横浜港周辺散策(後半)

20170530

5月16日(火)に歴史クラブ行事で、横浜港周辺散策に参加しましたが、その後半の記事です。
元町中華街駅からスタートし、ベーリックホール、外人墓地、港の見える丘公園、KKRポートヒル横浜で昼食、フランス山から山下公園に出ました。

周辺地図
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ちょうど、「マリーンリュージュ」と言う観光船が入って来た。
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横浜港観光船乗り場
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山下公園、昔は何もない印象でしたが、花壇がだいぶ整備されましたね。
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ホテル・ニューグランド
横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリン、ジョージ・ハーマン・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路、1945年にSCAPとして来日直後、それぞれ滞在している。
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氷川丸
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氷川丸は、2013年4月25日に、やはり歴史クラブの行事で「三渓園~横浜」を訪れた際に見学しました。

その記事を見る


「ガーデン・ベア」というキャラクターが居た。
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新生なった大さん橋
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「赤い靴はいてた女の子」
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大桟橋に向かう途中、こんな壁画があった。
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大さん橋入り口手前にあった「101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭」
お疲れ様でした。
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大さん橋
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大さん橋国際客船ターミナル (Osanbashi International Passenger Terminal) は横浜港で大型客船が複数同時着岸できる主要旅客ターミナルとして建設された。クイーン・エリザベス2クラスの客船が2隻同時着岸できる。また3万トン以下クラスの客船であれば4隻同時着岸が可能であり、その規模は神戸港の新港第四突堤(神戸ポートターミナル)に次ぐ。建物は、内部に柱・梁がなく、また階段が無くスロープやエレベータで昇り降りする非常に先取的構造となっている。また、屋上はウッドデッキ及び芝生広場となっており、24時間自由に出入りできる、公園のような場所となっている。
屋上の新しい愛称は「くじらのせなか」だそうである。

ウッドデッキは気持ちがいい。
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ちょうど接岸していた船は、後で調べてみると「ロイヤル・ウィング号」といい、結婚式が出来るウェディング・クルーズ専用の船だった。
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ベイブリッジ
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気持ち良さそうに散歩している親子連れ。
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広大な「くじらの背中」の向こうに「みなとみらい」が。
こちら側には階段
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階段を上がると、フラットデッキが広がっている。
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みなとみらいの全景
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屋形船の観光船が出ていく。
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それにしても、ウッドデッキは気持ちいい。
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赤レンガパークに向かう途中、レンゲ草が咲いている広場あり。向うに見えるのは「開港記念館」。
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種ダンゴ花壇の向こうに赤レンガ倉庫。
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赤レンガパーク
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まだ線路の跡が残っている道を海上保安庁に向かう。
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旧税関事務所の遺構
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海上保安庁の「工作船資料館」
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平成13年12月22日に、九州南西海域で不審な船が発見され、海上保安庁の航空機が追尾、巡視船「いなさ」が現場に到着し追尾。
工作船は停船命令を無視し逃走を図ったため、銃撃戦となった結果、海上保安庁職員3名が負傷、工作船は自爆して沈没した。
平成14年にこれを引き上げて保存、現在は公開されている。

船尾に、小型船を格納している親子構造。
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通常の漁船の5倍の能力のエンジンを搭載。
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船首から
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みなとみらいに向かいます。

万国橋交差点にある、門型の珍しいホテル「ナヴィオス横浜」
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明治40年に出来た鉄道橋梁を行きます。

第三橋梁跡
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良い眺めです。
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第二橋梁
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まだレールの跡が残っている。
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横浜ランドマークタワー
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第一橋梁
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ランドマークタワーの横に置かれている帆船日本丸
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日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。

ランドマークタワーに到着。
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ランドマークタワーの下で解散し、展望台に上る人、他の場所でショッピングを楽しむ人などに分かれて、帰途につきました。



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横浜港周辺散策(前半)

20170528

5月16日(火)に歴史クラブ行事で、横浜港周辺散策に参加しました。
コースは、元町⇒ベーリックホール⇒外人墓地⇒港の見える丘公園⇒KKRポートヒル横浜で昼食⇒フランス山⇒山下公園⇒大桟橋⇒赤レンガパーク⇒海上保安庁資料館⇒ランドマークタワー。

8時に狭山市駅を出発、10時ちょっと前に「元町・中華街」駅に到着。
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元町から山下公園までの前半の地図
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「元町・中華街」駅前に立っていたモニュメント。
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元町通りを行く。
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昔からある洋装店「キタムラ」
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マグレガーのお店があった。
私が学生のころは、人気のブランド。
この間、久しぶりにマグレガーのジャケットを買った。
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元町通りをしばらく行ったところで、汐汲坂を上がります。
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汐汲坂通りに入ると、ポンパドゥール本社というビルあり。
昔は、ポンパドゥールのパンを買うのが楽しみだった。
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汐汲坂の登りにかかる。
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けっこう急な坂。
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汐汲坂を登りきるとフェリスである。
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ベーリックホールに向かう。

イエスキリスト教会
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ベーリックホール
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B.R.ベーリック:
・ロンドン生まれ。二十歳で来日。
・イギリス・アメリカ・フランスを中心に貿易。
・輸出品目:美濃和紙・絹製品・漆器など
・輸入品目:洋紙・毛綿物類・薬など
・フィンランド名誉領事
・第二次大戦前にカナダに移住し、余生を過ごす。カナダで永眠。

ベーリックホールは、モーガンの設計により1930年に建築された。スパニッシュスタイルを基調として、玄関の三連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフィルと呼ばれる小窓、瓦屋根を持つ煙突等多様な装飾をつけている。
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ちょうどウェディングドレスの写真を撮っていた。
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二階に上がる。
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ゲストルーム
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主人寝室は、書斎として演出されていた。
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バスルーム
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婦人寝室
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付属室
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庭にあった、これは西洋アザミではないだろうか。
以前、葉山のレストランで西洋アザミが出てきたが、こんな感じだった。
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元町公園に入るが、まずはエリスマン邸がある。
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ちょっと木陰で休憩。
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「自働電話」と書かれた、瀟洒な電話ボックスあり。
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外人墓地に向かう。

横浜山手聖公会
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山手資料館
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外人墓地入り口にある「山手十番館」。
若い頃は、ここに寄るのが楽しみだった。
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外人墓地入り口
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入り口にある、銘文
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墓地の向こうに、本日のゴール地点「ランドマークタワー」が見える。
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港の見える丘公園に向かう。
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岩崎ミュージアム
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ネジネジの刈込が素晴らしい。
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港の見える丘公園のバラ園に到着。
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薔薇が満開で、素晴らしかった。
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ここは、「コクリコ坂から」の舞台。
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ベイブリッジがよく見える。
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ここにある、「KKRポートヒル横浜」で昼食。
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のんびりと昼食・休憩後、山下公園に向かって歩き出しました。

フランス山
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フランス山の風車
明治29年(1896)にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山に井戸水を汲み上げるための風車が設置された。
フランス領事館で使用した風車は写真などの資料が残っていない。
「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真からしのび、モニュメントを設置した。
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「フェリス女学院の赤い風車」と「ヴィラ・サクソニアの風車」
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山下公園に降りていく方には、石楠花が綺麗に咲いていた。
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高速道路の下の運河
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「横浜人形の家」
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中には入らなかったが、たくさん人形が並んでいた。
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青い目の人形
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「横浜人形の家」の海側には、人形の家の設計を行った坂倉設計の協力により、6つの大陸へのびる道をデザイン化した世界の広場と、バルセロナのグエル公園を想わせるカスケードのある楽しい大階段などが整備されている。

「世界の広場」
バラで飾り立てられていた。
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大階段
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大階段を降りきると、ホテル・ニューグランドが見えた。
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港に到着。
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この続きは、「横浜港周辺散策(後半)」の記事とします。


後半の記事を見る



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気比神宮末社・猿田彦神社の狛犬

20170526

所在地:福井県敦賀市曙町 気比神宮境内猿田彦神社の参道
参拝日:2016.8.2

年代:寛保3年(1743)
材質:石造
型式:越前禿型

2016年に青春18キップの旅で、敦賀市の越前国一之宮・気比神宮に参拝したときに、末社猿田彦神社に居た狛犬である。

越前国一之宮・気比神宮の記事を読む


気比神宮境内には、江戸時代の越前禿型の狛犬が三組あり、既にアップしている末社・兒宮に続き、二番目に古いもの。

末社猿田彦神社の入り口、鳥居をくぐってすぐのところに居る。
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右側が阿形、たてがみの先端が内側にカールしているので獅子。
・左側は吽形、たてがみの先端が内側にカールしているので獅子。
・おかっぱは、控えめ。
・耳は垂れている。
・顔はユニーク。鼻と口が大きくて、眼は引っ込んでしまっていて、愛嬌がある。
・眉や牙が明確に刻まれている。
・台座が低くて、首を上にあげ、見上げる姿勢になっていて、親しみがある。
・前足は、真っ直ぐ。
・後足は蹲踞。
・尾は、確認していない。付き尾であることは間違いない。

年号の彫刻
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おかっぱ(禿)頭と、背中にぺったり張り付いた尾、たてがみの先が内巻きにカールしている点、牙や眉を明解に刻み込んでいることが「越前禿型」の特徴。
低い位置に座り、見上げる体勢なので、親しみやすい印象となっている。



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久延彦(くえびこ)神社・大直彌子(おおたたねこ)神社

20170525

青春18キップの二日目、大神神社、狭井神社参拝のあと、出雲屋敷跡など山の辺の道を歩いて、桧原神社に参拝。
その後、いま来た山の辺の道を狭井神社直前まで戻って、久延彦神社に向かいました。

狭井神社直前に、久延彦神社に向かって折れる道があります。
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そこに入って行くと、大神神社の「笹ゆり園」でした。
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摂社率川神社の「三枝祭」は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭り。
昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。

国が行うお祭りとして重んぜられた三枝祭は、平安時代には宮中からの使いが御供えの幣物や神馬を献上するなど、非常に丁重な祭祀が行われましたが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興され、現在に及んでいます。
このお祭りの特色は、黒酒、白酒の神酒を「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に盛りその酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花で豊かに飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えする事です。又神饌は古式に則り美しく手が加えられ、折櫃に納めます。そして、柏の葉で編んで作ったふたをして、黒木の御棚と言う台にのせて宮司自らがお供えします。

三島由紀夫の「豊穣の海」第二巻「奔馬」で、大神神社に参拝し、「三枝祭」に参加した本多が、松枝清顕の生まれ変わり、飯沼勲と出会うシーンは、三千本という沢山の百合の花のイメージと共に、今でも鮮明に蘇ってくる。

園地が休めるようになっている。
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山の辺の道に置かれている歌碑の歌を集めてあった。
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また、ちょっと「笹ゆり園」の間を行くと、久延彦神社の後ろに到着。
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【久延彦(くえびこ)神社】
大神神社末社
鎮座地:奈良県桜井市大字三輪字若宮山
参拝日:2017年3月23日

一旦降りて、入り口から入り直した。
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大神神社末社
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入り口には、「注連柱」があり。
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参道を行くと、上がり口に一の鳥居あり。
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竹林の中を上がっていく。
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途中に二の鳥居あり。
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社殿
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社殿内部
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ご祭神は、久延毘古命

祭神の久延毘古命は、「かかし」のこと。
『古事記』によると、少名毘古那神がはじめて出現した時、誰も知らなかった少名毘古那神の名を知っていた神であり、知識の神として崇敬されている。
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「知恵ふくろう」という立派なフクロウが奉納されていた。
私も、「ふくろう=不苦労」ということで、ふくろうには目が無いので、ありがたく参拝。
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知恵の神ということで、絵馬もたくさん奉納されていた。
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久延彦神社の前が、展望台になっていた。
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残念ながら竹藪などに阻まれて、私が確認できたのは二上山と畝傍山だけだった。

二上山
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畝傍山
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久延毘古神社の石段の参道を下りて、右手の方向に進むと「大直禰子神社」があります。

【大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮社)】
大神神社摂社
鎮座地:奈良県桜井市大字三輪字若宮
参拝日:2017年3月23日

境内入口の鳥居扁額には「若宮社」と記されている。
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奈良時代には「大神寺」、明治までは「大御輪寺」と呼ばれていた寺があった。
明治になって、御本尊の十一面観音像は聖林寺へ移され、三重塔も破壊されたが、本堂は当社本殿として残った。
もともとは、大田田根子を先祖とする一族「三輪君」のお寺であった。
一族の氏神の神社もここにあったという。
崇神天皇の時代から、三輪山の神が「大物主神」として国家の神となり、三輪一族が奉斎する役目を担った。
三輪一族というのは、ここに早くから土着した出雲族だと思われる。その一族が奉斎していたのが三輪山の神(蛇神)であり、蛇神は縄文の神である。

「若宮」という名称については、全国にある「若宮」を整理すると三つの意味があるという。
(1)幼少の皇子、皇族の子
(2)本社の分霊を奉斎したもの
(3)はげしく祟る霊

そのどれかであるか、については大神神社に参拝したときに求めた『三輪山の神々』という本の中で「大田田根子」や「若宮祭祀」について書かれているのですが、私の浅学ではまだ整理がつきません。
ただ、どこの神社でも年中祭祀の中で「春祭り」と「秋祭り」は、最も重大な祭りだと言っていいと思いますが、大神神社の春祭は、この若宮の神を本社に遷して行われるそうで、この若宮がとても重要な位置を占めているのがわかる。

「祟り」という点では、もともと「大物主神」は祟る神として祀られているが、その祟りとは、天孫族に制圧された出雲族の祟りと思えなくもない。

「大直禰子」という書き方だが、『古事記』では、意富多多泥古だし、『日本書紀』では大田田根子である。
不思議に思って調べてみた。
「大直」については、「大直日神(オオナオヒノカミ)」がヒットし、「異常でけがれた状態をただしなおす神」だそうだ。
「禰子」とは禰宜の子孫であると解釈する。
大直禰子とは、つまり「異常でけがれた状態をただしなおす禰宜の子孫」のこと。


参拝を進めます。

明治45年奉納の狛犬
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手水鉢
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社殿
本殿(国の重要文化財・鎌倉時代)は、明治の神仏分離まで、神宮寺だった大御輪寺の本堂で、方五間(28.09?)、一重入母屋造、本瓦葺。もともと仏殿であったが、堂内に早くから、三輪明神の王子(若宮)が生身入定の説話が生まれていた。
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説明
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参拝します。
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内陣は、よく見えません。
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向かって右の、鏡がかけられた真榊
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向かって左の、剣がかけられた真榊
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ご祭神は大田田根子命。
大神神社祭神の大物主命の神孫にあたり、崇神天皇の勅により、大神神社の祭祀を司った神主であり、三輪氏の始祖として崇敬されている。

社殿の右前に「御饌石」があります。
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〇大神神社末社・御誕生所社
ご祭神:鴨津見美良姫命(大田田根子(おおたたねこ)の母神)
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本殿はなく磐座である。
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〇大神神社末社・琴平社
ご祭神:大物主神
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これで、大神神社とその摂末社、計画したもの全ての参拝を終え、二の鳥居前で美味しいお昼を食べた後、一駅隣の巻向駅に移動しました。
三輪駅からの三輪山。
やはり、美しい山です。
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意富多多泥古(おおたたねこ)命・大田田根子命/日本の神々

20170525

『古事記』では意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子。

『古事記』「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主神」の段
 (現代語訳)
 この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現われて、「疫病の流行はわたしの意志によるのだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」 と仰せになった。そこで急使を四方に分かち遣わして、オホタタネコという人を尋ね求められたところ、河内村の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、「そなたはだれの子か」とお尋ねになると、オホタタネコが答えて、「私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミノ命の女のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです」 と申し上げた。
 すると天皇はたいそう喜んで、「これで天下は穏やかになり、国民は栄えるであろう」と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎き祭られた。またイカガシコヲノ命に命じて、祭りに用いる多くの平たい土器を作って、天つ神の鋸ろ賊つ檻の社を定めてお祭りになった。また宇陀の墨坂神に赤色の楯と矛を献り、また大坂神に黒色の楯と矛を献り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく幣吊を献ってお祭りになった。これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。
 このオホタタネコという人を、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。上に述べたイクタマヨリビメは、容姿が美しく輝くほどであった。ここに一人の男がいて、その姿といい装いといい比類のない気高い男が、夜中に突然姫のもとに訪れて来た。そして愛し合って結婚して、ともに暮らしている間に、まだ時日もたたないのに、その少女は身ごもった。
 そこで父母は、娘が身ごもったことを不審に思い、その娘に尋ねて、「おまえはいつしか身重になっているが、夫がいないのにどういうわけで身ごもったのか」というと、娘が答えて、「たいそうりっぱな男の人で、その姓も名も知らない人が、夜ごとに通ってきて、ともに住んでいる間に、いつの間にか身ごもってしまったのです」といった。
 これを聞いて娘の父母は、その男の素性を知ろうと思って、その娘に教えていうには、「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻きに巻いた麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」といった。で、教えのとおりにして翌朝見ると、針につけた麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、糸巻きに残っている麻糸はわずかに三輪だけであった。それで男が鍵穴から出ていったことを知って、その糸をたどって尋ねて行くと、三輪山に続いていて神の社で留まっていた。それで生まれる子が、三輪のオホモノヌシノ神の子であることがわかった。そして、その麻糸が三輪糸巻きに残っていたのにもとづいて、その地を名づけて美和というのである。
このオホタタネコノ命は神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖先である。

『日本書紀』では、崇神天皇7年(紀元前91年)に大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い、天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、疫病が収まり、国内はようやく鎮まり、五穀がよく稔るようになったと記載されている。
大田田根子を探した結果、茅渟の県(ちぬのあがた=和泉の国一帯の古称)の「陶邑」(すえむら)の人であった。
「陶邑」は古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。
須恵器は、水を漏らさぬ故、神事の際の器として尊重された。
大田田根子は、須恵器を作る集団のリーダーだったのかもしれない。

そもそも大物主神が桜井市三輪山に鎮座するに至った経緯自体が、あまりにも不自然である。
大己貴神(大国主神の別名)の国造りの神話は、本来出雲地方で語り伝えられてきた伝承である。
自分を三輪山に祀ればその国造りに協力するとした大物主神の申し出は、記紀編纂時点で出雲地方を始めとする各地の伝承をうまく整理して系統立てて神話としてまとめたと考えられる。
天孫族が、この地に侵入してきたとき、三輪山をご神体とする先住の氏族がその麓に住んでいたが、天孫族はその祭祀権を取り上げてしまった。しかしその結果、天孫族が先住民と融合ができず、うまく治めることができなかった。そこで、いったん取り上げた祭祀権を返還して、出雲族の大田田根子に大物主神を祀らせることにした、とという説があり、私もまったく同感である。

大神神社摂社の大田田根子を祀る神社は「大直禰子(おおたたねこ)神社」と書く。
不思議に思って調べてみた。
「大直」については、「大直日神(オオナオヒノカミ)」がヒットし、「異常でけがれた状態をただしなおす神」だそうだ。
「禰子」とは禰宜の子孫であると解釈する。
大直禰子とは、つまり「異常でけがれた状態をただしなおす禰宜の子孫」のことである、となった。


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久延毘古(くえびこ)/日本の神々

20170524

土俗の神(縄文の神)に鬼、恵比須、天狗、河童、案山子がある。
その案山子の中で、珍しく『古事記』に登場しているのが「久延毘古」という神である。

『古事記』の「大国主神」の巻、「少名毘古那神と御諸山の神」の段。
(現代語訳)
 さて大国主神が出雲の美保の岬におられる時、波頭の上からカガイモの実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで衣服に着て、近づいて来る神があった。そこでその名をお尋ねになったけれども、答えなかった。またお供に従っている神々にお尋ねになったけれども、みな「知りません」と申した。
そのとき蝦蟇が申すには、「これはクエピコがきっと知っているでしょう」と申したので、すぐさまクエピコを呼んでお尋ねになると、「この神はカムムスヒノ神の御子のスクナビコナノ神ですよ」とお答え申しあげた。
そこで大国主神が、カムムスヒの御祖神にこのことを申し上げなさったところ、答えて仰せられるには、「これは本当に私の子です。子どもの中で、私の手の指の問から漏れこぼれた子です。そしておまえは、アシハラシコヲノ命と兄弟となって、その国を作り固めなさい」と仰せられた。こうしてそれから、オホナムヂとスクナビコナの二柱の神が共々に協力して、この国を作り固められた。そして後には、そのスクナビコナノ神は、海原のかなたの常世国にお渡りになった。
さてそのスクナビコナノ神であることを顕わし申しあげたいわゆるクエピコは、今では山田のソホドという案山子である。この神は足は歩けないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。
 そこで大国主神が心配して仰せられるには、「わたしは一人で、どうしてこの国を作り固めることができようか。どの神がわたしと協力して、この国を共に作るのだろうか」と仰せられた。このとき、海上を照らして近寄って来る神があった。その神が仰せられるには、「丁重にわたしの御魂を祭ったならば、わたしはあなたに協力して、共に国作りを完成させよう。もしそうしなかったら、国作りはできないであろう」と仰せられた。そこで大国主神が、「そ
れでは御魂をお祭り申しあげるには、どのように致したらよいのですか」と申されると、「わたしの御魂を、大和の青々ととり囲んでいる山々の、その東の山の上に静み清めて祭りなさい」と答えて仰せられた。これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。


久延毘古はかかしを神格化したものであり、田の神、農業の神、土地の神である。案山子の姿は、概ね蓑と笠を着けて弓矢を持ち、一本足で立つ。
案山子はその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。

神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。

田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社などで祀られている。



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妙義神社

20170523

鎮座地:群馬県富岡市妙義町妙義6
参拝日:2017年5月10日

歴史クラブの春季定例見学会で、世界遺産・富岡製糸場、城下町小幡を見学した後、当社に参拝しました。

銅鳥居
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それまで何とか天気が持っていたのだが、ここにきてとうとう雨が降り出した。
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少し上った所に社号標があり。
旧県社
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妙義神社は奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。
創建は「宣化天皇の二年(今から千四百余年前)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽の大神と称し後に妙義と改められた。
そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明明魏魏たる山の奇勝をめで、明魏と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる。
古くより朝野の崇敬殊に篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕桑蚕の神として広く世に知られ、関東、甲信越地区より参拝するものが多い。

江戸時代は歴代将軍を始め、加賀の前田公外諸大名の崇敬篤く、中古よりは上野東叡山の宮、御代々御兼帯御親祭の神社となりその御宿坊を宮様御殿叉は単に御殿とも称した。
この御殿よりの、東面の景色は素晴しく、前庭の植え込みは何れも低く地をはうようにつくられ、関東平野を一望に集め借景庭園として見事なものである。

本殿拝殿を初めとする境内の諸建造物は、今から三百余年前から二百年前の間の建造物にして、江戸時代建築の趣をもった壮麗なもので、老杉の巨木鬱蒼たる神域に、輪奐の美を連ね、高さ十メートルの旧御殿下の石垣をはじめとする各所の石垣はその技工の巧なること比い無く、諸建造物、青銅の大鳥居と共に、文化財に指定されている。
-『平成祭データ』-

境内図
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総門前の石段を上がる。
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〇総門<安永2年(1773) 重要文化財>
旧石塔寺の仁王門であった。
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ここの彫刻も華麗。
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〇石垣
総門の右手にある石垣が見事。
江戸半ばに妙義山の安山岩で築造。県重要文化財。
上に見えるのが「旧宮様御殿」
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また一段上がる。
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右手には、「旧宮様御殿」に通じる石段があるが、今日は寄りませんでした。
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左手には境内社。

稲荷社
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和歌三神社<玉津島神社(稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊)、人丸神社(柿本人麿)、住吉神社(底筒男命・ 中筒男命・表筒男命・神功皇后)>
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更に、妙義神社の大杉の跡がある。
昭和四十六年に倒壊した元国指定天然記念物。
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ここから、また石段を上がる。
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〇銅鳥居<寛文8年(1668) 県重要文化財>
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鳥居の根元の装飾が面白い。
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【波己曾社(はこそしゃ)】
明暦2年(1853) 県重要文化財
建立当初から約100年は、現在の御本社エリアに鎮座していた。
昭和44年に現在地に移築し大修理、建立当初の姿に復元された。
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3月の初めに下見に来たときには、修復中で見られなかったが、今回綺麗な姿で見ることができた。
こちらも、綺麗なものだ。

拝殿
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拝殿内部
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拝殿横の装飾
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本殿
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本殿背後の外観
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波己曽社横の厳島神社。
(3月7日下見のときの写真)
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石の太鼓橋
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3月7日下見のときの写真
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御本殿に至る165段の石段。
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エッチラ、オッチラ登っていくと、巨木の根のせいで石段がめくり上がっている。
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随身門
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豊石窓神(とよいわまどのかみ)
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こちには虎の皮を敷いている。
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櫛石窓神(くしいわまどのかみ)
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こちらは豹の皮を敷いている。
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内側には、青鬼と赤鬼が頑張っている。
それぞれ、腰に虎の皮と豹の皮を巻いている。
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随身門をくぐって、ちょっと横にずれて唐門に通じる石段を上がるが、ここで後ろを振り返ると、大パノラマが広がっている。
この日はあいにくの雨なので、眺めは良くなかったが、3月7日の下見のときの写真を載せておく。
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唐門に通じる石段を上がる。
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【唐門】
宝暦6年(1756) 重要文化財。
妻を唐破風にした銅葺き平入りの門で、周囲は彫刻で埋められ、その素晴らしさは著名である。
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細部の彫刻が素晴らしい。
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袖の彫刻が、クリアパネルで覆われているので、撮るのが難しい。
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天井には見事な龍の絵があり。
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内側の彫刻も素晴らしい。
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【御本社(本殿・幣殿・拝殿)】
宝暦2年 重要文化財
権現造りで、龍や鶴、竹林七賢人など多くの素晴らしい彫刻が各所にみられる。
本殿は、拝殿と共に黒漆塗り銅葺き入母屋造りであり、拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向背屋根を張り出している。
※吉宗の贅沢禁止令によって、金箔を使用した華美な権現造りは以後造られなくなった。妙義神社はその直前に完成していたため、妙義神社が最後の作例となっている。

拝殿
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御本社拝殿北側には神餞所(宝暦六年・重文附)が附属する。
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向背屋根の唐破風。
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向拝屋根正面の彫刻
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向背柱木鼻部分の彫刻
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向背柱にも繊細な彫刻が施されている。
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社号額
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拝殿内部にも、華美な装飾が溢れている。
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幣殿正面
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拝殿天井には花鳥風月が描かれた格天井。
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外回りの、華美な彫刻を見ていく。
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金箔を貼った、華麗な海老虹梁。
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彩色された手挟みの彫刻
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右脇障子の彫刻「竹林七賢人」
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左脇障子の彫刻「竹林七賢人」
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拝殿外欄間の彫刻は、彫刻に使用された板が厚いもので、彫刻に深みがあり、見事。
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本殿
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幣殿から本殿にわたる外部の装飾が素晴らしい。
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本殿後方の天狗社。
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本殿の横に石があるが、礎石だろうか?
どうも、磐座ではないかと思われる。
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本殿屋根の横の装飾も素晴らしい。
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神餞所玄関の装飾
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御祭神は、日本武尊(倭建命)
配祀神は、菅原道眞公 権大納言長親卿、豊受大神(あるいは 丹生都姫命)

古くは波己曾明神と称し、『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある古社。

妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、山麓に波己曾神社が分布して、丹生都姫命を祀っていたらしい。本来、当社も波己曾神を主祭神としていたが、いつの頃か、別に妙義大権現が成立して、本社となり、波己曾神は境内社に遷された状態になったようだ。

ということは、当社の元の主祭神、地主神は丹生都姫命であり、『平成祭データ』などには祭神の中に名が記されているのだが、境内の由緒では、豊受大神となっている。

また、妙義山の中の金洞山には、倭建命を祀る中之嶽神社が鎮座。さらに、妙義山の中の金鶏山には、菅原道眞を祀る菅原神社が鎮座しており、当社は、これら妙義山の三山(白雲山・金洞山・金鶏山)の神々を合わせ祀った状態になっている。


北門から「女坂」を下りながら、境内社に参拝。
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北門を出た左手に、磐座があり、中に祠が祀られている。
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ここから、境内社が点在している。
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水神社
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愛宕社
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そこから少し下ったところに磐座があり、石祠が祀られているが、祭神は不明。
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そこから女坂を下って、正面石段(男坂)と合流して、参拝は終了。
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世界遺産・富岡製糸場、城下町小幡、そして妙義神社と回って来た、歴史クラブの定例見学会も無事に終了し、満足して帰途につきました。


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世界遺産・富岡製糸場、城下町小幡

20170520

5月10日(水)に、歴史クラブの定例見学会が行われました。

コースは、富岡製糸場、城下町小幡、妙義神社。

朝7:00に狭山市駅前を貸し切りバスで出発。9時ころに富岡製糸場に着きました。

 富岡製糸場は1872年(明治5年)に明治政府が殖産興業政策のもと、製糸業の近代化を図るため、フランス人のポール・ブリュナの指導のもとに設立した官営模範工場です。建設費は当時の金額で24万5,000円で、この建物実現には伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一、尾高惇忠などがその中心的な役割を果たしました。
 工場の敷地面積は約5万7,000㎡、延床面積2万4,000㎡で、当時の製糸工場としては世界最大規模を誇っていました。
 歴史的な価値が高い瓦ぶき、木骨レンガ造りの特色ある建物群が140年以上経った現在もほぼ建設当初のまま保存されています。

 富岡製糸場は官営模範工場として日本各地に器械製糸技術を伝えるとともに、器械製糸場の設立を進める役割を果たしました。また、富岡製糸場で生産された生糸は当初はフランスへ、やがてアメリカへと輸出され、明治末期には日本は生糸の生産量・輸出量ともに世界一となり、世界的な綿の大衆化に貢献しました。

 器械製糸の普及と技術者育成という目的が果たされた1894年(明治27年)に民間に払い下げられた後、主要な建造物群はそのまま活用する一方、建物や構造物の増改築をしながら115年間生産活動を続け、1987年(昭和62年)にその長い歴史の幕を閉じました。
 その後2005年(平成17年)に国史跡指定、2006年(同18年)に設立当初期9件の建造物が国重要文化財に指定され、2014年(同26年)には世界遺産に登録されて今日に至っています。

※参考までに世界遺産に登録される以前の平成20年度~25年度の入場者数は各年度20万人~30万人(25年度は31万4,000人)でしたが、6月に登録された26年度は133万7,000人と一挙に4倍強に増え、その後は若干減りつつあるが27年度114万5,000人、28年度80万人となっています。

駐車場から、製紙場前の通りを歩くと、休憩コーナーなどが花で飾られ、とても良い雰囲気でした。
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製紙場に到着。
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製紙場レイアウト。
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記念碑
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ガイドを頼んでおり、イヤホンが全員に配られたので、人数が多くても大丈夫。

東置繭所から案内開始。
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東置繭所正面
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アーチの真ん中に、誇らしげに「明治5年」と。
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検査人館
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女工館
一般の女工でなく、指導に来たフランス人教師の住居。
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操糸所
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内部は、ズラッと機械が並んでいる。
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トラス構造
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機械は、動いていないので、どういう仕組みになっているかわからない。
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釜に湯を供給するコンベア。
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官営時代の写真
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操糸作業の再現
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官営富岡製糸場の伝習工女で、『富岡日記』を著した和田 英
英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父・横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となっている。
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ブリュナ館
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診療所
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榛名寮
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寄宿舎
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東置繭所のガイダンス展示場で、糸とりの実演をしていた。
4つくらいの繭から合わせて糸を取っていく。どれかの繭が終わると新しい繭からの糸をつなぐ。
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回転蔟(まぶし)
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「人工飼料育」
私が子供の頃には、家で蚕を飼っていたので、桑の葉にたくさん蚕が居るのが普通であり、これには驚いた(笑)
これは、本物の蚕です。
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見学を終わって入り口付近に居たら、生徒が見学している列が通過。
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今年の秋に、ここの製糸所が舞台の映画が公開されるそうです。
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午後の城下町小幡見学の際に、離れていて行けないので、先に「織田家七代の墓所」に立ち寄った。
織田信長の次男信雄が、大和松山とここの領主となり、以後七代までここを治めた。
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織田信雄の五輪塔
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ずいぶんと傷んでしまっている墓もある。
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道の駅「甘楽」のレストランで昼食。
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昼食後、二班に分かれてガイドさん(有料)の案内で、城下町小幡を散策。

 甘楽町の遺跡・遺構は旧石巻時代から確認され、平安時代の『延書式』には上野国の御牧の一つである「新屋の牧」が開設されたとあり、当町の新屋地区内であると想定されている。
 鎌倉時代にはいると、小幡氏の活躍がみられる。小幡氏は、武蔵七党系図によると児玉党の一派で、この党の中に小幡平太郎の名が見られ、13世紀初頭には小幡の地に居住し、勢力を確立していたと推考されている。
 小幡氏は西上州において大きな役割や影響を及ぼした。居城の国峰城(楽山園の南西約2Km先にある城山)は中世における大城郭で、他には見られない特異な構成であり、山城部・丘城部・平城部が、東西2km、南北2.5kmの広範囲に展開しており、高低差は244mをはかる。のち、武田信玄の幕下に加わり、武田軍団の先陣として武勇をはせ「朱備え」着用を許され、上州の朱武者として恐れられたといわれ、武田24将の一人にも数えられた。

武田氏滅亡後は織田信長配下の滝川-益に従い、本能寺の変以後は小田原北条氏の勢力下に入ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めに際して、国峰城も前田利家隊などの秀吉軍により落城した。

 元和元年(1615)7月、京都の二条城で「禁中並公家諸法度」布達の際に、織田信長の二男信雄(官位正二位、内大臣)に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、翌元和2年(1616)に信雄の子信良が福島の御殿に入り、織田氏による小幡支配が開始された。
 楽山園の造営年代・造営主については不明な点が多いが、『楽山園由来記』では元和7年(1616)に織田信雄が造営したと伝えられている。この由来記が正しいとすれば、最初に信雄こよって作庭が行われ、お茶屋が営まれた後、藩邸として再構成された可能性がある。庭園の構成から考えると、藩邸ができる前から、庭とともに別荘的な建物が存在したと考えられる。織田氏は8代152年にわたり小幡藩を統治した。
 織田家移封の後、明和4年く1767)9月に若年寄を勤めていた松平忠恒。4代続き明治となる。

案内図
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まずは、楽山園をめざします。
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楽山園の案内図
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中門
非常に重厚な門で、高さ7m、柱間4.5m、奥行き2.9mです。
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屋根は、切妻トチ葺きで、約11,000枚のスギ材で葺かれています。
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入ると土塁がそびえる。
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拾九間長屋
藩邸の使用人たちが暮らしていた。
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室内
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その前に、信長と秀吉が餅つきをしている。
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「天下一の力(もち)」
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土塁の内側が藩邸
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北門から入る。
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藩邸の建物は、まったく残っていない。
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玄関のあった場所から。
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庭門から庭に入る。
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昆明池の向こうに腰掛茶屋と梅の茶屋
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ちょうど花菖蒲が綺麗だった。
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歴史クラブのもう片方の班が、梅の茶屋でくつろいでいた。
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鯉は、新潟地震のときに疎開してきたものだそう。
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羽衣石
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腰掛茶屋で一休み。
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梅の茶屋
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梅の茶屋からの、素晴らしい眺め。
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樹齢400年の梅の木。
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羽衣石から腰掛茶屋。
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これで、楽山園の見学を終え、「御殿前通り」から武家屋敷に向かう。
右は中学校。
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「食い違い郭」
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広い道の「中小路」をゆく。
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「松平家大奥」
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「中小路」片側の、石垣と竹藪。
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反対側には、石垣の上に花が綺麗だ。
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武家屋敷「高橋家」
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「高橋家」の庭には色々と見事なものあり。

樫の樹
勘定奉行という役職は、藩の財政を豊かにし、他の藩に金を貸すくらいになって欲しいと植えられた。
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心字の池
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富士山を象った石
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小幡の町は、どこを歩いていても、花が見事でした。
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オダマキの花
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これで、城下町小幡の散策を終えたが、ガイドさんに案内してもらったおかげで、地元の人でないと語れない話がずいぶんと聞くことが出来て、楽しかった。

次いで、バスで妙義神社に向かいました。


続いて「妙義神社」の記事を見る



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大國魂神社境内・東照宮の狛犬

20170518

所在地:東京都府中市宮町 大國魂神社境内・東照宮前
参拝日:2014年6月17日

年代:寛保2年(1742)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型

大國魂神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


大國魂神社には6組の狛犬が居るが、その中で年号がはっきりしているのが三組あり、一番古いのがこの狛犬である。

大國魂神社境内の東照宮門前に置かれている。
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・左側は吽形、たてがみが同様に巻き毛であり獅子。
・耳は横に開き、聞き耳を立てている。
・顔はユニーク。目は鋭く、口は口元が耳まで裂けてバカでかく、威嚇的。
・首が長いので、体型的にユニークな造形になっている。
・胸が張り、たくましく勢いがある。
・前足は、真っ直ぐで、少し前に出し気味。
・後足は蹲踞だが開き気味で勢いが感じられる。
・尾は、天狗の羽団扇型でまっすぐ立ち、根元に巻き毛がある。

江戸狛犬は、当初「はじめ型」で比較的和犬に近く、地面近くに置かれた。尾は身体に付いていた。
それが高い台座の上に置かれ、尾はまだはじめ型のように身体に付いているのが「江戸付き尾型」。
そして、尾が立ち威勢が良くなり「江戸尾立ち型」、次いで尾が流麗に流れるようになり「江戸流れ尾型」と続く。

ただし、この狛犬は悩んだ末、一応「江戸尾立ち型」に入れるが、首が長くて身体をそらした、ユニークな体型で、江戸狛犬らしくはない。

年号は寛保2年(1742)。
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尾は、天狗の羽団扇型でまっすぐ立ち、根元に巻き毛がある。
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狛犬の記事一覧を見る



豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)/日本の神々

20170516

『日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる。
豊木入日子命は上毛野の君、下毛野の君等の祖となった。 豊鉏入日売命は、伊勢皇太神宮の祭主となった。

なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる。

『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、よって磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて大市の長岡岬に祀らせた。

皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。

豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められる(ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女)。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山(一説に笠縫邑祭祀と関連)での日神信仰の存在が指摘される。

そのほか名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与(壹與/臺與)に比定する説がある。

豊鋤入姫命には、奈良県桜井市の大神神社摂社・桧原神社の境内 豊鍬入姫宮にて参拝しました。


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桧原神社(倭笠縫邑)

20170514

鎮座地:奈良県桜井市三輪字桧原
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの二日目、大神神社、狭井神社参拝のあと、出雲屋敷跡など山の辺の道を歩いて、ここに到着。

山の辺の道を大神神社の方から来ると、この入り口になる。
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境内に入ってから、正面の入り口に回った。
大神神社と同じく、注連柱が立つ。
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社号標
式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 大 月次相嘗新嘗、大神神社摂社
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この神社には、二つの系統の神統があることがわかる。
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私がここまで足を延ばしたのは、ここでは大神神社と同じ三つ鳥居を介して三輪山を拝することができるとあったからである。
ここが「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」の地であることは、頭になかったので、大事な場所に来れたことに感謝した。

まずは、三つ鳥居を拝して、三輪山に参拝。
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大神神社摂社として、社殿は無いが、
御祭神は、天照大神若御魂神、伊弉諾尊、伊弉册尊

〇豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)
ご祭神:豊鍬入姫命
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 桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。

 檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。

第十代・崇神天皇は、木(紀)国造である荒河刀弁の娘・遠津年魚目目徴比売を妻として 豊木入日子命と豊鉏入日売命の男女二人をもうけられた。 豊木入日子命は上毛野の君、下毛野の君等の祖となった。 豊鉏入日売命は、伊勢皇太神宮の祭主となった。

『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。

皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。

『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。

砂利の境内は清潔というか清廉な雰囲気。
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瑞垣のすぐ前には、北白川房子氏の歌碑があります。
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檜原神社からは、古来から大和の国人々から聖なる山として崇められた「二上山(にじょうざん)」の姿が美しく見られます。檜原神社からはほぼ真西の方角にあたり、春分・秋分の日の頃には、二上山の雄岳と雌岳の間に夕陽が沈むため、神聖視されてきました。
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参道に立つと、注連柱の間から二上山が、うっすらと見えた。
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前川佐美雄氏(日本芸術院会員)の歌碑
春がすみ いよいよ濃くなる真昼間の なにも見えねば 大和と思え
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池田黙々子氏歌碑
「観月や 山の辺道を 桧原まで」
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これで、桧原神社の参拝を終え、できるだけ大神神社の摂末社に参拝するため、来た山の辺の道を大神神社の方に引き返しました。


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春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)/日本の神々

20170513

『古事記』に登場する神。
帰化人の出石族が伝承していた説話にもとづく神話に登場する。

『古事記』の「応神天皇」の巻、9「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」の段
 (現代語訳)
さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。
ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこといった。
そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。
そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。
 そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。

以上が『古事記』の記述である。

この「応神天皇」の巻では、最初に「天之日矛(あめのひほこ)の渡来」を載せ、次いで帰化人の出石族が伝承していた説話にもとづく話を載せている。

弟の神が少女と結婚するのは、末子成功説話の形式をとったものである。
兄の名が秋山の紅葉を表わし、弟の名が春山の霞を表わしているところに、春秋の自然美の優劣を競う意味がうかがわれる。

春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠にかけ、その少女と結婚する条は、三輪のオホモノヌシノ神が丹塗矢となって、厠にいるセヤダタラヒメの女陰をつく丹塗矢型説話の変形である。

母親が弟のために呪いの呪物を作り、弟に呪いの言葉を教えたことが記されていて、呪祖の方法が、具体的にくわしく語られているのが特色。
そして神の世界と人間の世界とを比較して、人の世となって約束を履行しなくなった、と母親に言わせている。



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山の辺の道(狭井神社~桧原神社)・出雲屋敷跡

20170512

3月23日、青春18キップの旅二日目、素佐男神社、大神神社、狭井神社参拝のあと、山の辺の道を「茅原の出雲屋敷跡」周辺を訪ね、ついでに桧原神社まで山の辺の道を歩いた。

今回の青春18キップの旅のサブテーマは「出雲族の痕跡探索」であり、一日目も下鴨神社横に広がる「出雲路」地区を探索した。
ここ大和にも、当然その痕跡はあるが、効率よく神社巡りをしつつなので、「茅原の出雲屋敷跡」と「草川の出雲屋敷跡」を訪ねることにした。
「草川の出雲屋敷跡」は、午後にJR巻向駅から穴師兵主神社を訪ねるときに通ることにして、
ここでは「茅原の出雲屋敷跡」である。

この情報は岡本雅亨氏の『出雲を源郷とする人たち』から得た。

『出雲を源郷とする人たち』に掲載の図
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栄長増文氏の『大和出雲の新発見』では、出雲屋敷と呼ばれる地が、纏向山の宮古谷、兵主神社一の鳥居近くの草川、神武天皇聖蹟碑建立地あたりの茅原の三カ所が挙げられている。

茅原の出雲屋敷については、1943年、内閣官房総務課が刊行した『紀元二千六百年祝典記録』において、「神武天皇聖蹟ノ調査保存顕彰」 事業報告で、神武天皇が伊須気余理比売命の家で一夜を過ごした所は、「裡俗此の辺を出雲屋敷と称す」としている。

狭井神社前の山の辺の道を「玄賓庵」の方向に向かう。
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しばらく、狭い道が続く。
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展望が開けたところに歌碑あり。
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狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
/伊須気余理比売
筆:月山貞一

意味:
狭井河の方から雲が立ち起こって、
畝傍山の樹の葉が騒いでいる。
風が吹き出しますよ。

神武天皇がお隠れになってから、その庶兄の当芸志美美命が、皇后の伊須気余理比売に言い寄るのであるがその時に、三人の皇子たちを殺そうとして謀ったので、母君の伊須気余理比売がご心配になって、歌でこの事を御子たちにお知らせになった。
神武天皇の皇后の伊須気余理比売の歌で、叙景歌であるが、危急を知らせる風刺歌である。「風吹かむとす」は危険が迫っていることの隠喩。

そのすぐ先に「狭井川」があり。
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山の辺の道の下のほうは、まあまあだが、
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山の方は、ほんとに小さい川である。
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その狭井川のほとりにある建物は、1965年に人間国宝の月山貞一(がっさんさだいち)刀匠が開いた日本刀鍛錬道場である。
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国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一(1907~1995)は、明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。
月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。
大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。
この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。

情報では、奥出雲(日刀たたら)産の玉鋼による作刀が行われていたそうである。

ここから開けた感じになり、いよいよ「出雲屋敷跡」だなと思わせる。
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【出雲屋敷跡】

人里だという感じである。
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額田王の歌碑があった。
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(長歌) うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで 道のくま いさかるまでに  つばらにも 見つつ行かむを  しばしばも みさけむ山を 心なく 雲の  かくさふべしや
(反歌) 三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや

調べてみると、この歌は近江遷都にあたって、詠われた歌だという。

意味:
(長歌) 美しい三輪の山、あの山が奈良の山の山の間にかくれるまで、長い道の幾曲りを重ねるまで、しみじみとふりかえり見ながら行こうものを、幾度も幾度もふりさけて眺めてやろうと思う 山であるに、その山を、無情にも、雲がさへぎりかくすといふ事があるべきか。

(反歌) 三輪山をあんなにかくすのかナア。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ。あんなにかくすといふ事もあるべきだろうか。

うま酒:三輪の枕詞
あおによし:奈良の枕詞
道のくま:道の曲がり角
いさかるまで:い積るまでに 道の曲がり角がいくつも重なるまでに

その反対側にも歌碑があり。
これは気が付かずに行き過ぎるところだったが、後述のカフェの人が教えてくれた。

神武天皇の歌碑である。
来たほうを振り返る。
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道路から上がったところに、小さな歌碑がポツンとあり。
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歌は「葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し」

これは『古事記』、「神武天皇の巻、「伊須気余理比売」の段に書かれている。
ちょっと長いが、現代語訳で載せておく。

 さて、イハレピコノ命(神武天皇)が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹のアヒラヒメという名の女性と結婚してお生みになった子に、タギシミミノ命とキスミミノ命の二柱がおられた。
けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、オホクメノ命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島のミゾクヒの娘に、セヤダタラヒメという名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪のオホモノヌシノ神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗りの矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、ホトタタライススキヒメノ命といい、またの名をヒメタタライスケヨリヒメといいます。
これはその「ほと」ということばをきらって、後に改めた名である。こういうわけで神の御子と申すのです」 と申し上げた。
 さて、七人の少女が、高佐士野に出て野遊びをしていた。イスケヨリヒメもその中に加わっていた。するとオホクメノ命は、そのイスケヨリヒメの姿を見て、歌でもって天皇に申し上げるには、
「大和の高佐士野を七人行く少女たちよ、その中のだれを妻としようか。」
このときイスケヨリヒメは、その少女たちの先頭に立っていた。そこで天皇は、その少女たちを見て、お心の中でイスケヨリヒメが一番前に立っているのをお知りになり、歌をもってお答えになるには、
「ともかくも一番先に立っている、年上の少女を妻としよう。」
そこでオホクメノ命が、天皇のおことばをそのイスケヨリヒメに告げ明かしたとき、姫はそのオホクメノ命の入墨をした鋭い目を見て、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目じりに入墨をして、鋭い目をしているのですか。」
するとオホクメノ命が答えて歌っていうには、
「お嬢さんにじかにお逢いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです。」
こうしてその少女は、天皇に「お仕えいたしましょう」と申した。
 ところでそのイスケヨリヒメの家は、狭井河のほとりにあった。天皇は、そのイスケヨリヒメのもとにお出かけになって、一夜おやすみになった。その河を佐韋河というわけは、その河のほとりに山百合がたくさん生えていた。それで、その山百合の草の名を取って佐韋河と名づけた。
山百合の本の名は佐韋というのである。 その後、そのイスケヨリヒメが宮中に参内したとき、天皇が御歌にお歌いになるには、

葦原の中の荒れたきたない小屋に、菅の筵を清らかにすがすがしく敷きつめて、私たちは二人で寝たことだ。

そしてお生まれになった御子の名は、ヒコヤヰノ命、次にカムヤヰミミノ命、次にカムヌナカハミミノ命(綏靖天皇)の三柱である。

この川の辺は山百合が多いので、その名をとってサヰ川と名づけたという。
4月18日大神神社と狭井神社で行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)と、率川神社(いさがわ)の6月17日、三枝祭(さいぐさまつり、三輪山の麗に咲いた笹百合の花で飾った酒樽を神前に供える)の起源を思わせる。

大神神社で買い求めた『三輪山の神々』という本の中で、塚口義信氏は、この「聖婚」の意味を次のように記述している。
「狭井川のほとりに住んでいたイスケヨリヒメが大物主神の娘であったということは、要するに、イスケヨリヒメが大物主神を祭っていた巫女であったことにほかなりません。だから神武天皇はどうしても、この女性と聖婚をする必要があったわけです。そうでなければ、大和の国の宗教的権威を手中に収めることができなかったのです。ただし、これが歴史的事実に基づくものではなく、あくまでも観念上のものであるということについては、ここで改めて申し上げるまでもない」

大和地方を支配していた、大物主神(大国主の和魂)を奉じる出雲族を「天孫族」が武力で征服し、次いで精神的に支配したのが、この「聖婚」であると考えることができると思う。
そして神武天皇と出雲族の姫との間に出来た子が、綏靖天皇となる。


この辺は、山間に挟まれた平地であり、果樹の畑などが広がっていた。
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当初、この小さな神武天皇の歌碑に気付かずに通り過ぎようとしたが、ここに瀟洒なカフェがあり、この辺の土地の人に話を聞きたい気持ちもあったので、このカフェで休むことにした。
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コーヒーを飲みながら聞けば、この土地の若い夫婦がやっているカフェであった。

・この辺に何も説明する表示は無いが「出雲屋敷跡」だということは、お二人は知っていた。
・この辺には「出雲」という姓の家は無い。
・カフェのご主人が、歌碑はわかりましたか?と聞いて来たので、伊須気余理比売と額田王のがあったと答えると、神武天皇の歌碑を教えてくれた。きっと小さいので見過ごす人が多くて、教える機会が多いのだろう。

コーヒーも美味しかったし、気持ちのいい空間でした。

また歩き出してすぐに、大神神社の末社・貴船神社があった。
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ここにも社殿の横に磐座があった。
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しばらく開けたところを行きますが、また山にかかります。
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山道をしばらく歩く。
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「玄賓庵」の前に出ました。
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時間の関係から、残念ですが寄りませんでした。

かなり気になった石仏群だったが、通り過ぎました。
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ちょっと険しい山道に。
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小林秀雄氏筆の「山邊道」碑
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また、山道を進んでいく。
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滝の入り口に歌碑あり。
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歌:高市皇子尊  巻2-158
筆:安田靫彦

山振之 立儀足 山清水 酌ニ雖行 道之白鳴
やまぶきの たちしげみたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹が花のよそおいをこらしている山の清水を汲みに行こうと思うが、道のわからないこと。

山吹の黄と、清水の泉とを合わせて黄泉(よみ)の国の意を裏に含ませている。
また、黄泉の国まで訪ねていくことを上からの縁で「汲ミニ行ク」と言っている。

高市皇子が、十市皇女の急逝に三首の歌を作った内の一つ。
あとの二首は、
 神山の 山邊真蘇木綿 みじか木綿 かくのみ故に 長しと思ひき 
  
 三諸の 神の神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねる夜ぞ多き
    三輪山の神杉を見るように、せめて夢にだけでも 十市皇女を見ようとするけれど、
悲しみのために眠れず、夢さえもみることのできない夜が多いことだ

十市皇女は、父が天武天皇、母は額田王。大友皇子(天智天皇の皇子)の妃となる。
壬申の乱で父と夫が戦い、板ばさみとなる。
戦いが終わり、5年9ヶ月後の天武7年4月(678年)発病し、急逝した。
高市皇子は、天武天皇の長子で十市皇女とは異母兄妹になる。

奥の滝は、山の辺の道を歩いてきた者にとっては「甘露の滝」である。
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しばらく行くと、桧原神社に到着だが、その直前に万葉歌碑あり。

歌:柿本人麻呂  巻10-1814
筆:徳川宗敬
古 人之殖兼 杉枝 霞霏「雨微」 春者来良芝
古の人の植ゑけむ杉か枝に霞たなひく春は来ぬらし
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桧原神社に到着しました。
次回の記事とします。


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市谷亀岡八幡宮の狛犬

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所在地:東京都新宿区市谷 市谷亀岡八幡宮参道
参拝日:2015年10月6日

年代:享保14年(1729)
材質:石造
型式:はじめ型

市谷亀岡八幡宮については、既に記事にしています。

その記事を読む


銅製鳥居をくぐると、参道に居ます。
この狛犬は、2010年に山形県山辺町畑谷の三嶋神社から里帰りしたものだそうです。
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・造形が極めてシンプルで、彫が極端に少ない。
・右側が阿形、たてがみがすーっと流れて先端が巻き毛であり獅子。
・左側は吽形、たてがみが同様にすーっと流れて先端が巻き毛であり獅子。
・伏せ耳、目は鋭く、口は口元が耳まで裂けてバカでかく、威嚇的な顔。
・足の付け根の部分が胴体とほとんど分かれていず、シンプルな彫り。
・前足は、肘を曲げて前に出ししている。甲にポチッと二つの玉あり。
・後足は蹲踞。
・尾は、背中に沿ってまっすぐ伸びて、両側に巻き毛が続く。

尾の形が、ありそうで意外と珍しい。
背中に沿ってまっすぐ伸びて、両側に巻き毛が続く
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狛犬の記事一覧を見る



義高ウォーク2017

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5月4日(水)に行われた、狭山まちづくりストの会企画の「義高ウォーク2017」に、歴史クラブ地域連携部会がガイドとコース誘導を支援しました。
「義高ウォーク」は、狭山市駅前から、ほぼ鎌倉街道をたどって、嵐山大蔵館跡まで歩こうというもので、全行程を歩くと約27Kmになります。

昨年、狭山市が「義仲・巴広域連携推進会議」に参加することになり、状況が変わってきました。
「義高ウォーク」に市も関係するようになり、コース中、笛吹峠からゴールの大蔵館跡まで「嵐山町文化スポーツ課&嵐山町観光協会」が休憩ポイントサービスとガイドの支援をしてくださることになりました。

「義仲・巴広域連携推進会議」というのは、富山県、石川県、長野県、埼玉県の公共団体で組織している活動です。

今年も、歴史クラブからは9名が支援に参加しました。
私は、家族の一人が歩きたいと希望してきたので、自分の担当をこなした後、一緒に歩いて嵐山大藏館跡までの27Kmを歩きました。

コースの史跡は、簡単に触れますが、ウォーク中心なので、この記事では触れない史跡がたくさんあります。
別に鎌倉街道の記事をアップしているので、そちらを参考にしてください。
但し、高崎から鎌倉に向かって歩いているので、今回のコースとは逆の順番になっています。

鎌倉街道の記事を読む


今年のポスター
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今年の参加者は66名でした。
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市長も挨拶にくてくださった。
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歩き出す前に準備運動
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駅前を、8:30に出発。

【駅前から「女影古戦場」まで】
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清水八幡の説明:稲葉さん
影隠し地蔵の説明:川田さん
智光山公園の先、鎌倉街道交差点までの道案内:山畑さん・森さん
鎌倉街道交差点・日光脇往還の説明:市川さん
切通し・鎌倉街道碑の説明:村越さん
女影古戦場の説明:井口

全体の運行管理と、支援者を支援ポイントに適切に届ける車の運転を、矢島さん、吉岡さん、近藤さんが行いました。

駅前から歩きだして、最初のポイントは「清水八幡」です。

〇清水八幡
清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。
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入間川を渡る時には、「義高鯉のぼりの会」が主宰して揚げた鯉のぼりがはためいていた。
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〇影隠し地蔵
ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
そこから鎌倉街道は信濃坂を上がりますが、そこにある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。
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そこから、智光山公園の前を通り、しばらく歩いていくと、「日光脇往還」との交差点に出ますが、交差点の名前が「鎌倉街道」。(写真は昨年のもの)
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〇日光脇往還
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。(写真は昨年のもの)
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それから、いかにも「切り通し」らしい道を下っていくと、「鎌倉街道上道」碑があり、そこからしばらくあるいていくと「霞野神社」があり、「女影が原古戦場」となります。

「切り通し」を下りてくる、もう他を引き離して先頭を歩くご夫婦。
聞けば、東海道、中山道を完歩した強者でした。
健脚で知識も実に豊富な、素晴らしいご夫婦でした。
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〇鎌倉街道上道碑
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〇女影が原古戦場
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をして打ち破り、ついに鎌倉に入ります。
鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている。

霞野神社を含む一帯が、女影が原古戦場といわれる。
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ここで、飲み物サービスがあり、休憩しながら説明を聞いてもらいました。
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ここから、私も歩きました。
女影交差点を過ぎて、武蔵高萩駅の近くを過ぎると「旭ケ丘」住宅団地になります。
ここは戦前空軍士官学校の飛行場が設置され、戦後は「旭ケ丘」という大住宅団地となったため、鎌倉街道はまったくわからなくなってしまっています。
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【旭ケ丘から西大家駅までのコース。】
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ここでは、コースを間違いやすい三叉路やY字地点で、コース誘導を実施しました。
三叉路誘導:森さん
Y字路側溝沿いに誘導:山畑さん
鎌倉街道道標での説明:池田さん

ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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この区間は、完全に街道の遺構が小川になっている。
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西大家駅横の踏切。
この手前のコンビニで休憩。
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【西大家駅横から鳩山町役場までのコース】
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森戸橋
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江戸時代の馬頭観音の前を通る。
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毛呂山町「市場」に入るところで、鎌倉街道旧道が残っているので、そこを誘導しました。
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鎌倉街道旧道入り口誘導:川田さん
鎌倉街道旧道出口誘導:森さん
鎌倉街道遺構説明:池田さん、井口

〇鎌倉街道旧道
去年まで入り口は、雑草が繁茂していて、残念ながら歩ける状態ではなかったので、迂回してもらって歩ける状態の道から歩いてもらっていました。
去年の写真
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今年は毛呂山町にお願いしたら、快く直前に草を刈ってくださったので、旧道を気持ちよく歩くことができました。
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それからしばらく歩いていくと、はっきりと鎌倉街道遺構がわかる場所に出る。

〇鎌倉街道遺構
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18年前に立てた毛呂山町の説明
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この説明のように、当時はこの説明の前が、大木が生えたものすごい藪であり、最初私がここを訪ねたときには、藪の中に無理やり入って行って、遺構らしきところを見たものだ。

ここから、毛呂山町歴史民俗資料館までのコースは、とても気持ちのいい道で、大好きな道です。
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13:00ごろに毛呂山町歴史民俗資料館に到着!!
ホッとしてしまい、写真を撮らなかった(汗)

以前参加のときの写真を載せておきます(笑)
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前庭で持参のお弁当にかぶりつき、団らんしながら一時間休憩しました。

リフレッシュした気持ちで、14:00に毛呂山町歴史民俗資料館を出発。

気持ちのいい道を歩いていきます。
鎌倉街道のなかで、最も好きなのがこの辺の道です。
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〇大類古墳群
有名な苦林古墳(大類1号墳)を初めとする前方後円墳2基、円墳39基からなる古墳群を形成していますが、隣接する坂戸市善能寺の塚原古墳群とともに苦林古墳群と総称されています。
保存状態が良い葺石が残る円墳(私有地内)もあります。
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ここで、ちょっと寄り道をして、延慶(えんきょう)の板碑を見ました。
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この板碑は、もっと鎌倉街道に近い崇徳寺跡(町指定史跡)にあったものが、今の場所に移されたそうです。
移転の際に、基部から古瀬戸を利用した骨壷が出土しましたが、火葬骨が入っていて、しかも火葬骨には刀傷の痕があったそうです。
高さ3m、幅80cmの大型板碑には、雄大な胎蔵界大日如来の種子に深い蓮台が刻まれています。その紀年銘から延慶3年(1310)の建立であることがわかります。
高さもあり迫力もあります! 種子の彫りも深くシャープで美しいです。700年経っているとは思えません。

この青みがかった石材で造られた板碑は、関東特有のものです。
秩父・長瀞地域・小川町地域から産出される緑泥片岩(薄く板状にはがれる)から作られています。この石材が産出されるのは全国で二か所しかないそうです。


その後、遅れてしまった分を取り返すため急ぎました。
最後尾には簡単に追いつけると思ったのですが、それがなかなか追いつけず、後で知ったのですが、毛呂山町歴史民俗資料館、鳩山バス停、大橋バス停でリタイアしたので、残った人のペースが上がっていたのです。

笛吹峠で追いつくまで、急いだので途中の写真は無し。

撮ったのは、おしゃもじ山のツツジ祭りの写真だけです。
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【鳩山町役場から大蔵館跡までのコース】
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大橋の休憩ポイントで一息入れてから、笛吹峠を目指す。
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笛吹峠が見えた(嬉)
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笛吹峠
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ここで他の皆さんに追いつき、嵐山町の方たちに暖かいもてなしを受けて、元気が出たところでスタート。

気持ちのいい山道をいきます。
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所々に山藤が咲いていた。
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〇源義賢の墓
17:00ころ到着
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ここで、嵐山のボランティアガイドから熱心な説明を受けました。

義仲に遺児が居たのは、数年前にこれを読むまで知りませんでした。
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ついに、17:20ころ大蔵館跡の向かいの自治会館前庭のゴールに到着(嬉)
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完歩証明をいただきました。
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結局、今回は66名が参加して、43名が完歩したそうです。

それから、大蔵館跡を見学。
今は大蔵神社になっている。
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ここでも、丁寧にガイドをしていただきました。
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源義賢の居館跡で、ここで「木曽義仲」は生まれました。
源義賢は、源氏の棟梁源為義の次男で、帯刀先生(皇太子警護役人の長)を務めるほど人望も厚く、武名が高く、長男義朝よりも跡目争いでリードしていた。
ところが、義朝の子悪源太義平の急襲により、大蔵館で義賢は討たれてしまう。
そのとき、子供の駒王丸は二歳。討手の斉藤実盛と畠山重能(重忠の父)が不憫に思い、助けて木曽の中原兼遠に預けます。この駒王丸が、後の木曽義仲です。
で、源氏の棟梁は源義朝となり、それから頼朝に伝わっていく。
(悪源太義平は、平治の乱で死んでしまう)

源義賢の居館跡の図
一番大きな範囲の堀は、後北条氏の時代に設けられたもので、源義賢の居館跡は太線の点線で囲まれた部分。
大蔵神社境内の、更に奥になります。
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源義賢の居館跡の辺は、民家となっており立ち入ることは出来ない。
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西側に残る空堀。
(以前撮った写真)
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これで、全て終了で、疲れた足を引きずりながら(笑)
武蔵嵐山駅に向かい、帰途につきました。
今回、大丈夫かなという気持ちもありましたが、挑戦をクリアできたことで、ちょっと自信がつきました。
嬉しいことです。


(了)


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薬師堂特別公開

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この薬師堂には、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が納められているが、秘仏ということで今まで拝見することは出来なかった。

今回、本年2月1日付で狭山市指定文化財となったのを機に、「花祭り」に合わせて、本日7日だけ特別公開された。

それで、拝観に訪れました。

いつも閉ざされている薬師堂の扉が開き、花祭りと拝観に人々が集っていました。
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花祭りのお飾り。
お釈迦さまに甘茶をかけて、甘茶のサービスを受けて、甘茶をいただいた。
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お堂の中には、文化財の指定を受けた薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将がお厨子の中に納まり、その他にも仏像が4体安置されていました。
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堂内に上げていただき、諸仏を間近に拝観することが出来ました。
文化財指定の薬師三尊と十二神将は素晴らしいものでした。
薬師如来坐像が、本体は黒で仕上げられ、蓮華座と薬壷のみ金箔で仕上げられているのが、珍しい。
日光菩薩、月光菩薩は金箔仕上げ。

その他にも仏像が4体あり、これは今まで情報が無かったので、拝見できてよかった。

また、堂内に穴の開いた石がたくさんあった。
これは徳林寺の子育地蔵尊が、別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石」の伝説を持っているのと同様に、耳が良くなるようにとの願掛けだと思われる。
ここの薬師如来には目の病気にご利益があるとのお話だが、耳にも効くということだったのか、薬師三尊の他に仏像が4体あったので、そのどれかがそういう御利益のある仏像だったのかも知れない。


ここで、この薬師堂に関する歴史を挙げておきます。

この薬師堂の本尊の薬師如来は14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれています。
金子氏は武蔵七党の村山党に属し、鎌倉時代初期の武将金子十郎家忠の子孫である国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めたといわれています。
この薬師様は「東方の薬師さま」といわれますが、それに関しては次の様な伝説が残っています。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来が夢枕に立ち「国重心配するな、汝の家より六十間隔てる午未(うまひつじ、南西)に当る草原の中に鎮座しているぞ、安心せよ」とのお告げがあり、その場所から薬師如来を見つけて安置しました。
そして再び薬師如来が夢枕に立ち「三ツ木から東方の地に居を移せ」とお告げがあったので現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けたといわれます。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間市の三ツ木を西三ツ木、狭山市の三ツ木を東三ツ木と称するようになりました。

〇木造薬師如来坐像
このお堂に祀られている本尊の薬師如来は、高さが28cmと小さいものです。
寄木造り、玉眼、肉警(にくけい)、螺髪(らほつ)、眉間に自重(びやくごう)という特徴を持つ如来像で、お顔は慈悲に満ちたやさしい顔立ちをしています。
薬師如来は日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師三尊形式で祀られており、その功徳が日夜を問わず人々に届くようにという意味を表しています。
薬師如来の春属(けんぞく)として十二神将も祀られており、15体の仏像が安置されている珍しいお堂です。
当薬師堂縁起ではこの本尊は秘仏とされ、奈良時代に行基が一刀三礼で刻んだ尊像といわれていましたが、昭和3年(1928)に調査が行われました。
その結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨書銘文のあることが発見されました。応永6年銘の仏像は、市内では古い時代のもので大変珍しいものです。
この薬師如来には目の病気にご利益があるそうで、国重が草原で薬師如来を探し当てたとき「あまりおれを見るな、見ると目がつぶれるぞ」といったそうです。これから目にご利益があるとされたと思われます。



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狭井神社

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鎮座地:奈良県桜井市三輪1422
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの旅二日目、素佐男神社、大神神社のあと、山辺の道を歩いてここに到着。

社号標
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式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。
病気平癒の神社。
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。
古より「華鎮社」と称された。

社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代とされている。大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命および事代主神を配祀している。荒魂(あらみたま)とは、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂のことである。戦時や災時などにあたって現れ、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わる。

狭井神社は、鎮花祭(はなしずめまつり)が行われる神社として昔から有名であり、「花鎮社」ともいう。鎮花祭りは、俗に「くすりまつり」ともいい、毎年4月18日に大神神社とこの狭井神社で執り行われる重要な祭りで、その起源は崇神天皇のとき、全国に疫病が流行したが大田田根子を召して祭神の大物主神を祭ったところ疫病が止んだことにあるという。実際は、春になって花の花粉が飛散する陽気の頃はさまざまな病気が流行するので、これを鎮めるために祀ることから起こったのだろう。

『延喜式』の鎮花祭記述
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鳥居
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境内は思ったよりはるかに広い。
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皇后陛下の歌碑があり。
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手水舎
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一段上がって、拝殿前に。
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やはり、ここも注連柱があり。
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拝殿の唐破風の檜皮葺の意匠が美しい。
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拝殿
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拝殿内に「華鎮社」の社額がかかっている。
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拝殿内部
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本殿は屋根がかろうじて伺えるだけ。
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ご祭神:
主祭神は、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祀は、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神。

大神神社摂社なので、神紋はやはり「三本杉」
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薬井戸・狭井に向かう入り口に、ご神水を使用した「水琴窟」がありました。
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これに耳を近づけると、澄んだいい音色がしていた。
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〇薬井戸・狭井
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たくさん蛇口がありました。
見ていると、けっこう頻繁に土地の方がキャリアを引いて水をいただきに来ています。
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私たち旅人にも、安心してご神水をいただけるよう、減菌されたコップが用意されていました。
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お水をいただくと、何とも言えない清浄な味に感じられました。
美味しい水でした。

御神体である三輪山への登拝口が境内にあります。
但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。

三輪山の標高は467.1mです。その山頂に高宮神社があり、信仰者の登頂を認めている。登拝口は拝殿の右側にある。社務所に願い出て、住所・氏名・入山時間・性別を記入し、登拝口で祓いをすませれば、木綿襷を肩にかけて誰でも登頂できる。ただし、往復とも指定された一本道だけを通ること、禁則地域には絶対立ち入らないことなど厳しい制約が課せられる。途中に急な坂道もあり、普通の人なら頂上まで1時間はかかるとのことである。なお、登頂は有料である。

私の今回の旅は、サブテーマに出雲族の痕跡探しを挙げており、出来るだけ広範囲を廻りたいので、登頂は我慢した。次回はぜひ登らせていただきたいと思っている。

登山口
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「鎮女(しずめ)池」
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鎮女(しずめ)池のほとりに、三島由紀夫氏の「清明」碑がある。
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説明の中にある、摂社率川神社の「三枝祭」は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭り。
昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。

国が行うお祭りとして重んぜられた三枝祭は、平安時代には宮中からの使いが御供えの幣物や神馬を献上するなど、非常に丁重な祭祀が行われましたが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興され、現在に及んでいます。
このお祭りの特色は、黒酒、白酒の神酒を「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に盛りその酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花で豊かに飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えする事です。又神饌は古式に則り美しく手が加えられ、折櫃に納めます。そして、柏の葉で編んで作ったふたをして、黒木の御棚と言う台にのせて宮司自らがお供えします。

延喜式に書かれている「三枝祭」
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私は、三島由紀夫の小説はあまり親しんではいないが、絶筆となった「豊穣の海」シリーズは、前評判が騒がれたこともあり全て初版で買って、三島由紀夫の小説の中で唯一愛読しているものだ。
大神神社に参拝し、「三枝祭」に参加した本多が、松枝清顕の生まれ変わり、飯沼勲と出会うシーンは、三千本の百合の花のイメージと共に、今でも鮮明に蘇ってくる。

鎮女(しずめ)池には、大神神社末社市寸島姫神社がある。

〇大神神社末社・市杵島姫神社
ご祭神:市杵島姫命
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ここでも、卵が供えられている。
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しばらく、鎮女(しずめ)池のほとりで休んだ後、「出雲屋敷」跡に向かって、山辺の道を歩き出した。
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高橋活日命(たかはしいくひのみこと)/日本の神々の話

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『日本書紀』に登場する神。
酒造り杜氏の神様として奈良県桜井市三輪の大神神社・摂社「活日神社」に祀られている。

『日本書紀』によると、
「すなわち祟神天皇八年夏四月乙卯十六日、高橋邑の人、活日を以って大神(おおみわ)の掌酒となし給ふ」とあり、「八年冬十二月乙卯二十日、天皇、大田田根子をもって大神を祭(いは)はしめ給ふ。是の日に活日、自ら神酒を挙(ささ)げて天皇に献り仍りて歌して曰さく、この神酒(みき)ならず大倭(やまと)なす大物主に 醸みし神酒 いくひさいくひさかく歌ひて神宮に宴したまふ。即ち宴竟(おわ)りて諸大夫など歌ひて曰はく、うま酒 みわのとのの 朝戸にも 出でて行かな 三輪のとのどをここにおいて天皇歌し曰はく、うまざけ 三輪のとのの あさとにも押しひらかね みわのとのどをすなわち神宮の門を開きて幸行(いでま)しぬ。いはゆる大田田根子は今の三輪君等の始祖なり」
 
第十代崇神天皇(実在する最古の天皇)時代、国は疫病の流行で混乱を極めていました。天皇はどうすれば良いのか・・・と悩み苦しみ眠っている時、夢で大物主大神様からお告げがありました。「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」それを聞いた天皇は「高橋活日命(たかはしいくひのみこと」を呼び、一夜で酒造りを行い神酒を奉納しました。すると疫病は去り、国が富みはじめました。

その時に高橋活日命が詠んだ詩が、
「此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久」(この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒です。幾世までも久しく栄えませ)
このことより高橋活日命は杜氏の神様として大神神社の摂社「活日神社」に祀られました。

このことから、三輪が酒造り発祥の地といわれる。

大神神社の摂社・活日神社に高橋活日命が祀られている。
その当時、酒造り天下一の名人であったことにまちがいなく、杜氏として、一番早く記録されている方であり、したがって酒造業、とりわけ杜氏の先祖とも仰がれ、いまも新酒の仕込みにかかる前、杜氏さん達は、丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋から蔵入りする前にはこの社に参拝し、また春もたけなわの頃ともなれば、無事、百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時、ふたたびお参りをされるのが習いになっている。

活日社のご祭神活日命は、大物主命のお告げにより、一夜で良質の神酒を造られたと伝えられ、古図にも活日社と記さず、一夜酒之社と書かれている。土地の人もまた、一夜酒さんとよんでいる。
明治初期の頃までは、この社の近くに酒殿が建っており、醸酒の道具も保存されていたといわれる。

大神神社(おおみわじんじゃ)では、毎年11月14日に「酒まつり」が開催される。
祝詞の後、4人の巫女が三輪の神杉の枝を手に登場し、笛や箏の音に合わせて、「この御酒は わが御酒ならず 倭なす 大物主の醸みし御酒 いくひさ いくひさ」という歌に合わせて華麗に舞う「うま酒みわの舞」が披露されるそうです。



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大和国一之宮・大神神社

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鎮座地:奈良県桜井市三輪1422
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの旅の二日目、ホテルで朝食後JR奈良駅8:00発の桜井線に乗り、三輪駅8:25に降り立ちました。
いよいよ奈良大和の三輪・巻向地域の旅のスタートです。

三輪駅から、大神神社と反対方向に向かい、大鳥居に向かいます。

さすがに大鳥居はデカイ!!
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大鳥居と三輪山
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昭和59年10月13日 昭和天皇陛下行幸を記念、ご在位60年を奉祝し、この大鳥居が建立された。
高さ 32.2m、柱間 23.0m、柱の直径 3.0m、本体総重量 180トン というもの。

圧倒されます。
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大鳥居から真っ直ぐ道が二の鳥居に向かっているが、それからちょっと外れて、大鳥から100mほど歩くと、一の鳥居がある。

社号標
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗、大和國一宮、旧官幣大社
別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。
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神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる[1]。旧来は大神大物主神社と呼ばれた[2]。

三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿[3]から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した。

全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。

例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。

国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。また、『延喜式神名帳』には「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社に列している。

現代においても、今上天皇が複数回参拝(皇太子時代を含む)しており、美智子皇后は毎年4月に催される「鎮花祭(はなしずめのまつり)」に心引かれたという。

神階:
六国史における神階奉叙の記録。いずれも神名は「大神大物主神」と記される。
嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)
仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇実録』)
貞観元年(859年)正月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本三代実録』)
貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本三代実録』)

木製の一の鳥居
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神橋は渡れず、脇を通る。
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大鳥居からの道と合流、車道の脇に砂利の参道がある。
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JR桜井線の踏切を渡る。
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二の鳥居に到着。
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ここまできて、今日の巡拝の都合上、先に素佐男神社に参拝しました。
記事はアップしてあります。

素佐男神社から二の鳥居に戻って来て、いよいよ大神神社に参拝。

境内図
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二の鳥居の斜め前に「幽玄」と書かれた木札があります。
この文字は、大神様を深く信仰なさった福田青山師の筆になりもの。
傍書には「探幽入玄談玄口不開不言大教言外の教即随神の大道也」とあります。
福田青山師は、明治13年和歌山県那賀郡岩出町に生まれ昭和42年、88才で亡くなられているが、社会に貢献することを徳とされた方。
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二の鳥居
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掲額には「三輪明神」とある。
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気持ちのいい参道をいきます。
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神橋
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「祓戸神社」で禊をしてから参拝します。
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〇夫婦岩
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手水舎
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ご祭神大物主神が蛇神であることから、巳の口から水が出ている。
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○しるしの杉
三輪の七本杉の一つであり、保存されている。
言い伝えでは、勢州奄芸郡の猟人が異女に逢って妻にし一児を儲けた。その後、母子の去った所は分からないという歌がある。
恋しくは尋ねてもみよ我が宿は三輪山もと杉たてる門
夫はこれを尋ね求めて神木の本で会い、三人同じく神となった。当社の祭に勢州奄芸郡の人が来て執行するのはその縁による。
(『国花記』による)
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この石段を上がると拝殿前広場だが、石段の右に「衣掛の杉」がある。
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〇衣掛の杉
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石段を上がる。
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石段の上には、通常の鳥居とは違った、三輪神社独特の「注連柱(しめはしら)」が立つ。
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注連柱をくぐると、拝殿前の広場です。
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拝殿の右前に「巳の神杉」があります。
物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられたご神木。樹齢500年とも言われる。蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。
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やはり、神々しい樹です。
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大好物の卵が供えられている。
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拝殿
江戸時代中期、寛文4年(1664年)の造営。大正10年4月30日重要文化財指定。
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私たちは普通、柏手(かしわで)と礼拝で参拝するが、三輪の周辺では拝殿前に御幣が供えられていて、参拝者が自分で御幣を振って浄めてから参拝が出来るようになっている。
そのようにしている方がわりと多かったが、私は慣れぬことはするほうでは無いのでしなかった。
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檜皮葺きの厚いこと。
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当社には本殿はなく、三輪山(三諸山)を祀る神社。
三輪山は典型的な神奈備山で、山中には幾つかの磐座がある。
また、拝殿奥に、社伝に「一社の神秘なり」と記された三つ鳥居があり、そこから奥は禁足地となっている。

三つ鳥居は、希望すれば拝観できるようだが、時間の関係もあり、大神神社を特集したテレビ番組で見ているので省略しました。

ご祭神:
主祭神は、大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命ともいう)

大物主神は蛇神であると考えられ水神または雷神としての性格を合わせ持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。また日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。

ご配神は、大己貴神 (おおなむちのかみ)と少彦名神 (すくなひこなのかみ)。

祭神の伝承:
記紀には、次の記述がある。大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。

崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあって、憂慮した天皇は、天照大神と倭大国魂神を祀るが安からず、天照大神を豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀り倭大国魂神を渟名城入媛命に託して祀るが髪が抜け落ちてやせ細り祭祀が出来なくなった(崇神記六年条)。 同7年2月、巫女的な性格を持つ皇女倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、磯城彦後裔である三輪氏の祖である茅渟県(ちぬあがた)陶邑(東陶器村)の意富多多泥古(大田田根子)を探し出して祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(崇神記七年二月辛卯条)。

倭迹迹日百襲媛命は聡明で未来を予言することができた。崇神天皇の命により北陸道を平定しようと出発した将軍の大彦命が道中で不思議な童歌を詠う少女に出会った。大彦命はただちに引き返して天皇に報告した。これを聞いた倭迹迹日百襲媛命は武埴安彦命と吾田媛の反逆を予言した。武埴安彦命らによる反乱は大彦命・彦国葺命らによって討伐された。 その後月日は流れ、倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだ。

さらに『日本書紀』によると、雄略天皇六年、天皇は少子部連スガル(蜾蠃)に、三輪山の神が見たいので、捕って来いと命じたところ、少子部連スガルは三輪山に登り大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒していなかったため、大蛇は雷のごとき音をたて、目を輝かせてたという。

このように、当社祭神大物主神は蛇神であり、雷神である。

また、大物主神は密かに陶津耳命の娘・活玉依姫のもとへ通い、活玉依姫が妊娠。
父母は怪しんで、針を苧玉巻(おだまき:糸を巻く玉)につけ、神の裳にかけさせた。
明朝、その糸を辿ると、三諸山に行き着いた。
糸を巻いて輪にしたものが三丸(三輪のこと)残っていたので三諸山と号し、三輪という。


神紋は、「三本杉」と「三つ輪」
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勅使殿
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大神神社参拝はこれで終え、摂末社参拝に向かいます。
その範囲が広大で、「山野辺の道」に沿って行うことになります。

「くすり道」を上がります。
薬の神様・狭井神社さいじんじゃへの参道で薬業関係者奉納の薬木・薬草が植えられている。
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「山野辺の道」に出ました。
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「医薬の神さま」の碑
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「くすり道」から「山野辺の道」に出たところから、一旦大神神社の方に戻り、摂社・活日神社に参拝。

【摂社・活日神社】
ご祭神:高橋活日命
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そして、狭井神社の方向に進み、摂社・磐座神社に参拝。

【摂社・磐座神社】
ご祭神:少彦名神
鳥居の向こうには社殿がありません。神の鎮まる磐座をご神座とし、薬の神様である少彦名命を祀ります。
磐座信仰の根付く三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座と呼ばれる磐座群が鎮まります。三輪山の麓に位置する磐座神社の磐座は、辺津磐座の一つということになります。
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更に「山野辺の道」を歩き、摂社・狭井神社に出ました。
摂社・狭井神社は次の記事となります。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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