代々木八幡宮

20170731

鎮座地:東京都渋谷区代々木5丁目1-1
参拝日:2017年7月27日

小田急線「代々木八幡」駅から歩いて5分ほどのところにあります。

岡一つが丸々境内になっており、入り口から上がっていきます。
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社号標
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旧社格は村社。
八幡神として応神天皇を主座に祀り、天祖社・天照大神、白山社・白山大神を配祀する。

建暦2年(1212年)、源頼家の近習・近藤三郎是政の家来であった荒井外記智明によって創建された。頼家が修禅寺で暗殺された後、智明は武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年8月15日の夜、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見た。そこで、同年9月23日、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが当社の始まりであると伝える。現在でも例祭は9月23日に行われている。

当社は草創以来、社僧の手によって管理されてきた。別当寺であった福泉寺の文書によれば、 天保元年(1644)伝養律師が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、 三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれている。
これは大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、 紀州家側室・延寿院殿が甥であった長秀法師のために社地6000坪を始めとする数々の寄進をしたことで実現した。
明治維新以降、神仏混淆が禁止され当社は村社に列せられた。 江戸時代からの稲荷社、天神社の末社に加え、旧代々木村にあった小さな神社が合祀され、 天祖社(天照大神)と白山社(白山大神)が八幡さまの配座に祀られた。

昭和25年、境内の発掘調査が行われ、縄文時代の住居跡などが発見された。境内に竪穴式住居を復元したものがある。「代々木八幡遺跡」として渋谷区の史跡に指定されている。

社号標のところに、昭和36年(1961)奉納の、威嚇型狛犬が居る。
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一の鳥居
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ここで、拝殿前にあった境内図をアップしておきます。
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一の鳥居から弓なりの参道があり、二つに分かれている。
右は二の鳥居からの参道、左は竪穴式住居を復元した「代々木八幡遺跡」に向かっている。
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右に行き、左に折れて二の鳥居になるところに、庚申塔が並んでいた。
ここは福泉寺の境内だと思う。
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青面金剛庚申塔が二体あり、宝永6年(1709)と寛政6年(1794)のものがあった。
宝永6年(1709)造立のものをアップしておく。
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宝暦5年(1755)造立で、地蔵菩薩を主尊とする珍しい庚申塔があった。
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二の鳥居
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二の鳥居と拝殿の参道中間に狛犬が居る。
天明9年(1789)奉納、はじめ型(尾立ち)
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手水舎の手前に、石灯篭あり。
代々木の原に大日本帝国陸軍の代々木練兵場が1909年(明治42年)造られた際、この地から立ち退くことになった居住者らが別れを惜しんで奉納した石碑、「訣別の碑」がある(二基ある灯篭の竿石部分)。
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手水舎
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拝殿前に、三組目の狛犬が居る。
明治26年(1893)奉納、江戸流れ尾型で、台座の彫刻も含めて素晴らしい出来のもの。
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拝殿
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向背破風は、千鳥破風と唐破風の二重。
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向背破風懸魚の彫刻は鳳凰。
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向背部中備えの彫刻は龍。
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軒の破風に降り懸魚の彫刻があり。
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社額
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拝殿内部は、御簾が下がっていて伺うことは出来ず。
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本殿
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ご祭神は、応神天皇。
配祀神が、天照大神と白山大神

ご神紋は「右三つ巴」
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神楽殿
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保存されている「代々木囃子」と「代々木もちつき唄」の説明あり。
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神輿庫
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境内社に参拝。
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稲荷社(ご祭神:豊受大神)・天神社(ご祭神:菅原道真公)・榛名社(ご祭神:日本武尊)
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出世稲荷社
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富士登頂記念碑
富士講が建てたもの。
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この辺にある碑を観察してみると、富士山の溶岩を使って「稲荷山」を建てたものらしい。
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石祠
ご祭神不明
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〇代々木八幡遺跡出土品陳列館
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或る程度の暮らしが再現されている。
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出土した縄文土器
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出土した石器
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石皿と凹石・磨石
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縄文時代の根源的な信仰対象「石棒」
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これで、一応の参拝を終え、しばらく境内で休憩してから、「代々木八幡遺跡復元竪穴住居」を見に行った。

広い境内の林の中にある。
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〇代々木八幡遺跡復元竪穴住居
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これで、ここの参拝を終えて、次の目的地に移動しました。



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勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)・玉櫛媛(たまくしひめ)・三嶋溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)

20170730

記紀に登場し、神武天皇の后の母神である。

『古事記』では勢夜陀多良比売(:せやたたらひめ)、『日本書紀』では玉櫛媛(:たまくしひめ)
また、三嶋溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)、溝咋比賣命(みぞくいひめのみこと)とよばれることもある。

この神には、奈良県桜井市の「狹井神社(狹井坐大神荒魂神社)」で参拝した。

『古事記』の「神武天皇」の巻、「伊須気余理比売」の段に登場する。
(現代語訳)
さて、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が日向におられたときに、阿多の小𣘺君の妹の阿比良比売という名
の女性と結婚してお生みになった子に、多芸志美美命と岐須美美命の二柱がおられた。
けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、大久米命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島の湟咋(みぞくい)の娘に、勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)という名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪の大物主神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗の矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)命といい、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といいます。
これはその「ほと」ということばをきらって、後に改めた名である。こういうわけで神の御子と申すのです」と申し上げた。
(以下略)

富登多多良伊須須岐比売の「富登」は、勢夜陀多良比売が丹塗矢と化した大物主神に陰(ホト)を突かれたことによる。 神の矢が女陰に立ったので、あわてたという意味らしい。

『日本書紀』では、 ある人が「事代主の神、三島溝橛耳(みしまみぞくいみみ)神の娘・玉櫛媛に共ひて生める児、 号を媛蹈鞴五十鈴媛命と日ふ。 こは国色秀ぐれたる者なり」と勧め、神武天皇の王妃としたとある。

三嶋湟咋:
『古事記』や『日本書紀』などに言及される神。
『古事記』では三嶋湟咋、『日本書紀』では「三嶋溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)」、『先代旧事本紀』では「三嶋溝杭(みしまみぞくい)」、「三嶋溝橛神(みしまみぞくいのかみ)」、『新撰姓氏録』では「三嶋溝杭耳(みしまみぞくいみみ)」と表記される。
勢夜陀多良比売=三嶋溝樴姫の親神であり、姫蹈鞴五十鈴姫命の祖父にあたる。
神名の「三嶋」とは、摂津国(今の大阪府と兵庫県との間)にあった地名で、またこの地にいた賀茂氏に類するとされる三嶋氏を指すと考えられる。
また「ミゾクイ」は水田への引水のための杭のこと、あるいはそういった引水に関わる者のことと思われる。
大阪府茨木市五十鈴町にある式内社「溝咋神社(みぞくいじんじゃ)」に祀られている。

子孫であるが、『旧事本紀』の記載によると 一男一女を儲けた。
第1子:天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)
別名:櫛甕玉(くしみかたま)、櫛御方命(くしみかたまのみこと)といい、食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)に任じられている。古事記では父は、大国主とされていて須佐之男命の六世の孫。子孫に大田田根子〈おおたたねこ〉がいる。
第2子:韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)
神武天皇の皇后になり、神渟名河耳天皇(かむぬなかわみみ:綏靖天皇)と彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)のふたりの皇子を産んだ。綏靖天皇は、韛五十鈴姫命の異母姉妹、五十鈴依姫命と結婚し皇子をひとり産んだ。この皇子が磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみ:安寧天皇)である。

その他山城国風土記 によると、賀茂別雷命も子供とされている。

ここで、「みみ」、「たたら」が名前に入っている神名が多いことについて、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」で説明されていることについて紹介しておく。
「みみ」とは、南方からの大きな耳輪をさげている種族のことを示す。縄文遺跡から発掘されたもののなかに、けっこう精緻につくられた耳輪が各所にみられる。
神武帝は九州から東征するが、皇妃を選ぶときにも摂津三島のミゾクイミミの孫娘と縁組を結ぶ。
三島では、古代の農耕のための水田の整頓、そのための鉄器の使用のあとが見える。
そして何よりも、摂津三島は銅鐸の熔笵(ようはん:鋳型の考古学上の呼称)が多量に出土した土地である。
「たたら」は、言うまでもなく「炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)」のことである。
「みみ」に示される南方からの種族は、農耕技術だけでなく、製鉄・青銅の技術も備えていたことがわかる。



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大山阿夫利神社(延喜式内社)/神奈川県伊勢原市大山

20170728

鎮座地:神奈川県伊勢原市大山355
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚に続き、訪れました。

バスを降りて歩き出すと、大きな御神燈があり。
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ここから「こま参道」と云い、駐車場からケーブルカー乗り場まで、362段の石段の左右に土産物店や料理店が並ぶ、長~~い参道です。
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途中の休憩所で一休み。
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幹事さんが予約してくれたお店で、名物の「とうふ料理」を食べました。
名水で有名だけあって、美味しかった。
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道の反対側が旅館と云いますから、大山講の御師の家なんでしょう。
お店に「石尊大権現」の画像が飾ってありました。
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また、石段をせっせと上がります(汗)
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雲井橋まできました。
橋からの眺め。
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橋から三筋の滝が見える。
水垢離をする場所だろう。
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「龗(れい)神の神」があり。
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ケーブルの駅に到着。
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ケーブルカーには、他の客が少なく、良い場所に座れた。
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この日は、あまり天気が良くなく、眺望はイマイチ。
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到着
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ケーブル駅からは、横に移動する感じで、神社の石段の下まで行けます。
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大山の全体像
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この日は、時間の関係で、下社だけの参拝です。

石段の下まで来ました。
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大山阿夫利神社について:
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。

歴史:
大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されるなどしている。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。

大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされる。延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。
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天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。

中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。

江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるとされたため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた[2]。なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる。

明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された。明治6年(1873年)には県社に列格している。

戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。

大山阿夫利神社下社境内図
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途中の踊り場
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途中に狛犬あり。威嚇型、年号は不明。
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石段を上がりきると鳥居。
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鳥居の前に、昭和11年奉納の、威嚇型狛犬
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もう、夏越の祓のための茅の輪が用意されていたが、まだくぐることは出来なかった。
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大型の獅子山があった。
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2013年から公開されたばかりの大型獅子山。
阿夫利神社神域にはかって狛犬や灯篭など様々な石造物があった。
江戸時代から大山崇敬者が奉納したもので、名工による獅子像や獅子山もあり〈三大獅子山・坂東三獅子〉などと称されていたという。
そのほとんどが大正12年9月の関東大震災による山津波で流失した。
なんとか昔日の面影を…と、資料などをもとに建立されたのが平成の獅子山。
「日本三大獅子山 大山獅子」と命名された。
神域ばかりでなく参詣道にあって流失した多くの獅子・狛犬再興の想いも込められているそうである。
干支の設置は、明治時代まで続いた阿夫利神社の「十二支講」を復活し、多くの人々の安寧を祈願するためという。
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獅子山の麓に置かれた干支。
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拝殿
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社額
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拝殿前の回廊には、四神旗にあたる、四神のプレートが飾られていた。
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拝殿の一隅に置かれていた狛犬。
来歴は不明だが、可愛いものだった。
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拝殿の横から、「地下巡拝道」に入っていけるようになっていて、「神泉」を汲めるようになっていた。
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地下巡拝道
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本殿
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ご祭神:
祭神[編集]
本社に大山祇大神(オオヤマツミ)
摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。

ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。


〇浅間社
当社祭神と神縁の深い富士山の祭神である木花咲耶姫、そしてその姉神にあたる磐長姫をお祀りしている。
木花咲耶姫は木の花のような繁栄を顕す美の女神、盤長姫は磐の様に強い生命力を表す長生の女神として信仰されております。
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〇大天狗の碑
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〇天満宮
亀戸の講社によって分祀された菅原道真公をお祀りしている。
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奥社への登山口
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拝殿の左側には、大きな剣とか奉納されたものが並ぶ。
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これは明治37年に川越の講から奉納された、巨大な鉄製天水桶。
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権田直助氏銅像
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権田直助(ごんだ なおすけ、1809年2月26日(文化6年1月13日) - 1887年(明治20年)6月8日)は、幕末から明治前期の国学者・神道家・医者。
武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町)出身。
幼名を玄常、号は名越廼舎(なごしのや)。平田篤胤に学び尊王攘夷運動に関わる。
維新後は大学校の設立等に尽力し、晩年は神社再興の先駆者として大山阿夫利神社及び三嶋大社の長に任ぜられた。

境内の展望台の辺に、奉納する大きな木太刀を運ぶ像があり。
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境内の展望台からの眺め。
この日は天気が悪くて、あまり眺望が良くなかった。
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「無事かえる」像の頭を撫でてから、帰途につく。
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築地市場も大変だな、と話しながら石段を降りる。
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下りのケーブルカー
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途中で登りとすれ違い。
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下に着いた。
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ケーブルカー駅の近くに、「根之元神社」があり。
大山阿夫利神社の摂末社ではなく、独立したお宮さんだった。
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(了)


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王子稲荷神社境内・市杵島神社の狛犬

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所在地:東京都北区岸町 王子稲荷神社境内・市杵島神社
撮影日:2013年7月3日

この狛犬は、日曜・祝日でないと見ることが出来ない。

この狛犬は、王子稲荷神社境内社・市杵島神社にある狛犬である。
ところが、この境内社は現在保育園の敷地内にあるので、平日は入ることが出来ない。

王子稲荷神社については、既に記事にしてあります。

その記事を見る


事前に調べてそのことがわかったので、出来れば境内社全部に参拝したいと日曜に出掛けました。

王子稲荷の下の角まで来ると、こういう案内があります。
ウィークディは、正門から入れないので、こっちの坂を上がって脇から入ってください、ということです。
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この日は日曜なので、正門が開いていて、正門から入れます。
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入ると、正門からの参道が幼稚園の敷地内だということがよくわかります。
鳥居の石段を上がりきると、拝殿前です。
平日は石段最上部の門が閉じていて、拝殿側からこの石段を降りられないようになっています。
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境内社の市杵島神社は、石段の下から右手に行くとあります。
だから、平日には市杵島神社には参拝できません。

石段下から右に折れると、市杵島神社に入る鳥居があります。
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鳥居をくぐって、参道が左に折れると、社殿の前に狛犬が居ます。
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年代:宝暦11年(1761)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型

右の阿形獅子
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左の吽形獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛なので獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。
・顔は、阿形は損傷が大きいが、阿吽とも笑顔のようである。
・身体が小さいこともあり、親しみやすい印象。
・耳は厚くて垂れている。眉と鼻はそんなに目立たない。顎鬚が目立つ。
・牙は辛うじてわかる程度。
・胸は大きく張り出している。
・身体の巻き毛は、身体が小さいわりにははっきりしている。
・前足短く、直立。付け根の巻き毛は大きい。足指などの造作は簡素。
・後足は蹲踞。つま先の造作は簡素。
・尾は立ち尾だが、後ろから撮らなかったため詳細は不明。

年代は、宝暦11年(1761)の掘り込みあり。
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王子稲荷には、参道の石段を上がりきったところに同じ年代の狛犬があるが、
こちらは、石が上質なため保存状態がとても良い。
今回紹介したのは、それと比べると損傷が激しいが、小型であり親しみを感じるものである。



狛犬の記事一覧を見る



実朝の首塚・金剛寺/神奈川県秦野市

20170723

この日は、「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、足柄上郡松田町の「寒田神社に参拝した後、幹事の計らいで、ここを訪れました。

【実朝の首塚】
所在地:秦野市東田原1018-2
訪問日:2017年6月30日

承久元年(1219)1月27日鎌倉幕府三代将軍・実朝(27歳)は鶴岡八幡宮の境内で、二代将軍・頼家の子:公暁(20歳)により、暗殺され、実朝の首は、武常晴により秦野に運ばれ、埋葬され、これが現在、秦野市東田原にある、「実朝の御首塚」だと言い伝えられています。

三代将軍実朝は鶴岡八幡宮の年頭の式に出席した帰りに、石段の所で兄頼家の遺子「公暁」により暗殺されました。公暁は実朝の首を抱えて逃走し、三浦義村の屋敷に向かいましたが、義村には北条氏より、公暁追討が命じられており、そこで討たれました。
三浦氏の家臣長尾定景父子と共に三浦義村より公暁を打ち取る命を受けた、武常晴は、偶然に、実朝の首を得ることが出来、常晴は、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。
それが、現在東田原にある実朝の御首塚です。
その後、波多野氏は、実朝の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、首塚を飾っていた五輪木塔を石塔に替え、阿弥陀堂に移しました。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在鎌倉国宝館に収蔵されています。

吾妻鑑には北条政子の遺体は勝長寿院に。実朝は高野山の金剛三昧院に葬られていると記録されています。しかし 現在は鎌倉市の「寿福寺」の「やぐら」という横穴の中に政子と実朝親子の二つの五輪塔が置かれ供養されています。

関係系図
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駐車場でバスを降り、首塚に向かう。
鬱蒼とした森になっている。
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紫陽花が咲いていた。
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木立のなか、墓を明るくするためだと思うが、刈りこまれた木立の下に首塚はあった。
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五輪塔、石灯篭、三重塔などが並んでいる。
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傍らに立つ石灯篭は、文政3年(1820)奉納のもの。
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五輪塔は、大小二基が並んでいる。
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供えられている物から、小さいほうが本来のものと判断される。
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三重塔は、平成6年に奉納されたもの。
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私らは、駐車場のほうから入ったが、反対側が正式な入り口だったみたいだ。
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説明板
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実朝の歌碑
源実朝は歌人として知られ、家集に『金槐和歌集』がある。
首塚に建てられた歌碑は、『金槐和歌集』に載せられた一首で、実朝研究家で歌人の佐佐木信綱が揮毫した。
※『金槐和歌集』の「金」は鎌倉の鎌の偏を表し、「槐」は大臣のことを表したものであることから、「鎌倉の右大臣の家集」という意味があるという。
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「ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも
 あはれなるかなや 親の子をおもふ」
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【金剛寺】
所在地:神奈川県秦野市東田原1116
訪問日:2017年6月30日

金剛寺は、実朝の首が埋葬されたことがその始まりとされている。
金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる) が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。 その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな) が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。

山門
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阿弥陀堂
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中には、阿弥陀三尊と大きな阿弥陀如来坐像があり。
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阿弥陀三尊の足元に、木製五輪塔と源実朝像の写真が置かれていた。

首塚は、もとは木製の五輪塔であったと伝えられ、その五輪塔は、現在、鎌倉国宝館に寄託されている。
その写真
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源実朝像の写真
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本堂
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本当の前には、大きな小僧さんの石像があった。
最近、あちらこちらのお寺に、小僧さんの石像が置かれているが、こんなに大きいものは珍しい。
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境内に、「災害時井戸」の標識がつけられた、掛け放しの井戸があったが、お釜の形で面白かった。
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境内は、色々な花が咲いていて、とても良い印象の寺でした。
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(了)


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古代蓮の里&田んぼアート

20170722

所在地:埼玉県行田市小針2375番地1
訪問日:2017年7月20日

昨年初めて訪れて、とても良かったので今年は歴史クラブの行事にした。
参加者の数が程々だったので、二台の車に分乗して行った。
着いたのが10時ちょっと前。

園内は、すごく広い。
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まずは古代蓮の説明を。
「古代蓮の里」ホームページの説明:
1971年(昭和46年):
市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事をはじめました。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。
1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。 
5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。
6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。
6月23日 花柄が1本見つかる。
7月13日 開花
7月19日 花の数は合計52本となる。
市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。
(この辺は、すぐ近くに「さきたま古墳群」がある地ならではの、行政の対応でした。)
1974年(昭和49年)
3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼しましたが、期待したような結果を得ることはできませんでした。
1975年(昭和50年)
4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行いました。
2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果でした。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定しています。
(ただし、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。なお、現在種子を直接測定した最も古い古代蓮は中国の約1,300年前のものである。)

ふるさと創生事業 の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園「古代蓮の里」は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古代蓮会館」が開館した。

園内は広く、特に「古代蓮(行田蓮)」は幾つもの池に咲いていて、圧巻です。
しかし、この日は遅い時期という事もあり、心配したが奥の二つの池でほどほどに咲いてくれていた。

【古代蓮(行田蓮)】
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【甲斐姫】
甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)[注 1] - 没年不詳)は、行田が誇る歴史上のヒロイン。
映画「のぼうの城」でもヒロインでした。
安土桃山時代の女性。忍城城主・成田氏長の長女。豊臣秀吉の側室。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている。
甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、姫を気に入り側室として召抱えることになった。蒲生氏郷に預けられていた氏長は姫の口添えもあって、天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の領主に取り立てられた(後の烏山藩)。
平成24年(2012年)8月、甲斐姫が秀吉の主催した醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる和歌の短冊が発見された。
秀吉没後の甲斐姫の消息は色々な伝承は残っているものの、定かではない。
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【鬼ハス】
6日に下見に来たときには、苦労して一つ咲いているのを見つけたが、この日は割と咲いていた。
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今日は、あの展望タワーに登って「田んぼアート」を見るのが楽しみだ。
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世界の蓮コーナーで、綺麗に咲いているのを撮った。

【大洒錦】
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【ヴァージニア蓮】
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【小舞妃蓮】
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【紅万々】
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【剣舞蓮】
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【原始蓮】
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【舞妃蓮】
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【碧台蓮】
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【酔妃蓮】
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【西光寺白蓮】
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【姫蓮】
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【大賀蓮】
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ここで、園内のうどん屋さんで昼食・休憩。
冷房が効いていて、生き返りました(笑)

いよいよ、展望台に上って、「田んぼアート」です。
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一階のエレベーター乗り場付近に、蓮の説明図があった。
中国製らしく、中国語である。
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☆田んぼアート
ここ、行田市の「田んぼアート」は、10年目を迎えたそうです。
今年のテーマは「イナダヒメノミコトとスサノオノミコト」
田植えには、2日間で939名が参加したとのことです。

素晴らしい、に尽きます!!!
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別の場所に、TBSの番宣田んぼアートがあった(笑)
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蓮の池の蓮の花は、この時間になると、もちろん閉じてしまっています。
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この後、まだ時間があったので、「忍城(行田市郷土博物館)」に寄り、最後に行田名産「十万石まんじゅう」の本店にてお土産を買って、帰途につきました。

(了)


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寒田(さむた)神社(延喜式内社)/神奈川県足柄上郡

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鎮座地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767
参拝日:2017年6月30日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、この日最初に訪れました。

これ以上バスは入れないといことで、降りた場所に社号標がありました。
社格等:式内社(小)、県社(旧社格)
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神社入り口
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ここにも新しい社号標があり。
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仁徳天皇の時代の創建。古風土記に記述がある。かつては相模田神社・佐武多神社・佐牟太神社などと称した。延喜式神名帳には「相模國足上郡 寒田神社 小」として記載されている。江戸時代には寒田神社神田大明神とも称した。

社伝では倭建命東征の折、しばらくこの地に滞在されたとされる。この地で東征の幸先を祈願した際、酒匂川に酒を流し、東征後この地に戻ってきた際にまだ酒の香りが残っていたため酒匂川と名付けられたと伝えられる。このときの椀とされている木椀が神社に伝えられている。

1626年(寛永3年)徳川家光より朱印地を寄進されるが、1656年(承応3年)酒匂川の氾濫により社殿等流出。1868年(慶応4年)に再建された。1874年(明治7年)に郷社、1941年(昭和16年)には県社に列せられる。その後、神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている他、1971年(昭和46年)には松田町より史跡として指定されている。

神社名の寒田ですが、『新編相模国風土記稿』に「神田明神社(加牟駄美宇慈牟也志呂 かむだみやうじむやしろ)、延書式神名帳に載する寒田神社是なり」とあって、江戸時代には「カンダ」明神社と呼ばれたことがわかります。
寒田を「サムタ」と呼ぶか「カンダ」と呼ぶかについては、両説あるようです。
『日本総国風土記』は「和銅6年(713)に元明天皇の詔により編纂された、官選の風土記」は偽書ではないかと言われたいる文献ですが、しかし、現在の寒田神社の周辺に日本武尊命の伝説は色濃く残っているのは確かな事実です。例えば境内には日本武尊命が腰を下ろして休息したと伝えられる腰掛石があり、出典は不明ながら、『日本の神々神社と聖地』には社前を流れる酒匂川の地を縁起として伝説が多く残されている。尊は東征の帰途、この松田の地に立ち寄り、身替りとして走水の海で入水した弟橘姫命を偲んで酒匂川に神酒を注ぎ妃の冥福を祈ったところ、この神酒が海に流れ入るまで香ったので、酒匂川となずけたと言われています。

神社の由緒書き
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「松田町大名行列」の説明あり。
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参道は真っ直ぐ。
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手水舎
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拝殿前
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昭和6年奉納の獅子山があり。
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拝殿
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向背の破風は、二重の千鳥破風で重厚さを出している。
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向背部
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社額
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本殿
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ご祭神は、倭建命、弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命

神紋は「八剣輪宝」
この紋は仏教を表すシンボルとされていて、修験者たちの護身用の武器として、山岳信仰の根強い神社仏閣には縁がある紋のようです。
北陸3県でよく見る神紋だそうです。
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社宝の椀(松田町重要文化財(工芸))というのがあり、この椀は弥生時代の後期の作と言われ、神社創建の頃から御神宝として保存されてきています。材質は、けやきで塗りの跡はなく、高台  が特に高くろくろ目が荒く表面が輪なりに、ごつごつして縄文のように見えるそうです。
なお、全体の形は、ふっくらとして、量感に富んでいて、格調高い作品だそうです。

〇倭武尊の「腰掛石」
ご祭神の倭武尊がこの地にご滞在の時のものと伝えられている。
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納札所の入れ物が良かった。
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境内社を参拝。

寒田稲荷社
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小祠がたくさん一緒に並んでいた。
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祖霊社
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歯の供養碑があり。
地元の歯科医師の皆さんが日常抜去した歯牙を祀るために建てられたもの。
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天神社・神明社・熊野社
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立派な境内社だが不明。
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ここにも小祠が二社置かれているが不明。
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「仙元大神」
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近くに「堅牢地神」もあったようだが、撮りそこねました。

鳥居から手水舎までのところに樹が多い。
手水舎のうしろの二本の榧の木は樹齢800年と言われ、「かやの木もり」と呼ばれていた頃の名残りだそうです。(昭和7年の猛烈な風で大半の榧の木が倒れてしまいました。)
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社殿のまわりにも樹が鬱蒼と茂っていた。
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参拝を終えて、バスまで帰る道で、マンホールの蓋に「松田大名行列」が描かれているのを発見。
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庭高津日神(にわたかつひのかみ)・庭津日神(にわつひのかみ)

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『古事記』に登場する神。
大年神の御子神である。
大年神は、須佐之男命と神大市比売との子である。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
『古事記』の「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段
 (現代語訳)
 さて、かの大年神が神活須毘神の女の伊怒比賣を妻として生んだ子は、大國御魂神、次に韓神。次に曾富理神、次に白日神、次に聖神の五神である。また香用比売を妻として生んだ子は、大香山戸臣神、次に御年神の二柱である。
また天知迦流美豆比賣(アメチカルミヅヒメ)を妻として生んだ子は、奥津日子神、次に奥津比売命、またの名は大戸比売神である。この神は、人々が大事にお祭りしている竈の神である。次に生まれたのは大山咋神で、またの名を山未之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。次に生まれたのは庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神の九神である。 上にあげた大年神の子の大國御魂神から大土神まで、合わせて十六神である。
(以下省略)

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
庭高津日神と庭津日神は同じ意味の神で、 『古史伝』では奥津日子神と奥津比売命の二竃神と異名同神としている。
また『古事記伝』では庭は家庭で、日は産巣日のビと同じで屋敷の守護神としている。
あるいは、農業祭祀などを行う庭、家屋の前の広場を神格化した神であるとか、 庭を照らす太陽神とする説もある。

また、庭高津日神の名は、践祚大嘗祭に際して、斎郡の斎院に祭る八神として、阿須波神・彼此伎神とともにあげられている。
大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

「武蔵国式内社めぐり」で、東京都あきる野市にある「阿伎留神社(あきるじんじゃ)」に参拝した際に、その境内末社である「庭津日神社」に祀られていた。


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稲荷山公園のヤマユリ

20170715

所在地:埼玉県狭山市 西部池袋線稲荷山公園駅そば

この間の例会で案内があったので、カミさんと二人で見に行きました。
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9時半ちょっと前くらいに、稲荷山公園駐車場に車を停め、芝生を直線に突っ切って、愛宕神社に降りる階段を降りて、斜面の道を進みます。

斜面の下の道は、ちょうど日陰になっていて良い散歩道です。
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歩きはじめた辺は、栽培地ではなく、ものすごい雑草の中に自生しているもの。
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栽培地になると、雑草は刈られていて、点々とヤマユリが咲いている。
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木立の中にも咲いている。
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展望台に上がる階段が「ヤマユリの小径」になっていた。
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途中に、説明のためスタンバイしていた人が、なんと「さやま市民大学 ボランティアコーディネーター養成コース」で一緒だった、小川さん。
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この斜面は、ボランティアの方が、カタクリ、ツツジ、桜、ヤマユリを保護、栽培している。
メンバーは男性5名、女性2名だそうだ。

小川さんの案内で、ヤマユリ鑑賞のため、期間中だけ斜面に設けられた小道に入り、ヤマユリを楽しんだ。
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ヤマユリの蜜を吸いに、名前はわからないが、コガネムシの大きいやつが来ていた。
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空を入れて撮った。
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斜面はもう少し。
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展望台まで上がった(嬉)
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展望台のベンチがちょうど日陰になっていて、嬉しかった。
のんびりと眺望を楽しんだ。
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おかげ様で、気持ちのいい午前中を過ごせました。

(了)


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古代蓮の里

20170714

所在地:埼玉県行田市小針2375番地1
訪問日:2017年7月6日

昨年初めて訪れて、とても良かったので今年は歴史クラブの行事にした。
それで、今回は団体で行くということで、電車で行く必要があり、この日は下見で訪れた。

「古代蓮まつり」の期間中は、JR行田駅からシャトルバスが出ているということで、まずは行田駅にてその確認。
行田駅からピストン輸送しているのかなと思ったら、そうではなくて定時運行だった。
本数は、土日はすごく多い。平日は期間によって多いのと少ない期間があるので、要注意。

そんなに待たずに、シャトルバスが来て乗り込む。平日なので満席にはならず出発。
車で訪れる人が多いので、電車とバスで行く人はそうでもない感じだ。
行田駅から20分で到着。

園内は、すごく広い。
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まずは古代蓮の説明を。
「古代蓮の里」ホームページの説明:
1971年(昭和46年):
市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事をはじめました。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。
1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。 
5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。
6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。
6月23日 花柄が1本見つかる。
7月13日 開花
7月19日 花の数は合計52本となる。
市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。
(この辺は、すぐ近くに「さきたま古墳群」がある地ならではの、行政の対応でした。)
1974年(昭和49年)
3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼しましたが、期待したような結果を得ることはできませんでした。
1975年(昭和50年)
4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行いました。
2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果でした。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定しています。
(ただし、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。なお、現在種子を直接測定した最も古い古代蓮は中国の約1,300年前のものである。)

ふるさと創生事業 の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園「古代蓮の里」は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古代蓮会館」が開館した。

園内は広く、特に「古代蓮(行田蓮)」は幾つもの池に咲いていて、圧巻です。

【古代蓮(行田蓮)】
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【鬼ハス】
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これで全開なんです(笑)
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【甲斐姫】
甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)[注 1] - 没年不詳)は、行田が誇る歴史上のヒロイン。
映画「のぼうの城」でもヒロインでした。
安土桃山時代の女性。忍城城主・成田氏長の長女。豊臣秀吉の側室。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている。

この蓮は、とてもいい花だと思います。
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現在42種の蓮が集められているという事ですが、あとは、「世界の蓮」のコーナーに咲いている中から、撮ったものです。

【剣舞蓮】
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【漢蓮】
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【小舞妃蓮】
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【桜蓮】
蕾と、蓮の葉に乗った水玉の取り合わせが面白くて撮った。
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銘、不確認
ピンクの筋が綺麗。
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銘、不確認
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この日は下見という事で、食事の確認とか色々と確認のほうに神経が行っていて、あまり花の方は撮らなかった。
20日にまた訪れるので、またアップします。


高麗神社の狛犬

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所在地: 埼玉県日高市・高麗神社
拝観日: 2015年8月23日(埼玉県立歴史と民俗の博物館)

この狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に、埼玉県立歴史と民俗の博物館にて企画された「高麗郡1300年」展にて見たもの。

霊亀2年(716)に、駿河、甲斐、相模、上総、常陸、下野の高麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれた。
その多くは、668年の高句麗滅亡前後に難を逃れて日本列島に渡来した人達である。
その精神的支柱となったのが、天智5年(666)に高句麗からの使者として渡来したが、母国の滅亡により列島にとどまった「玄武若光」であり、大宝3年(703)に朝廷から「王(こしき)」姓を賜った。
その「高麗王若光」を祀っているのが高麗神社。

今回の狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に復元彩色されたもの。

拝殿に安置されているもので、宝暦7年(1757)に日待講中が随身と一緒に奉納したもの。
作者は、「武陽住日本橋/大仏師埜村玄蔵」とあり、仏師の作とわかる。

年代:宝暦7年(1757)
材質:木製
型式:神殿型

右の阿形獅子
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左の、角を持った吽形獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、阿形が笑いかけてるような、吽形は済ましているようで、親しみやすい。
・耳は立っている。鼻は割と目立つ。眉が太い。
・牙は目立つ。
・身体には転々と台風の目のような巻き毛が描かれている。
・前足は、直立。後足は蹲踞。
・尾は、記憶になし。

彩色は、ビロードの布を貼り付けたかのように厚みのあるもので、とても綺麗だった。
基本的に茶と白の彩色で、一部金も使われているが、シンプルなのが、かえって親しみやすい好印象を与えている。



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上野国一之宮・貫前(ぬきさき)神社

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鎮座地:群馬県富岡市一ノ宮1535
参拝日:2017年6月16日

この日は、午前中長野県佐久市で私の両親の墓参りをし、いつもならその後は軽井沢で遊ぶのだが、今回は富岡インターまで戻り、当社に参拝した。

車のナビの案内に従って進んでいくと、到着したのは総門の前だった。

大鳥居のところまで行って見ると、大鳥居の前は鏑川からけっこう上がってくる。
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石段を少し降りて大鳥居を撮った。
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大鳥居と総門は鏑川左岸の河岸段丘上「蓬ヶ丘」の上に同じ高さにあり、境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。

当社は物部氏が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

社伝によると、創建は安閑天皇元年(531年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(532年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。

現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

【抜鉾神社と貫前神社】
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。

2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。

1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。


総門の前には、銅灯篭と狛犬が奉納されている。
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銅製燈籠
総門前両脇に立つ。慶応元年の作で、市指定文化財。
大東亜戦争中に於ける金属回収令の際危うかったが、貴重芸術品と算定された為に対象除外とされた。
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総門前の狛犬は、意外と新しく昭和2年奉納のもの。
近代に多い、岡崎型、護国型(威嚇型)とは違っていて、風貌には似合わず親しみやすい、独特の型である。
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総門
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総門の前に立つと、楼門の屋根がかなり下に見えるので、かなり降ることがわかる。
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総門の他に勅使門がある。
勅使門(不明門(あかずのもん)) 朱雀天皇の代(930年-946年)に勅使参向の際に設けられた。普段は開門されず、1年に3回、春・秋の御戸開祭と流鏑馬神事の時に開かれる。
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勅額鳥居
名前は清和天皇筆の額が掲げられていたことに由来する。一ノ宮大字田島にあったが、寛永12年に現在の勅使門裏手に移築した。現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。
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〇蛙の木
総門をくぐった右手に立つタブノキで、太平洋戦争末期、蛙に似たサルノコシカケが出現。祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝って蛙」「勝ち蛙」として兵士・家族の信仰を集めた。現在は交通安全の守護「無事蛙」として信仰される。
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総門の下から見ると、かなりの下り勾配である。
総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置である。
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参道をほとんど降りた横に月読神社があり。

末社・月読神社
社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿。
こちらも、近在の神社を合祀しており、十七柱を祀る。
明治41年に近在の秋畑琵琶澤社久司神社、秋畑二ツ石雷電神社、秋畑裏根湯前神社、野上近戸神社を合祀し、月夜見命の他17柱を祀る。
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月読神社ということで、月にまつわる神紋を期待したが、賽銭箱の神紋は「包み稲の穂」であった。
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ここから、もう少し降りると楼門である。
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楼門(重要文化財)入母屋造。
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左右には重厚な回廊が広がる。
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斗栱(ときょう)の「三手先」を大きく突き出している。珍しい。
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真ん中は止めてあり、左右から出入りする。
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随身
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拝殿
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本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

向背の屋根は唐破風。
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向背部
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拝殿右側面から。
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拝殿左側面から。
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拝殿内部
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本殿
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。
また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
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内部が二階になっているのがわかる、屋根の重厚さである。
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千木は内削ぎであり、ご祭神が女神を表している。
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当社の西方に荒船山(荒船神社)があり、東方には小舟神社がある。
小船神社は、当社の祓戸とされ、東西のライン、荒船-貫前-小舟が女神の系譜。

当社の本殿には「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓があり、南方の稲含山(稲含神社)の方向を向いている。
また、北方には咲前神社があり、前宮・鷺宮とよばれている。
いずれも経津主神を祭神とし、南北に武神・雷神のライン、稲含-抜鉾-咲前が存在する。

「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓がある。
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本殿の向背部分の装飾をうかがう。
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本殿の側面
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左側に回って、本殿を仰ぐ。
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なんとか、覗けるところを探して、本殿正面を見ることができた。
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本殿の右袖障子。
「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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本殿の左袖障子。
こちらも「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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ご祭神:
・経津主神 (ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
・姫大神
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。

中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、貫前神とは、本来は別の神。
つまり、「抜鉾」「貫前」の二神を祀る神社だった。「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神となる。

『神道集』では、当社・貫前神社の祭神は、女神であったとし、南天竺狗留吠国の長者・玉芳大臣の五女。

また、笹岡山(荒船山)の峯に船を逆さに伏せ、その船の中に保った河水は、火の雨が降るときにこの水で消すべしと誓ったという。水神・水源神、あるいは周囲の火山に対する対処神かもしれない。

また、一之宮であった赤城大明神が、財の君である、この女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、この女神から借りて織り上げたとも。

ということで、当社の女神は、水神・財神・機織の神と実に多彩だ。

神紋は「右三つ巴」
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摂社・抜鉾若御子神社
ご祭神:本社祭神の御子神
本殿向かって左脇に鎮座する。元は一ノ宮字若宮に鎮座していた。安閑天皇の代(531年-535年)の創建とされ、『上野国神名帳』には「従五位抜鉾若御子明神」と記載されている。明治38年に現在地に遷座した。社殿は棟札によると文化12年の造営。
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末社が、総門から入ってすぐ左にいくと広場があり、そこに鎮座している。
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伊勢内宮・外宮
ご祭神:天照大神(内宮)、豊受大神(外宮)
仮殿敷地に隣接して鎮座する。両宮とも、天狗沢峰通り字伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる。

伊勢外宮
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伊勢内宮
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日枝神社社殿は、寛永十二年以前の本社本殿。
近在の神社を合祀しており、現在十七柱を祀る。
明治42年に近在の田島和合神社、宇田諏訪神社、坂井大臣神社を合祀し、大山咋神の他17柱を祀る。
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二十二社
仮殿敷地に隣接して鎮座する。社領内に祀られていた各社を、寛永12年の造営時に一棟にまとめたもの。
竈神社、菅原神社、沓脱神社、速玉男神社、粟島神社、春日神社、奇八玉神社、諏訪神社、八幡宮、事解男神社、咲前神社、浅間神社、高靇神社、少彦名神社、長田神社、伊邪那岐神社、八坂神社、白山比咩神社、熊野神社、水分神社、熱田神社、扣(こう)神社
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神楽殿
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寛保2年の神楽奉納額が掛かっていた。
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〇藤太杉
樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
残念ながら、枯れてしまったようだ。
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〇スダジイ
樹齢推定1000年。数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
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〇銀杏
富岡の名木10選の1つ。
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神楽殿の横から、勅額鳥居に上がる時に、振り返って境内を眺めた。
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勅額鳥居に上がる石段。
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これで、参拝を終え、帰途につきました。



「神社巡拝」に飛ぶ



伊豆諸島の神(三嶋神の后神)/阿波咩命、伊古奈比咩命、伊賀牟比売命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命、優波夷命、久爾都比咩命、波布比売命

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三嶋大社に参拝した折、三嶋神(三嶋大明神)について調べた際に、沢山の后神が浮かび上がり、その神は伊豆諸島に祀られている神であることがわかった。
それにより、三嶋神の本質も理解できた。

まず、下田市白浜と伊豆諸島に祀られている神のうち、三島神の后神は以下の通りである。
下田市白浜・伊古奈比咩命神社:伊古奈比咩命(後后)
神津島・阿波命神社:阿波咩命(正后)
三宅島・后神社:伊賀牟比売命(箱根翁媼嫡長女)
三宅島・二宮神社:伊波乃比咩命(箱根翁媼嫡次女)
三宅島・御笏神社:佐伎多麻比咩命(箱根翁媼嫡三女)
大島・波布比咩命神社:波布比売命
新島村式根島・泊神社:久爾都比咩命
沖ノ島(八丈島)・優婆夷宝明神社:優波夷命(うばいのみこと)

御蔵島、利島には王子神のみ祀られている。


寺社縁起である『三宅記』によって、それぞれの島に祀られている神について知ることが出来る。
『三宅記』の記述は、3つの物語から構成される。あらすじは次の通り。

まず第1部では、天竺に生まれた王子(三嶋神)は、継母の懸想による父の怒りを買って流浪し、支那、高麗と渡り、孝安天皇(第8代)元年に日本に到来する。そして富士山頂でまみえた神明に安住の地を請うと、富士山南部の地を与えられた。この地では狭かったので「島焼き」(造島)を行うこととしたが、その前に一度天竺に帰国する。再び渡来した際、丹波で出会った翁媼との会話の中で、自身の名が「三嶋大明神」であること、正体が薬師如来であることを知る。翁(天児屋根命)からは「タミの実」をもらい、翁媼の子の若宮・剣宮・見目を連れて伊豆に向かう。そして孝安天皇21年、多くの龍神・雷神達とともに「島焼き」を行ない、7日7夜で10島を生み出した。その島々には自身の后を配置し、各后は王子達を産んだ。
第2部では、三嶋神は箱根の湖辺に住む老翁媼の女3人を大蛇(龍神)から救い、3人を后として三宅島に迎える。3人の后もまた多くの王子を産んだ。
最後に第3部では、三嶋神は富士山において、東遊・駿河舞の芸を習得した壬生御館(みぶのみたち)という人物に出会う。御館は神々が造った島々を見ようと三宅島に渡来、三嶋神の命に応じて築地を築いた。推古天皇2年(594年)正月、垂迹の時を迎えた三嶋神は御館に奉斎を命じ、500年後に守護神となることを宣言、石笏を託して垂迹する。御館は息子の実正(実政)に東遊・駿河舞の技を、三嶋神は実成に亀卜の技を教えた。そして御館は本国へ帰り、三嶋神は白浜に飛び立ったが、その後も御館の子孫は三宅島において三嶋神を奉斎し続けたという。


本后の阿波咩命(あわのめのみこと)は神津島・阿波命神社に祀られているが、
『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるという。
「阿波」の神名から、忌部氏が阿波国から安房国に東遷する際(忌部氏の東遷)、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。

後后の伊古奈比咩命については、下田市白浜の伊古奈比咩命神社に祀られ、次のような伝承がある。
伊豆創世の神々は、はじめ三宅島に祀られたがその後白浜に渡り、ここに祀られる。さらに三嶋神のみが白浜を離れて現在の三嶋大社に遷座した。主人のいなくなった白濱神社では后である伊古奈比咩命が主祭神となったと伝えられている。
三嶋神の本后は神津島の守り神である阿波命(あわのみこと)と伝えられているが、平安時代に三嶋神と伊古奈比咩命を名神として祀った とこ ろ、神津島が大噴火を起こし、これに驚いた朝廷が阿波命も名神に列したと『日本後紀』にある。もしかすると、三嶋神だけが遷座したのは、本妻の怒りに慄いたからなのかもしれない。


三嶋大社摂社・見目(みるめ)神社のご祭神は、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命である。
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」ともいわれる。
阿波咩命(正后)と伊古奈比咩命(後后)は入っていない。


最後に神津島に伝わる神話を紹介しておく。
御蔵島、利島の神が活躍しているので、これは王子神の物語かもしれない。

神代の昔、事代主命と神々によって伊豆七島が造られた後、
その真中にある神津島(神集島)で島々 の神々が集まり会議が開かれました。
場所は天上山山頂の火口跡の不入が沢。
会議の一番大事な議題は、命の源である「水」をどのように配分するかでした。
そして討議の結果、翌朝先着順に分ける 事に決まりました。
翌朝一番早く来たのは、 御蔵島の神様。そのため御蔵島は最も 多くの水を手に入れる事が出来ました。次に現れたのが新島の神様、3番目は八丈島、4番目は三宅島、5番目は大島でした。 こうして次々に水が配られ 水はどんどんなくなっていきます。 
そんなところに最後に寝坊してやってきたのは利島の神様。既に水は殆ど残っていない状態でした。 これを見た利島の神様は怒り、僅かに水が 残っていた池に飛び込んで暴れ回りました。水は四方に飛び散りお陰で神津島ではいたるところで水が沸きでるようになったと言われています。不入が沢は今でも足を踏み入れてはいけない神聖な場所になっています。



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伊豆国一之宮・三嶋大社(後編)

20170709

鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

総門から記事はスタートです。
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総門に注連縄が張られているのは珍しい。それも大きな注連縄だ。
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総門の中も、満開の桜です。
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〇源頼朝と北条政子の腰掛石
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神馬舎
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手水舎
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神門
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神門にも、立派な彫刻あり。
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神門をくぐると、広い空間に、舞殿、社殿が一直線に並んでいる。
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舞殿
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舞殿には、「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。
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社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿。いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿。
いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成。

拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。
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千鳥破風と唐破風の二重屋根が映える。
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向背部の彫刻も見事。
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総欅素木造なのが、清々しい。
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本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。
重厚な造りと、彫刻が素晴らしい。
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ご祭神は次の2柱。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。

近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。

火山活動によって、海上にもたらされる幸の神と解せば、山神である大山祇命と、海の幸の神である事代主命をあわせ祀る現状が結果的には、正解だと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

三嶋大明神の、伊豆諸島における后神や、御子神は『三宅記』によって知ることができる。
后神は、神津島(正后である阿波咩命)、大島(波布比売命)、三宅島(伊古奈比咩命、伊賀牟比咩命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命)、新島(久爾都比咩命)、沖ノ島(八丈島)(優波夷命)である。
御子神については省略する(御蔵島と利島は御子神のみ)。


「みしま」であるが、古代「み」とは神のことであり、「みしま」は「神の島」となる。
「神津島」も、「神つ島」であり、やはり「神の島」である。
埼玉県所沢市の博物館では、縄文時代に使われた黒曜石を産地別に展示してあるが、男鹿半島とか神津島など遠い所のものがあって、縄文人の行動範囲、交際範囲の広さに驚いたものである。
縄文時代、まだ伊豆諸島は噴火活動が盛んであり、怖い島でもあり、黒曜石の採れる貴重な島でもあった。
縄文人が伊豆諸島の神に祈りをささげたのは、当然なことと思う。


神紋は、「各切三」と「五七の桐」だそうだが、確認できたのは「五七の桐」だけであった。
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摂末社に参拝。

摂社・若宮神社
ご祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神
社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮
古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された。
祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神で、神津島の物忌奈命神社の祭神である。古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)。社家は西大夫で、『吾妻鏡』では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見える。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷された。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)8月20日の再建。
社地移転に関する伝承として、三嶋神が地主神の若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると、三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有するに至ったと伝わる。
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摂社・見目(みるめ)神社
ご祭神:波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」とも。
6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建。
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末社・東五社
ご祭神はいずれも不詳。
大楠社、天神社、聖神社、第三社、幸神社
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末社・西五社
祭神は不詳。
船寄社、飯神社、酒神社、第二社、小楠社
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〇国指定天然記念物のキンモクセイ  
舞殿の横にあり、樹齢1200年という。
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芸能殿
神門の前、右奥にあり。
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芸能殿からさらに奥に入って行くと、神鹿苑がある。
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わりと広いので、鹿も元気そうだ。
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見に来た子供も喜んでいる。
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その近くに芭蕉の句碑あり。
「どむみりと 棟や雨の 花曇り」
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宝物館
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宝物館前に、「三嶋神社」という古い社額が置いてあった。
石なので大鳥居にかかっていたものかもしれない。
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宝物館前に明治45年奉納の、江戸狛犬流れ尾型の良いものが置かれていた。
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〇元神宮斎主お手植えの檜
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これで参拝を終え、帰途につきました。


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伊豆国一之宮・三嶋大社(前編)

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鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

青春18キップがまだ残っていたので、日帰りで参拝してくることにしました。
最寄りのJRの駅で7:39の電車に乗り、高麗川、八王子、橋本、茅ケ崎、熱海経由で普通電車を乗り継いで、三島駅に着いたのが11:13でした。

ちょっと早いですが、昼食を三島駅前で食べてから、のんびりと三嶋大社に向かい歩き出しました。

少し歩くと、「愛染院跡の溶岩塚」というものあり。

〇愛染院跡の溶岩塚
かつてこの地にあった愛染院は、真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは)に属し、三嶋大社の別当寺院(べっとうじいん)(注1)で10数カ所の末寺を持つ、伊豆随一の大寺院であったと言われています。鎌倉二代将軍源頼家の親書「心経」も所有(現在は三嶋大社所有)していました。この愛染院が跡形もなく消滅してしまったのは、明治新政府が明治元年(1868)神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発令したからです。この分離令は明治新政府が神道を優位に考え、それまでの仏教に対する政策を変えたものです。
 現在残っている溶岩塚は、約1万4千年前に、新富士の噴火活動により流下して、末端部の溶岩が温度が下がって固結しようとしているとき、後部から押されて盛りあがって塚になったものです。この溶岩には、数多く大小の穴が見られますが、冷えるときに溶岩中に含まれていた水蒸気などの気体成分が抜け出た跡です。この溶岩塚を取り囲むようにケヤキやムクノキの大木が生い茂り、木の根が溶岩に絡(から)み付くように地表に露出しています。この溶岩塚は、三島市指定文化財(天然記念物)に指定されています。
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「愛染の滝」もあり、少し水が出ているようです。
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大通りを、三島大社に向かって左折したところに、湧水があり。
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可愛い人形が井戸水を組んでいるようなかたちにしてあった。
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これが無かったら、通り過ぎていたのだろうが、気が付くと感じの良さそうな公園があった。

〇白滝公園
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この辺にも、至るところ溶岩が露出している。
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大木の根が溶岩をつかんでいる。
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公園の奥に、綺麗な川があり。
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公園の外れに「白滝観音堂」があった。

〇白滝観音堂
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公園の横を、「桜川」が流れている。
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菰池(こもいけ)と白滝公園を源流とする桜川は、三嶋大社西側の祓所(はらいど)神社の脇を通り、南へと流れています。かつては祓所川とも言われていました。
現在、三嶋大社に向かう川沿いの道に、柳が植えられ「柳通(やなぎどお)り」と呼ばれています。美しく手入れされた花壇とともに、太宰治や若山牧水など三島ゆかりの文学者7人の文学碑も並び「水辺の文学碑」として、親しまれているそうです。
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正岡子規「面白や どの橋からも 秋の不二」
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十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の三島宿のところ。
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松尾芭蕉「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」
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他に、若山牧水、司馬遼太郎、太宰治、井上靖の碑も写真に収めてきたが、ここでは割愛します。

三嶋大社の脇の入り口まで来ました。
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境内図
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この入り口は社務所と神池の間を入って行きます。

手水舎
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手水鉢が、凝った形でした。
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池の中に祓所神社があります。
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池の上に、すごく枝を伸ばしている木があり。
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参道を進みます。
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神池のところに、ご神木があり、その幹に祠が祀られていた。
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総門のところまで来たので、正面の大鳥居から入り直します。
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大鳥居のある正面入り口。
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ここは、広重の浮世絵「東海道五十三次」に描かれている。
保永堂版「三島 朝霧」
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大鳥居前を東西に旧東海道があります。

社号標
社格等:式内社(名神大)、伊豆国一宮、伊豆国総社、旧官幣大社、別表神社
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通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来とする説もある。

現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。

創祀年代は不詳。
三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であり、伊豆国一の宮である。
三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。
噴火や造島を神格化したものだと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

この遷座に関して、以下のような伝説がある。
遷座に際して、当時、ここに鎮座していた若宮八幡の神に対し、三嶋大神は「藁ひとつかみ分だけの土地を譲って欲しい」と頼み、承諾された。ところが、三嶋大神は、その藁を解き、一本に長く繋ぎ合わせて、広大な社地としてしまったのだ。
その後、若宮八幡は、境外摂社に祭られたが、唯一、三嶋大社に対して背を向けているという。

大鳥居から入ります。
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ちょうど桜が満開で、境内が桜の名所ということで、人出もすごいし、至る所に屋台も設けられていて、すごいことになっていた。

〇たたり石
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〇相生松
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若山牧水の歌碑あり。
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神池の中を参道が通っていて、その参道が桜並木であり、とても美しい風景となっていた。
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この桜風景については、既に「桜行脚」のコーナーで記事をアップしています。

その記事を読む


神池
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参道は、桜並木の下。
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参道の狛犬は、昭和34年奉納の岡崎型狛犬です。
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神池に、厳島神社があります。

末社・厳島神社
ご祭神:市杵島姫命
三嶋大社の神池に浮かぶ厳島神社は、北条政子が勧請したと伝えられ、家門繁栄、商売繁盛、安産、裁縫等の守護神として信仰されている。
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厳島神社の前には、「蘭渓灯篭」があり。
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総門の前まで来ました。
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記事が長くなったので、以後は「後編」とします。


三嶋大社(後編)の記事を見る



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大山津見神(おおやまつみのかみ)/日本の神々の話

20170707

この神には、伊豆国一之宮・三島大社、大山阿夫利神社、金沢文庫・手子神社、狭山市では入間野神社と梅宮神社の祭神として参拝している。

別名:大山祇神(おおやまつみのかみ)、大山積神(おおやまつみのかみ)、大山罪神(おおやまつみのかみ)、大山祇御祖命(おおやまつみのみおやのみこと)、和多志大神 (わたしのおおかみ)、酒解神 (さかとけのかみ)

神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。大山祇神社が島に存在することもあり、三島信仰では海神としての性格が強くなっている。

また、木花之開耶姫が彦火火出見尊(ひこほほでみ)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に供げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。

一般に、山の神と云えば女神だが、大山祇神は古事記・日本書紀ともに男神である。ただし、日本書紀では女神と読める箇所がある。

山の神であるオオヤマツミは林業や鉱山関係者に崇拝され、山から下りてきて恵みをもたらすともされることから里山農業では田の神ともされる。ユネスコの無形文化遺産に登録された石川県奥能登地方の農神事アエノコトで迎える田の神はオオヤマツミであるとされる。同じくユネスコの記憶遺産に登録された山本作兵衛が描いた筑豊の炭鉱画の中でも、オオヤマツミに関する記述がある。三浦しをんの小説『神去なあなあ日常』(映画『WOOD JOB!』)では、林業神事オオヤマヅミとして描かれている。

『古事記』では、八山津見(正鹿山津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神)が生まれるが、大山津見神は含まれておらず、 伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、 風神(志那都比古神)、木神(久久能智神)、野神(野椎神)などと共に生まれている。
また、野椎神とともに、 土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

『日本書紀』では、火神の迦具土神が斬られて生まれた五山祇(大山祇、中山祇、麓山祇、正勝山祇、䨄山祇)の筆頭。

五山祇や八山津見が、山の各部分の個々の神とすると、大山津見神はそれらを統べる山神の首領だということになる。

天孫降臨の後、瓊瓊杵尊は大山津見の娘である木花之開耶姫と出逢い、大山津見は木花之開耶姫とその姉の磐長姫を差し出した。瓊瓊杵尊が容姿が醜い磐長姫だけを送り返すと、大山津見はそれを怒り、「磐長姫を添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イ磐長姫を送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。

また木花開耶媛が彦火火出見尊を産み奉ったので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。

『古事記』では、須佐之男神と櫛名田比売の子の八島士奴美神の妃である木花知流比売も大山津見神の娘。
須佐之男命の妻で、大年神・宇迦之御魂神を生む神大市比売も大山津見神の娘。
須佐之男命の妻の櫛名田比売命の父、足名椎神も大山津見神の子。

大山津見神を祀る大三島は芸予海峡にあり、山陽・南海・西海の三道、航路の要衝であるため、 大山祇神社には古来から武門の守護神として武士に信奉され、 和多志大神でもあるため、特に水軍の崇敬が篤かった。

山の多い日本では、この神は各地に祀られている。主祭神として以外にも境内の小祠や石に祀られていることが非常に多い。



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穴八幡宮・神武天皇遙拝所の狛犬

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所在地: 東京都新宿区西早稲田
撮影日:2014年5月8日

年代:宝暦5年(1755)
材質:石造
型式:宝珠・角型(尾立ち)

江戸時代に入ると、狛犬の角に対して、獅子の頭上にも宝珠をつけるものが出てきました。
「江戸狛犬」と呼ばれるタイプは流麗な唐獅子を基本としており、阿・吽像は、ほぼ同じ姿形をしている。姿の上では「獅子・狛犬」ではなく、「獅子・獅子」になっています。
その結果ほとんどの江戸狛犬は、阿像はもちろん、吽像の頭にも角はありません。

しかし、江戸時代の狛犬の中には、畔像に角があるだけではなく、阿像に宝珠(摩尼珠)がついているものがいくつかあります。宝珠は仏教からきています。
神仏習合の形が、ここにも見られます。

宝珠・角型狛犬は明治期になると姿を消します。
神殿型狛犬(獅子・狛犬)の正しい様式が伝わり、「あれは誤りだ」とされたからでしょう。


穴八幡宮境内の神武天皇遙拝所に、その狛犬はあります。
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右に宝珠を載せた獅子
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左に角を持った獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に宝珠を載せる。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、ユーモラスな笑い顔。
・耳は垂れている。鼻はそれほど大きくない。眉が大きく江戸狛犬の特徴となっている。
・牙はあることはあるが、目立っていない。
・前足は、ちょっと前に出し直立。後足は蹲踞。
・四肢には翼のような巻き毛があるが、目立つものではない。
・尾は、立っている。


年号は宝暦5年(1755)。
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宝珠を載せた狛犬は、わりと多いが、ほとんどは「摩尼珠」という玉を載せたもの。
今回の例のような、見事な宝珠を載せたものは、他に見つけていない。
吽形のほうの角も、大変立派な角だ。
これは、とても貴重なものです。


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大庭神社(延喜式内論社)/神奈川県藤沢市

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鎮座地:神奈川県藤沢市稲荷997
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社、高来神社、前鳥神社に続いて当社に参拝しました。

社号標
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引地川沿いの丘陵に位置する。江戸時代には「天神宮」、「大庭大明神」、「大庭天満宮」と呼称されていた。

平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には「高座郡大庭神社」と記載されているものの、近世以前のその他の記録(社伝)は存在しない。当社の由緒に関する境内案内板では「相模十三社の一にして小社に列せられ 当地は往古より旧地なりと伝承す」と書かれている。

境内にある梵鐘は享保6年(1721年)の鋳造で、当初は「天満天神宮」と書かれていたとされるが、この文字は削り取られて新たに「大庭大明神」という文字が彫られたと伝えられる。また、藤沢市の教育委員会が出版している『藤沢の文化財』によると、明治以前の当社は「天神社」という名で呼称されていたとのことである。

安永6年(1777年)、神祇伯資顯王によって大庭城を拠点としていた大庭三郎景親を、さらに天明3年(1783年)には諏訪部定太郎、山崎六郎兵衛包高らの願いによって菅原道眞をそれぞれ勧請(合祀)した。明治の神仏分離令以前は当社の裏にある成就院が別当寺として、当社の管理を行なっていた。

論社としては、距離にして1,5キロと近い場所(藤沢市大庭)に大庭神社旧
跡とされる熊野神社がある。

境内案内板
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鳥居をくぐると、石段がまっすぐにあり。
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石段を上がると、平らなところが境内となっている。
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参道を少しいくと、鐘楼があり。
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鐘の銘は、説明のような「大庭大明神」でなく、「大庭神社」と彫られていた。
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また石段を上がる。
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手水舎
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拝殿
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拝殿の内部は、まったく覗けなかった。
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社額
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本殿
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ご祭神:
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
菅原道真
大庭三郎景親

大庭三郎景親について:
大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。

保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属し、兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。

保元の乱は義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わったが、平治元年(1159年)の平治の乱で義朝は敗死して源氏は没落する。 その後、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化される。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。

頼朝の挙兵に早くから参じていた兄の景義は御家人に列し、鎌倉幕府に仕えて長寿を全うしている。

神紋は「右三つ巴」
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それで参拝を終え、続いてこの日最後の参拝地・寒川神社に向かった。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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