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太宰府天満宮の萩狛犬

20181031

所在地:福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号 太宰府天満宮参道
撮影日:2018年7月20日

太宰府天満宮については、既に記事があります。

その記事を見る


太宰府天満宮には5組の狛犬が居るが、大鳥居から入って最初の石灯篭笠石上の狛犬に続いて、太鼓橋の手前に、今回記事の狛犬が居る。
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年代:文久2年(1862)奉納
材質:石造
型式:萩狛犬

この狛犬の様式を特定するのに苦労した。
北九州の狛犬について調べたが、「筑紫型」とか「筑後型」とかでは当てはまらない。
思いついて、台座に「長州萩」とあるので、「山口県の狛犬」を調べたら「萩狛犬」というのが見つかった。
防府天満宮、京都の北野天満宮、太宰府天満宮に「萩の石工」作のものが奉納されていて、幕末の長州藩での天神信仰の表れといわれている。

北野天満宮の狛犬には、下記の伝説まで残っているそうだ。
~北野天満宮の萩狛犬伝説~
禁門の変で長州藩は敗走、その後、京都守護職の会津藩が北野天満宮に鳥居を奉納、しかし、鳥居の側に奉納されていた萩狛犬を藩士が見つけ「長州獅子、汝まだ去らざるか」と、神社に撤去を要求 実力で倒そうとしたところ、一天にわかにかき曇り雷鳴が響きわたった。
会津藩士は雷神である菅原道真公の祟りと恐れ逃げ帰ったという

右側が阿形獅子。
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台座に「長州萩」とあり、見事な彫刻を施した台座である。
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タテガミ、あごヒゲの毛は綺麗に流れ、先端が綺麗な巻き毛になっている。
耳は伏せ、豊かな眉が横に流れる。目はまん丸で大きい。
鼻の穴はまん丸。歯列は前にだけあり、牙はある。
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左側が吽形獅子。
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吽形は玉取り型となっている。
防府天満宮と大宰府天満宮の狛犬は、足より小さい玉取りとなっていて、北野天満宮は同じ玉取りだが玉が透かし彫りとなっているそうだ。
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タテガミ、あごヒゲの毛は綺麗に流れ、先端が綺麗な巻き毛になっている。
耳は伏せ、豊かな眉が横に流れる。目はまん丸で大きい。
鼻の穴はまん丸。閉じた唇はたわみは大きいが歯列を見せず、鋭い牙を見せている。
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前足は直立、後足は蹲踞。
身体に体毛の表現は無く、まえあしの付け根と後足に走り毛があるのみ。
その走り毛は綺麗な巻き毛である。
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尾は立ち尾で、炎状に二本立ち上がり、それに枝分かれした巻き毛が美しい。
よく見ると、阿形と吽形で細部の形が異なる。
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阿形
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吽形
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萩の石工、山本長右衛門美啓と萬吉美算作であることがわかる。
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狛犬の記事一覧を見る



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水陸両用バス「スカイダック 東京スカイツリーコース」

20181030

10月23日に、歴史クラブの「江戸再発見」グループの活動で乗ってきました。

スカイツリーの下から出ているということで、押上(スカイツリー前)駅に到着。
外に出てみると、天気予報と異なり無情にも小雨(泣)。
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スカイツリーにも雲がかかっている。
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スカイダックは13:10に出発なので、一旦解散して「そらまち」で昼食、土産物店などを物色して時間をつぶした。

「そらまち」
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昼食を済ませて、集合時間までブラブラしたが、千葉工業大学の「スカイツリータウンキャンパス」が面白かった。
体感型アトラクションゾーンということで、色々と遊べるようになっていた。
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ロボットの模型展示
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ロボット・ハルクを操作して障害物を乗り越えるゲーム。
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楽しかったのは、これ。
スクリーンに四角やら丸やらの像が走り回っているが、スポットライトの所に立つと、その人の形をパアッと集まって作り、その人の動きを再現する。
右側の像は、カメラを構えた私である。
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時間に集合して、歩いて5分ほどのスカイダック乗り場に行きます。
スカイダックが待っている。
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皆、バスの後部に興味深々。スクリューが付いているからだ。
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コースは、スカイツリーから、亀戸天神の前などを走って、東大島の旧中川・川の駅から旧中川に入り、水行を楽しんで、またスカイツリーに戻ってくるもの。
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高い位置の座席まで、タラップで乗り込む。
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今日は、小雨のため皆カッパを着せられた。
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今回は遠慮して窓側に座らなかったので、途中の景色などは、昨年撮った写真で紹介しますが、晴れた天気の写真なので、ご容赦を。

運転席は、船の操縦関係の計器などが並び、面白い。
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亀戸天神前の、老舗「船橋屋」の前を通過。
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亀戸天神前
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そして、いよいよ東大島の旧中川・川の駅から、旧中川に乗り入れます。
なお、旧中川は、江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」などで、情緒豊かな川であったことが知られています。
歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」
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ドッシャーーンと川に乗り入れ!
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ここから、荒川ロックゲートの手前、「平成橋」までの間を往復して楽しみました。
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昨年乗ったときは、動画で撮ったので、それで楽しんでください。
下記クリック

その動画を見る



再び陸路をスカイツリーまで戻りましたが、ガイドさんの案内で楽しく過ごしました。

亀戸は、昔は大根で有名だったそうで、今でも「亀戸大根」を使った料理を出してくれるお店があるそうで、その一つ、「すずしろ庵」。
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橋の上からスカイツリーを。
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そして、無事にスカイツリー前まで到着。
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陸の上を走って行って、そのまま水の上に飛び込むという経験は、とても楽しかった。



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青面金剛庚申塔/目黒区・五本木庚申塔群④

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所在地:東京都目黒区五本木二丁目20番15号
撮影日:2018年1月16日

場所は、東急東横線祐天寺駅下車して7分ほど歩いたところにあり、幸いグーグルマップに載っているので、それを頼りに訪ねた。

小堂内に庚申塔4基、地蔵尊1基、堂前右手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申供養塔(文字)1基が建っています。
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庚申塔4基のうち、今回は一番左の④を紹介する。
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塔身は駒形。
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銘文は、中央に「奉庚申」右側に「元禄八年」、左側に「乙亥十一月吉日」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫、瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、頭に蛇、岩の上に立つ
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:元禄八年(1695)
高さ:95cm

日月浮彫り、瑞雲付き。
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青面金剛全身
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磨滅が進んでいてよく判らないが、頭に蛇が巻き付いているのは判る。
頭部中央に、もしかしたら髑髏があったと見られる痕跡あるが判別不明。
表情は眉を吊り上げ忿怒形。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓、左側は上から三叉矛、矢。
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青面金剛は岩の凹んだ部分に立ち、その下に三猿が居る。
右から、聞かざる、見ざる、言わざる。
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この庚申塔の特徴:
・頭に髑髏があったような痕跡あるが、残念ながら判然とせず。
・鶏、邪鬼は登場せず。
・青面金剛は岩の上に立つが、その部分の岩が大きく凹んでいる。


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季節の花/コスモス、萩(赤)、背高泡立草、白蝶草、エンジェルトランペット

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【コスモス】
撮影地:長野県茅野市諏訪大社 上社前宮
撮影日:2018年10月10日
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【萩(赤)】
撮影地:東京都文京区小石川植物園
撮影日:2018年10月11日
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【背高泡立草】
撮影地:東京都文京区小石川植物園
撮影日:2018年10月11日

北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。11月頃まで開花していることから、ミツバチの蜜源植物として、養蜂業者が全国に広めたこともある[1]。河原や空き地などに群生し、高さは1 - 2.5m、良く肥えた土地では3.5 - 4.5m程度にもなる[2]。茎は、下の方ではほとんど枝分かれがなく、先の方で花を付ける枝を多数出す。
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【白蝶草】
撮影地:埼玉県秩父市野上下郷
撮影日:2018年10月26日

植物名:ガウラ(ハクチョウソウ)、学名:Gaura Iindheimeri英名White gaura、和名:白蝶草(はくちょうそう)、科名:アカバナ科、属名:ガウラ属、原産地:北アメリカ
ガウラは伸ばした茎の先端に約1.5cmのとても小さな花を咲かせます。ガウラの花は白色が多く、花弁の枚数が4枚で、長い雄しべが目立ちます。これらの特徴から「ハクチョウソウ(白蝶草)」とも呼ばれています。また花色から「ヤマモモソウ」という別名もあります。花は咲いてから3日ほどで散ってしまいますが、春から秋の長い期間、次から次に花を咲かせていくため、長い間観賞することができます。
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【エンジェルトランペット】
撮影地:埼玉県秩父市野上下郷
撮影日:2018年10月26日

キダチチョウセンアサガオ属(-ぞく、学名:Brugmansia)ナス科の属のひとつで、低木または高木である。学名のカタカナ表記で、ブルグマンシア属と呼ぶこともある。また、園芸名でエンジェルストランペット、エンジェルトランペット(Angel's Trumpet)と呼ばれることが多い。花言葉は、愛敬、偽りの魅力、変装、愛嬌。
春から秋にかけて、下向きに垂れ下がった花をつける。つぼみには卵形、球形、紡錘形などがあり、花はつぼみから飛び出すような形で咲く。花弁の先端は、5つに分かれ反り返る。原産地はアメリカの熱帯地方だが、暑さが苦手で高地にしか生息していない。そのため温帯気候の日本では、夏季の生育が緩慢になり、管理を怠ると最悪枯れてしまう場合もある。しかしキダチチョウセンアサガオ属は低温に強く、丈夫で育てやすい植物である。春温かくなってから旺盛に生育してゆき、開花時期には大型の株にたくさんの花をつけるのがとても魅力的である。
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「東京150年」展/江戸東京博物館、東京都慰霊堂、復興記念館

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9月28日に、歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で訪ねました。

両国駅から徒歩数分で、江戸東京博物館に到着。
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館内に入り、日本橋を渡って、企画展示室に向かいます。
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今回の目的は、企画展「東京150年」
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江戸から東京になった初期が面白かった。
それから発展を続けた東京の姿を順を追って見ていった。

そこから一部を紹介しておきます。

「江戸を東京と称す」詔書
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江戸遷都意見書
当時、大阪に遷都、名古屋に遷都、色々な主張があったようです。
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御東幸・御供奉御警衛附
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「天皇は東京に住まわれたのではなくて、東京にやってきて、帰るのが伸び伸びとなっている」という状態なんですね。

「外桜田門」/明治初期に横浜で発行された英字新聞に載っていたもの
維新後荒廃して、こういうところにも人が住み始めた。
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維新のころの「お茶の水から神田川をのぞむ」
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日清戦争の祝捷に沸く日本橋本町
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明治30年ころの「題経寺」
寅さんでお馴染みの、柴又帝釈天の門前。
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青梅から御岳山に向かう道/明治27年
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銀座通り(絵葉書)/明治40年代
左手の建物は、銀座のシンボル「服部時計店の時計塔」
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銀座散歩/昭和10年
銀座四丁目の交差点付近を行き交うモダンな男女。
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爆弾の穴 銀座五丁目角/昭和20年
時計塔の文字盤や地下鉄銀座駅の入り口が破損している。
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新宿駅から見た東口の様子/昭和20年
右手が伊勢丹、中央が三越。
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畑をたがやす女性(新橋・有楽町付近)/昭和20年
現在の日比谷通りから新橋駅の方面を写したもの。
人間はたくましい。
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ワシントン・ハイツ/昭和29年
東京オリンピックの決定で返還され、選手村となり、代々木公園となった。
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練馬・グランドハイツ/昭和29年
練馬区にあった成増飛行場が連合国軍家族宿舎となり、昭和48年に全面返還、光が丘団地が開発された。
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羽田空港/昭和31年
まだ、可愛い飛行場だった。
海には、海苔養殖の「ひび」が確認できる。
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霞ヶ関ビルの建築/昭和41年
私は当時学生だったが、この建物を見たときは感動した。
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霞ヶ関と東京タワー/昭和42年
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ビデオやスライドショーもあって、楽しく見た。
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常設展も見る予定だったが、企画展が面白く時間をかけたので、この日は常設展はカットしました。
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7階の「桜茶寮」で昼食・休憩してから、次に向かった。

【東京都慰霊堂】
東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になり、被服廠(ひふくしょう)跡と呼ばれた[1]。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。

本堂は伊東忠太設計によるもの。
伊東忠太は他に、築地本願寺、橿原神宮、平安神宮、弥彦神社、明治神宮、湯島聖堂、高麗神社(日高市)などを設計している。
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伊東忠太設計の特徴だが、こういう付属彫刻が面白い。
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関東大震災では、小田原や鎌倉も津波で大きな被害があった。
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堂内は荘厳な雰囲気。
いつ来ても、参拝者の姿が見られる。
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【東京都復興記念館】
東京都墨田区横網二丁目にある博物館で、管理運営は公益財団法人東京都慰霊協会が行っている。
もと陸軍被服廠のあった所で、東京市がこれを買い受けて1923年(大正12年)に横網町公園の造営整備に着手したとき、図らずも関東大震災が発生し、東京市の遭難死者は58,000人に上った。東京市は犠牲者の霊を追悼し、また不言の警告を将来に残そうと、被服廠跡に震災記念堂を建設し、災害に対する不断の準備とその予防知識を普及するため、附属施設として東京都復興記念館を建設した。
横網町公園は、1930年(昭和5年)9月1日、震災のメモリアルパークとして造られ、公園内の復興記念館は、1931年(昭和6年)8月18日に開館した。

この建物も、伊東忠太の設計。
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入口の上にも、伊東忠太特徴の彫刻が。
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関東大震災の際、宮城前広場には30万人ものひとが避難した。
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黒煙の中の日比谷交差点/関東大震災
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地震直後の銀座
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焼けた両国国技館/関東大震災
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炎上中の帝劇と警視庁/関東大震災
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北の玄関口上野駅が全焼し、田端駅が東北線の始発駅となった。
列車に鈴なりの避難民
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交番に伝言の貼り紙
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今年も、九州、広島、北海道で大きな自然災害がありました。
やはり、こういうものを見ると、それに対する備えの大切さが実感されました。



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太宰府天満宮の石灯篭笠石上の狛犬

20181020

所在地:福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号 太宰府天満宮参道
撮影日:2018年7月20日

太宰府天満宮については、既に記事があります。

その記事を見る


太宰府天満宮には5組の狛犬が居るが、大鳥居から入って最初の石灯篭笠石の上に狛犬が居る。
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年代:文化9年(1812)奉納
材質:石造
型式:石灯篭笠石上型

今回紹介するのは、石灯篭笠石の上に狛犬が居るというもの。
それぞれ社殿に対して横を向き、左右が向かい合っている。
左右の狛犬は、かなり姿勢が違っている。

右側の石灯篭
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石灯篭の笠石の上でお座りをして左前足で「お手」をしている。
体毛の表現は、前足に巻き毛があるくらい。
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高い所にあるので、顔の表情などがよくわからない。
タテガミは大きな巻き毛である。
耳は伏せ、眉毛は豊か。
ワニのような大きな口を半開き、細かい鋸列と、牙は鋭い。
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尾は、炎形の立ち尾で脇に巻き毛。
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左側の石灯篭
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石灯篭の笠石の上で、後足を大きく跳ね上げて逆立ちをしている。
体毛の表現は、前足の走り毛と、所々に巻き毛がある。
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高い所にあるので、顔の表情などがよくわからない。
タテガミは大きく流れて、先端が巻き毛である。
耳は伏せ、眉毛は豊か。口ヒゲはこの地方らしく八の字、アゴヒゲは大きく巻き毛。
大きな口を閉じているが、唇のたわみが大きく鋸列と、鋭い牙を見せている。
まるっきりワニの顔である。
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尾は、三本の大きな巻き毛。
逆立ちしているので、後足の肉球が見えてかわいい。
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年号は、文化9年(1812)。
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石灯篭の上に狛犬が居る例は、今回の九州旅行で天草の「本渡諏訪神社」で出会った。
天草のは、片方だけ狛犬だったが、今回のは両方とも狛犬で、
左右姿勢が違って、両方とも動きがあり、とても面白い狛犬だ。
特に左側のは、逆立ちをしていることといい、まるでワニの顔と云い、
極めて独特だった。


狛犬の記事一覧を見る



尖石縄文考古館/諏訪地方の歴史探訪④

20181018

所在地:長野県茅野市豊平4734-132

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮、本宮、高島城の後、最後の訪問地である「尖石縄文考古館」に到着しました。
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この考古館は、現在国宝の土偶2点を蔵する素晴らしいところですが、「宮坂英弌(ふさかず)」氏個人の努力から出発しています。
宮坂氏は小学校の教師をしながら考古学の研究をし、戦前から八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘を行い、特に尖石遺跡は独力で発掘を続け、日本で初めて縄文集落の全容を明らかにしました。また、与助尾根遺跡でも縄文集落を発掘しました。

スタートは、氏のお宅の縁側に並べて見学者に公開。
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自宅を改造した「尖石館」
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最初に出来た「尖石考古館」
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旧考古館で子供たちに説明する宮坂英弌氏
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時間の関係で、30分だけですが学芸員の方に案内をしていただきました。

最初は黒曜石の説明
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白樺湖周辺で見つかった黒曜石
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諏訪湖周辺の、おびただしい数の旧石器遺跡、縄文遺跡、弥生遺跡。
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【常設展示室A】
入口には、務めを果たした諏訪大社御柱の断片が飾られていた。
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先に説明した、考古館の歴史の説明がある。
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『蛇体把手付土器』 尖石遺跡 縄文時代中期前半
頭の形はマムシである。
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『有孔鍔付土器』 尖石遺跡 縄文時代中期前半
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【国宝土偶展示室】
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現在、ここには国宝の土偶、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の2点が収蔵されていますが、国宝の土偶が全国で5点しかないことを考えると、すごいことだと思います。
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◎国宝 「縄文のビーナス」
実物展示
高さ 27cm
重さ 2.14Kg
棚畑遺跡第500号土坑
縄文時代中期
約5000年前
発掘当初から「縄文のビーナス」の愛称で親しまれている。
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◎国宝 「仮面の女神」
実物展示
高さ 34cm
重さ 2.7Kg
中ツ原遺跡第70号土坑
縄文時代後期
約4000年前
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「縄文のビーナス」は中が詰まった「中実土偶」ですが、「仮面の女神」は「中空土偶」です。
両脚や大きなおしり、胴体、両腕、ふくらんだおなかを別々に作り、それらをくっつけ合わせて作っていることがレントゲン撮影でわかりました。
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発見時の状況が再現されていた。
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【一般展示室】
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残念ながら時間が無くなり、駆け足で見た。

『深鉢』
棚畑遺跡
縄文時代中期
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『深鉢』
原村・富士見市徳久利遺跡
縄文時代中期
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女性を象徴した土偶がある一方で、男性を象徴したまつりの道具で「石棒」がある。
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館内の見学の後、隣の与助尾根に移動。
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【与助尾根遺跡復元住居】
与助尾根遺跡は尖石縄文考古館の隣にあり、宮坂英弌氏により昭和21年から27年にかけ、縄文時代中期の竪穴住居跡28か所が発掘されました。
このうち、ある時期に存在したとみられる縄文集落を復元してあります。
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竪穴住居に入ってみました。
入った当初は真っ暗ですが、眼が慣れてくると意外と見えるものです。
ストロボを焚いて映している。
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一部は、わざと修復せずに劣化の様子を見ているものがあった。
中で火を焚いて煙り)出せば、もっと持つと思うのだが、劣化は早い。
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予定時間になり、見学会は終了。
「もっと、ここに居たい」、「もっと時間が欲しい」という声が多かったのは、テーマ選択としては成功だったと、嬉しく思いました。
帰り路も、心配していたが混むことがなかったので、少し早めに到着したのでホッとした。


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青面金剛庚申塔/目黒区・五本木庚申塔群③

20181017

所在地:東京都目黒区五本木二丁目20番15号
撮影日:2018年1月16日

場所は、東急東横線祐天寺駅下車して7分ほど歩いたところにあり、幸いグーグルマップに載っているので、それを頼りに訪ねた。

小堂内に庚申塔4基、地蔵尊1基、堂前右手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申供養塔(文字)1基が建っています。
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庚申塔4基のうち、今回は右から三番目の③を紹介する。
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②は、磨滅が激しく六臂のうち四臂はまったくわからず銘文も消滅している状態なので、載せるのは省略した。

塔身は駒形。
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銘文は、右側に「貞享三丙寅年」、左側に「十月九日」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛
日月:浮彫、瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、髪火焔、岩の上に立つ
本手:合掌
他の手が持つ法具:索縄、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:貞享3年(1686)
高さ:89cm

日月瑞雲は浮彫りだが、簡素でほとんど筋彫状態。
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青面金剛全身
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髪火焔、表情は眉を吊り上げ忿怒形。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から索縄、弓、左側は上から三叉矛、矢。
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青面金剛は岩の上に立ち、その下に三猿が居る。右から、見ざる、言わざる、聞かざる。
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この庚申塔の特徴:
・髑髏、蛇、鶏、邪鬼は登場せず。
・手に持つ法具が、通常法輪のところに索縄を持っているのが変わっている。
・青面金剛は岩の上に立ち、その下に三猿が居る。


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諏訪高島城/諏訪地方の歴史探訪③

20181015

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮、本宮に参拝した後、近くの「おぎのや諏訪インター店」で昼食、お土産購入してから、高島城に到着しました。

高島城というのは、二か所あり、初期は茶臼山にあり、後期諏訪湖畔に築かれた。

ちょっと長くなりますが、諏訪家の歴史も含めて説明を記しておきます。

【高島城(茶臼山城)】
諏訪大社大祝であった諏訪氏が、この地方の武士団の統領として諏訪地方を切り取ります。
中世、諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城としたが、諏訪頼重の代に武田信玄に滅ぼされる。
諏訪氏の滅亡後、諏訪郡には武田家の譜代家老・板垣信方が現在の茅野市に所在する上原城に配置され、諏訪郡司となった。

天文17年(1548年)には上田原の戦いにおいて信方が戦死し、天文18年(1549年)正月には長坂虎房が諏訪城代となり、高島城へ入城した。『高白斎記』によれば、高島城は足軽大将の山本勘助により改修されたという。高島城の城代は虎房の後に吉田信生・市川昌房が務め、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで昌房が戦死すると、今福昌和が務める。高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。

【諏訪高島城】
諏訪家の血をひく武田勝頼が、織田・徳川連合軍により滅ぼされる。
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変の後、河尻秀隆は土民に殺され、諏訪大社大祝であった諏訪頼忠が諏訪一族を率いて高島城に入り、諏訪家を復興した。
徳川家康と北条氏直の和睦の結果、甲斐・信濃は徳川となり、諏訪家は徳川家に従うことになる。
このいきさつにより、諏訪家は江戸時代に譜代大名となる。
※譜代大名:関ヶ原合戦より前に徳川家の家臣であった大名

徳川家康の江戸入府の際、諏訪頼水は武蔵国奈良梨・羽生・蛭川一万二千石の大名となり、奈良梨に本拠を構えた。

このとき、諏訪は豊臣系の日根野高吉に下された。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。

1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、ずっと諏訪復帰を願い出ていた、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり、「高島藩」として明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。

寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

案内図
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団体で入城するため、真っ先に天守閣に入った。
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天守閣内は展示で一杯。
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日根野高吉像
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諏訪家の家紋も、当然諏訪大社の神紋「諏訪梶」と同じ。
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御枕屏風
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鎧など
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諏訪の主な城址
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天守閣からの諏訪湖
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諏訪湖と反対側の眺め
右手の森の向こう山麓に諏訪大社上社がある。
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冠木橋を見下ろす。
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天守閣を出て、周りを見ます。
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天守閣真下から
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藤棚の辺に本丸御殿があった。
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心字池から天守閣を
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冠木門を内から見る
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高島城の堀と石垣
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冠木門と冠木橋
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冠木橋からの天守閣
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冠木橋と天守閣
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隅櫓
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再び冠木橋から講演に戻る
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高島城は浮城とも云う
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諏訪護国神社
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ここにも御柱が立っていた。
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これで見学は終了。
続いて、尖石縄文考古館に向かった。


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諏訪大社上社本宮/諏訪地方の歴史探訪②

20181014

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮に参拝した後、バス10分ほどで本宮に到着。

これから掲載する写真ですが、皆さんを案内する立場上あまり写真を撮れなかったので、以前個人で参拝した時(2015年7月)の写真も利用して紹介します。
夏の季節の写真が混ざるので(笑)、ご容赦ください。

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。
古代の神社には社殿がなかったと言われ、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。
諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として、多くの人が参拝に訪れます。
鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもないが、我国最古の神社の一つに数えられています。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃國一之宮として信仰されていたことがわかります。
明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

全国に分布する分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされています。

境内図
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北参道側の大鳥居
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社号標
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○狛犬
下社秋宮の大狛犬の原型で、作者清水氏の好意に依り、大社ゆかりの方が昭和四十九年十月に奉納されたもの。
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手水舎
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○明神湯
往古より諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の温泉の源泉とも伝えられている。
ここでは、私は明神湯で手を浄めた。
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○五穀の種池
清祓池の脇の小さな石の池で、毎年春になると種粒を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っており、現在でも近郷農家の人々に親しまれています。
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○雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られ、相撲とは関係が深く、神社でも年々相撲神事が行をわれており、多くの力士も参拝しています。この像は信州が生んだ江戸時代の大力士雷電の等身大のもので、お諏訪さまに対して拝礼の誠を捧げている姿です。
茅野市出身の矢崎虎夫氏が、文部大臣賞受賞を記念して昭和41年10月に奉納されたもので、横綱柏戸関(鏡山親方)がモデルだそうです。
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○塀重門
石段の上の門で、文政12年(1829)のものです。
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塀重門から右にちょっと寄ったところから中に入ると、また手水盤があり。
向うに見えるのが参拝所。
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○御社殿
本宮の建物は「諏訪造り」の代表的なもので、一種独特の形式を備えています。
正面に拝殿と幣殿が並び、その奥には御本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿と山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
この本宮の昔の建物は極彩色で結構ずくめの社殿でしたが、天正十年(1582)に織田信長の軍勢の兵火の為灰塵に帰し、天正十二年(1584)諏訪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が作られ、更に年元和三年(1617)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建しましたが、この建物は、嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要して、二代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工原五左衛門親成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られ、殊に片拝殿の粟穂と鶉や笹に鶏の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つと言われ、又拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われています。

参拝所
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拝幣殿と左右に片拝殿
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幣殿
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片拝殿の粟穂と鶉の彫刻
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片拝殿の笹に鶏の彫刻
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ご祭神:建御名方神

神紋:諏訪梶
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諏訪大社の神紋は梶の棄で葉が三枚出ているので、三本梶とも言い、足の数をもって上下社の区別がをされ、上社は四本、下社は五本足になっています。また全国の御分社の大半は一本梶と言って、葉の部分のみで一本の社紋が使われています。

○勅願殿
昔は行事殿とも御祈祷所とも言って朝廷や諸侯の祈願を行った所とも伝えられます。現在の建物は元禄三年(1690)に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
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〇布橋
塀重門から外に出て、布橋を歩きます。この長廊は約70m、三十八間あり、明治維新迄は上社の大祝(おおほうり)のみ通った所でその時に布を敷いたことから布橋の名称が附いています。現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人連が自分の手で織り上げた布を持って釆て、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としております。
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○四脚門
二つの御宝殿の聞にある建物で、天正十年(1582)に兵変に依り焼失したものを慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
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〇硯石/諏訪七石
上社本宮の脇片拝殿の上方にある石が硯石と呼ばれ、この石の凹面は常に水を湛えているところからその名がついたそうです。
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○御宝殿(ごほうでん)
廊下の左側にある茅葺の建物で、本宮では一番大切な御殿です。二殿のうち左側を東御宝殿右側を西御宝殿と言い、御柱祭毎に交互に建替えをします。中にはお諏訪さまの御神輿をお納めしてあり、一般の神社の御本殿に相当します。この御宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
今は東宝殿に居られる。
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○大国主命社
遥拝所の隣の小さをお社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国さまをお祭りしている。
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布橋を渡り切ります。
○布橋入口御門
御門は文政十二年(1829)の建立で、地元の宮大工原五左衛門が棟領ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来ばえと称えられています。
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正門から入り直します。
まず神橋があり、鳥居がある。

神橋の手前右側に手水舎があり。
手水舎の建物は天保2年(1831)の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参りしました。諏訪大社の七不思講の一つに「元朝の蛙狩り」と言うのがあり。毎年正月元旦に行われる「蛙狩り神事」に、この御手洗川の神橋の上の一段高い所で氷を砕いて川底を堀り、二匹の赤蛙を捕え、神前で柳の弓を以って射通し、矢串のまゝお供えしますが、附近に川が少ない為か、どんなに寒い年でも蛙が取れ、七不思議の一つとされている。
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神橋
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神橋の上から
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○出早社
左手に、まずあるのが「出早社(いずはやしゃ)」
上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神「出早雄命」です。古くからイボ神様として敬まわれ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があります。
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○額殿
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた所で絵馬堂とも言います。戦前迄は廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。
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主な絵馬
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○摂末社遥拝所
額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、下の十三所で合計三十九杜の御名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あり、明治以後独立した関係摂末社迄合わせるとその数九十五社に及びます。上下四杜の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
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このような神名が掲げられているが、江戸時代故に「〇〇明神」というのがほとんど。
一部だけ掲載。
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布橋入り口の前から右に、神楽殿に通じる参道を行きます。
四本の御柱は、後でまとめて掲載。

「駒形屋」と「布橋」の間に大欅あり。
樹齢約千年。古くは贄(にえ)・御狩の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ。境内最古の樹木の一つである。
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布橋の前に、「ハートの灯篭」と有名な石灯篭あり。
享保20年(1735)造立
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これはハートではなく、「猪目(いのめ)」
これは日本古来から伝わる「猪目(いのめ)」という文様です。字のごとく「イノシシの目」を意味しています。そして「猪目」は古来より「魔除け」「火除け」のために使われているのです。
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○勅使殿と五間廊
布橋の右にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあります。朝廷から来られた勅使が着座をされたので、この名称が付いたと思われますが、色々な神事がこゝで行なわれました。低い方の建物は五間廊と言いますが、神長官以下の神職が着座したところだと伝えられ、勅使殿は元和年間(1620)頃、五間廊は安永2年(1773)に建てられたものですが、後に改築してあります。
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勅使殿
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五間廊
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○神楽殿
文政十年(1827)の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行なわれていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代のもので、直径が一米八十あり、当国随一の大きなものと言われ、唯今では元旦の朝だけ打つことにしております。
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○天流水舎
神楽殿前の屋根にエントツのようなものがついた建物で、俗にお天水と言います。どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜ると言われております。雨乞の折にこのお天水を青竹に頂いて帰り神事をすると必ず雨が降ると伝えられ、唯今でも近郷近県からの祈願があります。この時途中で休むとそこで雨
が降るので昔は若者達がリレー式に運んだそうです。又このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
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○高島神社
武田信玄によって、諏訪頼重が討たれ諏訪家は滅びたが、頼重の弟頼忠は諏訪大社大祝として残った。
本能寺の変が起こって世が乱れたのに乗じ、諏訪頼忠は高嶋城を奪い、諏訪家を再興する。
諏訪家は徳川家配下となり、譜代大名として小田原遠征後武蔵国奈良梨に1万2千石の大名に。
諏訪頼水の代に諏訪に2万7千石を与えられ、高島藩を立藩。維新まで存続した。
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御柱ですが、ここ上社本宮では、三と四の御柱は立ち入れない神域にあり、近寄れません。
なんとか場所を探して遠くから撮るのが精いっぱいでした。

○本宮一之御柱
塀重門下の石段の横にあり。
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○本宮二之御柱
布橋門の脇にあり。
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○本宮三之御柱
これが一番苦労しました。
御手洗川から中は神域で入れません。
隣接するお寺の境内から撮れました。
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○本宮四之御柱
勅願殿と宝物殿の間から、遠目に見ることになります。
ズームを効かせて撮りました。
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諏訪七石のうち三つが上社本宮境内にありますが、「硯石」は既に掲載。

○御沓石
一之御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つ「御沓石」。
真中のへこんだところが、お諏訪様のお沓の跡だとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。
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○蛙石
蓮池にあります。
手前の石。
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以上で本宮の参拝を終え、近くの「おぎのや諏訪インター店」で昼食、お土産購入してから、高島城に向かいました。


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諏訪大社上社前宮/諏訪地方の歴史探訪①

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10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。
順に紹介していきます。

中央高速道を順調に走って諏訪ICで降り、最初に訪ねたのが「諏訪大社上社前宮」です。

これから掲載する写真ですが、皆さんを案内する立場上あまり写真を撮れなかったので、以前個人で参拝した時(2015年7月)の写真を利用して紹介します。
夏の季節の写真が混ざるので、ご容赦ください。

この案内図を見ると、さすがに広いです。
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一の鳥居
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社号標
東郷平八郎の揮毫です。
式内社 信濃國諏方郡 南方刀美神社二座 名神大、信濃國一宮、旧官幣大社
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諏訪大社は、上社・下社に分かれており、本来、上社に建御名方神、下社に八坂刀賣神(后神)を祀っている。
また、上社には本宮と前宮、下社には秋宮と春宮があり、四社を総称して諏訪大社という。

上社と下社では、奉祀する神職の長が、上社では神別(祭神の子孫)、下社では皇別(皇族の子孫)とされている。

上社には御神体はなく、神別の大祝(おおほうり)、すなわち人間を神とする。八歳の童男をもって、大祝とし祀る。
大祝は職にある間、清浄を旨とし、郡外へ出ることも禁じられる。
前宮祭神は、現在八坂刀賣神とされているが、ミシャグジ神とする説もある。ミシャグジとは木や石に降り着く精霊・霊魂で、人にもつくらしい。あるいは、大祝をミシャグジ神としたのかもしれない。

前宮は、この大祝の住居神殿(ごうどの)があった場所。
十間廊で、上社神事のほとんどが行われる。

案内板
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諏訪信仰今年の春から「諏訪信仰」について調べ始めました。なかなかそこが深く、まだ生半可な知識しかありません。
ざっと諏訪大社と祭神の建御名方神についての概略は、以下のとおり。
『式内社調査報告』によると:
 古事記上巻国譲りの段に、天照大御神が出雲の大國主命を説得のため、建御雷・天鳥船二神差遣せらるゝ ことゝなり、(中略) 建御名方神の「州羽」、すなはち、諏訪鎮座の説話が記してあり、要点は、大国主神の御子神に、建御名方神なる勇猛な神がまし、建御雷神に敗れ、逃れて科野国諏訪の地に至り、此処に永く留まり給うたといふことである。
 日本書紀にも、出雲の国で行はれた国譲り説話が記され、 著名な伝承の一つと言へるが、日本書紀の国譲りの段には建御名方神の名はみえず、この説話に於ける同神の諏訪鎮座には疑問が残り、古来より、天孫出雲両系の間に起つた 国土避譲の事実の反映として、多くの解釈がなされてゐる。 すなはち、古代に於いて諏訪地方は、皇祖側に対する一大勢力をなし、建御名方神は、この諏訪族の祖神としてその勢力の代表者とされた。同神が、建御雷神に追ひつめられて永く諏訪に留ると誓つたといふ一段は、この文化現象を逆用的に国譲神話に持ち込んだものと考へられてゐる。
 これ以降、持統天皇皇紀五年辛卯の条に、
  八月辛酉、遣二使者一、祭二竜田風神、信濃国須波、水内神一
とあり、諏訪神が祭られたことが記され、初めて中央政府との関係を認める。以後、諏訪の地にて東国鎮撫に力を尽し、その拠点として注目され、発展していったものと考へられよう。

そして、いままで調べて私なりに整理したのが、下図です。
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まず、この地には「洩矢神」を奉じる先住民族が居り、それを出雲族が征服した。
関東でも、祭神が出雲系の神である神社が非常に多く、出雲族が多かったことがわかります。
そして、中央の大和政権と「手打ち」をして馬を手に入れ、信濃や関東を制覇したのではないかと思われます。

しかし、征服された「洩矢族」が神官の筆頭となっている(守矢家)ので、先住民族もやられっぱなしではなかった。そして神事のほとんどが洩矢族(狩猟民族)の祭りとして残ったと考えています。

私の大好きな保科正之を生んだ、高遠の保科家も「神氏」の一族だそうです。

一の鳥居を入ってすぐの右側に「溝上社」あり。
祭神の「高志奴奈河比賣命」は後で説明。
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「御手祓道」
御頭祭などの神事の際に使用された道の形跡を残している。
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「神原(ごうばら)」
県道から入って一段と高くなった処の広場一帯を言い、上社にとっては最も由緒の深い場所です。社伝によれば、諏訪大神が始めて御出現にをられたのがこの地だと伝えられています。
この神原一帯は上社の祭祀の中心地であり、御祭神の後喬で諏訪大神の神格を持った生き神、大祝(おおほうり 最高統轄者)の居館である神殿と、それに附属する数多くの重要な建物が軒をつらねていましたが、室町時代の中葉に大祝が居館を他に移したので、多くの神殿は消滅し、現在祭儀だけが残っています。
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手水舎
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「若御子社」
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「旧上社大祝の居館・神殿跡」
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二の鳥居
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二の鳥居前の狛犬
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二の鳥居をくぐって石段を上がる。
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「内御玉殿」
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「十 間 廊」
間口三間、奥行が十間あるところから名称が付いていますが、昔は神原廊とも言い、上社でも最大の神事である三月西の日の神事御頭祭(大立増神事、酉の祭)がこゝで行なわれました。当日は大祝以下の全神職が総出で奉仕し、鹿の頭七十五頭をはじめ、鳥獣魚類等独特のお供えものをし、諸郷の役人が参列しました。大祝のお使(神使)が神霊を奉じて、信濃国中に出発する為の大祭でした。この時の七十五頭の鹿頭の中に毎年必ず耳の裂けたものがあり高野の耳裂鹿と言い諏訪七不思議の一つに挙げられています。
 この御頭祭、明治以後は四月十五日に行なわれ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えてお神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行なっております。
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ここから200mほど登ったところに前宮本殿はあります。
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「諏訪照雲頼重の供養塔」
この人物は、武田信玄に討たれた頼重とは違う人物です。
狭山市を通っている「鎌倉街道」を、鎌倉幕府最後の執権・北条高塒の遺児「北条時行」を奉じて鎌倉に攻め上がります。日高市の「女影古戦場」はそのときの戦いがあったところ。
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「御室社」
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「前官本殿」
諏訪大神が最初に居を構えた地と言われ、高台で、豊富な水と日照が得られる良き地であり諏訪信仰発祥の地であります。現在の御殿は昭和七年に伊勢神宮の古材を以って建てられたものです。
 尚本殿の左後方の小高い所は諏訪大神の御神陵だと伝えられています。
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拝所と瑞垣の中に本殿があります。
拝所や瑞垣の隙間から、中に鎮座している本殿が見える。
本殿があるのは、上社の前宮、本宮、下社の春宮、秋宮の中で前宮だけです。
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祭神:
八坂刀賣神 (本地 千手観音)
御左口神(御社宮司神) 『諸神勧請段』『年内神事次第旧記』

神紋は「諏訪梶」
上社は根が4本、下社は根が5本である。
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本殿の周りに立っている「御柱」を見て回る。

本殿前から右に行って、「前宮一の御柱」
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時計回りの順に御柱は立っている。

「前宮二の御柱」
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三の御柱のちょっと下ったところから湧水が豊富に流れている。
名水「水眼」の清流。
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「前宮三の御柱」
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本殿の裏には、巨木がたくさんあった。
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「前宮四の御柱」
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本殿前にこのような表示が。
鎌倉道を探してみました。
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「平沢城址入り口」の案内の所を入っていくと、両方に「鎌倉道」の表示があり、この道だと判断しました。
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下に戻って摂社に参拝。

「子安社」
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祭神「高志沼河姫命」は、同じくここの境内社「溝上社」の祭神でもあります。
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。

『古事記』の「大国主神」の巻、「八千矛神の妻問い物語」の段です。
(読み下し文)
 この八千矛神、高志国の沼河比売を婚はむとして幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて、歌ひて日はく、

八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志国に 
賢し女(さかしめ)を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして 
さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 
いまだ解かずて 襲(おすひ)をも いまだ解かねば 嬢子(をとめ)の
寝(な)すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ 
わが立たせれば 青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 
庭つ鳥 鶏は鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ちやめこせね
いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば

とうたひたまひき。ここにその沼河比売、いまだ戸を開かずて、内より歌ひて日はく、

八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば わが心 浦渚(うらす)
の鳥ぞ 今こそは 我烏にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は 
な殺せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 
笑み栄え来て 𣑥綱(たくづの)の 白き 腕 沫雪(あわゆき)の 若
やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手 さし枕き 
股長に 寝はなさむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 
神の命 事の 語言も こをば

とうたひき。かれ、その夜は合はずて、明日の夜御合したまひき。

古代、諏訪盆地には日本海側からは姫川・犀川を遡り、また信濃川・犀川を遡り、太平洋側からは天竜川を遡り、また木曽川を遡ってと、色々なルートから入り込んできたと思われる。
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諏訪大社祭神と沼河姫命の関係から、諏訪大社大祝に納まった一族は姫川・犀川を遡ってきた出雲族と思われる。

以上で前宮の参拝を終え、続いて諏訪大社上社本宮に向かった。


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宗像大社辺津宮の青銅狛犬

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所在地:福岡県宗像市田島2331 宗像大社辺津宮神門前
参拝日:2018年7月19日

九州旅行の三日目、天草を朝出発し、狛犬中心に天草の神社に二社寄りながら熊本に出、熊本ICから九州自動車道に乗り、一路、宗像大社辺津宮を目指して来ました。
以前から宗像大社に参拝するのが夢だったので、感激しながらの参拝でした。
宗像大社辺津宮については、既に記事があります。

その記事を見る


宗像大社辺津宮の長い清らかな参道
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今回の狛犬は、神門の前に居ます。
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年代:文政7年(1824)
材質:青銅製
型式:神殿型

右側が阿形獅子、角あり。
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角は一本鋭いのが立っている。
耳は聞き耳を立てていて、眉は巻き毛が少しずつずれて流れていき、下がり気味。
眼は玉眼。大きな鼻の横に頬が盛り上がっている。
唇のたわみが強調され歯は四角い歯が並び、牙は鋭い。舌も少し吊り上がって活き活きとしている。
頬ヒゲは横に美しく流れ、アゴヒゲは、顎の両側に巻き毛が垂れ下がっている。
表情は、割とおだやか。こちらをジッと見つめている感じ。
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左が吽形獅子、角あり。
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角は一本鋭いのが立っている。
耳は聞き耳を立てていて、眉は巻き毛が少しずつずれて流れていき、下がり気味。
眼は玉眼。大きな鼻の横に頬が盛り上がっている。
唇は閉じているが四角い歯列は見せている。唇のたわみは実に大きい。牙もしっかり見せている。
頬ヒゲは横に美しく流れ、アゴヒゲは、顎の両側に巻き毛が垂れ下がっている。
表情は、割とおだやか。こちらをジッと見つめている感じ。
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タテガミは綺麗な巻き毛の連続で美しい。
前足は、筋肉が強調された締まった直立の足。
後足は蹲踞。筋肉が強調されている。
爪はしっかり大地を捉え、走り毛の表現が綺麗。
特に後足の走り毛は後ろに流れて立ち上がっていて、その豊かさは他に例を見ない流麗なもの。
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阿形のほうの後足に刻まれている文は、尾が盗難に遭ったので補作した旨が記されている。
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尾は、ものすごい数の巻き毛が重なって、炎状の尾が立っている。
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この狛犬は、本来神殿の中に置かれる木製の狛犬の形を青銅で作り、外に置かれたもの。
彫刻家が木に彫り、それを鋳込んだものなので、実に繊細で勢いがあり立派なもの。
神殿型は、阿形が獅子で吽形が狛犬となっているのが基本だが、この狛犬は江戸時代に製作されたものなので両方とも獅子のかたちになっている。
角が両方にあるという、珍しい形になっている。
青銅製のため、細部が繊細に作られていて、タテガミ、ヒゲ、走り毛などの体毛の表現が美しい。
神を守護しているのにふさわしい、穏やかな威厳ある表情で、すこぶる立派な狛犬だ。



狛犬の記事一覧を見る



沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)/日本の神々の話

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『古事記』では沼帯別命。『日本書紀』では鐸石別命と表記。

垂仁天皇の皇子として生まれる。母は渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)。
垂仁天皇の皇后である狭穂姫が兄狭穂彦の謀反に加担して自殺する時に,丹波道主の娘を妃にするよう進言しました。
鐸石別の母・渟葉田瓊入媛は、その丹波道主の娘です。
このとき丹波道主は5人の娘を全て垂仁天皇に贈りますが、渟葉田瓊入媛は第二妃として鐸石別(ぬて・しわけ)、胆香足姫(いかたらし)の2児を産みました。
因みに垂仁に贈った5人の娘とは、日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛です。
日葉酢媛(ひばす)は後皇后となり景行天皇や倭姫命らを産んでいます。

和気氏、山辺氏、稲城壬生(いなぎのみぶ)氏の祖とされる。
和気氏で有名なのは、道鏡事件で活躍し、戦前には紙幣の顔にもなられた和気清麻呂公です。

「別部の犬」という人物が、播磨国讃容郡(現在は佐用)の鹿庭山の付近から砂鉄を発見し、その子孫たちが初めて朝廷に奉ったという伝承があり、和気氏の根拠である備前国石生郷から銅鐸が出土していることから、和気氏は金属精錬に縁由をもつ氏族であり、その遠祖である鐸石別命も銅鐸と無縁ではないと思われる、との情報があります。
鐸石別の曾孫に弟彦王がおり、神功皇后の三韓征伐凱旋帰国時に忍熊王の反逆を播磨で鎮圧しました。
弟彦王はこの勲功によって、その地を賜り、和気氏として備前・美作を根拠地として栄えた。

和気清麻呂が関係した「道鏡事件」については、下記WIKIPEDIAを参照ください。

その記事を読む




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季節の花/蕎麦、イヌサフラン、秋明菊(白)

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【蕎麦】
撮影場所:狭山市智光山公園横
撮影日:2018年10月5日

学名 Fagopyrum esculentum)は、タデ科ソバ属の一年草。一般に穀物は、イネ科(単子葉類)であるのに対して、ソバはタデ科、つまり双子葉類である。このようにイネ科以外の穀類として、アマランサス(ヒユ科)、キヌア(アカザ科)等があり、これらは擬穀類とよばれる。日本では主に種子を製粉して蕎麦粉として利用し、それを用いた麺(蕎麦)や蕎麦掻等を食用にする。
草丈は60-130cmで、茎の先端に総状花序を出し、6mmほどの花を多数つける。花の色は白、淡紅、赤、茎の色は緑、淡紅、濃紅で、鶏糞肥料のような臭いを放つ。果実の果皮色は黒、茶褐色、銀色である。主に実を食用にする。
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【イヌサフラン】
撮影場所:狭山市緑化植物園
撮影日:2018年10月5日

イヌサフラン Colchicum autumnale はイヌサフラン科の植物である。かつてはユリ科に分類されていた。ヨーロッパ中南部から北アフリカ原産。種小名 autumnale〈秋の〉の通り、秋に花が咲く。なお名前に「サフラン」と付き見た目も良く似ているが、アヤメ科のサフランとは全く別の植物である。
私は「コルチカム」だと思って近寄ったが、「イヌサフラン」と表示してあり混乱した。
イヌサフランを園芸用に品種改良したものをコルチカム(コルヒカム、コルキカムとも)というそうだ。
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【秋明菊(白) シュウメイギク】
撮影場所:東京都皇居
撮影日:2011年10月21日

学名:Anemone hupehensis var. japonica)とは、キンポウゲ科の植物の一種。別名、キブネギク(貴船菊)。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。
中国から古い時代に入ってきた帰化植物である。文献上では「花壇綱目」に「秋明菊」の名前で記載が成れていて、日本に定着していたことが窺える。
中国では明代末の「本草綱目」には記載はなく「三才図会」に「秋牡丹」の名前で記載されるようになる。「秋牡丹」の呼称は貝原益軒も「大和本草」で使用している。以後日本の園芸書には「秋明菊」「秋牡丹」で紹介されることが多くなり、「しめ菊」「紫衣菊」「加賀菊」「越前菊」「貴船菊」「唐菊」「高麗菊」「秋芍薬」などの多様な別名で呼ばれることになった。
花色は赤紫色であるが、近年、他種との交配品種が市販されるようになり、弁数が少ない品種や白色の品種が多く栽培されて名称の混乱が見られる。
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青面金剛庚申塔/目黒区・五本木庚申塔群①

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所在地:東京都目黒区五本木二丁目20番15号
撮影日:2018年1月16日

場所は、東急東横線祐天寺駅下車して7分ほど歩いたところにあり、幸いグーグルマップに載っているので、それを頼りに訪ねた。

小堂内に庚申塔4基、地蔵尊1基、堂前右手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申供養塔(文字)1基が建っています。
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庚申塔4基のうち、今回は一番右側の①を紹介する。
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塔身は駒形。
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銘文は、頭部周囲に「奉納 庚申 供養」、鶏の右側に「文化七歳」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面八臂青面金剛
日月:浮彫、瑞雲付き
主尊の特徴:一面八臂、髪火焔、頭に蛇
本手:剣とショケラ
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、鉾、索縄、手持鐘?
脇侍:二邪鬼、二鶏、三猿
造立年代:文化7年(1810)
高さ:92cm

日月は浮彫り、瑞雲が長い。
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青面金剛全身
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髪火焔、頭に蛇、表情は眉を吊り上げ忿怒形。
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本手は剣とショケラ。剣は破損している。ショケラは着物を着た子供みたいな女性。
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通常六臂なのに対し、これは八臂なので法具が多い。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、中が弓、下が索縄。
左側は上が鉾、中が矢、下は手持鐘であろう。
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青面金剛はそれぞれの足で左向きの邪鬼二匹を踏んで立ち、左右に鶏が居る。
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その下に三猿が居る。右から、言わざる、見ざる、聞かざる。
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この庚申塔の特徴:
・ほとんどの青面金剛が六臂なのに対し、これは八臂である。よって手に持つ法具が二つ増え、索縄と手持鐘が増えている。手持鐘が珍しい。
・青面金剛が夫々の足で二匹の邪鬼を踏んでいる。



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天草・登立天満宮の出雲型狛犬

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所在地: 熊本県上天草市大矢野町登立8742−1 登立天満宮 一の鳥居
参拝日:2018年7月19日

九州旅行の三日目の朝、娘の暮らす天草下島を出発、食場(じきば)神社に参拝してから、天草上島を経て、大矢野島まで来て、登立(のぼりたて)天満宮に寄りました。
ここに、珍しくも出雲型の狛犬が居ると知ったので。

登立天満宮については、既に記事があります。

その記事を見る


今回の狛犬は、道路から最初の石段を上がった一の鳥居に居ます。
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年代:明治35年(1902)奉納
材質:石造
型式:出雲・構え型

右側が阿形。巻き毛のたてがみが横に長く流れており、獅子。角あり。
前足を伏せ、尻を高くかかげている。後足が異常に長いので背中が垂直に近い。
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顔を水平にもたげて、背中が垂直に近く反っているので、角が当たりそうになっている。
耳は後ろに伸び、太い眉が横に流れ、眼は怒っている。
鼻が高い。
ワニのような口が大きく裂け、口を心もち開けて、尖った乱食い歯が実に迫力ある。牙もしっかりある。
尖った房状の顎鬚(あごひげ)が並んで居る。
今にも跳びかかってきて、噛みつかれそうな迫力だ。
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左側が吽形。巻き毛のたてがみが横に長く流れており、獅子。角あり。
前足を伏せ、尻を高くかかげている。後足が異常に長いので背中が垂直に近い。
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顔を水平にもたげて、背中が垂直に近く反っているので、角が当たりそうになっている。
耳は後ろに伸び、太い眉が横に流れ、眼は怒っている。
鼻が高い。
ワニのように口が大きく、口を閉じているが、尖った乱食い歯をむき出している。
尖った房状の顎鬚(あごひげ)が並んで居る。
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前足を伏せ、尻を高くかかげている。後足が異常に長いので背中が垂直に近い。
体毛の表現はほとんど無く、背筋に一列たてがみと、前足と後足にわずかに走り毛の表現があるくらい。
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尾の形が阿吽で異なり、性別の表現もある。
阿形
尾は吽形に比べると小さくて、欠落しているんじゃないかと思う。
立派なオスのシンボルがある。
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吽形
尾は、巻き毛が二段にあり、そこから大きな炎が二本立ち上がっている。
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この狛犬の特徴は、「出雲・構え型」であること。
この地が、昔から出雲地方と海運でつながりがあったのだろう。
島根地方の「出雲・構え型」と比較すると、この狛犬はワニのような荒々しい顔が特徴。
両方に角があるのも珍しい。
雌雄の表現も、実におおらかにされている。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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