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空の写真

20200529

最近ほとんど出かけないので、よく窓から空を見るようになった。
そしたらこの間テレビで、もう何十年も春日部の空を撮っているアマチュアカメラマンを取材しているのを見た。
それをまねて、撮りだした(笑)
これからずっと続けられるのか、どうなのか・・・・・・・
浮気性の私だから保証のかぎりではない。

【安比奈自然公園】
撮影場所:埼玉県川越市大字安比奈新田
撮影日時:2020年5月24日 13:30

天気が良いが、雲がプカプカ浮かんでいる。

気持ちが高揚するような雲だ。
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高積雲(羊雲)、底が平らなのは積雲(綿雲、積雲)
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太陽の光で輝いている。
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おお、亀だ。
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人間は、ちっちゃいな。
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【上奥富堰】
撮影場所:埼玉県狭山市上奥富運動公園から
撮影日時:2020年5月29日 13:45

放射状に綿雲が。
下に暗いところがあり。
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なんだか、ぼんやりした魚みたいな(笑)
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積層雲の手前、入間基地に帰る練習機。
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(了)


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村上水軍博物館

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所在地:愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地む
参拝日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、今治駅前のホテルを出発、レンタカーで「しまなみ海道」を北上、大三島の伊予国一之宮・大山祇神社に参拝。
そこから道の駅二つで土産物購入と昼食を済ませ、今治に戻る途中で大島にある村上水軍博物館に寄った。

大島の地図
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村上水軍博物館
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館内に入る前に、外の展示物を見た。

小説『村上海賊の娘』本屋大賞受賞記念のレリーフ。
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小早船
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入り口前に「村上景親公」の像があり。
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『村上海賊の娘』では、主人公「景」の弟でおもり役として各場面で活躍していたが、今回調べたらその経歴に吃驚した。

村上 景親は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏・毛利氏家臣。父は能島村上氏当主の村上武吉。
景親は小早川隆景の下に属し、隆景が九州平定後の天正15年(1587年)に筑前と筑後の大名となると6,000石[2] を与えられて同格おとな役(家老)となる。
天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡海し、同年6月5日の茂渓の戦いでは、孫仁甲が率いる朝鮮軍が、景親が守る茂渓の砦を攻めたが、景親の軍は奮戦して朝鮮軍を撃退した上で追撃し、数百人を討ち取った。その際に景親は負傷した。
文禄4年(1595年)に小早川隆景が隠居すると、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)6月13日に小早川隆景が死去すると小早川氏を辞去して屋代島(周防大島)へと移り住んだところ、輝元の招聘を受けて毛利氏に帰参する。
慶長5年(1600年)、兄・元吉と共に水軍を率いて蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を降伏させた。その後は輝元の命を受けて元吉と分かれ、毛利軍の一員として安濃津城の戦いや大津城の戦いに参加した。関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2ヶ国へ移封となった後は屋代島の内で1,500石を与えられて父・武吉と共に移住し、毛利家御船手組の組頭となった。また、輝元が剃髪して「宗瑞幻庵」と名乗ると、景親も剃髪して「如真」と名乗った。
慶長15年(1610年)2月9日に死去。

博物館に入る。
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実はコロナ禍が始まっており、この日まだ開館しているかヒヤヒヤしていた。
まだ、やっていて実にラッキーだった。
受付で、どこから来たか調査していて、どこから来ているのかのぞいたら、東北から8名、関東から13名と、私も含め遠くから来ている人がいて、「村上海賊」の人気はさすがだなと思った。

【一階ホール】
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まずは、能島村上水軍の歴史について、博物館配布の資料でおさらい。
■海賊たちの跳梁
 9世紀頃から西日本の各地で海賊たちが跳梁するようになった。厳しい収奪を逃れた浮浪農民や、土地などの生産手段を保証されない海民たちは、国家の手の届かぬ瀬戸内の海辺や島々に住みついた。彼らはひと度飢餓に及べば、直ちに食料を求めて目の前を航行する船を襲った。中央政府は度々地方に海賊の追討を命じたのだが、成果は一向に上がらなかった。
■三島村上氏
 瀬戸内では、漁民たちの長は「ムレギミ」と呼ばれたが、のちこれが転じて「村上」になったという。鎌倉時代の終わり頃から、村上氏たちは瀬戸内各地で台頭し、南北朝動乱期、彼らは南朝に属して戦い、次第に海の武士団(海賊)として市民権を得た。
村上一族を組織したのは、南朝の重臣北畠氏であるという。
 芸予の村上氏はいずれも北畠師清をその始阻とし、師清の孫雅房・吉豊・吉房の三人が各々、芸予諸島の島々に定着し、能島・因島・来島の村上三家を立て、「三島村上氏」を称した。
■能島村上水軍
 三島村上氏の中で最も早く歴史に姿を現すのは、能島村上氏であった。1349年(貞和5)、初めr野島」の名が見られ、1405年(応永12)には「能島衆」が登場する。室町初期の能島衆は、一方で海上警固により東寺から報酬(酒肴料)を得ると共に、一方では末寺額荘園弓削島を侵略するといった、未だ瀬戸内海衆の一集団にすぎなかった。しかしこののち、周辺海賊衆との結束を固め、芸予から防予海域に勢力を拡大し、中部瀬戸内海の主要な航路・拠点を掌握する大海賊衆へと成長した。
室町幕府・守護体制の確立に伴い、村上氏は一応、河野氏を主家と仰いではいるが、河野氏からの知行宛行はほとんど見られない。この頃は、その財政は多く水先案内・海上警固・海上運輸といった独自な海上活動に伴う収入に依っていたようである。
■海賊大将軍 村上武吉
 能島水軍が全盛を謳歌するのは、戦国時代、村上武吉が当主の時である。現在の宮窪に本拠を構えて能島と号し、中・西部聴戸内海に監視・連絡網を設け、要所要所に城砦を構え、堺から坊津までといわれた海上王国を実現した。
能島水軍は、小舟を多く駆使する機動戦、火薬の活用(熔熔玉)など、海上戦闘の達人であった。能島衆は、弘治の厳島合戦参戦・勝利後、永禄の尼子・大友合戦、天正の木軌Il合戦と、毛利氏の中国・九州平定に協力し、瀬戸内全域に勢力を延ばした。そして自らの海上権益を守るため、瀬戸内交通の実力支配を背景として、毛利・大友・島津氏ら近隣の大大名と相互に海上権益を保障しあう盟約を結んだ。
武吉は、上関・厳島・塩飽などの札浦で、瀬戸内を航行する船舶から帆別銭・駄別銭などの関税を徴収し、それらに丸に上の字の過所旗を与え、その無害通行を保証した。今日我々は、戦国期村上氏の海上支配の実際を、武吉を制定者とする多くの瀬戸内の廻船大法に見ることができよう。
■海賊禁止令
1587年(天正15)、豊臣秀吉は、海上に私的な関所を設け、通行税を取り立てる行為融旬暁行為として禁止した。この年、村上元吉は部下の斎灘での海賊行為を厳しく責任追及され、小早川隆景の筑前移封に伴い、筑前に移住し、能島水軍の歴史は終わった。こののち村上氏は毛利氏の御船手(水軍)に転化していった。

〇河野通之宛行状(こうのみちゆきあてがいじょう)
1405年(応永12年)に能島衆(能島村上氏)の存在がわかる書状
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〇能島村上家先祖覚書
江戸時代
能島村上家の武吉・元吉・景親の生没年を記す。
武きちのところには、厳島合戦で毛利元就に味方したと書かれている。
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厳島合戦は、奇襲により毛利元就が陶晴賢を破った戦いで、「日本三大奇襲戦」の一つに挙げられている。

〇毛利輝元書状
1582年(天正10年)
織田・毛利間の戦争が展開するなか、来島村上氏は織田方に走ったが、能島村上氏は変わらず毛利氏へ協力する姿勢を保った。毛利氏が来島村上氏の旧領「能美島」を能島村上氏に与えることを約束した文書。
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一階ホールには、村上海賊の雄姿を描いた和紙人形が飾られてあった。
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【一階ホールから二階への階段】
ロビーから二階に上がる階段に沿って、能島村上水軍の説明画が掲げられてあった。

〇村上三島水軍の台頭
能島城跡
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〇海賊の生業
通行料を受け取るかわりに海の安全を保証した。
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〇村上水軍の用いた武器
やがらもがら、火矢、焙烙など、火攻めの武器が中心。
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〇第一次木津川口の合戦
織田水軍と激突する村上水軍。
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〇第一次木津川口の合戦
石山本願寺への兵糧入れ。
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〇羽柴秀吉の四国攻めと海賊禁止令
国分山城に迫る秀吉方の軍
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〇村上武吉とフロイス
能島を見るフロイス
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〇江戸時代の伊予水軍
朝鮮通信使を警護する毛利水軍
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〇秋山真之と日本海海戦
1904年に始まった日露戦争最後の決戦。
この海戦で連合艦隊がとった「丁字戦法」は秋山が研究した能島流水軍戦法の応用とも云われている。
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【展示室】
二階の展示室は、残念ながら撮影禁止だった。
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村上武吉が着たと伝承の「猩々陣羽織」も展示してあったが、撮影できなかったので、博物館パンフレットから転載。
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【展望デッキ】
デッキに出ると、能島をはじめとする周辺の海が見渡せる。

まずは、能島である。
正面が能島。
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能島の左側が「宮窪瀬戸」
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能島の右、鵜島との間が「荒神瀬戸」。
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左側が鯛崎島で、右側が能島。
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ここの能島城を再現した絵がこれ。
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さきの再現の絵にも出ているが、能島の先端には、四阿が見える。
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鯛崎島の先端には、お地蔵さんが座っているのを発見!
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鵜島の先端にも、物見櫓みたいなものが再現されていた。
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★展望デッキから、村上水軍博物館前の海を全部見渡した動画を撮影してきました。
ユーチューブにアップしたので、見てください。

その動画を見る


潮流観光船で有名な「船折瀬戸」は、能島の向こうなので見えない。
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【秋山真之と村上海賊】
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでから、秋山真之は好きな人物である。
真之は松山出身であり海軍なので、村上水軍とは関係あるなとは思っていたので、この博物館に「秋山真之と村上海賊」という図録があったので購入してきた。
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秋山家は、伊予の河野氏の出てあるとのこと。
あの一遍上人と、ルーツが同じということで、また嬉しくなった。

真之が海軍戦術を考案する際に、村上海賊の戦法を熱心に研究したのは当然といえる。

〇舟戦以律抄
江戸時代中期
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〇野嶋流海賊古法
正徳元年
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〇能島家傳
住田文庫 江戸時代
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〇丁字戦法
日露戦争でバルチック艦隊との海戦で使用した「丁字戦法」は、秋山真之が起案したことになっている。
この海戦で、バルチック艦隊37隻のうち19隻撃沈、5隻を捕獲して、日本の大勝利に終わった。
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〇「天気晴朗なれど波高し」
バルチック艦隊を発見し連合艦隊が出撃する際に、司令長官東郷平八郎が発信し、海軍軍令部が受けた電報。
飯田久恒参謀らの草案に、秋山真之が「本日天気晴朗ナレ共波高しシ」と付け加えたと云われている。
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埼玉県飯能市の「秩父御嶽神社」には、東郷平八郎元帥の銅像と共に、旗艦・三笠の被弾甲板が置かれている。
東郷長官(当時)の乗る旗艦三笠は、ロシア軍の集中砲火をあび、甲板は蜂の巣状になった。
間近で実物を見ると砲弾の破壊力がよく分かります。甲板の装甲なので厚さは2~3センチ程度ですが、固い鉄板が障子が破れたような形になって捲れている。
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念願だった、村上水軍博物館を見ることができ、非常に満足して、この旅の最終立ち寄り地「今治城」に向かって、しまなみ海道を南下した。


続いて「今治城」の記事を見る



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伊予国一之宮・大山祇神社(その三)

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所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
参拝日:2020年3月24日
主祭神:大山積神

青春18キップの旅の三日目、伊予国一之宮・大山祇神社の記事三回目です。
本殿と、摂社の上津社と下津社に参拝した後、社殿のまわりを巡って境内社などに参拝します。

神門から入ってすぐ左手の回廊に、「隼人の舞」の像がある。

〇「隼人の舞」像
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大山積神が酒造の神なので、奉納されたお酒が回廊にズラッと並んでいる。
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〇北側入口
北側にも入り口があったので、そちらに行くと、ここには青銅製の狛犬がいた。
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〇神輿庫
平成9年造営。木造校倉造で入母屋造銅板葺。本社・上津社・下津社の旧神輿3基(愛媛県指定有形文化財)と新神輿3基の6基が収められている。
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〇末社・御鉾神社(おほこじんじゃ)
祭神:御鉾大神。
元は太祝の邸内社であり、御鉾大神は伊弉諾神・伊弉册神・大物主神・小千命の四柱(あるいは大国主神・狭田彦神を合祀した六柱)とする記録も有り。

前に石造狛犬がいる。
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御鉾神社社殿
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〇末社 酒殿・八重垣神社
向かって右が酒殿(祭神:大山積神)、左が八重垣神社(祭神:素戔嗚命)
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〇院内荒神社・地神社・稲荷神社・石神社
社殿玉垣に沿って、奥から院内荒神社・地神社・稲荷神社・石神社の4社が並ぶ。
院内荒神社(祭神:荒神)
地神社(この地の地主神)
稲荷神社(祭神:御食津神)
石神社(祭神不詳)
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本殿の真後ろの位置に、姫子邑神社が鎮座している。
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〇姫子邑神社(ひめこむらじんじゃ)
ご祭神:木花開耶姫命(大山積神の娘)とその御子神(火々出見命(山幸彦)・火須勢理命(海幸彦))。
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〇天然記念物・大山祇神社楠木群
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「天然記念物・大山祇神社楠木群」の説明が置かれていたご神木は、残念なことに枯れていた。
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しかし、その近くにも大きな楠があちこちに見られ、見事だった。
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〇河野通有兜掛の楠
鎌倉時代には、この辺は「三島水軍」あるいは「河野水軍」として有名だった。
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〇一遍上人奉納の宝篋印塔
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一遍上人は、延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかっての勢いを失っていた。

正応元年(1288年)瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、12月16日一遍一行は3艘の船に分乗して今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻る。

正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(1月24日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、2月5日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は2月6日再度大山祇神社参詣、2月9日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請、神官と地頭に「殺生禁戒」を誓わせたといいます。

想えば、私は昨年の「青春18キップ」では熊野に旅したが、その時にも熊野本宮故地「大斎原」で一遍上人の事蹟に出合っている。
仏教の大宗派「時宗」を打ち立てた一遍上人は、調べるとかなりの数の神社に参詣している。
これはどういうことなのか、かなり関心をそそられた。

〇御桟敷殿
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〇斎田
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まだ田植え前であり、レンゲの花があちこちに咲いていた。
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〇絵馬殿
休憩できるようになっており、のんびりと絵馬を見ることが出来た。
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白鷺が矢を咥えて飛んでいる絵馬の意味は何だろうと調べたら、「元宮」の説明で納得した。
本宮(今治市上浦町瀬戸)は、横殿宮、遠土宮とも呼ばれ、養老3年(719年)の現在地への遷座以前の鎮座地。伝承では、この鳥居の前まで海だったため津波により社殿は流されたという。また、ここでは手狭なため広い社地を探すため三本の矢を使った。一本目はここから大原に落ち、二本目を大原から放つと鷲ヶ頭山頂上に落ち、さらにそこから放つと現在の社地の神池に落ちたことから決めたという言い伝えがある。
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馬は普通の奉納絵馬で、水軍の守り神らしく剣の奉納もあり。
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これは「金比羅講」が大山祇神社に参詣している様子の絵馬。
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「鶴姫まつり」の写真が掲げられていた。
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『村上海賊の娘』のなかでは、主人公「景」のあこがれの人物として紹介されていた。

鶴姫は、この大山祇神社の大祝職(大宮司)・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘で、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)がいたとされる。
彼女の生涯は、たびたび大三島に侵攻した周防の大内氏の軍勢に対して兵を率いて立ち向かい、交戦してこれを撃退するも、最期は戦死した恋人・越智安成(おち やすなり)の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られている。

以上で、当社の参拝を終え、道の駅二つに寄り、土産物購入やお昼を食べながら、しまなみ海道を南下、「村上水軍博物館」に向かった。

(了)


続いて「村上水軍博物館」の記事を見る



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伊予国一之宮・大山祇神社(その二)

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所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
参拝日:2020年3月24日
主祭神:大山積神

青春18キップの旅の三日目、伊予国一之宮・大山祇神社の記事二回目です。

境内社の宇迦神社に参拝した後、更に進むと「十七神社」がある。

〇十七神社
祭神:諸山積神社と十六神社。
伊予国一之宮であるので、国内の主要な神社を祀ったもの。
諸山積神社に十六社が接続する形をとる。由緒書によれば、神社自体は正安年間(1299年-1302年)の創建、社殿は永和4年(1378年)の再建という。愛媛県指定有形文化財に指定されている。内陣には重要文化財指定の神像群が鎮座する。
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長棟の社殿
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内陣に神像群が鎮座しているとのことだが、扉が閉められており拝観はできない。
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〇乎千命御手植の楠
幹周/11m、樹高/15. 6m、樹齢/約2600年。
大山祇神社の楠群として国指定天然記念物となっています
乎知命は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の十代目に当たり、七歳の時に 応神天皇より伊予国・小市の国造に任ぜられ この神社を創始して祖神・大山祇命を祀った人物。
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なんと樹齢2600年の伝承がある偉大な楠である。
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社殿に向かう方向、西面
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南西面
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南面
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社殿側の方向、東面。
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北面
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息を止めて正面より右回りに3周すると願いが叶うという信仰がある。私が見たテレビ番組では、説明している人が「若い人じゃないと無理、無理」と笑っていた。
息を止めて正面より右回りに3周といったら、走らなきゃならないが、走るのは恐れ多いし、無理だと分かっていたが速足で歩いて、一応挑戦してみた。2回息継ぎをしてしまった(笑)

『村上海賊の娘』には、こんな場面で登場する。
本願寺から兵糧の運び込みを依頼された毛利家が村上水軍に協力を頼む。本願寺を包囲している織田信長の軍勢に突入しなければならないという戦である。
毛利・村上連合水軍を束ねる総帥と目されたのが「三島村上」の一つ、能島村上水軍の長・村上武吉。
毛利・村上連合水軍1000艘が勢ぞろいしているのに、村上武吉は「乎千命御手植の楠」の前で連日連歌興行をしていて動かない。
古くから村上水軍は出陣の前には三島神社(現在の大山祇神社)で連歌興行を奉納する習わしだったというが、そもそも本願寺の、上杉軍と毛利軍で織田軍を挟み撃ちにするという戦略を村上武吉は信用せず、上杉が動いたという報せを、「乎千命御手植の楠」の前で待っていたのだ。

この後訪問した「村上水軍博物館」のパンフレットにも、大山祇神社に戦国時代色々な武将と村上水軍が連歌興行を奉納したと、載っていた。
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〇手水舎
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旅の間に、コロナ禍が広まっていた。
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立派な手水鉢
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祓所
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〇伊藤博文公記念楠樹
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一段上がって、神門がある。
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神門の前に狛犬がいる。
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一段上の荒垣に沿って置かれているので、神門に向かっての撮影が難しいので、神門側から撮影した。
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〇神門
寛文元年(1661年)松山藩主松平定長からの寄進で、素木造の屋根は切妻造檜皮葺であったが、老朽化のため355年ぶりに建て替えられ、2016年12月4日竣工式が行われた。
今まではいなかった隋身像が両脇に鎮座し隋神門となった。
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左右の随身
ガラス越しに撮影。
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神門をくぐって、玉垣内に。
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神門から入ると、正面に拝殿。その周りを回廊で囲んである。
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〇拝殿・本殿
拝殿の扉が少ししか開いていないため、内部はわずかに拝観できるのみ。
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拝殿で参拝した後、グルッと周りを廻ったときに、本殿の屋根のみ見えた。
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ご祭神は、大山積神。
オオヤマツミノカミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する神。別名 和多志大神、酒解神。
神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた。
オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。
八岐大蛇退治において、素戔嗚尊(すさのを)の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。
その後、スサノオの系譜において、オオヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と倉稲魂尊(うかのみたま)をもうけている。
素戔嗚尊(すさのを)と奇稲田姫(くしなだひめ)との間の子、八嶋士奴美(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘の木花知流姫(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。その子孫が大国主である。
天孫降臨の後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)はオオヤマツミの娘である木花之開耶姫と出逢い、オオヤマツミは木花之開耶姫とその姉の磐長姫を差し出した。ニニギが容姿が醜い磐長姫だけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。
木花之開耶姫が瓊瓊杵尊に疑われながら、出産に成功すると、オオヤマツミはそれを喜び酒を造って諸神をもてなしたので、オオヤマツミは酒造の神として信仰されている。
また全国の山を司る神であるオオヤマツミは、喜んで富士山を木花之開耶姫に贈ったので、富士山関係の神社、富士塚などに祀られているのは木花之開耶姫である。

神紋は、「折敷に縮三の文字」
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〇摂社、上津社と下津社
本殿と並んで祀られているのは、上津社(本殿向かって右に鎮座)
ご祭神:上津姫(磐長姫)、雷神
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拝殿で参拝した後、グルッと周りを廻ったときに、見えた屋根。
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下津社(本殿向かって左に鎮座)
ご祭神:下津姫(木花之開耶姫)、高籠神
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続いて「伊予国一之宮大山祇神社(その三)」の記事を見る



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伊予国一之宮・大山祇神社(その一)

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所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
参拝日:2020年3月24日
主祭神:大山積神

青春18キップの旅の三日目、今治駅前のホテルから歩いてレンタカーショップに行き、車を借りて「しまなみ海道」を走って当社に到着。

神門一の鳥居は瀬戸内海に面して建てられているそうで、駐車場のそばにあるのは二の鳥居である。ここからの参拝ということになる。

二の鳥居の前には社号標と狛犬が居る。
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社号標
社格等:式内社(名神大)、伊予国一宮、旧国幣大社。別表神社
この神社は、村上海賊など海の民に信仰されているからだろう、海に面して建てられているため方角的には西を向いているという、珍しい方角となっている。
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瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。
三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。

創祀は、『大三島記文』によると、仁徳天皇の御宇に、乎知命が祖神・大山祇命を祀ったとある。
『三島宮社記』では、推古天皇2年。大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年、現在地へ遷座し、16年の歳月をかけて、社殿を造営。養老3年(719)に遷宮の儀が執り行われた。

大山祇神社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。
『大三島記文』(社伝) 大山祇神子孫の小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。
『釈日本紀』(『伊予国風土記』(逸文)越智郡御島の条) 大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話による説があるが、いずれも確証は欠く。摂津国の御嶋は諸説あり、三島鴨神社または鴨神社の何れかとされる。
『予章記』・『予陽河野家譜』 越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする。

境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており[1]、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。

二の鳥居の前には狛犬がいる。
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二の鳥居の社額には「日本総鎮守 大山積大明神」とある。
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二の鳥居をくぐるとすぐ、右側に平山郁夫の「しまなみ海道五十三次スケッチポイント」の中で、当社を描いたスケッチのパネルが二枚置かれていた。
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そして、当社の説明板が立っている。
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境内図
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当社の説明
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神橋を渡る。
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総門の前にも狛犬がいる。
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〇総門
2010年4月14日奉祝。
二層構え総檜造り銅板葺き高さ12mで、両脇に随身像(像高2.5m)が立つ。元亨2年(1322年)に焼失してから688年ぶりに復元された。
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ここには彩色鮮やかな社額「日本総鎮守 大山積大明神」があった。
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ここの随身は立像で、弥生時代・古墳時代ともとれる、或は海賊みたいに身軽な武装ともとれる活動的なものだった。
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門をくぐって振り返ると、やはり立派な門である。
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〇齋館
総門をくぐって左手にあり。
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総門から次の神門までは、広い空間が広がっている。
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〇能因法師雨乞の楠
少し進んだ左手に大きな古そうな楠が見えた。
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ここには、有名な樹齢2600年の楠があるというので楽しみにしていたら、もっと古い、なんと樹齢3000年の楠がここにあった!
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かなり衰えてはいるが、まだ生きている!
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この楠に寄り添って彩を添えている椿の花。
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※能因(のういん)は、平安時代中期の僧侶・歌人。
和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部にさだめ、古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする。
『後拾遺和歌集』(31首)以下の勅撰和歌集に67首が入集している。歌集に『能因集』があり、ほかに私撰集『玄々集』、歌学書『能因歌枕』がある。歌枕に強い関心があったと伝えられており、和歌に対する強い情熱から、様々な逸話が残されている。

〇宇迦神社(神池の島に鎮座)
祭神:宇賀神

能因法師雨乞の楠の奥に,池の手前に拝堂があり。
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拝堂の前には、広島型の狛犬がいる。
前足で大きな玉を持っているのが特徴。
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拝堂の奥の池の島に宇迦神社の社殿はある。
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(続く)

続きの「伊予国一之宮大山祇神社(その二)」を見る



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瀬戸内しまなみ海道

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所在地:愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ道
参拝日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、ホテルで朝食を済ませてから、レンタカーショップが8時開業なので、その時間に行き、車を借りた。
この日の予定は、今治から「しまなみ海道」を大三島まで行き、伊予国一之宮・大山祇神社に参拝、そこから戻ってきて大島で村上水軍博物館に寄り、今治に戻ってきて今治城を見る、というのがこの日の予定。

当初は、しまなみ海道を尾道まで行き、そこから名古屋に帰ることを考えた。
しかしレンタカーを今治で借り尾道で返すと、ワンウェイ料金が11000円も発生する。一人旅だからと借りる車は保険も合わせて6000円しかしないというのに(苦笑)
なので、しまなみ海道は大三島まで往復とし、帰りは今治から鉄道で瀬戸大橋を渡って名古屋まで行くことにした。
ということで今回は、淡路島を経由して四国に入り、しまなみ海道も通り、瀬戸大橋も渡るという、瀬戸内海横断を三個所も味わうことになった(笑)

しまなみ海道
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レンタカーを借りて、8:20に出発。
今治インターから「しまなみ海道」に乗り、一路大三島の伊予国一之宮・大山祇神社を目指す。
本当は、来島海峡大橋の威容くらいは下から眺めたかったのだが、時間がもったいないので、橋を渡るだけにした。渡っている時には凄さは実感した。

とりあえず渡った橋は、パンフレットの写真を掲載しておく。

〇来島海峡大橋
今治と大島の間を結ぶ。
3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊り橋であり[2]、全長は4105mである。
1999年完成
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〇伯方・大島大橋
大島と伯方島を結ぶ。
供用開始:1988年1月17日
全長:1230m
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〇大三島橋
伯方島と大三島を結ぶ。
1979年、本州四国連絡橋の橋の中で最初に開通した橋梁である。
全長:328m(アーチ支間 297m)
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順調に走って、大三島に入る。
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〇伊予国一之宮・大山祇神社
順調に来て、9:00に到着。
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伊予国一之宮・大山祇神社参拝記事は別途します。

〇道の駅「しまなみの駅・御島」
大山祇神社の参拝を終えたあと、すぐ近くにあったので寄った。
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家族への土産と昼食を考えていたのだが、ここにはレストランは無く、お店の人に聞いたら「多々羅道の駅」を勧められた。お昼はそこで食べることにして、せっかくだから土産を購入してから次に向かった。

来るときに標識で気が付いていたのだが、しまなみ海道まで戻って右折してすぐに港がある。
これが、私の苗字とほぼ同じなので、つい寄ってしまった(笑)
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〇井ノ口港
港に観光センターみたいな建物あり、近づいてみると「大三島クルージング」の待合所だった。
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近くに車を停めて、海を眺めた。

クルージングの桟橋。
向うに見えるのは、多々羅大橋である。
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そこから左に視線をめぐらす。
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わりと大きな船も停泊していた。
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〇道の駅「多々羅しまなみ公園」
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ここからは、多々羅大橋がよく見える。
大三島と生口島を結んでいる。
私は大三島で引き返すので、渡らない。
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波打ち際のテラスから、しばらく海を眺めた。

多々羅大橋は綺麗な、ダイナミックな橋だ。
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そこから、視線を右にめぐらす。
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レストランの前の生け簀。
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さすが、レストランのメニューは美味しそうなものばかりだ。
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美味しい食事と休憩したあと、ここでも土産を買いこんで、出発。

大三島橋を渡って伯方島、それから伯方・大島大橋を渡って大島に。
ここに、目指す村上水軍博物館があり。
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〇村上水軍博物館
この時期、関東では美術館・博物館は休館に入っていたが、ここは開いていてラッキーでした。
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村上水軍博物館については、別途記事にて紹介します。
その際には、ここの展望台からの海の眺めを動画で見ていただきます。

ここでは、展望台からの伯方・大島大橋の眺めを載せておきます。
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手前に見える能島の左が「宮窪瀬戸」。
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手前に見える能島の右が「荒神瀬戸」だ。
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潮流体験で有名な「船折瀬戸」は能島に隠れて見えない。
本当は、これにも乗りたかった。

村上水軍博物館を見て、満足して今治城に向かいました。
しばらく大島の中を一般道を走って、「大島南IC」で「しまなみ海道」に乗り、来島海峡大橋を渡って今治に入ります。
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〇来島海峡大橋
大島から今治に渡る来島海峡大橋を、今治城天守閣から眺めた姿を載せておきます。
今治城天守閣からの、周辺の海の眺めは、「今治城」の記事の際には、動画で見ていただきます。

来島海峡大橋を大島側から三枚の連続写真で。
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来島海峡大橋は、間の馬島で繋いでいます。
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馬島から今治への来島海峡大橋
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これは、しまなみ海道のパンフレットに載っていた、今治城と反対側からの来島海峡大橋の写真です。
向う側が大島です。
手前の渦潮が、来島海峡急流体験の観潮船のハイライトの場所です。
時間が許せば、この観潮船にも乗りたかった。
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〇今治城
ここの記事も、別途載せます。
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今治に戻ってきて、とても楽しかった「しまなみ海道」を楽しむ旅は終了。

次回は、伊予国一之宮・大山祇神社の記事を載せます。

(続く)

「伊予国一之宮・大山祇神社」の記事を見る


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季節の花/スズラン、ナガミヒナゲシ、紫蘭、ホットリップス

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【スズラン】
撮影場所:自宅庭
撮影日:2020年5月4日
花言葉:「再び幸せが訪れる」「純粋」「純潔」「謙遜」。
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撮っていたら、クモがやってきた(笑)
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【ナガミヒナゲシ 長実雛芥子、長実雛罌粟】
撮影場所:狭山市柏原
撮影日:2020年5月5日
学名Papaver dubium)
ケシ科の一年草または越年生植物。
地中海沿岸の原産でヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、オセアニア、南北アメリカ、日本に分布する。
都市部に多くの繁殖が確認され、路傍や植え込みなどに大繁殖しているのがよく見られる。
花言葉:「平静」、「慰め」、「癒やし」
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【シラン 紫蘭】
撮影場所:狭山市柏原
撮影日:2020年5月5日
学名: Bletilla striata Reichb. fil.)
ラン科シラン属の宿根草。
ラン科植物には珍しく、日向の畑土でも栽培可能なので、観賞用として庭に植えられる。極めて丈夫な植物
花言葉:「変わらぬ愛」
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【チェリーセージ(ホットリップス)】
撮影場所:狭山市柏原
撮影日:2020年5月5日
シソ科(Lamiaceae)、:アキギリ/サルビア(salvia)属、ミクロフィラ(microphylla)種
分類:多年草
花言葉:「燃ゆる思い」「知恵」「尊重」
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金刀比羅宮(その四)

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所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
参拝日:2020年3月23日
主祭神:大物主命
(相殿)崇徳天皇

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に続き讃岐国一之宮・田村神社当社に参拝し、次いで金刀比羅宮の参拝記事4回目です。

〇御本宮
御前四段坂を上りきると、御本宮拝殿がすぐ目の前にそびえています。
ここまで全785段の石段を、長いからと焦らずに、途中途中を楽しみながら登ってきました。
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まずは参拝です。
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拝殿内部
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拝殿から幣殿への入り口には、神殿型の狛犬が守っていました。
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参拝後、横に廻り本殿を拝します。
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〇神饌殿
拝殿の右袖にあります。
祭典や毎朝夕に神前に献ずる神饌を調進する所です。神饌殿と本宮拝殿は北渡殿でつながっています。
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神饌殿を経て本宮の北側から、本殿を拝します。
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ご祭神は、大物主命、(相殿)崇徳天皇です。

由緒:
金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。(大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。)
もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。

海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。

長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀した。

戦国時代には荒廃していたが、松尾寺の別当となった宥盛が信仰を広め境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、死後は本堂付近に祀られる。

神紋は「丸に金の文字」
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〇高台(海抜251メートル)
御本宮の北東側は、人工の高台が広がり、展望台になっています。ここからの眺めは絶景です。讃岐平野の彼方に讃岐富士が美しい姿を見せていました。
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〇目標燈
高台の東側に大きな電灯が取り付けられています。夜間に瀬戸内海を航行する船から当宮を遙拝するときの目標になります。
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〇奥宮参拝道
厳魂神社(奥社)にご参拝するには、ここを進んでいきます。
全部で、1368段となります。
私は、遠慮しました(汗)
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〇神楽殿
建物は入母屋造・檜皮葺です。祭典の伶人楽や雅楽を奏する所です。
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〇南渡殿
本宮から、三穂津姫社まで南北に渡っています。長さは約40メートルで、屋根は檜皮葺です。
明治11年(1878)に建てられました。
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「こんぴら狗」と「こんぴら狗みくじ」を配布しています。
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〇三穂津姫社
南渡殿の南端に三穂津姫社があります。本宮の御祭神である大物主神の后にあたる、高皇産霊神の御女、三穂津姫神が祭られています。本殿は檜皮葺・王子造、中殿は檜皮葺、拝殿は檜皮葺・大社関棟造です。
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三穂津姫社の前には、青銅製威嚇型狛犬がいました。
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〇銅馬
三穂津姫社直所の前には銅馬があります。一文銭を集めて作られたといわれています。文政7年(1824)に、周防國花岡驛上原惣左衛門延清より献納されました。
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〇絵馬殿
三穂津姫社の南側に、絵馬殿があります。
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絵馬殿の絵馬
絵馬殿には、各地から祈願報賽のために奉納された無数の絵馬が掲げられています。もともとは、生きた駿馬を神に奉納したのが始まりです。後に、絵に描いた馬、つまり「絵馬」を奉げるようになりました。さらに、馬ばかりではなく、武者絵や美人画の絵馬も現れるようになりました。金刀比羅宮は航海安全祈願の信仰を集めていることから、特に船の絵馬が多くみられます。また、特に貴重な絵馬は学芸館に保存されています。
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〇流し樽
絵馬殿の奥に、有名な金刀比羅宮だけの独特な風習である「流し樽」が置かれていた。
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「流し樽」の奉納はいつともなく行われるようになった。こんぴらさまに奉納する初穂や神酒、お賽銭を樽に入れ、「奉納金刀比羅宮」と書いた旗を立て、海を航行しながら樽を投げ入れる。すると「流し樽」は外洋に流れ出ることもなく潮に乗り、こんぴらさんのお山の麓の海域に流れつく。
この樽を発見した舟人は、次々と送って丸亀か多度津の港へ届くようにし、その付近の者が金刀比羅宮へ運んで代参する。
いまでも自衛隊の船等がこんぴらさんの沖合を通過する時、樽を海に流して奉納しているそうである。

〇厳島神社
ご祭神:市寸嶋姫尊
三穂津姫社の向かい側に、厳島神社があります。市寸嶋姫尊は宮島に祀られているご祭神と同じで、素盞嗚尊の御女(むすめ)です。俗に弁財天・弁天といわれ、音楽を掌る福徳の神様として崇拝されます。元はこの社は境外にあったのですが、明治31年(1898)にここへ迎え祀られました。
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〇下向道
三穂津姫社の正面から下に向かって石段が続いています。帰路となる下向道です。
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〇大山祇神社
ご祭神:大山祇神
下向道を下る途中、左側に大山祇神社があります。
大山祇神は山を司り鎮護する神様です。「古事記」に登場し、富士山などに祀られている木花開耶姫は御子神です。
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下向道を石段628段まで降りてくると、旭社があります。
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〇旭社
ご祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・天津神・国津神・八百万神です。
天保8年(1837)に竣工した社殿は、高さ約18メートル、銅板葺の総﨔造二重入母屋造で、全て槻材が用いられています。
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上層の屋根裏には巻雲が、そして柱間・扉には人物・鳥獣・草花が彫刻されていて、どれも稀に見る華麗な装飾で、旭社は天保時代の芸術の精華を集めた建物とのことです。
おまりに立派な社殿なので、森の石松が代参できたとき、ここが本殿と思い込んでここに参拝して帰ってしまった、という伝説がある。
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「旭社」の扁額
正二位綾小路有長の筆によるもの。
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ここからは、どんどん下ります。

桜馬場を過ぎて。
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大門を過ぎて。
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讃岐平野と琴平の街並みの眺めに名残を惜しみ。
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石段を降りきって、にぎやかな門前町を歩いていて、「とらや」という旅館の彫刻に目を奪われた。
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ことでん琴平駅に戻って、コインロッカーに放り込んであった荷物を出して、その先のJR琴平駅に17時ころ到着。これから4時間かけて今治まで移動なので、途中のコンビニで買ってきた軽食でとりあえず空腹を満たした。
JR琴平駅を17:25に乗車、多度津、観音寺、伊予西条で乗り次いで、今治駅に21:27に到着。
駅前のホテルにチェックインして、遅い夕食をとり、そのままバタンキュウであった。
青春18キップ、二日目の長い一日が終わった。

(三日目に続く)


三日目最初の記事「瀬戸内しまなみ海道」を見る


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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