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静嘉堂文庫美術館&岡本公園民家園

20210329

26日に、歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で訪ねました。

二子玉川駅から、「静嘉堂文庫前」までバスで移動しました。

周辺地図(岡本民家園案内図から)
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【静嘉堂文庫美術館】
東京都世田谷区岡本2-23-1

案内図
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バス停からすぐの正門から、しばらく敷地の森の中を歩いていく。
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静嘉堂文庫
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静嘉堂文庫美術館
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 静嘉堂は、岩崎禰之助(1851~1908 三菱第二代社長)が創設し、小浦太(1879~1945三菱第四代社長)が拡充したものです。「静嘉堂」とは中国の古典『詩経』大雅、既酔編の「邊豆静嘉」(へんとうせいか)から採った禰之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。
1924年(大正13)、小蒲太は父・禰之助の17回忌に際し、ジョサイア・コンドル設計の納骨堂の側に現在の静嘉堂文庫を建てました。1945年(昭和20)、小蒲太の遺志により孝子夫人から美術品を、1975年(昭和50)、夫人の逝去に際し、収蔵品の全てと鑑賞室等が岩崎忠雄氏より寄贈され、2年後、美術品の一般公開を開始、1992年(平成4)、創設百周年を記念し静嘉堂文庫美術館として開館しました。
国宝7点、重要文化財84点を含む、約20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。
なお、静嘉堂文庫のほうは公開されていない。

美術館に入ったところのロビーに展示されているのは、川端玉章の「墨梅図屏風」など
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ロビーから静嘉堂文庫の建物が見える。
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企画展は「岩崎家のお雛さま」
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さすが岩崎家と、うなるようなお雛さまでした。
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同時に展示されているなかで、見るのを楽しみにしていたのが「曜変天目茶碗」
世界で三点しか現存せず、そのすべてが日本に伝来し、国宝にしていされている。
静嘉堂文庫美術館が所蔵するのは、徳川家光が春日局に下賜。代々実子の稲葉家に伝えられたことから「稲葉天目」と呼ばれているもの。
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野々村仁清の「色絵吉野山図茶壷」もよかった。
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写真では紹介できないが、下記のものも良かった。
・伝尾形光琳「紅白梅図屏風」
・伝尾形光琳「鹿鶴図屏風」
・歌川国定「芝居町新吉原風俗絵鑑(芝居茶屋。仲之町の桜)」

続いて、岩崎家霊廟。
明治43年落成の納骨堂は、近代建築の父、ジョサイア・コンドルの設計。
岩崎弥之助(三菱二代社長)の三回忌にあたり、息子の小弥太が、西欧の霊廟を模して造らせたものです。
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中国古代の青銅器「鼎」を模した香炉。
ちなみに中国古代の青銅器「鼎」は、祖先を祀る時に生贄の肉を煮る道具だったそうだ。
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奉献者の名前の中に、高橋是清の名前を発見。
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巨大な、青銅製の狛犬。
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納骨堂
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正面の青銅扉には、中国古典の「二十四孝」が刻まれている。
表に見えるのは12だから、もしかして内側に残る12がある?
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せっかくだから、絵解きをしておく。

上の4つ。
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右上 「舜」
舜(しゅん)は大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の天子を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。これも孝行の心が起こしたことである。

左上 「黄香」
黄香(こうこう)は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った安陵の太守劉讙(又は劉護)は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。

右下 「孟宗」
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう[2]。

左下 「姜詩」
姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。姜詩と妻の孝行を感心に思って天が授けたものであろう。

中の4つ
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右上 「曾參」
孔子の弟子の曾参(そうしん)は、ある時薪を取りに山に行った。母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。母はもてなしたいと思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、「曾参、急いで帰って来てくれ」と指を噛んで願った。曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。指を噛んで願ったのが遠くの曾参に響いたのは孝行の心で、親子の情が深い証拠である。

左上 「張孝兄弟」
張孝(ちょうこう)と張禮(ちょうれい)の兄弟は、飢饉の時に80歳を超えた母を養っていた。木の実を拾いに行ったところ、盗賊が現れて張禮を食おうとした。張禮は「私には一人の年老いた母親がいます。今日はまだ母が食事をしていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破れば、家に来て一家もろとも殺して下さい」と言って、母親の食事を済ませて盗賊の所に戻って来た。張孝はこれを聞き、走って盗賊の所に行って「私の方が弟より太っています。私を食べて、弟を助けて下さい」と言う。張禮は「これは最初の約束なので、私が食べられます」と言って死を争った。それを見た非道な盗賊も兄弟の孝行心に打たれ、このような兄弟は見たことがないと2人の命を助け、さらに沢山の米と塩を与えた。兄弟はそれらを持って帰り、さらに孝行を尽くした。

右下 「老莱子」
老莱子(ろうらいし)は、両親に仕えた人である。老莱子が70歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いた。これは、老莱子が70歳の年寄りになって若く美しくないところを見せると、息子もこんな歳になったのかと親が悲しむのを避け、また親自身が年寄りになったと悲しまないように、こんな振る舞いをしたのである。

左下 「蔡順」
王莽の時代に天下は乱れ、また飢饉が訪れ、食べる物もなかった。蔡順(さいじゅん)は母のために桑の実を採り、熟していない物と熟した物に分けていた。その時、盗賊(赤眉の乱の盗賊と思われる)が現れ「何故桑の実を2つに分けるのか」と尋ねたところ、蔡順は「私には一人の母親がおりますが、熟した物は母親に、熟していない物は自分にと思っていたのです」と言った。盗賊も蔡順の孝行の心を知り、米と牛の足を与えて去って行った。蔡順はその米と牛の足も母親に与えた。

下の4つ
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右上 「郭巨」
郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。

左上 「唐夫人」
唐夫人(とうふじん)は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕え、数年が経った。ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言った。このように姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言う。やがて恩が報われ、将来繁栄するのは当たり前のことである。

右下 「王祥」
王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、王祥は継母からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。

左下 「朱壽昌」
朱壽昌(しゅじゅしょう)は、7歳の時に父母が蒸発してしまったので母をよく知らないことを嘆き、50年が経った。ある時、朱壽昌は役人であったが職も妻子も捨て、自らの血でお経を書いて天に祈っていると、秦という所に母がいると告げられ、遂に母に会うことができた。これも志が深いからである。

霊廟の前に、良い感じの六地蔵もあり。
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周りは鬱蒼とした森である。
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その近くに、大きな岩崎弥之助の碑もあり。
私が岩崎弥之助の功績のうちで感謝しているのは、素晴らしい「小岩井農場」を創ってくれたことである。
(日本鉄道会社副社長の小野義眞(おのぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり3名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられた。)
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ここから一旦静嘉堂文庫美術館まで戻り、文庫と美術館の間から裏門に出て、岡本民家園に向かった。
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岡本民家園入り口
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レイアウト
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旧長崎家住宅 江戸時代後期
長崎家は村の民政を行っていた村方三役の一つ、百姓代を勤めていた家。
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土間
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室内(食い違い四つ間取り)
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かまど
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屋根は合掌造り
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茅葺
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周囲には農作具が置かれている。
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庭にはいろいろな植物が植えられていた。

ミツマタだが、こんなに色のついた花のミツマタは初めて見た。
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貝母(バイモ)
アミガサユリ(編笠百合)ユリ科バイモ属の半蔓性多年草。原産地は中国で、観賞用として栽培される事が多い。
乾燥させた鱗茎は貝母と呼ばれる生薬として日本薬局方に収載されており、粉末が去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに用いられる。貝母は、清肺湯、滋陰至宝湯などの漢方処方に用いられる。
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花桃
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丸子川(次太夫堀)沿いに、二子玉川に出るバス停まで少し歩いた。
次太夫堀:稲毛・川崎(現川崎市)の代官であった小泉次太夫の指揮により、慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開発された農業用水。
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(了)


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桜がほころび、スタバが開店/ウォーキングにて

20210324

今月初めに、入間川河原にスタバが開店した。
ウォーキングのついでに寄ろうと、10時から11時ウォーキングしてからスタバに寄った。

スタバに近い駐車場は満杯だったので、引き返し昭代橋下の駐車場に車を置き、そこから新富士見橋の辺まで歩くことにした。

昭代橋下の児童公園の、比較的若いソメイヨシノは大分開花していた。
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新冨士見橋下流側に花畑が出来ていて、いろいろな花が咲いている。
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芝桜
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スノードロップ
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新冨士見橋のちょっと上流に河津桜が一本だけあり、満開だった。
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ここで折り返して、昭代橋のほうに戻る。

新冨士見橋のたもと、サイクリングロードより高い土手の上に真っ白な花が満開だったので、上がっていった。
冬桜の一種ではないかと思う。
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さっきの花畑のところから、上の土手の桜並木に上がっていった。
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ここも遊歩道がきれいに整備されている。
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保育園児たちが大はしゃぎ。
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「寝ころびベンチ」というのが、大モテのようである。
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比較的咲いているところを選んで撮った。
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ちょっと汗ばむほど、気持ちよく歩いて、いよいよスタバで休憩。

「にこにこテラス」という公園型のスタバである。
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天気が良くて人出も多かったので、並んだが、まあまあ我慢できる時間に入れた。
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スタバでは決まってしまっている、トールラテホットを頼んだが、一緒に頼んだ「さくらシフォンケーキ」がめちゃくちゃ美味しかった(嬉)

(了)


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里見八犬伝を読み込む/第二集・巻一・第十一回

20210323

第十一回 仙翁夢に富山に栞(しおり)す 貞行暗に霊書を献る

時:室町時代 長禄2年(1458)
登場人物: 里見義実、五十子、義成、堀内貞行、洲崎の役行者の化身
舞台:P03滝田城、P07富山(とみさん)
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【要略】
・義実の奥方五十子は病に伏してしまった。姫に会って死にたいと口説く。
・義実が眠れぬうち、まどろんだとき、いつか富山(とみさん)の山奥にいて、翁が登場、自分が枝を折って路標をこしらえたから、登ることができるだろうと告げる。
・東条の城の城番堀内貞行がお召しに応じて参上とやってきた・
・それは、老人の雑色が使者だといって、告げたという。義実は洲崎の役行者の化身であろうと思う。
・義実は貞行を連れて、富山に入り込む。果たして栞のおかげで、無事に入っていく。

【ものがたりのあらまし】
 義実の奥方五十子は富山に登った伏姫の安否を気づかうあまり、とうとう病の床に臥してしまった。病状はだんだん悪くなる一方で、姫を祈って神仏に合わせる手の指も糸のようにやせほそり、箸をとるのも今は重たくものうげであった。義美は心配してときどき病床を見舞った。
「今日は気分はどうか」
五十子は、いまとなっては、姫に一目でも会うことが、いや、その安否を知るだけでも、千金の名薬だと、訴えるのであった。すると義実は、自分だとて木石ではない(注1)から、近く消息をさぐって、知らせるであろうと約束した。
嫡男の安房二郎義成も母の見舞に来て、私が姉君をたずねて富山に入りましょうと言うが、義実は許さなかった。
 義実は倅の去った後、臥房(ねどこ)に入ったものの眠れなかった。重い悩むうちとろとろとまどろんだ。自分はいつか富山の山奥の渓流のほとりに立っていた。するとそこへ八十あまりの翁が、背後から声をかけて、この山の案内をしてくれた。
この川は渡ることができないから右手の樵夫路(きこりみち)を行きなさい。去年からこの山に登ることを禁じられたので、いばらが茂ってとてもわかりにくいが、自分が枝を折って路標(みちしるべ)をこしらえておいたから、登ることができるだろうと言った。
いったいそなたは誰かと義実が問い返そうとしたとき、忽然として夢はさめた。
「なんだ夢だったのか、夢ではしかたがない」
 義実は心に考え考え寝たので、こんな夢を見たのであろうと深くも気にとめなかった。ひと息ついているところへ近習の者が、東条から城番堀内蔵人が参上しましたと言った。
「はて、わしは貞行を招いたことはない。取次ぎの聞き違いであろう。」
義実は貞行との再会を喜んだ。
「おお蔵人、今日の見参は五十子の病あつしと聞いてみずから臨時に出て参ったのか」
「いえ、一城を守りますからは君命なくして出ては参りませぬ。火急のお召しということで、取るものもとりあえず、参着した次第でございます」
「何を申すか貞行。わしから召したと言うなら、そのいきさつを説明してくれ」
「はい、しからば逐一申し述べましょう」 
 貞行は居住まいを正してから言った。昨日のこと、年老いた一人の雑色(下敵役人)が御使者の由にて見えたので、私が会見いたしたところ見知らぬ者であったが、かくべつ疑わしくなく、滝田の殿が富山におもむくゆえ、供せよとの内命をつたえに参ったと、うやうやしく申し立てた。私はこれを信じてすぐに馬を走らせて参上しました。今開けば殿には使者を派せずとの仰せ。
しからば昨日の雑色はいったい何者かと、顔色を変えて言った。
「や、そうか」
 義実はしばらくじっと考えていたが、突然何か思いついたかちょうと膝を打った。昨夜のわが夢と思い合わせて、これは洲崎の役行者の化身が助けを与えてくれるのかもしれぬ。事がこうまで符合したからは、ぜひとも富山にわけ入って伏姫の安否を探ることにしよう。
使者の翁の言葉どおり、わしみずから登山することとし、貞行はこのまま供せよ。供はたかだか十四、五人、それも口の堅き者を選ぶことにしようと、義実は云った。
 さて旅行は、遊山かたがた大山寺詣(注2)という触れこみとした。ただ嫡男義成だけには、真実のことを語って聞かせたので、自分が探りに登りたいと考えていた義成も、留守番に残ることを承知した。
「権者(注3)のお示しが父上を選んだとすれば、やむをえませぬ。城を守りましょう」
「母五十子をたのむ。病人の生あるうちに、吉左右(注4)を持ち帰りたいと思うが、どうなることか」
 義実は夜明けを待って出発した、日のあるうちに早くも富山に登ることができた。
とかくして山川のほとりに出た。巌石のかたち、木立のありさまは、夢に見たのとそっくりだった。茨をわけて登ると、右手に見おぼえの道があるので驚いた。
これより先は義実と貞行の二人だけで登った。
ところどころに栞らしきものが落としてあったので、今は神助を疑わず勇み立って、やがてかの恐ろしい川上をめぐり、木の下闇を抜けて川の向こう岸に出ることができた。

【注釈】
(1)木石にあらず:
[由来] 紀元前二~一世紀、前漢王朝の時代の中国の歴史家、司馬遷の「任少卿に報ずる書」という文章の一節から。正しいと思ってしたことが原因で皇帝の怒りに遭い、死刑の判決を受けたときのことを、「身は木石に非ざるに(私の体は木や石ではないのに)」、獄吏に引っ立てられて獄中に閉じ込められてしまい、助けようとしてくれる人などだれもいなかった、と回想している。
※徒然草四一「人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず」
(2)大山寺詣:「雨降山 大山寺」 神奈川県伊勢原市大山724
 天平勝宝7年(755年)、奈良東大寺の別当良弁僧正が開基し、聖武天皇の勅願寺となった古刹。現在は真言宗大覚寺派に属し、京都大覚寺の別院となっている。
「大山参り」で賑わった江戸期は神仏習合の時代で、大山寺は現在の阿夫利神社下社のある地点にありましたが、明治期の神仏分離政策により、現在の位置に移っている。
(3)権者(ごんじゃ):仏語。 仏菩薩が衆生を救うために、仮に姿を現わしたもの。
(4)吉左右(きっそう):「左右」は知らせ、便りの意。①よい知らせ。吉報。②善悪や成否いずれかの知らせ。


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渋沢栄一記念館、生家(中の家)、誠之堂(せいしどう)、清風亭

20210322

16日に訪ねてきました。
私は、歴史クラブの企画で2019年10月に渋沢栄一記念館と生家(中の家)は訪問しているのですが、カミさんが大河ドラマ「青天を衝け」を熱心に見ているので、案内しようかということになり、緊急事態宣言が終わるのを見越して16日に予約しました。ところが2週間延長になってしまい、駄目だろうなと思いながら電話で問い合わせると、既に予約をいただいているものはOKですという返事だったので、喜んで訪問しました。

【渋沢栄一記念館】
所在地:埼玉県深谷市下手計1204

記念館は、巨人・渋沢栄一にふさわしい堂々たる建物。
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入り口ロビー
奥が資料室。
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資料室は撮影禁止なので紹介できる写真は無いが、巨人・渋沢栄一を知るうえで貴重な資料がたくさんあった。
渋沢栄一の年表
高崎城を襲い、横浜の異人館を襲撃しようという血書。
日本で最初に設立した銀行「第一国立銀行」の威容。
国際交流の証しの青い目の人形
『論語とそろばん』
栄一を育てた従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の事蹟
などなど

記念館の裏に、渋沢栄一の大きな銅像が立つ。
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予約した時間より早めに二階に行き、アンドロイド渋沢栄一の講演を聞いた。
演題は「道徳経済合一説」
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AIを使用して、渋沢栄一の生前の声を模している。
司会者との簡単な問答はやってのけていた。
私たち一般観衆と質疑応答をしてくれたら、面白かったのだが。


【平渋沢栄一生家】
埼玉県深谷市血洗島247-1

堂々たる門構え。
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この建物は、明治28年(1895)に建てられたもの。
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ここに入れたとはいえ、緊急事態宣言下であり、ガイドはしてもらえないし、展示資料が置いてある玄関土間にも入れなかったので、以前来た時の記事を参照していただきたい。
栄一が育った家の写真とか、地名「血洗島」の説明、栄一が飛び出した後の家を守った妹「てい」、その長男で現在の電源の100V、200Vを決めた人物などを載せてあります。

その記事を見る


栄一が帰郷したときのために用意されていた部屋にもアンドロイドが座っていた(笑)
床柱は、銘木「鉄刀木(たがやさん)」。
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以前来た時には無かった石碑が増えていた。
下の写真の左隅にあたるが、以前は谷中墓地の渋沢栄一墓所に置かれていた三基の石碑がここに移されたそうである。
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渋沢平九郎の追懐碑
尾高惇忠の末弟にして、渋沢栄一の義子
振武軍に加わり、飯能戦争で敗れた後、越生で自刃。
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渋沢栄一の父、渋沢市郎左衛門の招魂碑
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渋沢栄一の母、「えい」の招魂碑
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この日のお昼は、深谷名物「煮ぼうとう」を食する予定だったが、すぐ近くにそのお店があったので、そこで食べた。
とても美味しかった。
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そのお店に、渋沢翁米寿記念の書が掲げられてあった。
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美味しいものを食べて満ち足りた気分で、車で7分くらいの場所にある「誠之堂・清風亭」を訪ねた。

【誠之堂】 国指定重要文化財
埼玉県深谷市起会110
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渋沢栄一の喜寿を記念して、第一銀行行員用たちの出資で建てられた。
栄一は喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任したが、誠之堂の建設には栄一が同行の行員たちから深く敬愛されていたことがうかがわれる。
第一銀行行員用の運動施設である東京世田谷の清和園内に建てられ、1916年(大正5年)に竣工した。渋沢本人により、儒教の『中庸』の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)に因んで命名された。1999年(平成11年)に渋沢栄一生家のある深谷市に保存のため移築され、2003年(平成15年)5月30日には国の重要文化財に指定された。田辺淳吉の代表作。
煉瓦は、深谷市上敷免に所在した日本煉瓦製造株式会社で焼かれたもの。

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壁面に「喜寿」の文字が煉瓦で表現されている。
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栄一の出した条件「西洋風の田舎屋」らしく、バルコニーがある。
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玄関を入ったところの天井。狭いところだが開放的。
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龍と鳳凰をあしらったステンドグラス。
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次の間の天井は、日本的な網代。
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大広間
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渋沢栄一胸像レリーフと額
額には誠之堂の経緯を記してある。
「大正五年丙辰 青淵先生喜寿に躋(のぼ)る 第一銀行諸君胥議(しょぎ)して、一堂を清和園に新築す。 これを祝い、先生に請いて命名して曰く「誠之」と。 又、此の像を刻し、敬愛の至情を表すと云う。」
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ステンドグラス
図案は、守谷延雄による。
中国風で、漢代の貴人と侍者、それを饗応する歌舞奏者と厨房の人物たちの像。
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【清風亭】 埼玉県指定有形文化財
埼玉県深谷市起会110
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清風亭は、近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一に見込まれた第一銀行頭取、佐々木勇之助の70歳の古希記念して、大正15年に現在の東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設、清和園内に建築された建物です。その10年前の大正5年に渋沢栄一の喜寿を記念して建築された誠之堂と並べて建築された。
佐々木は、勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、終始栄一を補佐した。栄一の精力的な活躍も佐々木の手腕と人格によるところが大きかった。
設計者である西村好時氏によって、当時流行していたスペイン風の様式が用いられています。

外壁は、白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセンチをつけている。屋根はスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓、円柱装飾などスペイン風の様式が素晴らしい。
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室内
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完成の記念写真
最前列中央に渋沢栄一が座っている。
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会食の写真
テーブルの幅が狭いのに驚いた。
親しく会食したいという、渋沢栄一か佐々木勇之助の意向だろう。
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このテーブルがそうではあるまいか。
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暖炉風装飾
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ステングラス装飾の出窓
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出窓を通して、誠之堂を見る。
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外から見える中のランプ。
背後の木も映り込んでいる。
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これで予定したところをすべて見終り、近くの道の駅「おかべ」で、深谷ネギやこの地の特産物を買い込み、帰途についた。



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大宮能売神(おおみやのめのかみ)/日本の神々の話

20210319

別称:大宮売神、大宮廼売命、大宮姫命、大宮女神、大宮津姫神

『古事記』、『日本書紀』には登場しないが、『古語拾遺』によると、太玉命の御子神。

『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀った八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。
『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。

大宮売神とは、心が和楽していっさいの憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を平らかにする神。 同時に、宮殿の守護をなし、君臣の和合をもたらす神とのこと。

忌部氏伝来の大殿祭祝詞の最終段において登場する神で、天皇と同じ御殿の中に塞り坐して、 この殿に出入りする人を選び、神たちが荒ぶるのを言葉で直し、 天皇の朝御膳・夕御膳に仕える者たちの手足の間違いをさせないで、 さらに親王以下百官が、邪意悪意なく宮仕えをし、咎や過ちがあれば見直し聞き直し、 安らかに親王以下を仕えさせる役割をもつ。

稲荷大神三座の一座として祀られることが多く、 さらに、同じく稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 大宮売神を、猿田彦命の妻で天の岩戸神話に登場する天宇受売命の別名という説がある。

大宮能売神は、京都の伏見稲荷大社に主祭神宇迦之御魂神に付き従うようにして祀られている。
もともとは宇迦之御魂神(稲荷神)を祀る巫女だったが、のちに神格化されて大宮能売神と呼ばれる神になり、市の守り神として信仰されるようになったと考えられている。
穀物神(稲荷神)に仕える巫女から発展したこの女神は、宮廷祭祀と深く関係しており、宮廷の中に祭られている八神殿に食物神の御食津神(ミケツノカミ)と並んで祀られていた。
その役割は、天皇が神に供える神饌を扱う。
その大宮能売神が、さらに市神として広く信仰されるようになったのは、食物を中心に扱う市で守護神として祀られたことによるもの。
稲荷神は、商業の発達とともに商売繁盛の神として広く信仰を集めるようになった。
それに伴い、大宮能売神は市場の産業に繁栄をもたらす市神であるともなった。

また、アメノウズメは、日本神話に登場する女神だが、一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)、「大宮能売命 」(オホミヤノメノミコト)とも言われている。

私がこの神に参拝したのは、「長野県岩村田・鼻顔稲荷神社」、「日本橋・松嶋神社」、「埼玉県加須市・宮目神社」、「埼玉県神川町・阿保神社」、「埼玉県狭山市・廣瀬神社境内社・杉森稲荷社」。



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寒緋桜、雪柳、水仙、桜桃、辛夷、諸葛菜、青木、桜/ウォーキングにて

20210318

智光山公園を10:30~11:30散歩した。
駐車場から歩きだしたら、ひょうたん池にいつも水面に浮いている鴨が、集団で上陸して食事していた。
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【寒緋桜】
ひょうたん池の横に一本だけあるのが咲いている。
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【雪柳】
バラ科シモツケ属の落葉低木。別名にコゴメバナ、コゴメヤナギなど。
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【水仙】
スイセン属(スイセンぞく、学名: Narcissus)は、ヒガンバナ科の属の一つ。この属にはニホンズイセンやラッパスイセンなど色や形の異なる種や品種が多くあるが、この属に含まれる植物を総称してスイセンと呼んでいる。
属名である Narcissus という学名は、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスに由来する。ギリシャ神話によれば、ニンフのエコーは愛する美少年ナルキッソス(Narcissos)に振り向いてもらうことができなかったので痩せ細り、声だけの存在になってしまう。エコーを哀れんだ女神ネメシスは、池に映った自らの姿に心酔しているナルキッソスをスイセンの花にしたという。
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緑化植物園の下の、パンジーの花壇もずいぶんと綺麗になった。
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【桜桃(おうとう)】
バラ科サクラ属サクラ亜属の果樹。実は「さくらんぼ」
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いつも途中休憩する菖蒲田も、芽が延びてきている。
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【辛夷】
こども動物園の前のコブシも最盛期であった。
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【ショカッサイ(諸葛菜)(オオアラセイトウ)】
アブラナ科。中国原産。花期は4~5月。
オオアラセイトウが正しい名前で牧野富太郎が名付け親。ショカッサイの名は中国名の「諸葛菜」をそのまま使って音読みしたものである。ムラサキハナナ(紫花菜)の別名もあり、「紫」は言うまでもなく花の色を表したもの。

木道の横に咲き始めていた。
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木道の横の小川で番の鴨が二組のんびりとしていた。
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【アオキ(青木)】
学名: Aucuba japonica)ガリア科またはアオキ科(Aucubaceae)
和名アオキの由来は、四季を通じて常緑で葉のほか、枝も常に緑色(青い)であるため名付けられた。別名で、アオキバ、ヤマタケとも呼ばれる。

木道の横にたくさん生えていて、鮮やかな赤い実をつけるので、なんとなく気になっていた。
右手の灌木である。
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2月24日に撮っておいたのが、こういう蕾だった。
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今日は、小さな紫の花が咲き始めていた。
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【桜】
テレビで見ていると、東京はずいぶん桜が咲きだしているようだが、ここ狭山市ではまだこんなものである。
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(了)


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里見八伝を読み込む/第一集・巻の五・第十回

20210315

第十回:禁を犯して孝徳一婦人を失う 腹を裂きて伏姫八犬士を走らす

時:室町時代 長禄2年(1458)
登場人物: 里見義実、五十子、伏姫、八房、金碗孝徳
舞台:P03滝田城、P07富山(とみさん)
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【要略】
・母の五十子は駆けつけてきて、姫に思いとどまるよう訴える。
・伏姫は、水晶の数珠の文字、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八字が変わってしまったと告げる。
・義実が確かめると、如是畜生発菩提心の八字に変わっていた。
・伏姫を乗せた八房は、富山(とみさん)の奥に分け入った。
・金碗孝徳は独りになり、滝田の城は敵兵に囲まれていて近づけず、東条の城でも同じだった。鎌倉の将軍成氏に援兵を懇請したが、義実の書簡をたずさえていないため、信用してもらえなかった。
・金碗孝徳が安房に帰ると、義実が勝ったことを知ったが、帰るに帰れず、故郷の上総国天羽の関村で待つことにしたが、伏姫と八房のことを聞いて、伏姫を助けようと富山の奥に入っていく。

【ものがたりのあらまし】
 このときになって母の五十子が駆けつけて来て、姫の足元に打ち伏し、泣きくずれた。
伏姫は泣きながら言った。
「幼いころ、行者の翁から授かったこれこの水晶の数珠も、このほどから仁義礼智忠信孝悌の八字は消えて、文字がかわって現われております。八房が懸想するやとふと気づいたころからのことにて、なんとしてもふしぎな業報。このうえはどうか勘当なされても、娘のおもむくままにお許し下されまし」
義美が数珠を見て顔にあきらめの色が浮かんだ。
「五十子、これを見よ。前の文字は消えて代わりの文字が現われておる、ほれ、かすかに読める如是畜生発菩提心の八字、これを案ずるに菩提心(注1)は一切衆生(注2)、人畜ともにすべて同じことであろう。さすれば姫の業因も、いったん畜生に導かれたとて、菩提心にわけ入るならば後の世こそかえってやすらかに、真の福運をかちとるとも思われる。せめてもそれが父母の慰めでもあろうぞ」
 そしてつぶやくように言った。姫の婿がね(注3)は、あの孝吉の一子、金碗大輔を東条の城主にすえた後、姫を嫁がせるつもりであった。うらめしくも口惜しいと言いながら、ここは悟りが肝要と、五十子に言葉をつくして説き聞かせた。
「それでは御両親様、わらわはこれから」
 伏姫はそう父母に告げて、外出の支度にとりかかった。再び生きて帰らぬと思うから、姫は頭のかんざしを抜き取って家に残し、白小袖をかさねきて数珠を襟にかけた。料紙一具と法華経一部、ほかには何一つ持たなかった。すでに日がやや暮れかかって、早出の月の光が木の間を漏れて、薄く光っているのが、哀れにももの静かだった。伏姫は母に最後の別れを告げて、庭に面した出入口へと出て行った。
 八房は、それと知ったか縁側の下に来てうずくまり、姫の出てくるのを待ち設けるふうであった。伏姫は縁側に立って、きりりとした口調で言った。
「八房、おまえに申しておきます。一端の義によって伴われて行きますとも、人畜のけじめ、婚姻の分は守ります。これをわきまえず情欲にいずるならば、この懐剣でただ自害あるばかりです。もしまたわらわの言に従い、恋慕の欲を断つときは、おまえは犬ながら菩提の嚮導人(みちびきびと)(注4)となります。これを誓うならば、わらわはおまえに伴われていずこへなりと参ります。八房よいか、ききわけておくれ」
 この言葉を言いおわった時、犬は頭を上げて姫の顔を仰ぎ、しずかに一声長ぼえした。その形相は誓っていた。そこで伏姫はうなずきながら懐剣をおさめ、縁側から裳をからげて降り、履物をはいた。
「さあ、参りましょう」
 姫が促すと、八房は喜ばしげにやおら先に立って歩き出した。母君、侍女たちはそれを見送ってなおも泣きぬれたが、義実は言葉もなくかすんだ涙の目でじっと見おくつていた。八房は城を出はなれるとそこから姫を背に乗せて、あたかも飛ぶように速く走って、木立の暗く霧ふかい富山の奥へとだんだん分け行った。
 ここに話は変わって、金碗大輔孝徳の消息であった。大輔は安西の城へ使者となって行き、城主景連に出し抜かれたのを知って滝田へ逃げ帰ろうとすると、追ってきた蕪戸納平の勢と乱戦となって全員は戦死、自分一人が助かって帰って来てみると、滝田の城も東条の城へも入ることはかなわなかった。
使者の用件を果たさなかったうえに、両城には帰ることができず、大輔はとつおいつ(注5)思案にふけつた。そして鎌倉へかけつけて将軍成氏へ急を告げ、援兵を請うて敵をうち払おうと考えついた。
 そこで大輔はただちに白浜から便船して、日ならず管領の御所へ参着して成氏に援兵を懇請したが、義美からの書翰をたずさえていないため正当の使者として疑われ、ついにこのくわだては成功しなかった。大輔は失望落胆して安房へ帰って来てみると、思いきや景連はすでに滅び、一国は平定して義実の世となっていた。ああうれしいと大輔は思ったが、やはり帰るに帰られぬ気持だった。いっそ腹でも切ろうかと決意したものの、短気をおさえ、時節の到来するまで故郷である上総の国天羽の関村(6)で待つことにきめ、祖父一作の親戚にあたる百姓の家をたよってしばし身を寄せた。ところが風のたよりに伏姫の身にふりかかった災いを耳にして大いに驚いた。たとえ犬に怨霊がついて神通力があるとしても、武士として討てぬ法はあるまい。このうえは八房を殺して姫をお連れ申し、詫びをかなえていただこうと思案し、親戚には参詣の旅に出かけると言いのこして、ひとり富山の奥にわけ入った。山路をたずね暮らして五、六日たったころ、霧ふかい谷川の向こうに、ふと女の経を読む声がかすかに聞こえて来るのであった。

【注釈】
(1)菩提心:さとり(菩提,bodhi)を求める心(citta)のこと。または「生きとし生けるものすべての幸せのため、自分自身が仏陀の境地を目指す」という請願と、その実現にむけて行動する意図をいう。大乗仏教に特有の用語である。菩提心は阿耨多羅三藐三菩提心の略とされ、無上道心、無上道意、道心ともいう。
特に利他を強調した求道心のことを菩提心といい、大乗仏教では「さとりを求めて世の人を救おうとする心」という意味も菩提心に含める。
(2)一切衆生:この世に生きているすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間に対していうことが多い。
(3)婿がね:かねて婿にと考えていた人。
(4)嚮導:先に立って案内すること。
(5)とつおいつ:「取りつ置きつ」の音変化。手に取ったり下に置いたりの意》考えが定まらず、あれこれと思い迷うさま。
(6)関村(せきむら):千葉県天羽郡(のちに君津郡)にかって存在した村である。現在の富津市の南部に位置している。



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一面六臂青面金剛庚申塔/埼玉県川口市

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所在地:埼玉県川口市里1577 法福寺境内
撮影日:2019年12月18日

法福寺は、埼玉高速鉄道線鳩ヶ谷駅から歩いて7分ほどのところにあります。
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入り口から入ると、本堂までまっすぐ参道が延びている。
その参道の真ん中辺に、まず六地蔵があり、その右に7基の石仏が並んでいますが、一番右に今回の庚申塔があります。
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塔身は角柱と言っていいほど厚い舟形。
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銘文は、向かって左側面に「安永十辛丑年二月吉日 武州下足立郡戸田領里村講中」とある。
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塔身:舟形
主尊:一面六臂青面金剛立像
日月:浮き彫り瑞雲付き
主尊の特徴:円光背、髪火炎、頭頂に髑髏蛇、邪鬼を踏んで立つ。
本手:宝鐸とショケラ
他の手:法輪、弓、矢、三叉矛。
脇侍:邪鬼、三猿
造立年代:安永10年(1781)

日月は浮き彫り瑞雲付き。
日月が雲に半分隠れているという、しゃれた構図である。
中央に梵字で「カーン:不動明王」を刻んでいる。
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青面金剛は、邪鬼を踏んで立つ。
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髪は火炎状に逆立つ。頭頂に蛇がとぐろを巻いているが頭部は髑髏である。
耳が大きい。
眉を吊り上げ、口をへの字に結び、憤怒の表情。
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手は六本で、本手は宝鐸とショケラを持つ。
他の手は、法輪、弓、矢、三叉矛を持つ。
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宝鐸は、打ち鳴らすと澄んだ音が周りの邪気を払い清めると言われている。
ショケラは、おだやかな顔をして合掌している。着物を着ている。
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踏んづけられた邪鬼は、髪が長く四角い顔は達磨のような表情で行をしているかのよう。
身体は真四角に折り曲げて這いつくばっている。
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その下の台座に三猿が刻まれている。
三猿は、左右が横向き、右から「見ざる、聞かざる、言わざる」である。
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この庚申塔の特徴としては、頭頂に髑髏と蛇の両方がいること。
本手に宝鐸とショケラの組み合わせも珍しい。
踏まれている邪鬼の全身が真四角に折りたたまれているのも、ユーモラスであり、珍しい。
日月の意匠も、日月が雲に半分隠れているというもので、ずいぶんと洒落ている。



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伊予国一之宮・大山祇神社の狛犬①

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所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地大山祇神社鳥居前
参拝日:2020年3月24日

「青春18キップの旅2020」にて大山祇神社に参拝したときに撮影した狛犬です。

伊予国一之宮・大山祇神社については、既に記事があります。

その記事を見る


大山祇神社には6組の狛犬がいましたが、そのうちで今回が最初の狛犬です。
正門鳥居の前に居ます。
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年代:文政6年(1823)
材質:石造
型式:浪花型

右側が阿形。タテガミが巻き毛なので獅子。
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タテガミは短く先端が巻き毛となっているものと、その下にまっすぐ伸びる毛もあり。
ほおヒゲは巻き毛で囲んでおり、あごヒゲは八の字に伸びている。
大きな耳は伏せ、太い眉は巻き毛が一文字に並ぶ。
目はドングリマナコ。鼻はペシャンコで横に広がる。
唇のたわみはそれほど無い。
口を開き、歯をむき出している。牙は大きくて鋭い。
表情は笑っている。
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左は吽形、タテガミが巻き毛なので獅子。角はわかり難いがある。
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わかり難いが、短い角がある。
タテガミは短く先端が巻き毛となっているものと、その下にまっすぐ伸びる毛もあり。
ほおヒゲは巻き毛で囲んでおり、あごヒゲは八の字に伸びている。
小ぶりな耳を立て、太い眉は巻き毛が一文字に並ぶ。
目はドングリマナコ。鼻はペシャンコで横に広がる。
唇のたわみはそれほど無い。
口を閉じているが、歯をむき出している。牙は大きくて鋭い。
表情は睨んでいる感じ。
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短い前足をまっすぐに立て地面を踏みしめている。
胴は太い。
前足、後足の走り毛がちょこんとあるくらいで、体毛の表現はほとんど無い。
足の指や爪もはっきりしない。
丸っこい身体で威圧感はまったくない。
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阿形に、オスのシンボルがはっきりとある。
狛犬に、性別をつけたものが見受けられるが、それは子孫繁栄を願うものとされている。
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尾は背中に付いて、根元に大きな巻き毛が三つ。
そこから炎がまっすぐ上に伸びている。
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年代は文政6年(1823)。
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浪花型は小型で親しみやすいものが多いが、この狛犬は大きくで高い台座の上に乗っている。
場所が伊予国一之宮であり、村上海賊をはじめとする海の仕事に携わる者の信仰を集めていて、場所柄関西との結びつきが強いので、大きな浪花型になったのだろう。
大きいが、威圧感はまるでない。親しみやすい造形になっている。
顔は、浪花型のかわいい顔を基本にして、それを威嚇っぽくデフォルメした感じだ。
大山祇神社にある狛犬5組のうち、4組が性別を付けているのは、他には見られないこと。
海の仕事という危険な仕事に携わっているので、余計に子孫繁栄を願う気持ちが強いのだろう。



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里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の五・第九回

20210309

第九回 盟誓(ちかい)を破りて景連両城を囲む 戯言を信(うけ)て八房首級を献る

時:室町時代 長禄2年(1458)
登場人物: 里見義実、五十子、伏姫、二郎太郎義成、堀内貞行、杉倉氏元、八房、安西景連、蕪戸訥平
舞台:P03滝田城
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【要略】
・安西景連は大軍を率いて東条、滝田の両城におしよせた。里見勢は奮戦したものの、兵糧が乏しい為危地に陥る。義実は城に火をかけて自害を覚悟する。
・義実は、八房に恩返しに景連の首でも取って来いと戯言を言う。恩賞は、始め魚肉、領地はと言い、ついに婿として伏姫を嫁にと言ってしまう。
・八房はそれをじっと聞いていて、義実の顔をじっと見て、駆け出して行った。
・義実がその夜、家族と訣別の盃を交わして、一同が討って出ようとした時、八房が景連の首を咥えてくる。
・逆転して勝利した義実は鎌倉の成氏から安房の国守、治部少輔とされた。
・義実が八房に戯言でした約束を果たさないので、八房は伏姫のところに押しかける。怒る義実に伏姫は、義実を諫めて、約束通り八房に嫁ぐと言う。

八房、景連の首を参上
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八房、約束の実行を迫る
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【ものがたりのあらまし】
そこで奇襲の計画どおり安西景連は大軍をひきいて東条、滝田の両城におしよせた。滝田の本拠ではさらばとばかり、里見の勢が命をおしまず奮戦したものの、凶作で兵糧が乏しかったところだから、目に見えて将兵は弱ってしまい、義実も最後の決心をかためた。
「もう、これ以上多くの兵をこのまま見殺しにするに忍びない」
杉倉木曽介氏元などの主将たちを招きあつめ、今夜のうちに、西の城戸から落ちてくれと言った。
「して、わが君はいかになされる」
「わしか。わしは後に残って城に火をかけて自害する、城主としてあたりまえ、妻子も同じだ。しかし家族のうち二郎太郎だけは、皆といっしょに落とすとしよう。一同心得てくれよ」
「いやそうは参りませぬ。これまで碌をうけた御恩に対し筋が立ちませぬ。潔く城を枕に泉下(注1)へお供つかまつります」
 義実はいよいよ困じ果て、思案にくれて、庭へ出た。するとそこへ、ゆくりなくも(注2)愛犬八房が、主人と見て尾を振りつつ寄って来た。しかし八房も衰弱しきっていた。
義実はあわれと思い、右手をのばして頭をなでてやった。
「おお、おまえのことはすっかり忘れていた。八房、お城はひどいことになったぞ。しかし畜生には飢える理由も知らず尾を振って無心にこびておる。しかし犬は主の恩を忘れぬというが、もしおまえも十年の恩を知るならば、ひとつ何じゃな、寄せ手の陣へ忍びこんで敵将景連の首でも食い殺してこい。しからば犬ながら、人間にも増してその功第一である、のう、どうじゃ八房」
八房はひょいと義実の顔を見た。なんだか心得顔でもあった。義美はいっそう不憫になって、再び頭をなで、背をさすってやりながら言った。
「もしも功を立てたなら、魚肉をふるまってやるぞ。どうだ、ほほう、魚では恩賞不足か」
義実は苦笑いしながら、しばらく犬と問答した。それでは位をやろうか、おややはり不足か、領地はどうか、ふふん、気に入らぬと見えるな。それではわしの子になるか、人間のように婿として伏姫を嫁にしたなら、さしずめ戦功第一の報いということになるだろう。伏姫はわしと同様おまえを愛しておるから、似つかわしいぞ、ははは、いや愚痴というものか、と義実は過ぎた冗談にみずから苦笑いしたが、その時思わずはっとして八房を見た。
「おや八房」
 八房は、心得顔で尾を振り一声高く吠えると、さっと身をひるがえして、勇猛な姿でどこかへ駆け出して行った。
「はて」
 義美は思わず何か不安になった。これはとんだ冗談を言ってしまったものと、ふと後悔された。
 その夜義美は宵のうち、奥の間に夫人の五十子、息女伏姫、嫡男義成、それから老党の氏元などの面々を召して、いよいよ訣別の杯をさずけた。水を酒に代えて文字どおりの水酒盛り(注3)である。兵卒たちもこれにならって水をくみかわし、時刻はよしと義実父子は手ばやく鎧を取りあげると、五十子に伏姫、召使の老女たちがそばへ寄っててんでにそれを着せかけた。どこかの遠寺の鐘であろう嫋々(じょうじょう)と(注4)はるかに聞こえてきた。
 さて、用意をととのえ、一同がいざ討って出ようとした時だった。突然けたたましい犬の鳴き声が、どこか闇の中からつんざくように聞こえ、さっと空気を切るように、聞から姿を現わして縁側へはしり寄ったのは、夜目にもそれと知れる八房であった。八房は何か口にくわえていた。近づくと、その物を縁の端にとんと置いて、自分は踏石の上に前足をかけ、そのままの姿でこっちを仰いでいる。縁端に置いたものを見ると、人間の生首だった。
 義実が縁側へ出て、ひと目見るとさっと眉根を寄せた。
「木曽介」
「はっ」
「そちはなんと見るか、この生首。景連に似ておるとは思わぬか」
「えっ、まさかでございます」
「洗って見い。わしの目にはそう見える」
血潮を洗いおとして、主従は思わずあっと顔を見合わせた。
「ほう面妖な(注5)、これはまったく景連の首でございます」
「やっぱりさようであつたか」
 義美は快然とすると同時に、何か暗然ともした。
八房は主君の言葉を忘れずに約束を果たしたのであろうか。
「八房、でかしたぞ。わしの命令を聞き分けたとは殊勝な。さあ八房ここへ来たれ」
 義実がそう言って心からほめそやすと、氏元らも口々にその手柄を驚嘆し、畜生にして人にまさる勲功だと言い合った。その時、斥候の者がかけこんできて敵の陣地に何か異変が起きたらしい様子だと告げた。城中の将卒一同は空腹もわすれて思わず勇み立った。
「それ時をうつさず撃っていでよ」
「私どもがお引き受けいたします」
 小冠者(元服して問もない若者)義成と老党氏元とが、言うより早くすぐやせ馬にうちまたがり三百余騎を二手にわけ、義成は前門から氏元は後門から、城戸おしひらいてまっしぐらに寄せ手の陣中へ突き入った。
「敵の大将景連の首は、すでにわが手にあげたるぞ」
 互いにそうわめき立てた。みんな空腹をわすれ、日ごろの勇気に百倍して勢いあたるべからずであった。大将を失った敵軍は、またたくまに捻くずれとなり死者のほかは半ば逃げ、その大半は降参した。
ところへ注進があって、東条の城も包囲軍の敵将蕪戸訥平が土民に殺され、全軍が降服して来た由を報じてきたので、ここに里見義実は一瞬に逆転して勝利の大将となった。
 義実の威徳はその後、朝日の上るがごとく、一国四郡はまったく完全に平定した。このことが室町将軍に伝わったので、持氏の末子成氏朝臣は、復帰してちょうど鎌倉にいたので、書を送ってその功を称賛して義実を安房の国守とし、治部少輔に補した。
こうなると気がかりになるのは、金碗大輔の消息であった。八方へ人をやって調べさせたが、行方は杳として知ることができなかった。
 義実はまもなく戦功の勧賞をおこなった。そうなるとどう思っても、第一の功は犬の八房に間違いなかった。そこで朝夕に美食をあたえ、小屋も立派なものを建造し、犬係も人員を増して常に手落ちのないように待遇してやった。しかし八房はいっこうにこれを喜ぶふうがなかった。頭を伏せたまま、尾を垂れ、食もとらず、多く眠ろうともせず、義実が姿を現わすなら、八房は縁側へ前足をかけ尾をふって何かタンクンと鼻を鳴らした。
「おお八房、魚をとらす、さあこれを食べよ」
 義美は手ずから魚肉や餅などを与えたが、八房はそんなものは見向きもしなかった。犬係の者に、縁側から離すよう命じると、八房はそれをこばみ、暴れまわった。
 ある日のこと、伏姫は奥の間で枕の草子を読んでいた。ちょうどそこは、翁丸という犬が勅勘(注6)をこうむって捨てられ、またゆるされて帰ってくるていたらくを巧みに書いた部分だった。清少納言の才筆は流るるごとく美しかったので、伏姫は恍惚となり、うらやましくさえ思って、しきりとそこを読みふけっていた。すると、女どもの叫ぶ声がして、何か背後へ走ってくるものを感じた。
「おや、なんだろう」
と思うまもなく、部屋にたてかけてあった筑紫琴が、横ざまにからりと倒れ、裳(もすそ)の上にハタと重い物が伏した。とっさのことに伏姫は驚いてふりかえって見ると、それは八房であった。驚いて立ち上がろうとしたが、八房の前足が長い袂の中にさし入れてあるので、立ちあがることができなかった。見ると八房は、目をらんらんと輝かし何か哀訴するようでもあるが、その異常な様子に伏姫はとっさに病み狂ったのかと思った。
「あっ、あそこにまあ」
 そのとき侍女や女中、女の重などまでが混じって、しっしっと、追い出そうとしたが、八房はびくともしなかった。義実はその騒ぎを聞きつけ、続いて姫の部屋にはいってきたが、容易ならぬと見たか手槍を一本引っさげ、やおら前に進み出て言った。
「これ八房、よく聞け、いかに畜生でも飼われた主家の恩は知るであろう。さあそこのけ、ここから出て行け、このうえ仇をなすと承知せぬぞ」
 手槍の石衝(柄の金具)をさし延べて追い出そうとしたが八房は牙をむき、一声高くたけりほえた。
「おのれ、刃向こうつもりか。理も非も知らぬ畜生とはいえ、その剣幕(注7)はなにごとか。よし思い知らしてやる」
 そのとき、伏姫がばっと両袖をひろげて楯となって、義実の切っ先を急いでさえぎつた。
「お待ちください、父上様。出過ぎた申し分かは知りませぬが、もし軍に功ありて賞が行なわれねば、その国はついに滅びましょう、犬とても同じこと。なにとぞ、まげてお留まり下さいませ」
「いや姫、八房の功はすでに賞してあるつもりだ。むしろ過ぎたるとは思わぬか。いかに畜生とても、もはやわしは容赦ならぬ気持だ」
「いいえ、昔から綸言(りんげん)は汗のごとく(注8)、君子の一言は駟馬(よつのうま)も及びがたし(注9)と申します。お父上様には景連を滅ぼして士卒の飢えを救うため、八房にわらわを授けるとお語りなされたことは実証でございましょう。たとえ仮初のお戯れとはいえ、お約束をたがえるべきではありませぬ。」
「ああ、口は災いの門、思えばわが生涯のあやまちであった」
 義実は力なく槍を取り落として、思わず嵯嘆(注10)にくれた。
「姫、面目ない。姫を与えるなど心にもないのに、どうしてそのような世迷言を申したものか。だが思い当たる節がないでもない、過ぐる年、洲崎の石窟にそなたの息災を願かけたおり、道にて行きあった老人の予言がある、この幼児の多病は悪霊の祟りであり、また運命は名によって末を判ぜよと申した由。そういえば伏姫の伏は人にして犬に伴う形となる、盛夏生まれゆえ三伏の伏を取ったのであるが、ゆくりなくも今は不思議な予言となった。この祟る霊とは、おそらくは玉梓であろうか、ああ苦しいぞ、姫」
「父上様、どうかお嘆きくださいますな。たとえ八房と去りましても、身はけっして汚しませぬ。命にかけて決意がござりますれば」
 伏姫はそう言ってから、さすがに少し恥じらってうつむいてしまった。義実は姫の健気な決意を開くと、幾度もうなずいた。
「おおその一言、姫、よくぞ言うてくれた」
 そして八房にむかって、
「汝は去れ、今聞くとおり、伏姫は約束によって与えるゆえ、それでよいであろう、追っての沙汰あるまであちらへ行け」
と言い放った。八房は黙って義実の顔を仰いだが、その意味を解したか、まったく気の静まった様子で、そのまま身を起こしておとなしく室内から出て行った。

【注釈】
(1)泉下:古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを「黄泉」と呼んだ。黄は五行説で「土」を表象しているので、もともとは地下を指したもので、死後の世界という意味ではなかったが、後に死後の世界という意味が加わった。現代中国語でも死後の世界の意味で日常的に用いられている。
(2)ゆくりなく:意味は、思いがけなく。突然に。偶然に。予想もしないようなさまをいう形容詞。
「ゆくり」は、「縁」と書き、えん、ゆかり、きっかけのこと。「ゆくりなく」は、きっかけなしにと言う事になります。
(3)水酒盛り:
①水盃:「末期の水」から、その由来は、釈迦が入滅(亡くなる)のとき、のどが渇いたので水を欲しがりました。弟子に持ってくるように頼んだのですが、なかなかキレイな水が見つかりません。弟子が困っていると鬼神がやってきて、キレイな河から水を汲んできてくれたというエピソードに由来します。この出来事で釈迦は安らかに入滅できたとされているのです。あの世への旅たちにのどが渇いて苦しまないようにとの願いから、末期の水の風習が仏教で広がりました。
②一味神水:多人数で誓約を行う際に、各人が署名した起請文を神前で燃やし、その灰を盃に入れた「神水」に溶いて飲む「一味神水」がある。
(4)嫋々と:①なよなよと滑らかなさま。長くしなやかなさま。②音程が低くて、長く響くさま。
今回の場合は②であろう。

(5)面妖な:①[名・形動]不思議なこと。あやしいこと。また、そのさま。「面妖なこともあるものだ」②[副]どういうわけか。
「めいよ(名誉)」の変化した「めいよう」がさらに変化したもの。「面妖」は当て字
(6)勅勘:勅命による勘当、とがめ
(7)剣幕:意味は、いきり立った態度や顔つき、怒って興奮した様子。
語源は「見脈(けんみゃく)。見脈は脈を見て診断する意味から、外見から推察する意味や、脈の激しい状態を表すようになった。そこから、怒って興奮している様子を云うようになり、意味の変化に伴って「けんまく」の音になった。当て字で「剣幕」「権幕」「見幕」。
(8)綸言(りんげん)は汗のごとく:古来から、皇帝など国家の支配者の発言は神聖であり絶対無謬性を有するとされ、臣下が疑念や異議を差し挟むことは不敬とされた。このため、一旦皇帝から発せられた言葉は仮に誤りがあっても、それを訂正することは皇帝が自らの絶対無誤謬性を否定することになり、皇帝の権威を貶めてしまうためタブーとされた。このため、「綸言汗の如し」(皇帝の発言は、かいてしまった汗のように体に戻すことができない)という古典典籍の言葉を引用、格言として軽率な発言やその訂正を戒めた。
(9)君子の一言は駟馬(よつのうま)も及びがたし:いったん口から出た言葉は取り返しがつかないから、言葉は慎むべきだという戒め
(10)嵯嘆:なげくこと



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梅と和歌

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撮影場所:狭山市柏原入間川沿い
撮影日:2021年3月5日

いつもウォーキングをする入間川沿いサイクリングロードの、私立高校の土手に梅が植えられており、そこに書道部の生徒が書いた和歌が展示されている。
ちょうど梅が咲いているので、梅と一緒に和歌も撮影した。
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和歌の札の近くにある梅を撮影したなかから、気に入ったショットを挙げておきます。

①白雪の ともに我が身は 降りぬれど 心は消えぬ ものにぞありける
大江千里/古今和歌集 巻第十九 雑躰 1061番
意:白雪が降るように我が身も古くなってしまったが、雪が消えるようには心は消えないものなのだな
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②君がさす 三笠の山の もみぢ葉の色 神無月 時雨の雨の 染めるなりけり
紀貫之/古今和歌集 巻十九 雑躰 1010番
5・7・7・5・7・7による、この形式は旋頭歌と呼ばれるもの
意:あなたが差す笠のような三笠の山の紅葉の色、それは十月の、時雨の雨で染まったものです
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③天彦の おとづれじとぞ 今は思ふ 我か人かと 身をたどる世に
詞書:左近将監とけて侍りける時に、女のとぶらひにおこせたりける返事によみてつかはしける
小野春風/古今和歌集 巻十八 963番
せっかく便りをいただいたが、今は訪ねて行くまいと思います、解任されて役職もなく、自分が誰だかわからないような状態ですから
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④越なる人につかはしける  貫之
思ひやる 越の白山 知らねども ひと夜も夢に 超えぬ夜ぞなき
紀貫之/古今和歌集 巻十八 980番
意:あなたのいる越の国の白山の様子は知りませんが、いつも思いを馳せているので、ひと夜も夢にそれを越えない日はありません
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きれいに落花したのがありました。
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⑤君が思ひ 雪とつもらば たのまれず 春よりのちは あらじと思へば  
詞書:宗岳の大頼が越よりまうできたりける時に、雪の降りけるを見て、おのが思ひはこの雪のごとくなむつもれる、といひけるをりによめる
凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)/古今和歌集 巻十八 978番
意:あなたの思いがこの雪のように積もるというなら頼みにはできませんね、春を過ぎたら消えてなくなっているでしょうから
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⑥春の野の しげき草葉の 妻恋ひに 飛び立つきじの ほろろとぞ鳴く
平貞文/古今和歌集 巻十九 1033番
意:春の野の生い茂った草のように、しきりにあなたを求めて、飛び立つ雉のように、私は「ほろろ」と泣いています
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⑦つくばねの 木のもかのもに 立ちぞ寄る 春のみ山の かげを恋ひつつ
詞書:みこの宮のたちはきに侍りけるを、宮づかへつかうまつらずとてとけて侍りける時によめる
宮道潔興/古今和歌集 巻十八 966番
詞書の意味は 「皇太子の帯刀(たちはき)の舎人として仕えていたが、職務怠慢として解任されていた時に詠んだ」ということ。宮道潔興(みやじのきよき)は生没年不詳、898年内舎人、900年内膳典膳、907年越前権少掾。帯刀舎人は警護の役。
意:筑波の山の木の下ごとに立ち寄っていています、春の山の蔭を恋しく思いながら
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⑧梅の花 咲きてののちの 身なればや すきものとのみ 人の言ふらん
読人知らず/古今和歌集 巻十九 1066番
意:花の咲いた後の身だからか、私のことを「好き者」とばかり人が言う
「実」に 「身」を掛け、「酸き物」に 「好き者」を掛けており、梅干のイメージがあるのでわかりやすい駄洒落の歌である。 「咲きての後の身」という部
分に 「老い」のイメージが詠み込まれている。若い頃は 「恋多き女」などと言われるが、歳をとると 「色ボケ」などと言われるという感じか。
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⑨さきのおほいまうちぎみ
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
詞書:染殿のきさきのおまへに花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる
前太政大臣/古今和歌集 巻一 52番
「染殿のきさき」とは文徳天皇の中宮で清和天皇の母である藤原明子。「前太政大臣」とは明子の父の藤原良房。
意:年月が経ってこの自分は年老いたが、この花を見ればつらく思うようなこともない
おだやかな感じのする歌だが、この歌を藤原良房という名前と共に見てみるとまた印象が変わってくる。良房は、842年の承和の変で時の皇太子である恒貞親王を排して、明子の夫である道康親王(文徳天皇)を立てて天皇とし、第四皇子であった明子の子である惟仁親王(清和天皇)を生後八ヶ月で皇太子にした(850年十一月)。 857年に自身は太政大臣となり、その翌年清和天皇は九歳で即位。応天門の変(866年三月)の五ヵ月後、良房は摂政の詔を受ける。
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(了)


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御詞の梅(おことばのうめ)/狭山市広福寺

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所在地:埼玉県狭山市大字下奥富844
撮影日:2021年3月4日

この寺は、龍宮づくりの山門が見事であり、幕末には、水戸藩士から広福寺の住職になった章意和尚に関係して、一時清河八郎を匿ったことでも知られている。
境内に「御詞の梅」というのがあり、3代将軍家光が当地で鷹狩りを行った際に当寺に立寄り、当寺の井戸水で点(た)てたお茶を飲んだとき、この紅梅のあまりの美しさに感嘆の声をあげられ、「この梅おろそかに致すべからず」との言葉から「御詞の梅」と称するようになったといわれています。

この梅の開花期が遅いので、つい見逃してしまうことが多い((苦笑))

昨日たまたま通りかかったので、そろそろかなと思い覗いたら、もう満開近かったので今日カメラを手に出かけた。

龍宮門
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「御詞の梅」
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阿保(あぼ)神社(延喜式内論社)/埼玉県児玉郡神川町

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所在地:埼玉県児玉郡神川町大字元阿保字上六所1
主祭神:大己貴命、素盞嗚尊、伊弉冉尊、瓊瓊杵尊、大宮女大神、布留大神

この日は、神川町にある武蔵国式内論社4社と出雲系神社2社の、計6社を訪ねた。

武蔵国の延喜式内社44坐のうち「賀美郡・四坐」は長幡部神社、今城青八坂稲實神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社である。
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ところが、神流川(かんながわ)、烏川(からすがわ)、利根川の度重なる氾濫による流失と、戦国時代織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となり、兵火により社殿や古文書が焼失した。
そのため、上記4座の式内社に比定される神社が、上里町に6社、神川町に3社となっている。
既に上里町の6社は済んで、この日神川町の3社に巡拝することにして、熊野神社、今城青坂稲實池上神社に次いで当社に参拝。

全景
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社号標には「神饌幣帛料供進 指定村社阿保神社」とあり。
社格等:武蔵国賀美郡式内社「今城青八坂稲實神社」の論社、旧村社
式内社「今城青坂稲実荒御魂神社」を合祀。
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入り口から少し入ったところに、朱塗り両部鳥居があり。
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拝殿前の由緒書き
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延暦3年(784年)、伊賀国阿保村の阿保朝臣人上が「今城青坂稲実神社」を創祀した。
村名「阿保村」は本国と同名の村から、社号「今城」は一城を築いたこと、社号「青坂」は阿保と音の近かった「青」が起源とされている。
なお、阿保朝臣人上は、延暦5年(786年)8月8日には「武蔵守」(武蔵国国司)[2]、延暦9年(790年)2月6日には「大学頭」(現在の大学の学長)となっていた。
治承4年(1180年)、阿保二郎実光が社殿を造営した。
天正5年(1577年)、阿保村から関口村が分村した。
関口村は、「六所明神社」(当社)の奥に鎮座していた「丹生社」を阿保村から関口村に遷座させて関口村の鎮守(現在の「今城青坂稲実池上神社」)とした。
文政元年(1818年)、村民が荒廃していた当社を再建した。江戸時代には社号を「六所明神社」としていた。 明治43年(1910年)5月3日、式内社「今城青坂稲実荒御魂神社」の論社とされている字稲荷宿の稲荷神社を合祀して、社号を現在の「阿保神社」に改称した。
大正5年(1926年)12月23日、神饌幣帛料供進社に指定された。

鎌倉時代初期の治承4年(1180年)、有力御家人だった阿保二郎実光(安保次郎実光)が崇敬し、社殿が造営されたという。
当地は丹党安保氏の本貫地とされる。地内の字上宿には、安保氏館跡と伝える地があり、範囲は掘に囲まれた300メートル四方と考えられている。
館跡のすぐ北西に当社が鎮座し、さらに館跡南西側には安保泰規が室町時代初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

手水舎
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もう少し進んで狛犬がおり、社殿となる。
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平成元年(1989)に奉納された、新しい狛犬。
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瓦葺切り妻造り拝殿に、千鳥破風の向拝部を設けている。
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拝殿内部に、社額あり。
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社額の隣に七福神の額が奉納されている。
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拝殿から石の間を介して本殿の覆屋がある。
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覆屋の窓から、本殿が覗けた。
流れ造り本殿の浜床にも立派な彫刻が施されている。
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側面、背面の彫刻をなんとか撮った。
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続いて境内社だが、資料によればこれだけの境内社がある。
古峰社、天満宮、蚕影大神、神明宮、菅原神社、稲荷大神、白山社、八坂社、十二天社、産八幡神社、愛宕神社、春日神社、熊野神社

社殿後方の向かって右側に10社あり。
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社殿後方の向かって左側に3社あり。
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さらに最近祀られたとみられる、今城青坂稲實池上神社もあった。
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入り口のところに、巨大なご神木があった。
実に見事。
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これで延喜式内社「賀美郡・四坐」の論社である、上里町6社と神川町3社のすべてに参拝を終えた。
続いて、出雲系神社である廣野大神社と出雲神社に向かった。



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百太夫神/日本の神々の話

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記紀には登場せず、民族信仰の神である。

私は、谷川健一氏編集の『民衆史の遺産 第六巻巫女』のなかで、傀儡師(傀儡子)が信仰する神として知った。
調べてみると、福男で有名な西宮神社の末社百太夫神社に祀られている。末社といっても本殿の左奥深くに鎮座しているとのことで、西宮神社では大切に扱われている神である。

『日本の神様読み解き辞典』によると、百太夫神といのは朝鮮の「万神」で、八百万の神を司祭していた覡(げき 男巫子)のことであり、八幡信仰に習合して日本に渡来し、変形したものであるという。
なぜ傀儡師の信仰するものとなったかは定かではないが、おそらく操り人形が朝鮮から入ってきたものであることと結びついているらしい。

傀儡子というのは、平安中期からさかんに史上に散見する特殊な放浪の芸能集団をいう。様々な呪術を使い人形を使うことや、傀儡女が「妖媚」をうること、「今様・古川柳・足柄」などの諸雑芸に堪能であった。
放浪遊行の賤民であったが、その演ずるところの諸芸能は中央貴族の寵愛すること異常なくらいで摂政関白藤原道長をはじめとして、また後白河院の『梁塵秘抄』にもしばしば登場する。
なんだか、ヨーロッパのジプシーをほうふつとさせる印象である。

中世芸能集団というのは、様々なかたちが見える。歩き巫女、白拍子、御前、厳島の内侍、瞽女、口寄せではイタコ、「オシラガミ」巫女、傀儡師(傀儡子)、傀儡女など。
長野県小県郡の「禰津の巫女」は、戦国時代真田氏の忍びを勤めたという話だが、明治時代まで「口寄せの巫女」として活発に活動していた。

やがて操り人形を扱う傀儡師のような集団がなくなると、その信仰も形を変え、疱瘡神、子供の疫病除けの神として信仰されるようになったようだ。
また、吉原にも新町にも島原にも祀られていて、長きにわたって遊女の篤い信仰の対象となってきた。
そしてまた、道祖神の一つともいわれている。



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2月に食べたブラックサンダーチョコ

20210301

ひょんなことで、このチョコの存在を知った。
ご当地ものも数多いのも相まって、ものすごく種類が多いのだそうだ。

そう聞くと、私の収集癖に火がついてしまうのだ(苦笑)
カミさんや娘からの義理チョコがあるのにもかかわらず、コンビニに行ったついでにで探してみた。

2021.2.11購入
・ブラックサンダー/驚きのチョコ感200%/おいしさイナヅマ級!
内容量 55g 包装 150×100 ひとくちサイズ
210301black01.jpg


2021.2.24購入
1)ブラックサンダー/史上最も高級なミルクチョコレートを使用しました/フランス産ミルク使用
 内容量 55g 包装 100×150 ひとくちサイズ
210301black02.jpg


2)ブラックサンダー/至福のバター/発酵バターにおぼれたい
 内容量 22g 包装 115×53 棒一本
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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