江島(えのしま)神社・中津宮の狛犬

20170817

所在地:神奈川県藤沢市江の島
撮影日:2016年9月15日

小田急「片瀬江ノ島」駅で下車し、弁天橋を渡って江の島に入り、この日は島内の江島神社全てを見て歩きました。半日かかりましたね(笑)

江島神社全てでは、かなりの数の江戸時代の狛犬がありましたが、その中で一番古いのが今回の狛犬です。

江島(えのしま)神社については、既に記事にしております。

その記事を見る


〇中津宮(なかつみや)
ご祭神は、宗像三女神のうち、市寸島比賣命。
中津宮拝殿前に狛犬が居ます。
170817enoshima01.jpg


年代:宝暦13年(1763)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型


右側の阿形獅子
170817enoshima02.jpg


170817enoshima03.jpg


170817enoshima04.jpg


170817enoshima05.jpg


左側の吽形獅子
170817enoshima06.jpg


170817enoshima07.jpg


170817enoshima08.jpg


170817enoshima09.jpg


特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・阿吽形とも、たてがみの巻き毛が大きく、たてがみも長く伸びている。
・顔は、耳が立ち、眉は巻き毛が上から下に巻き込んで横に並び、その奥に目があり。
・歯はかなり乱杭状で、牙は長く強調されている。顎髭は扇状に広がっている。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が協調されている。爪は鋭く甲に上から毛がかぶさっている。
・前足の後ろに羽根状の毛が全体にあり、付け根に巻き毛がある。
・後足は蹲踞。筋肉が強調されている。後足にも羽根状の毛が全体にある。
・尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。


前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が協調されている。爪は鋭く甲に上から毛がかぶさっている。
170817enoshima10.jpg


前足の後ろに羽根状の毛が全体にあり、付け根に巻き毛がある。
170817enoshima11.jpg


後足は蹲踞。筋肉が強調されている。後足にも羽根状の毛が全体にある。
尾は、タケノコ形の「尾立ち」。下半分に巻き毛があり。
170817enoshima12.jpg



狛犬の記事一覧を見る



スポンサーサイト

天下春命(あめのしたばるのみこと)/日本の神々の話

20170816

記紀には登場しないが、高天原の知恵袋といっても良い存在である思金(おもいかね)神の御子神である。

※思金神が活躍した話で最も有名な話では、「岩戸隠れ」の際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。

『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の1柱。

同じく随従した天表春(あめのうわはる)命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。
また大伴部氏の祖ともいわれる。

なお『高橋氏文』に「知々夫(秩父)国造の上祖、天上腹、天下腹人」と見える人名は、この両神に関係があると見られている。

※高橋氏文(たかはしうじぶみ):
日本の歴史書、古記録である。
宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。
しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。

天下春命は開墾の神として祀られる事が多い。

私が参拝した、天下春命を祭神とする神社
・東京都多摩市・小野神社
・東京都府中市・小野神社
・神奈川県厚木市・小野神社
・滋賀県長浜市木之本町・伊香具神社境内社

また、天下春命の7代目の知知夫彦が秩父国造りとして秩父を開拓、「秩父神社」の祭神として天思兼命と共に祀られています。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



川の博物館/「神になったオオカミ」展

20170814

所在地:埼玉県大里郡寄居町小園39

8月6日(日)に、表題の企画展に加え、「ニホンオオカミと三峰」という講演会があるので、訪ねました。

駐車場近くの入り口から入ると、巨大な水車に度肝を抜かれた。
170814kawa01.jpg


園内は広くて、川も流れている。向うに見えている円筒形の建物は、川の博物館の展望塔だ。
170814kawa02.jpg


川の博物館の近くには、水車が移築復元されていた。

東秩父村・精米水車
170814kawa03.jpg


皆野町・コンニャク水車
170814kawa04.jpg


川の博物館
170814kawa05.jpg


第1展示室は、広くて映像と様々な模型で川を利用した昔の暮らしの工夫を紹介している。
巨大スクリーンの映像の説明を生で学芸員の人が説明している。
170814kawa06.jpg


今回、「鉄砲堰」というものに関心を持った。

鉄砲堰は、川を利用した木材搬出方法のひとつで、源流域でも特に荒川支流の中津川で行われていた。
山間の∨字谷に堰を造って大量の水をため、人為的に鉄砲水を起こさせて材木を下流に流し送るというもの。
「鉄砲出し」とか「鉄砲流し」、あるいは単に「鉄砲」とも呼ばれていた。
谷が狭まり、両岸の岩が張り出して地盤のしっかりした場所に、大量の丸太で小さなダムを造る。
170814kawa07.jpg


丸太の透き間には水ごけや泥を詰めて、水がもれないようにしておく。中央部には水が流れ出る放出口を設ける。
170814kawa08.jpg


流す材木は、堰の下流にまとめて置いておき、堰に満々と水がたまるのを見計らい、ベラボウと呼ぶつつかい棒を動かすと、放出口をふさいでいたベライタがはずれ、水は轟音とともに一気に流れる。
この水流が数百本もの材木を押し流す。
こうして荒川本流まで流してから筏に組んで、江戸まで筏を運んで行くというもの。

狭山市でも、荒川支流の入間川で飯能からの筏を流していたので、その筏師が泊まった宿の存在がわかっている。

水車で臼を挽く木製歯車の構造も展示してあった。
170814kawa09.jpg


展望塔からの荒川方面の眺め。
170814kawa10.jpg


170814kawa11.jpg


170814kawa12.jpg


前述した水車が設置してあるところも見えた。
170814kawa13.jpg


博物館の屋上にこんなものを発見。
今は、こんなものがあるんですね。
170814kawa14.jpg



【神になったオオカミ展】
第2展示室で、「神になったオオカミ」展を開催。
170814kawa15.jpg


三峰神社、宝登山神社、武蔵御嶽神社では、いずれも日本武尊が甲斐から武蔵国に入ったときに山で迷うが、オオカミの先導で難を逃れたという伝承がある。

武蔵御嶽神社の奉納額
170814kawa16.jpg


前述三社では、オオカミが御眷属として信仰されている。
この三社は既に記事をアップしているので、それを見ていただければ、その様子はわかる。

三峰神社の記事を見る


宝登山神社の記事を見る
(奥宮の記事まで見てください)


武蔵御嶽神社の記事を見る



秩父地方では、オオカミの骨を、魔除け、お祓いに用いられていた。
170814kawa17.jpg


170814kawa18.jpg


前述の三社だけでなく、たくさんの神社から、火難防止、盗難防止、作物の災難防止のための護符が配られている。
170814kawa19.jpg


狭山市でも、玄関に貼ってあるとか、畑や田に立ててあるのを、けっこう見ることがある。

これは2016年3月に、北入曽の不老川近くの畑で撮ったもの。
170814kawa20.jpg


170814kawa21.jpg


オオカミの絵では、もともと好きな作家でもあり、河鍋暁斎が描いたものが良かった。
170814kawa22.jpg


秩父地方に伝わるオオカミ伝説が展示してあったが、なかなか面白かった。
その一つ、「のどに刺さった骨を抜いた話」を紹介しておく。
170814kawa23.jpg


 小前(現在の皆野町)というところに、駒井なにがしという強者がいました。
ある晩、この男が下吉田で用を済ませた帰り道、山中で1匹のオオカミに出くわしました。
そのオオカミは、大きくロを開き、「口の中を見てくれ」というように近寄ってくるのです。
男がよく見ると、のどに大きな骨が刺さっているのが見えたので、口の中に手を入れて骨を抜いてやりました。
数日たったある晩のこと、庭で「ドサッ!」と大きな音。
次の日、早起きして庭を見ると、大きなイノシシが投げ込まれていたのです。
「ははあ、これはこの間のオオカミからのお礼だな」
と家族を起こしたということです。
(山田英二著『秩父の民話と伝説』より)

13:30から、講演会を聴講した。

【講演会「ニホンオオカミと三峰」】
講師:秩父宮記念三峰山博物館 名誉館長山口民弥氏

〇三峰神社の紹介

〇オオカミ信仰
・三峰神社の「お犬様信仰」を確立したのは、江戸期の日光法印による。
・ニホンオオカミ=お犬様=山犬=大口真神(おおぐちまかみ)=御眷属様
・ニホンオオカミは「イヌ科」であり、人家への不審者や盗賊の侵入を防ぎ、火災の発生を知らせる本能を庶民は知っていた。
・農山村では田畑の作物を荒らす獣(猪など)を食し獣害被害から人間を守り、町では盗賊・火つけを防ぐ霊験の他、修験者が病気平癒・雨乞いなどの加持祈祷・薬学・天文学などで多くの信仰者を増やすとともに、オオカミを身近な存在とし、神の使いとあがめるようになった。

〇県外の三峰神社
有名なところでは、東京・浅草寺境内、岩手県の中尊寺境内などに、火難防止として三峰神社が祀られている。

〇ニホンオオカミの絶滅?
・明治時代初期までは、日本の山間部には多数のニホンオオカミが居た。
・絶滅の原因はタイリクオオカミが疫病神扱いされていた考えが導入されたこと、狂犬病などの伝染病、明治政府が銃の貸与・毒薬の支給などで駆除を積極的に奨励したなどによる。
・ニホンオオカミは、明治38年(1905)奈良県東吉野村で捕獲されたのが最後の例。これは、イギリスから派遣されたアメリカ人が買い取り、現在大英博物館にある。
・世界で7例目と8例目が個人から寄贈されて三峰神社博物館にある。
この写真に写っているのが、講師の山口氏
170814kawa24.jpg


・国内外で、残っているニホンオオカミの剥製・毛皮は、①国立科学博物館、②東京大学農学部、③和歌山大学、
④イギリス・大英自然史博物館、⑤オランダ・ライデン自然史博物館、⑥ドイツ・ベルリン自然史博物館、⑦⑧三峰神社博物館

〇今でも居る?
 秩父地方には、オオカミの遠吠えを聞いた、写真を撮ったなどの情報が今でもあり、秩父の人で家財を傾けてまでもニホンオオカミの姿を追い求めている人が居る。

〇ちなみに
タイリクオオカミであれば、現在、国内の11の動物園で飼育されている。
近い場所では、多摩動物公園に9頭飼育されている。
(日本に存在したのは、ニホンオオカミとエゾオオカミのみ)

(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



新宿・西向天神社の狛犬

20170812

所在地:東京都新宿区新宿6-21-1 西向天神社拝殿前
撮影日:2017年7月27日

都営大江戸線「東新宿」駅下車、A3出口から地上に出て「新宿イーストサイドスクエア」を抜けると、50mほどで到着した。
170812nishi01.jpg


この神社には、江戸時代の狛犬二組が居るが、そのうち古い方が拝殿前の狛犬である。
170812nishi02.jpg


年代:宝暦12年(1762)
材質:石造
型式:宝珠・角型

右側が阿形獅子、頭に宝珠を載せている。
170812nishi03.jpg


170812nishi04.jpg


170812nishi05.jpg


170812nishi06.jpg


170812nishi07.jpg


左側が吽形獅子、頭に角がある。
170812nishi08.jpg


170812nishi09.jpg


170812nishi10.jpg


170812nishi11.jpg


特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。宝珠を載せている。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、耳が垂れ、眉は巻き毛が横に並んで、その奥に目があり。
・歯は綺麗に並び、牙はかなり長く強調されている。顎髭は扇状に広がっている。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は立派で甲には巻き毛がある。
・前足の後ろに羽根上の毛が全体にある。
・後足は蹲踞。筋肉が強調されている。甲からずっと巻き毛が続いている。
・後肢の間の彫りは省略。
・尾は、タケノコ形の「尾立ち」。全体に巻き毛が覆っている。


耳が垂れ、眉は巻き毛が横に並んで、顎髭は扇状に広がっている。
歯は綺麗に並び、牙はかなり長く強調されている。
170812nishi12.jpg


前足は、太く真っ直ぐ。付け根の筋肉が強調されている。爪は立派で甲には巻き毛がある。
前足の後ろに羽根上の毛が全体にある。
170812nishi13.jpg


170812nishi14.jpg


尾は、タケノコ形の「尾立ち」。全体に巻き毛が覆っている。
170812nishi15.jpg


170812nishi16.jpg


後肢の間の彫りは省略。
170812nishi17.jpg


年代は、宝暦12年(1762)の奉納。
170812nishi18.jpg


宝珠が大きめで、角も太くて立派なのが、とてもいい。
たてがみや顎髭などはシンプル、足の巻き毛の表現が豊かで、筋肉の付け方もたくましく、顔がちょっと異形で親しみやすい狛犬である。



狛犬の記事一覧を見る



小野神社(延喜式内社)/神奈川県厚木市

20170811

鎮座地:神奈川県厚木市小野428
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社、比々多神社に続き、訪れました。

神社入り口
170811ono01.jpg


社号標
社格等:式内社(小)、郷社(旧社格)
170811ono02.jpg


創建・由緒:
 創建時期は不明ですが、『延書式神名帳』に「相模国十三座(式内社)の内、愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社です。この地域は古くから「小野の里」と呼ばれ、『和名類緊抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地になっていました。
霊亀2年(716)、奈良時代の高僧行基が薬師如来の像を刻んで小野神社に奉安したと社伝に伝えられています。
 鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り、御家人として将軍に仕え、弓の名手として名高く、愛甲村に舘を置く愛甲三郎季隆が当社を篤<信仰していました(季隆を筆頭に愛甲一族全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年(1194)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣元の名も残っています(以降、社殿は現在までに五国改められている)。
なお、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれています。
江戸時代末期に鎮座地の転社(移転)が行われ、また明治6年(1873)には郷社に列せられています。

愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか):
 弓の名手として知られる愛甲季隆は、武蔵七党横山党の一族で、愛甲庄に進出し一帯を領しました。宝積寺には、季隆の妻と伝わる五輪塔が残されています。
 季隆は、下河辺行平とともに弓の名手として、源頼朝の親衛隊として仕え、頼朝の子頼家の弓の師範としても活躍。建久4年(1193)に行われた富士裾野の巻狩りでは、頼家が鹿を射止め、季隆も褒美を得たといわれています。
 元久2年(1205)、北条時政に騙されて鎌倉へと向かう畠山重忠は、二俣川で幕府軍に襲われますが、このときに重忠を射倒したのが季隆だといわれています。
 建暦3年(1213)に起こった和田合戦で和田義盛に味方し、和田一族とともに討ち死にしました。

大江広元(おおえひろもと):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献しました。

転社について:
小野神社は元々、現在の場所より西南方向に200メートル程いったところにある丘陵(通称”神の山”)に位置していました。転社(移転)時期は嘉永年間(1848~1854)の初頭頃と考えられています。現在は丘陵は私有地となっていて、小野神社に代わって秋葉神社の小祠が鎮座しています。(この小祠自体は、小野神社の転社後に建てられたものと思われます)

小野神社由緒が石碑に書かれていた。
170811ono03.jpg


170811ono04.jpg


手水舎
手水鉢が岩を使用した立派なものだった。
170811ono05.jpg


鳥居
170811ono06.jpg


拝殿
拝殿は嘉永元年(1848)に造営された後、藁葺屋根でしたが、昭和43年には鉄板葺に替えられています。
170811ono07.jpg


170811ono08.jpg


扁額
170811ono09.jpg


 扁額に現在も残っている「閑香(かんこう・あいこう)大明神」は江戸時代に称していた名で、小野の「閑香さま」
と一般には呼ばれていました。
江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時の社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことがわかります。祭神が現在の日本武命となったのは、明治時代に入ってからで、「日本武尊が東国に遠征する際に野火の焼きうちにあった」という『古事記』の記述の地が、小野と関係するとされたことによります。

本殿
170811ono10.jpg


本殿の神門が新しかった。
170811ono11.jpg


本殿の床が高床になっている。
170811ono12.jpg


ご祭神は、日本武命、下春命(江戸時代まで)

下春命(したばるのみこと)=天下春命(あまのしたばるのみこと)
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
そのとき、警護のために天より<だされた三十二神のうちの一神。
武蔵の秩父国造らの祖。開墾の神として祀られる事が多く、多摩市の小野神社と府中市の小野神社などに祀られている。

境内社
八坂神社、春日神社、淡島神社、阿羅波婆枳(あらはばき)神社、古登比羅神社、稲荷神社
170811ono13.jpg


社名は、ちゃんと掲示されている。
170811ono14.jpg


境内に旧社標が置かれていた。
170811ono15.jpg


170811ono16.jpg


一緒に置かれているのは、旧石灯篭の一部。
170811ono17.jpg


神楽殿
ちょうど子供を連れたお母さんが通りかかったので聞いてみると、祭礼のときには他所から社中がやってきてお神楽を奉納しているとのこと。
170811ono18.jpg


これで、この日の巡拝予定をすべて終了。
帰途につきました。
もう一回残りを巡拝すれば、相模国の式内社巡拝は完了です。



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



吉備武彦(きびのたけひこ)・御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)

20170809

『日本書紀』に吉備武彦、『古事記』に御鉏友耳建日子が登場する。

『日本書紀』景行天皇40年7月16日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。そののち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたという。

一方、『古事記』景行天皇巻では、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたことが記されている。

『古事記』の「景行天皇」の巻、「倭建命の東国征討」の段
(現代語訳)
 そこで天皇は、また重ねて倭建命に仰せられるには、「東方十二カ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し従わせよ」と命じて、吉備臣等の祖先の、名は御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)という人を副えて遣わされる時、柊の長い矛を授けられた。
 それで、勅命を受けて東国に下って行かれるとき、伊勢の大神宮に参って、神殿を礼拝し、やがてその叔母の倭比賣(ヤマトヒメノ)命に申されるには、「天皇は、まったくわたしを死んでしまえばよい、と思っておられるからでしょうか、どうして、西の方の悪い人々を討ちに遣わして、都に返り上って来てから、まだ幾らも時が経っていないのに、兵士らも下さらないで、今度は更に東国十二カ国の悪者どもの平定にお遣わしなさるのでしょう。これによって考えますと、やはり私などはまったく死んでしまえ、と天皇はお考えになっておられるのです」と申されて、嘆き泣き悲しんで出で立たれるとき、倭比賣命は草薙剣をお授けになり、また袋をもお授けになって、「もしも火急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」 と仰せになった。
(以下省略)

吉備武彦と、御鉏友耳建日子が同一人物かという点については、御鉏友耳建日子について『古事記』で吉備臣等の祖先と断っていることから、可能性は高いと思われる。

吉備武彦の出自について『日本書紀』に記載はない。『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条・『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、子として浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が記されている。

また『新撰姓氏録』右京皇別 廬原公条では、景行天皇の時に稚武彦命の孫の「吉備建彦命」は東方に派遣され、毛人を討って「阿倍廬原国」に到ったのち、天皇に復命した日に廬原国を賜ったとする。

ここで、倭建命自身が吉備下道臣の女性を母に持っていることに注目したい。
『古事記』で、12代景行天皇が、吉備臣等の始祖若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)を娶って5名の皇子が生まれ、その3番目が倭建命だと記している。
ここに登場する吉備臣等の始祖若建吉備津日子は、『古事記』の「孝霊記」に、「若建日子吉備津日子命は吉備の下道臣と笠臣の始祖」とある、若建日子吉備津日子命と同じ人物であると解釈してよいと思われる。

この御鉏友耳建日子、あるいは吉備武彦が吉備下道臣の一族かということについては、「吉備臣らの祖」とあるだけなので断言はできないが、その可能性は高い。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



入間川沿いウォーキング

20170808

台風が昨夜日本海のほうに抜けて、朝起きたら雨が上がっていたので、朝食後入間川沿いに歩いた。

高校の辺で、入間川が分流して、一部が手前に流れてきている。
いつもは水量が少ないのだが、さすがに今日は多い。
170808iruma01.jpg


170808iruma02.jpg


いばらく、こちらの岸沿いに流れて、また本流に戻る。
170808iruma03.jpg


170808iruma04.jpg


合流地点に、たくさんの白鷺などが居たので、休憩を兼ねて撮った。

これは「カワウ」
170808iruma05.jpg


170808iruma06.jpg


左側の岸に白いのと灰色のサギが。
170808iruma07.jpg


170808iruma08.jpg


その向こうの方にも、色々な鳥が居る。
170808iruma09.jpg


右側の岸には、けっこう沢山の白鷺が居る。
子供も混じっているようだ。
170808iruma10.jpg


170808iruma11.jpg


170808iruma12.jpg


170808iruma13.jpg


170808iruma14.jpg


170808iruma15.jpg


170808iruma16.jpg


ウォーキングから戻る途中、サイクリングロードの、高校のフェンス沿いにたくさん花が咲いていて撮った。
調べたら、「悪茄子(ワルナスビ)」だった。
雑草で、嫌われ者らしい(笑)
だが、綺麗だったので、載せておきます(笑)
170808iruma17.jpg


170808iruma18.jpg


170808iruma19.jpg


170808iruma20.jpg


170808iruma21.jpg


170808iruma22.jpg



(了)


王子稲荷神社の狛犬

20170806

所在地:東京都北区岸町 王子稲荷神社正面参道
撮影日:2013年7月3日

この狛犬は、王子稲荷神社の正面参道の石段を上がったところにある。
ところが、この正面参道は現在保育園の敷地内にあるので、平日は入ることが出来ない。

王子稲荷神社については、既に記事にしてあります。

その記事を見る


事前に調べてそのことがわかったので、出来れば境内社全部に参拝したいと日曜に出掛けました。

王子稲荷の下の角まで来ると、こういう案内があります。
ウィークディは、正門から入れないので、こっちの坂を上がって脇から入ってください、ということです。
170805ouji01.jpg


この日は日曜なので、正門が開いていて、正門から入れます。
170805ouji02.jpg


入ると、正門からの参道が幼稚園の敷地内だということがよくわかります。
鳥居の石段を上がりきると、拝殿前です。
平日は石段最上部の門が閉じていて、拝殿側からこの石段を降りられないようになっています。
170805ouji03.jpg


年代:宝暦11年(1761)造立、文化9年(1812)再建
材質:石造
型式:宝珠・角型

正面参道の石段を上がったところに居ます。
170805ouji04.jpg


王子稲荷神社拝殿
170805ouji05.jpg


右側が、阿形獅子で頭に宝珠を載せている。
170805ouji06.jpg


狛犬のすぐ外側に柵があり撮れないので、社殿側から側面は撮った。
170805ouji07.jpg


斜め後ろから。
170805ouji08.jpg


阿形の、正面からの顔
170805ouji09.jpg


左側が、吽形獅子で頭に角があり。
170805ouji10.jpg


同様に社殿側から。
170805ouji11.jpg


吽形の、正面からの顔
170805ouji12.jpg


特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・たてがみ、顎髭が長く流れて、江戸狛犬の特徴が良く出ている。
・顔は、耳が横に広がり、眉にも巻き毛があるほど極端に長くかぶさり、眼がわからないほど。
・歯や牙も丁寧に彫られ、顎髭にも巻き毛があるほどかなり大きく目立つ。
・いかめしい顔が笑っているような表現で、親しみを感じる。
・前足は、太く真っ直ぐ。爪が大きく迫力がある。脇に巻き毛の表現
・後足は蹲踞。筋肉の表現がありたくましく、爪が大きくて迫力がある。
・尾は、中央の巻き毛が上に立っていき、脇にもかなり流れている。「尾立ち」から「流れ尾」に移行段階の表現ともいえる。

たてがみ、顎髭が長く流れて、江戸狛犬の特徴が良く出ている。
170805ouji13.jpg


前足は、太く真っ直ぐ。爪が大きく迫力がある。脇に巻き毛の表現
後足は蹲踞。筋肉の表現がありたくましく、爪が大きくて迫力がある。
170805ouji14.jpg


尾は、中央の巻き毛が上に立っていき、脇にもかなり流れている。「尾立ち」から「流れ尾」に移行段階の表現ともいえる。
170805ouji15.jpg


170805ouji16.jpg


文化9年(1812)に再建したときのものだろうが、台座の彫刻が秀逸。
170805ouji17.jpg


宝珠が大きめで、角も太くて立派なのが、とてもいい。
たてがみや顎髭など、毛の表現が豊かで、実に江戸狛犬らしい見事な出来である。



狛犬の記事一覧を見る



比々多神社(延喜式内論社)/神奈川県伊勢原市

20170804

鎮座地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1472
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社に続き、訪れました。

伊勢原市のガイドマップから概略の場所
170804hibita01.jpg


近くの駐車場でバスを降り、神社の入り口に。
170804hibita02.jpg


社号標
社格等:相模国三宮、式内社(小)、郷社(旧社格)
170804hibita03.jpg


『延書式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが後述のように論社も存在する。

・相模国三の宮の社格を持つ神社。大磯町国府本郷で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、大磯で行われる国府祭の座問答では、一の宮寒川神社、二の宮川勾神社の首座 争いを「いずれ明年まで」と収める役となっている。所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。

・境内地や近隣地からは古代祭祀の遺構と考えられるものが発掘され、歴史は縄文時代にまでさかのぼるのではないかと云われている。
社殿裏には東名高速道路工事の際に出土した配石遺構が復元移設されている。境内には郷土博物館もあり、様々な出土品や社宝が展示されている。毎年5月第3土、日曜日の「まが玉祭」の際には終日無料開館される。

・4月22日の例祭には、「イヤートーサッセ(「弥遠に栄えたまへ」の意とのこと)」の掛け声と共に神輿が渡御し、三基のカラクリ人形山車の巡幸もあり、境内は熱気を帯びる。当社の神輿渡御は縦横無尽の暴れである。

・神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。『比々多神社参拝の栞』
・崇神天皇7年(紀元前91年)に神地神戸を寄せられ、垂仁天皇27年(紀元前3年)8月には神祇官が詔を受け弓矢を奉幣している(『比比多伝記』)
・大化元年(645年)大酒解神と小酒解神の2柱を合祀し、その際「鶉瓶」(うずらみか)と呼ばれる須恵器が納められたのだと言う。(『比々多神社参拝の莱』)
・持統天皇6年(692年)に国司布施朝臣色布智(ふせのあそんしこふち)が社殿を修復すると共に木彫り狛犬1対を奉納している。(『比々多神社参拝の栞』)
・天平15年(743年)武内宿禰の裔孫である紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎えると共に、聖武天皇より荘園を賜った。
・天長9年(832年)には国司の橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を淳和天皇より賜ったとされる(『比々多神社参拝の栞』)
・元暦元年(1184年)源頼朝が大規模な社殿再建を行い、文治元年(1185年)には天下泰平祈願の御願書を奉っている。
・また、『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「三宮冠大明神」に祈願し、神馬が奉納されたとある。明応年間頃(1492年・1501年)に兵火により社額を失い、社人供僧も離散して大きく衰微したのだと言う。神戸村の名称は往古に封戸であった遺名であると言われる。さらに同書によれば、天正年間(1573年・1593年)の初めに社地を埼免(らちめん)から現在地に移し、小社を建てて遷座したのだと言う。
(『新編相模国風土記稿巻之50』)
・天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社額10石が寄進された。『新編相模国風土記稿巻之50』短】では、これにより当社はようやく復興を見たと述べている。その後も歴代の将軍より寄進を受け、明治に至っている。
・明治6年(1873年)に郷社に定められて16ケ村の総鎮守となり、明治41年(1908年)には神僕幣南供進神社に指定された。現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。

論社について:
 『延書式神名帳』記載の比比多神社とされるが『新編相模国風土記稿巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられているのだと言う。同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この諸に証拠は無く、さらに当社も子易明神社も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断はし難いと述べている。
『日本の神々-神社と聖地・11関東』では、当地が古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、史伝では国府所在時の総社であったとされること、また江戸時代に子易
明神土と当社に下された朱印状の内容から見て、当社が式内社「比比多神社」であろうと考察している。

境内図
170804hibita04.jpg


鳥居をくぐる。
170804hibita05.jpg


手水舎
170804hibita06.jpg


目力のある狛犬です。
170804hibita07.jpg


170804hibita08.jpg


右の狛犬の後ろには、立派なご神木が。
170804hibita09.jpg


170804hibita10.jpg


石段を上がると、左に鐘楼があり。
かっては、染屋太郎大夫時忠を祀ったと言う銘文入りの梵鐘があったが、太平洋戦争の最中、金属資源回収の戦時供出により失われた。現在ある梵鐘は昭和25年(1950年)に作製されたものである。
170804hibita11.jpg


170804hibita12.jpg



参道の左右に、紫陽花の花があった。
170804hibita13.jpg


170804hibita14.jpg


ここにも、ご神木があり。
170804hibita15.jpg


170804hibita16.jpg


拝殿前に至る。
170804hibita17.jpg


拝殿前に、干支の酉の像が置かれていた。
干支が描かれた大きな絵馬は珍しくないが、干支の像が置かれているのは珍しい。
170804hibita18.jpg


拝殿
170804hibita19.jpg


鈴の沢山付いた鈴緒であった。
170804hibita20.jpg


火消しの人達が奉納した社額
170804hibita21.jpg


社額
170804hibita22.jpg


拝殿の内部
170804hibita23.jpg


本殿の覆い屋
本殿の様式は、三間社流造とのこと。
170804hibita24.jpg


本殿の覆い屋は、しっかり石垣を組んだ高い地面に建てられている。
170804hibita25.jpg


ご祭神:
主祭神、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)、天明王命(アメノアカルタマノミコト)、雅日女尊(ワカヒルメノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の4柱。
相殿神は、大酒解神(オオサカトケノカミ=大山祇神)、小酒解神(コサカトケノカミ=木花咲耶姫)

神紋は、「右三つ巴」、「丸に三つ引き両」、「十六弁八重菊」、「五三の桐」
170804hibita26.jpg


170804hibita27.jpg


境内末社
神明、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。
170804hibita28.jpg


末社・金比羅社
170804hibita29.jpg


「成長のはかり」というのがあった。
170804hibita30.jpg


〇三宮郷土博物館
170804hibita31.jpg


170804hibita32.jpg


170804hibita33.jpg


残念ながら、時間の関係で博物館には寄れなかった。

ここで、「狛犬一対(伊勢原市重要文化財)について触れておきたい。
第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納された、とある。
関東最古の狛犬ともいわれている。
692年が確かなら、まず国の重要文化財である。
そうでないのは、伝承のみで証明が出来ていないのか、風化してしまい外観に問題があるのか。
この日は、時間が無くて見ることはかなわなかったが、再訪して確かめたい。


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



日河比売命(ひかわひめのみこと)

20170803

『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。

須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神である。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「須佐之男命の神裔」の段
(現代語訳)
 そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。

日河比売(ひかわひめ)は水神であり龍神である淤迦美神(おかみのかみ)の娘で、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)の妻。深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生んだ。

親である淤迦美神(おかみのかみ)が水神で、その娘が「日河比売(ひかわひめ)」。
「ひかわ」は島根県の斐伊川のことだと思われます。
斐伊川は、武蔵国の氷川神社の「ひかわ」ともつながりがあります。

大宮の氷川神社のご祭神は、須佐之男命、稻田姫命、大己貴命であるが、鎮座している地形から、もともとは水神を祀った神社であることは間違いがない。
農耕の神とされる須佐之男命や大己貴命でも良いのだが、「氷川神社」の名前からは、「日河比売」が祭神であってもおかしくはない。

「ひかわ」という言葉は(本来は)特定の土地の川の名前というわけではなく、「太陽の恵みを受けた」とか、そういう概念的な名前ではないかと思います。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



花園神社の狛犬

20170801

所在地:東京都新宿区新宿5丁目17−3 花園神社・ゴールデン街側鳥居の前
撮影日:2017年7月27日

新宿の花園神社には、三組の狛犬と狛狐(江戸時代)が居ますが、一番古いのがこのゴールデン街側鳥居の前にある狛犬です。

年代:延享2年(1745)
材質:石造
型式:はじめ型(尾立ち)

花園神社拝殿
170801hana01.jpg


ゴールデン街側入り口から石段を上がった鳥居の前にあります。
170801hana02.jpg


右側が阿形の獅子
170801hana03.jpg


170801hana04.jpg


170801hana05.jpg


170801hana06.jpg


左側も吽形の獅子
170801hana07.jpg


170801hana08.jpg


170801hana09.jpg


特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・顔は、ギョロ目、耳は垂れ、口は大きく、牙が目立ち、顎髭がかなり大きく目立つ。
・いかつい顔だが、表情はユーモラス。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。脇に巻き毛の表現
・後足は蹲踞。
・尾は、立っていて、たけのこ型で脇に巻き毛あり。

はじめ型の特徴で、あまり毛の表現は無いが、肩や膝、そして首もとの部分に渦巻きのような模様が彫られている。
170801hana10.jpg


170801hana11.jpg


170801hana12.jpg


これもはじめ型の特徴だが、後肢の間が彫られていない。
170801hana13.jpg


はじめ型はたいてい、尾は付き尾だが、この狛犬は尾が立っていて、たけのこ型で脇に巻き毛あり。
170801hana14.jpg


170801hana15.jpg



江戸中期のものでもあり、後頭部や後脚などがかなり破損していましたが、なかなか貴重な狛犬です。
いわゆるはじめ狛犬の分類に入るが、尾が立っているのは、江戸狛犬への推移型といえる。
愛嬌があって、とてもいい。



狛犬の記事一覧を見る



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop