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錦糸町・河内音頭

20180831

8月30日(木)、歴史クラブの「伝統芸能を楽しむ」グループで観にいきました。
盆踊りのイベントなんですが、私は以前から河内音頭が大好きなので、聴きにいったという感じです。

会場はJR錦糸町駅から歩いて5分くらいの、首都高速7号線の高架下です。
ここだと雨が降っても大丈夫ですね(笑)
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16:30くらいに着いて、プログラムをもらって会場のレイアウトなど確かめて、17:30から開演だというので、近くのお店で早目の夕食を食べて腹ごしらえをして、会場に戻り場所取りをしました。
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幸い、ステージのすぐ近くに場所を確保できたので、太鼓やエレキの音がガンガン聞こえる位置で満足しました。
結局17:30から19:30までの前半の部分2時間観ました。
いずれも、素晴らしい演奏でしたが、その中から三人の方の演奏を紹介したいと思います。

まずは、大好きな「無法松の一生」
五月家ゆきさんの音頭です。
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動画はこちらをクリック


まだ時間が早いので、踊っている方の数はイマイチですね。

続いて二人目は、永田充康さん。
演目は「紀ノ国屋文左衛門」ですが、前説の洒落た言葉遊びが秀逸。本当に面白いです。
途中までで、失礼しました。
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動画はこちらをクリック


この頃になると、動画の中で写しているのでおわかりのように、踊っている方の数は半端じゃないです。
暗くて遠くは写っていませんが、80mくらいの長さの会場が踊っている方で満杯でした。

最後は、出演した「鉄砲光丸会」の中でナンバー2でしょう。素晴らしいノドです。
演目は「瞼の母」。
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全部紹介したので、前半と後半に分けてアップしました。

前半の動画を観る


後半の動画を観る


たっぷりと、河内音頭を堪能して帰ってきました。

今回アップしたユーチューブを観る場合、PCのスピーカーで聞くのもいいですが、出来ればヘッドフォンなどで聞いていただくと、太鼓のーやエレキの重低音の音も楽しめると思います。
試してみてください。



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天草・本渡諏訪神社の石灯篭笠石上の狛犬

20180830

所在地:熊本県天草市諏訪町8-3 本渡諏訪神社参道
参拝日:2018年7月18日

この神社は九州熊本県・天草の代表神社・総鎮守ということで、立派な神社です。
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本渡諏訪神社については、既に記事があります。

その記事を見る


この神社には4組の狛犬が居るが、大鳥居から入って拝殿前の石灯篭の笠石の上に狛犬が居る。
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年代:大正12年(1923)奉納
材質:石造
型式:石灯篭笠石上型

今回紹介するのは、向かって右側のみ狛犬が上に居て、左側は吉祥天(?)が立っているというもの。

右側の石灯篭の上に狛犬が居る。
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石灯篭の笠石の上で、後足で立ち上がっている。
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この方角から見ると、身体に勢いがみなぎっていて、跳びかかる寸前のようにも見える。
体毛の表現は無いが、前足、後足の走り毛はしっかり表現されている。
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耳は伏せ、眉毛は巻き毛でたっぷりと、口ひげは房状の八の字形に、顎髭は襟巻状にたっぷり、前面の顎鬚は随分と長く垂れている。
口を開いて細かい鋸歯が並ぶ、牙は無い。
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尾は、八つ手状に立ち上がった炎形の立ち尾。
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年代は大正12年(1923)奉納のもの。
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左側の石灯篭の上には吉祥天(?)が居る。
右足を上げて、軽やかな姿勢で実に柔和なお顔である。
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当初は、釣り竿と見誤って恵比寿さんだと思いこんだが、後で写真をよく見ると持ち物が「釣り竿と鯛」ではない。
宝冠をつけていることからも、恵比寿さんではない。
左手に提げているのは宝珠ではないかと思う。右手に持つものがよくわからないが、太いヒモで繋がられた宝珠二つをそれぞれの手で持っているのかなと思った。
吉祥天の持ち物としては、左手に宝珠。右手にもつものは色々である。
柔和な顔からも、吉祥天ではないかと思う。
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狛犬の型式に入れるかどうかこの時点では迷っていたが、後日参拝した太宰府天満宮では石灯篭左右とも笠石の上に狛犬が乗っていた。
考えてみると、関東でも例えば大宮の武蔵国一之宮氷川神社の参道にも、石灯篭の台石に狛犬が彫りこまれている。こういうのを「石灯篭付属型」として分類すればいいのでは、と思った。



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御穂須々美命(みほすすみのみこと)/日本の神々の話

20180828

記紀神話には出てこない、『出雲国風土記』固有の神。

国引き神話で結ばれる出雲の「美保関」と越(能登半島)の「珠洲岬」に鎮座する。いわば出雲と越のつながりを象徴する神。
御穂須須美命は、『出雲風土記』に所造天下大神と奴奈宜波比売命との子とある神で、 御穂須須美命が座したことから美保郷の名がついたとある。

建御名方神と同一神とする説もある。
記紀神話では、国譲りを迫られたときに父の意に背いて建御名方神が建雷命と戦って敗れて諏訪に落ち着いたとされる。この建御名方神が、肝心の『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』に録されている出雲国の伝承に一切登場していない。
それで、所造天下大神は大国主神と同神、奴奈宜波比売命は沼河姫神と考えられるので、御穂須須美命=建御名方神というわけだ。

出雲を発った出雲族が日本海を北上し、能登半島に上陸した痕跡が珠洲市にある、御穂須須美命を祭神とする須須神社である。
一方、長野県の千曲川流域を主として、御穂須須美命を祭神とする神社が十社ほど存在する。中野市の越智神社、佐久市の諏訪神社、埴科郡坂城町の坂城神社など。
これは越後の海岸に上陸した出雲族が信濃川から千曲川に沿って遡った痕跡である。
天穗日命や大国主命を祭神とする「出雲-祝」系神社も、新潟県の出雲崎から埼玉県の入間市までたどることが出来る。



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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群⑥

20180827

所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は右から六番目の庚申塔⑥である。
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塔身は駒形
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銘文は、右側に「正徳三癸巳天」、左側に「十一月七日」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、頭に蛇、三眼
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、笏
脇侍:二鶏、三猿
造立年代:正徳3年(1713)
高さ:110cm

日月は浮彫瑞雲付き
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全身
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火炎光背があり、頭に蛇、三眼。表情は忿怒形。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓。左側が上から笏、矢。
左上の手が持っている物は、剣なのか笏なのか悩みましたが、形状から笏ではないかと。
意味は「道理を立つるため」で、笏が真直ぐである事に倣って、自分自身の姿勢を正しくし威儀を整える、となります。
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青面金剛は岩の上に立つ。
左右二鶏が居る。
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岩の下に三猿。右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔の特徴は、頭に載った蛇が分かりやすいこと。
それから向かって左上の手に、普通なら三叉矛を持つところだが笏を持たせている。
形状から笏としたが、剣かもしれない。
本手に剣とショケラを持つのが多いから剣も大いに考えられる。
剣なら、邪を討つということ。
笏なら姿勢を正しくし威儀を整える、ということになる。



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天草・本渡諏訪神社の狛犬

20180826

所在地:熊本県天草市諏訪町8-3 本渡諏訪神社参道
参拝日:2018年7月18日

この神社は九州熊本県・天草の代表神社・総鎮守ということで、立派な神社です。
本渡諏訪神社については、既に記事があります。

その記事を見る


この神社には4組の狛犬が居るが、大鳥居から入って参道で最初に会うのが、この狛犬。
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年代:昭和34年(1959)奉納
材質:石造
型式:玉取り・子抱き型

右側は吽形獅子。前の右足で玉を押さえている。
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耳は実物を見た時にすごく大きく感じた。ピンと後ろに聞き耳を立てている。
口は閉じ、前は閉じ横は少し開いて牙を見せている。
眉は上から下がり、口ひげは鼻の周囲に花火のように散っていて、ゲゲゲの鬼多郎のねずみ男を連想させる。
顎鬚は、前には少なく大きく八の字に横に流れている。
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左も吽形の獅子。子獅子を抱いている。
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吽形の方が阿形より毛深い。眉は巻き毛、口ひげも花の周囲に散っているが阿形の毛スジに対して房状に広がっている。顎鬚も同様に八の字形だが阿形より前も多い。
口は閉じているが、前歯をむき出している。怒っているというよりは、子獅子にじゃれつかれて困っている感じ。
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右側は、前の右足で玉を押さえている。玉は大きめ。
体毛の表現は無い。前足の付け根と後足の走り毛くらい。指が長い。
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左側は子獅子を抱いている。
ちょっと見、子獅子が喉首に噛みついているように見えてギョッとしたが、よく見ると親獅子の顎鬚をじゃれて噛んでいるのだ。
子獅子の尾が狐の尾になっているのが驚いた。不思議。
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尾は、巻き毛4つを付けて炎形に立ち上がっている、尾立ち型である。
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年代は昭和34年(1959)奉納。
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年代は昭和と新しいが、江戸時代作かと初見で感じたほど古風である。
両方ともに吽形というのが独特。
九州はどれも顔がデカイのに、右側の顔は細面で独特である。
関東でも、江戸時代後半は玉取り・子押さえ型は多い。しかし、ここのように「子抱き型」というのは初めて見た。



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季節の花/桔梗、百日紅、露草、昼咲き月見草

20180825

【桔梗 キキョウ】
撮影場所:狭山市柏原地内
撮影日:2018年8月15日

キキョウ(桔梗、Platycodon grandiflorus)はキキョウ科の多年生草本植物。山野の日当たりの良い所に育つ。日本全土、朝鮮半島、中国、東シベリアに分布する。
万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本種であると言われている。絶滅危惧種である。
秋の花のイメージが強いが、実際の開花時期は六月中旬の梅雨頃から始まり、夏を通じて初秋の九月頃までである。つぼみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっている。そのため "balloon flower" という英名を持つ。つぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて星型の花を咲かせる。雌雄同花だが雄性先熟で、雄しべから花粉が出ているが雌しべの柱頭が閉じた雄花期、花粉が失活して柱頭が開き他の花の花粉を待ち受ける雌花期がある。花冠は広鐘形で五裂、径4-5cm、雄しべ・雌しべ・花びらはそれぞれ5本である。
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【百日紅 サルスベリ】
撮影場所:狭山市柏原地内
撮影日:2018年8月15日

サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ、Lagerstroemia indica)は、ミソハギ科の落葉中高木。
葉は通常2対互生(コクサギ型葉序)、対生になることもある。
花は紅の濃淡色または白色で、円錐花序になり、がくは筒状で6裂、花弁は6枚で縮れている。8月頃咲く。
果実は円いさく果で、種子には翼がある。
和名は、幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に現れて更新していくことによる(樹皮の更新様式や感触の似たナツツバキやリョウブをサルスベリと呼ぶ地方もある)。つまり、猿が登ろうとしても、滑ってしまうということで、猿滑と表記することもある(実際には猿は滑ることなく簡単に上ってしまう)。

紅い百日紅
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白い百日紅
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撮影場所:東京都上野 東京国立博物館内
撮影日:2011年8月17日
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撮影場所:富山県南砺市井波 瑞泉寺境内
撮影日:2006年8月16日
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【露草 ツユクサ】
撮影場所:狭山市柏原地内
撮影日:2018年8月15日

ツユクサ(露草、学名: Commelina communis)は、ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。畑の隅や道端で見かけることの多い雑草である
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。また「鴨跖草(つゆくさ、おうせきそう)」の字があてられることもある。ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ばれており、上述した説以外に、この「つきくさ」が転じてツユクサになったという説もある。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、元々は花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われているが、『万葉集』などの和歌集では「月草」の表記が多い。この他、その特徴的な花の形から、蛍草(ほたるぐさ)や帽子花(ぼうしばな)、花の鮮やかな青色から青花(あおばな)などの別名がある。

花の青い色素であるコンメリニンはアントシアニン系の化合物(金属錯体型アントシアニン)で、着いても容易に退色するという性質を持つ。この性質を利用して、染め物の下絵を描くための絵具として用いられた。
染物の絵を描くのに無くてはならない存在ながら、出来た時点では人の目には触れないという、はかなさがある。

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【昼咲き月見草】
撮影場所:狭山市柏原地内
撮影日:2018年8月15日

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草、学名:Oenothera speciosa)は、アカバナ科マツヨイグサ属の多年生植物。観賞用として栽培されている。
草丈は30-60cmくらい。葉は披針形で互生する。5-7月頃に、4-5cmくらいの大きさの、白または薄いピンク色の花を付ける。花弁の数は4枚で、8本の雄蕊と、先端が十字型をした雌蕊がある。
北米原産の帰化植物であり、観賞用として輸入・栽培されていたものが野生化している。名称の由来は、宵に咲くツキミソウと違って、昼間にも開花していることによる。
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渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)/日本の神々の話

20180824

『日本書紀』では「渟名城入姫命(淳名城入姫命)」「渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)」
『古事記』では「沼名木之入日売命」と表記される。『古事記』では事績に関する記載はない。

第10代崇神天皇の皇女である。
『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、妃の尾張大海媛(意富阿麻比売)の間に生まれた皇女である。

倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)に関する伝承で知られる。
『日本書紀』に二回同様の話が出てくる。
1)
『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神・倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。しかし、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったという。
2)
『日本書紀』垂仁天皇25年3月条では、「一云」として、大倭大神が自分を祀るよう神託したので、中臣探湯主の卜によって「渟名城稚姫命」に祀らせたという。天皇は渟名城稚姫命に命じ、神地を穴磯邑(あなしむら:奈良県桜井市穴師)として大市(奈良県桜井市芝付近)の長岡岬で祀らせたが、姫の体は痩せ細り祀ることが出来なかった。そこで大倭直祖の長尾市宿禰に祀らせることとしたという。この「渟名城稚姫命」は渟名城入姫命と同一人物とされる。

これについて、先人の皆さんが色々と論考を述べておられるが、私にピッタリと腑に落ちた説明を述べておきます。

天照大神は、天孫系の祖先神なので、天孫系崇神天皇の娘豊鍬入姫命(⇒倭姫命)に祀らせて良かった。

しかし、この頃の国難と言える祟りを起こしているのは、大神神社に祀られた大物主大神など出雲系の神である。
垂仁天皇25年3月条では、倭大国魂神が祟りをなした理由が再度述べられている。倭大国魂神は穂積氏の大水口宿禰に憑依して「天照大神は天原を治む。天孫は葦原中国の八十魂神を治む。我は『地主の神』(大地官)を治む。天孫がこの事をよく理解して、自分を祭れば天下太平になる」といわせている。「地主の神」とは、大國主が統率していた葦原中国の国々の神である。
倭大国魂神は、天孫族に征服された出雲族の神(国つ神)を統率していた神なのだから、天孫族の姫に祀らせても納まるわけはない。

他方、倭大国魂神は渟名城入媛にかわって、長尾市宿禰が祭主になって祭った。
長尾市宿禰は、倭国造である珍彦(うづひこ、椎根津彦)の子孫である。珍彦は磐余彦が東征に出た時、速吸門から大和まで先導した国神(くにつかみ)であり、その功績が認められ倭直になっていた。
国神(くにつかみ)の子孫の長尾市宿禰に祀られたので、うまくいったというわけである。

渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)は、的外れな使われ方をして苦労してしまった気の毒な方、ということである。


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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群⑤

20180822

所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は右から五番目の庚申塔⑤である。
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塔身は上端が欠落した駒形
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銘文は、右側に「奉供養 庚申塔」、左側に「元禄五壬申大九月十六日」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、衣の間から蛇がのぞいている
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:元禄5年(1692)
高さ:125cm

日月は瑞雲付き
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全身
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頭髪も逆立ち、顔も忿怒形。耳が大きい。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓。左側が上から三叉矛、矢。
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青面金剛は岩の上に立つ。
衣の下から蛇が顔を覗かせている。
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岩の下に三猿。右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔の特徴は、良い石を使っているらしく彫りが綺麗に残っている点。
蛇が衣の間から顔を覗かせているという珍しい構図である。
青面金剛の姿を説明している『陀羅尼集経』には、「腰と両足に二匹の蛇がまといつき」とある。
腰に巻きついた蛇が衣の間から顔を覗かせているとしたのは、石工の秀逸なアイデアが光っている。



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熊本城稲荷神社境内社貞弘大明神の瓦狛犬

20180820

所在地:熊本県熊本市中央区本丸3-13 熊本城稲荷神社境内
参拝日:2018年7月17日

九州旅行の初日、熊本空港で迎えてくれた娘の車で、まず加藤神社に参拝、周辺で熊本城の復興の様子を確認してから、ここに回った。
事前に調査したら、ここに面白い狛犬が居たからである。

熊本城稲荷神社については、既に記事があります。

その記事を見る


駐車場から石段を上がると社殿がある。
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熊本城稲荷神社の左手に、沢山の境内社があるが、その中に貞弘大明神があり、その左右に珍しい瓦製の狛犬が居る。
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瓦製のものとしては、神社やお寺の屋根に「飾り瓦」があるが、これは魔除けとして置かれていて、獅子もよく見かける。その場合はたいてい逆立ちをしているのが多い。
ここの狛犬はどうかと見ると、瓦製だがどうも飾り瓦として作られたものを持って来たわけではなさそうだ。

年代:不明
材質:瓦製
型式:寄りかかり型


右は吽形の獅子。
楓か何かの樹に前足をかけて立ち上がった姿勢。下に牡丹の花も見える。
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眉毛はクルンと巻き毛、目もまん丸。牙は見せているが笑い顔で愛嬌たっぷり。
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左は阿形獅子。
樹の枝に前足をかけて立ち上がった姿勢。
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眉を吊り上げ、歯をむき出して怒った顔で、迫力あり。
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特徴:
・右は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。・顔が大きい。
・耳は垂れている。眉はクルンと巻き毛。目はまん丸。
・閉じた口に歯は見えないが牙は大きく突き出している。
・口ヒゲも顎髭も八の字形。熊本の特徴が出ている。
・左は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・耳は垂れている。眉はつり上がり、目じりもつり上がっている。
・鼻の下にチョビ鬚、顎髭も八の字で控えめ。
・口は大きく、鋸歯をむき出し、舌ものぞかせている。牙は見えない。
・前足を樹に乗せて後足で立ち上がっている。
・前足と後足の爪は大きめ。前足付け根の巻き毛と後足の走り毛はしっかり表現している。
・尾は、背中に張り付いた炎形だが、左右で形は異なる。

・前足と後足の爪は大きめ。前足付け根の巻き毛と後足の走り毛はしっかり表現している。
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右側吽形の尾
根元から炎形の巻き毛が二段に立ち上がって、上は左右に分かれている。
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左側阿形の尾
尾のスジが一本立ち上がって、そこから左右に二つずつ巻き毛が出ている。
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瓦製の狛犬は初めてである。
瓦で作るために単純化している部分はあるが、表情は豊かで、姿勢も独特で、とても良い狛犬だと思う。
何よりも親しみやすい愛嬌があるのがいい。
石造と比べると壊れやすいので、大切にして欲しい。



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季節の花/赤花夕化粧、悪茄子、玉簾

20180819

【赤花夕化粧】
撮影場所:群馬県高崎市八幡塚古墳
撮影日:2018年7月27日

ユウゲショウ(夕化粧、学名: Oenothera rosea)は、アカバナ科マツヨイグサ属の多年草。
和名の由来は、午後遅くに開花して、艶っぽい花色を持つことからとされるが、実際には昼間でも開花した花を見られる。オシロイバナの通称と紛らわしいので、アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)と呼ぶこともある。
高さ20 - 30cm、時には50 - 60cmに成長する。茎には柔毛がある。
葉はやや広い披針形で、互生する。
5月から9月にかけて、茎上部の葉の脇から薄紅色で直径1 - 1.5cmの花をつける。花弁は4枚で紅色の脈があり、中心部は黄緑色である。やや紅を帯びた白色の葯を付ける雄蕊が8本あり、雌蕊の先端は紅色で4裂する。
原産地は南米から北米南部。現在は帰化植物として世界の温暖な地域に広く分布する。
日本では、明治時代に観賞用として移入されたものが日本全国に野生化しており、道端や空き地でもよく見かける。

かみつけの里博物館と古墳群を見に行ったときに、八幡塚古墳で咲いていた。
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古墳の上に並べてある円筒埴輪の中にも、一輪ひっそりと咲いていた。
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【悪茄子 ワルナスビ】
撮影場所:狭山市入間川サイクリングロード
撮影日:2017年8月8日

ワルナスビ(悪茄子、学名:Solanum carolinense)はナス科の多年草。日本も含め世界的に帰化している外来種である。
茎や葉に鋭いとげが多く、種子が家畜の糞などに混じって広がり、垂直および水平に広がる地下茎を張ってあっという間に繁茂する。耕耘機などですきこむと、切れた地下茎の一つ一つから芽が出てかえって増殖してしまい、また除草剤も効きにくいため、一度生えると完全に駆除するのは難しい。
花は白または淡青色で同科のナスやジャガイモに似ており、春から秋まで咲き続ける。果実は球形で黄色く熟し、プチトマトに似ているが、全草がソラニンを含み有毒であるため食用にはできず、家畜が食べると場合によっては中毒死することがある。
和名はこれらのたちが悪い生態により付けられた[3]。英語でも「Apple of Sodom(ソドムのリンゴ)」、「Devil's tomato (悪魔のトマト)」などという悪名で呼ばれている。
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【玉簾 タマスダレ】
撮影場所:狭山市入間川サイクリングロード付近
撮影日:2018年8月15日

タマスダレ(玉簾、学名: Zephyranthes candida)は、ヒガンバナ科(クロンキスト体系ではユリ科)タマスダレ属の球根草。
和名の由来は、白い小さな花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」に例えたことによる。
葉は細長く棒状で濃緑色、土から直接出ている。
夏〜初秋に白い花を咲かせる。1本の花茎に対して、花は1つだけである。
種子をほとんど作らない個体とよくつける個体が存在する。
球根の分球でよく増える。
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岩神の飛び石、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館/博物館に行こう

20180818

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。
参加者が少なかったので、乗用車に乗り合いで実施しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

前記事でお伝えしたように、かみつけの里博物館から蛇骨山古墳に寄り、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館に向かいました。
前橋市内を走っていて交差点に停まったときに、左側の巨石が目に飛び込んできました。
「何だ、これは」と立ち寄りました。

【岩神の飛び石】
所在地:群馬県前橋市昭和町三丁目29-11岩神稲荷神社

巨石なので「岩神さま」と祀られ、「岩神稲荷神社」となっています。
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手水鉢も、同じ石みたいです。
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すごい巨石です。
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「岩神の飛石」として国の天然記念物となっている。
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2万6000年前の浅間山の噴火で黒斑山が大崩壊し、そのときの火砕岩が吾妻川から利根川に泥流により運ばれたものだといいます。
6月に長野県御代田の「浅間縄文ミュージアム」を訪れたときに、天明の浅間山大噴火の際に利根川流域が泥流で大きな被害を受けたことを見て来たばかりでした。
2万6000年前にも、同様なことが起っていたわけです。

黒斑山の大崩壊は、明らかにわかる大規模なものです。
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それにしても、こんな巨大なものが浅間山からここ前橋まで流れてきたとは驚きです。
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反対側に行くと、よくも倒れないものだと、また驚きました。
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昔から、民間信仰が盛んだったことがわかる石碑が並んで居る。
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【群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館】
所在地:群馬県渋川市北橘町下箱田784-2
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かみつけの里博物館で学芸員の方から、2012年11月に発掘された「榛名山の噴火で埋もれた鎧を着た古墳人」が公開されていると教わったので、当時非常に話題になって覚えていたので、ここを訪問したというわけです。
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発見されたのは「金井東裏遺跡」
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発見された姿の再現
うつぶせになって、尻を高くしている。
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来ていた鎧
幅4.5cm前後の小札を1800枚ほど使用している。
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再現した姿
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他にも「首飾りの古墳人」も発掘されており、頭蓋骨が良好に残っているので、それをもとに復元した古墳人の顔。
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日本初の鹿角で作った小札。
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〇この地と朝鮮半島との密接な関わり

素環頭大刀
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銀・鹿角で飾られた鉾
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一番左が「銀・鹿角で飾られた鉾」
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金色の馬具の出土
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各地で出土した馬具
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埴輪で、どのように飾っていたか判る。
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後に「群馬」という県名になったように、古墳時代から馬の生産が盛んだった。
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当然、他にも色々なものが沢山展示されていた。
それは省略するが、この弥生時代の「墓の守り神」は紹介しておく。
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以上で、この日の訪問先は全て紹介しました。
たくさんの収穫で、満足して帰途につきました。



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かみつけの里博物館と古代史跡(2)/博物館に行こう

20180816

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

前回記事で、八幡塚古墳と二子山古墳をアップしましたが、今回はかみつけの里博物館、蛇骨山古墳です。

【かみつけの里博物館】
所在地:群馬県高崎市井出町1514
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かみつけの里博物館は、榛名山東南麓で出土した5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている考古博物館です。
9つのコナーがあり、当時の附近の村の様子・被葬者の推定・古墳の構造などがジオラマ等を用いて分り易く解説展示されています。また被葬者の王族「車氏」から、群馬の名の興こる過程についても詳しく知ることが出来ます。
古代、群馬の一帯は上毛野国(かみつけのくに)と呼ばれ、榛名山南東は車(くるま)と呼ばれていました。奈良時代になると朝廷はめでたい字で二文字に地名を改めるよう命令し、上毛野(かみつけの)は上野(こうずけ)、車は群馬(読みはくるまのまま)になりました。そして明治4年に上野国は古代から一番大きな郡であった群馬の名を取り、群馬県となりました。

5世紀の社会景観を復元した「榛名山東南麓古墳社会復元模型
右上に保渡田古墳群があり、その下(1キロくらい離れて)に豪族の館がある。
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三ツ寺1遺跡は、日本ではじめて発見された豪族の館のジオラマです。
保渡田古墳群から南東約1キロ付近では、上越新幹線の建設に伴い、豪族の館が発掘されました。一辺が86メートルの方形を取り囲む、幅30メートル、深さ4メートルの堀を持つ巨大な邸宅跡は古墳時代のものと考えられ、保渡田古墳群に葬られた王族の館だといわれています。5世紀後半に隆盛を極めたこの王家は、榛名山の2度の噴火によって、転居もしくは衰退したと思われます。
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土を掘り起こした道具
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木をくりぬいた井戸枠
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八幡塚古墳築造のジオラマ
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櫓の上から工事を指揮している。
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石を葺いている。
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材料を馬で運んできている。
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埴輪
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女性埴輪のヘアスタイル
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鎧を着た武人埴輪
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馬具をつけた「飾り馬」
古墳から様々な馬具が出土している。
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魚をくわえた鵜
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履けないくつ
下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(金のクツ)
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出土したもの
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再現品
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火山災害で5世紀の地表が良好に保存されたため、当時の大規模な農地の状況や田作りの詳細な情報が遺跡に残されました。ここでは、発掘データから復元した古墳時代の復元模型(縮尺=1/80)を中心に、初夏におこなわれた農作業のようす、技術体系を再現しています。
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当時の村の様子
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水田に残された足跡
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火山災害直前の水田の状況のジオラマ
この小区画水田の話は、以前講演会で聞いた記憶があるが、改めてその小さいのに驚いた。
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子持ち勾玉
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勾玉などの出土品
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これで、一応博物館の見学を終え、午後にどこに回ったら良いか学芸員の方に相談しました。
教えていただいた中で重要なポイントは、最近発掘されて大きな話題となった、榛名山の爆発で埋もれた「鎧を着た古墳人」が公開されていることでした。
そこは、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館ということなので、時間があるので数か所途中で立ち寄りながら向かうことにしました。

博物館の休憩室で持参のお弁当を食べてから、出発しました。

【蛇骨山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町総社1549
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この辺には、以前別の企画できたことがあり、その時に立ち寄ったが、鍵を開けてもらうとか特別な手続きなしに古墳の石室に入れ、石室自体が見事なものだったのが記憶にあり、案内しました。

蛇骨山古墳とは
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入口も、石を精密に組み合わせている。
天井の巨石と柱は、L字形に切り込みを入れて組み合わせている。
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正面奥の一枚岩、天井、左右も、それぞれ巨岩の一枚岩で構成。
隙間が見えないことから、L字形に切り込みを入れて組み合わせている。
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古墳の上には、お墓か石碑があったらしい痕跡はあるが、現在は何もなく草が生えているのみ。
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ここを見たあと、近くの光厳寺に寄り、川越藩と総社藩の藩主だった老中秋元長朝の事蹟を説明、それから次に向かった。


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かみつけの里博物館と古代史跡(1)/博物館に行こう

20180815

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。
参加者が少なかったので、乗用車に乗り合いで実施しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

こちらを7:00に出発して、「かみつけの里博物館」に到着したのが9:00ちょっと前。
開館が9:30だったので、先に古墳を見ることにしました。
ここにある古墳は、保渡田(ほどた)古墳群と呼ばれ、そのうちの八幡塚古墳と二子山古墳を見ました。
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【八幡塚古墳】
5世紀後半に築造された前方後円墳です。当時の姿に完全復元されている。
墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートル。高さは削平されて分からない。周濠は馬蹄形で二重に取り巻き、さらに外側を幅の狭い外周溝が巡る。内濠部のくびれ部と後円部後側に4基の中島が配置されている。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。前方部前面の中堤上に円筒埴輪列で方形に区画された部分から人物類や、ウマ・ニワトリなどの家畜、イノシシ・水鳥など狩猟鳥獣をモチーフとした形象埴輪が出土している。これらの動物埴輪は、埴輪祭祀の一つの表現様式として注目されている。

駐車場から歩いていくと、ここから全景をみることになります。
手前に置かれているのは、古墳を悪霊から守る怖い顔をした埴輪。
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古墳の手前にたくさんの埴輪が置かれている。
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アヒル、猪、馬、鹿など動物たち
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祭祀を行っているようだ。
左側に盃を捧げる女子、向う側に琴を演奏している男子、右側中央に冠をかぶった中心人物など。
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ここには武人と力士の姿があり。
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墳丘には石が葺かれている。
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上りやすいように、一か所に石段が設けられている。
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とりあえず、後円墳部を目指す。
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後円墳部は、内室に降りられるようになっている。
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内室には、この地方の豪族が眠っていた舟型石棺がある。
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舟型石棺の横の副葬品室
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石棺の埋められ方
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内室から上がり、方形墳部に移動する。
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方形墳部の上縁部には、円筒埴輪がズラッと並べられている。
悪霊から守る垣根の意味らしい。
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内堀に降りて、前方後円墳の周りを歩く。

中島が4つ設けられているのは珍しい。
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島はけっこう大きい。
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後円墳部の周りを歩く。
段丘になっている。
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前方墳部に沿って歩いて行く。
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前方墳部の角からの全景
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外堀の外に上がる。
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【二子山古墳】
この古墳群の中で最初の、5世紀第3四半期ごろに築造された。
墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートル、墳丘部が三段築成で、前方部幅71メートル、高さ7メートル。周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島を4基配置している。墳丘・中島・中低部とも川原石で葺石としている。埴輪円筒列を巡らしている。墳丘北側の中堤部分の一角から外濠西北隅の外側部分に人物埴輪や飾馬(馬具を装着したウマ)・イノシシ・イヌ・盾・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪を配置した区画が見つかっている。
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正面入り口から後円墳部に登ろうとしたが、工事中。
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工事をしている人に聞いたら、横から上れるということだったので、そちらに回る。
説明では葺石とのことだが、ビッシリと熊笹におおわれてしまっている。
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後円墳部と前方墳部のつなぎのあたりに上がれるようになっている。
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後円墳部の上がり道。
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後円墳部頂上
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発掘されたときの舟形石棺の様子を原寸大の写真で説明してある。
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棺の中には何があったか?
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後円墳部頂上から、工事をしている上がり口を介して、「かみつけの里博物館」を望む。
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ここにも、4つの中島がある。
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前方墳に向かう。
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前方墳の端から、後円墳を見る。
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前方墳から降りて、眺めた全景。
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中島と後円墳。
こちらの中島は、薄く土盛りをしただけのもの。
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もう、かみつけの里博物館は開館しているので、そちらに向かった。


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仁徳天皇(大雀命)/日本の神々の話

20180814

『古事記』では大雀命(おほさざきのみこと)
『日本書紀』では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

応神天皇から仁徳天皇が王位を継承したのは、決してスムーズな事ではなかった。3年間空位を経ている。
応神天皇には、それぞれ母の違う三人の皇子、大山守命、大雀命、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)が居た。
『古事記』で、それを見ていこう。(『日本書紀』に書かれていることも、ほぼ同様である)

「応神天皇」の巻、「大山守命と大雀命」の段
さて応神天皇は大山守命と大雀命に「年上の子と年下の子とどちらがかわいいか」と尋ねた。
(このように尋ねたのは宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようとのお心があった)
大山守命は「年上の子がかわいい」、大雀命は天皇のお心を察して「年下の子がかわいい」と答えた。
応神天皇は三人の皇子の任務を分けて「大山守命は山と海の部を管理しなさい、大雀命は私の統治する国の政治を執行して奏上しなさい、宇遅能和紀郎子は皇位を継承しなさい」と仰せになった。

「応神天皇」の巻、「大山守命の叛逆」の段
さて、応神天皇が崩御なさって後、大雀命は応神天皇の仰せに従って、天下を宇遅能和紀郎子にお譲りになった。ところが大山守命はやはり天下を獲りたいと思って、ひそかに武器を用意して弟の宇遅能和紀郎子を攻めようとした。大雀命はそれを知って、密かに宇遅能和紀郎子に知らせた。
宇遅能和紀郎子はそれを聞いて驚き、兵士を宇治川のほとりにひそませ、宇治の山の上に幕を張った仮屋を置いてそこに居るように図った。
大山守命はそれを攻めたが失敗し、宇治川に沈んで亡くなった。
ところが大雀命と宇遅能和紀郎子のお二方が天皇の位を譲り合って多くの日が経った。
しかし、宇遅能和紀郎子は早く世を去られて、大雀命が天下をお治めになった。

『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために宇遅能和紀郎子は自殺したと伝える。

仁徳天皇は、善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。

難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

業績:
『日本書紀』には、次の事績が記されている。
1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
6.紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

仁徳天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「大仙陵古墳(大山古墳)」。
日本最大の前方後円で、墳丘長525メートルを誇る。



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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群④

20180813

所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は右から四番目の庚申塔④である。
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塔身は駒形
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銘文は、右側に「元禄八年」、左側に「十月二日」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、炎形光背
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:二鶏、三猿
造立年代:元禄8年(1695)
高さ:150cm

日月は瑞雲付き
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全身
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頭部に、炎形光背がついている。
表情は忿怒形。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓。左側が上から三叉矛、矢。
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青面金剛は岩の上に立ち、その左右に雄鶏と雌鶏が居る。
雄鶏が時を告げているのは、庚申の夜が明けたことを知らせている。
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岩の下に三猿。右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔の特徴は、炎形の光背を持つことと、雄鶏が時を告げていることである。
庚申信仰として、庚申の夜に人間が寝ている間に三尸虫が天帝に悪口を告げに行く。そのため庚申講で集まって徹夜をするのだが、その長い夜が明けたのを雄鶏が知らせてくれているのだ。



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中野チャンプルーフェスタ

20180811

7月14日(土)、15日(日)に、JR中野駅中心に行われた「中野チャンプルーフェスタ」。
歴史クラブ行事として、14日(土)に見に行きました。
私は、その日の夕方から講演を頼まれていたので、14:30くらいには中野を発って戻らなければならないため、短時間でしたが、前から関心のあった「沖縄エイサー」と「沖縄民謡を楽しむことが出来ました。

中野エイサーは、今年で14回目となります。
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 エイサーとは、琉球文化圏で踊られる沖縄伝統の盆踊りで、その起源は「ニンブチャーウドウイ」(念仏踊り)であると言われている。以前はニンブチャー(念仏僧)が人が死ぬと家に招かれ、鉦や太鼓を打ち鳴らし念仏を誦しながら踊るものであった。
その記録は500年以上も前の「李朝実録」(1479年)の中に当時の那覇の記録として残っており、その頃がはじまりだと考えられている。
 エイサーという呼び名は「おもろさうし」(琉球の古い歌謡集)の40巻からきているという説や、「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」のような囃子からきているという説があるがどちらも確証がなく実際のところは不明である。

中野区と沖縄・エイサーの縁は、1970年に金城さん夫婦の自宅で、当時の中野区青少年課の委託による「沖縄郷土の家」が開設され、沖縄の若者たちが集う場となり、「沖縄エイサー」が始められたそうです。


私たちは、中野駅に11:15ころに到着。
まだ早すぎ(笑)
中野駅周辺で、バラけて昼食を食べた後再集合。

パンフレットを手に入れて、作戦会議。
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とりあえず、駅前の「はいさいステージ」で見ることにした。

駅出口には大きな看板が。
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駅前の「はいさいステージ」
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最初は、久保田守礼会の皆さんによる「伝統エイサー」
久保田守礼会は、沖縄市久保田青年会から「久保田エイサー」を習い、練馬を拠点に活動しているグループとのこと。
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動画で撮りましたので、下記をクリックして見てください。

その動画を見る



続いて、「ぷりむん(三線愛好会)」の皆さんによる「沖縄民謡」
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これも動画で撮りましたので、下記をクリックして見てください。

その動画を見る


最後は、皆さんで踊りながらの演奏となりました。
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私は、これで引き上げることにしましたが、他の皆さんは新仲見世商店街でエイサー隊の練り歩きがあるということで、そちらに回りました。

(了)


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熊本城稲荷神社の狛犬

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所在地:熊本県熊本市中央区本丸3-13 熊本城稲荷神社社殿前
参拝日:2018年7月17日

九州旅行の初日、熊本空港で迎えてくれた娘の車で、まず加藤神社に参拝、周辺で熊本城の復興の様子を確認してから、ここに回った。
事前に調査したら、ここに面白い狛犬が居たからである。

熊本城稲荷神社については、既に記事があります。

その記事を見る


駐車場から石段を上がると社殿がある。
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石段の上の左右に狛犬が白い大きな狐と並んで居る。
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年代:大正15年(1926)
材質:石造
型式:熊本・玉くわえ型

右側に阿形獅子。玉をくわえている。
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顔が大きい。口が大きくて、細い歯列が並んでいる。
口ヒゲが八の字形。顎鬚が立派。
玉をくわえている。もちろん後から入れた玉ではなく、口の中を彫る時に玉を削りだしたものだ。
関東では今まで見たことは無かった。調べてみると九州には割と居るみたいだ。
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左が吽形獅子。
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口を閉じ、まったく歯をみせていないのが珍しい。
口ヒゲは八の字、よく見ないとわからない程度。顎鬚は多い。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・顔が大きい。
・耳は聞き耳を立てた感じ。眉は房状で豊か。口は大きく、小さな歯列がびっしり並ぶ。玉をくわえている。
・口ヒゲが八の字形。アゴヒゲが多い。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・耳は伏せていて、眉は房状で豊か。口は大きい。
・閉じた口に歯は全く見えない。
・口ヒゲが八の字形だが少ない。アゴヒゲが多い。
・前足は短く直立。付け根に巻き毛があるくらいで、ほとんど特徴なし。
・後足は蹲踞。走り毛は、わずかに模様が付けられている程度。
・尾は、タケノコ形の尾立ち。真ん中辺に4個の巻き毛。
・阿形にのみ、尾の根元背中側に巻き毛があって、後ろ4個の巻き毛から中央に巻き毛が立ち上がっている。


前足は短く直立。付け根に巻き毛があるくらいで、ほとんど特徴なし。
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尾は、よく見ると阿形と吽形に違いがある。

〇阿形の尾
尾の付け根の背中側に巻き毛あり。
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タケノコ型の立ち尾。真ん中に4個の巻き毛、そこから中央に巻き毛が一つ立ち上がっている。
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〇吽形の尾
タケノコ型の立ち尾。真ん中に4個の巻き毛があるが、付け根背中側と後ろ中央の巻き毛の立ち上がりは無い。
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年代は、大正15年(1926)奉納。
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この狛犬の特徴は、阿形が玉をくわえていること。
もちろん後から入れた玉ではなく、口の中を彫る時に玉を削りだしたものだ。
関東では今まで見たことは無かった。調べてみると九州には割と居るみたいだ。
吽形は、口を閉じているがまったく歯を見せていないところが珍しい。今まであったかどうか記憶がない。
尾も、阿形と吽形で違いを見せている。阿形の後ろ中央に巻き毛を立たせているのは、牡を思わせる。
雌雄の特徴を追加しているのは、子孫繁栄の願いを加味しているものである。



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応神天皇(誉田別尊)/日本の神々の話

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『日本書紀』には、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)。この名は、天皇が生まれた時、その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し、ほむたに譽田をあてたものだという。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)
※応神天皇を祭神とする八幡神社の神紋が「巴」を使用しているのは、「鞆の絵⇒巴」によるもの。
また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。
『古事記』には、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。

☆【神話「三韓征伐」の時代】
記紀神話では、仲哀天皇が熊襲征伐のため、香椎宮に居るときに神功皇后に神託があり、それを信じなかった仲哀天皇は急死。神功皇后は、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でオシメを代えたと伝えられている。応神天皇の胞衣を箱に納めて安置したところが筥崎宮である。

この頃、朝鮮半島の国と非常に密接な関係を持っていた記事が記紀に見える。

『日本書紀』によると応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。
弓月君(秦氏の先祖)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。 そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

『古事記』では、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。

『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。

『古事記』に、重要な渡来人「天之日矛」が渡来した神話が描かれているのも応神天皇の時代である。

☆【神話に登場し、実在した】
4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇と見られている。

応神天皇をそれ以前の皇統とは無関係な人物と考え、新たに興った新王朝の創始者とする説がある。この応神から始まる王朝は河内に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などと歴史学上呼称される。

こうした説が唱えられる理由として、応神天皇の出生にまつわる謎がある。父母は14代仲哀天皇とその皇后である神功皇后であるが、この両者はどちらも実在が疑われることが多い。また応神の出生時の状況も不自然であり、母である神功皇后が身重でありながら朝鮮に赴き、出産を遅らせて三韓征伐を指揮し、九州に帰国した際に生まれたとされている。4世紀末に倭国が朝鮮半島に侵攻をかけて百済と新羅を服属させたことは歴史的事実ではあるが、『記紀』における三韓征伐の記述は神話的でありそのまま信用することはできない。さらに、応神は父の仲哀が死んだ後に生まれた子であり、『書記』によればその出生日が仲哀の死からちょうど十月十日であることも信頼を疑わせる根拠となっている。

井上光貞は、『記紀』に応神が九州の産まれで異母兄弟の麛坂皇子と忍熊皇子達と戦って畿内に入ったという記述があることから、応神は本来ヤマト王権に仕えていた九州の豪族であり、朝鮮出兵を指揮する中で次第に中央政権をしのぐ力をつけて皇位を簒奪し、12代景行天皇の曾孫である仲姫命を娶ることによって入婿のような形で王朝を継いだのではないかと推測している。仲哀天皇と先帝の13代成務天皇はその和風諡号が著しく作為的(諡号というより抽象名詞に近い)であり、その事績が甚だ神話的であることから実在性を疑問視されることが多く、井上はこの二帝は応神の皇統と10代崇神天皇から景行天皇までの皇統を接続するために後世になって創作された存在と考察している。また直木孝次郎は、それまで大和地方に拠点を置いていたヤマト王権が応神の代より河内地方に拠点を移していることから、河内の豪族だった応神が新たな王朝を創始したと推測している。

☆【全国で一番多い八幡神社の祭神である】
朝廷から早くに信仰された「宇佐八幡宮」が京都に勧請されたのが「石清水八幡宮」であり、鶴岡八幡宮は石清水八幡宮を勧請したものである。
石清水八幡宮の産湯を使った「八幡太郎源義家」を始めとして、八幡神は武神として信仰された。
神仏習合の時代、弥勒菩薩の化身が「八幡大菩薩」とされて、民衆から非常に信仰された。

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。
また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。

本来、天皇を祭神とする神社がこんなに多いはずはない。
江戸時代までは、八幡神社は「八幡大神」とか「八幡大菩薩」を祭神としていて、武の神様として、また弥勒信仰により、とても栄えていた。
それが、明治になり神仏分離令が発行されると、祭神が「八幡大菩薩」では認められなくなった。それで祭神を「応神天皇」としたり、「誉田別尊」としたのである。



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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群③

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所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は右から二番目の庚申塔③である。
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塔身は唐破風付駒形
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銘文は、右側に「延宝八年」、左側に「十月十一日」とあり。
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塔身:唐破風付駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、頭に蛇
本手:剣と索縄
他の手が持つ法具:矢、矛、法輪、弓
脇侍:一邪鬼、三猿、二鶏
造立年代:延宝8年(1680)
高さ:145cm

日月は浮彫瑞雲付きだが、筋彫に近いシンプルなもの。
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全身
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頭に蛇、顔は風化して詳細は不明。
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頭に蛇を載せていることについてだが、青面金剛の姿を説明している『陀羅尼集経』には、首、手足に蛇を巻き付けているが、頭に載せているのは髑髏である。
その髑髏に変えて蛇としているのだという説もあり、もともと蛇は水神のお使いだから彫りこんであるという考えもある。

本手は合掌してないので普通は剣とショケラだが、左手は索縄、右手が欠落しているが剣と推定する。
向かって右は、上が法輪、下は弓、左は上から鉾、矢。
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青面金剛は邪鬼を踏みつけ、その両側に鶏。
鶏は、鶏が鳴けば庚申の夜が明けたことを表すので登場する。それと多産の意味もあり。
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邪鬼は左向き。とぼけた顔をしている。
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岩の下に三猿。
右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔は、頭の蛇が明確にわかる。
残念ながら顔はわからなくなっている。
本手が「剣と索縄」なのが珍しい。
邪鬼が登場していて、とぼけた顔が愛嬌ある。
三猿の彫りも、まあまあ明確に残っている。


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熊本・加藤神社の狛犬

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所在地:熊本県熊本市中央区本丸2-1 加藤神社鳥居前
撮影日:2018年7月17日

九州旅行の初日、熊本空港から直行して加藤神社に参拝しました。
熊本大地震の復興のシンボル、熊本城がよく見える位置にあるので、参拝を兼ね加藤神社から熊本城の復興の様子を見ました。

その記事を見る


入り口大鳥居の前玉垣の中に、この狛犬は居ます。
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年代:昭和11年(1936)
材質:石造
型式:熊本型

熊本型の特徴:
口が大きい。びっしり並んだ小さな歯列。口ヒゲが八の字形。
アゴヒゲが異様に立派で、アゴが無いように見える。
ムックリタイプで尾立ちタイプ。

右が阿形獅子。
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・耳は伏せていて、眉は房状で豊か、鼻の穴がまん丸に開いている。口はワニのように大きい。小さな歯列がびっしり並び、牙が噛み合う程度に開口している。
・口ヒゲが八の字形。アゴヒゲが異様に立派で二段、上は巻き毛で下は流れている。アゴが無いように見える。
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左が吽形獅子。
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・耳は伏せていて、眉は房状で豊か、鼻の穴がまん丸に開いている。口はワニのように大きい。びっしり並んだ歯列が噛み合い、牙がある。
・口ヒゲが八の字形。アゴヒゲが異様に立派で、巻き毛が二段となり、そこから流れている。アゴが無いように見える。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・耳は伏せていて、眉は房状で豊か、鼻の穴がまん丸に開いている。口はワニのように大きい。小さな歯列がびっしり並び、牙が噛み合う程度に開口している。
・口ヒゲが八の字形。アゴヒゲが異様に立派で二段、上は巻き毛で下は流れている。アゴが無いように見える。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。
・耳は伏せていて、眉は房状で豊か、鼻の穴がまん丸に開いている。口はワニのように大きい。びっしり並んだ歯列が噛み合い、牙がある。
・口ヒゲが八の字形。アゴヒゲが異様に立派で、巻き毛が二段となり、そこから流れている。アゴが無いように見える。
・前足は、太く短い。爪はクサビのように下に鋭い。走り毛の表現が独特
・後足は蹲踞。走り毛が長く豊かに流れている。
・尾は、長いタケノコタイプ。根元から6個の巻き毛が立ち上がり、そこからまとまって綺麗に伸びている。


前足は、太く短い。爪はクサビのように下に鋭い。走り毛の表現が独特。
後足は蹲踞。走り毛が長く豊かに流れている。
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尾は、長いタケノコタイプ。根元から6個の巻き毛が立ち上がり、そこからまとまって綺麗に伸びている。
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年代は、昭和11年(1936)奉納。
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筑前国一之宮・筥崎宮

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鎮座地:福岡県福岡市東区箱崎一丁目22-1
参拝日:2018年7月20日

九州旅行の最終日、太宰府天満宮、竈門神社に参拝後、筥崎宮の門前に移動し昼食を食べる所を探しました。幸い良いお店が見つかり、のんびりと美味しい食事をしてから、いよいよ最後の目的地に参拝です。

社号標
式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
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別称として筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮とともに三大八幡宮の一つ。

筥崎宮を含む八幡神社の御祭神の応神天皇は、日本史の中で実在が確かめられる最初の天皇。神功皇后はその母で、夫の仲哀天皇が九州征伐に向かう際同行し、仲哀天皇が現在の福岡市東区にある香椎宮で崩御したため、応神天皇を妊娠したまま、御神託に従い三韓征伐を執り行ったと伝えられます。
凱旋後は現在の福岡県宇美町の宇美八幡宮で応神天皇を産み、志免町でおしめを替えたと言われています。そして、後産の胞衣(えな)を筥に納め、印として植えられたのが「筥松」で、「筥崎」の名はこれに由来しています。

筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。

鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。

『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格した。明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。

境内図
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入口には、一の鳥居と狛犬が居る。
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石造の一之鳥居は、黒田長政により慶長14年(1609年)に建立。鳥居の柱は3つに切れ、下肥りとなり台石に続く。笠木島木はひとつの石材で、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ。筥崎鳥居と称される。
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一の鳥居前狛犬は、大正12年(1913年)奉納の「籠神社(このじんじゃ)型」。
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一の鳥居をくぐると、広大な境内が広がっている。
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入ってすぐ右手に、笹の植え込みがあり、色々置かれています。
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〇唐船塔
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〇夫婦石
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樹齢800年の大楠
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〇蒙古軍船碇石
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手水舎
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〇お潮井
地元では古くから筥崎宮前の浜の真砂(まさご)をお潮井(おしおい)と呼び、これを「てぼ」と呼ばれる小型の竹かごに納め、自宅に持ち帰って厄を払い、幸運を招く風習があります。博多祇園山笠の始まりに、舁き手達がこの「お潮井浜」で身を清め、神事に臨む姿は博多の風物詩です。
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〇湧出石
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地元の方が撫でていた。
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私もお願いしました。
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〇絵馬殿
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〇亀山上皇尊像
楼門の右手には、博多仏師出身で高村光雲に弟子入りした彫刻家の山崎朝雲により、明治37年(1904)に完成した約6メートルの「亀山上皇尊像」(福岡県指定文化財)が奉安されている。
こちらの像は、福岡市東公園の銅像「亀山上皇立像」の原型となったものです。
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普通ガラスがあったときはガラスにカメラをくっつけて反射を防いで撮るのだが、像があまりに大きいため納まらない(泣)
ガラスの映り込みを我慢して離れて撮った。
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その近くに掲示してあった、「蒙古襲来絵詞」
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〇ご神木「筥松」
楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松の木。神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」と言われる。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に由来する。
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大きなソフトバンクホークスの「優勝祈願絵馬」が掛かっていた。
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中には、何代目かの松があり。
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〇楼門
小早川隆景により文禄3年(1594年)に建立。三間一戸の入母屋造。扉の桐紋彫刻は左甚五郎の作といわれる。広瀬淡窓の「筑前城下作」の詩の伏敵門はこの楼門を指す。一般の参拝はこの楼門の下で行なわれる。
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〇「敵國降伏」の扁額
文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。
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楼門から拝殿を望む。
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猿田彦の面が掛かった鉾が並んでいる。
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左右にある、縋造車寄。
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ここにも、猿田彦の面が掛かった鉾が並んでいる。
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本殿、拝殿
延喜21年(921年)6月に藤原真材により創建された。その後数度の焼失と再建が繰り返された。戦国時代に戦火兵乱により荒廃してのち、大宰大弐大内義隆により天文15年(1546年)に再建。本殿は46坪、桧皮葺の流造様式で左右に縋造車寄がある。拝殿は檜皮葺の切妻造[5]・二重虹梁・蟇股。
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ご祭神:
主祭神は、応神天皇。配祀神が神功皇后、玉依姫命。

末社は、社殿の背後に東と西に分かれて祀られています。

〇東末社
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前に中国獅子狛犬が居る。年代不明。
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東末社に祀られている末社
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・池島殿(御祭神:軻遇土命、宗像三女神、奥津彦命、奥津姫命、少彦名命、大山昨命、倉稲魂命)
・武内社(御祭神:武内宿禰命)
・乙子宮(御祭神:菟道稚郎子皇子( うじのわきいらつこのみこ )=応神天皇のお子にして仁徳天皇の弟君)
・住吉殿(御祭神:住吉大神)
・稲荷社(御祭神:倉稲魂命( うかのみたまのみこと ))

東末社社殿
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一つ一つ、このように祀られている。
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〇西末社
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前に、大正5年(1916年)奉納の「浪花型」狛犬が居る。
普通、浪花型は可愛い顔のが多いのだが、ここのは結構怖い顔をしている。
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西末社に祀られている末社
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・民潤社(御祭神:埴安神、保食神、隼男神、武速須佐男神)
・厳島社(御祭神:市杵島姫命、伊弉諾命、伊弉冊命、警固三柱大神、神直日神、大直日神、八十禍津日神、愛宕大神、天野丹生神)
・仲哀殿(御祭神: 仲哀天皇、天照皇大神、志賀三柱大神、底津綿津見神、、中津綿津見神、上津綿津見神、天兒屋根命、高良玉垂命)
・若宮殿(御祭神:仁徳天皇、若姫、宇禮姫、久禮姫)
・竜王社(御祭神:綿津見神)

西末社社殿
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これで、今回の九州旅行は全て終わり、レンタカーを福岡空港の近くで返して、福岡空港に入りました。
・象徴的に熊本城の復興を見て、熊本大地震の復興はまだまだなんだと実感しました。
・今回、熊本と天草を車で往復しましたが、宇土半島、大矢野島、天草上島、天草下島それぞれが大きくて、天草は広いことを実感しました。
・九州の焼き物は有田焼とか薩摩焼が有名ですが、それを支えているのが「天草陶土」です。日本の80%を支えています。今回は天草の窯元を三つも訪ねることが出来、もともと焼き物好きがますます好きになりました。
・世界遺産になったばかりの「天草・崎津集落」を訪ねられたのは大きな収穫でした。
・北九州では神社ばかり廻りましたが、大きな神社が集中しているのはさすがでした。
・九州の狛犬は、関東の狛犬とかなり趣が違っていて、かなり面白かった。27組の狛犬を確認することが出来ました。


満ち足りた気持ちで、15:55発の飛行機で福岡空港を発ち、何ごともなく羽田に到着。
羽田空港内のレイトランで夕食を食べ、空港の夜景を楽しんだ後で、川越直行のリムジンで帰途につきました。

(了)


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建借馬命(たけかしまのみこと)/日本の神々の話

20180805

茨城県水戸市・大井神社の祭神
『古事記』・『日本書紀』には登場していない。
『常陸国風土記』では「建借間命」として、崇神天皇の時代に東国の賊を討伐した説話を載せる。

『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、伊予国造と同祖で、成務天皇の御世に初代仲国造(なかのくにのみやつこ)に任じられたとある。
※仲国造はのちの常陸国東部(当地を含む周辺)を治めたとされる国造で、『古事記』に神八井耳命がその祖であると記されている。
明治時代発行の『大日本神名辞書』では、建借馬命を神八井耳命の後裔とし、夷賊退治の功により仲国造に任じられたとする。

水戸市愛宕町の前方後円墳・愛宕山古墳(位置)があり、仲国造のつながりが深いとされ、年代から建借馬命の墓とする説がある。

大井神社の社名「おおい」や地名「飯富」の語源について、建借馬命の出身が神八井耳命を祖とする意富臣(おふのおみ)であることによるとも伝えられる。

仲(那珂・那賀・常道仲)国造は仲国(茨城県水戸市周辺)を支配したと言われ、『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)によると、成務天皇(13代)の時代に伊豫国造と同祖である建借馬命(たけかしまのみこと、建借間命)を国造に定めたことに始まるとされる。
『古事記』には神武天皇の第一皇子・神八井耳命の後裔とされる九州の意富臣(おおのおみ)・火君(ひのきみ)・大分君・阿蘇君や道奥の石城国造と同族と記され、また水戸市史に火の国造家から別れた意富臣の一族とされていることから多臣系の氏族が国造を世襲したと考えられている。

※『常陸国風土記』での建借馬命の記述。(建借間命と書かれている)
七、行方(なめかた)郡「立雨ふり、行方の国」
○建借間の命
 昔、斯貴(しき)の瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間命を遣はされた。建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで誓(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(くず)、夜尺斯(やさかし)、夜筑斯(やつくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(きしま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふつな)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、吉よく斬ると言った所が、吉前(えさき)の邑である。
(以下省略)

『古事記』における神八井耳命については、既に記事があります。

その記事を見る


大井神社については、既に記事があります。

その記事を見る



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季節の花/昼顔、木槿、ハイビスカス、ゴーヤ

20180804

【昼顔】
撮影場所:狭山市入間川河原
撮影日:2018年8月3日

学名Calystegia japonica、シノニムCalystegia pubescens他)
ヒルガオ科の植物。アサガオ同様朝開花するが昼になっても花がしぼまないことからこの名がある。

つる性の多年草で、地上部は毎年枯れる。春から蔓が伸び始め、夏にかけて道ばたなどに繁茂する。夏に薄いピンク色で直径5~6cmの花を咲かせる。花の形は漏斗形。苞葉が萼を包み込むので、帰化植物のセイヨウヒルガオ(西洋昼顔、学名Convolvulus arvensis)と区別できる。
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【木槿 むくげ】
撮影場所:狭山市智光山公園緑化植物園
撮影日:2018年8月4日

ムクゲか芙蓉か、どっちだろうと思って調べたら、判りやすいのが葉の大きさだった。

学名: Hibiscus syriacus)はアオイ科フヨウ属の落葉樹。別名ハチス、もくげ。
樹高3〜4mくらいのものが多く、庭木や街路樹、公園などに広く植えられている。
夏から秋にかけて白、紫、赤などの美しい花をつける。花期は7〜10月。花の大きさは径5〜10cm、花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。白居易の詩の誤訳から一日花との誤解があるが、朝花が開き、夕方にはしぼんで、また翌朝開くものもあるが、たいていはそのまま翌日も開花し続け、一重のもので2〜3日、八重の長く咲くもので2週間くらい一輪の花を楽しめる

ピンク、赤、薄いピンクと三種あった。
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【ハイビスカス】
撮影場所:狭山市智光山公園緑化植物園
撮影日:2011年8月31日

ハイビスカスも芙蓉科なのでいっしょにアップした。

葵(あおい)科。学名:Hibiscus rosa-sinensis Hibiscus : フヨウ(ハイビスカス)属
・夏に開花する。
・インド洋や太平洋の島々が原産地。ハワイに持ち込まれてから広まった。ハワイ州の州花。
 摘んでもなかなかしおれないので「レイ(花の首飾り)」に使われる。
・ネパールでは聖なる花として大切にされている。
・くっきりした赤色が印象的。黄色やピンク、だいだい色の花もある。
・別名 「仏桑花」(ぶっそうげ)。漢名の「扶桑」に「花」をつけて「扶桑花」と名づけたものがさらに変化して   「仏桑花」になった。
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【ゴーヤ】
撮影場所:狭山市智光山公園緑化植物園
撮影日:2018年8月4日

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竈門(かまど)神社

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鎮座地:福岡県太宰府市内山883
参拝日:2018年7月20日

太宰府天満宮に参拝後、ナビの助けを借りて山に上がっていき、ここに参拝しました。
天草に住んでいる娘の推薦です。

社号標
式内社(名神大社)、旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
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神功皇后が三韓出兵の際に宝満山に登り、再開を誓ったという「サイカチの木」が境内にある。また、上宮に続く宝満山の八合目付近には竈門岩があり、応神天皇の産湯を沸かしたという伝説が残っている。

社伝では、天智天皇の代(668年-672年)に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山に大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが神祭の始まりという。次いで天武天皇2年(673年)、心蓮(しんれん)上人が山中での修行していると玉依姫命が現れたため、心蓮が朝廷に奏聞し山頂に上宮が建てられたという。神社側では、この時をもって当社の創建としている。
これらの社伝の真偽は明らかではないが、下宮礎石群の調査から創建は8世紀後半には遡るとされる。また上宮付近からは、9世紀から中世にまで至る、多くの土師器・皇朝銭等の祭祀遺物が検出されており、大宰府・遣唐使との関連も指摘される。

平安時代以後の当社は、神仏一体となって営まれた[2]。その進展もあって室町時代からは「宝満宮」という名称も見られるようになる。その後は戦国時代の戦乱に巻き込まれ、勢力は大きく衰退した。
近世に入ると、筑前国を治めた小早川氏によって天正15年(1587年)から修験道の道場として再興され、慶長2年(1597年)には神殿・拝殿・講堂・行者堂・末社等が再建されたという。
代わって慶長5年(1600年)に入国した黒田長政からの崇敬も篤く寄進も受けたが、寛永18年(1641年)に火災によってほとんどの建物を焼亡した。慶安3年(1650年)、福岡藩2代藩主・黒田忠之によって神殿・拝殿・講堂・神楽堂・鐘楼・行者堂が再建された[1]。江戸時代を通して、社領は50石を数えていた。
明治に入り、神仏分離によって仏教色は一掃された。明治5年(1872年)近代社格制度では村社に列し、明治28年(1895年)に官幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

駐車場から石段を上がる。
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鳥居には「宝満宮」とあり。
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少し上ると、左右に開けたところがあり、この説明が。
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まだまだ、石段は続きます。
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途中の平らなところに、鹿が居た。
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参道がカーブして、また石段があるが、社殿の屋根が見えてホッとする。
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手水舎
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拝殿
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拝殿の前には、明治12年(1879)奉納の「岡崎型」狛犬が居る。
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拝殿左側にある「水鏡」。
顔を映し心の内面をも洗い清めて、ご神前でお祈りをすると願いが叶うと言われているそうです。
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社額
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修験道の名残りでしょうか、天狗の面が架かっていた。
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拝殿内部
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本殿
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ご祭神::
主祭神は、玉依姫命。
相殿神として、神功皇后、応神天皇。

神紋は「桜」
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社務所がモダンな建物でした。
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2012年にリニューアルされ社務所は、世界的なインテリアデザイナーでもある片山正通氏と、日本各地の神社建築を数々手がけている種村強氏が担当されたそうです。

中の、お守りなどの陳列がとても洒落ていて、綺麗なお守りがたくさん並んでいた。
このお守りで、人気がある神社らしい。
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天草に住んでいる娘(姉)が、「とにかくお守りが良いから」と、カミさんと娘(妹)に力説していた。
旦那さんのご好意で同行している娘(妹)と、カミさんはお守りや記念品を夢中で選んでいた。
娘は旦那さんにも「縁結びのお守り」を買ったというので、エッと云ったら、人生の縁結びだと云う。
確かに男にとっては職場の人間関係が一番大事だと納得。

若い人に人気のある神社だと、よく見受ける「風鈴棚」がここにもあったが、よく見ると一つ一つが手作りなので感心した。
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これで、ここの参拝を終え、九州旅行最後の目的地、「筥崎宮」に向かった。



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太宰府天満宮

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鎮座地:福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
参拝日:2018年7月20日

九州旅行の最終日です。博多のホテルで美味しい朝食を採ったあと、9時に出発しました。
この日は、太宰府天満宮、竈門神社、筥崎宮と参拝して、福岡空港を15:55の飛行機で羽田に飛ぶことになっています。

近くの駐車場に車を置いて、正門から入ります。

社号標
社格等:旧官幣中社、別表神社
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右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。死後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。
一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。
それでも「道真の祟り」は収まらず、皇太子保明親王、保明の遺児慶頼王、が続いて死去。
延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。
天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。続いて宇多法皇も死去、わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった。

道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。

門前市の先の鳥居から入ります。
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境内図
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参道のスタート地点に、「御神牛」が居る。
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境内には、5組の狛犬が居るが、最初の狛犬は石灯篭の上に居る。
文化9年(1812)奉納、「石灯篭笠上型」
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右側は、「お手」をしている。「招き猫」と称している人もいるが、犬なので「お手」ととりたい。
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左側は、「逆立ち」をしている。口がまるでワニだ。
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それに続いて、太鼓橋の手前に狛犬が居る。
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この狛犬の様式を特定するのに苦労した。
北九州の狛犬について調べたが、「筑紫型」とか「筑後型」とかでは当てはまらない。
思いついて、台座に「長州萩」とあるので、「山口県の狛犬」を調べたら「萩狛犬」というのが見つかった。
防府天満宮、京都の北野天満宮、太宰府天満宮に「萩の石工」作のものが奉納されている。
幕末の長州藩での天神信仰の表れといわれている。

北野天満宮の狛犬には、下記の伝説まで残っていた。
~北野天満宮の萩狛犬伝説~
禁門の変で長州藩は敗走、その後、京都守護職の会津藩が北野天満宮に鳥居を奉納、しかし、鳥居の側に奉納されていた萩狛犬を藩士が見つけ「長州獅子、汝まだ去らざるか」と、神社に撤去を要求 実力で倒そうとしたところ、一天にわかにかき曇り雷鳴が響きわたった。
会津藩士は雷神である菅原道真公の祟りと恐れ逃げ帰ったという

台座に「長州萩」とあり、見事な彫刻を施した台座である。
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萩の石工、山本長右衛門美啓と萬吉美算作であることがわかる。
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右側が阿形獅子。
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左が吽形獅子。
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防府天満宮と大宰府天満宮の狛犬の吽形は、足より小さい玉取りとなっていて、北野天満宮は同じ玉取りだが玉が透かし彫りとなっているそうだ。
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心字池には、太鼓橋、平らな橋、太鼓橋と三連に架かっている。

最初の太鼓橋
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末社・今王社
参道の最初の太鼓橋を渡った所に鎮座する。
なんらかの障りがあって本殿での参拝ができない時に,代わりに拝するための末社。本社の遥拝所。
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二番目の、平らな橋を渡る。
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心字池は美しく島など作られている。
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志賀社
ご祭神:綿津見三柱神(海上安全の守護神)
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三番目の太鼓橋
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この上から前方を見ると、楼門までずいぶんとある。あらためて境内の広さに感心する。
真夏の暑いとにはコタエる(笑)
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太鼓橋を渡り終えたら、左にそれて絵馬堂に立ち寄る。

〇絵馬堂
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祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌・連歌・歌舞伎・書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった。特に奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。

沢山の絵馬が奉納されていた。
肉眼ではよく見えていたが、撮って来た写真をみると保護のためにかけてある金網のために、あまりよくわからない写真になっていた(汗)
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天井からぶら下がる、円形の絵馬は初めて見た。
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絵馬堂から見た、太鼓橋
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これだけ進んで、やっと手水舎。
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〇麒麟と鷽(うそ)像
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楼門の前に、三組目の狛犬が居る。
明治39年(1906)奉納の「籠神社(このじんじゃ)型」
籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市にある、丹後国一宮。「天橋立」のすぐ近くである。
特徴は、一目瞭然。ずんぐりむっくりの巨躯で、威風堂々。
北九州の気風に合っているようで、太宰府天満宮、香椎宮、筥崎宮、護国神社と北九州に集中してある。
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右が阿形獅子。
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左が吽形獅子。角あり。
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楼門の前には、一対の神牛も居る。
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楼門
表側から見ると上下に屋根のある二重門、内側から見ると下層に屋根のない一重の門に見えるという、世にも珍しい門である。
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左右に随身が侍る。
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横から見ると敷き皮が見えるが、両方ともに虎の皮だった。
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普通、随身は片方が虎の皮、もう一方は豹の皮を敷いている。
両方ともに虎の皮の例は、日光東照宮だ。これは家康が寅年うまれからきているという。
楼門は、戦乱、火災により何度も焼失しているが、現在あるのは大正三年(1914)に再建されたもの。
その際の随身の作者が、「加藤清正の虎退治」を意識したのか、日光東照宮をモデルにしたのか、どっかだろう。

楼門の梅の彫刻と、珍しくも下がっている提燈。
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楼門をくぐると、4組目の狛犬が居る。
昭和31年奉納の「広島型」
広島型というのは、尾道から始まり広島地方で多い、「玉乗り型」である。

右側に阿形獅子。玉をくわえている。
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左側が吽形獅子
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また神橋を渡る。
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再び、本殿まで広大な空間が広がっていた。
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拝殿は無く、社殿としては本殿のみ。

本殿
五間社流造檜皮葺
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唐破風の豪華な向拝屋根。
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本殿内部
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ご祭神は菅原道真公

神紋は「梅」紋
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本殿の前に、最後5組目の狛犬が。
嘉永5年(1852)奉納の「浪花型」狛犬。
白大理石だと思いますが、真っ白な可愛い狛犬として有名です。

右が阿形獅子。
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左が吽形獅子。チョコンと可愛い角あり。
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〇飛梅
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本殿の後ろに摂社が並ぶ。
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摂社・福部社
御祭神 島田忠臣命
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摂社 老松社
御祭神 是善命 これよしみこと 道真公の父君。
--- 命  道真公の母君。御名前は不明、少納言伴善績公の娘。
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摂社の御子社が並びます。
御祭神:
高視命 たかみみこと  道真公嫡男。
景行命 かげつらみこと 道真公次男。
兼茂命 かねしげみこと 道真公三男。
淳茂命 あつしげみこと  道真公四男。
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本での後ろにまで、絵馬が下げられている。
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〇夫婦樟
大きいのと小さいのが日本並んでいます。
大きい方は、推定300年以上とか。
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以上で参拝を終え、門前の茶屋で銘菓「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」と甘いもので喉を潤してから、次の目的地「竈門神社」に向かいました。



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青面金剛庚申塔/目黒区田道庚申塔群②

20180801

所在地:東京都目黒区目黒2丁目13−7
撮影日:2018年1月16日

目黒区美術館、目黒区民センター公園の近くに置かれている。
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一番右のお地蔵さんを省き、6基の庚申塔を右側からアップしていく。
今回は右から二番目の庚申塔②である。
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塔身は駒形
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銘文は、右側に「奉庚申供養」、左側に「元禄八年十一月二月」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、三眼
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、鉾
脇侍:三猿、二鶏
造立年代:元禄8年(1695)
高さ:150cm

日月は浮彫瑞雲付き
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全身
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顔は三眼、おごそかな顔つき。
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本手は合掌、向かって右は上から法輪、弓、左は上から鉾、矢。
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青面金剛は岩の上に立ち、その両側に鶏。
鶏は、鶏が鳴けば庚申の夜が明けたこと、それと多産の意味もあり。
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岩の下に三猿。
右から見ざる、聞かざる、言わざる。
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この庚申塔は、三眼が明確にわかる顔となっていること、鶏が登場している。
三猿の彫りも、まあまあ明確に残っている。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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