舟を編む/三浦しをん

20130128

これは表紙でなくて、内扉の装画です。
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久しぶりに、途中で本を置けないで、一気読みをしてしまいました。
この本は、2012年本屋大賞を受賞した作品だそうですが、たしかに面白く、素晴しかった。
ちなみに、三浦しをんさんの本は、初めてでした。

辞書作りに人生を掛けてきた荒木が、定年退職する松本先輩の為にも、後継者となる社員を探します。最初軽薄な感じで描かれる西岡という若い社員が「辞書向けの人材」として推薦したのが、同社他部署の馬締(まじめ)です。そして彼らは、言葉の海を渡る舟たる辞書「大渡海」を編み始めます。
主人公格にあたる青年・馬締がとても好ましい。言葉を扱うにふさわしいというか、どこか古風で、とにかく本が好きで、変わっています。何気なく生活する中で、ふいに出てきた言葉、例えば「あがる」と「のぼる」の意味を考えていたり。

三浦しをんの滑らかな文章をそのまま載せたいところだが、こんな場面がある。
歓迎会の席上、馬蹄は趣味を聞かれて「エスカレーターを見ること」だといいます。
「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になつて順番にエスカレータ一に乗る。しかも、左がわは立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」
あっけにとられながら、荒木と松本先生は嬉しくなる。馬蹄は、やはり辞書づくりに向いている。
その情景は、そこかしこに散らばつていた無数の言葉が、分類され、関連づけられて、整然と辞書のページに並び収まることに通じている。
荒木は語る。
「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
この大業が馬蹄に託される。

この本のタイトル「舟を編む」。
素晴しい言葉だと思った。

「語釈」という言葉が出てきます。辞書において、掲載の言葉を説明する文章のことです。ある言葉を説明するためには、どうしても別の言葉を用いないといけない。
また辞書の最大の売りである、掲載用語数。辞書を作る際に、どんな言葉を載せるか、その何万にも及ぶ膨大な言葉の数をリストアップして、採用不採用を決めていく。
これは、実際の作業は気の遠くなるような、地味な作業だと思う。
しかし、三浦しをんはこんなシーンを描いてみせて、「言葉」を愛する人間なら恍惚となって、脱帽してしまうような世界を見せてくれる。

「それで、岸辺さんのご用はなんですか」
「『あい 【愛】』 の項目なんですが」
 岸辺は校正刷りを馬蹄に見せた。「語釈の①が、『かけがえのないものとして、対象を大切にいつくしむ気持ち』というのは、まだわかります。でも、その直後に置かれた単語の例が、『愛妻。愛人。愛猫。』 というのは、どうでしょうか」
「まずいですか」
「まずいですよー」
 岸辺は声を荒らげた。「だって、愛妻と愛人を併記しちゃってる時点で、『かけがえのないもの』という語釈と矛盾しませんか。『妻と愛人とどっちが大切なのか、はっきりしろ!』 って感じですよ。さらに、人間に対する愛と猫に対する愛が同列だなんて、いくらなんでも散漫すぎます」
「愛に差異も上下もありません。俺は、飼い猫を妻と同じぐらい愛しています」
「そうは言っても、猫と性交はしないでしょう!」
思わず叫んでしまってから、アルバイトの学生の目が気になり、岸辺は身を縮めた。馬蹄は脳内で、「せいこう」に当てはまる漢字をいくつか検索しているようだった。思い当たるものがあったのか、赤面してもごもご言う。
「それは、まあ…」
「ほら」
 岸辺は勝ち誇り、胸を張った。「さらに変なのは、恋愛的な意味での『愛』について説明した、②の語釈です。『②異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。』となっていますよね」
「なにかおかしいでしょうか」
 馬蹄はすっかり自信をなくした様子で、岸辺の顔色をうかがってくる。
「なんで異性に限定するんですか。じやあ、同性愛のひとたちが、ときに性欲も伴いつつ相手を慕い、大切だと思う気持ちは、愛ではないと言うんですか」
「いえ、そんなつもりはありません。しかし、そこまで細かく目配りする必要が…⊥
 「あります」
 岸辺は馬蹄の言葉をさえぎつて断定した。「まじめさん。『大渡海』は、新しい時代の辞書なんじやないんですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか」
 「ごもっともです」
 馬蹄は肩を落とした。「若かったころ、『れんあい【恋愛】』の語釈について岸辺さんと同じような疑問を感じたことがありました。それなのに俺は、日々の作業に追われ、その事実をすっかり忘れてしまっていた。面目ないかぎりです」
 このごろようやく、岸辺は辞書の仕事に少し自信が持てるようになった。馬蹄に意見を聞き入れてもらえることも多く、辞書編集部の戦力として求められているんだと感じられるようになつた。
 安堵と誇りとともに、岸辺は「あい【愛】」の校正刷りを馬蹄から返してもらった。馬蹄はふと思い出したように言った。
「そういえば、西岡さんにも言われたことがあります。「その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうかを想像してみろ」と。自分は同性を愛する人間なのかもしれない、と思った若者が、『大渡海』で『あい【愛】』を引く。そのときに『異性を慕う気持ち』と書いてあったら、どう感じるか。そういう事態を、俺はちゃんと想像できていなかったんですね」
「そのとおりです」
 岸辺はうなずき、馬蹄が反省しているらしいのを見て、すぐにフォローした。「でもまあ、しょぅがないですよ。なんだかんだいって、まじめさんは負け知らずのエリートですもん」
 嫌味としてではなく、素直な思いから出た言葉だ。
「エリート?」
「ええ。大学院まで出て、美人の奥さんがいて、辞書編纂のエキスパート。少数派であるがゆえの悩みなんて、なさそうです」


私が最も感情移入したのは西岡という社員である。
「器用貧乏」という言葉があるが、西岡がそういうタイプ。辞書編集部に配属され仕事だと割り切ってがんばってきたが、一つのものにのめりこむ執着心が薄いので、馬蹄が辞書編集部に異動してきたとき、こいつにはかなわないと観念した。
そして、不採算部門の経費削減のため、西岡は営業部に回される。
しかし、西岡は辞書編纂の仕事と、馬蹄以下それに携わる人たちが大好きになっていた。
そして、去る前にいつ来るとも知れぬ後継者のために「引き継ぎ資料」を作るのである。
対外交渉において、馬蹄を手助けできる人材は絶対に必要だ。いつか来るべき新編集部員のために、西岡は自分が知っていることを残していきたかったのだ。
たくさんの執筆者それぞれの、癖、好み、弱み、勤務先で置かれた立場、私生活。これまで集めた情報のすべてを、パソコンに入力する。出来する可能性のあるトラブル、そのときに取るべき対処法も、できるだけ詳しくシミュレートし、書きだした。
完成した文書をプリントアウトし、青い表紙のファイルに収めた。流出しては困るので、パソコンのデータは消去し、ファイルには「マル秘 辞書編集部内でのみ閲覧可」とマジックで大書する。
そして、極め付きの「プラスアルファ」も残していく。
こちらは、ちょっとやそっとでは見つからない場所に。

物語の途中で、次のページからいきなり13年後の話になっていた(笑)
ちょっと面食らったが、辞書編纂の仕事というのは長丁場なんですね。
「ライフワーク」という言葉がしっくりきます。
そして、やっと岸辺という新編集部員がやってきます。
今まで、バリバリのファッション雑誌の編集をしていた女性。
それが、埃のうず高くたまった職場に。まるで異次元の世界に入ってきます(笑)
そして枯れ木のような馬蹄主任!

ここで西岡の残していった、「マル秘」ファイルと、「プラスアルファ」の資料が役立つんですね。
岸辺は噴出してしまう。
何世紀も辞書編集部に棲息してきたみたいに、超然として見える。枯れかけた樹木か乾いた紙のように、愛憎とも性欲とも隔絶して見える。そんなまじめさんも、恋に悩み、「深夜の日記」的なラブレターまでしたためてしまったことがあるんだと。

西岡は、「大渡海」に血潮を通わせるために必要不可欠の存在だったんです。
それで、馬蹄は執筆者のところに西岡の名前も掲載するんです。
ちょっとウルウルな話です。


それから、紙質!
辞書の手触りにはぬめり感が必要、これには吃驚しました。
厚みを押さえつつめくりやすい、文字が映える、目に優しい色合い…。
印刷や紙も重要事項なんですね。
いろんな辞書を取り出してきて、めくってみました。
やっぱり辞書によって違いますね。

新刊だと高いだろうから、こんど神田古書街に行って自分の好きな辞書を選んでこようと思った。
その時には「手触り」もしっかりと選んで、ずっと傍に置いておける『大渡海』のような辞書を選びたいですね。

三浦しをんさんの文章がとても美しいと思いました。
読んでいて、とても心地の良い文章でした。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

上記、辞書を作成する話のようですね。それにしても、私が紙の辞書を購入したのは遠い昔だと思います。近年と言うか、パソコンを使う時代になってからは、CD-ROMに入っている英和・和英辞典、国語辞典、百科事典、医学用語辞典等で、これらは今でもパソコンやPDAに入っていますが、現在はどちらかと言うと、インターネットで調べる方が多いです。現在は学生でも、紙の辞書より、幾つもの辞典が入っている電子辞書を使っている人の方が多いような気がします。最近は新しい百科事典が出なくなったことに象徴されるように、辞書の作成は経営的に大変でしょうね。

三浦しをん作品は

この『舟を編む』が最初でした。なかなかおもしろかったです。辞書編纂の仕事を選んだところが、成功のポイントかと思います。最近読んでいる三浦しをんさんの作品では、『神去なあなあ日常』が、林業をテーマにしておもしろかったです。
紙の辞書の件、文字が小さくて読めなくなったのも大きな原因です。電子辞書なら、文字の大きさを変えられます。でも、『コンサイス科学年表』や『生化学辞典』などは、紙の辞書でないと調べられませんので、フレネルレンズを使って拡大して読んでいます(^o^;)>poripori

コメントありがとうございます

matsumoさん
辞書に関しては、私も似たり寄ったりですね。
ほんとに、いつもグーグルばっかりです。
ですが、やはり分厚い辞書というのは、
迫力があります。
あれを編纂するという・・・・・
素晴らしい、気の遠くなるような仕事ですね。

narkejpさん
三浦しをんさんの作品、他はどうだろうと、
図書館でみたら、まったくありませんでした。
たぶん出払っているんでしょう。

フレネルレンズは、私もいつも携帯しています(笑)
弱ったものですね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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