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ありがとう平成

20190430

今日は、午後4時くらいから「退位礼正殿の儀」のテレビ中継を見ていた。

平成の時代は、私にとって文字通り平和な時代で、無事に仕事からリタイアでき、悠々自適な毎日を送っているのには感謝しかない。
私は、災害に会ったことは皆無で、まったくの「一国民」で、したがって天皇・皇后両陛下にお会いしたことは一度もない。
そんな私が、いつからだろうか「天皇は日本の良心」と思うようになり、天皇・皇后両陛下のなさり様をテレビで見るのが楽しみになった。
仕事をリタイアした後の人生の規範は天皇・皇后両陛下であったような気がするほどだ。

今日のテレビを見ていると、天皇が退位を望まれてからずいぶんと歳月がかかってしまったようだ。
ほんとうに「間に合ってよかった」と、今日の陛下のご様子を見ていて思いました。

202年ぶりの退位と言う人もいるようだが、光格天皇のときとは背景は全然異なると思う。
なにしろ、「一国民」の私でさえ、感謝と大きなねぎらいの心で陛下のご退位をお送りしているのだから。
全国民のこぞっての感謝の中で退位されるというのは、歴代天皇の歴史のなかで「史上初」のご退位だと思う。
「象徴天皇はいかあるべきか」の姿を見事に完成されたと思います。

これからは、お好きなご研究の日々を楽しまれていただきたいと思います。

平成の世は、とても良い時代だったと感謝して、
「ありがとう、平成よさらば」



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石拆神(いわさくのかみ)・根拆神(ねさくのかみ)・石筒之男神(いわつつのおのかみ)・磐筒女命(いわつつめのみこと)/日本の神々の話

20190430

伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。

『日本書紀』の一書によれば、伊邪那岐神が火神の迦具土神を斬ったとき、 剣から滴る血が固まって天安河辺の岩群(五百筒磐村)になった。そして「即ちこれ経津主神の祖なり」とある。
他の一書では血に染まった岩群を磐裂神・根裂神といい、 その御子磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。


石拆は石(岩・磐)を裂く程凄まじい威力、根拆と木の根を裂く程凄まじい威力という意味で、刀剣の神格化、あるいは雷神と考えられている。
石拆神(イワサク)と根拆神(ネサク)、石筒之男神(イワツツノオ)は、日本神話に登場する神で、古事記には、斬り殺された加具土神(カグツチのカミ)の血が、その刀の先から岩群に飛び散ったところから現れたと記述されている
火の神を神剣によって斬り殺したことであわられた神々であることから、火をコントロールし利用することが可能となった人間が、農耕や戦闘に有利な鉄製品を作り出したことを象徴する神々であると推察する。

イワサク:「•岩をも切り裂くほど」の刀剣、雷、農耕器具の神格化
ネサク:「•根を断ち切るほど」の刀剣、雷、農耕器具の神格化
イワツツノオ・イワツツノメ:岩の神霊・男(女)、石鎚の男神(女神)、石を砕いて土に変える男神(女神)



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青面金剛庚申塔/代々木・福泉寺参道③

20190428

所在地:東京都渋谷区代々木5-2-1 福泉寺参道
撮影日:2017年7月27日

代々木八幡宮の参道から福泉寺に通じる参道に4基の庚申塔があります。
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そのうち三猿庚申塔は年代不明であり三猿の顔も風化して無くなっていることから除外し、今回は三基のうち右側のものを取り上げる。
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塔身は駒形。
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:なし
主尊の特徴:一面六臂、岩の上に立つ。
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:寛政6年(1794)

青面金剛全身
岩の上に立つ。
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青面金剛の顔は破損風化していてわからない。
本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上は法輪、下は弓。
左側は上が三叉矛、下は矢。
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岩の下の三猿は、左右の猿が横向き、風化がひどくて顔は判らないが、右から「見ざる、言わざる、聞かざる」である。
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この庚申塔の特徴であるが、風化、損傷がひどくて細部はわからない。
・岩に立つ一面六臂青面金剛像。
・日月が無い。
・三猿のうち、左右の猿が横向きである。


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宮代町・姫宮神社の狛犬

20190427

所在地:埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373 姫宮神社拝殿前
撮影日:2016年7月2日

姫宮神社については、既に記事があります。

その記事を見る


今回の狛犬は、拝殿前に居ます。
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年代:天保12年(1841)造立
材質:石造
型式:江戸流れ尾型

右側の阿形獅子。蹲踞している。
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口を開いているので阿形。たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは左右に分かれて巻き毛から肩から後ろと、胸の前に流れている。
耳を伏せ、頭髪と眉が鼻よりも大きく出て、目はドンクリ眼。眉は縦に長い毛が横に並び端が巻き毛。頬髭は大きくカールしている。顎鬚もわりと長くて目立ち、端が巻き毛。
上下の唇が厚く、開けた口に鋭い歯を見せている。
どこも丸っこい顔だが、表情は威嚇的。
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左側は吽形獅子。蹲踞している。
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口を閉じているので吽形。たてがみが巻き毛なので獅子。
たてがみは左右に分かれて巻き毛から肩から後ろと胸の前に流れている。
耳を伏せ、頭髪と眉が鼻よりも大きく出て、目はドンクリ眼。眉は縦に長い毛が横に並び端が巻き毛。頬髭は大きくカールしている。顎鬚もわりと長くて目立ち、端が巻き毛。
上下の唇が厚く、口は閉じて歯は見せていないが、牙を出している。
どこも丸っこい顔だが、表情は威嚇的。
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太い前足を直立、後足は蹲踞。爪は強調され鋭い。体毛のフワフワ感を出している。前足の走り毛、付け根の巻き毛をしっかり表現。
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尾は、左右に水平に同じ太さで別れ、二本の筒状の毛がすぼまって終わるという珍しい形である。
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年代は、天保12年(1841)造立。
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この狛犬の特徴は、全体的には江戸狛犬だが、細部に面白い点が幾つかある。
横顔が、頭髪と眉が出っ張って異様。
たてがみや顔の周囲のヒゲが、綺麗に流れて、カールの表現も豊富でとても美しい。
爪の強調も面白い。
尾は太い筒状の尾が左右に分かれて、更に二つに分かれた筒状の尾がすぼまった、面白い形で、とても特徴がある尾だ。



狛犬の記事一覧を見る



熊野那智大社・那智の滝

20190425

所在地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
参拝日:2019年3月20日

青春18キップ・紀伊半島の旅の三日目、最終日です。
前夜紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊、7:25の熊野那智大社行きのバスに乗り、「大門坂」バス停で降りて40分ほど「大門坂」を歩きました。
そこまで前回の記事で報告。
「那智山参道入り口」からが今回の記事になります。

那智山参道入り口
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ここから、まず熊野那智大社に参拝、青岸渡寺を経由して那智の滝を見ます。
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しばらく土産物店のあいだの石段を上る。
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一の鳥居は修復中だった。
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社号標
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熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。また、熊野十三所権現、那智山権現ともいう。
熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。

『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。
一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。

本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年(1083年)9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。

那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊続風土記』などによれば、那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、那智山は、その全員が社僧という修験者達の霊場であった。中世に入り、熊野三山を管理する京都の熊野三山検校の下で那智一山の管理組織(那智執行・滝本執行・宿老・在庁にもとづく合議制度)が整備された。
『長秋記』長承3年(1134年)2月1日条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神の五所王子と眷属神の四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年(1379年)11月13日の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。建仁元年(1201年)10月19日には後鳥羽上皇が那智山に参詣し、その後の建暦2年(1212年)に上皇から寄進され熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。

近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があり、1873年(明治6年)に県社に指定されるとともに那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称、最終的に1963年(昭和38年)に熊野那智大社と改称して今日に至る。

鳥居をくぐると手水舎がある。
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大門坂を歩いている時に「多富気王子(たふけおうじ)跡」があり、摂社のひとつ児宮として境内に移されたと説明があったが、それがここにあった。
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その隣に「寒緋桜」が咲いていた。
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最後の石段の下に狛犬がいた。
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石段の上に鳥居が。
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社殿のある広場に到着(嬉)
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手水舎
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拝殿の前には、神仏習合のかたちを今に伝える「お清めの護摩木」が供えられている。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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拝殿の奥には鈴門・瑞垣を挟んで本殿があり、向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。正殿の第四殿が最も大きく、若宮の左手前には第六殿(八社殿)がある。

主祭神:熊野夫須美大神
〇上五社
第一殿 瀧宮 大己貴命(飛瀧権現) 千手観音
第二殿 證証殿 家津御子大神、国常立尊 阿弥陀如来
第三殿 中御前 御子速玉大神 薬師如来
第四殿 西御前 熊野夫須美大神 千手観音  熊野夫須美大神=伊弉冉尊
第五殿 若宮 天照大神 十一面観音
〇中四社、四社
第六殿 八社殿
禅児宮 忍穂耳尊 地蔵菩薩
聖宮 瓊々杵尊 龍樹菩薩
児宮 彦火火出見尊 如意輪観音
子守宮 鵜葺草葺不合命 聖観音
一万宮・十万宮 国狭槌尊、豊斟渟尊 文殊菩薩、普賢菩薩
米持金剛 泥土煮尊 釈迦如来
飛行夜叉 大戸道尊 不動明王
勧請十五所 面足尊 釈迦如来

本殿は、隣の青岸渡寺から一部の屋根が見えるのみ。
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これは那智大社HPに載っていた本殿の写真。
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ここで『一遍上人絵伝』に描かれた、当時の那智大社の様子をアップしておこう。
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那智大社と青岸渡寺
仁王門から楼門に達すると、門内の大きな建物は神宮寺(青岸渡寺)である。
寺の前、懸崖の上に立つ細長い建物は礼殿。基壇を設けた上に新宮と同じ形式の社殿が並ぶ。
向かって右手の独立した基壇の上に滝宮(飛滝権現)を祀っている。
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那智の滝
あたりの自然景の中に、雄大な瀑布が、万雷の音をとどろかせながら、滝壺に落下する壮観をみごとに描破している。
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摂末社・御縣彦社
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牛王神符をいただいた。
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胎内くぐりが出来る、御神木の大樟。
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これで参拝を終え、青岸渡寺を経由して那智の滝に向かいます。
鳥居から一旦降りる。
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青岸渡寺に上がる。
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仁王門
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本堂にお参り。
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境内に二人の句碑あり。
「瀧落ちて群青世界とゝろけり」  水原秋桜子
「きらきらとまだ見ゆ雁の別かな」 米澤吾亦紅
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三重塔と那智の滝を遠望。
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時間が無いので、三重塔の下を通過。
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そこからしばらく下って、滝の入り口に到着。
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鳥居をくぐって、石段を下ると滝の下に出ました。
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この滝が落ちている岩も1400万年前に起った巨大カルデラ噴火の痕跡です。
その「熊野カルデラ」については、既に記事があります。

その記事を見る


那智の滝の背景をなす岩は、ほぼ垂直に133mの高さで切り立って断崖絶壁をなし、何本もの石の柱が並んでいるように見えます。 いわゆる「柱状節理」です。火山の風景を代表する自然の造形です。
滝の背面をなす絶壁は、花崗斑岩と分類され、火山の地下にたくわえられたマグマが冷え固まった巨岩。

しばらく滝に見とれました。
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急激に冷却された収縮で出来た割れ目が「柱状節理」です。
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那智の滝を動画で撮影したものを、ユーチューブにアップしてあります。
よかったら見てください。

ユーチューブ「那智の滝」を見る


ちょっと慌ただしかったけど、満足して、9:40分過ぎに「那智の滝前」バス停から紀伊勝浦駅に戻り、串本駅に移動、レンタカーで「古座川の一枚岩」、「橋杭岩」を見に行きました。
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古座川の一枚岩・串本橋杭岩の記事に飛ぶ



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寒川比古命・寒川比女命/日本の神々の話

20190424

記紀には登場しない。
相模の国一之宮・寒川神社の祭神である。
平安時代の『延喜式神名帳』には、「明神大」となっているので、既にその時代には相模国を鎮める重要な神社であった。
『寒川神社誌』によれば、
御祭神:寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)
御祭神二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。
御神徳:寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。
とされているので、太古に相模地方を開拓した民の奉じる神であった。
現在の寒川神社のある地は、海のすぐ近くで、清い水が湧いており、相模川も流れている。その地を聖地とした。

また、相模・寒川町と讃岐・寒川町の関係をいう説もある。
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 房州には、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。
又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配したが、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くない。

更に、寒川神社は江戸(東京)から見て南西(坤)の地に鎮座しており、江戸(現在の皇居)の裏鬼門にあたります。江戸時代になると、江戸の裏鬼門をお護りする神社として崇敬され、とりわけ八方除・方位除の神様としての神としても信仰されてきた。

江戸時代までは、どこでも神仏習合がなされており、ここの神も「寒川大明神」で良かったのだが、明治政府の神仏分離令で、「大明神」は認められなくなったため、寒川比古命と寒川比女命を祭神にしたと思われる。



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熊野古道「大門坂」

20190423

青春18キップ・紀伊半島の旅の三日目、最終日です。
前夜紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊。
ここからバスで熊野那智大社に向かうのですが、少しは熊野古道を歩きたいと思い、ほんの一部40分くらいですが、那智大社までの「大門坂」を歩くことにしました。
バスの運行時間の関係で、時間枠が決まっていて、ここを歩くと「那智大社・那智滝」の時間が削られてしまうのだが、大門坂の写真を見て、どうしても歩きたくなった。

紀伊勝浦駅
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駅に「那智黒石」の原石が置いてあった。
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バス停「大門坂」を降りて、100mほど歩くと「大門坂入り口」。
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熊野古道全体図
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大阪から海沿いに田辺まで来た熊野古道は、田辺から富田川沿いに中辺路を通り本宮へと向かうのですが、一時期田辺を中辺路へと入らずに、海沿いの道を那智へとまわるルートが使われました。
これを大辺路と呼び、「熊野那智大社」「熊野速玉大社」に詣でた後、那智の原始林に入り、熊野古道屈指の難コース「大雲取越」「小雲取越」を経て「熊野本宮大社」へと詣でる道です。

時代によっては、中辺路から本宮大社へ詣った後、熊野川を船で下り「熊野速玉大社」「熊野那智大社」に詣でて、「中辺路」の「大雲取越」「小雲取越」を経て湯の峰温泉へ行き、中辺路を経て帰路に着いた事もあったようです。

かつて坂の入り口(ここと反対側、上がりきった所)に大門があり、通行税を徴収していたことが名称の由来とされ、 坂道の両側にまるで門柱のようにそびえる夫婦杉をくぐり、九十九王子最後の一社・多富気王子を横目に、樹齢数百年の深い杉木立の中に石畳の道をたどります。
坂を上りきったところは、熊野那智大社と青岸渡寺があり、那智の滝へも続きます。

歩き出してすぐは、民家と畑の中を歩く。
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「大門」の名前の由来、関所の遺構「石造の流し台、石造の石船」が置いてある。
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南方熊楠が三年間滞在した「大阪屋旅館跡」
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鳥居をくぐり、「振ケ瀬橋」を渡る。
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時間が早かったので、「大門茶屋」はまだ閉まっていた。
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樹齢800年の「夫婦杉」から、鬱蒼とした道と登りの石段になる。
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多富気王子(たふけおうじ)跡
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起源や由緒など、不明なところが多い。「手向け」から転じたとする説や、この王子社を設けた那智山の社僧の名にちなむとする説(『那智勝浦町史』[1])、那智山参詣の祓所とする説などがある。『紀伊続風土記』では若宮の名の他、道祖神を祭神とする旨の記述が見られる。江戸時代には社殿があったと伝えられているが、1877年(明治10年)に熊野那智大社の摂社のひとつ児宮として境内に移され、跡地には石碑と庚申塚のみが残されている。和歌山県指定史跡(昭和33年〈1958年〉4月1日指定)。
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鬱蒼とした巨樹が続く。
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樹齢800年の楠大樹
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鬱蒼とした樹の間を石段が続く。
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面白い樹も多い。
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中が焼けている樹もあり。
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旧道とバス道が接近。
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なんなのだろうね、たくさんの石を根元に詰められた大樹。
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鬱蒼とした大樹の間の気持ちの良い石段を上がっていく。
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十一文関跡
大門坂の維持・補修が大変だから通行税を取ったのかな。
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ここから、ちょっと頑張ったら空が見えた(嬉)
どうやら、上りきったらしい。
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ここに「大門」があったので、「大門坂」と呼ばれた。
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ずいぶんと石段が多いような気がしたが、267段しかなかった(汗)
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汗がひくまで、ここで休んでいたら地元の方が話しかけて来た。
那智の滝の落差は日本一だが、それでだいぶ酸性がアップするみたいで、滝の近くには魚も住まないそうです。
だいぶ下ってから、やっと魚が住むとか。
色々と面白い話を聞かせていただいた。

少しお土産屋さんの間を行き、「那智山参道入り口」に到達。
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今回の記事はここまで。
次回、熊野那智大社と那智の滝の記事とします。



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地蔵菩薩立像庚申塔/代々木・福泉寺参道②

20190422

代々木八幡宮の参道から福泉寺に通じる参道に4基の庚申塔があります。
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そのうち三猿庚申塔は年代不明であり三猿の顔も風化して無くなっていることから除外し、今回は三基のうち中央のものを取り上げる。
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塔身は舟形。
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銘文は右側に「庚申講中」、左側に「宝暦五乙亥年十月吉日」
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塔身:舟形光背
主尊:地蔵菩薩立像
造立年代:宝暦5年(1755)

地蔵菩薩は、右手に錫杖を持ち、左手には破損してよくわからないが大きめの宝珠と判断される。
お顔も詳細はわからなくなっているが、柔和な笑顔であったと推測される。
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この庚申塔の特徴は、主尊が地蔵菩薩だということ。
時代的には中期なので、まだ主尊が定まっていない初期に造られたものではない。
講の性格が、仏教色の強いものだったと思われる。



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徐福公園

20190421

所在地:和歌山県新宮市新宮7178番地
訪問日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、獅子岩、花窟神社、速玉大社、神倉神社に参拝後、新宮駅前からバスで熊野本宮大社前に行き、旧社地である「大斎原(おおゆのはら)」、本宮大社に参拝し、再びバスで新宮駅前に戻り、歩いて5分ほどの、この日最後の目的地「徐福公園」を訪ねた。
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元来この地には徐福の物とする墓があったが、1994年(平成6年)の8月にそれを中心として今ではこの公園の目印ともなっている中国風の楼門を設置するなど、大々的に整備が行われ現在のような公園となったそうだ。

伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したというが、その内蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後新宮に住み着いたという。ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で歿したと伝わっている。
この公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736年)に建立されたもので、紀州藩初代藩主である徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせたものと伝わっている。

秦の始皇帝といえば、紀元前200年ほど。日本では弥生時代である。
本当にやってきたとすれば、ものすごい先進技術を持った人たちが上陸したわけだ。
徐福の伝説は、日本の各地に残っていて、関心を持っていたが、所縁の地というのは初めてなので、今回寄ってみることにした。

ずいぶん立派な楼門だ。
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楼門には、中国獅子がいる。
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楼門をくぐると、さほど広くはない空間に色々なものがあった。
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徐福の説明
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〇徐福像と不老の池
共に1997年(平成9年)につくられたもので、池の脇に像が配置されている。不老の池では7人の従者を象徴して7本の石柱があり、また7匹の鯉が飼われている。
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徐福の墓地の入り口には、香炉と中国獅子が置かれている。
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墓地に入る。
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〇徐福顕彰碑
天保5年(1834年)に紀州藩の儒学者である仁井田好古が筆を揮って建立する予定だったものの、運送中の船の事故により実現を見なかったが、1940年(昭和15年)の皇紀2600年の記念事業の一環として、残存していた文書に基づき建立したという曰くがある。
これちを読んでみると、「秦の始皇帝の圧政に民が苦しんでいた時、秦が天下を獲ったら私は東海の海に身を投げて死ぬ、と言って実行しなかった学者が居たが、徐福はそれを実行したのである」というところが気に入った。不老不死の薬があると本当に信じて海を渡ったのではなく、秦の始皇帝に愛想をつかして脱出してきたのだ、というのは納得できる考えだと同感した。
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〇徐福の墓
新宮の古文書に元文元年(1736年)付で「楠藪へ秦徐福の石塔立」と伝えられる。もとは和歌山藩初代藩主徳川頼宣が建立を目指したもので、藩の儒学者李梅渓に揮毫せしめたものと伝えられる。市指定文化財(史跡)。緑色片岩
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〇七塚の碑
かってこの近くに北斗七星の形に造られていた7つの塚、七塚があった。これは徐福の7人の主要な従者の墓であるとも徐福が大陸から持参したものをうめた場所であるともいわれており、七塚の碑はこれを記念するため1915年(大正4年)に熊野地青年会が建立したものである。
右が七塚の碑、左が七塚
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絶海中津の歌碑
絶海中津は熊野の徐福祠を取り上げたことが知られているが、その絶海中津が洪武帝とやり取りした詩を刻んだ歌碑が1966年(昭和41年)に建立された。
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この「徐福の墓」で、この日の予定を全て終え、新宮駅から紀伊勝浦駅に電車で移動。
紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊。



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熊野本宮大社

20190419

所在地:和歌山県田辺市本宮町本宮1100
参拝日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、獅子岩、花窟神社、速玉大社、神倉神社に参拝後、新宮駅前からバスで熊野本宮大社前に到着、旧社地である「大斎原(おおゆのはら)」に参拝したあと、本宮大社にお参りしました。
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社号標
旧社格:式内社(名神大)、官幣大社(現、神社本庁の別表神社)
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由緒については、熊野本宮大社HPから:
天火明命(あめのほあかりのみこと)は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下(たかくらじ)は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」 を献じてお迎えしました。
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。

第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました

熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社くまのにいますじんじゃ」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。

熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。

以上、ちょっと長いが本宮大社HPの説明を載せた。

記紀神話において、神武天皇の東征の際、熊野に上陸したときに「熊野の荒ぶる神」に斃された時、高倉下(たかくらじ)が神剣「布都御魂」 を献じて、神武天皇が正気に戻られた話は有名である。

神武天皇の東征
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神武天皇と八咫烏
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熊野三山の神については、別途記事を載せてある。

その記事を読む


最初は、歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸にはじまるが、修験道の聖地とされるに従い「蟻の熊野詣で」と云われるほど民衆に信仰された。

現在は、熊野三山を結ぶ「熊野古道」を歩くことがブームとなっている。

熊野神あるいは熊野権現を勧請した各地の神社は、「熊野神社」、「十二所神社」あるいは「十二社神社」と呼ばれる。

一の鳥居から入る。
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社額には「熊野大権現」とあり。
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鳥居の脇には、昭和48年奉納の狛犬がいる。
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林の中の気持ちいい参道
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石段を上がる。
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途中に「功霊社」と「祓戸大神碑」があり。
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石を縦にして並べて、ちょっと面白い演出がしてあった。
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手水舎
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手水鉢の底に白石が並べられていて、水がすごく清浄に感じられた。
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千日詣で結願の旗が至る所にあった。
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平成23年9月の大水害からの復旧の様子が展示されていた。
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まず拝殿でお参り。
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拝殿参道の狛犬
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拝殿
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拝殿内部
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拝殿前の左右に石が置いてあった。
大黒石
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亀石
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神門
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神門には注連縄のほかに八咫烏(やたがらす)の飾り藁が掲げられています。
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社殿
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十二柱の神が祀られていて、主祭神は家都美御子大神です。
ここの上四社(第一殿~第四殿)にお祀りしている神々は:
第一殿 西御前:熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音)
第二殿 中御前:速玉之男神(薬師如来)
第三殿 證証殿:家都美御子大神(阿弥陀如来)
第四殿 若  宮:天照大神(十一面観音)

明治22年の大水害以降、旧社地大斎原に合祀されている中四社(第五殿~第八殿)、下四社(第九殿~第十二殿)の御祭神については、大斎原の記事で記しています。

平家物語の説明があり。
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神紋は「三つ巴」と「八咫烏」
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熊野牛王神符をいただいた。
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摂社・満山社
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白河上皇御歌
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有名な「八咫烏ポスト」があった。
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数百mほど熊野古道を歩いて、「祓殿王子」まで行った。

熊野古道
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九十九王子の一つ、「祓殿王子」」
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また、本宮大社まで戻る。
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それから、バスで新宮駅まで出て、この日の最後の目的地「徐福公園」に向かった。


続いて「徐福公園」の記事を見る



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大國魂神社中雀門前の狛犬

20190418

所在地:東京都府中市宮町 大國魂神社中雀門前
撮影日:2014年6月17日

大國魂神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


大國魂神社には6組の狛犬が居るが、その中で年号がはっきりしているのが三組あり、三番目に古いのがこの狛犬である。

大國魂神社の中雀門前に置かれている。台は富士山の溶岩であろう。
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年代:天保10年(1839)
材質:石造
型式:江戸流れ尾型、子連れ型

右側の阿形獅子。蹲踞して、子獅子を連れている。
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口を開いており、たてがみが巻き毛なので獅子。
大きな耳を伏せ、眉が大きく垂れさがって目にかぶっている。
眉は大きく垂れさがり巻き毛が混じる。唇を頬髯と顎鬚で覆っている。
横に大きなたわみの大きい口を開いて、乱杭歯をむき出している。牙はわかる。
横に広い顔はほとんど毛に覆われて表情はあまりよくわからない。
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子獅子は、おっぱいを吸っている。
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左側の吽形獅子。蹲踞している。何も持たない。
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口を閉じており、たてがみが巻き毛なので獅子。
大きな耳を伏せ、眉が大きく垂れさがって目にかぶっている。
眉は大きく垂れさがり巻き毛が混じる。唇を頬髯と顎鬚で覆っている。
横に大きなたわみの大きい口を閉じ、乱杭歯を噛み締めている。牙が目立つ。
横に広い顔はほとんど毛に覆われて表情はあまりよくわからない。
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尾は左右に分かれて立ちあがり気味に横に流れる。巻き毛片側四つ。
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年代は、天保10年(1839)。
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この狛犬は、江戸流れ尾型で、阿形が子獅子を連れている。玉取り・子連れ型が多い中で、吽形が何も持たないのは珍しい。
子獅子がおっぱい吸っているのは珍しく、私が確認できているのは文京区牛天神にある狛犬とここだけである。
顔は江戸狛犬の典型的なもの。


狛犬の記事一覧を見る



大斎原(おおゆのはら)/熊野本宮大社旧社地

20190416

所在地: 和歌山県田辺市本宮町本宮1
参拝日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、獅子岩、花窟神社、速玉大社、神倉神社に参拝後、新宮駅前に戻り、熊野交通バスターミナルにて「熊野交通フリーキップ3日間」というのを購入しました。
これは、熊野三山を廻るのに都合の良いキップで、三日間フリーで3000円。
新宮駅前から熊野本宮大社が片道1540円なので、翌日那智大社に往復する事を考えるとお得なキップです。
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バスに乗る前にコンビニでおにぎり等を購入し、バスの中で昼食。
バスの車窓から見た熊野川は、土砂が河原にうず高く積まれ、ものすごい暴れ川のように感じました。

熊野本宮大社前に到着、まずは旧社地である「大斎原(おおゆのはら)」に参拝しました。
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大斎原は、現在の熊野本宮大社から500mほど離れています。熊野本宮大社から道路を隔てて、大鳥居(高さ約34m、幅約42m)が見えます。その背後のこんもりとした森が大斎原です。熊野本宮大社から徒歩10分ほど。

まっすぐな参道の向こうに日本一の大鳥居が見える。
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大鳥居は、やはりデカイ!!
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「八咫烏」の神紋が輝いている。
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鳥居の根元に辛夷が咲いていた。
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鳥居の根元は、やはり巨大。
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手水鉢
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世界遺産の碑
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巨木の並木の間の参道
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旧社地の中心地
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熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。

ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。
かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
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水害前の説明
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旧社俯瞰絵図
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熊野坐神社水害前の写真
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基壇の上がかつて本殿が存在していた場所です。
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明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在、高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地に2基の石祠を建てて祀りました。東方(向かって右)の石祠に中四社・下四社を祀り、西方(向かって左)の石祠に元境内摂末社を祀っています。

大斎原に祀られている中四社・下四社については下記の通り。
〇中四社
第五殿 禅児宮 忍穂耳命 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊々杵尊 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見尊 如意輪観音
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合命 聖観音
〇下四社
第九殿 一万十万 軻遇突智命 文殊菩薩・普賢菩薩
第十殿 米持金剛 埴山姫命 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売命 不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊命 釈迦如来

 元境内摂末社については次のようなものがありました。
・八百万神社
・滝姫社
・八咫烏社
・地主神社
・音無天神社
・御戸開神社

〇一遍上人神勅名号碑
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この碑に書かれていたことを家に帰ってから調べた。
『一遍上人絵伝』の「熊野詣で」の部分で説明する。
ここに描かれている当時の社殿は、この大斎原にあった。

浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、一遍一行は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍にとってショックな出来事がありました。
熊野の山中、一遍上人たちは、市女笠に足首のあたりまで届く長い垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます。一遍はいつものように念仏札を手渡そうとしました。
僧が言うには、「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます」と言って受けない。
 聖がおっしゃるには、「仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか」
 僧が言うには、「経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです」と。
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一遍はこのまま札を配り続けていいのだろうかと疑問を持ち、本宮大社証誠殿(しょうじょうでん)の神前にひざまずき念仏勧進のあり方を問いました。
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念仏を勧める際の心がけについて冥慮を仰ごうとお思いになって、本宮証誠殿の御前で願意を祈請し、まだまどろまないうちに御殿の御戸を押し開いて、白髪の山伏が長頭巾をかけてお出になる。長床には山伏三百人ばかり頭を地につけて礼敬(らいぎょう)し申し上げている。
 このとき、「熊野権現であられることよ」とお思いになって、一心に拝んでいらしゃると、かの山伏は聖の御前にお歩み寄りなさっておっしゃるのには、
 「融通念仏を勧める僧よ。どうして悪い念仏の勧め方をされるのか。御坊の勧めによって、一切衆生ははじめて往生するわけではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されていることである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」と、お告げなさる。
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この後、目を開いてご覧になったところ、十二、三歳ほどの童子が百人ばかり来て、手をささげて、「その念仏をください」と言って、札を手にとって、「南無阿弥陀仏」と申してどこへともなく去ってしまった。
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つまり相手の信仰の有無にかかわらず「南無阿弥陀仏」という名号そのものに絶対的な力があるので、念仏札さえ受け取れば、阿弥陀仏が必ず救ってくださる。
だから迷わずに札を配って衆生の救済に励め。ということです。
こうして本宮大社で霊験を得た一遍は、「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配る「賦算(ふさん)」という独自の布教方法で再び遊行の旅にでます。
その足跡は、祖父通信の墓のある奥州江刺から南は九州の南端大隅にまで及んでいます。
全国を遊行するうちに、慕う人々(時衆)があとに続くようになり、名号を唱えながら踊る「踊念仏」がプラスされ、娯楽的要素をも備えた踊りの効果も大きく、時衆(時宗)は瞬く間に日本中に広まっていきました。

旧社地は訪れる人も少なく、ひっそりとしていて、神々しい感じでした。
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参拝を終え、帰る道すがら振り返ると、左手には熊野川の堤防がすぐ近くにあった。
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反対方向に目を転じると、雲が低くたなびいていて、幽玄な景色だった。
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続いて、熊野本宮大社に参拝しました。


続いて「熊野本宮大社」の記事を見る



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神倉神社・ゴトビキ岩

20190414

鎮座地:和歌山県新宮市神倉1-13-8
参拝日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、獅子岩、花窟神社、速玉大社に参拝後、15分くらい歩いて、ここに参拝しました。
最初に断っておきますが、途中で登るのをあきらめ、ちゃんと参拝は出来ませんでした。
色々と行きたい所を詰め込んだ行程であり、538段の自然石石段でも時間の制約が無ければ登れたと思いますが、雨になってしまったのが、致命的でした。

このお宮に参拝したかった理由は二点あった。
最初の一つは、ここのゴドビキ岩を含む山塊が、1400万年前の世界最大規模巨大カルデラ噴火の痕跡であること。これは「熊野カルデラについて」として記事にしています。

その記事を見る


もう一つは、記紀神話で神武天皇の東征の際、熊野に上陸した神武天皇が「熊野の荒ぶる神」により斃れた際に高倉下命が神剣を届けて神武天皇が再起した現場であり、高倉下命を祀っているから。

雨になってしまって滑りやすい自然石の石段を538段は無理としても、有名な「御燈祭り」で夜タイマツを持った若者たちが駆け下る石段を少しでも踏んで帰りたかった。

まず神橋があります。
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社号標
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神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。本宮であるという説が有力である。
新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。

神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。

ご祭神:天照大神、高倉下命

神倉神社の説明にも、「御燈祭り」が大きく取り上げられている。
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神倉神社HPに載っている「御燈祭り」の写真
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野口雨情句碑
「見せてやりたい 神倉のお燈まつりの 男意気」
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手水舎
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登り口には杖が置いてあり、私も杖を頼りに登った。
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登り口には、立派な両部鳥居がある。
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自然石のすごい石段である。
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少し登って下を見ると、やはりすごく急だ。垂直に近い。
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ゼイゼイ、ハアハアと125段登ったところに、平坦な地があり、「中ノ地蔵堂跡」だ。
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中腹にある境内二社。
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中ノ地蔵堂
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火神社
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途中に見晴らしのいい所があるらしかったが、残念ながらここではなかった。
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上から降ってきた人が降りていく。
垂直に近いのがよくわかる。
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ここまで登りに要した時間よりも、下りにはだいぶ時間がかかるだろうと予想、ここから先はあきらめた。
まだまだ石段は続いていく。
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垂直に近い石段を慎重に降りていく。
身体が固くなっているし、垂直に近いので、真っ直ぐに降りるのは難しく、斜めに降りていくことになる。
上りよりも下りのほうが、ずいぶんと時間がかかった。
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登り口の鳥居まで降りて来た時、行者風の一団とすれ違った。
けわしい石段を上っていった。
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頂上まで登って参拝したかった、ゴトビキ岩と神倉神社。
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そこからは熊野灘が、きれいに見えるらしい。
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ここから、新宮駅前まで15分くらい歩いて戻り、バスで熊野本宮大社に向かった。


熊野本宮大社旧社地「大斎原」の記事を見る



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青面金剛庚申塔/代々木・福泉寺参道①

20190413

所在地:東京都渋谷区代々木5-2-1 福泉寺参道
撮影日:2017年7月27日

代々木八幡宮の参道から福泉寺に通じる参道に4基の庚申塔があります。
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そのうち三猿庚申塔は年代不明であり三猿の顔も風化して無くなっていることから除外し、今回は三基のうち左側のものを取り上げる。
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塔身は駒形。
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銘文は右側に「庚申供養佛」、左側に「宝永六己丑年十月二十三日」
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塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り
主尊の特徴:一面六臂、髪火焔、岩の上に立つ。
本手:合掌
他の手が持つ法具:索縄、弓、矢、三叉矛
脇侍:三猿
造立年代:宝永6年(1709)

日月は浮彫り。
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青面金剛全身
岩の上に立つ。
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髪火炎、表情は穏やか。
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本手は合掌。
他の手が持つ法具は、右側が上は索縄、下は弓。
左側は上が三叉矛、下は矢。
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岩の下の三猿は、風化が進んて表情などは判らないが、右から「見ざる、言わざる、聞かざる」でないか。
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この庚申塔の特徴は:
・岩に立つ一面六臂青面金剛像。
・本手は合掌。通常法輪を持つ右上の手は索縄を持っている。



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熊野速玉大社

20190411

鎮座地:和歌山県新宮市新宮1
参拝日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、花窟神社に参拝後バスで新宮駅まで来て、雨の中歩いて速玉大社に向かいました。

途中「新宮城址」の下を通った。
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新宮駅前から歩いて15分くらいで到着。
新宮市のなかでは、私が目にした範囲では全部が丸ポストだった。
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左右に「熊野速玉大社」と「熊野大権現」の社号標が立つ。
社格等:式内社(大)、旧官幣大社、別表神社
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熊野三山の一つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。

境内地は国の史跡「熊野三山」の一部。2002年(平成14年)12月19日、熊野三山が史跡「熊野参詣道」から分離・名称変更された際に、御船島を含む熊野速玉大社境内が追加指定された。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部。

創建年代は不詳である。
熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。
熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。
神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

神橋を渡り、「熊野権現」の社額がかかる鳥居をくぐる。
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静謐な参道を進む。
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手水舎の前に巨大な、弘化三年奉納の狛犬が居る。
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手水舎
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神門
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御神木「梛の樹と八咫烏」の紋章
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左右にかかげられた彫刻。
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社殿
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拝殿
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ご祭神は、熊野夫須美大神と熊野速玉大神を主祭神として、12柱を祀る。
〇上四社
第一殿 結宮   熊野夫須美大神(熊野結大神) 千手観音 熊野夫須美大神=伊弉冉尊
第二殿 速玉宮  熊野速玉大神 薬師如来    熊野速玉大神=伊弉諾尊
第三殿 証誠殿  家津美御子大神・国常立尊 阿弥陀如来
第四殿  若宮  天照大神 十一面観音
神倉宮  高倉下命 (本地仏なし)
〇中四社
第五殿 禅児宮  天忍穂耳尊 地蔵菩薩
第六殿 聖宮   瓊々杵尊 龍樹菩薩
第七殿 児宮   彦火火出見尊 如意輪観音
第八殿 子守宮  鵜葺草葺不合命 聖観音
〇下四社
第九殿  一万宮  国狭槌尊 文殊菩薩
十万宮  豊斟渟尊 普賢菩薩
第十殿 勧請宮   泥土煮尊 釈迦如来
第十一殿 飛行宮  大戸道尊 不動明王
第十二殿 米持宮  面足尊 多聞天

一遍上人絵伝の熊野詣の場面では、本宮に参拝後熊野川を船で下ってきて、新宮に参拝している。
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一遍上人絵伝の熊野詣については、本宮大社にて詳しく述べます。

熊野牛王神符をいただいた。
カラス文字で書かれた御神符、熊野三山ではそれぞれカラスの数が違う。新宮は四八羽。
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境内社・新宮神社
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境内社・熊野エビス神社
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八咫烏神社・鑰宮(かぎのみや)天手力男神社
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八咫烏神社
祭神:建角見命
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鑰宮天手力男神社
祭神:天手力男命
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熊野稲荷神社
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〇速玉大社のオガタマノキ
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※国指定天然記念物「梛の大樹」- 国指定名は「熊野速玉神社のナギ」、推定樹齢1,000年(850年)、1159年(平治元年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。
葉が縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。そのため護符として袖や笠などに付けました。あるいは武士が戦場で兜や鎧に付けました。
またナギは凪に通じることから、ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にする。
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神宝館の入り口には、武蔵坊弁慶が頑張っている。
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神仏習合時代に作られた神像
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歌碑 後鳥羽天皇御製
「よをてらす 影とおもへば熊野山 山のかひある 行未もかな」。
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佐藤春夫句碑
「秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ」
佐藤春夫の生家がすぐ近くだそうです。
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これで参拝を終え、神倉神社・ゴトビキ岩に向かった。


続いて神倉神社・ゴトビキ岩の記事を見る



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大國魂神社随神門前の狛犬

20190409

所在地:東京都府中市宮町 大國魂神社随神門前
撮影日:2014年6月17日

大國魂神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


大國魂神社には6組の狛犬が居るが、その中で年号がはっきりしているのが三組あり、二番目に古いのがこの狛犬である。

大國魂神社の随神門前に置かれている。
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年代:天保10年(1839)
材質:石造
型式:江戸流れ尾型、子連れ玉取り型

右側の阿形獅子。蹲踞して、子獅子を連れている。
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口を開いており、たてがみが巻き毛なので獅子。
耳を伏せ、目は奥まって目立たない。
眉は中央に巻き毛が二つ、そこから横に巻き毛がずれて連なっている。頬髯と顎鬚も、巻き毛が横に流れて、房々と豊か。
横に大きな口を開いて、乱杭歯をむき出している。牙は目立たない。
四角い顔はほとんど毛に覆われて表情はあまりよくわからない。
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連れている子獅子
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左側の吽形獅子。蹲踞して、玉を取り、子獅子を背中に乗せている。
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口を閉じており、たてがみが巻き毛なので獅子。
耳を伏せ、目は奥まって目立たない。
眉は中央に巻き毛が二つ、そこから横に巻き毛がずれて連なっている。頬髯と顎鬚も、巻き毛が横に流れて、房々と豊か。
横に大きな口を閉じて、歯をむき出している。牙は目立たない。
四角い顔はほとんど毛に覆われて表情はあまりよくわからない。
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背中に乗っている子獅子
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尾は阿吽で少し違う。

阿形の尾は立ちあがり気味に横に流れて、巻き毛は大きめの巻き毛が二つと小さな巻き毛が五つほどが左右にあり。
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吽形の尾は立ちあがり気味に横に流れて、巻き毛は左右に四つずつ。
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年代は、天保10年(1839)。
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願主は府中番場宿の箱屋、東屋。
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この狛犬は、江戸流れ尾型で、阿形が子獅子を連れ、吽形が玉を取り子獅子を背中に乗せている。
尾が阿吽で少し異なっている。
顔は江戸狛犬の典型的なもの。



狛犬の記事一覧を見る



熊野三山の神/日本の神々の話

20190408

延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社とあるが、熊野那智大社の記載が無いのは、那智は神社ではなく修行場と見なされていたからと考えられている。
3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになった。

熊野本宮大社の主祭神:家都御子大神(けつみこのおおかみ)
新宮の熊野速玉大社の主祭神:熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)
熊野那智大社の主祭神:熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)
熊野の3神は熊野三所権現と呼ばれ、主祭神以外も含めて熊野十二所権現ともいう。

それぞれの上四社または上五社に追加されている神としては、天照大神、高倉下命、大己貴命がある。
天照大神については、明治以降全国の神社を束ねている神社本庁が伊勢神宮派であるから追加されているのが当然。
高倉下命については、熊野速玉大社の元宮・神倉神社の祭神。
大己貴命は、那智の滝にある瀧宮の祭神である。

※家都美御子大神について:
本宮大社のHPでの説明には、家都美御子大神(素盞鳴尊)としていて、「大神は御身の御毛を抜いて、種々の木を育成させた事により、木の神と称えられ、木(紀)の国の名の起こりは大神様の御神徳によるものと伝わる。」とある。
古くは「熊野坐神(くまのにいますかみ)」とのみ称されていたというから、木(紀)の国=熊野の神であり、熊野川の化身であり、流域に恵みをもたらし、さらに熊野灘に注いで海の恵みともなる。
古語で「食(衣食住の『食』)」のことを「ケ」ということから、「ケ=食」を司る神だとみるのが妥当だと思われる。
熊野の大地を神格化したものであり、食を司る神である。
素盞鳴尊と同神としている、また速玉大社と那智大社での祀られ方をみると、国常立尊とセットになっている。
これは、記紀神話が出来てからの付け足しであろう。

※熊野速玉大神と熊野夫須美大神について:
本宮大社のHPでの説明では、速玉大神は「伊邪那岐大神様が黄泉国に伊邪那美大神様に逢いに来られ、互いにあるお約束事をされた時に、唾を吐き合う儀式の中から生まれた神様。」としている。
速玉大神は伊邪那岐大神から成った神である。同神としていいと思う。
熊野夫須美大神は、同HPで熊野夫須美大神(伊邪那美大神)と書かれていて同神とされている。
〇新宮は神倉神社を元宮とするという説があり、神倉神社の御神体の「ゴトビキ岩」と呼ばれる大岩が信仰の起源となったのは間違いない。
古代の人々が「ゴトビキ岩」を男性の象徴として祀ったのだと思う。
イザナギの象徴としてふさわしい。
〇那智の滝の姿は女性を思わせます。
子孫繁栄のためには、男神としての速玉大神だけでは駄目で、那智の滝を神格化した女神である夫須美大神の存在が不可欠となるわけです。イザナギの伴侶であるイザナミとなる。

熊野三所権現とは、熊野の大地や食を司る家都美御子大神と、子孫繁栄を約束する男女神である熊野速玉大神と熊野夫須美大神ということになると思います。

参考に、熊野三山の祭神を全て載せておく。
神仏習合を今でも残し、各神社のHPでも本地仏を記載している。

★熊野速玉大社 12柱
〇上四社
第一殿 結宮   熊野夫須美大神(熊野結大神) 千手観音 熊野夫須美大神=伊弉冉尊
第二殿 速玉宮  熊野速玉大神 薬師如来    熊野速玉大神=伊弉諾尊
第三殿 証誠殿  家津美御子大神・国常立尊 阿弥陀如来
第四殿  若宮  天照大神 十一面観音
神倉宮  高倉下命 (本地仏なし)
〇中四社
第五殿 禅児宮  天忍穂耳尊 地蔵菩薩
第六殿 聖宮   瓊々杵尊 龍樹菩薩
第七殿 児宮   彦火火出見尊 如意輪観音
第八殿 子守宮  鵜葺草葺不合命 聖観音
〇下四社
第九殿  一万宮  国狭槌尊 文殊菩薩
十万宮  豊斟渟尊 普賢菩薩
第十殿 勧請宮   泥土煮尊 釈迦如来
第十一殿 飛行宮  大戸道尊 不動明王
第十二殿 米持宮  面足尊 多聞天

熊野本宮大社 12柱
〇上四社
第一殿  西御前  熊野牟須美大神・事解之男神 千手観音
第二殿  中御前  速玉之男神 薬師如来
第三殿  證証殿  家都美御子大神 阿弥陀如来
  第四殿  若宮  天照大神 十一面観音
〇中四社
第五殿 禅児宮 忍穂耳命 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊々杵尊 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見尊 如意輪観音
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合命 聖観音
〇下四社
第九殿 一万十万 軻遇突智命 文殊菩薩・普賢菩薩
第十殿 米持金剛 埴山姫命 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売命 不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊命 釈迦如来

那智大社 13柱
〇上五社
第一殿 瀧宮 大己貴命(飛瀧権現) 千手観音
第二殿 證証殿 家津御子大神、国常立尊 阿弥陀如来
第三殿 中御前 御子速玉大神 薬師如来
第四殿 西御前 熊野夫須美大神 千手観音  熊野夫須美大神=伊弉冉尊
第五殿 若宮 天照大神 十一面観音
〇中四社、四社
第六殿 八社殿
禅児宮 忍穂耳尊 地蔵菩薩
聖宮 瓊々杵尊 龍樹菩薩
児宮 彦火火出見尊 如意輪観音
子守宮 鵜葺草葺不合命 聖観音
一万宮・十万宮 国狭槌尊、豊斟渟尊 文殊菩薩、普賢菩薩
米持金剛 泥土煮尊 釈迦如来
飛行夜叉 大戸道尊 不動明王
勧請十五所 面足尊 釈迦如来



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「熊野カルデラ」について

20190407

私がこのことについて知ったのは、昨年放送された「NHKスペシャル 列島誕生ジオ・ジャパン」での「世界最大規模のカルデラ噴火」であった。
それで、青春18キップで熊野三山を巡拝するのと同時に、1400万年前に起った巨大カルデラ噴火の痕跡も訪ねることにした。

それが起った1400万年前というのは、地球史にとってどのようなものか、その前後の大きな事件について書いておく。
・6500万年前-恐竜の絶滅
・2500万年前 - 最古の類人猿と思われる化石がアフリカのケニヤで発見されている。
・約2500万年前 - アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成がはじまる。(インドプレートが大陸プレートに潜り込んだことによる)
・約1800万 - 1700万年前のウマの化石が岐阜県可児市で1961年と1971年に発見されている。
・1600万年前頃 - 大和三山の内の畝傍山や耳成山、また二上山もこの頃火山活動していた。
・1450万年前-日本海の形成が完了。
・約1400万年前 - ヒト科がヒト亜科とオランウータン亜科に分岐したと推定されている。
・700万 - 600万年前 - 現在最古の人類化石は、中央アフリカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされている。
・10万年前-ホモサピエンスが誕生

1400万年前には、熊野だけでなく広い範囲で噴火が起きている。
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西日本で噴火を多発させたのはフィリピン海プレートである。
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ちなみにフィリピン海プレートの先端の場所に箱根火山があり、フィリピン海プレートが大陸プレートを押し上げて大磯丘陵が出来ていることを、小田原の一夜城跡に行ったときに知った。
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高温のフィリピン海プレートに西日本の大地が乗り上げたせいで、西日本の大地は急激に熱せられて大量のマグマが発生、そのマグマによって超巨大カルデラ噴火が同時期に多発した。
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紀伊半島で起きたという超巨大カルデラ噴火は次のようなものであった。
1400万年前、日本列島にはほとんど山はなく、湿地が広がり、ゾウやワ二の祖先が暮らしていた。
超巨大カルデラ噴火が始まると、地下に溜まっていたマグマが、南北40km、東西23kmにわたる半円形の裂け目の噴火口から一気に噴出し、内部の大地は大きく陥没した。そして周囲には大量の火山灰が降り積もり、カルデラ噴火の裂け目に残ったマグマは、固まって硬い岩となった。
火山からの噴出物はやわらかいため、風雨によって削られ、風化し、あとにマグマが固まった硬い岩が残った。それが一枚岩など熊野地方に多数存在する巨石になったのである。
巨石が並ぶ半円形は、カルデラ噴火の火口の裂け目そのものだったのだ。
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この超巨大噴火では、噴火のあとも膨大なマグマが地下に残っていた。
その一部が冷えて固まったものが、紀伊半島の中央部から南部にかけて地下に存在する、巨大な花崗岩の塊なのである。
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熊野地方には温泉が豊富にあるが、活火山は無い。
この温泉は、先に述べた紀伊半島の中央部から南部にかけて地下に存在する巨大な花崗岩の塊が高温なため、それに熱せられた地下水が湧いているのである。

熊野カルデラは、紀伊半島南端から、那智勝浦町、新宮市、田辺市本宮町に至るエリアだが、熊野三社と称される熊野信仰の中核は熊野カルデラと完全に重なっている。
那智勝浦町には熊野那智大社、新宮市には熊野速玉大社、田辺市本宮町には熊野本宮大社が鎮座している。
このカルデラ地帯には、太古の火山活動に由来する驚異の風景美があり、熊野信仰の背景となっているわけです。

私が今回訪ねた熊野カルデラの痕跡を下に記す。

【花窟(はなのいわや)神社】
悲劇的な母子の墓標であるかのようにそびえ立つ巨石。この不思議な景観は千五百万年まえ、熊野カルデラのマグマが地上に噴き出し、火砕流となり固まったものです。流紋岩質火砕岩と呼ばれています。
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【神倉神社・ゴトビキ岩】
熊野三社のひとつ熊野速玉大社の摂社ですが、100mちょっとの小高い山につづく538石段を登りきると、その頂きにバスが空間に浮かんでいるように見える巨石「ゴトビキ岩」があり、注連縄を巻かれています。
火山のマグマが冷えてできた花崗斑岩です。
残念ながら、雨の中の登段となってしまい、時間の制約もあり、石段125段登って引き返しました。
再挑戦となりました。
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【那智の滝】
那智の滝の背景をなす岩は、ほぼ垂直に133mの高さで切り立って断崖絶壁をなし、何本もの石の柱が並んでいるように見えます。 いわゆる「柱状節理」です。火山の風景を代表する自然の造形です。
滝の背面をなす絶壁は、花崗斑岩と分類され、火山の地下にたくわえられたマグマが冷え固まった巨岩。
急激に冷却された収縮で出来た割れ目が「柱状節理」です。
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【古座川の一枚岩】
「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。幅が500m、高さが150m。
約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
火砕岩は、マグマが地上に噴き出す寸前に地下で固まったガラス質の火山岩の一種。
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【橋杭岩】
約900 mにわたり、幅約15mの橋脚のような岩塔(橋杭)が直線状に並んでいます。約1500万年前~1400万年前に地下から上昇したマグマが、熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈です。岩脈が崩壊して波食棚に散在する漂礫は、巨大地震による津波で運ばれたとされています。
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青面金剛庚申塔/広尾の庚申塔③

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所在地:東京都港区南麻布四丁目5番地61号 広尾稲荷神社裏
撮影日:2016年1月16日

この庚申塔は、有栖川宮記念公園からちょっと下ったところにあります。
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お堂があって、その中に三基の庚申塔が納められている。
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お堂の中に、三猿を刻んだ手水鉢を前にして三基の庚申塔が並ぶ。
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今回は左側の庚申塔。
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塔身:唐破風笠付き角柱
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:浮彫り瑞雲付き
主尊の特徴:一面六臂、髪炎、髑髏あり、邪鬼を踏んで立つ。
本手:剣人型(不明)
他の手が持つ法具:索縄(蛇)、弓、矢、三叉矛
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:元禄9年(1696)

笠は唐破風付の立派なもの。
懸魚まで表現されている。
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日月は浮彫、瑞雲は日月の周囲にヒマワリの花のようにある。
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一面六臂青面金剛は剣人型で邪鬼を踏んで立つ。
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風化が進んでいてわかり難いが、髪は炎、頭に髑髏があることはわかる。
表情はほとんどわからないが忿怒形のようだ。耳が大きい。
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本手は、剣人型だが失われている。多いのは剣とショケラである。
その他の手は、右側は上が索縄(蛇)、下が弓を持つ。
左側は、上の手が三叉矛、下の手が矢を持つ。
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青面金剛に踏まれている邪鬼は、風化がすすんでいて像容はよくわからない。
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岩の下の三猿は風化が進んでいてよくわからないが、右から「見ざる聞かざる言わざる」ではないか。
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この庚申塔の特徴は、頭に髑髏をいただいていること、剣人型であること。
他の手が持つ法具で、右上の手が普通は法輪を持っているのだが、この像は手首に巻き付いた縄状のものを持っている。人々の願いを救い上げる索縄とみるが、蛇状である。
『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた像容では、髑髏もそうだし、各所に蛇をまとわりつかせているので、それを表現しているとみる。



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世界遺産「獅子岩、花窟(はなのいわや)神社」/三重県熊野市

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青春19キップの二日目。天気は雨です(泣)
そんなことにはめげずに、計画したコースをこなしていきます。
初日は、伊勢地区のお宮を巡拝しましたが、そこから熊野地方に移動して、この日は「熊野三山」をはじめとする神社に巡拝するのと共に「熊野ジオパーク」を構成する1400万年前あたりの地球の歴史も見ていきます。

熊野市駅近くのホテルで、目覚ましでは起きられず、6時半くらいに目が覚めて慌てました。
なにしろ昨夜は両足が攣って、ベッドの上でのたうちまわりながら寝ていた(汗)
用意しておいた朝食はバスの中で食べることにして、ホテルを飛び出しました。

熊野市駅前を7時28発の新宮行きバスに乗り、バス停「獅子岩」で降り、獅子岩を見てから、歩いて花窟神社に行き、そこから8時32分の新宮行きバスに乗るという計画です。
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熊野市駅バス停
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世界遺産【獅子岩】
所在地:三重県熊野市井戸町
撮影日:2019年3月19日
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国の天然記念物「鬼ケ城」(1935年〈昭和10年〉12月24日指定)に、1958年(昭和33年)6月24日、獅子巌が追加指定され、国の名勝および天然記念物「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」(くまののおにがじょう つけたり ししいわ)に名称が変更となった。
2004年7月には、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。

地盤の隆起と海蝕現象によってうまれた高さ約25m、周囲約210mの奇岩です。
熊野酸性岩という火成岩が熊野層群という堆積岩の中に貫入してできたもの。

国道42号の七里御浜沿いに存在する獅子の形をした岩山。砂浜を挟んだ東隣に位置する鬼ヶ城の海蝕洞などと同様、波の侵食によって形成されたものであり、岬の先端に口を開いているように見える。大馬神社の狛犬になぞらえられており、そのため大馬神社には狛犬が置かれないでいるという。

国道42号からの眺め
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浜に降りて見上げる。
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それから国道42号を花窟神社目指して、左に熊野灘の「七里お浜」を見ながら、雨の中を歩いた。
雨の中と、一時間内で両方見るという制約で、気が焦り海岸の写真は撮れなかった。

花窟神社に到着。
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世界遺産【花窟神社】
鎮座地:三重県熊野市有馬町上地130番
参拝日:2019年3月19日

ご祭神:伊弉冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智尊(かぐつちのみこと)

社号標
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日本書紀からみる花の窟の由緒:
日本書記に「一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。

日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。

ご神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている。

古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。

今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。

2004年、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部(熊野参詣道伊勢路の一部)として登録された。

入り口
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参道は真っ直ぐ。
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手水舎
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その横に神石があり。
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平成2年奉納の狛犬の向こうに社務所があり、その間を通り抜ける。
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社務所を抜けると、鳥居の先にドーンと巨岩がそびえたっていた。
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この巨岩は、熊野カルデラのマグマが地上に噴き出し、火砕流となり固まったものです。流紋岩質火砕岩と呼ばれています。
熊野カルデラは、1400万年前まだまだホモサピエンスが地球に出現していない時に、地球に生じた大事件。
世界最大級のカルデラ噴火の痕跡です。
熊野カルデラ(熊野ジオパーク)については、別途記事で説明します。
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「熊野カルデラ」の記事を見る


古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。
この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。

ご神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。
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その対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされています。
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神紋は五七の桐
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流紋岩質火砕岩の岩肌
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頭上には、「御縄掛け神事」で渡された縄が渡り、大綱として束ねられる7本の細い藁縄は、伊弉冉尊の子で自然神である級長戸辺命(しなとべのみこと、風の神)、少童命(わたつみのみこと、海の神)、句句迺馳(くくのち、木の神)、草野姫(かやのひめ、草の神)、軻遇突智尊(火の神)、埴安神(はにやすのかみ、土の神)、罔象女(みつなのめ、水の神)を意味する。
また3つの縄幡は、三流の幡(みながれのはた)と呼ばれ、岩側より、伊弉冉尊の黄泉の穢れをはらった際に生まれた三神、天照大神(あまてらすおおみかみ、太陽神)、月読尊(つくよみのみこと、月神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと、暗黒神)を表している。この3つの縄幡は、朝廷より毎年奉献されていた「錦の幡」が運ばれるとき、舟が熊野川の増水により転覆したため、変わり「縄の幡」が作られたものであるといわれる。
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境内社二社に通じる参道
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赤い鳥居が並ぶ足元には、赤い椿の花が散っていた。
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稲荷大明神
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黄金龍神
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入り口の向かいに休憩所があり、花窟神社の由来どおりに、早春にもかかわらず花がたくさんあった。
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〇有馬道標
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国道の手前に、本居宣長の歌碑がありました。
木の国や花のいはやに引縄の長くたえせぬ里の神わざ/ 本居宣長
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国道のところに縄を結わえている支柱があり、もしやと辿って見たら「御縄掛け神事」大綱の支柱だった。
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〇御縄掛け神事
特別な田で作られたもち米の藁縄7本を束ねた長さおよそ170メートルの大綱に、季節の花(2月はツバキを入れ、10月はケイトウを入れる)を結びつけた3つの縄幡および扇を吊して、磐座の頂上(ウバメガシに結ばれる)から七里御浜の海岸へと大綱が引かれ、境内の南隅にある柱(かつてはマツの神木)の先端へと引き渡される。その大綱の先端は地面の支柱に結びつけられる。
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熊野灘の「七里お浜」を見渡せるバス停。
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8時32分の新宮行きバスに乗り、バスの中で朝食を食べ、新宮駅前から歩いて「熊野速玉大社」に向かった。


続いて「熊野速玉大社」の記事見る



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江戸東京たてもの園

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3月29日に、歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で行きました。ちょうど桜の時期なので、それなら小金井公園での花見を抱き合わせで計画したものです。

西武新宿線「花小金井」駅から歩いて20分ほどで、到着。

小金井公園には古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する「武蔵野郷土館」があった。1954年(昭和29年)1月14日の小金井公園開園時に、井の頭恩賜公園にあった「武蔵野博物館」を移転し開館したもので、光華殿(現・江戸東京たてもの園ビジターセンター)、鍵屋、吉野家住宅などは当時からの施設である。1991年(平成3年)12月に閉館した。

1993年(平成5年)3月28日、江戸東京博物館の開館に合わせ、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」として開園した。 高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった、江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。

建築年代や建物が利用された用途に合わせて室内の展示も行われており、その当時の生活文化が再現されている。

宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』(2001年)の作画には、たてもの園の銭湯や下町の商家建築のデザインが参考にされた。この縁で2002年には園内で「千と千尋の神隠し展」と映画「千と千尋の神隠し」の屋外上映会が開催された。たてもの園シンボルキャラクターの「えどまる」は宮崎駿のデザインである。

2時間ということでボランティアガイドをお願いし、5つの建物は入れていただくようにお願いし、あとはおまかせでガイトしていただいた。

西ゾーン
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東ゾーン
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〇田園調布の家(大川邸)
1925年(大正14)に建てられた。
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従来のように座敷、客間が無く、居間を中心とした間取りが特徴。
女中部屋があるが、普通のサラリーマンの家でも女中を雇うのは可能だったそうで、一方で女性の働く場所が無かったことも物語っている。
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一室二面窓を確保するため、凹凸が多い。
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玄関灯が洒落ている。
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〇前川国男邸
東京文化会館、東京都美術館、埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立自然の博物館、国立国会図書館新館など設計した有名な建築家である。
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〇デ・ラランデ邸
明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館だった。北尾の逝去後、1910年(明治43年)頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となった。デ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築された。
三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』のモデルだとする説がある。
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〇八王子千人同心組頭の家
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「八王子千人同心」というのは、旧武田家臣団を家康がまとめて抱え、甲斐との国境警備のため八王子に住まわせた。
江戸城築城初期には、まさかの際に家康の江戸城脱出口としたのが半蔵門。服部半蔵配下が住んで固めたため、門の名前となっている。半蔵門から甲州街道は始まり八王子に至る。

半農半武士だったので、外観は農家みたいだが、囲炉裏が無いとか、付け書院があるとか、武士の家になっている。
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〇三井八郎右衛門邸
港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた。客間と食堂部分は、1897年(明治7)頃京都に建てられ、戦後港区に移築された。
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玄関ホールに下がっているのは、ルネ・ラリックのものだというから驚いた。
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和室に瀟洒なデザイン。
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二階廊下のシャンデリア
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仏間
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仏間の天井には龍が描かれている。
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洋間の間の欄間にはガラス窓のデザイン。
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素敵なサイドテーブルが。
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各所に優雅な花鳥が描かれている。
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〇高橋是清邸
2.26事件の現場です。
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この二階の部屋で高橋是清は殺されました。
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欄間の彫刻
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高橋是清の書「不忘念」
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ガラス障子のデザインがいい。
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看板建築の並びの奥に「子宝湯」がある。
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〇子宝湯
東京の銭湯を代表する建築。
宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』(2001年)の作画に参考にされた。
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大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻など贅をつくしている。
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脱衣所の高い格天井
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男湯
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女湯
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洗い場のタイル絵
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天井が高い。
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〇武居三省堂(文具店)
明治初期に創業した文具店。当初は書道用品の卸をしていたが、後に小売店に変わった。
建物は震災後に建てられた「看板建築」で前面がタイル貼り。
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内部
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〇丸二商店(荒物屋)
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店内は昭和10年代を再現。
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〇万世橋交番
明治時代のもの。
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〇皇居正門石橋飾電燈
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気に入った、代表的なものをアップしておきました。
2時間たっぷり見ることが出来て、大満足。

当初は、各自用意してきたお弁当で小金井公園の桜の下でお花見をしようという予定でしたが、この日は寒くて嫌がる参加者も居たので、皆でファミレスで昼食ということになった。

桜は満開で、わりと沢山の人たちが花見を楽しんでいた。

通りすがりに、桜を撮った。
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花小金井の駅に戻る途中で、ファミレスで昼食。
その後は、小平まで延びているグリーンロードの桜並木の下を歩いていった。
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途中、「小平ふるさと村」があったので、ちょっと立ち寄った。
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小平駅少し手前の、グリーンロード沿いにあったカフェで、コーヒーブレーク休憩してから、小平駅で電車に乗り帰途についた。



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令和

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新元号が決まった。
「令」は、まったく予想になかった。

テレビでいろいろな捉え方を語っていたが、「秩序ある平和」というのが私には一番しっくりくる。

万葉集の梅の花の序文からとられたそうだ。
序文「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」


今年撮った梅の花の中から、お気に入りの写真で飾っておこう。

「御詞(おことば)の梅」/埼玉県狭山市広福寺
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豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)/日本の神々の話

20190401

別称、豊受大神、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇[3]可乃売神、とよひるめ、等々。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。

『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。
『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。

神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになった。

伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。
『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。そのためその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出されてしまい、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。

尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たとも記されている。
また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という。

外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。
伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、奈具社(京都府竹野郡)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、稲荷神とトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある。

私は、品川の荏原神社、港区・芝大神宮、浦和・調神社、伊勢神宮外宮・豊受大神宮で参拝している。


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