FC2ブログ

讃岐国一之宮・田村神社北参道の狛犬

20200831

所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地 田村神社北参道
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、この神社に参拝しました。

讃岐国一之宮・田村神社については、既に記事があります。

その記事を見る


田村神社の4組目の狛犬ですが、今回の狛犬は北参道入り口に居ます。
200831tamura01.jpg


年代:不明
材質:石造
型式:出雲・構え型

近寄れなくて年代が確認できませんでしたが、比較的新しいものだと思います。

右側が阿形獅子。
前足を折り、腰を高くして、今にも跳びかかりそうな姿勢をしている。
200831tamura02.jpg


200831tamura03.jpg


200831tamura04.jpg


かなり長い耳は垂れ、盛り上がった鼻筋の左右に巻き毛の眉が横に波打って伸びている。
目は吊り上がり気味だが、眉と大きな獅子鼻に隠れている。
二重の上唇のたわみが大きく、開いた口に歯列をむき出し、鋭い牙が前と奥に4本。
豊かな顎髭と頬髯が、何段にも豊かに流れている。
200831tamura05.jpg


200831tamura06.jpg


左側が吽形獅子。
前足を折り、腰を高くして、今にも跳びかかりそうな姿勢をしている。
200831tamura07.jpg


かなり長い耳は垂れ、盛り上がった鼻筋の左右に巻き毛の眉が横に波打って伸びている。
目は吊り上がり気味だが、眉と大きな獅子鼻に隠れている。
二重の上唇のたわみが大きく、閉じた口から鋭い牙が前と奥に4本むき出しに。
豊かな顎髭と頬髯が、何段にも豊かに流れている。
200831tamura08.jpg


200831tamura09.jpg


身体には筋肉や体毛の表現は無いが、構えている姿勢なので勢いがある。
爪は立派。足の走り毛も勢いのある炎状。
200831tamura10.jpg


尾は、豊かな炎状の尾が豊かに立ち、脇の巻き毛も勢いがよい。
200831tamura11.jpg


200831tamura12.jpg


ここで出雲・構え型にお目にかかるとは思っていなかったので嬉しかった。
本場の出雲では、来待石というもろい石(砂岩)を使っていて、風化が激しいものが多いが、
ここの狛犬は、比較的新しいこともあり、細部の造作が明確であるのが良い。
今にも跳びかかりそうな迫力があって、一之宮の狛犬にふさわしく威厳がある。


狛犬の記事一覧を見る



スポンサーサイト



七本木(しちほんぎ)神社(延喜式内論社)/埼玉県児玉郡上里町

20200826

鎮座地:埼玉県児玉郡上里町七本木3237
参拝日:2020年6月29日
主祭神:素戔嗚尊

この日は、武蔵国式内社のうち「賀美郡・四坐」を訪ねた。
長幡部神社、今城青八坂稲實神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社の4坐である。
200825shiti01.jpg


関越高速自動車道の上里SAを挟んだ両側に今回の神社が鎮座しているが、この地帯は大変な場所である。下図で左上から流れてきて右下に太い流れになっているのが「利根川」。
それに直前に高崎からと富岡から流れて来た二つの川が合流した「烏川(からすがわ)」が、下から流れて来た「神流川(かんながわ)」と合流して直後に利根川に合流している。
200825shiti02.jpg


そのため、この一帯は何度も大洪水に見舞われたことは間違いなく、上記4坐のうち一社が継続しているのは長幡部神社だけで、他の三坐は、上里町の5社と神川町の3社が論社となっている。
で、この日は上里町にある6社を巡拝しました。

最初、天神社からスタート、次いで長幡部神社に参拝し、その後にこの神社に来ました。
200825shiti03.jpg


社号標
社 挌:合祀されている榛名大神社が式内社の(今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社、今城青八坂稲実池上神社)に比定されている。  旧村社
200825shiti04.jpg


由緒書き
200825shiti05.jpg


200825shiti06.jpg


当地は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和2年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。
創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。
『明細帳』によると、明治42年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたものである。
明治の悪法「明治合祀政策」のせいである。一地域には一つの神社しか認めないと。それを地方役人が推進した。困ったのは地域の人々である。色々な由緒ある神社を一つにまとめると、その中の一つだけを選ぶわけにはいかず、地域の名前を採用した神社名になった。こういう例が至る所にある。

問題は祭神である。境内の由緒書きには素戔嗚尊だけしか書かれていない。
ここれを考えるに、合祀した各神社の祭神からではなくて、まったく新たな「素戔嗚尊」を祀ることにしたようだ。日本書紀、古事記に登場しているので、天皇の神統にも近く、お役人の受けもいい。素戔嗚尊は国土開発の神であるから五穀豊穣、商売繁盛の神となり、疫病の神・牛頭天王にも比定されているので疫病封じの神でもある。地域の人たちの合意もしやすかったのではないか。
色々な情報を見ると、この神社の祭神を「誉田別尊、倉稻魂命、菅原道真」としている記事が多い。
もとは八幡神社だから「誉田別尊」を外せないというのはわかるが、そうなると式内論社だというので参拝に来た私からすると、火産霊神をはじめとする榛名神社の祭神の八柱が入らないのは解せない。
そのように、ご祭神のことをあれこれ考えながら参拝をしました。

鳥居をくぐって入る。
200825shiti07.jpg


細長い境内で、参道が長く続く。
200825shiti08.jpg


途中に手水舎があり。
200825shiti09.jpg


社殿の周囲には、適当に樹が生えていて、いい日陰になっている。
200825shiti10.jpg


拝殿の前には、狛犬がいる。
200825shiti11.jpg


200825shiti12.jpg


200825shiti13.jpg


200825shiti14.jpg


200825shiti15.jpg


入母屋造りの拝殿
200825shiti16.jpg


200825shiti17.jpg


向拝部には、社額はなく、赤い賽銭箱が置かれているのみ。
中は暗くてよくわからない。
200825shiti18.jpg


200825shiti19.jpg


背後に本殿覆い屋がある。
200825shiti20.jpg


覆い屋には、縦格子の並ぶ窓があり、その狭い隙間から覗くと、本殿が垣間見えた。
立派な本殿でした。
200825shiti21.jpg


200825shiti22.jpg


200825shiti23.jpg


前掲の由緒書きによれば、一間社流造りの本殿には、弓矢を手に持つ八幡大明神坐像が厨子に納めて奉安されている、とのことである。

社殿の横には、合祀社の旧本殿7社を納めている覆い屋があり、稲荷社を安置した面には赤い鳥居が奉納されている。
200825shiti24.jpg


200825shiti25.jpg


それに続く覆い屋には、合祀社の旧本殿が大切に収納されている。
200825shiti26.jpg


社殿背後には、境内社の石祠群が並ぶ。
八坂神社、金山彦命、大山祇命、日本大小紳祇、八百万神、天照皇大神の石祠・石碑である。
200825shiti27.jpg


200825shiti28.jpg


200825shiti29.jpg


これで、七本木神社の参拝は終わったが、後回しにした「庚申塚」が入り口から入ったところにあった。

七本木神社の庚申塚
200825shiti30.jpg


なんと98基の庚申塔が建てられているとのこと。
庚申塚全貌
200825shiti31.jpg


私は、関東の庚申塔を巡拝しているのだが、この塚の状態をみて、胸がふたがれた。
ほとんどが埋められているのである。
200825shiti32.jpg


200825shiti33.jpg


私が住んでいる近隣市域では、いまでもその地域の人たちによって一つずつ大切に守られている。
98基もの庚申塔を集めたとは、どういうことがあったのだろうか?
いままで各地の庚申塔を見て歩いてきたが、ここの状態は私の理解を超えている。

気をとりなおして、無事な庚申塔をあらためつつ、頂上に上がった。
200825shiti34.jpg


200825shiti35.jpg


頂上には、猿田彦大神の石碑が建っていた。
200825shiti36.jpg


下に降りて、グルッと周囲を廻ってみたら、きれいな庚申塔が一基立っていて、ホッとした。
200825shiti37.jpg


200825shiti38.jpg


これで、この日三社目の参拝を終えた。
日陰で小休止してから、次の熊野神社に向かった。


「神社巡拝」に飛ぶ



土津霊神(はにつれいしん)/日本の神々の話

20200821

江戸時代の名君として名高い会津藩主保科正之の神号である。
土津の意味は、土津神社関係の説明には見当たらない。
土(つち、はに)は宇宙構成要素の根本であり、万物すべての基本であると解される。
「津」は会津の津。
よって、「宇宙の理を極めた会津藩主」となろうか。

保科正之は、徳川2代将軍秀忠の子として生まれ、信州高遠、出羽最上を経て会津藩主となり、名君ぶりを発揮した。 また、4代将軍家綱の後見役として幕政に携わり、明暦の大火後の江戸の復興、玉川上水の建設、殉死の禁止など数々の功績をあげた。 藩政においては、災害飢饉に対応すべく社倉制度の確立、老人に対し扶持の支給(国内初の年金制度)、間引きの禁止等数多い。よって会津藩の人口は増え続けた。
保科正之は学問に秀でて、会津藩に山崎闇斎を師として招いていたが、その師吉田神道の権威・吉川惟足(よしかわこれたり)より「土津霊神」の霊号を授かった。 正之は自ら猪苗代の地を訪れ、古社・磐椅神社の末社として祀るよう遺言し、没後1675(延宝3)年に「土津神社」が、会津の城を守る鬼門の位置に創建された。 以後、土津神社には9代までの歴代の藩主が祀られている。

小田原北条家の浪人・神尾伊予が板橋に土着し、その娘のお静が縁あって、将軍秀忠の乳母のお付き女中に奉公した。年に数回乳母を訪ねていた秀忠が見初めてお静に手を付けた。秀忠は正室・小江の方に側室を禁じられていた。お静は身ごもったが、それを知った小江の方から陰湿ないじめを受けたため、宿下がりして家族会議の結論で子を水に流した。秀忠の乳母の求めで再度奉公に上がったお静だが、又もや秀忠の子を宿してしまう。また宿下がりして家族会議で同じ結論になりかけたとき、末弟の才兵衛が「二度までも将軍様のお子を流してよいのか」と反対し、家族の協力で密かに生むことになる。
お静が頼ったのは、武田信玄の娘で穴山梅雪未亡人の見性院である。徳川家康が田安門の近くに屋敷を与えて保護されており、お静は月に一度秀忠の乳母のお使いで訪問していた。
見性院はお静と生まれた子を保護し、9歳になると秀忠の了解のもとに、もと武田信玄旗下の武将だった、高遠藩主保科正光の養子とする。保科正之である。
正光の薫陶よろしく、正之は堅実な藩主として成長し、密かに育った異母弟が居ると知った家光に幕政の補佐役の地位を与えられ、数々の功績を残す。

正之が死去すると、遺言どおりにその地に葬られ、神式の葬儀によって埋葬された。この時期、江戸幕府は葬式は仏式によるものと定めていたが、吉川惟足が老中稲葉正則と交渉し、神式で執り行う旨の許可をとった。
これが神式による葬儀の嚆矢となった。
前述したとおり延宝3年に墓所の南側約1キロメートルの地に土津神社が造営された。古来の正式に則った神殿造で、日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な建物だったという。
しかし、慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、母成峠の戦いで会津藩が敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼してしまった。
その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷された。明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られた。この後、明治7年(1874年)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っている。

保科正之は、歴史上人物のうち、私が一番好きな人物である。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



一面六臂青面金剛立像/埼玉県川越市

20200820

所在地:埼玉県川越市上老袋自治会集会場
撮影日:2020年7月24日

この庚申塔は、上老袋自治会集会場にある。
200820kamioi01.jpg


200820kamioi02.jpg


ここにある三基の石仏のうち二基が庚申塔である。
手前から今回の青面金剛庚申塔、次いで地蔵菩薩石仏、奥が如意輪観音を主尊とする庚申塔である。
200820kamioi03.jpg


今回の庚申塔の上には、ちょうど白い百日紅が咲いていた。
200820kamioi04.jpg


200820kamioi05.jpg


200820kamioi06.jpg


塔身は駒形。
200820kamioi07.jpg


200820kamioi08.jpg


塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:頭に蛇、邪鬼を踏んで立つ。
本手:合掌
他の手:法輪、弓、矢、三叉矛。
脇侍:二鶏、邪鬼、三猿
造立年代:寶暦8年(1758)


日月は浮き彫り、瑞雲が付いている。
200820kamioi09.jpg


青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
200820kamioi10.jpg


200820kamioi11.jpg


頭に蛇が巻き付いている。
髪はオカッパのように肩まで垂らす。耳は見えない。
顔は、破損風化のためわからなくなっている。
200820kamioi12.jpg


200820kamioi13.jpg


手は六本で、本手は合掌。
他の手は、法輪、弓、矢、三叉矛であることが、なんとかわかる。
200820kamioi14.jpg


踏んづけられた邪鬼の表情は、ムスッとしているのがなんとかわかる。
青面金剛の足元、左右に鶏が浮き彫りで刻まれている。
200820kamioi15.jpg


200820kamioi16.jpg


邪鬼の下に刻まれた三猿は、左右の猿が横向き。
風化が激しくわかり難いが、右から「言わざる、聞かざる、見ざる」となんとかわかる。
200820kamioi17.jpg


200820kamioi18.jpg


この庚申塔は、標準的な合掌型。
日月、二鶏、邪鬼、三猿と、脇侍は全て揃っている。


「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ


讃岐国一之宮・田村神社随神門前の狛犬

20200818

所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地 田村神社随神門前
参拝日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、この神社に参拝しました。

讃岐国一之宮・田村神社については、既に記事があります。

その記事を見る


かってこの場所に随神門があったので随神門と呼ばれているが、実際は高麗門の前に今回の狛犬は居ます。
200818tamura01.jpg


200818tamura02.jpg


年代:天保13年(1842)
材質:石造
型式:付き尾型
阿形が獅子吽形が狛犬の、初期のタイプである。

右側に阿形獅子。
前足を直立。蹲踞。
200818tamura03.jpg


200818tamura04.jpg


200818tamura05.jpg


たてがみが巻き毛なので獅子。
耳は伏せている。
眉は巻き毛状に横に並ぶ。鼻鬚、頬髯は無く、顎髭が少し。
目はドングリ眼、瞳あり。鼻は扁平。
唇のたわみが少ない口を大きく開け、前の歯列をむき出している。牙は確認できない。
表情は、怒っている。
200818tamura06.jpg


200818tamura07.jpg


左側に吽形狛犬。角あり。
前足を直立。蹲踞。
200818tamura08.jpg


200818tamura09.jpg


200818tamura10.jpg


たてがみは直毛がスッと流れており、狛犬。
耳は伏せている。
眉は直毛が横に並ぶ。鼻鬚、頬髯は無く、顎髭は八の字。
目はドングリ眼で飛び出している。鼻は小さく頬が張っている。
大きな口を閉じ、歯列と牙を歯をむき出している。
丸っこい親しみやすい顔で、表情はかなりとぼけている。
200818tamura11.jpg


200818tamura12.jpg


前足の関節を強調、爪も大きくて立派。
前足の関節と足首に、長く羽根を延ばした立派な巻き毛があり。
胴体はずん胴、体毛の表現も無く、アッサリしている。
かなり頑丈な感じがある。
200818tamura13.jpg


200818tamura14.jpg


尾は付き尾型だが、左右阿形と吽形で異なる。

右の阿形は、中央の炎三つは大きく伸びて、脇に左右二つずつ巻き毛が付く。
200818tamura15.jpg


左の吽形は、団扇形に巻き毛が広がる。
200818tamura16.jpg


年代は天保13年(1843)。
200818tamura17.jpg


この参道には三組の狛犬が並び、入り口と中間の狛犬は、阿吽の位置が逆だったが、随神門前の今回の狛犬は通常タイプで、右側が阿形となっている。
そして嬉しいことに、江戸時代のものとしては珍しく、阿形が獅子、吽形が狛犬という、初期のタイプとなっている。
皆さん、狛犬、狛犬と呼ぶが、江戸時代からほとんどのものが、両方とも獅子のタイプになってしまっているのは寂しいじゃありませんか。
だから、こういう「獅子・狛犬」タイプを見つけると嬉しくなってしまう。
顔も、けっこう個性的な顔で、すっかり気に入りました(嬉)


狛犬の記事一覧を見る



夏の空

20200817

撮影場所:埼玉県狭山市柏原地内
撮影日時:2020年8月17日 16:30

しばらく空の写真を撮ってなかったので、16時からウォーキングに出たついでに撮った。

夏らしい積乱雲が出ていた。
200817kumo01.jpg


人が四つん這いになって、尻に子獅子が噛みついている?
200817kumo02.jpg


これは人の顔だね。
200817kumo03.jpg


獅子には見える。
200817kumo04.jpg


(了)


能仁寺・諏訪八幡神社・観音寺/埼玉県飯能市

20200815

訪問日:2020年7月31日

所属している歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で行きました。
午前中飯能市立博物館を見たあと、近くの公園で3密に気を付けながら持参の弁当で昼食。
午後は能仁寺、諏訪八幡神社、観音寺を参拝しました。

【能仁寺(のうにんじ)】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能1329、山号:武陽山、宗旨:曹洞宗、本尊:毘盧遮那仏
歴史:
寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。

寺号標と仁王門
200815nouninnd01.jpg


寺の由緒書き
200815nouninnd02.jpg


仁王門
200815nouninnd03.jpg


200815nouninnd04.jpg


200815nouninnd05.jpg


200815nouninnd06.jpg


仁王門をくぐると、深い木立の参道に大きな石灯篭が並ぶ。
200815nouninnd07.jpg


参道には、竹の林があったりして、気持ち良かった。
200815nouninnd08.jpg


参道を登りきると、左に折れ中雀門に向かう。
200815nouninnd09.jpg


中雀門
200815nouninnd10.jpg


200815nouninnd11.jpg


本堂の前は広々としていて、前衛的な彫刻が置かれたりして面白かった。
200815nouninnd12.jpg


200815nouninnd13.jpg


堂々たる本堂
200815nouninnd14.jpg


本尊の廬舎那仏にお参り。
200815nouninnd15.jpg


遠くてよくわからなかったので、望遠で撮らせていただきました。
200815nouninnd16.jpg


本堂の大棟瓦は、迫力がありました。
200815nouninnd17.jpg


200815nouninnd18.jpg


境内に飯能戦争で戦った旧幕府軍志士たちを悼む「唱義死節」碑がある。
能仁寺に旧幕方「振武軍」の本営が置かれた。
200815nouninnd19.jpg


200815nouninnd20.jpg


200815nouninnd21.jpg


寺の説明書き
200815nouninnd22.jpg


200815nouninnd23.jpg


名園100選に選ばれているという庭園を拝観する予定だったが、残念なことにコロナ対策で拝観は中止されていた。残念(泣)
200815nouninnd24.jpg


本堂の横の大きな百日紅の木が、少し花を開いていた。
200815nouninnd25.jpg


200815nouninnd26.jpg


これで、能仁寺を後にして、諏訪八幡神社に向かった。

途中、この辺のガイドマップに若山牧水の歌碑が載っていたので、それを確認。
200815nouninnd27.jpg


200815nouninnd28.jpg


200815nouninnd29.jpg


【諏訪八幡神社】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能字諏訪前263番地
主祭神:武御名方命、誉田別命 他18柱(豊受姫命、奥津姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、
白山姫命、木花姫咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売姫命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、
大日孁貴命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命)

創祀は永正13年(1516年)初春11日。 加治菊房丸(中山氏)、平重清(畠山氏)などが建御名方命(諏訪神)を勧請して「諏訪神社」と号し、後に信州から八幡神(誉田別命)を勧請して「諏訪八幡神社」となった。
天正12年(1584年)に加治勘解由左衛門家範、智観寺住僧法印慶賢が再建。
1887年(明治20年) 本殿を現在地に移し、社殿造営。
2016年(平成28年) 社殿改修。

飯能市立博物館の奥からの入り口から入ったので、最初に社殿の前に出た。
200815nouninnd30.jpg


200815nouninnd31.jpg


境内社:
〇飯能恵比寿神社:武蔵野七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
200815nouninnd32.jpg


武蔵七党のうち丹党の中山家範が霊夢により、再建した話が説明されていた。
200815nouninnd33.jpg


200815nouninnd34.jpg


200815nouninnd35.jpg


200815nouninnd36.jpg


〇丹生(たんしょう)神社
正一位丹生大明神とも称し、享保雛を神体に埴山姫命、罔象女命を祀る。
200815nouninnd37.jpg


武蔵七党丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。

丹生大明神の由来書き
200815nouninnd38.jpg


200815nouninnd39.jpg


丹生樹
樫の木ですが、丹生大明神のご神徳を具現しているとされ、この名でお呼びしている。
200815nouninnd40.jpg


200815nouninnd41.jpg


〇愛宕神社、山祇神社、荒神神社、御嶽神社、琴平神社、加納神社、白山神社、稲荷神社は社殿の裏にあり、武蔵野七福神めぐりの際にお参りしているので、今回は省略しました。

正面入り口の鳥居から出て、次いで観音寺に向かいます。
200815nouninnd42.jpg


【観音寺】
所在地:埼玉県飯能市山手町5番地17号、山号:般若山、宗派:真言宗智山派
本尊:如意輪観世音菩薩、不動明王 ほか
札所等:武蔵野七福神・寿老人
※1867年(慶応4年)の飯能戦争で、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つ。

諏訪八幡神社から歩いて来たので、直接本堂と不動堂の前に出ます。
200815nouninnd43.jpg


本堂内部
200815nouninnd44.jpg


ご本尊の前に、天井から一対の白馬が吊られているのが珍しい。
200815nouninnd45.jpg


不動堂
200815nouninnd46.jpg


この日は、見ることが出来なかったが、武蔵野七福神めぐりでは、ここに寿老人が置かれる。
武蔵野七福神めぐりの時の写真
200815nouninnd47.jpg


〇白象
鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。公式ページには象にまつわる仏教説話が語られている。なお入間市と飯能市境の入間川沿いではアケボノゾウの化石も産出されている。
200815nouninnd48.jpg


ここから、飯能河原が遠望できます。
200815nouninnd49.jpg


〇飯能鬼子母神
鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所と協力して平成19年11月に設置された。
200815nouninnd50.jpg


200815nouninnd51.jpg


境内には、句碑が二つあります。

松尾芭蕉の句碑
「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮 はせを」
200815nouninnd52.jpg


水原秋櫻子の句碑
「むさしのの空真靑なる落ち葉かな」
200815nouninnd53.jpg


蓮の花が咲き始めていた。
200815nouninnd54.jpg


これで、この日の予定は終り。
正面入り口から出て、飯能駅に向かいました。
200815nouninnd55.jpg


途中、蔵カフェで涼をとりました。
美味でした。
200815nouninnd56.jpg


(了)


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



お気に入りの場所一覧に飛ぶ



鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)・野椎神(のづちのかみ)・野槌姫命(のづちひめのみこと)・草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)/日本の神々の話

20200812

『古事記』では鹿屋野比売神、別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ 草祖は草の祖神の意味)と表記する。
下記別名もある。
草野姫(:かやぬひめ)
萱野媛命(:かやのひめのみこと)
草祖(:くさのおや)
鹿江比賣神:(かえひめのかみ)
野槌:(のづち)
野槌姫命(のづちひめのみこと)

『古事記』 「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「二神の神生み」の段
 (現代語訳)
 イザナキ・イザナミのニ神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、オホコトオシヲノ神、次にイハツチピコノ神を生み、次にイハスヒメノ神を生み、次にオホトヒワケノ神を生み、次にアメノフキヲノ神を生み、次にオホヤピコノ神を生み、次にカザモツワケノオシヲノ神を生み、次に海の神の、名はオホワタツミノ神を生み、次に水戸の神の、名はハヤアキツヒコノ神、次に女神のハヤアキツヒメノ神を生んだ。 オホコトオシヲノ神からアキッヒメノ神まで合わせて十神。
 このハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、アワナギノ神とアワナミノ神、次にツラナギノ神とツラナミノ神、次にアメノミクマリノ神とクニノミクマリノ神、次にアメノクヒザモチノ神とクニノクヒザモチノ神である。 アワナギノ神からクニノクヒザモチノ神まで、合わせて八神。
 次に風の神の、名はシナツヒコノ神を生み、次に木の神の、名はククノチノ神を生み、次に山の神の、名はオホヤマツミノ神を生み、次に野の神の、名はカヤノヒメノ神を生んだ。この神のまたの名をノヅチノ神という。 シナツヒコノ神からノヅチノ神まで、合わせて四神。このオホヤマツミノ神とノヅチノ神の二神が、山と野を分担して生んだ神の名は、アメノサヅチノ神とクニノサヅチノ神、次にアメノサギリノ神とクニノサギリノ神、次にアメノクラトノ神クニノクラドノ神、次にオホトマトヒコノ神とオホトマトヒメノ神である。 アメノサヅチノ神からオホトマトヒメノ神まで、合わせて八神である。
(以下省略)

神名の「カヤ」は萱のことである。
萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、 風神(志那都比古神)、木神(久久能智神、山神(大山津見神)などと共に生まれている。
さらに、大山津見神とともに、 土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

祀られている神社:
樽前山神社(北海道苫小牧市)では山の神・大山祇神(おおややまつみ)、木の神・句句廼馳(くくのち)と共に祀られている。
萱津神社(愛知県あま市)では日本唯一の漬物の神として祀られている。
清野井庭神社(三重県伊勢市)では灌漑用水の神、別説では屋船の神の分霊であるという。

私は、宗像大社末社・草上神社にて、野槌姫命(のづちひめのみこと)に参拝したが、
変わった所で、東京都墨田区の向島百花園に「二神石碑(くくのちの神、かやのひめの神)」があった。

向島百花園の二神石碑
200812kayanohime.jpg



日本の神々記事一覧に飛ぶ



一面六臂青面金剛立像/埼玉県川越市

20200810

所在地:埼玉県川越市中菅間 菅間の渡し道沿い
撮影日:2020年7月24日

この庚申塔は、川越工業団地と菅間緑地の間の道を入間川に向かって進み、入間川直前の辺にある。
川越市の資料には「菅間の渡し道沿い」とあるので、この道が入間川に突き当たった辺りに、渡しがあったのだろう。
200810sugama01.jpg


この道を車で入って行ったが庚申塔を発見できず、手前に車を置いて、分岐している小道を確認していった。
周りを生垣で囲んでいるので、「渡し道」からはまったく見えない状況だった。
200810sugama02.jpg


200810sugama03.jpg


塔身は駒形で、木製の屋根で保護されている。
200810sugama04.jpg


200810sugama05.jpg


銘文は見当たらず、川越博物館の資料にも「不明」とある。

塔身:駒形
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:髪双髷、頭に蛇、三眼、邪鬼を踏んで立つ。
本手:合掌
他の手:法輪、弓、矢、三叉矛を持つ。
脇侍:二鶏、邪鬼、三猿
造立年代:不明

日月は浮き彫り瑞雲付き。
200810sugama06.jpg


青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
200810sugama07.jpg


200810sugama08.jpg


髪は双髷、頭に蛇が巻き付いている。
三眼で、目は吊り上り、歯をむき出して、忿怒の表情。
200810sugama09.jpg


200810sugama10.jpg


手は6本あり、本手は合掌。
他の手は、法輪、弓、矢、三叉矛を持つ。
200810sugama11.jpg


踏んづけられた邪鬼は、あきらめの表情をしている。
青面金剛の足元、左右に鶏が浮き彫りで刻まれている。
200810sugama12.jpg


200810sugama13.jpg


邪鬼の下の岩に刻まれた三猿は、左右の猿は横向き。
右から「見ざる」、「聞かざる」は判明できるが、三番目の猿は風化が激しくわからない。
200810sugama14.jpg



この庚申塔の特徴は、一面六臂で、持ち物などは最も多いタイプだが、
三眼がはっきりしている。
歯をむき出して忿怒している顔は珍しい。



「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ


讃岐国一之宮・田村神社参道中ほどの狛犬

20200808

所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地 田村神社参道中ほど
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、この神社に参拝しました。

讃岐国一之宮・田村神社については、既に記事があります。

その記事を見る


今回の狛犬は、参道入り口の鳥居と随神門の間の参道中ほどに居ます。
200808tamur01.jpg


年代:大正15年(1926)
材質:青銅製
型式:岡崎古代型
右側に吽形と、阿吽の位置が逆。吽形に角あり。

右側に吽形獅子。角あり。
前足を直立。蹲踞。
胸に鈴あり。
200808tamur02.jpg


200808tamur03.jpg


200808tamur04.jpg


角は、前が小さく後ろが大きい二股。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と直毛がそのまま流れるもの、沢山ある。
耳は大きく垂れている。
大きな房状の眉が目に覆いかぶさっている。鼻ヒゲ、顎髭は直毛で豊か。
目は丸く奥目。鼻は大きく張り、鼻の穴が横に広がる。
たわみが大きい唇閉じ、牙だけを覗かせている。
表情は、丸っこい親しみやすい顔で、ジッとこちらを注視している感じ。
200808tamur05.jpg


200808tamur06.jpg


左側に阿形獅子
前足を直立。蹲踞。
胸に鈴をつけている。
200808tamur07.jpg


200808tamur08.jpg


角はない。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と直毛がそのまま流れるもの、沢山ある。
耳は大きく垂れている。
大きな房状の眉が目に覆いかぶさっている。鼻ヒゲ、顎髭は直毛で豊か。
目は丸く奥目。鼻は大きく張り、鼻の穴が横に広がる。
たわみが大きい唇を開き、舌や歯列はあまり見えず、牙だけが目立つ。
表情は、丸っこい親しみやすい顔で、笑いながらこちらを注視している感じ。
200808tamur09.jpg


200808tamur10.jpg


胸を大きく張り出し、
身体と足の筋肉が強調され、爪も大きくて立派。
脚は長く、両足の走り毛は立派。
胴体にも肋骨が表現され、精悍な、堂々たる姿勢である。
200808tamur11.jpg


200808tamur12.jpg


尾は立っていて、八つ手状に広がった炎状の尾が前方にかぶさり、
先端に巻き毛を作っている。
200808tamur13.jpg


年代は大正拾五年(1926)。
200808tamur14.jpg


この狛犬は、岡崎古代型。
鎌倉時代の木製狛犬を模した姿で、しかも青銅製なので、木製狛犬のように精緻に作ることが出来ますね。
胸に鈴をつけています。
この狛犬も阿吽の位置が逆で、右側が吽形となっています。
その理由については前回説明したように、わかっていません。
しかも、この神社においても、次回から紹介する、随神門にあるもの・北参道にあるものは通常の右側が阿形となっているので、余計わからなくなります。


狛犬の記事一覧を見る



飯能市立博物館

20200806

所在地:埼玉県飯能市大字飯能258-1
訪問日:2020年7月31日

所属している歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で行きました。
200806hannou01.jpg


2018年4月、旧飯能市郷土館からリニューアルオープンしました。
林業のまちを象徴する、西川材に関する展示や、飯能市の歴史をわかりやすく展示。
ビデオコーナー、図書室があります。

入口から入ると、ロビーには「西川材」の展示がある。
※西川材とは
埼玉県の南西部、荒川支流の入間川・高麗川・越辺川の流域を西川林業地と呼んでいます。この付近には「西川」という地名はありませんが、江戸時代、この地方から木材を筏により江戸へ流送していたので、「江戸の西の方の川から来る材」という意味から、この地方の材を「西川材」、また、その生産地であるこの地方が「西川地方(西川林業地)」と呼ばれるようになりました。
200806hannou02.jpg


床に筏のイメージの敷物と、家具類などを展示。
200806hannou03.jpg


企画展示は「木、喜々として/食べて、着て、一緒に暮らす」
200806hannou04.jpg


市内の土地面積の約75%が森林に覆われる飯能市。国産の材木の需要が落ち込んでいる今日、飯能市に最先端研究が集結していると、様々な観点から西川材の良さ再発見するという、駿河台大学メディア情報部野村ゼミナールの企画展示です。
200806hannou05.jpg


200806hannou06.jpg


木材から得られる、「CNF(セルロースナノファイバー)」が補強用繊維としてすごいんですね。
鋼鉄の1/5の軽さで、鋼鉄の5倍の強度、熱による変形が少ない等の特性を持ちます。
200806hannou07.jpg


200806hannou08.jpg


宇宙ステーション補給機「こうのとり」の内部構造材と提案されているそうです。
それから自動車のボンネット・ドアなどに使用されている。
また、靴底のミッドソールにも使用されている。

CNFは、消臭効果、消毒作用などから、化粧品、消臭剤、ボディソープなどにも使われているそうです。
200806hannou09.jpg


「森のサイダー」とボディソープ
200806hannou10.jpg


西川材から作られた糸と布の製品。
200806hannou11.jpg


【歴史展示室】
200806hannou12.jpg


およそ2万年前の氷河期、槍を持った石器人が飯能にやってきた。
200806hannou13.jpg


200806hannou14.jpg


奈良時代の初めに「高麗郡」を置かれた。
200806hannou15.jpg


中世、この地で活躍した、武蔵七党の一つ丹党「加治氏」。
200806hannou16.jpg


加治氏の板石塔婆
智観寺板石塔婆(複製) 仁治3年(1242)
200806hannou17.jpg


戦国の世を生き抜いた中山氏
200806hannou18.jpg


江戸時代の領主は、飯能市の場合もやはりかなりの細切れ状態で、天領、御三卿、大名、旗本の領地。
一番多いのが大名の黒田氏。黒田氏は、中山家出身で5代将軍綱吉の側近として仕え、大名となった黒田直邦以来の家。
200806hannou19.jpg


200806hannou20.jpg


◎飯能戦争
昨年、歴史クラブの定例見学会で「渋沢栄一記念館」を訪ねましたが、渋沢栄一についての説明資料を担当した際に、それまで実業家としての渋沢栄一のイメージしか抱いていなかったので、幕末の志士としての渋沢栄一に非常に驚いたことがありました。
それで、ここでは渋沢栄一縁故の者たちの飯能戦争を書いておきます。
渋沢栄一は子供の頃は従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の許に通い、学問をした。
尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城の乗っ取り、横浜の焼き討ちを計画しますが、行動を共にしたのが、尾高惇忠、渋沢成一郎(従弟)、渋沢平九郎(尾高惇忠の弟、栄一の養子)、尾高長七郎(惇忠の弟)という従弟たち。
計画は、状況偵察に京都に派遣していた尾高長七郎が帰着、京都の激動政情(公武合体派が尊王攘夷派を駆逐、大和の天誅組事件)を説明、説得により中止しますが、既に計画が漏れており、故郷を脱出します。
その後縁あって、渋沢栄一と渋沢成一郎(従弟)は共に一橋慶喜に仕えます。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こります。
渋沢栄一は、パリ万国博覧会に将軍名代の随員として前年から渡航していて不在。
渋沢成一郎は鳥羽・伏見の戦いに参戦、江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し、頭取に就任します。尾高惇忠も共に行動。
4月、徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八郎との対立が発生し、彰義隊を脱退した。
天野八郎と合わず上野の彰義隊を離れた渋沢成一郎を首領とし、彰義隊脱退者で結成した振武隊は、青梅街道の田無(現西東京市)の総持寺を本営とする。ここで成一郎は尾高惇忠らと隊士を集める。5月15日、彰義隊と新政府軍の間で上野戦争が起こる。その前日に箱根ケ崎(現東京都西多摩郡瑞穂町)に入っていた振武隊も行動を開始し上野に向う。しかし、彰義隊敗戦の報を受け、田無に戻り、彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった振武隊は5月18日、能仁寺に入り陣営を構築する。5月23日、3,500名の官軍は早朝から攻撃を開始、わずか数時間で勝敗は決し、寺はほとんど焼失。成一郎は被弾して負傷するも惇忠に抱えられて伊香保(現群馬県渋川市)に逃れた。参謀の渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は変装して顔振峠を越えて敗走、黒山村(現埼玉県入間郡越生町)で官軍に捕捉され負傷、平九郎は割腹して自害した。22歳。成一郎と惇忠はなおも徹底抗戦の主旨を貫き、密かに江戸に戻り榎本武揚の艦隊に合流し、最後は箱館まで転戦するが、成一郎と惇忠は生き残り、維新後は渋沢栄一と共に生産・経済界で活躍します。
200806hannou21.jpg


振武軍旗(複製)
200806hannou22.jpg


四斤山砲榴弾(しきんさんぽうりゅうだん)
大砲玉箱
200806hannou23.jpg


◎地域の遺産
200806hannou24.jpg


宮沢湖の完成
昭和13年と、意外に新しかった。
現在は、ムーミンパークで大人気の場所となっている。
200806hannou25.jpg


西武秩父線の開通
昭和44年というので吃驚した。私が大学卒業した年である。
200806hannou26.jpg


郷土館(現博物館)建設の始まり(昭和57年)
㈱丸広百貨店から現金2億円が寄付された。
現金の山に圧倒されました。
私の家族は、川越のマルヒロが好きでいつも通っていますが、県西部各地にある丸広百貨店の創業者は飯能出身なんですね。
200806hannou27.jpg


◎山の霊場
飯能には、高山不動(常楽院)、子ノ権現、竹寺、岩殿観音、秩父御嶽神社など、「山の霊場」と表現される霊場がたくさんある。
200806hannou28.jpg


木造軍荼利明王立像(複製)
平安時代 常楽院蔵
200806hannou29.jpg


護符(高山不動)
200806hannou30.jpg


紹介したのは展示のほんの一部ですが、図書室でも中世武士についての本とか300藩主要藩士名簿とか歴史の本を楽しんで、集合時間になったのでここの観覧は終了。
近くの公園で、3密に気を付けながら持参の弁当で昼食。
午後は能仁寺、諏訪八幡神社、観音寺を参拝しました。
それは次回記事で。



能仁寺・諏訪八幡神社・観音寺の記事を見る


「お気に入りの場所」に飛ぶ


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ


天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ) ・建葉槌命(たけはづちのみこと)/日本の神々の話 

20200803

天羽槌雄神は『古語拾遺』に登場し、建葉槌命は『日本書紀』に登場する。
天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。

全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。
私は、群馬県伊勢崎市・倭文(しとり)神社、埼玉県上里町・長幡部神社、茨城県那珂市・静神社(建葉槌命)で参拝した。

★天羽槌雄神
『古語拾遺』に登場する。天照大神を天の岩戸から誘い出す際に、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。

同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。
また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。

系譜:
神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、委文宿祢、県犬養氏、美努宿祢、鳥取部連、大椋置始連の祖神とされる。
『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲命(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。

☆建葉槌命
別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)である。
建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、
1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。
この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。

2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。
『日本書紀』第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、『日本書紀』第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



一面八臂青面金剛立像/埼玉県川越市

20200801

所在地:埼玉県川越市大字寺山5−1 西光院
撮影日:2020年7月24日

この庚申塔は、入間川沿い平塚橋の少し北にある西光院山門にある。
200801saikou01.jpg


山門の右側にお地蔵さん二基と一緒に並んでいる。
200801saikou02.jpg


塔身は唐破風笠付き角柱。
200801saikou03.jpg


200801saikou04.jpg


銘文は、
右側に「奉庚申造立所願成就祈所」とあり、
左側に「寶暦四甲戌歳八月吉祥日」とある。
200801saikou05.jpg


200801saikou06.jpg


塔身:唐破風笠付き角柱
主尊:一面八臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:髪双髷、頭に蛇、邪鬼を踏んで立つ。
本手:合掌
他の手:法輪、弓、索縄、ショケラ、矢、三叉矛を持つ。
脇侍:二鶏、邪鬼、三猿
造立年代:寶暦4年(1754)

塔身は、立派な唐破風笠の笠があり。
200801saikou07.jpg


日月は浮き彫り、立派な瑞雲が付く。
200801saikou08.jpg


青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
200801saikou09.jpg


200801saikou10.jpg


髪は双髷、頭に蛇が巻き付いている。
髪は肩までオカッパ状に垂らし、耳は見えない。
顔は、破損風化のためわからなくなっている。
200801saikou11.jpg


200801saikou12.jpg


手は八本あり、本手は合掌。
他の手は、通常の法輪、弓、矢、三叉矛に加えて、ショケラと索縄を持つ。
200801saikou13.jpg


通常、ショケラが登場するときは、本手で剣と共に持つが、
この像は、7、8本目にショケラと索縄を持つ。
ショケラは幼児状である。
200801saikou14.jpg


踏んづけられた邪鬼の表情は破損風化のため、わからない。。
青面金剛の足元、左右に鶏が浮き彫りで刻まれている。
200801saikou15.jpg


200801saikou16.jpg


台座に刻まれたダイヤ型の三猿は、右から「言わざる、聞かざる、見ざる」となっている。
200801saikou17.jpg


200801saikou18.jpg


この庚申塔の特徴は、一面八臂、手が8本あること。
通常の、ほとんどのものは手が6本である。
合掌する本手と法輪、弓、矢、三叉矛を持つ手に加えて、
この像は、7、8本目にショケラと索縄を持つ。
通常、ショケラが登場するときは、本手が剣と共に持つが、この像は異なっている。
ショケラは通常の女性と異なり、幼児状である。



「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop