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里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の四・第八回

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第八回:行者の岩窟(いわむろ)に翁伏姫を相す 滝田の近邨(きんそん)に狸雛犬(いぬのこ)を養う

時:室町時代 嘉吉2年(1442)~長禄2年(1458)
登場人物: 里見義実、五十子、伏姫、二郎太郎安房守養成、堀内貞行、杉倉氏元、金碗孝徳、万里谷入道静蓮、齢八十あまりの翁、技平、八房、安西景連、蕪戸訥平
舞台:P03滝田城、洲崎明神のほとり、長狭富山のほとり犬懸の里、P04館山城
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【要略】
・それから数年の月日が流れ、義実は上総国椎津の城主万里谷入道静漣の息女「五十子」を娶る。
・嘉吉2年(1442)伏姫が生まれる。
・嘉吉4年(1444)、伏姫が三歳になっても、もの言わぬため、安房郡洲崎明神のほとり役行者の窟に祈願。お礼参りの帰途伏姫が大変むずかると、翁(役行者?)が伏姫の相をみて「霊のたたり」とみて水晶の数珠を姫の襟にかけた。その数珠には、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八字が彫りつけてあった。
・文安4年(1447)年、長狭富山のほとりに住む技平という百姓の飼い犬が牡狗のひとつ子を産むが、狼が侵入して母犬を噛み殺してしまった。子犬は狸の乳で育てられた。
・堀内貞行がそこを通りかかり、その話を聞き犬の立派なことに驚き、滝田の城で義実に話すと、義実はその犬を見て気に入り、もらい受けて八房と名付けた。
・伏姫16の年(康正3年、1457)安西景連が自分の領地の不作を理由に米穀五千俵を借りる。翌年(長禄2年、1458)義実の領地が不作で困り、前年貸した米を返して欲しいと、金碗孝徳を使者につかわす。
・対応に出て来た蕪戸訥平が返答をしぶり、そのうち戦備の用意の様子を見て、金碗孝徳と従者は忍び出て、滝田の城に向かうが追っ手に追いつかれる。金碗大輔孝徳は行方知れずとなる。


以前は洲崎大明神と言われた「安房国一之宮洲崎神社」に、私は参拝しています。
そのときに役行者が東京湾入り口の守りの要として置いたと伝わる「神石」も見ました。

その記事を見る


【ものがたりのあらまし】
 それから数年の月日が流れた。里見義実の仁徳は付近の有名となり、独身の義実にあまたの縁談が持ち込まれ、上総国椎津の城主万里谷人道静蓮の息女五十子(いさらこ)をめとった。
まもなく義実の第一女が嘉吉二年(1442年)の夏の末に生まれ、おりから三伏の侯(注1)であったので名を伏姫とつけた。男子は翌年の末に生まれたが、これは二郎太郎とつけ、のちに父の後を継いで安房守養成といった。
伏姫は幼いころから非常に美しかった。古の竹取物語のかぐや姫もこんな乙女かと思われるくらいで、三十二相(注2)のどこ一つ欠けたところのない天生の美貌で、肌は玉のごとく白く、美しい産毛が長く項にかかっていた。しかし伏姫は三歳になってもものを言わず、笑いもせず、ただよく泣く子だった。父母は医療、高僧験者の加持祈祷に頼ったが、効き目があらわれかった。
母の五十子は、安房郡洲崎明神のほとりに役行者の石像のすえた窟があるが、とにかく三年の間、無事息災に育ったのは、やはり効顕の一つかもしれないと思って、お礼参りの使いを立てることにした。
七日の礼寵りも終わっての帰り道、姫が激しくむずかり出して始末につかなく困っていると、齢八十あまりの翁が一人、このありさまを見て自分の方から声をかけてきた。
「石窟のお帰りとあれば、この翁もーつ加持して参らせよう」
翁の風貌は白い八字の眉をおき、鳩の杖を手にしていたが、その姿はなんとなく品位もそなわって凡人とは思われなかった。翁はじっと伏姫の相をみつめていたが、やがてつぶやくように言った。
「霊のたたりとでも申そうかのう」
「えっ、それはまた何ゆえに?」
「いや別に驚くことはない。祓うことはできなくもないが、しいてそういたさずとも成り行きにまかせるがよいようじゃ。禍福はあざなえる縄(注3)というとおり、不幸は必ずしも不幸とばかりは申せぬ、一粒の木の実、死して大木を生ずる、一人の子を亡くすとも、あながち嘆くまいぞと里見の主に申し伝えてくだされ。ついてはこれを進ぜるゆえ、生涯の護身とするがよい。さあ」」
 翁はそう言うと、手に持つ水晶の数珠を姫の襟にかけた。見るとその数珠の大粒の一つ一つの面には仁、義、礼、智、息、信、孝、悌の八字が彫りつけてあった。何か異様な気持がして従者たちは思わず拝礼して受け、急いで問い返した。
「ただ今申されました祟りとは、どのようなことでございましょうか。」
「いや、それは心配いたされるな。妖は徳に勝つことはない、よしや悪霊がたたっていても里見の家はますます栄えるであろう。ただ盈つれば欠くる世の中(注4)、これを考えさえいたすなら祓うまでのことはない。伏姫という名にも何かゆくゆく因縁が生ずるかもしれぬ。」
翁はそう言って空中をなでた。そして洲崎の方へ向けて歩き出した。いや歩くというより走るというか、たちまち皆の目の前から離れ、遠くに去ってしまった。
茫然とあとを見送った里見の従者たちは、姫のむずかりがいつかやんでいるので二度びっくりした。
 その日、滝田の城に帰ってからも、この数珠は姫の襟にかけたままにしておいた。
そして四年たって姫が七つになった時は言葉も人並み以上に話せるようになっていたばかりか、昼は手習い、夜は管弦の調べにふけり、十一、二になると和漢の書を好んで読み、事の理をさとり、また親を敬い、召使の者をいつくしみ、立居振舞いに一つとして非の打ちどころがなかった。
さてこのころ、里見の領内に一つの珍しいことがあった。長狭富山のほとりに技平(わざへい)という百姓が住んでいたが、この技平の家の飼犬の子であるが、狼が侵入して、母犬を噛み殺してしまった。これには技平もほとほと困った。なぜなら技平は独身者であったから野良かせぎも相当放埓(ほうらつ)(注5)で、犬の食事に手ぬかりが多かったからだ。だがこの子犬は、実は狸の乳で見違えるばかり大きくなって、立派な犬に育った。今もこの辺の土地を犬懸と呼んでいる。
 そのころ、堀内蔵人貞行が犬懸の里を通りかかったとき、狸の話を聞いた。あまりに噂が高いので訪ねてみると、噂にたがわず犬の立派なのには感心し、滝田の城に帰ると、さっそくこのことを主君義実に言上した。義実も思わず膝を乗り出すようにして言った。
「同じ犬を飼うならそういう逸物を飼いたいものじゃ。むかし丹波(今の兵庫県東部) の桑田村に嚢襲(みかそ)という人があって、足往と名づけた犬を飼っていたそうな。これが今聞いたようにたいそうな犬だったらしい。ところが、足往はある日、貉(穴熊または狸)と戦ってこれをたおした。ところが、この絡の腹の中から、八坂瓊曲玉(注6)が現われたと、書紀垂仁記という本の中に書いてある。狸が犬の子を育てるとはやはり珍事じゃ。とにかく見たいものだ、一度その犬をここへ連れて参ることはできぬか」
「心得ましてございます」
 貞行は承知をして、この犬を滝田へ引っばってきて義実の見参に入れた。犬は骨太く、目するどく、大きさも普通の大の倍はあるだろう、耳はたれ、尾は固く巻き、毛並は白きに黒きがまじって、首と尾に八カ所の斑点があった。犬好きの義実は見ただけでは堪能できず、自分の手で飼いたくなった。そこで飼主の技平から滝田の城に引き取り、首と尾に八つの斑点があるからと、八房と名づけた。
希代の猛犬であったがよく慣れ、伏姫もよろこび、八房も姫になついた。姫が八房八房とよべば、どこにいても尾を振りつつ走ってくるようになった。春の桜、秋の紅葉、いくたびか木々の色を染めかえて、伏姫も十六という年齢になったが、容色はいよいよ膿たけて(美しく気品がある)、におうばかりであった。
 この年の秋も八月のころ、天候が悪かったため、安西景連の領地である安房朝夷の二郡が不作だという理由で、景連は老党蕪戸訥平(かぶととっぺい)を使者に、滝田の城の義実に米穀五千俵ほど当方へ貸しくれと申し入れた。同時に貴殿の息女を養うて一族のうちから婿をえらび、所領をゆずろうと思うがどんなものであろうかも申し入れた。
義実はこの申し入れに対し米穀はすぐ送り届けてやったが、伏姫の養女の件はあっさりと断わった。豊作凶作はまことに天の運であって、安西ばかりのことではない、いつどこに見舞ってくるかもしれぬ、お互いにこういう時、隣国の荒亡を救うのは当然の話である。しかし子供はわしも一男一女であるから、このうちの一人を他家へつかわすのは親として忍びない、これはお断わりすると。
 この時、金碗孝吉の一子大輔孝徳がこの時もう二十歳になっていて、近習に取り立てられていたが。義実の前に出てつつしんで言った。
「卒爾(失礼)ながら(注7)申しあげることがございます。このたび、安西景連の申し条ならびに態度は、注目すべきかと存じます」
「意見があるか」
「はい、ござります。まず恩を知る者ならば、餞饉の米穀を借ると同じ使者もて、姫君の養女を申し入るるはずはありません、非礼このうえもなき儀にて、君を軽んじたおこないかと愚考つかまつります」
「なるほど」
「将来の禍根をのぞくため、景連を討つがよろしいと思います。たとえ情けによって穀物を送っても、それは盗人に追銭、敵に刃を貸すにひとしく、なんの利益もありますまい、どうか御出陣をおきめください」
「ふうん。大輔ひかえるがよい」
 義実もいささか深刻な表情をした。大輔の進言には一理あったからであるが、しかし取りあげなかった。かりに仇なす相手だとしても、凶作に乗じて攻めるは無名の軍(注8)である、無名の軍は決して人心を得るものではないと退けたが、心では景連に対する憤りを感じた。
 その翌年、こんどは義実の領内の平群、長狭が大凶作に見舞われたので、金碗大輔が去年の秋、安西に五千俵の米穀を融通したのを返してもらおうと、安西の城に向かった。従者は十人ほどであった。
向こうに着くと、去年の使者蕪戸訥平に対面して、慇懃に主命のおもむきをつたえた。
訥平は奥へ引っ込んだが、その後、一向に不得要領なので、大輔も腹にすえかね、訥平に手きびしく談判したところ、今度は訥平が病気と称して会わなくなってしまった。そこでこっそり城内の様子を探ると、城内は静かに見せかけながら軍備の最中らしかった。さてはと大輔は驚き、かつ怒った。
「もし一日見破るのが遅れたら、大事となるところであった。不意に滝田を襲われるところだった。滝田の城に急を告げねばならぬ」
 大輔と従者は一人二人ずつに分れ、姿を変えて宿舎を忍び出ると、自領へむかって走ったが、一里ばかりも来たところで、蕪戸訥平のひきいる追手の勢に襲われた。先頭の訥平はこなたを見ると、馬のあぶみを踏んばって大音声にどなった。
「大輔孝徳、逃ぐるはきたなし、そちの主人義実は乞食同然の浮浪のすえ白浜に漂着、愚民をまどわして城主におさまった男だ。麻呂を滅ぼしたのもわが君が助けたればこそ、本来なら毎年わが君に貢物をささぐべきに、尊大にかまえて身のほど知らぬ痴者。娘伏姫も養女どころか側女として差し出してよいはずのものだ」
「何を言うか、そちの主人景連は義を破って同士の麻呂を討ち、おのれ一人命をまっとうして領地を横取りした世にも卑劣な男だ。里見はいつでも汝を滅ぼすことはできたが、慈愛ふかく平和のよしみによって今日に至ったとは知らぬか。去年はたばかって(だまして)米穀を奪い盗り、今年は凶作と見てふいに攻め寄せる、人の不運のみを餌食に、この世をわたる大悪将、さようなやからが長く栄えるためしがあろうか。まず汝から血祭だ」
 槍をふるって怒れる大輔は、敵勢の中におどりこんだ。けれども敵は多勢に味方は無勢、およそ半時あまりの乱戦で敵兵三十騎あまりをたおしたが、味方はほとんど全部討死し、地上に立つは大輔一人となってしまった。このうえは訥平と刺しちがえて死のうと、田畑山野を出没自在に駆け巡って探したが、目にあまる大勢にへだてられて、ついに訥平を討つことができなかった。このうえは死してもせんない、いったん血路を開いて後日を期ぞうと思ったか、大輔はやがてそのままいずこへともなく、閣にまぎれて行くえ知れずになってしまった。

【注釈】
(1)三伏(さんぷく)の侯:陰陽五行説において、夏至以降の三つの庚(かのえ)の日の総称です。一般的に夏至後、三回め「庚(かのえ)の日」を初伏(しょふく)、四回目を中伏(ちゅうふく)、立秋後の最初の庚の日を末伏(まっぷく)とした総称を言います。三伏の由来となる季節は夏、庚は火に属します。火は金を溶かす(火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶)…そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏として、種まき(新しいこと)や旅行・縁談などは慎むようにと言われている。
(2)三十二相:もともとは釈迦が身体に具(そな)えている32の特徴的な形相(ぎょうそう)をいう。転じて女性の容貌、姿形などの一切の美しい相をいう。
(3)禍福はあざなえる縄:人生をより合わさった縄にたとえて、幸福と不幸は変転するものだという意味の故事成語です。その由来と語源は『史記』「南越伝」にあります。司馬遷は戦国の戦いで、失敗を成功に変えた武将をたたえて、このように述べました。ここでは戦いの成敗が転じたことを述べていますが、のちに人生にたとえられるようになりました。
(4)盈つれば欠くる世の中:満月になった月は、それからは欠けていくしかない。人も最盛期を迎えたり、栄華の絶頂に達したならば、次には衰えていくものだということ。
(5)放埓(ほうらつ):「埒(らち)」は馬の柵。柵からはなれ出るという意味。①勝手気ままでしまりのないこと。また、そのさま。②身持ちの悪いこと。酒色にふけること。また、そのさま。
(6)八坂瓊曲玉:日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器の一つ。
(7)卒爾(失礼)ながら:「率爾」とは、「だしぬけ」「とつぜん」「いきなり」の意。「率」は、今でもいう「そつがない」の「そつ」、本来は、無駄とか手抜かりの意。「爾」は、「なんじ」とか「それ」「そこ」などの意もあるが、ここでは、率に付いて、その状態をあらわす助辞。
(8)無名の軍:「名分」は身分に応じて守るべき道徳上の本分のことをいう。転じて、事をするについての表向きの理由。⇒表向きの理由が説明できない戦い。



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一面六臂青面金剛庚申塔/埼玉県川口市

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所在地:埼玉県川口市 川口市文化財センター近く路傍
撮影日:2019年12月18日

埼玉高速鉄道・川口元郷駅前から川口市文化財センターに向かう岩槻街道の路傍にある。

ブロックで作られた壁龕の中に五基の石仏が納められ、完全なものは今回取り上げる右から二番目の庚申塔と、一番左側の地蔵尊のみである。
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塔身は舟形光背。
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銘文は、向かって右側面に「大正九年五月一日 造〇」、
左側には奉納金と奉納者名が刻まれている。
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塔身:舟形
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:なし
主尊の特徴:丸に十字の光背、総髪、三眼、邪鬼を踏んで立つ。
本手:合掌
他の手:法輪、弓、矢、三叉剣。
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:大正9年(1920)

青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
光背が丸に十字形と、変わった形をしている。
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髪は総髪。
三眼。
眉を上げてはいるが、憤怒といった感じでなく、こちらに問いかけているような表情。
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手は六本で、本手は合掌。
他の手は、法輪、弓、矢、三叉剣を持つ。
通常は三叉鉾だが、いかにも短くて剣にしか見えないので「三叉剣」とした。
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踏んづけられた邪鬼は、牙を持った猛獣の表情。まだ降参はしていない。
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邪鬼の下に刻まれた三猿は、いわゆるダイヤ型だが、手の指とかまだ判る状態。
右から「見ざる、聞かざる、言わざる」である。
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この庚申塔大正9年と新しく、造形がよくわかる状態。
考えてみるとちょうど100年前に作られたものである。
光背が極めて独特な形をしている。
青面金剛の形としては、標準的な合掌型。
邪鬼の顔が面白い。



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モクレンの芽、サンシュユ、アセビなど/ウォーキングにて

20210224

今日は風がある感じだったので、森の中で風にあたらないですむ智光山公園を10時30分から11時30分散歩した。

更紗木蓮の花芽が、ネコヤナギに似ていて懐かしいので撮った。
真ん中の木が更紗木蓮。
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山茱萸(サンシュユ)が咲いていた。
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馬酔木(アセビ)が咲いていてビックリした。
調べたら、2月から咲き始めるんだね。
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私の歩くコースにある「石牛」も陽が当たって気持ちよさそうだ。
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私には牛に見えるのだが、カミさんはゴリラがうずくまっているのだと主張している(笑)
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智光山のメインストリートも、下の方がだいぶ緑になってきた。
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今日気が付いたのだが、道の片方は常緑樹で、反対側は落葉樹になっている。
面白い。
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釣堀をのぞいたら、今朝風がふいていたせいか、人出はイマイチだった。
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ひょうたん池まで戻ってくると、水の入り口の辺に鴨がずいぶんと集まっていた。
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(了)


讃岐国・金刀比羅宮の狛犬⑪

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所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1金刀比羅宮三穂津姫社前
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」にて金刀比羅宮に参拝したときに撮影した狛犬です。

金刀比羅宮については、既に記事があります。

その記事を見る


金刀比羅宮では、私は12組の狛犬を確認しましたが、今回の狛犬が11番目となります。

本宮から続く南渡殿の南端に三穂津姫社があり、その前に今回の狛犬が居ます。
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年代:昭和48年(1973)
材質:青銅製
型式:威嚇型

右側が阿形。タテガミが巻き毛なので獅子。蹲踞している。
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角は無い。
タテガミは短めで先端がクルッと巻いている。
耳は伏せ、目をカッと見開き、鼻は高い。
上まぶたや上唇がグワッとたわんで、太く一本の眉が吊り上がる。
ほおヒゲ、あごヒゲは太い毛がたわんで流れ、先端がクルッと巻いている。
口を開き、鋭い牙で威嚇している。
表情は、恐ってこちらを睨みつけている。
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左は吽形、タテガミが巻き毛なので獅子。蹲踞している。
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角は無い。
タテガミは短めで先端がクルッと巻いている。
耳を立て、目をカッと見開き、鼻は高い。
上まぶたや上唇がグワッとたわんで、太く一本の眉が吊り上がる。
ほおヒゲ、あごヒゲは太い毛がたわんで流れ、先端がクルッと巻いている。
口を閉じ、鋭い牙を見せている。
表情は、怒った顔でジッとこちらを見ている。
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真っ直ぐな力強い前足、後足は蹲踞だが勢いが感じられる。
グッと厚い胸を張り、筋骨が強調された力強い身体。
足の指が強調されているが、爪は目立たない。
走り毛は立派で豊か。
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年代は昭和48年(1973)。
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威嚇型は、官国弊社型、護国型とも呼ばれ、昭和10年代からの国威発揚を狙って作られたものです。
神殿型を模して、さらに堂々とした姿で作られました。
だからとても立派に見えます。


狛犬の記事一覧を見る



里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の四・第七回

20210220

第七回: 景連奸計信時を売る 孝吉節義義実に辞す

時:室町時代 嘉吉元年(1441)の4月から7月
登場人物: 里見義実、堀内貞行、金碗孝吉、蜑崎十郎輝武、一作、濃萩、金碗大輔孝徳(孝吉の子)、安西景連、麻呂信時、玉梓(怨霊)
舞台:P06東条城、P03滝田城
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【要略】
・東条の城を守っていた郎党杉倉氏元から滝田城に使者が届き、麻呂信時の首を持参した。
・安西景連は謀って、麻呂信時を東条城とはさみ討ちにして滅ぼし、朝夷一郡を手に入れ二郡の主となる。
・七月の星祭の夜、義実は論功褒章として金碗孝吉に長狭半郡を与えると感状を出す。
・金碗孝吉は、ただ故主のため逆臣を誅したのみ、辞退すれば恩義を無にすると、刀を腹に突き立てて死ぬ。
・百姓上総の一作が子供を連れて現れ、娘濃萩と孝吉の子で、対面させようと連れてきたと述べる。
・義実はその子に「金碗大輔孝徳」と名乗らせ、成人ののちは東条の城主とすることを約束する。
・義実は、孝吉が死んだのは玉梓の祟りかと恐れる。

杉倉氏元、麻呂信時を討つ
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金碗孝吉の腹切り
里見義実、杉倉氏元の前で金碗孝吉が切腹。庭先に一作と孝吉の子供
左上に玉梓の怨霊が
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【ものがたりのあらまし】
東条の城を守らせてあった老党杉倉木曽介氏元から滝田の城に使者がとどいた。この使者は蜑崎(あまさき)十郎輝武という者で、麻呂信時の首を持参したのであった。
その首級を挙げるに至った実情は、ある日安西より東条の城に、麻呂信時を挟み討ちにする提案があり、最初は敵の謀かと警戒したが、偽りなく麻呂の首を討ち取った次第だという。
 使者の言葉をじっと聞いていた義実が当の安西の動向を訪ねると、その日のうちに前原の柵を越えて、どこへともなく退去したとの説明。
そこに引き続き、東条の城から知らせが来て、景連はその足で麻呂の本拠平館を攻め落とし、またたくまに領地朝夷一郡を自分の手におさめ、今はまんまと二郡の主と成りすましましたとのことであった。
 この注進には一座の家来たちも、思わずあっと驚いた。義実の予告どおりだったからである。
 金碗八郎も堀内貞行もしきりと出軍を勧めたが、義実はこの進言をきかなかった。
「わしが定包を滅ぼしたのは、なにも自分の栄利を願ったからではない、民の塗炭(注1)を救わんがための義軍であったはずである。こうして士民(しみん)の力によって長狭、平群の主となっただけでも、思わぬ幸せと言わなければならぬ。今このうえ戦さをおこして土地を荒らしては、民がどんなに落胆するかしれぬ。それに安西はたとえ梟雄(注2)であっても、定包ほどの悪人ではあるまい。彼が二郡を領したからとて、軍をおくれば領地争いも同然、向こうが攻めてくればその時こそ迎えて雌雄を決すればよいではないか。ゆめゆめ手出しは無用、これがわしの主旨である、今後とも皆忘るな」
 そう言い聞かされて、近習一同は感動した。
 これで安房四郡はその後まったく平穏に帰し、世はのどかな明け暮れとなった。
 さて、やがて七月にはいって星祭の夜に義実は杉倉氏元、堀内貞行、金碗孝吉などの功臣のみを召して里見家の家例である点茶(抹茶をたてる) の会を催した。主従が語らううち、話は論功行賞のことにおよんで義実は感慨深げにつくづくと言った。
「さて、わしは二郡を領したとはいえ、まだそちたち功臣にもなんの賞することもない。氏元、貞行は、父の遺命をうけて、わしに従って艱難をともにし(注3)、その忠節は今さら申すまでもない。また白箸川のほとりで金碗孝吉に会わねば、この功業はとても果たし得なかったであろう。
今宵は二星が逢う日とか、そこでわしは天に誓おうと思う。まず当城の八隅(やすみ)に八幡宮を建立して、例年秋ごとにまつると、それからわが領内で鳩を殺すことを禁じたい。このくらいの布令はよかろうな」
「はい」
「ではあとは功臣の論賞だ。まず、金碗八郎孝吉には長狭半郡をあたえ、改めて東条の城主となってもらおう。氏元、貞行には、所領おのおの五千貫を授けたい。こころよく受けてくれ」
 義実はかねてしたためてあったと見えて、一通の感状(注4)を取り出して手ずから孝吉にわたした。孝吉はそれを受け取って三たびおしいただいたが、そのままそれを再び義実の手にもどし、
「この私を相伝補佐(注5)の老臣にさきだって恩賞賜わる深い御心を辞退いたしては非礼にあたりますが、某は始めより露ばかりも名利の心なく、ただ故主のために逆臣を誅せんと念じたまでにございます。いま君が威徳によって宿願を果たしたうえからは、はや他になんの望みもありません、」
「ああ、立派な志だ」
 義実は感動したが、どうしても金碗に恩賞をやりたかったので、さらに頼んだ。
 金碗八郎は義実の差し出す感状を、やむなく手にうけとりはしたものの、顔は当惑の色にかきくもった。
「あくまで辞退せば恩義を無にする仕儀となり、受くれば私の無欲の素志がくだかれます。この世あの世の二人の君がため、ええ、今はそれまでにございます」
と言うより早く腰の刀を引き抜きざま、御免とさけび、われと自分の脇腹にぐざと突き立てた。
「故主の横死(殺害による死)をとげた時から、すでにこの腹は切るべきでありました。ただ定包を討たんため、今まで生きながらえていた私、また故主を誤り害ねた朴平、無垢三の両人は、もと私が武芸を教えたことのある家僕どもでございましたから、その一つだけにても、故主に対して死すべき命でございます。今や尊公の知遇を受け、心では喜びながら、この非礼、なにとぞおゆるしくだされたい」
義実は驚いて、 「とめよ」
と叫んだ。老党の貞行、氏元はとっさに孝吉の拳にすがりついた。
義実は、いくたびもいくたびも嘆息した。
「かねて孝吉の志を知らぬではなかったが、これほどまでの堅固とは思いもよらぬこと恩賞沙汰のため、かえって死を早めたのは、返す返すも残念至極であった。これ孝吉、かくなると知ったなら早く披露すべきことがある。木曽介、早くあの老人をここへ呼べ」
氏元は、はっと答えて、
「上総の一作、これへ、はよう参れ」
と声高に呼ばわった。すると六十あまりになる百姓が姿を現わした。五歳ばかりの子を引いて、縁側に手をかけて首をさし伸べるように中をのぞきながら叫んだ。
「あっ八郎どの、孝吉ぬし。上総から爺の一作めがはるばるたずねて来ましたぞ、娘の濃萩(こはぎ)におぬしの生ませた子は、これこの子でございます。やっとたずねて参り、これから引き合わせ賜わるというので、やれうれしやと思った寸前に、なんたることぞ」
孝吉は、はっと目を開いたが、もう返事もできない様子。
杉倉氏元が代わりに云った。
氏元が館に向かう途中、この老人に会い事情を聞いたので、よし、わしが合わせてやる、それまでそっと内証にしておけ、と一作とこの子を折戸の陰に忍ばせておいて、恩賞のあとで引き合わすつもりであった。
「そういう事情だが、娘濃萩は産後の病で世を去った由。このたび、孝吉が安房にて定包を討って素志(注6)をとげたと聞き、この子の手を引いて喜び勇んで尋ねて参った老人こそ、思えば気の毒なもの」
「いや一作めなどの悲しみはものの数ではありませぬが、この子が大きくなった後、両親の顔知らぬのが何よりむごうございます。これ坊や、あの方がおまえの父御さま、よう顔を覚えておくのじゃよ」
と一作は指さして聞かせた。一作はもと金碗家の下男をしていた者だが、孝吉が神余家を去って浪人をしているおり、そこをたよって身を寄せ、ついに娘濃萩と恋に落ちた。いかに士魂のすぐれた武夫でも恋の道はまた別というのか。そして今、一足ちがいでその忘れ形見のわが子と言葉もかわすこともできなかった。この時、子供は指さされて「父さま」と呼んだが、もう孝吉はもの言いたげに動かす唇も色が変わって、はや臨終と見えたので、義実は幼な子をかきいだくようにして孝吉にむかって言った。
「そちの子は、この義実がしっかと預かったぞ。そちは余をたすけて大功をたてた。それをこの子の名として、金碗大輔孝徳と名のらせ、父の忠義をうけ継がせる。また成人ののちは、長狭半郡を与えて東条の城主といたす。いいか、心して成仏いたせよ」
 これが耳に聞こえたのか、孝吉は血にまみれた左手を動かし、伏し拝むような素振りをした。そして腹にさした右手の刃を横にきりきりと引いたので義美は後ろにまわり、みずからの刀で孝吉の首を打ち落として介錯した。一作はたまらず泣き伏し、幼な子はおろおろと驚きながらも、親の顔をさしのぞいたのでいっそうその場の哀れを誘った。さっきまで、七日の月が天にあったが、そのときいつか西にはいって蒼然となった。義実はふと過ぐる日、玉梓が孝吉に向かって、汝もやがて滅ぼすと言いのこした言葉を思い出して、陰にありし日の玉梓の凄艶な姿をうかべて、思わず人知れぬ鬼気におそわれたのであった。

【注釈】
(1)民の塗炭: 「塗」は泥水、「炭」は炭火のこと。泥水や炭火にまみめるような、ひどい苦しみをたとえて「塗炭の苦しみ」と云った。出典は中国の『書経』で、「王の不徳により、人民は泥水や炭火に落とされたような苦難を味わった」という故事に由来する。
(2)梟雄:中国では、「フクロウは、生まれた雛が親を食べて育つ」と信じられており、不孝・不吉・凶事の象徴とされていたことから、「残忍で強い人」の意。
(3)艱難をともに:「艱」は訓読みで「かたい・けわしい・なやむ・くるしむ」と複数の読み方があり、同じ意味の言葉を2回重ねることで、言葉で言い尽くせないほどのたいへんな苦労を意味する。
(4)感状:主として軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。
(5)相伝補佐:一子相伝とは、学問や技芸などの奥義を自分の子一人だけに伝えることで、それを助ける。
(6)素志:初志は「初めに思い立った希望や考え」である事に対し、「余分なものをことごとく取り払っていった時に最後に残るもの、最終的にこれだけは譲れないもの、志の素(もと)」を素志と呼ぶ。


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今城青坂稲實池上神社(延喜式内社)/埼玉県児玉郡神川町

20210218

所在地:埼玉県児玉郡神川町関口38
参拝日:2020年12月16日
御祭神: 淤迦美神、豊受毘賣命、罔象女神・埴安姫命

この日は、神川町にある武蔵国式内論社4社と出雲系神社2社の、計6社を訪ねた。

武蔵国の延喜式内社44坐のうち「賀美郡・四坐」は長幡部神社、今城青八坂稲實神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社である。
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ところが、神流川(かんながわ)、烏川(からすがわ)、利根川の度重なる氾濫による流失と、戦国時代織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となり、兵火により社殿や古文書が焼失した。
そのため、上記4座の式内社に比定される神社が、上里町に6社、神川町に3社となっている。
既に上里町の6社は済んで、この日神川町の3社に巡拝することにして、熊野神社に次いで当社に参拝。

全景
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社号標
延喜式内論社 武蔵国賀美郡「今城青八坂稲実池上神社」、旧社格は村社。
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由緒(社前の由緒書きより)
神亀元年(724年)[1]に、武蔵七党の丹党の安保氏の祖が大和国丹生川上神社を勧請、社名を「丹生社」とした。
一方『群村誌』によれば、延喜式内小社の今城青坂稲実池上神社と言い伝え、勧請は神亀元年(724)二月のことであるという。
天正5年(1577年)3月には、阿保村字関口が阿保村から分村し、関口村とした。その際に、当社は関口村字池上に遷座し、関口村の鎮守とした。
「関口」の起源は、安保領13村の安保用水の堰口にあたることからと伝えられている。
明治時代に、社名を「丹生明神社」から現在の「今城青八坂稲実池上神社」へ変更した。

鳥居は明神型
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手水舎
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参道をしばらく進み、右折して社殿となる。
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右折して社殿。
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拝殿前の由緒書き
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拝殿は、入母屋造り瓦葺き。
入母屋側に向拝部を設けている。
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破風に狐格子
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向拝柱の木鼻は、飾り彫刻なしの、江戸時代のシンプルな木鼻。
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海老虹梁もシンプル。
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社額には「延喜式内 今城青八坂稲実池上神社」とあり。
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拝殿をのぞき込むと、奥の本殿を望むことが出来た。
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本殿の覆屋はまったく隙間がなく、本殿は見えない。
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境内社

右側4社の石祠群
左から疱瘡社、稲荷社、八幡宮、天満宮。
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左側5社の石祠群
左から蚕影社、愛宕社、諏訪社、八坂社。
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以上で参拝を終え、続いて阿保神社に向かった。


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建比良鳥命(たけひらとりのみこと)・大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)・武三熊之大人(たけみくまのうし)・武日照命(たけひなてるのみこと)・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)・天日照命(あめのひなでりのみこと)/日本の神々の話

20210217

埼玉県久喜市の鷲宮神社、東京都あきる野市の式内社・阿伎留神社の祭神である。

鷲宮神社の由緒書では、出雲族の草創に係る関東最古の大社であるとし、由緒は神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿であるとしている。

阿伎留神社の説明では、初代神主の土師連男塩が氏神を祭ったのが当社の起こりとしているので、土師という姓から、出雲族であることは明白で、出雲系の神社である。

『古事記』では建比良鳥命、『日本書紀』では大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)・武三熊之大人(たけみくまのうし)・武日照命(たけひなてるのみこと)・武夷鳥命 ・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)と表記され、天日照命(あめのひなでりのみこと)とも称される。これらの異名・異称の同定は出雲国造家として出雲神社の祭祀を受け継いだ千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』に拠っている。

建比良鳥命の「建」は「勇猛な」、「比良」は、「縁(へり)」と同源であり、物の端・隣との境界の意と解し、名義は「勇猛な、異郷への境界を飛ぶ鳥」と考えられる。「黄泉比良坂」の「比良」も、黄泉国と現し国との境界を指し、「山城の幣羅坂」の「幣羅」も村の境界、奥津甲斐弁羅神の「弁羅」も海と陸地の境界である。また鳥取神や鳥鳴海神、布忍富鳥鳴海神同様、島が人間の霊魂を異郷に運ぶという信仰に基づき、名義の「異郷への境界」は出雲国との境界と考えられる。

また別名の天夷鳥命の名義は「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意であるから、建比良鳥命と同一の神格と考えられる。

神話での記述
『古事記』では天照大御神と須佐之男命の誓約の段で、
(前略)
速須佐之男命が天照大御神の右の角髪(みずら)に巻いておられる玉の緒を受け取って、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成り出でた神の名はアメノホヒノ命である。
(途中略)
アメノホヒノ命の子のタケヒラトリノ命、これは出雲国造・武蔵国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・対馬県直・遠江国造等の祖神である。
とある。

『日本書紀』では、葦原中国の平定の段で大背飯三熊之大人(武三熊之大人ともいう)が父の天穂日命に次いで葦原中国に派遣されたが、父と同様に何も報告して来なかったと記されている。また、崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上させ、その結果出雲氏に内紛が起き、当時の当主の出雲振根が誅殺されたとも記されている。

『出雲国造神賀詞』には、「天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し」という一節がある。
神名の「ヒラトリ」「ヒナドリ」「ヒナテル」は「鄙照(ひなてる)」の意で、天降って辺鄙な地を平定した神の意という説がある。



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里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の三・第六回

20210216

第六回: 倉廩(そうりん)を開きて義実二郡を賑わす 君命を奉りて孝吉三賊を誅す

時:室町時代 嘉吉元年(1441)の4月
登場人物: 里見義実、堀内貞行、金碗孝吉、妻立戸五郎、岩熊鈍平、玉梓
舞台:P03滝田城
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【要略】
・滝田城が落ちたので入城し、定包が貯えた財宝は、義実が百姓たちに分け与えた。
・降人たちの取り調べで、金碗孝吉は、戸五郎と鈍平は以前から悪行を働いていたと首をはねる。
・玉梓が引き出される。妖艶な様子に皆心奪われる。その巧みな口舌に里見義実でさえ、許したらどうかと言う。
・金碗孝吉は以前から知っていたので化かされず、義実を諭して討つことに決める。
・玉梓は怒り、「この恨みは子々孫々の末まで畜生道に追い落とし、この世からなる煩悩の犬として仇を報じる」とわめいて、処刑される。

山下定包と玉梓
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【ものがたりのあらまし】
 滝田の城が陥ちたので、里見義美の軍兵は、隊伍堂々と入城した。そこでまず、定包の首実検があって、それから城内の巡視をおこなうと、定包が豪奢を極めた城内は壮観無比、玉を敷き、黄金を延べたといっても過言ではない。また蔵の中には米穀財宝が一杯詰まっていた。しかし義実は一指も染めず、皆これは定包が民のものを奪ったのだから、全部のこらず百姓たちに分けあたえると宣言した。
 次の日、正庁(まんどころ)で降人たちの取調べを行った。この係りには金碗八郎がすわった。首脳の鈍平と戸五郎であるが、昔この城にいた金碗は、二人の性質はよく知っていて、定包の悪事を助け、いっそう民を苦しめる種をつくった元凶は二人だということは明白と断定し、占領勢の雑兵に縛りあげさせ、時を移さず二人の首をはねてしまった。
 孝吉の命令で、こんどは玉梓がつれ出された。玉梓の姿が現われただけで刑場の風景はがらりと一変してしまった。玉梓は聞きしにまさる天与の美人であった。濃艶というより凄艶とでもいうのであろう、伏目がちの姿は可憐でさえもあった。
「玉梓、そちは前国主の側女であったころから寵に誇って主君を手玉にとり、政道にさえ口ばしを入れ、忠臣はことごとく退け、あまつさえ定包と密通し、その陰謀悪逆に油をそそぎ、みずからは栄耀栄華に日をくらして豪も省りみるところがなかった。こうして引き出されたのは、天罪国罪の報いと思い知ったであろうな」
 玉梓は頭を上げて、悪びれもせずおもむろに答えた。
「おっしゃることは私にはよくわかりませぬ。女は弱いものにて、三界に家なしとさえ申します。私は先君の正室ではございませんし、主君亡きあと定包どのに想われましたのも、弱い女の誰とても落ちる宿命にほかなりませぬ。私のみひとり責めるは、お恨みにございます」
「その侫弁、さすがは城を傾けるだけのことはある、さてさて恐ろしい女だ。だが汝の好悪は十目のみるところ、十指のゆびさすところ、いちいち実状を示すことができるのだ。また、わしのことを引き合いに出したが、この孝吉は城を愛し故君の仇を報じたければこそ、灰を飲み、うるしを塗り、苦心惨憺のすえに今日ここに定包を討つことができたのだ。口前(くちさき)だけで事実を曲げ、人をたぶらかす手は、もはや通用いたさぬぞ」
 鋭くきめつけると玉梓は、なんと思ったか急に調子を変えてしおらしく言った。
「はい、おっしゃるとおり、ほんに私は罪深い女でございましょう。けれど里見の殿さまは聞きますところ仁君にてあらせられるそうです。よし私に罪がありましょうとも、なんの女風情、ものの数ではありますまい。どうかおゆるしくだされて、故郷へ帰ることができましたなら、こんなしあわせはありませぬ。金碗どの、そなたとは、昔はともに神余家につかえた間柄、どうかよしなに取りなしてくださいましな、ね」
と流し目ににっこりと笑って見せた。これが海棠の雨にぬれた風情というのであろう、においこぼれるばかりつやつやしい黒髪は、肩にかかって春の柳にも似て、美女の魅力があたり一面にあふれたから、満場はただ一瞬あっとかたずをのむばかりの思いだった。
 義実は孝吉を招き、玉梓の罪は軽くないと思うが、死をゆるしてやったらどうかとささやき告げた。
孝吉は居住まいを直して御前にかしこまり、それはいけません、定包に次ぐ罪人の玉梓を、も                                  しここで許したならば城下の目はなんと見るか、里見ほどの人でも色香には迷いやすいと見え、玉梓をついに放ったと、噂は噂を生むに至りましょう。およそ美女といえば、担妃(だっき)は朝歌に殺され、大真は馬塊に縊(くび)られたが、玉梓にくらベたら、けっしてまだまだ悪人ではなかった。この際、情を殺し御決断をこそ望みますと諌止した。
「わかった。なるほど余の誤りであった。しからばそちに任せる、引き出して討て」
 この一言を聞いたとたん、玉梓の眉根はきりりとあがり、花の顔はみるみる朱を注いだようになり、上座の主従をはったとにらみつけた。
「金碗八郎、それでよいと思うか。ゆるすという主命を、おのれ一存にてこばみ、わらわを切ろうとする。この恨み死すとも晴らさでおくものか、遠からず汝も刃の錆にしてくれようぞ。また、そちらの義実も言いがいのない愚将だ。いったん許すと口に出して言っておきながら、その舌で言葉をひるがえすとは、人の命をもてあそぷも同然。殺さば殺せ、子々孫々の未まで畜生道に追いおとし、この世からなる煩悩の犬として仇を報ずるからそう思うがいい」
「こやつ、引き立てい」と八郎孝吉は高座からさけんだ。
 雑兵四、五人、ついと立ち上がって玉梓を刑場へ引きずって行き、なおもののしり狂い悪口毒舌をふり絞ってもがきさわぐのを、有無をいわせず左右から押しすえて、ばっさり首をはねてしまった。
 悪の栄えるためしはない、滝田城横暴の元凶であった走包、玉梓の男女はこれで滅びてしまった。とはいえ、この玉梓の怨念は長く里見家の上に祟ることになったのは史上で明らかなとおりである。結果において同家にとって、それは禍か福かは俄かに判断はできないが、とにかく読む人はこの毒婦の最後の恨み言を記憶に留めておいてもらいたいのである。

【注釈】
三界に家なし:「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと。女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。
侫弁:へつらって口先巧みな言葉
城を傾ける:城を危くするということである。中国でも古くはその意味に用いられていたが、李白が「名花傾国両つながら相歓ぶ」と詩に詠んだあたりから、美人の意味に傾国・傾城が用いられるようになった。
十目のみるところ、十指の指差すところ:『礼記‐大学』の「十目所レ視、十手所レ指、其厳乎」から、10人が10人みなそう認めるところ。多くの人の判断や意見が一致すること。
海棠(かいどう)の雨にぬれた風情:唐の玄宗皇帝が、楊貴妃の酔ったなまめかしい姿をたとえた、「海棠眠り未だ足らず」と詠った言葉も残り、美人のうちしおれた姿がなまめかしいことの様子をいう。
担妃(だっき)は朝歌に殺され、大真は馬塊に縊(くび)られた
妲己は、殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃。帝辛に寵愛され、悪女の代名詞的存在として扱われる。明の時代の神怪小説『封神演義』では、九尾狐が担妃に化けて紂王を堕落させて殷を滅ぼしたが、朝歌(中国古代における衛の首都)に迫る西岐軍に襲われ、姜子牙に斬首された。
大真は正確には太真、楊貴妃のことであり、玄宗が蜀へと敗走する途中、馬嵬にて護衛の兵たちが反乱を起こし、兵たちは楊貴妃を殺害することを要求し、高力士たちによって楊貴妃は絞殺された。


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虹/空の写真

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撮影場所:埼玉県狭山市柏原入間川沿い
撮影日時:2021年2月15日 16:30ころ

今日はほとんど雨でしたが、雨が止んで虹が出ているのに気が付いて、飛び出しました。
広いところで撮りたくて、とりあえず入間川の河原に一目散。

もっと早く気が付けば、きれいなアーチが見られたかも。
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虹の両脚を足を別々に撮っておいて、帰ってからソフトでパノラマにしました。
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空の雲も、キラキラしてて綺麗でした。
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思いついて、橋の真ん中まで小走りで移動して、「川の流れの向こうに虹」を撮った。
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(了)


猿田彦大神(文字)庚申塔/埼玉県川口市鳩ケ谷

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所在地:埼玉県川口市鳩ヶ谷本町1丁目6−2 鳩ケ谷氷川神社境内
撮影日:2019年12月18日

今回の庚申塔は、鳩ケ谷の総鎮守・氷川神社の境内にあります。
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塔身:角柱型
主尊:猿田彦大神(文字)
日月:なし
脇侍:三猿
造立年代:寛政12年(1800)

塔身は角柱型。
屋根で保護されている。
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銘文:
向かって右側面に 「寛政十二庚申歳 鳩谷講中」
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主尊として「猿田彦大神」の文字が刻まれている。
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三猿は、左右の猿は横を向いて、
右から「見ざる・聞かざる・言わざる」である。
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猿田彦を主尊とする庚申塔は、関東ではあまり見られなく珍しい。
2015年に、北九州に旅行した時に調べてビックリしたのは、例えば熊本県ではほとんどが猿田彦で、そのほとんどが文字塔であった。
青面金剛は少なく、そのほとんどが文字で、青面金剛の像をきざんだのは、私が参考にしたリストでは数例しか無かった。
地方によって違うのだな、と感じ入ったのを覚えている。
今回は、逆に関東では珍しい猿田彦を主尊にしている例である。


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雲とオオイヌノフグリ/ウォーキングにて

20210213

今日は、14時~15時に入間川沿いに安比奈親水公園のコースを歩いた。

雲は少なかったが、月桂樹の葉みたいな雲が浮かんでいた。
オリンピックイヤーにふさわしい。
下界では、会長人事でてんやわんやだか(笑)
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渦巻に目?
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今日はオオイヌノフグリが咲いていないかな、と探しながら歩いていた。
NHKの教育テレビで土曜日の22時50分から10分間、「植物に学ぶ生存戦略」という番組をやっている。俳優の山田孝之と林田アナの珍問答で進むのだが、山田孝之が林田アナを暗に口説こうとしているかのようなやり取りが実に面白い。
断っておくが教育テレビである(笑)

先週の土曜日、2月6日に「オオイヌノフグリ」を取り上げていた。

ちなみに今夜、13日は「カラスウリ」を放送するそうである。

それで、オオイヌノフグリがもう咲いていないかと探していたのだ。

やっと見つけた(嬉)

秋に刈られて、枯葉の白い地面に青いところがあり、それがオオイヌノフグリだった。
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今年、野草の花で最初に見つけたのは「ホトケノザ」で、これが2番目ということになる。

ちなみに、名前の由来は、果実を包む萼を見ないとわからない。
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「ふぐり」とは陰嚢のことである。


(了)


里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の三・第五回

20210212

第五回:良将策(はかりごと)を退て衆兵仁を知る 霊鳩書を伝えて逆賊頭(こうべ)を贈る

時:室町時代 嘉吉元年(1441)の4月
登場人物:里見義実、義実の郎党・堀内貞行、金碗孝吉、滝田城主山下定包、玉梓、定包の部下(岩熊鈍平、錆塚幾内、妻立戸五郎)
舞台:P03滝田城
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滝田城跡に行きたいのですが、コロナ禍緊急事態宣言で越県外出は自粛しているため当面は無理です。
後日私の写真を載せることにして、せめてということで「南房総観光ポータルサイト」より写真をお借りしました。

滝田城跡遠望
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案内図
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滝田城本丸跡からの遠望
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要略:
・義実主従と孝吉率いる軍勢が滝田城に押し寄せたとき、山下柵左衛門定包はいつもの大酒宴を開いていた。
・定包は岩熊鈍平と錆塚幾内に命じ、兵五百で繰り出させるが、すぐに敗退してくる。
・定包は妻立戸五郎に安西景連と平館城主麻呂信時に急援を頼みに行かせる。
・義実は、鳩を使い城兵に檄文をばらまく。
・城内が混乱する中、里見に降参の手土産にと、妻立戸五郎と岩熊鈍平が定包を討ってしまう。

【ものがたりのあらまし】
 さて、里見義実率いる軍勢が滝田城を攻めると、城内では城主山下定包は、いつものように大酒宴を開いていた。何しろ淫婦玉梓をはべらせて、毎日酒池肉林の生活なので上から下まで主君にならって酒色にふけっていた。
「殷鑑(いんかん)遠からず」というのはまさにこのことであろう。
敵勢らしきものが当城へ向かって進んでいるとの知らせに、定包は酒光りのする顔で、どうせ物盗り山賊のたぐいだろうと、一人の侍臣に偵察を命ずると、千騎ばかりの軍勢で陣列隊伍は法にかない、中軍に一とながれの白旗を押し立てている、との報告であった。
定包は、岩熊鈍平、錆塚幾内の両人に追い払えと命じると、五百の軍兵をひきいて城門をくり出して行った。しかし、しばらくすると戸板に乗せられた深傷の岩熊鈍平が戻り、そのうえ東条の城もすでに落ちたとわかった。
酒席はにわかに混乱におちいったが、その中で一番あわてふためいたのは、今まで城主定包のそばにくっついて家臣一同を流し目に見下していた濃艶な玉梓だった。
定包も案に相違の戦況に、ただ茫然として相手を問うと、「里見の冠者義実」とわかり、やっと容易ならぬ敵だと察して、
「里見ごとき何ほどのことがあろう。四囲を固めて籠城の用意をいたせ。彼らはもともと烏合の勢であるから、疲れと飢えのため、そのうちみずから弱りはてるにちがいない。」
 そしてもう一つ安西、麻呂の両人に急援をたのむ計略を立てた。
使者に妻立戸五郎が志願すると、
「安西、麻呂は利をもって誘わねば容易に加担する輩ではない。ついてはこう云うのだ」
 定包の指示は、自分は平群一都滝田一城だけで満足しているから、もしも義実の奪った東条の城を急襲し攻め落としてくれたら、長狭郡を進上すると、ていねいに申し入れて加勢を決めてくることだった。
戸五郎は、そのため里見が滅びても、長狭郡を人に取らせて、自分の所領を削るようなまねをしてはなんにもならぬと他の老党ともどもに諫めた。
 走包は笑ってうなずいて、こう云った。
「深い謀がめぐらされてあるのだ。例えに鷸蚌(いっぽう)争うて漁者に獲らるというではないか。長狭一郡をいったん安西、麻呂に与えたとて、両将は必ず争闘するであろう、共倒れとなり、虚に乗じて安房朝夷の二郡をもおさめ、都合四郡は我が物となる勘定。安心して使者に立て」
「はっ、おそれいりました」
 戸五郎は間道をまっしぐらに館山さして駆け出して行ったのであった。
 さて城外では攻め手に回った里見の軍勢も、これで三日三晩、息をもつかず迫ったが、滝田の城は神余数代の名城であるから聞きしにまさる要塞堅固で、急には落つべくもなかった。
一方、兵糧が乏しくなって来たため、この辺の田畑に実る秋麦を兵に刈り取らせることを進言した。
「待て、それはならぬ」
 義実は貞行、孝吉などの申し出を、首をふって制止した。我々は民の塗炭を救おうがために攻めているのに、農家を荒らしては、今までの城主と同じ民を食う虎狼となるではなると。たとえ城を落として勝ったとて、けっして民は心から従わぬ。このわしにはできぬと言うのであった。
 義実はこの城を囲んだときから、城中に数十羽の鳩が飼ってあるらしく、朝、城から飛び立ってきて遊んだうえ、夕べにはまた城の中に帰るのを見て知っていた。その鳩を捕らえて足に、わが城攻めの目的はただ定包一人を討つことであるから、城兵が帰順を誓えば他の者はことごとく温情を垂れ与えるという主旨の激文を結び付けて放った。
 さてこの激文を散布された滝田城内は、やはり人知れぬ混乱に陥った。早くもこの不穏の形勢を察した抜け目のない戸五郎と鈍平は、身の振り方を相談した。
「いっそ、先んじてわれらの手で定包を討ち、里見へ降参の手みやげとしようではないか」
 いったんそうと決まれば、二人は示し合わせて、すぐ定包のいる奥殿目がけて踏み込んで行った。
 定包はその時、戦況の気鬱を慰めるためか尺八を口にあて軽くふいているところだった。どやどやとかけこんで来た鈍平、戸五郎の姿を見ると吹く手をやめて顔をむけた。
「おお、両人いかがいたした」
「城中の者、皆背きました。さながら蜂の巣をつついた有様、このうえは止むを得ませぬ、速やかにお腹を召されませ」
 戸五郎が刀をきらりと引き抜いて、余裕を与えずやにわに踊りかかって切りつけた。
「推参すな、側臣の分際で不忠者」
 定包は驚いて叫んだ。しかし、うかつにも刀が遠いところに置いてあって丸腰だったから、とっさに手にもつ尺八で丁と受け止めた。笛ははすかいに切れて頭の方だけが向こうにふっ飛んだ。続いて打ちこむ鈍平の刃の下を定包はからくもかいくぐって、尺八の手槍の穂先のようになったやつを、戸五郎めがけて手裏剣がわりにはっしと投げつけた。それが戸五郎の右の腕に突き刺さったので、思わず刀をとり落とした。すかさず定包は駆け寄ってその大刀を拾い取ろうとしたが、さはさせじと、かたわらの鈍平が肩先を目がけてさっと切った。しかし鈍平も刀をたたき落とされ、あとは組んずほぐれつ、上になり下になりの力闘となった。けれど鈍平はついに定包を下に組み敷き、さっき戸五郎の腕に刺さった尺八を手をのばして引き寄せ、とがった先で咽喉元をグザグザと突きさし突きさし、ひるむすきに刀を引き寄せて首を切り落してしまった。
主を殺して城を奪った定包も、わずか百日あまりの栄華の夢を見ただけで、自分も同じく家来の手にかかって滅ぼされたのは、罪をおのれに戻して償ったようなものであった。


【注釈】
殷鑑(いんかん)遠からず:「殷が鑑(かがみ)とすべき手本は、遠い時代に求めなくても、同じく悪政で滅んだ前代の夏(か)にある」ということ。
もうちょっと詳しく述べると、殷最後の王、紂(ちゅう)と言えば悪王の代名詞となっています。史記によれば紂王は鋭い頭脳、達者な弁舌、猛獣を素手で倒すほどの力を持っていました。彼は妲己(だっき)と言う美女に溺れ、酒池肉林の日々をおくり、人民には重税を課し、反対者には徹底的な弾圧と過酷な刑罰を与えたということです。この話は夏王朝最後の帝、桀王(けつおう)の話に実に良く似ています。重臣の一人、西伯昌(せいはくしょう)は紂王を諌めてこう言いました。
「殷鑑遠からず夏后の世にあり。」
「わが殷が鑑(かがみ)とする手本は、何も遠い過去にあるわけではありません。前の夏王朝の桀王の時代にあるではありませんか。」
西伯昌は桀王の故事を例に取り、主君を諌めたのですが逆に紂王の怒りを買い、追放されてしまいました。この西伯昌が後の周の文王です。
烏合(うごう)の勢:カラスの群れが無秩序でばらばらである意から、何の規律も秩序もなくただ集まっている集団。
鷸蚌(いっぽう)争うて漁者に獲らる:『戦国策』の「鷸蚌(鷸は「しぎ」、一説には「かわせみ」、蚌は「はまぐり」)の争いは漁夫の利をなす」という語から出ていて、両方が争っている間に第三者に利益を占められるという意である。これは、中国戦国時代に、縦横家の蘇代というものが、趙の恵文王に、川べりで日向ぼっこをしている「はまぐり」のところへ、「しぎ」が来あわせて、その肉をついばんだので、「はまぐり」は怒って急に貝殻をしめ、そのくちばしをはさんで離そうとしなかった。「しぎ」は、このまま雨が降らなかったら、お前は死ぬだけだ』といい、「はまぐり」は『おれが離さなかったら、お前こそ死ぬんだ』と言い競っているうちに、通りかかった漁師に両者ともとらえられてしまった、という話をして、隣国燕と競って、大国秦の餌食になることの愚を説いた故事から出ている。
激文:主張を述べて同意を求め、行動を促す文書
推参(すいさん)すな:推参とは、自分のほうから出かけて行くこと。また招かれていないのに人を訪問することを詫びる気持ちをこめていう。⇒さしでがましいことをするな



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シラサギ、アオサギ、パンジー、梅の花、ゴイサギのヒナ/ウォーキングにて

20210211

今日は風があったので、森の中で風にあたらないですむ智光山公園を10時45分から11時45分散歩した。

ヒョウタン池には、毎日カメラマンが陣取りをしている。
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目立つのはやはりシラサギだ。
上にシラソギが居て、下にアオサギが居た。
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ヒョウタン池は二つの池から成り立っているが、片方には鴨がのんびりとしていた。
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緑化植物園の下の花壇には、パンジーが植えられて春を待っている。
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いままで智光山に梅の木があることを知らなかった。いつも通らないコースに足を踏み入れて発見。

しだれ梅
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紅梅
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木道のところで、小川の観察のために小さなバイパスを設けてある所があるが、そこで皆がしきりにカメラを向けていた。指差しで教えてもらい、鳥のヒナなことはわかったが、一応撮ってから前後して現場を離れたカメラマンのご夫婦に、現場から離れてから何の鳥か教えていただいた。
ゴイサギのヒナだった。
昨日からずっとあの場所に居るのだそうだ。
以前は、智光山にずいぶんとコイサギは居たのだが、最近は珍しくなったと仰っていた。
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(了)


讃岐国・金刀比羅宮の狛犬⑩

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所在地:香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1金刀比羅宮拝殿内
撮影日:2020年3月23日

「青春18キップの旅2020春」にて金刀比羅宮に参拝したときに撮影した狛犬です。

金刀比羅宮については、既に記事があります。

その記事を見る


金刀比羅宮では、私は12組の狛犬を確認しましたが、今回の狛犬が10番目となります。


石段785段を上がってきて、御本宮の前に到着(嬉)
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無事に参拝が出来ましたと、拝殿でお参りしていると、内陣に狛犬がおかれているのに気が付きました。
幣殿の前左右を守っています。
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年代:不明(御本宮再建の明治11年(1878)と推定)
材質:木造
型式:神殿型

右側が阿形獅子。
むりのむ木の台座の上に載っている。
前足は直立。後足は蹲踞。
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たてがみに巻き毛があり獅子。角は無い。
ピンと耳を立てている。鼻ヒゲが少し立っている。顎髭はわかる。
鼻は尖っていて鼻の穴も縦長。眉を怒らせ小さな目を光らせている感じ。
たわみの大きい口を開いて、歯列と舌をのぞかせている。牙は鋭い。
怒った顔でジーッとこちらを注視している感じ。
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左が吽形獅子
むりのむ木の台座の上に載っている。
前足は直立。後足は蹲踞。
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たてがみに巻き毛があり獅子。角は無い。
ピンと耳を立てている。鼻ヒゲが少し立っている。顎髭はわかる。
鼻は尖っていて鼻の穴も縦長。眉を怒らせ小さな目を光らせている感じ。
たわみの大きい口を閉じ、牙は見せている。
怒った顔でジーッとこちらを注視している感じ。
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尾はよく見えないが、一度背中に付いてから勢いよく立ち上がっている炎状。
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典型的な神殿型の形である。
ただ、神殿型は吽形に角があるが、ここでは阿吽両方とも角がない。
木製なので、造作が細かくて、とても勢いのある狛犬になっている。
広い拝殿の暗い奥に置かれていて、拝殿という場所柄ジックリと撮ることができず、
撮った写真もブレていたのが残念だった。


狛犬の記事一覧を見る



熊野神社(延喜式内論社)/埼玉児玉郡神川町

20210208

所在地:埼玉県児玉郡神川町八日市527
参拝日:2020年12月16日
御祭神:家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神(俗にいう熊野三神)

この日は、神川町にある武蔵国式内論社4社と出雲系神社2社の、計6社を訪ねた。
最初に訪れたのが、ここ熊野神社である。

武蔵国の延喜式内社44坐のうち「賀美郡・四坐」は長幡部神社、今城青八坂稲實神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社である。
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ところが、神流川(かんながわ)、烏川(からすがわ)、利根川の度重なる氾濫による流失と、戦国時代織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となり、兵火により社殿や古文書が焼失した。
そのため、上記4座の式内社に比定される神社が、上里町に6社、神川町に3社となっている。
既に上里町の6社は済んで、この日神川町の3社に巡拝することにして、最初がこの熊野神社である。

入り口には、明神式鳥居と社号標が立つ。
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社号標
社挌:式内社今城青八坂稲實神社論社、旧指定村社
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御由緒書
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熊野神社が鎮座する神川町八日市地区は室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。熊野神社はこの地区の総鎮守である。
当社は村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては今城青八坂稲実神社を称していたという。

本社は往古より村中の氏神と称し、延喜式當國四十四座の一にして今城青八坂稲實神社なりと云ひ傳ふ。神階は往古は知れざるも、正徳3年(1713)7月正一位の神階を授けられ今其の宣旨現存す。神領は上古は明らかならざるも、徳川幕府の時代に地頭より除地四反五畝歩を寄附せらる。
 現在建物の本社は享保14年(1729)9月の再建にして、棟札を現存せり。又旧社地の村内字今城に鎭座ありしを、後に今の森下の地に奉遷したりと口碑に在り。
(神社明細帳)

手水舎
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境内の様子
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入母屋造り瓦葺きの拝殿
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向拝部は、特に彫刻もなくシンプルなもの。
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社額には「正一位熊野大権現」とあり。
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拝殿内部
本殿まで橋がかかっている。
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拝殿の後ろに、大きなガラスの覆屋で本殿を守っている。
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本殿は春日造りで、色彩も豪華で、壁面には精緻な彫刻が施されていると、由緒書きにあったので期待した。覆屋もガラスであるし。

しかし、太陽の光線のため内部がよくわからない(泣)
やっと撮れたのがこのくらいの写真であった。
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ご祭神であるが、ここのご祭神は紀州熊野三山のご祭神であった。
同じ式内論社で上里町の熊野神社のほうは島根県の出雲一之宮熊野大社のご祭神だったのと、対照的である。

神紋は「五三の桐」であった。
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境内社として、資料では八坂神社・山神社・諏訪神社・金鑚神社・社宮司社・天神社・稲荷神社があるとされているが、確認できたのは三つの石祠だけであった。
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これで当社の参拝を終え、続いて今城青坂稲實池上神社に向かった。



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里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の二・第四回

20210206

第四回:小湊に義実義を集む 笠のうちに孝吉讐(あだ)を遂(お)う

時:室町時代 嘉吉元年(1441)の4月
登場人物:里見義実、義実に従う郎党(杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行)、金碗八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)、萎毛酷六(しえたげこくろく)
舞台:P05安房小湊、P06東条城
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要略:
・義実主従が鯉を釣れずに苦しんで三日目、長狭(郡)の白箸川で金碗八郎孝吉と出会う。
・金碗八郎孝吉は義実に、朴平と無垢三の仇を討ちたいと訴える。
・義実主従と孝吉は、小湊におもむいて旗揚げを企てる。
・土地の若者百五十人ばかり集まり長老の献策で、して、定包の家来萎毛酷六の籠る東条城を奪う。

里見治部大輔義実
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金碗八郎孝吉
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【ものがたりのあらまし】
 義実主従は毎日いろいろな場所で苦心したが、鯉はまったく釣れず、約束の三日目、長狭の自箸川の岸辺に来て釣ったが、やっぱり駄目だった。
 このとき、誰か何か歌いながらやってくる者があった。
里見えて、里見えて
白帆走らせ、風もよし
安房の水門に寄る船は
浪にくだけず潮にも朽ちず
人もこそ引け、われも引かなん
やってきたのは乞食風態の者だった。義実が鯉を釣りたくて苦しんでいると話すと、乞食は無遠慮に笑い出してしまった。
「なに、鯉を釣るのだと。この土地で鯉を求むるのは、ちょうど佐渡で狐を捕えようとし、伊豆の大島で馬をさがすに似ておる。労して功なきことだ、おやめなさい。安房一国には土地柄で鯉は生ぜぬわ、それを知らぬとは迂潤千万の仁じゃ。また、鯉は魚の王で、一国十部に満たぬ所には住まぬとさえ、昔から言い伝えられておるほどじゃ」
義実はそれを聞いて、麻呂、安西の魂胆が読めた。
乞食はここに至ってはじめて里見義実と見こんでこれへ来たと明かした。
彼は神余長狭介光弘の臣金碗八郎孝吉と申し、主君の行状が乱れ、淫婦玉梓の色香に溺れて、酒池肉林、ついに侫人山下定包を重用して、政務は手のつけられぬ乱麻の有様となったので、諌言したところ、身の危険を感じて逐電した次第だと。
五年の月日が経ち、侫臣定包と誤って主君を射たる朴平、無垢三の両人も、父の代には若党として我が家に召し使ったことのある者であり、両人の無念を晴らしたいが、顔を見知られているので全身に漆の汁を塗って姿を醜くやつし、ひそかに機を狙っていたところ、義実が当地に入国の噂を聞き喜んで参上したと語った。
「里見義実公、かかる名君を擁して義兵を起こしたなら、悪政になやむ民たちはたちどころにみな、君を慕い寄るは火を見るより、仁徳に国中あげてなびくは必定と信じます。なにとぞ御決意のほどを」
やや長い沈思黙考のすえに、「わかった、やろう」義実はきっぱりと答えた。
 義実主従は旗挙げのため、八郎孝吉とともに小湊におもむいた。
 孝吉が最初歌っていた歌は、「白帆走らせ、風もよし」は、白帆は源家の旗になぞらえたもので、「安房の水門による船は」の船は、荀子に「君は船なり」という言葉があるので、それをもじったと道々解説した。
小湊に着いたときには、その時ひびく誕生寺の鐘をかぞえて見て亥の刻(午後10時)だとわかった。
 孝吉の提言で、竹薮に火を放って、とにかく里人を集めることにした。
 月の出しおの一瞬の闇にばっとあがる渦炎火柱、誕生寺の鐘は火災を知らせるため、がんがんと早つきに鳴りはためいた。里人は、皆戸外にかけ出したが、中にも土地の若者たちおよそ百五十余人、火のあがる場所を日がけてまっしぐらに駆け集まって来た。
金碗八郎孝吉が皆を手で制しておいて、おだやかな口調で言った。
「わしは領内の衰亡を救うには暴君、定包を討つより法はないと思ったが、一人ではどうすることもできなかった。しかし天から降った幸せというか、またとない吉兆にめぐり会ったので人騒がせながら火を放って集まってもらった次第、一同この心をくんで、わが願いを聞いてくれ」
 それから、そばに立つ義実を引き合わせ、破邪顕正の力を示して、一国の平和をもたらし、民々の苦しみを救うてくださる決心を固められたので、そなた方一同の力を借りねばならぬと、熱弁をふるつた。
 義美もこの時、一歩前に進み出て、あいさつをした。
「まことに重大事ゆえ、よく考えて子々孫々のため、できることなら助力を頼みたい。さすればわれもまた奮起して必ず一同のために尽くすであろう」
 こう言われて土地の者どもが顔見合わせて相談したあげく、村長らしい老人が腰をかがめて前に出で答えた。
この長狭の郡は定包の股肱(腹心)の老党、萎毛酷六(しえたげこくろく)と申す者の勢力範囲であって、この酷六は東条城というのに立龍っている。定包を討つには手近の東条城を攻めてかかるのが肝心で、この城さえ手に入れば、物具も兵糧も思いのままで、挙兵にはまずこれが万全の策だと言うのだった。
 義実は、武将の軍略とも合致する。血祭はその策で行くことにしようとすぐに裁決した。
若者ども百五十余人に武装させ、三隊に分け、その中の一隊は、わざと金碗孝吉に縄をかけて先頭に歩ませ、謀反人を捕えたと欺いて東条の城門をひらかせ、その機に乗じてドッと攻めこむという作戦だった。
時のはずみというのか、これが、まんまと図に当たり、作戦どおり城門をひらかせて中に入ると、孝吉が自分ではらりと縄を解き、いきなり城兵をハタと切り倒した。どっと上がる歓声とともに義実の老党氏元も貞行も、寄せ手にまぎれこんで、一緒になって切りまくった。
だが義実が何よりも気にかかったのは、敵将萎毛酷六のこと。彼を逃しては滝田の本城の定包に戦いの用意をさせてしまう。こっちは寡兵だから不利に陥る道理と思って、城内隈なく捜しまわったが、酷六の姿が見当たらなかった。
「きてはすでに逃走したか、しくじった」
と思ったとき、金碗孝吉が、城の外から馳せ戻って来て、そこへ差し出したのを見ると、酷六の首であった。
「逃ぐるを追うて討ち取ってまいりました」
「おお、でかした。これで滝田の城も味方にとって一段と攻めやすくなった」
 義実の喜びに孝吉は陣中大いに面目をほどこした。かくて東条の城もなんなく落ち、おとなしく降服する者は助けてやり、従う意志のある者は選んで家来とした。味方にはまた手落ちなく恩賞の約束をし、とっさの場合だが義実のやり口は機敏でさすがに名将の器というにふさわしかった。
一同気をよくして万歳をとなえ、歓喜のうちにいよいよ滝田の城にむかって進軍することになった。
東条の城には氏元をのこして守らせ、義実は孝吉、貞行たちと二百騎ばかりをひきいて出かけた。その夜、前原浦と浜荻の間にある堺橋のところまで来ると、里見の勢と聞いて野武士や郷士が、百騎二百騎と団を組んではせ加わり、とうとう千騎あまりの軍勢となった。それゆえ、後々までここは名も千騎橋と呼ばれて里見家ゆかりの名勝の一つとなったのである。


【注釈】
荀子(じゅんし):紀元前3世紀、中国戦国時代末の思想家・儒学者。正しい礼を身に着けることを徹底した「性悪説」で知られる。「青は藍より出て藍より青し」の成語で有名。
誕生寺:日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立された寺
破邪顕正:不正を破って正義を明らかにすること)


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川島町の白鳥飛来地

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撮影場所:埼玉県比企郡川島町八幡6丁目付近越辺川(おっぺがわ)
撮影日時:2021年2月3日14:30頃

この白鳥飛来地は、歴史クラブの先輩に教えていただきました。
天気が良かったので、この日は散歩気分で偵察のつもりで出かけました。

場所は、グーグルマップに「川島町白鳥飛来地駐車場」と登録されていたので、とても助かりました。
圏央道川島インターを降りてすぐです。
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スムーズに駐車場に到着。
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そこから堤防に上がる階段があり、上がると目の前に河原に降りる道がついています。
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左右に堤防が広がり、とても良い眺めです。

東松山方面
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川越方面
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とりあえず、河原に降りて白鳥を探します。
左手の遠くに、白いものの集団が見えました。白鳥です。
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河原を歩いていき、白鳥のそばに。
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白鳥は、私たちを全然怖がらずに、のんびりたたずんでいます。
こちら側には、白鳥を見に来た人たちが居るので、対岸側にいる白鳥はほとんど寝ているみたいですね。
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白鳥は4、50羽。鴨も同じくらいで全部で100羽くらい居ました。
こちらも、この日は偵察気分で、一番暖かい14時半くらいに来たのですが、白鳥のほうもお昼寝タイムだったみたいで、半分くらいは寝てました(笑)
飛び立ったり、飛んできて着水とかの行動はまったく見られず、本当にのんびりしたものでした。
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調べたら、白鳥に対する餌づけは2008年くらいに中止されているようで、川島町のコハクチョウは他の越冬地と同じく、朝飛び立って水田の落ち穂を食べ、午後になると越辺川に帰ってくるそうです。

1時間くらい、のんびりと白鳥や鴨を眺めて過ごし、帰ろうとして歩いていたら集団とはなれた場所で、その辺は見物人も居ないので、陸に上がって枯れ草を食べたりしていました。
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動画を撮ったので、ユーチューブで見てください。
派手な動きはありませんが、白鳥と鴨が一緒に遊んでいる様子は癒されますよ。

その動画を見る


(了)


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早良親王(さわらしんのう)/日本の神々の話

20210203

光仁天皇の皇子、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

母方が下級貴族であったために立太子は望めず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた。
天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている。

しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した(『日本紀略』前編13、桓武天皇、延暦4年〈785年〉9月23-24日)。

親王の死は次の各説がある。
〇抗議の絶食による死とする説
〇桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説。

種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。
★桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする。

〇藤原種継と大伴家持との政争の結果だとする説もある。
天皇の側近には藤原種継がおり、実権を握っていた。
桓武天皇-藤原種継
早良親王-大伴家持
というような図式ができあがっていた。大伴家持は早良親王の春宮大夫も兼ねていた。
桓武天皇は長岡京への遷都を推し進めており、種継が責任者に就いていた。一方、家持は東北に左遷されて、その身に堪えたのか死んでしまう。
そのひと月後、種継が暗殺されるという事件が起こる。
捕えられた者のなかに大伴氏の関係の者が多く、家持も関与していたとされて、追罰として埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった。
早良親王も謀反に加担した疑いをかけられた。

その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。

私は、入間市仏子・八坂神社(御霊神社)、京都上御霊神社の祭神としてお参りした。


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一面六臂青面金剛庚申塔/埼玉県川口市

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所在地:埼玉県川口市辻ツジ736真福寺境内
撮影日:2019年12月18日

本堂の前を右に曲がる。
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墓地の手前の入口付近に小堂が二つ。奥は六地蔵菩薩立像、手前に庚申塔が祀られている。
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塔身は2mほどの高さで、角柱と言っていいほど厚い駒形。
手前の香炉が邪魔になっていて、正面からその全体像を撮ることはできない。
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銘文は、向かって右側面に「右の行に瑜伽師 真福寺住 法印尊慶、中央の行に武州下足立郡平柳領辻村、左の行に享保五庚子三月吉祥日」とあり。左側面に「奉供養庚申為二世安樂」とある。
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塔身:駒形、壁龕の中に主尊
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:髪火炎、三眼、髑髏の首輪、邪鬼を踏んで立つ。
本手:宝鐸とショケラ
他の手:法輪、弓、矢、三叉矛。
脇侍:邪鬼、二鶏、三猿
造立年代:享保5年(1720)

日月は浮き彫り瑞雲付き。
中央に梵字で「カーン:不動明王」を刻んでいる。
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青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
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髪は火炎状に逆立つ。耳が大きい。
三眼で、眉を吊り上げ、憤怒の表情。
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首には、髑髏の首輪。
『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』の「大青面金剛呪法大呪法」に書かれた青面金剛の像容には「髑髏の首飾り」が書かれている。
また仏教的には髑髏は、「悪しきものを退ける」という意味がある。(千手観音の持ち物の意味から)
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手は六本で、本手は宝鐸とショケラを持つ。
他の手は、法輪、弓、矢、三叉矛を持つ。
宝鐸は、打ち鳴らすと澄んだ音が周りの邪気を払い清めると言われている。
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ショケラは、おだやかな顔と合掌していることがわかる。着物など細かいところは省略されている。
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踏んづけられた、やはりフントシをした邪鬼は、合掌して神妙な顔をしている。
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邪鬼の下の台座には、上に二鶏が刻まれ、その下に三猿が刻まれている。
三猿は、左右が横向き、右から「見ざる、聞かざる、言わざる」である。
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この庚申塔は、お堂に祀られ保存状態が良く、大きくて立派である。
塔身に壁龕し、その中に青面金剛を刻んでいる。
保存状態が良いので、像容がよくわかる。
特徴としては、髑髏の首飾りと、本手に持つ宝鐸が変わっている。
川口市には、髑髏の首輪をもしている庚申塔が多いようだ。
鶏の位置も変わっていて、普通は青面金剛の足元に居るのだが、ここでは邪鬼の下に居る。



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里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の二・第三回

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第三回:景連信時暗に義実を阻む 氏元貞行厄に館山に従う

時:室町時代 嘉吉元年(1441)の4月
登場人物:館山城主・安西景連、平館城主・麻呂信時、里見義実、義実に従う郎党(杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行)
舞台:P04館山城
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要略:
・里見義実、安西景連に会う
・安西景連が義実に、客将に迎える条件として三日のうちに鯉を釣って来いと難題を出す。

手前に安西・麻呂、奥に堀内・杉倉・朴平・無垢三
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ものがたりのあらすじ:
義実が頼って来たとのことを聞いていた客人の麻呂信時は、景連に向かって、里見は有名な武将だが対面することはないと口をはさんだ。
景連は、もしわれらの下に使える者ならば、定包討伐の一方の将としてはいかがだろうかと言い、信時も賛成した。
 そこで、相手が実戦の場数をふんだ勇将であるだけに、物々しく警護の士を張りこませたりして、準備万端して、義実主従を座敷の中にみちびき入れた。
 義美は少しも動揺の色もなく、会ってくれたことに感謝すると景連は、ここに来た次第はと問うた。
「この地は都や鎌倉管領にも属さず、まったくの自由の天地で、ここに頼れば安んじて暮らせると思ってきたが、そうでもないらしい。義によって一臂の力をつくすこともあらばと存じ、参上つかまつった。」と義実は堂々とした態度で答えた。
 麻呂信時が、横から口をはさんだ。
「これ、当国は三面すべて海であるから、室町殿からも管領からも犯されぬという意味か。それならば一知半解、われらは隣国の強敵にも犯されずに、今日までの日を過ごしてきているのじゃ。」
 義実は、麻呂、安西の御両所が、私を救うては後日の祟りをおそれると言うならば、それまでの話と立ち上がろうとすると、景連はいそいで押しとどめて、言った。
「そなたは、かって結城の守将ではあったろうが、今はともかく流浪の人だ。わが陣に加わって、この土地の悪将滝田の城の定包を討つとならば、まずはわが家の嘉例として出陣の首途(かどで)に、まずもって軍神に鯉を供えたい。三日のうちに貴殿が手ずから釣りあげて来られよ。約束を違えたならば和議の志なしと見て、容赦なく処置いたす」
 これはすこぶる難題だった。なぜならば安房一円どこへ行っても土地柄として鯉は居ないのであった。
 そうとは知らぬ義実は気軽に承知してしまったが、納まらぬは氏元、貞行の二人の老党。事もあろうに主君を漁師扱いにするのかと、ここを見限って上総へ参りましょうと、袖にすがらんばかりにしきりとすすめたが、義実は左右の二人を顧みて静かになだめた。
「君子は時を得て楽しみ、また時を失うても楽しむと聞く。いにしえ太公望のごとき人傑でさえ七十近くまでも世に知られず、渭浜の里にむなしく釣をしていたではないか。漁を卑しむことはない」
と言い聞かせ、ひたすら釣の用意をうながすのであった。

【注釈】
※「一知半解」
なまかじりで、知識が十分に自分のものになっていないこと。
※「太公望」 
東海のほとりに生まれた呂尚は、すぐれた才能と怠の持ち主であったが、あまりに偉大であったがために、なかなか理会するものがなく、困窮のうちに白髪のめだつ年齢になつた。たまたま滑水のほとりで釣をしているおりに西伯(後の周の文王) に見出され、その師となって、国の建設にすばらしい功績をあげた。西伯の祖父 (その古称を太公という) の待ち望んでいた人物だということから「太公望」と称された。釣師を太公望というのは、この故事から出ている。

(続く)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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