讃岐国・金刀比羅宮の狛犬③
20201121
所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1金刀比羅宮桜馬場入り口
撮影日:2020年3月23日
「青春18キップの旅2020春」にて金刀比羅宮に参拝したときに撮影した狛犬です。
金刀比羅宮については、既に記事があります。
その記事を見る
金刀比羅宮では、私は12組の狛犬を確認しましたが、今回の狛犬が3番目となります。
大門をくぐると、五人百姓が名物の加美代飴を売っていますが、その先の桜馬場が始まるところに今回の狛犬はいます。



参道から側溝によって隔てられ、石柵に囲まれて高い位置にいるので、遠くから見るだけ、後ろにも回れません。
年代:不明(江戸時代)
材質:青銅製
型式:宝珠・角型
通常の、阿形に宝珠、吽形が角ありとは逆になっている。
右側に阿形獅子。角あり。
前足を直立。蹲踞。
工事中の幕に囲まれていて、前から撮れない。


角は、前が小さく後ろが大きい二股。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と太い直毛が流れている。
耳は横に広げている。
太い眉が目に覆いかぶさっている。顎髭は横に流れて巻いている。。
目は楕円で奥目。鼻は大きく張っている。
たわみが大きい唇を開け、乱杭歯と鋭く太い牙を見せている。
表情は、威厳のある顔で、ジッとこちらを注視している感じ。


左側に吽形獅子。頭に宝珠を載せている。
前足を直立。蹲踞。


頭に宝珠を載せている。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と太い直毛が流れている。
耳は横に広げている。
眉は、大きな巻き毛二つの渦が続いていき、目に覆いかぶさっている。顎髭は巻き毛が続いていく感じ。
目は楕円で奥目。鼻は大きく張っている。
たわみが大きい唇を閉じて、下唇に大きな牙の輪郭を見せている。
表情は、目を怒らせ、こちらを睨めつけている感じ。


胸が大きく広く、それが豊かな毛で覆われている。
前足の筋肉と腱が強調されて力強い。
胴体と後足は丸っこくて、筋肉の表現もなく、対照的。
走り毛も立派。
堂々たる体躯で、威勢が良い。


尾は後ろから見ることが出来ないので、横から見た印象だけだが、
後ろに突き出てから大きな炎状に立ち上がっており、脇の巻き毛も立ち上がってから巻いている。
堂々とした尾である。

この狛犬は宝珠・角型なので、年代は不明だが、神仏習合時代の江戸時代とみて間違いない。
普通は吽形に角があるのだが、これは逆で阿形に角となっているのが面白い。
青銅製は木型を写して作るので、神殿型のように精緻に作ることが出来ます。
そのため躍動感あふれる顔や身体となり、美しい狛犬です。
狛犬の記事一覧を見る
撮影日:2020年3月23日
「青春18キップの旅2020春」にて金刀比羅宮に参拝したときに撮影した狛犬です。
金刀比羅宮については、既に記事があります。
その記事を見る
金刀比羅宮では、私は12組の狛犬を確認しましたが、今回の狛犬が3番目となります。
大門をくぐると、五人百姓が名物の加美代飴を売っていますが、その先の桜馬場が始まるところに今回の狛犬はいます。



参道から側溝によって隔てられ、石柵に囲まれて高い位置にいるので、遠くから見るだけ、後ろにも回れません。
年代:不明(江戸時代)
材質:青銅製
型式:宝珠・角型
通常の、阿形に宝珠、吽形が角ありとは逆になっている。
右側に阿形獅子。角あり。
前足を直立。蹲踞。
工事中の幕に囲まれていて、前から撮れない。


角は、前が小さく後ろが大きい二股。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と太い直毛が流れている。
耳は横に広げている。
太い眉が目に覆いかぶさっている。顎髭は横に流れて巻いている。。
目は楕円で奥目。鼻は大きく張っている。
たわみが大きい唇を開け、乱杭歯と鋭く太い牙を見せている。
表情は、威厳のある顔で、ジッとこちらを注視している感じ。


左側に吽形獅子。頭に宝珠を載せている。
前足を直立。蹲踞。


頭に宝珠を載せている。
たてがみは、大きく広がり巻き毛と太い直毛が流れている。
耳は横に広げている。
眉は、大きな巻き毛二つの渦が続いていき、目に覆いかぶさっている。顎髭は巻き毛が続いていく感じ。
目は楕円で奥目。鼻は大きく張っている。
たわみが大きい唇を閉じて、下唇に大きな牙の輪郭を見せている。
表情は、目を怒らせ、こちらを睨めつけている感じ。


胸が大きく広く、それが豊かな毛で覆われている。
前足の筋肉と腱が強調されて力強い。
胴体と後足は丸っこくて、筋肉の表現もなく、対照的。
走り毛も立派。
堂々たる体躯で、威勢が良い。


尾は後ろから見ることが出来ないので、横から見た印象だけだが、
後ろに突き出てから大きな炎状に立ち上がっており、脇の巻き毛も立ち上がってから巻いている。
堂々とした尾である。

この狛犬は宝珠・角型なので、年代は不明だが、神仏習合時代の江戸時代とみて間違いない。
普通は吽形に角があるのだが、これは逆で阿形に角となっているのが面白い。
青銅製は木型を写して作るので、神殿型のように精緻に作ることが出来ます。
そのため躍動感あふれる顔や身体となり、美しい狛犬です。
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川越祭りの探索/川越まつり会館、川越氷川神社、川越市立博物館
20201118
探索日:2020年10月17日
所属する歴史クラブの「伝統芸能・祭りの探求」グループで、10月の企画として「氷川神社本殿彫刻公開を見る・神幸祭の見学・山車の探求」を予定していたが、肝心の祭りがコロナ禍で中止となってしまった。
それではどうしようかと幹事で相談して、関係場所を探索して川越祭りの歴史の勉強をすることにした。
川越祭りがされるはずだった17日(土)に、参加者が本川越駅に集合した。あいにくの雨で人数はだいぶ減ったが元気よくスタート。
【川越まつり会館】
所在地:川越市元町2-1-10
有名な蔵造の街のメインストリートにある。
雨の中歩いて来て飛び込んだので外観の写真を撮らなかったため、サイトの写真を借用。

中に入ると、まずは川越まつりの準備関係の説明が展示されている。
その一部。



祭の際に設けられる「会所」の再現。
横にある人形は、連雀町の山車の人形「太田道灌」の初代。

まつり宿を会所または神酒所と呼び、文字どおり、神と人、人と人が会う場所。祭礼の都度、各町内に設けられる。
山車展示ホール

大型スクリーンで祭りの様子のビデオを見て、ガイドさんから山車の説明を受けた。
展示されている山車は定期的に入れ替えられる。
展示されていたのは:
幸町の山車「鈿女」
天鈿女命の人形が据えられている。

川越市の山車「猩猩」

二階に上がるスロープから、山車の装飾は間近に見ることができる。

二階の展示コーナーには、江戸時代の絵巻と絵馬が展示されていて、これを読み解くと江戸時代と現在の変遷がわかる。
◎『氷川祭礼絵巻』
文政9年(1826)に書かれたもので、長さ18メートルもある。
ここでは複写したものを7つのパネルに分けて展示してある。

★神幸祭
最初のパネル一枚の分が神幸祭(神輿行列)の部分である。
左上の川越城に向かって行列が描かれている。

ここに描かれている行列の構成と、私が2012年に撮影した行列と比較してみた。
江戸時代神輿行列の編成は、先導、榊、太鼓、四神旗、猿田彦、獅子頭、巫女、神輿二基、神馬、乗馬宮司となっている。
絵巻で「猿田彦、靑獅子、赤獅子」の部分。

現在も「猿田彦、靑獅子、赤獅子」となっている。

絵巻は、乗馬した宮司で終わる。

現在も宮司さんは乗馬。

現在は、その後に「斎姫輿」が続いて神輿行列は終わる。

※江戸時代の神幸祭と現在(2012年)の神幸祭を比較すると、
現在は「斎姫輿」が増えている。
大宮氷川神社の神幸祭を調べたが、「斎姫」とか「斎王」は登場しない。
川越祭りは、慶安年間に城主の松平信綱によって、江戸の天下祭りを参考にして起こされたとされている。
江戸の天下祭りである、赤坂・山王日枝神社の神幸祭、神田明神の神幸祭の両者は過去に見学しているので、その資料から構成を確認したが、「斎姫」または「斎王」 の存在は無い。
私が知っているのでは、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の「葵祭」では、「斎王代」が参加して、重要な神事を司っている。
★附け祭り
『氷川祭礼絵巻』の残り6枚のパネルに描かれているのは、当時存在した10ケ町の「附け祭り」の行列である。

京都の祇園祭に代表されるように、普段抑圧されていた町衆のエネルギーが爆発したものが「附け祭り」。
川越でも、各町の山車、踊り屋台、底抜け屋台、仮装行列などの練り物が随行した。
現在の東京の神田祭りでも附け祭りがあり、相馬野馬追いの騎馬隊とか、大学のサークルとか、企業の山車とかが行列を組み、昨年はそれを中心に見に行った。
〇喜多町の行列
このパネル一枚すべてが喜多町の分。
先頭にシンボルの「田原藤太藤原秀郷」の山車がある。これが現在の豪華な山車に発展する。

〇鍛冶町、志多町、上松江町の行列
このパネルには、3ケ町の行列が描かれている。
上段が、鍛冶町でシンボルの山車は「子狐丸」。
中段が志多町でシンボルの山車は「宝玉」。
下段が上松江町でシンボルの山車は「浦島」。

◎『氷川祭礼絵馬』
天保15年(1844)に描かれたもの。
10ケ町すべての山車が一本柱形式に統一され、勾欄に人形を乗せている。

これは、喜多町の「田原藤太藤原秀郷」の山車。

この山車の人形が、川越氷川神社の本殿が新築される際に彫刻の素材として組み込まれている。
「秀郷の彫刻」
琵琶湖の主の大蛇から宿敵三上山の百足退治を頼まれた秀郷が瀬田の大橋の上から百足に向かって矢を放つところ。傍らに竜王の娘乙姫が控えている。

現在の喜多町の山車の人形「秀郷」

◎現在の附け祭
明治から大正にかけて、伝統を持つ各町でも山車、人形の改修、新調が続き、豪華なものになった。
囃子台が360度回転する川越独自の構造も、この頃に始まる。
一方では、山車の後ろに続いて練り歩いたものが次第に姿を消し、豪華な山車が主体となった。

通路には、川越まつりの写真や、各年のポスターなどが展示されている。

これは、仲町の羅陵王の豪華な山車のミニチュア。

これで祭り会館の見学を終えてお昼を食べなきゃいけないのだが、雨の中食べ物屋さんを探して歩くのが嫌だったので、祭り会館の人に何軒か教えてもらい、近くて暖かいものが食べられるお店でホッと一息。
それから20分ほど雨の中を歩いて、川越氷川神社に。
【川越氷川神社】
所在地:川越市宮下町2丁目11−3
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、以前のものを流用。

今回は、本殿の彫刻を見たいのだが、通路沿いの一面しか見ることはできない。
本殿に向かって右側に通路があり、そこから本殿がこのように見える。

上には「源義家」の彫刻、腰には右から「子狐丸」、「手力男命」、昇勾欄の下に「浦島」の彫刻がある。
他の面の彫刻は、氷川神社例大祭のときに「本殿彫刻の公開」があり、瑞垣の中に入れてもらって間近に三面の彫刻を見ることが出来る。
今年はコロナ禍のため、彫刻公開も中止となってしまった。
幸い、私は同じ歴史クラブの人から氷川神社発行の彫刻の写真集をいただいていたので、この日の参加者にはそれを見てもらった。
〇源義家の彫刻
場面は「勿来の関」
東国経営に携わっていた義家が、勿来の関の道に散る山桜を詠じている。
「吹く風をなこその関とおもへども道も狭に散る山櫻かな」/千載集

この彫刻は、江戸時代の10ケ町の山車の人形から採ったのではない。
明治になって以降増えた山車の中で、野田五町の山車がこの彫刻から山車の人形を採用した。
野田五町の山車人形「八幡太郎」
この町の山車の写真は撮ってなくて、祭り会館に飾られていた初代の人形を載せておく。

〇子狐丸の彫刻
朝命を受けて刀を打つが、思うようなものが出来ず伏見稲荷に願をかけた三条小鍛冶宗近に、伏見稲荷の神霊が子狐丸に化けて鍛錬の相槌を打っている場面。
(謡曲『小鍛冶』

これは鍛冶町の山車の人形「子狐丸」から採られた彫刻。
『氷川祭礼絵巻』に描かれた、鍛冶町の山車「子狐丸」。

現在の町名は、幸町となり、山車の人形は同じく「子狐丸」。

〇手力男命の彫刻
手力男命が岩戸を持ち、天鈿女命が踊っている。
天岩戸の場面である。

この彫刻のもとになった、『絵馬』に描かれている南町の山車の人形「手力男命」。

江戸時代の南町は現在幸町となっており、その山車は「翁」に変わっている。
しかし、この彫刻に登場している天鈿女命が芸能の神ということで人気が高く、現在は大手町と今成の二つの町の山車の人形が「鈿女」になっている。

〇浦島の彫刻

この彫刻のもとになった、『氷川祭礼絵巻』に描かれている上松江町の山車の人形「浦島」。

現在の町名は松江町二丁目であり、その山車は変わらず「浦島」の人形。

本殿の彫刻の確認を終え、近くの川越市立博物館に移動。
【川越市立博物館】
所在地:川越市郭町2丁目30−1
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、パンフレットのものを流用。

ここの常設展の内容が充実しているのだが、この辺のは今日は見ないで奥へと急ぐ。


川越まつりの展示では、最初に屋台での踊りで活躍するひょっとこやおかめなどのお面が並ぶ。

「羅陵王」の山車の人形の面もあった。

★川越氷川神社本殿彫刻


〇頼朝の図
ここには本殿北側大羽目に三枚続きの彫刻のうち、最右の一枚が展示されていた。

本殿北側大羽目

三枚続きの彫刻を二枚に詰めて上げておく。
この構図は通称「鶴ヶ丘」と呼ばれる。構図の中心は頼朝が鶴岡八幡宮の祭礼「放生会」に際して千羽鶴を放つ姿である。歌川国貞の作品を参考にしたらしい。鳥籠に飼われた鶴、由比が浜の青空高く舞い飛ぶ鶴の群れ等である。


〇牛若丸の図
鞍馬山を下った牛若丸が奥州平泉に下向する途中、三河の国で容色美麗な浄瑠璃姫に出合い、横笛を拭く姿。浄瑠璃節発祥の物語だそうである。

この彫刻から、元町一丁目の山車の人形のもとになっている。

〇唐子が鶏と遊ぶ図。

これは、多賀町の山車の「諌鼓鳥」という人形からきている彫刻。

「諌鼓鳥」というのは、中国の尭帝が朝廷の門前に諫鼓を置いて、政道の誤りに対して訴えの時にたたいて鳴らせた。政道の誤りが無い為、諫鼓が鳴らせられることがなく、いつも鳥が止まっていたという故事によるもの。
江戸の天下祭りでは、必ず先頭だったといわれ、現に現在の天下祭・赤坂山王日枝神社の神幸祭でも諌鼓鳥が先頭を行っていた。

〇猿の三番叟の図

これは、江戸時代の高沢町の山車「山王」からきている。

江戸の現赤坂の山王日枝神社は、大田道灌が川越から勧請した神社だが、日枝神社のお使いは猿である。
現在の町名は元町二丁目となり、現在の山車人形は猿の面を付けたり外したりする。

〇関羽と周倉の図
関羽と周倉が食卓を囲んで歓談している図。周倉は関羽の片腕として刎頸の交わりをした勇将。

これは江戸時代の町名・本町の山車「関羽と周倉」からきている。

現在の町名は、元町一丁目となり、山車人形は前述の「牛若丸」となっている。
これで博物館に展示されている彫刻についての対比は終了。
近くには、山車の模型が二つ展示してあった。
〇幸町・「翁」の山車

川越独自の構造、360度回転する廻り舞台。

翁の人形

〇岸町二丁目・木花咲耶姫の山車


あと、「喜多町・田原藤太の山車」、「幸町・翁の山車」、「六軒町・三番叟の山車」、「松江町一丁目・龍神の山車」の4基の写真が展示してあった。
ここでは、「六軒町・三番叟の山車」を紹介しておく。



これで、市立博物館での川越まつり関係の調査は終り。
集合時間まで、「土蔵造りの構造の模型」、「建前、地盤の附き固めの模型」、「縄文時代の文化」、「川越市で出土した丸木舟」、「川越市で出土した埴輪」、「かなり大きな銅造阿弥陀三尊懸仏」などを見て過ごした。
もう、かなりの記事になっているので、その写真は割愛する。
そのあと、近くにある、全国で二つしか残存してない本丸御殿を見たあと、バスで駅まで戻り帰宅した。
(了)
「お気に入りの場所」を見る
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所属する歴史クラブの「伝統芸能・祭りの探求」グループで、10月の企画として「氷川神社本殿彫刻公開を見る・神幸祭の見学・山車の探求」を予定していたが、肝心の祭りがコロナ禍で中止となってしまった。
それではどうしようかと幹事で相談して、関係場所を探索して川越祭りの歴史の勉強をすることにした。
川越祭りがされるはずだった17日(土)に、参加者が本川越駅に集合した。あいにくの雨で人数はだいぶ減ったが元気よくスタート。
【川越まつり会館】
所在地:川越市元町2-1-10
有名な蔵造の街のメインストリートにある。
雨の中歩いて来て飛び込んだので外観の写真を撮らなかったため、サイトの写真を借用。

中に入ると、まずは川越まつりの準備関係の説明が展示されている。
その一部。



祭の際に設けられる「会所」の再現。
横にある人形は、連雀町の山車の人形「太田道灌」の初代。

まつり宿を会所または神酒所と呼び、文字どおり、神と人、人と人が会う場所。祭礼の都度、各町内に設けられる。
山車展示ホール

大型スクリーンで祭りの様子のビデオを見て、ガイドさんから山車の説明を受けた。
展示されている山車は定期的に入れ替えられる。
展示されていたのは:
幸町の山車「鈿女」
天鈿女命の人形が据えられている。

川越市の山車「猩猩」

二階に上がるスロープから、山車の装飾は間近に見ることができる。

二階の展示コーナーには、江戸時代の絵巻と絵馬が展示されていて、これを読み解くと江戸時代と現在の変遷がわかる。
◎『氷川祭礼絵巻』
文政9年(1826)に書かれたもので、長さ18メートルもある。
ここでは複写したものを7つのパネルに分けて展示してある。

★神幸祭
最初のパネル一枚の分が神幸祭(神輿行列)の部分である。
左上の川越城に向かって行列が描かれている。

ここに描かれている行列の構成と、私が2012年に撮影した行列と比較してみた。
江戸時代神輿行列の編成は、先導、榊、太鼓、四神旗、猿田彦、獅子頭、巫女、神輿二基、神馬、乗馬宮司となっている。
絵巻で「猿田彦、靑獅子、赤獅子」の部分。

現在も「猿田彦、靑獅子、赤獅子」となっている。

絵巻は、乗馬した宮司で終わる。

現在も宮司さんは乗馬。

現在は、その後に「斎姫輿」が続いて神輿行列は終わる。

※江戸時代の神幸祭と現在(2012年)の神幸祭を比較すると、
現在は「斎姫輿」が増えている。
大宮氷川神社の神幸祭を調べたが、「斎姫」とか「斎王」は登場しない。
川越祭りは、慶安年間に城主の松平信綱によって、江戸の天下祭りを参考にして起こされたとされている。
江戸の天下祭りである、赤坂・山王日枝神社の神幸祭、神田明神の神幸祭の両者は過去に見学しているので、その資料から構成を確認したが、「斎姫」または「斎王」 の存在は無い。
私が知っているのでは、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の「葵祭」では、「斎王代」が参加して、重要な神事を司っている。
★附け祭り
『氷川祭礼絵巻』の残り6枚のパネルに描かれているのは、当時存在した10ケ町の「附け祭り」の行列である。

京都の祇園祭に代表されるように、普段抑圧されていた町衆のエネルギーが爆発したものが「附け祭り」。
川越でも、各町の山車、踊り屋台、底抜け屋台、仮装行列などの練り物が随行した。
現在の東京の神田祭りでも附け祭りがあり、相馬野馬追いの騎馬隊とか、大学のサークルとか、企業の山車とかが行列を組み、昨年はそれを中心に見に行った。
〇喜多町の行列
このパネル一枚すべてが喜多町の分。
先頭にシンボルの「田原藤太藤原秀郷」の山車がある。これが現在の豪華な山車に発展する。

〇鍛冶町、志多町、上松江町の行列
このパネルには、3ケ町の行列が描かれている。
上段が、鍛冶町でシンボルの山車は「子狐丸」。
中段が志多町でシンボルの山車は「宝玉」。
下段が上松江町でシンボルの山車は「浦島」。

◎『氷川祭礼絵馬』
天保15年(1844)に描かれたもの。
10ケ町すべての山車が一本柱形式に統一され、勾欄に人形を乗せている。

これは、喜多町の「田原藤太藤原秀郷」の山車。

この山車の人形が、川越氷川神社の本殿が新築される際に彫刻の素材として組み込まれている。
「秀郷の彫刻」
琵琶湖の主の大蛇から宿敵三上山の百足退治を頼まれた秀郷が瀬田の大橋の上から百足に向かって矢を放つところ。傍らに竜王の娘乙姫が控えている。

現在の喜多町の山車の人形「秀郷」

◎現在の附け祭
明治から大正にかけて、伝統を持つ各町でも山車、人形の改修、新調が続き、豪華なものになった。
囃子台が360度回転する川越独自の構造も、この頃に始まる。
一方では、山車の後ろに続いて練り歩いたものが次第に姿を消し、豪華な山車が主体となった。

通路には、川越まつりの写真や、各年のポスターなどが展示されている。

これは、仲町の羅陵王の豪華な山車のミニチュア。

これで祭り会館の見学を終えてお昼を食べなきゃいけないのだが、雨の中食べ物屋さんを探して歩くのが嫌だったので、祭り会館の人に何軒か教えてもらい、近くて暖かいものが食べられるお店でホッと一息。
それから20分ほど雨の中を歩いて、川越氷川神社に。
【川越氷川神社】
所在地:川越市宮下町2丁目11−3
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、以前のものを流用。

今回は、本殿の彫刻を見たいのだが、通路沿いの一面しか見ることはできない。
本殿に向かって右側に通路があり、そこから本殿がこのように見える。

上には「源義家」の彫刻、腰には右から「子狐丸」、「手力男命」、昇勾欄の下に「浦島」の彫刻がある。
他の面の彫刻は、氷川神社例大祭のときに「本殿彫刻の公開」があり、瑞垣の中に入れてもらって間近に三面の彫刻を見ることが出来る。
今年はコロナ禍のため、彫刻公開も中止となってしまった。
幸い、私は同じ歴史クラブの人から氷川神社発行の彫刻の写真集をいただいていたので、この日の参加者にはそれを見てもらった。
〇源義家の彫刻
場面は「勿来の関」
東国経営に携わっていた義家が、勿来の関の道に散る山桜を詠じている。
「吹く風をなこその関とおもへども道も狭に散る山櫻かな」/千載集

この彫刻は、江戸時代の10ケ町の山車の人形から採ったのではない。
明治になって以降増えた山車の中で、野田五町の山車がこの彫刻から山車の人形を採用した。
野田五町の山車人形「八幡太郎」
この町の山車の写真は撮ってなくて、祭り会館に飾られていた初代の人形を載せておく。

〇子狐丸の彫刻
朝命を受けて刀を打つが、思うようなものが出来ず伏見稲荷に願をかけた三条小鍛冶宗近に、伏見稲荷の神霊が子狐丸に化けて鍛錬の相槌を打っている場面。
(謡曲『小鍛冶』

これは鍛冶町の山車の人形「子狐丸」から採られた彫刻。
『氷川祭礼絵巻』に描かれた、鍛冶町の山車「子狐丸」。

現在の町名は、幸町となり、山車の人形は同じく「子狐丸」。

〇手力男命の彫刻
手力男命が岩戸を持ち、天鈿女命が踊っている。
天岩戸の場面である。

この彫刻のもとになった、『絵馬』に描かれている南町の山車の人形「手力男命」。

江戸時代の南町は現在幸町となっており、その山車は「翁」に変わっている。
しかし、この彫刻に登場している天鈿女命が芸能の神ということで人気が高く、現在は大手町と今成の二つの町の山車の人形が「鈿女」になっている。

〇浦島の彫刻

この彫刻のもとになった、『氷川祭礼絵巻』に描かれている上松江町の山車の人形「浦島」。

現在の町名は松江町二丁目であり、その山車は変わらず「浦島」の人形。

本殿の彫刻の確認を終え、近くの川越市立博物館に移動。
【川越市立博物館】
所在地:川越市郭町2丁目30−1
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、パンフレットのものを流用。

ここの常設展の内容が充実しているのだが、この辺のは今日は見ないで奥へと急ぐ。


川越まつりの展示では、最初に屋台での踊りで活躍するひょっとこやおかめなどのお面が並ぶ。

「羅陵王」の山車の人形の面もあった。

★川越氷川神社本殿彫刻


〇頼朝の図
ここには本殿北側大羽目に三枚続きの彫刻のうち、最右の一枚が展示されていた。

本殿北側大羽目

三枚続きの彫刻を二枚に詰めて上げておく。
この構図は通称「鶴ヶ丘」と呼ばれる。構図の中心は頼朝が鶴岡八幡宮の祭礼「放生会」に際して千羽鶴を放つ姿である。歌川国貞の作品を参考にしたらしい。鳥籠に飼われた鶴、由比が浜の青空高く舞い飛ぶ鶴の群れ等である。


〇牛若丸の図
鞍馬山を下った牛若丸が奥州平泉に下向する途中、三河の国で容色美麗な浄瑠璃姫に出合い、横笛を拭く姿。浄瑠璃節発祥の物語だそうである。

この彫刻から、元町一丁目の山車の人形のもとになっている。

〇唐子が鶏と遊ぶ図。

これは、多賀町の山車の「諌鼓鳥」という人形からきている彫刻。

「諌鼓鳥」というのは、中国の尭帝が朝廷の門前に諫鼓を置いて、政道の誤りに対して訴えの時にたたいて鳴らせた。政道の誤りが無い為、諫鼓が鳴らせられることがなく、いつも鳥が止まっていたという故事によるもの。
江戸の天下祭りでは、必ず先頭だったといわれ、現に現在の天下祭・赤坂山王日枝神社の神幸祭でも諌鼓鳥が先頭を行っていた。

〇猿の三番叟の図

これは、江戸時代の高沢町の山車「山王」からきている。

江戸の現赤坂の山王日枝神社は、大田道灌が川越から勧請した神社だが、日枝神社のお使いは猿である。
現在の町名は元町二丁目となり、現在の山車人形は猿の面を付けたり外したりする。

〇関羽と周倉の図
関羽と周倉が食卓を囲んで歓談している図。周倉は関羽の片腕として刎頸の交わりをした勇将。

これは江戸時代の町名・本町の山車「関羽と周倉」からきている。

現在の町名は、元町一丁目となり、山車人形は前述の「牛若丸」となっている。
これで博物館に展示されている彫刻についての対比は終了。
近くには、山車の模型が二つ展示してあった。
〇幸町・「翁」の山車

川越独自の構造、360度回転する廻り舞台。

翁の人形

〇岸町二丁目・木花咲耶姫の山車


あと、「喜多町・田原藤太の山車」、「幸町・翁の山車」、「六軒町・三番叟の山車」、「松江町一丁目・龍神の山車」の4基の写真が展示してあった。
ここでは、「六軒町・三番叟の山車」を紹介しておく。



これで、市立博物館での川越まつり関係の調査は終り。
集合時間まで、「土蔵造りの構造の模型」、「建前、地盤の附き固めの模型」、「縄文時代の文化」、「川越市で出土した丸木舟」、「川越市で出土した埴輪」、「かなり大きな銅造阿弥陀三尊懸仏」などを見て過ごした。
もう、かなりの記事になっているので、その写真は割愛する。
そのあと、近くにある、全国で二つしか残存してない本丸御殿を見たあと、バスで駅まで戻り帰宅した。
(了)
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八坂刀売神(やさかとめのかみ)/日本の神々の話
20201108
八坂刀売命(やさかとめのみこと)、八坂斗女命とも表記される。文献には前八坂刀売神、八坂刀自神、八坂比売命、八坂姫、姫大明神等という呼称も見られる。
名義は不詳であるが、「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じるとされ、神名は「ますます栄える女性(トメ)」の意味とも考えられる。
諏訪大社の祭神である建御名方神(諏訪大明神)の妃神とされ、諏訪大社下社ほか、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる。
諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社が存在するが、上社の祭神が建御名方神、下社の祭神が八坂刀売神であり、諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。
『古事記』で、建御名方神は出雲の国譲りの場面で建御雷神と戦って敗れ、追われて諏訪に逃げ込んだと記されているが、一方で諏訪地方は洩矢神を奉じる部族を出雲族が制圧したという事実があるので、中央を制したヤマト王権に対して諏訪の出雲族が服従したことがこの話になったと考えられる。
八坂刀売神はどういう神か情報を並べておく。
1)一説では海人族(安曇氏)出身とされる。北安曇郡にある川合神社の社伝では、綿津見命の娘で穂高見命の妹とされている。
2)『諏方大明神画詞』によれば、神功皇后の三韓征伐の時に諏訪と住吉の神々が現れた。皇后は大変喜び、二神をもてなした。また、戦いに赴くことを海底の龍宮に知らせるために「高知尾の豊姫」を遣わし、海神から「満干の両珠」を借り受けたという。
延宝2年(1674年)の『諏方講之式』では「下宮亦八坂姫之云豊姫神」とあり、豊姫は八坂刀売神と比定されている。『高島藩書上帳』にも、下社の女神に関して「又名高知尾豊姫命」とある。
3)諏訪上社が主祭神を男神とし、そして後裔の大祝に男性を即位させたのに対して、下社側が祭神を女性として神話を持たせたと推測される。宮坂光昭(1987年)は、「ヤサカトメ」という神名が元々水稲農耕における豊作呪術をよくする巫女(かんなぎ)の名称であり、これが後に下社の女神に当てられたという説を提唱した。実際には下社の神事は農耕関係のものが多い。
4)平安時代の初め頃には既に下社に女神が祀られていることは平城天皇より下賜されたといわれる「売神祝(めがみほうり)印」の存在から窺える。なお、中世以降には混乱が生じ、下社の祭神に建御名方神、片倉辺命、事代主神、沼河姫、もしくは下照姫をあてる文書はいくつかある。現在は八坂刀売神とともに建御名方神が主祭神となっており、事代主神が配祀されている。
5)『古代豪族系図集覧』の系譜によれば、忌部氏の祖先とされる天日鷲命の孫・天八坂彦命の娘として八坂刀売命が記されている。
『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊と共に下った32神のなかに、八坂彦命の名がある。
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名義は不詳であるが、「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じるとされ、神名は「ますます栄える女性(トメ)」の意味とも考えられる。
諏訪大社の祭神である建御名方神(諏訪大明神)の妃神とされ、諏訪大社下社ほか、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる。
諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社が存在するが、上社の祭神が建御名方神、下社の祭神が八坂刀売神であり、諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。
『古事記』で、建御名方神は出雲の国譲りの場面で建御雷神と戦って敗れ、追われて諏訪に逃げ込んだと記されているが、一方で諏訪地方は洩矢神を奉じる部族を出雲族が制圧したという事実があるので、中央を制したヤマト王権に対して諏訪の出雲族が服従したことがこの話になったと考えられる。
八坂刀売神はどういう神か情報を並べておく。
1)一説では海人族(安曇氏)出身とされる。北安曇郡にある川合神社の社伝では、綿津見命の娘で穂高見命の妹とされている。
2)『諏方大明神画詞』によれば、神功皇后の三韓征伐の時に諏訪と住吉の神々が現れた。皇后は大変喜び、二神をもてなした。また、戦いに赴くことを海底の龍宮に知らせるために「高知尾の豊姫」を遣わし、海神から「満干の両珠」を借り受けたという。
延宝2年(1674年)の『諏方講之式』では「下宮亦八坂姫之云豊姫神」とあり、豊姫は八坂刀売神と比定されている。『高島藩書上帳』にも、下社の女神に関して「又名高知尾豊姫命」とある。
3)諏訪上社が主祭神を男神とし、そして後裔の大祝に男性を即位させたのに対して、下社側が祭神を女性として神話を持たせたと推測される。宮坂光昭(1987年)は、「ヤサカトメ」という神名が元々水稲農耕における豊作呪術をよくする巫女(かんなぎ)の名称であり、これが後に下社の女神に当てられたという説を提唱した。実際には下社の神事は農耕関係のものが多い。
4)平安時代の初め頃には既に下社に女神が祀られていることは平城天皇より下賜されたといわれる「売神祝(めがみほうり)印」の存在から窺える。なお、中世以降には混乱が生じ、下社の祭神に建御名方神、片倉辺命、事代主神、沼河姫、もしくは下照姫をあてる文書はいくつかある。現在は八坂刀売神とともに建御名方神が主祭神となっており、事代主神が配祀されている。
5)『古代豪族系図集覧』の系譜によれば、忌部氏の祖先とされる天日鷲命の孫・天八坂彦命の娘として八坂刀売命が記されている。
『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊と共に下った32神のなかに、八坂彦命の名がある。
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秋の空/羊雲、鰯雲
20201107
一面六臂青面金剛立像/埼玉県川越市
20201102
所在地:埼玉県川越市中老袋公民館入口交差点近く
撮影日:2020年7月24日
この庚申塔は、「中老袋公民館入口」交差点近くにある。


塔身は角柱。


銘文は右側面に「安政七庚申年二日吉日 中老袋村中」とあり、左側面には世話人の名前が刻まれている。

塔身:角柱
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:かなり高い三角錐の高髷に蛇が巻き付く、邪鬼を踏んで立つ。
本手:剣とショケラを持つ
他の手:法輪、矢、弓、三叉矛。
脇侍:三猿
造立年代:安政7年(1860)
日月は浮き彫り、瑞雲を唐破風のようにしている。

まず岩窟のように彫り込んで、その中に青面金剛が、邪鬼を踏んで立つ。


髪は、かなり高く立ち上がった一本の炎の髪に蛇が巻き付いている。
耳は分厚く大きい。
まん丸な目を見開き、口を固く結んで、じっと、こちらを見つめている表情。


手は六本で、本手は剣とショケラを持つ。
他の手は、法輪、矢、弓、三叉矛である。通常と弓矢の位置が反対。

ショケラは、風化して分かりにくいが、着物を着て身体を丸めて、髪を掴まれている女性。
合掌しているので、救われた姿。
子供のようにも見える。

踏まれている邪鬼は、腹ばいになってムスッとした表情。

三猿は並んで正面を向いているが、三匹とも片手で右から「言わざる、見ざる、聞かざる」を表現しているのが、変わっている。

この庚申塔は、角柱を岩窟のように彫り込んで、その中に青面金剛を納めている。
その岩窟の上部は、瑞雲が唐破風のように形作っている、凝った意匠。
かなり高く立ち上がった一本の炎状の髪に蛇が巻き付いている青面金剛は剣人型。
三猿も変わっていて、通常は両手で「見ざる、言わざる、聞かざる」を表現しているのに対して、片手で表現しているのが珍しい。
ということで、極めて意匠的に優れた庚申塔である。
「庚申塔の探訪記事一覧」に飛ぶ
撮影日:2020年7月24日
この庚申塔は、「中老袋公民館入口」交差点近くにある。


塔身は角柱。


銘文は右側面に「安政七庚申年二日吉日 中老袋村中」とあり、左側面には世話人の名前が刻まれている。

塔身:角柱
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:かなり高い三角錐の高髷に蛇が巻き付く、邪鬼を踏んで立つ。
本手:剣とショケラを持つ
他の手:法輪、矢、弓、三叉矛。
脇侍:三猿
造立年代:安政7年(1860)
日月は浮き彫り、瑞雲を唐破風のようにしている。

まず岩窟のように彫り込んで、その中に青面金剛が、邪鬼を踏んで立つ。


髪は、かなり高く立ち上がった一本の炎の髪に蛇が巻き付いている。
耳は分厚く大きい。
まん丸な目を見開き、口を固く結んで、じっと、こちらを見つめている表情。


手は六本で、本手は剣とショケラを持つ。
他の手は、法輪、矢、弓、三叉矛である。通常と弓矢の位置が反対。

ショケラは、風化して分かりにくいが、着物を着て身体を丸めて、髪を掴まれている女性。
合掌しているので、救われた姿。
子供のようにも見える。

踏まれている邪鬼は、腹ばいになってムスッとした表情。

三猿は並んで正面を向いているが、三匹とも片手で右から「言わざる、見ざる、聞かざる」を表現しているのが、変わっている。

この庚申塔は、角柱を岩窟のように彫り込んで、その中に青面金剛を納めている。
その岩窟の上部は、瑞雲が唐破風のように形作っている、凝った意匠。
かなり高く立ち上がった一本の炎状の髪に蛇が巻き付いている青面金剛は剣人型。
三猿も変わっていて、通常は両手で「見ざる、言わざる、聞かざる」を表現しているのに対して、片手で表現しているのが珍しい。
ということで、極めて意匠的に優れた庚申塔である。
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