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60万アクセス

20190130

今日は、一日用事で外出していて、帰ってきて夕食食べて、
風呂から上がって、PC立ち上げたら、

累積アクセス数が60万を越えていました。

そんなにアクセスされない、のんびりやっているブログなので、
単に長い期間続いているという意味でしかないですが、
この数には嬉しくなります(笑)

これからも、のんびりと倦まず弛まず、こつこつやっていきますので、
よろしくお願いします。  
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「化石探検隊」に参加

20190129

1月19日(土)に実施された、市博物館主催の催しに参加しました。
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アケボノゾウの化石やメタセコイアの株化石が発見されている入間川の河床で、化石を探してみようという企画です。

場所は、仏子駅近くの「なかばし橋脚下」から「笹井ダム」までの入間川河原でした。
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活動したポイント①とポイント②は、地層でいえばこの地層にあたります。
150~70万年前の地層です。
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ちなみに、狭山市関係の地層はこのようになっている。
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仏子駅前に集合
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「なかばし」を渡る。
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河原に降ります。
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説明を聞く。
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冬季なので、このように河床が顔を出しているので、ここで化石を探す。
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木の化石が顔を出している。
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木材の化石です。
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河原を下流に向けて歩いて行く。
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河原は仏子層で、岸は沖積層。
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この辺では、面白い石がないかと探した。
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この対岸の崖から、あけぼの象の牙が見つかったそうです。
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礫層が沈下したのか、入間川の川底がえぐれていたのか?
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河原が葦の藪になっているので、一旦上に上がります。
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この辺は茶畑と住宅が混在している。
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「山王塚」の近くから、さっき居た「なかばし」下流を振り返る。
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コンビニでトイレ休憩してから再び歩き出し、水神宮まできました。
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そこから少し上流を眺めると、入間川が大きくカーブしているところが見える。
あの護岸工事で、「あけぼの象」の骨格化石が発見された。
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笹井ダムが見えて来た。
上流からの眺め。
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笹井ダムの横の公園には、メタセコイアが植えてある。
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笹井ダム
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ダム直下の河原に降りる。
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化石を探します。
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クルミの実の化石発見!!
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木の実の化石発見!
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メタセコイアの株化石があり。
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「楽しかったねえ」と語り合いながら、バス停「グリーンハイツ」まで歩いた。
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やはり、そんなに簡単に化石は発見できないのだが、樹や葉の化石はゲットできた。
宝さがしは、やはりワクワクして楽しかった。
最近、地球の歴史にハマっているので、150万年前の地層を掘り起こしているだけで、楽しかった。



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布忍富鳥鳴海神(ぬのしとみとりなるみのかみ)/日本の神々の話

20190128

『古事記』にしか登場しない。

「大国主神」の巻、「大国主神の神裔」の段
(前略)
大国主神が、八嶋牟遅神(やしまむぢのかみ)の神の娘の鳥耳神(とりみみのかみ)を娶り生んだ御子は、鳥鳴海神(とりなるみのかみ)です。
この鳥鳴海神(とりなるみのかみ)が、日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちをいこちにのかみ)を娶り生んだ御子は、国忍富神(くにおしとみのかみ)です。
この国忍富神(くにおしとみのかみ)が、葦那陀迦神(あしなだかのかみ)またの名は八河江比売(やがはえひめ)を娶り生んだ御子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神(はやみかのたけさはやじぬみのかみ)です。
この神が、天之甕主神(あめのみかぬしのかみ)の娘の前玉比売(さきたまひめ)を娶り生んだ御子は、甕主日子神(みかぬしひこのかみ)です。
この甕主日子神(みかぬしひこのかみ)が、淤加美神(おかみのかみ)の娘の比那良志毘売(ひならしびめ)を娶り生んだ御子は、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみのかみ)です。
この多比理岐志麻流美(たひりきしまるみのかみ)が、比比羅木之其花麻豆美神(ひひらぎのそのはなまづみのかみ)の娘の活玉前玉比売神(いくたまさきたまひめのかみ)を娶り生んだ御子は、美呂浪神(みろなみのかみ)です。
この美呂浪神(みろなみのかみ)が、敷山主神(しきやまぬしのかみ)の娘の青沼馬沼押比売(あをぬうまぬおしひめ)を娶り生んだ御子は、布忍富鳥鳴海神(ぬのおしとみとりなるみのかみ)です。
この布忍富鳥鳴海神(ぬのおしとみとりなるみのかみ)が、若尽女神(わかつくしめのかみ)を娶り生んだ御子は、天日腹大科度美神(あめのひばらのおおしなどみのかみ)です。
この天日腹大科度美神が、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)の娘の遠津待根神(とおつまちねのかみ)を娶り生んだ御子は、遠津山岬多良斯神(とほつやまさきたらしのかみ)です。

つまり、布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミ神)は大国主(オオクニヌシ)の子孫の一人。
父親は美呂浪神(ミロナミ神)で、母親は青沼馬沼押比売(アオヌウマヌオシヒメ)。
妻が若尽女神(ワカツクシヒメ神)。
子供が天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミ神)。

日本人は異界から神がやってきて、それは田畑に宿って穀物が育つと考えていました。
どうやって異界からやってくるのかというと、「鳥に乗って」と考えていた地域がありました。出雲の神話に「鳥」が頻出するのはその辺りが関係しているわけです。
布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミ神)の「トリナルミ」はおそらく、海を越えて渡り鳥が穀物霊を連れてくることを神格化した名前。

また、敷山主神⇒青沼馬沼押比売⇒布忍富鳥鳴海神をみると、山⇒沼⇒海となっていて、上から下への流れを描いていることも注目したい。



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青面金剛庚申塔/世田谷区・医王寺③

20190126

所在地:東京都世田谷区深沢6-14-2 医王寺門前
撮影日:2018年11月12日

田園都市線用賀駅から歩いて、日体大の前を経由して30分で医王寺に着いた。路線バスはあったのだが、この辺に来たのは初めてだったので、歩いた。

この門から入って行ったが、境内の改修工事が始まった感じで雑然としていた。
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境内を探して歩いたら、現在は鉄柵が閉まっているが、かっては正門だったらしいところに三基の庚申塔があった。
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この門に向かって右側の隅に2基、左側の隅に一基、庚申塔が置かれていた。
今回は、左側隅のもの。

塔身は駒形。
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銘文は、右側面に「庚申講中」、左側に「天明五年乙巳九月」と刻まれている。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り
主尊の特徴:一面六臂、三眼、邪鬼を踏んで立つ。
本手:索縄とショケラ
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:天明5年(1785)
高さ:103cm

日月は浮彫り、瑞雲は無し。
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青面金剛全身
邪鬼を踏んで立つ。
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頭にはグルグルッと蛇が巻き付き、顔は削られているが三眼だとわかる。
表情はわからない。
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本手は索縄とショケラ。
ショケラは通常「半裸の女人」だが、この場合は「着物を着た女人」。
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他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓。左側は上から三叉矛、矢。
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青面金剛に踏まれている邪鬼は、顔の下で両手を結んでいる。フンドシである。
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岩に刻まれた三猿は、台石にはめ込まれたために下半身が隠れてしまっている。
右から「見ざる、聞かざる、言わざる、」である。
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この庚申塔の特徴は:
・日月が、瑞雲が付いていなくてシンプル。
・本手が通常の「剣とショケラ」ではなくて「索縄とショケラ」。


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品川・寄木神社のカッパ狛犬

20190124

所在地:東京都品川区東品川1-35-8 寄木神社参道
撮影日:2017年6月18日

寄木神社については、品川天王祭りの際に参拝した記事がある。

その記事を見る


それは、2015年6月7日のことだったが、その日は祭礼で三組ある狛犬の写真を思うように撮れず、再度2017年に撮ったものである。

参道に手前から昭和63年の青銅狛犬、文政11年のカッパ狛犬、大正2年の狛犬と三組の狛犬が並んで居る。
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今回は、文政11年のカッパ狛犬である。
この狛犬は、両方とも頭に大きな皿があり、当時この神社は海に面していて、海苔漁をするときに灯明を灯して場所がわかるようにした、という伝承がある。

年代:文政11年(1828)
材質:石造
型式:カッパ型

右側の阿形獅子。蹲踞している。
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口を開いており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは下に流れて前足にかかっている。
耳を伏せ、目はまん丸。眉は横に一文字でちょっと吊り上がっている。
顎鬚は控えめ。
口が大きく上下の唇が厚い。歯はあまりわからない。牙は確認できる程度。
丸っこい顔で、表情は厳めしいが、人懐かしい顔だ。
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頭に大きな皿があり、海苔漁をするときに灯明を灯したという伝承がある。
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左側の吽形獅子。蹲踞している。
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口を閉じており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは下に流れて前足にかかっている。
耳を伏せ、目はまん丸。眉は横に一文字でちょっと吊り上がっている。
顎鬚は控えめ。
鼻がつぶれて、口は大きいが輪郭がよくわからない。
丸っこい顔で、表情は厳めしいが、人懐かしい顔だ。
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こちらも頭に大きな皿がある。
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前足は直立、後足は蹲踞。脚は短いが爪は大きい。前足の走り毛は全長にわたり立派。その他の体毛の表現はない。
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尾は立っていて、下に8つの巻き毛あり、そこから何本もの炎が立ちあがっている。
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年代は文政11年(1828)。
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こういう、頭が皿になっている狛犬は他の場所でも見るが、当時この神社は海に面していて、海苔漁をするときに灯明を灯して場所がわかるようにした、という伝承があるのがいい。
小型で可愛らしい狛犬である。



狛犬の記事一覧を見る



ほるたま考古学セミナー/スポーツと考古学

20190122

1月12日に熊谷市立文化センターで開催された、埼玉県埋蔵文化財調査事業団が主催した掲題のセミナーを聴いてきました。
これは、今年熊谷も会場となるラグビーワールドカップ、来年はオリンピック・パラリンピックが東京で開催されるので、弓道、馬術、登山、カヌー、相撲を題材として考古学を考える、という面白い企画でした。
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10:30から15:30まで、昼食をはさんで受けましたが、夫々のテーマの説明された項目と、それに私の今までの経験、データを加えて記事としました。

【弓で矢を射る】
紹介されていたのは、東松山市の反町遺跡で発見された弓射の痕跡。

出土した須恵器
「神矢」と墨書された椀
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「弓」と墨書された坏
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「狩股鏃」の出土
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9世紀中葉から後半代、在地首長である郡司(反町遺跡の所在する東松山市は古代の比企郡に含まれる)一族により主宰された「田猟」の伝統に基づく狩猟儀礼であったと解釈される。

弓射と神事では、立って行う「歩射(かちゆみ)」と馬に乗って行う「騎射(うまゆみ)」に大別される。
的を射る前に、必ず天地四方を射るが、これは悪魔・疫鬼退散のお祓いをする。
これは川越流鏑馬の際の「天地人三才の儀」。
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的を射るのは、五穀豊穣や破魔除災を祈念する年占である。

歩射では、2月7日に行われる大宮氷川神社の「的神事」がある。
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騎射では、川越流鏑馬を見たことがある。
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現在の弓道では、昨年4月に大宮氷川神社の「花しずめの舞」を見に行ったときに、境内で埼玉県の高校弓道部の大会が行われていて、間近に弓道の試合を見ることが出来た。
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【人馬一体】
出土する馬具の検討から、日本列島への騎馬文化の組織的な伝播は、古墳時代中期と考えられている。

ヤマト王権が確立したのは、鉄と馬によるものだと思うが、東国の首長にとっても馬を手に入れることは強大なメリットであったに違いない。

私には、「さきたま古墳群」の稲荷山古墳や将軍山古墳から出土した馬具が親しい。
当初は朝鮮半島から持ち込まれた馬具だが、後半になると国産の馬具が確認されている。

旗差し器具の「蛇行状鉄器」(将軍山古墳)
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馬の冑(将軍山古墳)
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権力者にとって大きな視覚的効果を生む動物として、神事や儀式での馬の利用があった。
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これは「かみつけの里博物館」で見た、馬の埴輪。
馬具の様子がよくわかる。
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【縄文人、海へ山へ】
〇トレッキング
雁坂峠を越えて、秩父盆地と甲府盆地の縄文人が交易や和合を行っていたことが、秩父盆地の薬師堂遺跡と甲府盆地の釈迦堂遺跡からの出土品からわかっている。
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縄文人には多いとのことだが、秩父の妙音寺遺洞穴に葬られていた縄文早期中葉の人骨は、登坂に要する太ももなどの筋肉が発達したため、足骨の断面が現代人と違っているそうである。

〇カヌー
さいたま市「大木戸遺跡」で、丸木舟が出土している。
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ここでは、小川町の緑泥石片岩の「下里石」が出ているが、これは川を使って運ばれたと考えられている。
また、縄文時代の埼玉は海が深く入り込んでいたので、往来や漁に使われたと思われる。

所沢市の遺跡では、神津島の黒曜石が出土しているので、神津島と本土を縄文人が丸木舟で航海していたことがわかっている。

2017年9月に富山県小矢部市の桜町遺跡を訪ねたときに、ヒスイの石斧が2個展示してあったが、糸魚川からヒスイは丸木舟でやってきたと想定されている。
それで、現在の小矢部の人たちが、石斧で丸木舟を作り、糸魚川まで3日かけて航海をしてみたというのだ。
これには興奮した。
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【相撲人の誕生】
〇埼玉の古代相撲人
武蔵に定住した高句麗系渡来人の子孫に「高麗福信」という人物がいる。
『続日本紀』によると、叔父に連れられて都に上り、ある日仲間と共に出掛けた折、夕暮れに石上の四つ辻で相撲に参加したところ、ことごとく相手に勝利した。
その噂は天皇の内裏にまで聞こえて、聖武天皇に目をかけられて出世し、「高麗朝臣」という日本の姓も賜った。

〇古代史の相撲人
有名なのは、『日本書紀』に記されている蹴速と能美宿禰が垂仁天皇の前で相撲を取り、能美宿禰が勝ち天皇に仕えて、のちに埴輪を発明して歴史に名を残している。
相撲をとった場所は、奈良県桜井市大字穴師であるが、そこは「相撲神社」になっている。
2017年3月に訪ねた。
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〇発掘された相撲人(埴輪)
全国31の遺跡で、力士の埴輪が発掘されている。
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昨年群馬県高崎市保渡田古墳群・八幡塚古墳で、それを見た。
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饗宴をしている傍に居る。
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各地での発掘状態から、屋内で饗宴が行われているときに屋外で相撲がとられていたようである。

保渡田古墳群・八幡塚古墳で発掘されたものは、かみつけの里博物館に展示されている。
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全国の力士埴輪に共通の特徴として、髪が「扁平髷」であること。
横に扁平な板状となっている。
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「スポーツと考古学」というテーマには、ちょっと馴染めない感じがあったが、チラシの内容から弓、馬とか相撲を取り上げることがわかったので、参加してみたらすごく面白かった。
今までいろいろな遺跡を廻って見て来たデータが、今回のテーマでまとまったものがあり、有意義だった。



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吒枳尼天(だきにてん)/日本の神々の話

20190120

私の住んでいる市に稲荷山公園があり、西武池袋線の駅名にもなっている。
当然「稲荷山」の名のもとになっているお稲荷さんがある。
その稲荷神社に、この地域の史跡めぐりで参拝したところ、「豊川吒枳尼眞天」という幟があった。
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市の『社寺誌』によれば、この神社の祭神は「豊宇気毘売命」となっているので、アッと思った。
おそらく、この稲荷神社は豊川稲荷を勧請したものだろう。明治の神仏分離令があり、稲荷神社の祭神としては当たり障りのない神名を神社本庁には届けたものとみられる。
そういう例はたくさんあって、祇園祭はもともとは「牛頭天王」を鎮めるための祭りだが、明治の神仏分離令以後は京都の八坂神社でも祭神は「素戔嗚尊」になり、狭山市でも八雲神社と社名も変え祭神を「素戔嗚尊」にしている。八雲神社の祭礼が「入間川の天王さま」となっているのはそれによる。

吒枳尼天は仏教の神(天)。インドのヒンドゥー教の女鬼(半女神)に由来する。
梵語のダーキニー(skt:Ḍākiṇī)を音訳したものである。また、荼枳尼展、荼吉尼天、吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。一般に白狐に乗る天女の姿で表され、剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。
荼枳尼”天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では”天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族をさす名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになる。稲荷信仰と習合し、今日、寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とする。

伝来:
平安初期に空海により伝えられた真言密教では、荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている。半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿であるが、後の閻魔天曼荼羅では薬袋らしき皮の小袋を持つようになる。さらに時代が下ると、その形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼”天”と呼ばれるようになる。また、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)、貴狐天王(きこてんのう)とも呼ばれる。

中世:
中世になると、天皇の即位灌頂において荼枳尼天の真言を唱えるようになり、この儀礼で金と銀の荼枳尼天(辰狐)の像を左右に祀るという文献も存在する。また、平清盛や後醍醐天皇の護持僧・文観などが荼枳尼天の修法を行っていたといわれ、『源平盛衰記』には清盛が狩りの途中で荼枳尼天(貴狐天王)と出会い、この修法を行うか迷う場面が記されている。ただし、『源平盛衰記』はあくまでも後世に書かれた文学作品であり、清盛が実際に荼枳尼天の修法を行っていたとする根拠はない。
この尊天は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もしその約束を破ると、その修法を止めた途端に没落する、あるいは災禍がもたらされるとも考えられていた。したがって、これは外法として考えられることもある忌まれる信仰でもあった。荼枳尼天の修法を外法と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人の有けるに」との記述がある。

習合:
狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。なお、狐と荼枳尼の結びつきは既に中国において見られるが、狐(野干)に乗る荼枳尼天の像というのは中世の日本で生み出された姿であり、インド・中国撰述の密教経典・儀軌には存在しないものである。
近世になると荼枳尼天は、伏見稲荷本願所(愛染寺)、豊川稲荷(妙厳寺)、最上稲荷(妙教寺)、王子稲荷(別当 金輪寺)のように、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰される。俗に荼枳尼天は人を選ばないといわれ、誰でも願望を成就させると信じられたため、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めた。

明治政府が成立すると神仏分離政策を受け、それまで全国の寺社に荼枳尼天を勧請していた愛染寺は廃寺となり、伏見稲荷で荼枳尼天を祭祀することは途絶えた。また荼枳尼天を祀っていた稲荷社も多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となった。しかし豊川稲荷や最上稲荷など神仏分離を免れた寺院もあり、その後は一度廃れた鎮守稲荷を復興したり、新たに勧請する寺院も現れ、現在にいたっている。
なお豊川稲荷では荼枳尼天を祈祷の本尊として大般若経転読が、最上稲荷では同じく]木剣加持が行われているが、これは中世に外法と呼ばれた修法とは全く別のものである。


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青面金剛庚申塔/世田谷区・医王寺②

20190118

所在地:東京都世田谷区深沢6-14-2 医王寺門前
撮影日:2018年11月12日

田園都市線用賀駅から歩いて、日体大の前を経由して30分で医王寺に着いた。路線バスはあったのだが、この辺に来たのは初めてだったので、歩いた。

この門から入って行ったが、境内の改修工事が始まった感じで雑然としていた。
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境内を探して歩いたら、現在は鉄柵が閉まっているが、かっては正門だったらしいところに三基の庚申塔があった。
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この門に向かって右側の隅に2基、左側の隅に一基、庚申塔が置かれていた。
今回は、右側に二基あるうちの左側のもの。

塔身は駒形。
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銘文は、右側に「延宝八庚申天」、左側に「十一月五日」と刻まれている。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り
主尊の特徴:一面六臂、三眼、岩の上に立つ。
本手:剣と索縄
他の手が持つ法具:矢、三叉矛、弓、法輪
脇侍:三猿
造立年代:延宝8年(1680)
高さ:118cm

日月は浮彫り、瑞雲は無し。
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青面金剛全身
岩の上に立つ。
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顔は三眼、どちらかといえば慈悲顔。耳が大きい。
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持っている法具が通常とは異なる。
本手は剣と索縄。
通常は、片方が剣なら、もう片方はショケラ。
他の手が持つ法具は、通常と上下左右が逆で、
右側が上から矢、三叉矛。左側は上から弓、法輪。
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岩の下に刻まれた三猿は、まだそんなに風化していなくて、
右から「見ざる、聞かざる、言わざる、」だと、はっきりわかる。
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この庚申塔の特徴は:
・日月が、瑞雲が付いていなくてシンプル。
・本手が通常の「剣とショケラ」ではなくて「剣と索縄」。
・他の4手が、持っているのは通常の法具だが、位置が上下左右逆になっている。
・三猿の手がしっかり残っていて、「見ざる、聞かざる、言わざる、」だと、はっきりわかる。



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南房総市・莫越山(なこしやま)神社の狛犬

20190117

所在地: 千葉県南房総市宮下27 莫越山神社参道
撮影日:2016年1月29日

莫越山神社については、既に記事があります。

その記事を見る


拝殿前の参道に、今回の狛犬は居ます。
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狛犬の情報は表示がありました。
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年代:文政10年(1827)
材質:石造
型式:江戸流れ尾型

右側の阿形獅子。蹲踞している。
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口をわずかに開いており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみが背中半ばまで綺麗に流れている。
耳を伏せ、目はまん丸。眉は巻き毛が横に並び、頬の横から鬚が横に流れている。
上下の唇が厚い。口をわずかに開き、乱杭歯をむき出している。牙はわからない。
どこも丸っこい顔だが、表情は厳めしくにらんでいる。
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左側の吽形獅子。蹲踞している。
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口を閉じており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみが背中半ばまで綺麗に流れている。
耳を伏せ、目はまん丸。眉は巻き毛が横に並び、頬の横から鬚が横に流れている。
上下の唇が厚い。口を閉じて歯をむき出している。牙は小さい。
どこも丸っこい顔だが、表情は厳めしく、こちらをじーっとにらんでいる。
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太い前足をわずかに前に出し、後足は蹲踞。爪は大きい。前足は太く、動体も太いので頑丈な感じ。体毛の表現はあまりない。
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尾は、後ろから撮ってないので、横に綺麗に流れているしかわからない。
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この狛犬は、江戸流れ尾型。
表情は厳めしいが、どこも丸っこい感じで、身体は頑丈そうに見え、いかにも獅子らしい。
ただ、苔の付着がすごくて、老いた獅子の感じになってしまっている。
風格は出ているが。



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季節の花/蝋梅

20190117

撮影地:東京都港区六本木毛利庭園
撮影日:2019年1月16日

昨日、歴史クラブ「江戸再発見グループ」の「麻布・六本木の史跡散策」の下見で、
六本木ヒルズ、テレビ朝日の横の毛利庭園に寄ったら、早くもロウバイが咲いていて、驚きました。
やはり東京は暖かいですね。
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浅草名所七福神めぐり

20190114

今年も、歴史クラブ行事で7日に回りました。
今年は「武蔵野吉祥七福神めぐり」です。
コースは、銀座線稲荷駅⇒①矢先稲荷神社《福禄寿》⇒②浅草寺《大黒天》・③浅草神社《恵比須》⇒(昼食)⇒④待乳山聖天《毘沙門天》⇒⑤今戸神社《福禄寿》⇒⑥橋場不動尊《布袋尊》⇒⑦石浜神社《寿老神》⇒⑧吉原神社《弁財天》⇒⑨鷲神社《寿老人》⇒日比谷線入谷駅⇒帰途
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地下鉄銀座線の「稲荷町」駅から歩きはじめます。
矢先稲荷前の道はスカイツリーを見通せる道だった。
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【矢先稲荷神社《福禄寿》】
ご祭神:倉稲魂命
1642(寛永19)年12月23日に弓師備後は幕府から6200坪余りの土地を拝領し、当地に京都のそれを模して浅草三十三間堂を建立した。 当社はこの三十三間堂の鎮守として稲荷大明神を奉斎したのを創建とし、その神像は、寛永寺の天海僧正により寄進された。 京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。
ところが1698(元禄11)年9月6日、世にいう「勅額火事」が起こり、当社は三十三間堂とともに焼失してしまう。
この後三十三間堂は深川への移転を命ぜられたが、当社は付近の町民の懇願により当地の産土神として残り、三十三間堂(弓矢の練成道場)の的場に隣接していたのにちなみ、矢先稲荷神社と称されるようになった。
1945(昭和20)年3月9日の空襲では神輿庫を残し焼失する。
戦後早々に仮殿にて復興後、1960(昭和35)年11月9日にはRC造の現社殿が再建された。
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《福禄寿》
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拝殿の天井絵馬がすごかった。
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和気清麻呂、坂上田村麻呂
神武天皇、神功皇后
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巴御前、畠山重忠
平貞盛、源頼光
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佐々木高綱、新田義貞
那須与一、源頼朝
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浅草寺に向かい河童橋の道具街を歩いていると、三河万歳ならぬ曲芸で新春を祝っていた。
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【浅草寺《大黒天》】
浅草寺は、影向堂内に大黒天が置かれていた。
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しかし、撮影禁止。

影向堂の前に色々な境内社が並んで居るが、その一つに「恵比須・大黒天堂」があり、その説明を読むと「七福神の神として信仰を集めている」とある。しかも弘法大師空海作と伝えられているとのこと。
こちらのほうが、よっぽどありがたい。
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細かな金網が張ってあり撮りにくく、その上風化が激しい。

大黒天
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恵比寿様
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【浅草神社《恵比須》】
ご祭神:土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命
続いて浅草神社回るが、すごい行列(汗)
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時間が無いので、行列に加わらず、外から参拝。
気持ち的には、さっき浅草寺境内「恵比須・大黒天堂」で恵比須様にお参りしたからいいかな、と。

ここで、参加者自由行動となり、昼食。
決めた時間に集合して、待乳山聖天に向かいます。

【待乳山聖天《毘沙門天》】
この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。
待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。
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本堂
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当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味している。

たくさんの大根が奉納されていた。
参拝が終わると、縁起物の大根を配布しており、有難くいただいた。
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毘沙門天は本堂の中に安置されていた。
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神楽殿では、お神楽が演奏されていた。
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【今戸神社《福禄寿》】
ご祭神:応神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。

近年になって招き猫発祥の地のひとつとして縁結びと結びつけ自ら名乗りをあげている。
武江年表嘉永5年の項の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。これが招き猫の発祥といわれている所以である。
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拝殿
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招き猫がすごい。
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《福禄寿》
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【橋場不動尊《布袋尊》】
天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大化、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。
 現在の本堂は、弘化2(1845)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしています。
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《布袋尊》
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白鬚神社のたもとを横切り、石浜神社に向かう。
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【石浜神社《寿老神》】
ご祭神:天照大御神・豊受大御神
724(神亀元)年9月11日、勅願(国家鎮護・皇室繁栄などを目的とした勅命による祈願)によって創建された、荒川区内最古の神社である。
1189(文治5)年、源頼朝が奥州征討に際しての社殿の寄進、1281(弘安4)年の蒙古襲来の折には、鎌倉将軍家お取次による官幣の奉納などを経て、千葉氏、宇都宮氏など関東武将の崇敬も篤く、中世初めには大社として発展する。
社地は東方に隅田川、西方に富士山、北方に筑波山を望む景勝地であり、江戸名所図会などにも紹介された。
「朝日神明宮」とも称され、伊勢に行けない人々が代わりに参詣し、夏越の大祓は江戸随一とされるなど、多くの参詣者を集めたと伝えられる。
1872(明治5)年、郷社に列格し、1926(大正15)年、隣接していた真先稲荷・招来稲荷神社が石浜神社の境内に遷座した。
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注連柱をくぐって拝殿に。
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《寿老神》
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登れはしないが、立派な富士塚があった。
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このお宮さんは、初めてだったが、境内社も多く、石碑等も多いので、再訪を期す。

ここから吉原神社までが遠かった。
吉原の入り口の「見返り柳」まで来て、ホッとする。
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【吉原神社《弁財天》】
ご祭神:倉稲魂命・市杵嶋姫命
1872(明治5)年に新吉原遊郭の四隅に祀られていた開運稲荷大神、九郎助稲荷大神、榎本稲荷大神、明石稲荷大神と、往昔よりの玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建した。
江戸の代より吉原廊はたびたび大火に遭っているが、1875(明治8)年の全焼後、吉原大門外の高札場の所に社殿が造営されたという。
その後も数回の火災に遭い、1923(大正12)年の関東大震災で焼失後、1935(昭和9)年に新社殿を造営し現在地へ遷座した。
1945(昭和20)年の空襲で再び焼失、1968(昭和43)年に再建されたのが現社殿である。
1935(昭和10)年には吉原弁財天を合祀しているが、この弁財天には関東大震災にまつわる悲しい歴史がある。
この地は元々湿地帯であったところを埋め立てて造成しているが、池の一部は残された。
中島に弁天祠が祀られた池は、花園池・弁天池などと称され遊郭楼主たちの信仰を集めていた。
関東大震災により発生した火災から逃がれようとした遊女達は、廊の中では逃げ場がなかった。
このため池に飛び込まざるを得ず、490人が溺死したという悲劇が起こった。
その後池自体はNTT吉原ビル建設時に埋め立てられてしまったが、弁財天を祀る小社は残され吉原神社の奥宮として、震災殉難慰霊の観音像なども祀られている。
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御幣の横にあるちいさなものが弁財天。
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調べてみると、少し離れたところにある「吉原神社奥宮」には、立派な弁財天が祀られているみたいだ。
再訪を期す。

【鷲神社《寿老人》】
ご祭神:天日鷲命、日本武尊
鷲神社の創始についてはもとよりつまびらかではないが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。
天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称しました。
そして天日鷲命は、開運、開拓の福神として当地に鎮座されたとのことです。
ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまり。
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お賽銭箱のところには、「なでおかめ」が。
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社務所のところにあった、「七福神福絵」の完成見本があった。
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以上で、全部完了。
近くの「入谷」駅から帰途についた。


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青面金剛庚申塔/世田谷区・医王寺①

20190111

所在地:東京都世田谷区深沢6-14-2 医王寺門前
撮影日:2018年11月12日

田園都市線用賀駅から歩いて、日体大の前を経由して30分で医王寺に着いた。路線バスはあったのだが、この辺に来たのは初めてだったので、歩いた。

この門から入って行ったが、境内の改修工事が始まった感じで雑然としていた。
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境内を探して歩いたら、現在は鉄柵が閉まっているが、かっては正門だったらしいところに三基の庚申塔があった。
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この門に向かって右側の隅に2基、左側の隅に一基、庚申塔が置かれていた。
今回は、右側に二基あるうちの右側のもの。

塔身は駒形。
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銘文は、右側に「享保十七子天 九月吉日」、左側に施主の名が刻まれている。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、頭に蛇、岩の上に立つ。
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、矢、弓、三叉矛
脇侍:三猿(全部横向き)
造立年代:享保17年(1732)
高さ:66cm

日月は浮彫り、瑞雲付き。
奥から左右に飛んで出てくるようなデザイン。
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青面金剛全身
岩の上に立つ。
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顔は磨滅していて、よくわからないが表情は忿怒形。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、矢。左側は上から三叉矛、弓。
通常は、弓と矢が反対であり、珍しい。
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岩の下に刻まれた三猿は、全部横向きで、通常は真ん中は正面を向いているのだが、これは左を向いているのが珍しい。
何かを挟んで右の二匹と左の一匹が向かい合っているようだが、何かは磨滅していてわからない。
磨滅していてわかり難いが、右から「言わざる、見ざる、聞かざる」ではないか。
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この庚申塔の特徴は:
・日月が、瑞雲を引いて奥から左右に飛んで出てくるようなデザインでダイナミック。
・脇侍が、邪鬼、鶏がなくて三猿だけのシンプルなもの。
・本手以外の4手のうち、弓と矢の位置が通常とは逆になっている。
・三猿の左右が横向きなのはよくあるが、真ん中の猿までが横を向いているのは初めて見た。



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赤坂氷川神社の狛犬-2

20190110

所在地:港区赤坂六丁目10番12号 赤坂氷川神社参道
撮影日:2014年4月15日

赤坂氷川神社については、既に記事があります。

その記事を見る


赤坂氷川神社入り口
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赤坂氷川神社には7組の狛犬があり、今回は古い方から二番目のものです。
その狛犬は、三つの入り口からの参道が交差し、神門に向かう参道に入ってすぐの場所に居ます。
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年代:弘化3年(1846)
材質:石造
型式:江戸流れ尾型、両子連れ型

右側の阿形獅子。蹲踞して、子獅子を連れている。
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口を開いており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは巻き毛が大きく立派で、長く流れて尻にまで達している。
毛が目立つ耳を伏せ、目はまん丸で奥まっている。
眉と顎鬚は、横に流れて先が巻き毛となっている。
口は半開きだが、歯をむき出して、牙も鋭い。
顔の輪郭は四角く、いかつい表情でこちらをにらみつけている。
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連れている子獅子
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左側の吽形獅子。蹲踞して、子獅子を連れている。
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口を閉じており、たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは巻き毛が大きく立派で、長く流れて尻にまで達している。
毛が目立つ耳を伏せ、目はまん丸で奥まっている。
眉と顎鬚は、横に流れて先が巻き毛となっている。
口は半開きだが、歯をむき出して、牙も鋭い。
顔の輪郭は四角く、いかつい表情でこちらをにらみつけている。
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連れている子獅子
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片方の前足で小獅子を捕まえて、後足は蹲踞。爪は大きい。たてがみと尾から流れる毛で身体を覆っていて、体毛の表現はあまりない。
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尾は立ちあがってから横に流れている。巻き毛は左右に三つずつ。
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年代は、弘化3年(1846)。
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この狛犬は、江戸流れ尾型で、阿吽両方とも子獅子を連れている。
たてがみと尾から流れた毛が長くて身体を覆っている。
顔は江戸狛犬の典型的なもの。



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河童神(かっぱしん)/日本の神々の話

20190106

日本の各地に、「水徳・水難除け・安産の守護神」として祀られている民俗信仰の神。
東京近辺で最も有名なのは、「かっぱ寺」として有名な浅草・曹源寺に祀られているカッパである。

かっぱの手のミイラが祀られているお堂
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当地一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされた。そこで当地の商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行った。
言い伝えによるとこの工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われている。文化11年(1814年)に喜八が没し、菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになった。
その後この工事を手伝った河童を見かけると様々なご利益があると評判を呼んだ。そして「河童大明神」として祀られ、 商売繁昌などに霊験があるといわれ、当寺院に祀られるようになったと言われている。

河童は、北は青森から南は沖縄に至るまで、全国の川・池・沼・海などに棲むといわれ、その存在を裏付ける説話は広く分布している。
カワッパ・カワランベ・カワタロウなど、地方によって呼び方も違っているが、川に童児の意味を付したものが多い。河童はこのうちの東国の一方言であったものが、現在では全国的にカッパと呼ばれるようになった。
河童は人や馬を水中に引き入れたり、水中で尻子玉(肛門の部分にあると想像された玉)を抜いたり、相撲が好きで誰を見ても挑み、畠作物を荒らすなどの悪戯をすると言い伝えられている。
特に畑の胡瓜が大好きで、そこから、胡瓜を一名カッパと呼ぶ。

河童は悪戯をする反面、田植・田の草取り・灌漑などを引き受けたりもするユーモラスな妖怪の一種で、恐ろしいものというより、むしろ愛橋のある怪物といえよう。
悪戯をした河童が、人間に捕まって片腕を切られたり、託証文を書かされたり、また、切られた腕を治すという金創薬を河童に教えられて家伝としている家や、河童の詫証文を保存しているといぅ家さえある。さらに助けられた河童が、お礼に酒の湧き出る徳利を置いていったり、その徳利で酒に溺れた男が、ふと我に返って酒を止め、働き出したという河童徳利の話を言い伝える家もある。このような伝説から、河童を祀る詞も各地にある。

九州の久留米にある水天宮は安徳天皇、その母の建礼門院、二位尼(平時子)を祭神としているが、水徳の神・安産・水難除けの神として信仰がある。その近くを流れる筑後川には、その昔、九千坊と呼ばれる河童の総大将がいたという。子分を率いて猛威を奮い、人々を困らせていたが、水天宮の祭神に諭され、服従して遂に福をもたらす神便(みさきがみ)となり、名前も福太郎と称えるようになったと伝えられる。

北九州市門司区大横の天疫神社内には、海御前様と呼ばれる、女性の河童神が祀られている。平家一門が壇ノ浦で滅んだとき、平家の勇将能登守教経の奥方、海御前も一門の人々とともに海に沈んだ。数日の後、その遺体が流れ着いたのを、村人が乙女山の一角に葬って供養した。この海御前が全国の河童の総元締となり、統治をうまくやったので、河童の被害がなくなったのだという。この地方では大変な信仰を集める民俗神である。



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青面金剛庚申塔/世田谷区奥沢神社②

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撮影場所:東京都世田谷区奥沢5-22-17丁目 奥沢神社境内
撮影日:2018年6月27日

奥沢神社は、東急目黒線奥沢駅から歩いて7分くらいのところにありました。
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社殿に向かって左の奥に地蔵堂があり、その前に庚申塔が2基あります。
今回の記事はそのうち右側の庚申塔です。
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塔身は駒形。
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銘文:
右側面に「奉造立庚申仕〇安永八年己亥十月吉日」、
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左側面に「武州荏原郡世田谷領奥沢村八幡前拾ノ講中」とあり。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、三眼、邪鬼を踏む。
本手:剣とショケラ
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:安永八年(1779)
高さ:102cm

日月は浮彫り、瑞雲付き。
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青面金剛全身
邪鬼を踏んで立つ。
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顔は三眼、表情は忿怒形。
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本手は剣とショケラ。
他の手が持つ法具は、右側が上から法輪、弓。左側は上から三叉矛、矢。
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ショケラは、腰巻一つで、子供のような姿と表情。
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青面金剛に踏まれている邪鬼は左向き、不満そうな表情。
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その下の岩に刻まれた三猿は、真ん中の猿の表情はわかる。
右から、「見ざる、聞かざる、言わざる」となっている。
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この庚申塔の特徴は:
・三眼の青面金剛が邪鬼を踏んで立つ。
・本手には剣とショケラを持つ。ショケラは子供のようである。



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日本一の巨大手描き絵馬/川越八幡宮

20190102

所在地:埼玉県川越市南通町19−3 川越八幡宮
撮影日:2019年1月1日

毎年、元日の初詣は、川越喜多院と地元狭山市柏原の白鬚神社と決まっている。
今年は、喜多院にお参りした後、そのまま歩いて川越八幡宮にもお参りした。

12月に朝日新聞の埼玉版に、この絵馬が紹介されていて、これまで知らなかったので見に行きました。

川越八幡宮
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その絵馬は、百貨店マルヒロ側の道路に面して置かれていた。
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縦約4.5m、幅約5.4mで、手描き絵馬としては日本一だそうです。
毎年、地元の中学生らが私立高の応援をもらい描いてきた。
市立川越第一中学と、私立校美術部員が手掛けてきたが、今年は高校生部員がそろわず、毛呂山町にある埼玉平成高校文芸部に頼んだとのこと。
平成最後の正月を飾る絵馬を「平成高」がお手伝いしたということになる。

さらに、これまでと異なり初めて背景が描き込まれ。「時の鐘」の通りで突進してくる大きなイノシシの周りに、かわいい小さなイノシシたちが22匹描かれている。

やはりデッカイ!!
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中央のイノシシ
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右上肩
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左上肩
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右下角
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左下角
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さらに中学生は、2畳大の絵馬も描いた。
こちらは、境内のおみくじ繋ぎの横に置かれている。
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明けましておめでとうございます

20190101

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今年もいままでと同様に、関心をもったところに訪ねる記事を
のんびりと書いていきたいと思います。

いままでと変わらず、よろしくお願いします。

四季歩
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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