太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(1)
20180430
24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
豊臣秀吉の小田原征伐の際、戦塵が切って落とされたのは山中城で、戦国時代最大の攻城戦と云われています。後北条氏が山城の防御の知恵を最大につぎ込んで築いた、山城としては最高の名城です。
三島市の努力のおかげで、それが再現されています。

山中城の探索の前に、250mほどですが、旧東海道の石畳みを味わいました。
【箱根旧道】
国道一号線の、Aポイントでバスを停めてもらい、岱崎出丸入り口の「山中城跡バス停」まで歩いた。

箱根旧街道の案内



杉並木の中、若草の中に石畳みの道が続きます。



作家司馬遼太郎の「箱根八里記念碑」があった。
「幾億の足音が坂に積り 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」とある。


傍に馬頭観音もあり。

杉の木立が美しい。

250mは、アッという間でした。

いよいよ、岱崎出丸から山中城攻略です。
北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。
永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和5年)に国の史跡に指定された。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(40番)に選定された。
◇3月29日早朝 山中城を豊臣軍70,000名が取り囲み、中央に総大将豊臣秀次以下、中村一氏、一柳直末、山内-豊、堀尾吉晴統総勢2万人。右翼に池田輝政以下2万人、左翼に徳川家康以下3万人。
◇迎え撃つ北条方、城主:松田康長、副将:北条氏勝、間宮康敏以下 約4千人の将兵、その差はなんと17倍もありました。
◇戦いは岱崎出丸と西櫓から開始され、壮烈な銃撃戦が展開された。中でも先鋒の一柳隊は壊滅的な打撃を被り、直末自身流れ弾に当たり、戦死を遂げました。
一方中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺水庵が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二の丸本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は、ほどなく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。
両軍の戦死者数は約2千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城我と言われております。

◇城攻めは、攻める方の被害が甚大である為、山中城に見られるような力攻めをしないのが、普通です。では何故このようなすさまじい戦いとなったのでしょうか。そこには、小牧長久手の戦いの汚名をそそごうとする、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。そして秀吉の見ている前で、功名を上げようとする秀次の宿老達の善戦があったからに他なりません。
天下の形勢は既に決しており、彼らには、この戦いが功名を上げられる最後の戦いになるかもしれないという思いがありました。出世レースに勝ち残ろうとする武将たちの悲痛な思いが伝わってきます。
それでは、いよいよ岱崎出丸からみていきます。

本当は、攻め手の気分で下から岱崎出丸に上がっていきたいところですが、道の関係でこの出丸は出丸の上から攻め手を見下ろすことになります。
箱根旧道から岱崎出丸に上がっていく。

綺麗に整備されていることに驚きます。


良い季節に来ました。
藤が咲いていた。



〇出丸御馬場跡


出丸御馬場と擂鉢曲輪の間の堀

堀に降りてみた。堀が深い!

〇すり鉢曲輪見張り台

下を国道1号線が通っているのがよく判る。


〇すり鉢曲輪

かなりな擂鉢だった。

下の一の堀

かなりの落差だ。
北条勢は、ものすごい量の弾薬を用意していて、上からの射撃がすさまじくて、ここで寄せてはかなりの死者を出したとのことだ。
来た道を引き返し、一号線からの岱崎出丸入り口に戻る。
観光案内図を見ると、近くに芭蕉の句碑や、最近話題のスカイウォークがある。
再訪必至だ。


さて、山中城攻略を再開!

〇三の丸堀

三の丸堀の横を歩く。

三の丸堀の上まで行って、全景を見るとなかなかのものですね。

〇田尻の池

向う側が、今まで歩いて来た三の丸堀。

〇元西櫓下の堀


元西櫓を見上げると、高い!

〇西の丸畝堀
石をつかわない防御のしかけとして、空堀の堀底に土手を掘り障壁としたものです。
敵が攻め込むためには、畝の道上の部分を歩く必要があり、それには、一列になって進むしかなく、守備側はその手前を重点的に守ればよいので非常に効率的な防御が可能となっています。



左側は笹の藪になっているが、これは急な崖になっているため、人が不用意に入り込まないようにこうしてると、この辺から一緒になったボランティアガイトさんが教えてくれた。

いよいよ、待ちに待った「障子堀」が見えて来た。

西の丸と西櫓の間の障子堀

後北条の特長が良く現れている堀で、障子の桟(さん)のように見えるところから障子堀といいます。ここは用水池を兼ねた水堀で、山城では非常に珍しいものです。
障子掘は、畝の部分が複雑なので、敵にとっては動きも制限されてしまいます。
今、上がって来た道を見下ろす。
結構、険しいことがわかる。

障子堀にツツジが咲き始めていて、実に美しい。
良い季節に来れたのを感謝。

〇西櫓堀




西の丸の堀の外から、愛鷹連山、富士山、駿河湾などが見えるそうだが、今日はあいにくの天気で、残念!


まだ残っていた八重桜と一緒に。

まだ山中城も全部済んでいないが、今回はここまで。
次回をお楽しみに。
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マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
豊臣秀吉の小田原征伐の際、戦塵が切って落とされたのは山中城で、戦国時代最大の攻城戦と云われています。後北条氏が山城の防御の知恵を最大につぎ込んで築いた、山城としては最高の名城です。
三島市の努力のおかげで、それが再現されています。

山中城の探索の前に、250mほどですが、旧東海道の石畳みを味わいました。
【箱根旧道】
国道一号線の、Aポイントでバスを停めてもらい、岱崎出丸入り口の「山中城跡バス停」まで歩いた。

箱根旧街道の案内



杉並木の中、若草の中に石畳みの道が続きます。



作家司馬遼太郎の「箱根八里記念碑」があった。
「幾億の足音が坂に積り 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」とある。


傍に馬頭観音もあり。

杉の木立が美しい。

250mは、アッという間でした。

いよいよ、岱崎出丸から山中城攻略です。
北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。
永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和5年)に国の史跡に指定された。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(40番)に選定された。
◇3月29日早朝 山中城を豊臣軍70,000名が取り囲み、中央に総大将豊臣秀次以下、中村一氏、一柳直末、山内-豊、堀尾吉晴統総勢2万人。右翼に池田輝政以下2万人、左翼に徳川家康以下3万人。
◇迎え撃つ北条方、城主:松田康長、副将:北条氏勝、間宮康敏以下 約4千人の将兵、その差はなんと17倍もありました。
◇戦いは岱崎出丸と西櫓から開始され、壮烈な銃撃戦が展開された。中でも先鋒の一柳隊は壊滅的な打撃を被り、直末自身流れ弾に当たり、戦死を遂げました。
一方中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺水庵が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二の丸本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は、ほどなく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。
両軍の戦死者数は約2千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城我と言われております。

◇城攻めは、攻める方の被害が甚大である為、山中城に見られるような力攻めをしないのが、普通です。では何故このようなすさまじい戦いとなったのでしょうか。そこには、小牧長久手の戦いの汚名をそそごうとする、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。そして秀吉の見ている前で、功名を上げようとする秀次の宿老達の善戦があったからに他なりません。
天下の形勢は既に決しており、彼らには、この戦いが功名を上げられる最後の戦いになるかもしれないという思いがありました。出世レースに勝ち残ろうとする武将たちの悲痛な思いが伝わってきます。
それでは、いよいよ岱崎出丸からみていきます。

本当は、攻め手の気分で下から岱崎出丸に上がっていきたいところですが、道の関係でこの出丸は出丸の上から攻め手を見下ろすことになります。
箱根旧道から岱崎出丸に上がっていく。

綺麗に整備されていることに驚きます。


良い季節に来ました。
藤が咲いていた。



〇出丸御馬場跡


出丸御馬場と擂鉢曲輪の間の堀

堀に降りてみた。堀が深い!

〇すり鉢曲輪見張り台

下を国道1号線が通っているのがよく判る。


〇すり鉢曲輪

かなりな擂鉢だった。

下の一の堀

かなりの落差だ。
北条勢は、ものすごい量の弾薬を用意していて、上からの射撃がすさまじくて、ここで寄せてはかなりの死者を出したとのことだ。
来た道を引き返し、一号線からの岱崎出丸入り口に戻る。
観光案内図を見ると、近くに芭蕉の句碑や、最近話題のスカイウォークがある。
再訪必至だ。


さて、山中城攻略を再開!

〇三の丸堀

三の丸堀の横を歩く。

三の丸堀の上まで行って、全景を見るとなかなかのものですね。

〇田尻の池

向う側が、今まで歩いて来た三の丸堀。

〇元西櫓下の堀


元西櫓を見上げると、高い!

〇西の丸畝堀
石をつかわない防御のしかけとして、空堀の堀底に土手を掘り障壁としたものです。
敵が攻め込むためには、畝の道上の部分を歩く必要があり、それには、一列になって進むしかなく、守備側はその手前を重点的に守ればよいので非常に効率的な防御が可能となっています。



左側は笹の藪になっているが、これは急な崖になっているため、人が不用意に入り込まないようにこうしてると、この辺から一緒になったボランティアガイトさんが教えてくれた。

いよいよ、待ちに待った「障子堀」が見えて来た。

西の丸と西櫓の間の障子堀

後北条の特長が良く現れている堀で、障子の桟(さん)のように見えるところから障子堀といいます。ここは用水池を兼ねた水堀で、山城では非常に珍しいものです。
障子掘は、畝の部分が複雑なので、敵にとっては動きも制限されてしまいます。
今、上がって来た道を見下ろす。
結構、険しいことがわかる。

障子堀にツツジが咲き始めていて、実に美しい。
良い季節に来れたのを感謝。

〇西櫓堀




西の丸の堀の外から、愛鷹連山、富士山、駿河湾などが見えるそうだが、今日はあいにくの天気で、残念!


まだ残っていた八重桜と一緒に。

まだ山中城も全部済んでいないが、今回はここまで。
次回をお楽しみに。
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久しぶりに智光山公園にウォーキングに行きました。気持ちよかった。

色々な花が咲き始めていました。
【白雲木 ハクウンボク】

ハクウンボク(白雲木、学名:Styrax obassia )はエゴノキ科エゴノキ属の落葉小高木。別名、オオバヂシャ、オオバジシャ
花期は5-6月。枝先に垂れ下がった、長さ8-17cmになる総状花序をだし、白色の花を20個ほど下向きにつける。小花柄は長さ7-10mmある。萼はコップ状になり、縁に5歯があり、星状毛が密生する。花冠は長さ17-19mmで、5深裂し、花冠裂片は花冠筒部より長い。雄蕊は10個あり、花冠筒部に着生し、花糸は無毛。花柱は1個あり、雄蕊より長く、花冠よりは短い。






【大手毬 オオデマリ】

オオデマリ (大手毬, 学名:Viburnum plicatum var. plicatum f. plicatum) はスイカズラ科の植物の一種。別名テマリバナ。
日本原産のヤブデマリ(V. plicatum var.tomentosum)の園芸品種である(ただし学名上はこちらが基本種扱いで、原種のヤブデマリは変種扱い。これはViburnum plicatumという種がオオデマリを基準標本として記載されたため)。花期は5月頃で、アジサイのような白い装飾花(近年はピンクのものもある)を多数咲かせる。




【百合の木 ユリの木】
ユリノキ(百合の木、学名: Liriodendron tulipifera)は、モクレン科ユリノキ属の落葉高木である。
種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意。
別名にハンテンボク(半纏木; 葉の形が半纏に似ることから)、レンゲボク(蓮華木; 花が蓮の花を思わせることから)、チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。
花期は5~6月頃。鐘形で、枝先に直径6cmくらいでチューリップに似た形の、付け根近くにオレンジ色の斑紋のある淡い黄緑色の花を咲かせるが、高く茂った葉の間に咲いていて目立たない。がく片は3枚。雌蕊が円錐形に集合したものの周囲を、多数の雄蕊が取り囲んでいる。





【ニセアカシア】

ニセアカシア (Robinia pseudoacacia) は北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木。和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年に渡来した。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられる。季語は夏である。
一般的に使われる名称であるニセアカシアは、種小名のpseudoacacia(「pseudo=よく似た acacia=アカシア」)をラテン語から直訳したものである。
樹高は20-25mになる。葉は、初夏、白色の総状花序で蝶形花を下垂する。奇数羽状複葉で小葉は薄く5-9対。基部に1対のトゲ(托葉に由来)がある。小葉は楕円形で3-9対。5-6月頃、強い芳香のある白い蝶形の花を10-15cmほどの房状に大量に咲かせる[2]。花の後に平たい5cmほどの鞘に包まれた4-5個の豆ができる。
きれいな花が咲き、観賞用として価値が高いことからもともとは街路樹や公園用として植栽された。しかし、繁殖力が強く、根から根萌芽が多数出ることや、切り株からの萌芽力が極めて高いことなどで嫌われている。
それにしても、「ニセ」を付けられた名前が可哀そうだ。





【ハマナス】

ハマナス(浜茄子、浜梨、玫瑰、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。晩夏の季語。
現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。
果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む玫瑰茶もある。



【棕櫚 シュロ(ワジュロ)】

シュロ(棕櫚、棕梠、椶櫚)は、ヤシ目ヤシ科ヤシ属 Trachycarpus の総称である。
5種[1]以上が属する。シュロという名は、狭義には、そのうち1種のワシュロの別名とされることもある。逆に広義には、他のさまざまなヤシ科植物を意味することもある。
ワジュロ:
雌雄異株で、稀に雌雄同株も存在する。雌株は5 - 6月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる。果実は11 - 12月頃に黒く熟す。




【ペレニアルフラックス(宿根アマ)】

アマ科の宿根草。原産地は中央アジアの高地らしい。比較的雨が少なく乾燥気味の涼しい気候の土地だと思う。
一年草のものと宿根草のものがあります。ウチで育てているのは宿根草。
すっきりと美しいブルー。細くしなやかに伸びる茎。たくさんの花。風でゆらゆらと揺れる姿。咲き終わると潔く散る花。私が美しいと感じる要素をすべて持っている植物。



(了)
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色々な花が咲き始めていました。
【白雲木 ハクウンボク】

ハクウンボク(白雲木、学名:Styrax obassia )はエゴノキ科エゴノキ属の落葉小高木。別名、オオバヂシャ、オオバジシャ
花期は5-6月。枝先に垂れ下がった、長さ8-17cmになる総状花序をだし、白色の花を20個ほど下向きにつける。小花柄は長さ7-10mmある。萼はコップ状になり、縁に5歯があり、星状毛が密生する。花冠は長さ17-19mmで、5深裂し、花冠裂片は花冠筒部より長い。雄蕊は10個あり、花冠筒部に着生し、花糸は無毛。花柱は1個あり、雄蕊より長く、花冠よりは短い。






【大手毬 オオデマリ】

オオデマリ (大手毬, 学名:Viburnum plicatum var. plicatum f. plicatum) はスイカズラ科の植物の一種。別名テマリバナ。
日本原産のヤブデマリ(V. plicatum var.tomentosum)の園芸品種である(ただし学名上はこちらが基本種扱いで、原種のヤブデマリは変種扱い。これはViburnum plicatumという種がオオデマリを基準標本として記載されたため)。花期は5月頃で、アジサイのような白い装飾花(近年はピンクのものもある)を多数咲かせる。




【百合の木 ユリの木】
ユリノキ(百合の木、学名: Liriodendron tulipifera)は、モクレン科ユリノキ属の落葉高木である。
種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意。
別名にハンテンボク(半纏木; 葉の形が半纏に似ることから)、レンゲボク(蓮華木; 花が蓮の花を思わせることから)、チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。
花期は5~6月頃。鐘形で、枝先に直径6cmくらいでチューリップに似た形の、付け根近くにオレンジ色の斑紋のある淡い黄緑色の花を咲かせるが、高く茂った葉の間に咲いていて目立たない。がく片は3枚。雌蕊が円錐形に集合したものの周囲を、多数の雄蕊が取り囲んでいる。





【ニセアカシア】

ニセアカシア (Robinia pseudoacacia) は北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木。和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年に渡来した。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられる。季語は夏である。
一般的に使われる名称であるニセアカシアは、種小名のpseudoacacia(「pseudo=よく似た acacia=アカシア」)をラテン語から直訳したものである。
樹高は20-25mになる。葉は、初夏、白色の総状花序で蝶形花を下垂する。奇数羽状複葉で小葉は薄く5-9対。基部に1対のトゲ(托葉に由来)がある。小葉は楕円形で3-9対。5-6月頃、強い芳香のある白い蝶形の花を10-15cmほどの房状に大量に咲かせる[2]。花の後に平たい5cmほどの鞘に包まれた4-5個の豆ができる。
きれいな花が咲き、観賞用として価値が高いことからもともとは街路樹や公園用として植栽された。しかし、繁殖力が強く、根から根萌芽が多数出ることや、切り株からの萌芽力が極めて高いことなどで嫌われている。
それにしても、「ニセ」を付けられた名前が可哀そうだ。





【ハマナス】

ハマナス(浜茄子、浜梨、玫瑰、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。晩夏の季語。
現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。
果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む玫瑰茶もある。



【棕櫚 シュロ(ワジュロ)】

シュロ(棕櫚、棕梠、椶櫚)は、ヤシ目ヤシ科ヤシ属 Trachycarpus の総称である。
5種[1]以上が属する。シュロという名は、狭義には、そのうち1種のワシュロの別名とされることもある。逆に広義には、他のさまざまなヤシ科植物を意味することもある。
ワジュロ:
雌雄異株で、稀に雌雄同株も存在する。雌株は5 - 6月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる。果実は11 - 12月頃に黒く熟す。




【ペレニアルフラックス(宿根アマ)】

アマ科の宿根草。原産地は中央アジアの高地らしい。比較的雨が少なく乾燥気味の涼しい気候の土地だと思う。
一年草のものと宿根草のものがあります。ウチで育てているのは宿根草。
すっきりと美しいブルー。細くしなやかに伸びる茎。たくさんの花。風でゆらゆらと揺れる姿。咲き終わると潔く散る花。私が美しいと感じる要素をすべて持っている植物。



(了)
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季節の花/馬酔木、花かんざし、ハンカチの木、水芭蕉
20180427
今まで撮ってあった、4月の花をアップします。
【馬酔木 あせび】
撮影地:長野県軽井沢 堀辰雄文学記念館庭
撮影日:2011年4月7日
アセビ(馬酔木、学名: Pieris japonica subsp. japonica)は、ツツジ科アセビ属の常緑低木。日本に自生し、観賞用に植栽もされる。別名あしび、あせぼ。
馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる。
万葉歌
磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに / 大伯皇女



【花かんざし】
撮影地:自宅
撮影日:2002年4月9日
「花かんざし」は流通名で、学名はローダンテ・アンテモイデス(Rhodanthe anthemoides)です。かつてはヘリクリサムやヘリプテルムの一種とされたこともありますが、現在はローダンテ属に分類されています。‘ペーパー・カスケード’として流通するものもあり、同様に利用されます。
かさかさとしたかわいらしい花が株一面に咲き、冬から春のコンテナの寄せ植えなどに多く利用されます。花は各枝先に1輪ずつですが、よく枝分かれするので、5月ごろまで次々と咲き続けます。花色は白だけで、花径は2cmくらい、夜間は閉じます。温室栽培の鉢花は12月ごろから出回ります。






【ハンカチの木】
撮影地:埼玉県狭山市智光山公園
撮影日:2011年4月29日
ハンカチノキ(学名:Davidia involucrata)はミズキ科(分類体系よって異なる。下記参照)の落葉高木。中国の四川省・雲南省付近原産。属名のダビディア (Davidia) で呼ばれることも多い。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」などと呼ばれる。英語では"Handkerchief tree"、"Ghost tree"、"Dove tree"(鳩の木)などという。





【小岩井農場の水芭蕉】
撮影地:岩手県岩手郡雫石町 小岩井農場
撮影日:2010年4月24日
盛岡に用事があって行ったときに、小岩井農場の一本桜が見たくて寄りました。案の定桜はまだまだでしたが、小岩井農場の自然の素晴らしさに満足しました。
水芭蕉も咲いていた。




(了)
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【馬酔木 あせび】
撮影地:長野県軽井沢 堀辰雄文学記念館庭
撮影日:2011年4月7日
アセビ(馬酔木、学名: Pieris japonica subsp. japonica)は、ツツジ科アセビ属の常緑低木。日本に自生し、観賞用に植栽もされる。別名あしび、あせぼ。
馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる。
万葉歌
磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに / 大伯皇女



【花かんざし】
撮影地:自宅
撮影日:2002年4月9日
「花かんざし」は流通名で、学名はローダンテ・アンテモイデス(Rhodanthe anthemoides)です。かつてはヘリクリサムやヘリプテルムの一種とされたこともありますが、現在はローダンテ属に分類されています。‘ペーパー・カスケード’として流通するものもあり、同様に利用されます。
かさかさとしたかわいらしい花が株一面に咲き、冬から春のコンテナの寄せ植えなどに多く利用されます。花は各枝先に1輪ずつですが、よく枝分かれするので、5月ごろまで次々と咲き続けます。花色は白だけで、花径は2cmくらい、夜間は閉じます。温室栽培の鉢花は12月ごろから出回ります。






【ハンカチの木】
撮影地:埼玉県狭山市智光山公園
撮影日:2011年4月29日
ハンカチノキ(学名:Davidia involucrata)はミズキ科(分類体系よって異なる。下記参照)の落葉高木。中国の四川省・雲南省付近原産。属名のダビディア (Davidia) で呼ばれることも多い。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」などと呼ばれる。英語では"Handkerchief tree"、"Ghost tree"、"Dove tree"(鳩の木)などという。





【小岩井農場の水芭蕉】
撮影地:岩手県岩手郡雫石町 小岩井農場
撮影日:2010年4月24日
盛岡に用事があって行ったときに、小岩井農場の一本桜が見たくて寄りました。案の定桜はまだまだでしたが、小岩井農場の自然の素晴らしさに満足しました。
水芭蕉も咲いていた。




(了)
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観音像庚申塔/文京区根津神社②
20180426
所在地:文京区根津1丁目28−9根津神社境内
撮影日:2018年1月16日
根津神社については、既に記事があります。
その記事を見る
日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。

6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。


この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は②を載せます。

上部が欠落していて、台座も他の石の上二置かれているようだ。
右側の銘文に「?待庚申供養」とあり、庚申塔であることがわかる。

主尊全身


塔身:舟形光背?
主尊:観音像
日月:なし
主尊の特徴:宝冠欠落
二手:右手は与願印、左手に蓮華を持つ
造立年代:不明
高さ:117cm
右手は与願印、左手に蓮華を持ち、優しい顔である。


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撮影日:2018年1月16日
根津神社については、既に記事があります。
その記事を見る
日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。

6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。


この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は②を載せます。

上部が欠落していて、台座も他の石の上二置かれているようだ。
右側の銘文に「?待庚申供養」とあり、庚申塔であることがわかる。

主尊全身


塔身:舟形光背?
主尊:観音像
日月:なし
主尊の特徴:宝冠欠落
二手:右手は与願印、左手に蓮華を持つ
造立年代:不明
高さ:117cm
右手は与願印、左手に蓮華を持ち、優しい顔である。


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4月の花/スズラン、石楠花、都忘れ、ケマンソウ
20180425
今まで撮ってあった花をアップします。
【スズラン】
撮影場所:自宅の庭
撮影日:2002年4月15日、2008年4月28日
スズラン(鈴蘭、学名:Convallaria majalis)は、スズラン亜科スズラン属に属する多年草の一種。
君影草(きみかげそう)、谷間の姫百合(たにまのひめゆり)の別名もある。







【石楠花 しゃくなげ】
シャクナゲ (石楠花、石南花) は、ツツジ科ツツジ属 (Rhododendron) 無鱗片シャクナゲ亜属、無鱗片シャクナゲ節の総称である。
いずれも派手で大きな花に特徴がある。花の色は白あるいは赤系統が多いが、黄色の場合もある。
〇軽井沢の石楠花
撮影地:長野県軽井沢町旧道
撮影日:2002年5月3日



〇狭山市小公園の石楠花
撮影地:埼玉県狭山市柏原ニュータウン内小公園
撮影日:2011年4月21日





〇谷津バラ園の石楠花
撮影地:千葉県習志野市谷津3丁目1番14号
撮影日:2013年5月22日



〇上野東照宮ぼたん園の石楠花
撮影地:東京都台東区上野公園9−88
撮影日;2018年4月19日
「セイヨウシャクナゲ ホワイトゴールド」


赤いシャクナゲ



〇黄色い石楠花
撮影地: 静岡県三島市山中新田 山中城跡入り口付近
撮影日;2018年4月24日



【都忘れ】
撮影地:東京都台東区上野公園9−88 上野東照宮ぼたん園
撮影日;2018年4月19日
ミヤコワスレは、本州、四国、九州の山地に自生するミヤマヨメナの園芸品種につけられた和名です。ミヤマヨメナは淡青色ですが、江戸時代から改良されてきたミヤコワスレには淡青色だけでなく、青やピンク、白があり、4月から6月にかけて花を咲かせます。





【ケマンソウ】
撮影地:東京都台東区上野公園9−88 上野東照宮ぼたん園
撮影日;2018年4月19日
ケマンソウ(学名 Lamprocapnos spectabilis)はケマンソウ亜科の多年草。観賞用によく栽培され、花色は桃色のほかに白がある。別名タイツリソウともいう。ケマンは仏具の華鬘から。
草丈は30-60cm程になり、葉が緑白色を帯びる。2回3出羽状複葉で小葉は細裂する。 花期は4-6月で、斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花を付ける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎一本に花が最大で15輪ほど釣り下がって咲き、あたかも鯛が釣竿にぶら下がっているように見えるため、「タイツリソウ」の名が付いた。



(了)
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【スズラン】
撮影場所:自宅の庭
撮影日:2002年4月15日、2008年4月28日
スズラン(鈴蘭、学名:Convallaria majalis)は、スズラン亜科スズラン属に属する多年草の一種。
君影草(きみかげそう)、谷間の姫百合(たにまのひめゆり)の別名もある。







【石楠花 しゃくなげ】
シャクナゲ (石楠花、石南花) は、ツツジ科ツツジ属 (Rhododendron) 無鱗片シャクナゲ亜属、無鱗片シャクナゲ節の総称である。
いずれも派手で大きな花に特徴がある。花の色は白あるいは赤系統が多いが、黄色の場合もある。
〇軽井沢の石楠花
撮影地:長野県軽井沢町旧道
撮影日:2002年5月3日



〇狭山市小公園の石楠花
撮影地:埼玉県狭山市柏原ニュータウン内小公園
撮影日:2011年4月21日





〇谷津バラ園の石楠花
撮影地:千葉県習志野市谷津3丁目1番14号
撮影日:2013年5月22日



〇上野東照宮ぼたん園の石楠花
撮影地:東京都台東区上野公園9−88
撮影日;2018年4月19日
「セイヨウシャクナゲ ホワイトゴールド」


赤いシャクナゲ



〇黄色い石楠花
撮影地: 静岡県三島市山中新田 山中城跡入り口付近
撮影日;2018年4月24日



【都忘れ】
撮影地:東京都台東区上野公園9−88 上野東照宮ぼたん園
撮影日;2018年4月19日
ミヤコワスレは、本州、四国、九州の山地に自生するミヤマヨメナの園芸品種につけられた和名です。ミヤマヨメナは淡青色ですが、江戸時代から改良されてきたミヤコワスレには淡青色だけでなく、青やピンク、白があり、4月から6月にかけて花を咲かせます。





【ケマンソウ】
撮影地:東京都台東区上野公園9−88 上野東照宮ぼたん園
撮影日;2018年4月19日
ケマンソウ(学名 Lamprocapnos spectabilis)はケマンソウ亜科の多年草。観賞用によく栽培され、花色は桃色のほかに白がある。別名タイツリソウともいう。ケマンは仏具の華鬘から。
草丈は30-60cm程になり、葉が緑白色を帯びる。2回3出羽状複葉で小葉は細裂する。 花期は4-6月で、斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花を付ける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎一本に花が最大で15輪ほど釣り下がって咲き、あたかも鯛が釣竿にぶら下がっているように見えるため、「タイツリソウ」の名が付いた。



(了)
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川越・三芳野神社の狛犬
20180423
所在地:埼玉県川越市郭町2-25-11 三芳野神社
拝観日:2018年3月28日
この狛犬は、川越市立博物館の企画展「三芳野神社とその社宝」展のチラシで、狛犬が展示されているのが判ったので、見に行きました。

三芳野神社は、江戸時代は川越城の中にあり、そのため「とおりゃんせ」の童唄が生まれたわけです。
三芳野神社の本殿は、江戸城二の丸にあった東照宮から移築されたそうで、この狛犬も社伝では、将軍吉宗公奉納と云う事であり、製作したのは鎌倉八幡宮御用仏師の三名で、仙波東照宮の随身も制作している。
年代:享保19年(1734)
材質:木製
型式:神殿型
高さ:阿形55.2Cm、吽形62.2cm
企画展は撮影禁止なので、図録に載っていた写真を借用します。
阿形獅子




吽形狛犬、角あり。




寄木造り、玉眼、金箔、彩色
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は、「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。 狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施し、角あり。」とある。
今回の狛犬の毛髪の彩色が、獅子は緑色、狛犬が青色になっているのは基準通りで素晴らしい。
特徴:
・阿形獅子はたてがみは巻毛、四肢の房毛及び尾の毛先の大半を巻毛とする。両耳を伏せて、玉眼、大きく口を開いて歯と舌を出し、牙を表す。
・吽形は、二股の立派な角あり、たてがみは房状の直毛、四肢の房毛及び尾の毛先の大半を直毛とする。両耳を立て、玉眼、口を閉じ噛みしめている歯と牙が目立つ。
・前足は一方を前方に踏み出して動きがある。
・後足は蹲踞。
・尾は、二段に立った葉団扇型。
尾が二段に立っているのが珍しい。


・
台座が長方形の礼盤型で立派なもの。
各々の外板に格狭間を造り、金鋼製透彫や牡丹唐草文彫りの金鋼製飾金具を付けている。

狛犬の記事一覧を見る
拝観日:2018年3月28日
この狛犬は、川越市立博物館の企画展「三芳野神社とその社宝」展のチラシで、狛犬が展示されているのが判ったので、見に行きました。

三芳野神社は、江戸時代は川越城の中にあり、そのため「とおりゃんせ」の童唄が生まれたわけです。
三芳野神社の本殿は、江戸城二の丸にあった東照宮から移築されたそうで、この狛犬も社伝では、将軍吉宗公奉納と云う事であり、製作したのは鎌倉八幡宮御用仏師の三名で、仙波東照宮の随身も制作している。
年代:享保19年(1734)
材質:木製
型式:神殿型
高さ:阿形55.2Cm、吽形62.2cm
企画展は撮影禁止なので、図録に載っていた写真を借用します。
阿形獅子




吽形狛犬、角あり。




寄木造り、玉眼、金箔、彩色
平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は、「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。 狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施し、角あり。」とある。
今回の狛犬の毛髪の彩色が、獅子は緑色、狛犬が青色になっているのは基準通りで素晴らしい。
特徴:
・阿形獅子はたてがみは巻毛、四肢の房毛及び尾の毛先の大半を巻毛とする。両耳を伏せて、玉眼、大きく口を開いて歯と舌を出し、牙を表す。
・吽形は、二股の立派な角あり、たてがみは房状の直毛、四肢の房毛及び尾の毛先の大半を直毛とする。両耳を立て、玉眼、口を閉じ噛みしめている歯と牙が目立つ。
・前足は一方を前方に踏み出して動きがある。
・後足は蹲踞。
・尾は、二段に立った葉団扇型。
尾が二段に立っているのが珍しい。


・
台座が長方形の礼盤型で立派なもの。
各々の外板に格狭間を造り、金鋼製透彫や牡丹唐草文彫りの金鋼製飾金具を付けている。

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季節の花/ミツマタ
20180423
撮影地:神奈川県鎌倉市円覚寺&浄智寺
撮影日:2014年3月18日
この日、鎌倉五山めぐりを行ったときに一緒に撮ってあったもの。
ミツマタ(三椏、学名:Edgeworthia chrysantha)は、冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙の原料として用いられる[2]。
ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれる持ち前があるために「ミツマタ」と名付けられた。三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。
古代には「サキクサの」という言葉が「三(み)つ」という言端(ことば)に係る枕詞とされており(例:「三枝〔サキクサ〕の三つば四つばの中に殿づくりせりや」〔催馬楽・この殿は〕)、枝が三つに分かれるミツマタは昔は「サキクサ」と呼ばれていたと考えられている。そう名付けられた訳(わけ)としては、ミツマタはあたかも春を告げるかのごとく一足先に淡い黄色の花を一斉に開(ひ)らくため、その故(ゆえ)をもって「先草=サキクサ」と呼ばれたのだとの考えがある。
〇円覚寺にて


〇浄智寺にて





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撮影日:2014年3月18日
この日、鎌倉五山めぐりを行ったときに一緒に撮ってあったもの。
ミツマタ(三椏、学名:Edgeworthia chrysantha)は、冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙の原料として用いられる[2]。
ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれる持ち前があるために「ミツマタ」と名付けられた。三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。
古代には「サキクサの」という言葉が「三(み)つ」という言端(ことば)に係る枕詞とされており(例:「三枝〔サキクサ〕の三つば四つばの中に殿づくりせりや」〔催馬楽・この殿は〕)、枝が三つに分かれるミツマタは昔は「サキクサ」と呼ばれていたと考えられている。そう名付けられた訳(わけ)としては、ミツマタはあたかも春を告げるかのごとく一足先に淡い黄色の花を一斉に開(ひ)らくため、その故(ゆえ)をもって「先草=サキクサ」と呼ばれたのだとの考えがある。
〇円覚寺にて


〇浄智寺にて





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牡丹、芍薬/上野東照宮ぼたん園
20180420
撮影日:2018年4月19日
この日、上野の西洋美術館に「プラド展」を見に行った後、牡丹が盛りと云う事で、見に行きました。
上野東照宮入り口

先に東照宮にお参り。

いよいよ、ぼたん園に。


ここで牡丹と芍薬はどう違うのか、と同行したカミさんと娘に聞かれましたが、説明できず(汗)
帰ってから調べました。
昔から女性の美しさを表現する際に、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と云われていますよね。
①牡丹は樹木であり、芍薬は草である
牡丹は、木のまま冬を越して、茎から芽を出します。 芍薬は、冬、根を残して枯れてしまい、春にまた新芽を出します。つまり、冬の越し方は、まったく違います。
②牡丹の葉は、ギザギザでツヤがない。 芍薬の葉は、丸みがありツヤがある。
③牡丹のつぼみは、先が少しとんがっています。 芍薬のつぼみは、まん丸です。
④牡丹の花は、一気にそして豪快に散っていきます。芍薬の花は、最後までしがみつきながら散っていきます。
先に牡丹、続いて芍薬を載せます。
【牡丹】
〇「島津紅」

〇「花遊(はなあそび)」


〇「ハイヌーン」


〇「島の藤」


〇「鎌田錦」



〇「富士の峰」



〇「春柳」



〇「五大州」



〇「黄冠」



同じく「黄冠」


〇「八千代椿」



〇「緑胡蝶(りょっこちょう)」


〇「島錦」


〇「連鶴」



〇「長寿楽」




〇「八重桜」


【芍薬】
〇「コーラルチャーム」


〇「プレアリームーン」



(了)
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この日、上野の西洋美術館に「プラド展」を見に行った後、牡丹が盛りと云う事で、見に行きました。
上野東照宮入り口

先に東照宮にお参り。

いよいよ、ぼたん園に。


ここで牡丹と芍薬はどう違うのか、と同行したカミさんと娘に聞かれましたが、説明できず(汗)
帰ってから調べました。
昔から女性の美しさを表現する際に、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と云われていますよね。
①牡丹は樹木であり、芍薬は草である
牡丹は、木のまま冬を越して、茎から芽を出します。 芍薬は、冬、根を残して枯れてしまい、春にまた新芽を出します。つまり、冬の越し方は、まったく違います。
②牡丹の葉は、ギザギザでツヤがない。 芍薬の葉は、丸みがありツヤがある。
③牡丹のつぼみは、先が少しとんがっています。 芍薬のつぼみは、まん丸です。
④牡丹の花は、一気にそして豪快に散っていきます。芍薬の花は、最後までしがみつきながら散っていきます。
先に牡丹、続いて芍薬を載せます。
【牡丹】
〇「島津紅」

〇「花遊(はなあそび)」


〇「ハイヌーン」


〇「島の藤」


〇「鎌田錦」



〇「富士の峰」



〇「春柳」



〇「五大州」



〇「黄冠」



同じく「黄冠」


〇「八千代椿」



〇「緑胡蝶(りょっこちょう)」


〇「島錦」


〇「連鶴」



〇「長寿楽」




〇「八重桜」


【芍薬】
〇「コーラルチャーム」


〇「プレアリームーン」



(了)
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川越・水上公園の八重桜
20180416
撮影地:埼玉県川越市大字池辺880 水上公園
撮影日:2018年4月14日
川越水上公園に、わりと八重桜が多いことを聞き、見に行きました。
池のまわりの遊歩道沿いに八重桜が植えられている。








家族が鴨に餌をあげていたら、ユリカモメも飛んできてすごい賑やかなことになった(笑)


スワンボートとユリカモメ

ここには、三種類の八重桜が植えてあった。
【一葉 イチヨウ】
この桜は、離れて見ると白い花に見える。




【関山 カンザン】






【普賢象 フゲンゾウ】
名前の由来は、雌しべが花の中央から2本出ており、細い葉のように葉化している。この雌しべが普賢菩薩の乗る普賢象の鼻に似ている事からこの名前がつけられたという。






同じ銘だが、違う樹ではまた違った印象に咲いていた。





(了)
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撮影日:2018年4月14日
川越水上公園に、わりと八重桜が多いことを聞き、見に行きました。
池のまわりの遊歩道沿いに八重桜が植えられている。








家族が鴨に餌をあげていたら、ユリカモメも飛んできてすごい賑やかなことになった(笑)


スワンボートとユリカモメ

ここには、三種類の八重桜が植えてあった。
【一葉 イチヨウ】
この桜は、離れて見ると白い花に見える。




【関山 カンザン】






【普賢象 フゲンゾウ】
名前の由来は、雌しべが花の中央から2本出ており、細い葉のように葉化している。この雌しべが普賢菩薩の乗る普賢象の鼻に似ている事からこの名前がつけられたという。






同じ銘だが、違う樹ではまた違った印象に咲いていた。





(了)
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青面金剛庚申塔/文京区根津神社①
20180413
所在地:文京区根津1丁目28−9根津神社境内
撮影日:2018年1月16日
根津神社については、既に記事があります。
その記事を見る
日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。

6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。


この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は①を載せます。


塔身:唐破風笠付角柱型
主尊:三面六臂青面金剛
日月:なし
主尊の特徴:三面六臂、髪火焔、頭に髑髏
本手:なし
六臂が持つ法具:矛、弓、蛇が巻き付いた棒、羂索、矢、宝輪
脇侍:猿、二鶏、台座に三猿
造立年代:寛文8年(1668)
高さ:140cm
三面六臂の青面金剛


銘文
向かって右側に「寛文八 戊申 歳十月十八日」とあり、
向かって左側に「武刕豊島郡江戸駒込村」とある。「江戸」と入っているのは珍しい。

青面金剛は三面で、髪が火焔、前頭に髑髏を載せている。


六臂は、合掌又は剣とショケラを持つ「本手」が無く、右上から矛、弓、蛇が巻き付いた棒、羂索、矢、宝輪を持つ。

『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容は、 「四本の手で向って左は上の手に三叉の矛を、下の手に棒を持ち、右は上の手に輪宝を、下の手に羂索(縄)を持つ。身体は青色で口を開き、牙を出し、三眼で頭に髑髏をいただき、髪は火焔のように逆立ち、頚に大蛇を掛け、両腕に二匹の龍、腰と両足に二匹の蛇がまといつき、持った棒にも蛇がまといつく。腰には虎の皮を巻き、髑髏の首飾り・胸飾りをつけ、両足で一匹ずつ鬼を踏む。」となっていて、
そのうち、今回の像が蛇がまといつく棒を持っているのはとても珍しい。蛇が頭をもたげているところがハッキリ見えるのはこの像だけだと思う。
青面金剛は邪鬼を踏んでおらず、岩の上に立つ。
その下に、中央に扇を持ち三番叟を踊る猿。左右に雄鶏と雌鶏を配している。

下の台座に三猿が配置されているが、その上に3つの紋が埋め込まれている。
石の材質が異なっているので、後から加えたものだと思われる。


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撮影日:2018年1月16日
根津神社については、既に記事があります。
その記事を見る
日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。

6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。


この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は①を載せます。


塔身:唐破風笠付角柱型
主尊:三面六臂青面金剛
日月:なし
主尊の特徴:三面六臂、髪火焔、頭に髑髏
本手:なし
六臂が持つ法具:矛、弓、蛇が巻き付いた棒、羂索、矢、宝輪
脇侍:猿、二鶏、台座に三猿
造立年代:寛文8年(1668)
高さ:140cm
三面六臂の青面金剛


銘文
向かって右側に「寛文八 戊申 歳十月十八日」とあり、
向かって左側に「武刕豊島郡江戸駒込村」とある。「江戸」と入っているのは珍しい。

青面金剛は三面で、髪が火焔、前頭に髑髏を載せている。


六臂は、合掌又は剣とショケラを持つ「本手」が無く、右上から矛、弓、蛇が巻き付いた棒、羂索、矢、宝輪を持つ。

『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容は、 「四本の手で向って左は上の手に三叉の矛を、下の手に棒を持ち、右は上の手に輪宝を、下の手に羂索(縄)を持つ。身体は青色で口を開き、牙を出し、三眼で頭に髑髏をいただき、髪は火焔のように逆立ち、頚に大蛇を掛け、両腕に二匹の龍、腰と両足に二匹の蛇がまといつき、持った棒にも蛇がまといつく。腰には虎の皮を巻き、髑髏の首飾り・胸飾りをつけ、両足で一匹ずつ鬼を踏む。」となっていて、
そのうち、今回の像が蛇がまといつく棒を持っているのはとても珍しい。蛇が頭をもたげているところがハッキリ見えるのはこの像だけだと思う。
青面金剛は邪鬼を踏んでおらず、岩の上に立つ。
その下に、中央に扇を持ち三番叟を踊る猿。左右に雄鶏と雌鶏を配している。

下の台座に三猿が配置されているが、その上に3つの紋が埋め込まれている。
石の材質が異なっているので、後から加えたものだと思われる。


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撮影地:埼玉県狭山市智光山公園
撮影日:2018年4月12日
この日、午前中智光山公園でウォーキングしましたが、その時に緑化植物園などで咲いている花を撮りました。
芝生公園からひょうたん池に通じる日陰の道沿いにチューリップが。


緑化植物園で咲いている花を撮りました。
【ミツバツツジ】

ツツジ科ツツジ属の落葉低木。また、近縁のミツバツツジ類の総称でもある。 関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布し、主にやせた尾根や岩場、里山の雑木林などに生育する。他のミツバツツジ類の多くは雄しべが10本なのに対し、本種は5本であることが大きな特徴。古くから庭木としても植えられるが、盗掘の影響もあるせいか野生の個体数は決して多くない。
ミツバツツジ類は、4-5月頃に咲く紅紫色の花が美しい。花が終わってから葉が出てくる。枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついた。




葉がこのように三つ葉です。

【ハナミズキ】

ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。別名、アメリカヤマボウシ。
ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。また、アメリカヤマボウシの名は、アメリカ原産で日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。
樹皮は灰黒色。
葉は楕円形となっている。秋には紅葉する。
花期は4月下旬から5月上旬で、白色や薄いピンク色の花をつける。但し、花弁のように見えるのは総苞で、中心の塊が花序である。実際の花は、4弁の直径5mm程度の目立たない花が集合して、順次開花する。
秋につける果実は複合果で、赤い。




芝生公園の横にも、白い花のハナミズキが数本あった。


【ズミ】

ズミ(酸実、桷、学名:Malus toringo)は、バラ科リンゴ属の1種である。リンゴに近縁な野生種である。
語源は、染料となることから染み(そみ)、あるいは、実が酸っぱいことから酢実、とも。
カイドウ、リンゴ(いずれも同じリンゴ属)、ナシ(同科ナシ属)に似ることから、ヒメカイドウ、ミツバカイドウ、ミヤマカイドウ、コリンゴ、コナシ、サナシなどとも。ただし、サナシは地方によっては別の種(ヤマナシなど)を意味することもある。棠梨という表記もある。




【ブルーペリー】

ツツジ科スノキ属シアノコカス節に分類される北アメリカ原産の落葉低木果樹の総称である。
栽培品種の成木の樹高は1.5-3m。春に白色の釣鐘状の花を咲かせ、花後に0.5-1.5cmほどの青紫色の小果実が生る。北米大陸でのみ栽培される野生種に近い品種は数十cm程度の低木である。果実は北アメリカでは古くから食用とされてきたが、20世紀に入り果樹としての品種改良が進み、ハイブッシュ系、ラビットアイ系、ハーフハイブッシュ系、ローブッシュ系の交配により多くの品種が作出された。




【シバザクラ(白)】

シバザクラ(芝桜、学名:Phlox subulata)はハナシノブ科の多年草。別名、ハナツメクサ(花詰草、花爪草)。
英名は「モスフロックス」(「苔状のフロックス」の意味)といい、同属をまとめてフロックスと呼ぶ。花期をずらして混植されることもある。フロックス・ストロニフェラ(ツルハナシノブ)、フロックス・ドラモンディー(スターフロックス)、フロックス・パニクラータ(オイランソウ、クサキョウチクトウ)等あるがそれぞれ別種である。





【トキワマンサク】

トキワマンサク(常磐万作、学名:Loropetalum chinense)とはマンサク科の植物の一種。
本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布する。但し、日本での自生は極めて限定的で、静岡県湖西市・三重県伊勢神宮・熊本県荒尾市のみ知られる。常緑小高木。花期は5月頃で細長い4枚の花弁の花を咲かせる。花の色は、基本種はごく薄い黄色であるが、紅色の変種であるベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubrum(中国原産で葉も赤みを帯びる)がよく栽培されている。





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撮影日:2018年4月12日
この日、午前中智光山公園でウォーキングしましたが、その時に緑化植物園などで咲いている花を撮りました。
芝生公園からひょうたん池に通じる日陰の道沿いにチューリップが。


緑化植物園で咲いている花を撮りました。
【ミツバツツジ】

ツツジ科ツツジ属の落葉低木。また、近縁のミツバツツジ類の総称でもある。 関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布し、主にやせた尾根や岩場、里山の雑木林などに生育する。他のミツバツツジ類の多くは雄しべが10本なのに対し、本種は5本であることが大きな特徴。古くから庭木としても植えられるが、盗掘の影響もあるせいか野生の個体数は決して多くない。
ミツバツツジ類は、4-5月頃に咲く紅紫色の花が美しい。花が終わってから葉が出てくる。枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついた。




葉がこのように三つ葉です。

【ハナミズキ】

ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。別名、アメリカヤマボウシ。
ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。また、アメリカヤマボウシの名は、アメリカ原産で日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。
樹皮は灰黒色。
葉は楕円形となっている。秋には紅葉する。
花期は4月下旬から5月上旬で、白色や薄いピンク色の花をつける。但し、花弁のように見えるのは総苞で、中心の塊が花序である。実際の花は、4弁の直径5mm程度の目立たない花が集合して、順次開花する。
秋につける果実は複合果で、赤い。




芝生公園の横にも、白い花のハナミズキが数本あった。


【ズミ】

ズミ(酸実、桷、学名:Malus toringo)は、バラ科リンゴ属の1種である。リンゴに近縁な野生種である。
語源は、染料となることから染み(そみ)、あるいは、実が酸っぱいことから酢実、とも。
カイドウ、リンゴ(いずれも同じリンゴ属)、ナシ(同科ナシ属)に似ることから、ヒメカイドウ、ミツバカイドウ、ミヤマカイドウ、コリンゴ、コナシ、サナシなどとも。ただし、サナシは地方によっては別の種(ヤマナシなど)を意味することもある。棠梨という表記もある。




【ブルーペリー】

ツツジ科スノキ属シアノコカス節に分類される北アメリカ原産の落葉低木果樹の総称である。
栽培品種の成木の樹高は1.5-3m。春に白色の釣鐘状の花を咲かせ、花後に0.5-1.5cmほどの青紫色の小果実が生る。北米大陸でのみ栽培される野生種に近い品種は数十cm程度の低木である。果実は北アメリカでは古くから食用とされてきたが、20世紀に入り果樹としての品種改良が進み、ハイブッシュ系、ラビットアイ系、ハーフハイブッシュ系、ローブッシュ系の交配により多くの品種が作出された。




【シバザクラ(白)】

シバザクラ(芝桜、学名:Phlox subulata)はハナシノブ科の多年草。別名、ハナツメクサ(花詰草、花爪草)。
英名は「モスフロックス」(「苔状のフロックス」の意味)といい、同属をまとめてフロックスと呼ぶ。花期をずらして混植されることもある。フロックス・ストロニフェラ(ツルハナシノブ)、フロックス・ドラモンディー(スターフロックス)、フロックス・パニクラータ(オイランソウ、クサキョウチクトウ)等あるがそれぞれ別種である。





【トキワマンサク】

トキワマンサク(常磐万作、学名:Loropetalum chinense)とはマンサク科の植物の一種。
本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布する。但し、日本での自生は極めて限定的で、静岡県湖西市・三重県伊勢神宮・熊本県荒尾市のみ知られる。常緑小高木。花期は5月頃で細長い4枚の花弁の花を咲かせる。花の色は、基本種はごく薄い黄色であるが、紅色の変種であるベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubrum(中国原産で葉も赤みを帯びる)がよく栽培されている。





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浅草から千住大橋探訪(後半)
20180410
3月6日に歴史クラブ行事で歩きましたが、その後半です。
小塚原回向院から、吉野通りを離れ横に移動して、日光街道に出て、円通寺に到着。
【⑥円通寺】

寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行っている。そのため、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もある。
また、1963年3月に発生し、1965年7月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られる(敷地内に被害者の慰霊地蔵がある)。
門扉が閉じているが、そこからの参道の左右に狛犬が居た。
顔が巨大で、なかなか面白い。





黒門:鉄砲の穴だらけで、戦闘の激しさを物語る。



首塚・七重の塔:八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築く、これ
により、この地が小塚原と呼ばれる事となった。



この塚に、板碑が4基あり。



彰義隊士の墓(右側五輪の塔):上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体を供養したもの。



死節之墓:彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に密かに立て、鳥羽、伏見、函館、会津
などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養していて、当寺に移築されたもの。
土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。



黒門と彰義隊士の墓の間に、供養碑が林立している。

〇松平太郎:
旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。
土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。のち、静岡に隠遁して余生を送る。

〇小芝長之助の墓:
もと公儀御庭番。
当寺二十七世の頃(大正時代)まで存命し、円通寺の住み込み使用人となっていた。
函館戦争で戦死した土方歳三の遺体を五稜郭より引き取りに出向き、いずこかへ埋葬した本人。

〇新門辰五郎の碑:
江戸の町火消の大親分。義父、町田仁右衛門は東叡山輪王寺宮の衛士で浅草十番組に所属する町火消の頭領であったため、輪王寺宮が浅草・浅草寺の別院「伝法院」隠棲する際、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった、それで新門辰五郎と呼ばれる様になった。
また、辰五郎の娘は将軍「慶喜」の愛妾

当寺の寺号「園通精舎」額は榎本武揚の書。


榎本武揚:
幕臣・陸軍奉行として官軍と戦うが、函館にて降伏。
明治5年に出獄してすぐ、明治政府に出仕、工部大学校校長、学習院院長、華族女学校校長を歴任。22年特命全権清国駐箚公使
ミニチュアの大砲が置いてあった。

吉展ちゃん地蔵

本堂の上に置かれた、巨大な観音様を仰いで、寺を後にした。

【⑦素盞雄神社】
当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があった。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様(素盞雄神、飛鳥大神=大国主神)が翁に姿を変えて現れた。黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が創建された。
素盞雄命が遥か遠くの南の海に妻問いに出た時、旅に疲れはてた素盞雄命は蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞うた。裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服も汚れたその姿を見て、怪しみ惜しんで貸さなかったが、家も小さく貧しい生活をしていた兄の蘇民将来は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをした。そして歳月が経ち、再びその地を訪れた素盞雄命は兄に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えるでしょう。」と伝え帰りました。その後、突然二人の住んでいる村に疫病が流行ったが、茅の輪をつけていた兄の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまった。それ以来、村人は疫病が流行ると「蘇民将来子孫也」と口々に唱え、茅の輪を腰に付け疫病から免れるようになった。
注)この話は本来、牛頭天王の話であり、現在は牛頭天王=素盞雄命と変化している。京都の祇園祭を含
む天王祭は、牛頭天王を鎮める祭りである。
素盞雄神社については、既に記事があります。
その記事を見る
この日は3月6日でしたが、雛祭りの最中でした。
この神社では2月末から4月初旬にかけて、境内に約2000体の雛人形が飾られ、境内の桃の花や菜の花が咲き見頃を迎えます。4月1日から8日までの間のみ江戸時代より伝わる災厄除けの「白桃樹御守」が授与されるそうです。
拝殿横の玄関にも、たくさんの雛人形が飾られていた。




神楽殿にもたくさんの雛人形が。




境内の桃の花が咲き始めていた。





境内に「荒川区から荒川が消えた」という面白い説明があった。

素盞雄神社を出て、日光街道を千住大橋に向けて歩いていると、道路に昭和34年の写真が飾ってあった。
当時は路面電車が走っていたことがわかる。

【⑦千住大橋】

最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。
架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。
架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。
関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。


元禄2年(1689)3月27日(新5月16日)松尾芭蕉は門人曾良を伴い、江戸深川から船に乗り、千住大橋のたもとで陸に上がり、日光道中初宿千住から奥州、北陸、美濃へと旅立ちます。
千住大橋には「奥の細道矢立初めの地」の石柱が立ち、素盞雄神社境内に矢立初句「行く春や鳥啼き魚
の目は泪」の句碑が立っています。
橋を渡ったところに、「奥の細道 矢立の地」の碑が立つ。

ここからテラスに降りると、色々な説明のパネルがあるのだが、この日は何と云う事!
工事中でテラスに降りられません(泣)
仕方ないので、橋の上からテラスを撮影。



そこから歩いてすぐの、京成「千住大橋」駅に行き、そこで解散。
この日の予定を終え、帰途につきました。
(了)
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小塚原回向院から、吉野通りを離れ横に移動して、日光街道に出て、円通寺に到着。
【⑥円通寺】

寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行っている。そのため、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もある。
また、1963年3月に発生し、1965年7月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られる(敷地内に被害者の慰霊地蔵がある)。
門扉が閉じているが、そこからの参道の左右に狛犬が居た。
顔が巨大で、なかなか面白い。





黒門:鉄砲の穴だらけで、戦闘の激しさを物語る。



首塚・七重の塔:八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築く、これ
により、この地が小塚原と呼ばれる事となった。



この塚に、板碑が4基あり。



彰義隊士の墓(右側五輪の塔):上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体を供養したもの。



死節之墓:彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に密かに立て、鳥羽、伏見、函館、会津
などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養していて、当寺に移築されたもの。
土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。



黒門と彰義隊士の墓の間に、供養碑が林立している。

〇松平太郎:
旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。
土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。のち、静岡に隠遁して余生を送る。

〇小芝長之助の墓:
もと公儀御庭番。
当寺二十七世の頃(大正時代)まで存命し、円通寺の住み込み使用人となっていた。
函館戦争で戦死した土方歳三の遺体を五稜郭より引き取りに出向き、いずこかへ埋葬した本人。

〇新門辰五郎の碑:
江戸の町火消の大親分。義父、町田仁右衛門は東叡山輪王寺宮の衛士で浅草十番組に所属する町火消の頭領であったため、輪王寺宮が浅草・浅草寺の別院「伝法院」隠棲する際、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった、それで新門辰五郎と呼ばれる様になった。
また、辰五郎の娘は将軍「慶喜」の愛妾

当寺の寺号「園通精舎」額は榎本武揚の書。


榎本武揚:
幕臣・陸軍奉行として官軍と戦うが、函館にて降伏。
明治5年に出獄してすぐ、明治政府に出仕、工部大学校校長、学習院院長、華族女学校校長を歴任。22年特命全権清国駐箚公使
ミニチュアの大砲が置いてあった。

吉展ちゃん地蔵

本堂の上に置かれた、巨大な観音様を仰いで、寺を後にした。

【⑦素盞雄神社】
当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があった。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様(素盞雄神、飛鳥大神=大国主神)が翁に姿を変えて現れた。黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が創建された。
素盞雄命が遥か遠くの南の海に妻問いに出た時、旅に疲れはてた素盞雄命は蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞うた。裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服も汚れたその姿を見て、怪しみ惜しんで貸さなかったが、家も小さく貧しい生活をしていた兄の蘇民将来は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをした。そして歳月が経ち、再びその地を訪れた素盞雄命は兄に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えるでしょう。」と伝え帰りました。その後、突然二人の住んでいる村に疫病が流行ったが、茅の輪をつけていた兄の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまった。それ以来、村人は疫病が流行ると「蘇民将来子孫也」と口々に唱え、茅の輪を腰に付け疫病から免れるようになった。
注)この話は本来、牛頭天王の話であり、現在は牛頭天王=素盞雄命と変化している。京都の祇園祭を含
む天王祭は、牛頭天王を鎮める祭りである。
素盞雄神社については、既に記事があります。
その記事を見る
この日は3月6日でしたが、雛祭りの最中でした。
この神社では2月末から4月初旬にかけて、境内に約2000体の雛人形が飾られ、境内の桃の花や菜の花が咲き見頃を迎えます。4月1日から8日までの間のみ江戸時代より伝わる災厄除けの「白桃樹御守」が授与されるそうです。
拝殿横の玄関にも、たくさんの雛人形が飾られていた。




神楽殿にもたくさんの雛人形が。




境内の桃の花が咲き始めていた。





境内に「荒川区から荒川が消えた」という面白い説明があった。

素盞雄神社を出て、日光街道を千住大橋に向けて歩いていると、道路に昭和34年の写真が飾ってあった。
当時は路面電車が走っていたことがわかる。

【⑦千住大橋】

最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。
架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。
架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。
関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。


元禄2年(1689)3月27日(新5月16日)松尾芭蕉は門人曾良を伴い、江戸深川から船に乗り、千住大橋のたもとで陸に上がり、日光道中初宿千住から奥州、北陸、美濃へと旅立ちます。
千住大橋には「奥の細道矢立初めの地」の石柱が立ち、素盞雄神社境内に矢立初句「行く春や鳥啼き魚
の目は泪」の句碑が立っています。
橋を渡ったところに、「奥の細道 矢立の地」の碑が立つ。

ここからテラスに降りると、色々な説明のパネルがあるのだが、この日は何と云う事!
工事中でテラスに降りられません(泣)
仕方ないので、橋の上からテラスを撮影。



そこから歩いてすぐの、京成「千住大橋」駅に行き、そこで解散。
この日の予定を終え、帰途につきました。
(了)
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シャガ
20180408
撮影地:東京都渋谷区東福寺境内
撮影日:2018年4月7日
シャガ(射干、著莪、胡蝶花、学名:Iris japonica)は、アヤメ科アヤメ属の多年草である。
特徴:
人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生する。開花期は4 - 5月ごろで、白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。花弁に濃い紫と黄色の模様がある。根茎は短く横に這い、群落を形成する。草丈は高さは50 - 60 センチ・メートル程度までになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。いわゆる単面葉であるが、この種の場合、株の根本から左右どちらかに傾いて伸びて、葉の片面だけを上に向け、その面が表面のような様子になり、二次的に裏表が生じている。





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撮影日:2018年4月7日
シャガ(射干、著莪、胡蝶花、学名:Iris japonica)は、アヤメ科アヤメ属の多年草である。
特徴:
人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生する。開花期は4 - 5月ごろで、白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。花弁に濃い紫と黄色の模様がある。根茎は短く横に這い、群落を形成する。草丈は高さは50 - 60 センチ・メートル程度までになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。いわゆる単面葉であるが、この種の場合、株の根本から左右どちらかに傾いて伸びて、葉の片面だけを上に向け、その面が表面のような様子になり、二次的に裏表が生じている。





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市川三郷熊野神社の狛犬
20180406
所在地:山梨県西八代郡市川三郷町熊野神社本殿高欄
撮影日:2018年3月31日
この狛犬は東日本では最古と云われているので、前々から訪ねたかった。
ようやく見ることが出来た。
拝殿前には、昭和4年奉納の狛犬もあり、これも良好な狛犬だったので後日紹介する。

今回の狛犬は、本殿の前にあるという情報である。


瑞垣の塀の隙間から覗き込むと、高欄の上に居ることがわかった。

瑞垣の塀の隙間からでは、高欄の床に邪魔されて見えない。瑞垣の塀の高さでは見ることが不可能。
いつも車で撮影に行くときには脚立を積んで出かけるのが幸いして、なんとかどんな形なのかは確認ができたのは幸いだった。

しかし高欄に邪魔されて、満足できる撮影は出来なかった。
年代:応永12年(1405)
材質:石造
型式:はじめ型
年代については、応永12(1405)年の日付が腹部に刻まれているそうだが、今回の撮影では確認はできなかった。
右側が、吽形獅子。


左側が、阿形狛犬


前方からが、どうしてもうまく撮れなかった。

斜め後ろからは撮れた。

特徴:
・前足は肉厚の板みたいな感じ。ピーンと立っている。
・胴体は太い丸太棒の感じ。
・後足は立ち上がっていて、四つん這い。
・たてがみは、吽形は巻き毛であり獅子となる。阿形は微妙だが流れているので狛犬。
・耳は伏せて、目が飛び出ているのが異様。
・鼻は普通。
・阿形に牙らしきもの見える外は歯は見えない。
・胴や足には体毛の表現は無い。
・尾は、三本のワラビ状で、背中に付いている。
たてがみは、吽形は巻き毛であり獅子となる。阿形は微妙だが流れているので狛犬。
・耳は伏せて、目が飛び出ているのが異様。



尾は、三本のワラビ状で、背中に付いている。

この狛犬だが、四つん這いなのはこの狛犬しか私は知らない。
また、目が飛び出している不思議な顔もこの狛犬しか知らない。
東日本で最古の石造狛犬と云われるだけあって、たぶん「狛犬というのがあるらしい。奉納したい。」と云われた石工が、限られた情報で彫ったものでしょう。
だから「はじめ型」は、バリエーションが豊富で、しかも親しみやすい造型で、私の一番好きなタイプである。
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撮影日:2018年3月31日
この狛犬は東日本では最古と云われているので、前々から訪ねたかった。
ようやく見ることが出来た。
拝殿前には、昭和4年奉納の狛犬もあり、これも良好な狛犬だったので後日紹介する。

今回の狛犬は、本殿の前にあるという情報である。


瑞垣の塀の隙間から覗き込むと、高欄の上に居ることがわかった。

瑞垣の塀の隙間からでは、高欄の床に邪魔されて見えない。瑞垣の塀の高さでは見ることが不可能。
いつも車で撮影に行くときには脚立を積んで出かけるのが幸いして、なんとかどんな形なのかは確認ができたのは幸いだった。

しかし高欄に邪魔されて、満足できる撮影は出来なかった。
年代:応永12年(1405)
材質:石造
型式:はじめ型
年代については、応永12(1405)年の日付が腹部に刻まれているそうだが、今回の撮影では確認はできなかった。
右側が、吽形獅子。


左側が、阿形狛犬


前方からが、どうしてもうまく撮れなかった。

斜め後ろからは撮れた。

特徴:
・前足は肉厚の板みたいな感じ。ピーンと立っている。
・胴体は太い丸太棒の感じ。
・後足は立ち上がっていて、四つん這い。
・たてがみは、吽形は巻き毛であり獅子となる。阿形は微妙だが流れているので狛犬。
・耳は伏せて、目が飛び出ているのが異様。
・鼻は普通。
・阿形に牙らしきもの見える外は歯は見えない。
・胴や足には体毛の表現は無い。
・尾は、三本のワラビ状で、背中に付いている。
たてがみは、吽形は巻き毛であり獅子となる。阿形は微妙だが流れているので狛犬。
・耳は伏せて、目が飛び出ているのが異様。



尾は、三本のワラビ状で、背中に付いている。

この狛犬だが、四つん這いなのはこの狛犬しか私は知らない。
また、目が飛び出している不思議な顔もこの狛犬しか知らない。
東日本で最古の石造狛犬と云われるだけあって、たぶん「狛犬というのがあるらしい。奉納したい。」と云われた石工が、限られた情報で彫ったものでしょう。
だから「はじめ型」は、バリエーションが豊富で、しかも親しみやすい造型で、私の一番好きなタイプである。
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山高神代桜2018/山梨県
20180401
所在地:山梨県北巨摩郡武川村大字山高 実相寺境内
樹種:シロヒガンザクラ
樹齢:2000年以上
撮影日:2018年3月31日
日本三大桜のひとつ。
大正11年10月に国指定天然記念物第一号に指定されている。
日本最古の巨木の桜。
一説には、日本武尊が東夷征定の折りにこの地に留まり、記念にこの桜を植えたのだという。
その後、日蓮聖人がこの木の衰えを見て、回復を祈ったところ再生したため、「妙法桜」ともいわれている。
前回、この桜を記事にしたのは1998年4月5日に撮影したものだから、20年ぶりということになる。
この間、新聞に載っていて、樹勢が衰えていたのだが、樹木博士などの協力により長年の努力で樹勢が復活したとあったので、訪れた。
実相寺の山門を入る。

雄大な南アルプスを背景にして、神代桜は一番右の背の低い白い花の桜。

まずは、真っ先に神代桜を見に行く。
北側から

この堂々たる巨魁を見たら、それだけで満足。
天然記念物指定第一号。
ヤマトタケルの時代から生きている桜なのだ。

樹齢2000年の桜を守るのは、並大抵のことでしない。


明治40年(1907)の神代桜は、まだ元気だった。

土壌改良工事(平成14年~17年)の直前の様子。

南西側から

勢いよく咲いているのに感動。


手鞠のように咲いているのが独特である。


南側道路から
前回来た時には、樹の直ぐそばが道路で、樹の近くに石垣が巡らされていて、それが樹を傷めていたらしい。
今は撤去され、道路も迂回していて、樹がのびやかに見える。


この枝が、もっと長く伸びていた記憶があるが、傷んでしまっている。

こちら側の枝も、勢いよく花をつけている。



ヒコバエを発見。嬉しくなる。

神代桜の向こうにも桜が並んでいる。

「神代桜の宇宙桜」が同じ境内にあった。

若々しい樹だ。

花は、神代桜とは異なる。
宇宙の無重力の洗礼を受けて、変化したのだろうか。



山門から入ってすぐのところに、「身延山久遠寺の枝垂れ桜の子桜」があった。




山門前の道路から塀越しに、花で埋め尽くされている境内の全景を撮る。
山門から参道あたりから、反時計回りに撮った。



背が低いので判りにくいのだが、神代桜を望遠で撮った。
屋根の左の白い桜がそうだ。

撮る位置を変えて。
真ん中の白い桜がそうだ。


雄大なアルプスをバックに。

(了)
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樹種:シロヒガンザクラ
樹齢:2000年以上
撮影日:2018年3月31日
日本三大桜のひとつ。
大正11年10月に国指定天然記念物第一号に指定されている。
日本最古の巨木の桜。
一説には、日本武尊が東夷征定の折りにこの地に留まり、記念にこの桜を植えたのだという。
その後、日蓮聖人がこの木の衰えを見て、回復を祈ったところ再生したため、「妙法桜」ともいわれている。
前回、この桜を記事にしたのは1998年4月5日に撮影したものだから、20年ぶりということになる。
この間、新聞に載っていて、樹勢が衰えていたのだが、樹木博士などの協力により長年の努力で樹勢が復活したとあったので、訪れた。
実相寺の山門を入る。

雄大な南アルプスを背景にして、神代桜は一番右の背の低い白い花の桜。

まずは、真っ先に神代桜を見に行く。
北側から

この堂々たる巨魁を見たら、それだけで満足。
天然記念物指定第一号。
ヤマトタケルの時代から生きている桜なのだ。

樹齢2000年の桜を守るのは、並大抵のことでしない。


明治40年(1907)の神代桜は、まだ元気だった。

土壌改良工事(平成14年~17年)の直前の様子。

南西側から

勢いよく咲いているのに感動。


手鞠のように咲いているのが独特である。


南側道路から
前回来た時には、樹の直ぐそばが道路で、樹の近くに石垣が巡らされていて、それが樹を傷めていたらしい。
今は撤去され、道路も迂回していて、樹がのびやかに見える。


この枝が、もっと長く伸びていた記憶があるが、傷んでしまっている。

こちら側の枝も、勢いよく花をつけている。



ヒコバエを発見。嬉しくなる。

神代桜の向こうにも桜が並んでいる。

「神代桜の宇宙桜」が同じ境内にあった。

若々しい樹だ。

花は、神代桜とは異なる。
宇宙の無重力の洗礼を受けて、変化したのだろうか。



山門から入ってすぐのところに、「身延山久遠寺の枝垂れ桜の子桜」があった。




山門前の道路から塀越しに、花で埋め尽くされている境内の全景を撮る。
山門から参道あたりから、反時計回りに撮った。



背が低いので判りにくいのだが、神代桜を望遠で撮った。
屋根の左の白い桜がそうだ。

撮る位置を変えて。
真ん中の白い桜がそうだ。


雄大なアルプスをバックに。

(了)
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