭井神社・市杵嶋姫神社⇒山の辺の道⇒出雲屋敷⇒桧原神社⇒山の辺の道戻り⇒久延彦神社⇒大直彌子神社⇒三輪駅14:03⇒巻向駅14:06⇒垂仁天皇巻向珠城宮跡⇒山の辺の道⇒珠城山古墳⇒景行天皇日代宮跡⇒相撲神社⇒穴師座兵主神社⇒山の辺の道戻り⇒箸墓古墳⇒巻向駅17:29⇒桜井線⇒奈良駅17:53
※宿泊:奈良
【3日目・3月24日(金)】
ホテル6:00⇒徒歩20分⇒氷室神社⇒東大寺南大門(狛犬)⇒市バス⇒JR奈良駅⇒ホテル⇒朝食
JR奈良駅8:53⇒関西本線快速・加茂行き⇒加茂9:09 9:36⇒関西本線亀山行き⇒亀山11:03 11:24⇒関西本線快速名古屋行き⇒名古屋駅12:34 (昼食) 13:17⇒東海道本線新快速豊橋行き⇒豊橋14:10 14:24⇒東海道本線浜松行き⇒浜松14:57 15:10⇒東海道本線熱海行き⇒熱海17:43 (夕食) 18:35⇒東海道本線普通宇都宮行き⇒戸塚20:13⇒湘南新宿ライン⇒新宿21:00着
21日の夜、「ムーンライトながら」に乗り込みました。
「ムーンライトながら」は、青春18キップの運用期間に特化して運行されています。
普通快速列車、全車指定席、リクライニングシート仕様。
東京駅を23:10に出発、日が替わって最初の停車駅小田原通過時点で車掌さんが回ってきて日付スタンプを押してくれます。
大垣に5:51に着くので、関西に旅する場合はとても便利です。
ムーンライトながら



シート

アイマスクをして、寝ようと努力しますが、あまり寝られません(汗)
ただ、初めて乗った昨年は次の日に影響するんじゃないかと焦りましたが、昨年大丈夫だった経験から、今回はあまり焦らず過ごせたのはよかった。
大垣では、ほとんど待ち時間が無いので半分走って米原行きに乗りこみます。
幸い座れて、列車が走り出すと、隣の方が話しかけてきた。
なんと、同じ埼玉県の大宮の人だった。
同じ年配の感じだったが、青春18キップは6年目と云っていた。
城めぐりをしているということで、米原までのあいだ話が盛り上がった。
けっこう厳しい計画を立てたが、いままでの経験から神社の大小で費やす時間はだいたいわかっているので、問題が発生しなければ、回れるだろうと計画を立てた。
初日が、一番身体がしんどかった。
最初の夜は、両脚が同時に攣ったほど(苦笑)
結果的には、計画したところには全部行くことができ、途中で思わぬ拾いものがあり、計画以上の収穫があった。
奈良でのコース設定は、結果的に失敗だった。
参拝したい神社をリストし、三輪駅と巻向駅との位置関係で、グーグルマップで行程を決めた。
そしたらその道のかなりの部分が「山の辺の道」だったのだ。
桧原神社で、それは感じたが三輪駅に戻ることを前提に二つ行きたい神社が残っていたので、それを消化して三輪駅に戻った。
そして巻向駅から歩き出して10分くらいで、「山の辺の道」となり穴師座兵主神社まで「山の辺の道」沿いだった。
せっかくだからと、「山の辺の道」を調べていれば、もっと効率的に回れた。
逆に、今回歩いた部分の「山の辺の道」は往復したので、とても記憶には残ったのはよかった。
今回、最近力を入れている狛犬については、貴重なものを沢山見ることが出来たので、とても嬉しい。
大ポカをした。
箸墓古墳を見終わり、巻向駅に戻ってやれやれ一日終わったとカメラをカメラケースに入れようとしたら、無い!!??
カメラを収納するリュックのポケットのチャックが開いている。
箸墓古墳の周りを一周する途中でバッテリーを交換したが、そこでミスったのだ。
前日、一日京都を歩き回った写真のメモリーもカメラケースの中だ(泣)
これが無かったら、京都をあんなに疲れて歩き回ったのが無駄になってしまう(泣)
もう半泣きで、疲れ切っているので走ることも出来ず、可能な限りの速足で現場に戻った。
バッテリーを交換したところから50mくらいのところ、遊歩道の真ん中に落ちていた。
恐る恐る中を見たら、メモリーケースには異常なし(嬉)
その場に座り込んで、しばらく呆然としていた。
誰かに拾われなくてよかった!!!
ポカした現場から歩いて10分という近くの場所で気が付いて良かった!!!
電車に乗る前にカメラをしまおうとして良かった!!!
考えてみれば、一番大事とも云える使用済のメモリーは、リュックの内ポケットの最も安全な場所に収納しておくべきだったのだ。
今でも、それを思うと冷汗が出る。
訪ねたところは、個別にこれからアップしていきます。
三日分使用した、青春18キップ

残った二日分で、カミさんと桜見物に行くことにしています。
(了)
「お気に入りの場所」を見る
廻ってきたのは、京都、奈良です。
テーマとしては、まず「全国一之宮めぐり」など神社めぐり。
それから武蔵国に出雲系の神社が多いことから、出雲系に関心が深くなっているので、京都と奈良に残っている出雲族の痕跡を訪ねました。
行程:
3月21日 23:10発「ムーンライトながら」乗車
【1日目・3月22日(水)】
「ムーンライトながら」大垣5:51着
大垣5:53⇒東海道本線米原行き⇒米原6:31 6:49⇒東海道本線新快速姫路行き⇒山科7:44 8:01⇒湖西線近江舞子行き⇒比叡山坂本駅8:12⇒徒歩20分⇒日吉大社(8:30~10:10)⇒比叡山坂本駅10:44⇒湖西線⇒京都駅10:58⇒ 昼食 ⇒京都駅⇒地下鉄北山駅⇒徒歩15分⇒太田神社⇒上賀茂神社(12:20~13:20)⇒市バス⇒地下鉄北山駅⇒地下鉄今出川駅⇒徒歩⇒出雲路幸神社⇒鴨川デルタ⇒河合神社⇒糺の森⇒下鴨神社⇒出雲路橋、御霊神社、出雲寺、出雲路神楽町⇒市バス⇒京都駅
京都駅18:36⇒JR奈良線⇒奈良19:27
※宿泊:奈良
【2日目・3月23日(木)】
JR奈良8:00⇒桜井線⇒三輪8:25⇒大鳥居⇒素佐男神社⇒大神神社⇒山の辺の道⇒狭井神社・市杵嶋姫神社⇒山の辺の道⇒出雲屋敷⇒桧原神社⇒山の辺の道戻り⇒久延彦神社⇒大直彌子神社⇒三輪駅14:03⇒巻向駅14:06⇒垂仁天皇巻向珠城宮跡⇒山の辺の道⇒珠城山古墳⇒景行天皇日代宮跡⇒相撲神社⇒穴師座兵主神社⇒山の辺の道戻り⇒箸墓古墳⇒巻向駅17:29⇒桜井線⇒奈良駅17:53
※宿泊:奈良
【3日目・3月24日(金)】
ホテル6:00⇒徒歩20分⇒氷室神社⇒東大寺南大門(狛犬)⇒市バス⇒JR奈良駅⇒ホテル⇒朝食
JR奈良駅8:53⇒関西本線快速・加茂行き⇒加茂9:09 9:36⇒関西本線亀山行き⇒亀山11:03 11:24⇒関西本線快速名古屋行き⇒名古屋駅12:34 (昼食) 13:17⇒東海道本線新快速豊橋行き⇒豊橋14:10 14:24⇒東海道本線浜松行き⇒浜松14:57 15:10⇒東海道本線熱海行き⇒熱海17:43 (夕食) 18:35⇒東海道本線普通宇都宮行き⇒戸塚20:13⇒湘南新宿ライン⇒新宿21:00着
21日の夜、「ムーンライトながら」に乗り込みました。
「ムーンライトながら」は、青春18キップの運用期間に特化して運行されています。
普通快速列車、全車指定席、リクライニングシート仕様。
東京駅を23:10に出発、日が替わって最初の停車駅小田原通過時点で車掌さんが回ってきて日付スタンプを押してくれます。
大垣に5:51に着くので、関西に旅する場合はとても便利です。
ムーンライトながら



シート

アイマスクをして、寝ようと努力しますが、あまり寝られません(汗)
ただ、初めて乗った昨年は次の日に影響するんじゃないかと焦りましたが、昨年大丈夫だった経験から、今回はあまり焦らず過ごせたのはよかった。
大垣では、ほとんど待ち時間が無いので半分走って米原行きに乗りこみます。
幸い座れて、列車が走り出すと、隣の方が話しかけてきた。
なんと、同じ埼玉県の大宮の人だった。
同じ年配の感じだったが、青春18キップは6年目と云っていた。
城めぐりをしているということで、米原までのあいだ話が盛り上がった。
けっこう厳しい計画を立てたが、いままでの経験から神社の大小で費やす時間はだいたいわかっているので、問題が発生しなければ、回れるだろうと計画を立てた。
初日が、一番身体がしんどかった。
最初の夜は、両脚が同時に攣ったほど(苦笑)
結果的には、計画したところには全部行くことができ、途中で思わぬ拾いものがあり、計画以上の収穫があった。
奈良でのコース設定は、結果的に失敗だった。
参拝したい神社をリストし、三輪駅と巻向駅との位置関係で、グーグルマップで行程を決めた。
そしたらその道のかなりの部分が「山の辺の道」だったのだ。
桧原神社で、それは感じたが三輪駅に戻ることを前提に二つ行きたい神社が残っていたので、それを消化して三輪駅に戻った。
そして巻向駅から歩き出して10分くらいで、「山の辺の道」となり穴師座兵主神社まで「山の辺の道」沿いだった。
せっかくだからと、「山の辺の道」を調べていれば、もっと効率的に回れた。
逆に、今回歩いた部分の「山の辺の道」は往復したので、とても記憶には残ったのはよかった。
今回、最近力を入れている狛犬については、貴重なものを沢山見ることが出来たので、とても嬉しい。
大ポカをした。
箸墓古墳を見終わり、巻向駅に戻ってやれやれ一日終わったとカメラをカメラケースに入れようとしたら、無い!!??
カメラを収納するリュックのポケットのチャックが開いている。
箸墓古墳の周りを一周する途中でバッテリーを交換したが、そこでミスったのだ。
前日、一日京都を歩き回った写真のメモリーもカメラケースの中だ(泣)
これが無かったら、京都をあんなに疲れて歩き回ったのが無駄になってしまう(泣)
もう半泣きで、疲れ切っているので走ることも出来ず、可能な限りの速足で現場に戻った。
バッテリーを交換したところから50mくらいのところ、遊歩道の真ん中に落ちていた。
恐る恐る中を見たら、メモリーケースには異常なし(嬉)
その場に座り込んで、しばらく呆然としていた。
誰かに拾われなくてよかった!!!
ポカした現場から歩いて10分という近くの場所で気が付いて良かった!!!
電車に乗る前にカメラをしまおうとして良かった!!!
考えてみれば、一番大事とも云える使用済のメモリーは、リュックの内ポケットの最も安全な場所に収納しておくべきだったのだ。
今でも、それを思うと冷汗が出る。
訪ねたところは、個別にこれからアップしていきます。
三日分使用した、青春18キップ

残った二日分で、カミさんと桜見物に行くことにしています。
(了)
「お気に入りの場所」を見る
手子(てこ)神社/神奈川県横浜市金沢区
20170321
鎮座地:神奈川県横浜市金沢区釜利谷南1丁目1−8
参拝日:2017年2月22日
娘が、2月から金沢文庫駅近くに住むようになり、行く機会が増えた。
ちょっと空き時間があり、地図を見ていて気になる名前の神社が近くにあったので、参拝してみた。
鳥居


由緒書き

社伝によると、文明55年(1473)、当時の釜利谷の領主伊丹左京亮(いたみさきょうのすけ)が、瀬戸神社の分霊を勧請したのが起源で、創建当初は宮ヶ谷にあったが、延宝7年(1679)伊丹左京亮の末裔・江戸浅草寺の智楽院忠運権僧正(ちらくいんちゅううんごんそうじょう)が、現在地に再建して以来、釜利谷郷総鎮守として信仰を集めていると伝えられている。
ちなみに、「瀬戸神社」は、同じく横浜市金沢区瀬戸にある神社で、源頼朝が伊豆三島明神を勧請して治承4年(1180)に創祀したといいます。
瀬戸神社のご祭神は、速須佐之男命、菅原朝臣道真公である。
ところが、手子神社のご祭神は大山祇命である。
どのようにしてご祭神が変化したのかは、不明。
手水舎

社殿に上がる石段の上り口に、年号不明だが由緒ありげな石灯篭があり。


社殿に上がる石段

石段を上がると、左右に千尋の谷から這い上がる子とじっと待つ親の獅子山がある。
慶應3年(1867)造立のもの。


現在の社殿は関東大震災後に再建したもの。



向拝部の彫刻が良い。
中央には、琴をひく弁天様(?)と龍、鳳凰。

向拝柱の梁には龍、木鼻には獅子、肘木には神亀が。


社額

海老虹梁の彫刻も良い。

手挟みに神亀の彫刻が。


手挟みの肘木と手挟みの内側の鳥の彫刻。

本殿

ご祭神は、大山祇命
境内社「竹生島弁財天」

古くより金沢八景の一つ「小泉の夜雨」の勝景の中心として神社の東側にあったのですが、昭和15年海軍の施設建設により現在地の神社内に移建し遷祀されたもの。
社号碑

社号碑に「金澤八景勝地小泉夜の雨」とあり。

元禄7年金沢の地に立ち寄った中国僧、心越禅師(しんえつぜんし)は、能見堂(今の能見台)からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりと絶賛。このことから金沢八景と名付けられました。幕末の浮世絵師、歌川広重が描いた絶景。

小泉は、横浜市金沢区釜利谷にある手子神社の東側を中心とした場所で、現在では区画整理などで当時の風景は失われている。本図では、右手に斜面が見え、左手に海が望めるが、平潟湾などの海岸までは数kmの距離があり、名称の地と作図された地では誤差があると考えられる。図内で斜線で描かれている雨は、広重の作品ではよく登場し、作品ごとに雨線の太さや角度などが微妙に違い、表現の工夫が感じられる。
かつては宮川流域の海抜の低い場所まで平潟湾が入り込んでいたであろうから、小泉の瀟湘の松であれ小泉のこの地であれ、弁財天を祀るには相応しい海に近い場所であったからであろう。
竹生島弁財天は洞穴の中に祀られている。


弁財天のご神体は「宇賀神(うがじん)」であった。

宇賀神(うがじん)は、日本で中世以降信仰された神。
神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない。
仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。
宇賀弁才天への信仰は、延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった。
神社の下、宮川沿いに大きなケヤキの木があり。


そして、神社下(宮下橋から宮川橋の間)の宮川沿いに13基の庚申塔や馬頭観世音、青面金剛などが一列に並んでおり、かつての街道沿いであることを示している。

その中から、私が普段特に注意している庚申塔を挙げておく。
宝暦6年(1756)造立の、三眼合掌型青面金剛庚申塔。

この庚申塔の注目すべきは、通常青面金剛に踏みつけられているはずの邪鬼が足元に這い蹲っていることである。
これは初めて見た。

元禄5年(1692)造立の、三眼合掌型青面金剛庚申塔。

享保2年(1717)造立の、合掌型青面金剛庚申塔。

(了)
「神社巡拝」に飛ぶ
参拝日:2017年2月22日
娘が、2月から金沢文庫駅近くに住むようになり、行く機会が増えた。
ちょっと空き時間があり、地図を見ていて気になる名前の神社が近くにあったので、参拝してみた。
鳥居


由緒書き

社伝によると、文明55年(1473)、当時の釜利谷の領主伊丹左京亮(いたみさきょうのすけ)が、瀬戸神社の分霊を勧請したのが起源で、創建当初は宮ヶ谷にあったが、延宝7年(1679)伊丹左京亮の末裔・江戸浅草寺の智楽院忠運権僧正(ちらくいんちゅううんごんそうじょう)が、現在地に再建して以来、釜利谷郷総鎮守として信仰を集めていると伝えられている。
ちなみに、「瀬戸神社」は、同じく横浜市金沢区瀬戸にある神社で、源頼朝が伊豆三島明神を勧請して治承4年(1180)に創祀したといいます。
瀬戸神社のご祭神は、速須佐之男命、菅原朝臣道真公である。
ところが、手子神社のご祭神は大山祇命である。
どのようにしてご祭神が変化したのかは、不明。
手水舎

社殿に上がる石段の上り口に、年号不明だが由緒ありげな石灯篭があり。


社殿に上がる石段

石段を上がると、左右に千尋の谷から這い上がる子とじっと待つ親の獅子山がある。
慶應3年(1867)造立のもの。


現在の社殿は関東大震災後に再建したもの。



向拝部の彫刻が良い。
中央には、琴をひく弁天様(?)と龍、鳳凰。

向拝柱の梁には龍、木鼻には獅子、肘木には神亀が。


社額

海老虹梁の彫刻も良い。

手挟みに神亀の彫刻が。


手挟みの肘木と手挟みの内側の鳥の彫刻。

本殿

ご祭神は、大山祇命
境内社「竹生島弁財天」

古くより金沢八景の一つ「小泉の夜雨」の勝景の中心として神社の東側にあったのですが、昭和15年海軍の施設建設により現在地の神社内に移建し遷祀されたもの。
社号碑

社号碑に「金澤八景勝地小泉夜の雨」とあり。

元禄7年金沢の地に立ち寄った中国僧、心越禅師(しんえつぜんし)は、能見堂(今の能見台)からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりと絶賛。このことから金沢八景と名付けられました。幕末の浮世絵師、歌川広重が描いた絶景。

小泉は、横浜市金沢区釜利谷にある手子神社の東側を中心とした場所で、現在では区画整理などで当時の風景は失われている。本図では、右手に斜面が見え、左手に海が望めるが、平潟湾などの海岸までは数kmの距離があり、名称の地と作図された地では誤差があると考えられる。図内で斜線で描かれている雨は、広重の作品ではよく登場し、作品ごとに雨線の太さや角度などが微妙に違い、表現の工夫が感じられる。
かつては宮川流域の海抜の低い場所まで平潟湾が入り込んでいたであろうから、小泉の瀟湘の松であれ小泉のこの地であれ、弁財天を祀るには相応しい海に近い場所であったからであろう。
竹生島弁財天は洞穴の中に祀られている。


弁財天のご神体は「宇賀神(うがじん)」であった。

宇賀神(うがじん)は、日本で中世以降信仰された神。
神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない。
仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。
宇賀弁才天への信仰は、延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった。
神社の下、宮川沿いに大きなケヤキの木があり。


そして、神社下(宮下橋から宮川橋の間)の宮川沿いに13基の庚申塔や馬頭観世音、青面金剛などが一列に並んでおり、かつての街道沿いであることを示している。

その中から、私が普段特に注意している庚申塔を挙げておく。
宝暦6年(1756)造立の、三眼合掌型青面金剛庚申塔。

この庚申塔の注目すべきは、通常青面金剛に踏みつけられているはずの邪鬼が足元に這い蹲っていることである。
これは初めて見た。

元禄5年(1692)造立の、三眼合掌型青面金剛庚申塔。

享保2年(1717)造立の、合掌型青面金剛庚申塔。

(了)
「神社巡拝」に飛ぶ
50万アクセスありがとうございます
20170319
先ほどアクセスしましたら、カウントが「500016」でした。
長くやっているので、いずれは到達する数字ですが、切りのいい数字のたびに、感謝の気持ちになります。
最近は、歴史に特化した感じになっているので、そんなに読んでもらえるブログとは申せません。
しかもマイペースもいいとこなので(笑)
これからも、無理せず、のんびりとマイペースでやっていきます。
今後ともよろしくお願いします。
長くやっているので、いずれは到達する数字ですが、切りのいい数字のたびに、感謝の気持ちになります。
最近は、歴史に特化した感じになっているので、そんなに読んでもらえるブログとは申せません。
しかもマイペースもいいとこなので(笑)
これからも、無理せず、のんびりとマイペースでやっていきます。
今後ともよろしくお願いします。
高尾山火渡り祭
20170316
3月12日に行われた高尾山火渡り祭を、歴史クラブ行事として催行されたので、参加しました。
京王線高尾山口駅に11時半ころ到着、それから12時半まで自由行動ということで、まずは昼食。
幸い参加者全員が入れたお蕎麦屋さんがあり、そこでお蕎麦を食べたあと、門前市をぶらぶらしました。
不動院をのぞくと、修験道行者の方が集まっており、梵天札の差さった御輿も置かれていた。
修験道では御幣や幣束のようなものを梵天と呼びます。
山伏が梵天札の差さった御輿を担ぎ燃えさかる炎のまわりを、御加持して歩き、信徒の厄災を除き、1年間の家庭の安全を祈念してくださる。
特に火伏(ひぶせ)の御札として、火を扱う所にお祀りします。


時間少し前に会場に行くと、既に沢山の人が集まっていました。

参加者の中で、火渡り希望の人はさっそく列に並びました。
修験道には、山伏修行、水行、火行などがあるが、
火行は、毎年3月第2日曜日におこなわれる火渡り祭が火行の代表的修行である。
高尾山麓の祈祷殿前の広場でおこなわれる柴燈護摩(さいとうごま)奉修の後、残り火の上を素足で歩く「火生三昧(かしょうざんまい)」の荒行が、最大の火行として知られる。
柴燈護摩とは、修験道において野外で修される護摩修行のこと。
護摩とは、密教の代表的な修法の一つで、密教では火は如来の真実の智恵の標示であるとして、火中に投ずる供物を人間のさまざまな煩悩になぞらえ、これを焼き浄めて悟りを得ることを目的としている。
梵天が入場し、飯綱大権現の前に置かれます。


大導師入場。入り口を固めた山伏との問答があり、付添の僧が菅笠で地面を払いながら先導していきます。

吹奏貝が吹かれ、行者の祈祷が行われる。
吹奏貝はアジア・アフリカ・アメリカなどで広く用いられ、中国の敦煌(とんこう)の壁画中にも見られるという。
日本では平安時代以降に修験者・山伏の峰入修行や法会(ほうえ)の場の法具の一つとされた。
平安末期に後白河法皇によって集成された梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に〈山伏の腰につけたる法螺貝の〉とあり、
先達は出寺・入宿・案内・応答などに法螺貝を吹き分けて、山伏の集団行動や日常の集団生活の合図とした。
法螺貝の音は悪魔や猛獣を恐れさせる呪力があると信じられ、山伏は法要の前や途中で法螺貝を吹く。
火打石で会場が浄められる。
斧、刀、弓でお払いがあります。
《秘密神力の斧にて一切の煩悩の賊を切り払う。》 いかにも力がありそうな弁慶のような斧先達(おのせんだつ)が渾身の力を込めて斧を打ち下ろす姿は、迫力満点です。

続いて刀でのお祓い。

《神力加持の法弓を持って生死の悪魔を破る。》 法弓先達が呪文を唱えながら道場の四隅から矢を放つ。弓を持つ左手は手っ甲をして手首に珠数を巻いています。

大導師が祭文を読み上げる。

いよいよ点火です。点火先達が祭壇前の浄火を点した松明から採火し、法螺貝が一斉に鳴り響く中、護摩壇の中央部に火がつけられます。

志納された「お壇木」が並べられます。

盛んに煙が上がり始める。

「梵天札」を差した御神輿を担ぎ、火が立ち上り始めた護摩壇を廻って火にあてます。
この後梵天札は道場の外に据えられ、祭神の加護を受けた魔除けの護符として信者や一般客に有償で分け与えられます。
この日この会場でだけ発行される「火伏せ」のお守りです。

火は燃え盛ります。



風向きによっては、火にあぶられて逃げ出す人も。

火は、ますます燃え盛る。


頃合いを見て、水をかけていく。



行者の人達の、ほら貝と真言が響き渡ります。


火を崩しはじめる。


それまで、斜面の高いところから望遠で撮っていたが、人垣もだいぶバラけてきたので、近くに寄って撮りはじめた。


燃え尽きるように、熊手でならしたり、大変です。

火渡りの準備ができ、大導師が場所を移動して、火渡りを待ちかまえます。

行者の人たちが、火渡りのために、はだしになります。


《火生三昧(かしょうざんまい)の功徳(くどく)》
いよいよメインイベントの火生三昧といわれる山伏の火渡り(ひわたり)がはじまります。
山伏がこの行をおこなうのは、激しい不動信仰(煩悩を焼き尽くす不動明王を尊ぶ信仰)による菩提心(ぼだいしん)を表すためという。塩をまいたあと、先達が巻物を読み上げた。
1 火生: 不動明王が三昧に入って身から火焔を出し、その火で悪魔を焼滅すること。
2 三昧: 心が統一され、安定した状態。
3 菩提心: 悟りを求め仏道を行おうとする心。密教で、悟りの根源的な心。
《大菩提心を振い起こして火中に入り、自他一切の成仏を願う。》
出発位置は、南にある二ヵ所の門で、紅白のテープが巻かれた2本の棒の間に、筵(むしろ)に盛られた塩が置いてある。
先達が塩が盛られた八方を持ち、先頭に立つ。渡火先達は一番大変な役である。
渡火先達が出発ゲートの塩を踏んだ後、前に進み、まだ煙と炎がくすぶる中を塩をまきながら渡火を始めた。

行者が次々に渡っていきます。



火渡りのあと、薬王院の大導師から祝福を受けます。

まだまだ、渡っていきます。
《大智火にふれることに依り一切の罪障を焼き滅ぼす。》
山伏の渡火のあと参詣信徒一同の渡火が始まった。最初は白装束に身を固めた男女の信者たちである。
腰に手を当てて歩く者、合掌して歩く人など、様々である。


道場に入場を許されているのが白装束の信徒ですが、白装束の背中に南無大師遍照金剛・同行二人の文字とかがみえる。遍路装束のようであり、大師信仰と修験道が融合しています。
一般の信者や火行希望者の渡火がはじまった。
行者さんたちも応援します。





火渡りのあと、薬王院の大導師から祝福を受けます。



会場で梵天札が授与されます。

いただいてきた「梵天札」です。


(了)
歴史クラブ行事一覧に飛ぶ
「お気に入りの場所」を見る
京王線高尾山口駅に11時半ころ到着、それから12時半まで自由行動ということで、まずは昼食。
幸い参加者全員が入れたお蕎麦屋さんがあり、そこでお蕎麦を食べたあと、門前市をぶらぶらしました。
不動院をのぞくと、修験道行者の方が集まっており、梵天札の差さった御輿も置かれていた。
修験道では御幣や幣束のようなものを梵天と呼びます。
山伏が梵天札の差さった御輿を担ぎ燃えさかる炎のまわりを、御加持して歩き、信徒の厄災を除き、1年間の家庭の安全を祈念してくださる。
特に火伏(ひぶせ)の御札として、火を扱う所にお祀りします。


時間少し前に会場に行くと、既に沢山の人が集まっていました。

参加者の中で、火渡り希望の人はさっそく列に並びました。
修験道には、山伏修行、水行、火行などがあるが、
火行は、毎年3月第2日曜日におこなわれる火渡り祭が火行の代表的修行である。
高尾山麓の祈祷殿前の広場でおこなわれる柴燈護摩(さいとうごま)奉修の後、残り火の上を素足で歩く「火生三昧(かしょうざんまい)」の荒行が、最大の火行として知られる。
柴燈護摩とは、修験道において野外で修される護摩修行のこと。
護摩とは、密教の代表的な修法の一つで、密教では火は如来の真実の智恵の標示であるとして、火中に投ずる供物を人間のさまざまな煩悩になぞらえ、これを焼き浄めて悟りを得ることを目的としている。
梵天が入場し、飯綱大権現の前に置かれます。


大導師入場。入り口を固めた山伏との問答があり、付添の僧が菅笠で地面を払いながら先導していきます。

吹奏貝が吹かれ、行者の祈祷が行われる。
吹奏貝はアジア・アフリカ・アメリカなどで広く用いられ、中国の敦煌(とんこう)の壁画中にも見られるという。
日本では平安時代以降に修験者・山伏の峰入修行や法会(ほうえ)の場の法具の一つとされた。
平安末期に後白河法皇によって集成された梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に〈山伏の腰につけたる法螺貝の〉とあり、
先達は出寺・入宿・案内・応答などに法螺貝を吹き分けて、山伏の集団行動や日常の集団生活の合図とした。
法螺貝の音は悪魔や猛獣を恐れさせる呪力があると信じられ、山伏は法要の前や途中で法螺貝を吹く。
火打石で会場が浄められる。
斧、刀、弓でお払いがあります。
《秘密神力の斧にて一切の煩悩の賊を切り払う。》 いかにも力がありそうな弁慶のような斧先達(おのせんだつ)が渾身の力を込めて斧を打ち下ろす姿は、迫力満点です。

続いて刀でのお祓い。

《神力加持の法弓を持って生死の悪魔を破る。》 法弓先達が呪文を唱えながら道場の四隅から矢を放つ。弓を持つ左手は手っ甲をして手首に珠数を巻いています。

大導師が祭文を読み上げる。

いよいよ点火です。点火先達が祭壇前の浄火を点した松明から採火し、法螺貝が一斉に鳴り響く中、護摩壇の中央部に火がつけられます。

志納された「お壇木」が並べられます。

盛んに煙が上がり始める。

「梵天札」を差した御神輿を担ぎ、火が立ち上り始めた護摩壇を廻って火にあてます。
この後梵天札は道場の外に据えられ、祭神の加護を受けた魔除けの護符として信者や一般客に有償で分け与えられます。
この日この会場でだけ発行される「火伏せ」のお守りです。

火は燃え盛ります。



風向きによっては、火にあぶられて逃げ出す人も。

火は、ますます燃え盛る。


頃合いを見て、水をかけていく。



行者の人達の、ほら貝と真言が響き渡ります。


火を崩しはじめる。


それまで、斜面の高いところから望遠で撮っていたが、人垣もだいぶバラけてきたので、近くに寄って撮りはじめた。


燃え尽きるように、熊手でならしたり、大変です。

火渡りの準備ができ、大導師が場所を移動して、火渡りを待ちかまえます。

行者の人たちが、火渡りのために、はだしになります。


《火生三昧(かしょうざんまい)の功徳(くどく)》
いよいよメインイベントの火生三昧といわれる山伏の火渡り(ひわたり)がはじまります。
山伏がこの行をおこなうのは、激しい不動信仰(煩悩を焼き尽くす不動明王を尊ぶ信仰)による菩提心(ぼだいしん)を表すためという。塩をまいたあと、先達が巻物を読み上げた。
1 火生: 不動明王が三昧に入って身から火焔を出し、その火で悪魔を焼滅すること。
2 三昧: 心が統一され、安定した状態。
3 菩提心: 悟りを求め仏道を行おうとする心。密教で、悟りの根源的な心。
《大菩提心を振い起こして火中に入り、自他一切の成仏を願う。》
出発位置は、南にある二ヵ所の門で、紅白のテープが巻かれた2本の棒の間に、筵(むしろ)に盛られた塩が置いてある。
先達が塩が盛られた八方を持ち、先頭に立つ。渡火先達は一番大変な役である。
渡火先達が出発ゲートの塩を踏んだ後、前に進み、まだ煙と炎がくすぶる中を塩をまきながら渡火を始めた。

行者が次々に渡っていきます。



火渡りのあと、薬王院の大導師から祝福を受けます。

まだまだ、渡っていきます。
《大智火にふれることに依り一切の罪障を焼き滅ぼす。》
山伏の渡火のあと参詣信徒一同の渡火が始まった。最初は白装束に身を固めた男女の信者たちである。
腰に手を当てて歩く者、合掌して歩く人など、様々である。


道場に入場を許されているのが白装束の信徒ですが、白装束の背中に南無大師遍照金剛・同行二人の文字とかがみえる。遍路装束のようであり、大師信仰と修験道が融合しています。
一般の信者や火行希望者の渡火がはじまった。
行者さんたちも応援します。





火渡りのあと、薬王院の大導師から祝福を受けます。



会場で梵天札が授与されます。

いただいてきた「梵天札」です。


(了)
歴史クラブ行事一覧に飛ぶ
「お気に入りの場所」を見る
気比神宮境内社・兒宮の狛犬
20170311
所在地:福井県敦賀市 越前國一之宮・気比神宮の境内社・兒宮
撮影日:2016年8月2日
年代:享保11年(1726)
材質:石造
型式:越前禿(えちぜん かむろ)型
昨年の8月に青春18キップで敦賀の越前一之宮・気比神宮に参拝したが、境内には江戸時代の狛犬が三組あり、その全てが越前禿(えちぜん かむろ)型だった。
その中で、一番古いのが今回のもの。
気比神宮については、記事があります。
その記事を見る
兒宮

この狛犬は、左右の大きさがかなり異なり、「母子狛犬」と呼ばれている。

右側の阿形



享保11年と、足に刻まれている。

左側の吽形



特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、左右の大きさがかなり違う。
・両方ともたてがみは、おかっぱ頭になっている。
・阿形のたて髪は、顔の横部分で前側にカールさせていて、吽形のたて髪は、縄状に編んである。
・吽形には角がある。
・顔は、眉や牙が明確に刻まれているが、阿形と吽形では造作がかなり異なる。
・ユーモラスな顔で、表情は親しみやすい笑顔である。
・前足は、前足は短く直立している。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形が一本の尾の付き尾。吽形は3条にわけながら縄状に背にそって立ちあがっている。
左右とも台座は一体で厚さも揃っている。
問題は吽形のみ基壇に載っていて、その基壇には、嘉永2年(1849)の銘がある。

この基壇が吽形狛犬のものであれば、対の狛犬ではなく別物と考えることになる。
しかし、この基壇は「奉」の字のみであり、この基壇にこだわるともう一つの狛犬が存在することにつながってしまう。
吽形狛犬があまりに小さいので、高さを近づけるためにどこかから余っていた基壇を持ってきたと考えたほうが良いのではないか。
阿形と吽形の顔の造作がかなり違い、尾の形も違うので、対として造られたと思うには無理がある。
吽形の方が新しいものと見える。
「母子」とはよく言ったもので、子であるから後から生まれたのが当然である。
阿形狛犬の身体に年号が彫られていて、これは間違いないので、阿形狛犬の年号によることにした。
「越前禿(えちぜん かむろ)型」というのは、狛犬研究家の鐸木能光氏が提唱している名で、他に「三国湊狛犬」とか「白山狛犬」とも呼ばれる。
越前(現在の福井県)には、笏谷石という細工しやすい柔らかい石を産出する場所があった。色は青白く、古くは
古墳時代の石棺などにも使われているそうである。
その笏谷石加工品のひとつとして、従来は木造が中心だった神殿狛犬が、石でも造られるようになった。
笏谷石を使った小型の石造狛犬の特徴は、おかっぱ(禿)頭である。他に、両肩に小さな翼が彫られ、お下げ髪風のたてがみの先が内巻きにカールしていること、牙や眉を明確に刻み込んでいることなども共通している。
海路を使って、日本海沿岸に分布しているのは、容易に想像できるが、青森県弘前市、京都府、愛知県岡崎市、岐阜県安八郡でも確認されているそうだから面白い。
越前禿型狛犬は、もともとは参道に置かれていたのではなく、木彫狛犬の代わりとして社殿内に置かれていたもののようだ。その意味では、神殿狛犬と参道狛犬を結ぶ貴重なリンクの役割を果たしたのかもしれない。
狛犬の記事一覧を見る
撮影日:2016年8月2日
年代:享保11年(1726)
材質:石造
型式:越前禿(えちぜん かむろ)型
昨年の8月に青春18キップで敦賀の越前一之宮・気比神宮に参拝したが、境内には江戸時代の狛犬が三組あり、その全てが越前禿(えちぜん かむろ)型だった。
その中で、一番古いのが今回のもの。
気比神宮については、記事があります。
その記事を見る
兒宮

この狛犬は、左右の大きさがかなり異なり、「母子狛犬」と呼ばれている。

右側の阿形



享保11年と、足に刻まれている。

左側の吽形



特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、左右の大きさがかなり違う。
・両方ともたてがみは、おかっぱ頭になっている。
・阿形のたて髪は、顔の横部分で前側にカールさせていて、吽形のたて髪は、縄状に編んである。
・吽形には角がある。
・顔は、眉や牙が明確に刻まれているが、阿形と吽形では造作がかなり異なる。
・ユーモラスな顔で、表情は親しみやすい笑顔である。
・前足は、前足は短く直立している。
・後足は蹲踞。
・尾は、阿形が一本の尾の付き尾。吽形は3条にわけながら縄状に背にそって立ちあがっている。
左右とも台座は一体で厚さも揃っている。
問題は吽形のみ基壇に載っていて、その基壇には、嘉永2年(1849)の銘がある。

この基壇が吽形狛犬のものであれば、対の狛犬ではなく別物と考えることになる。
しかし、この基壇は「奉」の字のみであり、この基壇にこだわるともう一つの狛犬が存在することにつながってしまう。
吽形狛犬があまりに小さいので、高さを近づけるためにどこかから余っていた基壇を持ってきたと考えたほうが良いのではないか。
阿形と吽形の顔の造作がかなり違い、尾の形も違うので、対として造られたと思うには無理がある。
吽形の方が新しいものと見える。
「母子」とはよく言ったもので、子であるから後から生まれたのが当然である。
阿形狛犬の身体に年号が彫られていて、これは間違いないので、阿形狛犬の年号によることにした。
「越前禿(えちぜん かむろ)型」というのは、狛犬研究家の鐸木能光氏が提唱している名で、他に「三国湊狛犬」とか「白山狛犬」とも呼ばれる。
越前(現在の福井県)には、笏谷石という細工しやすい柔らかい石を産出する場所があった。色は青白く、古くは
古墳時代の石棺などにも使われているそうである。
その笏谷石加工品のひとつとして、従来は木造が中心だった神殿狛犬が、石でも造られるようになった。
笏谷石を使った小型の石造狛犬の特徴は、おかっぱ(禿)頭である。他に、両肩に小さな翼が彫られ、お下げ髪風のたてがみの先が内巻きにカールしていること、牙や眉を明確に刻み込んでいることなども共通している。
海路を使って、日本海沿岸に分布しているのは、容易に想像できるが、青森県弘前市、京都府、愛知県岡崎市、岐阜県安八郡でも確認されているそうだから面白い。
越前禿型狛犬は、もともとは参道に置かれていたのではなく、木彫狛犬の代わりとして社殿内に置かれていたもののようだ。その意味では、神殿狛犬と参道狛犬を結ぶ貴重なリンクの役割を果たしたのかもしれない。
狛犬の記事一覧を見る
名草戸畔(なぐさ とべ)/日本の神々の話
20170310
日本書紀や和歌山市の伝承に登場する女神。
戸矢学氏の『縄文の神』によれば、縄文神。
「名草戸畔」は日本書紀での名で、地元では「名草姫(なぐさひめ)」とも。
一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。
名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死した。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。
『日本書紀』では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭のところで、
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)」とある。
(訳)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)
これが、名草戸畔や名草邑に関する唯一の記述である。
紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前のことで、神武の兄五瀬命の死の後、狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前の話である。
一方、地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。名草姫命と名草彦命の関係ははっきりしない。
現在、『名草戸畔(なぐさとべ)古代紀国の女王伝説/なかひら まい(著者)』という本が出ている。(未読)
この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したもの。
戸矢学氏の『縄文の神』では、下記のように書かれている。
まつろわぬ神
神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。
ナグサトベ、ニシキトベ、エウカシ、ヤソタケル、ナガスネヒコといった名が『日本書紀』には見られる。ヤソタケルは「有尾人」であるとも記される。彼らはこの地の土着の人々であり、すなわち縄文人の族長・首長であろう。
この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の〝神〃である。
これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証しなのだ。
しかし「神殺し」の真相は、必ずしも物理的な殺害ではない。
『日本書紀』を詳細に見ると、殺されたはずの族長とおぼしき人物が、名を一部変えて、さらに地位を得て臣従 していることに気付くだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているのは、その子孫が現存するからだ。たとえ史書の上でとは言いながらも彼らの先祖を勝手に殺すわけにはいかない。彼らは、もとは敵対していたのに、その後帰順した大事な“臣民〟だからだ。
それに実際に殺害されたのは、ごく一部だろう。政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。
名草戸畔などの挿話もその一つであろう。名草邑の首長・ナグサトベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。この手法は、古代にしばしば使われたもので、私たちが今認識している信仰・祭祀の姿はその過程を経た後のものである。
まつろう神があれば、まつろわぬ神がいる。
まつろう神とは弥生神であって、まつろわぬ神とは縄文神である。
日本の神々記事一覧に飛ぶ
戸矢学氏の『縄文の神』によれば、縄文神。
「名草戸畔」は日本書紀での名で、地元では「名草姫(なぐさひめ)」とも。
一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。
名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死した。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。
『日本書紀』では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭のところで、
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)」とある。
(訳)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)
これが、名草戸畔や名草邑に関する唯一の記述である。
紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前のことで、神武の兄五瀬命の死の後、狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前の話である。
一方、地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。名草姫命と名草彦命の関係ははっきりしない。
現在、『名草戸畔(なぐさとべ)古代紀国の女王伝説/なかひら まい(著者)』という本が出ている。(未読)
この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したもの。
戸矢学氏の『縄文の神』では、下記のように書かれている。
まつろわぬ神
神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。
ナグサトベ、ニシキトベ、エウカシ、ヤソタケル、ナガスネヒコといった名が『日本書紀』には見られる。ヤソタケルは「有尾人」であるとも記される。彼らはこの地の土着の人々であり、すなわち縄文人の族長・首長であろう。
この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の〝神〃である。
これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証しなのだ。
しかし「神殺し」の真相は、必ずしも物理的な殺害ではない。
『日本書紀』を詳細に見ると、殺されたはずの族長とおぼしき人物が、名を一部変えて、さらに地位を得て臣従 していることに気付くだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているのは、その子孫が現存するからだ。たとえ史書の上でとは言いながらも彼らの先祖を勝手に殺すわけにはいかない。彼らは、もとは敵対していたのに、その後帰順した大事な“臣民〟だからだ。
それに実際に殺害されたのは、ごく一部だろう。政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。
名草戸畔などの挿話もその一つであろう。名草邑の首長・ナグサトベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。この手法は、古代にしばしば使われたもので、私たちが今認識している信仰・祭祀の姿はその過程を経た後のものである。
まつろう神があれば、まつろわぬ神がいる。
まつろう神とは弥生神であって、まつろわぬ神とは縄文神である。
日本の神々記事一覧に飛ぶ
長瀞・宝登山「蝋梅まつり&梅まつり」
20170309
2月の28日(火)に、歴史クラブの行事に参加しました。

ロープウェイで上がってから、蝋梅、宝登山神社の奥社、福寿草、梅の順に楽しみました。

長瀞まではフリー切符で行き、長瀞駅からロープウェイ駅まではシャトルバスで移動。
ロープウェイ駅


ゴンドラに乗り込む。


到着


まずはロウバイを楽しむ。
終わりに近い感じでしたが、まだまだ咲いていてくれました。


空を入れて撮る。



ロウバイには、「和蝋梅」、「素心」、「満月」の三種がある。
「和蝋梅」


「素心」


「満月」

マンサクも咲いていた。


頂上付近に到着

宝登山神社の奥宮に参拝します。

鳥居があったので、鳥居下の石段に戻って上がり直した。


鳥居


奥宮前には広場あり。

昭和6年奉納の狼型狛犬




宝登山神社奥宮説明

社殿



奥宮前からの眺めは素晴らしかった。



参道の石段を降りた。
下からの眺め

ここから、横にケーブル駅のほうに歩きながら、福寿草の写真を撮った。



ケーブル駅の近くまで来たら、ちょうどゴンドラが出ていった。
下にゴンドラが写っています。

福寿草とオオイヌノフグリ

「梅百花園」に入り、梅を楽しんだ。

紅白の梅がバランよく咲いていて、かなり楽しめた。
















集合時間まで梅を楽しんで、ロープウェイで下に降り、参加者全員で美味しいお昼を食べ、
そのあと宝登山神社に参拝。
宝登山神社は既に記事にしています。
その記事を見る
予定の電車に間に合うように、長瀞駅に。
長瀞駅は、可愛らしい木造の駅舎です。

西武秩父からは、さすがに疲れたのでレッドアローで帰ってきました。
(了)
歴史クラブ行事一覧に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ

ロープウェイで上がってから、蝋梅、宝登山神社の奥社、福寿草、梅の順に楽しみました。

長瀞まではフリー切符で行き、長瀞駅からロープウェイ駅まではシャトルバスで移動。
ロープウェイ駅


ゴンドラに乗り込む。


到着


まずはロウバイを楽しむ。
終わりに近い感じでしたが、まだまだ咲いていてくれました。


空を入れて撮る。



ロウバイには、「和蝋梅」、「素心」、「満月」の三種がある。
「和蝋梅」


「素心」


「満月」

マンサクも咲いていた。


頂上付近に到着

宝登山神社の奥宮に参拝します。

鳥居があったので、鳥居下の石段に戻って上がり直した。


鳥居


奥宮前には広場あり。

昭和6年奉納の狼型狛犬




宝登山神社奥宮説明

社殿



奥宮前からの眺めは素晴らしかった。



参道の石段を降りた。
下からの眺め

ここから、横にケーブル駅のほうに歩きながら、福寿草の写真を撮った。



ケーブル駅の近くまで来たら、ちょうどゴンドラが出ていった。
下にゴンドラが写っています。

福寿草とオオイヌノフグリ

「梅百花園」に入り、梅を楽しんだ。

紅白の梅がバランよく咲いていて、かなり楽しめた。
















集合時間まで梅を楽しんで、ロープウェイで下に降り、参加者全員で美味しいお昼を食べ、
そのあと宝登山神社に参拝。
宝登山神社は既に記事にしています。
その記事を見る
予定の電車に間に合うように、長瀞駅に。
長瀞駅は、可愛らしい木造の駅舎です。

西武秩父からは、さすがに疲れたのでレッドアローで帰ってきました。
(了)
歴史クラブ行事一覧に飛ぶ
お気に入りの場所一覧に飛ぶ
鎧神社境内・天神社の狛犬
20170305
所在地:東京都新宿区北新宿「鎧神社」の境内・天神社
撮影日:2016年2月6日
年代:享保6年(1721)
材質:石造
型式:はじめ型
庚申塔の調査をしていたときに、「狛犬型庚申塔」ということで、見に行きました。
狛犬を利用した庚申塔は、珍しく貴重なものなので、新宿区の文化財となっている。
それから雌雄を現している点でも、大変珍しい。
「鎧神社」については、既に記事にしています。
その記事を見る
天神社

社殿の直前に置かれている。

説明

右側の阿形狛犬



左側の吽形狛犬




特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両狛犬型である。
・両方ともたてがみがながれているので狛犬。
・阿形の頭は埋められているが窪みがあったと認められる。吽形の頭には角があり。
・顔は、実にブサイクでユーモラス。表情は親しみやすい笑顔である。
・前足は、前足は短く直立している。
・後足は蹲踞。
・尾は、扇状に開いている「付き尾」である。
・雌雄の別を現している。
台座に「庚申供養」と刻まれている。

阿形の頭は埋められているが、窪んでいたことは確かである。

吽形のほうは、角がはっきりとわかる。

尾は、扇状に開いている「付き尾」である。

雌雄の別が現わされている。
阿形

吽形

大変なブサイクで、ユーモラスな笑顔をしているので実に親しみやすい狛犬なのだが、「狛犬型庚申塔」であり、雌雄の別ありで、大変貴重なものであることを知る人は少ないと思う。
大事に守っていきたいと思う。
狛犬の記事一覧を見る
「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ
撮影日:2016年2月6日
年代:享保6年(1721)
材質:石造
型式:はじめ型
庚申塔の調査をしていたときに、「狛犬型庚申塔」ということで、見に行きました。
狛犬を利用した庚申塔は、珍しく貴重なものなので、新宿区の文化財となっている。
それから雌雄を現している点でも、大変珍しい。
「鎧神社」については、既に記事にしています。
その記事を見る
天神社

社殿の直前に置かれている。

説明

右側の阿形狛犬



左側の吽形狛犬




特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両狛犬型である。
・両方ともたてがみがながれているので狛犬。
・阿形の頭は埋められているが窪みがあったと認められる。吽形の頭には角があり。
・顔は、実にブサイクでユーモラス。表情は親しみやすい笑顔である。
・前足は、前足は短く直立している。
・後足は蹲踞。
・尾は、扇状に開いている「付き尾」である。
・雌雄の別を現している。
台座に「庚申供養」と刻まれている。

阿形の頭は埋められているが、窪んでいたことは確かである。

吽形のほうは、角がはっきりとわかる。

尾は、扇状に開いている「付き尾」である。

雌雄の別が現わされている。
阿形

吽形

大変なブサイクで、ユーモラスな笑顔をしているので実に親しみやすい狛犬なのだが、「狛犬型庚申塔」であり、雌雄の別ありで、大変貴重なものであることを知る人は少ないと思う。
大事に守っていきたいと思う。
狛犬の記事一覧を見る
「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ
目黒雅叙園・百段階段のひな祭り
20170304
最近、雅叙園と色々と縁があり、百段階段が無料で見られるというので、2月24日に見に行きました。
企画展は「九州ひな紀行Ⅱ」でした。
雅叙園

玄関の屋根の上には、華麗な鳳凰が。

ロビー廊下には、鏝絵の壁画が。


「百段階段」とは、1935(昭和10)年に建てられた当園に現存する唯一の木造建築で、宴席が行われた7部屋を99段の階段廊下が繋いでいます。
厚さ約5cmのケヤキ板の階段で結ばれた各部屋は、主に装飾を担当した画家の名前が付けられています。
昭和の竜宮城と呼ばれた目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにあります。最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。
2009(平成21)年3月、東京都の有形文化財に指出されました。

企画展の「雛まつり」

〇十畝の間

天領日田の日田醤油が集めた雛が並んでいた。
ひなまつりの際には店内に数千体の雛人形が並ぶという。

〇漁礁の間
床柱は巨大な檜に精巧な彫刻が施されている。

旧伊藤伝衛門邸の座敷雛
大きな部屋を、博多山笠、祇園祭、賀茂祭などの人形が埋め尽くしていた。圧巻。

〇草丘の間

柳原白蓮ゆかりの有職びなのうち、六歌仙。

〇静水の間

日田醤油の集めた雛のうち、箱入りびな

〇星光の間

薩摩糸びなと薩摩切子の雛

〇清方の間
鏑木清方の四季美人画がよかった。

松平定信の娘、葵姫が松浦藩第35代松浦煕に輿入れした際の婚礼調度の雛道具。

〇頂上の間

熊本・球磨地方に伝わる、小正月の柳の枝に紅白の餅を刺したものと、雛かざり。

福岡・柳川の「さげもん」




(了)
「お気に入りの場所」に飛ぶ
企画展は「九州ひな紀行Ⅱ」でした。
雅叙園

玄関の屋根の上には、華麗な鳳凰が。

ロビー廊下には、鏝絵の壁画が。


「百段階段」とは、1935(昭和10)年に建てられた当園に現存する唯一の木造建築で、宴席が行われた7部屋を99段の階段廊下が繋いでいます。
厚さ約5cmのケヤキ板の階段で結ばれた各部屋は、主に装飾を担当した画家の名前が付けられています。
昭和の竜宮城と呼ばれた目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにあります。最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。
2009(平成21)年3月、東京都の有形文化財に指出されました。

企画展の「雛まつり」

〇十畝の間

天領日田の日田醤油が集めた雛が並んでいた。
ひなまつりの際には店内に数千体の雛人形が並ぶという。

〇漁礁の間
床柱は巨大な檜に精巧な彫刻が施されている。

旧伊藤伝衛門邸の座敷雛
大きな部屋を、博多山笠、祇園祭、賀茂祭などの人形が埋め尽くしていた。圧巻。

〇草丘の間

柳原白蓮ゆかりの有職びなのうち、六歌仙。

〇静水の間

日田醤油の集めた雛のうち、箱入りびな

〇星光の間

薩摩糸びなと薩摩切子の雛

〇清方の間
鏑木清方の四季美人画がよかった。

松平定信の娘、葵姫が松浦藩第35代松浦煕に輿入れした際の婚礼調度の雛道具。

〇頂上の間

熊本・球磨地方に伝わる、小正月の柳の枝に紅白の餅を刺したものと、雛かざり。

福岡・柳川の「さげもん」




(了)
「お気に入りの場所」に飛ぶ
日本神話に登場する女神である。
『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。
神話での記述は、葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。
・『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。
・『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹としている。
・第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)としている。
・第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。
天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「邇邇芸命の生誕」の段
(現代語訳)
そこで天照大御神と高木神の仰せによって、日嗣の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ命)に対して、「今、葦原中国を平定し終ったと申して来た。だから、先に委任したとおり、その国に天降って統治なさい」と仰せになった。
ところが、その日嗣の御子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノ命)が答えて申すには、「私が天降ろうと支度をしている間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシク二二キシアマツヒコヒコホノ二二ギノ命)と申します。この子を降すのがよいでしょう」と申し上げた。この御子は、天忍穂耳命が、高木神の女(むすめ)の萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメノ命)と結婚なさって生んだ子で、天火明命(アメノホアカリノ命)と、次に日子番能邇邇芸命(ヒコホノ二二ギノ命)の二柱である。こういうわけで、忍穂耳命の申されたとおりに、日子番能邇邇芸命に仰せ言を下して、「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。
「栲」は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」のことである。「チヂ」は縮むの意とも、たくさんあるの意ともいい、前者であれば織地が縮んだ上質の織物のこととなり、後者であれば機織がさかんな様子を表す。いずれにしても機織や織物に関係のある名前ということになる。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる。
瓊瓊杵尊や天忍穂耳命とともに祀られることが多い。
この神には、私は愛知県一宮市の真清田神社摂社「服織神社」のご祭神、千葉県船橋市の意富比神社(船橋大神宮)の配祀神として参拝している。
特に真清田神社摂社「服織神社」は機織りの神様として篤く信仰されていた。
私が参拝した時の服織神社

七夕のときに催される「一之宮七夕まつり」は、真清田神社摂社「服織神社」のお祭りなのです。


日本の神々記事一覧に飛ぶ
『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。
神話での記述は、葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。
・『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。
・『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹としている。
・第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)としている。
・第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。
天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「邇邇芸命の生誕」の段
(現代語訳)
そこで天照大御神と高木神の仰せによって、日嗣の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ命)に対して、「今、葦原中国を平定し終ったと申して来た。だから、先に委任したとおり、その国に天降って統治なさい」と仰せになった。
ところが、その日嗣の御子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノ命)が答えて申すには、「私が天降ろうと支度をしている間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシク二二キシアマツヒコヒコホノ二二ギノ命)と申します。この子を降すのがよいでしょう」と申し上げた。この御子は、天忍穂耳命が、高木神の女(むすめ)の萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメノ命)と結婚なさって生んだ子で、天火明命(アメノホアカリノ命)と、次に日子番能邇邇芸命(ヒコホノ二二ギノ命)の二柱である。こういうわけで、忍穂耳命の申されたとおりに、日子番能邇邇芸命に仰せ言を下して、「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。
「栲」は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」のことである。「チヂ」は縮むの意とも、たくさんあるの意ともいい、前者であれば織地が縮んだ上質の織物のこととなり、後者であれば機織がさかんな様子を表す。いずれにしても機織や織物に関係のある名前ということになる。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる。
瓊瓊杵尊や天忍穂耳命とともに祀られることが多い。
この神には、私は愛知県一宮市の真清田神社摂社「服織神社」のご祭神、千葉県船橋市の意富比神社(船橋大神宮)の配祀神として参拝している。
特に真清田神社摂社「服織神社」は機織りの神様として篤く信仰されていた。
私が参拝した時の服織神社

七夕のときに催される「一之宮七夕まつり」は、真清田神社摂社「服織神社」のお祭りなのです。


日本の神々記事一覧に飛ぶ