金刀比羅宮(その三)
20200430
所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、次いで金刀比羅宮の参拝記事三回目です。
石段500段の「神椿」前を右に折れ、12段上がって書院の黒門・四脚門を眺めたあと、更に上がっていきます。


旭社まで上りきる少し手前、石段595段のところに広場があり、祓戸社と火雷社があります。
〇祓戸社
御祭神は祓戸四神といわれる、
瀨織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神です。
神道の真髄ともいうべき、罪穢を祓い清める神様です。本殿は流造・銅板葺です。


〇火雷社
火雷社には、火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神に座して、八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が合祀されています。鎮火・消防の神、疫病を防ぎ止める神といわれています。


その横に石灯篭が並んで居るが、そのうち二基の上に狛犬がいる。
私は、「石灯篭笠石上型」として分類している。





ここは、特別に犬連れで参拝できると聞いていましたが、やはりワンちゃん連れが居ました(嬉)

石段の先に雄大壮麗なる社が現れます。
これが、石松が間違えて御本宮だと思ってここに参拝して帰ってしまったという、旭社です。
御本宮参拝を済ませた帰路に旭社をお参りすることになっているそうなので、ここは後述。
石段628段

左側に旭社、それに面して廻廊があり、参道正面に黄銅鳥居があります。
〇黄銅鳥居
慶応3年(1867)に伊豫松山松齢講より献納された黄銅鳥居です。

黄銅鳥居のところに、「出雲・丸台座型」の狛犬がいる。





ちょっと上がって石段642段のところに、賢木門がある。
〇賢木門(さかきもん)
賢木門は、唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根をもち、他に類を見ない優麗温雅な様式を備えます。 「賢木門」はその昔「逆木門」と書きました。 天正年間(1573~1592)、長曽我部元親は兵を起こして諸州を侵略し、多くの神社仏閣を焼き払っていました。ある日、元親は琴平山の隣の大麻山に陣取ったのですが、その夜、琴平山の草木が全て敵兵に見え狂乱してしまいました。老臣らはこの出来事を、霊境付近を犯したための神罰である、と考えました。 そこで元親は罪を謹み、門を献納することにしました。ですが、建築を急ぐあまり、一本の柱を逆さまにつけてしまいました。そこで、その門は「逆木門」と呼ばれるようになりました。 明治12年(1879)の改築の際に、「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになりました。

逆さまにつけられた柱は、現在は宝物館に保存されているそうです。
賢木門の前には、岡崎型の狛犬がいる。




「賢木門」の扁額
「賢木門」の扁額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆です。


賢木門をくぐった先、石段653段右側に遙拝所があります。
〇遙拝所
皇廟(伊勢の神宮)や皇陵を遙拝する所です。流造・銅板葺の神籬殿と、切妻造・銅板葺の拜殿からなります。ともに明治13年(1880)の建築です。


遙拝所にも「出雲・丸台座型」の狛犬がいた。




遙拝所を経て数十歩の間を「闇峠」といいます。生い茂る木々に囲まれた静粛なところ。
そこにある花崗石神明造の鳥居をくぐった先が一段降りる石段があり。
〇マイナス1段
表参道から本宮まで石段を上る中、唯一下がるのはこの1段だけです。 御本宮までの石段は785段といわれていますが、実は、「上がる」石段は786段あります。一説によると、786の「な・や・む」と読める語呂を忌み嫌い、一段下げて785段にしたといわれます。
一段降りてから、振り返って撮ってます。

〇連籬橋(れんりばし)
連籬とは連なる「まがき」のことで 玉垣を表わします。
玉垣ということなので、これから内にある境内社は身内の神様たちということになります。

連籬橋を渡ると、正面に真須賀神社があります。
〇真須賀神社
御祭神は、建速須佐之男尊・奇稲田姫尊。本宮御祭神である大物主神の御祖神に当たります。
社殿は入母屋造・銅板葺です。


真須賀神社参道には、「浪花型」の狛犬がいる。




いよいよ、最後の登り、石段652段~785段の「御前四段坂」です。
〇御前四段坂
急な石段で、4段階に分かれ、各数十段あります。ここを上りきれば御本宮です。
御前四段坂ゴールドプレート
御前四段坂の一段目の左右に『御前四段坂ゴールドプレート』があります。金色に輝く真鍮製です。右側には「御前四段坂」、左側には「あと少し。御本宮まで133段!登って幸せ。福が来る!」と記されています。それぞれ、高さ75センチ、幅20センチです。香川県最大の観光地である金刀比羅宮を中心とする観光キャンペーン「ゴールドプロジェクト」(主催/ゴールドプロジェクト実行委員会、期間/2015年7月〜)の一環として設置されました。
右側しか撮ってなかった(汗)

急な石段だが、先が見えたので元気が出た(笑)

休憩しながら登る。

もう御本宮が見えているので、残りを楽しむつもりでゆっくり登る。

御前四段坂の途中、右手に御年神社と事知神社があります。
〇御年神社
祭神は、大年神・御年神・若年神です。大年神は素盞鳴尊の御子、御年神は大年神の御子、若年神は御年神の御弟神の御子です。
農作穀物を司る神です。社殿は流造・銅板葺です。

〇事知神社 石段739段
御祭神は、積羽八重事代主神・味鉏高彦根神・加夜鳴海神。
商売繁盛の神である夷様(えびすさま)として広く信仰される神様で、この三柱の大神は本宮御祭神である大物主神の御子神に当たります。


いい感じの、葵の紋が入ったと青銅灯篭があった。

やった!
登り切った(嬉)
石段785段!
御本宮の前に到着(嬉)

今回の記事はここまで。
次回は、本宮前広場からの素晴らしい讃岐平野の眺めなどを紹介します。
続いて「金刀比羅宮(その四)」の記事を見る
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参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、次いで金刀比羅宮の参拝記事三回目です。
石段500段の「神椿」前を右に折れ、12段上がって書院の黒門・四脚門を眺めたあと、更に上がっていきます。


旭社まで上りきる少し手前、石段595段のところに広場があり、祓戸社と火雷社があります。
〇祓戸社
御祭神は祓戸四神といわれる、
瀨織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神です。
神道の真髄ともいうべき、罪穢を祓い清める神様です。本殿は流造・銅板葺です。


〇火雷社
火雷社には、火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神に座して、八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が合祀されています。鎮火・消防の神、疫病を防ぎ止める神といわれています。


その横に石灯篭が並んで居るが、そのうち二基の上に狛犬がいる。
私は、「石灯篭笠石上型」として分類している。





ここは、特別に犬連れで参拝できると聞いていましたが、やはりワンちゃん連れが居ました(嬉)

石段の先に雄大壮麗なる社が現れます。
これが、石松が間違えて御本宮だと思ってここに参拝して帰ってしまったという、旭社です。
御本宮参拝を済ませた帰路に旭社をお参りすることになっているそうなので、ここは後述。
石段628段

左側に旭社、それに面して廻廊があり、参道正面に黄銅鳥居があります。
〇黄銅鳥居
慶応3年(1867)に伊豫松山松齢講より献納された黄銅鳥居です。

黄銅鳥居のところに、「出雲・丸台座型」の狛犬がいる。





ちょっと上がって石段642段のところに、賢木門がある。
〇賢木門(さかきもん)
賢木門は、唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根をもち、他に類を見ない優麗温雅な様式を備えます。 「賢木門」はその昔「逆木門」と書きました。 天正年間(1573~1592)、長曽我部元親は兵を起こして諸州を侵略し、多くの神社仏閣を焼き払っていました。ある日、元親は琴平山の隣の大麻山に陣取ったのですが、その夜、琴平山の草木が全て敵兵に見え狂乱してしまいました。老臣らはこの出来事を、霊境付近を犯したための神罰である、と考えました。 そこで元親は罪を謹み、門を献納することにしました。ですが、建築を急ぐあまり、一本の柱を逆さまにつけてしまいました。そこで、その門は「逆木門」と呼ばれるようになりました。 明治12年(1879)の改築の際に、「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになりました。

逆さまにつけられた柱は、現在は宝物館に保存されているそうです。
賢木門の前には、岡崎型の狛犬がいる。




「賢木門」の扁額
「賢木門」の扁額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆です。


賢木門をくぐった先、石段653段右側に遙拝所があります。
〇遙拝所
皇廟(伊勢の神宮)や皇陵を遙拝する所です。流造・銅板葺の神籬殿と、切妻造・銅板葺の拜殿からなります。ともに明治13年(1880)の建築です。


遙拝所にも「出雲・丸台座型」の狛犬がいた。




遙拝所を経て数十歩の間を「闇峠」といいます。生い茂る木々に囲まれた静粛なところ。
そこにある花崗石神明造の鳥居をくぐった先が一段降りる石段があり。
〇マイナス1段
表参道から本宮まで石段を上る中、唯一下がるのはこの1段だけです。 御本宮までの石段は785段といわれていますが、実は、「上がる」石段は786段あります。一説によると、786の「な・や・む」と読める語呂を忌み嫌い、一段下げて785段にしたといわれます。
一段降りてから、振り返って撮ってます。

〇連籬橋(れんりばし)
連籬とは連なる「まがき」のことで 玉垣を表わします。
玉垣ということなので、これから内にある境内社は身内の神様たちということになります。

連籬橋を渡ると、正面に真須賀神社があります。
〇真須賀神社
御祭神は、建速須佐之男尊・奇稲田姫尊。本宮御祭神である大物主神の御祖神に当たります。
社殿は入母屋造・銅板葺です。


真須賀神社参道には、「浪花型」の狛犬がいる。




いよいよ、最後の登り、石段652段~785段の「御前四段坂」です。
〇御前四段坂
急な石段で、4段階に分かれ、各数十段あります。ここを上りきれば御本宮です。
御前四段坂ゴールドプレート
御前四段坂の一段目の左右に『御前四段坂ゴールドプレート』があります。金色に輝く真鍮製です。右側には「御前四段坂」、左側には「あと少し。御本宮まで133段!登って幸せ。福が来る!」と記されています。それぞれ、高さ75センチ、幅20センチです。香川県最大の観光地である金刀比羅宮を中心とする観光キャンペーン「ゴールドプロジェクト」(主催/ゴールドプロジェクト実行委員会、期間/2015年7月〜)の一環として設置されました。
右側しか撮ってなかった(汗)

急な石段だが、先が見えたので元気が出た(笑)

休憩しながら登る。

もう御本宮が見えているので、残りを楽しむつもりでゆっくり登る。

御前四段坂の途中、右手に御年神社と事知神社があります。
〇御年神社
祭神は、大年神・御年神・若年神です。大年神は素盞鳴尊の御子、御年神は大年神の御子、若年神は御年神の御弟神の御子です。
農作穀物を司る神です。社殿は流造・銅板葺です。

〇事知神社 石段739段
御祭神は、積羽八重事代主神・味鉏高彦根神・加夜鳴海神。
商売繁盛の神である夷様(えびすさま)として広く信仰される神様で、この三柱の大神は本宮御祭神である大物主神の御子神に当たります。


いい感じの、葵の紋が入ったと青銅灯篭があった。

やった!
登り切った(嬉)
石段785段!
御本宮の前に到着(嬉)

今回の記事はここまで。
次回は、本宮前広場からの素晴らしい讃岐平野の眺めなどを紹介します。
続いて「金刀比羅宮(その四)」の記事を見る
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金刀比羅宮(その二)
20200427
所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、次いで金刀比羅宮の参拝記事二回目です。
〇大門
石段365段上がったところにあり。
神域の総門です。水戸光国の兄である松平頼重候から寄進されました。二層入母屋造・瓦葺です。

大門の前に、石造狛犬あり。





「琴平山」の額
楼上に揚げられた「琴平山」の額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆です。

左右の随神


大門をくぐる前に、振り向いて讃岐平野を眺める。


大門をくぐると、五人百姓の姿が。

〇五人百姓
古くからこんぴら名物となっていた加美代飴は、金刀比羅宮境内大門内にある5軒の飴屋のみが販売を許されておりました。
この5軒の飴屋の通称が「五人百姓」です。
五人百姓という呼び名は、御宮の神事における役目となります。先祖による御祭神の供奉を行っていた功労が称えられ、特別に境内での営業を許された5軒の称号なのです。

お土産に買って帰るつもりでいたので、立ち止まって眺めていたら声をかけられて、参拝が終わって降りてきたら戴くよと言ったら、五人百姓の皆さんは16時までしかここに居ないと云われ、ギリギリの感じなので買って以降ぶら下げて歩いた。

加美代飴はとてもシンプルな味の飴でした。
原材料は、砂糖・水飴・柚子油の3つからできているそうで、ほのかに柚子の香りがする、上品で優しい味の飴でした。
中に小さな小槌が入っていて、加美代飴をこの小槌細かくして食べるのです。

桜馬場の入り口に青銅製狛犬が居たのですが、もともと高いところに居て、その上片方は工事のあおりを受け、よく見えない(汗)






〇桜馬場
大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれます。道の両側に続く玉垣の内には、数十株の桜が植えられ、その間に無数の石燈籠が建てられています。
石段は365段~ 431段となる。
ちょっと上って少し行くと鳥居があり。


平坦な道がしばらく続く。
ちょうど桜が咲いていて、すばらしい桜の道となっていました。


桜馬場の右手の一段高い岡は、青葉岡と呼ばれます。青葉岡には宝物館と金毘羅庶民信仰資料収蔵庫があり、宝物や美術品が展示されています。
〇宝物館(登録有形文化財)
明治38年(1905)に建てられた石造、二階建て。
以前テレビで見ましたが、ここには義経着用の鎧、頼朝の鎧、武蔵坊弁慶が使用した刃こぼれがすごい大薙刀など、良いものが沢山あるが、この日は建物を眺めるだけにした。




琴陵光重歌碑
金刀比羅宮第21代宮司琴陵光重の歌碑です。平成11年(1999)に建立されました。


青銅の鳥居をくぐって石段を数十段のぼる。


石段を上がって、桜馬場を見下ろす。

ここは、「桜馬場西詰銅鳥居前広場」
ここには、有名な「こんぴら狗」が居ます。
〇こんぴら狗の銅像
イラストレーターの湯村輝彦さんのデザインです。



江戸時代、庶民は旅行を禁止されていましたが、神仏への参拝の場合はその限りではありませんでした。数ある神社仏閣のなかでも、伊勢神宮への参拝の旅は特別で、庶民にとって一生に一度の夢であり、「お伊勢参り」と言われました。それに並び「丸金か京六か」と言われ、讃岐の金毘羅大権現(今の金刀比羅宮)と、京都六条の東西本願寺への参拝の旅も人生の一大イベントでした。
当時、江戸を中心とした東日本の各地からこれらの社寺への参拝の旅は大変なことで、当人に代わって旅慣れた人が代理で参拝に行くことがありました。これを「代参」と言いました。旅を途中で諦めることにした人が、道中で知り合った旅人に旅費と初穂料(お賽銭)を託し代参してもらうこともあったようです。 金毘羅大権現への代参で有名なのが森石松です。清水次郎長(山本長五郎)の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝えられています。
実は、代参をしたのは“人”だけではなかったのです。「こんぴら参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代参をすることもあったのです。 袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っていました。犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、目的地にたどり着いたのです。
金毘羅大権現へたどり着いた犬も、そんなのどかな風習により、立派に務めを果たしたのでしょう。この「こんぴら参り」の代参をした犬は、特に「こんぴら狗」と呼ばれたのです。
桜馬場西詰銅鳥居の前にも、立派な狛犬が居た。





桜馬場西詰銅鳥居
平坦な桜馬場を進み、青銅の鳥居をくぐって石段を数十段のぼると、正面に特に大きな鳥居が現れます。桜馬場西詰銅鳥居です。元は高燈籠の東側にあったものを、大正元年(1912)に力士の12代目朝日山四郎右衛門が現在の場所に移設して修復しました。

大きな銅鳥居をくぐり、しばらく石段を上がり突き当たったところの右側に社務所門がある。
〇社務所門
掲示板に向かって右側に、切妻造平入・銅葺の大きな門があります。この門は書院の勝手口なのですが、社務所が書院に付属していた頃の名残で社務所門と呼ばれます。

書院勝手口と社務所
ここでお守りなどを購入できます。

表書院(重要文化財):万治2年(1659年)に建立された書院造りによる建物。
内部の五間には円山応挙が、邨田丹陵が二間、森寛斎が一間の障壁画が飾られている。また前池躍魚と称される池泉鑑賞式庭園林泉や蹴鞠が催される前庭が鑑賞できる。一般公開されている。
社務所門で左折すると、石段500段で玉垣と石畳の広場に至ります。
この辺でちょっとバテていて、写真を撮らなかったが、この広場には東京銀座の資生堂パーラー カフェ&レストラン「神椿」、木馬舎があります。
神椿から石段を12段上り、石段512段の参道右側に黒門がある。
黒門から奥に四脚門が見える。
〇四脚門(重要文化財)
黒門のさらに向こうに見えるのは、切妻造平入・瓦葺の四脚門です。書院の正門です。黒門・四脚門は、社務所が書院に付属していた頃、勅使が来社される際や皇族・幣帛供進使が参向する場合に用いられました。現在、黒門・四脚門は普段は閉まっていて通れません。


今回は、ここまで。
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「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、次いで金刀比羅宮の参拝記事二回目です。
〇大門
石段365段上がったところにあり。
神域の総門です。水戸光国の兄である松平頼重候から寄進されました。二層入母屋造・瓦葺です。

大門の前に、石造狛犬あり。





「琴平山」の額
楼上に揚げられた「琴平山」の額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆です。

左右の随神


大門をくぐる前に、振り向いて讃岐平野を眺める。


大門をくぐると、五人百姓の姿が。

〇五人百姓
古くからこんぴら名物となっていた加美代飴は、金刀比羅宮境内大門内にある5軒の飴屋のみが販売を許されておりました。
この5軒の飴屋の通称が「五人百姓」です。
五人百姓という呼び名は、御宮の神事における役目となります。先祖による御祭神の供奉を行っていた功労が称えられ、特別に境内での営業を許された5軒の称号なのです。

お土産に買って帰るつもりでいたので、立ち止まって眺めていたら声をかけられて、参拝が終わって降りてきたら戴くよと言ったら、五人百姓の皆さんは16時までしかここに居ないと云われ、ギリギリの感じなので買って以降ぶら下げて歩いた。

加美代飴はとてもシンプルな味の飴でした。
原材料は、砂糖・水飴・柚子油の3つからできているそうで、ほのかに柚子の香りがする、上品で優しい味の飴でした。
中に小さな小槌が入っていて、加美代飴をこの小槌細かくして食べるのです。

桜馬場の入り口に青銅製狛犬が居たのですが、もともと高いところに居て、その上片方は工事のあおりを受け、よく見えない(汗)






〇桜馬場
大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれます。道の両側に続く玉垣の内には、数十株の桜が植えられ、その間に無数の石燈籠が建てられています。
石段は365段~ 431段となる。
ちょっと上って少し行くと鳥居があり。


平坦な道がしばらく続く。
ちょうど桜が咲いていて、すばらしい桜の道となっていました。


桜馬場の右手の一段高い岡は、青葉岡と呼ばれます。青葉岡には宝物館と金毘羅庶民信仰資料収蔵庫があり、宝物や美術品が展示されています。
〇宝物館(登録有形文化財)
明治38年(1905)に建てられた石造、二階建て。
以前テレビで見ましたが、ここには義経着用の鎧、頼朝の鎧、武蔵坊弁慶が使用した刃こぼれがすごい大薙刀など、良いものが沢山あるが、この日は建物を眺めるだけにした。




琴陵光重歌碑
金刀比羅宮第21代宮司琴陵光重の歌碑です。平成11年(1999)に建立されました。


青銅の鳥居をくぐって石段を数十段のぼる。


石段を上がって、桜馬場を見下ろす。

ここは、「桜馬場西詰銅鳥居前広場」
ここには、有名な「こんぴら狗」が居ます。
〇こんぴら狗の銅像
イラストレーターの湯村輝彦さんのデザインです。



江戸時代、庶民は旅行を禁止されていましたが、神仏への参拝の場合はその限りではありませんでした。数ある神社仏閣のなかでも、伊勢神宮への参拝の旅は特別で、庶民にとって一生に一度の夢であり、「お伊勢参り」と言われました。それに並び「丸金か京六か」と言われ、讃岐の金毘羅大権現(今の金刀比羅宮)と、京都六条の東西本願寺への参拝の旅も人生の一大イベントでした。
当時、江戸を中心とした東日本の各地からこれらの社寺への参拝の旅は大変なことで、当人に代わって旅慣れた人が代理で参拝に行くことがありました。これを「代参」と言いました。旅を途中で諦めることにした人が、道中で知り合った旅人に旅費と初穂料(お賽銭)を託し代参してもらうこともあったようです。 金毘羅大権現への代参で有名なのが森石松です。清水次郎長(山本長五郎)の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝えられています。
実は、代参をしたのは“人”だけではなかったのです。「こんぴら参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代参をすることもあったのです。 袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っていました。犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされ、目的地にたどり着いたのです。
金毘羅大権現へたどり着いた犬も、そんなのどかな風習により、立派に務めを果たしたのでしょう。この「こんぴら参り」の代参をした犬は、特に「こんぴら狗」と呼ばれたのです。
桜馬場西詰銅鳥居の前にも、立派な狛犬が居た。





桜馬場西詰銅鳥居
平坦な桜馬場を進み、青銅の鳥居をくぐって石段を数十段のぼると、正面に特に大きな鳥居が現れます。桜馬場西詰銅鳥居です。元は高燈籠の東側にあったものを、大正元年(1912)に力士の12代目朝日山四郎右衛門が現在の場所に移設して修復しました。

大きな銅鳥居をくぐり、しばらく石段を上がり突き当たったところの右側に社務所門がある。
〇社務所門
掲示板に向かって右側に、切妻造平入・銅葺の大きな門があります。この門は書院の勝手口なのですが、社務所が書院に付属していた頃の名残で社務所門と呼ばれます。

書院勝手口と社務所
ここでお守りなどを購入できます。

表書院(重要文化財):万治2年(1659年)に建立された書院造りによる建物。
内部の五間には円山応挙が、邨田丹陵が二間、森寛斎が一間の障壁画が飾られている。また前池躍魚と称される池泉鑑賞式庭園林泉や蹴鞠が催される前庭が鑑賞できる。一般公開されている。
社務所門で左折すると、石段500段で玉垣と石畳の広場に至ります。
この辺でちょっとバテていて、写真を撮らなかったが、この広場には東京銀座の資生堂パーラー カフェ&レストラン「神椿」、木馬舎があります。
神椿から石段を12段上り、石段512段の参道右側に黒門がある。
黒門から奥に四脚門が見える。
〇四脚門(重要文化財)
黒門のさらに向こうに見えるのは、切妻造平入・瓦葺の四脚門です。書院の正門です。黒門・四脚門は、社務所が書院に付属していた頃、勅使が来社される際や皇族・幣帛供進使が参向する場合に用いられました。現在、黒門・四脚門は普段は閉まっていて通れません。


今回は、ここまで。
続いて「金刀比羅宮(その三)」の記事を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
金刀比羅宮(その一)
20200423
所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、ことでん「一宮」駅に戻りました。ここから琴平駅まで行き、この日最後の目的地「金刀比羅宮」に参拝します。
ことでん一宮駅のホームからは、讃岐富士が見えて嬉しかった。

琴平に向かうことでんの車窓からも讃岐富士が見えていた。

ことでん琴平駅に13:38に到着。
早朝に宿を出て、予定時間を死守してきたので、JR琴平駅乗車予定17:25まで、3時間47分あり。これで本殿までの785段の石段は、かなり余裕をもって登れる(嬉)

駅のロッカーに荷物を入れて、身軽な恰好となる。
〇高燈篭
琴電琴平駅の隣に建つ。万延元年(1860)完成で、高さ約27m。(重要有形民俗文化財)
瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていました。
高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されているそうです。





〇大宮鳥居
琴電琴平駅のすぐ横の金倉川に架かる大宮橋の手前に立つ。

金刀比羅宮概要:
神仏習合により真言宗の象頭山松尾寺金光院となり、象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
かつては、金刀比羅宮と倉敷市にある由加山(蓮台寺、由加神社本宮)の両方を参拝する「両参り」という習慣があったといわれている。
大宮橋からの金倉川の眺め。

大宮橋を直進し、突き当たりを左に曲がると門前町。
いままで我慢してきて腹ぺこで、うどんが食べたいと思っていたので、「金比羅うどん」というお店があったので飛び込んだ。

美味でございました(嬉)
そしたら、4月13日の「鶴瓶の家族に乾杯」でケストが北島康介さんだったが、鶴瓶師匠が毎年うどんを送ってもらう店だと、この店を訪問。お店の若い人がナショナルトレーニングセンターで、北島康介さんのコーチ・平井氏に教わったという話で盛り上がっていた。
そこからしばらく歩いて右に曲がると、石段が始まるまで随分と賑やかな門前市が広がっていた。

さあ、石段が始まる。


おっ!
石松が居る(笑)
「こんぴら代参」の話は面白いね。

このように、今何段目か教えてくれます。

〇一之坂鳥居
脚だけ。
振り返っての撮影を忘れてしまい、全景はありません(汗)
備前焼狛犬が居ます。

〇備前焼狛犬
一之坂鳥居の両側にいる。天保15年(1844)奉納され、高さ約5尺(重要有形民俗文化財)





〇灯明堂・釣燈籠
石段に沿って立ち中に数基の灯籠が並んで吊るされている。安政5年(1858)建築(重要有形民俗文化財)
隙間から覗き込んだが、釣燈籠は皆目わからなかった。



エッチラ、オッチラ登ります。

綺麗に桜が咲いていた。

皆さん、喜んで撮っていました。

294段目に来ました。

〇金刀比羅本教総本部:明治10年(1877)建築。
祭神は金刀比羅大神とし、教祖は第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主(象頭山松尾寺)の金剛坊宥盛を厳魂彦命(いづたまひこのみこと)として祀る。中世・近世の金毘羅講を現代に継承し、明治維新以後の金刀比羅本宮崇敬講社・金刀比羅本宮崇敬講社を再組織して教団化することを宗旨とする。入信には改宗が必要とされる。
『ことひら』が定期刊行されているそうです。




〇青銅大灯篭


宝珠も、龍の蕨手から風鐸が下がっている笠も立派だ。

火袋は、透かしの模様と「常夜灯」の文字。
中台の格狭間には童子の彫刻。受花も立派。

竿には、龍が巻き付いている。

台座には、反花の部分に宝尽くしの彫刻を施した格狭間を鬼が支えている。その下に更に象とか巨人とか不思議な彫刻を施した大きな格狭間がある。

立派な青銅大灯篭だった。
大門に到着。

〇鼓楼(ころう)と清塚
大門傍にあり、中にある時太鼓は今も朝夕に打ち鳴らされる。造りが城に似ていることから「琴平城」とも呼ばれている。宝永7年(1710)建築。
清塚は鼓楼脇にあり清少納言の墓と時の別当は考えたと云われている。


今回の記事は、ここまで。
次回は、大門からの記事とします。
金比羅宮の続き「その二」を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、ことでん「一宮」駅に戻りました。ここから琴平駅まで行き、この日最後の目的地「金刀比羅宮」に参拝します。
ことでん一宮駅のホームからは、讃岐富士が見えて嬉しかった。

琴平に向かうことでんの車窓からも讃岐富士が見えていた。

ことでん琴平駅に13:38に到着。
早朝に宿を出て、予定時間を死守してきたので、JR琴平駅乗車予定17:25まで、3時間47分あり。これで本殿までの785段の石段は、かなり余裕をもって登れる(嬉)

駅のロッカーに荷物を入れて、身軽な恰好となる。
〇高燈篭
琴電琴平駅の隣に建つ。万延元年(1860)完成で、高さ約27m。(重要有形民俗文化財)
瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていました。
高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されているそうです。





〇大宮鳥居
琴電琴平駅のすぐ横の金倉川に架かる大宮橋の手前に立つ。

金刀比羅宮概要:
神仏習合により真言宗の象頭山松尾寺金光院となり、象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
かつては、金刀比羅宮と倉敷市にある由加山(蓮台寺、由加神社本宮)の両方を参拝する「両参り」という習慣があったといわれている。
大宮橋からの金倉川の眺め。

大宮橋を直進し、突き当たりを左に曲がると門前町。
いままで我慢してきて腹ぺこで、うどんが食べたいと思っていたので、「金比羅うどん」というお店があったので飛び込んだ。

美味でございました(嬉)
そしたら、4月13日の「鶴瓶の家族に乾杯」でケストが北島康介さんだったが、鶴瓶師匠が毎年うどんを送ってもらう店だと、この店を訪問。お店の若い人がナショナルトレーニングセンターで、北島康介さんのコーチ・平井氏に教わったという話で盛り上がっていた。
そこからしばらく歩いて右に曲がると、石段が始まるまで随分と賑やかな門前市が広がっていた。

さあ、石段が始まる。


おっ!
石松が居る(笑)
「こんぴら代参」の話は面白いね。

このように、今何段目か教えてくれます。

〇一之坂鳥居
脚だけ。
振り返っての撮影を忘れてしまい、全景はありません(汗)
備前焼狛犬が居ます。

〇備前焼狛犬
一之坂鳥居の両側にいる。天保15年(1844)奉納され、高さ約5尺(重要有形民俗文化財)





〇灯明堂・釣燈籠
石段に沿って立ち中に数基の灯籠が並んで吊るされている。安政5年(1858)建築(重要有形民俗文化財)
隙間から覗き込んだが、釣燈籠は皆目わからなかった。



エッチラ、オッチラ登ります。

綺麗に桜が咲いていた。

皆さん、喜んで撮っていました。

294段目に来ました。

〇金刀比羅本教総本部:明治10年(1877)建築。
祭神は金刀比羅大神とし、教祖は第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主(象頭山松尾寺)の金剛坊宥盛を厳魂彦命(いづたまひこのみこと)として祀る。中世・近世の金毘羅講を現代に継承し、明治維新以後の金刀比羅本宮崇敬講社・金刀比羅本宮崇敬講社を再組織して教団化することを宗旨とする。入信には改宗が必要とされる。
『ことひら』が定期刊行されているそうです。




〇青銅大灯篭


宝珠も、龍の蕨手から風鐸が下がっている笠も立派だ。

火袋は、透かしの模様と「常夜灯」の文字。
中台の格狭間には童子の彫刻。受花も立派。

竿には、龍が巻き付いている。

台座には、反花の部分に宝尽くしの彫刻を施した格狭間を鬼が支えている。その下に更に象とか巨人とか不思議な彫刻を施した大きな格狭間がある。

立派な青銅大灯篭だった。
大門に到着。

〇鼓楼(ころう)と清塚
大門傍にあり、中にある時太鼓は今も朝夕に打ち鳴らされる。造りが城に似ていることから「琴平城」とも呼ばれている。宝永7年(1710)建築。
清塚は鼓楼脇にあり清少納言の墓と時の別当は考えたと云われている。


今回の記事は、ここまで。
次回は、大門からの記事とします。
金比羅宮の続き「その二」を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
讃岐国一之宮・田村神社(後半)
20200419
所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き当社に参拝しましたが、前回正門参道から入り当社社殿にお参りしたところまで記事にしました。
今回は、夥しい数の境内社に参拝します。
まずは、社殿前の鳥居のところに祀られている歳徳神社から。
〇歳徳神社
祭神:大年神

歳徳神社入口には、青銅製の狛犬が居る。


田村神社と同じくらいの宇都伎社の鳥居が並んで立つ。
〇宇都伎社
祭神:大地主神 倉稻魂神


鳥居の所には、左右に十二支の像が並んで居る。


その先には、大きな龍の像が。


その横に、まだ小ぶりだが綺麗な枝垂れ桜が見事に咲いていた。



社殿の前には、金の大黒天像があった。


社殿の右前には、「わらべ七福神」が勢ぞろい。

〇姫の宮とむすび石
宇都伎社の左前にあり。


〇淡島社
祭神:淡島神(女性を守る神)
「淡島社鳥居」。ここは妊婦の女性が這いながら通ることで、安産を祈願するという面白いお社だ。

〇素婆倶羅社
祭神:少名毘古那神、大年神、塞神、大水大神、菅原神

〇宮島社
祭神:市杵島姫命


宮島社の社殿の近くには、弁才天の像が二体あり。

〇天満宮
祭神:菅原道真公

向拝武天井の花鳥画

回廊に、龍の形をした枯れ枝があり。

ここで、グルッと北の大鳥居に行き、そこから入っていく。

〇「お迎え布袋尊」
当社は、「さぬき七福神」のなかで布袋尊を祀っているので、大きな金の布袋尊像があり。


〇ご神木の大楠。


〇鐘楼門
二頭の龍が居る鳥居から入る。

デカいタヌキも居る。

一つの石に「さぬき七福神」が彫りこまれたものがあった。


「さぬき七福神」とは:
①滝宮天満宮(香川県綾歌郡綾川町滝宮1321-2 ) 福禄寿
②國分寺(香川県高松市国分寺町国分2065 ) 弁財天
③香西寺(香川県高松市香西西町211) 毘沙門天
④田村神社(香川県高松市一宮町286 ) 布袋尊
⑤法然寺(香川県高松市仏生山町甲3215-1) 大黒天
⑥與田寺(香川県東かがわ市中筋466 ) 寿老人
⑦白鳥神社(香川県東かがわ市松原69 ) 恵比寿神
鐘楼門

鐘楼門の柱は、白虎や鳳凰、龍などが彫られた立派なものだ。


〇倭迹迹日百襲姫と吉備津彦命
ご祭神である倭迹迹日百襲姫と、同じく田村神社のご祭神である五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)は倭迹迹日百襲姫の弟で、別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)といいます。桃太郎のモデルになった神様です。

北の参道の入り口には、出雲構え型の狛犬が居た。



北の参道の途中には、「さぬき獅子」も飾ってあった。

〇海軍少年飛行兵の碑

これで参拝を終え、ことでん「一宮」へ向かおうと参道を歩いていたら、讃岐富士が見えるのに気が付いた。
讃岐富士の初見である。
やはり、良いかたちだ。

ことでん「一宮」へ戻り、琴平に向かう電車を待つホームで、線路の正面に讃岐富士が大きく見えた。
感激。

続いて「金刀比羅宮」の記事見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き当社に参拝しましたが、前回正門参道から入り当社社殿にお参りしたところまで記事にしました。
今回は、夥しい数の境内社に参拝します。
まずは、社殿前の鳥居のところに祀られている歳徳神社から。
〇歳徳神社
祭神:大年神

歳徳神社入口には、青銅製の狛犬が居る。


田村神社と同じくらいの宇都伎社の鳥居が並んで立つ。
〇宇都伎社
祭神:大地主神 倉稻魂神


鳥居の所には、左右に十二支の像が並んで居る。


その先には、大きな龍の像が。


その横に、まだ小ぶりだが綺麗な枝垂れ桜が見事に咲いていた。



社殿の前には、金の大黒天像があった。


社殿の右前には、「わらべ七福神」が勢ぞろい。

〇姫の宮とむすび石
宇都伎社の左前にあり。


〇淡島社
祭神:淡島神(女性を守る神)
「淡島社鳥居」。ここは妊婦の女性が這いながら通ることで、安産を祈願するという面白いお社だ。

〇素婆倶羅社
祭神:少名毘古那神、大年神、塞神、大水大神、菅原神

〇宮島社
祭神:市杵島姫命


宮島社の社殿の近くには、弁才天の像が二体あり。

〇天満宮
祭神:菅原道真公

向拝武天井の花鳥画

回廊に、龍の形をした枯れ枝があり。

ここで、グルッと北の大鳥居に行き、そこから入っていく。

〇「お迎え布袋尊」
当社は、「さぬき七福神」のなかで布袋尊を祀っているので、大きな金の布袋尊像があり。


〇ご神木の大楠。


〇鐘楼門
二頭の龍が居る鳥居から入る。

デカいタヌキも居る。

一つの石に「さぬき七福神」が彫りこまれたものがあった。


「さぬき七福神」とは:
①滝宮天満宮(香川県綾歌郡綾川町滝宮1321-2 ) 福禄寿
②國分寺(香川県高松市国分寺町国分2065 ) 弁財天
③香西寺(香川県高松市香西西町211) 毘沙門天
④田村神社(香川県高松市一宮町286 ) 布袋尊
⑤法然寺(香川県高松市仏生山町甲3215-1) 大黒天
⑥與田寺(香川県東かがわ市中筋466 ) 寿老人
⑦白鳥神社(香川県東かがわ市松原69 ) 恵比寿神
鐘楼門

鐘楼門の柱は、白虎や鳳凰、龍などが彫られた立派なものだ。


〇倭迹迹日百襲姫と吉備津彦命
ご祭神である倭迹迹日百襲姫と、同じく田村神社のご祭神である五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)は倭迹迹日百襲姫の弟で、別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)といいます。桃太郎のモデルになった神様です。

北の参道の入り口には、出雲構え型の狛犬が居た。



北の参道の途中には、「さぬき獅子」も飾ってあった。

〇海軍少年飛行兵の碑

これで参拝を終え、ことでん「一宮」へ向かおうと参道を歩いていたら、讃岐富士が見えるのに気が付いた。
讃岐富士の初見である。
やはり、良いかたちだ。

ことでん「一宮」へ戻り、琴平に向かう電車を待つホームで、線路の正面に讃岐富士が大きく見えた。
感激。

続いて「金刀比羅宮」の記事見る
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讃岐国一之宮・田村神社(前半)
20200415
所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで着きました。
そこから徒歩10分ほどで、当社に着きました。
入口に社号標、石灯篭、狛犬があり、その奥に一の鳥居があります。

社号標
式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。
神社公式サイトで紹介している、奥殿深淵に棲む龍の話:
①明暦元年(1655)神社より社殿の改築工事の申請を受けた普請奉行竹村斉庵(たけむらさいあん)は、神官へ社の下の淵を見たいと言い出した。
困った神官はどんな祟りがあるか分からないと断ったが、それでも是非見たいと言うので、 神官はそれではと淵を見せた所しばらくして水が逆巻き上り、其の中から龍が紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斉庵をにらんだ。
斉庵は心地悪くなり、駕籠で家に帰り、家内へその仔細をいいつつ死んでしまった。
②その後工事も半ばになった時、淵の蓋の真中に二尺ほどの穴が明いていて、その穴へ鑿(のみ)を落とし込んでしまった。
するとしばらくして竜が現れその鑿を角に掛けて差出した。
大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ大工はたちまちに死んでしまった。
境内図

事前に調べた感じでは、めちゃくちゃ境内社が多い。
しかし、この後に785段上がらなければいけない金刀比羅宮参拝を控えており、そこには充分時間を残しておきたいので、予定の時間を守るため、ちょっと慌ただしい参拝となった。
入口から随神門までの参道に、三組もの狛犬が居た。
一組目の石造狛犬。

通常と異なり、向かって右側が吽形となっている。


左側が阿形。


通常の向きの、向かって右側が阿形というのは、中国の天子に倣い我が国の天皇も必ず南面して座る。それに倣い神様も南面を通常とする。そうすると太陽は(神に向かって)右側(東)から上り、左側に沈むので、向かって右側が(神から見たら左側)が上位となる。
一方、「阿」は梵字で初韻であり「始まり」、「吽」は後韻であり「終」を意味するので、通常は阿形を神に向かって右側とする。
一方、陰陽学では、「阿」を陽とし雄として、「吽」を陰とし雌とする。
従って、ご祭神が女性の神社の場合には、向かって右側が上位であるので、吽形を右側に置く場合が見られる。
田村神社の主祭神が倭迹迹日百襲姫命であり女性なので、それに拠ったと考えられる。
結果としては、ここでは両方が混在していたが。
一の鳥居から随神門までまっすぐ参道が延びる。

中ほどに、二組目の青銅製狛犬があり、これも向かって右側が吽形となっている。




柱型の二の鳥居がある。

右側の柱

左側の柱

随神門(高麗門)

随神門の前にも狛犬が居る。

この狛犬は、通常の向かって右側が阿形である。




随神門とあるが、随神像はなく、造りから高麗門である。


手水舎


その先に、鳥居と社殿が見える。

鳥居をくぐると、「左近の桜」と「右近の橘」がある。
「左近の桜」

幾つかが開いてくれていた。

「右近の橘」


拝殿
入母屋造り。明治十年再建。

大きな唐破風に続く屋根は、優美な檜皮葺である。


拝殿内部

社額には「正一位田村大明神」とあり。

拝殿は入母屋造り。

奥殿本殿は、拝殿側からはわずかに屋根しか見えず。

奥に廻って、ようやく本殿は見えた。
春日造り。宝永七年(1710)松平氏の造営。

御神座は奥殿にあり奥殿の前方は本殿に接続し、床下に深淵があるのは洵に社殿構設上の異例である。
ご祭神:
•倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
•五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと、=吉備津彦命)
配祀:
•猿田彦大神
•天隠山命 (あめのかごやまのみこと、=高倉下命)
•天五田根命 (あめのいたねのみこと、=天村雲命)
倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(襲は勲功の約)の名を負う。
後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。
天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。
神紋は「五七桐」

続いて、たくさんの境内社への参拝だが、次回の記事とする。
田村神社(後半)を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで着きました。
そこから徒歩10分ほどで、当社に着きました。
入口に社号標、石灯篭、狛犬があり、その奥に一の鳥居があります。

社号標
式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。
神社公式サイトで紹介している、奥殿深淵に棲む龍の話:
①明暦元年(1655)神社より社殿の改築工事の申請を受けた普請奉行竹村斉庵(たけむらさいあん)は、神官へ社の下の淵を見たいと言い出した。
困った神官はどんな祟りがあるか分からないと断ったが、それでも是非見たいと言うので、 神官はそれではと淵を見せた所しばらくして水が逆巻き上り、其の中から龍が紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斉庵をにらんだ。
斉庵は心地悪くなり、駕籠で家に帰り、家内へその仔細をいいつつ死んでしまった。
②その後工事も半ばになった時、淵の蓋の真中に二尺ほどの穴が明いていて、その穴へ鑿(のみ)を落とし込んでしまった。
するとしばらくして竜が現れその鑿を角に掛けて差出した。
大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ大工はたちまちに死んでしまった。
境内図

事前に調べた感じでは、めちゃくちゃ境内社が多い。
しかし、この後に785段上がらなければいけない金刀比羅宮参拝を控えており、そこには充分時間を残しておきたいので、予定の時間を守るため、ちょっと慌ただしい参拝となった。
入口から随神門までの参道に、三組もの狛犬が居た。
一組目の石造狛犬。

通常と異なり、向かって右側が吽形となっている。


左側が阿形。


通常の向きの、向かって右側が阿形というのは、中国の天子に倣い我が国の天皇も必ず南面して座る。それに倣い神様も南面を通常とする。そうすると太陽は(神に向かって)右側(東)から上り、左側に沈むので、向かって右側が(神から見たら左側)が上位となる。
一方、「阿」は梵字で初韻であり「始まり」、「吽」は後韻であり「終」を意味するので、通常は阿形を神に向かって右側とする。
一方、陰陽学では、「阿」を陽とし雄として、「吽」を陰とし雌とする。
従って、ご祭神が女性の神社の場合には、向かって右側が上位であるので、吽形を右側に置く場合が見られる。
田村神社の主祭神が倭迹迹日百襲姫命であり女性なので、それに拠ったと考えられる。
結果としては、ここでは両方が混在していたが。
一の鳥居から随神門までまっすぐ参道が延びる。

中ほどに、二組目の青銅製狛犬があり、これも向かって右側が吽形となっている。




柱型の二の鳥居がある。

右側の柱

左側の柱

随神門(高麗門)

随神門の前にも狛犬が居る。

この狛犬は、通常の向かって右側が阿形である。




随神門とあるが、随神像はなく、造りから高麗門である。


手水舎


その先に、鳥居と社殿が見える。

鳥居をくぐると、「左近の桜」と「右近の橘」がある。
「左近の桜」

幾つかが開いてくれていた。

「右近の橘」


拝殿
入母屋造り。明治十年再建。

大きな唐破風に続く屋根は、優美な檜皮葺である。


拝殿内部

社額には「正一位田村大明神」とあり。

拝殿は入母屋造り。

奥殿本殿は、拝殿側からはわずかに屋根しか見えず。

奥に廻って、ようやく本殿は見えた。
春日造り。宝永七年(1710)松平氏の造営。

御神座は奥殿にあり奥殿の前方は本殿に接続し、床下に深淵があるのは洵に社殿構設上の異例である。
ご祭神:
•倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
•五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと、=吉備津彦命)
配祀:
•猿田彦大神
•天隠山命 (あめのかごやまのみこと、=高倉下命)
•天五田根命 (あめのいたねのみこと、=天村雲命)
倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(襲は勲功の約)の名を負う。
後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。
天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。
神紋は「五七桐」

続いて、たくさんの境内社への参拝だが、次回の記事とする。
田村神社(後半)を見る
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阿波国一之宮・大麻比古(おおあさひこ)神社(後半)
20200413
所在地:徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に続く阿波国一之宮・大麻比古神社参拝の後半の記事です。
拝殿
昭和45年(1970年)再建

重厚な拝殿の向拝部分



本殿
明治13年(1880年)に国費を以って再建。


主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
神紋は「麻の葉」

末社・豊受社
祭神:豊受大神

末社・山神社
祭神:大山祇神

末社・中宮社
祭神:不詳

奥宮・峯神社遥拝所
祭神:峯大神(津咋見命)

心願の鏡池


めがね橋



ドイツ橋




当社に参拝を終え、板東駅に戻って列車を待っている時に、駅に置いてあったパンフレットを見て、今でもずいぶんとドイツと交流があるんだな、と思った。

そしたら、家に戻って三日後・28日の朝日新聞の「天声人語」に、これが取り上げられていた。
当時の捕虜収容所の所長さんが元会津藩士で、暮らしは困窮、陸軍に入ると冷遇されたなどの経験から、「敗者を辱めてはならぬ」との信念でドイツ兵を守ったようだ。
「第九」のアジア初演も、ここ板東なのも知った。
ユネスコの「世界の記憶」遺産に登録されることを願います。
また、いい話を知って心が温かくなった。


ドイツ橋の奥に、丸山稲荷と丸山社がある。


石段の所々に、スミレが咲いていた。


末社・丸山稲荷社
祭神:倉稲魂神


末社・丸山社
祭神:丸山神

平成19年奉納の狛犬が居る。

丸山社社殿

鳴門神海五国龍王神

本殿のほうに戻ってくると、横の桜が日に映えて綺麗だった。

末社・水神社
祭神:水波女神

末社・西宮社
祭神:天照皇大神


ここの狛犬が素晴らしかった。
ここの神社には5組の狛犬が居たが、一番良いなと思ったのは、これである。
瓦製である。




これで、当社の参拝は全て終り、入り口の辺まで戻り、ホッと一息ついた。

次に向かうのに、JR板東駅に20分くらい歩いて、9:05の列車に乗りたいので、8:30まで休憩してから板東駅に向かった。
次の目的地「讃岐国一之宮・田村神社」に行くため、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで行った。
「讃岐国一之宮・田村神社」の記事を見る
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参拝日:2020年3月23日
主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に続く阿波国一之宮・大麻比古神社参拝の後半の記事です。
拝殿
昭和45年(1970年)再建

重厚な拝殿の向拝部分



本殿
明治13年(1880年)に国費を以って再建。


主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
神紋は「麻の葉」

末社・豊受社
祭神:豊受大神

末社・山神社
祭神:大山祇神

末社・中宮社
祭神:不詳

奥宮・峯神社遥拝所
祭神:峯大神(津咋見命)

心願の鏡池


めがね橋



ドイツ橋




当社に参拝を終え、板東駅に戻って列車を待っている時に、駅に置いてあったパンフレットを見て、今でもずいぶんとドイツと交流があるんだな、と思った。

そしたら、家に戻って三日後・28日の朝日新聞の「天声人語」に、これが取り上げられていた。
当時の捕虜収容所の所長さんが元会津藩士で、暮らしは困窮、陸軍に入ると冷遇されたなどの経験から、「敗者を辱めてはならぬ」との信念でドイツ兵を守ったようだ。
「第九」のアジア初演も、ここ板東なのも知った。
ユネスコの「世界の記憶」遺産に登録されることを願います。
また、いい話を知って心が温かくなった。


ドイツ橋の奥に、丸山稲荷と丸山社がある。


石段の所々に、スミレが咲いていた。


末社・丸山稲荷社
祭神:倉稲魂神


末社・丸山社
祭神:丸山神

平成19年奉納の狛犬が居る。

丸山社社殿

鳴門神海五国龍王神

本殿のほうに戻ってくると、横の桜が日に映えて綺麗だった。

末社・水神社
祭神:水波女神

末社・西宮社
祭神:天照皇大神


ここの狛犬が素晴らしかった。
ここの神社には5組の狛犬が居たが、一番良いなと思ったのは、これである。
瓦製である。




これで、当社の参拝は全て終り、入り口の辺まで戻り、ホッと一息ついた。

次に向かうのに、JR板東駅に20分くらい歩いて、9:05の列車に乗りたいので、8:30まで休憩してから板東駅に向かった。
次の目的地「讃岐国一之宮・田村神社」に行くため、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで行った。
「讃岐国一之宮・田村神社」の記事を見る
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阿波国一之宮・大麻比古(おおあさひこ)神社(前半)
20200411
所在地:徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
「青春18キップの旅2020春」の二日目、6:20に宿を出て四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に参拝後、すぐ近くの当社に参拝しました。
ここは阿波忌部氏の祖神を祀る神社だが、阿波忌部氏といえば、黒潮に乗って北上し房総半島に上陸、麻や粟の栽培技術をもって安房国(現館山市、南房総市など)を打ち立てた氏族である。私は「関八州式内社めぐり」で関東各地を廻ったが阿波忌部氏が祀った安房神社は栃木県小山市あたりまで広く分布が見られる。
大鳥居
霊山寺の脇を通り、高松自動車道の高架をくぐると到着。平成14年鋼管製で再建。高さ14.6m。
大鳥居の向こうに、ご神体山の大麻山が見える。

大鳥居の所に、やはり平成14年奉納の、新しい狛犬が居る。





ここから約800mに渡って松並木の参道が続く。

途中、立派な楠があった。

左手に駐車場が開けると、祓川橋に出る。
板東谷川に架かる橋。橋の向こうに見える鳥居からが神域である。神域の背後に奥宮のある大麻山が見える。

橋の手前に社号標がある。
社格等:式内社(名神大)、阿波国一宮、旧国幣中社、別表神社

社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫・天富命が勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
大麻比古大神とは、大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。
神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓して麻とか楮(かじ)の種を播いて麻布とか木綿をつくり郷土の産業の基を開いて人々の福利を進められました。
その氏族は今の吉野川市 元の麻植郡を拠点として開拓をされましたが国土開発の事業が漸く成った後に御先祖の神様 天日鷲命(あめのひわしのみこと)をおまつりしました。この神社が今徳島市に忌部神社としてまつられており、この神様の御神徳をたたえて麻植の神と申して敬ってきました。
忌部神社の御祭神天日鷲命様の大先祖の神様が天太玉命(あめのふとたまのみこと)で此の神様を大麻比古神社と申し上げ郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社と伝えられています。
境内図

二の鳥居

二の鳥居を入ると駐車場があり、参道は石段で更に上がるが、その手前左側に神馬舎、石段の下に狛犬が居る。
ここの神馬は白馬と決まっているようだ。

神馬舎には、白馬像が安置されている。



石段下には、慶応4年(1868)奉納の狛犬が居る。

社殿に向かって右側に阿形。石碑を持っている。
石碑には、牡丹などの花が描かれている。



向かって左側の吽形。石碑を持っている。



その石碑には、煙と仙人が。
ブログに「大麻を吸っている老人」などと書いている人がいるが、私は「カスミを食べている仙人」だと思いたい。

広い石段を上がる。

手水舎

神紋の「麻」を彫りこんだ大杯から水があふれている。

見事な、樹齢千年余の、ご神木の楠が。

見事な幹を四方から眺める。
西側から

南側から


東側から


北側から

北側には、「歯固め石の納め所」がある。

古神札納所の前に、「開運招福 鎮守の杜の守り主」の彫刻が。

柱鳥居
右には「神徳高哉」、左には「億地景仰」とあり。

社殿前の一本の桜木がちょうど咲いていて綺麗でした。


拝殿

拝殿前には、宝暦12年(1762)奉納の浪花型狛犬が居た。





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参拝日:2020年3月23日
主祭神:大麻比古神(天太玉命のこととされる)
配祀神:猿田彦大神
「青春18キップの旅2020春」の二日目、6:20に宿を出て四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に参拝後、すぐ近くの当社に参拝しました。
ここは阿波忌部氏の祖神を祀る神社だが、阿波忌部氏といえば、黒潮に乗って北上し房総半島に上陸、麻や粟の栽培技術をもって安房国(現館山市、南房総市など)を打ち立てた氏族である。私は「関八州式内社めぐり」で関東各地を廻ったが阿波忌部氏が祀った安房神社は栃木県小山市あたりまで広く分布が見られる。
大鳥居
霊山寺の脇を通り、高松自動車道の高架をくぐると到着。平成14年鋼管製で再建。高さ14.6m。
大鳥居の向こうに、ご神体山の大麻山が見える。

大鳥居の所に、やはり平成14年奉納の、新しい狛犬が居る。





ここから約800mに渡って松並木の参道が続く。

途中、立派な楠があった。

左手に駐車場が開けると、祓川橋に出る。
板東谷川に架かる橋。橋の向こうに見える鳥居からが神域である。神域の背後に奥宮のある大麻山が見える。

橋の手前に社号標がある。
社格等:式内社(名神大)、阿波国一宮、旧国幣中社、別表神社

社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫・天富命が勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
大麻比古大神とは、大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。
神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓して麻とか楮(かじ)の種を播いて麻布とか木綿をつくり郷土の産業の基を開いて人々の福利を進められました。
その氏族は今の吉野川市 元の麻植郡を拠点として開拓をされましたが国土開発の事業が漸く成った後に御先祖の神様 天日鷲命(あめのひわしのみこと)をおまつりしました。この神社が今徳島市に忌部神社としてまつられており、この神様の御神徳をたたえて麻植の神と申して敬ってきました。
忌部神社の御祭神天日鷲命様の大先祖の神様が天太玉命(あめのふとたまのみこと)で此の神様を大麻比古神社と申し上げ郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社と伝えられています。
境内図

二の鳥居

二の鳥居を入ると駐車場があり、参道は石段で更に上がるが、その手前左側に神馬舎、石段の下に狛犬が居る。
ここの神馬は白馬と決まっているようだ。

神馬舎には、白馬像が安置されている。



石段下には、慶応4年(1868)奉納の狛犬が居る。

社殿に向かって右側に阿形。石碑を持っている。
石碑には、牡丹などの花が描かれている。



向かって左側の吽形。石碑を持っている。



その石碑には、煙と仙人が。
ブログに「大麻を吸っている老人」などと書いている人がいるが、私は「カスミを食べている仙人」だと思いたい。

広い石段を上がる。

手水舎

神紋の「麻」を彫りこんだ大杯から水があふれている。

見事な、樹齢千年余の、ご神木の楠が。

見事な幹を四方から眺める。
西側から

南側から


東側から


北側から

北側には、「歯固め石の納め所」がある。

古神札納所の前に、「開運招福 鎮守の杜の守り主」の彫刻が。

柱鳥居
右には「神徳高哉」、左には「億地景仰」とあり。

社殿前の一本の桜木がちょうど咲いていて綺麗でした。


拝殿

拝殿前には、宝暦12年(1762)奉納の浪花型狛犬が居た。





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四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)
20200408
所在地:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地
参拝日:2020年3月23日
「青春18キッブの旅2020春」の2日目、前日の疲れで熟睡したのか、5:30にパッチリと目が覚めました。
しめたと思い、7時に宿を出る予定でしたが、6:20に宿を出てここに参拝しました。
阿波国一之宮・大麻比古神社の大鳥居の近くに宿を取ったのですが、霊山寺のすぐ近くでもあったのです。
堂々たる山門

前夜、泊まった宿にあったパンフレットで、第一番札所にさわしく「発心の門」があることを知ったが、私はそれを山門をそう呼ぶのだと勘違いしていたが、家に帰って資料を整理したら、「発心の門」は別にあることがわかった(汗)
寺号標

霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第一番札所である。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号し、釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:霊山(りょうぜん)の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり
寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている[2]。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年に4か月間開帳された。
室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し一番札所としてふさわしい景観になっている。
山門(仁王門):入母屋造楼門




山門をくぐり中に入る。

早朝ゆえ、境内には誰もいない。
ゆっくりと、気兼ねなく見て回れた。
手水鉢のところでは、観音様と不動明王、それとカエルが迎えてくれる。

鯉が泳ぐ極楽を象った放生池(ほうじょうち)に橋がかかっている。


池の中の6体の童子が地蔵菩薩を祈っている。


多宝塔が朝焼けに染まっている。
五智如来像を安置している。応永年間(1394年 - 1428年)の建造。

大師堂




大師堂の傍には、桜と白木蓮が咲いていた。




十三仏堂:十二仏堂と不動明王堂を合わせて十三仏としている。

普段、馴染みのない仏さまを紹介しておきます。
虚空蔵菩薩

阿閦(あしゅく)如来

勢至菩薩

普賢菩薩

不動明王堂


本堂
拝殿に奥殿が増築された構造。

拝殿には無数の釣り灯ろうが下がっている。


拝殿右隅上には、珍しい地蔵菩薩三尊像があった。

左隅の上には赤い賓頭盧尊者坐像があった。いわゆる「おびんずるさま」です。

これで、霊山寺の参拝を終え、引き続き近くの「阿波国一之宮・大麻比古神社」に向かいました。
(続く)
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参拝日:2020年3月23日
「青春18キッブの旅2020春」の2日目、前日の疲れで熟睡したのか、5:30にパッチリと目が覚めました。
しめたと思い、7時に宿を出る予定でしたが、6:20に宿を出てここに参拝しました。
阿波国一之宮・大麻比古神社の大鳥居の近くに宿を取ったのですが、霊山寺のすぐ近くでもあったのです。
堂々たる山門

前夜、泊まった宿にあったパンフレットで、第一番札所にさわしく「発心の門」があることを知ったが、私はそれを山門をそう呼ぶのだと勘違いしていたが、家に帰って資料を整理したら、「発心の門」は別にあることがわかった(汗)
寺号標

霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第一番札所である。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号し、釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:霊山(りょうぜん)の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり
寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている[2]。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年に4か月間開帳された。
室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し一番札所としてふさわしい景観になっている。
山門(仁王門):入母屋造楼門




山門をくぐり中に入る。

早朝ゆえ、境内には誰もいない。
ゆっくりと、気兼ねなく見て回れた。
手水鉢のところでは、観音様と不動明王、それとカエルが迎えてくれる。

鯉が泳ぐ極楽を象った放生池(ほうじょうち)に橋がかかっている。


池の中の6体の童子が地蔵菩薩を祈っている。


多宝塔が朝焼けに染まっている。
五智如来像を安置している。応永年間(1394年 - 1428年)の建造。

大師堂




大師堂の傍には、桜と白木蓮が咲いていた。




十三仏堂:十二仏堂と不動明王堂を合わせて十三仏としている。

普段、馴染みのない仏さまを紹介しておきます。
虚空蔵菩薩

阿閦(あしゅく)如来

勢至菩薩

普賢菩薩

不動明王堂


本堂
拝殿に奥殿が増築された構造。

拝殿には無数の釣り灯ろうが下がっている。


拝殿右隅上には、珍しい地蔵菩薩三尊像があった。

左隅の上には赤い賓頭盧尊者坐像があった。いわゆる「おびんずるさま」です。

これで、霊山寺の参拝を終え、引き続き近くの「阿波国一之宮・大麻比古神社」に向かいました。
(続く)
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中央構造線上の島・沼島
20200405
所在地:兵庫県南あわじ市
撮影日:2020年3月22日
沼島の位置

沼島は、淡路島本島から4kmしか離れていませんが、日本中央構造線の大きな断層上にあり、本島とは全く異なる結晶片岩でできています。
ほぼ『三波川帯』の結晶片岩類ということで、これらは約1億年前の中生代に比較的高圧の条件で生じた変成岩です。島の南西半分は黒色千枚岩層、北東半分は緑色片岩層、北部は緑泥片岩が分布しています。
沼島周辺は、奇岩や岩礁があふれ豊かな自然景観を望むことができます。

中央構造線
オレンジ色の部分は「フォッサマグナ」

【中央構造線の形成】 (Wikipedia)
ジュラ紀の末から白亜紀の初め(約1億4千万-1億年前)、日本列島の元となる大地はまだアジア大陸の東の縁であり、そこに中央構造線の原型となる断層の横ずれ運動が起こった。横ずれ運動はイザナギプレートがユーラシアプレートに対してほぼ平行に北上したために起こり、より南にあった北海道西部・東北日本・西南日本外帯に当たる部分が北上した。この運動により、それまで離れて存在していた領家変成帯と三波川変成帯が大きくずれ動いて接するようになった。この時形成されたのは古期中央構造線(古中央構造線、古MTLとも)と呼ばれている。また、この断層運動の時期は鹿塩時階と呼ばれており、白亜紀中期にあたると考えられている。領家変成帯に属する岩石は衝上断層によって南側に移動し、三波川変成帯に属する岩石に乗り上げた。断層の角度は極めて低く、水平に近かったとも考えられている。
白亜紀後期(約7千万年前)は中央構造線の活動が最も顕著であったと考えられている。この頃イザナギプレートが約45度の角度で北上してユーラシアプレートの下に潜り込んでおり、このため中央構造線は左横ずれ運動を起こし、その北側では岩盤が破壊されて地層が堆積し和泉層群を形成した。
【各地の中央構造線】 (Wikipedia)
ややこしいので、誤解を恐れず、露出している地域の名前を挙げておくに留る。
〇関東地方
群馬県下仁田から比企丘陵北縁、埼玉県長瀞渓谷、三波川流域、筑波山
〇中部地方
諏訪湖南方の茅野、伊那山地と赤石山脈の間、木曽山脈や伊那山地、三河地方、鈴鹿山脈南部、伊那谷断層
〇近畿地方
伊勢二見浦の夫婦岩、和歌山の和歌浦の岩石、生駒山、金剛山、紀淡海峡、沼島、諭鶴羽山地
〇四国地方
徳島の城山、祖谷地方から大歩危、別子、佐田岬半島
【上立神岩】
上立神岩は沼島の地質をよく表わしている奇岩で、30mの高さを誇り、島のシンボルとして人々に「立神さん」と呼ばれ親しまれています。主として緑泥片岩。

緑泥片岩は、関東では鎌倉時代に主として建てられた「青色塔婆(板碑)」の材料として使われていたことで、私にはお馴染みです。
産地は埼玉県の秩父長瀞と小川町。
日本一の板碑
埼玉県秩父郡長瀞にある、「野上下郷 釈迦一尊種子板碑」と言い、国指定史跡で、南北朝時代中期 応安二年 (1369年)

武蔵嵐山・向徳寺の板碑群

【上立神岩周辺の岩】
上立神岩周辺には、面白い岩がゴロゴロしている。
〇「平バエ」
バエ : 「岩」を指すこの地方の言葉です。 沼島には、猩々バエ、アミタテバエ、アミダバエや観音バエなど多くの奇岩が存在します。
展望台から、上立神岩は左手に見えますが、右手には「平バエ」が見える。


本当は、色々な「バエ」を見て回りたかった。
展望台周辺の崖の岩も、面白い岩石で構成されている。






【島の石垣】
上立神岩から自凝(おのころ)神社に回り、港に戻ったが、参道や道筋で、石垣に使われている石が大変面白かった。結局、島には結晶片岩しかないので、こういうことになっているのだ。
これは一見、珪化木に見えてドキッとした(笑)


こんな石を石垣に使う?!


船溜まりに巨岩が鎮座。




弁天社の石垣は、奇石で化粧されている。






【鞘形褶曲】
黒崎のやや東寄りの海岸にある泥質片岩の中には、世界的にも珍しい鞘形褶曲が見られます。このことにより、沼島の岩石は太平洋プレートとユーラシアプレートのぶつかり合うところで、できたと考えられ、それが海上に隆起し姿を現したものと考えられています。
1億年前の地球のシワが残る珍しい岩石です。 平成6年(1994年)に発見され、引き潮の時にしか姿を現しません。 昔の地殻内部の動きがわかる世界的にも貴重な岩石です。
※鞘型(さやがた)褶曲とは、断面が木の年輪のように楕円形状の模様を示しているもので、ある程度の区間が金太郎飴のように同じ形状を呈しています。
淡路島側の、沼島汽船㈱土生待合所に展示されていた。



下記のサイトに、たくさんの鞘型褶曲写真が掲載されています。
そのサイトに飛ぶ
これで、「青春18キップの旅2020春」の第一日目は終り、次回は二日目の朝からの記事となります。
(続く)
二日目最初の記事「四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺」の記事を見る
「お気に入りの場所」に飛ぶ
撮影日:2020年3月22日
沼島の位置

沼島は、淡路島本島から4kmしか離れていませんが、日本中央構造線の大きな断層上にあり、本島とは全く異なる結晶片岩でできています。
ほぼ『三波川帯』の結晶片岩類ということで、これらは約1億年前の中生代に比較的高圧の条件で生じた変成岩です。島の南西半分は黒色千枚岩層、北東半分は緑色片岩層、北部は緑泥片岩が分布しています。
沼島周辺は、奇岩や岩礁があふれ豊かな自然景観を望むことができます。

中央構造線
オレンジ色の部分は「フォッサマグナ」

【中央構造線の形成】 (Wikipedia)
ジュラ紀の末から白亜紀の初め(約1億4千万-1億年前)、日本列島の元となる大地はまだアジア大陸の東の縁であり、そこに中央構造線の原型となる断層の横ずれ運動が起こった。横ずれ運動はイザナギプレートがユーラシアプレートに対してほぼ平行に北上したために起こり、より南にあった北海道西部・東北日本・西南日本外帯に当たる部分が北上した。この運動により、それまで離れて存在していた領家変成帯と三波川変成帯が大きくずれ動いて接するようになった。この時形成されたのは古期中央構造線(古中央構造線、古MTLとも)と呼ばれている。また、この断層運動の時期は鹿塩時階と呼ばれており、白亜紀中期にあたると考えられている。領家変成帯に属する岩石は衝上断層によって南側に移動し、三波川変成帯に属する岩石に乗り上げた。断層の角度は極めて低く、水平に近かったとも考えられている。
白亜紀後期(約7千万年前)は中央構造線の活動が最も顕著であったと考えられている。この頃イザナギプレートが約45度の角度で北上してユーラシアプレートの下に潜り込んでおり、このため中央構造線は左横ずれ運動を起こし、その北側では岩盤が破壊されて地層が堆積し和泉層群を形成した。
【各地の中央構造線】 (Wikipedia)
ややこしいので、誤解を恐れず、露出している地域の名前を挙げておくに留る。
〇関東地方
群馬県下仁田から比企丘陵北縁、埼玉県長瀞渓谷、三波川流域、筑波山
〇中部地方
諏訪湖南方の茅野、伊那山地と赤石山脈の間、木曽山脈や伊那山地、三河地方、鈴鹿山脈南部、伊那谷断層
〇近畿地方
伊勢二見浦の夫婦岩、和歌山の和歌浦の岩石、生駒山、金剛山、紀淡海峡、沼島、諭鶴羽山地
〇四国地方
徳島の城山、祖谷地方から大歩危、別子、佐田岬半島
【上立神岩】
上立神岩は沼島の地質をよく表わしている奇岩で、30mの高さを誇り、島のシンボルとして人々に「立神さん」と呼ばれ親しまれています。主として緑泥片岩。

緑泥片岩は、関東では鎌倉時代に主として建てられた「青色塔婆(板碑)」の材料として使われていたことで、私にはお馴染みです。
産地は埼玉県の秩父長瀞と小川町。
日本一の板碑
埼玉県秩父郡長瀞にある、「野上下郷 釈迦一尊種子板碑」と言い、国指定史跡で、南北朝時代中期 応安二年 (1369年)

武蔵嵐山・向徳寺の板碑群

【上立神岩周辺の岩】
上立神岩周辺には、面白い岩がゴロゴロしている。
〇「平バエ」
バエ : 「岩」を指すこの地方の言葉です。 沼島には、猩々バエ、アミタテバエ、アミダバエや観音バエなど多くの奇岩が存在します。
展望台から、上立神岩は左手に見えますが、右手には「平バエ」が見える。


本当は、色々な「バエ」を見て回りたかった。
展望台周辺の崖の岩も、面白い岩石で構成されている。






【島の石垣】
上立神岩から自凝(おのころ)神社に回り、港に戻ったが、参道や道筋で、石垣に使われている石が大変面白かった。結局、島には結晶片岩しかないので、こういうことになっているのだ。
これは一見、珪化木に見えてドキッとした(笑)


こんな石を石垣に使う?!


船溜まりに巨岩が鎮座。




弁天社の石垣は、奇石で化粧されている。






【鞘形褶曲】
黒崎のやや東寄りの海岸にある泥質片岩の中には、世界的にも珍しい鞘形褶曲が見られます。このことにより、沼島の岩石は太平洋プレートとユーラシアプレートのぶつかり合うところで、できたと考えられ、それが海上に隆起し姿を現したものと考えられています。
1億年前の地球のシワが残る珍しい岩石です。 平成6年(1994年)に発見され、引き潮の時にしか姿を現しません。 昔の地殻内部の動きがわかる世界的にも貴重な岩石です。
※鞘型(さやがた)褶曲とは、断面が木の年輪のように楕円形状の模様を示しているもので、ある程度の区間が金太郎飴のように同じ形状を呈しています。
淡路島側の、沼島汽船㈱土生待合所に展示されていた。



下記のサイトに、たくさんの鞘型褶曲写真が掲載されています。
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これで、「青春18キップの旅2020春」の第一日目は終り、次回は二日目の朝からの記事となります。
(続く)
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「お気に入りの場所」に飛ぶ
あわじ沼島・自凝(おのころ)神社
20200403
所在地:兵庫県南あわじ市沼島73
参拝日:2020年3月22日
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊
上立神岩から港に戻る途中で足が攣った。毎年青春18キップの際には、最初の夜は両足が攣るのがいつのことだが、今年はそれが早々と出てしまった。
それだけ年をとったということか(苦笑)
今日は車で移動しているので、足の不具合は致命的である。
仕方ないので、その日の以後の予定はあきらめ、淡路島に戻る船の時間を一本遅らせ(1時間20分遅らせ)、ゆっくりと足をいたわりつつ、自凝神社に参拝することにした。
事前の情報では、上がり口がわからずに迷う人が多いとのことだったので、慎重に入り口を探した。
入り口の標識を見つけてホッとした。

こんな狭い道でビックリ!


けっこうな山道が続く。


社号標があり、ホッとした。

創立年不詳。古より沼島の人々は、この自凝神社の祀られている山を御神体として礼拝していたという。
拝殿は平成14年(2002)再建。
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊
国生み神話ゆかりの神社です。
沼島は、イザナギ・イザナミによる国土創世の際、「天の沼矛(あめのぬぼこ)」の先から滴り落ちたしずくが凝り固まってできたという「おのころ島」に比定されている。
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱が上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
社号標のところから、真っ直ぐに石段が続いている。
ゆっくりと、足をいたわりながら登った。

途中に鳥居があり。

石段を上がりきると、狛犬が迎える。

昭和2年(1927)奉納の、以後四国を廻ってわかったが、四国特有の顔である。




拝殿の前に、これも四国に多いと言っていい柱が建っている。

右に「忠君」、左に「愛国」とある。


拝殿

中には、伊弉諾尊・伊弉冉尊の神像額が奉納されていた。


本殿


社殿の後ろ、ちょっと上がったところに、伊弉諾尊、伊弉冉尊の神像がある。
平成14年(2002)、拝殿と石段の修復に併せて建立されたもの。


拝殿の前からは、島に住む人が集中している港が見下ろされ、島の守り神であることがよくわかる。

石段を下る途中、左手に瑞玉姫命と刻まれた碑がありました。


「瑞玉姫」(みずたまひめ)とは誰だろうか?
私には初めてであった神です。
ネットで調べたかぎりでは、 「美都多麻比売命」(みつたまひめのみこと)の名が、諏訪大社に関連した『続・高部の文化財』の守矢家一子口伝による系図の中で記されている。
美都多麻比売はタケミナカタの孫であり、同じくタケミナカタの子「方倉辺」(かたくらべ)と洩矢家の「千鹿頭」(ちかと)を両親にもつ「児玉彦」(こだまひこ)を夫としている。
また児玉彦との間には子「八櫛」(やくし)を儲けているが、いずれも長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の神として受け継がれる、非常にマイナーな神だという説明が唯一のものでした。
淡路の離島・沼島と諏訪(タケミナカタ一族)が、どう結びついているのか、ロマンあふれる疑問です。
自凝神社から港に降る途中でも、何度か足が悲鳴をあげた。
できるだけいたわりつつとはいえ、急坂を上り降りしたのには間違いないのだから(苦笑)
渡船の時間まで残る時間を、中央構造線上の沼島ならではの、至るところに面白い石があるので、それを見ながらゆっくりと渡船場に戻った。
淡路島に渡船で戻り、待合室や駐車場などで1時間静養してから、ゆっくりと鳴門に戻りレンタカーを返却、JR鳴門駅から高徳線の板東駅まで移動、そこの予約しておいた宿に到着して、この日は終了。
(続く)
続く記事「中央構造線上の沼島」を見る
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参拝日:2020年3月22日
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊
上立神岩から港に戻る途中で足が攣った。毎年青春18キップの際には、最初の夜は両足が攣るのがいつのことだが、今年はそれが早々と出てしまった。
それだけ年をとったということか(苦笑)
今日は車で移動しているので、足の不具合は致命的である。
仕方ないので、その日の以後の予定はあきらめ、淡路島に戻る船の時間を一本遅らせ(1時間20分遅らせ)、ゆっくりと足をいたわりつつ、自凝神社に参拝することにした。
事前の情報では、上がり口がわからずに迷う人が多いとのことだったので、慎重に入り口を探した。
入り口の標識を見つけてホッとした。

こんな狭い道でビックリ!


けっこうな山道が続く。


社号標があり、ホッとした。

創立年不詳。古より沼島の人々は、この自凝神社の祀られている山を御神体として礼拝していたという。
拝殿は平成14年(2002)再建。
ご祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊
国生み神話ゆかりの神社です。
沼島は、イザナギ・イザナミによる国土創世の際、「天の沼矛(あめのぬぼこ)」の先から滴り落ちたしずくが凝り固まってできたという「おのころ島」に比定されている。
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱が上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
社号標のところから、真っ直ぐに石段が続いている。
ゆっくりと、足をいたわりながら登った。

途中に鳥居があり。

石段を上がりきると、狛犬が迎える。

昭和2年(1927)奉納の、以後四国を廻ってわかったが、四国特有の顔である。




拝殿の前に、これも四国に多いと言っていい柱が建っている。

右に「忠君」、左に「愛国」とある。


拝殿

中には、伊弉諾尊・伊弉冉尊の神像額が奉納されていた。


本殿


社殿の後ろ、ちょっと上がったところに、伊弉諾尊、伊弉冉尊の神像がある。
平成14年(2002)、拝殿と石段の修復に併せて建立されたもの。


拝殿の前からは、島に住む人が集中している港が見下ろされ、島の守り神であることがよくわかる。

石段を下る途中、左手に瑞玉姫命と刻まれた碑がありました。


「瑞玉姫」(みずたまひめ)とは誰だろうか?
私には初めてであった神です。
ネットで調べたかぎりでは、 「美都多麻比売命」(みつたまひめのみこと)の名が、諏訪大社に関連した『続・高部の文化財』の守矢家一子口伝による系図の中で記されている。
美都多麻比売はタケミナカタの孫であり、同じくタケミナカタの子「方倉辺」(かたくらべ)と洩矢家の「千鹿頭」(ちかと)を両親にもつ「児玉彦」(こだまひこ)を夫としている。
また児玉彦との間には子「八櫛」(やくし)を儲けているが、いずれも長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の神として受け継がれる、非常にマイナーな神だという説明が唯一のものでした。
淡路の離島・沼島と諏訪(タケミナカタ一族)が、どう結びついているのか、ロマンあふれる疑問です。
自凝神社から港に降る途中でも、何度か足が悲鳴をあげた。
できるだけいたわりつつとはいえ、急坂を上り降りしたのには間違いないのだから(苦笑)
渡船の時間まで残る時間を、中央構造線上の沼島ならではの、至るところに面白い石があるので、それを見ながらゆっくりと渡船場に戻った。
淡路島に渡船で戻り、待合室や駐車場などで1時間静養してから、ゆっくりと鳴門に戻りレンタカーを返却、JR鳴門駅から高徳線の板東駅まで移動、そこの予約しておいた宿に到着して、この日は終了。
(続く)
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上立神岩(かみたてがみいわ)
20200402
所在地:兵庫県 南あわじ市沼島
撮影日:2020年3月22日
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱がこの上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
私は、市民大学の歴史講座を受講しましたが、その2年目研究コースで何か個人テーマを持てと言われ、ちょうど古事記編纂1300年の年だったので、住んでいる市にある神社の祭神を調べ上げ、その神が古事記でどう描かれているかまとめました。
それが現在取り組んでいる、全国規模での神社巡拝のスタート地点です。
古事記編纂1300年ということで、その年には色々な雑誌で特集記事が組まれました。
その際に、必ずと言っていいほど最初に登場するのが、上立神岩の写真でした。
この上立神岩を実際に見たいというのが念願でしたが、今回それがかなうことになりました。
今回の「青春18キップの旅」の最初の目的地が、上立神岩です。
「ムーンライトながら」で5:45に大垣に着き、そこから電車で舞子に行き、そこから高速バスで鳴門に着き、レンタカーを借りて、沼島を目指しました。
レンタカーのナビが示す到着時間が、沼島に渡る船の出発時間に対して30分余裕を示していたので、慌てないで行くことができた。
走っていて、沼島が見えたので大変嬉しくなった。

「沼島汽船㈱土生待合所」の駐車場に車を停め、乗船券を購入して待つことしばし、船に乗り込みます。


10分ほどで沼島に

沼島に上陸

沼島の案内図
港から、しばらく町の平地を歩き、それからダラダラと長い登り坂を上がって、上がりきったら、そこから急坂を下って上立神岩の展望所に着きます。

上立神岩に向かい、歩き出す。

沼島には600人ほどが暮らしているそうで、しばらくは町の中を歩く。
弁天社の横を過ぎ

右手に、船溜まりを見ながら歩く。


沼島八幡宮の前を過ぎ

神宮寺の前を通り

沼島中学校の前に出た。


こういう案内板が頼り。

ここから細い道を、ひたすら登ります。



テッペンが見えた(嬉)・・・・ハアハアハア

いちばん高いところに来たが、ここからは上立神岩が見えないんですね。
四国や和歌山半島が見えるはずなんですが、この日は春霞がひどくて、まったく見えなかった。

ここから、つづら折りを降りていきます。

突き当たりの折り返しに、説明板が。


折り返しの下り坂の先に、上立神岩が見えた!!
初見です(嬉)

下って、更に折り返す。

ここから、ツルツルに整備されて逆に怖い、急な下り坂となる。

下がりきると、左に階段で少し降りたところが、展望所です。

上立神岩の雄姿です!!!


主として緑泥片岩だということですが、モロそうで、とても永遠に立っていてくれそうには見えない。


この日渡船には30人ほど乗っていて、私は一目散にここを目指したが、負けじとついて来たのは若い人ばかりだった(笑)


次々回の記事で、ジオサイトとしての沼島を記事にするが、上立神岩の周りにも面白い岩ばかりだった。



「平バエ」も見えている。

沖では、漁をしていた。


渡船から上立神岩までを、動画でも撮ったので、ユーチューブにアップしました。
それを見てください。
その動画を見る
念願の上立神岩をしばらく悦びにひたって見ていたが、渡船の時間に間に合うように、自凝(おのころ)神社にも参拝しなければならないので、急いで向かった。
「自凝(おのころ)神社」の記事を見る
「お気に入りの場所」に飛ぶ
「四季歩のYOUTUBE動画一覧」を見る
撮影日:2020年3月22日
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱がこの上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
私は、市民大学の歴史講座を受講しましたが、その2年目研究コースで何か個人テーマを持てと言われ、ちょうど古事記編纂1300年の年だったので、住んでいる市にある神社の祭神を調べ上げ、その神が古事記でどう描かれているかまとめました。
それが現在取り組んでいる、全国規模での神社巡拝のスタート地点です。
古事記編纂1300年ということで、その年には色々な雑誌で特集記事が組まれました。
その際に、必ずと言っていいほど最初に登場するのが、上立神岩の写真でした。
この上立神岩を実際に見たいというのが念願でしたが、今回それがかなうことになりました。
今回の「青春18キップの旅」の最初の目的地が、上立神岩です。
「ムーンライトながら」で5:45に大垣に着き、そこから電車で舞子に行き、そこから高速バスで鳴門に着き、レンタカーを借りて、沼島を目指しました。
レンタカーのナビが示す到着時間が、沼島に渡る船の出発時間に対して30分余裕を示していたので、慌てないで行くことができた。
走っていて、沼島が見えたので大変嬉しくなった。

「沼島汽船㈱土生待合所」の駐車場に車を停め、乗船券を購入して待つことしばし、船に乗り込みます。


10分ほどで沼島に

沼島に上陸

沼島の案内図
港から、しばらく町の平地を歩き、それからダラダラと長い登り坂を上がって、上がりきったら、そこから急坂を下って上立神岩の展望所に着きます。

上立神岩に向かい、歩き出す。

沼島には600人ほどが暮らしているそうで、しばらくは町の中を歩く。
弁天社の横を過ぎ

右手に、船溜まりを見ながら歩く。


沼島八幡宮の前を過ぎ

神宮寺の前を通り

沼島中学校の前に出た。


こういう案内板が頼り。

ここから細い道を、ひたすら登ります。



テッペンが見えた(嬉)・・・・ハアハアハア

いちばん高いところに来たが、ここからは上立神岩が見えないんですね。
四国や和歌山半島が見えるはずなんですが、この日は春霞がひどくて、まったく見えなかった。

ここから、つづら折りを降りていきます。

突き当たりの折り返しに、説明板が。


折り返しの下り坂の先に、上立神岩が見えた!!
初見です(嬉)

下って、更に折り返す。

ここから、ツルツルに整備されて逆に怖い、急な下り坂となる。

下がりきると、左に階段で少し降りたところが、展望所です。

上立神岩の雄姿です!!!


主として緑泥片岩だということですが、モロそうで、とても永遠に立っていてくれそうには見えない。


この日渡船には30人ほど乗っていて、私は一目散にここを目指したが、負けじとついて来たのは若い人ばかりだった(笑)


次々回の記事で、ジオサイトとしての沼島を記事にするが、上立神岩の周りにも面白い岩ばかりだった。



「平バエ」も見えている。

沖では、漁をしていた。


渡船から上立神岩までを、動画でも撮ったので、ユーチューブにアップしました。
それを見てください。
その動画を見る
念願の上立神岩をしばらく悦びにひたって見ていたが、渡船の時間に間に合うように、自凝(おのころ)神社にも参拝しなければならないので、急いで向かった。
「自凝(おのころ)神社」の記事を見る
「お気に入りの場所」に飛ぶ
「四季歩のYOUTUBE動画一覧」を見る