名君の碑(いしぶみ)/中村彰彦

20130212

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名君保科正之のことを知ったのは「天地明察」でした。
そしてNHK大河ドラマ「八重の桜」で「会津魂」の源泉として、しばしば保科正之の名があがります。
それで、この本を読んでみました。

「天地明察」では、安井算哲が会津の城にて会った時の、保科正之の人となりを作者冲方丁は「座相」で語っています。その姿勢の自然なること、軽やかでまるで畳の上に「浮いて」いるかのごとく見えた、と書いています。

今回、この本を読んで保科正之のことを詳しく知ってみると、「己を空しくして他のために尽くしきった」人となりを「座相」で、実に適切に表していたなあ、あらためて感じ入りました。

二代将軍秀忠のご落胤として生れた幸松は、信州高遠の保科家を継ぎます。やがて異母兄である三代将軍家光に引き立てられ、幕閣に於いて重きをなすに至ります。会津へ転封となった後も、名利を求めず、傲ることなく、「足るを知る」こそ君主の道とした清々しい生涯を、時に熱く、時に冷静に描いています。

まずは、保科正之は生まれなかったかも知れない、という驚愕すべき話が登場します。
板橋の近在に田畑を開いた、もと小田原北条の武士の娘、お静が江戸城に奉公にあがり、あろうことか秀忠の手がついて、子供ができる。
しかし、正室お江世の方の迫害が厳しく、思い余ったお静は、宿下がりをして子供を堕してしまう。
お静は、なんとなくこれでもう子供は出来ないと安心していたら、またもや身ごもってしまった。
今度は、周囲に知れる前に、奉公辞退を願い出て、実家に戻ってしまう。
お静は密かに子供を産んで育てようと思ったのだが、父親と兄は、また正室お江世の方が刺客でも送り込んでくるのではないかと心配し、今回も堕せとお静に迫る。
そのとき、お静の弟である才兵衛が堕すことに反対してくれて、お静は子供を産むことになる。
その子が、のちの正之、幼名幸松である。
保科正之の生前の大恩人が存在するのだ。

保科正之が養子となって、信州高遠で育ったことを知って嬉しくなりました。
桜の高遠だけでなく、保科正之を育てた高遠、とまた一段と高遠が好きになりましたね。

その人柄はまさに「忠義」の一語です。3代将軍家光の異母弟でありながら、それを利用するような傲慢さも無く、むしろ兄に迷惑をかけない、兄のために家族をもなげうって尽くす心。加えて藩政における数々の政策と先見の明。今の政治家、特に地方の首長にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
「仁」の心で政治や民生に一途に挑むその姿と江戸幕府の礎を築いたその功績は抜群といえます。
現在の政治家では、この事績の一つでも成功させることができるかどうか疑問です。
混迷を極める今の政治の舞台に、もしこの人がいたらどうなるのだろうかと想像してしまいます。
利権の代弁者ばかりの、政治家ではない「政治屋」ばかりが目につく国会。


また、この本を読んで感じたのは、正之の生涯は恵まれていたなと、それは家光の人を見る眼があったればこその地位だったから。家光もたいした人物でした。
この辺も強く感じました。

家光の臨終の直前、家光に呼ばれて参上した正之に家光は言う。
「ひ、肥後よ、弟よ。そ、その方、余の恩を忘れてはおるまいの」
「はい」
正之は頬に熱いものが伝うのを感じながら、力をこめてうなずいた。
「知ってのとおり、大納言はまだ11歳じゃ。そちに頼みおくぞ」

将軍の使者として、朝廷に参上した時、朝廷は正之に「従三位に叙し、左近衛権中将に任ず」と詔した。しかし正之は、奉答の猶予を願って退出してしまう。
部下の田中三郎兵衛が後学のために教えをこうと、「鎌倉の世に、九郎判官が何故に滅んだか思い出せ。将軍家のお許しもなく、官位を頂戴できるか」
この時、将軍家綱は13歳である。
実質的には正之が政治を動かしている状況である。それでも、この謙虚な態度を取り続ける。

保科正之が江戸を、どんなふうにしたかというと。
これ以前の多摩地方は見渡す限りの武蔵野の原野のうちに、水利もないため茫漠たる荒れ地が広がるばかりだった。
そこに、正之は玉川上水を通し、今日も東京都民に飲み水を供給しているのである。

振袖火事の際、幕府の米蔵が焼失の危機に面したとき、武家火消の手当てが無理な状況を見て、即座に米蔵の開放を命じ助かった米は町民に開放することを約束して、町民に火を消させるという逆転の発想をしてみせた。
これ以後、火消の組織化を行う。

振袖火事の大火の後、米価の高騰をみて、米七斗を金一両以上で売ってはならぬと触れを出し、ここで逆転の発想をしてみせる。
江戸に滞在中の大名を一時的にみな、国に帰してしまった。従う者たちの人数も入れると相当な人口減である。

江戸再建計画の指揮をとる。
両国橋の架橋。火除け地として上野広小路を設けた。大名を郊外に移転。神田川の拡張、掘割の開削。

焼失した江戸城天守閣は、もうそんな時代でないとして再建をしないことにした。

極め付きは、政治からの引退を決意したとき、それ以後の幕閣の人たちの体制を守るため、正之が幕政に関与した書類は全て焼かせ、正之が政治に関与した痕跡を消してしまった。
私もそうだが、人間という者は、自分がこういうことをしたという記録を残したがるものである。
正之の「滅私奉公」のかたちは毅然としてゆるがない。
私なんぞは、頭を垂れて反省しきりである。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

保科正之って、名前しか聞いたことがありませんでしたが、玉川上水、火消の組織化、両国橋の架橋、上野広小路、大名を郊外に移転、神田川の拡張、掘割の開削等を行ったのですか。確かに、すごい実績ですね。

今、「居眠り磐音」江戸地図を見ていますが、「下谷広小路」は寛永寺や東照宮からの出口と面していた広い道だったのですね。そして、両側は商家みたいで、この辺り、現在とは変わらないですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
保科正之という人は、生い立ちから功績まで、
人を惹きつけてやまないものを持っています。

「居眠り磐音」江戸地図、私も持っています。
時々引っ張り出してみていますが、
ほんとにとても面白いですよね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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