庭高津日神(にわたかつひのかみ)・庭津日神(にわつひのかみ)

20170719

『古事記』に登場する神。
大年神の御子神である。
大年神は、須佐之男命と神大市比売との子である。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
『古事記』の「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段
 (現代語訳)
 さて、かの大年神が神活須毘神の女の伊怒比賣を妻として生んだ子は、大國御魂神、次に韓神。次に曾富理神、次に白日神、次に聖神の五神である。また香用比売を妻として生んだ子は、大香山戸臣神、次に御年神の二柱である。
また天知迦流美豆比賣(アメチカルミヅヒメ)を妻として生んだ子は、奥津日子神、次に奥津比売命、またの名は大戸比売神である。この神は、人々が大事にお祭りしている竈の神である。次に生まれたのは大山咋神で、またの名を山未之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。次に生まれたのは庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神の九神である。 上にあげた大年神の子の大國御魂神から大土神まで、合わせて十六神である。
(以下省略)

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
庭高津日神と庭津日神は同じ意味の神で、 『古史伝』では奥津日子神と奥津比売命の二竃神と異名同神としている。
また『古事記伝』では庭は家庭で、日は産巣日のビと同じで屋敷の守護神としている。
あるいは、農業祭祀などを行う庭、家屋の前の広場を神格化した神であるとか、 庭を照らす太陽神とする説もある。

また、庭高津日神の名は、践祚大嘗祭に際して、斎郡の斎院に祭る八神として、阿須波神・彼此伎神とともにあげられている。
大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

「武蔵国式内社めぐり」で、東京都あきる野市にある「阿伎留神社(あきるじんじゃ)」に参拝した際に、その境内末社である「庭津日神社」に祀られていた。


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稲荷山公園のヤマユリ

20170715

所在地:埼玉県狭山市 西部池袋線稲荷山公園駅そば

この間の例会で案内があったので、カミさんと二人で見に行きました。
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9時半ちょっと前くらいに、稲荷山公園駐車場に車を停め、芝生を直線に突っ切って、愛宕神社に降りる階段を降りて、斜面の道を進みます。

斜面の下の道は、ちょうど日陰になっていて良い散歩道です。
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歩きはじめた辺は、栽培地ではなく、ものすごい雑草の中に自生しているもの。
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栽培地になると、雑草は刈られていて、点々とヤマユリが咲いている。
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木立の中にも咲いている。
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展望台に上がる階段が「ヤマユリの小径」になっていた。
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途中に、説明のためスタンバイしていた人が、なんと「さやま市民大学 ボランティアコーディネーター養成コース」で一緒だった、小川さん。
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この斜面は、ボランティアの方が、カタクリ、ツツジ、桜、ヤマユリを保護、栽培している。
メンバーは男性5名、女性2名だそうだ。

小川さんの案内で、ヤマユリ鑑賞のため、期間中だけ斜面に設けられた小道に入り、ヤマユリを楽しんだ。
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ヤマユリの蜜を吸いに、名前はわからないが、コガネムシの大きいやつが来ていた。
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空を入れて撮った。
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斜面はもう少し。
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展望台まで上がった(嬉)
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展望台のベンチがちょうど日陰になっていて、嬉しかった。
のんびりと眺望を楽しんだ。
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おかげ様で、気持ちのいい午前中を過ごせました。

(了)


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古代蓮の里

20170714

所在地:埼玉県行田市小針2375番地1
訪問日:2017年7月6日

昨年初めて訪れて、とても良かったので今年は歴史クラブの行事にした。
それで、今回は団体で行くということで、電車で行く必要があり、この日は下見で訪れた。

「古代蓮まつり」の期間中は、JR行田駅からシャトルバスが出ているということで、まずは行田駅にてその確認。
行田駅からピストン輸送しているのかなと思ったら、そうではなくて定時運行だった。
本数は、土日はすごく多い。平日は期間によって多いのと少ない期間があるので、要注意。

そんなに待たずに、シャトルバスが来て乗り込む。平日なので満席にはならず出発。
車で訪れる人が多いので、電車とバスで行く人はそうでもない感じだ。
行田駅から20分で到着。

園内は、すごく広い。
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まずは古代蓮の説明を。
「古代蓮の里」ホームページの説明:
1971年(昭和46年):
市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事をはじめました。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。
1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。 
5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。
6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。
6月23日 花柄が1本見つかる。
7月13日 開花
7月19日 花の数は合計52本となる。
市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。
(この辺は、すぐ近くに「さきたま古墳群」がある地ならではの、行政の対応でした。)
1974年(昭和49年)
3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼しましたが、期待したような結果を得ることはできませんでした。
1975年(昭和50年)
4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行いました。
2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果でした。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定しています。
(ただし、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。なお、現在種子を直接測定した最も古い古代蓮は中国の約1,300年前のものである。)

ふるさと創生事業 の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園「古代蓮の里」は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古代蓮会館」が開館した。

園内は広く、特に「古代蓮(行田蓮)」は幾つもの池に咲いていて、圧巻です。

【古代蓮(行田蓮)】
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【鬼ハス】
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これで全開なんです(笑)
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【甲斐姫】
甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)[注 1] - 没年不詳)は、行田が誇る歴史上のヒロイン。
映画「のぼうの城」でもヒロインでした。
安土桃山時代の女性。忍城城主・成田氏長の長女。豊臣秀吉の側室。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている。

この蓮は、とてもいい花だと思います。
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現在42種の蓮が集められているという事ですが、あとは、「世界の蓮」のコーナーに咲いている中から、撮ったものです。

【剣舞蓮】
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【漢蓮】
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【小舞妃蓮】
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【桜蓮】
蕾と、蓮の葉に乗った水玉の取り合わせが面白くて撮った。
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銘、不確認
ピンクの筋が綺麗。
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銘、不確認
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この日は下見という事で、食事の確認とか色々と確認のほうに神経が行っていて、あまり花の方は撮らなかった。
20日にまた訪れるので、またアップします。


高麗神社の狛犬

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所在地: 埼玉県日高市・高麗神社
拝観日: 2015年8月23日(埼玉県立歴史と民俗の博物館)

この狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に、埼玉県立歴史と民俗の博物館にて企画された「高麗郡1300年」展にて見たもの。

霊亀2年(716)に、駿河、甲斐、相模、上総、常陸、下野の高麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれた。
その多くは、668年の高句麗滅亡前後に難を逃れて日本列島に渡来した人達である。
その精神的支柱となったのが、天智5年(666)に高句麗からの使者として渡来したが、母国の滅亡により列島にとどまった「玄武若光」であり、大宝3年(703)に朝廷から「王(こしき)」姓を賜った。
その「高麗王若光」を祀っているのが高麗神社。

今回の狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に復元彩色されたもの。

拝殿に安置されているもので、宝暦7年(1757)に日待講中が随身と一緒に奉納したもの。
作者は、「武陽住日本橋/大仏師埜村玄蔵」とあり、仏師の作とわかる。

年代:宝暦7年(1757)
材質:木製
型式:神殿型

右の阿形獅子
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左の、角を持った吽形獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、阿形が笑いかけてるような、吽形は済ましているようで、親しみやすい。
・耳は立っている。鼻は割と目立つ。眉が太い。
・牙は目立つ。
・身体には転々と台風の目のような巻き毛が描かれている。
・前足は、直立。後足は蹲踞。
・尾は、記憶になし。

彩色は、ビロードの布を貼り付けたかのように厚みのあるもので、とても綺麗だった。
基本的に茶と白の彩色で、一部金も使われているが、シンプルなのが、かえって親しみやすい好印象を与えている。



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上野国一之宮・貫前(ぬきさき)神社

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鎮座地:群馬県富岡市一ノ宮1535
参拝日:2017年6月16日

この日は、午前中長野県佐久市で私の両親の墓参りをし、いつもならその後は軽井沢で遊ぶのだが、今回は富岡インターまで戻り、当社に参拝した。

車のナビの案内に従って進んでいくと、到着したのは総門の前だった。

大鳥居のところまで行って見ると、大鳥居の前は鏑川からけっこう上がってくる。
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石段を少し降りて大鳥居を撮った。
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大鳥居と総門は鏑川左岸の河岸段丘上「蓬ヶ丘」の上に同じ高さにあり、境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。

当社は物部氏が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

社伝によると、創建は安閑天皇元年(531年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(532年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。

現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

【抜鉾神社と貫前神社】
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。

2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。

1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。


総門の前には、銅灯篭と狛犬が奉納されている。
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銅製燈籠
総門前両脇に立つ。慶応元年の作で、市指定文化財。
大東亜戦争中に於ける金属回収令の際危うかったが、貴重芸術品と算定された為に対象除外とされた。
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総門前の狛犬は、意外と新しく昭和2年奉納のもの。
近代に多い、岡崎型、護国型(威嚇型)とは違っていて、風貌には似合わず親しみやすい、独特の型である。
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総門
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総門の前に立つと、楼門の屋根がかなり下に見えるので、かなり降ることがわかる。
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総門の他に勅使門がある。
勅使門(不明門(あかずのもん)) 朱雀天皇の代(930年-946年)に勅使参向の際に設けられた。普段は開門されず、1年に3回、春・秋の御戸開祭と流鏑馬神事の時に開かれる。
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勅額鳥居
名前は清和天皇筆の額が掲げられていたことに由来する。一ノ宮大字田島にあったが、寛永12年に現在の勅使門裏手に移築した。現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。
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〇蛙の木
総門をくぐった右手に立つタブノキで、太平洋戦争末期、蛙に似たサルノコシカケが出現。祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝って蛙」「勝ち蛙」として兵士・家族の信仰を集めた。現在は交通安全の守護「無事蛙」として信仰される。
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総門の下から見ると、かなりの下り勾配である。
総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置である。
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参道をほとんど降りた横に月読神社があり。

末社・月読神社
社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿。
こちらも、近在の神社を合祀しており、十七柱を祀る。
明治41年に近在の秋畑琵琶澤社久司神社、秋畑二ツ石雷電神社、秋畑裏根湯前神社、野上近戸神社を合祀し、月夜見命の他17柱を祀る。
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月読神社ということで、月にまつわる神紋を期待したが、賽銭箱の神紋は「包み稲の穂」であった。
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ここから、もう少し降りると楼門である。
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楼門(重要文化財)入母屋造。
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左右には重厚な回廊が広がる。
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斗栱(ときょう)の「三手先」を大きく突き出している。珍しい。
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真ん中は止めてあり、左右から出入りする。
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随身
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拝殿
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本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

向背の屋根は唐破風。
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向背部
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拝殿右側面から。
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拝殿左側面から。
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拝殿内部
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本殿
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。
また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
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内部が二階になっているのがわかる、屋根の重厚さである。
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千木は内削ぎであり、ご祭神が女神を表している。
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当社の西方に荒船山(荒船神社)があり、東方には小舟神社がある。
小船神社は、当社の祓戸とされ、東西のライン、荒船-貫前-小舟が女神の系譜。

当社の本殿には「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓があり、南方の稲含山(稲含神社)の方向を向いている。
また、北方には咲前神社があり、前宮・鷺宮とよばれている。
いずれも経津主神を祭神とし、南北に武神・雷神のライン、稲含-抜鉾-咲前が存在する。

「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓がある。
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本殿の向背部分の装飾をうかがう。
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本殿の側面
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左側に回って、本殿を仰ぐ。
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なんとか、覗けるところを探して、本殿正面を見ることができた。
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本殿の右袖障子。
「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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本殿の左袖障子。
こちらも「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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ご祭神:
・経津主神 (ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
・姫大神
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。

中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、貫前神とは、本来は別の神。
つまり、「抜鉾」「貫前」の二神を祀る神社だった。「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神となる。

『神道集』では、当社・貫前神社の祭神は、女神であったとし、南天竺狗留吠国の長者・玉芳大臣の五女。

また、笹岡山(荒船山)の峯に船を逆さに伏せ、その船の中に保った河水は、火の雨が降るときにこの水で消すべしと誓ったという。水神・水源神、あるいは周囲の火山に対する対処神かもしれない。

また、一之宮であった赤城大明神が、財の君である、この女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、この女神から借りて織り上げたとも。

ということで、当社の女神は、水神・財神・機織の神と実に多彩だ。

神紋は「右三つ巴」
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摂社・抜鉾若御子神社
ご祭神:本社祭神の御子神
本殿向かって左脇に鎮座する。元は一ノ宮字若宮に鎮座していた。安閑天皇の代(531年-535年)の創建とされ、『上野国神名帳』には「従五位抜鉾若御子明神」と記載されている。明治38年に現在地に遷座した。社殿は棟札によると文化12年の造営。
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末社が、総門から入ってすぐ左にいくと広場があり、そこに鎮座している。
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伊勢内宮・外宮
ご祭神:天照大神(内宮)、豊受大神(外宮)
仮殿敷地に隣接して鎮座する。両宮とも、天狗沢峰通り字伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる。

伊勢外宮
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伊勢内宮
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日枝神社社殿は、寛永十二年以前の本社本殿。
近在の神社を合祀しており、現在十七柱を祀る。
明治42年に近在の田島和合神社、宇田諏訪神社、坂井大臣神社を合祀し、大山咋神の他17柱を祀る。
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二十二社
仮殿敷地に隣接して鎮座する。社領内に祀られていた各社を、寛永12年の造営時に一棟にまとめたもの。
竈神社、菅原神社、沓脱神社、速玉男神社、粟島神社、春日神社、奇八玉神社、諏訪神社、八幡宮、事解男神社、咲前神社、浅間神社、高靇神社、少彦名神社、長田神社、伊邪那岐神社、八坂神社、白山比咩神社、熊野神社、水分神社、熱田神社、扣(こう)神社
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神楽殿
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寛保2年の神楽奉納額が掛かっていた。
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〇藤太杉
樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
残念ながら、枯れてしまったようだ。
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〇スダジイ
樹齢推定1000年。数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
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〇銀杏
富岡の名木10選の1つ。
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神楽殿の横から、勅額鳥居に上がる時に、振り返って境内を眺めた。
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勅額鳥居に上がる石段。
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これで、参拝を終え、帰途につきました。



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伊豆諸島の神(三嶋神の后神)/阿波咩命、伊古奈比咩命、伊賀牟比売命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命、優波夷命、久爾都比咩命、波布比売命

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三嶋大社に参拝した折、三嶋神(三嶋大明神)について調べた際に、沢山の后神が浮かび上がり、その神は伊豆諸島に祀られている神であることがわかった。
それにより、三嶋神の本質も理解できた。

まず、下田市白浜と伊豆諸島に祀られている神のうち、三島神の后神は以下の通りである。
下田市白浜・伊古奈比咩命神社:伊古奈比咩命(後后)
神津島・阿波命神社:阿波咩命(正后)
三宅島・后神社:伊賀牟比売命(箱根翁媼嫡長女)
三宅島・二宮神社:伊波乃比咩命(箱根翁媼嫡次女)
三宅島・御笏神社:佐伎多麻比咩命(箱根翁媼嫡三女)
大島・波布比咩命神社:波布比売命
新島村式根島・泊神社:久爾都比咩命
沖ノ島(八丈島)・優婆夷宝明神社:優波夷命(うばいのみこと)

御蔵島、利島には王子神のみ祀られている。


寺社縁起である『三宅記』によって、それぞれの島に祀られている神について知ることが出来る。
『三宅記』の記述は、3つの物語から構成される。あらすじは次の通り。

まず第1部では、天竺に生まれた王子(三嶋神)は、継母の懸想による父の怒りを買って流浪し、支那、高麗と渡り、孝安天皇(第8代)元年に日本に到来する。そして富士山頂でまみえた神明に安住の地を請うと、富士山南部の地を与えられた。この地では狭かったので「島焼き」(造島)を行うこととしたが、その前に一度天竺に帰国する。再び渡来した際、丹波で出会った翁媼との会話の中で、自身の名が「三嶋大明神」であること、正体が薬師如来であることを知る。翁(天児屋根命)からは「タミの実」をもらい、翁媼の子の若宮・剣宮・見目を連れて伊豆に向かう。そして孝安天皇21年、多くの龍神・雷神達とともに「島焼き」を行ない、7日7夜で10島を生み出した。その島々には自身の后を配置し、各后は王子達を産んだ。
第2部では、三嶋神は箱根の湖辺に住む老翁媼の女3人を大蛇(龍神)から救い、3人を后として三宅島に迎える。3人の后もまた多くの王子を産んだ。
最後に第3部では、三嶋神は富士山において、東遊・駿河舞の芸を習得した壬生御館(みぶのみたち)という人物に出会う。御館は神々が造った島々を見ようと三宅島に渡来、三嶋神の命に応じて築地を築いた。推古天皇2年(594年)正月、垂迹の時を迎えた三嶋神は御館に奉斎を命じ、500年後に守護神となることを宣言、石笏を託して垂迹する。御館は息子の実正(実政)に東遊・駿河舞の技を、三嶋神は実成に亀卜の技を教えた。そして御館は本国へ帰り、三嶋神は白浜に飛び立ったが、その後も御館の子孫は三宅島において三嶋神を奉斎し続けたという。


本后の阿波咩命(あわのめのみこと)は神津島・阿波命神社に祀られているが、
『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるという。
「阿波」の神名から、忌部氏が阿波国から安房国に東遷する際(忌部氏の東遷)、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。

後后の伊古奈比咩命については、下田市白浜の伊古奈比咩命神社に祀られ、次のような伝承がある。
伊豆創世の神々は、はじめ三宅島に祀られたがその後白浜に渡り、ここに祀られる。さらに三嶋神のみが白浜を離れて現在の三嶋大社に遷座した。主人のいなくなった白濱神社では后である伊古奈比咩命が主祭神となったと伝えられている。
三嶋神の本后は神津島の守り神である阿波命(あわのみこと)と伝えられているが、平安時代に三嶋神と伊古奈比咩命を名神として祀った とこ ろ、神津島が大噴火を起こし、これに驚いた朝廷が阿波命も名神に列したと『日本後紀』にある。もしかすると、三嶋神だけが遷座したのは、本妻の怒りに慄いたからなのかもしれない。


三嶋大社摂社・見目(みるめ)神社のご祭神は、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命である。
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」ともいわれる。
阿波咩命(正后)と伊古奈比咩命(後后)は入っていない。


最後に神津島に伝わる神話を紹介しておく。
御蔵島、利島の神が活躍しているので、これは王子神の物語かもしれない。

神代の昔、事代主命と神々によって伊豆七島が造られた後、
その真中にある神津島(神集島)で島々 の神々が集まり会議が開かれました。
場所は天上山山頂の火口跡の不入が沢。
会議の一番大事な議題は、命の源である「水」をどのように配分するかでした。
そして討議の結果、翌朝先着順に分ける 事に決まりました。
翌朝一番早く来たのは、 御蔵島の神様。そのため御蔵島は最も 多くの水を手に入れる事が出来ました。次に現れたのが新島の神様、3番目は八丈島、4番目は三宅島、5番目は大島でした。 こうして次々に水が配られ 水はどんどんなくなっていきます。 
そんなところに最後に寝坊してやってきたのは利島の神様。既に水は殆ど残っていない状態でした。 これを見た利島の神様は怒り、僅かに水が 残っていた池に飛び込んで暴れ回りました。水は四方に飛び散りお陰で神津島ではいたるところで水が沸きでるようになったと言われています。不入が沢は今でも足を踏み入れてはいけない神聖な場所になっています。



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伊豆国一之宮・三嶋大社(後編)

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鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

総門から記事はスタートです。
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総門に注連縄が張られているのは珍しい。それも大きな注連縄だ。
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総門の中も、満開の桜です。
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〇源頼朝と北条政子の腰掛石
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神馬舎
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手水舎
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神門
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神門にも、立派な彫刻あり。
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神門をくぐると、広い空間に、舞殿、社殿が一直線に並んでいる。
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舞殿
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舞殿には、「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。
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社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿。いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿。
いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成。

拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。
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千鳥破風と唐破風の二重屋根が映える。
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向背部の彫刻も見事。
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総欅素木造なのが、清々しい。
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本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。
重厚な造りと、彫刻が素晴らしい。
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ご祭神は次の2柱。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。

近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。

火山活動によって、海上にもたらされる幸の神と解せば、山神である大山祇命と、海の幸の神である事代主命をあわせ祀る現状が結果的には、正解だと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

三嶋大明神の、伊豆諸島における后神や、御子神は『三宅記』によって知ることができる。
后神は、神津島(正后である阿波咩命)、大島(波布比売命)、三宅島(伊古奈比咩命、伊賀牟比咩命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命)、新島(久爾都比咩命)、沖ノ島(八丈島)(優波夷命)である。
御子神については省略する(御蔵島と利島は御子神のみ)。


「みしま」であるが、古代「み」とは神のことであり、「みしま」は「神の島」となる。
「神津島」も、「神つ島」であり、やはり「神の島」である。
埼玉県所沢市の博物館では、縄文時代に使われた黒曜石を産地別に展示してあるが、男鹿半島とか神津島など遠い所のものがあって、縄文人の行動範囲、交際範囲の広さに驚いたものである。
縄文時代、まだ伊豆諸島は噴火活動が盛んであり、怖い島でもあり、黒曜石の採れる貴重な島でもあった。
縄文人が伊豆諸島の神に祈りをささげたのは、当然なことと思う。


神紋は、「各切三」と「五七の桐」だそうだが、確認できたのは「五七の桐」だけであった。
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摂末社に参拝。

摂社・若宮神社
ご祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神
社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮
古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された。
祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神で、神津島の物忌奈命神社の祭神である。古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)。社家は西大夫で、『吾妻鏡』では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見える。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷された。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)8月20日の再建。
社地移転に関する伝承として、三嶋神が地主神の若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると、三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有するに至ったと伝わる。
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摂社・見目(みるめ)神社
ご祭神:波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」とも。
6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建。
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末社・東五社
ご祭神はいずれも不詳。
大楠社、天神社、聖神社、第三社、幸神社
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末社・西五社
祭神は不詳。
船寄社、飯神社、酒神社、第二社、小楠社
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〇国指定天然記念物のキンモクセイ  
舞殿の横にあり、樹齢1200年という。
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芸能殿
神門の前、右奥にあり。
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芸能殿からさらに奥に入って行くと、神鹿苑がある。
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わりと広いので、鹿も元気そうだ。
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見に来た子供も喜んでいる。
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その近くに芭蕉の句碑あり。
「どむみりと 棟や雨の 花曇り」
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宝物館
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宝物館前に、「三嶋神社」という古い社額が置いてあった。
石なので大鳥居にかかっていたものかもしれない。
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宝物館前に明治45年奉納の、江戸狛犬流れ尾型の良いものが置かれていた。
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〇元神宮斎主お手植えの檜
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これで参拝を終え、帰途につきました。


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伊豆国一之宮・三嶋大社(前編)

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鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

青春18キップがまだ残っていたので、日帰りで参拝してくることにしました。
最寄りのJRの駅で7:39の電車に乗り、高麗川、八王子、橋本、茅ケ崎、熱海経由で普通電車を乗り継いで、三島駅に着いたのが11:13でした。

ちょっと早いですが、昼食を三島駅前で食べてから、のんびりと三嶋大社に向かい歩き出しました。

少し歩くと、「愛染院跡の溶岩塚」というものあり。

〇愛染院跡の溶岩塚
かつてこの地にあった愛染院は、真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは)に属し、三嶋大社の別当寺院(べっとうじいん)(注1)で10数カ所の末寺を持つ、伊豆随一の大寺院であったと言われています。鎌倉二代将軍源頼家の親書「心経」も所有(現在は三嶋大社所有)していました。この愛染院が跡形もなく消滅してしまったのは、明治新政府が明治元年(1868)神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発令したからです。この分離令は明治新政府が神道を優位に考え、それまでの仏教に対する政策を変えたものです。
 現在残っている溶岩塚は、約1万4千年前に、新富士の噴火活動により流下して、末端部の溶岩が温度が下がって固結しようとしているとき、後部から押されて盛りあがって塚になったものです。この溶岩には、数多く大小の穴が見られますが、冷えるときに溶岩中に含まれていた水蒸気などの気体成分が抜け出た跡です。この溶岩塚を取り囲むようにケヤキやムクノキの大木が生い茂り、木の根が溶岩に絡(から)み付くように地表に露出しています。この溶岩塚は、三島市指定文化財(天然記念物)に指定されています。
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「愛染の滝」もあり、少し水が出ているようです。
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大通りを、三島大社に向かって左折したところに、湧水があり。
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可愛い人形が井戸水を組んでいるようなかたちにしてあった。
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これが無かったら、通り過ぎていたのだろうが、気が付くと感じの良さそうな公園があった。

〇白滝公園
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この辺にも、至るところ溶岩が露出している。
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大木の根が溶岩をつかんでいる。
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公園の奥に、綺麗な川があり。
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公園の外れに「白滝観音堂」があった。

〇白滝観音堂
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公園の横を、「桜川」が流れている。
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菰池(こもいけ)と白滝公園を源流とする桜川は、三嶋大社西側の祓所(はらいど)神社の脇を通り、南へと流れています。かつては祓所川とも言われていました。
現在、三嶋大社に向かう川沿いの道に、柳が植えられ「柳通(やなぎどお)り」と呼ばれています。美しく手入れされた花壇とともに、太宰治や若山牧水など三島ゆかりの文学者7人の文学碑も並び「水辺の文学碑」として、親しまれているそうです。
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正岡子規「面白や どの橋からも 秋の不二」
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十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の三島宿のところ。
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松尾芭蕉「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」
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他に、若山牧水、司馬遼太郎、太宰治、井上靖の碑も写真に収めてきたが、ここでは割愛します。

三嶋大社の脇の入り口まで来ました。
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境内図
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この入り口は社務所と神池の間を入って行きます。

手水舎
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手水鉢が、凝った形でした。
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池の中に祓所神社があります。
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池の上に、すごく枝を伸ばしている木があり。
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参道を進みます。
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神池のところに、ご神木があり、その幹に祠が祀られていた。
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総門のところまで来たので、正面の大鳥居から入り直します。
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大鳥居のある正面入り口。
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ここは、広重の浮世絵「東海道五十三次」に描かれている。
保永堂版「三島 朝霧」
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大鳥居前を東西に旧東海道があります。

社号標
社格等:式内社(名神大)、伊豆国一宮、伊豆国総社、旧官幣大社、別表神社
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通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来とする説もある。

現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。

創祀年代は不詳。
三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であり、伊豆国一の宮である。
三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。
噴火や造島を神格化したものだと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

この遷座に関して、以下のような伝説がある。
遷座に際して、当時、ここに鎮座していた若宮八幡の神に対し、三嶋大神は「藁ひとつかみ分だけの土地を譲って欲しい」と頼み、承諾された。ところが、三嶋大神は、その藁を解き、一本に長く繋ぎ合わせて、広大な社地としてしまったのだ。
その後、若宮八幡は、境外摂社に祭られたが、唯一、三嶋大社に対して背を向けているという。

大鳥居から入ります。
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ちょうど桜が満開で、境内が桜の名所ということで、人出もすごいし、至る所に屋台も設けられていて、すごいことになっていた。

〇たたり石
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〇相生松
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若山牧水の歌碑あり。
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神池の中を参道が通っていて、その参道が桜並木であり、とても美しい風景となっていた。
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この桜風景については、既に「桜行脚」のコーナーで記事をアップしています。

その記事を読む


神池
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参道は、桜並木の下。
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参道の狛犬は、昭和34年奉納の岡崎型狛犬です。
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神池に、厳島神社があります。

末社・厳島神社
ご祭神:市杵島姫命
三嶋大社の神池に浮かぶ厳島神社は、北条政子が勧請したと伝えられ、家門繁栄、商売繁盛、安産、裁縫等の守護神として信仰されている。
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厳島神社の前には、「蘭渓灯篭」があり。
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総門の前まで来ました。
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記事が長くなったので、以後は「後編」とします。


三嶋大社(後編)の記事を見る



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大山津見神(おおやまつみのかみ)/日本の神々の話

20170707

この神には、伊豆国一之宮・三島大社、大山阿夫利神社、金沢文庫・手子神社、狭山市では入間野神社と梅宮神社の祭神として参拝している。

別名:大山祇神(おおやまつみのかみ)、大山積神(おおやまつみのかみ)、大山罪神(おおやまつみのかみ)、大山祇御祖命(おおやまつみのみおやのみこと)、和多志大神 (わたしのおおかみ)、酒解神 (さかとけのかみ)

神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。大山祇神社が島に存在することもあり、三島信仰では海神としての性格が強くなっている。

また、木花之開耶姫が彦火火出見尊(ひこほほでみ)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に供げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。

一般に、山の神と云えば女神だが、大山祇神は古事記・日本書紀ともに男神である。ただし、日本書紀では女神と読める箇所がある。

山の神であるオオヤマツミは林業や鉱山関係者に崇拝され、山から下りてきて恵みをもたらすともされることから里山農業では田の神ともされる。ユネスコの無形文化遺産に登録された石川県奥能登地方の農神事アエノコトで迎える田の神はオオヤマツミであるとされる。同じくユネスコの記憶遺産に登録された山本作兵衛が描いた筑豊の炭鉱画の中でも、オオヤマツミに関する記述がある。三浦しをんの小説『神去なあなあ日常』(映画『WOOD JOB!』)では、林業神事オオヤマヅミとして描かれている。

『古事記』では、八山津見(正鹿山津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神)が生まれるが、大山津見神は含まれておらず、 伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、 風神(志那都比古神)、木神(久久能智神)、野神(野椎神)などと共に生まれている。
また、野椎神とともに、 土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

『日本書紀』では、火神の迦具土神が斬られて生まれた五山祇(大山祇、中山祇、麓山祇、正勝山祇、䨄山祇)の筆頭。

五山祇や八山津見が、山の各部分の個々の神とすると、大山津見神はそれらを統べる山神の首領だということになる。

天孫降臨の後、瓊瓊杵尊は大山津見の娘である木花之開耶姫と出逢い、大山津見は木花之開耶姫とその姉の磐長姫を差し出した。瓊瓊杵尊が容姿が醜い磐長姫だけを送り返すと、大山津見はそれを怒り、「磐長姫を添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イ磐長姫を送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。

また木花開耶媛が彦火火出見尊を産み奉ったので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。

『古事記』では、須佐之男神と櫛名田比売の子の八島士奴美神の妃である木花知流比売も大山津見神の娘。
須佐之男命の妻で、大年神・宇迦之御魂神を生む神大市比売も大山津見神の娘。
須佐之男命の妻の櫛名田比売命の父、足名椎神も大山津見神の子。

大山津見神を祀る大三島は芸予海峡にあり、山陽・南海・西海の三道、航路の要衝であるため、 大山祇神社には古来から武門の守護神として武士に信奉され、 和多志大神でもあるため、特に水軍の崇敬が篤かった。

山の多い日本では、この神は各地に祀られている。主祭神として以外にも境内の小祠や石に祀られていることが非常に多い。



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穴八幡宮・神武天皇遙拝所の狛犬

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所在地: 東京都新宿区西早稲田
撮影日:2014年5月8日

年代:宝暦5年(1755)
材質:石造
型式:宝珠・角型(尾立ち)

江戸時代に入ると、狛犬の角に対して、獅子の頭上にも宝珠をつけるものが出てきました。
「江戸狛犬」と呼ばれるタイプは流麗な唐獅子を基本としており、阿・吽像は、ほぼ同じ姿形をしている。姿の上では「獅子・狛犬」ではなく、「獅子・獅子」になっています。
その結果ほとんどの江戸狛犬は、阿像はもちろん、吽像の頭にも角はありません。

しかし、江戸時代の狛犬の中には、畔像に角があるだけではなく、阿像に宝珠(摩尼珠)がついているものがいくつかあります。宝珠は仏教からきています。
神仏習合の形が、ここにも見られます。

宝珠・角型狛犬は明治期になると姿を消します。
神殿型狛犬(獅子・狛犬)の正しい様式が伝わり、「あれは誤りだ」とされたからでしょう。


穴八幡宮境内の神武天皇遙拝所に、その狛犬はあります。
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右に宝珠を載せた獅子
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左に角を持った獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に宝珠を載せる。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、ユーモラスな笑い顔。
・耳は垂れている。鼻はそれほど大きくない。眉が大きく江戸狛犬の特徴となっている。
・牙はあることはあるが、目立っていない。
・前足は、ちょっと前に出し直立。後足は蹲踞。
・四肢には翼のような巻き毛があるが、目立つものではない。
・尾は、立っている。


年号は宝暦5年(1755)。
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宝珠を載せた狛犬は、わりと多いが、ほとんどは「摩尼珠」という玉を載せたもの。
今回の例のような、見事な宝珠を載せたものは、他に見つけていない。
吽形のほうの角も、大変立派な角だ。
これは、とても貴重なものです。


狛犬の記事一覧を見る



大庭神社(延喜式内論社)/神奈川県藤沢市

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鎮座地:神奈川県藤沢市稲荷997
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社、高来神社、前鳥神社に続いて当社に参拝しました。

社号標
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引地川沿いの丘陵に位置する。江戸時代には「天神宮」、「大庭大明神」、「大庭天満宮」と呼称されていた。

平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には「高座郡大庭神社」と記載されているものの、近世以前のその他の記録(社伝)は存在しない。当社の由緒に関する境内案内板では「相模十三社の一にして小社に列せられ 当地は往古より旧地なりと伝承す」と書かれている。

境内にある梵鐘は享保6年(1721年)の鋳造で、当初は「天満天神宮」と書かれていたとされるが、この文字は削り取られて新たに「大庭大明神」という文字が彫られたと伝えられる。また、藤沢市の教育委員会が出版している『藤沢の文化財』によると、明治以前の当社は「天神社」という名で呼称されていたとのことである。

安永6年(1777年)、神祇伯資顯王によって大庭城を拠点としていた大庭三郎景親を、さらに天明3年(1783年)には諏訪部定太郎、山崎六郎兵衛包高らの願いによって菅原道眞をそれぞれ勧請(合祀)した。明治の神仏分離令以前は当社の裏にある成就院が別当寺として、当社の管理を行なっていた。

論社としては、距離にして1,5キロと近い場所(藤沢市大庭)に大庭神社旧
跡とされる熊野神社がある。

境内案内板
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鳥居をくぐると、石段がまっすぐにあり。
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石段を上がると、平らなところが境内となっている。
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参道を少しいくと、鐘楼があり。
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鐘の銘は、説明のような「大庭大明神」でなく、「大庭神社」と彫られていた。
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また石段を上がる。
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手水舎
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拝殿
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拝殿の内部は、まったく覗けなかった。
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社額
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本殿
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ご祭神:
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
菅原道真
大庭三郎景親

大庭三郎景親について:
大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。

保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属し、兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。

保元の乱は義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わったが、平治元年(1159年)の平治の乱で義朝は敗死して源氏は没落する。 その後、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化される。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。

頼朝の挙兵に早くから参じていた兄の景義は御家人に列し、鎌倉幕府に仕えて長寿を全うしている。

神紋は「右三つ巴」
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それで参拝を終え、続いてこの日最後の参拝地・寒川神社に向かった。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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