品川宿周辺(1)/旧東海道

20130308

3月7日(木)に、歴史街道倶楽部の催しで、「江戸名所図会『品川宿』を歩く」に参加しました。
コースは、品川駅一 八つ山一 御殿山一 品川宿一 品川船溜り一 土蔵相模一 利田神社一品川神社一東海寺一 品川本陣→ 荏原神社→ 品川寺一 青物市場駅

品川宿:
江戸時代の東海道の第1宿。次宿は川崎宿。品川宿は当初、北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成された。現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があった。北条氏時代の伝馬制下でも品川は宿の機能を担っていた。天正18年(1590)関東へ入部した徳川家康は、領国経営のために江戸を基点に据えた街道と伝馬制度の整備に着手し、慶長元年(1596)江戸一小田原間の石切伝馬手形を下した。17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。

広重の「東海道五十三次」のうち「品川 日の出」(保永堂版)
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安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」より
赤い線が東海道
右上の海に出っ張ってる「御用地」のあたりが現品品川駅
6番が御殿山
10番のところで渡っている川が目黒川。目黒川下流を「品川」と呼んで、それが地名になったそうです。
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今回の記事は、品川駅から「法禅寺」までです。
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品川駅に集合し、まずは品川駅の説明があった。
明治五年(1872)九月十二日、新橋一横浜(桜木町)間に最初の鉄道が開業した。文明開化を誇る大事業のスタートであった。弱冠二十一歳の明治天皇も臨席して、日比谷練兵場と品川沖の軍艦から祝砲が放たれ、新橋の式典についで、蒸気機関車も含めて十両編成の特別列車が新橋一横浜間を往復した。翌日から営業運転が開始され、毎正時に発車して一日九往復、片道徒歩で一日掛かりだっものを、時速三十四キロ、五十三分で走ったという。運賃は上等で一円十二銭五厘、下等で三十七銭五厘、一円で米三十キロ買えた時代であった。途中の停車駅は品川・川崎・鶴見・神奈川の四駅あった。

駅を出ると、第一京浜沿いにしばらく進みます。
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八ツ山橋を渡ります。
旧八ツ山橋は,明治5年東京新橋から横浜間の鉄道開通に伴い旧東海道に架けられたわが国初の跨線橋で,当時は木橋だった。いつからか鋼桁中路橋に架け替えられたが,大正3年,昭和5年と2回に分け単純タイドアーチ橋に架け替えられた。その後,老朽化のため昭和60年に架け替えられ現在に至っている。

渡ってから振り返ったところ。
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橋の袂に旧橋の親柱と橋門構が京橋の親柱と共に展示されています。
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橋に「旧東海道」の表示が。
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御殿山の方向を見る。
品川宿の一番江戸よりが歩行(かち)新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のはか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。

ということで、何となく森は残っているものの、山という形容には程遠いですね。
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大判錦絵「品川 御殿やま」
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旧東海道は、ずっとこのように商店街のなかを通っています。
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歩き始めてすぐに「問答河岸」というのがありました。
これは、1640年、徳川家光が附近にある東海寺を訪れた際、ここで沢庵と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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次いで、土蔵相模跡。
歩行新宿2丁目の家並であるが、ここは宿場の役務として人足を出していたところで「歩行新宿」と名づけられ
た。家業としては「□印」がつく「食売旅寵」や水茶屋が多い。実質遊郭である。
現在は写真のように、NICマンション(ファミリーマート)が元外見が土蔵造りであった旅寵。高杉晋作、久坂玄端、伊藤俊輔(博文)井上馨などがイギリス公使館疲打ちの謀議をこらしたところ。今は亡きフランキー堺(居残り左平次)石原裕次郎(高杉)小林旭(伊藤)競演『幕末太陽伝』で映画化され話題を呼んだ作品の舞台。
食売旅籠歩行新宿の中でも大きな旅寵が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」である。これは歩行新宿にあった「相模屋」という、旅篤と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵
相模」と呼ばれた。江戸吉原を「北」、品川宿を「南」の遊郭と通称した。「美南見」は「南」をいう。
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北品川橋にやってきました。
「品川浦の舟だまり」ですね。近くまでビルが迫っていますが、ここから海に出られます。
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釣り船、屋形船のお店もあります。
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先ほどの、安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」で、細~い出島になっている先端に「弁財天」と書いてあります。今ではまったくの陸地ですが、ここにお参りしました。
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「利田神社」ですね。
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狛犬が良い感じでした。
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利田神社の横に鯨塚があります。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一七九八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料です。
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御殿山下砲台(台場)跡
 1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。
他の台場と異なり、資金不足の計画変更のため、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。
この台場がそのまま現在の台場小学校となっており、敷地が五稜形のまま。
品海橋を築いた石や、明治3年(1870)から昭和32年(1957)まで第二台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが台場小学校庭入口に残っています。

真ん中上の黒い五角形が台場です。
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灯台のレプリカ
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善福寺
品川善福寺は1294(永仁2)年創建という時宗のお寺で、元は藤沢遊行寺(時宗の総本山)の末寺であったとか。伊豆の長八の龍の鏝(こて)絵があることで知られています。
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鏝(こて)絵の龍がすごいです。だいぶ剥げ落ちているのが痛々しいですが、やはり見事なものです。
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法禅寺
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本堂の脇に大きな銀杏が聳えていました。
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境内に、「流民叢塚碑」があります。
この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔です。
天保4年(1833)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。 品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。
初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治4年(1871)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。
碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えています。
そこにあった六地蔵です。碑の設立当初からあったと思われる古いものです。
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(続く)


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コメント

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四季歩さん、こんにちは

この辺り、以前に2回程、東海七福神巡りをしたことがあります。と言っても、目的が違いますので、街の様子はそれほどまともに観た訳ではりませんが。

それにしても、江戸時代と言うか、明治時代と言うか、ともかく、昔は東海道も東海道線も、本当に海岸近くを走っていたのですよね。確か、落語「品川心中」も、遊郭の後ろが海だったのですから。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
東海七福神巡りのパンフレットも入手しましたが、
面白そうですね。いつかやってみたいと思います。

いろいろと海だった証拠を見せてもらいましたが、
今はほんとに陸の中で、あらためてその人の力の
すごさも感じましたね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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