天地明察/その三・保科正之/冲方丁

20120916

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「天地明察」については、既に二回記事にしています。
その一・「算額」
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-406.html

その二・算術絵馬
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-634.html

最近、映画の公開にあたって、またこの本の事が色々なところで取り上げられていて、私もまた読み返したところです。

私は、この本によって「保科正之」という偉大な存在を知った。実に安井算哲の偉業は、保科正之の命によって推進されたものであった。

保科正之とは
三代将軍家光の異母弟にして、将軍や幕閣から絶大な信頼を得ている、会津肥後守。
徳川秀忠のまぎれもない「御落胤」だが、実父秀忠との面会はついに叶わなかった。
しかし、三代将軍家光は、この異母弟に絶大の信頼を寄せて事実上の副将軍として扱った。
のみならず、四代将軍家綱の養育を正之にまかせ、その後見人に据えて幕政建議に努めさせている。
さらに臨終の際、家光は正之を病床に呼び、「徳川宗家を頼みおく」と言い残したという。
まさに徳川幕府の陰の総裁だった。

保科正之は、徳川家から親藩の証しとして「松平」を名乗ることを許されたにもかかわらず、自分を育ててくれた保科家を敬い、保科姓を決して捨てなかった。

保科正之は、将軍とは、武家とは、武士とは何であるか、という問いに「民の生活の安定確保をはかる存在」と答えを定めている。

・江戸の生活用水の確保として計画された玉川上水の開削も保科正之の建議。
・明暦の大火の際
 ・火災に襲われた米蔵を「米の持ち出し自由」として、延焼を防いだ
 ・江戸の食量不足への対応から参勤していた諸藩を国元に帰らせた
 ・江戸の治安維持のため軍勢を置くことは、食量不足を加速させるだけとして反対
 ・火災後の江戸城天守閣の再建は、既に戦国時代ではないとして見送った。
そして天守閣が再建されることはなかった。
・会津藩では「社倉」を成功させ、飢饉の年にも他藩に米を貸すほどになり、
「会津に飢人なし」と評された。
・「殉死追い腹の禁止」、「大名人質の廃止」、「末期養子の禁止の緩和」はいずれも保科正之の建議。


安井算哲に対する吟味
保科正之が改暦の事業を託すに当たり、その人となりを慎重に吟味している。

まずは、老中、酒井雅楽頭忠清。
「お主、お勤めで打つ御城碁は、好みか?」
「嫌いではありません」
「しかし、退屈です」
秘めていたはずの想いが、よりにもよって老中の前で口をついて出た。


北極出地
北極星を仰ぎ見る角度から、その地の緯度がわかるが、それを日本全土で測量する「北極出地」の事業に老中、酒井雅楽頭忠清の命で安井算哲は参加する。
算哲の役目は、隊長・建部昌明と副長・伊藤重孝の補佐である。
これには、各藩とも幕府の隠密行動と捉え、抵抗が激しかったが、特に加賀藩は強硬だった。
結局、「天測不能」とならなかったのは、弱冠19歳の藩主・前田綱紀が「天測」に興味を示し、城中で観測の実態を詳しく説明したことによる。
その際、藩主・前田綱紀が算哲に「肥後守様から、そなたの名前を聞いている」と言われ、算哲はビックリする。
藩主・前田綱紀は、保科正之の娘を娶っていたのだ。
藩主・前田綱紀は、その若さで藩の改革に乗り出し、徹底した新田開発、貧民救済、学問普及によって、のちに「加賀に貧者なし」と評されることになる。
後日、安井算哲に対しても、強力な後ろだてになってくれた人物だった。


次いで、水戸光国。
水戸藩二代目藩主、当時39歳。のちに光圀と改名し、権中納言・黄門様となったお方。
光国が振ってくる話は「北極出地」であり、それを説明するうち、亡き建部昌明に約束した「渾天儀」製作の話になり、
光国は「そなた、その渾天儀とやらを、独力にて成し遂げる気か?」
「いえ・・・・、まずは古今の諸説、過去の記録に、先達のお力を頼る他にありませぬ」
ふーむ、と光国が唸った。
「そなた、余に似ておるわ」

のちに、渾天儀を光国に献上すると、両手で抱きながら唸り続けた。
このような成果を自分があげられなかったのが、よほど悔しかったようである。


そして、ついに安井算哲は、保科正之に呼ばれて会津の鶴ケ城に行く。
会津で逢うというのも、保科正之の深謀であった。改暦の業は幕府のすることではない、とするため保科正之も安井算哲も江戸の会津藩邸に住んでいるのに、江戸で会わずに会津まで出かけて会っている。

座相
この本で、保科正之の人となりを表すのに「坐相」で表現している。
 その人は日当たりの良い場所に、ぽつんと坐っており、深々と平伏する春海は、
「よく来た、安井算哲」
 優しい声に顔を上げ、その、ただ坐っている相手の姿を目にしただけで、はっと驚いた。
坐相というのは、武士や僧や公家を問わず、一生の大事であり、日々の修養の賜物である。坐ったときの姿勢作りに、品格や人徳までもがおのずからにじみ出る、というのが一般的な所作挙動における発想だが、春海が見たのは、およそ信じがたい姿だった。
 不動でいて重みが見えず、〝地面の上に浮いている”とでも言うほかない様相である。
 あたかも水面に映る月影を見るがごときで、触れれば届くような親密な距離感を醸しながら、それでもなお水面の月を人の手で押し遣ることは叶わないことを思い起こさせる。
 そんな神妙深遠の坐相をなすのは、痩顔細身に深く雛を刻まれ、病が癒えてのちもさらに視力衰弱し、白濁しかけた両目を優しげに細める、齢五十七の一人の男であった。不思議なこと
に、そこにいるのは、ただの男だったのである。というのも顔を上げたその瞬間、春海の脳裏
から、目の前の人物が将軍家の御落胤であり、幕府要人であり、会津藩藩主である、といった
ことがらが給麗に消えていた。正之の坐相によって余計な思いを瞬く間に消された。そして、ただ目の前にいる保科正之という人物に、心服しきっていた。


改暦事業に対する保科正之の指導
保科正之は、「改暦による世の影響を考察せよ」と命じた。
これを安井算哲が、考え抜いた末に、保科正之の応援で一大プロジェクトチームが設けられたにも関わらず、表面上は幕府の事業としなかった。
それは天皇の根本的な存在理由「天を司る」権威を失墜しかねなかったからだ。
保科正之は、そこまで読んでいた。
結果、安井算哲の立てた戦術は、「帝の勅令」と「幕府の朱印状」となった。


保科正之の滅私奉公
最後に、保科正之が死の際になしたことである。
家老の友松勘十郎に命じて、正之がなした幕政建議書のことごとくを焼かせてしまった。
後世、あらゆる幕政のおおもとが正之の建議に依っていると知られれば、将軍の御政道の権威を低めてしまう、という配慮からであった。
これほどまでの「滅私奉公」の例を、他には知らない。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

保科正之ですか、中学校、高校にて日本史を習った筈ですが、保科正之って、記憶の外です。それにしても、「幕政建議書のことごとくを焼かせてしまった」ことは歴史的な資料が無くなってしまったと言うことですから、実にもったいないですね。

未だに皇居東御苑には天守閣がありませんが、これが保科正之によることは初めて知りました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
保科正之、実にすごい人ですね。

それまでは、戦争のたび得た領地を部下に与えて
きたわけですが、天下統一すると、もう部下に与えるものがありません。
秀吉が朝鮮に出兵した理由ですね。
それで、徳川幕府を開いたとき、家康は600万両を用意したそうです。
それが、この頃尽きかけていて、天守閣再建どころではなかった。
という理由もあるようです。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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