墨田区・牛島神社の狛犬
20170429
所在地:東京都墨田区向島 牛島神社の拝殿前
参拝日:2016年11月3日
年代:享保14年(1729)
材質:石造
型式:はじめ型
牛島神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
右側の阿形獅子
左側の吽形獅子
特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・左側は吽形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・珍しいことに右側阿形の頭に角がある。
・伏せ耳、目玉が大きく、口もバカでかく、表情たっぷりで、笑いを誘う
・前足は、前に出し気味に、ピーンと真っ直ぐ。。
・後足は蹲踞。脚の間を彫っていないが、これが「はじめ型」の特徴だと言われている。
・尾は、天狗の羽団扇型の付き尾。
年号は、享保14年(1729)
尾は、天狗の羽団扇型の付き尾。
「はじめ型」の特徴だと言われているが、脚の間を彫っていない。
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参拝日:2016年11月3日
年代:享保14年(1729)
材質:石造
型式:はじめ型
牛島神社については、既に記事にしています。
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右側の阿形獅子
左側の吽形獅子
特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・左側は吽形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・珍しいことに右側阿形の頭に角がある。
・伏せ耳、目玉が大きく、口もバカでかく、表情たっぷりで、笑いを誘う
・前足は、前に出し気味に、ピーンと真っ直ぐ。。
・後足は蹲踞。脚の間を彫っていないが、これが「はじめ型」の特徴だと言われている。
・尾は、天狗の羽団扇型の付き尾。
年号は、享保14年(1729)
尾は、天狗の羽団扇型の付き尾。
「はじめ型」の特徴だと言われているが、脚の間を彫っていない。
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谷根千散歩
20170426
今日は、カミさんと谷根千散歩をしました。
根津神社のツツジが見ごろかなと思ったので。
しかし、根津神社に行って見ると、なんだほとんど咲いていないぞ(泣)
それでも、気を取り直して、根津神社に参拝したあと、咲きだしている花を求めて歩きました。
中には、かなり花をつけている株もあったので。
ツツジを見たあとは、根津神社の後ろに抜けて、日本医科大学病院の坂を上がって右折、夏目漱石旧居跡を通り、駒込大観音(光源寺)を見て大きさに感心した。
境内で立派な庚申塔を発見。
明和9年(1772)造立のもの。
森鴎外記念館に入る。
地下展示室の隅の休憩コーナーから地上の銀杏を見上げる。
見終わって、疲れたので喫茶室で休憩。
さっき地下から見た銀杏の木を横から眺める。
森鴎外記念館横の、「薮下通り」入り口にある「夢」という彫刻。
森鴎外の「舞姫」にちなむ、一色邦彦氏制作のもの。
夏目漱石「三四郎」、江戸川乱歩「D坂殺人事件」に登場する団子坂を下る。
千駄木の駅前を通過して、「指人形笑吉」のお店に寄る。
ここに、カミさんを連れてきたかったのだ。
指人形劇に笑い転げた。
本当にここの人形は素晴らしい。
私のお気に入りは、このバイクにまたがったおっちゃん。
その後は、谷中小学校の建物に感心し、岡倉天心記念公園に寄って、谷中銀座に到着。
「猫シッポ棒ドーナツ」購入して帰途についた。
(了)
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根津神社のツツジが見ごろかなと思ったので。
しかし、根津神社に行って見ると、なんだほとんど咲いていないぞ(泣)
それでも、気を取り直して、根津神社に参拝したあと、咲きだしている花を求めて歩きました。
中には、かなり花をつけている株もあったので。
ツツジを見たあとは、根津神社の後ろに抜けて、日本医科大学病院の坂を上がって右折、夏目漱石旧居跡を通り、駒込大観音(光源寺)を見て大きさに感心した。
境内で立派な庚申塔を発見。
明和9年(1772)造立のもの。
森鴎外記念館に入る。
地下展示室の隅の休憩コーナーから地上の銀杏を見上げる。
見終わって、疲れたので喫茶室で休憩。
さっき地下から見た銀杏の木を横から眺める。
森鴎外記念館横の、「薮下通り」入り口にある「夢」という彫刻。
森鴎外の「舞姫」にちなむ、一色邦彦氏制作のもの。
夏目漱石「三四郎」、江戸川乱歩「D坂殺人事件」に登場する団子坂を下る。
千駄木の駅前を通過して、「指人形笑吉」のお店に寄る。
ここに、カミさんを連れてきたかったのだ。
指人形劇に笑い転げた。
本当にここの人形は素晴らしい。
私のお気に入りは、このバイクにまたがったおっちゃん。
その後は、谷中小学校の建物に感心し、岡倉天心記念公園に寄って、谷中銀座に到着。
「猫シッポ棒ドーナツ」購入して帰途についた。
(了)
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素佐男(すさのお)神社
20170424
鎮座地:奈良県桜井市三輪305
参拝日:2017年3月23日
青春18キップの旅の二日目、ホテルで朝食後JR奈良駅8:00発の桜井線に乗り、三輪駅8:25に降り立ちました。
いよいよ奈良大和の三輪・巻向地域の旅のスタートです。
大神神社参拝は、大鳥居からスタートし、二の鳥居まできて、今日の巡拝の都合上、先に素佐男神社に参拝しました。
社号標
大神神社の摂末社ではありません。
境内に入ると、正面は薬師堂で、その前を右折すると素佐男神社。
手水舎
磐座がある。三輪山の周囲には、磐座が多い。
鳥居
拝殿の前に、昭和3年奉納の狛犬。
拝殿前の巨木に掛け渡した大きな注連縄が目立つ。
桜井市江包に鎮座する素戔嗚神社の「御綱祭り」が有名だが、それを連想させる。
御綱祭り:隣の大西地区との間で行われる男綱と女綱を契り結ぶ祭り
左の巨木
右の巨木
注連縄の中央には、杉の枝が御幣として下がっている。
拝殿
本殿
ご祭神は、素戔嗚命尊
白山神社
庚申(こうしん)塔
愛宕(あたご)大権現
金比羅(こんぴら)大権現
薬師堂
堂内の薬師如来と十二神将
石地蔵
素佐男神社前から、大神神社に延びる「山野辺の路」を行きます。
前方に黄色い鳥居が見えるが、あれは大神神社の「自動車お祓い所」。
その向こうが、二の鳥居だ。
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参拝日:2017年3月23日
青春18キップの旅の二日目、ホテルで朝食後JR奈良駅8:00発の桜井線に乗り、三輪駅8:25に降り立ちました。
いよいよ奈良大和の三輪・巻向地域の旅のスタートです。
大神神社参拝は、大鳥居からスタートし、二の鳥居まできて、今日の巡拝の都合上、先に素佐男神社に参拝しました。
社号標
大神神社の摂末社ではありません。
境内に入ると、正面は薬師堂で、その前を右折すると素佐男神社。
手水舎
磐座がある。三輪山の周囲には、磐座が多い。
鳥居
拝殿の前に、昭和3年奉納の狛犬。
拝殿前の巨木に掛け渡した大きな注連縄が目立つ。
桜井市江包に鎮座する素戔嗚神社の「御綱祭り」が有名だが、それを連想させる。
御綱祭り:隣の大西地区との間で行われる男綱と女綱を契り結ぶ祭り
左の巨木
右の巨木
注連縄の中央には、杉の枝が御幣として下がっている。
拝殿
本殿
ご祭神は、素戔嗚命尊
白山神社
庚申(こうしん)塔
愛宕(あたご)大権現
金比羅(こんぴら)大権現
薬師堂
堂内の薬師如来と十二神将
石地蔵
素佐男神社前から、大神神社に延びる「山野辺の路」を行きます。
前方に黄色い鳥居が見えるが、あれは大神神社の「自動車お祓い所」。
その向こうが、二の鳥居だ。
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京都・上御霊神社の狛犬
20170422
所在地:京都市上京区上御霊神社拝殿内
撮影日:2017年3月22日
年代:推定享保18年(1733)
材質:木製
型式:神殿型
青春18キップの旅のサブテーマ「出雲族の痕跡を求める」で、京都・上御霊神社に参拝したが、この狛犬を発見したことが一番嬉しかったと言ってもいいくらいである。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、春日大社にこういう狛犬が居ることは、テレビの特集番組で見ているが、肉眼で見ることを叶えていない。
そのため、ここでそれを発見したことは、小躍りするほど嬉しかった。
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施す。」とある。
ここのは、獅子狛犬とも金箔だが、色は守られている。
この姿のものを、遠いのでズームしたカメラを通してだが、肉眼で見られたのは、とても嬉しかった。
拝殿内の幣殿に随身が侍り、狛犬が侍る。
右側に阿形獅子
左側に吽形狛犬
特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。身体は金箔、毛髪には緑青を塗ってある。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。身体は金箔、毛髪には群青を塗ってある
・左側吽形の頭には立派な角がある。
・伏せ耳、眉はつり上がり、顎鬚は中央で分かれて、歯は犬歯が目立つ。
・あまり顔がデフォルメされていなくて、上品な顔だ。
・前足は、真っ直ぐ。脛に羽のような毛が生えている。
・後足は蹲踞。
・尾は、残念ながら見えていないため不明。
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撮影日:2017年3月22日
年代:推定享保18年(1733)
材質:木製
型式:神殿型
青春18キップの旅のサブテーマ「出雲族の痕跡を求める」で、京都・上御霊神社に参拝したが、この狛犬を発見したことが一番嬉しかったと言ってもいいくらいである。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、春日大社にこういう狛犬が居ることは、テレビの特集番組で見ているが、肉眼で見ることを叶えていない。
そのため、ここでそれを発見したことは、小躍りするほど嬉しかった。
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施す。」とある。
ここのは、獅子狛犬とも金箔だが、色は守られている。
この姿のものを、遠いのでズームしたカメラを通してだが、肉眼で見られたのは、とても嬉しかった。
拝殿内の幣殿に随身が侍り、狛犬が侍る。
右側に阿形獅子
左側に吽形狛犬
特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。身体は金箔、毛髪には緑青を塗ってある。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。身体は金箔、毛髪には群青を塗ってある
・左側吽形の頭には立派な角がある。
・伏せ耳、眉はつり上がり、顎鬚は中央で分かれて、歯は犬歯が目立つ。
・あまり顔がデフォルメされていなくて、上品な顔だ。
・前足は、真っ直ぐ。脛に羽のような毛が生えている。
・後足は蹲踞。
・尾は、残念ながら見えていないため不明。
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御靈神社(上御霊神社)
20170421
鎮座地:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(上賀茂神社)に参拝し、その後出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して河合神社、山城国一之宮・賀茂御祖神社(下鴨神社)、続いて当社に参拝しました。
今回ここを訪ねたのは、鴨川西岸に広がる出雲路町(この地域は古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する)訪問の一環です。
このことを知ったのは、岡本雅享氏の「出雲を源郷とする人たち」によってでした。
埼玉県に出雲系の神社が多く、自然と出雲族の痕跡に関心が強くなったので、今回の「18キップの旅」のサブテーマを「出雲族の痕跡」としています。
賀茂川と高野川が合流し鴨川となるY字地帯(京都市左京区下鴨)に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神
社) の境内に、山城(背)国愛宕郡の式内社、出雲井於(いのへの)神社の比定社(通称比良木社)がある。この出雲社に近い西鳥居を出て賀茂川へ向かうと、出雲路橋を渡り、同川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町に至る。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
京都市上京区の御霊神社は中京区の下御霊神社に対し、上御霊神社とも呼ばれる。同社地にあったという出雲寺も、度々上出雲寺と呼ばれた。江戸中期『山州名跡志』は、上出雲寺は「今の上御霊社地にあり。(平安)遷都巳前の草創也。……地を出雲路と称す」 (巻21)という。出雲路=出雲寺だったのかもしれない。
文献上は『智証大師年譜』 に天安2(858)年12月27日 「帝城に入り、出雲寺に寓す」 とあるのが早いが、創建は神亀3(726)年の愛宕郡出雲郷計帳以前に遡るとみられる。
御霊神社境内で1936年頃、白鳳時代の瓦が出土した。出雲寺の遺物とされるその瓦を2005年に調べた前田義明・現京都市考古資料館長は、早期の瓦が藤原京本薬師寺跡の瓦と酷似する点から、出雲寺の建立を700年前後とみる。
各種記録には、京都で疫病が流行した時には出雲寺で供養が行われている。
出雲寺を御霊信仰と結びつけたのは 「出雲の神は崇る」 と考えた畿内政権貴族だろう。
その後、御霊堂が栄える傍ら出雲寺が衰退し、主従逆転したようだ。
入り口
鳥居の横には、「応仁の乱勃発の地」という碑が立っている。
ちょうど、呉座勇一氏著「応仁の乱」を読み進んでいる最中だったので、ちょうど良かった。
これまで、日野富子くらいしか記憶になかったが、これを読んでみるとおびただしい人物が関係しているのに唖然とする。
社号標
式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也、式内社 山城國愛宕郡 出雲高野神社、旧府社
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
四脚門の前に、大正14年奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
楼門(四脚門)
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
随身
手水舎
参道の中ほどに、明治28年(1895)奉納の、浪速型狛犬があり。
舞殿
舞殿の奥に拝殿があり。
拝殿前には、天保15年(1844)奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
拝殿
享保18年(1733)御寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を昭和45年に復原したものです。
拝殿内、幣殿の前には随身が侍り、獅子狛犬も侍っている。
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施す。」とある。
ここのは、獅子狛犬とも金箔だが、色は守られている。
この姿のものを、遠いのでズームしたカメラを通してだが、肉眼で見られたのは、とても嬉しかった。
本殿
ご祭神:
社伝によると、延暦十三年(794)、崇道天皇の神霊を祀り、後に七座を加えたという。
「八所御霊」と称される。
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文屋宮田麿)
火雷神(以上六柱の荒魂。)
吉備大臣(吉備真備)
祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
神紋は、「有職桐」という。複雑な紋である。
絵馬所
宝暦年中(江戸時代中期)御寄進の内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたもの。
境内社ですが、貴重な狛犬がたくさん見られて舞い上がってしまっていて、ほとんど参拝てきていなかった(汗)
「福寿稲荷神社」のみです。
松尾芭蕉の句碑がありました。
俳聖松尾芭蕉は元禄3年(1690)当社に参詣「半日は神を友にや年忘」の句を奉納した。
これで参拝を終えて、西門から退出しました。
西門
寛政年間(江戸時代中期)に再建されたものです。
こちらの社号標は、時計つきのものだった(笑)
時計は、ちゃんと動いていました。
この後、現在の出雲寺を訪ね、この日の予定は終了。
バスで京都駅に向かい、京都から奈良までJRで移動。JR奈良駅近くのホテルに入り、長かった「青春18キップ・初日」が終わりました。
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参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(上賀茂神社)に参拝し、その後出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して河合神社、山城国一之宮・賀茂御祖神社(下鴨神社)、続いて当社に参拝しました。
今回ここを訪ねたのは、鴨川西岸に広がる出雲路町(この地域は古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する)訪問の一環です。
このことを知ったのは、岡本雅享氏の「出雲を源郷とする人たち」によってでした。
埼玉県に出雲系の神社が多く、自然と出雲族の痕跡に関心が強くなったので、今回の「18キップの旅」のサブテーマを「出雲族の痕跡」としています。
賀茂川と高野川が合流し鴨川となるY字地帯(京都市左京区下鴨)に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神
社) の境内に、山城(背)国愛宕郡の式内社、出雲井於(いのへの)神社の比定社(通称比良木社)がある。この出雲社に近い西鳥居を出て賀茂川へ向かうと、出雲路橋を渡り、同川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町に至る。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
京都市上京区の御霊神社は中京区の下御霊神社に対し、上御霊神社とも呼ばれる。同社地にあったという出雲寺も、度々上出雲寺と呼ばれた。江戸中期『山州名跡志』は、上出雲寺は「今の上御霊社地にあり。(平安)遷都巳前の草創也。……地を出雲路と称す」 (巻21)という。出雲路=出雲寺だったのかもしれない。
文献上は『智証大師年譜』 に天安2(858)年12月27日 「帝城に入り、出雲寺に寓す」 とあるのが早いが、創建は神亀3(726)年の愛宕郡出雲郷計帳以前に遡るとみられる。
御霊神社境内で1936年頃、白鳳時代の瓦が出土した。出雲寺の遺物とされるその瓦を2005年に調べた前田義明・現京都市考古資料館長は、早期の瓦が藤原京本薬師寺跡の瓦と酷似する点から、出雲寺の建立を700年前後とみる。
各種記録には、京都で疫病が流行した時には出雲寺で供養が行われている。
出雲寺を御霊信仰と結びつけたのは 「出雲の神は崇る」 と考えた畿内政権貴族だろう。
その後、御霊堂が栄える傍ら出雲寺が衰退し、主従逆転したようだ。
入り口
鳥居の横には、「応仁の乱勃発の地」という碑が立っている。
ちょうど、呉座勇一氏著「応仁の乱」を読み進んでいる最中だったので、ちょうど良かった。
これまで、日野富子くらいしか記憶になかったが、これを読んでみるとおびただしい人物が関係しているのに唖然とする。
社号標
式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也、式内社 山城國愛宕郡 出雲高野神社、旧府社
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
四脚門の前に、大正14年奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
楼門(四脚門)
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
随身
手水舎
参道の中ほどに、明治28年(1895)奉納の、浪速型狛犬があり。
舞殿
舞殿の奥に拝殿があり。
拝殿前には、天保15年(1844)奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
拝殿
享保18年(1733)御寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を昭和45年に復原したものです。
拝殿内、幣殿の前には随身が侍り、獅子狛犬も侍っている。
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施す。」とある。
ここのは、獅子狛犬とも金箔だが、色は守られている。
この姿のものを、遠いのでズームしたカメラを通してだが、肉眼で見られたのは、とても嬉しかった。
本殿
ご祭神:
社伝によると、延暦十三年(794)、崇道天皇の神霊を祀り、後に七座を加えたという。
「八所御霊」と称される。
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文屋宮田麿)
火雷神(以上六柱の荒魂。)
吉備大臣(吉備真備)
祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
神紋は、「有職桐」という。複雑な紋である。
絵馬所
宝暦年中(江戸時代中期)御寄進の内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたもの。
境内社ですが、貴重な狛犬がたくさん見られて舞い上がってしまっていて、ほとんど参拝てきていなかった(汗)
「福寿稲荷神社」のみです。
松尾芭蕉の句碑がありました。
俳聖松尾芭蕉は元禄3年(1690)当社に参詣「半日は神を友にや年忘」の句を奉納した。
これで参拝を終えて、西門から退出しました。
西門
寛政年間(江戸時代中期)に再建されたものです。
こちらの社号標は、時計つきのものだった(笑)
時計は、ちゃんと動いていました。
この後、現在の出雲寺を訪ね、この日の予定は終了。
バスで京都駅に向かい、京都から奈良までJRで移動。JR奈良駅近くのホテルに入り、長かった「青春18キップ・初日」が終わりました。
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賀茂御祖神社(下鴨神社)のご祭神である。
記紀神話にはこの名で登場しないが、記紀神話に登場する「八咫烏(やたがらす)」とは、『賀茂始祖伝』によれば、賀茂建角身命のことであるという。
『古事記』では、神武天皇の軍隊が熊野から奥地に進んで、荒ぶる神々に苦戦をしている時、高木大神が 「今、天より八咫烏を遣わす。この烏の先導によって軍を進めよ」といわれ、その導きによって大和国に入った。
『日本書紀』では神武天皇の夢枕に天照大神があらわれ「八咫烏を遣わす」と告げた。
夢の通り八咫烏に従って進み、宇陀にて兄宇迦斯、弟宇迦斯に出会う。 八咫烏が、天皇に仕えるか否かを問うと、兄宇迦斯は鳴鏑をもって八咫烏を射たが外れた。
『古語拾遺』は、この八咫烏が、京都地方の大豪族であった賀茂県主の遠祖とある。
『賀茂始祖伝』によれば、賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。
神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
賀茂建角身命と伊賀古夜比売命の間に建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。
建玉依比古命は後に賀茂県主となる。
建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。
調べていて、一書にこういうことが書かれていた。
越中国一之宮・高瀬神社(富山県南砺市井波町高瀬)及び能登国一之宮・気多大社(石川県羽咋市寺家町)に「天活玉命」が祀られている。
天活玉命-天神立命-陶津耳命(鴨建角身命)、となるそうである。
私には、この二社はなじみがあり、特に高瀬神社と私の富山の家との縁が深いので、
高瀬神社と賀茂建角身命の縁がつながったのが嬉しかった。
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記紀神話にはこの名で登場しないが、記紀神話に登場する「八咫烏(やたがらす)」とは、『賀茂始祖伝』によれば、賀茂建角身命のことであるという。
『古事記』では、神武天皇の軍隊が熊野から奥地に進んで、荒ぶる神々に苦戦をしている時、高木大神が 「今、天より八咫烏を遣わす。この烏の先導によって軍を進めよ」といわれ、その導きによって大和国に入った。
『日本書紀』では神武天皇の夢枕に天照大神があらわれ「八咫烏を遣わす」と告げた。
夢の通り八咫烏に従って進み、宇陀にて兄宇迦斯、弟宇迦斯に出会う。 八咫烏が、天皇に仕えるか否かを問うと、兄宇迦斯は鳴鏑をもって八咫烏を射たが外れた。
『古語拾遺』は、この八咫烏が、京都地方の大豪族であった賀茂県主の遠祖とある。
『賀茂始祖伝』によれば、賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。
神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
賀茂建角身命と伊賀古夜比売命の間に建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。
建玉依比古命は後に賀茂県主となる。
建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。
調べていて、一書にこういうことが書かれていた。
越中国一之宮・高瀬神社(富山県南砺市井波町高瀬)及び能登国一之宮・気多大社(石川県羽咋市寺家町)に「天活玉命」が祀られている。
天活玉命-天神立命-陶津耳命(鴨建角身命)、となるそうである。
私には、この二社はなじみがあり、特に高瀬神社と私の富山の家との縁が深いので、
高瀬神社と賀茂建角身命の縁がつながったのが嬉しかった。
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山城国一之宮・賀茂御祖神社(下鴨神社)
20170419
鎮座地:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)に参拝し、その後出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して河合神社、続いて当社に参拝しました。
河合神社から糺の森を北上して、「あけ橋」に至ると、これが下鴨神社の禊の橋です。
大鳥居
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。
式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
創祀年代は不詳。
『日本後記』に、大同二年(807)「賀茂御祖神別雷神並奉授正一位」とあり、『新抄格勅符抄』に、「鴨御祖神 廿戸 山城十戸、丹波十戸、天平神護元年九月七日」とあるので、天平時代にはすでに封戸を持つ大社であった。
社記には崇神天皇の御代の記録もあるという。
祭神は、
東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。
これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。
成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。
それが、賀茂別雷命である。
また、父は乙訓社の雷神であったという。
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
手水舎
大木の株から出た水が、大きな石の舟のような鉢に注がれている。
参道を進むと、楼門の前左に「相生社」と「連理の賢木」があり。
〇「相生社」と「連理の賢木」
相生社
連理の賢木
根元から分かれている幹が、途中で一緒になっている。
〇楼門
堂々たる楼門をくぐると、正面に「舞殿」がある。
〇舞殿
その右手に橋殿があり、御手洗川(みたらしがわ)があるので、そちらで禊をする。
〇橋殿
〇御手洗川と輪橋(そりはし)
御手洗川で禊をします。
〇井上社(御手洗社)
ご祭神:瀬織津姫
〇神門
神門の内側には、干支の絵馬が。
拝殿
上賀茂神社でもそうだったが、賀茂神社の考えは、本殿は見せるものではないということ。
拝殿は、全面ガラスが張られ、その上目隠しがされていて、まったくといっていいほど見えない。
テレビの特集番組で、壮麗な本殿と、本殿回廊に置かれた華麗な獅子狛犬は見ているのでわかっているが、肉眼でも拝見したかったが、かなわず。
ご祭神:
東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父
神紋「二葉葵」は、社殿には見当たらなかった。
ただし木鼻などの金具が、それをモチーフにした模様になっていた。
拝殿前には、言社が並ぶ。
〇言社(ことしゃ)
七つの社の総称、大国主命の七つの別名ごとの社で17世紀に造営。十二支の守り神とされる。
【出雲井於(いのへの)神社】
延喜式内社「愛宕郡 出雲井於神社」である。
出雲井於神社は、出雲氏が霊泉に示現する水神を祭ったのが始まりともいう(『京都大事典』)。貞観元(859)年一月、従五位の神位を受けている(三代実録)が、寛仁2 (1018)年、出雲郷が下鴨神社へ寄進された後、中世には同社域の開き神(開拓神)、比良木社に包摂されたようだ。
手水舎
拝殿
本殿
瑞垣に設けられた礼拝所から、瑞垣内の摂社が望まれる。
〇三井神社
延喜式内社(名神大)「愛宕郡 三井神社」にあたる。
三井神社は、『山城国風土記』の鴨社の条に「蓼倉里三身社」(たでくらのさと)とある社。
三身社とは:
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと・中社)
伊賀古夜媛命(いがこやひめのみこと・東社):賀茂建角身命の妻
玉依媛命(たまよりひめのみこと・西社)
1629年(寛永6年)の式年遷宮のとき造替された建物で重要文化財。
縦に並ぶのは、三井神社末社。
手前から白鬚社、小杜社、諏訪社。
〇神服殿
〇媛小松
〇椿「擬雪」
西門のほうに抜けようとしたとき、着物美人とすれ違った。
西の鳥居を出てから、末社が二社あり。
〇印納社(いんのうのやしろ)
ご祭神:印璽大神(おしでのおおかみ)、倉稲魂神
〇愛宕社・稲荷社
これで、下鴨神社の参拝を終え、出雲路橋に向かった。
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参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)に参拝し、その後出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して河合神社、続いて当社に参拝しました。
河合神社から糺の森を北上して、「あけ橋」に至ると、これが下鴨神社の禊の橋です。
大鳥居
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。
式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
創祀年代は不詳。
『日本後記』に、大同二年(807)「賀茂御祖神別雷神並奉授正一位」とあり、『新抄格勅符抄』に、「鴨御祖神 廿戸 山城十戸、丹波十戸、天平神護元年九月七日」とあるので、天平時代にはすでに封戸を持つ大社であった。
社記には崇神天皇の御代の記録もあるという。
祭神は、
東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。
これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。
成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。
それが、賀茂別雷命である。
また、父は乙訓社の雷神であったという。
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
手水舎
大木の株から出た水が、大きな石の舟のような鉢に注がれている。
参道を進むと、楼門の前左に「相生社」と「連理の賢木」があり。
〇「相生社」と「連理の賢木」
相生社
連理の賢木
根元から分かれている幹が、途中で一緒になっている。
〇楼門
堂々たる楼門をくぐると、正面に「舞殿」がある。
〇舞殿
その右手に橋殿があり、御手洗川(みたらしがわ)があるので、そちらで禊をする。
〇橋殿
〇御手洗川と輪橋(そりはし)
御手洗川で禊をします。
〇井上社(御手洗社)
ご祭神:瀬織津姫
〇神門
神門の内側には、干支の絵馬が。
拝殿
上賀茂神社でもそうだったが、賀茂神社の考えは、本殿は見せるものではないということ。
拝殿は、全面ガラスが張られ、その上目隠しがされていて、まったくといっていいほど見えない。
テレビの特集番組で、壮麗な本殿と、本殿回廊に置かれた華麗な獅子狛犬は見ているのでわかっているが、肉眼でも拝見したかったが、かなわず。
ご祭神:
東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父
神紋「二葉葵」は、社殿には見当たらなかった。
ただし木鼻などの金具が、それをモチーフにした模様になっていた。
拝殿前には、言社が並ぶ。
〇言社(ことしゃ)
七つの社の総称、大国主命の七つの別名ごとの社で17世紀に造営。十二支の守り神とされる。
【出雲井於(いのへの)神社】
延喜式内社「愛宕郡 出雲井於神社」である。
出雲井於神社は、出雲氏が霊泉に示現する水神を祭ったのが始まりともいう(『京都大事典』)。貞観元(859)年一月、従五位の神位を受けている(三代実録)が、寛仁2 (1018)年、出雲郷が下鴨神社へ寄進された後、中世には同社域の開き神(開拓神)、比良木社に包摂されたようだ。
手水舎
拝殿
本殿
瑞垣に設けられた礼拝所から、瑞垣内の摂社が望まれる。
〇三井神社
延喜式内社(名神大)「愛宕郡 三井神社」にあたる。
三井神社は、『山城国風土記』の鴨社の条に「蓼倉里三身社」(たでくらのさと)とある社。
三身社とは:
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと・中社)
伊賀古夜媛命(いがこやひめのみこと・東社):賀茂建角身命の妻
玉依媛命(たまよりひめのみこと・西社)
1629年(寛永6年)の式年遷宮のとき造替された建物で重要文化財。
縦に並ぶのは、三井神社末社。
手前から白鬚社、小杜社、諏訪社。
〇神服殿
〇媛小松
〇椿「擬雪」
西門のほうに抜けようとしたとき、着物美人とすれ違った。
西の鳥居を出てから、末社が二社あり。
〇印納社(いんのうのやしろ)
ご祭神:印璽大神(おしでのおおかみ)、倉稲魂神
〇愛宕社・稲荷社
これで、下鴨神社の参拝を終え、出雲路橋に向かった。
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笹井・豊年足踊り/埼玉県狭山市
20170417
2017年4月16日(日)に、歴史クラブの行事で見学を企画しました。
14時くらいに笹井の白鬚神社に到着。
ここの春祭りで行われます。
拝殿
今回は、団体で見学に訪れたので、保存会の方が演じる前に、説明をしてくださいました。
また、事前に詳しい説明の記事をいただいていたので、とても参考になりました。
「豊年足踊り」は、明治中期に地元の百性桜井藤太郎氏が土蔵や屋根裏でひそかに工夫を重ね苦心の末、完成させたもので、踊り手は床に寝て足を立て、右足に「おかめ」、左足に「ひよつとこ」の面と衣装を付けて、舞扇,日傘などを使い磯子に合わせて踊るものです。
独特の動き・豊富な色彩は、素朴な「男女相愛」の様を表すとともに、「五穀豊穣」を祈る心情表現として永く地元白鬚神社に奉納されている所から「笹井豊年足踊り」と呼ばれています。
昭和52年狭山市の無形文化財に指定されました。
山車の上では一人で演じますが大きな舞台になりますと3~5人で演じます。
最初に演じられたのは「天狐の舞」
【天狐の舞】
白狐は神の使者、正しき事は何処までも通す強い意志と迫力を表し幣束を打ち振り、悪霊を追い払い、この世に平和を招く。
右手に持った2本の幣束を両手に分け頭上に掲げる所作は山車に天降った神が昇天していく様を表しています。
どのような舞台でも屋台の曲で「天狐の舞」を最初に舞うのがしきたりです。
一連の踊りは別名「翁漉し」と呼ばれます。
動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。
その動画を見る
【豊年足踊り】
このように足の先に面をつける。
(2015年10月の秋祭りの際に撮ったもの)
足を高くあげて、色々な踊りを披露します。
10分以上、ずっと足を上げたまま踊りを披露しているのは、すごいものだと感心します。
こちらも、動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。
その動画を見る
踊りを見たあと、山車に残る戦災の跡を見せてもらいました。
昭和20年5月、狭山市の黒須地区、笹井地区に、B29爆撃機500機のうち1機が、迷って飛んできて焼夷弾5000発を投下しました。
この一帯は火の海となり、死者13名、被災所帯69戸に達しました。
白鬚神社も拝殿と社務所を焼失、本殿は無事でしたが、奏上門の破風にその黒焦げの跡が残っています。
山車小屋は被弾しましたが、幸いにも不発弾で山車の消失は免れました。
山車には、今でも弾の跡が残っています。
山車
今も残る弾の跡
前回、個人で見に来た時には、神楽殿で行われたのを見ましたが、今回は山車の上で演じられたので、それがとても良かった。
豊年足踊りは、何度みても感心してしまいます。
とてもいい伝統芸能です。
ぜひ地域の宝として、守っていって欲しいと思います。
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14時くらいに笹井の白鬚神社に到着。
ここの春祭りで行われます。
拝殿
今回は、団体で見学に訪れたので、保存会の方が演じる前に、説明をしてくださいました。
また、事前に詳しい説明の記事をいただいていたので、とても参考になりました。
「豊年足踊り」は、明治中期に地元の百性桜井藤太郎氏が土蔵や屋根裏でひそかに工夫を重ね苦心の末、完成させたもので、踊り手は床に寝て足を立て、右足に「おかめ」、左足に「ひよつとこ」の面と衣装を付けて、舞扇,日傘などを使い磯子に合わせて踊るものです。
独特の動き・豊富な色彩は、素朴な「男女相愛」の様を表すとともに、「五穀豊穣」を祈る心情表現として永く地元白鬚神社に奉納されている所から「笹井豊年足踊り」と呼ばれています。
昭和52年狭山市の無形文化財に指定されました。
山車の上では一人で演じますが大きな舞台になりますと3~5人で演じます。
最初に演じられたのは「天狐の舞」
【天狐の舞】
白狐は神の使者、正しき事は何処までも通す強い意志と迫力を表し幣束を打ち振り、悪霊を追い払い、この世に平和を招く。
右手に持った2本の幣束を両手に分け頭上に掲げる所作は山車に天降った神が昇天していく様を表しています。
どのような舞台でも屋台の曲で「天狐の舞」を最初に舞うのがしきたりです。
一連の踊りは別名「翁漉し」と呼ばれます。
動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。
その動画を見る
【豊年足踊り】
このように足の先に面をつける。
(2015年10月の秋祭りの際に撮ったもの)
足を高くあげて、色々な踊りを披露します。
10分以上、ずっと足を上げたまま踊りを披露しているのは、すごいものだと感心します。
こちらも、動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。
その動画を見る
踊りを見たあと、山車に残る戦災の跡を見せてもらいました。
昭和20年5月、狭山市の黒須地区、笹井地区に、B29爆撃機500機のうち1機が、迷って飛んできて焼夷弾5000発を投下しました。
この一帯は火の海となり、死者13名、被災所帯69戸に達しました。
白鬚神社も拝殿と社務所を焼失、本殿は無事でしたが、奏上門の破風にその黒焦げの跡が残っています。
山車小屋は被弾しましたが、幸いにも不発弾で山車の消失は免れました。
山車には、今でも弾の跡が残っています。
山車
今も残る弾の跡
前回、個人で見に来た時には、神楽殿で行われたのを見ましたが、今回は山車の上で演じられたので、それがとても良かった。
豊年足踊りは、何度みても感心してしまいます。
とてもいい伝統芸能です。
ぜひ地域の宝として、守っていって欲しいと思います。
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京都・河合神社の狛犬
20170416
所在地:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
撮影日:2017年3月22日
年代:延宝7年(1679)
材質:木製
型式:神殿型
河合神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
拝殿
本殿の回廊に居ました。
右側の阿形獅子
左側の吽形狛犬
特徴:
・身体が茶色、たてがみ・眉・顎鬚・尾は白に彩色されている。
・右側が阿形、たてがみが巻き毛なので獅子。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。
・左側吽形の頭には角がある。角に節様のものがあり独特。
・顔は、眉&顎鬚がたてがみと同様白く塗られていて目立つ。
・眼は玉眼
・表情は厳めしいが、あまり顔がデフォルメされていないので、すっきりした印象。
・前足は、やや前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。
・尾は、やや炎様に扇形に広がって立っている。
尾は、やや炎様に扇形に広がって立っている。
河合神社の境内社・貴布禰神社にも、狛犬が居た。
社殿の回廊に居た。
年代:不明
材質:木製
型式:神殿型
右側の阿形狛犬
この角度でしか撮れなかった。
左側の吽形狛犬
特徴:
・身体が茶色、たてがみ・眉・顎鬚・尾は白に彩色されている。
・右側が阿形、たてがみが流れていて狛犬。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。
・左側吽形の頭には角がある。
・眉&顎鬚がたてがみと同様白く塗られている。
・眼は玉眼
・あまり顔がデフォルメされていなくて、表情もおとなしい。
・前足は、やや前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。
・尾は、一筋背中に沿って長く付いている。
狛犬の記事一覧を見る
撮影日:2017年3月22日
年代:延宝7年(1679)
材質:木製
型式:神殿型
河合神社については、既に記事にしています。
その記事を読む
拝殿
本殿の回廊に居ました。
右側の阿形獅子
左側の吽形狛犬
特徴:
・身体が茶色、たてがみ・眉・顎鬚・尾は白に彩色されている。
・右側が阿形、たてがみが巻き毛なので獅子。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。
・左側吽形の頭には角がある。角に節様のものがあり独特。
・顔は、眉&顎鬚がたてがみと同様白く塗られていて目立つ。
・眼は玉眼
・表情は厳めしいが、あまり顔がデフォルメされていないので、すっきりした印象。
・前足は、やや前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。
・尾は、やや炎様に扇形に広がって立っている。
尾は、やや炎様に扇形に広がって立っている。
河合神社の境内社・貴布禰神社にも、狛犬が居た。
社殿の回廊に居た。
年代:不明
材質:木製
型式:神殿型
右側の阿形狛犬
この角度でしか撮れなかった。
左側の吽形狛犬
特徴:
・身体が茶色、たてがみ・眉・顎鬚・尾は白に彩色されている。
・右側が阿形、たてがみが流れていて狛犬。
・左側は吽形、たてがみが流れているので狛犬。
・左側吽形の頭には角がある。
・眉&顎鬚がたてがみと同様白く塗られている。
・眼は玉眼
・あまり顔がデフォルメされていなくて、表情もおとなしい。
・前足は、やや前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。
・尾は、一筋背中に沿って長く付いている。
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玉依日売命(たまよりひめのみこと)/日本の神々の話
20170416
記紀・風土記などに見える女神で、それぞれ別の女性を示す。
『古事記』は玉依毘売命、『日本書紀』は玉依姫尊と表す。
①日本書紀第七の一書に、「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。ここでいう児萬幡姫は栲幡千千姫命の別名で、天火明命と瓊瓊杵尊の母である。
②日本神話で、海神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。
③賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ。
一般には、玉依姫命の玉依は霊依で、タマは神霊、ヨリは人間に憑る(ツク)ことであり、 神霊が憑依する女、即ち巫女のこと。よって、似た神名は古典にたびたび登場し、混同される場合も多い。
②、③の二つを、もう少し詳しく載せておく。
【②記紀など日本神話に登場するタマヨリヒメ】
綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。
『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。
第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある
上総国一宮・玉前神社、下鴨神社摂社・河合神社では、神武天皇の御母神として祀っているので、この神が該当する。
【③賀茂伝説のタマヨリヒメ】
『山城風土記逸文』にでてくる賀茂神社縁起の玉依日売。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、 さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。 丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、 大山咋神が化した丹塗矢が川上から流れ下って来た。 これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子(賀茂別雷命)を産んだ。
よって、賀茂系の玉依日売命を区別して鴨玉依姫命などと呼称する場合もある。
こちらが、賀茂御祖神社(下鴨神社)のご祭神である。
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『古事記』は玉依毘売命、『日本書紀』は玉依姫尊と表す。
①日本書紀第七の一書に、「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。ここでいう児萬幡姫は栲幡千千姫命の別名で、天火明命と瓊瓊杵尊の母である。
②日本神話で、海神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。
③賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ。
一般には、玉依姫命の玉依は霊依で、タマは神霊、ヨリは人間に憑る(ツク)ことであり、 神霊が憑依する女、即ち巫女のこと。よって、似た神名は古典にたびたび登場し、混同される場合も多い。
②、③の二つを、もう少し詳しく載せておく。
【②記紀など日本神話に登場するタマヨリヒメ】
綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。
『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。
第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある
上総国一宮・玉前神社、下鴨神社摂社・河合神社では、神武天皇の御母神として祀っているので、この神が該当する。
【③賀茂伝説のタマヨリヒメ】
『山城風土記逸文』にでてくる賀茂神社縁起の玉依日売。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、 さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。 丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、 大山咋神が化した丹塗矢が川上から流れ下って来た。 これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子(賀茂別雷命)を産んだ。
よって、賀茂系の玉依日売命を区別して鴨玉依姫命などと呼称する場合もある。
こちらが、賀茂御祖神社(下鴨神社)のご祭神である。
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河合神社
20170415
鎮座地:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
別名:鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこべそじんじゃ)
参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)に参拝し、その後、出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して当社に参拝しました。
糺の森に入ってすぐに、河合神社はあります。
社号標
賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社では一番大きく、第一摂社であるとされています。
境内の糺の森の中にある「瀬見の小川」の西側にあります。
.
創建年は定かではないが、神武天皇の頃と考えられている。
ご祭神は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神・賀茂別雷命の母玉依媛命(たまよりひめのみこと)。
現在の社殿は、下鴨神社の1679年(延宝7年)の式年遷宮の際に、古殿舎を修造したもの。
美人の神として女性からの人気が高く、手鏡の形をした「鏡絵馬」に化粧を施したものが奉納されている。
鳥居を入るとき、美人祈願を終えた若い人たちとすれ違った。
手水鉢
神門
神門を入ると、まず舞殿があり。
拝殿
本殿の回廊に、美しい獅子・狛犬が居た。
拝殿前から本殿を拝する。
ご祭神は玉依比売命(たまよりひめのみこと)
神武天皇の御母神にあたります。
古くから女性の美の神様として信仰されており、安産・育児・縁結び・学業・長寿の神様ともいわれています。
依り代である鏡の下に白いものが見えていますが、これは「御白石」だそうです。
美肌になれるパワーストーンとして有名で、この石を触った手で顔をなでると、すべすべの色白肌になれるのだとか。
河合神社の絵馬は、日本古来の柄鏡の形をしている珍しい「鏡絵馬」。
顔の描かれた表面を、自分の顔と見立てて、自分のメイク道具で願いを込めて化粧し、裏面には、願い事を書くのだそうです。
奉納された絵馬
本殿の左に、境内社貴布禰神社、更に左に境内社任部社(専女社)が並びます。
〇貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神: 高龗神 (たかおかみのかみ)
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で水の神として有名。
鞍馬にある貴船神社がこの貴布禰神社の総本宮にあたる。
ここにも、きれいな獅子・狛犬が居ました。
〇任部社(とうべのやしろ)又は専女社(とうめのやしろ)
御祭神:八咫烏命(やたがらすのみこと)
河合神社創祀のときよりまつられている社である。
古名「専女」とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。
のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。昭和六年(1931)、御祭神の八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神として有名である。
サッカーボールなどの奉納品
〇六社(むつのやしろ)
〇鴨長明が晩年に暮らした方丈の再現
当社は、鴨長明とのゆかりが深い神社。
鴨長明はもともと、下鴨神社の神事を司る禰宜の家系に生まれたものの、家系の争いに敗れて神職に就けず、失意の日々を過ごした後に随筆「方丈記」を完成させていく事になります。この河合神社は禰宜の欠員が出た際に、鴨長明がその候補となっていた、本人にとっては忘れ難い神社なのだそうです。
河合神社の参拝を終え、糺の森を北上します。
時期が良ければ、青々とした木立の下を気持ちよく歩けるのですが、残念。
「瀬見の小川」
更に、糺の森を北上。
根元をきれいな形で養生していた。
「あけ橋」まで来たら、もう下鴨神社の鳥居が見えます。
次回は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の記事をアップします。
「神社巡拝」に飛ぶ
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別名:鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこべそじんじゃ)
参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)に参拝し、その後、出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して当社に参拝しました。
糺の森に入ってすぐに、河合神社はあります。
社号標
賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社では一番大きく、第一摂社であるとされています。
境内の糺の森の中にある「瀬見の小川」の西側にあります。
.
創建年は定かではないが、神武天皇の頃と考えられている。
ご祭神は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神・賀茂別雷命の母玉依媛命(たまよりひめのみこと)。
現在の社殿は、下鴨神社の1679年(延宝7年)の式年遷宮の際に、古殿舎を修造したもの。
美人の神として女性からの人気が高く、手鏡の形をした「鏡絵馬」に化粧を施したものが奉納されている。
鳥居を入るとき、美人祈願を終えた若い人たちとすれ違った。
手水鉢
神門
神門を入ると、まず舞殿があり。
拝殿
本殿の回廊に、美しい獅子・狛犬が居た。
拝殿前から本殿を拝する。
ご祭神は玉依比売命(たまよりひめのみこと)
神武天皇の御母神にあたります。
古くから女性の美の神様として信仰されており、安産・育児・縁結び・学業・長寿の神様ともいわれています。
依り代である鏡の下に白いものが見えていますが、これは「御白石」だそうです。
美肌になれるパワーストーンとして有名で、この石を触った手で顔をなでると、すべすべの色白肌になれるのだとか。
河合神社の絵馬は、日本古来の柄鏡の形をしている珍しい「鏡絵馬」。
顔の描かれた表面を、自分の顔と見立てて、自分のメイク道具で願いを込めて化粧し、裏面には、願い事を書くのだそうです。
奉納された絵馬
本殿の左に、境内社貴布禰神社、更に左に境内社任部社(専女社)が並びます。
〇貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神: 高龗神 (たかおかみのかみ)
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で水の神として有名。
鞍馬にある貴船神社がこの貴布禰神社の総本宮にあたる。
ここにも、きれいな獅子・狛犬が居ました。
〇任部社(とうべのやしろ)又は専女社(とうめのやしろ)
御祭神:八咫烏命(やたがらすのみこと)
河合神社創祀のときよりまつられている社である。
古名「専女」とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。
のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。昭和六年(1931)、御祭神の八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神として有名である。
サッカーボールなどの奉納品
〇六社(むつのやしろ)
〇鴨長明が晩年に暮らした方丈の再現
当社は、鴨長明とのゆかりが深い神社。
鴨長明はもともと、下鴨神社の神事を司る禰宜の家系に生まれたものの、家系の争いに敗れて神職に就けず、失意の日々を過ごした後に随筆「方丈記」を完成させていく事になります。この河合神社は禰宜の欠員が出た際に、鴨長明がその候補となっていた、本人にとっては忘れ難い神社なのだそうです。
河合神社の参拝を終え、糺の森を北上します。
時期が良ければ、青々とした木立の下を気持ちよく歩けるのですが、残念。
「瀬見の小川」
更に、糺の森を北上。
根元をきれいな形で養生していた。
「あけ橋」まで来たら、もう下鴨神社の鳥居が見えます。
次回は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の記事をアップします。
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出雲路幸神社・鴨川デルタ・出雲郷ゆかりの地
20170413
3月22日、青春18キップの旅の初日、日吉大社、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)に参拝し、バスで地下鉄「北山駅」に出て、地下鉄「今出川」駅に移動しました。
これから訪ねるのは、鴨川西岸に広がる出雲路町です。この地域は古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来します。
このことを知ったのは、岡本雅享氏の「出雲を源郷とする人たち」によってでした。
埼玉県に出雲系の神社が多く、自然と出雲族の痕跡に関心が強くなったので、今回の「18キップの旅」のサブテーマを「出雲族の痕跡」としています。
賀茂川と高野川が合流し鴨川となるY字地帯(京都市左京区下鴨)に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神社) の境内に、山城(背)国愛宕郡の式内社、出雲井於(いのへの)神社の比定社(通称比良木社)がある。この出雲社に近い西鳥居を出て賀茂川へ向かうと、出雲路橋を渡り、同川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町に至る。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
その出雲郷の跡に、「出雲路」という地名が残っている。
上賀茂神社のあと、下鴨神社に参拝するのは当然ですが、この日はまだ時間に余裕があるので、このようにルートを決めました。
逆時計回りに回ることにして、今出川駅⇒出雲路・幸神社⇒鴨川デルタ⇒河合神社⇒糺の森⇒賀茂御祖神社(下鴨神社)⇒出雲路橋⇒出雲路郵便局前⇒御霊神社⇒出雲寺⇒出雲路神楽町。
鴨川デルタを入れたのは、テレビで良く見ているので、ぜひ渡ってみたいという、いかにも子供っぽい気持ちから(笑)
地下鉄今出川駅を降りて、今出川通りを鴨川に向かって歩く。
左側が同志社大学、右側が御所。
同志社大学
京都御所今出川御門
京都御所が切れたところでちょっと北に出雲路・幸神社がある。
下図で赤字のところ。
京都御所の角を左折していくと、突き当たりにある。
【出雲路・幸神社(さいのかみのやしろ)】
鎮座地:京都府京都市上京区幸神町303
参拝日:2017年3月22日
社号標
「皇城鬼門除 出雲路幸神社」とある。
当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興。桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営。2年後のこととも。平安遷都後初めての神社とも言われる。
『延喜式』に、外国使臣の来朝に際し、洛中洛外の境である当所において、使臣などの入京に先立ち、祓の麻を賜い、神事を修すとある。現今、諸方の神社で御礼(大麻)、御守(小麻)を授与することの原形とされる。
『百練抄』と当社所蔵の旧記によれば、朱雀天皇の天慶2年(939年)に御分霊を内裏に奉遷、庚申祭を執行した。また、同旧記によれば、一条天皇の長保元年(999年)、天慶同様の儀を執行した。
『本朝世記』では、近衛天皇の久安4年(1148年)3月4日の皇宮炎上によって類焼とみえ、『明月記』に、後堀河天皇の嘉緑2年(1226年)、近隣民家の出火で類焼とある。
社号に幸の字をあてた時代は判明しないが、天和2年(1682年)、神主奥村右京の記した縁起や、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号がすでに見られる。
応仁の乱において、細川勝元が当地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって焼失。社地は荒廃したが、祭祀は受け継がれ、当社旧記に種々の記録が見える。
慶長年間(1596年-1615年)、豊臣秀吉による京都整備において、封域を大幅に縮小させられて、小祠となった。
しかし天和2年(1682年)、会津藩出身の奥村右京仲之が神主として復興、次いで宝永2年(1705年)、僧光栄が立願して再建、西隣を社地に編入する。翌3年には神輿を奉造する。
同5年、類焼して灰燼に帰したが、翌6年に再建、さらに東隣を社地に加え、往時の姿を整える。寛保3年(1743年)には桜町天皇が神輿を寄進。天明8年、京都の大火でまた類焼し、その後再建。
明治6年(1873年)に村社に列格、明治25年(1892年)に公費供進社に指定される。
入り口の鳥居
由緒書き
中に入る。
手水舎
享保2年(1717)の石灯篭
拝殿
社額
本殿
本殿の東側に祀られている木彫りの猿の神像
御祭神は、猿田彦神
相殿神が、天之御中主日御神、可美葦牙彦舅尊、天照皇太神、皇孫瓊々杵尊、天鈿女命、大国主尊、少彦名太神、事代主命。
境内北東、結界の中に石神がある。
神石の脇にも境内社が一つあり、猿田彦社だと思われる。
石神
出雲路の道祖神社では、本殿の右裏手の 結界の中に鎮座する陽石が実質的な愛法神の御神体である。狂言の「石神」には、夫と離縁したい妻がこの石神で占いをする場 面がある。これは、相談をもちかけられた 仲人が「出雲路の夜叉神を引いてあなたの心を決めなさい」と勧めたためだ。夜叉神は石神(しゃくじんn)が訛ったという説もあるが、東寺の夜叉神の例を思いあわせれば納得される名だ。願いをかけながら石神を持ち上げて みて、上がればよし、上がらぬときは不成就というのが「夜叉神を引く」占いの方法 である。これには裏があって、離縁したくない夫は先回りして夜叉神に化け、何とか妻を思いとどまらせようとするのだ。いざ占おうとするとき妻が歌う、「わが恋は遂ぎよずやらう、末遂ぎよずやらう、上がれ 上がれ、上が上がらしめの石神」という謡から推測すると、恋の行方を占うために石神を待ち上げてみる、というのが本来のあり方のようである。 結局夫の企みは失敗し、妻が「やるまいぞ」と追いかけて終わりになるが、不思議なのはこの妻が、「私は神子の子孫だから 神に御苦労をかけたお詫びに神楽を舞って帰りましょう」という狂言のせりふである。 神子とは巫女と同義だから、道祖神の前で法楽の舞を舞う妻の姿に、愛法神を祀る伊賀専女のような巫女の古代的イメージを重ねあわせてみるのもいいかもしれない。
-『京都魔界めぐり』-
境内社は、三天社、稲荷社、竃神社、天満宮、淡島社、春日社、厳島神社、稲荷神社、金毘羅社、疫神社。
これで、出雲路・幸神社の参拝を終え、再び今出川通りを鴨川に向かって歩くと「賀茂大橋」に出る。
【鴨川デルタ】
「鴨川デルタ」と呼ばれる京都・出町柳の鴨川三角州。
京都の川の代名詞と言えば「鴨川」ですが、市内中心部を流れる情緒豊かな川は実は「鴨川デルタ」が出発点です。東から流れてくる高野川と西から流れてくる賀茂川が合流して、鴨川となります。
この合流点に「飛び石」が置かれ、休日ともなると学生や親子連れで賑わう市民の憩いの場。近年では映画やアニメのロケ地として観光客にも有名となりました。
賀茂大橋のすぐ近くにある「飛び石」
飛び石を渡って興じる若者たちを、老夫婦がのんびり眺めていました。
私も渡っていきます。
亀や千鳥の形の飛び石もあり、亀の頭に乗って楽しんでいる。
賀茂川の上流方向
楽しそうです。
私は独り(苦笑)
悠然と上流を見つめる亀。
ちょっと流れの速いところは、ちょっとスリルもあり。
デルタに渡った。
しばらく若者が興じている様子を眺めた。
高野川のほうにも飛び石があるが、私はデルタを北上するので、こっちは渡らず。
白鷺ものんびりと。
北上します。
河原にあったマップを見ると、飛び石は三か所あるんですね。
私が渡ったのはデルタの先端を介している、一番上流のものだった。
河原から上に上がると、「出町橋」のところです。
ここから、「鴨川公園」に入る。
少しいくと、「糺(ただす」の森になります。
糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。
賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。
糺の森を進むと、「河合神社」、賀茂御祖神社(下鴨神社)があり、それに参拝しました。
これは別途記事とします。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の参拝を終え、出雲路地区を散策します。
コースは、出雲路橋⇒出雲路郵便局⇒御霊神社⇒出雲寺。
【出雲路地区】
出雲路橋を渡ると、賀茂川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町がある。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背(山城)の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
出雲路橋
出雲路橋上からの賀茂川の眺め。
出雲路橋を渡ってすぐのところに、賀茂御祖神社(下鴨神社)の社号標がある。
ここまで、かっては下鴨神社の社域だった。
鞍馬口通り
出雲路橋郵便局がある道に左折してすぐに、出雲路橋郵便局があり。
出雲寺跡といわれる御霊神社に着きました。
御霊神社については、別記事とします。
御霊神社参拝のあと、現在の出雲寺を探しましたが、ちょっと苦労しました。
【出雲寺】
所在地:京都府京都市上京区藪之下町
一時荒廃し、江戸中期には観音堂が残るのみだった。『山州名跡志』に、御霊社の観音堂は 「神殿北に在り。本尊聖観音(立像五尺四寸)……此の地始め伽藍あって上出雲寺と号す。其の一堂の本尊なり」 とある。
その観音堂は明治維新の神仏分離に伴い、光明山念仏寺に遷された。
戦後、出雲寺に改称した念仏寺が、今の出雲寺だ。
入り口の門
境内は狭い。
本堂
境内
本尊を拝したかったが、もう17時を過ぎており、人の気配もなかった。
近年、出雲寺をめぐる考古学上の発見が続いているそうだ。2004年、京都市埋蔵文化財研究所が相国寺境内で行った調査では、古代出雲郷の集落跡とみられる、七世紀後半の竪穴住居20棟と八世紀前半の掘立柱建物二棟が見つかった。江戸前期の『薙州府志』は 「出雲寺町は相国寺慈照院の北に在り……是れ古の上出雲寺の有る所也」と伝える。慈照院は相国寺境内の北西角にあり、上御霊神社にも近い。竪穴住居跡では、鞴(ふいご)の羽口など鉄製品を作る道具や鉄くず、白鳳時代の瓦も発見された。
発掘を担当した東洋一氏は、大型の掘立柱建物は出雲郷計帳に載る出雲臣の屋敷で、それに先立つ竪穴住居には製鉄技術を備えた出雲人が住み、出雲寺の建設に関わっていたとみる。
2015年夏にも、御霊神社西隣の上京遺跡で七世紀後半の建物跡が見つかった。発掘にあたった古代文化調査会の家崎孝治代表は、出雲郷計帳の有力出雲臣の早期屋敷跡とみる。
これで、出雲路地域の探訪を終え、「出雲路神楽町」のバス停でバスに乗ろうとしたが、ここからは京都駅には出ない路線だった。
さっき鴨川デルタから北上したときに、鴨川公園入口のバス停「新葵橋」にけっこう続けてバスが来ていたのを思い出し、賀茂川の反対側に向かった。
バス停「新葵橋」からバスで、京都駅に出た。
今夜の宿泊は、JR奈良駅近くのホテルを予約してあるので、JR奈良線で奈良に向かった。
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これから訪ねるのは、鴨川西岸に広がる出雲路町です。この地域は古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来します。
このことを知ったのは、岡本雅享氏の「出雲を源郷とする人たち」によってでした。
埼玉県に出雲系の神社が多く、自然と出雲族の痕跡に関心が強くなったので、今回の「18キップの旅」のサブテーマを「出雲族の痕跡」としています。
賀茂川と高野川が合流し鴨川となるY字地帯(京都市左京区下鴨)に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神社) の境内に、山城(背)国愛宕郡の式内社、出雲井於(いのへの)神社の比定社(通称比良木社)がある。この出雲社に近い西鳥居を出て賀茂川へ向かうと、出雲路橋を渡り、同川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町に至る。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
その出雲郷の跡に、「出雲路」という地名が残っている。
上賀茂神社のあと、下鴨神社に参拝するのは当然ですが、この日はまだ時間に余裕があるので、このようにルートを決めました。
逆時計回りに回ることにして、今出川駅⇒出雲路・幸神社⇒鴨川デルタ⇒河合神社⇒糺の森⇒賀茂御祖神社(下鴨神社)⇒出雲路橋⇒出雲路郵便局前⇒御霊神社⇒出雲寺⇒出雲路神楽町。
鴨川デルタを入れたのは、テレビで良く見ているので、ぜひ渡ってみたいという、いかにも子供っぽい気持ちから(笑)
地下鉄今出川駅を降りて、今出川通りを鴨川に向かって歩く。
左側が同志社大学、右側が御所。
同志社大学
京都御所今出川御門
京都御所が切れたところでちょっと北に出雲路・幸神社がある。
下図で赤字のところ。
京都御所の角を左折していくと、突き当たりにある。
【出雲路・幸神社(さいのかみのやしろ)】
鎮座地:京都府京都市上京区幸神町303
参拝日:2017年3月22日
社号標
「皇城鬼門除 出雲路幸神社」とある。
当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興。桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営。2年後のこととも。平安遷都後初めての神社とも言われる。
『延喜式』に、外国使臣の来朝に際し、洛中洛外の境である当所において、使臣などの入京に先立ち、祓の麻を賜い、神事を修すとある。現今、諸方の神社で御礼(大麻)、御守(小麻)を授与することの原形とされる。
『百練抄』と当社所蔵の旧記によれば、朱雀天皇の天慶2年(939年)に御分霊を内裏に奉遷、庚申祭を執行した。また、同旧記によれば、一条天皇の長保元年(999年)、天慶同様の儀を執行した。
『本朝世記』では、近衛天皇の久安4年(1148年)3月4日の皇宮炎上によって類焼とみえ、『明月記』に、後堀河天皇の嘉緑2年(1226年)、近隣民家の出火で類焼とある。
社号に幸の字をあてた時代は判明しないが、天和2年(1682年)、神主奥村右京の記した縁起や、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号がすでに見られる。
応仁の乱において、細川勝元が当地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって焼失。社地は荒廃したが、祭祀は受け継がれ、当社旧記に種々の記録が見える。
慶長年間(1596年-1615年)、豊臣秀吉による京都整備において、封域を大幅に縮小させられて、小祠となった。
しかし天和2年(1682年)、会津藩出身の奥村右京仲之が神主として復興、次いで宝永2年(1705年)、僧光栄が立願して再建、西隣を社地に編入する。翌3年には神輿を奉造する。
同5年、類焼して灰燼に帰したが、翌6年に再建、さらに東隣を社地に加え、往時の姿を整える。寛保3年(1743年)には桜町天皇が神輿を寄進。天明8年、京都の大火でまた類焼し、その後再建。
明治6年(1873年)に村社に列格、明治25年(1892年)に公費供進社に指定される。
入り口の鳥居
由緒書き
中に入る。
手水舎
享保2年(1717)の石灯篭
拝殿
社額
本殿
本殿の東側に祀られている木彫りの猿の神像
御祭神は、猿田彦神
相殿神が、天之御中主日御神、可美葦牙彦舅尊、天照皇太神、皇孫瓊々杵尊、天鈿女命、大国主尊、少彦名太神、事代主命。
境内北東、結界の中に石神がある。
神石の脇にも境内社が一つあり、猿田彦社だと思われる。
石神
出雲路の道祖神社では、本殿の右裏手の 結界の中に鎮座する陽石が実質的な愛法神の御神体である。狂言の「石神」には、夫と離縁したい妻がこの石神で占いをする場 面がある。これは、相談をもちかけられた 仲人が「出雲路の夜叉神を引いてあなたの心を決めなさい」と勧めたためだ。夜叉神は石神(しゃくじんn)が訛ったという説もあるが、東寺の夜叉神の例を思いあわせれば納得される名だ。願いをかけながら石神を持ち上げて みて、上がればよし、上がらぬときは不成就というのが「夜叉神を引く」占いの方法 である。これには裏があって、離縁したくない夫は先回りして夜叉神に化け、何とか妻を思いとどまらせようとするのだ。いざ占おうとするとき妻が歌う、「わが恋は遂ぎよずやらう、末遂ぎよずやらう、上がれ 上がれ、上が上がらしめの石神」という謡から推測すると、恋の行方を占うために石神を待ち上げてみる、というのが本来のあり方のようである。 結局夫の企みは失敗し、妻が「やるまいぞ」と追いかけて終わりになるが、不思議なのはこの妻が、「私は神子の子孫だから 神に御苦労をかけたお詫びに神楽を舞って帰りましょう」という狂言のせりふである。 神子とは巫女と同義だから、道祖神の前で法楽の舞を舞う妻の姿に、愛法神を祀る伊賀専女のような巫女の古代的イメージを重ねあわせてみるのもいいかもしれない。
-『京都魔界めぐり』-
境内社は、三天社、稲荷社、竃神社、天満宮、淡島社、春日社、厳島神社、稲荷神社、金毘羅社、疫神社。
これで、出雲路・幸神社の参拝を終え、再び今出川通りを鴨川に向かって歩くと「賀茂大橋」に出る。
【鴨川デルタ】
「鴨川デルタ」と呼ばれる京都・出町柳の鴨川三角州。
京都の川の代名詞と言えば「鴨川」ですが、市内中心部を流れる情緒豊かな川は実は「鴨川デルタ」が出発点です。東から流れてくる高野川と西から流れてくる賀茂川が合流して、鴨川となります。
この合流点に「飛び石」が置かれ、休日ともなると学生や親子連れで賑わう市民の憩いの場。近年では映画やアニメのロケ地として観光客にも有名となりました。
賀茂大橋のすぐ近くにある「飛び石」
飛び石を渡って興じる若者たちを、老夫婦がのんびり眺めていました。
私も渡っていきます。
亀や千鳥の形の飛び石もあり、亀の頭に乗って楽しんでいる。
賀茂川の上流方向
楽しそうです。
私は独り(苦笑)
悠然と上流を見つめる亀。
ちょっと流れの速いところは、ちょっとスリルもあり。
デルタに渡った。
しばらく若者が興じている様子を眺めた。
高野川のほうにも飛び石があるが、私はデルタを北上するので、こっちは渡らず。
白鷺ものんびりと。
北上します。
河原にあったマップを見ると、飛び石は三か所あるんですね。
私が渡ったのはデルタの先端を介している、一番上流のものだった。
河原から上に上がると、「出町橋」のところです。
ここから、「鴨川公園」に入る。
少しいくと、「糺(ただす」の森になります。
糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。
賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。
糺の森を進むと、「河合神社」、賀茂御祖神社(下鴨神社)があり、それに参拝しました。
これは別途記事とします。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の参拝を終え、出雲路地区を散策します。
コースは、出雲路橋⇒出雲路郵便局⇒御霊神社⇒出雲寺。
【出雲路地区】
出雲路橋を渡ると、賀茂川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町がある。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。
八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背(山城)の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。
出雲路橋
出雲路橋上からの賀茂川の眺め。
出雲路橋を渡ってすぐのところに、賀茂御祖神社(下鴨神社)の社号標がある。
ここまで、かっては下鴨神社の社域だった。
鞍馬口通り
出雲路橋郵便局がある道に左折してすぐに、出雲路橋郵便局があり。
出雲寺跡といわれる御霊神社に着きました。
御霊神社については、別記事とします。
御霊神社参拝のあと、現在の出雲寺を探しましたが、ちょっと苦労しました。
【出雲寺】
所在地:京都府京都市上京区藪之下町
一時荒廃し、江戸中期には観音堂が残るのみだった。『山州名跡志』に、御霊社の観音堂は 「神殿北に在り。本尊聖観音(立像五尺四寸)……此の地始め伽藍あって上出雲寺と号す。其の一堂の本尊なり」 とある。
その観音堂は明治維新の神仏分離に伴い、光明山念仏寺に遷された。
戦後、出雲寺に改称した念仏寺が、今の出雲寺だ。
入り口の門
境内は狭い。
本堂
境内
本尊を拝したかったが、もう17時を過ぎており、人の気配もなかった。
近年、出雲寺をめぐる考古学上の発見が続いているそうだ。2004年、京都市埋蔵文化財研究所が相国寺境内で行った調査では、古代出雲郷の集落跡とみられる、七世紀後半の竪穴住居20棟と八世紀前半の掘立柱建物二棟が見つかった。江戸前期の『薙州府志』は 「出雲寺町は相国寺慈照院の北に在り……是れ古の上出雲寺の有る所也」と伝える。慈照院は相国寺境内の北西角にあり、上御霊神社にも近い。竪穴住居跡では、鞴(ふいご)の羽口など鉄製品を作る道具や鉄くず、白鳳時代の瓦も発見された。
発掘を担当した東洋一氏は、大型の掘立柱建物は出雲郷計帳に載る出雲臣の屋敷で、それに先立つ竪穴住居には製鉄技術を備えた出雲人が住み、出雲寺の建設に関わっていたとみる。
2015年夏にも、御霊神社西隣の上京遺跡で七世紀後半の建物跡が見つかった。発掘にあたった古代文化調査会の家崎孝治代表は、出雲郷計帳の有力出雲臣の早期屋敷跡とみる。
これで、出雲路地域の探訪を終え、「出雲路神楽町」のバス停でバスに乗ろうとしたが、ここからは京都駅には出ない路線だった。
さっき鴨川デルタから北上したときに、鴨川公園入口のバス停「新葵橋」にけっこう続けてバスが来ていたのを思い出し、賀茂川の反対側に向かった。
バス停「新葵橋」からバスで、京都駅に出た。
今夜の宿泊は、JR奈良駅近くのホテルを予約してあるので、JR奈良線で奈良に向かった。
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伊豆国一之宮・三嶋大社の桜
20170410
所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
撮影日:2017年4月9日
4月9日(日)に、「全国一之宮めぐり」ということで参拝しました。
まだ「青春18キップ」が残っていて、使用期間が4月10日まででした。
福島県三春の滝桜が昨年は11日が満開だったので、それに使う予定でしたが、今年は全然開花していないので、あきらめました。
それではということで、自宅の最寄駅から普通列車を乗り継いで3時間程度で行ける、静岡県三島にある「伊豆国一之宮・三嶋大社」に参拝することにしました。
それで、行ってみたら桜の名所だということで人出がすごくてビックリしました。
「三嶋大社」については後日記事にするとして、見事な桜について紹介しておきます。
三嶋駅からのんびり歩いて10分足らずで三嶋大社に到着。
あいにく、このころからポツリポツリと雨が降り出しました。
鳥居をくぐると、若山牧水の歌碑があります。
驚いたことに、池の真ん中に築いた参道が桜並木です。
参道の右側から。
同じく参道の左側から。
参道は桜のトンネル。
参道から池を介して、池の縁の見事な桜を眺められます。
桜のトンネルの下を、傘の行列が行きます。
桜の種類が多いので、その取り合わせの景色が素晴らしい。
参道の狛犬も、桜が咲いて嬉しそう。
総門の近くに、傾いて延びている頑張り屋の桜が(笑)
立派な総門です。
総門の中も桜並木が続きます。
古木がありました。
きれいに花を咲かせている。
神鹿園にも桜の木があります。
鹿も花見
小さい子も嬉しそう。
境内では、結婚式も行われていた。
満開の桜の下での結婚式。新郎新婦には素晴らしい思い出となったことでしょう。
また、古木があり。
若芽が開花していました。こんなの、いいですね。
「全国一之宮めぐり」で参拝したら、思いがけず目の保養となりました。
やはり桜は素晴らしい。
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撮影日:2017年4月9日
4月9日(日)に、「全国一之宮めぐり」ということで参拝しました。
まだ「青春18キップ」が残っていて、使用期間が4月10日まででした。
福島県三春の滝桜が昨年は11日が満開だったので、それに使う予定でしたが、今年は全然開花していないので、あきらめました。
それではということで、自宅の最寄駅から普通列車を乗り継いで3時間程度で行ける、静岡県三島にある「伊豆国一之宮・三嶋大社」に参拝することにしました。
それで、行ってみたら桜の名所だということで人出がすごくてビックリしました。
「三嶋大社」については後日記事にするとして、見事な桜について紹介しておきます。
三嶋駅からのんびり歩いて10分足らずで三嶋大社に到着。
あいにく、このころからポツリポツリと雨が降り出しました。
鳥居をくぐると、若山牧水の歌碑があります。
驚いたことに、池の真ん中に築いた参道が桜並木です。
参道の右側から。
同じく参道の左側から。
参道は桜のトンネル。
参道から池を介して、池の縁の見事な桜を眺められます。
桜のトンネルの下を、傘の行列が行きます。
桜の種類が多いので、その取り合わせの景色が素晴らしい。
参道の狛犬も、桜が咲いて嬉しそう。
総門の近くに、傾いて延びている頑張り屋の桜が(笑)
立派な総門です。
総門の中も桜並木が続きます。
古木がありました。
きれいに花を咲かせている。
神鹿園にも桜の木があります。
鹿も花見
小さい子も嬉しそう。
境内では、結婚式も行われていた。
満開の桜の下での結婚式。新郎新婦には素晴らしい思い出となったことでしょう。
また、古木があり。
若芽が開花していました。こんなの、いいですね。
「全国一之宮めぐり」で参拝したら、思いがけず目の保養となりました。
やはり桜は素晴らしい。
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小江戸・川越探訪
20170407
3月28日(火)に、歴史クラブ行事として行われた企画に参加しました。
コースは、「蔵造り街並み」、「時の鐘」など散策⇒「川越まつり会館」⇒昼食⇒「スカラ座映画館」⇒「中の門堀」⇒「川越市立博物館」⇒「本丸御殿」⇒「仙波東照宮」⇒「喜多院」⇒「五百羅漢」
地図
西武線本川越駅に集合し、徒歩で仲町まで移動、自由行動で「蔵造り街並み」を楽しんだ。
【蔵造り街並み】
川越町(当時)の3分の1を焼失した、明治26年(1893)の川越大火の後、川越商人が日本橋などの蔵造りを参考にして建てたもの。
蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものです。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめています。
今では、日本橋などにまったく見られなくなり、川越や佐原などにのみ見られることから、「小江戸」と云われる由縁です。
川越では、この通りを電柱の撤去など景観の向上に努めた結果、関東から観光客が押し寄せる人気観光地となっている。
蔵造りの家
ウィンドウには、楽しい小物などが並んで楽しませてくれる。
蔵造りだけでなく、こういう大正ロマンのあふれる建物もあり。
軒先に大根を干している漬物屋さんもあり。
重厚な蔵造りの店
こういう商家もいいですね。
現在も、埼玉りそな銀行の支店として営業している、旧第八十五銀行本店の建物。
手前の建物には、魔物よけの棟飾りが。
【時の鐘】
江戸時代の寛永年間に川越藩主・酒井忠勝によって建設されたのが始まり。
古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていたが、現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)川越城下に時を知らせている。
【川越まつり会館】
色々な人形を載せた山車で有名な「川越まつり」に関する資料を展示・伝統を保存するために作られた。
中に入ると、山車の人形が飾られている。
弁慶
太田道灌
ホールには、日本武尊と八幡太郎義家の山車が展示されていた。
螺旋階段で、山車の近くで見ることが出来る。
「おだまき」と云って、山車の上に乗る人形と上段幕を上下動させるからくり。
「氷川祭礼絵巻」
「氷川祭礼絵馬」
川越まつり会館を出て、次の目的地に向かって歩いていると、山車の収蔵庫があった。
このように、各町内に保管されている。
【スカラ座映画館】
前身は1905年(明治38年)に開業した寄席「一力亭」。その後、1907年(明治40年)に「おいで館」、1921年(大正10年)に「川越演芸館」と改称し営業を継続したが、戦後の1945年(昭和20年)に松竹の封切館「川越松竹館」として再建。1963年(昭和38年)に現館名に改称。
現在の建物は、1945年に完成したもの。
この日は休館日だったが、今でも営業しています。
【中の門堀】
私たちと入れ替わりに、着物姿の若い人たちが入ってきた。
【川越市立博物館】
館内は、ガイドが付いて説明を受けた。
レイアウト
展示の様子(パンフレットから)
蔵造りの建物の構造の、実寸カットモデルはすごかった。
川越市立博物館を出たところから、二班に分かれて、それぞれにガイド(有料)がついて、説明を受けながら移動しました。
【本丸御殿】
現存するのは、河越城と高知城のみというから、貴重な建物です。
この日は、前でガイドさんの説明を受けただけ。
【仙波東照宮】
今年の正月に、ここにある埼玉県最古の狛犬の写真を撮りに来て、その際に東照宮の写真もきちんと撮ったので、この日は全然写真を撮らなかった。
しかし、この記事を書く二あたって調べたら、狛犬についてはアップしてあるものの、東照宮の記事はアップしていなしことが判明(汗)
近日中にアップします。
この日は、松平信綱が植えたという「伊豆ざくら」がかなり開花していたので、これをアップしておきます。
【喜多院】
良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物はほとんどが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
本堂(パンフレットから)
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
江戸城紅葉山御殿の一部を移築した、家光誕生の間、春日局化粧の間などの建物、本堂を拝観した。
(写真はなし)
そこに入る前、門前の枝垂れ桜が、かなり咲いていた。
家光誕生の間などがある、建物の前の庭にも見事な桜があり、けっこう咲いていた。
〇家光公お手植え桜(二代目)
エドヒガン桜も綺麗だった。
この桜には、ずいぶんと鳥が来ていた。
本堂にいたる廊下からの桜
【喜多院五百羅漢】
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
これは良く見ると、顔が水面に映っている様を彫ったもの。実に凝ったものだ。
そしてガイドさんが、干支の動物を抱いたものが全部ある、と教えてくれたので、皆でそれを探すのに熱中。
思わぬ楽しみ方を教えてもらって、楽しかった。
子
丑
寅
卯
辰
巳
午
未
申
酉
戌
亥
これで、本日の「川越散策」は終り。
本川越まで歩いて戻り、帰途についた。
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コースは、「蔵造り街並み」、「時の鐘」など散策⇒「川越まつり会館」⇒昼食⇒「スカラ座映画館」⇒「中の門堀」⇒「川越市立博物館」⇒「本丸御殿」⇒「仙波東照宮」⇒「喜多院」⇒「五百羅漢」
地図
西武線本川越駅に集合し、徒歩で仲町まで移動、自由行動で「蔵造り街並み」を楽しんだ。
【蔵造り街並み】
川越町(当時)の3分の1を焼失した、明治26年(1893)の川越大火の後、川越商人が日本橋などの蔵造りを参考にして建てたもの。
蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものです。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめています。
今では、日本橋などにまったく見られなくなり、川越や佐原などにのみ見られることから、「小江戸」と云われる由縁です。
川越では、この通りを電柱の撤去など景観の向上に努めた結果、関東から観光客が押し寄せる人気観光地となっている。
蔵造りの家
ウィンドウには、楽しい小物などが並んで楽しませてくれる。
蔵造りだけでなく、こういう大正ロマンのあふれる建物もあり。
軒先に大根を干している漬物屋さんもあり。
重厚な蔵造りの店
こういう商家もいいですね。
現在も、埼玉りそな銀行の支店として営業している、旧第八十五銀行本店の建物。
手前の建物には、魔物よけの棟飾りが。
【時の鐘】
江戸時代の寛永年間に川越藩主・酒井忠勝によって建設されたのが始まり。
古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていたが、現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)川越城下に時を知らせている。
【川越まつり会館】
色々な人形を載せた山車で有名な「川越まつり」に関する資料を展示・伝統を保存するために作られた。
中に入ると、山車の人形が飾られている。
弁慶
太田道灌
ホールには、日本武尊と八幡太郎義家の山車が展示されていた。
螺旋階段で、山車の近くで見ることが出来る。
「おだまき」と云って、山車の上に乗る人形と上段幕を上下動させるからくり。
「氷川祭礼絵巻」
「氷川祭礼絵馬」
川越まつり会館を出て、次の目的地に向かって歩いていると、山車の収蔵庫があった。
このように、各町内に保管されている。
【スカラ座映画館】
前身は1905年(明治38年)に開業した寄席「一力亭」。その後、1907年(明治40年)に「おいで館」、1921年(大正10年)に「川越演芸館」と改称し営業を継続したが、戦後の1945年(昭和20年)に松竹の封切館「川越松竹館」として再建。1963年(昭和38年)に現館名に改称。
現在の建物は、1945年に完成したもの。
この日は休館日だったが、今でも営業しています。
【中の門堀】
私たちと入れ替わりに、着物姿の若い人たちが入ってきた。
【川越市立博物館】
館内は、ガイドが付いて説明を受けた。
レイアウト
展示の様子(パンフレットから)
蔵造りの建物の構造の、実寸カットモデルはすごかった。
川越市立博物館を出たところから、二班に分かれて、それぞれにガイド(有料)がついて、説明を受けながら移動しました。
【本丸御殿】
現存するのは、河越城と高知城のみというから、貴重な建物です。
この日は、前でガイドさんの説明を受けただけ。
【仙波東照宮】
今年の正月に、ここにある埼玉県最古の狛犬の写真を撮りに来て、その際に東照宮の写真もきちんと撮ったので、この日は全然写真を撮らなかった。
しかし、この記事を書く二あたって調べたら、狛犬についてはアップしてあるものの、東照宮の記事はアップしていなしことが判明(汗)
近日中にアップします。
この日は、松平信綱が植えたという「伊豆ざくら」がかなり開花していたので、これをアップしておきます。
【喜多院】
良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物はほとんどが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
本堂(パンフレットから)
鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
江戸城紅葉山御殿の一部を移築した、家光誕生の間、春日局化粧の間などの建物、本堂を拝観した。
(写真はなし)
そこに入る前、門前の枝垂れ桜が、かなり咲いていた。
家光誕生の間などがある、建物の前の庭にも見事な桜があり、けっこう咲いていた。
〇家光公お手植え桜(二代目)
エドヒガン桜も綺麗だった。
この桜には、ずいぶんと鳥が来ていた。
本堂にいたる廊下からの桜
【喜多院五百羅漢】
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
これは良く見ると、顔が水面に映っている様を彫ったもの。実に凝ったものだ。
そしてガイドさんが、干支の動物を抱いたものが全部ある、と教えてくれたので、皆でそれを探すのに熱中。
思わぬ楽しみ方を教えてもらって、楽しかった。
子
丑
寅
卯
辰
巳
午
未
申
酉
戌
亥
これで、本日の「川越散策」は終り。
本川越まで歩いて戻り、帰途についた。
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賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)/日本の神々の話
20170407
『古事記』、『日本書紀』には登場しない。
『山城国風土記』逸文に記述がある神である。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神社・鴨神社)で祀られる。
神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない。
『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。
太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が石川の瀬見の小川(鴨川)で身を清めていると、上流より天降りし丹塗矢(にぬりのや)が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売命が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売命の夢枕にある夜、御子が顕われ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓の蘰(かずら)を造り、厳しく飾りて吾れを待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎の祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。
武藤武美氏によれば、賀茂信仰の原始の姿は貴船の山に来臨する神が賀茂川に恵みの水をもたらすことを祈った御阿礼(みあれ)神事にうかがえる。〈ミアレ〉とは新しい神(この場合は雷神)の誕生をいう。賀茂伝説の基礎にはこの神事があり,ワケイカズチとは,この若い雷神の説話上の名称である。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。
賀茂別雷命は古事記には登場しないが、一部には大国主神の子で、やはり賀茂氏の祖として古事記にも登場する阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)と同一視する場合がある。
それは、『古事記』の「大国主神」の巻、「大国主の神裔」の段で、「阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、迦毛の大御神といふぞ」とあり、
また『賀茂之本地』では阿遅鉏高日子根神と同一視されていることによる。
賀茂別雷命の出生についての話と同様の話が『古事記』(大物主神と比売多多良伊須気余理比売)や『秦氏本系帳』(阿礼乎止女と大山咋神)にもあり、特に後者の話と混同されて、「賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神である」とする話も流布している。
賀茂氏にはいくつかの系統があるが、賀茂建角身命は古事記にも登場する八咫烏に化身した、とされる。
賀茂氏のなかで、オオモノヌシの子孫であるオオタタネコの孫が始祖だとする氏族もある。
実際、オオタタネコは『古事記』の「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主」の段で、「このオオタタネコノ命は神(みわ)の君・鴨の君の祖である」と記されている。つまり賀茂氏の祖とある。
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『山城国風土記』逸文に記述がある神である。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神社・鴨神社)で祀られる。
神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない。
『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。
太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が石川の瀬見の小川(鴨川)で身を清めていると、上流より天降りし丹塗矢(にぬりのや)が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売命が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売命の夢枕にある夜、御子が顕われ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓の蘰(かずら)を造り、厳しく飾りて吾れを待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎の祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。
武藤武美氏によれば、賀茂信仰の原始の姿は貴船の山に来臨する神が賀茂川に恵みの水をもたらすことを祈った御阿礼(みあれ)神事にうかがえる。〈ミアレ〉とは新しい神(この場合は雷神)の誕生をいう。賀茂伝説の基礎にはこの神事があり,ワケイカズチとは,この若い雷神の説話上の名称である。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。
賀茂別雷命は古事記には登場しないが、一部には大国主神の子で、やはり賀茂氏の祖として古事記にも登場する阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)と同一視する場合がある。
それは、『古事記』の「大国主神」の巻、「大国主の神裔」の段で、「阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、迦毛の大御神といふぞ」とあり、
また『賀茂之本地』では阿遅鉏高日子根神と同一視されていることによる。
賀茂別雷命の出生についての話と同様の話が『古事記』(大物主神と比売多多良伊須気余理比売)や『秦氏本系帳』(阿礼乎止女と大山咋神)にもあり、特に後者の話と混同されて、「賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神である」とする話も流布している。
賀茂氏にはいくつかの系統があるが、賀茂建角身命は古事記にも登場する八咫烏に化身した、とされる。
賀茂氏のなかで、オオモノヌシの子孫であるオオタタネコの孫が始祖だとする氏族もある。
実際、オオタタネコは『古事記』の「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主」の段で、「このオオタタネコノ命は神(みわ)の君・鴨の君の祖である」と記されている。つまり賀茂氏の祖とある。
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富岡八幡宮の狛犬
20170405
所在地:東京都江東区富岡一丁目20番3号 富岡八幡宮の参道
参拝日:2013年2月3日
年代:享保12年(1727)
材質:石造
型式:江戸付き尾型
富岡八幡宮については、既に記事にしています。
その記事を読む
右側に阿形獅子
左側に吽形獅子
特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・顔は、前髪&眉がカールして中央分け、顎髭も豊かで前髪と同様にカールしている、唐獅子のスタイル。
・伏せ耳が割と大きく目立つ。
・鼻、牙が大きく強調されている。
・表情は親しみやすい笑顔。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。足の付け根に炎様の巻き毛あり。
・尾は、やや炎様に扇形に広がって背中に付いている。
奉納年号
尾は、やや炎様に扇形に広がって背中に付いている。
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参拝日:2013年2月3日
年代:享保12年(1727)
材質:石造
型式:江戸付き尾型
富岡八幡宮については、既に記事にしています。
その記事を読む
右側に阿形獅子
左側に吽形獅子
特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・顔は、前髪&眉がカールして中央分け、顎髭も豊かで前髪と同様にカールしている、唐獅子のスタイル。
・伏せ耳が割と大きく目立つ。
・鼻、牙が大きく強調されている。
・表情は親しみやすい笑顔。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。足の付け根に炎様の巻き毛あり。
・尾は、やや炎様に扇形に広がって背中に付いている。
奉納年号
尾は、やや炎様に扇形に広がって背中に付いている。
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山城国一之宮・賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)
20170403
鎮座地:京都府京都市北区上賀茂本山339
参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、日吉大社に参拝し、京都に入り地下鉄「北山」駅から歩いて、まず大田神社に参拝してから、当社に着いた。
一の鳥居
社号標
式内社(名神大社)、山城国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
京都最古の歴史を有する一社であり、かってこの地を支配していた古代氏族「賀茂氏」の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。
ご祭神:賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)
賀茂氏の祖神。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。
創建については諸説ある。
社伝では、神武天皇の御代に本殿の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)に現在の御殿の基が整えられた。
ご祭神については、神話(『山城国風土記』逸文など)によると、太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が川で身を清めていると、上流より天降りし丹塗矢(にぬりのや)が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売命が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売命の夢枕にある夜、御子が顕われ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓の蘰(かずら)を造り、厳しく飾りて吾れを待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎の祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。
この御子神が賀茂別雷大神である。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。
延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。
境内図
一の鳥居をくぐると、広大な広場が広がる。
参道の右手には、咲くと見事だろうなと思わせる「斎王桜」と「御所桜」が並んでいる。
神馬舎
残念ながら、平日なので神馬「神山号」は不在。
二の鳥居
二の鳥居を入ると、右手に「楽屋」がある。
馬の形のおみくじ結びがしゃれている。
〇楽屋 1628年建造 重要文化財
〇土屋(到着殿) 1628年建造 重要文化財
細殿の前にあるのが、有名な「立砂」である。
〇立砂
頂に松の葉が立てられ、陰と陽の一対となっている。
右が二本なので、偶数で「陰」
左が三本なので、奇数で「陽」
〇拝殿(細殿) 1628年建造 重要文化財
正面の左右には、干支の絵馬がかけられている。
〇手水舎(神山水)
〇樟橋
「別名、長寿橋とも云い、一見石橋に見えますが、実は樟(くすのき)の化石であり、この橋を渡ると長寿になるという云われが古くより伝わっています。」の説明に吃驚!!
〇玉橋 重要文化財
楼門が、工事中でスッポリと覆われていてガックリ。
〇四脚中門 - 1628年建造 重要文化財
ここから本殿に向かって拝礼します。本殿は神聖な場所で近づくことはできません。
この中に、国宝の権殿、本殿があり、更に摂社「若宮神社(ご祭神:若宮神)」、末社「杉尾社 (ご祭神:杉尾神)」、末社「土師尾社(ご祭神:建玉依比古命)」がある。
私はテレビの特集番組で、中を映像では見ている。
中に入れたとしても、撮影禁止なので皆さんにお見せすることは出来ないが、権殿、本殿のそれぞれに獅子・狛犬が回廊に置かれて、守っている。
しかも、社殿の壁に獅子・狛犬が描かれていて「影狛」と云われる。
狩野派の絵師によるこの絵は、社殿の上に鎮座する狛犬たちの影を写し取って描かれたもの、と言われている。向かって右側に金色と緑の獅子(阿形)、左側には銀色と青の狛犬(吽形)。
壁に描かれたものと、獅子・狛犬像とは、色調も呼応している。
テレビの番組では、宮司さんが「狛犬さんが抜け出しては里でいたずらするので、影狛を描いて神社から抜け出さんよう封じている」と説明していた。
本殿に祀られているご祭神は、賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)
神紋は「二葉葵」
〇末社・棚尾社本殿 重要文化財
四脚中門に附いている。
ご祭神は、櫛石窓神と豊石窓神で、宮殿の門を守る神。
新宮神社と山尾社に向かって歩いていると、中門から延びる瑞垣の屋根に、魔よけの細工がすごかった。
〇摂社「新宮神社(ご祭神:高龗神)」・末社「山尾社(ご祭神:大山津見神)」
遥拝所にあたる門
金網越しに参拝。
正面が新宮神社、その左に横から見えているのが山尾社。
〇末社・川尾社(ご祭神:罔象女神)
〇摂社・片山御子神社(片岡社)
第一摂社。延喜式内社(大)「愛宕郡 片山御子神社」にあたります。
ご祭神:玉依比売命
片山御子神社(片岡社)は、上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷大神」の母君である「玉依比売命」を祀ったお社です。玉依比売命は賀茂族で最も権威の高い女性で、「賀茂別雷大神」に仕えて祭司を司っておられたと言われています。片山御子神社は第一摂社として上賀茂神社の祭礼でも、まず最初に祭りを行うのが恒例になっています。
〇摂社・須波神社
延喜式内社「愛宕郡 須波神社」にあたります。
ご祭神:阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神
社殿の両脇を流れていた、御手洗川と御物忌川が合流し、「ならの小川」となって流れます。
〇舞殿(橋殿) 1863年建造 重要文化財
上賀茂神社の舞殿は橋殿とも言われ、境内を流れる御手洗川をまたぐように建てられています。夏越大祓(なごしのおおはらえ)のお祭りでは橋殿から御手洗川に人形が流されます。(重要文化財)
〇紫式部の和歌の歌碑
片山御子神社は「縁結びの神様」としても古来から有名で、紫式部が何度もお参りしたことでも知られています。紫式部は、片岡社にちなんでこんな和歌を詠んでいます。
「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」
(新古今和歌集:第三巻 夏歌)
「和歌の意味」
ホトトギス(将来の結婚相手の声)を待ちわびる間、片岡社の木の下に立ち、朝露に濡れていましょう。
「ならの小川」の清流が、ここで二つに分かれる。
〇末社・岩本社(ご祭神:底筒男神・中筒男神・表筒男神)
〇摂社・賀茂山口神社(ご祭神:御歳神)
延喜式内社「愛宕郡 賀茂山口神社」にあたる。
〇北神饌所(庁屋)(奈良神社拝殿付属) 1628年建造 重要文化財
〇摂社・奈良神社(ご祭神:奈良刀自神)
鳥居と北神饌所の間にある。
ならの小川沿いに、二社あり。
〇末社・山森社(ご祭神:素盞嗚神・稲田姫命・田心姫命)
〇末社・梶田社(ご祭神:瀬織津姫神)
これで、上賀茂神社の参拝を終えました。
また、歩いて地下鉄北山駅に行くのはしんどいな、と思って一の鳥居前のバス停に行くと、巡回バスが北山駅前を通るのがわかり、北山駅前までバスで移動。
助かった。
地下鉄で北山駅から今出川駅に移動、出雲路幸神社、鴨川デルタに向かいました。
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参拝日:2017年3月22日
青春18キップの旅の初日、日吉大社に参拝し、京都に入り地下鉄「北山」駅から歩いて、まず大田神社に参拝してから、当社に着いた。
一の鳥居
社号標
式内社(名神大社)、山城国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
京都最古の歴史を有する一社であり、かってこの地を支配していた古代氏族「賀茂氏」の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。
ご祭神:賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)
賀茂氏の祖神。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。
創建については諸説ある。
社伝では、神武天皇の御代に本殿の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)に現在の御殿の基が整えられた。
ご祭神については、神話(『山城国風土記』逸文など)によると、太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が川で身を清めていると、上流より天降りし丹塗矢(にぬりのや)が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売命が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売命の夢枕にある夜、御子が顕われ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓の蘰(かずら)を造り、厳しく飾りて吾れを待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎の祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。
この御子神が賀茂別雷大神である。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。
延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。
境内図
一の鳥居をくぐると、広大な広場が広がる。
参道の右手には、咲くと見事だろうなと思わせる「斎王桜」と「御所桜」が並んでいる。
神馬舎
残念ながら、平日なので神馬「神山号」は不在。
二の鳥居
二の鳥居を入ると、右手に「楽屋」がある。
馬の形のおみくじ結びがしゃれている。
〇楽屋 1628年建造 重要文化財
〇土屋(到着殿) 1628年建造 重要文化財
細殿の前にあるのが、有名な「立砂」である。
〇立砂
頂に松の葉が立てられ、陰と陽の一対となっている。
右が二本なので、偶数で「陰」
左が三本なので、奇数で「陽」
〇拝殿(細殿) 1628年建造 重要文化財
正面の左右には、干支の絵馬がかけられている。
〇手水舎(神山水)
〇樟橋
「別名、長寿橋とも云い、一見石橋に見えますが、実は樟(くすのき)の化石であり、この橋を渡ると長寿になるという云われが古くより伝わっています。」の説明に吃驚!!
〇玉橋 重要文化財
楼門が、工事中でスッポリと覆われていてガックリ。
〇四脚中門 - 1628年建造 重要文化財
ここから本殿に向かって拝礼します。本殿は神聖な場所で近づくことはできません。
この中に、国宝の権殿、本殿があり、更に摂社「若宮神社(ご祭神:若宮神)」、末社「杉尾社 (ご祭神:杉尾神)」、末社「土師尾社(ご祭神:建玉依比古命)」がある。
私はテレビの特集番組で、中を映像では見ている。
中に入れたとしても、撮影禁止なので皆さんにお見せすることは出来ないが、権殿、本殿のそれぞれに獅子・狛犬が回廊に置かれて、守っている。
しかも、社殿の壁に獅子・狛犬が描かれていて「影狛」と云われる。
狩野派の絵師によるこの絵は、社殿の上に鎮座する狛犬たちの影を写し取って描かれたもの、と言われている。向かって右側に金色と緑の獅子(阿形)、左側には銀色と青の狛犬(吽形)。
壁に描かれたものと、獅子・狛犬像とは、色調も呼応している。
テレビの番組では、宮司さんが「狛犬さんが抜け出しては里でいたずらするので、影狛を描いて神社から抜け出さんよう封じている」と説明していた。
本殿に祀られているご祭神は、賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)
神紋は「二葉葵」
〇末社・棚尾社本殿 重要文化財
四脚中門に附いている。
ご祭神は、櫛石窓神と豊石窓神で、宮殿の門を守る神。
新宮神社と山尾社に向かって歩いていると、中門から延びる瑞垣の屋根に、魔よけの細工がすごかった。
〇摂社「新宮神社(ご祭神:高龗神)」・末社「山尾社(ご祭神:大山津見神)」
遥拝所にあたる門
金網越しに参拝。
正面が新宮神社、その左に横から見えているのが山尾社。
〇末社・川尾社(ご祭神:罔象女神)
〇摂社・片山御子神社(片岡社)
第一摂社。延喜式内社(大)「愛宕郡 片山御子神社」にあたります。
ご祭神:玉依比売命
片山御子神社(片岡社)は、上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷大神」の母君である「玉依比売命」を祀ったお社です。玉依比売命は賀茂族で最も権威の高い女性で、「賀茂別雷大神」に仕えて祭司を司っておられたと言われています。片山御子神社は第一摂社として上賀茂神社の祭礼でも、まず最初に祭りを行うのが恒例になっています。
〇摂社・須波神社
延喜式内社「愛宕郡 須波神社」にあたります。
ご祭神:阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神
社殿の両脇を流れていた、御手洗川と御物忌川が合流し、「ならの小川」となって流れます。
〇舞殿(橋殿) 1863年建造 重要文化財
上賀茂神社の舞殿は橋殿とも言われ、境内を流れる御手洗川をまたぐように建てられています。夏越大祓(なごしのおおはらえ)のお祭りでは橋殿から御手洗川に人形が流されます。(重要文化財)
〇紫式部の和歌の歌碑
片山御子神社は「縁結びの神様」としても古来から有名で、紫式部が何度もお参りしたことでも知られています。紫式部は、片岡社にちなんでこんな和歌を詠んでいます。
「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」
(新古今和歌集:第三巻 夏歌)
「和歌の意味」
ホトトギス(将来の結婚相手の声)を待ちわびる間、片岡社の木の下に立ち、朝露に濡れていましょう。
「ならの小川」の清流が、ここで二つに分かれる。
〇末社・岩本社(ご祭神:底筒男神・中筒男神・表筒男神)
〇摂社・賀茂山口神社(ご祭神:御歳神)
延喜式内社「愛宕郡 賀茂山口神社」にあたる。
〇北神饌所(庁屋)(奈良神社拝殿付属) 1628年建造 重要文化財
〇摂社・奈良神社(ご祭神:奈良刀自神)
鳥居と北神饌所の間にある。
ならの小川沿いに、二社あり。
〇末社・山森社(ご祭神:素盞嗚神・稲田姫命・田心姫命)
〇末社・梶田社(ご祭神:瀬織津姫神)
これで、上賀茂神社の参拝を終えました。
また、歩いて地下鉄北山駅に行くのはしんどいな、と思って一の鳥居前のバス停に行くと、巡回バスが北山駅前を通るのがわかり、北山駅前までバスで移動。
助かった。
地下鉄で北山駅から今出川駅に移動、出雲路幸神社、鴨川デルタに向かいました。
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天宇受賣命(あめのうずめのみこと)/日本の神々の話
20170402
『古事記』、『日本書紀』など日本神話に登場する女神。
一説に別名「宮比神」(みやびのかみ)、「大宮能売命 」(おおみやのめのみこと)。
稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。
『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
東京都府中の大國魂神社境内・宮乃咩神社、三峯神社境内・猿田彦神社、島根県熊野大社境内・伊邪那美神社、京都の大田神社にて参拝した。
『古事記』では「天岩戸」の場面、「天孫降臨」の場面、「猿田彦と天宇受賣命」の話に登場する。
『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「天の石屋戸」の段
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。
そこで天照大御神はふしぎに思われて、天の石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここにこもっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけで天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申しあげた。こう申す間に、天兒屋命と布刀玉命と布刀玉命が、その八咫鏡をさし出して、天照大御神にお見せ申しあげるとき、天照大御神がいよいよふしぎにお思いになって、そろそろと石屋戸から出て鏡の中をのぞかれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手を取って外に引き出し申した。ただちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内にもどっておはいりになることはできません」と申しあげた。こうして天照大御神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神」の段
天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、天宇受賣神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それで天宇受賣神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名は猿田毘古神と申します。私がここに出ているわけは「天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」 と申し上げた。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神と天宇受賣命」の段
さてそこで、邇邇芸命が天宇受賣命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕した 猿田毘古大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして猨女君(さるめのきみ)たちは、その猿田毘古の男神の名を負うて、女を猨女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。さてその猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。
さて天宇受賣命は、猿田毘古神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」 と問いただしたとき、多くの魚がみな 「お仕え申しましょう」 と申しあげた中で、海鼠(なまこ)だけは答えなかった。そこで天宇受賣命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志麻国から初物の魚介類を献上する時に、獲女君たちに分かち下されるのである。
猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。
芸能・技芸全般の神として信仰されており、千代神社(滋賀県彦根市)、芸能神社(京都市右京区)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、鈿女神社(長野県北安曇郡松川村)などで祀られている。
鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の大糸線北細野駅は信濃鉄道の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。
天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。
宮崎県西臼杵郡の高千穂町には、アメノウズメがサルタヒコと結婚した場、荒立宮の後と伝わる荒立神社があり、国際結婚・安産の神として、ウズメとサルタヒコが神体となっている。
村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
「天孫降臨」の場面
道祖神
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一説に別名「宮比神」(みやびのかみ)、「大宮能売命 」(おおみやのめのみこと)。
稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。
『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
東京都府中の大國魂神社境内・宮乃咩神社、三峯神社境内・猿田彦神社、島根県熊野大社境内・伊邪那美神社、京都の大田神社にて参拝した。
『古事記』では「天岩戸」の場面、「天孫降臨」の場面、「猿田彦と天宇受賣命」の話に登場する。
『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「天の石屋戸」の段
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。
そこで天照大御神はふしぎに思われて、天の石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここにこもっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけで天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申しあげた。こう申す間に、天兒屋命と布刀玉命と布刀玉命が、その八咫鏡をさし出して、天照大御神にお見せ申しあげるとき、天照大御神がいよいよふしぎにお思いになって、そろそろと石屋戸から出て鏡の中をのぞかれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手を取って外に引き出し申した。ただちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内にもどっておはいりになることはできません」と申しあげた。こうして天照大御神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神」の段
天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、天宇受賣神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それで天宇受賣神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名は猿田毘古神と申します。私がここに出ているわけは「天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」 と申し上げた。
『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神と天宇受賣命」の段
さてそこで、邇邇芸命が天宇受賣命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕した 猿田毘古大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして猨女君(さるめのきみ)たちは、その猿田毘古の男神の名を負うて、女を猨女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。さてその猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。
さて天宇受賣命は、猿田毘古神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」 と問いただしたとき、多くの魚がみな 「お仕え申しましょう」 と申しあげた中で、海鼠(なまこ)だけは答えなかった。そこで天宇受賣命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志麻国から初物の魚介類を献上する時に、獲女君たちに分かち下されるのである。
猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。
芸能・技芸全般の神として信仰されており、千代神社(滋賀県彦根市)、芸能神社(京都市右京区)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、鈿女神社(長野県北安曇郡松川村)などで祀られている。
鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の大糸線北細野駅は信濃鉄道の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。
天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。
宮崎県西臼杵郡の高千穂町には、アメノウズメがサルタヒコと結婚した場、荒立宮の後と伝わる荒立神社があり、国際結婚・安産の神として、ウズメとサルタヒコが神体となっている。
村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
「天孫降臨」の場面
道祖神
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大田神社と社家町
20170401
青春18キップの旅の初日、日吉大社の参拝後に湖西線で京都駅に出て、そこから地下鉄で「北山」駅まで移動、そこから歩いて15分くらいで到着しました。
【大田神社】
鎮座地:京都府京都市北区上賀茂本山340
参拝日:2017年3月22日
社号標
社格等: 式内社(小)、 賀茂別雷神社境外摂社
大田神社は上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社で、上賀茂を開墾して栄えた賀茂氏によって崇敬されました。起源は上賀茂神社よりも古く上賀茂では最古の神社と言われています。
古くは「恩多社(おんたしゃ)」と云われたようです。
ご祭神は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)
賀茂における最古の神社と伝わることから、長寿の信仰がある。
創建は不詳。賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国愛宕郡に「太田神社」(写本によっては「大田神社」)と記載され、式内社に列している。
参道の説明書き
赤鳥居と、その前の神橋
神橋右側の水面に「蛇の枕」があります。
〇蛇の枕
鳥居前に架かる石橋右側下の水面から、小さな石が顔をのぞかせている。この石は「蛇の枕」または「雨石」と呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝える。蛇は雨を降らせる生き物とされ、この蛇がいる枕のもとに行けば、雨乞いができると考えられた。儀礼は、この枕石を農具(鉄器)などで叩いて行われる。こうすることで、枕を叩かれた蛇が怒って雨を降らせるという。
静かで気持ちの良い参道。
大田神社の絵馬には、京都市の無形民俗文化財に登録されている巫女神楽で使われる、神楽鈴が描かれています。
社殿が近くなりました。
手水鉢
本殿・拝殿とも寛永5年(1628年)の造替。
拝殿
拝殿は「割拝殿」(わりはいでん:中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式で、屋根は本殿と同じく檜皮葺である。
本殿
本殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺。
拝殿の前から、「大田の小径」が延びています。
境内後方には、「大田の小径」と呼ばれる全長約750mの散策路が延びる。この散策路は、平成17年(2005年)に、地域住民で構成する「上賀茂自治連合会」「上賀茂まちづくり委員会」らによって整備されたもの。
神社背後の小山に、未舗装ながら整備された山道が続いている。散策路の両脇にはロープが張られているほか、途中の数か所に標識が設けられ、迷うことなく散策できる。北大路魯山人が愛したという山つつじが出迎える山道を進むと、展望箇所が設けられており、好天時には京都タワーや伏見桃山城を遠望できる。杉林を抜けて散策路を進むことで、岡本口(東側登り口、上賀茂岡本町地内)に至る、とのことです。
摂末社に参拝。
いずれも上賀茂神社においても境外末社に位置づけられています。
白鬚社
ご祭神:猿田彦命
鎮守社
ご祭神:大国主神、少彦名神
百大夫社
ご祭神:船玉神(ふなたまのかみ)
境内脇の、「大田ノ沢のカキツバタ群落」が有名です。
〇大田ノ沢のカキツバタ群落(国の天然記念物)
参道の脇の「大田ノ沢」では、約2000平方メートルの敷地にカキツバタ約25,000株が自生しており、「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれる。この大田ノ沢は平安時代からの名所とされ、尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えもある。毎年5月上旬から中旬にかけての開花時に、沢一面に濃淡さまざまな紫色の花をつけ、多くの観光客の目を楽しませる。
大田ノ沢は古代に深泥池と同様に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものであるとして、カキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定された。
文治6年(1190年)には、『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、紫一色に染まる様子を一図な恋心に例えて次の歌を詠んでいる。
「神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」
歌の大意:神山(賀茂別雷命の降臨地)の近くにある大田神社のかきつばたに、深くお願いする色事は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なのだろうか。
この時期では、ちょぼちょぼと芽が出てきた段階でした。
咲けば、このように見事な群落になるようです。
大田神社を後にして、上賀茂神社に向かいますが、まずは上賀茂神社から流れる禊の清流「明神川」のところに出ます。
大きなクスノキがあります。
クスノキの下に、上賀茂神社末社「藤木神社」があります。
〇藤木神社
ご祭神:瀬織津姫神
ここから上賀茂神社まで、明神川沿いに社家町(しゃけまち)があります。
【社家町(しゃけまち)】
上賀茂神社の東隣には、独特の風情が漂う「社家町」が広がっています。
「社家町」とは、神職(社家)の住宅が集まる町の事。
とうぜんのことながら神職は仕える神社のすぐ側に家を構えるので、特に大きな神社ともなると数多くの社家住宅が建ち並び、社家町が形成されます。
とはいえ、現在はそのほとんどが失われてしまい、まとまった規模で残るところは全国でも極々わずか。
そのような中で、上賀茂神社の社家町は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていほど、美しい街並みとして残っています。
上賀茂神社から流れる禊の清流「明神川」
明神川沿いに建ち並ぶ社家住宅では、それぞれの家の敷地内に明神川の水を引き込み、生活用水や庭園の遣水、そして身を清める禊の水として利用してきました。
暖簾がかかっていたので気になったのですが、上賀茂神社に先を急いだのですが、帰ってからネットで調べると良いお店だったみたいで、惜しいことをしました。
もう、上賀茂神社が見えてきました。
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【大田神社】
鎮座地:京都府京都市北区上賀茂本山340
参拝日:2017年3月22日
社号標
社格等: 式内社(小)、 賀茂別雷神社境外摂社
大田神社は上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社で、上賀茂を開墾して栄えた賀茂氏によって崇敬されました。起源は上賀茂神社よりも古く上賀茂では最古の神社と言われています。
古くは「恩多社(おんたしゃ)」と云われたようです。
ご祭神は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)
賀茂における最古の神社と伝わることから、長寿の信仰がある。
創建は不詳。賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国愛宕郡に「太田神社」(写本によっては「大田神社」)と記載され、式内社に列している。
参道の説明書き
赤鳥居と、その前の神橋
神橋右側の水面に「蛇の枕」があります。
〇蛇の枕
鳥居前に架かる石橋右側下の水面から、小さな石が顔をのぞかせている。この石は「蛇の枕」または「雨石」と呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝える。蛇は雨を降らせる生き物とされ、この蛇がいる枕のもとに行けば、雨乞いができると考えられた。儀礼は、この枕石を農具(鉄器)などで叩いて行われる。こうすることで、枕を叩かれた蛇が怒って雨を降らせるという。
静かで気持ちの良い参道。
大田神社の絵馬には、京都市の無形民俗文化財に登録されている巫女神楽で使われる、神楽鈴が描かれています。
社殿が近くなりました。
手水鉢
本殿・拝殿とも寛永5年(1628年)の造替。
拝殿
拝殿は「割拝殿」(わりはいでん:中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式で、屋根は本殿と同じく檜皮葺である。
本殿
本殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺。
拝殿の前から、「大田の小径」が延びています。
境内後方には、「大田の小径」と呼ばれる全長約750mの散策路が延びる。この散策路は、平成17年(2005年)に、地域住民で構成する「上賀茂自治連合会」「上賀茂まちづくり委員会」らによって整備されたもの。
神社背後の小山に、未舗装ながら整備された山道が続いている。散策路の両脇にはロープが張られているほか、途中の数か所に標識が設けられ、迷うことなく散策できる。北大路魯山人が愛したという山つつじが出迎える山道を進むと、展望箇所が設けられており、好天時には京都タワーや伏見桃山城を遠望できる。杉林を抜けて散策路を進むことで、岡本口(東側登り口、上賀茂岡本町地内)に至る、とのことです。
摂末社に参拝。
いずれも上賀茂神社においても境外末社に位置づけられています。
白鬚社
ご祭神:猿田彦命
鎮守社
ご祭神:大国主神、少彦名神
百大夫社
ご祭神:船玉神(ふなたまのかみ)
境内脇の、「大田ノ沢のカキツバタ群落」が有名です。
〇大田ノ沢のカキツバタ群落(国の天然記念物)
参道の脇の「大田ノ沢」では、約2000平方メートルの敷地にカキツバタ約25,000株が自生しており、「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれる。この大田ノ沢は平安時代からの名所とされ、尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えもある。毎年5月上旬から中旬にかけての開花時に、沢一面に濃淡さまざまな紫色の花をつけ、多くの観光客の目を楽しませる。
大田ノ沢は古代に深泥池と同様に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものであるとして、カキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定された。
文治6年(1190年)には、『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、紫一色に染まる様子を一図な恋心に例えて次の歌を詠んでいる。
「神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」
歌の大意:神山(賀茂別雷命の降臨地)の近くにある大田神社のかきつばたに、深くお願いする色事は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なのだろうか。
この時期では、ちょぼちょぼと芽が出てきた段階でした。
咲けば、このように見事な群落になるようです。
大田神社を後にして、上賀茂神社に向かいますが、まずは上賀茂神社から流れる禊の清流「明神川」のところに出ます。
大きなクスノキがあります。
クスノキの下に、上賀茂神社末社「藤木神社」があります。
〇藤木神社
ご祭神:瀬織津姫神
ここから上賀茂神社まで、明神川沿いに社家町(しゃけまち)があります。
【社家町(しゃけまち)】
上賀茂神社の東隣には、独特の風情が漂う「社家町」が広がっています。
「社家町」とは、神職(社家)の住宅が集まる町の事。
とうぜんのことながら神職は仕える神社のすぐ側に家を構えるので、特に大きな神社ともなると数多くの社家住宅が建ち並び、社家町が形成されます。
とはいえ、現在はそのほとんどが失われてしまい、まとまった規模で残るところは全国でも極々わずか。
そのような中で、上賀茂神社の社家町は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていほど、美しい街並みとして残っています。
上賀茂神社から流れる禊の清流「明神川」
明神川沿いに建ち並ぶ社家住宅では、それぞれの家の敷地内に明神川の水を引き込み、生活用水や庭園の遣水、そして身を清める禊の水として利用してきました。
暖簾がかかっていたので気になったのですが、上賀茂神社に先を急いだのですが、帰ってからネットで調べると良いお店だったみたいで、惜しいことをしました。
もう、上賀茂神社が見えてきました。
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