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阿波国一之宮・大麻比古神社神馬舎前の狛犬

20200629

所在地:徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13 大麻比古(おおあさひこ)神社神馬舎前
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に参拝後、この神社に参拝しました。

阿波国一之宮・大麻比古神社については、既に記事があります。

その記事を見る


今回の狛犬は、境内に入り神馬舎前の、参道の広い石段の下に居ます。
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年代:慶応4年(1868)奉納
材質:石造
型式:特殊型-石碑持ち

まずは台座が、5段にも積み重ねられていて、立派で高いのに驚く。

右側が阿形。たてがみが巻き毛であり獅子。
立ち上がって、石碑の上に前足を載せている。
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耳は垂れ、眉はき毛が左右に流れている。目はまん丸でギョロ目、瞳あり。
鼻は扁平で鼻の穴がかなり横の位置。口を開けて舌をのぞかせている。
たわみの大きい上下の唇が二重で、歯列は上下一本ずつ並び、ちょっと乱杭気味、牙は太くで短い。
顎鬚(あごひげ)は前垂れのせいでわからない。
丸っこい、人間味のある顔で、表情は人懐こく笑いかけている感じ。
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吽形の獅子が持っている、あるいは前足を載せている石碑は、前垂れで上部ははっきりしないが、
下部には牡丹の花が綺麗に彫られている。
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左側が吽形。たてがみが巻き毛であり獅子。
立ち上がって、石碑の上に前足を載せている。
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耳は垂れ、眉はき毛が左右に流れている。目はまん丸でギョロ目、瞳あり。
鼻は扁平で鼻の穴がかなり横の位置。
たわみの大きい二重の唇を閉じている。牙をのぞかせている。
顎鬚(あごひげ)は直毛が横に並んで居るが、先がどうなっているか前垂れのせいでわからない。
丸っこい、人間味のある顔で、表情は人懐こく笑いかけている感じ。
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吽形の獅子が持っている、あるいは前足を載せている石碑は、前垂れで上部ははっきりしないが、
下部に彫られているのは、「仙人が霞を吸い込んでいる姿」だと私は解釈した。
「煙草を吸っている」とか、社名に引っ掛けて「大麻を吸っている」と記事にしている人が多いが。
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前足を石碑に載せて立ち上がっている。
前足に巻き毛、身体と後足には綿毛があり、後足の走り毛も後ろから見るとよくわかる。
ふさふさと毛深い表現となっている。
爪は大きくて鋭い。
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尾であるが、基本的に尾立ち型。
巻き毛が、ウワーッと立ち上がって、それが全体に一本にまとまって立っている。
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年代は、平成14年(2002)3月奉納。
ちなみに、9月には明治に改元となっている。
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今回の狛犬は、石碑を持っている、あるいは石碑に前足を載せているという、
極めて特殊なかたち。もしかしたら、ここにしか無いかもしれない。
広島型のバリエーションとも云える。広島型は大きな玉の上に前足を載せている。
顔は、唇が二重なことと、目がギョロ目、人間臭い顔ということで、これは浪花型の顔である。



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知形(ちかた)神社(延喜式内論社)/埼玉県深谷市

20200625

鎮座地:埼玉県深谷市田中612-1
参拝日:2020年2月7日
ご祭神:彦火瓊瓊杵尊、思兼命  (合祀)菊理姫神、伊弉諾尊、伊弉册尊

この日は、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で熊谷市、深谷市などに存在する式内社三社(田中神社、知形神社、楡山神社)を巡拝しました。

田中神社に次いで当社に参拝しました。

入口には、二基の大きな石灯篭と社号標が立つ。
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社号標
『延喜式神名帳』 武蔵国 播羅郡「田中神社」に比定される式内社(小社)の論社。
現社格:村社。
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式内社「田中神社」の論社は他に、熊谷市三ヶ尻の田中神社と八幡神社がある。
川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所にあたり、この地に知形神社が鎮座している。
吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「延喜式幡羅郡田中神社はこれなるべし。然るに近世この村 榛沢郡の所管なりしかば、三ヶ尻の田中天神を以て式内に擬せるも、村名にも後世まで存するを想へば、此なる知形明神ぞ式内ならん云々」とあり、幡羅郡の延喜式内社・田中神社に比定されている。

入口左右に立つ石灯篭は、高い台座の上に立ち、立派なもの。
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鳥居の社額には、「正一位知形大明神」とある。
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ここから社殿までは広い空き地が広がるが、ここの参拝記事によるとゲートボール場として使われているみたいだ。この日はまったく人影は無かった。
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手水舎
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拝殿の前には、昭和15年(1940)奉納の、玉取り小獅子連れ型の狛犬が居る。
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拝殿外観
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向拝部
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拝殿内部
本殿はガラス戸にさえぎられて見えず。
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本殿の覆屋には、まったく開口部が無く、本殿はまったく見ることが出来ない。
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ご祭神は、彦火瓊瓊杵尊、思兼命  (合祀)菊理姫神、伊弉諾尊、伊弉册尊

神紋は、「左三つ巴」
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神事の豆まきの名残りであろう、向拝の階段に豆がたくさん散らばっていた。
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拝殿の左側に境内社がある。          
左手前から八坂神社、諏訪神社、琴平宮、雷電神社、見目神社、手長神社、稲荷神社、八幡神社、荒川神社、金山神社、天満宮、愛宕神社。
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本殿裏に御神木と境内社。
供え物から稲荷社とみられる。
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これで当社の参拝を終え、次の楡山神社に向かった。



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瑞玉姫命(みずたまひめのみこと)・美津多麻比売命(みつたまひめのみこと)/日本の神々の話

20200622

淡路島から船で10分のところに沼島があり、そこにあ・自凝(おのころ)神社に参拝したときに、参道に「瑞玉姫命」の石碑があった。

自凝(おのころ)神社
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瑞玉姫命の石碑
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帰宅してから調べて見ると、「瑞玉姫命」ではまったくわからず、
「瑞玉姫」は「美津多麻比売命」であろうとする情報だけがあった。
美津多麻比売命は「守矢家」の家系図に出てくる。
守矢家五代家系図
200622mizu03守矢氏系図


守矢家とは:
古事記では、有名な「国譲り」のところで、建御雷之男神が大国主神に国譲りを迫ったとき、大国主神の子・建御名方神が抵抗したが、建御雷之男神と争って負けて諏訪に逃げて落ち着いたと書かれている。
諏訪地方の古代史によれば、先住民族の「洩矢神」を奉じる守屋氏が、侵出してきた建御名方神を奉じる出雲族に制圧されたことがわかっていて、古事記の記述はこれにあたる。
出雲族の長が諏訪大社の大祝(おおほうり、諏訪大社の神体)となり、守屋氏が諏訪大社の神官となった。
のちに諏訪大社の大祝の一族は、中世では諏訪氏となり、武田氏との覇権争いなどで名を残している。

一方、私が沼島の自凝(おのころ)神社で「瑞玉姫命」の石碑を見た時連想したのは、沼島がイザナギ・イザナミの神生みの舞台だったので、イザナギ・イザナミの神生みで生まれた「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」であった。
弥都波能売神は水神として信仰されている。
瑞玉姫命の「瑞」も、「瑞々しい」という言葉で使われるように、水と関係ある言葉である。
瑞玉姫命・美津多麻比売命も水神とみてよいのだと思う。

諏訪の地方神が淡路の離島、沼島にあったことの意味を想うと面白い。
長野県の諏訪と、瀬戸内の沼島と、古代どのような関係があったのか?


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青面金剛立像①(新旧2基)/武蔵野市

20200619

所在地:東京都武蔵野市八幡町1-1-2 延命寺
撮影日:2018年1月5日

歴史クラブで毎年正月に開催している「七福神めぐり」で、「武蔵野吉祥七福神めぐり」をしたときに、毘沙門天の延命寺の境内にあったものです。

ズラッと石仏が並んでいるうち、庚申塔は4基ありました。
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で、よく見ると江戸時代のものを昭和55年に再建しており、新旧二基のセット2組であることがわかりました。
というのは、どう見ても新しいのに江戸時代の年号が刻まれていたので、エッと思い調べたらそういうことが判明したというわけです。

今回は、そのうち塔身が舟形のもの新旧二基を紹介します。
並んで居る4基のうち、右から2番目が江戸時代のもので、一番左が昭和に再建されたもの。
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【江戸時代に建立されたもの】

塔身は舟形光背。
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銘文:
右側に「奉奇進申庚供養」、左側に「元禄九子年十一月廾七日」と刻まれている。
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塔身:舟形光背
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:筋彫り
主尊の特徴:髪、顔ほとんど不明。岩の上に立つ。
本手:合掌
他の手:欠落してわからず。
脇侍:三猿
造立年代:元禄九年(1696)

日月は筋彫り、辛うじてわかる。

青面金剛は一面六臂、岩の上に立つ。
髪、顔は磨滅していてわからない。
本手は合掌。
他の手は磨滅、欠落してわからない。
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その下の岩に刻まれた三猿は磨滅欠落していて、
どれが「見ざる、聞かざる、言わざる」なのか判別が難しい。
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【昭和に再建されたもの】

塔身は舟形光背。
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銘文は、江戸時代のものと同様に、
右側に「奉奇進申庚供養」、左側に「元禄九子年十一月廾七日」と刻まれている。
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塔身:舟形光背
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:螺髪、顔は仏のような柔和な表情。邪鬼を踏んで立つ。
本手:合掌
他の手:法輪、弓、矢、鉾を持つ。
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:昭和55年(1980)再建

日月は浮き彫り瑞雲付き。
青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
本手は合掌。
他の手は、法輪、弓、矢、鉾を持つ。
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髪は螺髪、耳は大きい。
顔は仏のように柔和な表情。
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青面金剛に踏まれている邪鬼は、あきらめた表情。
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その下の岩に刻まれた三猿は、
右から、「言わざる、聞かざる、見ざる」。
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この庚申塔の特徴は、
なんといっても、江戸時代の青面金剛が磨滅欠損してしまい、ほとんど像容がわからなくなってしまったのを惜しみ、昭和55年に再建されていること。
ということは、今ではたぶん庚申講の活動は無いにしても、その地域の人たちの連携がしっかりしていて、先祖たちの活動の証拠を大事にしているのではないかと思われる。
そして、ただ元の姿とまったく同様に作るのではなくて、日月の姿や邪鬼を追加したりして、発展形にしているのが面白い。



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阿波国一之宮・大麻比古神社大鳥居の狛犬

20200615

所在地:徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13 大麻比古(おおあさひこ)神社大鳥居
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺に参拝後、この神社に参拝しました。

阿波国一之宮・大麻比古神社については、既に記事があります。

その記事を見る


今回の狛犬は、長い参道の始まりの大鳥居の所に居ます。
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年代:平成14年(2002)奉納
材質:石造
型式:玉くわえ型

右側が阿形。たてがみが巻き毛であり獅子。玉をくわえている。
台座が脚の長い碁盤状のもので立派。
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耳は垂れ、眉は中央の巻き毛二つから左右に流れている。目はまん丸で瞳あり。
鼻は大きいが鼻の穴は小さい。口を開けて舌の上に玉を載せている。
上唇が二重で、歯列は上だけ見せ、牙は大きくて鋭い。
ぐるっと頬髯の巻き毛が囲んで、顎鬚(あごひげ)は真っ直ぐ下に垂れている。
四角い顔は威嚇的だが、怒っている表情ではない。
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左側が吽形。たてがみが巻き毛であり獅子。
台座が脚の長い碁盤状のもので立派。
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耳は後ろに流れているが開いており、聞き耳を立てている感じ。
眉は中央の巻き毛二つから左右に流れている。目はまん丸で瞳あり。
鼻は大きいが鼻の穴は小さい。たわみの大きい口を閉じて、鋭い牙を見せている。
上唇が二重。ぐるっと頬髯の巻き毛が囲んで、顎鬚(あごひげ)は真っ直ぐ下に垂れている。
四角い顔は威嚇的だが、怒っている表情ではない。
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前足は短いが、付け根の筋肉を強調。足首の毛を装飾的に表している。
爪は鋭い。付け根の羽根毛も立派。
後足の走り毛は、巻き毛が並んで勢いがある。
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尾であるが、基本的に尾立ち型で、9束の毛が中央の一本は上に流れ、左右4本ずつは団扇状に広がって流れて巻き毛で終わっている。
阿吽で違っていて、阿形は中央の根元に二つ巻き毛があ、吽形にはそれが無い。

阿形
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吽形
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年代は、平成14年(2002)奉納。
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今回の狛犬は、立派な台座の上の高い位置に居り、大鳥居で参拝者を迎えるのにふさわしい、堂々としたもの。
特徴は、阿形が玉をくわえていること。
玉をくわえているのは、熊本、天草でたくさん見たが、四国では多くの神社を見ていないのでなんとも言えない。
阿形にのみ尾の中央に巻き毛を配するのは、雄、雌の表現で、たまに見かける。
狛犬に雌雄の別を表すのは、子孫繁栄の願いを追加しているとみられる。



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田中神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

20200613

鎮座地:埼玉県熊谷市三ヶ尻671
参拝日:2020年2月7日

この日は、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で熊谷市、深谷市などに存在する式内社三社(田中神社、知形神社、楡山神社)を巡拝しました。
最初に訪れたのが当社です。

国道140号線と県道47号線の交差する「武体西交差点」のすぐそばに田中神社は鎮座している。
駐車できるスペースはなく、交通量の多い県道に面しているため路上駐車もできず、近くのコンビニの駐車場に停めさせてもらって参拝した。

四方を水田に囲まれている。
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社号標
社格: 延喜式神名帳 武蔵国幡羅郡田中神社、 旧村社
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主祭神:武甕槌命
(配祀)少彦名命 天穗日命

当社のあと訪ねた知形神社と共に、延喜式神名帳に記載される「武蔵国幡羅郡田中神社」に比定されている。つまり「延喜式内論社」ということになります。

「埼玉の神社」による田中神社の由緒:
古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻と書いていた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神を祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
当社の境内に要石と呼ぶ石があり、地震を鎮めるという。この石は神の宿る石、すなわち磐座であろう。古代には、今日のように社殿に神を不断に祀るのではなく、祭りの時のみ岩や木に神の降臨を仰ぐものであった。当社の古い姿は、この要石にあると考えられる。また、天神の呼称も天つ神の天神で、菅公信仰よりも古いものである。
当社は、現在は小さな社であるが、渡辺崋山の『訪𤭖録』にも「古代ハ大社ナルヨシ」とあるように、昔は大きな社で参道も八〇〇メートルほど離れた庚申塚付近まであったという。

『新編武蔵風土記稿』による田中神社の由緒:
(三ヶ尻村)天神社
水田の中間にあるをもて田中天神といへり、【延喜式】神名帳に、武蔵國幡羅郡田中神社は別當社のことにて祭神は少彦名命・天穂日命を祭れりと、別當傳へり、外に正しき證據を知らず。

入口の鳥居には、「延喜式内 田中神社」と社額がかかる。
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両側田んぼの中、参道は真っ直ぐ。
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石灯篭は、平成15年(2003)奉納と新しい。
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二の鳥居
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狛犬は、岡崎型で新しい。
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拝殿
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向拝中央には龍の彫刻
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向拝柱の木鼻には獅子の彫刻。
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社額
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拝殿背後の本殿覆屋には、まったく開いたところがなく、本殿は拝めない。
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神紋は「左三つ巴」
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境内社
祭神は不明
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社殿のうしろにも田んぼが広がる。
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ちょっと離れたところから、境内を一望。
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境内石碑による田中神社の由緒
抑々武蔵國四十四座の一社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武甕槌命少名彦名命天穂日命を奉斎し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に荘んなり。
茲に御影石の大鳥居を御奉献し大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石(かなめいし)と同様の伝説を存す又武蔵国幡羅大里榛澤の三郡の櫃儀域を示す境界石として永遠に伝えん。
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要石のことであるが、鹿嶋神宮、香取神宮が有名である。埼玉県では、ここだけではないかと思われる。
鹿嶋神宮、香取神宮と同様の伝説を残すと、碑文にあるので、やはり地震を鎮めるのだろう。

鹿嶋神宮と香取神宮では見ることができて参拝したのだが、ここのは井戸のように囲ってあるのだが、石は全然見えないのが残念。
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これで当社の参拝を終え、続いて知形神社に向かった。


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緋衣(ひごろも)大明神/日本の神々の話

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この神には、2018年に熊本を訪問したときに、熊本城の一角にある熊本城稲荷神社にてお参りしました。

熊本城稲荷神社
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ここには、沢山の神が祀られていました。
加藤清正が天正16年(1588年)に肥後国(現在の熊本県)へ入国するに当たり、居城となる熊本城の守護神として稲荷神を勧請したことに始まる。以後、生活の守護神として熊本市民の崇敬を集めています。
ご祭神:
白髭大明神(生活守護の神)
緋衣大明神(火伏・学業・芸能の神)
玉姫大明神(良縁・縁結びの神)
通力大明神(金運・勝負の神)
辰巳大明神(安産の神)
猿田彦大神(開運・交通安全の神)
子安大明神(子育ての神)
白菊大明神(商売繁昌の神)
貞広大明神(土木・建築の神)
源作大明神(五穀豊穣の神)
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緋衣大明神
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緋衣大明神について調べて見ると、以下のような伝承がありました。
 400年前に大阪で住まいを失くした兄弟狐が近江の長浜へ来た時に、侍が決闘している場面に出くわしました。
そこで2人の仲裁に入り、仲直りさせた加藤清正を目撃します。
狐たちは清正の行動に感銘を受け、清正の跡をつけて肥後の国までついていきました。
2匹は八枚石が大阪の石山城に似ていたので、花岡山を住処にしました。
そこへ、清正が熊本城を築城するために石を切り出しに来ました。切り出し作業の途中、清正がうたた寝をしていると、この兄弟が夢に現れ「清正公を慕って肥後までやってきた兄弟狐です。ここには我々が住んでおりますので、八枚石の切り出しだけはご勘弁を」と。
清正が八枚石は見逃すと約束すると、兄弟狐は喜び願い出ました。
「では弟を熊本城の守りにしましょう」と。
兄は清藤大明神として花岡山に残り、弟は緋衣大明神として熊本城に移りました。
緋衣大明神は、熊本城稲荷神社に祀られています。
花岡山の西斜面には巨大な赤鳥居があり、その下に八枚石と呼ばれる巨石があり、その下にお稲荷さんが祀られています。


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青面金剛立像(「せざる」猿付き)/八王子市

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所在地:東京都八王子市下恩方町下恩方町松嶽稲荷入り口
撮影日:2016年2月13日

この庚申塔は、陣馬街道から松竹橋を渡りしばらく進むと右側に松嶽稲荷があり、その鳥居のところに置かれている。
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主尊は青面金剛立像である。
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銘文は:
右側面に「明和九辰七月吉祥日」と刻まれ、
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左側面に「講中 九人」と彫られている。
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塔身:唐破風笠付き角柱
主尊:一面六臂青面金剛像
日月:なし
主尊の特徴:一面六臂、岩の上に立つ。
本手:合掌
他の手が持つ法具:法輪、弓、矢、三叉矛
脇侍:二猿(本来四猿だった)、二鶏
造立年代:明和九年(1772)

唐破風笠は、宝珠も立派で、唐破風の下の半菊の彫刻もはっきり残り、立派だ。
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青面金剛は一面六臂、岩の上に立つ。
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青面金剛の顔は、火炎髪で、耳が大きい。
表情は目が吊り上がり、忿怒形。
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本手は合掌、他の手は法輪、弓、矢、三叉矛と推定した。
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台座の猿であるが、左半分が欠損していて、二猿のみが残っている。
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右側の猿は「いわざる」であるが、
右から二匹目の猿は股間を前と後ろから押さえている、極めて珍しい猿。
川柳に、「庚申は せざるをいれて 四猿なり」というのがあり、「せざる」なのである。
欠落した左半分には、「いわざる」に対応して「見ざる、聞かざる」があったはずで、本来は四猿が彫られていたことになる。
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この台石の左右にはそれぞれ鶏が彫られている。
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この庚申塔の特徴は、なんといってもエロチックで、極めて珍しい四猿が彫られていること。
二猿が欠落してしまっているのは、とても残念だ。

庚申信仰の特色の一つは禁忌(タブー)が多いことで、
その中でも特に厳しいのは庚申の日の男女同衾である。

江戸時代の川柳に下記のものがあり、それがわかる。
  ・寝て用が ないで庚申 夜をふかし
  ・庚申を うるさくおもう 新世帯
  ・御帰国の 日も折り悪し かのえ申

最後のは、参勤交代で一年ぶりに帰ってきたのに、その晩が庚申の夜なので・・・・・
という、なんとも可哀そうな話です(笑)

今回の庚申塔の猿にぴったりなのも、調べたらありました。
江戸時代の柄井川柳の句に、「庚申は せざるをいれて 四猿なり」というのがありました。
「せざる」を追加して四猿にしているという、完全な形で残っていたら、庚申塔の世界では国宝級のものに間違いありません。
すこぶる残念で、なりません。



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あわじ沼島・自凝(おのころ)神社の狛犬

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所在地:兵庫県南あわじ市沼島73 自凝神社参道
参拝日:2020年3月22日

年代:昭和12年(1937)
材質:石造
型式:付き尾型

青春18キップで、淡路島から更に船で10分の沼島に行き、上立神岩を見た後、自凝神社に参拝しました。
自凝(おのころ)神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


ちょっと長い真っ直ぐな石段を登りきった拝殿の前に狛犬は居る。
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右側に阿形獅子
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たてがみが巻き毛なので獅子。
前足は、心持ち前方に出して真っ直ぐ。後足は蹲踞。
足の爪はあっさりしており、体毛の表現は足に走り毛がある程度であっさりしている。
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たてがみは、玉状の巻き毛から比較的まっすぐに毛が延びていて立派だ。
耳は伏せているが、大きくて目立つ。
眉は巻き毛が横に連続して、頬髯、顎髭はほんのちょっと。
鼻が大きく、頬も盛り上がり、その奥の眼が爛々としている。
唇のたわみが大きくて立派だが、牙や歯列がわからない。下顎が欠落している。
表情は、朗らかな感じだが、勢いがあってパワーを感じた。
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左側に吽形獅子
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登頂に穴があり、かっては角があったとみられる。
たてがみが巻き毛なので獅子。
前足は、心持ち前方に出して真っ直ぐ。後足は蹲踞。
足の爪はあっさりしており、体毛の表現は足に走り毛がある程度であっさりしている。
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たてがみは、玉状の巻き毛から比較的まっすぐに毛が延びていて、立派だ。
耳は伏せているが、大きくて目立つ。
眉は巻き毛が横に連続して、頬髯、顎髭はほんのちょっと。
鼻が大きく、頬も盛り上がり、その奥の眼が爛々としている。
唇のたわみが大きくて立派で、歯をむき出す感じで歯列を見せている。迫力がある。
表情は、じっとこちらをにらんでいる感じで、勢いがあってパワーを感じた。
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尾は背中に付いているが、根元に左右4個ずつの巻き毛があり、そこから立ち上がった尾が左右に分かれて垂れ下がる。
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年代は、昭和12年(1937)。
和の字が左右ひっくり返してある。どういう意味があるのだろう。
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狛犬のところから、氏子の皆さんの生活の場である港がよく見える。
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この狛犬は、素朴な造りだが、顔にものすごくパワーがあり、
良い狛犬である。
吽形の、歯をむき出した表情は、あまり見かけない顔で、よかった。



狛犬の記事一覧を見る



今治城

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所在地:愛媛県今治市通町三丁目
訪問日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、今治駅前のホテルを出発、レンタカーで「しまなみ海道」を北上、大三島の伊予国一之宮・大山祇神社に参拝。そこから道の駅二つで土産物購入と昼食を済ませ、今治に戻る途中で大島にある村上水軍博物館に寄り、それからここに到着した。
「青春18キッブの旅2020春」の最後の訪問地である。

今治城の位置
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大手筋の駐車場に車を停めると、堀を挟んで天守閣が見えた。
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まずは、武具櫓側まで行って、堀の向こうに武具櫓、鉄御門、東多聞櫓、御金櫓が全て見える景観を楽しんだ。
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大きな自然石の標石がある入り口から、大手筋を通って鉄御門に向かう。
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大手筋から武具櫓を見る。
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突き当たりが枡形虎口で、右に鉄御門がある。
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今治城の案内
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今治城は、別称「吹揚城(吹上城)」とも云う。
今治城は高松城(香川県)、中津城(大分県)とともに日本三大水城の一つ。藤堂高虎築城当時の今治城は内堀、中堀、外堀と堀が三重にめぐらされ、すべての堀が瀬戸内海の海水とつながっていて、潮の干満で堀の水位も変わったという。
今に残る堀にも鯛やヒラメなどの海水魚が泳ぎ、釣り人の姿も見受けられる。海から吹き揚げた砂地の上に築城したので別名「吹揚城」とも呼ばれている。
慶長7年(1602年)、藤堂高虎[1]によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。

二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。

寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令施行前の明治2年(1869年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却された。このとき二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されたが、明治4年(1871年)に火災が発生した際、内部の火薬に引火して爆発炎上し破壊された。

石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残している。
昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。
昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として再建された。外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとに復元されている。名称は今治城の古絵図において東隅櫓に御金蔵という蔵が併設されていたことに因る。
平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が再建された。

平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(79番)に選定された。
平成19年(2007年)9月、可能な限り江戸時代の史実に基づき、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに復元された。また、二の丸に藤堂高虎の像が建立された。

守りの堅い枡形虎口が鉄御門の前にあり。
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鉄御門の左側に「勘兵衛石」がある。
幅4.5m、高さ2.3m、重量16tもの堂々たる鏡石。
鏡石というのは、城の権力の象徴とも言われている。
この鏡石は築城奉行の功績を称えて「勘兵衛石」と呼ばれている。
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勘兵衛には、石調達の達人として、こんな話が伝承されている。
石の調達に苦難していた折に、「船一杯の石材をもってきたら、同等の米を与える」と周囲一帯に告知した。
その米がなくなってしまうと、「石はもういらん!持って帰れ!ただし海に捨ててはならん!」と告げた。
しかし、石を運んできた者たちも重い石を持って帰っても何の利にもならないので、次々と近くの海岸に石を捨てて帰った。
そして、落ち着いた頃にその捨てられた石を拾って今治城の石垣を完成させたといわれている。

〇鉄御門
門扉に短冊状の鉄板を打ち付けている。
このような鉄御門は、格式の高い城にしかない特別な城門であり、藤堂高虎が徳川幕府から、いかに高い信頼を受けていたかということ。
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鉄御門をくぐると左に折れるが、そこに、かっての三の丸の表門だった鉄御門の礎石が置かれていた。
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山里櫓へと続く内側の石垣も、野面積でなかなか面白い石がある。
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最近は、こういう刻印石を見つけるのが楽しみ(笑)
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〇山里櫓
時間が無くて、御金櫓、山里櫓、武具櫓・多聞櫓の各櫓にも入れるようになっていたが、寄らなかった。
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〇藤堂高虎像
天守閣前の広場には、藤堂高虎の馬上姿の銅像が立っている。
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〇蒼吹の井
石垣の下まで届かせるために、かなり深い井戸になっているようです。砂浜に造られているのに真水が得られたのは、この地域に蒼社川の伏流水が多いためとか。
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天守閣を見上げる。
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〇吹揚神社
現在の吹揚神社がある辺りが本丸だったようです。
廃藩にあたり、往古より今治市内に御鎮座をしていた“神明宮”、“蔵敷八幡宮”、“厳島神社”、“夷宮”の4社を、旧社地の故をもって今治城内に合祀社殿として造営。明治5年11月19日に遷座し、今治城の旧城名から“吹揚神社”と称しました。
御祭神は、天照大神・八幡大神・事代主神(えびすさん)・大己貴大神(だいこくさん)・厳島大神・猿田彦大神・宇迦之御魂神(お稲荷さん)・菅原道真・藤堂高虎・久松定房。
鳥居前からの参拝のみとしました。
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〇天守閣
天守閣に登ります。
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入口に、今治城沿革の説明があり。
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門から入る。
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天守内は博物館のようになっていて、展望台を除いて写真撮影は禁止。
最上階からは、しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる。

まずは大手筋から鉄御門、東多聞櫓。
目を上げるとしまなみ海道の島々が左手に見える。
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鉄御門を入って左に折れると藤堂高虎像である。
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目を上げると、しまなみ海道に通じる来島海峡大橋が見える。
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来島海峡大橋を左から右へ、つまり今治から大島の方向にたどる。
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とおーーんと、大島がある。
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大島の向こうには、伯方島、弓削島などが見えている。
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これは四阪島あたりだ。
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瀬戸内海がとぎれるまでくるっと。
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足元の今治城をぐるっと。
これは御金櫓。
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猿田彦神社と吹揚神社入口。
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吹揚神社社殿の屋根。
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高麗門と山里櫓
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今治市街、高い建物は今治国際ホテル。
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天守閣からの海の眺めは素晴らしかった。
それに大手筋方面からの今治城全景と、天守閣前広場の360度眺めを動画で撮ってきたので、それをユーチューブにアッフしてあります。
よかったら見てください。

動画「今治城全景・天守閣からの眺め」を見る


天守閣を出る時に、特別展資料「今治藩主 久松松平氏の世界」を購入。
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今治城を築城した藤堂高虎と高吉の父子の後、将軍徳川家の一門である久松松平家直系の松平定房が入城、以後明治維新まで久松松平家が今治を納めた。

徳川家康の母親、「於大」が再婚したのが、尾張国知多郡の国人「久松俊勝」である。
そのため、二人の間に生まれた子は、家康の異父弟として厚遇され、松平姓を与えられた。

久松俊勝の子松平定勝は、東海道の要衝・掛川や伊勢国桑名を拝領、伏見城代などを務めたが、その五男が定房で今治藩主となる。
その他次男定行が伊予国松山藩主、三男定綱が伊勢国桑名藩主として、徳川家の御家門として幕府を支えた。

なお、久松家は菅原氏から分かれた一族ということで、葵の紋ではなく北野天満宮の神紋である「星梅鉢」を江戸時代を通じて使用している。

満足して、今治駅近くでレンタカーを返した。
電車に乗る時間の30分くらい前に今治駅に到着。早目の夕食を電車の中でお弁当を食べようと、駅のお弁当の売店に行ったら、売り切れたからとちょうどお店を閉めているところだった。
私がしょげた顔をしていたのだろう、お店の人が本店に電話して確認してくれて、100mくらいのところにある本店に案内してくれた。
そこで買った「鯛めし弁当」が本当に美味しかった。

今治駅16:30発の電車に乗って、観音寺で乗換え、坂出で乗換えて、瀬戸大橋を渡り(真っ暗で何もわからなかった)、岡山に到着。
ここでちょっとズルをして、岡山から新幹線で名古屋まで。
名古屋23:20の普通快速夜行「ムーンライトながら」に乗り、東京駅に5:05に到着。
今回の「青春18キップ2020春」の旅が終わりました。

(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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