板碑庚申塔/埼玉県狭山市

20170831

所在地:埼玉県狭山市 個人蔵

これから、各地の庚申塔をアップしていきますが、最初は地元狭山市の庚申塔を古い順にアップしていきます。

狭山市で一番古い庚申塔は、天文3年(1534)に建てられたもの。
天文3年と云えば、織田信長が生まれた年である。

塔身:青色塔婆(板碑)
主尊:阿弥陀如来
造立年代:天文3年(1534)

庚申塔としては、江戸時代に三猿や青面金剛を主尊とする庚申塔が確立されるが、それまでは仏像から採られているものが多い。

この板碑は、個人のお宅の内に氏神様と共に丁寧に祀られている。
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庚申塔全身
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主尊の阿弥陀如来
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「申待供養」と刻まれていて、庚申供養塔であることがわかる。
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像容と銘文
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種子は光明真言を刻す


ちなみに、現存最古の庚申板碑は、埼玉県川口市の実相寺にあり、文明3年(1471)造立のものであることがわかっている。

(了)


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弥都波能売神(みづはのめのかみ)/日本の神々の話

20170829

記紀に登場する神
『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。
淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
「水速女命(みづはやめのみこと)」を別神とする説もあるが、同じ神として、とりあえず載せておく。

『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。
『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。

***
『古事記』の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「二神の神生み」の段
 (現代語訳)
 伊邪那岐.伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。

(途中略)

 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船神で、またの名は天鳥船という。次に大宜都比賣神を生んだ。次に火之夜藝速男神を生んだ。またの名は火之炫比古神といい、またの名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)という。この子を生んだために、伊邪那美命は、陰部が焼けて病の床に臥された。そのときの嘔吐から成った神の名は、金山比古神と金山比賣神である。
 次に糞から成った神の名は、波邇夜須比古神と波邇夜須比売神である。
次に尿から成った神の名は、弥都波能売神と和久産巣日神である。この和久産巣日神の子は、豊宇氣比賣神という。そして伊邪那美神は、火の神を生んだのが原因で、ついにお亡くなりになった。 天鳥船より豊宇氣比賣神神まで、合わせて八神である。
  伊邪那岐.伊邪那美神が、共々に生んだ島は、すべて十四島、また神はすべて三十五神である。 
これらは、伊邪那美神が亡くなられる前に生まれた。ただし意能碁呂島は、生んだのではない。また蛭子と淡島とは、子の数には入れない。
***

神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。
『古事記』には他に闇御津羽神(クラミツハ)があり、これも同じ語源と考えられる。

「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は『准南子』などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明されている。

灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。
丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているほか、各地の神社で配祀神として祀られている。
大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている。

私がこの神を参拝した神社:
埼玉県狭山市・峰の愛宕神社
埼玉県・三峯神社 境内 鎮火神社 御井神社
東京都・神田明神 境内 魚河岸水神社
東京都・大國魂神社 境内 水神社
茨城県・大洗磯前神社 境内 水神社
栃木県・宇都宮二荒山神社 境内 水神社
千葉県・玉前神社 境内 十二社
愛知県・熱田神宮 境内 清水社
京都府・賀茂別雷神社 境内 川尾社
島根県・熊野大社 境内 荒神社


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王子稲荷神社の狛狐

20170828

所在地:東京都北区岸町 王子稲荷神社いなり坂側入り口
撮影日:2013年6月30日

王子稲荷神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


王子稲荷神社の正門は、幼稚園があるため平日は入れず、脇の「いなり坂」を少し上がったところに入り口があり、そちらから入ります。
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その、いなり坂側入り口を入ると、狛狐がいます。

年代:宝暦14年(1764)
材質:石造
型式:他眷属型-狐

ここの狛狐は、阿吽にはなっていない。

右の狛狐は、口に咥えていないが、台座に鍵が彫られている。
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左の狛狐の台座には、宝珠が彫られている。
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ちなみに、狐が咥えたり、持っている物に、稲穂、巻物、鍵、玉の4種類あるが、何を象徴としているか、ご存知ですか?
それは、下記のとおりです。
稲穂:五穀豊穣
巻物:知恵
鍵:霊徳を身につけようとする願望の象徴、商売繁盛(蔵の鍵)
玉:神さまの霊徳の象徴、宝珠、米倉


この狛狐の特徴は、何と云っても「表情」に尽きると思います。
とても柔和に笑った顔で、とてもいいですね。

年代は、宝暦14年(1764)と江戸時代のもので、まったく傷んでいない良いものです。
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まだ、狛犬を追求しようと思っている時期では無かったので、データが不足しています。
例えば尾の形とか。
機会を見て、再訪して撮り加えるつもりです。


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原宿スーパーよさこい2017

20170827

昨日、26日(土)に行ってきました。
今年で17回目になるそうですが、私は初めてでした。
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原宿駅に10時少し前に到着。まずはガイドブックを確保して、何処で見るのが良いか検討。
イメージしていた表参道の大通りは、日曜だけだとわかりガックシ(笑)

一番近い明治神宮入り口の「原宿口ステージ」は11:30からなので、他の場所で見ることに。
「代々木公園ステージ」と、「NHK前ストリート」が10時からなので、そちらに向かった。
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「代々木公園ステージ」で最初見ることにした。
幸い、まだそんなに混んでいなくて、向かって左手に行くと、立ち見の最前列に位置することが出来た。

次々とステージに登場してくるので、それを動画で録画した。

その中から、私が独断で良かったなと思うものをユーチューブにアップしたので、それを見てください。

〇スーパーよさこい2017(1)
代々木公園ステージで録画したもの。
収録したチームは、「早稲田大学・東京花火」、「世田谷笑in若林」、「実践女子大・WING」

その動画を見る



〇スーパーよさこい2017(2)
代々木公園ステージで録画したもの。
収録したチームは、「京都・櫻嵐洛」、「静岡県・りぐる」、「ベトナム・ヌイチェックさくら」、「富山県・真美流星乱舞群」

その動画を見る



◎スーパーよさこい2017(3)/十人十彩・AZUKI
代々木公園ステージで録画したもの。
収録したチームは、「高知県・十人十彩」、「高知県・AZUKI」
これは必見です。
とにかく本場から参加だけあって、キレキレの踊り。やはり突出してました。
「高知県・十人十彩(じゅうにんといろ)」は、王道を行く踊りで華麗。惚れこみました。
「高知県・AZUKI」は、異色な硬派の踊りです。シビレます。

その動画を見る



12時になったし、立ちっぱなしで腰がダルくなったので、休憩を兼ねて昼食としました。
近くの休憩場所近くには、うどんの屋台が並んでいたが、行列が長くて並ぶ気がせず、他の場所の行列が並んでいない屋台で焼そばを買って食べた。
幸い木陰のベンチが空いていて、そこに腰掛て食べたが、その休憩場所が出場団体の集合場所になっていて、沢山の踊り手が集まっていた。
隣に、高知県から来た若い女性の踊り手さんたちが座ったので、しばらく話が出来たのは、楽しかった。

昼食・休憩後、今度は通りの踊りが見たいよねと、「NHK前ストリート」に移動、ここも最前列で見ることが出来た。

〇スーパーよさこい2017(4)
NHK前ストリートで録画したもの。
収録したチームは、「高知県・ほにや」、「静岡県・ぬまづ熱風舞人」、「埼玉県・勇舞会」、「富山県・湊や」、「高知県・チームau」

その動画を見る



13:45ころ、雨が降り出したので、これで切り上げることにして、帰ってきました。
初めて行きましたがねとても良いですね。
これから毎年通うことになりそうです。

(了)


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庚申信仰と庚申塔について

20170824

各地の史跡めぐりをする中で、庚申塔にいつしか関心を持つようになった。
私の住んでいる埼玉県狭山市にも15基の庚申塔があり、市内の史跡めぐりのガイドをする機会も多くて、庚申塔について勉強をするうち、庚申塔の魅力にどっぷり浸かってしまった。
けっこうデータも溜まったので、これから摂ブログにアップしていこうと思います。
ただし、私が主として関心が高いのは庚申塔の「像容」なので、それを中心に記事としていきます。
なので「文字塔」は対象としては省いてあります。

【庚申信仰】
 庚申信仰は3世紀ごろ中国の道教徒の間に生まれた民間信仰の1つです。
それによると人の体内には三尸(さんし)という虫が棲んでおり、60日に1度の庚申の夜に人が寝静まると秘かに体内から脱け出して天に昇り、天帝にその人の罪科を告げて寿命を縮めるというものです。
 そこで庚申の晩は三尸が天帝のもとに行けないように、眠らずに身を謹んで静かに一夜を過ごす「守庚申(しゆこうしん)」という習慣が生まれました。この習慣は仏教とともに我が国へ伝えられ、平安時代には朝廷貴族の間で、「庚申(こうしん)の御遊(ぎょゆう)」と呼ばれる全く異質である遊興の場に変化し、その後武家社会にも広がりました。
 しかし室町時代になると仏教の影響を強く受け、阿弥陀如来などの諸仏を礼拝(らいはい)して夜明かしをするという「庚申待」へと変化しました。またいつしか、伝尸(でんし)は三尸と関係があると考えられ、伝尸病(結核)の加持祈祷の本尊である青面金剛が庚申待の諸仏に加えられるようになました。
 江戸時代になるとその信仰は農民層にまで広がり、各地に庚申講という同信者の集団が結成されました。彼らは庚申の晩に宿に集まり眠らぬように努めましたが、そうしたなかで交わされる会話は最大の関心事である農業や日々の暮らしの行く末でした。その結果、庚申信仰はしだいに五穀豊穣や二世安楽を祈る信仰へと姿を変え、互いに金銭を出し合って庚申塔を建てるようになりました。

1)庚申信仰の伝来
・空海(弘法大師)が、延暦14年(795)に著した『三教指揮』で、道教について詳しく書かれていて、「庚申信仰」もこのころ伝えられていたと思われる。
・天台僧・円仁(第三代天台座主、慈覚大師)が記した『入唐求法巡礼行記』の承和五年(838)11月の記述。
「廿六日夜人咸(みな)睡らず本国(日本)の正月の庚申の夜と同じ也。」

2)朝廷の信仰(行事?)
・庚申の日に徹夜をする習俗は、朝廷行事の一つと考えられ、当時の記録に「庚申の宴」としばしば記される。
 『和漢朗詠集』(寛弘九年(1012)/藤原公任編集)に 「庚申」の項の詩文あり。

3)関東武士の信仰
『吾妻鏡(東鑑)』建暦3年(1213)3月19日条に「今夜御所二庚申ヲ守り御会有り」、「半夜(夜半の意か)ニ及ビ、甲胃姿の武士五〇人余が和田義盛邸あたりを徘徊していたので、用心のため御会は中止された」とあり、「庚申
ヲ守り」と記すだけで解説なし、つまり常識となっていた。「勝会を半夜で中止した」とあり、徹夜か鶏鳴まで続け
ることを承知していた。しかも「勝会」というほど多くの人が集まっていた。
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4)三尸(さんし)
中国・道教の関係で葛洪(かっこう)の『抱朴子』(ほうぼくし)(303~17完成)内篇巻六「微旨」 (微妙な教えの意)の記述「人間の体内には三尸がいる。三尸には形はないけれども実は霊魂や鬼神のたぐいで、人間の生命を奪うことを目的としている霊的存在である。人間が死ぬと三尸は鬼となって勝手に遊び歩いたり、祀りをうけたりできるので、人間がはやく死ぬことをのぞみ、庚申の日ごとに天に上っていって人間の過失を司命の神に告げる。」

【庚申塔像容の要素について】
1)塔身の形式
  角柱型、舟形向背型、駒形向背型などがある。

2)主尊
非定型型、三猿型、青面金剛型がある。
a)非定型型
初期の頃は、仏教の影響から阿弥陀如来などの諸仏を礼拝(らいはい)して夜明かしをするという
「庚申待」の時代。従って地蔵像など様々な形がある。
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b)三猿型
「庚申」からの猿、「庚申待」の動機から「見ざる、聞かざる、言わざる」
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c)青面金剛型
いつしか、伝尸(でんし)は三尸と関係があると考えられ、伝尸病(結核)の加持祈祷の本尊である
青面金剛が庚申待の主尊となったもの。
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※『庚申縁起』『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』には、伝尸病(=結核)を患った人が
青面金剛の姿を思い浮かべ、千遍呪文を唱えれば治ると書かれている。

※『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容は、
 「四本の手で向って左は上の手に三叉の矛を、下の手に棒を持ち、右は上の手に輪宝を、
下の手に羂索(縄)を持つ。身体は青色で口を開き、牙を出し、三眼で頭に髑髏をいただき、
髪は火焔のように逆立ち、頚に大蛇を掛け、両腕に二匹の龍、腰と両足に二匹の蛇がまといつき、
持った棒にも蛇がまといつく。
 腰には虎の皮を巻き、髑髏の首飾り・胸飾りをつけ、両足で一匹ずつ鬼を踏む。
 左右には一人ずつ童子を作る。頭には二つの暫を結び手に柄香炉を持つ。
 像に向って右に赤色と黄色、左に白色と黒色の恐ろしい形の夜叉を作る。」と説く。

※この像容は、寺における木彫仏像では具体化できるが、私たちが探訪する石像では正確に彫ることは不可能で、かなり簡略化することになる。
寺の仏像
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3)日月の彫刻
月待との習合と説く人もいるが、ほとんどの像に刻まれているのをみると、基本的な信仰である太陽信仰と月(水を司ると思われていた)信仰だと思ったほうがよい。
「筋彫、浮彫」、「瑞雲あり、なし」、「日(太陽)が右、左」の別あり。
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4)脇侍
  「大青面金剛呪法大呪法」に書かれている像容のとおり、夜叉、童子、邪鬼が登場することがある。

東京都板橋区東光寺の庚申塔に彫られた「四夜叉」
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埼玉県狭山市水野の庚申塔に彫られた童子と邪鬼
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5)鶏
・庚申の次の日が「酉」なので、鶏が鳴けば庚申の夜が明けたということになる。
・鶏は多産なので尊ばれた。(ほとんどのものが雄鶏と雌鶏の番い)
*時を告げている鶏(東京都目黒・区民センター付近の庚申塔)
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6)蛇、髑髏の表現
「大青面金剛呪法大呪法」に書かれている像容に登場する。
「水」が切実な問題だったので、蛇は水神のお使いということで崇敬された。
髑髏崇拝は、チベット仏教、立川流(密教)くらい。「大青面金剛呪法大呪法」からである。

埼玉県狭山市石無坂庚申塔の蛇の表現
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東京都目黒・区民センター付近の庚申塔の蛇の表現
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東京都目黒・区民センター付近の庚申塔の髑髏の表現
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7)青面金剛の本手
青面金剛は、たいてい6本の手であるが、その中央の二本を「本手」という。
合掌しているものと、「剣とショケラ」を持っているものがある。

合掌しているもの
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「剣人型」
右手に剣を持ち、左手でショケラをぶら下げている。
東京都文京区大円寺の庚申塔
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「ショケラ」=半裸の女人
(一部の地域では、こういう文化財を管理しているのが教育委員会で、教育上考えたのか「童子」としていることがある)
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庚申信仰の特色の一つは禁忌(タブー)が多いこと。
その中でも特に厳しいのは庚申の日の男女同衾である。

川柳にあり。
  ・寝て用が ないで庚申 夜をふかし
  ・庚申を うるさくおもう 新世帯
  ・御帰国の 日も折り悪し かのえ申

男女同衾または同様の所業をした女人を懲らしめる形ではないかと推論されている。
女性が半裸であることがそれを裏付ける。

*女性が合掌しているもの ⇒ 魔から救い出している

※ショケラという言葉について:
・定説が無く、各説が入り乱れている状況であり、比較的納得できるものを挙げました。
・「三尸虫」すなわち「尸虫」の訓読みは「シャクタレ虫」だった。
・袋草紙などでは「しやくむし」であり、「く」には「具」のくずし字が用いられていた。
 「具」を極端に崩すと二文字のように見え、「けら」と誤読される。
・「しやけら」⇒「ショウケラ」⇒「ショケラ」
三尸虫は形が無いので、庚申塔に刻まれるときに「擬人化」された。

(了)


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引常明神/日本の神々の話

20170823

記紀などの神話に登場する神ではない。

全国の金山神社の総本社である美濃国一之宮・南宮大社に参拝した折、境内社としてお参りした神である。
神泉のことを「引常明神」と呼び、その個性は「=豊玉彦命」として説明されている。

南宮大社については既に記事にしている。

その記事を読む


南門から出て、少し上がると、「聖武天皇大仏建立勅願所」碑がある。
聖武天皇は大仏建立の御願厚く天平十二年(740年)ここに行幸され金山彦命の神助を請い、この霊泉を汲まれ大仏建立の大業を祈願された。
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「引常明神・湖千海神社」の鳥居
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手前に「引常明神磐境石」、奥に「湖千海神社」
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神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
その神が降臨するのが、この磐境石だということ。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという。

「聖武天皇行幸曵常泉由緒」
往古よりこの泉は常世(神仙界)の霊気を常に引き寄せられる神泉と仰がれ常世に坐して潮の溢涸を司られる豊玉彦命は引常明神と称えてここに迎えられ湖千海神社(こせかいじんじゃ)に祭られてきた。
聖武天皇は大仏建立の御願厚く天平十二年(740年)ここに行幸され金山彦命の神助を請いこの霊泉を汲まれ大仏建立の大業を果された。
鎌倉幕府の北条政子は亡き将軍源頼朝公の菩提の為に神縁深い南天竺の鉄塔を建立し金水の和合を祈願した。神宮寺側はこの水を如法水と呼びこれで写経した経文を塔内に納め南山の寿(不老長命)を祈るを古例とした神社にあってはこの境内で古神札を焼納し諸神の常世帰神昇神を祈るを古儀として来た
曵常泉は南宮大社弥栄の源泉であり神泉であった」
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「南天竺の鉄塔」
北条政子が源頼朝の菩提のため、ここに、南天竺の鉄塔を建立し、金水の和合を祈願した。
「南天竺の鉄」というのは、当時はまだ外来の鉄のほうが優れていて、外来の鉄をおしなべてそう云っていたのではないか。
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「瓦塚」
「引常明神・湖千海神社」の手前にある瓦塚は、社殿の古瓦で、常世神である引常明神に捧げ祀ったもの。
碑文:
長年社殿を守ってきた古瓦は無下に仕末することは許されない
心から厚くその功業に謝し今より常世神の引常明神の大前に捧げまつり常にその功力の御蔭を祈りまつる
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湖千海社の祭神は豊玉彦命で、曳常泉と呼ばれる泉がこの地にあるらしい。
ただ、どれがその曳常泉であるのかは、結局分かりませんでした。
曳常泉を引常明神として祀っていると言う事で、引常明神≒豊玉彦命と言う事の様です。

この曳常泉の地こそが往古の南宮大社にとって最も大切な聖地であったのかもしれない。



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富岡八幡宮境内・永昌五社稲荷神社の狛犬

20170822

所在地:東京都江東区 富岡八幡宮境内・永昌五社稲荷神社参道途中
撮影日:2013年2月3日

富岡八幡宮の境内に永昌五社稲荷神社があり、この参道には江戸時代の狛犬が二組ありますが、今回のは参道の真ん中辺にいる狛犬です。

年代:宝暦13年(1763)
材質:石造
型式:宝珠・角型

永昌五社稲荷神社参道
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右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。宝珠を頭に載せている。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・阿吽形とも、たてがみの巻き毛が大きく、たてがみも長く伸びている。
・顔は、耳が横に広がり、眉はほどほどで、奥は大きい。
・歯はかなり乱杭状で、顎髭は扇状に広がっている。
・首の筋が強調されている。
・傷んでいる部分が多いが、けっこう異相な顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は鋭い。
・前足の巻き毛は、付け根のみにある。
・後足は蹲踞。後足の付け根にのみ巻き毛あり。
・尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。

阿形の頭部:
低いが宝珠と判断できるものが頭にあり。
たてがみの巻き毛が大きく、たてがみも長く伸びている。
耳や口の部分が傷んでいて、よくわからない。目は大きい。
顎髭は扇状に広がっている。
首の筋が、かなり強調されている。
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吽形の頭部:
角がある。
たてがみの巻き毛が大きく、たてがみも長く伸びている。
顔は、耳が横に広がり、眉はほどほどで、目は大きい。
歯はかなり乱杭状で、顎髭は扇状に広がっている。
首の筋が、かなり強調されている。
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前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は鋭い。
前足の巻き毛は、付け根のみにある。
後足は蹲踞。後足の付け根にのみ巻き毛あり。
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尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。
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けっこう傷みが激しい狛犬である。
江戸時代から生きてきたことを考えれば、相応とも云える。
なにしろ、江戸の大火、関東大震災、東京大空襲などの災害をくぐり抜けてきたのだから。
そういうことを考えると、そっと頭を撫でていたわってあげたくなる。


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中山道・浦和宿(その一)

20170821

前回、「蕨宿」として「蕨宿木戸」まで歩いたので、ここから浦和宿の廓信寺まで、8月18日に歩きました。

ずっと雨の日が続いていて、ようやく「曇り一時雨」という天気に回復してきたので、歩きを結構することにしました。午後には天気が崩れるという予報だったので、家を6:30に出て最寄りのJRの駅から向かい、蕨駅を降りたのが7:50。前回歩いた蕨宿木戸ふれあい広場に8:15に到着。
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ちょっと休んで、8:20に木戸を出ました。
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この図のとおり、国道17号線を斜めに横切って進みます。
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この記事は「調(つき)神社」までですが、そこまでのルート。
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歩き出してしばらくは、何と言うことない普通の道路。
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そのうちカーブが連続して、街道らしくなりました(笑)
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この辺は、まったく「旧中山道」などとかの表示が無く、この道でいいのかと不安になります。
そんな時に、このような説明があるとホッとする。

【一六橋】
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小さい橋です。
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少し行くと、また説明あり。

【境橋】
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今は整備されてこんな川に。
落ちたら上がれないね(汗)
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前方に「東京外環自動車道」の陸橋が見えてきた。
手前に「辻一里塚」があるはず。
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【辻一里塚碑】
日本橋から数えて5番目の一里塚。現在は碑が残るのみである。隣に、弁財天が祀られている。
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ちょうど9:00。木戸から40分歩いたので、辻一里塚公園で一休み。
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そこから少し歩くと、辻熊野神社の前に来たのでお参りした。

【辻熊野神社】
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昭和9年奉納の狛犬。顔が良かった。
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ご祭神は、紀州熊野三山のご祭神。
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六辻の近くまで来ると、またカーブが続いて「中山道の道筋をよく留める」と書かれているとおり。
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【六辻】
国道17号線を突っ切る交差点が「六辻」。
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その少し先に、道の目印にしている「五叉路」がある。
その手前に、中山道の案内があり。
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【五叉路】
道がズレていて、だが4本しかないぞ?
白い車が出てきた道が進行方向だろう。
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左斜めに折れて納得。これで5本だ(笑)
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「旧中山道」とかの案内が皆無なので、不安をかかえて進みます。
「焼米坂」に出れば正解といった感じで進む。
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「焼米坂」に到着(嬉)
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【焼米坂】
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
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『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』/天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。
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南浦和駅の辺まで来た。
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通りかかった交差点に古い商家がある。
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その家の角には井戸があり。
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重厚な建物です。お米屋さんでした。
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マンションが立ち並び、浦和の街に近くなったことがわかる。
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調神社の森だ(嬉)
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【駒繋ぎのケヤキ】
「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」という安産の守護神と信仰されているケヤキ。
言い伝えでは、日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人に会いました。その婦人のために、このケヤキに馬を繋ぎ祈ったそうです。それにより男子を無事出産されたことから安産の守護神となったようです。

小道を挟んで離れていますが、調神社の境内だそうです。
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実は、そのケヤキは朽ちてしまったようで、現在のケヤキはそれを引き継いだもののようです。
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【調神社(つき じんじゃ)】
浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。

入り口には、狛犬でなく「狛兎」が迎えています。
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鳥居ではなく、「注連柱」をくぐります。
「注連柱」は奈良の大神神社とか古い神社に多く、この神社の歴史を感じさせます。
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社殿
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掲題のベンチに腰を下ろしたのが、ちょうど10:00。しばらく休憩しました。

調神社(つき じんじゃ)については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
詳細は、そちらで見てください。

その記事を見る


その記事を書いた2013年8月には、入り口の狛兎は江戸時代のものでしたが、さきほど写真を載せた、今回の狛兎は新しいものになっていました。

以前のものは、境内に保存されていました。
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調神社(つき じんじゃ)の境内には、ケヤキの巨木が方々にあります。
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ここから先は、次回記事とします。



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二位の尼

20170819

記紀などの神話の神でなく、実在した人が神として祀られたもの。
日本橋水天宮に安徳天皇などと一緒に祀られている。

平清盛の正室(継室)、平時子(たいらのときこ)のこと。
中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。

生涯:
第一子の宗盛の誕生年より、久安元年(1145年)頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。
二条帝の崩御後、後白河院の寵妃となった異母妹・滋子とともに清盛と後白河院の政治的提携強化の媒介となった。
娘・徳子が高倉天皇に入内すると、中宮の母として徳子の出産に関わったほか、高倉帝の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ役割も果たした。
清盛による治承三年の政変の後、治承4年(1180年)4月に徳子の生んだ外孫・安徳天皇が即位すると、清盛とともに准三宮の宣旨を受けた(『百錬抄』治承4年6月10日条)。
清盛はその晩年、宗盛を後継者とする意志を強く見せたため、亡き重盛流の小松家は嫡流からはずれ、時子の出自が新たに嫡流となった。
清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子(二位の尼)が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すと、安徳帝に「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自害した。

墓所・伝承:
墓所は赤間神宮にあり、毎年5月2日に平家の落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと一門追悼祭が齋行されている。
また山口県長門市日置には、亡骸が打ち上げられたという伝承から、「二位ノ浜」と呼ばれる浜辺があり、海水浴場としても人気がある。



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江島(えのしま)神社・中津宮の狛犬

20170817

所在地:神奈川県藤沢市江の島
撮影日:2016年9月15日

小田急「片瀬江ノ島」駅で下車し、弁天橋を渡って江の島に入り、この日は島内の江島神社全てを見て歩きました。半日かかりましたね(笑)

江島神社全てでは、かなりの数の江戸時代の狛犬がありましたが、その中で一番古いのが今回の狛犬です。

江島(えのしま)神社については、既に記事にしております。

その記事を見る


〇中津宮(なかつみや)
ご祭神は、宗像三女神のうち、市寸島比賣命。
中津宮拝殿前に狛犬が居ます。
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年代:宝暦13年(1763)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型


右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・阿吽形とも、たてがみの巻き毛が大きく、たてがみも長く伸びている。
・顔は、耳が立ち、眉は巻き毛が上から下に巻き込んで横に並び、その奥に目があり。
・歯はかなり乱杭状で、牙は長く強調されている。顎髭は扇状に広がっている。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が協調されている。爪は鋭く甲に上から毛がかぶさっている。
・前足の後ろに羽根状の毛が全体にあり、付け根に巻き毛がある。
・後足は蹲踞。筋肉が強調されている。後足にも羽根状の毛が全体にある。
・尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。


前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が協調されている。爪は鋭く甲に上から毛がかぶさっている。
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前足の後ろに羽根状の毛が全体にあり、付け根に巻き毛がある。
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後足は蹲踞。筋肉が強調されている。後足にも羽根状の毛が全体にある。
尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。
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天下春命(あめのしたばるのみこと)/日本の神々の話

20170816

記紀には登場しないが、高天原の知恵袋といっても良い存在である思金(おもいかね)神の御子神である。

※思金神が活躍した話で最も有名な話では、「岩戸隠れ」の際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。

『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の1柱。

同じく随従した天表春(あめのうわはる)命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。
また大伴部氏の祖ともいわれる。

なお『高橋氏文』に「知々夫(秩父)国造の上祖、天上腹、天下腹人」と見える人名は、この両神に関係があると見られている。

※高橋氏文(たかはしうじぶみ):
日本の歴史書、古記録である。
宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。
しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。

天下春命は開墾の神として祀られる事が多い。

私が参拝した、天下春命を祭神とする神社
・東京都多摩市・小野神社
・東京都府中市・小野神社
・神奈川県厚木市・小野神社
・滋賀県長浜市木之本町・伊香具神社境内社

また、天下春命の7代目の知知夫彦が秩父国造りとして秩父を開拓、「秩父神社」の祭神として天思兼命と共に祀られています。


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川の博物館/「神になったオオカミ」展

20170814

所在地:埼玉県大里郡寄居町小園39

8月6日(日)に、表題の企画展に加え、「ニホンオオカミと三峰」という講演会があるので、訪ねました。

駐車場近くの入り口から入ると、巨大な水車に度肝を抜かれた。
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園内は広くて、川も流れている。向うに見えている円筒形の建物は、川の博物館の展望塔だ。
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川の博物館の近くには、水車が移築復元されていた。

東秩父村・精米水車
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皆野町・コンニャク水車
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川の博物館
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第1展示室は、広くて映像と様々な模型で川を利用した昔の暮らしの工夫を紹介している。
巨大スクリーンの映像の説明を生で学芸員の人が説明している。
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今回、「鉄砲堰」というものに関心を持った。

鉄砲堰は、川を利用した木材搬出方法のひとつで、源流域でも特に荒川支流の中津川で行われていた。
山間の∨字谷に堰を造って大量の水をため、人為的に鉄砲水を起こさせて材木を下流に流し送るというもの。
「鉄砲出し」とか「鉄砲流し」、あるいは単に「鉄砲」とも呼ばれていた。
谷が狭まり、両岸の岩が張り出して地盤のしっかりした場所に、大量の丸太で小さなダムを造る。
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丸太の透き間には水ごけや泥を詰めて、水がもれないようにしておく。中央部には水が流れ出る放出口を設ける。
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流す材木は、堰の下流にまとめて置いておき、堰に満々と水がたまるのを見計らい、ベラボウと呼ぶつつかい棒を動かすと、放出口をふさいでいたベライタがはずれ、水は轟音とともに一気に流れる。
この水流が数百本もの材木を押し流す。
こうして荒川本流まで流してから筏に組んで、江戸まで筏を運んで行くというもの。

狭山市でも、荒川支流の入間川で飯能からの筏を流していたので、その筏師が泊まった宿の存在がわかっている。

水車で臼を挽く木製歯車の構造も展示してあった。
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展望塔からの荒川方面の眺め。
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前述した水車が設置してあるところも見えた。
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博物館の屋上にこんなものを発見。
今は、こんなものがあるんですね。
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【神になったオオカミ展】
第2展示室で、「神になったオオカミ」展を開催。
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三峰神社、宝登山神社、武蔵御嶽神社では、いずれも日本武尊が甲斐から武蔵国に入ったときに山で迷うが、オオカミの先導で難を逃れたという伝承がある。

武蔵御嶽神社の奉納額
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前述三社では、オオカミが御眷属として信仰されている。
この三社は既に記事をアップしているので、それを見ていただければ、その様子はわかる。

三峰神社の記事を見る


宝登山神社の記事を見る
(奥宮の記事まで見てください)


武蔵御嶽神社の記事を見る



秩父地方では、オオカミの骨を、魔除け、お祓いに用いられていた。
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前述の三社だけでなく、たくさんの神社から、火難防止、盗難防止、作物の災難防止のための護符が配られている。
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狭山市でも、玄関に貼ってあるとか、畑や田に立ててあるのを、けっこう見ることがある。

これは2016年3月に、北入曽の不老川近くの畑で撮ったもの。
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オオカミの絵では、もともと好きな作家でもあり、河鍋暁斎が描いたものが良かった。
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秩父地方に伝わるオオカミ伝説が展示してあったが、なかなか面白かった。
その一つ、「のどに刺さった骨を抜いた話」を紹介しておく。
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 小前(現在の皆野町)というところに、駒井なにがしという強者がいました。
ある晩、この男が下吉田で用を済ませた帰り道、山中で1匹のオオカミに出くわしました。
そのオオカミは、大きくロを開き、「口の中を見てくれ」というように近寄ってくるのです。
男がよく見ると、のどに大きな骨が刺さっているのが見えたので、口の中に手を入れて骨を抜いてやりました。
数日たったある晩のこと、庭で「ドサッ!」と大きな音。
次の日、早起きして庭を見ると、大きなイノシシが投げ込まれていたのです。
「ははあ、これはこの間のオオカミからのお礼だな」
と家族を起こしたということです。
(山田英二著『秩父の民話と伝説』より)

13:30から、講演会を聴講した。

【講演会「ニホンオオカミと三峰」】
講師:秩父宮記念三峰山博物館 名誉館長山口民弥氏

〇三峰神社の紹介

〇オオカミ信仰
・三峰神社の「お犬様信仰」を確立したのは、江戸期の日光法印による。
・ニホンオオカミ=お犬様=山犬=大口真神(おおぐちまかみ)=御眷属様
・ニホンオオカミは「イヌ科」であり、人家への不審者や盗賊の侵入を防ぎ、火災の発生を知らせる本能を庶民は知っていた。
・農山村では田畑の作物を荒らす獣(猪など)を食し獣害被害から人間を守り、町では盗賊・火つけを防ぐ霊験の他、修験者が病気平癒・雨乞いなどの加持祈祷・薬学・天文学などで多くの信仰者を増やすとともに、オオカミを身近な存在とし、神の使いとあがめるようになった。

〇県外の三峰神社
有名なところでは、東京・浅草寺境内、岩手県の中尊寺境内などに、火難防止として三峰神社が祀られている。

〇ニホンオオカミの絶滅?
・明治時代初期までは、日本の山間部には多数のニホンオオカミが居た。
・絶滅の原因はタイリクオオカミが疫病神扱いされていた考えが導入されたこと、狂犬病などの伝染病、明治政府が銃の貸与・毒薬の支給などで駆除を積極的に奨励したなどによる。
・ニホンオオカミは、明治38年(1905)奈良県東吉野村で捕獲されたのが最後の例。これは、イギリスから派遣されたアメリカ人が買い取り、現在大英博物館にある。
・世界で7例目と8例目が個人から寄贈されて三峰神社博物館にある。
この写真に写っているのが、講師の山口氏
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・国内外で、残っているニホンオオカミの剥製・毛皮は、①国立科学博物館、②東京大学農学部、③和歌山大学、
④イギリス・大英自然史博物館、⑤オランダ・ライデン自然史博物館、⑥ドイツ・ベルリン自然史博物館、⑦⑧三峰神社博物館

〇今でも居る?
 秩父地方には、オオカミの遠吠えを聞いた、写真を撮ったなどの情報が今でもあり、秩父の人で家財を傾けてまでもニホンオオカミの姿を追い求めている人が居る。

〇ちなみに
タイリクオオカミであれば、現在、国内の11の動物園で飼育されている。
近い場所では、多摩動物公園に9頭飼育されている。
(日本に存在したのは、ニホンオオカミとエゾオオカミのみ)

(了)


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新宿・西向天神社の狛犬

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所在地:東京都新宿区新宿6-21-1 西向天神社拝殿前
撮影日:2017年7月27日

都営大江戸線「東新宿」駅下車、A3出口から地上に出て「新宿イーストサイドスクエア」を抜けると、50mほどで到着した。
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この神社には、江戸時代の狛犬二組が居るが、そのうち古い方が拝殿前の狛犬である。
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年代:宝暦12年(1762)
材質:石造
型式:宝珠・角型

右側が阿形獅子、頭に宝珠を載せている。
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左側が吽形獅子、頭に角がある。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。宝珠を載せている。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、耳が垂れ、眉は巻き毛が横に並んで、その奥に目があり。
・歯は綺麗に並び、牙はかなり長く強調されている。顎髭は扇状に広がっている。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は立派で甲には巻き毛がある。
・前足の後ろに羽根上の毛が全体にある。
・後足は蹲踞。筋肉が強調されている。甲からずっと巻き毛が続いている。
・後肢の間の彫りは省略。
・尾は、タケノコ形の「尾立ち」。全体に巻き毛が覆っている。


耳が垂れ、眉は巻き毛が横に並んで、顎髭は扇状に広がっている。
歯は綺麗に並び、牙はかなり長く強調されている。
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前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は立派で甲には巻き毛がある。
前足の後ろに羽根上の毛が全体にある。
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尾は、タケノコ形の「尾立ち」。全体に巻き毛が覆っている。
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後肢の間の彫りは省略。
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年代は、宝暦12年(1762)の奉納。
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宝珠が大きめで、角も太くて立派なのが、とてもいい。
たてがみや顎髭などはシンプル、足の巻き毛の表現が豊かで、筋肉の付け方もたくましく、顔がちょっと異形で親しみやすい狛犬である。



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小野神社(延喜式内社)/神奈川県厚木市

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鎮座地:神奈川県厚木市小野428
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社、比々多神社に続き、訪れました。

神社入り口
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社号標
社格等:式内社(小)、郷社(旧社格)
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創建・由緒:
 創建時期は不明ですが、『延書式神名帳』に「相模国十三座(式内社)の内、愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社です。この地域は古くから「小野の里」と呼ばれ、『和名類緊抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地になっていました。
霊亀2年(716)、奈良時代の高僧行基が薬師如来の像を刻んで小野神社に奉安したと社伝に伝えられています。
 鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り、御家人として将軍に仕え、弓の名手として名高く、愛甲村に舘を置く愛甲三郎季隆が当社を篤<信仰していました(季隆を筆頭に愛甲一族全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年(1194)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣元の名も残っています(以降、社殿は現在までに五国改められている)。
なお、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれています。
江戸時代末期に鎮座地の転社(移転)が行われ、また明治6年(1873)には郷社に列せられています。

愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか):
 弓の名手として知られる愛甲季隆は、武蔵七党横山党の一族で、愛甲庄に進出し一帯を領しました。宝積寺には、季隆の妻と伝わる五輪塔が残されています。
 季隆は、下河辺行平とともに弓の名手として、源頼朝の親衛隊として仕え、頼朝の子頼家の弓の師範としても活躍。建久4年(1193)に行われた富士裾野の巻狩りでは、頼家が鹿を射止め、季隆も褒美を得たといわれています。
 元久2年(1205)、北条時政に騙されて鎌倉へと向かう畠山重忠は、二俣川で幕府軍に襲われますが、このときに重忠を射倒したのが季隆だといわれています。
 建暦3年(1213)に起こった和田合戦で和田義盛に味方し、和田一族とともに討ち死にしました。

大江広元(おおえひろもと):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献しました。

転社について:
小野神社は元々、現在の場所より西南方向に200メートル程いったところにある丘陵(通称”神の山”)に位置していました。転社(移転)時期は嘉永年間(1848~1854)の初頭頃と考えられています。現在は丘陵は私有地となっていて、小野神社に代わって秋葉神社の小祠が鎮座しています。(この小祠自体は、小野神社の転社後に建てられたものと思われます)

小野神社由緒が石碑に書かれていた。
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手水舎
手水鉢が岩を使用した立派なものだった。
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鳥居
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拝殿
拝殿は嘉永元年(1848)に造営された後、藁葺屋根でしたが、昭和43年には鉄板葺に替えられています。
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扁額
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 扁額に現在も残っている「閑香(かんこう・あいこう)大明神」は江戸時代に称していた名で、小野の「閑香さま」
と一般には呼ばれていました。
江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時の社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことがわかります。祭神が現在の日本武命となったのは、明治時代に入ってからで、「日本武尊が東国に遠征する際に野火の焼きうちにあった」という『古事記』の記述の地が、小野と関係するとされたことによります。

本殿
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本殿の神門が新しかった。
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本殿の床が高床になっている。
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ご祭神は、日本武命、下春命(江戸時代まで)

下春命(したばるのみこと)=天下春命(あまのしたばるのみこと)
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
そのとき、警護のために天より<だされた三十二神のうちの一神。
武蔵の秩父国造らの祖。開墾の神として祀られる事が多く、多摩市の小野神社と府中市の小野神社などに祀られている。

境内社
八坂神社、春日神社、淡島神社、阿羅波婆枳(あらはばき)神社、古登比羅神社、稲荷神社
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社名は、ちゃんと掲示されている。
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境内に旧社標が置かれていた。
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一緒に置かれているのは、旧石灯篭の一部。
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神楽殿
ちょうど子供を連れたお母さんが通りかかったので聞いてみると、祭礼のときには他所から社中がやってきてお神楽を奉納しているとのこと。
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これで、この日の巡拝予定をすべて終了。
帰途につきました。
もう一回残りを巡拝すれば、相模国の式内社巡拝は完了です。



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吉備武彦(きびのたけひこ)・御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)

20170809

『日本書紀』に吉備武彦、『古事記』に御鉏友耳建日子が登場する。

『日本書紀』景行天皇40年7月16日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。そののち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたという。

一方、『古事記』景行天皇巻では、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたことが記されている。

『古事記』の「景行天皇」の巻、「倭建命の東国征討」の段
(現代語訳)
 そこで天皇は、また重ねて倭建命に仰せられるには、「東方十二カ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し従わせよ」と命じて、吉備臣等の祖先の、名は御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)という人を副えて遣わされる時、柊の長い矛を授けられた。
 それで、勅命を受けて東国に下って行かれるとき、伊勢の大神宮に参って、神殿を礼拝し、やがてその叔母の倭比賣(ヤマトヒメノ)命に申されるには、「天皇は、まったくわたしを死んでしまえばよい、と思っておられるからでしょうか、どうして、西の方の悪い人々を討ちに遣わして、都に返り上って来てから、まだ幾らも時が経っていないのに、兵士らも下さらないで、今度は更に東国十二カ国の悪者どもの平定にお遣わしなさるのでしょう。これによって考えますと、やはり私などはまったく死んでしまえ、と天皇はお考えになっておられるのです」と申されて、嘆き泣き悲しんで出で立たれるとき、倭比賣命は草薙剣をお授けになり、また袋をもお授けになって、「もしも火急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」 と仰せになった。
(以下省略)

吉備武彦と、御鉏友耳建日子が同一人物かという点については、御鉏友耳建日子について『古事記』で吉備臣等の祖先と断っていることから、可能性は高いと思われる。

吉備武彦の出自について『日本書紀』に記載はない。『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条・『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、子として浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が記されている。

また『新撰姓氏録』右京皇別 廬原公条では、景行天皇の時に稚武彦命の孫の「吉備建彦命」は東方に派遣され、毛人を討って「阿倍廬原国」に到ったのち、天皇に復命した日に廬原国を賜ったとする。

ここで、倭建命自身が吉備下道臣の女性を母に持っていることに注目したい。
『古事記』で、12代景行天皇が、吉備臣等の始祖若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)を娶って5名の皇子が生まれ、その3番目が倭建命だと記している。
ここに登場する吉備臣等の始祖若建吉備津日子は、『古事記』の「孝霊記」に、「若建日子吉備津日子命は吉備の下道臣と笠臣の始祖」とある、若建日子吉備津日子命と同じ人物であると解釈してよいと思われる。

この御鉏友耳建日子、あるいは吉備武彦が吉備下道臣の一族かということについては、「吉備臣らの祖」とあるだけなので断言はできないが、その可能性は高い。



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入間川沿いウォーキング

20170808

台風が昨夜日本海のほうに抜けて、朝起きたら雨が上がっていたので、朝食後入間川沿いに歩いた。

高校の辺で、入間川が分流して、一部が手前に流れてきている。
いつもは水量が少ないのだが、さすがに今日は多い。
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いばらく、こちらの岸沿いに流れて、また本流に戻る。
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合流地点に、たくさんの白鷺などが居たので、休憩を兼ねて撮った。

これは「カワウ」
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左側の岸に白いのと灰色のサギが。
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その向こうの方にも、色々な鳥が居る。
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右側の岸には、けっこう沢山の白鷺が居る。
子供も混じっているようだ。
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ウォーキングから戻る途中、サイクリングロードの、高校のフェンス沿いにたくさん花が咲いていて撮った。
調べたら、「悪茄子(ワルナスビ)」だった。
雑草で、嫌われ者らしい(笑)
だが、綺麗だったので、載せておきます(笑)
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(了)


王子稲荷神社の狛犬

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所在地:東京都北区岸町 王子稲荷神社正面参道
撮影日:2013年7月3日

この狛犬は、王子稲荷神社の正面参道の石段を上がったところにある。
ところが、この正面参道は現在保育園の敷地内にあるので、平日は入ることが出来ない。

王子稲荷神社については、既に記事にしてあります。

その記事を見る


事前に調べてそのことがわかったので、出来れば境内社全部に参拝したいと日曜に出掛けました。

王子稲荷の下の角まで来ると、こういう案内があります。
ウィークディは、正門から入れないので、こっちの坂を上がって脇から入ってください、ということです。
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この日は日曜なので、正門が開いていて、正門から入れます。
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入ると、正門からの参道が幼稚園の敷地内だということがよくわかります。
鳥居の石段を上がりきると、拝殿前です。
平日は石段最上部の門が閉じていて、拝殿側からこの石段を降りられないようになっています。
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年代:宝暦11年(1761)造立、文化9年(1812)再建
材質:石造
型式:宝珠・角型

正面参道の石段を上がったところに居ます。
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王子稲荷神社拝殿
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右側が、阿形獅子で頭に宝珠を載せている。
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狛犬のすぐ外側に柵があり撮れないので、社殿側から側面は撮った。
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斜め後ろから。
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阿形の、正面からの顔
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左側が、吽形獅子で頭に角があり。
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同様に社殿側から。
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吽形の、正面からの顔
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・たてがみ、顎髭が長く流れて、江戸狛犬の特徴が良く出ている。
・顔は、耳が横に広がり、眉にも巻き毛があるほど極端に長くかぶさり、眼がわからないほど。
・歯や牙も丁寧に彫られ、顎髭にも巻き毛があるほどかなり大きく目立つ。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。爪が大きく迫力がある。脇に巻き毛の表現
・後足は蹲踞。筋肉の表現がありたくましく、爪が大きくて迫力がある。
・尾は、中央の巻き毛が上に立っていき、脇にもかなり流れている。「尾立ち」から「流れ尾」に移行段階の表現ともいえる。

たてがみ、顎髭が長く流れて、江戸狛犬の特徴が良く出ている。
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前足は、太く真っ直ぐ。爪が大きく迫力がある。脇に巻き毛の表現
後足は蹲踞。筋肉の表現がありたくましく、爪が大きくて迫力がある。
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尾は、中央の巻き毛が上に立っていき、脇にもかなり流れている。「尾立ち」から「流れ尾」に移行段階の表現ともいえる。
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文化9年(1812)に再建したときのものだろうが、台座の彫刻が秀逸。
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宝珠が大きめで、角も太くて立派なのが、とてもいい。
たてがみや顎髭など、毛の表現が豊かで、実に江戸狛犬らしい見事な出来である。



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比々多神社(延喜式内論社)/神奈川県伊勢原市

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鎮座地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1472
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社に続き、訪れました。

伊勢原市のガイドマップから概略の場所
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近くの駐車場でバスを降り、神社の入り口に。
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社号標
社格等:相模国三宮、式内社(小)、郷社(旧社格)
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『延書式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが後述のように論社も存在する。

・相模国三の宮の社格を持つ神社。大磯町国府本郷で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、大磯で行われる国府祭の座問答では、一の宮寒川神社、二の宮川勾神社の首座 争いを「いずれ明年まで」と収める役となっている。所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。

・境内地や近隣地からは古代祭祀の遺構と考えられるものが発掘され、歴史は縄文時代にまでさかのぼるのではないかと云われている。
社殿裏には東名高速道路工事の際に出土した配石遺構が復元移設されている。境内には郷土博物館もあり、様々な出土品や社宝が展示されている。毎年5月第3土、日曜日の「まが玉祭」の際には終日無料開館される。

・4月22日の例祭には、「イヤートーサッセ(「弥遠に栄えたまへ」の意とのこと)」の掛け声と共に神輿が渡御し、三基のカラクリ人形山車の巡幸もあり、境内は熱気を帯びる。当社の神輿渡御は縦横無尽の暴れである。

・神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。『比々多神社参拝の栞』
・崇神天皇7年(紀元前91年)に神地神戸を寄せられ、垂仁天皇27年(紀元前3年)8月には神祇官が詔を受け弓矢を奉幣している(『比比多伝記』)
・大化元年(645年)大酒解神と小酒解神の2柱を合祀し、その際「鶉瓶」(うずらみか)と呼ばれる須恵器が納められたのだと言う。(『比々多神社参拝の莱』)
・持統天皇6年(692年)に国司布施朝臣色布智(ふせのあそんしこふち)が社殿を修復すると共に木彫り狛犬1対を奉納している。(『比々多神社参拝の栞』)
・天平15年(743年)武内宿禰の裔孫である紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎えると共に、聖武天皇より荘園を賜った。
・天長9年(832年)には国司の橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を淳和天皇より賜ったとされる(『比々多神社参拝の栞』)
・元暦元年(1184年)源頼朝が大規模な社殿再建を行い、文治元年(1185年)には天下泰平祈願の御願書を奉っている。
・また、『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「三宮冠大明神」に祈願し、神馬が奉納されたとある。明応年間頃(1492年・1501年)に兵火により社額を失い、社人供僧も離散して大きく衰微したのだと言う。神戸村の名称は往古に封戸であった遺名であると言われる。さらに同書によれば、天正年間(1573年・1593年)の初めに社地を埼免(らちめん)から現在地に移し、小社を建てて遷座したのだと言う。
(『新編相模国風土記稿巻之50』)
・天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社額10石が寄進された。『新編相模国風土記稿巻之50』短】では、これにより当社はようやく復興を見たと述べている。その後も歴代の将軍より寄進を受け、明治に至っている。
・明治6年(1873年)に郷社に定められて16ケ村の総鎮守となり、明治41年(1908年)には神僕幣南供進神社に指定された。現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。

論社について:
 『延書式神名帳』記載の比比多神社とされるが『新編相模国風土記稿巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられているのだと言う。同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この諸に証拠は無く、さらに当社も子易明神社も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断はし難いと述べている。
『日本の神々-神社と聖地・11関東』では、当地が古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、史伝では国府所在時の総社であったとされること、また江戸時代に子易
明神土と当社に下された朱印状の内容から見て、当社が式内社「比比多神社」であろうと考察している。

境内図
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鳥居をくぐる。
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手水舎
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目力のある狛犬です。
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右の狛犬の後ろには、立派なご神木が。
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石段を上がると、左に鐘楼があり。
かっては、染屋太郎大夫時忠を祀ったと言う銘文入りの梵鐘があったが、太平洋戦争の最中、金属資源回収の戦時供出により失われた。現在ある梵鐘は昭和25年(1950年)に作製されたものである。
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参道の左右に、紫陽花の花があった。
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ここにも、ご神木があり。
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拝殿前に至る。
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拝殿前に、干支の酉の像が置かれていた。
干支が描かれた大きな絵馬は珍しくないが、干支の像が置かれているのは珍しい。
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拝殿
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鈴の沢山付いた鈴緒であった。
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火消しの人達が奉納した社額
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社額
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拝殿の内部
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本殿の覆い屋
本殿の様式は、三間社流造とのこと。
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本殿の覆い屋は、しっかり石垣を組んだ高い地面に建てられている。
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ご祭神:
主祭神、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)、天明王命(アメノアカルタマノミコト)、雅日女尊(ワカヒルメノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の4柱。
相殿神は、大酒解神(オオサカトケノカミ=大山祇神)、小酒解神(コサカトケノカミ=木花咲耶姫)

神紋は、「右三つ巴」、「丸に三つ引き両」、「十六弁八重菊」、「五三の桐」
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境内末社
神明、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。
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末社・金比羅社
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「成長のはかり」というのがあった。
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〇三宮郷土博物館
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残念ながら、時間の関係で博物館には寄れなかった。

ここで、「狛犬一対(伊勢原市重要文化財)について触れておきたい。
第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納された、とある。
関東最古の狛犬ともいわれている。
692年が確かなら、まず国の重要文化財である。
そうでないのは、伝承のみで証明が出来ていないのか、風化してしまい外観に問題があるのか。
この日は、時間が無くて見ることはかなわなかったが、再訪して確かめたい。


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日河比売命(ひかわひめのみこと)

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『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。

須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神である。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「須佐之男命の神裔」の段
(現代語訳)
 そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。

日河比売(ひかわひめ)は水神であり龍神である淤迦美神(おかみのかみ)の娘で、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)の妻。深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生んだ。

親である淤迦美神(おかみのかみ)が水神で、その娘が「日河比売(ひかわひめ)」。
「ひかわ」は島根県の斐伊川のことだと思われます。
斐伊川は、武蔵国の氷川神社の「ひかわ」ともつながりがあります。

大宮の氷川神社のご祭神は、須佐之男命、稻田姫命、大己貴命であるが、鎮座している地形から、もともとは水神を祀った神社であることは間違いがない。
農耕の神とされる須佐之男命や大己貴命でも良いのだが、「氷川神社」の名前からは、「日河比売」が祭神であってもおかしくはない。

「ひかわ」という言葉は(本来は)特定の土地の川の名前というわけではなく、「太陽の恵みを受けた」とか、そういう概念的な名前ではないかと思います。



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花園神社の狛犬

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所在地:東京都新宿区新宿5丁目17−3 花園神社・ゴールデン街側鳥居の前
撮影日:2017年7月27日

新宿の花園神社には、三組の狛犬と狛狐(江戸時代)が居ますが、一番古いのがこのゴールデン街側鳥居の前にある狛犬です。

年代:延享2年(1745)
材質:石造
型式:はじめ型(尾立ち)

花園神社拝殿
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ゴールデン街側入り口から石段を上がった鳥居の前にあります。
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右側が阿形の獅子
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左側も吽形の獅子
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・顔は、ギョロ目、耳は垂れ、口は大きく、牙が目立ち、顎髭がかなり大きく目立つ。
・いかつい顔だが、表情はユーモラス。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。脇に巻き毛の表現
・後足は蹲踞。
・尾は、立っていて、たけのこ型で脇に巻き毛あり。

はじめ型の特徴で、あまり毛の表現は無いが、肩や膝、そして首もとの部分に渦巻きのような模様が彫られている。
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これもはじめ型の特徴だが、後肢の間が彫られていない。
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はじめ型はたいてい、尾は付き尾だが、この狛犬は尾が立っていて、たけのこ型で脇に巻き毛あり。
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江戸中期のものでもあり、後頭部や後脚などがかなり破損していましたが、なかなか貴重な狛犬です。
いわゆるはじめ狛犬の分類に入るが、尾が立っているのは、江戸狛犬への推移型といえる。
愛嬌があって、とてもいい。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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