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世界文化遺産/宗像大社・辺津宮

20180731

鎮座地:福岡県宗像市田島2331
参拝日:2018年7月19日

この日、娘が住む天草を朝出発し、狛犬中心に天草の神社に二社寄りながら熊本に出ました。
水前寺成趣園見学を予定に入れていたのですが、時間が無くなりカット、熊本ICから九州自動車道に乗り、一路、宗像大社辺津宮を目指しました。

2014年に「宗像大社国宝展」を出光美術館で見て以来、ここに参拝することを希望していましたが、それがやっとかなうことになりました。

「宗像大社国宝展」の記事を見る


宗像大社辺津宮は、世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成要素です。
構成要素は、
1.沖ノ島(おきのしま)
2.小屋島(こやじま)
3.御門柱(みかどばしら)
4.天狗岩(てんぐいわ)
5.宗像大社沖津宮遥拝所(むなかたたいしゃおきつみやようはいじょ)
6.宗像大社中津宮(むなかたたいしゃなかつみや)
7.宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃへつみや)
8.新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)
となっていて、特に沖ノ島は出土した8万点の遺物が全て国宝となり、非常に貴重な遺跡となっている。
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宗像大社のご祭神は、田心姫神(沖津宮)、湍津姫神(中津宮)、市杵島姫神(辺津宮)であり、夫々沖ノ島、大島、内陸の田島に鎮座している。
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今回はスケジュールの関係で、辺津宮だけの参拝としました。

辺津宮境内図
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駐車場に車を置いたら、目の前に祈願殿(車のお祓い)があり、そこに大きな狛犬が居たので、それを最初に撮影。
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調べると「筑後型」とのこと。
筑後型の特徴は、大柄で、きわめて肉付きが良く、筋骨逞しい。阿形は垂耳、吽形は立耳。足位置はオープン、あるいはクローズド。髪はざっくりした螺旋渦を施し、尾は扇形。毛筋は表現されず、繊細さよりも豪快さが重んじられる。歯列に鋸歯はなく、全部門歯列。

右側が阿形獅子。
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左側が吽形獅子。
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大鳥居
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社号標のある正門
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社号標
社格等:式内社(名神大)、旧官幣大社、別表神社
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日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。また、あらゆる道の神としての最高神、貴(むち)の称号を伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。

伝えられる伝承では日本神話に起源を持つ。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたのが宗像三女神である。彼女たちはアマテラスの神勅を奉じて、皇孫ニニギノミコトを見守り助けるため海北道中、玄界灘に浮かぶ筑紫宗像の島々に降り、この地を治めるようになったのが宗像大社の起源とする。
宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、もとは水潟であったとする説もある。古くから当地の民の氏神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに宗像に奉幣使を派遣する習いになったとされる。
大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。

律令制導入により国郡制が布かれると宗像一郡が神領として与えられ、当地の豪族宗形氏が神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司ることになった。宗形氏の由緒を記した石碑によれば、宗形氏の族長が二代にわたって中国の商人の娘を正室に迎えている。また宗形徳善は娘の尼子娘を天武天皇の後宮に入れ、白雉5年(654年)に二人の間に生まれた第一皇子高市皇子は壬申の乱で父を助けて大功を挙げ、のちに太政大臣に任ぜられた。長屋王は高市の子であり、また高階氏の祖ともなった。

昭和の第二次世界大戦の後、荒廃していた境内は赤間(宗像市赤間地区)出身で、幼い頃より宗像大社を崇敬していた実業家、出光佐三の寄進により整備され、沖津宮のある沖ノ島祭祀遺跡の調査発掘に際しては国に働きかけるなど尽力している。

神橋を渡り、二の鳥居をくぐる。
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心字池にかかる太鼓橋をわたる。
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神門まで真っ直ぐの参道と、清冽な空間が広がっている。
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手水舎
ここでは柄杓はありません。直接手に受けて濯ぎを行います。
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祓舎(祓戸神を四方に祀る)
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神門の前に、文政7年(1824)奉納の青銅製「神殿型」狛犬が居ます。
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右側に阿形獅子。角あり。
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阿形のほうの尾が盗難に遭ったので補作した旨が記されています。
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左側が吽形獅子。角あり。
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神門(大正期に再建。)
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握舎といい、拝殿と神門を結ぶ参道上に屋根が設けられています。
平成29年に新しく建立されたそうです。
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拝殿には「宗像宮」の額がかかっています。
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拝殿の奥に、「神勅額」が掛かっています。
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神勅とは『古事記』、『日本書紀』に記述されている天照大神の勅命のことで、天照大神は御子神としてお生まれになった宗像三女神を、高天原から地上の筑紫の国にお降しになりましたが、その時に授けられたのが神勅です。
「汝三神 宜しく 道中に降居して 天孫を助け奉りて 天孫に祭かれよ」

「筑紫の国に降り、沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮まりなさい。そして歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」と示された。
このように天照大神がご祭神に神勅を示されたという例は他にありません。

 『日本書紀』には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち」」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けたことが記されています。「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称でま道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日璽貴(おおひるめのむち 天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち  大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々から、いかに篤い崇敬を受けられていたかがうかがえます。
 また、宗像から大陸への海路は中央政権にとっても大切な道であり、歴代天皇のまつりごとを助ける宗像三女神が、中央政権と強く結びついた国家神であったともいえます。

拝殿には「三十六歌仙扁額」がかかっている。
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現在、宗像大社には5組の三十六歌仙扁額があり、その中には小早川隆景奉納の狩野永徳によるもの、福岡藩第三大藩主黒田光之奉納の狩野安信によるものなど、貴重なものがあるそうである。

拝殿
筑前領主であった小早川隆景によって天正16年(1590年)に再建された。
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本殿
こけら葺きの大屋根が美しい現在の辺津宮本殿は、天正6年(1578年)に大宮司宗像氏貞が再建したもの。
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ご祭神は、市杵島姫神。

神紋は「菊」と「楢の葉」。
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ご神木「楢の木」
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末社ですが、ものすごい数で、江戸時代初期の建立です。
神郡宗像にあった神社群を時の福岡藩主、黒田光之がまとめ寄進したもので、本殿の外周りに121社ほどあるそうです。
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社としては、一社独立のものと、何社か同居のものがありました。
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時間の関係から、とにかく社名を全部記録はしました。
私が関東の人間だとしても、今まで聞いたことのない社名がたくさんあります。
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私は、俗に「八百万の神」といわれている日本の神は実際の所どれだけおられるのだろうかと、ある時期から記録を始めました。
これまで864柱まで記録ができていました。
末社121社のご祭神を調べるのは大変でしたが、幸い判明することが出来ました。
それを追加し、現在私が記録できた神の数としては892柱となりました。
社名に続く括弧内がご祭神となります。

百大神社(百大神)、二柱神社(伊弉諾神・伊弉冊神)、稲庭上神社(倉稲魂尊)、宮地嶽神社(正勝山祇命)、興里嶽神社(大山祇命)、吹浦神社(大土吹上男命)、土穴若宮神社(誉田命)、森神社(木花開耶姫命)、祇園神社(素戔嗚尊)、縫殿神社(呉織・穴織)、内浦若宮神社(天夷鳥命)、酒田神社(酒弥豆男命)、伊久志神社(伊伎志爾男命)、示現神社(大物主命)、熊野神社(事解男命)、大神神社(大己貴命)、河上神社(豊玉姫命)、五位神社(彦五瀬命)、只下神社(稲田姫命)、御衣代神社(衣通姫命)、津田神社(級長津彦命)、貴船神社(高龗命)、犬王丸神社(彦星命)、四道神社(猿田彦命)、小野井神社(小野御霊)、息直神社(大直日命)、原比女神社(大宜都比女命)、津加計志神社(阿田賀田須命)、四道福松神社(大富道命)、 祓方遠賀堺神社(ウブラ姫命)、山口御口代神社(麓山祇命)、須多田神社(田田彦命)、加津浦神社(伊賀津臣命.)、正三位神社(志賀大明神)、草上神社(野槌姫命)、四道神社(猿田彦命)、稗和神社(保食神)、御船漕神社(大神御蔭川神オ)、天宮金宮神社(金山彦神)、和加神社(稚日姫命)、山口若宮神社(仁徳天皇)、勝浦神社(健飯勝命)、年津両上神社(大歳神)、酒多神社(酒弥豆女命)、前戸神社(手力男命)、孔大寺神社(吉野権現)、所主神社(埴安命)、龍王神社(邇邇芸命)、 止止神社(道主命)、年所神社(大山咋尊)、祝詞神社(天児屋根神)、國連神社(顕国玉命)、荒神社(素戔嗚尊)、渡津神社(少童尊)、柳牟田神社(速秋津日命)、蛭田若宮神社(蛭子尊)、人見神社(天鈿女命)、浪折神社(神直日命)、年津久神社(大歳神)、大井神社(建角身命)、飯盛神社(伊弉諾神)、和歌神社(柿本人麿)、國玉神社(大国霊神)、宮田若宮神社(太玉命)、室貴若宮神社(稚産霊命)、許斐神社(速玉男命)、辻原若宮神社(大鷦鷯命)、十所王子神社(建御名方命)、本木若宮神社(八幡大神)、宇生神社(伊弉諾神・伊弉冊神)、指奉神社(気長足姫命)、政所神社(素盞嗚命)、朝拝神社(天御食持命)、風隼神社(級長戸辺命)、息送神社(大御食津命)、九日神社(月弓命)、息正三位神社(宇佐津意美命)、矢房神社(大己貴命)、 風降天神社(埴安神)、大都加神社(宗像君徳善)、藤宮神社(藤原鎌足)、岡堺神社(玉依姫命)、楯崎神社(大己貴命)、上高宮神社(宗像大宮司清氏)、上袴神社(大市姫命)、山下神社(麓山祇命)、妙見神社(少彦命)、荒熊神社(熊野伊弉冉尊)、山部神社(赤人霊)、御竃神社(奥津日女命)、山師神社(大山祇命)、君達神社(若雷命)、千得下符神社(栲幡千千姫命)、北崎四所神社(玉柱屋姫命)、須田神社(雨守大神)、地主神社(田島大国主命)、厳島神社(市杵島姫命)、下高宮神社(大宮司中納言の室霊)、照日神社(大日留女神)、織幡神社(武内大臣)、飯豊神社(稲飯命)、御霊神社(八所御霊)、祓方神社(瀬織津日女)、葦木神社(句句廼馳命)、山手神社(野槌姫命)、波寄神社(素盞嗚命)、牧口神社(三毛入野命)、年尾神社(綿積三神)、濱宮神社(宗像三女神)、西塔田若宮神社(稚雷神命)、池浦山王神社(大己貴命)、久米神社(事代主命)、若八幡神社(仲哀天皇)、御鎰持神社(倭姫命)、伊摩神社(大山祇命)、酒井神社(大山祇命)、池田若宮神社(若年命)、飯盛小盛神社(稲飯命)、湯済殿神社(少名彦命)、白鬚神社(猿田彦神)、蛭子社(事代主神)、松尾社(大山咋神)


ここで、娘からタイムリミットの声がかかりました。
博多で夕食のお店を予約しているので、たぶん今上がらない間に合わない、と。娘は一緒に夕食食べてから新幹線で熊本まで戻らないといけないので、あまり遅くなるのは、確かにまずい。

あと10分くれと、暑いなか半分走って第二宮と第三宮に向かいました。
道は深い森の中、気持ちよかった。
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途中、ご神木「相生の樫」がありました。
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第二宮・第三宮に到着
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第二宮(沖津宮分社、田心姫神を御祭神とする。)
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第三宮(中津宮分社、湍津姫神を御祭神とする。)
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残念ながら、高宮祭場(邊津宮に於ける古代祭祀遺構、現在も春と秋の大祭他、庭上祭祀が行われている。)は割愛しました。

これで、念願だった宗像大社に参拝できた達成感とともに博多に向かい、同行していた下の娘が予約してくれていた、「博多の水焚き」を味わい、博多駅で天草に戻る上の娘を送ってから、博多駅近くのホテルにチェックインしました。



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登立(のぼりたて)天満宮

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鎮座地: 〒869-3601 熊本県上天草市大矢野町登立8742−1
参拝日:2018年7月19日

九州旅行の三日目、娘の暮らす朝天草下島を出発、食場(じきば)神社に参拝してから、天草上島を経て、大矢野島まで来て、登立天満宮に寄りました。
ここには、珍しくも「出雲構え型」の狛犬があることがわかっていたから。

熊本から延びる宇土半島を離れて最初に渡る島が大矢野島です。
領主のキリシタン大名小西行長が滅亡の後、当地の領民は後任者の苛政と弾圧に苦しみ、ついに寛永14(1637)年に蜂起しました(島原・天草の乱)。この乱は宗教戦争の色合いも強く、一揆軍の総大将はクリスチャンで当時16才の美少年、天草四郎時貞でした。
その四郎の出身地が、ここ大矢野島であると聞きました。

近くの駐車スペースに車を停めて、正面の石段を上がります。
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一の鳥居をくぐると、最初の狛犬が居る。
明治35年奉納の「出雲・構え型」狛犬。
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右側に阿形獅子。角あり。
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角が立派なのと、ワニみたいに口が裂けていて、かなり獰猛な感じです。
たいてい口が大きいのが、この辺の特徴。
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大きく上げた尻に立派なシンボルが。
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左が吽形獅子。こちらにも角あり。
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こちらのは、尾が立派。
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〇舟つなぎの木
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推定樹齢は約400年~450年といわれている。
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現在は、このような位置になっている。
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二の鳥居前に、二組目の狛犬が居る。
昭和11年奉納の「天草型」
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台座には、昭和11年奉納、「満州国 安東市」とある。
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右が通常と逆で吽形獅子。
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この鼻ヒゲは、熊本地方に多いようです。
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左側が阿形獅子。
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暑いさなか、この長い石段を上がるのにカミさんたちは悲鳴を上げていた(笑)
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石段の上の神門
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手水舎
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手水鉢の可愛い龍と、仏様?
もしかしたら神仏習合の名残かもしれない。
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拝殿まで、真っ直ぐな参道。
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由緒書き
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拝殿の前に三組目の狛犬が居る。
昭和三十年奉納の「玉取り型」狛犬。
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右が通常と逆の吽形で、玉取り獅子。
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左側が阿形獅子。
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拝殿
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拝殿内部
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大きく立派な本殿でした。
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天満宮らしく、牛が四頭も奉納されていた。

社殿左側手前の一頭目
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社殿左側奥に、暑さにへばった二頭目(笑)
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社殿右側手前の三頭目
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社殿右側奥の、ピカピカの新しい四頭目
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これで参拝を終え、熊本に出ました。
水前寺成趣園を見学したかったのですが、時間が無くてカット。
お昼は、九州自動車道に乗ってから熊本SAで、麺が春雨の「太平燕(たいぴーえん)」を初めて食べました。
美味しかった。
一路、宗像大社辺津宮を目指しました。



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天草・食場(じきば)神社(十五社宮)

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鎮座地:熊本県天草市亀場町食場53
参拝日:2018年7月19日

九州旅行の三日目、この日はまずこのお宮に参拝後熊本に出て、九州自動車道を北上して、宗像大社に参拝後、博多に宿泊するという予定です。

鳥居
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天草の鳥居で吃驚したのは、他の地域では鳥居の幅で注連縄が出来ているのに対して、天草では随分と余らして、柱に巻き付けそれでも余った分を柱に沿って垂らしている。
このお宮では、二回も柱に巻き付け、その上余った分が地面まで届いている。
このお宮の注連縄が、一番長かった。

このお宮さんの説明
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このお宮さんも、天草で多いという、地域ごとに縁深い三柱の神さまに併せて阿蘇十二神を祀る十五社神社の、一つである。

由緒:
 本神社は、文化元年(1804年)に社殿一間×一間・拝殿二間×三間の茅葺で、木の鳥居つきで創立したとあります。
その昔、食場村の庄屋浦上家の祖は播磨の国(現在の兵庫県)浦上郷の出身と伝えられており、大正初期までこの拝殿で笛・太鼓つきの文楽(人形浄瑠璃)が祭事に奉納されいたのは、この影響ではないかと推測されます。
また、奉納相撲も盛んであったと言われています。


もう慣れたが、拝殿の前に蘇鉄を植えているところが多い。
私のような東国の人間には、いかにも南国の感じがする風景である。
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拝殿の前に、大正10年(1921)奉納の「天草型」狛犬が居る。
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右側が阿形獅子。
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左側が吽形獅子。
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熊本型にしても、天草型にしても、頭が大きい、顎髭がものすごく立派。
口がものすごくデカイ。
よって迫力満点。
だが、表情がどれもこれも、人懐こいユーモラスなので、とても和みます。



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天草・御領神社

20180729

鎮座地:熊本県天草市五和町御領6846
参拝日:2018年7月18日

世界文化遺産・崎津集落を見たあと、本渡地区まで戻ってきましたが、まだ時間があるからと娘が「御領神社」に案内してくれました。
今回、天草を訪ねる前に特徴のある狛犬を調べて、「できれば寄りたい」リストを娘に送っておいたので。

一の鳥居
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ネットで調べたが、神社の由緒はわからなかった。
ご祭神は、「天照皇大神・神倭伊波礼彦神(神武天皇)・神八井耳命・阿蘇十二神」。
天草では地域ごとに縁深い三柱の神さまに併せて阿蘇十二神を祀る十五社神社が多いとのことなので、その一つであることはわかった。

二の鳥居
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二の鳥居を奉納した長岡興就という人について説明板があった。
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この中で「源興就」とあり、武士から庄屋になったとしても「源」姓を名乗るのは、余程の家系であると思ったので、帰ってから調べた。

まず、長岡五郎左衛門興就については、
興就公は天保3年(一八二二)父、興生公の死去により十六歳で第十一代御領組大庄屋となりました。
そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外なお金を割り付けるなど、自然災、人災が容赦なく島民を苦しめたのです。
永年に亘るこのようなくらしの惨状を憂えた興就公は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、救済方を再三に亘って願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。
そこで興就公は意を決して江戸に上がり、弘化二年(一八四五)十二月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘公の登城途中に「天草の百姓が安心して農漁業を続けられる仕法(法律)を公布してほしいと、幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行いました。
その結果「天草百姓相続方仕法(あまくさひゃくしょうあいつづきかたしほう)」が公布されることになったが、あまりに不十分な内容のため、天草・島原の乱以来と言われる「弘化の大一揆」につながりました。
栖本の庄屋永田隆三郎などと連座し、庄屋没収、押し込めという永牢に処せられ明治2年死亡しました。
永田隆三郎とともに天草の義民としてあがめられています。

「島原の乱」も、ベースになったのは領主の過酷な年貢取り立てに対する一揆であったことを考えると、あれだけの大乱の後も、百姓、漁民の処遇は変わらなかったんだな、あらためて思った。

また、当時熊本城にてふんぞり返っていた「細川なにがし」と長岡興就は、ともに細川忠興の子孫なのだから、「運命の綾」を感じてならない。

長岡興就は御領組大庄屋であったが、その長岡家の祖は、長岡興秋です。
この人の歴史もすごかった。
この興秋こそ、熊本細川藩初代藩主、細川忠利の兄である。
この興秋が天草に住むことになったいきさつを以下に。
元和元年、細川忠興の次子長岡與五郎興秋、先に脱走して豊臣秀頼に属す。落城には身を以って遁れ。京師(松井家所領地)稲荷山東林寺に潜む。徳川氏を憚る父君忠興の強要にて、この日同所に於いて神妙に自刃す-----
とは名のみ。その実、説得役松井右近の計らいにて一命を完うし、暫く尾州春日郡小田井村                  に忍び、後天草に伴われ御領村に隠匿す。扈従の臣長野幾右衛門、渡邊九郎兵衛の両名、何れも同村に居つく。時に興秋年三十三、隣村佐伊津中村半太夫方に同居の某女(当時十八九歳)を入れて妾(つま)となす。すなわち同女、富岡番代関主水の娘という触れ込みなるも、実父は立家彦之進と云える寺沢藩中の名だたる士、密かに大坂方に参じ、遂に帰らずなりしまま、唐津を立ち退き主水手頼りに来島、随伴の家従中村半太夫と共に佐伊津村へ仮寓中なりしなり。依って一子與吉を生み、長じて興季と名乗る、之れ天草長岡家の始祖にて、後挙げられ御領組大庄屋と為る。

細川忠興という人は、異常に嫉妬深く、それに嫌気がさしていたガラシャ夫人は自殺同様に死んだのだと云われているが、そんな父親に反発したのか、他に事情があったのか、徳川方の父親に反して豊臣秀頼方に組し、敗戦の後父親は自刃を迫るが、細川忠興家臣の計らいで天草に住むようになって、長岡家の始祖となった。


石段を上がると拝殿の前に、大正12年(1923)奉納の「天草型・玉くわえ型」狛犬が居る。
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右側が阿形獅子。玉をくわえている。
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左側が吽形獅子。
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これで、この日の予定を終了して、美味しい夕食を食べに向かった。


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世界文化遺産/天草・崎津集落

20180728

訪問日:2018年7月18日

前記事「天草窯元めぐり」のあと、崎津集落に向かいました。
今年の6月30日に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の天草での構成資産です。
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娘が気を利かせて、下図の一番上☆印の二江漁港(イルカウォッチングの基地)に出て、クルッと反時計回りに海沿いに車を走らせ、★印の崎津までドライブしてくれました。
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崎津に到着
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【崎津教会】
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崎津では現在の旧修道院の場所に、最初の教会が建てられました。その後、昭和9年に現在の崎津教会が建てられますが、建設地はハルブ神父の強い希望で、キリシタン弾圧の象徴である絵踏みが行われた庄屋役宅跡が選ばれ、絵踏みが行われた場所に祭壇が置かれました。教会内は当初から畳が敷かれており、全国的にも珍しいもので、日本と西洋の文化の交流を象徴しています。教会の設計は、多くの教会建築に携わった上五島出身の大工・鉄川与助です。

正面の感じは、ヨーロッパの教会の前に立ったときの、あの圧迫感は無いですね。
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中は、とても清潔で美しいという印象でした。
撮影禁止だったので、資料の写真を載せておきます。
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畳が敷いてあるのが、新鮮でした。

教会の周りをぐるっと一回りしました。
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和風の感じのところもあります。
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ステンドグラスは美しい。
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祭壇の部分は六角形になっている。
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とても良い教会でした。
クリスチャンではないので、どうしても観光気分の印象で申し訳ないです。
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教会の前の通りが海に出たところからの、港の眺め。
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【崎津資料館 みなと屋】
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昭和初期、崎津は海産物や隣町の木材や木炭などの交易によって栄え、街なかには木賃宿や旅館が建ちならび、日中から三味線の音が鳴り響くなどとても繁栄していた。
崎津資料館・みなと屋は、昭和11年に建てられた旅館「みなと屋」を、資料館として改修したもの。
崎津の歴史や独特のキリスト教信仰について紹介している。

昭和初期の風景を再現したジオラマ。
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アワビ貝を使った信心具などが展示してある。
撮影禁止なので資料から。
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二階は、旅館当時の面影が残る。

窓から教会が見える。
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欄間が、洒落ている。
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付け書院に面白いものが。
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コアラに似ている(笑)
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「みなと屋」を出て、崎津諏訪神社に行く。

【崎津諏訪神社】
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それまで潜伏していたキリシタンたちも、ついに各地で発覚します。崎津では1805年のクリスマスに、牛肉や魚肉を祭壇に供えていることがきっかけになった。代官所の役人は、崎津諏訪神社で異仏の取り調べを行い、境内に設置した箱に自らの信心具を投げ捨てるように指示し、捨てたキリシタンたちは心得違いということで無罪放免となった。その際、取り調べを受けた信者は、どこに参詣するときも自分たちは「あんめんりゆす=アーメンデウス」と唱えていたと記録されている。
崎津では住民の約70%、1709人がキリシタンとして摘発された事件を「天草崩れ」と呼ぶ。

古文書「宗門心得違之者糺方日記」
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『暫定天草切支丹史』/下田曲水より
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二の鳥居
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石段を上がりきった両側に、大正14年(1925)奉納の「天草型・禿型」狛犬が居た。
この狛犬は、福井県に多い「越前禿型」のようにたてがみがオカッパなのが珍しい。
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諏訪神社境内から見下ろした、教会の付近。
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「海上マリア像」が見えるところまで、ぶらぶら歩いていきました。

【トウヤ】
家屋と家屋の間にある幅約90cmの小路。崎津集落の西側に位置する下町・中町・船津地区は、この小路が数軒ごとに通っており、漁村の生活に密着した交流の場になっている。
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その辺の海辺から見た、羊角湾。
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【西宮宮(にしのみやぐう)】
祭神は蛭子神(ひるこのかみ)で、村中安全、大漁満願、商売繁盛ょ祈願して祀り、漁業を中心とするさ樹角生業と密接に関わっています。古文書などから18世紀には造立が確認されている。
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【海上マリア像】
天草夕日八景の一つだそうです。
今回は、夕日が沈むまでここに居られず、残念。
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テレビ番組で、崎津の漁師さんがマリア像の前を通る時に十字を切っているのを見たことがあります。

肉眼では、遠いので存在がわかる、という程度です。
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カメラのズーム機能で捉えたもの。
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駐車場に戻るときに、急な斜面にお墓があり、今は十字架が建てられているのを見ました。
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湾の反対側に行き、崎津教会を見ることにしました。
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【湾反対側からの崎津集落】
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羊角湾の入り口を見ると、左側に灯台がある。
そこまで行って見ました。
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灯台の敷地には入れませんでした。
その近くに、羊角湾ビューポイントがあった。
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【羊角湾】
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「海上のマリア」は肉眼では見ることが難しい。
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私のカメラの、60倍ズームをもってしても、これが精いっぱい。
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これで、世界遺産・崎津集落の見学を終え、本渡地区まで戻りました。



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佐比売山三瓶大明神(さひめやまさんべだいみょうじん)/日本の神々の話

20180726

『古事記』・『日本書紀』には登場しない神。
石見国一之宮・物部神社末社である「一瓶社」のご祭神です。
神社の説明では三瓶山の神名とのこと。

石見国一之宮・物部神社
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末社・一瓶社
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三瓶山の昔話に、大きな地震で山が崩れ、3つの瓶(かめ) が飛び出したので三瓶山と呼ばれるようになったと、山名由来として紹介されるものの一つである。
その一瓶は物部神社、二瓶は浮布の池にある迩幣姫神社(二瓶社)と云われ、三瓶は三瓶町池田にあった三瓶社(現高田八幡宮)と言われている。

また、物部氏の祖神である物部神社御祭神「宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)」がこの地方を平定されたとき、三つの瓶を三カ所に据え、物部神社、邇弊姫(にべひめ)神社、三瓶大明神にそれぞれ祀り、このことから三つの瓶の山「三瓶山」の名が付いたという話もあるそうです。

佐比売山という漢字を使う神社も含めて、「さひめやま」と称する神社は大田市周辺に7社、益田市に1社ある。また、物部神社の境内末社である一瓶社にも佐比売山三瓶大明神が祀られている。
「さひめ」の『さ』は穀物霊や、鉄を表しているとの説がある。別名は山神社といい、鉱夫や里人からは「山神(さんじん)さん」と呼ばれていた。

三瓶山は、古代出雲や物部氏に関係が深い山とされている。

さひめ山とは、三瓶山の古名で、佐比売山を有名にしているのは、国引き神話である。この山と大山を杭として、新羅の余った島々や能登半島の一部を引き寄せ、島根半島を本土とつないだという。

『出雲風土記』の「国引き神話」:
昔、ヤツカミズオミツノノミコトが、出雲の国を見て、「八雲立つ出雲の国は、細長い布のように小さく、まだこれからの国だ。
どこからか国を引いてきてぬいつけなくては」 と思い立ちました。
海の向こうを見渡して、新羅という国を見てみると、国のあまりがあります。
そこで、大きなすきを手にとって、 大きな魚の身をさくように新羅の土地をぐさりと切りはなしました。
そこに、三つよりになった強い綱をかけ、 霜枯れたかづらを「くるや、くるや」とたぐり寄せるように、また、河船を「もそろ、もそろ」と引くように、「国来、国来」 と、言いながら、引き寄せました。
そうして、ぬいつけた国が、 杵築のみさき(日御碕から平田市小津付近)です。
このとき、引き寄せた国を固めるために立てたくいが佐比売山(三瓶山)になり、引いた綱は、園の長浜となりました。そのあとも、北方の国から狭田の国や闇見の国を引き寄せて、 最後に北陸の都都のみさきから、 美保のみさきの国を引き寄せました。
このとき、国を固めるために立てたくいが火神岳(鳥取県の大山)になり、 引いた綱は夜見島(弓ヶ浜)になりました。
こうして国引きを終えたヤツカミズオミツノは、「今、国引きを終えたぞ」と意宇の杜に杖をつきたて、「おう(おえ)」と言いました。

(了)


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天草窯元めぐり

20180725

九州旅行の二日目、18日に窯元のお宅を三軒訪問しました。
目的は、娘夫婦がお世話になっているところにご挨拶にあがったのですが、カミさんも私も焼き物が大好きなので、各々のところで腰を落ち着けてしまい、すっかりお世話になってしまいました。

こういう「天草窯元めぐり」という立派なパンフレットが方々に置かれていました。
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今回初めて知ったのですが、天草で採れる陶石が日本全国の陶磁器生産を支えていると言っても過言ではありません。
なにしろ、磁器のベースとなる純白の白い肌をもたらす原料は、日本で生産されるものの80%が天草で生産されているというのですから、驚きです。

最上級のセトモノツチ「天草陶石」について:
 天草西海岸に産出する世界的な陶磁器原料の天草陶石。掘り出された石を砕き、粉状になったものを、唐臼で時間をかけ粘土状に仕上げます。形を作り、様々な行程を経て1300度以上で焼き上げ磁器となります。製品は陶器に比べ硬く、仕上がりの色は白色で濁りがなく美しいのが特徴です。こうした高品位の陶石の発見は、17世紀中頃と言われています。また、天草陶石は有田焼や清水焼の主原料として使用され、海外にも輸出されています。年間の出荷量は約3万トンで、全国の陶石生産量の8割を占めています。

天草の陶石が全国に広まったのに平賀源内が一役買っていた:
平賀源内は江戸時代の著名な文化人です。本草学や鉱物学、水準器・温度計・エレキテルなどを制作し理学者としての側面も持ち合わせています。また、戯作者、浄瑠璃作者としても活躍しました。鉱物学者として国内を探索していた1771(明和8)年に、源内が西国郡代に提出した建白書が『陶器工夫書』です。この中で源内は天草陶石を『天下に二つと無い最高級品』と書き、この土を使い最高級の焼き物を焼くことが出来れば、「唐人・阿蘭陀人」などがこれを買い求めて、それが「永代の御国益」になると断言しています。

陶石の鉱山
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ぜひ採掘場を見たいと娘夫婦に云ったら、「あそこなら見せてもらえる」と予定に入れてくれたのですが、なにしろお邪魔した窯元さんがどこも居心地がよく、長尻をしてしまい、そうはいっても世界遺産になったばかりの「崎津集落」はどうしてもこの日に見たかったので、割愛したのは残念でした。

今回お邪魔したのは「丸尾焼窯元」、「山の口焼窯元」、「市山くじらや窯元」です。
いずれも、普段娘夫婦がお世話になっているところです。
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【丸尾焼窯元】
天草市北原町3-10
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ここで娘の旦那さんが働いているので、作業場や窯なども見せていただきました。
窯元の五代目ご主人金澤一弘氏、奥様、三人の息子さん、ここで働いている皆さん、全員出てきていただいて、とても温かい雰囲気で、こちらとしてはご挨拶できてとても安心出来ました。

皆さんが夫々製作をされているので、ギャラリーには色々な味のものが並んでいて、つい見惚れてしまうものも多く、見ていて飽きるということがありません。
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実は、今年の正月に娘が今年の干支にちなんで送ってくれたのが、ここの奥様の作品です。
カミさんも私も気に入ってしまい、身近なダイニングに置いています。
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それで奥様の作品を楽しみにしていました。
どれを分けていただいたのか、後で載せます。

【山の口焼窯元】
天草市本渡町本渡1755-3
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ギャラリー(パンフレットから)
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ここはレスランもやっていて、ここで昼食をいただいたのですが、その美味しいこと!!素晴らしかったです。
インテリアも、柱にかかっている花器とか、洗練されていてとてもいい雰囲気でした。
ファンが多いと思います。

作品例(パンフレットから)
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【市山くじらや】
天草市五和町手野1丁目2909
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ギャラリー(パンフレットから)
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女性作家で、娘がお友達付き合いをさせていただいている方で、お話からしっかり自分を確立させている方のように見受けられました。
女性ならではの作品が多くて、カミさんも同行していた下の娘も楽しんでいました。

作品例(パンフレットから)
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☆今回購入したもの

丸尾窯の奥様の作品
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さっそく、コーヒーカップに使っています。
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娘の旦那さんの作品
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カミさんが、小物を置いて楽しんでいる。
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これは食器に使うより花器にしようと、カミさんが思案中。
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三つも窯元を訪問して、充分目の保養をした後、世界文化遺産になったばかりの、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のうち、天草崎津集落に向かいました。



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天草・本戸馬場八幡宮の狛犬

20180725

熊本県天草市八幡町21−25
参拝日:2018年7月18日

丸尾焼窯元から、ここに寄ってから山の口焼窯元に移動しました。
丸尾焼窯元を訪問したときに、窯元のご主人と色々な話をしていたなかで狛犬の話が出て、丸尾窯の二代目の方が西南戦争の後奉納した狛犬があると聞き、参拝してその狛犬を見た。

入り口鳥居
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参道には、新旧二組の狛犬が居た。
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拝殿
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拝殿内部
中に立ててあった旗から「本戸(ほんと)馬場八幡宮」という社名がわかった。
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ご祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと 応神天皇)。

まずは、拝殿に近いほうの狛犬から。
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丸尾窯二代目金澤久四郎氏の奉納。
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製作は、名高い下浦の石工である。
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西南戦争のあと奉納されたそうなので、明治10数年奉納の「天草型」狛犬。
天草型の特徴は、細い歯並びと襟巻のようにぐるっと取り巻く顎鬚と鬣。
個性としては、口がデカくてユーモラス。親しみやすくていい味がある。
良い石を使っているとみえ、保存状態が良くてきれいだ。

右側が阿形獅子
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尾は、尾立ち型。
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左は、吽形獅子。
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鳥居側に平成7年奉納の、現代形「天草型」狛犬が居る。
頭が巨大、口が大きくて迫力あるが、ユーモラスな表情なので親しみやすい狛犬だ。
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右が阿形獅子。
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上下の牙が繋がっているのが面白い。
(牙が噛み合っている)
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尾は尾立ち型。頭とバランスよく大きい。
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左が吽形獅子。
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良い狛犬を見たので、ゴキゲン。
次に向かった。


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天草・本渡諏訪神社

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鎮座地:熊本県天草市諏訪町8-3
参拝日:2018年7月18日

九州旅行の二日目の朝、このお宮さんにお参りしました。
天草の代表神社・総鎮守ということであり、私の娘夫婦ともにこの近くで働いているので、当然な参拝です。

入り口の大鳥居。
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社号標
旧社格:県社
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弘安6年(1283年)8月1日の創祀。鎌倉時代の文永11年(1274年)、並びに弘安4年(1281年)の二度に亘る元寇の折、本渡城主の天草大夫大蔵太子(あまくさだゆうおおくらふとこ)という女傑が水軍を率いて出陣し、諏訪大明神の御加護により日本未曾有の国難を神風をもって御守護いただき輝かしい戦功を立てた。その神恩に感謝し、2年後の弘安6年(1283年)8月1日、天草氏領土内の総鎮守として信州諏訪の御本社より諏訪大明神の御分霊を奉じ 本砥郷山口の里に鎮祭し、創祀された。
※天草氏は大蔵氏を祖とし、鎌倉時代は女子にも所領を相続する権利があり、地頭職を娘の大蔵太子播磨局(はりまのつぼね)に譲ったもの。

爾来、天草氏の氏神、郷中の総社として広く崇敬される。しかし、寛永14年(1637年)の島原・天草の乱で他の社寺と共に一揆勢の手による兵火にかかり、ことごとくの社殿神宝旧記を焼失。乱の後、天草は天領となり、初代代官・鈴木重成(本町 鈴木神社御祭神)が着任。鈴木重成は、神社仏閣の復旧につとめ、人心の安定を計り、特に当神社の再建を急がせた。乱から6年後の寛永20年(1643年)に海岸浜宮の地(現在の中央銀天街)に新社殿を造営し、これまでの本砥郷山口の里より遷座した。

弘安6年(1283年)から寛永20年(1643年)までの360年間、第1次鎮座地であった天草市本渡町山口には、「諏訪神社旧趾」の記念碑があり、その御鎮座の由緒を伝えている。

第2次鎮座地である現在の天草市中央新町銀天街アーケード中心地には、寛永20年(1643年)から大正4年(1915年)までの272年間鎮座。この時、初代代官・鈴木重成は島原・天草の乱以後に荒廃した島の耕作の便宜をはかり、当神社の例大祭であった8月1日(現在では11月1日より7日)に七日間の「農具市」を開かせた。当時、島内には商店は少なく、この農具市が次第に「雑貨市」に広がり、島民は農具だけでなく、一年間の生活必需品の一切を買い求める「本渡の市」に年々発展致した。

その後、明治初期には天草五郷社のひとつとして郷社に列格。大正4年(1915年)に旧庄屋大谷家の屋敷跡であった現在地に遷座。大正6年(1917年)に町山口諏訪神社から「本渡諏訪神社」に社名が変更され、昭和20年(1945年)8月1日には、天草の代表神社・総鎮守として「県社」に昇格。諏訪大神の御守護、御神徳が天草島の文化産業はじめとした繁栄の原動力となったことから、今日に於いても人々の営みの守り神として篤く信仰されている。

鳥居をくぐると、神紋がついた立派な神馬がいる。
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手水舎
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立派な龍から水が出ている。
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手水舎の近くに、鶴と亀の彫刻がされた敷石があり、事前の調査ではこれを踏むとご利益があるとの記事があったので、もちろん踏ませていただいた(笑)
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近くの参道敷石にも、富士と龍の彫刻があり、そちらも怠りなく踏ませてもらった。
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参道の両側に、楽しみにしていた狛犬が並んでいます。
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昭和34年奉納の、「熊本型-玉取り・子抱き型」狛犬。
「子抱き獅子」は、全国的にも珍しく、子授け、安産、育児、家内安全等、子孫繁栄の象徴として信仰され、親しまれているそうです。
右側が玉取り。耳のデカイのに吃驚。
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こういう鼻ヒゲは、他には無いと思う。
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左側が子抱き
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小獅子が抱かれているよりは、喉に噛みついているように見える(汗)
実際は母獅子のタテガミを噛んでいるのだが。
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母獅子も、困った顔をしているぞ(笑)
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こんなに耳を立てている狛犬も珍しい。
両方とも吽形なのも珍しい。
こういう鼻ヒゲは、熊本型に多いようだ。

今度は、大正12年奉納の石灯篭の笠石の上に、狛犬と吉祥天(?)が居る面白いもの。
後で太宰府天満宮に参拝した時、やはり石灯篭の笠石の上に居る狛犬を発見したが、太宰府天満宮のは両方とも狛犬。
左側は当初恵比寿さんと思っていたが、後て写真をよく見ると恵比寿さんの持ち物ではない。宝珠らしきものなので吉祥天ではないかと推測した。
右の灯篭に、後足で立った狛犬が乗っている。
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左の灯篭に、吉祥天(?)が乗っている。
実に優しい顔をしている。
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拝殿前に三組目の、大正5年(1916)奉納の「天草型」狛犬が居る。
天草型は、顎髭がぐるっと襟巻のようになっているのが特徴らしい。
右側が「吽形」、左側に「阿形」となっている。
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拝殿
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向拝屋根は、唐破風と千鳥破風の二重屋根。
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向拝部に、二つの社額が掛かっていた。
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拝殿内部
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拝殿横から本殿に廻る。
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本殿
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現在の祭神は次の3柱。
建御名方神 - 信州 諏訪大社の御祭神 ※大国主の御子神で、恵比須の弟神
八坂刀売神 - 建御名方神の妃神
八幡大神 - 第十五代天皇 応神天皇

神紋だが、「蔓葵(つるあおい)」ばかり目立っていたが、諏訪大社から分祀されたということは、諏訪大社の神紋「諏訪梶」も神紋になっていないだろうかと探したら、やはり幣殿の前にあった。

神紋は、「蔓葵」と「諏訪梶」
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〇「温故知新」の碑
長野県・諏訪大社の前宮司「松本昌親」氏の書
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続いて末社に参拝。

〇恵比須神社
御祭神は事代主大神。
江戸時代のいつの頃よりか本渡諏訪神社の第2次鎮座地に境内社として奉斎され、諏訪大明神とともに「本渡市」繁栄の基を開いたお社である。昭和39年(1964年)春に現在の地に遷座。平成6年(1994ン3ん)10月に、本渡町中央商店街大火災復興30周年、市制発足40周年を記念し氏子崇敬者の赤誠を結集して新社殿が建立された。夏秋の「ゑびす祭」は盛大で、商売繁盛・大漁満足・家内安全等の守護神として篤く尊崇の念を集めている。
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〇十五社神社
御祭神天照皇大神、八幡大神、春日大神、阿蘇十二神(阿蘇神社祭神、開拓鎮護、生活守護)
天草では地域ごとに縁深い三柱の神さまに併せて阿蘇十二神を祀る十五社神社が多く鎮座している。また、古くより耳病治癒の神さまとして信仰されている。

本殿と神池のあいだを行くとあります。
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鳥居
注連縄に注意。
天草の神社は、このように注連縄の長さを長くして鳥居の柱に垂らしている。
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十五社神社
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〇一対の大蘇鉄
天草市指定文化財に昭和47年(1972年)指定。大正5年(1916年)に氏子の森邦太郎・鶴田八十八の両氏が奉納した社殿両脇に構える大蘇鉄は、10年ほど前より全国的にも珍しく蘇鉄に自生した蘭が花を咲かせ、毎年5月の始め頃に見頃を迎える。
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蘭はわかりました。
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せっかくだから、蘭が咲いている写真を探した。
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駐車場側の鳥居のところに、素晴らしい彫刻の狛犬が居ました。
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台座に、弘安6年(1283)、寛永20年(1643)と刻まれています。
弘安6年(1283)は、このお宮が創祀された年なので、寛永20年(1643)にこの狛犬が奉納されたと解釈しました。
「熊本型-玉取り・子連れ型」ですが、両方に子獅子を一頭ずつ追加してある、凝った彫刻で素晴らしい出来です。

右側が阿形の玉取り型。子獅子がプラスされている。
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阿形に角があるのが珍しい。
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尾も、一つ一つの炎が勢いあり、それがグッと上昇して立派な尾だ。
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左が、吽形の子獅子連れ型。通常は子獅子が一頭だが、これは二頭居る。
左右とも子獅子を一頭ずつプラスしてあるということになる。
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眉、口ヒゲ、顎髭、たてがみの彫刻が素晴らしい。
子獅子も同様に素晴らしい。
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鼻の穴がつぶれているのは、珍しい。他には無いかも。
この口ヒゲも熊本型の特徴。
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子獅子二頭ともに、実に勢いがある。
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天草の「下浦石工」の業績は天草の石橋ばかりでなく、長崎の風景を代表するオランダ坂等の石畳等にも残されています。天草の石工たちが天草の石を使って築いたものです。
長崎の大浦天主堂は、日本に現存する最古の洋風協会建造物として国宝に指定されています。この天主堂もまた、天草人の手で築かれています。
それで、このお宮に残っている沢山の素晴らしい狛犬たちが生まれている訳です。
これは、事前に聞いていましたが、やはり素晴らしかった。


(了)


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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群①

20180723

所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は一番右側の庚申塔①である。
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塔身は唐破風付駒形
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銘文から延宝5年(1677)造立とわかる。
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塔身:唐破風付駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、火炎髪、髑髏
本手:合掌
他の手が持つ法具:鉾、弓、矢、法輪
脇侍:三猿
造立年代:延宝5年(1677)
高さ:165cm

日月は浮彫瑞雲付き
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全身
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髪は火炎、髑髏を戴く。いかめしい顔つき。
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本手は合掌、向かって右は上から鉾、弓、左は上から法輪、矢。
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青面金剛は岩の上に立ち、その下に三猿。
右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔は、髑髏が明確に残っていること、法輪と鉾の位置が大勢と逆なのが面白い。
古い時代なのに、三猿の彫りが綺麗に残っている点が良い。



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長部田海床路・御輿来海岸

20180722

熊本城の復興の様子を加藤神社などで確認してから、娘の車で天草に向かった。
ほぼ2時間かかるということだった。

目的地は天草市役所の近く。
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車の中で、有明海のことをテレビでやっていたもので印象に残っていることの話をしていて、私が海の中に電柱が並んでいる光景の話をしたら、なんと娘がこの道沿いだと言うではないか。
まっすぐ天草に向かう予定だったので、事前にはまったく調べてなかった。

喜んで寄ってもらった。
下図で赤丸のところだ。
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【長部田海床路(ながべたかいしょうろ)】
所在地:熊本県宇土市住吉町3125−1

大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM(2008年に放送)のラストシーンに登場し、その存在を一躍有名にした。
干満の差が激しい海で海苔養殖・採貝を営む漁業者のために昭和54年に建設されたもので、
有明海は干満の差が最大4mもあり、干潮時はこの道に軽トラックを走らせ、海苔や貝を収穫するのです。

私たちがここに着いたのは、午後3時過ぎくらいだったが、潮がかなり引いていて道がはっきり出ている。
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カミさんと、天草に住んでいる上の娘と、同行してきた金沢文庫に住んでいる下の娘。
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大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM
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本当は、このように島原半島が綺麗に見えるようだが、この日は炎天下だと思っていたら意外と煙っていて島原半島が全然見えていなかった。
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満潮だと、こうなる。
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ついでに、娘がこういうところもあると、御輿来(おこしき)海岸にも寄ってくれた。
ただし、娘も初めてだったので、場所がズレていた(笑)

【御輿来(おこしき)海岸】
所在地:熊本県宇土市下網田町

駐車場に車を停めたが、よくわからない。
看板はある。
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御輿来海岸は,宇土半島北岸に位置し,名の由来はその昔,景行天皇が九州遠征の際,美しい海岸線が天皇の目に留まり,しばし御輿を駐め見入られたという伝説からその名がついたとされ「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」に選定される景勝地。

晴天時には有明海を挟んだ対岸の長崎県雲仙普賢岳が望めます。また有明海は干満の差が日本一で,潮が引いた当海岸の砂地には風と波による美しい曲線美の砂紋(砂干潟)が現れます。女性的で神秘的な優しい表情を魅せる海岸です。

どうも左手には、まったく無さそうだ。
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右手の突堤の向こうに、それっぽいところがある。
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突堤まで少し歩いていったが、手前側に川が流れ込んでいて、突堤に行けない。
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突堤の向こうにそれらしいものがあった。
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家に帰ってから、調べて見たら展望台もあるらしい。
参考にそこからの眺めの写真。
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これが、景行天皇が魅入られたという光景だろう。
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あとは、天草の目的地に向かって、一目散に車を走らせた。


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加藤神社・熊本城・熊本城稲荷神社

20180721

7月17日、この日から九州旅行の初日です。
熊本空港に11:40に着き、空港内のレストランで「あかうし丼」を食べ、熊本城に向かい復興の様子を見ることにしました。熊本大地震の復興のシンボルが熊本城だと聞いているので。
時間の関係で、あまり時間が取れないため、加藤神社への参拝を兼ね、加藤神社から熊本城がよく良く見えるとのことだったので、それで今回は我慢することにしました。

空港まで、天草に住んでいる娘が迎えに来てくれ、その車で熊本城に向かいます。

熊本の繁華街。「鶴屋デパート」と市電
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熊本城が見えた。熊本県人にとって熊本城はシンボルだそうです。
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事前に調べたら、加藤神社まで車で入っていけるということだったので、大変助かりました。

【加藤神社】
鎮座地:熊本県熊本市中央区本丸2-1
参拝日:2018年7月17日

大鳥居
社格等:旧県社
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元は慶長16年(1611年)の清正の歿後に清正を祀った浄地廟であった。慶長19年(1614年)、火災で焼失した本妙寺が浄地廟に移された。
神仏分離により明治元年(1868年)、浄地廟の儀式を神式で行うこととなり、同4年、浄池廟・本妙寺より神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社(にしきやまじんじゃ)とした。場所は大天守、小天守、宇土櫓に囲まれた平左衛門丸である。同年、大木兼能と金官を合祀した。同7年、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の新堀町(現在の京町一丁目)に遷座し、翌8年県社列格、同10年2月、西南戦争により社殿を焼失し(神体は健軍神社に避難していた)、明治17年に再建した。明治42年(1909年)に、錦山神社から加藤神社に改称された。乃木希典も加藤清正を信仰していたこともあり、各地に分霊を祀る加藤神社ができた。同44年にはハワイに、大正3年(1914年)には日本統治下の朝鮮・京城府(現 大韓民国ソウル特別市)に当社の分霊を祀る加藤神社が創建された(京城府の加藤神社は戦後に廃社。跡地は聖山教会になっている)。加藤清正を祭る神社は一時90社を数えるが、一部例外(鹿児島県など)を除き全国的に分布し、その約半分は熊本県にある。昭和27年(1952年)、宗教法人加藤神社となった。同37年、道路改修のため、熊本城内の現在地に遷座した。

熊本の藩政時代の大部分は細川氏の統治によりますが、祭神の加藤清正公は藩の礎を築き、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ絶大な人気を誇ります。清正公は佐々成政のあと熊本へ入り、城の整備はもちろん領内の水路、土木事業などにも数多くの功績を残しています。特に万一籠城戦となった時の為に用意した水源・井戸は、幕末の西南戦争で官軍が籠城に耐え抜いた大きな要因の1つとされるもの。

大鳥居の前に二組の狛犬が居る。

昭和11年奉納の「熊本型」
顎の無い、顎髭が異様に立派なのが特徴。
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昭和59,年奉納の「岡崎型」
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手水舎
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境内
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ご神木を挟んで、左に天守閣、右に宇土櫓が見えます。
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拝殿
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お参りします。
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拝殿内部
絵馬が拝殿内にかかっているのが珍しい。
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ご祭神:
加藤清正公を主祭神とし、祭神に殉じた大木兼能公、韓人(朝鮮人)金官(きんかん)公を配祀する。

神紋は「「蛇の目」紋と「桔梗」紋。
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これには、肥後入国の際の加藤清正公の境遇が関係しています。清正公は肥後入国前5,500石でしたが、一気に出世して、肥後北半国19万5千石を任されることになりました。当然、家臣も調度品もまったく足りません。そこで豊臣秀吉がとりはからって、讃岐で改易された尾藤知定氏の武具や調度品を清正に与えました。
秀吉より賜った食器類には尾藤家の家紋である桔梗紋がありました。加藤清正はこれを加藤家の家紋として、そのまま取り込んだのです。そして、尾藤家の家臣300人もあわせて召し抱えたといわれています。そのため、武具には蛇の目紋、調度品には桔梗紋が使われたということです。

〇清正公の旗立て石
朝鮮出兵の際使用したという旗立石で、明治時代になって肥前・名護屋城から移されたものです。
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〇清正公お手植え樹
清正公お手植えの銀杏の大木があります。清正公は熊本城築城にあたり、こちらや本丸御殿の前などに銀杏を植えたそうで、熊本城の別名「銀杏城」の由来とされています。銀杏の木は水分含有量が高く燃えにくく、また実は食料になるということで植えられたと伝わっています。
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末社・白鬚神社
ご祭神:
白鬚大明神(猿田彦神)
菅原道真公
大国主神
恵比寿神
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【熊本城】
加藤神社から堀越しに天守閣がよく見えます。

〇天守閣
大天守、小天守がよく判る。小天守の下がすっかり崩れているのがよくわかる。
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〇宇土櫓
こちらは、まったくビクともしなかったので有名。
宇土櫓は、小西行長が宇土に築き上げた「鶴の城」と呼ばれた宇土城の天守閣だったもの。

加藤神社の大鳥居の前からの眺め。
立派な石垣です。
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加藤神社境内から
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〇戌亥櫓
加藤神社のすぐ近くにあるので、二つある一本足櫓のうちの一つなので見に行きました。
ここの堀は、半端ない幅ですごいですね。
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戌亥櫓は西南戦争の後解体され、2003年に復元。熊本地震では石垣が大きく損傷しわずかな石材で支えられる格好となりました。熊本城では他に南部にある飯田丸五階櫓が某缶コーヒーのCMでも一本足の柱に支えられたと紹介されましたが、この「戌亥櫓」も石材の絶妙なバランスによって倒壊を免れました。堀と櫓の光景は実に絵になるもの。ぜひこちらもご注目を。
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熊本城を挟んで反対側にある「熊本城稲荷神社」に、車で移動しました。
ここには「熊本型」の狛犬が居るからです。

【熊本城稲荷神社】
鎮座地:熊本県熊本市中央区本丸3-13
参拝日:2018年7月17日
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加藤清正が天正16年(1588年)に肥後国(現在の熊本県)へ入国するに当たり、居城となる熊本城の守護神として稲荷神を勧請したことに始まる。以後、生活の守護神として熊本市民の崇敬を集めている。

ご祭神:
白髭大明神(生活守護の神)
緋衣大明神(火伏・学業・芸能の神)
玉姫大明神(良縁・縁結びの神)
通力大明神(金運・勝負の神)
辰巳大明神(安産の神)
猿田彦大神(開運・交通安全の神)
子安大明神(子育ての神)
白菊大明神(商売繁昌の神)
貞広大明神(土木・建築の神)
源作大明神(五穀豊穣の神)
など

石段の上に、大正15年奉納の「熊本型・玉くわえ」狛犬が居る。
「熊本型」は顎の無い、顎髭が異様に立派なのが特徴。
「玉くわえ型」は阿形が玉をくわえているが、全国的にみても珍しいようだ。
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狛犬と並んで狛狐も居る。
こちらも玉を含んでいる。
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すごい数の大明神が祀られている。
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白鬚稲荷大明神
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緋衣大明神
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貞広大明神のところに、可愛い瓦の狛犬が居た。
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これで熊本を発ち、天草に向かいました。


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狭山市立博物館ガイドツアー&稲荷山周辺史跡めぐり

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【狭山市立博物館】
所在地:埼玉県狭山市稲荷山1-23-1
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さやま歴史クラブの「博物館に行こう」というグループの企画として、6月22日に狭山市立博物館の下記催しに参加しました。
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このグループの活動日は第4金曜日と決まっているので、博物館のほうで設定した日時でなく、特別に予約して設定しました。
ガイドテーマは「中世の入間川にまつわる武将たち」を選びました。

10:30に博物館に集合、各自入場して自由見物後、11時に2階展示室入り口に集合。
ガイドを受けました。

「中世の入間川にまつわる武将たち」の展示コーナー。
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「清水冠者源義高」、「新田義貞」、「足利基氏」の三名の武将の説明を、展示資料だけでは足りないので、補助資料を用意して説明した。

ガイドの様子(他の日)
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【清水冠者源義高】
清水義高は、木曽義仲の長男。義高は1184(元暦元)年4月、源頼朝の命を受けた者の手により「入間河原」で殺害された。

関係図
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源頼朝が清水冠者義高の殺害を決意したのは、義高の父・木曽義仲を義経軍が討ったため、後顧の憂いを無くすため。
森高はこのとき、頼朝の娘・大姫(おおひめ)の婿(むこ)になっていた。

吾妻鏡の記述
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現代語訳
昨夜から殿中いささか物さわがしい。これは志水冠者(義高)が頼朝公の婿となっているが、亡父(義仲)のことを思うと子である故にその気持ちもはかりがたいので、内々殺してしまおうと云うことになり、側近の壮士等に申しふくめられた。ところが女房共がこれを伝え聞き、密かに大姫の耳に入れた。よって志水冠者は計略をめぐらし、女房の姿に変装して今晩のがれ去ったのである。大姫側近の女房たちの助けで、人に知れず馬を用意し、綿を使って轡など音を立てないようにした。義高が鎌倉を脱出するとき、義高に付き添って来ていた海野小太郎幸氏は、日頃一ときも義高のそばを離れなかった。彼はその日義高の床に入って髷だけ出して殿中の女房達に気付かれぬようにしていた。夜があけると、いつも義高としていた好きな双六遊びをよそおって、独りで勝負のまねをしながら気付かれぬようにしていたが、とうとう気付かれてしまった。頼朝は烈火の如く怒り、堀藤次親家以下の軍兵を諸所に派遣し、義高を討ち取るよう命じた。これを聞いた大姫はあわてふためき、魂は消え入るばかりであった。

義高は鎌倉を脱出して鎌倉鋳道を北へ向かって逃れましたが、頼朝の放った追手により入間川で捕まり、その場で殺害されたとあります。

吾妻鏡の記述
堀藤次親家の従者藤内光澄が帰参して入間河原で清水冠者を討ったことを報告した。
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室町時代から江戸時代に流通した『御伽草紙「清水冠者」』の義高脱出の挿絵
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御台所と大姫が義高を供養している場面
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〇清水八幡宮
入間川の流れと国道16号線にはきまれた場所(入間川4丁目)にあります。入間川3丁目の八幡神社が所蔵ずる「八横神社縁起」によると、同社は義高の死を哀れんだ入間川の里人が、その遺骸を埋めて墓を築いたのがそもそものはじまりで、その後、義高の義母にあたる北条政子が手厚く保護したため立派になりましたが、1402(応永9)年の水害によりすべてが押し流されてしまったとあります。
現在の本殿は1959(昭和34)年に建立されたもので、そのなかには1430(永享2)年銘の石祠(せきし)が安置されています。この石祠は、托戸時代末期に近くを流れる赤間川(あかまがわ)から掘り出されたもので、それには義高が鎌倉から逃げる途中入間川で殺害されたこと、応永の洪水で社殿と祉地が流失してしまったことなどが刻まれています。
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〇影隠し地蔵
新富士見橋を渡って1kmほど北へ行った奥州道交差点の右側に立っています。この地蔵が「彰隠し地蔵」と呼ばれるようになったのは、鎌倉を逃れて当地へ至った義高が、追手から難を避けるため、一時的に地蔵の背後に影を隠したためといわれています。現在は右の地蔵ですが、かつては木像の地蔵で、しかも交差点左側に地蔵堂があり、そのなかに安直されていたとのことです。この伝説は、『新編武威風土記稿』の上広瀬村の条にも配載されているので、少なくとも18世紀以降から、同村をはじめとする近隣地域の人々により語り継がれてきたことを物語っています。
この伝説では対岸の上広瀬まで逃げ延びたと解釈できます。この伝説が生まれた背景を知るのは困難ですが、その底流には、由緒正しい源氏の出身でありながら、悲劇的な最期を遂げた義高への深い哀れみが、こうした話を生む一因になったと考えられます。
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【新田義貞の鎌倉攻めと入間川】
1333(元弘3)年閏(うるう〉2月、日本海に浮かぶ隠岐島(おきのしま)を脱出した後醍醐(ごだいご)天皇は、全国へ向けて鎌倉幕府打倒の号令を発しました。これを受けて関東では、同年5月8日に上野(こうずけ)国を本拠とする新田義貞(にったよしさだ)が倒幕の兵を奉げ、利根川を渡って武蔵国に入りました。
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 一方、これを迎え撃つ幕府軍は10日に鎌倉を出発しました。幕府軍の作戦は軍勢を二つに分け、迎撃部隊が入間川で新田軍の南下をくい止めている間に迂回(うかい)部隊が背後を衝く、というものでした。しかしこの作戦は、新田軍が11日朝に入間川を渡り切ってしまったため、小手指原(こてさしがはら)での合戦となったのです。
 小手指原の合戦は、三十余度に及びましたが決着がうきませんでした。当時の戦いの模様を記した『太平配』によると、義貞は「入間河」に陣を敷いたとあります。「入間河」は狭山市入間川のことですが、同人はどこに陣を敷いたのでしょうか。
 義貞は、翌12日には久米川(くめがわ)で戦っているので、同人の滞陣は11日の夜だけと考えられます。こうした場合、よく利用されるのは寺社です。寺社は広い本堂や境内地があるため、多くの軍勢が泊まるには最適の場所でした。市内では義貞か滞陣した場所は、入間川2丁目の徳林寺(とくりんじ)が最もふさわしいといわれています。

市内に残る史跡としては、「新田義貞駒繋ぎの松」が八幡神社境内に残る。
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 久米川の戦いで勝利を得た新田軍は、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いにも勝ちました。こうして勢いに乗った新田軍は一気に鎌倉へと攻め上り、18日から鎌倉の攻防戦が始まり、20日(一説には22日)の此条高塒(ほうじょうたかとき)の自害により、幕府は滅亡した。

【市内を通る鎌倉街道】
「いざ鎌倉jという言葉がありますが、これは鎌倉将軍の命令のもと、諸国の御家人(ごけにん〉が一斉に錬倉へ集まることで、こうした目的のために整備された道が鎌倉街道です。しかし、鎌倉が都市としての榛相を帯びて商業活動が盛んになると、さまざまな物資の輸送にも利用されるようになりました。
鎌倉街道は、鎌倉から放射状に各地へと延びていますが、武蔵国を通って上野(こぅずけ・群馬県)、信濃(しなの・長野県}、下野(しもつけ・栃木県)、陸奥(むつ・福島県や宮城県など)へ向かう道は、それぞれ「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」と呼ばれていました。
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このうち狭山市内を通るのは「上道」で、本道と脇道かありました。
「上道」の本道は所沢市北岩岡から水野へ入り、南曽の金剛院(こんごういん)、人間野(いるまの)神社、北入曽の七曲井(ななまがりのい)の脇を通って入間川に出ます。入間川からは徳林寺(とくりんじ)、八幡神社、子(ね)ノ神社、清水八幡宮(しみずはちまんぐう)を経て八丁(はっちょう)の渡しに至り、対岸へ上ってからは柏原と上広瀬の境に沿って影隠し地蔵のある奥州道(おうしゅうどう)へ抜け、そこから智光山(ちこうざん)公園の西を通って、日高市の女影(おなかげ)へと向かいます。
 脇道は本道の東を通る道で、堀兼(ほりかね)神社前を北へ向かい、加佐志の老人福祉センター寿荘の西脇を通って東三ツ木に出ます。そこから道筋は2本に分かれますが、1本は川越狭山工業団地を抜けて川越市藤倉(ふじくら)に至り、同市池辺(いけのべ)から河越氏の館があった上戸(うわど)方面へ向かっています。もう1本は下奥富から柏原の城山砦(しろやまとりで)へと向かい、川越市笠幡(かさはた)を通って坂戸市へ至っています。
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このうち本道は、幹線道路となっているため面影は全くありませんが、脇道は堀兼と加佐志にかっての遺構が残されています。堀兼の遺構は、鎌倉街道と県道人間川越線(愛線・茶摘み街道)が交差する北側の山林中にあるもので、長さは45mほどです。ここにあるのは堀割状の遺構で、上幅12、5m、下幅4m、探さは1mほどです。加佐志の遺構は寿荘の北側にあり、長さは130mほどです。丘陵上に残る上幅7.6_m、下幅5.1mほどの掘割状の遺構をたどると、丘陵と低地の交換点に上幅12、5m、下幅2m、深さ2mを超える切り通しが形成されています。
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【入間川殿と呼ばれた足利基氏】
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足利(あしかが)氏は、新田(にった)氏とともに後醍醐(ごだいご)天皇が発した鎌倉幕府打倒に従いましたが、足利尊氏(たかうじ〉が光明にうみょう)天皇を擁立すると新田氏は後醍醐天皇方に加わったため、全面的に対立することとなりました。こうしたなか新田義貞(よしさだ)は越前(えちぜん・福井県)国の藤島(ふじしま)で討死しましたが、同人の子の義輿はしおき)と義宗(よしむね)の兄弟は本拠地の上野(こうずけ・群馬県)国を中心に潜伏し、1352(観応3)年には鎌倉を奪うことに成功しました。
足利軍はその後態勢を整え、新田軍を鎌倉から追い出しました。しかし、一時的にせよ鎌倉が奪われたことは足利氏にとって大問題でした。そこで尊氏は1353(文和2)年7月、14歳になった4男の基氏(もとうじ)を入間川に派遣することにしました。基氏は1349(貞和5)年、義詮(よしあきら・尊氏の長男)に代わって鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)に就任していましたが、尊氏はその職にある基氏を出陣きせることにより、新田氏の動きを牽制(けんせい)する策に出たのです。

〇足利基氏の入間川滞陣
基氏が人間川に派遣されたのは、この地が鎌倉防衛にとってもっとも適していたためです。上野国や北武蔵から鎌倉へ向かうには、鎌倉街道上道(かみつみち)を南下するのが最短距離ですが、入間川の地には天然の要害といえる入間川が流れています。1333(元弘3)年5月に新田義貞が藤倉を攻めたとき、小手指原(こてさしがはら)で最初の戦いが行われましたが、このときも幕将軍は入間川で新田軍を待ち受け、その軍勢が入間川を渡るところを攻撃する予定でした。しかし、幕府軍の到着が遅れたため小手指原での合戦となり、その後の戦いに敗れた幕府軍は形勢を挽回(ばんかい)することができず、滅亡の悲哀を味わうこととなったためです。足利氏にとって武蔵は重要な国でしたが、なかでも入間川は、軍事的にも政治的にも極めて重要な地だったのです。
 入間川に滞陣した基氏は、新田軍がいつ攻めて来るかわからない状態にあったため、絶えず臨戦態勢を整えておく必要がありました。そこで基氏は、開東の武士に命じて入間川の警護を行わせました。当時の記録によると、その任務に当たる武士は1カ月交替だったことがわかります。
 基氏の滞陣により、しばらくの間は新田勢の動きも封殺されましたが、1358(延文3)年に尊氏が没すると、義興らは武蔵国に入りました。基氏は義輿の討伐を実行に移しましたが、義興は今日でいうゲリラ戦に徹したためか、思うようにいきませんでした。『太平配』によると、義興の行動は「千変万化」だったとあります。しかしそうした義興も、同年10月10日には多摩川の矢口の渡しで謀殺され、これを境に新田方の動きも急速に衰えていきました。

〇入間川御所
 9年余りにわたった基氏の滞陣により、入間川の地は大いににぎわったことと思われます。基氏はそのため「入間川殿」と称され、居館地は「入間御所」と呼ばれましたが、それでは同人は入間川のどこに陣を構えたのでしょうか。 入間川の徳林寺説は、同寺周辺に「根曲輪(ねぐるわ)」「三の輪」「くねのうち)」などの字があり、また、明治初期には寺の周囲に掘があったことを根拠としています。
その他にも、現在の地名として残っているのは祇園の殿山(とのやま)、柏原の御所の内(ごしょのうち)、人聞市黒須の大将陣(たいしょうじん)があります。
なにしろ基氏を頂点とする大軍が駐屯(ちゅうとん)したわけですから、広範囲の地域に滞陣したのがよくわかります。
入間川宿がもっともにぎわいを見せたのは、鎌倉公方(くぼう)の足利基氏(あしかがもとうじ)が入間川に滞陣した1353(文和2)年から1362(康安2)年にかけてのころと思われます。絶えず兵馬が往来していた状況を見ると、兵糧(ひょうろう)をはじめとする物資の輸送も膨大な量にのぼったと想像されます。


これでガイドは終了、しばらく自由見学してから12時に集合して、近くの「ニックス」で昼食。
午後は、稲荷山周辺の史跡を巡りました。

【稲荷神社】
狭山市の稲荷山は不思議な山です。古来山と云う場所は、山岳か、高く盛り上がっている土地を持すことになっています。ところがわが稲荷山にはその二つの要素がありません。
京都伏見の稲荷神社を根元として発展した稲荷信仰はとても古い歴史を持っています。武家、商家、農家が屋敷神としてお祀りした稲荷様は、特に18世紀後半から隆盛を極め、開運出世、商売繁盛の現世利益と結びついてあちらこちらに稲荷神社が誕生します。入間川の稲荷山も稲荷神社が祀られてからこう呼ばれることになったことは間違いありません。それが何時で誰の手によって行われたということになるとにわかには断言できません。

狭山市社寺誌より
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この日のお稲荷さん
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【特別大演習御野立所記念碑】
この稲荷山がにわかに脚光を浴びることになったのは大正元年11月のことです。

□大正天皇の行幸
大正元年(1912年)の陸軍特別大演習は東京近郊で行われる最初の大演習だったと云われています。この演習は大正天皇が統監する最初のものであり、大演習に参加する南北両軍は総数4万8700人余りで、軍馬も8200頭にのぼる大軍となりました。
大演習の二日目(11月16日)、大正天皇は臨時の大本営が置かれた川越中学(今の川越高校)をご出発、鉄道で入間川駅(今の狭山市駅)にご到着になり、入間川駅から稲荷山までは馬で向かわれました。稲荷山の野立所(のだちじょ)で大演習を統監なされたのち、再び入間川駅へお乗りになられています。
さて、当時の「石無坂」について古老の語るところによりますと、大変悪い道で、「いしん坂」と呼ばれて、石ばかりの坂だったそうですが、大正天皇の行幸が決まると石無坂の改修も行われています。

入間川町を訪れた大正天皇
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□稲荷山の公園化
天皇をお迎えすることのできた入間川町では記念碑の建立に発展しました。
翌年(大正2年11月16日)に、入間川町は「特別大演習御野立所記念碑」を稲荷山に立てました。現在、児童館そばに見られるのがそれです。
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更に入間川町では、大正天皇がお成りになった稲荷山を記念公園とすることとし、時の町長の提案は町議会の満場一致の議決となり、大正3年(1914年)早々に、総面積二十町歩(19.8ヘクタール)の稲荷山公園は完成を見ることになりました。

□公園の整備
こうして誕生した入間川町最初の大規模公園は、昭和8年(1933年)に政府が実施した「東京緑化計画」により北西部傾斜地には広くツツジ等を構え、また、翌、昭和9年(1934年)には駅から公園にかけての道路両側に400本のサクラが植えられました。このようにして、今、私達が見る稲荷山公園に発展してきました。

展望台からの眺め
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【愛宕神社】
鎮座地:狭山市鵜ノ木30番地

祭神:愛宕大権現
昭和29年に社殿再建
当社はもと長栄寺の境内にあり、鵜ノ木地域住民の守護神として信仰されていましたが、明治政府の神仏分離令により現在の稲荷山公園の中に遷し祭られ、その後現在の他に遷座されました。終戦後、火災により社殿を焼失しましたが、昭和29年10月に再建されました。例年春の祭礼と大晦日には鵜ノ木磯子が奉納されています。(狭山市HPより)
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愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰である。愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まつた修験者によつて江戸時代中頃から愛宕億仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになつた。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1000社ある。特に東北地方に多く分布する。
愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命(ほむすぴのみこと)が祭神とされる。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての偉仰もあった。民間では、各地に「愛宕講」と呼ばれる講が組織された。「千日詣」と称し、8月1日に参拝すると千日参拝したのと同じ御利益があるとされる。
直江兼続が兜の前立に「愛」をまとつていた理由の説の1つとして、愛宕信仰説がある

境内社:御嶽山(石祠 明治38年4月)、稲荷社(石祠 寛政12年3月)
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「鵜ノ木」にこういう字をあてた石仏
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これで史跡めぐりは完了。
博物館駐車場に戻り、解散しました。

(了)


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青面金剛庚申塔/目黒区大鳥神社③

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所在地:東京都目黒区下目黒3丁目1−2 大鳥神社境内
撮影日:2018年1月16日

大鳥神社
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大鳥神社については、既に記事があります。

その記事を見る


大鳥神社の社殿に向かって、左側の境内の隅に庚申塔が並んでいますが、文字塔を除いた4基を順にアップしていきます。
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今回は、向かって右側から三番目の③を取り上げます。
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銘文は、右に造立年、左に月日である。
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塔身:唐破風笠付角柱型
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、髪と顔は破損していてわからない。
本手:羂索とショケラ
他の手が持つ法具:独鈷、弓、矢、鉾
脇侍:三猿
造立年代:元禄元年(1688)
高さ:136cm

塔身は唐破風笠付
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日月は浮彫、瑞雲付きなのが辛うじてわかる。
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一面六臂青面金剛全身
髪、顔は破損していて、よくわからない。
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本手は羂索とショケラ、向かって右側の二手は上から独鈷、弓。左側の二手は上から鉾、下は風化でわからなくなっているが、弓に対して矢であることは間違いない。
ショケラに対して普通は剣なのだが羂索と、独鈷も珍しい。
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青面金剛は岩の上に立ち、その下に三猿。
三猿は右から言わざる、聞かざる、見ざる。
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新宿・花園神社青銅狛犬

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所在地:東京都新宿区新宿5丁目17−3 花園神社・靖国通り側入り口
撮影日:2017年7月27日

新宿の花園神社には、三組の狛犬と狛狐(江戸時代)が居ますが、二番目に古いのがこの靖国通り側入り口鳥居の奥にある狛犬です。

年代:文政4年(1821)
材質:青銅製
型式:宝珠・角型

花園神社拝殿
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靖国通り側入り口鳥居の奥に居る。
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新宿区指定有形文化財です。
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右側が阿形獅子、頭に宝珠を載せる。
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タテガミが腰まで流れ、巻き毛も豊かに表現されている。
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四肢の筋肉が豊かで、爪や走り毛の表現もしっかりとされている。
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尾は、勢いある炎がウワーッと立ちあがり、巻き毛の数も多くて、実に立派。
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左側が吽形獅子、頭に二股の立派な角あり。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。宝珠を載せている。
・耳は聞き耳を立てていて、眉がつり上がり怒りの形相。上唇のたわみが強調され歯は鋭く尖り、牙は大きくは無いが強調されている。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角は二股の立派なもの。
・耳は聞き耳を立てていて、眉がつり上がり怒りの形相。唇は閉じているが歯は鋭く尖りむき出しに、牙は大きくは無いが強調されている。
・タテガミが腰まで流れ、巻き毛も豊かに表現されている。
・前足は、太く少したわんで勢いがある。
・四肢の筋肉が豊かで、爪や走り毛の表現もしっかりとされている。
・後足は蹲踞。筋肉が強調されている。
・爪は立派で甲には巻き毛が綺麗に流れている。
・尾は、勢いある炎がウワーッと立ちあがり、巻き毛の数も多くて、実に立派。


木彫を彫刻家が彫り、それを鋳込んだものなので、実に繊細で勢いがあり立派なもの。
神殿型に劣らない、威厳もあり、銘品だと思う。


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浅間縄文ミュージアム

20180708

所在地: 長野県北佐久郡御代田町御代田
訪問日:2018年6月19日

この日、佐久市にある両親の墓参りのあと、佐久穂町まで行って「北沢大石棒」を見て、それから御代田に移動し、ここを訪問した。

少し前にポスターを入手し、楽しみにしていた。
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浅間縄文ミュージアム入り口
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浅間縄文ミュージアムは、今から13000年前から2500年前までの約1万年間続いた狩猟採集の時代“縄文時代”を展示テーマとし、その衣食住を再現している。
特別展示室では、国重要文化財“川原田遺跡の中期縄文土器”と石器を展示している。

町の役場と同居していて、半分くらいがミュージアムとなっている。
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入り口のところにあった、「じょうもんのこだま」というオブジェ。
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その近く、建物のホールには黒曜石に触れるようになっていた。
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入場券は、栞になっていて、案内リーフレットも切り口の違うものが色々と用意されていてサービス満点。
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展示室の入り口に、ドラムに使っていたのではないかという土器の模造品が置かれていて、たたくことが出来る。
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たくさんの展示がされていたが、その中から特に印象に残ったものを紹介します。

縄文土器を作る女性たちの、縄文土器作りをジオラマで復元してある。
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この地方独特の軽石を使った道具。
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耳飾り
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埼玉県でも、非常に緻密に彫られた木製の耳飾りも多数出土していて、各地で耳飾りの出土は豊富だ。
天照大御神の子の「天之忍穂耳命」に代表される「耳」が名前に入っている神が多い時期があり、それは谷川健一氏によれば、大きな耳輪をつける習俗のある南方種族と結びついた証だそうだ。

特別展示室には、国重要文化財“焼町土器”100点が並んでいる。
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「焼町土器」と言う名称は、塩尻市焼町遺跡で最初に発見されたのでこの名がついていて、浅間山麓を中心に、県内では松本・諏訪・伊那、他県では群馬・新潟・栃木まで分布しているそうだ。
ここに展示されているのは、御代田町の「川原田遺跡」から出土したもの。

ドーナツ状の突起、渦を巻く曲線、曲線の中をうめる点が特徴。
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模様を展開して見ると「踊る人体紋」と呼ばれる文様。
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「あくびちゃん」というニックネームがついた「顔面付釣手土器」
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中にトチノミが入っていたという「深鉢形土器」
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顔面把手残欠をもとに再現した土器
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尖底土器群
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蛇体把手
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二階ロビーから、メルシャン美術館跡に建てられた町庁舎越しに浅間山を見られる。
手前の装置は、浅間山火口の様子を映している。
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二階では、世界的な活火山である浅間山の火山活動史、四季の浅間の風景、浅間山の構造、浅間山の火口のようす、浅間山麓の植物の展示をおこなっている。

江戸時代天明の大噴火を描いたもの。
 天明3年(1783年)、4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続けていた浅間山は、7月8日(旧暦)に大噴火を起こしました。このとき発生した火砕流に嬬恋村(旧鎌原村)では一村152戸が飲み込まれて483名が死亡したほか、群馬県下で1,400名を超す犠牲者を出しました。
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天明3年の浅間山噴火は直後に吾妻川水害を発生させ、さらには3年後の天明6年に利根川流域全体に洪水を引き起こしました。
この浅間山噴火による利根川の河床上昇は各地での水害激化の要因となり、利根川治水に重要な影響を及ぼすことになりました。
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浅間山の噴火により大量の溶岩と火山灰が噴出し、溶岩流は北側の吾妻川流域へ火砕流となり山腹を流下しました。流下した溶岩は三派に分かれ、一派は東方の分去り茶屋に、もう一派は西方の大笹方面に、残りの一派は他の二派の中央を真直ぐ北流しました。流下した溶岩は、大きな火砕流となって山腹を走り、分去り茶屋に向かったものは、小熊沢川と赤川に流れ込み、旧小宿村・常林寺を経て芦生田集落を埋没させました。また、大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込みました。そして中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃し一村を壊滅させた上で、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下しました。この中央に流下した火砕流が最大のもので、「鎌原火砕流」と呼ばれ、その流下量は1億m3とも推定されています。
浅間山噴火による火砕流の流下により旧鎌原村では一村約100戸が呑まれ、483名が死亡したほか、長野原210名、川島128名、南牧104名など多くの犠牲者を出しました。
また、浅間山噴火は大量の火山灰を広範囲に堆積させました。火山灰は主に東流し、遠くは江戸、銚子にまで達し、特に碓氷峠から倉賀野、新町の間は田畑全て降灰し、その形状すら判別できない状況であったといいます。各地の被害を合わせると、降灰の重みだけで70軒が潰れ、65軒が大破しました。ほぼ関東一円に堆積した火山灰は、農作物の生育にも影響を及ぼし、既に始まっていた天明の大飢饉に拍車をかけ、天明飢饉の進行に決定的役割を持つこととなりました。また、大量に堆積した火山灰は、利根川本川に大量の土砂を流出させた天明3年の水害とともに、天明6年の水害といった二次、三次被害を引き起こす要因ともなりました。

埼玉県狭山市でも、天明4年から6年にかけての石仏が非常に多く、深刻な被害が現狭山市の辺でもあったことがわかります。

ここの縄文土器に関しての特徴がよくわかり、満足して見学を終え、
いつも必ず寄る、「ツルヤ軽井沢店」でいろいろ買い物をして帰途につきました。


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見野命(みののみこと)/日本の神々の話

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美濃国一之宮・南宮大社に参拝したときのご祭神が、「主祭神:金山彦命、配祀:彦火火出見命・見野命」であった。
しかし、南宮大社の公式HPには、金山彦命の説明が載っているのみである。

調べてみると、下記のとおりで、『日本書紀』において豊国主尊の別名となっている。

『日本書紀』本文では、天地開闢の後、国常立尊、国狭槌尊の次の三番目に豊斟渟尊が化生したとしており、これらの三柱の神は男神であると記している。
第一の一書では、国常立尊・国狭槌尊の次の三番目に化生した神を豊国主尊(とよくにぬしのみこと)とし、別名として豊組野尊(とよくむののみこと)、豊香節野尊(とよかぶののみこと)、浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにののみこと)、豊齧野尊(とよかぶののみこと)、葉木国野尊(はこくにののみこと)、見野尊(みののみこと)であると記している。「豊」がつく名前が多く、豊雲野神・豊斟渟尊と同一神格と考えられている。
豊雲野神・豊斟渟尊は、「豊かな(=トヨ)雲(=クモ、ノ)」の意であり、雲を神格化した存在とされる。

『古事記』では、神代七代の二番目、国之常立神の次に豊雲野神が化生したとしている。国之常立神と同じく独神であり、すぐに身を隠したとある。

『古事記』・『日本書紀』とも、これ以降、豊雲野神・豊斟渟尊が神話に登場することはない。

豊国主尊の別名ということから、美濃國の神、美濃国造の祖神ということかもしれない。



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青面金剛庚申塔/目黒区大鳥神社②

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所在地:東京都目黒区下目黒3丁目1−2 大鳥神社境内
撮影日:2018年1月16日

大鳥神社
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大鳥神社については、既に記事があります。

その記事を見る


大鳥神社の社殿に向かって、左側の境内の隅に庚申塔が並んでいますが、文字塔を除いた4基を順にアップしていきます。
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今回は、向かって右側から二番目の②を取り上げます。
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銘文はよく読めないが、造立年はよく読み取れる。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、光背付き、髪と顔は破損していてわからない。
本手:合掌
他の手が持つ法具: 法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:宝永元年(1704)
高さ:105cm

日月は、浮彫瑞雲付きだが風化がひどい。
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一面六臂青面金剛、光背付き、顔・髪は風化してよくわからない。
岩の上に立つ。
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風化が激しくて明確でないが、光背を蛇が巻いているようにも見える。
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本手は合掌、他の手は法輪、弓、矢、三叉矛を持つ。
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三猿も、かなり風化しているが右から「見ざる、聞かざる、言わざる」であることは辛うじてわかる。
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カサブランカ開花

20180704

撮影地:自宅
撮影日:2018.7.4

去年、自宅の庭にカサブランカの球根を植えたが、それが開花した。
もう使わなくなった温室と家の隙間から、百合が顔を出し、健気に咲いたのだが、その球根を掘りだして庭に植える際に園芸店に消毒液を買いに行って、ついでに買ってきた球根だ。

カサブランカ(学名: Lilium 'Casa Blanca')は、オランダで改良されたユリ科ユリ属の栽培品種の一つ。ヤマユリ、タモトユリ(ドイツ語版)などを原種とするオリエンタル・ハイブリッドの一品種。

なお、カサブランカはモロッコの都市の一つ。

純白の大輪の花を咲かせ「ユリの女王」と評される。日本での開花時期は6月 - 8月で、花の直径は20㎝にもなる。栽培は比較的難しいが、植付け1年目には開花することが多い。日本での植付け期は秋季の10月-11月。

植えた場所が他の木に近くて、ちょっと可哀そう。
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一番下の二輪が開いている。
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左側の花
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右側の花
向う側に三つ目の花が開きかけている。
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栃木市・神明宮の狛犬

20180703

所在地:栃木県栃木市旭町26-3 神明宮鳥居前
参拝日:2017年10月11日

栃木市・神明宮については、既に記事があります。

その記事を見る


入り口の鳥居の前に居る。
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年代:文化15年(1818)
材質:石造
型式:江戸尾立ち型

右側の阿形獅子
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左側の吽形獅子
頭部の額の辺が破損して欠けている。
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特徴:
・阿吽ともに彫りは荒いが、特徴はよく出ている。
・右側が阿形、たてがみが巻き毛であり獅子。
・耳は開き気味、聞き耳を立てている。眉、顎髭が立派。上唇のたわみが強調され、牙はわからない。舌はよくわかる。
・左側は吽形、たてがみが同様に巻き毛であり獅子。
・耳は垂れている。額の辺を損傷。唇は開き気味で、歯を噛み締めている。
・表情は、阿吽とも人懐かしい感じで親しみやすい。
・前足は、太く真っ直ぐ。走り毛の表現がたっぷりとされている。
・後足は蹲踞。やはり走り毛の表現がたっぷり。
・尾は尾立ちだが、背中にくっつき気味。炎状に立ち上がっているが、流れの掘り込みは浅い。


前足は、太く真っ直ぐ。走り毛の表現がたっぷりとされている。
後足は蹲踞。やはり走り毛の表現がたっぷり。
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尾は尾立ちだが、背中にくっつき気味。炎状に立ち上がっているが、流れの掘り込みは浅い。
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狛犬の記事一覧を見る



築地・波除神社/つきじ獅子祭り

20180702

6月8日(金)に、築地の波除神社の「つきじ獅子祭り」を歴史クラブ行事で見てきました。
しかし事前の調査不足で、この日13:30に神輿が出ると思い出掛けたのですが、実際は15:30出発ということでした。
神輿を藏から出して組み立てるところを見ることが出来た。

11時少し前に、地下鉄築地駅に到着。そのまま直行して、予約していた寿司屋さんで昼食。

12:15くらいに波除神社に到着。
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波除神社HPによれば、
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
 そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。

 或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。

 人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。

 それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。

拝殿の前には、大きな「為朝公」の幟がある。
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六月大祭より夏越の大祓まで、古来当神社に伝えられたもので為朝公の御像を模したお札が授与されるそうで、
為朝公の山車も出るようだが、為朝公と波除神社の縁については帰ってからネットで調べてもわからなかった。

まずは参拝
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立派な賽銭箱だ。
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拝殿内
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幣殿には両側に獅子頭が。
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今日は、「天井大獅子」は出番なし。
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今から330年前、埋立工事は難航を極めたが、ある夜、海面に光って漂う御神体を見つけ、社殿を造りそこに祭ったところ、波風がおさまり工事はやすやすと進んだ。人々は「波除」の尊称を奉り、今に至るも崇敬が厚い。この波除稲荷神社の例大祭に「日本一厄除天井大獅子」が出御し「つきじ獅子祭」と呼ばれている。巨大な獅子頭を担ぎ棒で組み、神輿のように担ぐもので江戸時代、すでに著名だった。大正2年、大正の御大祭には、各神社が神輿を宮城前に担ぎ入れる中にただ1社、大獅子を担ぎ入れ奉祝した伝統を持つ。
平成二年に雄の「天井大獅子」が黒檜一木造りで高さ2、4メートル・幅3,3メートル・重さ1トンの白木の巨大な姿で再興されました。
 そして平成十四年、雌の大獅子「お歯黒獅子」が木彫で高さ2、15メートル・幅2,5メートル・重さ700キロ、担ぎ棒が組み入れられる台座に固定され、朱塗りの姿で再興されました。雌を現す頭の宝珠の中には、ご創建時に同じく奉られた弁財天のご神像を新調しお納めし、弁財天・お歯黒獅子として手水舎も組み込んだ社殿に納められました。この雌獅子はこの年から担がれ、女性だけの担ぎ手の区間が設けられ、築地名物として定着しつつあります。
平成24年には大獅子の復興作業最後の締めくくりとして、江戸時代以来焼失していた龍虎の頭も復興し、神社創建以来初となる神社千貫宮神輿雌雄一対の大獅子と宮神輿すべて担いでの御巡行を執り行い、江戸時代以来の獅子を担ぐ伝統と、昭和に新たにできた千貫宮神輿を加え、伝統と新しさを兼ね備えた江戸随一の祭りとなります。

「弁才天お歯黒獅子」は、今日出番があるのでここには不在。
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波除神社に向かって右の道路に居た。
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しばらくして、拝殿の左側の神輿庫から、千貫宮神輿が出てきた。
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拝殿前に置かれ、担ぎ棒などの組み立てが始まった。
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ふいっと気が付いたら、お歯黒獅子がどこかに出掛けて行った。
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そんなに時間が経たないうちに、戻って来た。
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また、元の場所に置かれた。
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組み立てが終わった千貫宮神輿を、じっくり拝見。
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お歯黒獅子が入場してきた。
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お歯黒獅子に、弁才天が描かれた後ろ幕が張られた。
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氏子さんたちも、これでしばらくのんびり。
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洒落たアクセントのついた足袋を履いている人もいた。
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一応、これで神輿の組み立ては終わったので、この場を離れた。
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入れ替わりにやってきた、いなせな人物とすれ違い。
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場外市場は、当然今日も賑わっている。
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市場からの、カートがひっきりなしに通る。
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休憩所を見つけてしばらく休んでから、今日は何をお土産にしようかなと、物色。
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参加者の集合場所、築地本願寺に早めに戻り、中で居眠りしながら全員が戻るのを待った。
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早目に集合したので、ちょっと歩いて銀座まで出たら、ちょうど赤坂日枝神社山王祭の神幸祭の行列が銀座通りを来るのに遭遇。
ラッキーということで、それを見てから帰途についた。

(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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