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渋谷から広尾の歴史探索(前半)

20180531

5月11日に、歴史クラブ行事で参加しました。
コースは、金王八幡宮(渋谷城跡)⇒渋谷氷川神社⇒温故学会⇒國學院大學・学食⇒国学院大学博物館⇒白根記念渋谷区郷土博物館⇒旧薩摩藩下屋敷跡⇒福田会広尾フレンズ

【金王八幡宮(渋谷城跡)】
鎮座地:東京都渋谷区渋谷3-5-12
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社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。

このお宮さんについては、境内に名桜「金王桜」があり、その桜を訪ねたときに記事にしています。

その記事を見る


前記のブログに載せてなかった部分を載せておきます。

〇渋谷城の石
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桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(現在は武甲山)に納め八幡宮と崇め奉りました。
武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。
重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城としました。渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。
当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。
境内にある渋谷城跡は、平安時代末期から渋谷氏の住居があったところ。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていました。大永4年(1524年)の北条氏綱による関東攻略の際に、この城は後北条氏の別働隊によって焼失し、渋谷氏は滅びました。、境内には城の石とされる石が1点保存されています。神社の前に有る道路は堀を兼ねた小川であったとも言われています。

境内には「金王丸御影堂」があり、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。

〇金王丸御影堂
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その前には、宝暦9年(1759)奉納の「宝珠・角型」狛犬が居たが、なかなか顔が良い。
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ここは、本や映画「天地明察」の舞台であり、算額が登場する。
それで2011年3月11日に、算額が見たくて行ったときには、ずいぶん多くの算額が絵馬掛けのところに下がっていた。

その記事を見る


今回も期待していたのだが、ほとんど見当たらなかった。
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これが唯一、算額ではないが算術に関したものだった。
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金王八幡を出て、一の鳥居のある交差点に行く。
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この参道に交差しているのが旧鎌倉街道中つ道である。

代々木鳩森八幡方面
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中目黒方面
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【渋谷氷川神社】
鎮座地:東京都渋谷区東二目5番6号
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古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であった。創始は非常に古く、今これを詳かにすべきものがないが、1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあり、1713年(正徳3年)宝泉寺から幕府に出した書上には「起立の年数知れ不申候」と見えている。1782年(天明2年)正月5日阿部備中守へ差出した書類に別当宝泉寺の庫裡から出火2間3間の土蔵が炎上したことが記され、宝物史料などは、この時焼失したと伝えられている。
渋谷地区の最古の神社で、源頼朝が勧請したとか、金王丸が信仰したというのは後世に附いた伝説と見え、1732年(享保17年)に出来た「江戸砂子」にあるのが始めである。往時は松杉の類が欝蒼と茂り真に昼猶暗く渋谷川が門前を流れていかにも神さびた宮であったらしいことは「江戸名所図会」の絵にもうかがわれる。

〇相撲場
「渋谷の相撲」「金王の相撲」などといわれ、近郷近在は勿論、江戸表からも見物人が多く集まり、ある年凶年のため休んだところ、集まった面々によって遂に大相撲になった事もあるという位で、将軍家でさえ「渋谷の相撲なら見に行こう」といわれたと伝えている。昔からなかなか有名なもので、今でも神事の一つになっている。
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そこから少し石段を上がると、脇の参道があり、そこに明治29年(1896)奉納の狛犬があり、両方の子獅子が良い感じだった。
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それから更に石段を上がりきって、左に折れると社殿となる。
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続いて、境内社だが八幡神社(品陀和気命)、秋葉神社(火産霊神)、稲荷神社(宇迦御魂命)については、時間の関係で撮影できなかった。
厳島神社(市杵島姫命)の前に、江戸時代の狛犬が二組あり、これは撮影できた。

厳島神社
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その前に二組の狛犬が居た。

手前側は、明治8年(1875)奉納の「江戸流れ尾型」狛犬。
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奥側に居るのは、寛政6年(1794)奉納の「江戸尾立ち型」狛犬。
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これで氷川神社の参拝を終え、近くの「温故学会」に。

【温故学会】
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〇『登録有形文化財』の温故学会会館
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温故学会会館は、『群書類従』版木(国・重要文化財、17,244枚)を管理・保存する目的で、斎藤茂三郎初代理事長が渋沢栄一、三井八郎右温故学会会館衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て、大正15年8月に着工され、昭和2年3月に完成した。
  会館の設計・施工には清水組(現・清水建設)が担当し、堅固・耐震耐火構造を基本方針として建設された。
  会館は、鉄筋コンクリート二階建で、正面からは鳳凰が両翼を広げたような形をしており、玄関向かって右側は、1階・2階ともが版木倉庫、左側は、1階が事務室などで2階が講堂となっている。講堂は27畳と床の間を配置し、和洋折衷の珍しい構造となっている。
  関東大震災の経験を生かし建設された会館は、すでに80年を経ているが、空襲にも耐えずっしりとした風格は今日でも変わらない。
平成12年4月文化庁より『登録有形文化財』の指定を受けた。

前庭に、全盲の国学者・塙保己一の銅像がありました。
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講堂(二階)で、現在の理事長さんから説明を受けました。
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温故学会会館は、江戸時代後期の全盲の国学者・塙保己一が41年間をかけて、全国各地に散在していた貴重な書物を集め、校訂を加え、種類ごとに分けて編纂した文献集である『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、斉藤茂三郎第2代温故学会理事長が渋沢栄一、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て建てられた。
本会は、塙保己一の偉業顕彰の目的から、明治42年に子爵渋沢栄一、宮中顧問官井上通泰、文学博士芳賀矢一、保己一曾孫塙忠雄の四氏により設立され、以来百年の歴史を刻んでいる。
 保己一の精神である温故知新(論語・ふるきをたずねてあたらしきをしる)の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力している。

ヘレン・ケラーも、ここを訪ねている。
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渋沢栄一氏筆の「温故而知新」額
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『群書類従』の説明
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現在、私は鎌倉公方足利氏、関東管領上杉氏、同時代の東国武士の経歴を知りたくて、『鎌倉大草紙』を研究しているが、『鎌倉大草紙』も『群書類従』本として生きながらえているようである。
『群書類従』は、本当に貴重なのです。

国立国会図書館蔵『群書類従』本/『鎌倉大草紙』
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『群書類従』版木を見せていただく。
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火災の場合、水をかけると版木が傷んでしまうので、炭酸ガス消火の設備になっている。
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版木
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現在も、希望に応じて印刷しているそうだ。
高いが(汗)
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これで、午前の部は終了。
國學院大學の学食で昼食。
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ワンコインのローストビーフ丼、美味しかった(嬉)
今の学生さんは贅沢ですな。


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5月の花/シモツケ、チャーミーの実、昼咲き月見草、ベロニカロイヤルキャンドル、アルストメリア(ユリズイセン)

20180529

撮影場所:狭山市緑化植物園
撮影日:2018年5月29日

智光山公園にウォーキングに行き、緑化植物園で咲いている花を撮ったあと、ウォーキングをしました。

【下野 シモツケ】
・薔薇(ばら)科。
・学名: Spiraea japonica 
Spiraea : シモツケ属  japonica : 日本の 
Spiraea(スピラエ)は、ギリシャ語の 「speira(螺旋(らせん)、輪)」が語源。
・開花時期は、 6/ 1 ~ 8/10頃。
・ピンクまたは白色の花が密生する。
・下野国(栃木県)で最初に発見されたことから、「下野」と名づけられた。
※「シモツケ」と「シモツケソウ」は異なります。

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【チャーミーの実】
1月に花が咲いているのをアップしたが、今日横を通ったら実をたくさん付けていたので撮影した。
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【ブルーサルビア】
シソ科アキギリ属の多年草で、学名は Salvia farinacea。
アメリカの南西部、テキサス州からニューメキシコ州、それにメキシコに分布しています。わが国には昭和時代の初めに渡来しました。高さは60センチほどになります。葉は卵形から線形で対生し、縁にはわずかに鋸歯があります。5月から10月ごろ、茎頂や葉腋から輪散花序をだし、青色から紫色の花を咲かせます。
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【昼咲き月見草】
学名:Oenothera speciosa)は、アカバナ科マツヨイグサ属の多年生植物。
観賞用として栽培されている。
草丈は30-60cmくらい。葉は披針形で互生する。5-7月頃に、4-5cmくらいの大きさの、白または薄いピンク色の花を付ける。花弁の数は4枚で、8本の雄蕊と、先端が十字型をした雌蕊がある。
北米原産の帰化植物であり、観賞用として輸入・栽培されていたものが野生化している。名称の由来は、宵に咲くツキミソウと違って、昼間にも開花していることによる。
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【ベロニカロイヤルキャンドル】
科名:ゴマノハグサ科
属名:ベロニカ属
耐寒性宿根草:耐寒温度 約 −25℃
原産地:ヨーロッパ中部、北アジア
花期:5月〜9月
草丈:30〜40cm
鮮やかな青紫の花穂と締まった草姿が魅力です。
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【アルストメリア/ユリズイセン】
学名:Alstroemeria
和名:ユリズイセン  その他の名前:ユメユリソウ、インカノユリ
科名 / 属名:ユリズイセン科 / ユリズイセン属(アルストロメリア属)
南米に100種類ほどが自生し、多くのものはチリタイプとブラジルタイプに大別され、種によって高地から低地、乾燥地から湿地と、生育環境はさまざまです。ほとんどは年に1回、春から夏に咲く一季咲きですが、オーレア種のように場所や環境によって長期間咲き続けるものもあります。
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これで、花を撮るのをやめ、ウォーキング。

お気に入りの道は、今日も爽やかだった。
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花菖蒲園は、花が咲きだしていた。
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青面金剛庚申塔/文京区根津神社④

20180528

所在地:文京区根津1丁目28−9根津神社境内
撮影日:2018年1月16日

根津神社については、既に記事があります。

その記事を見る


日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。
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6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。
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この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は④を載せます。
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銘文
右側に延宝八庚申歳とあり、1680年の造立である。
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塔身:唐破風笠付角柱型
主尊:三面六臂青面金剛
日月:筋彫り
主尊の特徴:一面六臂、三眼
本手:剣とショケラ
四手が持つ法具:輪宝、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:延宝8年(1680年)
高さ:135cm

青面金剛全身
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日月は筋彫り。左側は辛うじてわかる程に磨滅している。
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青面金剛頭部
三眼である。
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本手は「剣とショケラ」
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他の手の法具は、磨滅が激しく判りにくいが「法輪、弓、矢、三叉矛」。
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青面金剛は岩の上に立ち、その下に三猿。
磨滅が激しい。
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5月の花/水蓮(ピンク)

20180527

撮影地:東京都上野 国立博物館本館前庭
撮影日:2018年5月25日

スイレン属(スイレンぞく、water lily、学名:Nymphaea)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。
日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。日本全国の池や沼に広く分布している。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせる事からその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。
水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。葉の表面に強い撥水性はない。多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。

この日、本館の常設展を見ようと歩いて行ったら、前庭の池にピンクの花の水蓮が咲いていた。
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白い花の水蓮はよく見るが、ピンクの花も良いものだ。
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常陸国歴史探訪/舟塚山古墳、大洗磯前神社

20180526

5月9日に歴史クラブの定例見学会で行きました。
最初に常陸国府跡、総社宮、常陸国分寺跡を訪ねて、次いで「舟塚山古墳」を訪ねようと向かったら、思わぬ障害が起きました。
石岡駅前から舟塚山古墳に向かう県道に入ろうとした時、バスの運転手さんが「大型バスが通行禁止になっている」と言うのだ??!!
確かに「大型トラック・バス禁止、路線バスのみ可」となっている。
下見には普通乗用車で来たが、県道だし路線バスも走っているし、そんなに狭い道でもなく、全然疑いもしなかった。大体において、観光会社に立ち寄りポイントを言ってコースを設定してもらっているのである(怒)
しばらく地図とにらめっこしたが、あきらめざるを得なかった。
クラブの皆さんには申し訳ないことになりました。

ここでは、下見(3月1日)の際の写真を載せておきます。

【舟塚山古墳】
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円墳の方には神社が出来ている。
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前方後円墳の周囲に沿って、歩いた。
円墳の部分
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方墳のヘリから円墳を見る。
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方墳の角に来た。
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ちょっと離れたところから全景を見る。
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上に乗った。
方墳の上から円墳を見る。
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上を歩いて行って、円墳の上から方墳を見る。
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定例見学会の頃は、もう草が青くなっていたはず。
ネットで画像を探した。
こういう感じだったに違いない。
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次の目的地は、那珂湊漁港のおさかな市場にあるレストラン。
ここで海鮮丼や刺身定食で、新鮮なお魚を食べて大満足。
美味しい海産物をお土産に購入。
満足したところで、最後の予定地「大洗磯前神社」に向かった。

【大洗磯前神社】
所在地:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町

延喜式内社:常陸國鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩(明)神社 名神大社
旧國幣中社
由緒:
当社の創立は「文徳実録」に、斉衡3年(856)12月29日と記されており、創立年代の明確な数少ない神社である。そして翌天安元年(857)8月には官社に列せられ、更に10月には、「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜った。そして延喜の制では、式内社(明神大社)に、また明治に入ると国幣中社に列せられるという由緒ある神社である。 現在は神社本庁の別表神社である。
但し、社殿は永禄年間(1558~1570)の兵乱で悉く焼失、その後水戸藩2代光圀公が元禄3年(1690)に造営開始、3代綱篠公の享保15年(1730)再興された。爾来、歴代水戸藩主の厚い崇敬を受けた。

既に、「関八州式内社めぐり」で参拝した際の記事をアップしてあります。

その記事を見る


最初に、ご祭神が降臨したという「神磯」に皆さんを案内しました。
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ほどほどに波があって見ごたえがありました。
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日の出の名所です。
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下見(3月1日)に来た時は、前日爆弾低気圧が通過した後だったので、ものすごい波で、動画を撮ったものをユーチューブにアップしてあります。

その動画を見る



社殿に戻る、石段の下に狛犬が居るのだが、来るたびに上に乗っている小石がものすごいことになっている(笑)
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石段を上がると、随神門の前となる。

随神門前の明治3年奉納の陶器製狛犬だが、今回尾が左右で違う事に気づいた。
そもそもこの狛犬は、ちゃんと本来の獅子・狛犬のセットになっている。
右が、たてがみが巻き毛になっていて獅子である。
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尾にも巻き毛がある。
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左は、たてがみが綺麗に流れていて狛犬である。
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尾も綺麗に毛が流れていて、巻き毛は無い。
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今回も、本殿の茅葺屋根の優美なカーブには見とれた。
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「関八州式内社めぐり」の際にはアップ出来ていなかったもの。

大黒さん
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塀の上に焼き物が一杯に奉納されている。
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神馬舎
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以上で、定例見学会の予定は全て完了。
満足して帰途につきました。



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常陸国歴史探訪/総社宮

20180523

5月9日に歴史クラブの定例見学会で行きました。
まず、「常陸国府跡」、「ふるさと歴史館」を見た後、総社宮に参拝しました。

ここに掲載している写真は、下見の際に撮った写真も使用しているので、天気が良かったり悪かったりしていますが、ご容赦のほどを。

入り口
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参道
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直角に左に折れると、参道の向こうに茅葺の随神門が見える。
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総社宮について
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随神門
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柵がありガラス面まで近寄れないため、ガラスが光って、随神が見えない。
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傍のパネルに写真があったので、それを撮った。
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随神門から入った境内。
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拝殿の前に、大正三年(1914)奉納の狛犬があり。
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拝殿
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本殿を守っているのは、狛犬に代わり一対の白獅子だった。
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本殿
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ご祭神:伊弉諾尊、大国主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比売尊、布留大神

拝殿から神楽殿に、ちょっと長い廊下で続いている。
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境内社を参拝
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香丸稲荷神社、星宮神社
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星宮神社について:
ご祭神は天香々背男命(あめのかがせおのみこと)。
 由緒は、奈良時代の天平年間「府中三光の宮」のひとつとして建てられた。国府の地割は正南北の方位に造られ、国府の北に「星の宮」を祀り、南に「日天様」と「月天様」を祀った。
「星の宮」と国衛を結ぶと、正南北の線上になり、国衝から見て「北極星」の位置に建てられたといわれる。これは、北極星信仰のあらわれである。当時は、国府在庁の役人が祭祀を行っていたが、後に香丸町の氏神とされ、毎年祭事が行われていた。現在は、常陸囲総社宮に合祀されており、当時の場所にはない。

愛宕神社、厳島神社
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愛染神社
祭神は密教の愛染明王ということなので、神仏習合のかたちをそのまま残している。
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神武天皇遥拝所
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大和武尊 腰掛石
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天麻比止都命(あめのまひとつのかみ)の石祠
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天麻比止都命 (あめのまひとつのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)である。
日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神である。『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する。別名は天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)、天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)。ダイダラボッチと関係がある。またひょっとこ(火男)の原型とも伝えられている。
『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。

樹齢約600年の大楠
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例大祭での「幌獅子」と山車の説明
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宝物殿であろう、大谷石で出来た立派な倉があった。
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総社宮の参拝を終え、国分寺(既記事)を経て、舟塚山古墳に向かった。


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神田明神・小舟町八雲神社の狛犬

20180516

所在地:千代田区外神田2-16-2 神田明神境内 小舟町八雲神社
撮影日:2015年4月30日

神田明神については、既に記事があります。

その記事を見る


その境内に、小舟町八雲神社があり、その前に今回の狛犬が居ます。
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年代:文化6年(1809)
材質:石造
型式:江戸流れ尾型

右側は阿形獅子
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左側は吽形獅子
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみに巻き毛あり獅子。
・左は吽形、たてがみに巻き毛あり獅子。
・たてがみが非常に美しく長く流れている。巻き毛も彫りが深くて美しく顔の横にあり。
・耳は伏せ、眉がものすごく、目が目立たないほど。
・牙と歯は目立たないが、ちゃんと主張はしている。
・横長の表情は落ち着いた感じで威厳がある。
・前足は直立。後足は蹲踞。
・脚の爪もしっかり強調され、足や胴体の細かな地肌も表現されている。
・尾は左右に均等に分かれて、横に長く美しく流れ、巻き毛ししつかりと綺麗に表現されている。


前足は直立。後足は蹲踞。
脚の爪もしっかり強調され、足や胴体の細かな地肌も表現されている。
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尾は左右に均等に分かれて、横に長く美しく流れ、巻き毛ししつかりと綺麗に表現されている。
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年代は、文化6年(1809)
昭和7年に再建
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狛犬の記事一覧を見る



常陸国歴史探訪/常陸国府跡、国分寺跡

20180514

5月9日に歴史クラブの定例見学会で行きました。
この日は、午前中は小雨、午後は曇りの天気でした。

【常陸国府跡】
石岡市中心部、石岡台地上に位置する常陸国の国府の遺構である。この国府は、初代常陸国司の百済王遠宝の頃に計画が始まり、9代目の百済敬福、10代目の佐伯今毛人の頃までには完成したと推測されている。
国府内では国衙を西端に配置して条坊制が敷かれ、北に常陸国分寺(位置)や常陸国分尼寺(位置)、南に総社(現・常陸國總社宮、位置)が配置された。国衙は方2町で内部に国庁を置き、周囲には土塁と堀が巡らされ、東西南北には門が設けられたとされる。また国府の周囲は北を国分寺境界、南をビンズル谷津、東を山王川低地、西を恋瀬川低地で限ったと推測され、周囲に土塁が、東西南北には門が設けられたとされる。なお、国分尼寺跡のさらに北方には、関連遺跡として工房跡と見られる鹿の子遺跡(位置)が確認されている。

国府の中枢をなす国衙の遺構は、石岡市立石岡小学校(石岡市総社一丁目)の校庭において発見された。同地が国衙跡と認識されるに至ったのは、昭和45年(1970年)の石岡小学校の建て替えに伴う発掘調査で大型建物が発見された時になる。平成10年(1998年)には小学校の施設建設に伴う調査がなされたが、大型建物が検出されたことから当地での建設は中止され、遺構は保存された。そして平成13年(2001年)から平成19年(2007年)にかけて本格的な調査が実施され、国衙の詳細が明らかとなった。発掘調査からは7世紀末から11世紀までの施設の変遷が明らかとなっており、国衙の誕生から衰退までが通して確認可能な遺跡になる。これらの遺構は平成22年(2010年)に国の史跡に指定された。現在は石岡小学校校庭の地下に保存された状態で、史跡整備等はなされていない。

隣の市民会館駐車場から国府跡に行く途中、「陣屋門」があり。

〇陣屋門
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石岡小学校校庭にある、国府跡・ふるさと歴史館を訪ねる。
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あらかじめお願いしてあった、ボランティウガイドさんの説明で見て回る。
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〇国府跡碑
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〇箱式石棺
舟塚山古墳から出土したもの。
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〇府中城の土塁
ここは、府中城でもあったので、土塁の一部が残っている。
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〇常陸大掾氏について
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〇石仏「風間阿弥陀」
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この校庭が国衙跡である。
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ワンちゃんがお座りして感じの石があった。
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【ふるさと歴史館の展示】
〇一階
常陸国府跡全体図
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たくさんの発掘調査写真があったが、その中から一枚。
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石岡と云えば、獅子頭らしい。
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〇二階展示
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最近、地質学に目覚めていて、特産鉱物には目が無い。
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◇鹿の子遺跡
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◇漆紙文書
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奈良・平安時代は紙が貴重品で、リサイクルしていた。
漆が蒸発しないように容器の落とし蓋として再利用された文書が、漆が付いているため腐らずに残っていたもの。
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◇ガラス玉鋳型
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◇日立国分寺復元模型
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これで、国府跡・ふるさと歴史館の見学は終り、続いて総社神社に参拝したが、総社神社は別記事として、その後見学した国分寺跡の記事を続けます。

バスで10分ほど移動して、国分寺跡に到着。

【常陸国分寺跡】
創建は不詳。『常陸府中鏡』によれば天平15年(743年)に起工し、天平勝宝4年(752年)に成就したという。『延喜式』主税寮では諸国本稲に「国分寺料六万束」と見え、諸国国分寺のうちでも屈指の寺領を有したとされる。
『扶桑略記』仁和4年(888年)11月23日条では、『本朝法華験記』の引用として、常陸国書生の飛鳥貞成が国分寺で供養を盛大に行なったと見える。また税所文書によると、嘉吉2年(1442年)の常陸国留守所からの下文で、天平神護2年(766年)・延暦24年(805年)の太政官符に従い三宝布施300束と講読師并謂僧布施5,624束が奏上されている。
『府中平邑巡覧記』によると、創建80年後での兵火による焼失のほか、天慶2年(939年)の平将門の乱で焼失、天正13年(1585年)の佐竹氏・大掾氏の兵火で焼失し、以後衰退したという。

中門跡から遺構が残っている。
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残っている遺構
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中に入ると、大きな銀杏があり。
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こちらの参道が突き当たったところにあるのが、国分寺跡の金堂の位置に建てられている薬師堂
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薬師堂
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横に、綺麗な菖蒲が咲いていた。
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〇講堂跡
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〇七重塔芯棒の礎石
本来は、ここの場所ではない。
あった場所は住宅地になってしまっており、ここに移設されたもの。
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〇都々一坊扇歌堂
都々逸節の創作者として知られる都々逸坊扇歌が嘉永5年(1852年)に府中で没したことから、記念として昭和8年(1933年)に建立されたもの。石岡市指定文化財に指定されている。
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【現在の国分寺】
中世末期頃からは無住であったとされるが、慶長年間(1596年 – 1615年)に近隣の菩提山千手院来高寺の住職が国分寺住職を兼務するようになった。『府中平邑巡覧記』では、国分寺は千手院末寺である旨が記されている。
大正8年(1919年)、千手院と国分寺との合併によって現在の国分寺が成立し、千手院は廃寺とされた。

下見の時の写真
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〇山門
旧千手院の山門。千手院は府中の大寺の1つであったが、大正8年(1919年)に国分寺と合併して廃寺となった。この山門は、その千手院の唯一の遺構になる。石岡市指定文化財に指定されている。
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山門の前に、雨のため枝が垂れた桜の木に実がついていた。
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続いて、次回は総社神社の記事を載せます。

総社神社の記事を見る


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季節の花/水蓮、苧環(おだまき)、西洋オダマキ、菖蒲(しょうぶ)、杜若(かきつばた)

20180512

今まで、撮りためていた中から、5月の花を紹介します。

【水蓮 スイレン】
撮影地:埼玉県滑川町の溜池
撮影日:2015年5月22日

スイレン属(スイレンぞく、water lily、学名:Nymphaea)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。
日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。日本全国の池や沼に広く分布している。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせる事からその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。
水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。葉の表面に強い撥水性はない。多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。

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【苧環 オダマキ】
撮影地:群馬県甘楽町小幡地区街中
撮影日:2017年5月10日

オダマキ属(オダマキぞく)は、キンポウゲ科の属の一つ。ラテン名のアキレギアやアクイレギア(Aquilegia)ということもある。本属の植物の総称がオダマキである。
オダマキは漢字で苧環を当てるが、これはもともとは機織りの際につかう苧環という糸玉に由来する。苧環はカラムシ(苧、「お」とも)、アサ(麻)、コウゾ(楮)の繊維を糸にしたときに丸めておくもので、丸みのある花の形を中が中空の苧環に連想したもの。したがって、オダマキから苧環は作らない。
根出葉は普通2回3出複葉で細かく分かれ、先端には丸っこい小葉がつく。茎が高く伸びるものでは、やや小型の茎葉が出る。花の外側の花弁のようなものは、じつは花弁ではなく萼である。花弁はその内側にあって、ややまとまって筒状になる。花弁の基部からは角状の距が伸び、萼の間から外に突き出る。

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【西洋オダマキ】
撮影地:神奈川県横浜市中区山手・フランス山
撮影日:2017年5月16日

現在の日本で西洋オダマキと呼ばれているものは、ヨーロッパ原産のアクイレギア・ブルガリス(Aquilegia valgaris)と北米産の大輪の花を咲かせる数種との交配種をさすようになっています。オダマキの仲間はもともと雑種をつくりやすいこともあって、きわめて多数の園芸品種がありますが、多くの場合、国内では個々の品種名を明記せずに色別や混合種子の形で流通しています。
いずれも丈夫な宿根草で、高さ30~50cmになり、株の中心からまっすぐ伸びた茎に赤、黄、青紫、白、桃色などの4~5cmの花を多数咲かせます。葉は根元にまとまってつきます。

フランス山のシンボル「赤い風車」の下の植え込みに咲いていました。
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ここで、「しょうぶ」と「かきつばた」が登場しますが、その見分け方をご存知ですか?
「かきつばた」、「あやめ」、「しょうぶ」の見分け方は以下の通りです。

「かきつばた」
花びら(花弁)の付け根に白い線のような模様、葉脈は目立たずやや幅広。

「あやめ」
花びら(花弁)の付け根に黄色と紫の網目状の模様、葉脈は目立たず細い。

「しょうぶ」
花びら(花弁)の付け根に黄色い模様、葉の表に1本、裏に2本の葉脈がある。

【菖蒲(しょうぶ)】
撮影地:茨城県石岡市国分寺跡境内
撮影日:2018年5月9日
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【杜若(かきつばた)】
撮影地:群馬県甘楽町小幡地区 楽山園
撮影日:2017年5月10日

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青面金剛庚申塔/文京区根津神社③

20180510

所在地:文京区根津1丁目28−9根津神社境内
撮影日:2018年1月16日

根津神社については、既に記事があります。

その記事を見る


日本医科大学病院側の入り口から入ってすぐの、乙女稲荷参道の脇にあります。
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6基の庚申塔が背中合わせに、6面体を形づくって置かれている。
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この文京区教育委員会のふった番号順に、今回は③を載せます。
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銘文
角柱の向かって右側の側面には、「奉造立庚申塔爲二世安樂」と刻まれ、その両側に「元禄五 壬申 五月十一日」と刻まれている。
角柱の向かって左側には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。
庚申信仰と仏教の習合である。
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塔身:唐破風笠付角柱型
主尊:三面六臂青面金剛
日月:瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、髪火焔、髑髏の首輪
本手:剣とショケラ
四手が持つ法具:輪宝、弓、矢、三叉矛
脇侍:邪鬼か猿、二鶏
造立年代:元禄5年(1692)
高さ:135cm

青面金剛全身
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日月は瑞雲付き
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一面六臂、髪火焔、髑髏の首輪
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首輪は、明確ではないが、
『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容は、 「四本の手で向って左は上の手に三叉の矛を、下の手に棒を持ち、右は上の手に輪宝を、下の手に羂索(縄)を持つ。身体は青色で口を開き、牙を出し、三眼で頭に髑髏をいただき、髪は火焔のように逆立ち、頚に大蛇を掛け、両腕に二匹の龍、腰と両足に二匹の蛇がまといつき、持った棒にも蛇がまといつく。腰には虎の皮を巻き、髑髏の首飾り・胸飾りをつけ、両足で一匹ずつ鬼を踏む。」となっているので、
髑髏の首輪と見るのが順当。

六臂については、損傷が激しくて明確ではないが、
本手は、剣とショケラ。
右手に持つものは先端が欠けて笏のように見えるが、先端の欠けた剣と見た。
左手はショケラのように見える。
ショケラを嫌って削ってしまったのか。
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普通は邪鬼を踏みつけているが、邪鬼というよりも猿に見える。
よく三猿が配置されているのだが、猿を踏みつけるのはどうかなあ・・・・・と考えた。
思い至ったのは、三尸虫が天帝に告げ口をしに行くのを防ぐのが庚申信仰である。
「庚申の夜=猿、三尸虫=猿を踏みつける」と解釈できるのでは。
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その下に二鶏が配され、その下には施主と思われる人々の名が刻まれている。



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渋谷・金王八幡宮の狛犬

20180507

所在地:東京都渋谷区・金王八幡宮境内金王丸御影堂前
撮影日:2018年4月7日

金王八幡宮については、境内に「金王桜」という銘桜があり、その記事の際に紹介しています。

その記事を見る


今回の狛犬は、境内金王丸御影堂前にありますが、澁谷金王丸の木像を納めているのが御影堂です。

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。
続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。

金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。
渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人です。

金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されます。

金王丸御影堂前に、今回の狛犬は居る。
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年代:宝暦9年(1759)
材質:石造
型式:宝珠・角型

右側に、阿形獅子。頭に宝珠あり。左前足で玉を掴んでいる。
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左側が吽形獅子。頭に欠けているが角あり。左前足で玉を掴んでいる。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみに巻き毛あり獅子。頭に宝珠を載せている。
・左は吽形、たてがみに巻き毛あり獅子。頭に欠けているが二股の角あり。
・たてがみは首から左右に流れて、巻き毛が比較的大きい。
・大きめな耳は横に垂れている。眉と髭が立派。顔は逆三角形。
・阿形は口を開き舌が見える。瞳がやや上向きに彫られており、見上げている感じ。
・吽形は口を閉じ、歯をむき出し。
・眉間にシワを寄せているが、表情はニヤッとしている感じ。
・前足はやや前方に直立。後足は蹲踞。
・前足と後足共に筋肉やコブが強調され、たくましい。
・阿吽共に左足で玉を掴む。
・尾は立っていて、皮が開いたタケノコ状に勢いよく炎が立つ。巻き毛は中央と左右に一つずつ。


尾の状態
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年代は、宝暦9年(1759)。
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5月の花/カラタチ、ドウダンツツジ、バイカウツギ、ヤマボウシ

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今まで、撮りためていた中から、5月の花を紹介します。

【カラタチ】
撮影場所:狭山市智光山公園
撮影日:2016年5月16日

ミカン科カラタチ属の落葉低木。学名はPoncirus trifoliata。学名の trifoliata は三枚の葉の意でこの複葉から。原産地は長江上流域。日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。
樹高は2〜4m程。枝に稜角があり、3センチにもなる鋭い刺が互生する。この刺は葉の変形したもの、あるいは枝の変形したものという説がある。
葉は互生で、3小葉の複葉。小葉は4〜6cm程の楕円形または倒卵形で周囲に細かい鋸状歯があり、葉柄には翼がある。春に葉が出る前に3〜4cm程の5弁の白い花を咲かせる。花のあとには3〜4cmの球形で緑色の実をつける。秋には熟して黄色くなる。果実には種が多く、また酸味と苦味が強いため食用にならない。花と果実には芳香がある。葉はアゲハチョウの幼虫が好んで食べる。

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【ドウダンツツジ】
撮影場所:富山県高岡市 前田利長公墓所
撮影日:2013年5月4日 

ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星、学名Enkianthus perulatus)は、ツツジ科ドウダンツツジ属の植物。「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。
落葉広葉樹。低木で、大きくても3メートル程。本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ない。庭木や植え込みとしてはごく普通に植えられる。寒冷地でも耐えるが、関東以西の温暖な地に多く植えられる。花期は、葉が出てから約1週間後(4月上旬から5月中旬頃、地方によって違う)。花序は散形花序である。花は、白色、釣り鐘のような感じで、5ミリメートル程の大きさ。葉は、菱形に近く、大きさは通常約2センチメートル (cm)、大きなものは、約5 cmになる。

前田利長公墓所は、1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しいものです。
そして大名の墓としては日本一と言われる高さ11.9メートルの石塔(地表面から石塔の笠までの高さ)もすごいものです。

参拝を終え、参道を帰っていくと、真っ白に咲いているドウダンツツジが目に鮮やかでした。
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【バイカウツギ】
撮影場所:狭山市智光山公園
撮影日:2016年5月16日

バイカウツギ (Philadelphus satsumi) とはアジサイ科の植物の一種(シノニムP. coronarius、P. coronarius var. satsumi)。別名サツマウツギ。
落葉低木の一種で、現在では南東ヨーロッパや小アジアが原産とされる。名前の由来はウメに似た花を咲かせることから。ライラックと混同されていた時期があり、共に牧神パンの笛という意味の言葉Syrinxに由来するシリンガという名前で呼ばれ、一つの属にくくられていた。
6-7月頃に白い花を咲かせる。

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【ヤマボウシ】
ヤマボウシ(山法師、山帽子、学名 Cornus kousa)はミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。
高さ5~10メートル。幹は灰褐色。葉は対生し、楕円(だえん)形または卵円形で長さ4~12センチ、全縁でやや波打つ。花は6~7月に開き、淡黄色で小さく、多数が球状に集合し、その外側に大形白色の総包片が4枚あり、花弁のように見える。

撮影場所:東京都調布市 虎狛神社
撮影日:2015年5月28日
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撮影場所:狭山市智光山公園
撮影日:2011年6月1日
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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(3)

20180505

4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

前回、早雲寺まで記事にしました。
今回は石垣山一夜城からです。

【石垣山一夜城】
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豊臣秀吉が1590年(天正18年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来する)。

石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であった。約3〜4万人を動員し、80日で構築された。秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りは城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などが非常に肥前の名護屋城に似ていることから、黒田如水であったとしている。

1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。

私たちが駐車場でバスを降りたのは、南曲輪の下。

南曲輪下石垣の角石は、関東大震災で崩れたままとなっている。
関東大震災で崩れたところは各所で見られた。
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ここの石垣の特徴は「野面積み」である。
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石垣が終わった所で、振り返って石垣の全景を見る。
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ここから、天守台までは、たぶん近道なのか、辛うじて道らしいところを上がる。
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〇西曲輪跡
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ちょっと道らしいところを上がる。
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〇天守台跡
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ここから、平らな本丸跡を突っ切って物見台に行く。
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〇物見台
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ここで、「小田原合戦と一夜城伝説」をおさらい。
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続いて、最近地質学に目覚めている私にピッタリの説明が。
小田原って、こんな所だったのか!!
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プレートがぶつかり合って、隆起した大磯丘陵を眺める。
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ところで、小田原城はどこだ?
ここでも、カメラのズームが物を言いました(嬉)
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場所がわかると、肉眼でもちゃんと見えましね。

小田原城を探し当てて、落ち着いたところで、改めて本丸跡を確認した。

〇本丸跡
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足もとに二の丸跡が見える。
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〇二の丸跡
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石垣山の縄張りを誰がしたのか、判っていないみたいです。
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〇展望台
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薄くなってよく読めないが、長興山、早雲山、明神ケ岳の方向
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反対方向の、小田原城は見えるか?
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ズームしたら、小田原城の屋根が見えた。
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急な斜面を降りて井戸曲輪跡に。
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〇井戸曲輪跡
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下の方に、井戸に水が溜まっているのが分かる。
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ここから、駐車場に戻る間は省略。

江戸城修築のために、ここが「石丁場」という石を調達する場所だったとのこと。
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これで、石垣山一夜城の探索を終え、小田原城に向かいました。

【小田原城】
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。

北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。

現在の小田原城
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駐車場から、住吉橋を渡って「銅門」から入る。

〇住吉橋
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住吉橋を渡ると、枡形の向こうに「銅門」がある。
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〇銅門
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門扉の外側に「石落とし」がある。
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門の二階に上がる石段は、いかにも実戦的だ。
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銅門をしじると、天守が見える。
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〇イヌマキ
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東堀を渡って常盤木門へと続く。
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〇東堀跡
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〇常盤木門
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例によって、枡形を経て常盤木門
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〇本丸跡
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〇天守閣
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天守閣の入り口には石段を上る。
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天守閣の中に在ったジオラマ。
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天守閣の中には様々なものが展示してあったが、時間が無くて、とにかく最上階を目指した。

天守閣からの眺め。

小田原駅の向こうに、大山、丹沢。
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戦国時代の遺構が残る、八幡山郭跡
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石垣山一夜城方向。
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目印が無いので、鉄塔の位置が頼りで、この辺だ。
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伊豆半島、真鶴半島
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晴れていれば伊豆大島が見えるようだが、残念。
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江ノ島方面
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以上で、全ての探索は終り。
念願だった山中城をはじめ、この日は収穫が多くて、楽しい一日だった。
満足して帰途についた。

(了)


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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(2)

20180501

4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

前回、山中城の西の丸、一番高い所まで上ったところまで記事にしましたが、その続きです。
西櫓の富士山側から、宗閑寺に向かって降りていきます。
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この辺に、西櫓との橋が架かっていたみたいだ。
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こちら側から、美しい障子堀を眺める。
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西の丸下から西櫓を望む。
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一旦斜面の林の中を降りて行き、西の丸を目指す。
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〇西の丸
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西の丸の土塁の上から西櫓を見る。
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西櫓と西の丸との間の障子堀
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さっき上がって来た西の丸畝堀を見下ろす。
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西の丸から降りて、元西櫓に上がる。
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〇元西櫓
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元西櫓と二の丸に架かる橋
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二の丸側には虎口が設けてある。
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〇二の丸
広い。
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〇本丸堀
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〇本丸跡
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駒形・諏訪神社まで降りて来ました。
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樹齢約600年の大カシ。
あの、阿鼻叫喚の一日を生き延びた樹である。
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鳥居のところに、庚申塔とお地蔵さんが鎮座。
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これで、山中城探索は終りです。
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見事な石楠花です。
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ここで、また箱根旧道に入り、「雲助徳利の墓」を見に行く。
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〇雲助徳利の墓
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国道1号線を宗閑寺に向かう途中、黄色の石楠花を発見。
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【宗閑寺】
所在地:静岡県三島市山中新田94-1
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この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615~1623)であろうと推定される。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立した。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城したが、このときの北条方の副将が間宮康俊だった。お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するためにこの寺を創建したと言われている。
このお寺の珍しい点は、敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあるというところです。また、隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではありませんが、山中城主松田直長(まつだなおなが)の墓にはクルス紋があります。

各武将の墓
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一柳伊豆守直末の墓
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北条方の墓
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山中城主松田直長の墓
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【早雲寺】
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建立したのが事実上の創建で、早雲の死後に菩提寺に改めたとする説を唱えている[2]。これに対して黒田基樹は早雲寺の創建が大永元年とする寺伝そのものが江戸時代以前に存在しない(つまり江戸時代の創作である)とする立場から、早雲寺に湯本の門前町が寄進された年代不明の氏綱発給文書がその花押形が享禄4年(1531年)以降のものであることを指摘して、早雲寺の創建を門前町の寄進の前後である享禄・天文年間であったとする説を唱えている[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。

山門
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本堂
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〇後北条氏5代の墓
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五代の墓が横一直線に並ぶ。
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下に「伊勢新九郎」と彫られた、北条早雲の墓石。
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〇開山堂
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〇連歌師・宗祇の墓
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旅の途中に湯本で生涯を閉じた連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)の墓(供養塔)、
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。

〇宗祇の句碑
「世にふるも更に時雨のやどりかな」
後に芭蕉が詠んだ、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」 芭蕉
の本歌となります。
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〇山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。
小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。
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〇梵鐘
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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