品川宿周辺(3)/旧東海道

20130311

3月7日(木)、歴史街道倶楽部の催しで、「江戸名所図会『品川宿』を歩く」の続きです。
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品川宿交流館から歩き出してすぐに「品川橋」です。目黒川にかかっていて、目黒川まで「北品川」でしたが、目黒川を渡ると「南品川」となります。
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橋のたもとに紅梅が咲いていました。
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目黒川
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川沿いにちょっと歩くと「荏原神社」です。

旧社格は元准勅祭社。郷社。旧称を天王社、貴布彌大明神という。荏原神社は「南の天王」と呼ばれる。また東海七福神の中の1社として恵比須を祀る。
和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まる。
長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。
宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請。
康平5年(1062年)、源頼義・義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行う)。
以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、品川の総鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじんじゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。
明治元年(1868年)勅祭社に准ぜられた(准勅祭社という)が、同3年改めて郷社に列した。
明治8年、品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称。
6月の天王祭には、天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われる。これは、宝暦元年6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたことに因むものである。「天王洲」の地名はこのことによるものである。天王洲は現在は埋め立てにより陸地になっており、当社の氏子地域になっている。
牛頭天王(須佐男之尊)が水神であることから、参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」と俗称される。
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寒緋桜が満開の感じで、見事に咲いていました。
この桜は、区内で一番早く見られる桜として地域の人たちに親しまれているそうです。
元々は緋寒桜と呼ばれていましたが、彼岸桜と間違われることから「緋」と「寒」をひっくり返して「寒緋桜」の名称となりました。
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鳥居から鎮守橋が見えます。荏原神社への参道である目黒橋に架かる橋です。が、参道がくいっと曲がってしまっています。
昭和3年(1928年)に目黒側の川筋が変えられた為に、こうなってしまったとか。
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鎮守橋を渡って、荏原神社を振り返ります。
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「街道松の広場」にある「浜松の松」。
浜松から寄贈されたもの。
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問屋場跡
継立業務等を行う宿場の役所、問屋場跡(現 製薬実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられた。
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海岸線跡
埋め立てられて住宅地になっているが、旧東海道との間の路地には海岸線をしのばせる石垣が残っています。
青々と草が茂っている石垣がそうです。
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ガイドの方が見せてくれたこの辺の、当時の東海道(方向は逆です)。
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街道沿いの、畳屋さん。看板が右からです。
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「青物横丁」になりました。
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「旧東海道」の案内
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釜屋跡
ここはもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大変繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりした。
有名な新選組副長土方歳三も、隊士を連れて、慶応三年十月二十一日に休息しています。
また、慶応四年一月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊士たちは、同月十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。
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品川寺(ほんせんじ)
品川寺の歴史は、町そのものです。遠く、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺です。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の嶺主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利(あしかが)・上杉(うえすぎ)の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。

門前に立派な石塔がある。
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銅造地蔵菩薩坐像
山門前左手にある露座の仏像。宝永5年(1708年)に造られた、江戸六地蔵の第一番。現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていない。
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こういうものが近くにあった。
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山門脇にある、推定樹齢600年の大イチョウ。
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大イチョウの下にあった、珍しい自然石の庚申塔
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梵鐘
明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出する。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930年)、同市の好意により品川寺に返還された。平成3年(1991年)には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られた。品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となったが、交流の契機となったのはこの梵鐘である。
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境内に「七福神」すべてがあるようだったが、団体行動の悲しさ、四体撮ったところで、時間切れ。
又の機会とする。
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以上で、今回の「品川宿めぐり」は終了。京急「青物横丁」駅で解散しました。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

品川寺の「江戸六地蔵の第一番」、まだ、撮っていないので、その内に撮影に行かねば。ここ以外は全て撮ってあるのですが、品川は家から遠いので、中々、行く気になりません。

品川寺は東海七福神の毘沙門天(江戸時代から伝えられているもの)が祭られているのですが、これは本堂に安置されているのだそうです。当初、金生七福神の石像の1つだと思っていました。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
私は、ここで「江戸六地蔵」のことを知りました。
何でも集めたがる私の悪い癖(笑)
私も「江戸六地蔵」に全部お参りしたいと思います。

金生七福神の石像、なかなか良いですよね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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