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青面金剛庚申塔/狭山市上赤坂

20170929

所在地:埼玉県狭山市上赤坂M氏宅前

ここには、色々な石仏が並んでおり、その中の一つが今回の庚申塔。
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庚申塔
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫 瑞雲
主尊の特徴:一面六臂、頭蛇
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:左向一邪鬼、ニ鶏、三猿
造立年代:元禄8年(1695)

銘文詳細
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日月は、浮彫、瑞雲
風化が激しく、何とか判る程度。
青面金剛の頭には、はっきりと蛇が。
『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容に蛇は登場しており、採用されたのは水神のお使いである蛇を尊んでいたからであろう。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、風化が激しいが、何とか、法輪、弓、矢、三叉矛であることが判別できる。
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左向きの、一邪鬼を踏んでいる。
両側の鶏は、風化が激しく薄っすらとなんとか判別できた。
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三猿であることは判るが、風化が激しく、顔などよくわからない。
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(了)


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道主日女命(みちぬしひめのみこと)/日本の神々の話

20170928

「播磨国(はりまのくに)風土記」にみえる神。

私がこの神のことを知ったのは、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかで、兵庫県多可郡多可町の式内社荒田神社の伝承について紹介していたからである。

その伝承は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に登場する。
その土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだ。
父親を知るために占いにつかう酒をつくり、神々をあつめ、その子に父とおもう神に酒をささげさせた。
子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)についだことから天目一箇神が子の父であるとわかったというもの。
この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表していると考えられている。

天目一箇神:
『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。

鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。

天目一箇神は製鉄の神とされています。

一方、『先代旧辞本紀』や丹後の籠神社の社家である海部氏に伝わる『海部氏勘注系図』では、道主日女は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻としている伝承もあります。

天目一箇神は製鉄の神という重要な神なので、その妻神である道主日女命も、色々なところに顔を出しているようです。

現在、道主日女命を祀る神社には巡り合えていませんが、
兵庫県多可郡多可町の式内社荒田神社の伝承では、当初は天目一箇命と道主日女命を祀っていたとのことです。


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阿彌神社の狛犬

20170927

所在地:茨城県稲敷郡阿見町竹来1366 阿彌神社拝殿前
撮影日:2014年6月27日

ここには、常陸国の式内社を巡拝していたときに参拝しました。
阿彌神社については、記事があります。

その記事を見る


年代:安永6年(1777)
材質:石造
型式:宝珠・角型

拝殿前に、その狛犬は居ます。
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これは最初からなのか、途中からそうなったのか不明だが、阿吽の位置が通常と反対となっている。

右が、通常と異なり吽形獅子。頭頂には角があったと思われる痕跡あり。
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左が阿形獅子。頭に宝珠を載せている。
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特徴:
・阿吽の位置が通常と反対となっている。
・右は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に角があったと思われる痕跡あり。
・左は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に宝珠を載せている。
・耳は大きく、垂れている。口は大きく半開き、顎髭は短く垂れている。
・牙は見当たらない。いかつい顔だが、愛嬌のある表情。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。全長にわたり炎のような毛が立って、付け根に巻き毛。
・後足は蹲踞。脚の間は彫られていない。脚に腹の毛が覆いかぶさっている。
・尾は、立っていて、タケノコ型。巻き毛は見当たらない。


吽形の頭に角があったと思われる痕跡あり。
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前足は、前方に出して真っ直ぐ。全長にわたり炎のような毛が立って、付け根に巻き毛。
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後足は蹲踞。脚の間は彫られていない。脚に腹の毛が覆いかぶさっている。
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尾は、立っていて、タケノコ型。巻き毛は見当たらない。
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巾着田・曼殊沙華まつり

20170926

9月22日(金)に、歴史クラブ行事「巾着田曼殊沙華まつり」に参加しました。

歴史クラブの行事ゆえ、巾着田だけでなく、周辺の史跡もめぐりました。
コースは、西武線高麗駅⇒高麗村石器時代住居跡⇒台の高札場跡⇒水天の碑⇒巾着田「曼珠沙華」鑑賞⇒あいあい橋⇒高麗郷民俗資料館⇒高麗郷古民家(旧新井家住宅)⇒高麗駅
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西武線高麗駅を降り立ちました。
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ガードをくぐって反対側へ
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【高麗村石器時代住居跡】
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時期が異なる2軒の住居跡の一部が重なっている。
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【台の高札場跡】
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復元された高札は、正徳元年(1711)発行の切支丹禁制についてのもの。
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【水天の碑】
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この辺は、栗の畑が多く、はじけて食べごろになっている。
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高麗川、遠くに曼殊沙華の咲いているのがわかる。
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いよいよ、巾着田の曼殊沙華群生地に入ります。

【巾着田の曼殊沙華群生地】
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高麗川の土手沿いに進む。
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出入り口から中に入ると、一面に曼殊沙華が咲いている。
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カメラマンがしきりに上を向いて撮っていたので気が付いたが、マユミの葉の緑と白のコントラストが綺麗だったので撮った。
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昼食時になったので、持参した弁当を河原で食べることにして、ドレミファ橋に通じる場所から河原に下りた。

ドレミファ橋
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弁当を食べ終わって、集合時間にはまだ大分時間があるので、河原で石を拾った。
普段入間川沿いにウォーキンクすることが多いが、いつしか河原に下りて石を拾うのが楽しみになった。
色の綺麗な石を拾うのだ。
その時の気分によって、拾いたい色が違うのも、面白い。
あまり重くならないように、小さくてきれいな石を拾った。
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集合時間が近づいたので、あいあい橋に向かって歩いた。
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あいあい橋
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あいあい橋からの眺め
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【高麗郷民俗資料館】
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高林謙三氏の製茶機
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私が子供だった頃に身近だった農作業の道具が沢山展示されていた。
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機織り機や部品
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蚕養神社の神像
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私は信州で育ったので、新鮮なものもあった。

盆棚
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毎年葺き替えるお宮
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【高麗郷古民家(旧新井家住宅)】
 新井家の古文書から、江戸時代末の文化、文政、天保は高麗本郷村の名主を務めていたことが分かっています。
明治時代になると地域の行政事務の責任者として戸長を置きました。戸長はかつての庄屋・名主層などから選出される場合が多〈ありました。新井家も戸長を務め、後に高麗村の村長も務めました。
 新井家は名主、戸長、村長として地域の政治を担った歴史があります。

白い壁の大きな家なので、遠くから旧家であることがわかる。
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国指定の文化財です。
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敷地配置図
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巨大な母屋。二階は養蚕をするようになっている。
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母屋とL字形に繋がる客殿
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客殿玄関の唐破風の破風木目が龍になっている。
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母屋の一番奥に一する「出居」
出居とは、平安時代、寝殿造りに設けられた居間と来客接待用の部屋とを兼ねたものを言った。のち、客間を言う。
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台所の囲炉裏と:煙出し
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以上で、予定のコースが終了。
高麗駅に向かい、適宜山里の特産物の買い物を楽しみながら、帰途につきました。

(了)


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三猿庚申塔/狭山市・青柳下浅間神社

20170925

所在地:埼玉県狭山市青柳974の2

現在は「青柳下・富士浅間神社」という富士塚に置かれていますが、もとは川越狭山工業団地となった山の中にあったものだそうです。

「青柳下・富士浅間神社」
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その山腹に、色々な石仏が並んでおり、その中の一つが今回の庚申塔。
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塔身:駒形
主尊:三猿
日月:筋彫、瑞雲付き
造立年代:元禄5年(1692)

塔身は駒形で、真ん中よりやや下に主尊の三猿が彫られている。
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銘文詳細
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日月は、浮き彫りにした瑞雲らしきものに筋彫で刻まれている。
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三猿は、風化が激しく顔など分からなくなっているが、「見ざる聞かざる言わざる」の様子は判る。
特徴としては、両脇の猿が横向きになっている。
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(了)



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日子坐王(ひこいますのみこ)/日本の神々の話

20170924

記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
彦坐命、彦坐王、彦今簀命とも云われる。
開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。
崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたる。

彦坐王を中心にした系図は以下のようになる。
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この系図において、彦坐王と大闇見戸売との間に出来た「沙本毘売」が垂仁天皇の皇后となり、景行天皇、神功皇后に繋がる。

『古事記』の「崇神天皇」の巻、「建波邇安王の反逆」の段によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとある。

稗史によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。
先に挙げた系図を見ると、とにかく子孫が多く、広範に広がったことはうなずける。

時代は下るが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいる。

私はまだ参拝していないが、下記の神社で祀られている。
式内社・日部神社(大阪府堺市西区草部)
式内社・伊波乃西神社(岐阜県岐阜市岩田西3丁目421)
同社の近くには日子坐命の墓(宮内庁が管理)とされる巨岩があるそうである。



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吾嬬神社の狛犬

20170923

所在地:東京都墨田区立花1-1-15 吾嬬神社本殿前
撮影日:2017年9月10日

吾嬬神社については既に記事にしている。

その記事を見る


本殿が、わりと大きな石祠であり、その前に居る。
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瑞垣によって隔たれており、近づくことが出来ないので、限られた方向からしか見ることが出来ない。
しかも、この日は天気が良すぎて拝殿や樹木の影により明暗がきつくて、良く撮れてはいない。
曇りの日に撮影し直す必要あり。

年代:安永2年(1773)
材質:石造
型式:宝珠・角型


右は、阿形獅子。頭に宝珠を載せている。
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左は、吽形獅子。頭に角あり。
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横、背後からは棕櫚の葉が邪魔して見えない。
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ネットから拝借した。
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頭には立派な角あり。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に宝珠を載せている。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。頭に角あり。
・耳は垂れ、口は大きく、顎髭は短く垂れ、一部が巻き毛。
・牙が目立ち、いかつい顔だが、愛嬌のある表情。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。肘に翼のような巻き毛の表現
・後足は蹲踞。ツブツブとした綿毛が目立つ。
・尾は、立っていて、タケノコ型で巻き毛あり。


たてがみが巻き毛で獅子。頭に宝珠を載せている。
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前足は、前方に出して真っ直ぐ。肘に翼のような巻き毛の表現。
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尾は、立っていて、タケノコ型で巻き毛あり。
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小型なことと、表情に愛嬌があり、親しみやすい狛犬。
角が身体に比較して非常に立派であり、貴重な存在だ。



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麦屋まつり/富山県南砺市城端

20170921

所用があり、16日から18日まで家族で北陸に帰っていました。
16日は富山県南砺市福光で用事を済ませ、その後ちょうどこの日は城端で「麦屋まつり」があったので、楽しみました。
平家落人部落として有名なのが「白川郷」と「五箇山」です。
隣接していて、岐阜県側が「白川郷」、富山県側が「五箇山」となります。

約800年前、権勢と栄華を極めた平家一門は屋島・壇の浦の合戦に敗れてついに滅亡。日本各所へ落ちのびた平氏の中に、人里離れた越中五箇山を安住の地とした人々がいました。慣れない山仕事や農作業の合間に落人たちが都を偲んで唄い踊ったのが麦屋節の始まりだと言われています。 哀調を帯びた旋律にのせて描かれる落人たちの切なる心模様。凛とした気概を映し出す風格ある舞い。その独特の魅力は富山県を代表する祭として、人々の心を魅了しつづけています。

「五箇山」の麓にあるのが城端(じょうはな)町で、この日は五箇山と城端でそれぞれ「麦屋まつり」があります。

何か所かに会場が設けられていましたが、私たちは「城端別院善徳寺会場」と「浄念寺会場」で楽しみました。
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【城端別院善徳寺会場】
善徳寺は、浄土真宗大谷派の別院です。

踊りは、本堂の回廊で奉納されます。
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●麦屋節/善徳寺
この唄の歌詞には、平家の落人であることが唄いこまれています。

主な歌詞:
麦や菜種は二年で刈るが
麻が刈らりょか 半土用に

浪の屋島を遠くのがれ来て
薪(たきぎ)こるてふ 深山辺(みやまべ)に

烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)脱ぎうちすてて
今は越路(こしじ)の杣刀(そまがたな)

心淋しや落ち行くみちは
川の鳴瀬と鹿の声

川の鳴瀬に布機たてて
波に織らせて岩に着しょう

鮎は瀬につく鳥は木に止まる
人は情の下に住む

麦屋踊りを動画で撮りました。

その動画を見る


●古代神(こだいじん)/善徳寺
 「古代神」は五箇山三村で、麦屋節についで重要なレパートリーで、飛騨白川郷でも盛んに歌われている。「小大臣」ともいわれ越後の「新保広大寺」の系統をひき、江戸時代中期に五箇山に入り明治の頃には製紙の作業歌として歌われ軽妙な楽しい歌です。

主な歌詞:
○家のサーエ 小娘ふじゃけたじゃけた 赤い襷を ちょいちょいかけて
背戸の小川へ 朝水汲みに 船の船頭さんに 晒三尺もろた
  何に染めよかと 紺屋の兄さんに問えば  一に朝顔 二に杜若
 三に下がり藤 四に獅子牡丹 五つ伊山の千本桜 六つ紫 桔梗に染めて
  七つ南天 八つ八重桜 九つ小梅を ちらしに染めて
  十で殿御の 好きなように染めやしゃんせ サーエ

○おらちゃサーエ お背戸に山椒の木がござる そのマ山椒の木に 蜂が巣をかけた
  蜂も蜂かよ 足長蜂じゃ 羽が四枚あって 足が六本ござる
  そのマ蜂めは 尻に剣もござる わしとお駒が 御拝の縁で
  心中話をしておりますと そこへ蜂めが パーッと来て チクリ刺す
  ツーッと来ちゃ チクリ刺す
  わしもそのときゃ 死ぬかやと思うた サ-エ

動画を撮ってきてアップしましたが、二つの地域の踊りを繋げてあります。
地域に寄って踊りが違うのを楽しんでください。

その動画を見る


●といちんさ節/善徳寺
「といちんさ」は、五箇山地方に生息する日本一小さい鳥「みそさざい」をこの地方では「サイチン」と云い、水屋の樋(とい)のそばで遊んでいる様子を「トイのサイチン」と言っていたものが詰まって「といちんさ」となりました。春を告げるサイチンの歯切れの良い鳴き声や軽やかな動きが唄のテンポや明るさにも現れています。


歌詞:
樋のサイチン機(はた)織る音に
ア トイチン トイチン トイチンサー
ヤーサレーチ トチレチ トイチンサ トイチンサ
拍子そろえてサーサうたいだす
ア やれかけはやせよ トイチンサ トイチンレチヤサレチ

わしがナー 若いときゃ 五尺の袖で
道のナ 小草も サーサなびかせた

鳥がナーうたえば
早や夜も明けて
紙屋ナーのぞきの
サーサー窓もはる

声はナーかれても
まだ木(気)は枯れぬ
藤のナー花咲く
サーサほととぎす

来いナーと言われて
手で招かれず
笹のナー五笹(いささ)の
サーサ葉で招く


動画は、「といちんさ」を少女たちが踊ったのを撮りました。

その動画を見る



【浄念寺会場】
続いて、浄念寺会場に移動して見ました。
小雨が降りだしていて、囃し手はお堂の屋根の下で、踊り手さんは小雨の中濡れて踊っていました。
会場は坂の途中で、私たちは坂の上のほうから見下ろす形で見ていました。
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●麦屋節/浄念寺会場

その動画を見る


●古代神・四つ竹節/善徳寺
「四ツ竹節」は五箇山地方に伝承されている盆踊り唄。
この唄が「四ツ竹節」と呼ばれて歌われるようになったのは昭和30年頃からで、それまでは「島心中」の名で歌われていた長編の口説きでした。
昭和30年頃平村に転勤してきた教員が歌詞を作り「島心中」のメロディで歌うようになってから広がりました。
伴奏楽器には『四つ竹』が入ることから「四つ竹節」となったといいます。

主な歌詞:
<なげ節>
○牛と主との 心の通い 手綱便りに 道語る
○牛は六歳七ツが盛り 人は二十一、二が盛り  <ハイ トッパメー>

<追分>
○五斗俵かづいてもイナ 道若杉ぬイナ (ハ オッソコソコソコ)
  男伊達なら 二俵かづくイナ (ハ オッソコソコソコ)      (以下、唄ばやし同様)
○五斗俵二俵はイナ 及びもないがイナ  せめて楮(こうぞ)の いわごいをイナ
○姿見えねどイナ 朝霧ついてイナ 唄は追分 鈴の音イナ
○朴峠(ぼとうげ)追分イナ 身の毛もよだつイナ  下は谷底 人喰らいイナ
○牛の二俵はイナ 鈴の音高いイナ 追うは無駄ごと ひかれづめイナ
○高い山からイナ 谷底見ればイナ 瓜や茄子の 花盛イナ 

その動画を見る



その後、「じゃんとこい・むぎや」(よさこい)を見ようと会場に向かいましたが、残念ながら雨のため中止となった直後でした。
一時間半くらい、麦屋踊りを中心に見られたので、満足してホテルに向かいました。

(了)


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仁徳天皇(にんとくてんのう)・大雀命(おほさざきのみこと)/日本の神々の話

20170920

日本の第16代天皇
応神天皇の第4皇子。母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。

名は、『古事記』では大雀命(おほさざきのみこと)、『日本書紀』では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝、『万葉集』で難波天皇。

応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。

難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

『古事記』の「仁徳天皇」の巻、「聖帝の世」の段
 (現代語訳)
 さて仁徳天皇が、高い山に登って四方の国土を見て仰せられるには、「国じゅうに炊煙が立っていない。国民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、国民の調と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。そのために、宮殿は破損して、全部雨漏りがするようになったが、天皇はいっさい修理をなさらず、器でその漏る雨を受けて、雨漏りのしない所に移ってお避けになった。その後、国内をごらんになったところ、国内に炊煙が満ちていた。それで、国民が豊かになったことを知って、もうよかろうと調と夫役を課せられたのである。こういうわけで、人民は繁栄して、夫役に苦しむことはなかった。それでその御世を着えて、聖の帝の御世と申すのである。


ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。

日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。

即位後は、都をそれまでの大和、または大隅宮から難波に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。この地は上町台地であり、神武天皇の生国魂神社や仁徳天皇の祖母である神功皇后が創建した住吉大社、また、四天王寺も存在する場であることから宮をこの地に移したのは何らかの意味があるのではないか、と言う声もある。

宮址については、江戸の頃より諸説ある。現在の高津宮址の碑は、明治33年(1899年)に難波神社と高津神社において執り行われた仁徳天皇千五百年大祭を祝して設置され、その後に移設されたものである。

業績:
『日本書紀』には、次の事績が記されている。
1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
6.紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

また、古事記には、次のとおり記されている。
この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。

陵・霊廟
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵
(大阪府堺市)

仁徳天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は大仙陵古墳(大仙古墳/大山古墳とも、前方後円墳、墳丘長486m)。

私が今まで参拝した、仁徳天皇を祀った神社:
常盤木神社 東京都青梅市今寺1-530
姉埼神社 千葉県市原市姉崎2278
寒川神社境内若宮八幡社 神奈川県高座郡寒川町宮山3916
氷室神社 奈良県奈良市春日野町1−4



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三猿庚申塔/狭山市・堀兼神社-2

20170915

所在地:埼玉県狭山市大字堀兼 堀兼神社

前回狭山市の庚申塔のうち三猿庚申塔で一番古いものを取あげましたが、それに続く古いものが、同じ堀兼神社境内にあります。

堀兼神社
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その境内に石仏が並んでおり、向かって右から二番目にあるのが今回の庚申塔。
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塔身:駒形
主尊:三猿
日月:浮彫、瑞雲付き
造立年代:延宝5年(1677)

塔身は駒形で、真ん中に主尊の三猿が彫られている。
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銘文詳細
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日月は、同じ場所にあるもっと古い寛文9年(1669)のものが単なる筋彫なのに対して、今回のものは浮き彫りになり瑞雲も付いている。
三猿は、風化が激しく顔など分からなくなっているが、「見ざる聞かざる言わざる」の様子は判る。
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施主の名前であるが、寛文9年(1669)のものには、「尉」が付いていて、これは奈良時代律令制における官位名である。その頃、この地域で何らかの役目をしていた家系であろうが、中世までこういう名乗りをしていた。
しかし、今回の庚申塔では、「尉」の付かない名前になっており、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を改めさせ、幕藩体制を確立させたことを物語っている。
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(了)

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三囲神社境内・大国神恵比寿神神社の狛犬

20170914

所在地:東京都墨田区向島 三囲神社境内・大国神恵比寿神神社
撮影日:2017年9月10日

墨田区の三囲神社には何度も参拝していますが、この狛犬についてはちゃんと撮っていなかったので、この日撮りに行ってきました。
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この境内社は、隅田川七福神の「大国神」と「恵比寿神」にあたります。
その前に狛犬が居ます。
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年代:延宝7年(1679)
材質:石造
型式:はじめ型

右側は阿形獅子、残念だが鼻の辺を欠損している。
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左側は吽形獅子、角がある。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。鼻の辺を欠損。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・耳は垂れ、口は大きく、阿形は舌をのぞかせ、吽形は牙が目立つ。
・顎鬚がカールして、その下に頬の辺からの長いたてがみを結んで、全体が蝶結びのような不思議なデザインとなっている。
・いかつい顔だが、全てに丸みを帯びていて、親しみやすい顔となっている。
・前足は、短く直立。筋肉を強調してたくましい。脇に巻き毛あり。
・後足は蹲踞。脚首に羽根のような巻き毛が長く伸びている。
・尾は沢山の房毛が背中に付いて立ち上がっている、不思議なかたち。
・雄、雌の区別あり。

顎鬚がカールして、その下に頬の辺からの長いたてがみを結んで、全体が蝶結びのような不思議なデザインとなっている。
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前足は、短く直立。筋肉を強調してたくましい。脇に巻き毛あり。
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後足は蹲踞。脚首に羽根のような巻き毛が長く伸びている。
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尾は沢山の房毛が背中に付いて立ち上がっている、不思議なかたち。
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雄、雌の区別あり。
阿形
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吽形
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性別をつけている狛犬は、他にも鎧神社境内・天神社、品川神社二の鳥居の狛犬などで確認している。
たぶん「子孫繁栄」の願いを込めていると思われる。



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吾嬬神社

20170913

鎮座地:東京都墨田区立花1-1-15
参拝日:2017年9月10日

この神社に、いい狛犬が居るとの情報があり、この日参拝しました。
東武亀戸線「小村井」駅から明治通りを500mほど南下すると、福神橋のたもとにあります。

福神橋
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福神橋は北十間川にかかっており、福神橋から西を見ると、正面に東京スカイツリーが見える。
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この川筋が古代~中世の海岸線だったらしい。

吾嬬神社入り口に社号標。
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すみだの史跡散歩による吾嬬神社の由緒:
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かってはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。(すみだの史跡散歩より)

由緒書き
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入るとすぐ左手に、紀真顔高麗剣の歌碑がある。
文政12年※昭和40年9月破損にて再建
『高麗剣わざこそ歌の一風流を我たまひしと人強く磨けり』。
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紀真顔:
江戸後期の狂歌師,黄表紙作者。江戸の人。本名は北川嘉兵衛。別号は狂歌堂,四方歌垣(よものうたがき),俳諧歌場。数寄屋橋外の汁粉屋で,はじめは恋川好町(すきまち)の名で黄表紙作者。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)に師事して判者を譲られ,四方側の領袖となる。狂歌四天王の一人。天明狂歌の第二世代として宿屋飯盛(石川雅望)と双璧をなすが,純粋天明調を首唱する飯盛に対し,狂歌を優美高尚なものにしようとして俳諧歌と呼んだ。

参道は、まっすぐ、やや下っている。
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神橋
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神橋を渡ると広場となり、石垣で高くなったところに社殿あり。
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石垣の下にも幾つか並んでいる。

古い社号標
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縁起を刻んだ石碑
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源延平の歌碑
『皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ』
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石段を上がり、鳥居をくぐると、左手に手水舎あり。
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右には、楠がある。
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「神樟」の碑
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神木「連理の楠」。
墨田区の登録有形文化財。明治時代には幹周りが4~5mはあったというが、大正時代に枯れてしまった。この木の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされていたという。
説明
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枯れた幹が、まだ残っている。
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その横に新しい楠が勢いよく茂っている。
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社殿を挟んで反対側に、「吾嬬森碑」がある。
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説明
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歌川広重の「江戸名所百景」
「吾嬬の森連理の梓」
「梓」としてしまったのは、広重と版元のケアレスミス。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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本殿は石祠であるが、フェンスに阻まれ、近づくことはできない。
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ご祭神は弟橘姫命
ご相殿神が日本武命

本殿の前に、安永2年銘狛犬が居ます。
(説明板)
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者との繋がりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
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力石が5個あり。
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一番大きいのは、五十貫二百目
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神輿庫
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境内社の福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
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社殿の前に、狛狐が居た。
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(了)



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三猿庚申塔/狭山市・堀兼神社

20170911

所在地:埼玉県狭山市大字堀兼 堀兼神社

狭山市の庚申塔を古い順に挙げてきましたが、板碑、仏像に次いで、三猿庚申塔にきました。いわゆる庚申塔らしいものの最も古いものです。

堀兼神社
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その境内に石仏が並んでおり、向かって一番左にあるのが今回の庚申塔。
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塔身:駒形
主尊:三猿
日月:筋彫
造立年代:寛文9年(1669)

塔身は駒形で、真ん中に主尊の三猿が彫られている。
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銘文詳細
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日月は、もっと時代が下がると浮き彫りになり瑞雲も付くが、ここでは未だ筋彫である。
三猿は、風化が激しく顔など分からなくなっているが、「見ざる聞かざる言わざる」の様子は判る。
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一番右に、施主の僧侶と思われる「仏心坊」とあり、中世の土豪層と思われる小沢平左衛門尉ほか10人の名前が刻まれている。
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名前に付いている「尉」であるが、これは奈良時代律令制における官位名である。
その頃、この地域で何らかの役目をしていた家系であろうが、中世までこういう名乗りをしていた。
寛文9年といえば、既に江戸幕府開府から66年経った年代だが、地方ではまだこういう状態だったことが判る。

しかし、同じく堀兼神社境内に一緒に並んでいる、延宝5年(1677)の庚申塔では、「尉」の付かない名前になっており、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を改めさせ、幕藩体制を確立させたことを物語っている。


(了)


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高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)/日本の神々の話

20170909

愛媛県伊予郡にある「高忍日賣神社」の祭神であり、箒神の一つである。

高忍日賣神社:
創祀年代は不詳である。伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多少異なる)にあって、南は山地や丘陵地帯、北は平野で水に恵まれ、早くから開けていたようで、大小の古墳群や大規模な祭祀遺跡、集落跡なども発掘されている。
当社は、古代より皇室の崇敬が篤く、出産の際には勅使が差遣されたと伝わる。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡ったとあり、当社に参詣して「神号扁額」を奉納した。 奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していた。また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなった。
平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十(延喜式神名帳)に記されており、また、『伊予国神名帳』にも載せられており、重視されていたことがわかる。

高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ、高忍日売神社)は、全国で唯一、高忍日賣大神を奉斎する神社であり、産婆・乳母の祖神として、特に全国の助産師や教育関係者等の崇敬を集めている。

高忍日賣神社に伝承している神話:
初代神武天皇の父君「日子波限建鵜葺草葺不合命」が生まれる際の伝承である。 日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。 そこで、鵜茅(ウガヤ)で産屋を葺いてその中で出産するが、海から多くの蟹がはい上がり産屋まで入り大変な難産になった。
豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えると高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛し、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をした。 これにより始めは難産だったが安産し、産屋が葺きあがらないうちに無事男児を産むことができた。日子穂穂手見命は、男児を日子波限建鵜葺草葺不合命と命名した。
この神話から、当社の祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬されている。



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穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社の狛犬

20170908

所在地:奈良県桜井市穴師1065 穴師坐兵主神社拝殿前
撮影日:2017年3月23日

青春18キップの旅で、奈良県を旅行していた時に、JR巻向駅から山の辺の道を歩いて、この神社まで来ました。
とても変わったところのある神社だったので。

穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社については、既に記事にしています。

その記事をみる


山の辺の道を歩いていくと、社号標と鳥居があり、山の辺の道が参道になります。
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実は巻向の駅の近くに一の鳥居があり、そこからずっと山の辺の道はこの神社の参道とも言えるのですが。

しばらく行くと、道が分かれて右が山の辺の道、左に入ると社殿の前に出ます。
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ここからの参道に、とても可愛い「浪花型」の狛犬が居て、更に拝殿前に居るのが今回の狛犬です。
拝殿前のが江戸狛犬だったので驚きました。
つまり、ここには江戸狛犬と浪花型の両方の狛犬が揃っていました。
今回は拝殿前のものです。
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年代:明和8年(1771)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型

右側が阿形の獅子
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左側も吽形の獅子
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特徴:
・ここは湿度が高いらしくて、苔の付着がひどい。
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・耳は垂れ、口は大きく、阿形は舌をのぞかせ、顎髭は長くカールしている。
・いかつい顔だが、全てに丸みを帯びていて怖さは無い。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。脇に翼のような巻き毛の表現
・後足は蹲踞。巻き毛が長く伸びている。
・尾は、立っていて、炎型で巻き毛あり。

尾のかたち
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ちなみに参道にあった、大正?年奉納の「浪花型」狛犬を紹介しておこう。
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水陸両用バス「スカイダック」

20170907

9月1日に乗ってきました。

10月に歴史クラブで催行する企画があり、その下見です。
スカイツリーの下から出ているということで、押上(スカイツリー前)駅に10時に到着。
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まずはスカイダック営業所(発着場)に行きます。
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コースは、スカイツリーから、亀戸天神の前などを走って、東大島の旧中川・川の駅から旧中川に入り、水行を楽しんで、またスカイツリーに戻ってくるもの。
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そこで、予約の方法とか確かめて、その日の運行を確かめると、二回目の運行が12:25出発。
そのチケットを購入してから、「そらまち」で昼食、土産物店などを物色して時間をつぶした。

時間少し前に、発着場に行くとスカイダック号が待っていた。
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乗客が集まって来た。
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高い位置の座席まで、タラップで乗り込む。
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幸い座席は一番前だった。
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スカイツリーの前から出発。
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東武の特急「スペーシア」が停まっていた。
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運転席は、船の操縦関係の計器などが並び、面白い。
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運河を通過。
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亀戸天神前の、老舗「船橋屋」の前を通過。
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亀戸天神前
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そして、いよいよ東大島の旧中川・川の駅から、旧中川に乗り入れました。
ここから、荒川ロックゲートの手前、「平成橋」までの間を往復して楽しみました。
その様子は動画で撮ったので、動画を見てください。

その動画を見る


40分ほど楽しんだ後、再び川の駅に上がり、休憩です。
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なお、旧中川は、江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」などで、情緒豊かな川であったことが知られています。

歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」
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すぐ隣に、「中川船番所資料館」があったので、入り口まで行ってきた。
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ここから、再び陸路をスカイツリーまで戻りましたが、ガイドさんの案内で楽しく過ごしました。

亀戸は、昔は大根で有名だったそうで、今でも「亀戸大根」を使った料理を出してくれるお店があるそうで、その一つ、「すずしろ庵」。
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キャラクター「おしなりくん」は、ちゃんと家があるそうで、その前を通りましたが、折あしく留守みたいで、おばちゃんがパネルを一生懸命振ってくれた(笑)
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そして、無事にスカイツリー前まで到着。
楽しかったです。

(了)


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銅造聖観世音菩薩立像(庚申供養)/狭山市・円光寺

20170905

所在地:埼玉県狭山市柏原1027 円光寺

庚申塔としては、江戸時代に三猿や青面金剛を主尊とする庚申塔が確立されるが、それまでは仏像から採られているものが多く、狭山市で一番古いのが、先にアップした天文3年(1534)の板碑庚申塔です。
それに続くのが、今回の元亀3年(1572)に建立された銅造聖観世音菩薩立像です。

塔身:銅造聖観世音菩薩立像
主尊:聖観世音菩薩
造立年代:元亀3年(1572)

元亀3年といえば、徳川家康が武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」のあった年です。

像高は46.5Cm
背中に「敬白大工神田 武州高麗郡柏原村 元亀三年 円光寺庚申供養」と刻まれており、庚申信仰の本尊であることがわかります。

銅造聖観世音菩薩立像
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背面の銘文
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銘文詳細
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また、この銘文から柏原の鋳物師「神田氏」が鋳造したものであることがわかります。

柏原という地は、応永年間(1394~1428)に奈良県の大和郡山から槍鍛冶の「増田大水正金」が移住してきて、槍鍛冶をしており、後北条氏(小田原北条氏)の領地だった時代は、年貢を槍と刀で納めていたことがわかっています。
当時は、入間川から採れる砂鉄を利用して、製鉄などで栄えていたようです。


ちなみに、お隣の川越市立博物館の企画展「民間信仰のかたち」での図録の巻頭をこの銅造聖観世音菩薩立像が飾っています。
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(了)


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座敷童子(ざしきわらし)/日本の神々の話

20170904

主として岩手県に伝えられる精霊的な存在。座敷または蔵に住む神。

私は柳田國男氏の『遠野物語』などで知っていたが、これは「妖精」みたいな存在だと思っていた。
しかし、戸矢学氏の『縄文の神』のなかで、民俗神として挙げていたので、認識を改めた。

座敷童子(ざしきわらし)は、主に岩手県に伝えられる精霊的な存在。座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ、『遠野物語』の17話・18話および『遠野物語拾遺』87話に「ザシキワラシ」または「座敷ワラシ」の表記で話が掲載されており、17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり」「ザシキワラシは座敷童衆なり」と記述がある。近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられることでも知られている。

【概要】
主に岩手県を中心として報告されているが、青森県、宮城県、秋田県など東北地方各県にも分布するといわれる。

一般的には、赤面垂髪の5、6歳くらいの小童というが、年恰好は住み着く家ごとに異なるともいい、下は3歳程度、上は15歳程度の例もある。髪はおかっぱ、またはざんぎり頭。性別は男女両方が見られ、男の子は絣か縞の黒っぽい着物を、女の子は赤いちゃんちゃんこや小袖、ときには振袖を着ているという。はっきりとした姿がわからないために、性別が不明な場合もあるという。男女2人など複数が家に住み着いていることもある。黒い獣のような姿、武士のような姿といった伝承もある。

悪戯好きで、小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶことがある。また家人が一人で縫い物をしていたとき、隣の部屋で紙ががさがさする音や、鼻を鳴らす音がするので、板戸を空けると誰もいないなどの話が伝わっている。夜になると客人の布団の上にまたがったり枕を返したり、悪戯をして眠らせまいとするが、押さえようとしても力が強くて歯が立たないともいう。子供と一緒に遊んだりもする。

岩手では早池峰神社の座敷童子が、遠方から神社に参拝に来ていた者について別の土地へ行くという伝承がある。その土地の子供たちに、岩手のわらべ歌を教えたという伝説もある。。

青森県五戸町では家を新築する際、床下に金の玉を埋めておくと、座敷童子を呼ぶことができるという伝承がある。

姿は家の者以外には見えず、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。子供たちの数を大人が数えると、本来の人数より1人多いが、大人には座敷童子がわからないので、誰が多いのかわからないといった話もある。こうした話は、文学上でもよくモチーフとなる。

【家の盛衰との関連】
最も特徴的な民間信仰として、座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退するということが挙げられる。こうした面から、座敷童子は福の神のようなもの、または家の盛衰を司る守護霊と見なされることもある。

『遠野物語』には、座敷童子が去った家の一家が食中毒で全滅した話や、岩手県土淵村(現・遠野市)大字飯豊(いいで)の資産家で、座敷童子を子供が弓矢で射たところ、座敷童子は家を去り、家運が傾いたという話が残されている。座敷童子の去った家が没落する話は、貧乏神が去った家が裕福になるという話と関連しているとの見方もある。

白い座敷童子は吉事の前触れであり、赤い童子(赤い顔、赤い服、赤い手桶を手にした童子)が目に見えるのは、童子が家を出て行くことによる凶事の前触れとの説もある。赤い服の童子を見たという家族一同が食中毒死した事例もある。

【風習】
座敷童子は奥座敷におり、その存在が家の趨勢に関ると言われるため、これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。小豆飯が好物といわれることから、小豆飯を毎日供える家もあり、飯が食べられていないと家が衰退する前兆だともいう。座敷童子は狐持や犬神持に類似した構造を持つが、座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子のいる家に対して一種畏敬の念を持って接する点が、それらとは異なる。

二戸市の一帯では、かって亡くなったり間引かれた子の供養のために部屋の一画に子供部屋を作り、菓子や玩具を置いて祀ったというが、この風習が現在でも残っており、座敷童子を家に居つかせ福をもたらせ栄えさせようと、部屋の一画に子供が好む小部屋を作る風習もある。

『遠野物語』によれば、土淵村のある豪家には「座頭部屋」と呼ばれる奥まった小さな空間があり、昔は家に宴会があれば必ず座頭を呼んで待たせるのに用いたとあるが、文学研究者・三浦佑之はこれを、家の守護霊を祀る部屋だったのではないかと推測している。


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王子稲荷神社・本宮前の狛狐

20170903

所在地:東京都北区岸町 王子稲荷神社・本宮参道
撮影日:2013年6月30日

王子稲荷神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


本殿の、向かって右側を進むと本宮があるが、その参道には二組の狛狐が居る。
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今回の狛狐は、奥の本宮側のものである。

年代:明和元年(1764)
材質:石造
型式:他眷属型-狐(宝珠)

この狛狐は、普通稲穂、巻物、鍵、玉を咥えたり、持っているのだが、それがない。
その代わりに頭に玉のようなものを載せている。
おそらく宝珠だろう。
狛犬に、阿形が宝珠を載せ、吽形の頭に角がある、神仏習合の型があるが、この狛狐の場合は両方とも宝珠のようだ。
お稲荷さんには宝珠はつきものなので、相応しい形ではあるが、珍しい。

右の狛狐は阿形、尾は丸い尾が立っている。
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風化が激しく、表情はわからないが、頭に宝珠を載せている。
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左の狛狐は吽形。
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こちらは、まだ風化は激しくなく、眉とか髭はわかる。
目が小さく、鋭い表情である。
頭に宝珠を載せている。
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年代は、明和元年(1764)。
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面白いのは、先にアップした「いなり坂側入り口」の狛狐が「宝暦14年(1764)と刻まれているが、この年の6月に改暦されて明和元年(1764)となっている。
同じ年に造立されているが、改暦前と改暦後の年号が同じ神社の中で見られるのは珍しい。


まだ、狛犬を追求しようと思っている時期では無かったので、データが不足しています。
例えば尾の形とか。
機会を見て、再訪して撮り加えるつもりです。


狛犬の記事一覧を見る



中山道・浦和宿(その二)

20170902

8月18日に歩いた、浦和宿の記事の続きです。調神社から廓信寺まで。

そのルートですが、下図のように中山道からちょっと外れてあちこち見て歩きました。
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➃:調神社
⑤の県庁は行きませんでした。
⑥:玉蔵院
⑦:うなぎ屋さん
⑧浦和宿本陣公園
⑨:浦和御殿跡
⑩:二七市場定杭
⑪:廓信寺

調神社を出発
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道筋は旧い家とビルが混在してます。
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うなぎ屋さんが目立ちます。
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浦和宿の標識があった。
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浦和宿(うらわ しゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場(武蔵国のうち、第3の宿)。

北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。

浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。 1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。

道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 

現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。


【行在所記念の碑】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区高砂3丁目1−22
玉蔵院のある通りにずれて行くと、「行在所記念の碑」があり。
明治天皇が浦和宿に行幸した記念碑。
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【浦和一女発祥の地碑】
「行在所記念の碑」の隣にあり。
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【玉蔵院】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目13−22
真言宗豊山派の寺院。山号は宝珠山。本尊は大日如来座像。北足立八十八箇所霊場55番、88番札所。本堂横には樹齢100年以上のしだれ桜があり、桜の名所として有名である。
伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。また、学僧印融が来て中興した。1591年に徳川家康が10石の寺領を寄進。江戸時代に長谷寺の移転寺として出世。1699年12月伽藍を焼失。本堂は1701年に再建され、以後徐々に復興。1710年、本尊の大日如来坐像が完成。昭和20年代に墓地の区画整理が行われ、墓地は市内原山(緑区)に移転した。江戸時代に浦和宿が興る以前の浦和は玉蔵院や調神社の門前町として栄えていた。
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総けやき造りの立派な山門
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ちょっと変わった感じの鐘楼
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この門もいいですね。
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門の内側に百日紅が咲いていた。
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本堂には、大きな橋を渡ります。
右側が広い石庭、左側には樹齢100年以上の見事な枝垂れ桜がある。
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地蔵堂
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彫刻や天井画が見事です。
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堂の前に、江戸時代建立の石造地蔵像が二体ありました。
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中山道に戻りました。
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立派なうなぎ屋さん。
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この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。 そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつりや浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。

看板建築があった。
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「うらわ美術館」の前を通過。
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【浦和本陣跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目6−3
星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所阯」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。
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「明治天皇行在所阯」碑
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横の桜も風格があり。
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【浦和御殿跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤1丁目8
浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。
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常盤公園の中に「童謡碑」があった。
童話作家長沼依山先生の顕彰のために造られたとあります。ブロンズの彫刻は、浦和在住の彫刻家、細野稔人(ほその・としひと)氏によるものです。浦和の街中で、最も多くの彫刻を手掛けている方ではないでしょうか。
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常盤公園入口のすぐ前の道に、野菜を売る農婦の銅像があった。
これは、これから行く「二七の市」の市場の様子を伝えているものだそうだ。
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【二七市場定杭】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤 1 丁目 5−19
宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。
浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。
市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かっての市場の様子を伝えている。
六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。
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慈恵稲荷神社の鳥居の先に、定杭はあった。
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二七市場定杭
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慈恵稲荷神社にお参りした。
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また歩き出したが、お腹が空いたので、お蕎麦屋さんでもないかと歩いていたら、美味しそうなお蕎麦屋さんがあり、昼食、休憩。
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満ち足りた気持ちでお店を出たとたんに、パラパラ降り出した(泣)
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【浦和橋】
これで今日は打ち切りかなあ、と考えながら東北本線の陸橋「浦和橋」を越えます。
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京浜東北線かな。
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北浦和の駅前まで来ると、浦和レッズのマスコット像が幾つもあった。
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福田選手の足型
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北浦和駅東口交差点
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雨がパラパラ降って来たので、これで切り上げかなと思いながら傘をさしてここまで来ましたが、いつしか雨は止んでいました。
前進して廓信寺に向かいました。

【廓信寺】
所在地:さいたま市浦和区北浦和3丁目15
岩槻藩主・高力清長の追福のため、家来の中村吉照が慶長14年(1609年)に建立した寺。

仁王門
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山門
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本堂
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「堂宇改修記念碑」に、この寺開基の由来が書かれていた。
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秩父宮妃殿下お手植えの紅梅
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樹齢約300年のカヤ
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徳川家康に信頼された岩槻藩主・高力清長について、あまり良く知らなかったので、帰ってから調べてみた。
「仏の高力」と云われた人柄について知ることが出来、良かった。

高力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。

生涯:
・享禄3年(1530年)、松平氏の家臣・高力安長の長男として三河国にて誕生。
・天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、駿河で人質時代を送る家康に従った。
・永禄3年(1560年)5月、家康に従って今川義元の尾張攻めに従い、尾張大高城の戦いで功を挙げた。
・永禄5年(1562年)の織田氏との清洲同盟締結の際に家康が尾張清洲城に赴いた際、これに同行。
・有名な一向一揆鎮圧においては、一揆鎮圧後に仏像や経典の保護に努めて散逸を防ぎ、寺社を元通りに戻したので、領民からは「仏高力」の異名をつけられた。
・天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、家康の伊賀越えに随行し、小荷駄奉行として殿軍を務めたが、この時に追撃する賊に襲われて鉄砲疵を受けている。
・天正12年(1584年)の豊臣秀吉と対峙した小牧・長久手の戦いに参加する。戦後は秀吉への使者を務めたが、この際に秀吉に気に入られ、天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され[5]、従五位下河内守に叙任される。この年から着工された聚楽第造営の普請奉行を務め、新藤五国光の脇差を秀吉より賜る。
・天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の旨を奉じた家康の使者として成瀬国次と共に小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉している。
・慶長4年(1599年)に嫡子・正長が早世する。このため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、嫡孫の高力忠房に家督を譲った。

人物・逸話:
三河三奉行の時、康景は温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、清長は寛厚にして思慮深いと評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。
このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている。
豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた。


この日の予定は廓信寺までだったので、これで終了し北浦和の駅に向かった。
この日は午後は天気が崩れるという天気予報だったので、朝7:50に蕨駅から歩きはじめた。
京浜東北線の駅で言えば、蕨駅から、南浦和、浦和、北浦和と歩いたことになる。
13:45に終了。

廓信寺を出たところで、庚申塔二体を発見。
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どうも主尊は馬頭観音のようである。
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どこかに「庚申供養」とか刻まれているかと探したがわからなかった。
だが、説明書きには「庚申尊像」とあるので、そのとおりに受け取らせてもらう。

壁にある蔦の模様が、山の頂に一本松のような模様になっていて面白かったのでパチリ。
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(中山道浦和宿了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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