富士と茶畑/狭山茶の話

20130102

狭山市のお茶畑からの富士です。狭山茶で有名なところですから、こういう取り合わせの場所を探していましたが、良いところが見つかりました。
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富士山が綺麗に見える場所が茶畑の端なので、上のような写真になりましたが、このようにお茶畑が広がっています。
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【狭山茶の歴史】
せっかくだから、狭山茶の歴史をかいつまんで掲載しておきましょう。

●狭山茶の特長
『色の静岡、香りの宇治、味の狭山』と言われていますが、茶葉の厚さと伝統の火入れにより色・香り・味ともに濃い茶である。
狭山茶の特徴は丹念に選りすぐられた新茶葉と、「狭山火入」という伝統の火入れが、江戸時代から変わらぬ美味しさの秘訣だそうです。この火入れにより狭山茶特有の濃厚な甘味を得ることが出来るとか。手揉み茶の製法は「茶葉を蒸して焙烙に和紙を敷き、揉み乾かす」というもので、保存活動が展開されているそうです。

●お茶のはじまり
・日本でのお茶の栽培のはじまりは、臨済宗の開祖・栄西が建久2年(1191)、宋から帰国時に茶の種子を持ち帰り、肥前国背振山(佐賀県)に播種。
・お茶を本格栽培したのは、明恵上人で建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾(とがのお)山を賜り、高山寺を創建。翌2年に背振山から茶の種子を移入、高山寺に播種。・以後、付近の御室(おむろ)・醍醐(だいご)・宇治、大和国室生(むろう=奈良県)、伊賀国八鳥(はっとり=三重県)、伊勢国河居(かわい=三重県)、駿河国清見(きよみ=静岡県)、武蔵国河越にまく。

●茶道の誕生
詳しくは省略しますが、村田珠光、武野紹鴎、千利休らにより茶道が盛んになり、茶を飲む習慣が広まります。

●河越茶
・最澄の高弟の円仁(慈覚大師)が、天長7年(830)に無量寺を創建しました。喜多院の前身ですが、寺院内に茶園がったようで、河越茶発祥の地としての伝承が残ります。
川越市・中院にある「狭山茶発祥之地」の碑。当時は北院(喜多院の前身)・中院・南院(現在は無し)があったとか。
ネットで手に入れた写真
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・虎関(こかん)禅師の手で暦応3年(興国元年=1340)に成立したとされる文章用例集『異制庭訓往来』の中で、全国の茶産地について「我が朝の名山は栂尾を以て第-となすなり。仁和寺、醍醐、御室、宇治、般若寺、神尾寺は是れ補佐たり。此の外、大和室生、伊賀八鳥、伊勢河居、駿河清見、武蔵河越の茶、皆是れ天下の指言するところなり」と記述されていますから、鎌倉時代末期には、河越が茶産地として広く認知されていた証拠となります。
・河越茶が挙げられたのは、河越氏の存在が大きかったと思われる。
・南北朝時代以後、武蔵国は相次ぐ戦乱により戦場と化す。15世紀になると、諸記録から「河越茶」の記述がなくなる。茶園の管理がおろそかになり、徐々に衰退していったものと推察されています。

●狭山茶の生産
・江戸時代中期までは、茶樹の利用は、畦畔としての利用だったようです。畑を区切る畦畔(けいはん)として利用。冬季の表土の飛散を防止した。
茶葉を加工して飲用茶を作っていたかは不明。

いまでも市内の畑の至る所に、茶樹の畦畔は残っています。
江戸時代、「知恵伊豆」と謳われた松平信綱が川越藩主の時期に熱心に新田開発をしました。新田といっても畑ですが。
今日、その時の区画の姿が今でもそのまま残っている「堀兼」で写真を撮ってきました。
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茶樹のすぐ南、北風のあたらない場所で何かの苗を育てていました。
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樹は、まぎれもなくお茶の木ですね。
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◆茶の試作
・吉川温恭(よしずみ)は入間郡宮寺村(現入間市)の人。明和4年(1767)の生まれで、宮大工をしながら農業に従事。享和2年(1802)6月、古い茶樹から葉を摘み、釜煎りにして飲む。思いのほか美味。
・旧知の村野盛政(もりまさ)を招いて茶を勧め、これを契機に本格的な製茶を開始。      \
・村野盛政は入間郡坊村(現入間市)の人。明和元年(1764)の生まれで、小野派一刀流の師範。寛政年間(1789~1801)から茶業再興を考え、孝和年間(1801~04)に吉川温恭とともに着手。

◆宇治製法の探求と江戸への販売
・温恭が試作した茶は、黒製といわれる釜煎り茶。当時の江戸では、青製(緑茶)といわれる宇治茶が市場を独占していた。
・温恭は文化4年(1807)3月、製茶法を探る目的で宇治へ出発。
・多摩郡今井村(青梅市)の持田半右衛門は、文化年間(1804~18)に宇治を訪れ、身分を隠して下働きをしながら製茶技術を探求。

・吉川家の記録では、文化9年(1812)にはじめて江戸へ販売。
村野家の記録では、文化13年(18ほ)に江戸の山本山へ販売とある。
・文政2年(1819)6月、山本山ほか4軒の茶問屋が、吉川家と村野家の製茶に限り宇治茶並みの値投で取引。

●狭山茶の海外輸出
・横浜の開港で、対外貿易の開始により、製茶は生糸と並ぶ重要な輸出品となる。ことにアメリカでは緑茶が好まれ、輸出量が急増。狭山茶は蒸しが強くて変色せず、味も香りも変わらないため好評であった。
・新興茶産地の狭山地方は、横浜に近いという地理的条件も手伝って急激に発展。外国人商人が、絹織物を扱う八王子商人に製茶の納品を依頼したことも発展に輪をかける。そのため狭山茶は、八王子商人が扱うので「八茶」と呼ばれた。

・茶が国際的商品価値を持つようになると、狭山地方以外でも製茶がはじまる。供給不足を悪用して、柳の葉を混入した粗製茶を製造するものまで出現した。

◆狭山会社の設立
・明治8年(1875)7月、黒須村(入間市)の繁田武平(はんだぶへい)や柏原村(狭山市)の増田忠順(ただより)ら30人により設立。
・設立趣旨は、①粗製濫造の弊害を正して狭山茶の声価を保持。②良茶製造の意思がある者への資金の貸与。③外国人商人の手を経ない直輸出の実施など。
・明治9年(1876)2月にニューヨークの佐藤商店と契約、直輸出を開始。
・ニューヨーク市場での狭山会社の製茶は評価が高く、売れ行きも好調。

狭山会社のお茶のパッケージ
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◆狭山会社の倒産
・華々しい直輸出で注目を集めたが、内情はむしろ逆で、経営は悪化の一途をたどる。
・その最大の理由は、佐藤商店への売掛金と生産者貸付金の累積による運転資金の不足。
・外国人商人による粗製茶輸出の影響で日本茶の取引価格が下落。そのあおりを受けて佐藤商店の経営が破綻、明治11年(1878)に閉鎖。
・狭山会社は同16年(1883)をもって解散。

◆その後のアメリカ市場
・明治16年(1883).3月、アメリカ政府は日本茶と中国茶のうち、偽茶や枯れ葉の混入、または薬品などによる着色茶の輸入を禁止。
・日本政府は、茶の品質保持と規格の統-のため、茶業組合の設立を奨励。これを受け、埼玉県も県下に39の茶業組合を設立。
・明治17年(1884)4月、堀兼・中新田・上赤坂・加佐志・東三ツ木・青柳(以上狭山市)、中福・下赤坂・上松原・  下松原(以上川越市)の10か村により、堀兼茶業組合の設立。組合規約を定めて、不良茶や偽似茶の製造を禁止。純粋な本色茶で色と味を旨とし、輸出には着色しないことを明記。
・これにより茶の品質は格段に向上したが、着色茶の輸出防止にはほとんど効果なし。
・その理由は、こうした規制外にあった外国人商人が、買い取った茶に着色して輸出したため。

・しかも紅茶とコーヒーの攻勢により、日本茶の価格はしだいに下落。アメリカ市場からの後退を余儀なくされる。


●狭山茶業の機械化
◆高林謙三による製茶機械の発明
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・天保3年(1832)、高麗郡平沢村(日高市)の生まれ。西洋医学を学び、文久3年(1863)から川越藩の侍医。
・茶業の将来性を見込んで、明治3年(1870)に医師を廃業、山林を開いて製茶を開始。
・1人1日6~7斤(3.6~4.2kg)という手挟み製茶の生産性の悪さを嘆き、明治14年(1881)から製茶機械の研究を開始。
・同17年(18S4)に焙炉機、翌18年に生葉蒸機・製茶摩擦機を試作して特許を取得。
・試運転の結果、熟練職人の4倍ほどの4貫(約15kg)を製造。コストは従来の3分の1以下の1日1人14銭2厘。

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◆予想外の失敗
・明治22年(1889)、埼玉製茶会社が高林式製茶機械を購入して製造を開始。
・機械の取り扱いに不慣れな職工の誤操作により、大量の不良茶を生産。全品返却の事態を招く。

・大量の不良茶生産により、狭山茶は製茶機械の導入を中止。その後、茶業組合と埼玉県は、製茶機械の使用禁止と機械製茶不買運動を展開。

・これに対し、高林はその後も製茶機械の改良に努力。明治31年(1898)に茶葉粗揉機を完成、特許を取得。
・高林式製茶機械は翌32年、静岡県南山村(菊川市)の松下幸作が導入。以後、性能のよさから同県を中心に急速に普及。

◆狭山地方における製茶機械の導入
・機械化により静岡茶の生産高は急激に上昇。良茶は手操みに限るとする狭山茶は、生産力の違いから取り残されて販売不振に陥る。
・茶業組合や県当局の圧力があるなか、入間村の志村久松は大正元年(1912)または二年に製茶機械を導入、機械製茶に踏み切る。これを契機に、周辺町村の茶農家が導入を開始。
・大正7年(1918)、入間・堀兼・入 間川など3町11村の茶農家が、製茶機械使用解禁の陳情書を県当局に提出。県当局もこれを受け入れ、同年に製茶機械の使用を認め、同10年(1921)からは機械の共同購入に対して補助金を交付。


☆せっかく地元で、製茶機械が発明されたのに、狭山は初期トラブルによって製茶機械化に否定的になってしまった。その後も改良に努力した発明家の結晶は静岡に持っていかれてしまい、静岡が現在のダントツの地位確保となってしまった。
これは、狭山にとっては、かなり皮肉的な結果だ。


●狭山茶の現状
・狭山茶の生産地は茶の生産地としては最も都市化が進んだ地域である。
・1960年代から生産地のほぼ全域が東京のベッドタウンとなり、人口が急増。相次いで住宅や商工業施設が建設される一方で茶畑は減少していった。
・埼玉県の茶の生産量も静岡県・鹿児島県・京都府など他の主要産地に比べかなり少ない(但し、埼玉県は茶産地としては比較的寒冷地にあるため、年に2回しか摘み取りができないことが、生産量の少ない大きな要因となっている。温暖な鹿児島の茶産地などは年に数回摘み取りが可能である)。
・生産量では現在、静岡:42%、鹿児島:27%、三重県:8%がベストスリーです。
その後は、宮崎、京都、福岡、奈良(2%)と続き、埼玉県は「その他」の中に埋もれてしまっています。ですから、狭山茶は全国の中では1%くらいかと思われます。

◆一方で人口急増の結果、地元の需要が増えたため遠方に出荷する必要がなくなり、近郊農業として確立。都市化は経営上の利点ともなっている。また元来観光地でないため観光客向けの販売には頼っておらず、生産性の高い安定した経営・流通が実現している。


ということで、狭山茶は有名なのに、生産量があまりに少ないのに私も吃驚したのだが、東京及びその近郊という一大消費地の近くで生産しているので、その名前が知られているということだろう。


(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、狭山茶にも長い歴史があると言うことですね。

お茶の最も良いことはカロリーがほとんど無いと言うことですね。いわゆる清涼飲料水には砂糖類が10%以上含まれていますので、毎日、1リットル以上飲んでいると、糖尿病になると言う話ですし。

お茶は清涼飲料水の台頭と、お湯を沸かして急須でいれるので、それを洗うのが面倒等の理由で、一時消費量が減ったと思いますが、ティーパック及びペットボトル茶で復権してきたのではと思っています。私も、ティーパックでしか飲んでいませんし。

狭山会社があったとは

おはようございます。
以前、狭山と狭山茶に関しては散策したのですが、狭山会社や機械化などは知りませんでした。
農協と農家的なシンプルな仕組みかと思い込んでいました。
意外な歴史があったのですね。

コメントありがとうございました

matsumoさん
やはり、お茶ですよね。
テニスやるときは、もちろんスポーツドリンクですが、
普段外出時など、のどの渇きを癒すのは、
私の場合、爽健美茶ですね。
これがクセになってます。

薄荷脳70 さん
狭山にも来られたことあるとは、嬉しいです。
お茶の歴史も面白いです。
まだまだ掘り下げるところが沢山あるので、
これも結構良いテーマになりそうです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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